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2009.11.30

中国の特番を見た

NHKの番組。中国の会社が、アフリカで携帯電話の電波塔を建てていた。以下感想。

気合いと根性はエンジニアの共通言語

  • エチオピアは以前から情報ネットワークの必要性を認識していて、いろんな国にネットワーク建設の依頼を行ったのだけれど、ヨーロッパの会社は、アフリカ進出に失敗したり、断ったりしたらしい。道が悪すぎて、物流が悪すぎて、「エチオピアの隅々にまでネットワークを」という、国の依頼を果たせなかったのだと
  • それを引き受けた中国の会社は、「エチオピアの隅々」を確約して、結局何をしたのかと言えば、人海戦術だった。中国本土から、大学を出たばっかりのエリートを1000人単位で引き抜いてきて、一番いい人材を、アフリカの最前線に飛ばしてた
  • アフリカはやっぱりむちゃくちゃだった。電波中継の塔を建てて、塔の真下は案の定ゴミの山で、塔はと言えばそのへんのホームセンターで売ってるようなアングル材で組まれていて、ボルトの防錆塗装なんかもやってないように見えた。塔は上手く動いていなくて、中国の技術者が確認すると、電波を増幅するアンプに電源コードが刺さってなかった。中国の本社から来たエンジニアは、それ見て絶句してた。「絶句のポーズ」は全世界なんだなとか、変なところで感心した
  • で、夜中に会議を開いてた。泥縄式のやりかた。エチオピア辺境の、あらゆる場所で物資が足りなくて、税関はのろまで、運輸にも確実さが期待できないのだと。どこにでも見られるグダグダな光景だけれど、その日の夜には現地の社長が、中国の本社に、採算度外視の「物資の空輸」を要請していた。決断が早かった
  • 「信頼性が不十分な輸送経路を使って、損失折り込みで物資を言質に届ける」ことなんて、たぶん日本の商社のお家芸なんだろうなとか、JAXA の「はやぶさ」なんかは、まさにそれやってるなとか、泥縄であたふたする中国の技術者をテレビで見ながら、それでも「もう日本人技術者にはああいう場所でノウハウを発揮するチャンスなんてない」のだと気がついて、ちょっと愕然とした
  • 「中国流」というのは要するに気合いと根性で、人材としては中国全土でも上位に来るような若手のエンジニアが、ご飯立ち食いで、泥まみれになって働いてた。妙に愛国心強くて、スマートとはちょっと遠いやりかたで、なんだか「プロジェクトX」みたいに見えた
  • プロジェクトX は、日本独自の昔話だと思っていたんだけれど、あれが昔話になってしまったのは、要するにああいう「泥まみれになって働けるプロジェクト」を、日本の政府とか、企業が取って来ることができなくなったからなんだな、と思った
  • 中国の国家主席が、自分たちの国を評して「世界最大の途上国」という表現を使って、アフリカ諸国との連携を表明していた。ああいう謙遜は危険度高くて、政敵から揚げ足取られかねないんだけれど、大国のトップがああいう言葉を出せるんだから、なんだか本気度ものすごいな、と感じた

品質は勝者の権利

  • 番組に出てきた中華携帯は、やっぱりちゃちだった。自分の手元にある、6年ぐらい昔の富士通の携帯電話と比べたって、機能こそ古い携帯が劣っているかもだけれど、見た目の品質は勝ってると思った。中華携帯は厚ぼったいし、ボタンの品質は悪そうだし、ねじなんか太くて、背面パネルの真ん中あたりに刺さってた。富士通の携帯はもう動かないけれど、ボタンなんか今でもしっかりしてるし、画面も大きくて、「額縁」に相当する部品は細く、ねじも限界まで隅に追いやられて、機械としてはまだまだ負けてない
  • こういうのはどこか、米軍機と零戦に似てる気がした。中華携帯はいいかげんな作りだけれど、もちろん安価で、中国の工場では、けっこう簡単そうに組み立てられていた。日本の携帯電話は洗練されてるけれど、恐らくは金型の管理一つとっても大変だろうし、製造も大変そう。アフリカ人の村長さんは、電波塔が建って、野暮ったい中華携帯で、初めての携帯電話を体験していた。でも笑っていて、すごくうれしそうだった。あの笑顔を購入するのに、「日本品質」なんて、たしかに不要というか、過剰なんだと思った
  • 中国がアフリカに携帯電話ネットワークを作り終えたとして、日本が高品質の携帯電話を売り込んだところで、割って入る余地なんてないように思えた。 「高品質」という価値は、たぶん、市場をひっくり返すだけの力を持っていない。イノベーションは、前の技術が一晩で陳腐になるような、前世代の破壊をもたらすようなやりかたか、圧倒的に安価な価格破壊か、いずれにしても「破壊」なんだと思う。品質では競合者を破壊できない
  • 「高品質を売る権利」を唯一持っているのは、市場を作ったトップランナーであって、トップがそこにいる場所に、あとからのこのことやってきて、高品質、高付加価値を売ろうとしたところで、それは高価な劣化コピーであって、市場をひっくり返す何かにはなれない
  • 日本の乗用車が高品質を売りにできたのは、それが昔は圧倒的に安価だったからであって、ある時期「競合者の破壊」が成し遂げられたからこそ、当時の日本は、高品質という手段を選択できたのだと思う。高品質はだから、あれは権利であって、義務でも必然でもないし、権利はだから、戦って勝ち取らないといけない
  • 中華携帯アンテナの品質なんて、ひどいものだった。電波塔は弱そうだったし、アンプ類は配線外付けで、部品もなんだか汎用品だった。日本だったら全部モジュール化するだろうし、きれいなケースに入れるだろうし、スイッチ類とか、たぶん専用設計するんじゃないかと思った
  • で、「雑で汚い中華電波塔」を見て自分が想像したのは、Google だった。初期のGoogle サーバーはたしか手作りで、あれは今見たってお粗末な、いかにも学生の手作りの、プロダクトとしてはかっこわるい代物だった。でもそんな「雑な手作りのサーバー」が、革命を起こした

それでも日本車はアフリカを走る

  • 「NHKって、やっぱり日本が大嫌いな人たちが番組考えてるんだろうな」なんて考えながら、画面のどこにも日本の「に」の字も出てこない中、それでも「日本」を発信していたのは、乗用車だった。調査用のランクルも、政府の人とか、中華企業の要人が乗っているのはみんなトヨタ車であって、中国車じゃなかった
  • 乗用車というのはだから、可能性なんだと思う。あのプロダクトは、環境に対して、外に対して閉じていて、中国人とアフリカ人しかいない中にあって、それでもなお、トヨタの車内は日本だった
  • 乗用車を輸出すること、何か「環境に対して閉じた」プロダクトを世界に広めることと言うのは、それは車を輸出しているようでいて、実際には小さな日本を、日本の環境を、日本の文化を、あの大きさにパッケージして輸出することなんだろうな、と考えてた
  • たぶん「2001夜物語」だと思うけれど、SF 漫画で、「植物が支配する惑星」の物語を思い浮かべてた。惑星は滅びかけていて、その惑星の植物の総意として、彼らは「種」を全宇宙に放出していた。惑星中の植物が、一つの大きな種の中に、自分たちの種を少しづつ寄生させて、それを宇宙に向かって放り出していた。あの「大きな種」は、たぶん今のところはトヨタの乗用車であって、これからの道に思えた
  • 大国出身の勝者が利益を総取りする構造だと、日本はいろいろ不利で、ああいうのに互して戦うのは厳しいと思った。むしろ「ゲリラ戦」的なやりかた、 「その国でそれでも使われている日本製品」を種として、外交官として、その中に、日本の文化だとか、製品だとか、技術を仕込んでいく、というやりかたが、生き残るすべになるような気がする

2009.11.28

病棟の摩擦

「戦場の摩擦」、「戦場の霧」という考えかたがあって、このへんはもしかしたら、ほかの学問とか、業界なんかでは過小評価されていたり、場合によっては「ないこと」にされているような気がする。

摩擦

これは要するに「通信の遅延」みたいな意味だと理解している。

たとえば1000人の大部隊がいて、一斉に「前進」なんて号令をかけたところで、部隊は前に進まない。

声を聞いたところで、最前列の部隊はすぐに動けるけれど、後ろのほうは、前の人が動き出さなければ動けない。部隊はだから、号令とともに、必ず前後に広がって、将軍が思ったようには動かない。みんなを戦車やトラックに乗せたところで、「前に人がいると進めない」という原則は一緒だから、状況はそんなに変わらない。

作戦の規模が大きくなればなるほどに、「戦場の摩擦」は大きくなって、事態を予測することはますます難しくなる。

物事がどれだけはっきりと見通せたところで、相手の頭の中は見えないし、味方が想定通りに動くのかどうか、それを予測するのは難しい。

合理的には「こうだ」という見込みがあったところで、相手の将軍は、勇猛を装ったチキン野郎かもしれないし、味方の伝令がだらしなくて、伝えたはずの命令は、実は伝わっていないかもしれない。

技術がどんなに進歩しようと、不確実な要素が必ず残って、戦場の霧は晴れることなく、人間の頭の中に、やっぱり変わらず存在し続ける。

「摩擦」と「霧」と、だからこういうのは技術だけでは解決のしようがなくて、物事が複雑になれば、お話のスケールが大きくなれば、摩擦は大きく、霧は濃くなり、未来を見通すことはますます難しくなる。

軍事学なんかだと、だから作戦を立てるときには「摩擦」と「霧」の影響を最小限に抑えるように、できるだけ小さな作戦を、できるだけ単純なやりかたで達成できるように、将軍は頭を使うものなんだという。

摩擦や霧のない状況はあり得ない

戦場の「摩擦」と「霧」の考えかたというのは、人の振る舞いを検討する他の学問、たとえば経済学なんかだとどういう扱いになっているのか、正直よく分からない。

「○○を行うとこうなるぞ」なんて未来予測はたくさんあるけれど、そういうのはたいてい外れるし、経済学が相手にするのは何しろ「社会」だから、摩擦の影響は計り知れない。どれだけ厳密な予測を行ったところで、それが成就する可能性は薄いのだろうし、人間の摩擦、「人は今までどおりの生活を、分からなかったらとりあえず繰り返す」なんて原則に打ち勝てるだけの説得力を持った、強力な理論なんて、そう簡単には出てこないだろう。新聞読む人も減ってるみたいだし。

業界によって、このへんは理論に織り込み済みであったり、あるいは徹底的な実験を繰り返すことで、ノウハウとしてそれを回避するすべを伝えていたり、きっと様々なやりかたで、理論と現実との折り合いをつけているんだろうけれど、「摩擦」や「霧」を、「誤差」として切り捨ててしまうと、たぶんろくでもないことが起きる。

病棟の摩擦について

医療なんかだと、この「摩擦と霧」の問題は、もっと深刻になっている。

「摩擦」は「職員の努力でなくすべきもの」であるし、「霧」については「主治医の努力でなくなるもの」だと考えられているみたいだから、教科書にはあまり、こういうことが考慮されていない。

「摩擦」を減らすやりかたというのは一応あって、たとえば「看護師さんが指示を間違えても、それが問題にならないような処方」を出しておけば、間違えがあっても、トラブルになりにくい。

自分の患者さん限定で、うちの病棟では、点滴が必要な全ての患者さんには「同じ点滴」が入るように心がけている。点滴間違えというのはどうしたって怒る可能性があるんだけれど、「間違えたところで同じ輸液しか入らない」から、間違えにならない。

病棟で使う輸液製剤の種類を絞るとか、内服を、病名ごと、もう一歩踏み込んで、病名が違っても、ほとんど同じにすると、「間違えない医療」じゃなくて、「間違えようがない医療」というのが部分的に実現できるんだけれど、こういうのは何となく、「患者さんにベストを尽くす」みたいな考えかたとぶつかってしまう。 「クリニカルパス」という、定食メニュー的なやりかたも、毎年のように「改良」されて、個人的には目指してる場所が違うような気がする。

「間違えないための工夫」というのは、看護師さんの雑誌によく載るんだけれど、「間違ってもそれが問題にならないような工夫」というのは、不謹慎だからなのか、それがなんというか「かっこわるく」て、一見するとアバウトで、素朴な解決に見えるからなのか、あんまり見ない。

「摩擦」や「霧」を、「ならぬものはならぬものです」なんて、思考経路から追放してしまうと、どこかに大きな落とし穴が空いて、「ないこと」になっているそんな大穴に、ある日みんなでそこに向かってまっしぐら、という状況が出現しそうで、けっこう怖い。

個人的には、理想の病棟というのは、「患者さん入院しますから、いつものように、適当に」というオーダーだけで治療が始まるようなものを考えているんだけれど、こういうこと言うと、「だらしない」なんて叩かれる。偉い人たちにとっての理想の病棟は、たぶん米軍の特殊部隊みたいな、訓練された精鋭が、号令一下、一糸乱れず業務に当たる様を想像してるんだろうけれど、そういうのはたしかにかっこいいし、いかにも仕事をしてるっぽいんだけれど、理想の先にこれを想像しちゃいけないんだと思う。

2009.11.25

研修医向けのマニュアルを改訂しました

話自体はまた流れてしまったのですが、出版社の方から指摘をいただいた事項について、できる範囲で訂正を行いました。

  • 本書の意図するところについて、「前書き」に相当するものを記載しました
  • 各章ごとに記載されている「鑑別診断チャート」の使いかたを解説しました
  • 症状ごとに、可能な範囲で「分からなかったら」というパラグラフを設定し、どうしようもない場合の対処についての記載を行いました

分からなかったら」の記載については、正直相当に怪しげなものにならざるを得ませんでした。

そもそもそういう状況に陥らなかったからこそ自分が生き残っているわけで、 これはだから、「童貞が偉そうにセックス語ってやがる」なんて叩かれても反論できないのですが、 「こうしたほうがいいよ」というご指摘をいただけると、作者はとても助かります。

2010病棟ガイド(仮) に、HTML 版へのリンクがあります。

2009.11.19

「雑な物づくり」に未来がある

今作っている研修医向けのマニュアル本について、少しだけ話が前に進んで、昨日は出版社の方と、いろいろお話をさせていただいた。まだまだ先は長そう。

いろいろ思ったこと。

出版は大変

「自分の電子原稿が、出版にはあんまり貢献できない」ということが、個人的にはショックだった。

原稿はすでに、表紙から目次、本文、図版、索引に至るまで全て完成している。原稿内部でのページ参照だとか、あるいは索引だとか、ああいうのも全部ラベル参照にしてあるから、出版社の方から、判型と1行当たりの文字数、ページ当たりの行数の指定さえいただければ、コマンド一発、せいぜい1秒もあれば、参照ページの入った原稿が、いつでも出せる状態。たとえばそれを電子化したいなら、LaTeX ならhtml の出力も簡単だから、こういうのが役立つだろうなんて考えてた。

電子原稿は、「手書き原稿の山」なんて状態に比べれば、出版社の人も圧倒的に楽できるだろうなんて思ってたんだけれど、そんなに変わらないらしい。

「これから」のことを尋ねると、原稿は、今のPDFからテキスト部分だけを抜き出して、それをDTPソフトで再編集、TeX の図版はそのままだと使えないので、これはイラストレーターで全部作り直したうえで、自分のマニュアルには、ページの相互参照が200箇所ぐらい、索引が300箇所以上あるんだけれど、こういうのは全部「手」でやるんだという。

LaTeX の自動編集は、ワープロよりはきれいとはいえ、やっぱりそれは機械の仕事であって、「プロの品質」を達成するには、やっぱりまだまだ役不足みたい。

プロの仕事にはお金がかかる

個人的に妄想していた落としどころみたいなのは、「1冊1000円ぐらい、できれば半年、無理でも毎年改訂」ができたらいいな、なんて思っていたんだけれど、こういうのは無理らしい。

プロのお仕事には莫大なお金がかかって、商業品質に耐える版面を整えるためには、自分の原稿ぐらいの本を作るなら、ちょっとした高級車ぐらいのお金がかかるらしい。全部手仕事だから、そもそも「ちょっとした改訂」というのはありえなくて、品質のいい原稿というのは、裏を返せば、一度作ると、それを直すのにも膨大なコストがかかるらしくて、改訂という作業は、そう簡単にはいかないのだと。

「1000円ぐらい」の本というのは、だから最初から数万部オーダーで勝負をするような大規模出版でないと厳しくて、医学書というのはそもそもそんなに売れるものではないから、必然的に価格も上がってしまうんだという。

今相談をさせていただいている出版社は、本も雑誌も出しているようなけっこう大きなところで、多色刷りだし、図版も多い。小さな図版には文字がきちんと回り込んでいるし、爪見出しみたいな、裁ち落とし部分に印刷される部分も多い。素人仕事ではたしかに追いつけない、版面のきれいな本をたくさん作っているところなのだけれど、品質にはやっぱりお金がかかって、あらゆるものが電子化されたこの時代に、膨大な「手」が必要みたい。

「鬼のようにページ参照入ってますけれど、こういうの大丈夫なんですか?」とか尋ねたら、「もっと大変なのも手でやってますから大丈夫です」なんて、なんだか大変そうだった。

これからは雑な物づくりが大事なんだと思う

「最上の日々」のこれからの日本は、雑な物づくりだろうか というエントリーを読んで、こういうのはたぶん、いろんな業界で、「品質」から「雑」に舵を切る時期に、今はさしかかってるんだろうなと思った。

たとえば自分の原稿は、あらゆるものをフリーソフトで作っている。原稿の改訂はリアルタイムだし、PDF もHTML もその場で作って公開できる。たしかに原稿のできあがりは「雑」だけれど、読むに耐えないほどひどいわけではないし、出版社の人に原稿を託したなら、もちろん「プロの仕事」が施されて、比較にならないぐらいに高品質なものが作られるのは分かるんだけれど、その「品質」に、はたして何百万円ものお金をかける意味というのは、どれぐらいあるものなんだろう。

全てを手仕事で、ページの隅にまで気を配ったプロの原稿というのは、きれいな代わり、それは「紙」の形式でしか出版できない。参照ページは、「数字」として記載されるだろうから、判型が変われば全部やり直しだし、たとえばその原稿を電子化して、有償閲覧形式で配信しようにも、今度は参照ページだとか、索引を全部「リンク」に直さないといけないから、恐らくそれには手間とコストがかかって、実際問題、出版社で「電子書籍」に対応できるだけの体力を持ったところというのは、決して多くないんだという。

プロの人たちは、高品質な「プロの仕事」しかできないが故に、「雑な仕事」ができない。

自分は最初、「自費出版詐欺」みたいな報道で話題になったようなサービスを探していた。やりたいことは、あくまでも「原稿が書籍として流通すること」が全てであって、上の先生がたは「本」にならないと読んでくれないから、それで十分だった。だからたとえば、「100万円であなたの本が本屋さんに並びます」みたいなサービスが、医学系の出版社から提供されていれば、たぶんそれに乗っかったと思う。やりたいことは、それで達成できるから。

たとえば「研修医を集める」目的で、自分の病院独自のマニュアル本を作って出版したいという要望は、たぶんいろんな病院にあるものだろうし、60も過ぎたベテランの先生がたとか、あるいはblog で日記を書いている無数の同業者とか、ちょっとした本を作って、自分のノウハウを多くの人に知ってもらいたいという需要は確実にあって、それは小さいかもしれないけれど豊穣な、よその業界から見れば相当に「おいしい」市場がそこにあるはずなのに、高品質だけれど高コストな仕事しかできない「プロ」しかいない医学出版の業界には、こういう需要に対して、サービスを提供できない。

どこかの出版社が、たとえば「旺文社の赤本」よろしく、日本中のあらゆる病院から「研修医マニュアル」の原稿を集めて、どこかに就職を希望する医学生がそれを買って比較したり、あるいは自分の研修医にそれを買ってもらったり、部数でいったらせいぜい1000部ぐらい、「雑な装丁」の、その代わり、出版を依頼する病院側からお金を支払ってもらうような、そういうやりかたにだって十分勝ち目がありそうなものだけれど、そういう話は全然ないんだという。

この場所に、誰も名前を知らないような新興出版社が入ってきたところで、勝負にならない。自分たちはやっぱり、「名前」でいろんなものを判断するから。ところがその代わり、「名前」を得た多くの出版社は、今度は仕事の品質があまりにも高すぎて、こういう場所には行ってこれない。

恐らくは企業とか、あるいは国家にも、「品質で名前とブランドを形成する時代」のあと、どこかで「雑」と「多様」とにシフトをするタイミングというものがあって、そのタイミングを間違えて、「より高品質」に行ってしまうと、袋小路に入ってしまうんだろうなと思う。

病院ごとのマニュアルを商業ルートに乗せること。blog の文章に「プロの添削」を依頼すること。書いた文章を翻訳して、どれだけマイナーな形式であれ、「海外のどこか」に自分の意見を問うこと。恐らくは「出版」というものに期待されている仕事というのはたくさんあって、プロの人たちが「プロの仕事」を続けている限りは、こうした「多様」に対応することはできないだろうし、よしんばそれが実現したとして、それは高コストで、素人には手が出ない。

「出版のプロ」にはじめてお会いする機会をいただいて、自分はむしろ、「雑で多様なサービス」というものが、これから先、もっと考えられてもいいんじゃないかなんて考えてた。

2009.11.16

伽藍の誤謬と戦局眼

2002年、ペンタゴンは、冷戦終結以降、最大規模の軍事作戦演習を行った。イランへの攻撃を想定した、「ミレニアムチャレンジ」と名付けられたこの演習は、情報化、ネットワーク化の行き届いた、最新装備の米軍が無敵であることを証明するための演習だったはずなのに、時代おくれの装備を与えられた「仮想イラン」軍に、「仮想米軍」は歯がたたなかった。

ポール・バン・ライパー退役中将が率いた「仮想イラン」軍は、ことごとく米軍の行く手を遮ることに成功した。

ペルシャ湾岸に入った米艦隊は、イラン軍の自爆船、対艦巡航ミサイルによる攻撃を受け、米戦艦のほぼ半数が沈められるか、作戦遂行ができない状態に追い込まれた。これはパール・ハーバー以来の大失態だった。

情報の伽藍に圧倒される

第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい」という本に登場するこのエピソードの主役、ポール・ヴァン・ライパー退役海兵隊中将がどうして強かったのか、この本を読んでもよく分からなかったんだけれど、別のインタビューで、将軍が「戦争において、情報は非常に便利だが、戦場で人を殺すのはいつだって弾丸だ」と語っていたのを読んで、何となく分かった気がした。

圧倒的な情報収集手段を手に入れた人は、しばしばたぶん、「情報の伽藍」を作ろうと夢見てしまう。たくさんの材料が手に入って、壮大な伽藍を夢見て、設計して、伽藍の壮大さに圧倒されて、それが完成するまでの間、道具であるはずの情報に圧倒されて、動けなくなる。

弾が撃てれば、人は殺せる。戦争で必要なのは、だから「弾を撃つための目標と、その根拠」が全てであって、「戦場全体を見渡せること」それ自体は、便利だけれど、必須じゃない。

「雨をしのぎたい」と思ったなら、柱を立てて、とりあえず屋根をかければ、その掘っ立て小屋は、すでに十分役に立つ。

伽藍に支配されてしまった人は、雨は降ってるのに、伽藍は8割方完成して、すでに居心地のいい大広間が出来上がっているのを目にしているのに、「未完成な伽藍」に圧倒されて、しばしば豪雨の中、無為に立ちすくんでしまう。

目的が雨をしのぐことであったなら、翌日濡れずにいた人が、もちろん正しいのだけれど、世の中はしばしば、「状況を正しく判断した人」よりも、「雨に濡れなかった人」よりも、「ずぶ濡れになりながらも伽藍の完成に尽力した人」を評価する。伽藍に支配された人は、だからしばしばいい評判を勝ち取って、伽藍が壮大になるほどに、仲間はますます増えていく。

戦局眼というもの

偉大な将軍に欠かせない資質だとか、「戦場にあって、一瞥にして有利、不利を見透かす偉大な才能」なんて説明されている「戦局眼」というものがあって、シミュレーションとはいえ、圧倒的な戦力差が想定されていた米国正規軍を圧倒してしまったライパー将軍の能力もまた、こうしたものなんだろうけれど、「戦局眼」というものはたぶん、「自分にできることとできないこととを正確に把握した上で、行動決定に必要なもの「だけ」を見る」ことができる目線なのだと思う。

「眼」なんて言葉が付いているから、戦局眼はなんだか、レーダーとか千里眼みたいな能力みたいに思えるけれど、戦局眼を備えた人の目線というのは、たぶん半分以上が、自分自身に向けられている。

自身と味方とに向けられた目線、自分たちにできることと、できないこととがきちんと把握できていなければ、行動を決断するのに、そもそも何を見ていいのか分からない。分からないなら、どれだけたくさんの情報を集めても、その人は、それを行動に転化できない。 「戦局眼を持った人」というのは、たぶん自身を把握する能力に長けていて、莫大な情報を前に、むしろ視界を限定することで、代わりに意志決定の速度を得ているのだろうと思う。

どれだけ莫大な戦力、莫大な情報能力を持っていたところで、意志決定ができないのなら、死体に等しい。

「最初の一瞥で物事を判断できる」超人的な能力を持った人の逸話というのは、たぶん「自分にできること」と、「それを決定するのに必要なこと」とを、それぞれ突き詰めて分かっている人が判断を行うと、それが他者からは「一瞬」にしか見えないということなんだと思う。

エビデンスの時代に大切なこと

質の高い情報を手に入れることが、本当に簡単になったけれど、研修医が莫大な電子データベースにアクセスできたところで、自分自身に向けられた目線を鍛えないかぎり、そもそも自分が何を分かっていないのか、それ分からないから、きっと動けないのだと思う。 知識を蓄えたり、手技を磨いたりすることと、「戦局眼」に相当する何かを身につけることとは、たぶん相当に異なる。エビデンス語るのに判断しない名医とか、何でもできるのに何もできない凄腕医師とか、このへんが、違和感の原因なんだと思う。

たとえば救急外来で、患者さんの治癒に貢献できる行動というのは、そんなに多くない。

病気は無数にあるし、病気の数だけ治療手段は異なるんだけれど、「できること」という数えかたをするなら、補液と輸血、ステロイド、抗生剤、気管支拡張薬、昇圧薬、あとは挿管とチェストチューブと、たぶん10指に余る。診断手段は無数にあって、正しい診断にたどり着くためには、伽藍を建てるほどの情報が必要だけれど、「たかだか10の行動」を決断するのに、人体全部の情報なんて必要ない。

医師として大切な資質は、だから分からない状況に陥ったときに、「自分には今問題解決の能力が欠けている」ことを理解できることなんだと思う。

「分からない」を「分かる」ためには、自分にできることと、それを判断するために必要な情報とを把握していないといけない。これができていれば、「分かるまで探す」こともできるし、「分かる誰かに問題を渡す」こともできる。これができていないと、「理解できないのは問題が悪い」なんて、無能の原因を患者さんに押しつけてしまったり、情報の伽藍に圧倒されて、必要なタイミングで動けなくなったり、しまいには、「それでも見ろ、壮大な伽藍がここにある」なんて、状態の悪くなった患者さんを前に、それが「正しく」思えてしまう。

「もっと適当にやるのが本当は正しいんだよ」なんて、なかなか分かってもらえないんだけれど、そういう本作りたい。

ルーデルの「武徳」と、カラシニコフの「誠実」、そしてライパー退役中将の「目線」、そういうものが伝えられればいいのだけれど。

2009.11.14

合理化が手にした利益

恐らくは「能力ある人を育てる仕組み」があった場所に、「既得権」と「無駄」というキーワードをぶつけると、そこが「合理化」する。合理化した帰結として、「能力ある人を育てるための教育コスト」が、「無駄を排除した利益」として、攻撃者に転がり込んでくる。

合理化はだから、短期的には間違いなく利益を生む。その代わり、教育システムが「合理化」されてしまうから、もう後続は育たない。教育システムを再建しようにも、それには「既得権」のラベルが張り付いているものだから、政治という営為が「嫉妬の最小化」を目標に行われている以上、システムが再生することはあり得ない。

昔は旦那がいた

「日本一の左官職人」の昔話。

その人が若い頃には、どこの町にも「大旦那」とか「若旦那」がいて、若手の職人は、そういう人に目をかけてもらって、ある日「粋な茶室を作ってくれ。金は出す」なんて注文を受けたんだという。機会を与えられた若手は必死になって茶室を作って、それはもしかしたら、師匠の手には及ばないのだけれど、「旦那」はどこかに光るものを見つけて、お金をくれたのだという。

茶室を頼む旦那はいなくなって、「若手」はもう育たないから、日本一の職人は、同時に最後の職人でもあって、たぶん今、「最後の日本一」が、いろんな業界にいるんだと思う。

「マタギ」と「ナガサ」

熊撃ちの猟師であった「マタギ」が羽振りのよかった昔は、地元の鍛冶屋さんに自分の刃物を作ってもらうものだったんだという。

鍛冶屋さんにもやっぱり、「師匠」と「若手」とがいて、手分けして、いろんな刃物を打ち分ける。マタギの人たちは、「ナガサ」と呼ばれる大きな刃物を携帯するのが常で、これで藪を割って山に入って、何かの理由で銃が使えないときには、ナガサで熊と戦うときもあるらしい。

ナガサはだから、恐ろしく頑丈にこしらえてあって、先端部分だけ、相手をさせるよう、両刃になっている。マタギの命を預ける刃物だから、もちろんこれは「師匠」の仕事で、値段もえらく高価なものだそうなんだけれど、「師匠」が留守にしていたある日、マタギがナガサをオーダーして、まだ若手であったその鍛冶屋さんは、必死になって一振りのナガサを仕上げて、その人に届けたんだという。

それが独立したきっかけになったのだと。

無駄と一緒に捨てたもの

昔の問屋さんは、若手を育てる役割を担っていたのだなんて記事を読んだ。

昔はあちこちに問屋さんがいて、こういう人たちは、流通から対価を得ていたんだけれど、問屋さんは「無駄」であると同時に、たとえば作家の目利きをして、腕のいい若手にはお金をはずんだり、引き合いの少ない気切には在庫リスクを引き受けてくれたりして、若手の作家を育てる役割も担っていたんだという。問屋さんがAmazon に追い払われて、流通には無駄がなくなったその代わり、「若手」はたぶん、育つ機会を減らしたのだと思う。

「能力」というものを、「仕事を作り出して、それを最初から最後まで完成できる人」みたいに定義すると、その人がどれだけ優秀であったとしても、機会がなければ、能力は磨けない。今はなんだか、「能力を持った人」を育てる仕組みが、社会の中からどんどん減っているような気がする。

焼き畑農業の先にあるもの

それは無駄といえば無駄なのだと思う。「大旦那」というのは要するに成金なんだし、「マタギ」の財を作った熊の胆のう、同じ重さの金より高いなんて言われた物質にしたって、今では普通に薬局で買える。無駄がなくなること自体は、決して悪いことには見えないんだけれど、「無駄にお金を使える人」が社会から減ったことで、「能力を持った人」が誕生する余地が、世の中から失われてしまった。

「社会から無駄を放逐して、全体の富が増えました」なんて、これは一見いいことなんだけれど、「富」が増えた本当の理由というのは、実は社会というか、旦那衆が負担していた「教育コスト」をお金に換えて、それに変わるものを、社会からなくしてしまったからなんだと思う。

戦争を民営化する、「戦争株式会社」を導入すると、戦争のコストが劇的に下がる。雇う側は、安価に「強い軍隊を購入する」ことができて、現場で戦う兵士もまた、国軍で戦うよりも、はるかにいい給料、いい装備で仕事ができる。

民営化はだから「いいこと」なんだけれど、このやりかたで損をするのは、「戦争株式会社」に熟練した兵士を奪われる国家の軍隊で、彼らは軍隊の教育コストを負担しないからこそお金を得られるし、教育を受けていない、何の資格も持っていない人たちには、だから「戦争株式会社」は、過酷に安い給料しか支払わない。

国内の問題にそっぽを向いて、「移民入れましょう」なんて人たちの本音は、あれは「能力を生むコストの外注」であって、「教育に必要な無駄」、能力を持った人を生むシステムを、今から日本に再構築することを、「上」の人たちは、もう無理だと、日本をどこかで見限っているからなんだと思う。

いろいろ詰んでる。

2009.11.08

「普通の人」に向けたサービスのこと

恐らくは「便利であること」それ自体には、お客さんは魅力を感じないのではないかと思う。

「便利さ」に価値を見出すのは、新しいものに飛びつくのが好きな、ごく一部の人であって、 お客さんの多くは、便利であることよりも、「自分が真ん中にいる」感覚を共有することを好む気がする。

2つの入り口を持つ料理屋さん

うちの近所にあるショッピングモールに「ドリア専門店」と「石焼き鍋専門店」とが入っていて、2つのお店は、中で厨房を共有している。

お店はモールの角地にあって、図面上はたぶん、「角地にある大きな店舗」なんだけれど、中を仕切ってあって、「三角形に分かれた2つのお店」に改造してある。お客さんは、ドリアを食べたければドリアの門に、石焼きビビンバを食べたければ石焼きの門にそれぞれ入って、お互いの行き来はできないようになっているんだけれど、バックグラウンドでは、同じ厨房で、いろんな料理が作られている。

そこは要するに、「暖めれば出せるもの」をたくさん冷蔵で用意しておいて、学生アルバイトを雇って、火にかけた品物をお客さんに供給しているだけなんだけれど、保存が利くからなのか、メニューの数はけっこう多い。それぞれのお店で、「ドリア」と「鍋」と、だいたい20種類ぐらいずつ。

お店はだから、その気になったら「40種類の料理を出す大きな店」にすることもできたんだろうけれど、そのお店は、あえて仕切りを入れたのだと思う。

普通の人の普通の楽しみかた

恐らくは「普通のお客さん」は、典型的な楽しみかたをしたい。

たとえば異国のお祭りに迷い込んだところで、「普通の人」はたぶん、それを楽しめない。異国なんだから、何を見たって珍しいのだし、自分が面白いと思ったものを楽しめればそれで十分なんだけれど、普通の人にとってはたぶん、「自分が楽しい」ことよりも、「みんなと同じ楽しみかたができた」と納得することのほうが、もっと大切。

40種類のメニューを持った大きなお店は便利だけれど、そのお店を、普通の人が、じゃあどういう楽しみかたをしたらそれが「典型」なのか、大きなお店は分かりにくくて、たぶんお客さんは、「普通に楽しんだ」満足感を味わえない。

賑やかでなんだか楽しそうなんだけれど、どこから楽しめばいいのか分からない、こういうのはたぶん、「楽しみたいように楽しめる」ような、「強い」人には居心地いいんだろうけれど、「普通の人」は、たぶんマニュアルを渡されて、それをなぞって「はい楽しんだよね」って言われないと、楽しいとは思えない。

「顧客から見た風景をシンプルにして、分かりやすい楽しみかたを提供する」ことが大切なのだと思う。「何でもあり」を楽しめる少数に向けたサービスは、どこかでしぼんでしまうような気がする。

ニコニコ動画が複雑になった

ちょっと前のニコ動は、好きな単語を検索して、再生数の多い動画を楽しんで、タグをたどって面白そうな動画を探して、大体みんな、そんな風に楽しんでいたみたいだったから、安心だった。

今はなんだか、「いわゆるニコ動」以外にも、生放送とか大百科、コミュニティ、いろんな楽しみかたが提案されて、それぞれ連携して、便利になって、多様になって、結果として、「自分はたぶん真ん中を楽しんでいる」なんて、そんな安心感が遠くなった。今までどおりに遊んでいるのに、なんだか不安な気分。

これが文化祭とか、あるいは実世界でのイベントなら、たとえば「順路を回る」とか、「好きな歌手のコンサートを聴く」とか、主催者側はたいてい、「典型的な楽しみかた」というのを提示する。お祭りを楽しみたい人は「祭の正門」をくぐるってパンフレットを受け取るだろうし、コンサート目当ての人は、たいていは看板が立っていて、中庭のステージ前で待機していれば、そこでコンサートを楽しめる。

「普通の人」はたぶん、自分がそこを楽しむよりも、むしろ「みんなと同じ」を志向して、びくびくしながら「群れの真ん中」を探す。「いつも真ん中」感を提供しようと思ったなら、だから「たくさんの選択肢」を提供するよりも、むしろ「たくさんの門」を提供して、「つながり」は、バックグラウンドで提供したほうがいいような気がする。

今みたいな「何でもあり」の賑やかな入り口ページは、やっぱり難しい。

たとえば「いわゆるニコ動」を楽しみたい人なら、Google みたいな検索窓と、カテゴリーごとのタグで十分だし、「ニコニコ生放送」を楽しみたい人に向けたページなら、やっぱりそれはテレビの延長なんだから、入り口ページを開いたそのとたん、「世界の生放送」が勝手に始まるぐらいでちょうどいいんだと思う。コミュニケーションのページなら、そこはmixi そっくりのページレイアウトでいいわけで、たとえそこでやりとりされるのが動画サイトの話題とはいえ、コミュニケーションを提供するページからは、あえて動画を隠すぐらいでいいんだと思う。

ページを開いて、開いたそのとたん、「どうすれば典型的に楽しめるのか」が視覚的に提供されて、はじめてたぶん、普通の人は「楽しみかた」を理解できて、理解を提供できないサービスは、それがどれだけすばらしいものを提供していても、やっぱりどこかで天井に突き当たる気がする。

あくまでも「自分が典型的な普通の人」であることが前提での印象なんだけれど。

2009.11.05

ガタがあるからうまくいく

先週の日曜日には、熱を出した子供さんが100人近く来た。休みが明けて、外来が始まって、 もちろん「それ以上」を覚悟していたのだけれど、外来は、平和なままだった。

インフルエンザはたしかに流行しているんだけれど、パンク寸前の休日外来は、 みんな「休みだから」病院に来てたわけで、「熱が出たから」病院に来た人は、実は案外少なかった印象。

遊びが減ってこうなった

社会から「遊び」要素が減って、平日にみんな、休めなくなった。

土日をずらして営業していた病院というのもあって、一時期はうまく機能していたんだけれど、結局みんな止めてしまった。土日外来の収益自体はよかったのだけれど、世の中が土日休みで回ってるから、役所とか学校とか、「平日」を要求する場所がシビアになって、スタッフに子供ができると、組織が瓦解しちゃうんだという。

世の中の遊びが減って、しわ寄せが、緊急避難装置的な場所に集まって、結果として、救急外来のパンクとなって現れてる。誰が悪いというわけではないんだろうけれど、遊びを「無駄」だと断じる文化が、こうさせたのだとは思う。

AK-47にはガタが多い

世界の兵士に愛用されるAK-47 というライフルがあって、AKは、部品どうしのはめ合わせは遊びだらけで、部品はどれも、けっこう重たい。

見た目の精度感みたいなものとは無縁なんだけれど、AKはその代わり、ガタが多いからホコリに強くて、どんな状況でも、少ない手入れでよく動く。部品が重たいから、銃弾を動かす力もそれだけ強力で、弾が少々凹んだぐらいなら、AK-47は、弾詰まりを起こすこともなく動作する。

AK-47の「ガタ」とか「重たい部品」は、それを設計したカラシニコフに言わせれば、最初からそういうように作ってあるものなんだという。これをたとえば、より精密に「改良」したところで、改良されたその製品は、たぶんオリジナルより悪くなる。そこにどうしてガタがあったのかを考えないで、「前より厳密」を、無批判に「いいことだ」なんて努力する人たちには、AK-47 は一生かかったって作れない。

厳密を、単純に「いいこと」なんて断じると、AK-47はたぶん、砂粒一つ噛みこむだけでで動作を止める。「厳密に改良された」ライフルで戦って、兵士がみんな、動作不良で殺されたところで、努力の好きな人たちは、「やるべきことはやった。しかたがなかったのだ」なんて、満足そうに敗北をふり返る。自分たちのせいなのに。

うまく回ってた何かに「無駄」を見つけ出して、それを「改良」したとのたまって、むちゃくちゃになった現場からは目をそむけつつ、勝利宣言して尻まくる人たちって、幸せそうだなといつも思う。

精度を出して系が死ぬ

AK-47をコンサルタントに手渡して、「これをもっと高性能にして下さい」なんて問題を出したらいい。少なくとも、ガタをなくす方向の改良を提案した人は、AK-47で射殺されるべきだと思う。

「精度を追求した帰結として系が死ぬ」現象というのに、何かもっともらしい名前を付けて、世の中にもっと周知してほしい。トヨタの「カンバン方式」にしてから、あれはたぶん、「無駄とり」なんかじゃなくて、もっと別の理由があって、ああいうやりかたにたどり着いてる。

「個々の部品が完璧な動作をすることで、系としての動作が完璧になる」なんて考えかたは迷信であって、むしろ「個々の部品に最大の自由度を与えつつ、系としての動作を一定に保つような制約をデザインする」ことを目指さないといけない。世の中で成功している多くのプロダクトが、たぶんこうした方針に沿っているのに、それはしばしば、「改良」が好きな人から見れば、「無駄の多い」ものに見えて、「改良」を受けた結果として、いろんなものに不具合が波及する。

個々のその場所を「よく」することそれ自体は、正義どころか悪徳なんだと思う。「全体の良さ」につながる改良は、むしろしばしば、どこかを「悪く」、「いいかげんに」することで達成される。

その代わりたぶん、「無駄の多い平凡なもの」を開発するには、莫大な人的コストがかかる。それはたとえばAK-47だし、米軍のジープだとか、補修用のダクトテープなんかもそうだけれど、ああいうのは、誰かのアイデア一発で生み出されたものでは決してなくて、実際には、プロダクトには莫大なコストが投じられて、長い開発期間がかかってる。

「必要なガタ」を備えた、ロバスト性の高いプロダクトを生み出すためには、たくさんの人的資源を擁する大きな組織が必要で、そういう場所は、しばしば高機能高精度病に侵される。「一見平凡に見える非凡なプロダクト」は、だから組織を強力にガバナンスするリーダーがいて、フォンブラウンとか、デヴィッド・カトラー みたいな、「大組織を束ねる独裁者」と、独裁者を支えるたくさんの技術者とがそろって、初めてたぶん、そうした製品が作られる。

平凡なのに、何となく広く使われる、「 これ以上改良の余地がない中途半端さ」を備えたプロダクトの裏側には、たぶんすごい物語が隠れてる。それを読めない人は、そもそも「改良」になんかかかわってはいけないのだと思う。

2009.11.02

努力は報われないほうがいい

現在進行形ですごい状態にある人を見て、「僕も頑張ってああなるんだ」なんて、 その人と同じやりかたで、同じ場所を目指して頑張るのは、危険なことだと思う。

何かの間違いがあって、頑張ったその人の成功を許してしまった業界は、その時点で詰んでしまうから。

承認のコストがつり上がる

同じ方法論で頑張った人は、どうあがいたってオリジナルのコピーにしかなれないものだから、 そういう人は、ものすごく頑張る。頑張った人が、「頑張り」に見合った承認を求めると、 世代を重ねるごとに、「頑張り」のコストはどんどん上がる。

業界のどこかで「すごい」を観測したのなら、その人と同じやりかたを重ねるのではなく、 「もっと簡単にあそこに到達するにはどうすればいいんだろう」なんて考えないといけないし、 それでも「頑張り」以外の答えが出ないなら、「すごい」その人たちがいなくても何とかなるように、 仕事のやりかた自体の書き換えを目指すべきなんだと思う。

「僕も頑張るぞ」というのは、危険な選択だと思う。

一度「頑張り」の魔界に足を入れると、もう後戻りができない。 頑張ったあげくにどこかに到達したとして、頑張りの元を取れなかったら失敗判定される。 「頑張り」というのは本来、ものすごく分の悪い賭けであって、「頑張るぞ」という選択は、 だから地雷原にあえて足を踏み入れるようなものなんだ、と理解しないといけない。

個人の体験が一般化する

頑張った結果として成功した人が、次世代に頑張りを「正解」として伝えると、業界が終わる。

教育をする人たちは、研修医には、「頑張る前に、それが本当に必要なのかどうか考えなさい」なんて 教えてほしいなと思う。

「とりあえず頑張る」というのは本来、保身の手段であって、成功の手段とは違う。

誰かの天才的なひらめきを見たら、それを「天才」と評するのは思考停止であって、 「凡人」を自覚している競合者は、同じような発想に、力ずくでたどり着くやりかたを考える。 天才抜きでも同じ結果を出せるような、そんなやり方が示されて、 初めてそこで、「頑張る」意味が見えてくる。

「漠然と頑張る」ことで成功した人というのは、たしかにいる。でもそれは、 やっかみ10割で言ってみれば、誰か高齢の、偉い人たちの視界に入り続けることで、 組織にとって「かわいい」人間となり、上に引き上げてもらうための、一種の処世術であったはずなのに、 「頑張った」人たちが、「僕たちは頑張ったから報われたんだ」なんて賢しげにつぶやくのは、 それはもう、後続を殺すための欺瞞情報なんだと思う。

「俺は偉くなるために年寄りの尻舐めたんだ」って威張るのは、むしろ大いに「あり」だと思うし、 そういうことを包み隠さず話してくれる人の言葉はとても大切なんだけれど、 「じじいの肛門を吸引すると元気が出るぞ」って後輩に教えたところで、 それを実践した下級生は、たぶんみんな病気になって倒れてしまう。

伝統芸能が証明されると業界がダメになる

自分たちの暮らす医療という業界が、「やっぱりあったけぇのが一番だよ」みたいな、 年寄りの価値観的なものに収斂していって、統計屋さんがそれを覆すどころか、 「暖かいやりかた」を強化する方向にすり寄ってるのに、すごく嫌な予感がする。 それをやられると、臨床が続けられない。

「名医ならば一目で分かる」的な、昔ながらのやりかたというのは、 それが再現できたらたしかにすばらしいんだけれど、それが統計的に「正しい」やりかただと証明されて、 それを常に再現するように求められたら、困ったことになる。自分は名医にはなれないから。

「名医なら余裕で分かる」が真になってしまうと、逆説的に、 「診察して分からなかったら名医でない」なんて、あるいは「診察直前までは名医でいられる」なんて価値を生む。 これは結果として、「診察しない名医」とか「逃げる名医」を増やしてしまう。

古い価値軸が統計で固められてしまうと、成功事例が収斂する。

「最初に診察したバカ医者を、あとから来た名医が口でたしなめる」というやりかたが 成功すると、リスク抜きに成功をつかむやりかたが決定して、 みんながそれを再現する。「名医」であり続けたい人は、そんな場所に自らを置こうと 立ち回って、実際問題、分からない患者さんを抱えると、 相談しても「分かってから相談して下さい」なんて、 「専門的意見」をもらうことが増えている。

昔のカブトムシは空を飛べた

統計野郎が業界のベテランにすり寄るちょっと前、自分が3年目ぐらいだったころ、 救急外来は大賑わいで、病院どうし、患者さんの奪いあいだった。 どこの病院も救急を受けて、救急外来はお互いに覇を競って、毎晩がお祭り騒ぎで、そこには医師があふれてた。

「名医のやりかた」が統計で固められて、「とりあえず何とかする」乱暴なやりかたは、 いつの間にか統計的に間違いであるなんて「証明」された。

「カブトムシは航空力学的に飛べないことが証明された」なんて、虫が飛んでるのを見れば、 嘘だってすぐ分かるのに、うちの業界だと、何とかしている奴らが「間違ってる」ことになった。

「飛んだら間違いだ」なんて言われたら、虫もたぶん地面を歩く。 何したって「間違ってる」とか言われたら、もう仕事ができない。 今から8年ぐらい前から、だから救急外来には、「診たら負け」なんて信じられない言葉が飛び交って、 救急車は行き場を失って、救急外来に立つ人は、一気に減った。

第一世代の「達人」は、本当に達人だったんだけれど、その超人的な正しさを、 「統計的に裏付ける」ことを許してしまったことは、致命的な失敗だったんだと思う。 達人は再現不可能で、達人抜きでも同じ結論にたどり着くやりかたを編み出して、 それを検証することこそが、統計屋さんの仕事だったはずなのに。

医療は実質吹き飛んでる。

原因はいろいろだけれど、つまるところは、これは当時の達人が、 尻舐めにすり寄ってきた統計野郎を皆殺しにしてたら、世の中こうはならなかったんだと思う。 エクセル以外に友達のいない、さみしい大学時代を送った根暗な奴らが、世の中に復讐しようと 「頑張った」結果として、復讐は達成されて、業界は焦土になった。

じゃあどうすればいいのか

自分は「頑張るという文化」それ自体が間違いだ、と思っていたんだけれど、 「自分の生きていく世界で「頑張る」こと自体は幸せなことだと思うし、「頑張る」方法が間違うのはしょーがなくて、そこで競争すればよくって、頑張るなというのは違う 」 という指摘をいただいて、反論できなかった。

で、じゃあ今度は、顧客を志向した、公正なルールなら、統計野郎を打ちのめせるのかといえば、 やっぱりあんまりそんな気がしなくて、 今度は「払った犠牲と得られた結果が比例するとき、人は嫉妬しないんですよね。要領よくやって、少ない努力で大きな成果を得る人に対して、人は嫉妬する」なんて指摘をいただいて、 たしかに系の嫉妬を最小化するやりかたとして、 えらい人のたどってきた歩みをそのまままねるというのは、 その先に滅びがあるんだとしても、局所的には正解なんだな、とも思った。

どうすればいいんだろう。