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2009.12.31

笑いの効用

2ちゃんねるもそうだし、そもそもインターネットという場所自体、昔はたしか、普段言えないような本音が話せる場所として紹介されていた。

ネットとリアルの境界は薄くなった。普段から携帯電話を使いこなしているような人たちは、たぶんTwitter ぐらいで喜んでる自分みたいなのよりもはるかに先を行っていて、ネット世間が実世界にはみ出したお話が、前より増えてきてる気がする。

この国には昔から、建前とか常識とかいうものがあった。常識というものは、サランラップみたいに薄くて透明で、そのくせ大人の体重を支えるぐらいに丈夫なものだったけれど、ネット世間と実世界とを隔てていた薄膜が、ここに来てついに破れるんじゃないかと思う。

常識というものは、一度破れるとあっという間に書き換えられる。

風向きは一瞬で大きく変わる。「常識知らず」の人間は、ごね得競争で圧倒的に得をするから、「常識なんてないんだ」が新しい常識になったそのとたん、昔の常識を引きずる側は、少数派に転落してしまう。

昔は心マが常識だった

自分が2年目ぐらいの頃までは、たとえば97歳で寝たきりの人が食べられなくて亡くなりそうになったら、人工呼吸器と心臓マッサージを行うことが、常識だった。呼吸器を患者さんに着けないとか、心臓マッサージをしないとか、そういう方針の病院は珍しかったし、それは常識を外れたことだった。

全国どこの病院でも、どんな患者さんであって、最低30分とか1時間とか心臓マッサージして、心臓に針を突き刺して薬を入れて、それが常識だった。自分が研修を受けた病院では、「うちではそういうことはしない方針なんだ」なんて、「しない」ことに胸を張っていた。

「しない」はそのうち支配的になった。「北米流の医療では、そもそもこういう不必要なことはしないのだ」なんて。今はたぶん、何年も寝たきりだった高齢の患者さんが亡くなったとして、人工呼吸器付けたり心臓マッサージしたり、できること全部やり続けたら、ご家族の側から止められる。

常識の書き換えは事件にならないし語られない

大学に入局した頃は、まだ「する」文化が残っていたけれど、今はもう、できることを、どんな患者さんにでも全部やる方針の病院は少ないと思う。たぶん数年ぐらいの短い期間で、世の中の価値観、生死にかかわるけっこう大事な決断が、全国レベルで一変したはずなんだけれど、あんまり大きく騒がれなかった。

常識というものは、崩れるときにはあっけなく崩れて、崩れたことそれ自体は、案外それほど騒がれない。なにしろそれは常識だから。

2ちゃんねるの常識が社会を書き換えたとして、雑踏を歩く普通の人が、「あの事件は○○国の陰謀だよね」とか、当たり前のように会話する日というのが来るんだとして、それは比較的急激にそうなって、そうなったあと、そのこと自体は、事件にもならないし、そもそもそれが「変化」であるとは認識されない。

常識という器は、中身がどう変化しようが常識であり続ける。多くの人はたぶん、器の形が変わらなかったら、中身が何に変わろうが、あんまり気にしない。

「肺炎を考えるフォーラム」みたいなのが8年ぐらい昔にあって、たしか「チエナムで治癒した肺炎の症例」が提示されてた。その場の空気は「そこは当然チエナムですね」なんて結論で、虎ノ門の先生だったか、「そこはビクシリン大量でも良かったのでは?」なんて質問をした。今だとこれは正しい考えかたなんだけれど、パネリストの先生は、なんだか場違いなところに迷い込んできたかわいそうな人を見るような目線で一瞥して、「ビクシリン?」なんて首をかしげてた。

今どこかで同じようなイベントがあったとして、きっと逆の質問が出て、パネリストの先生は、今度は「チエナム?」なんて首をかしげる。だれもそれを不思議に思わない。そういうものなんだと思う。

相転移は喜劇として記録される

「常識の書き換え」という現象を引き起こすのに必要なエネルギーは、案外少ないのだろうと思う。沸騰する水が、沸騰寸前までは大きな変化が観測できないように、変化を起こすのに必要なのは「最後の一押し」であって、蓄積した何かが沸騰寸前になっているなら、わずかな力で大きな変化が作り出される。

相転移を引き起こす側に回れたのならば、革命家になれる。相転移に乗り遅れた人は、悲劇でなく、喜劇の主人公にされる。時代に遅れた悲劇が成り立つには、「良かった昔」が記録されているのが前提だけれど、常識の相転移現象は、人々に忘却を強要する。転移に乗り遅れた人は、そんな時代があったことさえ忘れられて、「常識外れ」の価値を叫ぶ、困った人扱いされる。

価値観の変化、常識の相転移現象というのはたぶんたびたび起きていて、歴史というのはやっぱり、悲劇じゃなくて、それは喜劇の積み重ねとして、後生に記録されるものなんだろうと思う。

笑いには力がある

たいていの人はたぶん、叩かれることには耐えられるけれど、笑われることには耐えられない。相転移という現象は、価値が根こそぎ書き換わって、乗り遅れたら笑われる。相転移はだから、「笑われる側に自分が回る」という恐怖で駆動されて、世の中の価値を一気に書き換える。

価値の書き換えが、怒りや抑圧、暴力といった形で行われると、人は集まるし、固まるし、頑なになる。説得というやりかたもまた、それを受け入れることは「敗北」だから、集団になった人に何かを説いても、思ったほどの効果は期待できない。笑いの威力は協力で、みんな笑われる側には回りたくないから、笑いの対象となった誰かの価値は、まわりの人から一斉に切り離されて、人々は「笑う側」に回ろうとする。集団は一瞬で瓦解して、価値は根こそぎ書き換わって、昔のことは忘れられる。

「誰かを笑う」という行為は、空気を冷ましていく。いろんな価値が笑われて、いろんな人が笑われて、政治をする人も笑いものになって、今はもう、次に何を笑えばいいのか、何を笑えば、自分が笑われる側に回らなくて済むのか、みんな戦々恐々として、凍りついてる。大きな変化が起きる直前は、あるいはいつもそうなんだろうと思う。浮ついた空気でありながら、それは決してあたたかいものではなくて、沸騰寸前というよりも、過冷却のイメージ。

「笑われた人」が書き換える

たぶん「笑いものを作ることで為された変化」と、「笑われた人が為しとげた変化」と、両方のパターンがあるのだけれど、世の中の価値を根こそぎ書き換える、価値の相転移を引き起こすのは、たぶん「笑われた人」のもたらす変化なんだと思う。

世の中には、「誰かを笑う人」と「笑われる側から逃げる人」、さらに「あえて笑いものになる人」というのがいて、みんな意識的にせよ無意識にせよ、社会にたまった笑いというエネルギーを、何とか自分の側に引き寄せようとあがいている。「こうしないと笑われますよ」って言うのがメディア、あえて笑われてみせることで何かを守るのが経営者だけれど、気がついたら笑われていて、笑われても気にせずそれを続ける人が、もしかしたら常識を書き換える。

小学校の頃、同級生の後ろに回り込んで、頭からビニール袋をかぶせて、みんなで頭を殴る遊びが流行した。叩かれて笑われるのは嫌だったから、みんなお昼休みになると壁を背にして輪になって、警戒して動けなかった。あのときには担任の先生が介入して、教室は元に戻ったんだけれど、あの状況でもしも、まわりを気にせず、教室の真ん中で弁当を広げる子供がいたなら、その子は教室の空気を一変させて、みんな壁を背にして立っていたことなんてすぐに忘れて、最初にそうしたその子のこともまた忘れられて、教室の空気は書き換わったんだろうと思う。

過冷却した社会は、笑われた誰かを中心に結晶化して、新しい秩序が生み出される。

そういう「笑いの種」みたいな何かを提供できたらいいなと思う。

2009.12.29

この本は何でないのか

何人かで共同作業を行うときには、「ない」で目標を定義しておくと、喧嘩を回避しつつ、生産的な意見を出しやすかったんだと思った。

自分が今作っている原稿について。

「眼」を調達するのは難しい

今自分が作っているのは、症状を見たらいきなり検査を組んで、結果が出る前に治療をはじめるやりかた。病名診断があやふやな状態から、それでも前に進むためのやりかた。こういう状況は決して珍しくはないだろうし、これを便利に使ってくれる人も、どこかにはきっといるだろうと思うんだけれど、作るのはけっこう難しい。

これが病名別の教科書ならば、その病名に行き当たらないかぎりは問題は表面化しない。よしんばどこかの病名に、間違った記載があったとしても、それを訂正できたなら、問題はそれ以上大きくならない。自分が作っているやりかたは、そういう意味では問題山積みで、判断分岐のどこかに「間違い」があったとして、その間違いのせいで、状況が明後日の方向に迷走してしまう可能性が、今の段階でないとは言えない。

作っている側からは、しばしば「穴」が見つけられない。

鏡がないと、自分の眉間は見えない。「お前眉間に穴空いてるぞ。死んでるんじゃないの?」なんて、これが原稿だと、誰かから突っ込んでもらえないかぎり、自分の原稿が果たして「生きて」いるのか、「死んで」いるのか、実はそれが分からない。たとえ「五体満足」であったとしても、眉間に穴の開いた人体は、原稿は、やっぱり穴一つで死んでしまう。

Web でさまざまなアプリケーションが公開されて、脆弱性が片端から突っ込まれては対策されていく。あのやりかたを、書籍でできたらすばらしいと思うんだけれど、難しい。書いて公開して、ほめてもらえるとうれしいんだけれど、突っ込んでくれる人は少ない。「お前の書いたものはクソだ」と思う人がいたとして、そういう人は「クソだ」と教えてくれるその前に、サイトから立ち去ってしまうから、自分の側から観測できない。

「ネットでみんなで」という試みは、もう8年ぐらいこんなことを試みていて、HTML だとかPDF、掲示板、blog やWiki、Twitter までさまざまなメディアを試したんだけれど、未だに「みんなで」が回らない。どこかで上手くいっているケースがあるのかもだけれど、「今のところ自分では無理」というのが、今年の結論。来年以降、このへんを何とかしたい。

文脈を呑み込むコスト

誤字脱字の訂正は本当にありがたい。ほめてもらうのは素直にうれしい。

「ツッコミ」というのは、「お前の考えかたでこうすると、患者さん死ぬぞ」という意見なんだけれど、こういうツッコミを行うためには、最低限、自分が書いた原稿を読んでくれて、あの文脈を共有して、その人の頭の中で、自分が書いた診断チャートを走らせてみないといけない。だからツッコミのコストというのは大きくて、見知らぬ誰かの文章に、そこまでのコストを割いてくれる人は、やっぱりそんなに多くない。

誰にでも読める、どこからでも読めるという、自然言語の長所というのは、何かの原稿を改良していく上では、むしろ弱点なのかもしれない。

これがプログラム言語なら、公開されたスクリプトを自分のPCで走らせるだけで、まずそれが使い物になるのかどうかが分かる。プログラム言語というものは、裏を返せば「走らせないと分からない」から、作者とユーザーと、望ましい関係が成立する可能性が高い。

物理や数学よりも、たぶん生物学のほうが突っ込みやすい。さらに経済学や、社会学や、たぶんもっと大変なのが教育学で、ああいうのは何というか、「誰でもどこからでも突っ込めそうに思える」からこそ、たぶん外野からの、「文脈無視のツッコミ」に晒される。中の人はそれに応対するのが大変なんだろうなと思う。

今はだから、昔お世話になった上の先生がたに、半ば無理矢理原稿の束を押しつけて、レビューをお願いしている。自分の「師匠」だった先生がたは、文脈どころか源流だから、お願いをして、たしかに望んだツッコミをいただける確率が高いのだけれど、みんな忙しい人たちだから、そう何度も頼めない。

Wikipedia みたいなやりかたには制限が必要

原稿を、インターネットでもっとオープンに作ってみたり、あるいは複数の著者同士で話しあいながら原稿を作るやりかたは、文脈共有の困難さという問題にぶち当たる。

それが若い人に向けた原稿ならば、若手が書いた文章は、たぶん若手の役に立つ。著者グループの中にベテランがいたとして、ベテランが若手の穴を埋めてくれたら、それは強力なものになる。ところが文脈は衝突する。ベテランが、たとえば若手の原稿を直す作業を通じて、その若手とか、あるいは対象にしている読者を「教育」してあげようなんて考えたのなら、たぶん原稿が迷走する。

えらい人の意見は無下にできないし、かといって、「教育」と「実用」とはしばしば両立が難しくて、複数著者の教科書というのは、詳しいのに今ひとつ使いにくい、どう「実用」すればいいのか、編集の方針が定まらないものになってしまう。

オープンソースの人たち、具体的にはX Window System とか、あるいはWikipedia を作っている人たちは、「これが何でないのか」という要件定義を行っている。

背理法みたいだけれど、これだと衝突を回避しやすい。「これは何であるのか」を目標にするやりかた、たとえば「若手の役に立つ臨床教科書」みたいなものを目標にしてしまうと、それぞれの著者ごとに「役に立つ」の定義がずれて、喧嘩の種になってしまう気がする。

この本は何でないのか

自分の原稿は著者1人だから、そもそも「何でないのか」宣言はいらないのかもだけれど、「ない」を重ねて定義を行うやりかたというのは、将来的にこんな原稿を何人かで改良する機会が得られたら、きっと役に立つんじゃないかと思う。以下素案。

  • この本は論文や教科書ではありません 正しいと保証された方法を提供するものではありません。医学的に正しい方法よりも、「こういう方法があってもいいのでは」という、筆者の意見を提供するよう心がけました。「と思う」という言葉を多用し、データよりも、体験に基づいた独りよがりな意見を優先しています
  • この本は診療ガイドラインではありません もちろん内容は成書やガイドラインを下敷きにしていますが、筆者が今までやってきたこと、あるいは直感に照らして「こうだろう」という記載を入れています。違和感を覚えたときには指導医の先生と相談して下さい。間違いを見つけたならば、ぜひとも教えて下さい
  • この本は研修医マニュアルではありません 通読することで研修の役に立ったり、「良き臨床医」になれるような本ではありません。問題に対峙したときに、その状況を抜け出すためのヒントを提供できるような本でありたいと思っています
  • この本は病歴や身体所見の有用性を否定しません 病歴聴取や身体所見の取りかたに優れた医師は、この本よりも、何倍も早く解答にたどり着きます。ただしそうした方法が通用しない状況に陥ったなら、この本のやりかたが役に立つかもしれません
  • この本は個人による問題解決を目指していません たとえば腹痛の鑑別疾患には胃癌や肝臓癌は入っていません。下血の鑑別疾患には大腸癌が含まれていません。CTスキャンを見たベテラン外科医や、あるいは大腸内視鏡を行った消化器科の先生が、こうした疾患を診断してくれます。この本は最初から、さまざまな専門家の援助を前提にしています
  • この本は既知の問題に対する理解を提供しません 患者さんを診察した結果、症状の原因となっている疾患名が分かっているのならば、この本を開いても、それ以上提供できるものはありません。原因が分からないときには、この本は何かのヒントを提供できるかもしれません
  • この本はあらゆるニーズに答えるものではありません 「内科全般」を対象にしてはいますが、扱っている疾患はごく一部です。疾患の出現頻度に基づいたやりかたではなく、その症状から想定される最悪の状況に対応したやりかたを提案します

「前書き」に相当する場所に、最終的にこんな宣言を載っける予定。意見をいただければ幸いです。。

2009.12.28

案外やっていけるお店のこと

自宅から車で10分ぐらいのところに、小さくて、今にも潰れそうな本屋さんがある。休みの日なんかにそこを通って、人が入っているのを見たことがないんだけれど、もうずっとそこで商売をしていて、風景は変わらない。

店の広さはせいぜい12畳といったところで、品揃えも漫画本と雑誌ぐらい、駅の売店がちょっと大きくなった程度で、これといった特徴のないお店。

「そこを使っているのは子供なんだよ」なんて、最近教えてもらった。

平日の人の流れ

このへんは例によって妄想でしかないんだけれど、その店を潤しているのは、たぶん「学校の子供さん」なんだと思う。

店のそばには小学校があって、そこの子供たちが、たぶん帰りしなに、そのお店による。子供は車を運転できないから、町中にあるもっと大きな本屋さんにはいけないし、クレジットカードも持ってないだろうから、Amazon で何かを買うのも難しい。「お客さん」の数自体は、どれだけ多く見積もったところで、その小学校の生徒分しかいないけれど、こういう人たちは、実世界の店舗に頼る確率が高いから、大規模書店ほどにはお金を使わない、小さなお店に生きる目が出てくる。

「市場」といっても、せいぜい小学校1つでしかないから、こういう場所に、全国チェーンが算入してくる確率は低くい。お店はたぶん、小さな場所で、小さな商売を続けながら、案外ちゃんと食べていけるんだと思う。

そういう目で周辺を見渡すと、「プラモデルとモデルガンがやけに多い、いつ見ても誰もいない模型屋さん」とか、「何でやっていけているのかよく分からない古い呉服屋さん」だとか、お店とか、それぞれたぶん、学校の男子にモデルガンを販売してたり、あるいは学校指定の上履きを一手に販売していたり、たぶんそこにいる人にしか分からない、小さな商売ができるだけの理由が、そこにあるのだと思う。

人数だけでは分からない

自分たちは普段、「平日」を知らない。休日の、賑やかな場所しか見たことがないから、そこに住んでいる人たちが、じゃあ普段どんな振る舞いをして、どういう生活を送っていて、生活を続けるために、どういう形でお金を使っているのか、そういうのが分からない。

病院にこもっていると、「平日の人」とか「平日の町」がどうなっているのか分からない。こういうのはもしかしたら、仕事として町をリサーチしている人ですら、人口の動態みたいなものは把握しているのだろうけれど、「生活する人の動きかた」みたいなものを細かく観察できる人は、決して多くないような気がする。

「独立してスモールビジネスを」なんてお話も、どことなく、「平日を知らない人」の発想が多いような気がする。想定顧客は全国とか全世界、「町の地形要素」みたいなものを効率よく利用しよう、という話題は少なめで、夢先行、企画先行、継続性とか、兵站要素みたいなものは、あんまり話題として出てこない。

「兵站の話題はつまらない」という大前提があるから、blog 界隈みたいな場所だと、そもそもこういう話題は受けないだけなのかもしれないけれど、全世界に語れる夢なんて持っていなくても、食べていける場所というのは、丁寧に探すといろんなところにあるような気がする。

流れのどこかによどみを探す

たとえば訪問診療なんかは、「商売にならない」医療の代表みたいに言われるんだけれど、町のどこかに「高齢者の多く住んでいるマンション」を探し出すことができると、病棟回診と同じペースで「訪問」ができて、訪問診療には訪問加算がつくから、黒字が増えて、きちんと食べていけるんだという。診療の腕とか、人当たりの良さみたいな、まっとうな努力はしばしば報われないけれど、人の流れを読んだり、そこに住んでいる人たちの生活が想像できたなら、施行はきっと報われる。

それは子供の集まる学校であったり、あるいは中高年の人たちが教室を開いて集う平日の公民館だったり、病院のそば、ショッピングセンターのそば、たぶんいろんなところに「平日生活する人が利用する場所」というのがある。

「平日の人」は、たいていは何かの目的だとか、資格があってそこに集まる。そういう人たちはたいてい、たとえば小学生なら自動車に乗れないとか、モデルガンはほしいけれど、親御さんに見つかるライフルは大きすぎて拳銃しか買えないとか、「選別されているがゆえに欠けている」要素というのがあって、欠けた人に、足りない何かを販売できれば、それはきっと商売になるんだと思う。

2009.12.25

ゼロに戻すためのコスト

著作物やゲーム、乗用車みたいな工業製品、あるいは農作物やペットに至るまで、お金を通じて売買される価値を持った何かというのは、「情報」という言葉で代表させることができる。

対価を支払って「情報」を手に入れる、「購買」という行為はこれから先、未来はどんどん細っていくのだと思う。それは安価な中国製品みたいな、価格破壊というやりかたであったり、あるいはうちの犬みたいに「誰かから無償で分けてもらう」ような、情報入手の手段が多様化していくことであったり、いろんなやりかたが手提案されていく中で、情報それ自体の価値というのは、たぶんだんだんと減っていく。

情報の価値は、どんどん「ゼロ」に近づく。一部の情報は、むしろその価値を高めるんだろうけれど、平均すれば、ある分野の情報が生み出す富の総和は、やっぱりこれから減っていく。

それが貴重であった昔とは対照的に、情報はどんどん増えて、ちょっと油断しただけで、部屋の中、あるいは頭の中は、情報であふれかえる。テキストやプログラム、工業製品や農作物、あるいは生物、あるいは「思い」みたいなものまで、基本的には全て「情報」だから、一度あふれてしまった情報を消去するのは、たぶん手に入れる以上に難しい。

葬儀というやりかた

近所のパチンコ屋さんが潰れて、ずっと廃墟だったんだけれど、結局そこには葬儀社の展示スペースが入った。普段は仏壇を展示していて、仏教なのに「ハロウィンフェア」とかやってて、その一角はいつも賑やか。

葬儀社がやっていることというのは、「情報の消去」なんだと思う。

情報の話を拡張していくと、生きている人それ自体もまた、情報であると言える。

人が生きているだけで情報は増えていく。ものだって増えるだろうし、その人と同じ時間を共有した人の頭には、その人との記憶というものが、どうしようもなく積み重なっていく。人の時間は有限で、部屋の大きさも、あるいは思い出を格納するための頭の容量も有限で、人が亡くなったのなら、スペースを空けないと、未来に進めない。

葬儀というセレモニーは、亡くなった人の持ち物だとか、あるいは思い出だとか、そういうものに「消去可能である」というタグをつけるために行うものであって、それはやっぱり、必要なものなんだと思う。葬儀は人の数だけ需要があって、一生のうちに2度も3度も死ねる人はそうそういないから、葬儀にかかわるチャンスは1回切り。比較できないし、体験もできないから、葬儀というのは高付加価値の産業で、たぶんこれから先も、状況は変わらないんだろうと思う。

対価を払って何かを消す

お葬式はものすごく高い。あれにもとんでもないお金がかかるのを知ったときのびっくり感と、乗用車に乗り始めて間もない頃、町中に出ると、乗用車はもはや、有償の駐車場なしにはコーヒー一つ飲めない道具なんだと気がついて愕然としたときと、どこか似ている気がする。

「駐車場」という存在もまた、葬儀社によく似ている気がする。駐車場が行っていることは、乗用車に乗っているその人から、一時的に自動車という存在、情報を、消去することに他ならなくて、車を運転している人は、乗用車という情報を消去されることではじめて、空いた空間分だけ自由を手に入れる。

捨てる、忘れる、葬ることに対して、世の中ではたぶんお金が取れる。

情報の価値はゼロに近づくけれど、情報を消去するためには、誰かに対価を支払う必要がある。情報が増えて、情報を販売することで対価をもらってきた業界は、いまはもう、地獄のコストカット競争に晒されて、大変なことになっている。みんなが大変なその裏で、実は情報の消去には一定以上の需要があって、こちらの業界は案外、コストカット圧力とは無縁に思える。

「消去」ビジネスは案外、インターネットと親和性が高いような気がする。「ここには何でもあるけれど、唯一取り消しボタンだけはないんだよ」っていうのが、ネット世間の基本スタンスだし、発信が簡単になった昨今、たぶん「やっちまった」人たちが、お金を払ってでもほしいものというのは、何といっても「取り消しボタン」だろうから。

いろんなものを消してみる

  • たとえば「もらったけれど捨てられない迷惑な何か」に、適当な物語を付加して処分して、あとから口裏合わせてくれるサービスがあってもいいかもしれない。業者が消しているのは「もの」それ自体じゃなくて、それをくれた人の「義理」という、もっと消しにくい何かになる
  • ペットなんかは、保健所に捨てれば無料だけれど、「ペットとの思いで」みたいなのは、後味の悪さとしてつきまとう。だから「飼育代行」とか、「次の引き取り手を責任持って探します」みたいなサービスがあったなら、欺瞞っぽいけれど「愛護的」で、需要が期待できると思う。この業者が消しているのはペットそれ自体じゃなくて、ペットを捨てる罪悪感とか、あるいはペットと過ごした記憶とか、そういうものである必要がある。「うちの犬は別の誰かと幸せに暮らしている」なら、人はペットの存在を忘れられるだろうけれど、「うちの犬は自分が保健所に捨てたから、無残に死んだ」なら、それは消去になっていないから
  • 過去をなかったことにするのは難しいんだろうけれど、とりあえず黒歴史を可視化するサービスは、政治の人とかに向けてあってもいいような気がする。過去を突っつかれてカウンター返せないのは、日本の政治家ぐらいなんだと思う。ネット世間で、ある特定IDにひも付いた情報を全部探して消すお仕事、というのは、有償でも利用したがる人がいるような気がする。Google とかWayBackMachine に英語手紙書くのは面倒だし
  • 古本回収なんかもそうで、あれを「不要品という情報を購入する」という解釈でなく、「ある人が保持している情報の一部を有償で消去する」と考えると、応用が利く気がする。同じ古本屋さんで、片方はお金をくれるのに、もう片方はお金を請求される。それなのに、たぶんお金を喜んで支払う消費者はきっといるんだと思う

2009.12.21

メディアにだって生活がある

スピンドクター “モミ消しのプロ”が駆使する「情報操作」の技術」という本を読んだ。

「プロパガンダ」みたいな心理操作の技法を期待して読んだんだけれど、印象操作それ自体よりも、 むしろ「マスコミの人たちもご飯食べないといけないんだな」なんて、変なところに感心した。

怪物はいなかった

「報道する側もご飯を食べないといけない」という文脈で読み解くと、「陰謀」に見えるものが、案外そうでもなく思えてきた。

飛ばし記事だとか、スクープ争いみたいな印象とは逆に、報道機関というものは、「怪しい」記事は書けないんだという。

記事を書くにも、それを雑誌に載せて流通させるのにもお金がかかるし、出版社はお金を稼がないと続けられない。 それがどれだけ衝撃的な記事であったところで、「裏」が取りにくい、相手から訴えられたら言い訳のできないような記事だったなら、 訴えられた時点で「赤字」になってしまう。こういうのはリスクが高すぎて、報道できないんだという。

「ある記事を潰したい」という意図を誰かが持ったとして、だから「それを記事にするな」と圧力をかけるのは悪手であって、 むしろ「その記事のソースは怪しいみたいだよ」、と話を持ちかけると、メディアの人たちも、スクープを前に考え込んでしまう。 「スピンドクター」という仕事は、圧力よりも、むしろこういうやりかたをするんだと。

「誰も得しない」スクープは報道されない

たとえばこれから売り出す芸能人のスキャンダルは、「誰も得をしない」という理由で、しばしば潰れるのだという。

どこか大きなスポンサーがついて、広告にお金をかけて、まさにこれから売りださんとしている矢先に、 どこかの週刊誌がとんでもないスキャンダルを見つけてきたところで、流せない。 それを報道すれば、あるいは「雑誌がちょっとだけ売れる」程度の効果が見込めるけれど、 その芸能人にすごいお金をつぎ込んできた広告主のダメージは計り知れない。

スクープをつかんだ雑誌がちょっと得することと、広告というもので暮らしている業界全体が受けるダメージと、 天秤が「業界」側に傾くことは珍しくなくて、大きくなりすぎた芸能人のスキャンダルというのは、 「それを報道しても誰の得にもならない」という理由で、表に出ることはないのだと。

お金はやっぱり大切

亡くなった三浦和義氏は、「獄中のスピンドクター」だったんだという。

あの人は監獄の中で雑誌を購読していて、自分に関する記事を読んでは、片っ端から名誉毀損の訴訟を行った。

訴訟の勝利を重ねていく中で、三浦氏には「こういう書きかたなら、訴訟でこのぐらい勝てる」というノウハウが蓄積できて、 メディアはもう、三浦氏に頭が上がらなくなってしまったんだという。

訴訟というのは地味に有効で、数千万円オーダーの大規模な訴訟でなくても、 メディアの側が一定金額以上「敗北」したら、記事としては赤字になってしまう。 赤字が続けば雑誌は潰れるし、「戦った」ところで、全部訴訟になって返ってきたら、編集部は疲弊する。

訴訟の多い人からは、だから報道機関は離れていく。政治家の人たちなんかも、ちょっとした醜聞を「有名税」として 受け流す人と、全ての報道に、きっちりと訴訟で帳尻を合わせてくる人とがいて、 「真っ黒だけれど訴訟の多い人」は、だから報道されないままに黒くなって、伝説の黒幕みたいになるんだという。

「つまらない」という武器

メディア相手の謝罪会見、みんなが並んで頭を下げるあのやりかたは、リスクコミュニケーションとしては悪手なんだけれど、 「スピンドクター」としては、むしろ「あれこそが有効」なんだという。

あの風景はもはや当たり前で、謝罪会見をどれだけ流したところで「つまらない」からお金にならない。 「つまらない」ニュースは、それ以上深く突っ込んだところで、もはやそのニュースからはお金が生まれる余地がないから、 「頭を下げる」側の目的は、それだけで案外達成できるんだという。

群がる記者を相手に、軽妙に応対してみせた麻生総理は、もしかしたら「メディアとの対応が恐ろしく下手くそ」であったのかな、と思う。 あのやりとりは「面白かった」からこそ、メディアはこぞって報道して、記者はいつも「負ける」側でいたから、 裏を返せば総理を叩く大義が生まれた。

鳩山総理の話はつまらないし、いつ見てもグダグダで、最近はなおさらグダグダなんだけれど、 昔からグダグダだった人が、今さらもっとグダグダになったところで、それをどう叩いてみせたところで、 面白い絵を作るのは難しい。

「民主党はひどいことをたくさんしているのに報道されない」なんて、ネット世間ではみんな怒っているけれど、 その理由はたぶん、「鳩山総理はつまらない」ということに尽きるんだと思う。グダグダを叩いても面白くないし、 もしかしたら政治の無能が報道されることは、「投票した視聴者」にとっても面白くないことであって、 これは「誰も得しない状況」に相当するから。

「生活している他人」への目線

「みんなお金がないと食べていけない」という、ある意味ごくごく当たり前のことを理解していること、 相手がどうやって食べているのか、その人が所属している業界の構造を見抜けることが、 スピンドクターが「ドクター」として、特別な存在でいられる理由なんだと思う。

出版社の人たちと仕事めいたものをさせていただいて、出版というものもまた、 「初対面の社会人に出費とリスクとを強要する」行為であることに気がついて、 商品を作るということは、これほどまでにおっかないものであったのかと、 自分はそういうのを、もっとずっと甘いものだと考えてた。 自分の業界なら、「お金を意識しないとね」なんてうそぶいてたくせに、 業界をまたいだら、「いいもの書けば売れるんだ」なんて。

たぶんたいていの人が、「いいもの」幻想にとらわれるのだと思う。 ところがどこの業界であれ、何かを生み出すためには、当たり前のようにお金とリスクが必要で、 それはしばしば、「いいもの」を夢見ている人からは見えなかったり、過小に評価されていたりする。

いろんな業界に「生活している誰か」を見出して、その人が暮らしていくためには何が必要で、 「それを行って得られるもの」と、「それを行うことで失うもの」とを、その人はどうやってバランスを取っているのか、 スピンドクターはたぶん、そういう目線でもって「仕事」をしているんだろうし、 業界をまたいで何かをするときには、こういうのは大切なんだと思う。

2009.12.19

記録が前進の原動力になる

今は電子化された原稿を、出版社の方に、暫定的に Subversion で管理していただいて、 原稿に加わった変更の履歴だとか、あるいは出版社側で行われた処理については、 逐一Trac というアプリケーションで閲覧できるようになっている。

そもそもまだ、企画が通るのかどうか分からない段階。出版社の、言わば軒先を借りて遊ばせていただいているだけなんだけれど、 これは本当に快適だなと思う。

振る舞いがコンテンツになる

単なるユーザーとしてTrac を使う分には、これは単なるホームページに見える。

Wiki みたいに、自ら何かを書き加えることもできるみたいだけれど、Trac は、 原稿に関する自分の振るまい、Subversion からチェックアウトしてきた原稿をあれこれ直して、 それにコメントを加えてコミットするという、一連の作業が、そのままTrac のコンテンツとして、 Web ページに反映される。これがとてもありがたい。

原稿に手を加えて、そのあとどこか別のページを開いて、コメントをほんの数行、Wiki みたいな ページに加えることは、決してすごい手間ではないんだけれど、「楽しみ」で何かやることと、 「仕事」で何かやることと、同じ手間であっても、感覚されるコストはずいぶん異なってくる。

今やっていることは、決して仕事ではないんだけれど、自分の原稿を自分で直すところまでは「楽しみ」で、 変更履歴を、たとえばどこかのページにログインして、キーボードを同じだけの量叩いて、 コメントがきちんとページに反映されたことを確認して、ここまでの作業は「仕事」になってしまう。

仕事というのは、やっぱり「サボりたい」ものだから、手作業手作った履歴は、やっぱり完璧には遠くなる。 わずかな手間でしかないんだけれど、「わずか」が「ゼロ」になる場所には、たぶん革命が起きている。

トラッカーのこと

軍隊や警察の特殊部隊では、チームの各メンバーに、いろんな役割が割り当てられている。

チームリーダー、最初に突入するドアブレイカー、突入要員、爆発物を取り扱うEODスペシャリスト、狙撃を担当するスナイパー、 みんな特殊な能力を持った専門家で、映画なんかではそれぞれの見せ場が必ずあるものだけれど、 現場ではもう1人、ここに「トラッカー」と呼ばれる追跡のプロ、情報収集のプロという役割があるんだという。

トラッカーは、チームの全体像を見渡しながら、現場に入ってくるあらゆる情報を収集して、 それを記録/整理して、いつでも再利用できるように保管している。リーダーが何かを決断するときだとか、 こういう記録がその時に生きて、チームは難局を乗り切れる。

トラッカーは、単なる記録係なんかじゃなくて、チームが前進するための推進力を作り出すための仕事でもある。

優秀なトラッカーの進言は信頼されるし、思考の遠回りを避けることが出来る。 優秀なトラッカーがチームにいてくれると、チームはあとの憂いなく突っ走れるから、チームの仕事の能力はますます向上するのだという。

以前読んだ建築デザインの本に、こんな「トラッカー」のお話が書いてあって、なるほどと思ったんだけれど、 たとえば「メモが上手な研修医」が病棟に回ってくると、たしかに仕事がとても楽になる。 こういう仕事は重要な割に、みんな「突撃」が好きなものだから、優秀なトラッカーというのは少なくて、 自分でこれをやるのはやっぱり大変。

記録と後戻りと前進と

Trac というアプリケーションには様々な機能があるみたいで、自分が体験したのは、ほんの上っ面なんだけれど、 こういうアプリケーションもまた、使ってみないと、あるいはそれでプロジェクトを動かしてみたり、 あるいはチームがトラブルに巻き込まれてからでないと、そのありがたさというものが伝わらないような気がする。

「いつ誰が何をどうやった」という、一連のログがきちんと残っていれば、たいていの場合、 トラブルは回避できるし、あるいはそれが起きたとして、Subversion みたいなアプリケーションで 過去のバージョンを全て保存してあれば、時計の針を戻すことだってできる。

計画段階で快適そうなやりかたと、実際やってみて快適なやりかたとの間には、やっぱり超えがたい溝みたいなのがあるんだと思う。

母親の仕事なんかを見ていても、出版という業界は、綿密な計画に基づいて物事を進めるところだと思っていたんだけれど、 今はなんだか、打ち合わせの前にプラットフォームができて、企画が通る前に製品があって、会議の前なのに、 スケジュールだけはもう全部決まっている。

階段を上るようなやりかたとは対極的な、今のやりかたは、階段をあえて崩しているようにすら見えるのに、 先の見えないそういう状況が、なぜか圧倒的に快適。いつでも後戻りできる状況を整えた上で、 毎日のように試行錯誤とを繰り返しながら突っ走る、こういうのをアジャイルと呼んでいいのなら、 このやりかたはたしかに、現場の生産性を高めるんだろうと思う。

2009.12.17

「その場の普通」を販売すること

今また別の出版社お話をさせていただいて、「以降は Subversion が使える、という前提でお話をさせていただいてよろしいですね」なんて メールをいただいた。

もちろんそんなソフトは使ったことないんだけれど、「もちろんです」なんて返信して、入門書を探した。

Subversion実践入門:達人プログラマに学ぶバージョン管理」という本と、 「入門Subversion 」という本を 読んだのだけれど、同じ入門書でも、立場がずいぶん異なっていた。

やる気の実践と手順の入門

「実践」のほうは本当に実践。最初からコマンドの話を始めるし、インストールは「簡単」としか書いてなくて、話はインストールされたところから始まって、ネットワーク越しに行うファイルのやりとりとはそもそもどういうものなのか、そんなことを語り出す。初心者がこれ見ると泣くと思うんだけれど、この本を読むとどういうわけか、Subversion というソフトを使いたくなる。専門用語をやりとりしながら、ネットワーク越しにプロジェクトを進めるプログラマの人たちが描写されているのを読むと、自分もいつかああなってみたいな、なんて思う。

「入門」のほうは「いわゆる」的な入門書で、Windows 用に、GUI を持ったTortoiseSVN というアプリケーションを中心に紹介される。親切に書かれていて、もちろんインストールのところから話が始まって、操作だとか、作業の手順だとか、これを読みながらPCに向かうと、たしかに Subversion が使えるようになる。

ずぶの素人が曲がりなりにもソフトを使えるようになるには、だから「入門」のほうをよく読むことになるんだけれど、読んでいて「夢」を感じる、やる気を引っ張り出してくれたのは「実践」のほうで、自分は最初に「実践」を読んで、Subversion を使いたくなってから「入門」を読んで、とりあえずTortoiseSVN をインストールした。

その場の普通を紹介すること

多くの入門書には「入門するための方法」は書かれているんだけれど、「それを習得した人たちの普通」というものが、 あんまり書かれていないような気がする。

「入門」のほうにはあまり詳しく触れられていない、「そもそもSubversion とは何なのか」というお話に、「実践」のほうでは、多くのページが割かれている。

Subversion は、それがバージョン管理システムであることだとか、それを「恐ろしく高機能なバックアップソフト」であると理解すると分かりやすいことだとか、 そういうのは入門書を読むと分かるんだけれど、じゃあ「Subversion を使えるようになった俺」に、いったい何ができるようになるのか、 入門書を読んでも、そういうのはなかなか分からない。

trunk をどうしてそう呼ぶのか。blanch と tags とはどう使い分けるのか。何でとりあえず3つのフォルダが必要なのか。 どうしてdiff なんてコマンドがあるのか。どういうときに喧嘩になるのか。「実践」のほうには、こういうことが詳しく書かれていて、 なんというか、「Subversion を使いこなす人たち」の生態みたいなのが伝わってくる。

それを読むと、自分もこうなりたいなと思う。

入門する人と越境してくる人

それはバイクや車みたいな道具でもそうだし、ソフトウェアもたぶんそうなんだけれど、初心者にはたぶん、「入門してくる人」と 「越境してくる人」という分類があって、越境してくる人に向けて書かれたものが、ネット上には少ない気がする。

「速く走りたい」という目的を持った人には、乗用車の性能が詳しく書かれたカタログがあるとありがたいし、 そういう情報は、今はもうインターネットのほうが詳しいんだけれど、たとえば「かっこいいあの車」のことについて 詳しく知りたくなると、ネットは難しい。かっこよく思えたからそれに興味を持った人というのは、下手すると乗用車全体 に対する興味はそんなでもないから、そういう人に「性能」をいくら説いても、響かない。

それが作られた背景だとか、「これはそもそもこういうものだ」といったこと、 あるいは「プログラマはこのアプリケーションとこうして付き合うのが「普通」なのだ」ということを、 そこに越境してきた人間が理解するには、やっぱり本が便利。

インターネットという場所は地続きで、もしかしたら「大御所まで常にワンクリック」である状況というのが、 「そもそも」論を書きにくくさせているんだろうと思うんだけれど、「入門してきた初心者」に便利なことは、 ネットにたくさん書いてあるのに、「普通がどのあたりにあるのか」を調べようと思ったその時、 ネットというのは案外に不便な場所になる。

みんな最初は形から

「やりたいことがあって道具を手に取る」のは、正解の半分でしかないのだと思う。世の中の入門書はたいてい、 「半分」にしか書かれていなくて、残りの半分が手に取るべき入門書というのは、まだまだ少ない。

昔から LaTeXを使っている。自分は「本が書きたかったから」これを使ったのではなくて、本屋さんのコンピューター関連書棚を眺めていて、 「TeX」 という文字がなんだか理系っぽくてかっこよかったから TeXを選んだ。やりたいことも分からないまま境界をまたいで、 この頃はまだWord も使えなかったから、インストールすら満足にできなくて、ドツボにはまった。

大学の人たちは、「論文を書くから」TeXを手に取る。あれが正しい「入門」のありかただけれど、その人たちにしたところで、 「TeX で論文を日常的に書く人たちの普通」に入るその昔をずっとたどっていけば、たぶん「理系」なんて理解もできなかった昔、 白衣にあこがれたり、「ハカセ」という言葉にあこがれて、境界をまたいだ記憶があるんだと思う。

越境してきた人は普通になりたがる

越境してきた初心者は、「入門者」になりたいわけじゃなくて、「その場の普通」になりたくて、そこにやってくる。

すでに「普通」を体得している人が、何かの必要があって手に取る本はたくさんあるし、そういう情報は、 本を買うまでもなくネットを探せばたいていどこかに書いてあるのに、ネットをいくら探しても、 「その場の普通」という情報は、なかなか見つからない。

昔の雑誌は、「新しい普通を提案して流行を作る」ことを仕事にしていたけれど、いろんな分野の入門書にも、 こういう視点があってもいいような気がする。越境したばかりの素人が一番知りたいのは、 「その場所の普通とはこういうものだ」ということであって、「使えること」それ自体は、しばしばそんなに大事じゃないから。

ネットはもっと広がって、世界は狭くなる。たぶん人が境界をまたぐ頻度だけは増えていくから、「普通」に対する需要は増える。「この場所の普通」を紹介する本は、だから境界をまたぐ誰かがいる限りは読まれるだろうし、ネットで「普通」を記載するのは難しくて、それはたぶん、ネットが広大になるほどに、もっともっと難しくなる。

境界の向こう側に「普通」を売る

ハーレーダビットソンが販売しているのは、「高性能なバイク」ではなくて、「反逆のライフスタイル」なんだという。 ハーレーのバイクは、あれは「ならず者の普通」を形にしたものであって、そういう人たちの生活にあこがれて「越境してくる人」は、 ハーレーのバイクを購入することで、「普通」を手に入れる。

必要があってバイクに乗る人、速く走りたい人は、たぶんハーレーを選択しないだろうし、 ハーレーダビットソンもまた、たぶんそういう人を顧客として最初から想定していない。

「○月○日マスターアップです!」なんて、ゲームを作っている会社のホームページには、 しばしばそんな言葉が踊る。大変そうだけれど、マスターアップとか、カットオーバーとか、 なんだかかっこいい響きで、意味も理解していないくせに、あれを自分もやりたいな、なんて思う。

プログラムのバージョン管理を厳密に行いたい人に向けた、Subversion の入門書が発売されている一方で、 自分の日記で「○月○日 マスターアップです!」なんて宣言するためには、そもそもSubversion をどうやって 仕事に組み込めばいいのか、そんなことを調べようと思っても、ネットには情報がないし、それが本で読めるなら、 買いたいなとも思う。

このへんにたぶん、まだ未開拓の市場があるような気がする。

2009.12.14

無限の暗示から外に出る

たぶん「無限の世界暗示」みたいなのがあるんだと思う。

「その問題は大きすぎて解けないから、もっと頭のいいやりかたを考えましょう」とか、あるいは「問題のバリエーションは無限だから、無限に対応するために、創造力を養いましょう」とか、「創造」と、「頭の良さ」とを結びつけるような考えかた。

算数は暗記だった

無限に思えた問題を実際に解決してしまう、結果につながる頭の良さを持つ人は、むしろ「力技」を好むような気がしている。 「その問題の大きさは有限である」と看破したら、あとは力で突っ走るようなイメージ。

子供の頃、塾では「算数は暗記だ」と教わった。「すばらしい問題」なんて、そんなにぽんぽん作れるもんじゃないから、「覚えれば解ける」のだと。覚えるのは厚さ3センチぐらいの、正直小学生には手に余るような教科書なんだけれど。

学校ではその頃、たぶん算数というものを、むしろ創造に連なる何かとして習ったんだと思う。このへんはよく覚えてない。でも少なくとも「暗記」のおかげで、自分は受験に通った。

入学試験を作る算数の先生が、どれだけ創造力に富んでいたとしても、たぶん「いい問題」を無限に作るのは難しい。「いい問題」と「複雑な問題」とは異なって、小学生が持つ算数知識の範囲内で、「一見難しいけれどひらめけば解ける」ような問題を作るのは大変で、先生が頑張るほどに、それはしばしば、単なる「複雑で難しい」問題になってしまう。

複雑さというのは、単純さの組み合わせだから、塾の先生が10人がかりで過去問を揃えて分類すると、複雑な問題は分解されて、力ずくで解くやりかたが編み出されてしまう。本当の「いい問題」は分解できないけれど、そんなものを毎年100点分、塾の先生がたをうならせるようなものをぽんぽん作れるような算数の先生は、受験校といえども、たぶんそんなに多くない。

算数の問題はだから、試験に合格するレベルの達成度を目指すのならばたしかに有限で、分解されたやりかたを一通り暗記できたなら、「創造」が、単純作業の組み合わせに還元されてしまう。

無限に負けると創造を目指す

医師国家試験の勉強なんかもまた、あれは作業だった。

「病気の数は無限にあるので深く理解するしかないのです」なんて、大学ではそんなことは教わらなかった。ひたすら「覚えろ」と教わって、それこそ辞書みたいな本を何冊もこなしたけれど、結局覚えられた。

超ひも理論を追っかけてる人たちは、あるとき問題が「無限じゃないらしい」なんて聞いたとたん、勇躍力技の単純作業に乗り出したらしい。先端物理の人たちは、「いわゆる頭のいい人」のステレオタイプばっかりなんだろうけれど、彼らもまた、「それは無限だから、もっと頭のいいやりかたを考えつくまで待ちましょう」なんてことにはなってない。

「ある日すばらしいやりかたを発見して、無限に大きな問題を単純に解く」ことを夢想している人というのは、どこかで無限に敗北しているのだと思う。

たぶん「頭のいいやりかたを思いつく」ためのコストと、「力技で大量の単純作業をこなす」ためのコストというものがあって、無限の暗示にとらわれた人は、たぶん後者を大きく見積もりすぎて、思考停止に陥る。「それは難しい」なんて独りごちて、解ける問題を前にしながら、それを解けない自分に満足してしまう。

「創造性が試されるような問題を、単純作業の集積であると看破する」能力というものが、たぶん頭の良さというものを表現するための、パラメーターの一つなんだと思う。

暗示の外に出られたなら、きっとそこに未来がある。

2009.12.12

「ない」を重ねて未知を知る

「うちの患者さんじゃありません」なんてコメントが、いろんな科から戻ってくる。

原因疾患が特定できない患者さんを抱えて、自分じゃ分からないから、いろんな専門科に患者さんを紹介するんだけれど、「少なくとも循環器じゃない」だとか、下手すると「少なくとも外科じゃない」だとか。

分からないことだけはよく分かる

分からない患者さんというのは、たいていの場合、他の人にもやっぱり分からない。もちろん世の中のどこかには、「分かる」人がいるはずなんだけれど、その人がどこにいるのか、主治医にはやっぱり分からない。

「うちじゃない」という返事はその代わり、分からない患者さんであったとしても、ある程度の確信を持って提出できる。「うちじゃない」を証明するためには、自分がカバーしている範囲の知識に照らして、その人の症状だとか、全身状態を一つ一つチェックすればよくて、問題の大きさが有限だから。 専門家はしばしば、「ある」の診断セットとは別に、「ない」の診断セットを隠し持っていて、分からない患者さんが紹介されると、「うちじゃありません」なんて返事を導く。

「ある」を探してひたすら紹介するのは効率悪くて、それでもやっぱり、「ある」にはなかなか行き当たらない。 3つぐらいの専門科から「ない」をもらうと、その代わり、患者さんに残された診断名は、ずいぶんと絞り込まれる。そこはたいてい「膠原病に連なる何か」であったり、「内分泌疾患に連なる何か」であることが多くて、分からない患者さんというのは、たいてい最後はこういう科に紹介されて、膠原病内科や内分泌内科の先生がたは、だから「分からない」問題に対する耐性が高い人が多い。

それぞれの科から「ない」を持ち寄って、体系化できたらいいなと思う。

「ない」を断じるやりかたというのは、未知問題に対峙するときの大切な手がかりで、「ない」をいくつか重ねることで、無限の未知は有限に、よしんば病名が「これ」と決まらなくても、やるべきことが見えてくる。

正常を知って「ない」に当たる

未知に対処するための万能解は、言葉遊びだけれど「正常を知る」ことなんだと思う。 逆のやりかた、「全ての未知を知る」ことは、確実だけれど難しい。

正常を知っていれば、知らない病気の人がきたところで、その人が「正常でない」ことまでは感覚できるし、自分の専門領域について、「守備範囲の正常」を体感できているならば、「少なくともうちじゃない」が、ある程度の確信を持って判断できる。

自分が作っていたマニュアル本は、判断に「正常」を含めることで、逃げ道を確保してある。ある検査を提出して、「それが正常ならば」、こうであるというやりかたで、「それが正常」という判断については、読者の感覚にゆだねている。

このやりかたは、「正常の理解度」に応じて、診断精度が変わってくる。フローチャート形式の教科書は、判断分岐には「数字」が書いてあって、「正常」なんて曖昧な言葉は使わないんだけれど、あれはやっぱり難しいし、フローチャートは結果として、留保がたくさん付帯して、使いこなすのが難しい。

「正常を知る」ことと、「全ての未知を知る」こととは、同じぐらいに難しいんだけれど、知識の穴を隠蔽しやすいこととか、「知る」にたどり着く道が何通りもあって、各人のやりかたで診断精度を上げられることだとか、「全ての未知を知る」やりかたよりも、メリットが大きいような気がする。その代わり、「正常」というのは記述不可能なところがあって、これを「学ぶ」ためには、日常臨床を重ねることしかできないんだけれど。

恐らく「遊び」が鍵になる

「正常を知ること」だとか、「未知問題に対峙できる」能力を磨くためには、たぶんどこかの期間で「遊ぶ」こと、教科書なんかに「バカ」と断じられているようなやりかたを含めて、それが「どうバカなのか」を実地で経験していく機会を持てないと、この領域にはたどり着けないのだと思う。

「遊ぶ」こと、あらゆる可能性を探って、手続きを、制約の集積として、もう一度理解しなおす行程を経ることで、その人はようやく名人になれる。

自分たちの業界では、もはや「遊ぶ」ことなんて許されないから、だからこういうのは、名人の昔話をひっくり返さないといけないんだけれど、そういうのは残っていないし、「昔のバカ」を語ってくれるベテランは少ない。

理論が完成している領域であればあるほど、調べるのが難しい。

たとえば感染症の領域なんかはそれが顕著で、「ある」の所見は詳しいんだけれど、「ない」の所見は、大きな教科書を見ないと載っていない。

  • 麻疹の患者さんに赤血球沈降速度を提出したら、それは果たして高いのか
  • インフルエンザの患者さんに血液検査一式を提出したとして、たとえばCRPは上がるのか

こういうのは、教科書的には意味のない検査だから書いていなくて、だから専門の人が「バカをやった」時の経験を尋ねるしかないんだけれど、「遊ぶこと」がそれでも許された時代の人は、今はもう60代目前。

この人たちの昔話を、集めて体系化できたらよかったのだけれど、「バカ話」を証明するのは無理だから、今ではそれも難しい。

追記:ブクマコメントで教えていただいた Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか の考えかたは、求めているものに近いような気がしました。

2009.12.07

名人の資質

「名医であること」や「名人であること」には定義があって、定義だとか、理論を知らないことには目指すことができないし、その人が置かれた状況によって、磨くべき能力も異なってくる。

医療の円環構造

「医療」においては、病歴や、家族歴の聴取に相当する「情報収集」、情報を元に、暫定診断や、バックグラウンドで生じていることを推定する「仮説設定」、他覚的な検査を使った「検証」という、各工程を経ることで、はじめて医師は、処方や手術といった「行動」を決断することになる。

「情報」「仮説」「検証」「行動」の各工程は、円環構造を作っている。行動の結果は再び情報収集され、治療の反応に対する仮説が作られ、それが検証された後、次の行動が決定される。

それぞれの工程は、「速さ」と「大きさ」の、各パラメーターを持つ。 それぞれの能力が大きいほどに、工程をこなす時間が短いほどに、患者さんの治癒可能性は、より大きくなっていく。

各工程ごとの「能力の大きさ」と、「工程を通過する速さ」とには、ある程度相補的な関係がある。たとえば収集された情報が貧弱であったとしても、収集が極めて短時間で行われるならば、その貧弱さはある程度許容できる。どれだけ詳しい情報収集能力を持っていたとしても、それに1時間も2時間もかかるようでは、患者さんの症状は、その間悪化していく。

ある工程の弱さは、円環構造を共有する別の工程で補うこともできる。仮説設定がいいかげんであっても、検証プロセスが十分に強力であるならば、「仮説設定」の能力が弱くても、それはある程度まで代償できる。

「よき臨床医」というもの

昔ながらの臨床研修が目指している「よき臨床医」は、情報収集と仮説設定の能力向上に、教育リソースの大部分を割り当てている。

能力の向上幅は大きな代わり、教育には時間がかかるし、能力の緻密さは、しばしば速度とのトレードオフになる。

「よき臨床医」はだから、緻密な情報と、それに基づく正しい仮説設定を前提にすることで、検証に要する検査を減らし、行動決定に至るまでの時間を短くすることで、円環サイクルの「大きさ」と、「速さ」との両立を目指すんだけれど、思考の「速さ」と「緻密さ」は、しばしば両立が難しい。

名人は「ずる」をしている

ティアニー先生みたいな、ああいう「名人」は、いわゆる「よき臨床医」とは、パラメーターの磨きかたが違うような気がする。

あの人は、情報収集が丁寧で、その代わり、仮説設定が恐ろしく速い。

あれは「頭の回転が速い」のではなくて、たぶん「膨大な知識と臨床経験による思考のショートカット」を行っているのだと思う。

患者さんを診察したあと、ティアニー先生はいきなり「講義」をはじめて、疫学データを語りながら、診断リストがみるみるうちに出来上がるんだけれど、あれはたぶん、その場で演繹しているわけではなくて、頭の中にある膨大な「脚本」の中から、状況にあったものを引き出して、それを朗読しているんじゃないかと思う。

「思考」というよりも、むしろ「想起」でそれを置き換えることで、名人はたぶん、緻密な仮説をすばやく作ることができて、検証プロセスは最小限でいけるから、結果として、能力の大きさと速さとが、高い次元で両立している。

「よき臨床医」を目指す人はしばしば、能力にこだわるあまりに、速さを見失っているような気がする。正しく研鑽を積んだところで、「名人」に到達できない。

速度を目指す別のやりかた

「よき臨床医」をみんなが目指せば競争になってしまうけれど、「能力の総和」と「円環を回す速度」とを両立させるやりかたには、たぶん他の解答もある。

たとえば情報収集の貧弱さを受容する代わりに速さを優先して、緻密な仮説設定をあきらめる代わりに、症状と病名とをハードワイアした表を用いることで、「情報」と「仮説」プロセスをショートカットすることができる。

「情報」と「仮説」はその代わり貧弱なものになってしまうけれど、「検証」工程に大きなリソースを割り当てることで、それを代償することができるなら、総能力をそれほど落とさずに、もしかしたら「速さ」が得られる。

「よき臨床医」の競争を勝ち抜くだけの能力を持っていなかったとしても、何か「別のずる」をすることで、競争を回避しながら、「名人」のいる場所を目指すことができれば、それはずいぶんかっこわるいことだけれど、患者さんの治癒可能性は高まる気がする。

必要な能力は状況ごとに異なる

内科の場合は、教科書が充実しているから、「仮説」を設定しあたとの行動については、人による差は少ない。「その人しか知らない特別な治療」を行う内科医というのは、「すごい名人」であるよりも、むしろそうでない可能性のほうが高い。

これが外科になると全然別で、人間的には今ひとつだけれど手術室に入ったら神になる人がいたりだとか、「とりあえず腹を開いてから考える」ような、いいかげんな思考をする人が、患者さんの治癒に最も貢献したりだとか、「行動」で全てをひっくり返す状況というものが、日常的に発生する。

「ゴッドハンド」という表現は、だから外科系の医師だとか、あるいはカテーテルや内視鏡治療の領域に発生する言葉であって、「ゴッドハンドを持った一般内科」を目指しても、その努力は効率が悪いと思う。

自分がどういう場所にあって、そこはどういうルールで回っているのかを知ることで、目指す場所だとか、磨くべき能力は変わってくる。

視野のどこかに「名人」をみる、幸運な状況に置かれた人は、その人のすごさにひとしきり驚かされたら、今度はマジックの種明かしを試みると、勉強になるような気がする。

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