Home > 5月, 2009

2009.05.28

規格の制定と多様性

景気対策というか、縮小しつつある業界に活気を取り戻すのに必要なのは、補助金みたいなやりかたでなく、 プロダクトをいくつかのモジュールに切り分けて、モジュールのプロトコルを規格で決定して、 プロダクトに多様化をもたらすことなんだと思う。

新しいPCを買った

今まで使っていたDell のテレビパソコンが昇天して、結局新しいPCを買った。

Dell は安くて良く設計されていたんだけれど、以前みたいなテレビPCを選べなかったから、 2ちゃんねるで評判が良かった「サイコム」という業者さんに、組み立てを依頼した。

規格化された、汎用部品をねじで組み上げるPC は、CPUやメモリの量、電源の容量や銘柄は言うに及ばず、 PCケースだとか、ケースの冷却に使うファンの銘柄まで指定できて、いろいろ調べて、 秋葉原の集合知というか、2ちゃんねる御用達の部品を集めたような、部品を選んで、 巨大なケースの、そんなPCが自宅に来た。

壊れたDell は、よく設計されていた。ほとんどあらゆるパーツははめ込み式の専用部品で、 たとえばCPUクーラーをカバーするプラスチック部品は、同時にビデオカードを支えたり、 電源コードを押さえつけたり、あらゆる部品は、何か2つ以上の役割を担っていた。 部品には、「そこにある」必然があって、部品の配置だとか、配線の引き回しだとか、 これ以上「いい」やりかたを、ちょっと思いつけなかった。

Dell はその代わり、分解するのは大変だった。電源回路をちょっと外そうにも、 外せるパーツを全部外してまだ足りなくて、CPUクーラーをマザーボードから外さない限り、 裏側に通っているコードが抜けなかった。どこかのパーツを交換しようにも、ほとんど全てのパーツが はめ込み式の、専用設計のパーツだったから、どこか壊れても直せなかった。

汎用部品を組んでもらったサイコムのPCは、Dell に比べると詰めが甘いというか、 部品は規格に従ってねじ止めされているから、裏を返せば「ドライバーが入る隙間」があって、 その分だけ、部品の実装密度が甘く見えた。その代わり、部品を外すのは簡単そうで、 なによりも、どの部品も、「秋葉原まで行けば同じものが買える」という安心感があった。

汎用部品は、部品ごとの交換ができて、交換できるから比較ができて、いろんな人が、比較をした結果を公開していた。 実際のところ、自分の選択がベストなのかどうかは分からないけれど、いろいろ読んで、 目的に合いそうな部品を選択した満足感は得られたから、購入したPC には、それなりに満足できた。

自動車にも「ディレクターズカット」がほしい

今乗っているヴィッツがもう8年目に突入するから、そろそろ新しい車を買おうかな、なんて考える。 普段は1人乗りで、時々2人と1匹に増える使いかたをして、いまは「ラクティス」という、 背の高い車がほしいんだけれど、なかなか難しい。

自分がほしいのは、そこそこ回るエンジンと、固めた足、いいブレーキだけで、 犬乗せるから、内装なんかはむしろ、一番安い、プラスチックのほうがいいんだけれど、 そういうグレードは存在しない。「いいブレーキ」なんてものを目指した時点で、 車は自動的にスポーツグレード限定になって、今度は使いもしないパドルシフトだとか、 滑るばっかりの革巻きステアリングだとか、絶対使わない、むしろ迷惑なおまけが、たくさんついてくる。 自動車を分解することなんて、素人にはもちろんできないから、「お金払ってもいいから、これ外して下さい」なんて やりかたも、やっぱり難しい。

初代プリウスは、試作段階では、けっこう「走る」車だったんだという。

ボディ剛性が高かったからなのか、サスペンショングループが頑張って、 わずかに固めた足回りを作ったら、主査の人が驚くぐらいに、よく曲がって、よく走る車になったんだという。 「走るプリウス」は、たしかに楽しい車だったらしいのだけれど、最終的に、 「これはトヨタの目指す車の方向ではない」ということで、もっと足回りを軟らかくする方向に、修正されたんだという。

プロダクトは、「らしさ」に支配されてしまう。

試作された車は、開発にかかわった技術者ごとに、途中でいろんな個性を身につけるのだろうけれど、 最終的には、たぶん「トヨタらしさ」みたいな、一つの方向に支配されてしまう。もちろん予算の制約だって 大きいのだろうし。

改造車を作るメーカー、トヨタならTRD だとか、日産だったらニスモだとか、 BMW だったら Mスポーツだとか、ああいうところもやっぱり、それぞれの「らしさ」に縛られる。 ちょっとだけ固めた足回りが欲しくても、スポーツを志向する、そんな会社には、「ちょっと」を 求めるのは厳しいだろうから。

自動車は、いろんな技術者の共同作業だから、たぶんそれぞれの技術者が、 かかわった車に対して、「こうしたかった」という思いを持っているような気がする。 映画の「ディレクターズカット」と同じく、自動車にも、たとえばサスペンショングループの、 ボディグループの、あるいは内装制作チームの、それぞれのディレクターズカットを設定してほしいなと思う。

メーカーが販売する一般グレードに、価格を上乗せして、メーカーの、ブランドの「らしさ」とはちょっと外れた、 その車にかかわった技術者の、「らしさ」を購入できたなら、満足感高い気がする。

性能でなく物語に価値が生まれる

プロダクトは、それを個人の手に負える大きさに切り分けて、モジュールどうしの 通信プロトコルを規格で固定することで、多様性を得ることができる。

汎用部品の参入を許す、こうしたやりかたは、モジュールを開発する人、 部品を選んでプロダクトを組み立てる人、それぞれが、好きなスケールで、 プロダクトと対峙できる。

大きなスケールでプロダクトに取り組みたい人は、好きなモジュールを選んで、 一つのプロダクトを組み上げて、それを世の中に問えばいいし、 何かを一から開発したい人なら、とりあえずはモジュールを一つ開発して公開することで、 少ないリスクで、素早いプロトタイピングができる。

最初から「完成品」を志向するやりかたは、大企業でないと難しい。

自動車なんかは、安全のこともあるのだろうけれど、経験知の固まりみたいな機械だから、 今ある大メーカーには、モジュールを志向するメリットがなくて、分割不可能なプロダクトを、 陳腐化させつつ世代を重ねていくやりかたが続いている。

陳腐化を繰り返すことで、同じユーザーに新しい製品を販売できるし、競合者は、業界から締め出されていく。 業界が膨らんでいくときには、こうしたやりかたは有効なんだろうけれど、 多様性は失われて、トヨタなんかは数え切れないぐらいの車を作っているのに、それは「トヨタの車」らしさを どこかで引き継いだ、多様とは対極にあるもの見えてしまう。

購買というものは、つまるところはお金を支払って満足を買う行為で、業界が膨らんでいくときには、 「安さ」とか、「よさ」といった価値パラメーターを満たした製品が最強なんだろうけれど、 購買による満足度が伸び悩んでくると、恐らく「よさ」は力を失う。無理してすごく安くした車だとか、 あるいは今以上に、劇的に高性能な車だとか、今はそういうのを発売しても、満足度は上がらないし、 購買にはつながらないような気がする。

むしろ「自分で選んだ」だとか、「サスペンショングループが本当に作りたかった足回り」だとか、 性能でなく、ユーザー自身の関わりや、そのプロダクトにまつわる物語ごと購入してもらう、 というった価値軸に、満足度が生まれる気がする。

業界で、「モジュール」と「プロトコル」を、できれば国をバイパスする形で作れたら、 ATX 規格のPC みたいに、電動スクーターだとか、できれば自動車だとか、 メーカーをまたいだ「汎用部品」からあれこれ選んで組み上げられたら、きっと面白いと思う。

2009.05.23

Vista がやっぱり遅かった

自宅で使っていたDell のテレビPC が駄目になって、新しいPCを調達した。

新しい機械になって、OSも、最新の Windows Vista に乗り換えて、動作があまりにももっさりしていて、もうどうしようもない。

ノーマルで使いたかった

自分もそろそろいい年から、PCのことをろくに分かりもしないのに「チューン」なんて止めて、 今度買ったVista のPC は、大人の余裕でいい機械を買って、ノーマルのままOSを使おうなんて思っていたんだけれど、 やっぱりVista はもっさりしていて、無理だった。

買ったPC は、Core i7 に3ギガのメモリ、グラフィックボードがGeForceの9500GT だったか、性能的には決して遜色ないものだと思うし、 Vista が表示した「エクスペリエンスインデックス」は5.9 だったから、マイクロソフトの快適基準を満たしているはずなんだけれど、 使ってみると、快適にはほど遠かった。

自分が感覚する「快適」と、マイクロソフトが考える「快適」と、なんだかはるかに隔たっている気がした。

多くの人が、「Vista は遅い」なんて感想を持つ一方で、PC雑誌に寄稿するライターが「決してそんなことはない」なんて反論するのは、 彼らがマイクロソフトの肩を持っているだけではなくて、何を持って「快適」を感じるのか、数値上は「快適」なはずなのに、 どうしてもそう思えない、感覚の、そもそもの基準が違っているのかな、と思った。

遅さにつながる待ち時間

特に「はてなブックマーク」の新着エントリーを一覧表示したときに、自分は、「遅さ」を感覚して、 ごくわずかな待ち時間の増加が、快適度を著しく損ねている気がした。

インターネットで遊ぶときには、今はたいてい、「はてなブックマーク」の面白そうなページからたどるのだけれど、 一覧画面を表示して、マウスのスクロールホイールを「ガーッ」と回したとき、今までのXPパソコンは、遅延することなく、「ガーッ」に画面がついてきた。

Vista にしたら、あたかも画面に質量が加わったみたいに、動作がワンクッション遅れた。 スクロールホイールをぶん回して、回したぶんだけ画面が動くのではなくて、 フォントがいちいち再描画されて、1行1行、すごい勢いで書き直されているような動作。

タスクマネージャーを開くと、8つ並ぶCPUグラフの一つが、100% 近い負荷率をさしていた。 たかだか文字を並べるだけの作業なのに、PCは、やけに一生懸命仕事をしていた。

CADソフトを使っている方の日記なんかでも、 似たような指摘がされていて、Vista というOS は、XP よりも2D 画面の処理がより複雑になって、 それが遅延につながっているみたいなのだけれど、どうしてこういうことをしたのか、 PCの電源入れて、せいぜい使って、インターネットとメールぐらいの、ごく一般的なユーザーとしては、 わざわざ問題を複雑にして、ユーザーから快適さを奪った理由が、よく分からなかった。

結局のところ、いつもの「チューン」に手を出して、スムーススクロールを切って、フォントのスムージングを止めて、 せっかくのAero を切って、ウィンドウの表示を地味にして、なんて順番にやっていったら、スクロールはだんだん軽くなって、 見た目は結局、元のXPと変わらなくなった。

「Aero をオンにしておいたほうが早い」なんて指摘をいくつも見たのだけれど、自分の使い方だと、 クラシック画面のほうが、スクロールが軽く感じた。理由はよく分からない。

待てる遅延と待てない遅延

使ってたときの速さというか、快適さというのは、とても地味なところで決定されるような気がする。

全体の処理時間というものは、快適さにはそれほど貢献しなくて、むしろ全体から見ればごく些細な変化、 ボタンを押してから、外面が変化するまでの速さとか、スクロールホイールに対する反応の、リニアさ加減だとか。

ユーザーは、少なくとも自分は、目的の薄い待ち時間なら、ある程度待てる。

いつも使っているOpenOffice は、新しいPCでもやっぱり遅いけれど、この待ち時間は、どういうわけだか不快に感じない。 Gmail の立ち上がりだとか、ThunderBird がメールを読みに行くまでの待ち時間なんかも、やっぱり遅いんだけれど、不快感にはつながらない。

一方で、ネットのリンクをクリックして、とんだ先がPDF画面だったりしたときには、Acrobat が立ち上がるまでのほんの数秒間が、 とても不快に感じる。スクロールホイールを回した瞬間の遅延なんて、それこそコンマ秒オーダーのものでしかないのに、 我慢できないぐらいの遅延感につながる。

「これからリンク先を読む」だとか、「スクロールした先を読む」なんて、目的がすでにはっきりしているときの待ち時間は、 これはあらゆる機能を偽性にしてでも、コンマ秒を削りに行くべきなんだと思う。

一方で、最初から「待ち」が前提の機能なら、自分なんかだと、OpenOffice は清書目的でしか使わないから、 そういうときの待ち時間は、待っている間に文章考えるとか、頭の中で別のことができて、遅延が不快に結びつかない。

Vista をデザインした人は、ユーザーは、「そもそもパソコンなんか触らない」なんて見切っているような気がする。 お店なんかで、PCを「見た」ときの満足感は、Vista の派手な画面なら、たしかに満足感高そうだから。ユーザー体験というものを、 「使う」ことから得るような顧客は、だからやっぱり、Vista 買っちゃいけなかったのかな、と思う。

今は結局、クラシック画面に戻して、メイリオフォントをMSゴシックに戻して、ディフェンダーを切って、サイドバーも消した。 もはやVista である理由もなくなって、遅延もそこそこ減ってきたのだけれど、それでもまだ、何年も昔に買ったXP パソコン時代の 快適さには、ずいぶん遠い。

他の機能が犠牲になってもかまわないから、ホイールスクロールに対する反応時間をもっと早くする設定とか、 どなたか何かご存じでしたら、教えていただければ幸いです。。

2009.05.20

「グダグダ」駆動型の問題解決手法

政府が「まだ感染の拡大を阻止する時期だ」なんていう立場を崩していない中、大阪と神戸の人たちは、「もう感染は蔓延しているから、発熱外来に患者さんを集中させても意味がない」、という認識を表明して、「蔓延期」のやりかたに舵を切った。

恐らくこれからは、全ての一般病院で通常の診察が始まって、タミフルだとか、検査キットだとか、今まで流通が止まっていた道具が解禁されて、あのエリアは落ち着きを取り戻すんだろう。

新型インフルエンザが、弱毒のまま経過していく、という前提が崩れない限り、神戸や大阪の人たちがやろうとしていること、あるいは、大阪の橋本府知事が最初から言っていたような、「そんなに重たく考えるのを止めよう」という立場が正しくて、そっちのほうがお金がかからないから、他の県もこれから、神戸や大阪に続くのだと思う。

グダグダではあったけれど、結果として日本は、だいたい1週間ぐらいの経過で、世界レベルの、常識的なやりかたに軟着陸しつつある。

方法論として総括するなら、これはもう、リーダーの失政であって、ここまでに至る過程は「最悪」の一言だったけれど、課程の評価をすっ飛ばしていいのなら、「外国に右にならえ」をするわけでなく、地域ごとの試行錯誤を促した帰結として、ボトムアップのやりかたで世界レベルの解答にたどり着いた、と解釈してもいいのなら、「グダグダ駆動」の問題解決というのは、案外「あり」なんじゃないかなと思った。

「グダグダ」を成功させるのにも、必要な条件というものがある。

  • 上層部は、誰もが認める「無能」でなくてはならない。上司が中途半端に有能だと、現場はその人の判断を待って、 自ら動こうとする動機を失ってしまう
  • しかたがねぇな」という空気がアイデアを生む。今の時代、失敗のコストが圧倒的に高くなってしまうのは、たぶん全世界共通で、今更これを変えるのは無理。その代わり、「上司が無能で、組織が傾く」という、有事というエクスキューズが入ったのなら、失敗コストをそのときだけ下げることができる
  • 上司の役割は、だから「無能な上司それ自体が有事」という空気を作りだすことにあって、上層部から、積極的にグダグダ感を発信して、一刻も早く、現場に「有事」の空気を生まないと、グダグダ駆動はうまくいかない
  • 問題を解決するための資源を最初から分散しておかないといけない。タミフルだとか、検査キットは、県のレベルで流通を管理できたから、今回は、アイデアが生まれた。これがたとえば自衛隊管理だとか、国家管理だったなら、知事にできることといえば、国にお祈りするか、クーデターを起こすことぐらいだった
  • 問題の大きさを、知事だとか、市長だとか、「手に負える」大きさに切り分けて、兵站まで含めて、現場に「丸投げ」してしまわないと、「グダグダ」は生まれない
  • 制約要素をあらかじめ宣言しておくと、それが多様性を生み出すかもしれない。今回の事例では、財務省の人たちが、「対策にはビタ一文出す必要を感じない」なんて宣言した。これがもしも「予算も物資も天井知らずだ」なんて宣言だったら、たぶん単なる予算獲得競争になって、アイデアは、問題解決の方向を向かなかったかもしれない
  • 政府の人たちがもしももう少し責任意識が強かったなら、薬品なんかを「国家備蓄」にして、いざというときには我々が積極的に管理します、なんて立場を表明していたのなら、今回のような、「我々は勝手にやる」空気は、そもそも生まれなかった
  • 比較可能な「ものさし」を決めないといけない。今回の状況で行くならば、それは「予算」であって、「外来の待ち時間」だった
  • 発熱外来を運営するのにはお金がかかって、企業や学校の運営停止命令は、経済的なダメージがすごかった。大阪や、神戸の決断は、少なくとも「お金がかからない」だとか、外来の「待ち時間が減る」といった、比較可能な効果をもたらすはず
  • ここで「ものさし」が不在になってしまうと、たとえば舛添大臣が提案している「犠牲者ゼロ」なんてものさしは、これはインフルエンザの流行が終わってみないと、計測も、比較も不可能だから、「グダグダ駆動」ができない
  • 使えないものさしを提示されると、みんなは「汗の量」で、物事を評価する。役立たずでも、「一生懸命やった」ことが評価されてしまうし、有用な対策を打ち出したところで、それに要した「汗の量」が少なかったら、もしかしたらせっかく生まれた合理的なやりかたは、広まらない
  • 上層部は浅ましくないといけない。よさげなアイデアが生まれたら、さっさとそれを「自分の手柄」として自画自賛して、全国に広めないといけない
  • なまじっか上層部が謙虚で、そこで「よりよいやりかたを学ぼう」会議を主催したりすると、いい意味で場当たり的な、うまくいったやりかたは、「委員会」が生み出す鈍重な第2のシステム、牙を抜かれた、役立たずのものになりかねない

限界はあるだろうけれど、日本には、こういうのがあってるような気がする。

2009.05.17

状況記述言語について

ライトノベルだとか、ニコニコ動画を見ながら考えていること。

登場人物が喋りだす

  • 売れたライトノベル「涼宮ハルヒ」のシリーズは、なんだかんだ言ってもよくできている。3冊ぐらい読むと、頭の中で、 登場人物が、勝手にしゃべり出すような印象を受ける
  • 「ハルヒ」の二次創作を、いろんな人が行っている。無数にあるから、適当につまみ食いするような読みかたしか できないんだけれど、読んでいて、自分が持っていた登場人物の印象と、ほとんど矛盾がない。矛盾しないということは、 二次創作の作者さんと、自分の脳内にいる登場人物とは、恐らくはだいたい同じ「人格」を共有できていて、 あの小説はたぶん、文庫本3冊ぐらいの容量で、仮想人格みたいなものを生み出すのに成功している
  • 「面白い小説」と「喋りだす小説」とは、重なりはほんの一部なのだと思う。「ハルヒ」よりも面白い小説は たくさんあるけれど、登場人物が喋らないものも、やっぱりたくさんある。自分が興味のないジャンルの小説で、 やっぱり二次創作がたくさん発表されているものなんかは、恐らくはそうした小説を読んだ人の中では、 やっぱり登場人物が喋ってるんだろうと思う
  • ニコニコ動画でたくさん引用される、「アイドルマスター」というゲームの登場人物もまた、 戦闘機に乗せられたり、三国志世界で活躍してみたり、様々な舞台で、架空の物語に引っ張り出されている
  • アイドルマスターの二次創作作品も、無数と言っていいぐらいにたくさんあって、 それぞれに視聴者がついている。お互いの物語ごとに、登場人物の振る舞いだとか、 考えかたにはほとんど矛盾を感じないから、あのゲームを1本終えると、プレイヤーの頭の中には、 登場人物の仮想人格みたいなものがダウンロードされるんだろうと思う

歌うプログラムのこと

  • ボーカロイド「初音ミク」という合成音声ソフトが売れている。PC に「アイウエオ」を教えるだけでは、 あれは全然足りなくて、声優さんは、様々な音だとか、音どうしのつながりを吹き込んで、 録音している間は、自分が何をやっているのか、よく分からないんだという
  • 「それが人の歌に聞こえる」ためには、最小限必要な音素というものがあって、 あのプログラムを書いた人たちは、それがなんなのか、分かっているのだろうと思う
  • もちろん細かい調整は必要にせよ、いくつも発表されている「初音ミク」の声というのは、 人間が歌っているのと、素人目には区別がつかないぐらいに人間くさい

人格は記述できる

  • 恐らくは「人格」というものは、「ある状況に対する、その人の振るまいかた」なんだろうと思う
  • ボーカロイドと同じく、いくつかの典型的な状況と、状況と状況とをつなぐ「間」みたいなものに対する振る舞いとを組み合わせると、 恐らくは日常生活レベルのほとんどの状況は、そうした「状況記述言語」みたいなものから演繹できる
  • それが言語として、日常生活で遭遇するほとんどの状況を、単語の組み合わせで表現できるようになったなら、 それは「人格」として一人歩きできる
  • 媒体が小説であれ、ゲームであれ、あるいはドラマやアニメみたいなものであれ、人格を生み出すのに必要なだけの 状況-反応系を、媒体の中に埋め込むことができたなら、恐らくはそれを見た人の頭の中に、仮想人格を意図的に生み出せる
  • 小説を読むときに、「想像が刺激される」なんて表現が使われるけれど、個人の想像は、個人の中で終わってしまう。 仮想人格を生み出すために必要なパーツが欠落していたら、恐らくはどれだけ優れた小説を読んだところで、 登場人物はしゃべり出さないし、人格を他の読者と共有できなければ、二次創作は盛り上がらない

それが売り上げに直結するのかどうかは分からないけれど、最近流行しているいくつかのメディアを眺めて、 仮想人格というものは、ある程度意図的に生み出すことができるような気がしている。

何かを見たり読んだりして、登場人物が頭の中でしゃべり出して、どこかお店に入ったら、頭の中の誰かが「これを買ってくれ」なんて 叫びだしたら、広告の世界も、ちょっと面白くなると思う。

2009.05.11

プロカルシトニンの社会的有用性について

今作っているのは「症状」で分類した教科書で、患者さんはたいていの場合、何らかの「症状」を抱えて病院にやってくる。

西洋医学は「臓器」で分類されていて、医師国家試験は全ての臓器を網羅しているから、 医師はあらゆる臓器を診察できることになっていて、「症状」を「臓器」へと翻訳する工程は、 建前上、誰でも問題なくできることになっている。

実際にはもちろんそんなことはなくて、病院にはだから、いくつもの科があって、患者さんはしばしば、 「この患者さんは少なくとも、うちの科の領分じゃありません」なんて、症状を抱えているのに、 いろんな科から「うちじゃない」なんて、理不尽な返答をもらう。

検査の社会的有用性

主治医が決まらないと治療は始まらない。「うちじゃない」問題が発生するような患者さんは、 たいていの場合、どの科の医師にしても、きちんと診療する自信が持てないから、 そういう患者さんを診たときには、どこかの科に「押し込む」ことを考えないと、話が前に進まない。

検査には、医学的な有用さとは別に、社会的有用性というパラメーターがあって、 外来で「うちじゃない」問題が発生したとき、こういう検査が活躍する。

たとえば循環器内科領域には「BNP 」という検査項目があって、これは心不全を持った患者さんで上昇する。

循環器内科以外では提出されない検査だけれど、 胸が苦しいだとか、息が苦しい、という訴えをした患者さんでこれが上昇していると、 その人はもう、間違えなく循環器内科の患者さんであって、担当医は言い訳できない。

BNP は、この検査を提出しなくても、診察にはそれほど困らないのだけれど、 自分たちが「うちじゃない」をやるときだったり、専門施設に よく分からない患者さんをお願いするときだったり、社会的な問題を解決する必要が生じたときに、 この検査は大いに役立つ。

不明熱が難しい

「吐血」や「咽頭痛」みたいな、その症状を受け持つべき専門科がはっきりしている症状なら、 そもそもこうした問題は発生しない。

「呼吸困難」だとか「胸痛」みたいな症状もまた、振り分けが問題になるのはせいぜい2科だから、 いくつかの検査を提出すれば、「うちじゃない」問題は回避できる。

ところが「不明熱」だとか、「全身倦怠感」あたりになると、 そうした症状を生じる疾患は無数にあって、たいていの場合、 患者さんがどの科の門を叩いても、「うちの疾患じゃありません」なんて返事が返ってくる。

今作っている本にしても、簡単なマトリックスを使って、症状ごとに提出すべき検査の図示を試みているけれど、 「熱が出た」という症状と、「だるい」という症状については、こうした図版が破綻していて、 いきなり複雑になって、このままではたぶん、役に立たない。

「熱」や「だるさ」という症状を生じる疾患のうち、疾患名だけで勘定すると、だいたい半分ぐらいが感染症で、 残りのさらに半分ぐらいが、膠原病だとか、血管炎だとか、リウマチ膠原病疾患。残った1/4を、 悪性腫瘍だとか、内分泌疾患で分けることになる。

受け持つべき疾患が一番多いから、「不明熱」の患者さんが相談される先は、何といっても感染症科に なるはずなんだけれど、感染症の教科書には、不明熱の対処に関する記載が少ない。

有名な青木先生の教科書にしても、不明熱に割かれているのはせいぜい20ページぐらい。 原因の分からない患者さんに対して、感染症科ならではのやりかたで疾患名を当てるやりかた、 何かこう「必殺技」的な、「裏技」的なやりかたを期待して読むと、肩すかしを喰った気分になる。

不明熱に関する記載が充実しているのは、むしろリウマチ膠原病疾患の教科書だとか、血液内科の教科書で、 恐らくは「熱があるけれど分からない」患者さんの多くは、「分からないけれど細菌が原因」という状態を 検査で証明できないから、白血球が高いだとか、CRP が高い、といった理由にこじつけられて、 膠原病内科やら、あるいは血液内科に紹介されているのだろうと思う。

新しい検査が門を開くかもしれない

去年ぐらいから使えるようになったプロカルシトニン という検査があって、これが一般診療で普及するようになったら、あるいはこうした状況が変化するかもしれない。

この検査はCRPと同じく、炎症があると上昇するマーカーにしか過ぎないけれど、 細菌感染症に特異性が高くて、膠原病だとか、ウィルスによる発熱のときには、あまり上昇しないらしい。

今はまだ、敗血症の重症度判定に使われる程度だけれど、これが一般内科外来で気軽に提出されるようになると、 「分からないけれどとりあえず細菌感染症」という状況になった患者さんがたくさん生まれる。

この検査の特異度がどれぐらいあるのか分からないけれど、ある程度数字に信頼が置けるのなら、 検査で「分からないけれど最近」と判定された患者さんを、感染症科は断れなくなる。

敗血症みたいな、感染症と診断された患者さんの診療に関しては、この検査が与える影響は、恐らくは微々たるものだけれど、 病院内での医師社会に与える影響はもしかしたら大きくて、今まではコンサルタント的な立場だったあの人たちを、 この検査で「現場」に引っ張り込むことができるようになるかもしれない。

ネットをちょっと調べた範囲では、プロカルシトニンという検査項目を、「うちじゃない」問題の解決に使ってみました、 なんて報告はまだないみたいだけれど、将来的にそんな期待を込めて、今度の版から、 「不明熱」の項目に、プロカルシトニンに関する記述を追加してみた。

うちの病院ではそもそもこの検査が提出できないので、使ってます、とか、あんまり使えません、とか、 これを使って奴らをぎゃふんと言わせてやりました、とか、使用経験のあるかたがいらっしゃいましたら、 使ってみた感覚など、教えていただければ幸いです。。

2009.05.05

イベントドリブンは勘弁してほしい

連休中日。外来は毎日大賑わいだけれど、検疫官の人たちが過労で倒れそうな 勢いで頑張っているからなのか、今のところはまだ、新フルエンザ発生、という話は伝わってこない。

人も増やすみたいだけれど、空港は、今の時点ですでに限界超えているのに、 このままのやりかたを引き継ぐと、ゴールデンウィークあけの入国ラッシュは大変なことになる。 実際のところ、事態はまだ始まったばっかりで、連休あけて、むしろ感染可能性を抱えた人が 入国するのはそれからなんだけれど、ぎりぎりの体制がいつまで続くのか、 検疫官の人たちは頑張っているけれど、上の人たちは、いつまで「頑張る」を 続けるつもりなのか、よく分からない。

縦深は大切

実は政府に何か策があって、どこかで「こういうこともあろうかと」みたいな演出狙ってるならいいんだけれど、 むしろ何となく、「日本だけは大丈夫」的な、上の人たちが根拠のない信念に固まっていそうなのが怖い。

空港レベルで食い止めるやりかたは、塹壕一本に全てを賭ける大昔のやりかたで、縦深を考慮していない。

潜在的感染者が少ないならそれでもいいかもしれないんだけれど、このまま行くと、 一本しかない防御ラインがやぶられたその時点で、そのことが大問題になる。ある意味 破られて当然の検疫ラインなのに、大臣が国会で責任を追及されたりだとか、空港の検疫官が メディアから叩かれたりだとか、ろくでもないことを妄想してしまう。

発熱外来をきちんと準備している自治体はまだ少なくて、少ないまま、このままずるずる様子を見るのは よくない気がする。そろそろ縦深防御に移行すべきなんだと思う。

空港レベルでは住所確認と自宅安静のお願いに徹して、 よっぽど状態の悪い人以外はスルーして、あとは地域の発熱外来が隔離を引き受けるようなやりかた。

地域の役所は、お金がかかるからなのか、「空港の皆様のがんばりを信頼していますから」なんて、 発熱外来の設置を回避しよう、回避しようとしているように思える。

「身内にアメリカ帰りがいて、インフルエンザっぽい症状が」なんて人は、今でも普通に病院に来る。 ちゃんと保健所に電話して確認しているのに、近所の病院に行きなさい、なんてアドバイスされる。 今はまだ、日本国内には「新フルエンザはいない」ことに なっているから、役所的には、市中病院で「問題ない」のだと。

状況を動かすのは怖い

現場はたぶん、みんな怖がってる。新フルエンザ疑いの患者さんを引いてしまったなら、 下手すると自分が、当直あけの記者会見で、全国に間抜け面をさらすことになる。 メディアの人には突っ込まれるだろうし、ただでさえ忙しいのに、日常の業務は回らなくなる。

最近アメリカに行ってきた人なんて、無数にいる。その人たちの友人だとか、身内の人は、もっと多い。 誰かが熱を出して病院に来るだけで、救急外来は恐慌状態になる。新フルエンザは今のところは 弱毒みたいで、本物の患者さんが来たところで、たぶん対応は難しくないんだけれど、 病気それ自体よりも、「病気で食べてる人たち」との対応が恐ろしい。役所はきっと、 そういうところも含めて「現場任せ」だろうから。

受ける側としては、とりあえず弱毒っぽいという見込みが立ちつつある今なんだからこそ、 「戒厳令の練習」だとか、「地域非常事態宣言の練習」だとか、発熱外来の設置をやってほしい。 お金もかかるし、生活が不便になるけれど、今の空気と、それに見合ったリスクと、得られるものは十分引き合う。

検疫官の人たちが倒れるまで使い潰されて、検疫をくぐった人の流れ対しては実質無策で、 国内の体制もぐだぐだなまま、「落ち着いちゃいましたね。よかったよかった」で終わるのは最悪だと思う。 これだけのことが起きたのに、有益な経験が一切得られない。

むしろ弱毒っぽい今だからこそ、政府の人たちが断を下して、空港レベルでの検疫が限界であることと、 迎え撃つ方針というか、戦略の変更を宣言して、政府の名前で、各地方自治体に発熱外来設置を 指示してくれると、現場の負担は減って、きっといろんな経験を積める。

イベントドリブンは勘弁してほしい

第二次世界大戦の昔、上の人たちは、状況の変化に対して実質なんの決断も下すことなく、 現場が疲弊しきるまで同じことを繰り返させた。無理が来て、状況が崩壊すると、 なぜか「やれるだけのことはやった。しかたがなかった」と総括して、 潰れた現場を英雄に祭り上げて、自分たちは同じ場所に留まった。こういうの繰り返しちゃいけないと思う。

今はむしろ、一刻も早く新フル陽性が確定してほしい。陽性の確定診断が発熱外来スタートの根拠になってしまっている以上、とにかく誰かが「陽性」をコールしてくれないと、物事が動かない。

決断には責任が伴うから、政治の人達はそれをしたくないんだろうけれど、こういうのを「イベントドリブン」で決断回避するのは、やっぱり違うと思う。患者が出たから、「仕方なく」全てが動くやりかたは、たぶん役所の上のほうにいる人達は、「いい考え」だと思ってるんだろうけれど、このやりかたは、現場がすりつぶされる。

うちの地域では、発熱外来は「志願制」になっていて、ウィルスの毒性が明らかでなかった当初、 地域に60人以上いる開業医の人たちで、志願したのは10人ちょっとだった。

状況が動くと、いろんなものが見える。日頃「患者様のために」なんて、 診療報酬あげろとか、保証充実しろだとか怒鳴ってる人たちが、実際に「患者様のために」働く機会が やってきて、実際どう振る舞ったのか、状況を動かして、記録して、いろいろ見るのに、 今はとてもいい機会なのだと思う。