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2009.06.30

こんな車がほしい

自動車のフロントガラスを透過ディスプレイにして、外の風景に、カーナビの位置情報と速度情報、 インターネットのコミュニケーション情報とを重積できたら、きっと面白い。

つぶやく車

  • カーナビに字幕機能をつけて、半径50m以内の「つぶやき」を地図画面に重積できたら、面白いと思う
  • 愚痴が増えたら近くで渋滞が発生しているのが分かるし、流れの中に、運転が乱暴な車がいたら、 やっぱり誰かがぼやくだろうから、あるいはそうした運転をしている本人から、反論が来たりするかもしれない
  • 文字入力の問題さえ解決できれば、「リアル湾岸ミッドナイト」ごっこだとか、「リアルイニシャルD」ごっこができる。 真夜中の峠道を走りながら、漫画のセリフを入力するのは相当に厳しそうだけれど
  • 前を走る速そうな車にやっと追いついて、その車から「何・・・だと・・・?」だの、「馬鹿な… 追いついてくる…!?」 だの、メッセージをもらえたら、走るのがもっと楽しくなると思う
  • 「湾岸ミッドナイト」に出てくる年老いたエンジニアのつぶやき、湾岸ポエムをカーナビに収録しておいて、 首都高の特定の場所、原作どおりのタイミングでそれをカーナビにつぶやいてもらったら、原作の追体験が できる。原作を知らない人はびっくりするだろうけれど

移動の意味

  • 今はもはや、「移動」という体験それ自体に、価値を見出すことが難しい
  • 「移動」という体験は、時間が必要だし、共有できないから、語れない。娯楽というのはつまるところ コミュニケーションであって、自動車というメディアには、まだコミュニケーションと「移動」とを接続するための デバイスが欠けているような気がする
  • カーナビと、フロントガラスに透過ディスプレイを実装した上で、あとは「みんカラ」みたいな ネットコミュニティとを強引にくっつけると「移動」の意味が書き換わる
  • たとえば漫画みたいな「峠最速決定戦」みたいなイベントが、常設、非同期でできるようになる
  • 最速決定戦の時点ですでに法律違反だけれど、インターネットにリンクしたカーナビゲーションがあれば、 位置情報と向き情報、速度情報が記録できるから、他の車のフロントガラスに、誰かの「走り」を投影して、 それを実世界の風景と重積することができる。その人はその場にいないのに、任意の誰かと「バトル」ができる
  • その場所に行って、コミュニティに接続すると、その峠で最速の車と、バーチャルに競争できたり、 誰かの日記に「そこに行った」という記載があれば、バーチャルに「一緒に走る」ことができる。 「そこで走ったこと」が体験として共有できるなら、そこに行くことに、別の意味が生まれる
  • 湾岸線は時速300km の世界だから、法律の流れには真っ向から逆らっちゃうけれど、 これが首都高でできると、夜中に走る人が増えるし、速い車を買いたい、と思う人が増えると思う
  • その代わり、サーバーに全ての記録が残るから、湾岸に伝説を作った翌日には、 たぶん警察の人が自宅に押しかけて、一方的に祝福されてしまうかもしれない
  • もう少し平和に行くなら、誰かの旅行記をそのまんま追体験することができたり、「お勧めの店」みたいな記述を、 そのまんまカーナビに再現させたり、窓から見える店の上に「吹き出し」みたいな形で、コミュニティ上での 店の評判を重積したりもできるだろうけれど、たぶんよそ見運転で事故になる

自動車をコンテンツ生成装置にする

  • 「最速」文化だと、「そこに行くこと」に、別の意味が加わる
  • 榛名山最速とか、太良峠最速とか、環状1号内回り最速なんかはすごい人たちに取られちゃうから無理だろうけれど、 たとえば「国道16号小渕交差点最速の男」とか、カーブさえあれば、そこで小さな競争や、コミュニケーションが生まれて、 場所に意味が付加される
  • 「そこに行くこと」と、「その場所を語ること」とが、車というデバイスを使うことで接続されるなら、 それが楽しいと思う人も、あるいはいるような気がする
  • 実走データがある程度再現できるから、「このパーツが効きました」みたいな記述を読んで、実際にその場所に出向いて、 その人の「走り」を検証してみるとか、面白いと思う。あるいは「そんなパーツ無くても俺のほうが速かった」なんて 自慢してみせるとか。自慢の具が生めるメディアには、基本的に人が集まる
  • 「イニシャルD」の漫画みたいに、全力で車のアクセル踏みながら、ドライバー同士が語れたら、 きっとそれが正解なんだけれど、それをやると、みんな本気出す上に速度情報が残るから、 警察にサーバー持ってかれたら、大変なことになる
  • こういう妄想は面白いんだけれど、どうやっても事故率が高まりそうなのが、残念ではある

自動車の運転中は、ドライバーの頭は実質固定されているようなものだし、電源だとか、 デバイスの重量については、自動車なんだから無視できるレベルだと思う。ありものの技術で拡張現実を 応用するなら、まずは車からだと思うんだけれど、こういうの無理なんだろうか。。

2009.06.29

流れの空白に呪いが生まれる

昔住んでたマンションの近くに、「お店が必ず潰れる場所」があった。

そこは交差点の角地にある土地で、2本の道路に面していて、 30人ぐらいは入れる店舗と、そこそこ広い駐車スペースとを備えていた。

駅からも、何とか歩いていける距離にあって、道路をはさんだ目の前には、 10階建ての新築マンションがあって、若い家族がたくさん住んでいた。 人通りもそこそこあって、車の往来も多かったから、店舗を構えようと思ったら、 その場所の条件は決して悪くなさそうなのに、そこに店を出すと、せいぜい数ヶ月で閉店していた。

マンションには2年ぐらい住んでいたけれど、その間だけでも4回ぐらいお店が変わって、最近通ったら、 また知らない店に変わっていた。

流れに乗ると入れない場所

その場所は、人通りが多いのに、入りにくかった。

自動車の通行量は多いんだけれど、慢性的にプチ渋滞状態になっていて、 反対車線から店に入ろうと思ったら、自動車の流れを止める覚悟がないと難しかった。

店に面した車線にいても、そこには街路樹と、結構広い歩道があった。近所のマンションには子供さんがいて、 歩道を自転車で移動して、街路樹の陰から飛び出してくる。店に入るには、自動車の流れを一瞬止めて、 見通しの悪い街路樹の陰から、自転車に乗った子供が特攻してこないことをお祈りしながら、 車の流れを切らないように、一気に駐車場に突っ込むしかなかった。

お店は目の前にあって、駐車場もすいているのに、そのお店に入るための「流れ」というものがそこにはなくて、 車の流れを断ち切って、一定の確率で飛び込んでくる子供、という障害物を乗り越える必要があって、 そこそこおいしいお店が入っていたときであっても、そこに車を入れるのには覚悟がいった。

交差点の交通量がもう少しまばらであったなら、「流れ」を無視できて、余裕を持ってお店に入れただろうし、 歩道がなければ、あるいは街路樹を切って、せめてお店の入り口周囲だけでも、見通しがもっと良くなれば、 子供の陰におびえる必要もなくなったのだけれど。

郊外の店舗スペースみたいに、そもそも歩道を潰してしまって、道路と駐車場との境界を潰してしまってかまわなければ、 その場所はもっと栄えてもいいような気がするんだけれど、歩道だとか街路樹の配置、道路の混み具合みたいな、 いろんな要素が絡んだ結果、一見理想的なその場所は、きれいな町並みに隠されて、呪われた場所になっていた。

流れのよどみに呪いが生まれる

SNS で、こんなコメントをいただいた。

呪いというものは本来、個人の言動行動あるいは作ったものから生まれるものだと認識していたのですが、 この例を呪いと見なすことでいろんなことが理解できるようになるなあと感じます。 呪いというのはむしろ、それをこうむる主体ではなく、それを取り巻く構造のあたりに おぼろげに浮かび上がるものなのかもしれません。

たしかにそんなかんじだな、と腑に落ちた。

呪いだとかいじめというものは、昔は「悪意をドライブするための技術」だと考えていたんだけれど、 「いじめに参加した人間に、悪い奴はあんまりいない」というのも、どうも一面の真実らしくて、 実際問題、ものすごい深謀遠慮を巡らすような「いじめの黒幕」みたいな学生は、そんなのがいたとして、 たぶんもっと楽しいことに自分の時間を使うような気がする。

「呪い」みたいなものは、どろどろした思いが生み出すというよりもむしろ、 「正しさ」だとか「きれいさ」みたいな、集団が、同じ価値へと収斂することを望む気持ち、 同調を強要する空気みたいなものが、コミュニティに「流れ」みたいなものを生み出して、 その流れから取り残された場所だとか、人に対して、自然発生するような気がする。

「いじめをなくすための話しあい」みたいなものは、だからコミュニティ内部での、力の流れが 変化しない限り効果が薄いし、理性的な、平和なやりかた以外にも、流れを変える方法はいくつかあって、 いじめの対象となった側も、あるいはいじめる側と認定された側とも全然関係のない誰かに、 ちょっとした変化が生じただけでも、あるいはいじめというものがなくなってしまう、 という事例もあるんじゃないだろうか。

車の流れと違って、人の流れというのは目に見えないし、街路樹で邪魔したり、歩道を作って 流れを変えたりといった操作はやりにくいけれど、個人に何かを吹き込むのでなく、 集団になった人の流れを読んで、それを操作することができるのなら、 そういう技術から、いろいろ面白いことができそうだなと思った。

2009.06.23

太い言葉のこと

田中角栄の秘書だった早坂茂三のお父様が亡くなったとき、角栄はすかさず100万円を包んだ封筒を早坂に渡して、 こんな言葉とともに、彼を故郷に送り出したんだという。

坊主は金さえドカンとやれば何でもしてくれる。 おまえは19で国元を離れた身だ。一切合切、お袋さんやお姉さん、番頭の指図に従え。口出しするな。 通夜の客にはひっくり返るほどごちそうしてやれ。オヤジの功徳になる。 直会を寺でやるなら部屋をがんがん暑くしろ。客に風邪を引かせるな。 ガス中毒になっても困るから、外の空気も入れろ。 女は帰りに花を持っていく。その新聞紙も用意せよ。 葬式をきちんと仕切れば、世間もおまえを一人前と認め、扱ってくれる。

まだ若かった頃の「突破者」宮崎 学 氏が、当時対抗していた新左翼学生の集会を 襲撃するとき、部下であった学生に、こんな指示を出したんだという。

突入したらまず石を投げろ。 投げ終わったらただちに突っ込め。 至近距離まで突っ込んで、相手の腹を突け。 絶対に退くな。退いたらやられるぞ。

極真空手の創始者大山 倍達は、作家の夢枕獏に「強さとは?」と尋ねられて、こんな答えを返した。

強いとは、両手の親指で逆立ちができることです

親指だけで逆立ちができるなら、その人は、相手の耳だろうが鼻だろうが、 片手でそれをむしり取ることができる。耳や鼻をちぎられて、心が折れない人間はいないから、 親指で逆立ちができる人間は、「強い」のだと。

漠然と「太い言葉」というのがあって、何か未知の状況にあって、そんな「太い言葉」をベテランから授かると、 何か安心できるというか、なんだか自分も「太く」なれたような気分になって、大きすぎて途方もなかった問題が、 少しだけ、何とかなりそうな気がしてくる。

「太い言葉」の中には、たとえば「そもそも葬式とは」だとか、「そもそも闘争とは」みたいな原則論は少なくて、 具体的な、理屈抜きの「こうしろ」というアドバイスが、ゴロッといくつか無造作に置かれているだけだし、 その言葉に従うと、いったいどういうメリットがあるのか、理屈では全然見えてこないんだけれど、 聞くとなんだか「太く」なれて、不思議と安心感がある。

宮崎学にしても、このときの田中角栄にしても、読者として書かれた文章を読む今ならば、 決してすごいことを言っているわけではないし、ここだけ取り出しても、今ひとつその迫力は伝わらないけれど、 同じような未知状況に対峙した誰かに対して、じゃあ自分がなにか、こんな太い言葉を相手に送れるかと言えば、 無理な気がする。

ある状況にぴったりとはまった、「アハ」と手を打ちたくなるような、 そんな気の利いた「名言」を紡げばいいのなら、頭の回転が十分に早ければ、 たぶんそんなに難しくないのだろうけれど、抽象論抜きの、具体的で、 なおかつ本質みたいなのをつかんだ、具体で絶対を表現するような、 こうした太い言葉をそこに置くためには、いろんな修羅場をくぐり抜けて、なおもそこから帰ってくる、 そんな通過儀礼が必要で、リーダーをやる人は、「ここ」という状況で、 そんな言葉を発する義務があるんだろうなと思う。

2009.06.19

時が止まっていた

NHKクローズアップ現代で、小学校教育が特集されていた。「最新」の教育手法が、 見ていてなんだか懐かしくて、その懐かしさに、ぞっとした。

紹介された「最新」技術は、自分が昔習ったやりかたに、あまりにもそっくりだったから。

昔からある最新のやりかた

学校の算数について行けない子供というのは、問題文を画像化して考えるのが難しくて、 試験問題の文章を読んでも、それがいったいどんな情景を意味しているのか、 頭の中でそれを画像化できないから、問題が解けないんだという。

ちょっと前に流行した「百ます計算」みたいなやりかたは、作業効率の上昇を狙った手法で、 あれはそれなりに問題を解ける子供が、能力をもっと伸ばすのには役に立つんだけれど、 問題解決のボトルネックが「理解」にある子供には、あんまり役に立たないらしい。

番組 で取り上げられていたのは「絵解き文章題」という手法。問題文を読んで、 それを漫画みたいに落書きしてみたり、問題文に「○メートル」なんて長さの記載があったら、 まずはそれっぽい長さの線を引いて、とにかく問題文を、画像にして考えさせるやりかた。

このやりかたを習っていた子供のノートが放映されて、それがあまりにも、 昔自分が書いてたノートにそっくりで、怖くなった。

日能研の昔

昔、たまプラーザの日本能率で、1期生だった。

25年以上前。たまプラーザの駅前にはイトーヨーカードーぐらいしかなくて、当時は発売されたばっかりの「ぴゅう太」を目当てに、塾に通っていた子供同士、日能研の授業が始まる1時間も前におもちゃ売り場に乗り込んでは、 店員さんに怒られるまで遊んでた。

塾の授業では、「絵を描きなさい」だとか、「時間はたっぷりあるんだから、 絵を描く余裕は十分あるから安心しなさい」だとか、「最新」のやりかたを仕込まれた。

できたばっかりの日能研は、講師の人たちは大学生みたいな年格好だったし、教室も4つぐらいしかなくて、 ちょっと大きな田舎の寺子屋みたいな雰囲気だった。学校というよりも遊び場に近い雰囲気で、 建物に入って、挨拶もそこそこに事務室奥のソファに陣取って、勝手にアイスコーヒー飲んだりしても、怒られなかった。

マッチ箱にマッチを詰めて、授業に山ほど持ってきた先生がいた。

10の桁上がりだとか、割り算を教えるのに、マッチ箱の中には10本ずつのマッチが入っていて、 マッチ箱を重ねて、算数の手ほどきを受けた。「いい答え」だとか「ひらめき」を得られた子供には、 ご褒美として宝石の原石をくれた。磨くときれいに光るんだとかで、あれがすごくほしかったんだけれど、 手が届かなくて悔しかった。こんなやりかたもまた、「マッチ箱」が「キャラメルの箱」に置き換わっていたけれど、 番組にそのまま登場してた。

当時はたぶん、塾の人たちにだって、何か最新の、ものすごい教育手法を伝授しているなんて意識はなかったと思う。 日能研はまだまだ小さな塾だったし、当時はもっと、名前の通った、「頭のいい子」が行く塾は、たしか別にあったから。

「学校の子供」と「塾の子供」

「塾の子供」は、必ずしも頭のいい子供ばっかりではなかったような気がする。

小学校4年生で連立方程式が解ける同級生もいたけれど、自分にそれが理解できたのは 中学校に入ってからだったし、受験勉強して、 入学試験を受けたまさにそのときまで、自分が算数の問題を解くときには、「とりあえず漫画」だった。

実際問題、自分の成績は悪かった。

学校には昔から「田舎の神童」がいて、医学部の同級生にしても、100人いれば何人か、塾にも受験校にも縁がないのに、勝手に成績がよくなった奴というのがいる。地頭がものすごいから、塾の助けなしに何でもできるこういう連中がいるから、たぶん公立の学校は、やりかたを変える必要はないと判断したのだろうけれど、「塾のやりかた」で救われた人は、少なくないんだと思う。

学校の成績が悪くて、親に連れられて、当時できたばっかりの、日能研の門を叩いて、 日能研には試験があって、その試験の成績もやっぱり悪くて、父親から怒られて、 頼み込んで再試験させてもらって、やっと拾ってもらった。拾ってもらって成績伸びて、 そのうち学校の試験では100点以外取れなくなって、同じ頃、学校は、「塾の子供」と「学校の子供」に分かれた。

「塾の進度が速すぎるから」と説明されていたけれど、どこでも塾に行っている子供は、学校の試験は 満点以外取れなくて、意味がなくなってしまった。個人の能力なんて、こうなると全く評価できなくて、 学校の先生は、「満点は0点」というルールを導入した。

「塾の子供」は0点ばっかりになった。

「全問正解は0点」ルールのもとでは、間違えることこそが学習だから、間違えない子供の解答は、0点になった。

何となく、「ゆとり教育」のことを考える。塾組と、「学校の子供」と、もはや絶対に超えられない断絶が そこに生じて、「ゆとり教育」を決断した人たちは、成績というパラメーターに背を向けた。生きる力だったか、 とにかく試験で測定できないパラメーターを大切にしようだなんて、断絶にそっぽを向いた。

止まった時間のこと

自分は一応、曲がりなりにも受験校経由で医学部を卒業できたから、日本能率のやりかたは、 「正解」だったと今でも信じているけれど、裏を返せば25年前、田舎の塾で普通にやってたやりかたが、 今の公立学校で、ようやく「最新」だなんて注目されることが、ちょっと信じられない。

25年あれば、大戦末期の零戦が、F14に進化する。

自分たち「塾の子供」がF14で飛び回るその横で、公立学校の理念がどれだけすばらしかったところで、 「学校の子供」が乗っているのは零戦なんだから、そもそも勝負になるわけなかった。 25年というのはそういう時間で、それがあったから、自分は「お得」な思いができたのだろうけれど、 この25年間、「F14」に乗る機会を逸して、それでもそれが「正しい」ことにされた人は、 損をしているんだと思う。

懐かしいどころか、そもそもそう習ったことすら忘れてたぐらいに昔のやりかた、当時の自分たちも、 教えてくれた先生たちも、そのやりかたが画期的にすごいだなんて思ってもいなかったような教わりかたが、 今になってやっと、公立学校の「最新技術」。教育の方針を決める上の人たちが、今までいったい何を見ていたのか、 気持ち悪いぐらいにそっくりな、「最新」教育の授業ノートを見ながら、どうにも理解できなかった。

「塾の子供」の断絶を肌で感じて、それでもそれを取り入れようとしなかった公的教育機関の上の人たちは、 いったい何を持って「いい教育」を定義していたんだろう。

プログラマーの Dankogai さんなんかは、むしろ学校を捨てたことで自分が伸びたみたいなことを言っておられたし、 こういうのはもちろん、個人の向き不向きはあるはずだけれど、自分は正直、日能研の人たちがいなかったら、 今とは全然違った人生歩んでいたと思う。

2009.06.17

コミュニティにおける祭事というもの

コミュニティにおける正義には、「成果が最大」、「面子の損失が最小」、「嫉妬が最小」の、 3つのレイヤがあって、上位レイヤで正しいことは、必ずしも下位レイヤでの正しさを保証しないし、 上位レイヤで決定されたことは、しばしば下位レイヤでひっくり返される。

「経済」が政治と祭事を上書きした

「リスク」だとか「経済」といった考えかたがなかった昔、それこそ平安時代ぐらいの 大昔は、たぶん「政治」と「祭事」というものが、コミュニティの判断を左右した。

時代のどこかでたぶん、「成果」という考えかたが入ってきて、経済は、数字で測定可能なものだから、 説得の道具として便利な「経済」という武器は、「政治」という、従来の実務レイヤを上書きする形で、 コミュニティの行く末を判断するための道具として、便利に使われるようになったのだと思う。

お祭りというものは、野蛮で非科学的なものだから、「経済」という考えかたが導入されて、 恐らくどこかで、「祭事」のやりかたが失われて、今たぶん、いろんな迷走を生んでいる気がする。

面子で成果をひっくり返す

上位レイヤで「正しく」認定された判断は、それに反対する人たちが下位レイヤを支配することで、 簡単にひっくり返せる。

たとえば「政治」という道具は、そこに集まった人の面子を可視化してみせることで、 成果の最大化を図る、「経済」的に正しい判断をひっくり返すことができる。

経済的に正しいやりかたは、その決定で誰かの面子が潰れるのなら、それが実行される可能性はなくなるし、 たとえ大赤字を抱えた自治体でも、県庁の○○局長が退職するときには、「はなむけ」としての「ハコ」一つ、 何億円もする建築物にお金が支払われて、集まったリーダーは、たいてい誰も、それに反対しない。

昔の政治家が得意だった「根回し」だとか「腹芸」というのは、意志決定にかかわる人たちを見極めて、 かれらの「面子」を可視化して、ある決定がなされたときに、それが誰の面子を立てて、 誰の面子を失わせるものなのか、それを予期して、操作するための技術。

個人的に反対したいような決定があったなら、「それが実現すると○○さんの面子が潰される」方向に 誘導することで、経済的に正しい決定は、政治レイヤでひっくり返せる。昔の自民党、「妖怪」なんて言われた 人たちには、こういう技術が受け継がれてきたのだろうと思う。

世論という神様と祭事

弟鳩大臣が結果として辞任して、あの人の判断は、経済的にも、あるいは政治的にも、 どうもあんまり正しくないみたいなのに、あの人に対する支持は増えて、自民党の政治家も、 総理大臣よりも、むしろ弟鳩大臣を支持しているように見える。

何もかも間違っている振る舞いを、「罷免された」という犠牲を用いることで、強引に正当化する、 今弟鳩議員のまわりでおきていることは、「祭事」なんだと思う。

祭を執り行っている人に、政治レイヤ、あるいは経済レイヤから、いくらその間違いを指摘して、 その人の振る舞いを叩いて見せたところで、なんの効果もないばかりか、叩いたその人が支持を失ってしまう。 叩く側の人が、どれだけ分かりやすく、どれだけ正当な論理を展開したところで、 恐らくはその正しさだとか、分かりやすさは、かえって世論の反発をまねく。

「祭事」というのは、集団になった人、「世間」とか「世論」、「空気」みたいに、 個人と個人の境界が薄れた、あやふやな固まりになった人の群れを操作するための技術で、 それはもう、理屈でどうこう、というものではなくて、もっと獣っぽい、「血」だとか「炎」みたいな、 そんな象徴を利用したやりかた。

扱い方は難しいし、個人が融合して、荒ぶる神様みたいになった集団は、何を考えているのか、 何が正解なのかよく分からないけれど、「祭」を上手く執り行うことができたなら、 その人はたぶん、天下を取れる。

その代わり、祭事が間違って執り行われると、その人は大きなダメージを受けるだろうし、 世の中収拾がつかなくなってしまう。弟鳩議員が今行おうとしている祭りは、 どちらかというと、期せずして「祭」が始まってしまった、間違って執り行われた祭であるように思える。

祭事をエンジニアリングすべきなんだと思う

「政策通」だとか「経済通」なんて言われる議員の人たちは、上位レイヤのやりかたに優れた代わり、 昔の政治家なら誰もが持っていた、祭事レイヤでの振る舞いかたを、忘れてしまった。

ちょっと昔の田舎の選挙は、庭先に飼い犬の生首が投げ込まれたりだとか、 まっすぐな道なのに、なぜかハンドル操作を誤ったダンプカーが民家に突っ込んだりだとか、 血なまぐさいイベントがつきものだったけれど、ああいうのにも「作法」だとか、 「意味」みたいなものがあって、そういう未開民族みたいなやりかたが、祭事の作法なんだと思う。

いわゆる「世間」、あるんだかないんだか分からないのに、力だけあるあの存在は、 やっぱりどこかのタイミングで、「血」だとか「涙」、「炎」みたいなものを見せないと、 その人に「本気」を見出さないような気がする。

「言葉」という、政治経済レイヤでしか通用しない道具をいくら上手に操ったところで、 世間の空気というものは、それが優れていれば優れているほどに、むしろその人に対する嫉妬が出てきて、 正しいはずのその言葉は、祭事レイヤでひっくり返される。

恐らくは、世間の空気という、荒ぶる神様を起こさないように、不安定な祭事レイヤの上で、 政治的、経済的に正しい判断を粛々と遂行するのが正しい政治家なんだろうけれど、 一発逆転を狙って、正しい知識も持たないままに、祭事レイヤに潜ってちゃぶ台をひっくり返そうとする人が 出てくると、世の中がめちゃくちゃになる。

そういうのは、村どうしのいさかいに巨神兵を持ち込むようなもので、 よっぽど慣れている人でもなければコントロールできるわけがないし、 首尾よく相手を焼き尽くしたところで、もうその場所には人が住めなくなってしまう。

昔テレビでやっていた、中国最強の格闘家を決める大会では、お互い戦って勝ち抜くのはあくまでも予選であって、 決勝戦になると、格闘家はみんな着飾って、笑顔で歌ったり、ダンスの腕前を競ったりしていた。 K-1 やPRIDE GP みたいなものを想像していたから、肩すかしもいいところだったけれど、 「単なる強い人」と「英雄」とを分けるのは、あるいはそういうところ、強さというレイヤの下にある、 世間の空気がその人を後押しするための祭事、英雄は、そういう方面にも長じてないと、英雄たる資格がないのかもしれない。

「世間の空気」というものは、扱いを間違えると荒ぶる神となって、 上位レイヤで正しく決定された何もかもを、見境なく食いつぶす。

神様を上手にいなして、もといた場所に帰っていただくのが「祭事」の作法なら、 そんなやりかたは、やっぱり政治に携わる人なら、誰もがマスターしておいてほしいなと思う。

2009.06.12

足すこと引くこと

「その道具を定義する動作」というものがあって、そこに何か新しい動作を「足す」ことは難しいし、 そこから何かを「引く」、あるいは「隠す」と、今度はその道具が持つ意味が書き換えられてしまう。

足すのは難しい

大学に入っていた電子オーダリングシステムは、自分のID と、パスワードとを打ち込まないと、 PCが稼働しないようになっていた。これがものすごく面倒で、結果として、誰かがログインしたら、 そのIDをそのまんま使い回したり、ログインしたあと、「次に使う誰かのために」、 ログアウトしないでPCをそのまんま放置したりだとか、ルール違反が当たり前だった。

近所の病院に入っているシステムはもう少し上等で、職員はみんなカードを持っていて、 PC備え付けのカードリーダーにカードを通すと、そのPCにIDが認識される用になっている。 ID を打ち込むのに比べれば進歩したんだけれど、カードをリーダーに通す、その一手間がやっぱり面倒で、 状況はあんまり変わっていないんだという。

恐らくはPC という道具を定義する動作の中に、「ログイン」が組み込まれている人はUNIX 技術者ぐらいで、 大多数の素人は、PC をみて、そんな動作が想像できない。道具が定義する動作の中に、ログインが組み込まれていないから、 その一手間が面倒に感じて、守られない。

既存の動作をハックする

個人用途でPC を使うときには、PC の前に置かれた椅子に腰掛ければ、ユーザーはその瞬間から仕事ができる。 これが当たり前になってしまっている以上、ログインの操作をどれだけ洗練させたところで、 ルールを守ってもらうのは難しいのだろうと思う。

恐らくは「椅子に座る」「椅子から立つ」という、PC を取り巻く動作の中に、ログインとログアウトとを 組み込んでしまえたなら、ルールを意識しなくても、ルール違反をする人はいなくなるような気がする。

具体的には、自動車の「スマートキー」みたいなものを職員バッジに組み込んで、PCから50cm 以内に近づいた人を ログインユーザーと認識して、キーを持った人が近くからいなくなったら、自動的にログアウトするようなシステムが作れたら、 ログイン/ログアウトに関する問題は、きっと相当程度解決する。

PC ソフトだとか、あるいはインターネットを通じてお金を稼ぐ、ユーザーからお金を払ってもらうために、 いろんな会社が試行錯誤しているけれど、「これ」という解決策は、まだ見つかっていないような気がする。 これなんかもたぶん、PC という道具が定義する動作のなかに、「支払い」というコンポーネントが 存在しないからなんだろうと思う。

Apple が作ったiPhone は電話だし、Amazon の電子ブックリーダーは、全く新しい道具だけれど、 おそらくああいった新しい道具は、IT 企業の一種の敗北宣言みたいなもので、 その成り立ちの中に「支払い」という動作をあらかじめ組み込んでいないPC というデバイスに、 今から支払い機能を組み込むことは、Apple やAmazon でさえ、やっぱり難しかったんだろう。

引くと文化が変わる

補助金制度だとか、何かの理由で医療費が無償になると、人によっては、薬に対する態度みたいなものが大きく変わる。 もちろん全然変わらない人もいるんだけれど、変わる人は、外来3回ぐらいでがらっと変わる

無償になった人は、高価な薬を好むようになる。ジェネリック品というのは、たとえば薬のフォントがゴシック体であったり、 薬のパッケージが、色つきのアルミから無地になったり、どことなく値段が安く見えるんだけれど、そういう些細なことが、 無償ユーザーになった人には、我慢できなくなるらしい。

外来をやっていて、やっぱり不景気だから、普通にお金払って病院に来る人は、けっこう多くの人が、 「ジェネリック品にして下さい」なんて頼む。それなりに、この言葉は普及してるんだと思う。 無償ユーザーの人は逆行して、「このあいだ変えてもらった薬、なんか安っぽくて効かない気がするから、 前のに戻して下さい」とか頼まれる。

正規品を作っているメーカーは、安価なジェネリック品に対して「品質」で対抗しようとしているけれど、 それをきちんと理解して、それを感覚できるのは、むしろ支払いから自由になっている人のほうが多い気がする。 あれなんかを見てると、「お金を持っている人に品質を訴える」という、一見当たり前の広告戦略は、 どこか間違っているような気がする。

動作を見直して書き換える

たとえば「支払い」という機能を持たないPC という道具からお金を取るためには、電話線を供給している会社と、 銀行とが手を組むのが一番いいのだと思う。ブロードバンド時代、回線は月極で使いたい放題なのが当たり前で、 たぶんほとんどの家が銀行引き落としになっているのだろうけれど、銀行と、回線会社とが相互乗り入れして、 ネット世界での支払いを、全部自動で、支払いという行為と、マウスクリックとを直結するようにしたら、 ネット世界に流れ込むお金の総量は、ずいぶん増えると思う。

ソニーが今度出す、ダウンロード専用になったポータブルゲーム機というものがどうなるのか、 ゲームはしないんだけれど、あれは「ゲーム機」を取り巻く動作を大幅に書き換える試み。 ゲーム機には「ゲーム屋さんで買う」という、「小売り」と「支払い」という、それぞれ動作と機能とが 組み込まれていたのだけれど、ソニーの新しいゲーム機は、それをなくしてしまおうとしている。

それがiPhone なら、あれはあくまでも「電話機」だから、機械それ自体に支払い機能が組み込まれている (追記:iPhone の支払いは、あくまでもiTune 経由なのだそうです)けれど、 道具本来の機能を捨てて、そこに新しい支払い機能を組み込んで、ソニーという大メーカーなら、 道具が定義する本来の動作を書き換えることが可能なのかどうか、経過を追っかけると面白いと思う。

2009.06.10

203高地症候群のこと

「譲れない何かを守るために、あらゆる犠牲を惜しまず戦力を投入しようとして、目標を見失う状態」のことを、 個人的に「203高地症候群」と読んでいる。

こういうたとえ話として、203高地はそもそも正しくないみたいだし、そんなに珍しい状況だとは 思えないから、もっとふさわしい言葉があるんだろうとは思う。

自主規制という戦いかた

日本のゲームが「不道徳だ」なんて海外で叩かれて、政治の世界でそんなことが話題になって、 ゲーム業界の人たちは、いち早く「自主規制」を表明した。

問題が政治の具になって、現場の意図とは全く関係のないところで、杓子定規な「法律」が作られて、 そうなるとたぶん、業界全体が大きなダメージを受けてしまう。問題が大きくなる前に、 政府の先手を打つ形で自主規制を表明するやりかたは、戦略としてスマートだな、と感心した。

このあたり、自分たちの業界は、政府はもっと国民の健康を考えよだの、無知な裁判官が 医療の現場を滅ぼすだの、勇ましいスローガン叫んで、問題の「本質的な」解決を目指して、 恐らくはどの業界よりも、ロビー活動にたくさんのお金を突っ込んでいる割には、 ろくな成果が上がってないのと対照的だなと思う。

川を守るときには一歩退く

戦争のとき、敵が川をはさんだ向こう側に陣取っていて、味方がそれを守るときには、 川から一歩引いた場所で迎え撃つのがセオリーなんだという。

「敵が川を越える」というのは、何となく負けイメージだし、川の両側は土手だから、 川岸ぎりぎりで守備を行うと、なんだか固い守備ができそうなのだけれど、これをやってしまうと、 渡河した敵と、川向こうからの敵の援護射撃と、両方を相手にしないといけないので、 激戦になって、お互いのダメージが大きいのだと。

むしろ相手に川を明け渡してしまうことで、ちょうど相手の半分が川向こう、 半分が川を渡ったあたりで戦闘が始まる場所に陣を構えると、相手が分断されて、 少ない戦力を相手に戦闘を行えるので、川が守れていないようでいて、見かたの犠牲を最小限にできるような、 有利な状況で戦闘を開始できるのだという。

味方が守らなくてはいけないのは、もちろん味方の命であって、「川を明け渡す」というのは、 単なる象徴にしか過ぎないのだけれど、川を死守して味方の犠牲をいたずらに増やしてしまうような、 守るべきものを間違えた戦いかたというのは、たぶんいろんな場所でおきている。

味方が守りたかったもの

ゲーム業界の人たちがいち早く自主規制を表明して、業界の人たちは、そんな行動を通じて、 まずは小売りの人たちを守りたかったんだという。

問題が政治の具になれば、話がグダグダしている間、下手すると小売店が抱えた在庫を販売することも 難しくなってしまうから、業界は大きなダメージを受けてしまう。表現の自由だとか、 問題を大きくして、業界と、政治の人と、ユーザーの権利を賭けて全面戦争してみせるのが、 たぶん「本質的な」戦いかたなんだろうけれど、それが終わって、よしんば勝利を挙げられたとしても、 その頃にはもう、小売業者の人たちは疲弊しきって、業界は、立ち直れなくなってしまう。

勤務医の味方を自称する人たちは、政府の人を叩いて、官僚を叩いて、裁判官を叩いて、 問題を大きく、より「本質的な」戦いかたを目指して、実際のところ、現場の勤務医は減る一方。 拳振り上げて叫ぶのは、たぶんとても気持ちがいいんだろうけれど、患者さん診ようよって思う。

法律を変えるだとか、裁判をやり直すとか、たしかにそれは、本当の解決なのかもしれないけれど、 手の届く場所にいる味方を潰さないでほしいなと思う。業界挙げての全面対決目指して、 その割には、土日になったら「2週間前から食事が減っているようです」なんて、あの人たちはしっかりと、 週末を満喫する準備に余念がない。

現場から大事なコンポーネントが失われてしまったそのときに、あの人たちがきちんとそれを 補完してくれるなら、それはありがたいんだけれど。

2009.06.05

「もの」と「情報」の界面

命令だとか理屈、説得といったやりかたとは別に、 「もの」それ自体に込められた情報を利用したやりかたは、 その人の振る舞いを、強力に縛れるような気がしている。

風邪に食べ物を処方する

タミフルなんかはむしろ例外的で、風邪みたいなウィルス感染症に対して、 自分たち医療従事者ができることなんて、実際問題ほとんどない。

それが本当にウィルスの感染症ならば、暖かくして家で休んでいることが、本人のためにも、 まわりの人のためにも一番望ましいのだけれど、たいていの人は、守れない。

こういう患者さんに対して、風邪薬を処方して、「家で安静にして下さい」なんてお願いするのでなしに、 「暖かくして家で寝るためのセット」を、保険で「処方」してしまうと、家で安静にする人が 増えると思う。

「安静にして下さい」なんて言われたところで、何もしないでじっとしているのは苦痛だし、守れない。

ところがそれがあんまり積極的に食べたいものでなかったとしても、白衣を着た人間から、 「5日間これを食べて下さい」なんて指示されて、5日分の食料と水とを押しつけられたら、 たぶんそれなりの割合の人が、そのとおりに行動する気がする。

赤い羽根には逆らえない

言葉の拘束力はしれているけれど、「もの」が規定する力というか、それが規定する振る舞いには、逆らいにくい。

赤い羽根の共同募金で、胸に羽根を貼り付けられた人は、それからしばらくの間は「いい人」になる。 簡単な実験系を組んで、赤い羽根を募金の対価としてでなく、一方的に、道ゆく人の胸に貼り付けても、 たぶん羽根をもらった人は、一定の確率で「いい人」になってしまう。

たとえば赤い羽根を胸にくっつけられた人の帰り道に、段ボール箱に子猫を入れた奴を仕掛けておくと、 羽根をもらわなかった人に比べて、子猫が拾われる確率は高まるような気がする。

それが単なるレトルトのおかゆであっても、「それを自宅で食べきることが治療である」と宣言されて、 パックに「治療用」なんて書かれたおかゆは、たぶんそれをもらった人に「病人らしさ」という振る舞いを強制して、 その人の外出確率を下げる。

偽薬による「治療」と、やっていることは全く同じなんだけれど、偽薬というのはたぶん、 「振る舞いを後押しする形」をしていることに、重要な意味がある。

アフォーダンスで動作を記述する

禁煙用のニコチンガムや、ニコチンパッチは、あれがガムであり、パッチの形をしていることが、 たぶん欠点になっていて、「喫煙する」という、たばこ本来の動作を置換できていない。

たとえば、薬理的な効果をもたない「禁煙パイポ」を、病院でとりあえず200本ぐらい、 黙って処方箋を切って、相手に押しつけてしまうと、その人は、その200本を消費するまで、 次のたばこを買いづらいような気がする。

薬というものは、人体のある反応を、別の反応で置換することで、特定の効果を発揮する。 人の動作というものもまた、「もの」が後押しする特定の振る舞いを利用したり、同じ形の、 違った機能を持った何かで、その人を取り巻く「もの」を上書きすることで、 その人をコントロールできるのだろうと思う。

「もの」と「情報」との境界は、たぶん相当にあいまいなもので、 「アフォーダンスで環境を上書きする」手法というものが、これから先、たとえば医療だとか、 あるいは広告の業界で、安静を指示する「もの」だとか、食欲や、 購買意欲を後押しする「もの」のデザインや、機能の上書きといった形をとって、 きっと伸びてくるんだろうと思う。

2009.06.01

新型インフルエンザ雑感

まだ振り返るには早すぎるのだけれど。

素朴な理解モデルは大切

相手が「未知」である以上、もちろん先に起きることは予想できないんだけれど、 どれだけ未知であろうが、変異しようが、相手がウィルスであるには違いないから、 流行の早い段階で、あるいは学校みたいな場所で、ウィルス粒子の基本的な振る舞いかたを、 誰か偉い人がアナウンスしても良かったと思う。

  • ウィルスは紫外線で壊れる

しょせんはタンパク質の薄い膜に包まれたRNA の粒子だから、日の光に照らされると、 長くは生存できない。人から人への伝播が途絶えた状態で、何日間かすれば、 その地域からは、ウィルスはいなくなる。

  • ウィルスは湿気でも破壊される

湿度50%を超えると、たしか90%以上のインフルエンザ粒子は不活化する。 しょせんは単なる粒だから、ノロウィルスみたいに、吐物や便の中に潜行して、 環境が乾くのまって、復活して飛ぶ種族もいるけれど、インフルエンザはたぶん大丈夫。

  • ウィルスは感染者と対峙しない限りうつらない

それがどれほど恐ろしいウィルスであろうと、ウィルスは単なる微細な「粉」だから、 隣町のウィルス粒子が、はるばる漂って別の町を襲うとか、ちょっと考えられない。だから基本的には、 人の集まる場所を避けて、家の中に引きこもっている分には、まずはうつらない。 HEPA フィルターなんかは必要ないし、部屋の目張りも、必要ない。

対峙した相手を、変な形で擬人化したり、荒ぶる神様みたいなとらえ方をしてしまうと、「たたり」や「穢れ」の 考えかたが生まれて、おかしなことになってしまう。

早い段階で、「あれはただの粉だ」ということを周知していたら、状況は少し変わった気がする。

渋滞を防ぐために、全ての人に、平等に「裏道情報」みたいなものを流してしまうと、 今度は裏道に全ての人が殺到してしまって、役に立たないんだという。 特権階級を恣意的に設定して、その人だけに情報を流すやりかたは、特権階級の割合を3割程度にすると 上手くいくらしいのだけれど、残された7割の人は、たぶん不愉快な気分になってしまう。

ここで「15分後に渋滞が予想されます」みたいな、未来予測情報をみんなに流すようにすると、 裏道を選択する人と、そのまま道を走る人と、上手な具合にばらけて、上手くいくのだという。

仮説だとか、予測情報を早めに発信することで、 情報を受ける側の判断リソースが動員されて、人の流れは多様性を獲得する。マスクに殺到する人とか、 地元ではそんなにひどいことになっていなかったけれど、素朴な理解モデルというのは、 こういうところでも役に立つような気がする。

仮説と切り離されたエビデンスは一人歩きする

マスクについて、「効く」「効かない」の争いを、そこかしこで見かける。良くないことだと思う。

「明確なエビデンスがありません」という表現は、やっぱり仮説の元になった理屈とセットで話さないと危険だし、 誤解を生んでしまう。

「感染予防にマスク」というのは、ベースに「ものすごく微細な粉末が、一定量口に入ると感染」なんて理屈があって、 マスクを使って、粒子それ自体は無理であっても、せめて気流だけでも遮断できれば、感染が防げるかも、 なんて仮説が生まれて、いくつかの検証が行われて、論文になって、今それが、「効く」「効かない」の争いを生む。

論文レベルの検証で「効かない」なんて結果が出たところで、それは理屈が間違ってるのか、 理屈への対処、仮説が間違ってるのか、仮説は正しいんだけれど、それが成立する状況が限定されていて、 論文が想定した状況では、それが成立しないだけなのか、「効かない」にもいろんな段階があるのだけれど、 そういうのを抜きにして「マスクにはエビデンスがない」をやってしまうと、原理主義者同士の宗教戦争になってしまう。

「エビデンス」という言葉を、何か神聖なものみたいに扱って、喧嘩の材料に使ったり、 相手を小馬鹿にするための武器として利用するのはとても楽しいんだけれど、 やっぱり間違った使いかたなんだろうと思う。

ビーカーとか試験管は、論文を書くための、単なる道具なのであって、 ビーカーを毎朝拝んだところで、空から論文が降ってくるわけないのに、 エビデンスが好きな人たちは、しばしば似たようなことをしている。

やっぱり言挙げして欲しい

グダグダだったけれど、実際問題、今のところは外来も落ち着いてきて、 今回の流行は、このまま落ち着きそう。

これからたぶん「終息宣言」が出されて、政府の人たちは、たぶん「現実的な対応が功を奏した」なんて 胸張るんだろうけれど、できれば勝利宣言する前に、せめて誰が責任者なのか、それを宣誓してほしいなと思う。

現場はとにかく、「責任者の不在」に振り回された。

  • 舛添大臣は、たしかに責任者の椅子に座っていたけれど、二言目には「専門家の意見を待ちたい」なんて、 質問をそらす
  • 総理はしばしば「弾力的な運用」を口にする。大局的な方針が示されないまま、 「地域ごとの弾力」を期待されても、困ってしまう
  • 地方自治体は、「まだ国の見解が来ない」なんて、判断を下さない。現場から「これはどうなの?」なんて 質問を上げても、行政の人たちも「上」の意向を待っていて、判断できない
  • 感染症専門家の人たちは、助言はするけれど、表には出てこなかったし、恐らくそうした権限も与えられていないのだと思う

たしかに「長」の椅子はあって、そこに座っている人もいるわけだから、その人が責任者には違いないのだけれど、 辞令をもらった誰かがそこに座っていることと、その人が「責任者は私です」と宣言することと、 実質同じではあるけれど、取り組み方の本気度が、大きく変わってくると思う。

今回の「現実的な」やりかたは、結局誰も、明示的な判断を下していないように見えた。 かっこよく言えばボトムアップだけれど、 このまま終わってしまうと、次に「本物」が来たときに、現場は今以上に困ったことになる。

「現実」路線はたいてい上手くいくのだけれど、現実路線というのは、しばしば「正しさ」を逸脱してしまう。 このまま結果オーライで終わる可能性は高そうだけれど、終わってしまうと、今回の事例は、 いったい誰の責任で行われたのか、誰を責任者にしたから上手くいったのか、あいまいなままで、 「次」に生かせるものが残らない。

第二次世界大戦末期、戦艦大和の「特攻」を決断したのは、軍本部の「空気」なんだという。

戦艦を、航空機の支援もなしに出撃させたところで、戦果が期待できるわけもないし、 教科書的にも、それはなんの意味もないやりかたなのだけれど、軍事の専門家が「どうする?」なんて相談して、 「その場の空気として」、特攻させよう、なんて流れになったんだという。

もちろんその攻撃は戦果を上げられなくて、たくさんの人が亡くなったのだけれど、 そういう決断、教科書的にも、歴史的にも、そもそも意味がないとわかりきっている決断を、 その場の誰が下したのか、そこにいた専門家は、どうしてそれに反対しなかったのか、 そういうのは残っていないのだと。

野党の人たちが、与党を叩きに行くのなら、「政府は正しい検査を行おうとせず、 新型インフルエンザの実体から目を背けている」という理屈は、そう間違っていない気がする。

今さら全員PCR を行ったところで、出費がかさんで現場が混乱するだけではあるんだけれど、 誰かがこういう、身も蓋もない正論を提案しないと、今の「空気」は吹き飛ばない。

「全員PCRすべきだ。与党は現実に目を背けているが、それは誰の判断で、 誰の責任においてそうしているのか」なんて、 野党の人たちにはやってほしいなと思う。もちろんその提案は却下されるのだろうけれど、 ここで誰かに「私の責任において全て行う」なんて言挙げしてもらえれば、それが前例になって、 「次」の本番にそれが生きると思う。