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2009.09.26

「これはこういうものなんだ」体験のこと

まだ運転免許証も持ってなかった学生の頃、夕方遅く、すでに乗用車を乗り回していた同級生の 「トヨタカローラ」に乗っけてもらった。

昔も今も、カローラは「あって当たり前」を目指してる車であったはずなのに、 ダッシュボードに光るメーターと、田舎の夜景とが重なって、なんだか一瞬、 その光景がSF映画にダブった。

「要するに、乗用車を持つということは、どこにでも行ける自分だけの空間を持つということなんだ」なんて、 一人勝手に納得がいって、その時初めて、車というものが心からほしくなった。

ゲーム機のこと

「快適さ」というパラメーターにも、住宅みたいな階層構造があって、 「地盤の脆弱性」みたいな下位レベルの問題を、たとえば「家具の配置」みたいな上位レベルでの努力では 取り返せない。

据え置き型のゲーム機は、やっぱり昔ほどには売れていないらしい。ファミリーコンピューターの時代から見れば、 今のプレイステーションなんて夢の機械になったのに、そこでどれだけ魅力的なソフトを販売しても、 「ゲーム機のある場所に行って、スイッチを入れる」という工程から、据え置き型ゲーム機は自由になれない。

携帯ゲーム機だとか、携帯電話が当たり前になっている世代の人たちにとっては、 たぶんゲームとか、インターネットというものは、「思い立ったらもうそこにあるもの」だから、 そういう人たちにとっては、「ゲーム機のある場所に行く」という一手間が、どうしようもない「地盤の脆弱性」 に見えてしまう。

内装をどれだけ立派にしたところで、基礎がグラグラの家には人が住まないように、 据え置き型ゲーム機がどれだけ高性能に進化したところで、携帯電話世代の人たちを、 据え置き型ゲーム機の世界に引っ張り込むのは難しいんだと思う。

動作の意味を書き換える

たぶん「○○は、要するに○○なんだよ」という原体験が、自動車でも、据え置きゲームでも、 携帯ゲームでも、あるいはインターネットでも、あらゆる「メディア」に存在するのだと思う。

デスクトップPC から入った人と、iモードが当たり前にあった世代の人とは、 同じ「インターネット」というメディアを挟んで、しばしば話が通じない。

「寝室から3歩歩いて電源を入れる」ことなんて、モデム接続の昔を知っている人から見れば、 今のやりかたは「進歩」なのに、携帯電話世代の人から見れば、それはたぶん「基礎の脆弱性」に思えてしまう。

見えかたが異なれば、同じ一手間が「進歩」にも見えれば、「致命的な欠陥」にも見える。 恐らくはだから、「これはこういうものなんだ」というメディアの見えかたみたいなものを書き換えれば、 欠点は欠点でなくなるし、意味の書き換えができなかったメディア、 あるいはそれを怠って、代わりに「高性能化」の方向に舵を切ったメディアというのは、 業界ごとしぼんでしまうのだと思う。

こうなってほしい

  • たとえば「自動車」というメディアには、「コンテンツ生成装置」になってほしい。どこかに行くこと、 移動することそれ自体が、インターネットに文章を書くのと同じような、「発信」になるような
  • 乗用車はたぶん、単なる移動の手段であった昔から、一時期はコミュニケーションの手段というか、 個人の考えかただとか、社会的な立場を表すための手段として普及してきた時代があった
  • 今の「自動車離れ」という現象は、たぶんネットというコミュニケーション手段が生まれて、 「表現手段としての自動車」という場所が、インターネットに浸食されてしまったからなんだと思う
  • トヨタ自動車みたいな、業界を牽引する会社は、だから日産やホンダを相手にしてはいけないし、 「高性能な車」なんて作っちゃいけないんだと思う。むしろ「移動という意味」だとか、「乗用車である意味」みたいな ものを書き換えて、Amazon みたいなコンテンツ販売業者だとか、 mixi みたいなコミュニティが持っている「メディアの意味」を、率先して浸食していくべきなんだと思う。
  • メディアには縛りがある。そこを「乗り越える壁」としてでなく、「長所」として前に押し出せないメディアは滅ぶ
  • 自動車が「移動」、「実世界にあるどこか」にしか行けない、ということに縛られるように、 携帯電話はたぶん、「実際の知りあいとしか会話ができない」ということに縛られる。 もちろん技術的には十分可能だけれど、全然見知らぬ他人と毎日何百人も会話するなんて、 電話を使った音声コミュニケーションだと、ちょっと考えにくい
  • コミュニケーションという機能は、だから「電話の束縛」なのであって、より広いコミュニケーションを志向する方向に作り込んだら、携帯電話はしぼむ気がする
  • たとえばこれが「ネットワークRPG」なんかだったら、全然知らない人と、その場で「戦友」になれたりだとか、 見知らぬ他人が何百人も集まって、ネット世界でお祭り開いたりだとか、実世界とは比較にならないぐらい、 広いコミュニケーションが行える
  • 「携帯ゲーム」はたぶん、「コミュニケーションに新しい意味を与える道具」となって、 携帯電話の意味を浸食していく。携帯電話はコミュニケーションに縛られると、たぶんゲーム機に喰われてしまうから、 むしろ「実世界」という縛りを生かして、「実世界に別の意味を付加する道具」になってみたり、あるいは 「実世界の知人としか会話ができない」という縛りを生かして、「個人を実世界ネットワークに接続する道具」を 目指すべきなんだと思う
  • たとえばそれは、携帯電話の「目」を通じてお店を見れば、「ここの店員最悪」とか、「○○ランチは頼んじゃダメ」とか、 そういうタグがたくさん見えることであったり、あるいはまた、誰か友人から電話が入ると、自分の居場所、 相手の居場所、自分が今ほしいものとか、自宅の冷蔵庫にある野菜一覧みたいな情報も同時に送信されて、 「そこにいるなら、ついでに○○買ってきて」みたいな会話がその場できるような機能であるとか
  • 据え置きゲーム機は、高性能になって、異世界を細部まで作り込むのが、結果として得意になった。 異世界というのは「ここでないどこか」であって、「ここでないどこかに行く」という行動の先には、 たぶん「海外旅行」がある
  • 海外旅行という体験は、視野から聴覚から、あらゆる体験が、普段なじんだ世界と置き換わる。 実世界なんだけれど、そこはなじんだ空間とは別の場所で、「ここでないどこか」を体験したくて、 たぶんみんな海を越える
  • 「感覚を全部別の何かで置き換える」メディアを作れば、それは海外旅行というメディアを 浸食することができる。 「顧客の視野を全部乗っ取る」ことを、 すごく大規模にやって見せたのがディズニーランドで、たしかあの場所は、 顧客から見える風景というのをすごく大切にして、他の風景を巧妙に隠したり、 建物に錯視の原理をとり入れたりしている
  • 「感覚を全部乗っ取る」こと、日常世界との断絶を演出することが、 ゲームの次を想像するときには必要で、個人的にはやっぱりドームディスプレイがほしい。 以前サンシャインプラネタリウムで見た、ドーム映画の没入感には、本当にびっくりしたから
  • たとえば全周スクリーンのあらゆる方向から、人間ぐらいの大きさのゴキブリの群れに囲まれて、 足下見下ろせば子供の腕ぐらいはあるヒルがびっしり、絶望して天井見上げたら、 上には巨大なクモの口が…なんて体験ができたら、子供さんの一生の思い出になると思う
  • 「一般家庭にドームを置く」ために、今度はまた、据え置き型ゲーム機は、別の何かを浸食しないといけない。 WiiFit が、「家庭に板を置く」ために、ライバルとして体重計を想定したように、 家にあっても不思議じゃない、「ドームっぽい何か」を置き換えるような
  • こういうのはたぶん、「スーパーマーケット」だとか「病院」だとか、そういうものもあまねく「メディア」なのであって、 自らの「こういうもの」という意味に、みんなもっと自覚的になると、世の中きっと面白くなる

2009.09.25

スマートフォンが消し去ったもの

今さらなんだけれど、新しく購入したHT-03Aという携帯電話を、このところずっと使っている。

前使っていた携帯電話は、機能なんて何もついてない、文字通り「携帯できる電話」だったものだから、 スマートフォンのちょっとした機能に、いちいちびっくりする毎日。

Palm を使っていた

大学病院で働いていた頃は、Palm という携帯コンピューターを使っていて、 メモ代わりにしたり、患者さんの情報を入れておいたり、あるいはblog の原稿をちょこちょこ書いたりしていた。

Palm は面白くて、同業者の中でも、自分は相当熱心に使い込んでいたほうだと思うんだけれど、 職場が変わって「これでないと」という場面が減って、結局面倒くさくなった。

その面倒くささの根っこにあったのは、「同期」という操作だったのだと思う。

たとえば「今日時間があったときに読もう」なんて思った文章は、Palm でそれを読もうとしたら、 自分のノートPC から、いちいち同期しないといけない。文字を読むのは素早くできて、 転送するときに、大まかな内容は読めてしまうから、せっかく文章を転送したところで、そのときにはもう、 読む気力がなくなってしまう。

Palm にはずいぶん慣れて、比較的長い文章も打てるようになっていたんだけれど、文章を作って、 PC にそれを同期して、ネットに載せるには、さらにそこから文章を加工しないといけなかった。昔は実際に そうしてたんだけれど、「一言」のメモならTwitter に書き込めば一発だから、結局Palm を持ち歩く機会は減って、 今でもノートPC の隣には Tungsten|c というPDA が置いてあるのだけれど、もう久しく電源を入れていない。

スマートフォンが消し去ったもの

全世界規模の無線インターネットインフラ、速いCPUに、大画面の新しい携帯電話という、 初期のPalm に比べれば恐ろしく大がかりな、やりかたは正攻法なんだけれど、力技的なスマートフォンが 追放したのは、そもそもが一手間でしかなかった「同期」という操作だけなんだけれど、 たかだかそれだけのことで、生活は大きく変わった。

「手のひらサイズ」で全部やるのは無理だった昔、Palm という機械は、 「親PC との同期」という考えかたを導入することで、 「手のひらサイズのコンピューター」という夢を、ずっと低コストで達成した、本当に画期的な商品だった。

Palm 界隈は結局しぼんでしまったけれど、ほんの少し前、 それでもPalm をはじめとした手のひらサイズのコンピューターにはたくさんのバリエーションが発売されて、 ごく初期の頃に発売されたPalm から、PDA のブームが一段落する頃に発売された Tungsten|c まで、 機械はずいぶん高性能になったのに、「同期」という操作だけは、変えられなかった。

使いはじめた当初、Palm は本当に面白い道具だったし、「同期」にかかる時間だって、 別に長いものではなかったんだけれど、Palm がどれだけ高性能になっても、 ネットから何かをとり入れて、作った何かを再びネットにアップロードするときには、 どうしても「同期」という一手間が必要で、Palm がどれだけ精密に、高性能になっても、 やっぱりあんまり変わらなかった。

今度買ったHT-03A というスマートフォンは、全盛期のSony が出してたClie なんかに比べると、 あんまり精密でないというか、どこかおもちゃっぽいし、Tungsten|c なんかと比べれば、 質感も、キーボードの使い勝手も劣っているんだけれど、もう戻れない。

快適さの階層性について

家の家具をいくら工夫したところで、基礎の脆弱さをカバーすることはできないように、 「快適さ」というものにも階層性があって、ある階層で生じた不快は、 それよりも上位の階層でどれだけがんばっても、挽回することはできないような気がする。

Palm の登場は、たしかに画期的だったのだけれど、「同期」という、 どうしても避けて通れない操作を追放するのが難しくて、いろんなメーカーが、 高機能なPDA端末を投入したんだけれど、やっぱりそれは快適さにつながらなかった。

スマートホンになって、今久しぶりにHTML ファイルで勉強ノートをアップロードしたんだけれど、 個人的にはそれをすごく気に入っている。

今までも、LaTeX で作ったマニュアル類は全部HTMLで公開していたんだけれど、 Palm でHTMLファイル を読むのは大変だったし、内容をPCで更新しても、結局それを、 Palm に転送しないと読めなかったから、 いろんな文章を作った割には、それを自分で使う機会というのは少なかった。

スマートフォンになって、ネットに上げた自分のマニュアルは、そのまま手元のスマートフォンで読める。 文字しかないから、細い回線でも十分快適だし、索引ページの単語をタップすれば、必要な情報に飛べる。 うちのページからなら、誰だって同じ経験ができるんだけれど、Palm を手に入れた頃、 こういうのを夢見て上手くいかなくて、 やっとそれが自分の手でできるようになると、ずいぶんうれしい。

スマートフォンを買ってから、お布団でごろごろしながらインターネットを見る機会が増えた。

寝室の布団から出て、「ほんの数歩」歩けば、Core i7 に光回線をつないだデスクトップPCがそこにあるのに、 今はなんだか、布団にくるまってごろごろしながら、無線LAN にショボいCPU、小さな画面で、 そんなに「我慢している」という感覚を覚えることなく、遅いネットを楽しむ。

こういうのもたぶん、「n-clickを1-clickにすると商売になる。1-clickを0-clickにすると革命になる」という言葉に連なる現象。 「1-click」に相当するのは、「布団から出て3歩歩く」ことであって、革命と言っても、 起きたことは「お布団に潜ったままでインターネット」なんだから、それはずいぶんとだらしないものなんだけれど。

恐らくは自分が今体験している快適さというのは、iモード携帯電話を使っていた人たちにいわせれば、 たぶんその人たちが8年も前に通過した場所なんだろうけれど、「携帯電話でインターネット」が 当たり前という文化に育った人、「そこまで行く」面倒くささを解消してしまった携帯機になれてしまった人には、 デスクトップPC で見るインターネットだとか、据え置きゲーム機で楽しむテレビゲームは、 そこに行くだけのほんのわずかな手間が、恐らくは我慢できない煩雑さに見えてしまうんだろうと思う。

機械がどれだけ高性能になったところで、「数歩」の煩わしさを乗り越えることは、きっと難しい。

2009.09.22

Web 版病棟マニュアル

休みを利用して、内容を一部改めました。

  • 神経内科領域の記述を増やしました
  • 索引を強化しました
  • 削った記載も多いのですが、いろいろあって、結局10ページぐらい増えました

スマートホンが使える人は、あるいはWeb 版を使ってもらうと便利かもです。

文中に出現する症状と薬については、大体全てインデックス化しました。 ページの上下にあるナビゲーションボタンの中から「Index」 に飛ぶと、 索引ページにいけます。

ページ内リンクについては上手く飛べないものがたくさん入っていますが、 索引ページからのリンクは、大体ちゃんと張られていると思います。

HTML 版マニュアル

PDF 版マニュアル

2009.09.20

犬族の経時変化について

昔撮った写真いろいろ。

2007年3月

近所で5頭の子犬が捨てられていて、「売れ残り」になっていた子をもらってきた。「あふか」と名前をつけた。

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2007年4月

ワクチンを打って、外に出られるようになった頃。羊みたいだった毛並みが少しだけ犬っぽくなった。

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2007年5月から7月頃

4月下旬頃から毛の生え替わりが始まった。子犬の毛が全て抜け落ちて、成犬の毛に生え替わる時期だったんだろうけれど、体の形がまるで変わってしまって、近所の人からえらく心配された。

毛並みは大体、2ヶ月ぐらいで今の毛並みに生え替わって、以降はもう伸びる一方になった。

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2008年6月

前の年の秋頃には、大体今の毛並みになった。子犬の顔立ちだったのが、この頃からだんだんと鼻が伸びてきた。

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2009年8月

ごく最近のあふか。毛が伸びた。

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九尾の狐を目指してる。

2009.09.07

神話としてのアンパンマン

ハッヒフッヘホー。アンパンマン、腐敗と発酵の違いを知っているか?」

大体このへんから始まった、一連のおしゃべりをまとめた。

バイキンマンからこんな問いを投げかけられて、アンパンマンはたぶん、 答えを見つけられないはず。正義というのは本来、「悪役」なしには存在できないから。

妄想:アンパンマンは山の神様だった

原作だとこのあたりは、アンパンマンの本体は、ジャムおじさんのパン種に飛び込んできた星みたいな何かで、 バイキンマンは異星人だけれど、このあたりはあくまでも、人間の側から見た事実。

物語の序盤に、 「アンパンマンとバイキンマンは元は同類の存在であったが、片方はイースト菌で食用に、もう片方は雑菌が繁殖し出来損ないとして廃棄された」なんて設定を持ち込むと、 印象がずいぶん変わる。

焼かれる前のアンパンマンとバイキンマンは、恐らくは山の中に「パン種」として存在していた。 ジャムおじさんの介入を受けることなく成長していたら、彼らは山の神様として、 人の世界に定期的に出現しては、食料と災厄をもたらす存在、 制御された神の化身がアンパンマン、制御しきれない荒魂がバイキンマンという、2面性を持った、 典型的な日本の神様になるはずだった。

アンパンマンという物語では、神様の片割れが人にさらわれ、焼かれ、殺されてしまう。

ばい菌は発酵させたり殺したりして「食べられるようにする」、都合のいい状態にするというのが人間たるジャムおじさんの宿命で、そうしないと現代的な生活なんてできない。 「火を通す」という行為を通じて、「向こう側」にあった存在は作り替えられて、正義の味方として、 人の世界にとって都合のいい、暴力装置として働きはじめる。

バイキンマンから見れば、それは「同胞を殺された」ことに他ならないけれど、 人間の側からみれば、ジャムおじさんのオーブンから「生まれた」正義の味方は、 紛れもなく生きている。

アンパンマンという物語は、死者であり、正義の味方でもある、アンパンマンという存在を軸にした、 「神」と「人」との関係を問いかける。

バイキンマンは本気を出さない

神の世界に属するバイキンマンは、ある意味自然界そのものだから、一個の生命体というよりも、 台風とか山火事のような、自然災害に近い存在。そもそも不死だし、それに対して「戦う」なんて行為自体、 バイキンマンがよほど手加減をしない限り、成り立たない。

バイキンマンは「意志を持った膨大な細菌の群体」だから、いくらでも増殖できるし、 死というものがない。焼かれて生命を失った有機物に過ぎないアンパンマンでは、そもそも勝てない。

物語世界の中で、バイキンマンという存在は飛び抜けた力を持っていて、 アンパンマンがいくら頑張ろうと、バイキンマンが本気を出したら、世界は滅んでしまう。 人類はだから、戦っているのではなくて、バイキンマンの意志によって、生かされている。

ジャムおじさんに焼き殺されたバイキンマンの同胞は、焼かれる以前、 たぶん「正義になりたい」夢を持っていたのだと思う。

「正義」は恐らく、バイキンマンにとって最悪の形で実現したけれど、 正義はそれでも、焼かれた同胞の夢だった。バイキンマンはだから、正義になりたくて、 「焼かれて空っぽ」になったかつての同胞に、せめて夢だけでも見せようと願い、 世界の存続を決断したのだと思う。

似たようなお話が延々とループするアンパンマン世界を継続させているのは、 バイキンマンの哀しい優しさであって、バイキンマンは、 かつて同胞だったアンパンマンを焼いた人類を呪いながら、 頭を焼かれ、神としての存在を失った同胞の「夢」を守るために、 アンパンマンと戦い、負け続ける。

脳を焼かれて思考する力を失っているあんパンは、終わることのない日常をいぶかしむことなく、 今日も呼ばれては、笑顔でバイキンマンをやっつける。たとえそれが欺瞞であったとしても、 正義の味方のそれは夢だったから、物語は均衡状態を保ったまま、終わらない日常が続く。

アンパンマンマーチを作ったのは誰か

あの詩を作ったのはバイキンマンなんだと思う。

バイキンマンは人類を憎んでいるけれど、彼らを殺せない。

ジャムおじさんは、アンパンマンを焼き殺した張本人であると同時に、神から見れば「死んだ」状態にある アンパンマンの夢世界を構成する、大切な部品でもあるから。

バイキンマンにとって、あの世界は地獄に見える。自分は常に疎んじられて、 同胞は毎日のように自分を殺しに来て、絶対に勝てない戦いを強いられて、 それが永遠に繰り返す。

村の住人を皆殺しにするぐらいのことは簡単だけれど、 それをすると、バイキンマンの復讐が終わる代わりに、アンパンマンの夢も終わってしまう。

バイキンマンはたぶん、そこが地獄であっても、アンパンマンの暮らすこの世界が好きで、 たとえ形だけの存在になったとしても、同胞には幸せな夢を見てほしいから、 自分が自分でいられる間だけでも、悪役を続けて、 アンパンマンにとっての「正しい世界」を維持しようと頑張っている。だからあの歌詞になる。

「そうだうれしいんだ 生きる喜び たとえ胸の傷が痛んでも」

「アンパンマンのマーチ」を、「人が歌っている」と考えると、あれはなんだか、奴隷を使役する歌みたいに聞こえる。 歌詞の中には、アンパンマンに対する感謝の言葉が入らないし、アンパンマンを気遣う言葉も入ってこない。

何よりも、アンパンマンには「友達」がいない。

普段村人と親しく会話しているはずなのに、歌の中では「愛と勇気だけ」が友達とされる。

あの歌は、空っぽの中身に愛と勇気を詰め込んで、自らのアイデンティティのよりどころである悪と(本人の意志はともかく)戦い続ける日常を繰り返すための歌」であって、 アンパンマンに対する応援歌ではないんだと思う。

人から見ればおかしな歌詞も、これをバイキンマンによる、「殺された同胞を悼む歌」であるとするなら、 矛盾は無くなる。

物語の設定上、バイキンマンはこの歌が大嫌いで、子供がこれを歌っているのを聞くと、 全身がかゆくなるんだという。

同胞を殺して使役している人類が、、「自らの危険を顧みることなく、自らの存在に疑問を持つことなく、 今日も命がけで戦いましょう」なんて、アンパンマンに歌いかけているのを見れば、 憎しみで全身をかきむしりたくなるぐらいのことは、当然だと思う。

人類は進歩する

全ての元凶はジャムで、アンパンマンは正義を演じる愚かな操り人形、ジャムを除いて全てを知っている唯一の人物がバイキンマン、という構図に見えますね

あの物語はたぶん、バイキンマンが「終わらせよう」と思わない限りは永遠にループする。

物語に終わりをもたらせるのは、だから人類代表である「ジャムおじさん」で、彼は実際、着々と手を打っている。

神様世界の存在が、奇跡みたいな偶然で人間側に転がり込んできたのがアンパンマンだけれど、 ジャムはすでに、カレーパンマンを制作することで、奇跡の再現に成功している。

技術はさらに進化して、海外ではすでに、「量産型」の食パンマンが生み出さた。 ジャムおじさんはまた、メロンパン、ロールパンの制作を通じて、 「添加物によるクリーチャーの性格コントロール」にも、部分的な成功をおさめた。

適切な食品添加物を生地に加えることで、ジャムおじさんの工場は、もうすぐたぶん、 オリジナルよりも耐腐食性、耐候性に優れ、性格的にも従順な「神殺しの武器」を作りはじめる。

恐らくバイキンマンは、「終わり」が来るのを分かった上で、あえて何もしていないのだと思う。

技術を進歩させた人間は、いずれアンパンマンの助けなしでも神を殺せるようになる。 夢見るヒーローであるアンパンマンは、そうなれば、人類から解雇通知を突きつけられてしまう。

それは恐らく、バイキンマンの本意じゃないから、最後はたぶん、バイキンマンは覚悟の上での相討ちを試みる。 アンパンマンに自分を殺させて、一緒にアンパンマンを倒す。神は敗北するけれど、倒れるその瞬間まで、 アンパンマンの夢は覚めない。

もう一つの終わりかた

悪の象徴であるバイキンマンが倒された世界に、もはや正義の味方はいらない。最後の戦いで、 もしもアンパンマンが生き残ってしまったら、彼は今度は、人類を敵に回すことになる。

正義の味方が「味方」するのは、常に現状維持を望む人の側であって、正義というのはたいてい、 その世界で既得権を得ている人の利益を、そのままに保護することと結びついている。

現状維持を望む勢力における正義というのは、あらゆる変化を「悪」と認識する程度に頭が悪くて、 十分に強力な「正義の手先」であって、「正義が実現された望ましい世界」を自ら考え、 作り出すほどに強力になった「正義の味方」なんて、望まれない。

アンパンマンの頭には、だからあんこしかつまっていないし、時々頭ごと新品に取り換えられるし、 アンパンマンは1人しかいないから、「あんこにとって正義とは何か」なんて考える余裕もないぐらい、常に忙しい。

変革がなされ、「悪」のいなくなった社会において、仕事を失った正義の味方というものは、 「スタンドアロンで制御不能なナンセンスな兵器」 であって、社会はたぶん、アンパンマンの排除を望む。

村には大規模資本が入る。ショッピングモールと高速道路ができて、村は観光地になり、 アンパンは銅像と着ぐるみに置き換わり、パン屋は大いに栄え、そのくせたぶん、パンを焼く音は絶える。

管理維持コストが莫大な無添加アンパンは用済みになり、胴体は裏庭に捨てられる。

「アンパンマンのいらなくなった町」の山奥では、産業廃棄物置き場に捨てられた、 カビにまみれた胴体が町を見下ろして、復讐を決意するかもしれない。決意したとして、 彼はだったらどうすればいいのか、正義とはなんだったのか、分からないと思う。

用済みになった正義の味方は、あるいは自分が必要とされていた昔を望んで、悪役となり、追い詰められる。

物語終盤、顔も失い、包囲されたかつての勇者は、「ジャムおじさん、腐敗と発酵の違いを知っていますか?」と尋ねる。おじさんはたぶん、「アンパンは無添加に限る。腐って土に還るからね」なんて答えるのだと思う。

2009.09.03

同意獲得ゲームとしてのネットコミュニケーション

実世界でのコミュニケーションが、「合意形成ゲーム」であるのに対して、 ネットコミュニケーションというものは、「同意獲得ゲーム」なのだと思う。 ゲームの目的が違うから、おしゃべりの戦略は異なってくるし、ゲームが違うから、 ネットで支持を集めた言葉というものは、ネットの壁を越えて、実社会に浸透できない。

コミュニケーションの大きさと深さ

「2ちゃんねる」みたいな場所には、何となく、「話を聞いたら、それをもっと面白くしないといけない」という、 プレッシャーみたいなものが働いている気がする。

物事を分析する方向で「面白く」するのは大変だから、たいていは、「動物を見た」というお話が 「狼を見た」になって、「狼が襲ってくるぞ」に進化していく。 「ラーメン屋さんのスープが夕方になると塩辛くなる」理屈と同じで、掲示板みたいな場所に留まって、 そこにいる人たちからの同意を獲得しようとすると、話題はどうしても、「もっと濃い味付け」に向かってしまう。

おしゃべりだとか、伝言ゲームにも、「大きさ」や「深さ」の考えかたがある。

マスメディアは、莫大な数の視聴者に言葉を伝えるけれど、伝言深度はごく浅い。実世界でのおしゃべりは、 「大きさ」も「深さ」も小さいけれど、うわさ話が大規模に発生すると、言葉の大きさと、伝言深度とが、 それぞれ増していく。

ネット世間のおしゃべり、特に掲示板でのコミュニケーションは、伝言ゲームとして、 極めて深い、その割には小さな構造をしていて、たぶん話が極端な方向に動きやすい。

「ネット言論が極論に走りやすい」という現象も、場所によって、ずいぶん印象が変わる。 ニュースで問題視されているのは、「ネット」言論でなく、むしろ「掲示板」言論じゃないのかな、と思う。 いわゆる「ネット右翼」的な、陰謀論ありありの文章というのは、掲示板のまとめサイトだとか、 最初から陰謀論を看板にしている場所ぐらいでしか見かけない。

長文を扱える、blog を使ったおしゃべりは、 陰謀論的なものを書いても突っ込まれるだけだから、話題はどちらかというと分析的な、 「悪い人はいなかった」みたいな論調が増えて、掲示板文化圏からblog 文化圏を見ると、たぶん「サヨク」的に見える。

同意通貨が駆動する

ネット世間での振る舞いは、誰かの「同意」という通貨が駆動している。同意通貨をより多く獲得するため、 発信し、誰かを攻撃し、反撃する。通貨から自由でいられる人は、そもそも書かないし、 気にくわない言葉を読んでも無視するし、そういう人とは住み分ける。

掲示板文化圏で同意通貨を獲得するためには、前の人よりも「濃い」言葉を発信しないといけない。 時間軸で流れる掲示板というシステムは、だから時間とともに「濃い」発言が生き残るし、 極端に流れやすいし、極端な意見を重ねていかないと、参加者は、同意通貨を獲得できない。

Twitter という場所は、住人が違うこともあるんだろうけれど、言葉が濃くなっていく現象がおきない。 言葉の濃さよりも、むしろ独自性が同意に結びつく。誰もが漠然と「こうだ」と思っていることを、 上手に言語化した人が、その場に提出された同意通貨を総取りする構造だから、「極端なことを言う」 競争よりも、むしろ「上手いことを言う」競争が発生しやすい。

言葉の「うまさ」を可視化する、「ふぁぼったー」みたいな仕組みだとか、 あるいはスラッシュドットみたいな、 言葉に重み付けを行う仕組みを2ちゃんねる に導入すると、たぶんあの場所の「言論」みたいなものは、 ずいぶん変わるのだと思う。

実世界は合意形成ゲーム

実世界のコミュニケーションは、合意を形成するために行われる。同意獲得ゲームと、 合意形成ゲームとでは、ゲームの目的が違うから戦略が違うし、同意獲得ゲームの強者は、 必ずしも合意形成の名手にはなれない。

実世界には傍観者がいない。合意通貨が存在しない。コミュニケーションは、 お互いの「歩み寄り」という、価値の交換を介して行われる。より少ない歩み寄りで、 相手から多くの妥協を引き出した上で「合意」を獲得することが、合意形成ゲームの目的になる。

合意形成ゲームにおいては、相手から見て、こちら側が「歩み寄った」という感覚が、振る舞いを駆動する。 どれだけ切れ味のいい、鋭い議論を展開したところで、言葉を発する側が歩み寄る気配を見せなかったら、 合意は形成されない。言葉の鋭さは、合意形成ゲームには、あまり役には立たない。

たとえば麻生総理や小沢一郎みたいな有名政治家の人が、自分たちの側に一歩進んで握手を求めてきたら、 たぶんたいていの人は驚く。驚いた分だけ、今度は自分たちの側から、それに等しい価値の「歩み寄り」を 支払わないと、帳尻が合わなくなる。政治家はだから歩くし、握手をするし、頭を下げて、そうしたささいな 振る舞いが、とてつもない重さを発揮する。

ところがこれが、選挙に出たての、誰も知らない候補者が握手を求めてきても、自分たちはたぶん、 その行動に価値を感じない。駆け出しの、若手候補が有名政治家に等しい価値を生み出そうとしたら、 彼らはだから、汗だくになって走らないといけないし、有名政治家が自動車に乗ったら自転車で、 彼らが自転車に乗ったら歩いて、相手以上に「歩み寄り貨幣」をばらまかないと、支持は得られない。

小沢党首の泥臭い選挙戦略は有効に機能して、一方で、ネットで支持を集めた自民党の言葉は、 選挙には、あまり役に立たなかった。自民党は、もしかしたらたくさんの同意通貨を集めたかもしれないけれど、 選挙というのは合意形成ゲームの勝者が勝つルールだから、選挙には負けた。

ネットは実世界を動かせない

ネット世間でたくさんの同意通貨を獲得した議論、「民主党が勝つと中国が攻めてくる」みたいな議論は、 実世界でそれを聞いた相手を説得する役には立たない。極論を喋っている人にとっては、 同意通貨を大量に獲得したこのお話は「真実」であって、歩み寄る余地が存在しない。歩み寄りのない 言葉は、合意を生まないから、世間は動かない。

宣伝の技術を駆使した、ヒトラーみたいな人物にしてからが、駆け出しのナチス党員として入党した頃は、 泥臭い合意形成ゲームに勝利することで、ナチス党という世界の中に、 自分を支持してくれる小さな場所作るところから始めないといけなかった。

ナチスドイツは、「宣伝が上手だったから」ドイツを支配したわけではないんだと思う。

ヒトラーは自分の考えを、「国民を宣伝で支配する」というところまで、「我が闘争」にきちんと書いて公開していたし、 ナチス党と当時のドイツ与党と、どちらが勝つのか分からない時点では、ナチスがメディアを支配していたとか、 全てのメディアで朝から晩までナチスの宣伝番組が流れていたとか、そういうことはなかった気がする。未検証。 ナチスだって単なる野党で、きちんと選挙の手続きを踏んで、たぶん最初は、泥臭い、 合意形成ゲームを与党に挑んで、勝ち上がってはじめて、宣伝という同意獲得ゲームに駒を進めたのだと思う。

ネットと実世界とを接続する道具として、たぶん「発見された物語」というのが鍵になる。