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2009.03.30

それが使われる風景を想像する

4年ぶりに改訂したマニュアルに関するお話。

見た目のびっくり度と、視覚に訴えるわかりやすさを押し出した前の版とは考え方を改めて、 今回作った版は、無難であること、使ってくれる人たちに、それを使う理由を提供できることを目指した。

無難は難しい

自分で書いておいてなんだけれど、無難な本を作るのは本当に難しい。

医局で一人、ちまちまとパソコンを叩くだけのもモチベーションを維持するのはもちろん自己顕示欲だから、 とにかく「すごい」ものを、それをみた人たちに、そのすごさが伝わるようなものを目指してしまう。

自己顕示欲に負けてしまったプロダクトは、たいてい惨めな失敗に終わる。

レイアウトが変に凝ってる代わりに読みにくかったり、普通の本なら「ここ」というべき場所に、 当然あるべき記載がなかったり。無難なやりかたには、無難なりの意味があって、そこを無視した本は、 奇抜だけれど使いにくくて、最終的に捨てられてしまう。

「思想」を前面に押し出したテキストは、思想の暑苦しさ故に煙たがられる。 昔書いたマニュアルは、ダウンロードされた数の割には反響はさっぱりなかったんだけれど、 たぶんこのあたりに原因があったのだと反省している。

新しいものには理由がいる

昔の版は、スタンドアロンでとりあえず間に合うものを目指していた。

この方針は、出だしからして間違っていたような気がする。

スタンダードがすでに出来上がっている業界に、あとから割り込みをかけようと思ったならば、 たぶん「何かすごいもの」を作り上げるよりも、スタンダードとして通用している定番商品に、 「寄生」する形での伝播を狙ったほうが、まだ現実的なのだと思う。

昔の版は、あんなものでも内心「ワシントンマニュアルとの置き換え」みたいなポジションを狙っていた。

もちろんかなうわけないし、今の病院業界は、人と違ったことをやったら後ろから刺されても文句言えない場所だから、 そういう状況で、誰が書いたのかも知れないマニュアルをダウンロードして、それを日常業務で使う人なんて、 そもそもいるわけがない。

無理な目標目指して、それを超えるために「よさ」を追求するのは間違った努力なのだと思う。

今回作ったものは、「Current Medical Diagnosis and Treatment 」という定番教科書の、 「日本語目次」として使われることを目標にしている。

CMDT はそこそこ広く使われている内科の教科書で、毎年改訂される代わり、 値段は7000円前後と医学書にしてはそこそこ安価で、 臨床に即した内容が多い。病棟で使うにはちょうどいい本で、以前は日本語版もあったのだけれど、 けっこう売れていたはずだったのに、 なぜか改訂がストップしてしまった。

CMDT は「電話帳」なんて呼称があるぐらい、分厚い割にはヘロヘロの装丁で、重たい本で、索引が使いにくい。 ここにはたぶん、日本語目次の存在できるニッチがある。 今回の版は、「ワシントンマニュアルと真っ向勝負」なんて馬鹿な野望捨てて、 まずは「これを持っているとCMDT 検索するのに便利」を目指そうと考えている。

次に打つべき一手のこと

市販の医学教科書は、ほとんどが臓器別の分類になっていて、たとえば「お腹が痛い」患者さんが外来に来て、 とりあえず腹部レントゲン検査を行ったんだけれど良く分からなくて、じゃあ次にどうすればいいのか、次の一手を教えてくれない。

検査戦略というか、ある症状を抱えた患者さんと検査データとがあって、医師がまだ結論にたどり着けないでいるとき、 次に行うべき一手というものは、アートというかセンスというか、個人の裁量任せになっている。このあたりに 医師ごとのばらつきがあって、ばらつきがあるから結果が不均一で、トラブルに厳しいこのご時世で、 トラブルの多い科に人が集まらない原因になっている気がする。

じゃあ症状別に教科書作るとどうなるかというと、「この病気はどこの症状に入れるべきなのか」という問題が発生して、 収拾がつかなくなる。

おなかの痛くなる病気は無数にあって、たとえば「腸炎」みたいな病気は、吐き気もくるし、下痢することだってある。 医学知識は病名ごとなのに、症状別分類を行うと、知識のおさまるべき場所が全然決まらない。 今はどの教科書も、何人かの先生方が分担執筆するのが常識だから、 分担できないものは、作れない。

今回の版は、症状別に病気を押し込んで、病名ごとに相互参照を行って、 問題ご強引に解決しようと試みた。

これが本当に使いやすいのか、本を開いて、文章があるべき場所に「○○ページ」としか書いていなかったら、 ユーザーはそのときどんな気持ちになるのか、こればっかりは、実際に使ってみないと分からない。

今回の版は、書籍内相互リンクと、もうひとつ、「次の一手」を図示するために、 「テトリス」みたいな図表を導入している。これは一応、症状ごとに主だった病名を列記して、 病名に対する「疾患特異度」を横軸に、症状に対する「判断貢献度」をブロックの大きさで、 それぞれ表現しようとする試み。

素朴な図だけれど、新しいと言えば、これはけっこう新しい試みだと思います。

感想を聞かせていただければ幸いです。

マニュアル一部改訂しました

2009 病棟ガイド の内容を一部改めました。

  • ご指摘をいただいた誤字脱字について、訂正をかけました
  • 文中に出現する疾患名について、リンクを張ることが可能なものについては、参照ページを記載しました
  • それぞれの疾患について、Current Medical Diagnosis and Treatment 2009 年度版への参照ページ番号を併記しました

これでとりあえず、使える形になったと思います。

2009.03.28

2009病棟ガイド

2009病棟ガイドというものを作りました。

ある症状を持った患者さんがいて、その人に何らかの検査がすでに行われている状況で、 「次にどうすれば治癒に結びつけられるのか」の手がかりになるものを目指しています。

まだまだページ内参照も不完全で、疾患名ごとに、定評ある教科書の参照ページをくっつける作業も 残っているのですが、この3週間キーボードを叩き続けて、もうみるのも嫌になってきたので、 とりあえず暫定版を公開します。

まだLaTeX2HTML が通らないのですが、もうしばらくしたらWeb 版を公開できると思います。

2009.03.16

検査に対する富豪的態度

たとえばCTスキャンのデータ、人体の、何十枚もの「輪切り」写真から、 あらゆる異常を探し出すためには、病気に関する知識、人体の解剖に関する専門的な 知識は欠かせない。

ところが「気胸の有無」を調べるためにCTスキャンを切ると、そこに気胸があるのかどうか、 写真を見れば、異常は誰の目にも明らかで、診断を下すのに、もはや医学知識もいらない。

先入観を持たずにデータに当たって、そこから可能な限りの情報を引き出そうとする態度というのは、 人体から取り出せるデータがまだまだ少なかった昔、「より多く読める」ことが「よさ」につながった 時代を、悪い形で引きずっている気がする。取り出せるデータが増えすぎた今は、むしろデータを「雑に」扱う態度、 膨大なデータを、「いい結果」を得るために利用するのではなく、 むしろ「手を抜く」ために、今までと同じだけの成果を、より少ない手間、 より少ない人的リソースでそこに到達するために、利用すべきなのだと思う。

検査が貴重だった昔

昔の検査は、貴重で大切なものだった。CTスキャンだとか、血液検査を一項目だけ 提出するのに、誰かの「顔」を立てないといけなかったり、目の前の機械は空いているのに、 申請書を書いてお願いしないと、機械を動かしてくれなかったり。

検査というものは、それを一度使うなら、そこからあらゆるデータ、 あらゆる異常所見を絞り出さないと、なんだかもったいない気がした。 少ないデータから、たくさんの意味を引き出すためには知識が必要で、勉強しないと知識は 得られなかったから、検査はやっぱり、専門家のものだった。

中央検査室という組織構造だとか、最近のCTスキャンみたいな検査は進歩して、 今は誰かの「顔」を気にすることなく、クリック一つ、チェック一つで、研修医でも、 莫大な情報が簡単に手に入るようになった。データの量は、今度は多すぎて、 その中から全ての異常を読み出すためには、やっぱり専門家の力が要った。

富豪的なやりかた のこと

莫大なCTスキャンデータからあらゆる異常を拾い出そう、という態度は、 検査データがありがたいものだった時代の、貧乏くささを引きずっているような気がする。

検査に対して「富豪」的な、膨大な検査データを前にして、 それを全然ありがたがって見せない態度を取る文化というのは、 たとえば聴診器で丁寧に診察すれば診断できるような病気に対して、 あえてCTスキャンを切ってみたり、血液生化学検査のセット採血みたいな、 「面」のデータが得られる検査をとりあえずオーダーして、話を聞けば診断できるような病気を、 あえて検査に頼るようなやりかた。

莫大なデータを丁寧に評価すれば、もちろんいろんな異常が見つかるのかもしれないけれど、 富豪的なやりかたは、そんなデータを、特定の症状から考えられる、 ある病気の有無を評価するためだけに用いて、残ったデータは、見ないで捨てる。

せっかくのデータを生かさないで使い捨てにする、富豪的なやりかたは、無駄が多いその代わり、 人間の負担を最小にする。

問診だとか、聴診は大変だし、それを行う人間の訓練が不十分だと、間違いも多い。 富豪的なやりかたは、患者さんの症状を聞いたら、あとは検査にチェック一つ入れるだけだから、 人間がどれだけ無能であっても、同じ結果にたどり着ける。電気代だとか、試薬代はかかるけれど、 人間側の負荷だとか、ばらつきは最小にできる。

ていねいに診察して、あやふやな答えに訓練で精度を上げるやりかたは、たしかにお金がかからないけれど、 CTスキャンの「ありがたさ」に、人間が負けているような気がする。

診察なんてしなくても、CTスキャン一発で、ほぼ100%確定診断できるケースはたくさんあって、 特に特定の病気を想定して、その有無だけを判断するような使いかたをする限り、 CTみたいなたくさんのデータをもたらしてくれる検査は、人間側に足りない知識を補ってくれる。

量が質に転化する

正しい先入観を持って使われた莫大なデータは、人間の知識を補完して、 その人に、実力以上の診断能力をもたらしてくれる。

使う目的があいまいである限り、最近の検査の、莫大なデータ量は、単なる「量」であって、 質的変化が生まれない。

ノーヒントで「異常の有無を診断してください」みたいなオーダーをすれば、 放射線診断の専門家ですら、たくさんのCT画像の中から、異常を全て発見するのは難しい。 目的のあいまいな依頼に応えるためには、「質」の担保を人間側が行う必要があって、 データの量が増えたなら、負担はそれだけ増えて、質は低下してしまう。

ところが目的を絞った状態で、たくさんのデータを目の前にすると、データの量が、診断の質に転化する。

  • 「気胸の有無」を診断するのにCTスキャンをオーダーすると、解剖の知識がなくても、 誰にでも、肺がしぼんでいることが診断できる
  • 今のCTは、患者さんの画像データを筋肉だけの3次元模型に再構築して、リンパ節のデータだけを、 そこに重積できる。癌に関する知識、外科の知識が一切なくても、 「このリンパ節が腫れてるから切除しましょう」なんて方針が、 今では誰にだって下せるようになっている

自分たちは昔、「先入観を持つな」と教わった。データに対して先入観を持ってしまうと、 全ての異常を見いだすことができないから、と。

これからはむしろ、健全な先入観を持って、データに対峙すべきなのだと思う。

ある症状の患者さんを見たら、その症状から致命的な経過をたどりうる病気はいくつかに限定される。

まずはそれを見つけるためだけに、目的を限定してからデータに対峙すれば、データの量は質に転化して、 恐らくは人間の足りない知識だとか、集中力を助けてくれる。

莫大な知識を持って、わずかなデータからできる限りの意味を引き出すのが昔のやりかたなら、 莫大なデータ量に、先入観で絞り込みをかけることで、属人的な知識とか、 判断力の追放を試みることが、これから目指すべき方向なんだと思う。

2009.03.10

平凡なおもちゃの非凡な価値

  • 問題が簡単そうに見えたなら、その人はまだ、問題の複雑さを理解できていない。 「解答」に驚きを感じたなら、そのプロダクトは、まだ完成していない
  • 問題に突き当たって、その複雑さを理解できた人が作ったものは、たいていの場合、複雑すぎたり、 あるいは新しさが必要以上に強調されて、受け入れられない。ここが出発点になる
  • 複雑すぎた第一世代は、洗練を経て、平凡に回帰する
  • 新しいけれど複雑な製品は、どこかで根本的な何かを突破して、シンプルで、画期的な何かへと生まれ変わる。 本当に画期的な製品は、誕生と同時に、常識を上書きしてしまう。それは一見すると、 なんだか昔から存在していたような、誰でも思いつきそうな、平凡なものに見える
  • おもちゃはしばしば「本物の道具」よりも役に立つ
  • 「おもちゃ」のおもちゃらしさというのは、使いやすさであり、見通しの良さであり、応用可能性の高さなのだと思う
  • もしも使いこなすことができれば、ビルでも造れるような重機は、たいていの人が「すごい」と賞賛するけれど、 自分でビルを建てるという需要を持った人はほとんどいないから、普及しない。すごいのに
  • 「重機のすごさ」を否定する人はいないけれど、ちょっとした本棚を作るだとか、 家庭菜園を掘り返すのに、普通の人は、重機を使わずシャベルを使う。ちゃちだけれど十分に用が足りる、 そうした製品はシンプルで使いやすいから、生活の、いろんな場面で使われて、応用されていく
  • 「ユーザーの身の丈にあった想像力を刺激すること」が「おもちゃ」のありかたであり、それを目指すべきなんだと思う
  • 手が届くこと。それを使っている自分が想像できること。技術の見通しがよくて、 シンプルで、あまつさえ「平凡」に見えるプロダクトが、たぶん世の中を大きく動かす

2009.03.06

制約に関する覚え書き

昨日の続き。

考えたこと

  • 話を簡単にするために、「主人公」と「世界」とを設定する。ロールプレイングゲームみたいなもの
  • 主人公の自由度が無限大で、世界の制約要素がゼロであるとき、主人公には意味も目的も発生しないから、 動けない
  • たとえば主人公に「いつか死ぬ」という制約を付加すると、主人公には「生きる」という目的が生まれる
  • 制約を一つ加えるごとに、主人公には意味が一つ増える。主人公の自由度が一つ増すごとに、 世界からは、制約の意義が失われていく
  • 制約と媒体とは、しばしば間違えられる。「飛べる」という自由度に意味を与えるために 必要なのは、「高い山」や「大きな湖」であって、「空」ではない
  • 最終的に、主人公が取り得る全ての動作に、何らかの意味が発生するように、世界の制約が デザインされると、ユーザーは、最大の自由を感覚できる。これがよくできたゲームなのだと思う
  • 世界から意味を付加されることのない、主人公の自由度は、ゴールに向かわない選択肢を増やして、 ゲームの目的をあいまいにしてしまう
  • 動作の意味づけに貢献できない、過剰な制約は、ユーザーに不自由さを感覚させてしまう
  • 主人公の動作可能性を最大に保ちつつ、それぞれの動作が意味を持つよう、世界に様々な 制約を盛り込んでいくことが、デザイナーの目的なのだと思う

突っ込まれたこと

  • 制約がゆるいと何でもできるから、ゴールに向かわない選択肢が増える。「パズル系は、 その中からゴールに向かう数少ないパスを見つけるのがゲームの目的ではある」という指摘をいただいた。 どう扱っていいのか、自分には分からない
  • 「無限にお金を持っているアラブの石油王は、じゃあ世界で一番不自由なのか?」という指摘をいただいた。 こういう突っ込みに対しては、自分の仮定で行くと、「お金がないとものが買えないという制約が、 お金を持っていることに意味を与えているから、お金持ちは自由」と逃げられる
  • いくらでもメタな方向に逃げられる時点で、こんな考えかたには、まだまだ穴がある

2009.03.05

制約が自由を感覚させる

自由が行き過ぎるとテキストになる

次世代のインターネットだとか、ユーザーの自由度が極めて高いだとか宣伝された 「セカンドライフ」は、むしろ不自由な世界だったのだろうと思う。

セカンドライフ世界では、ユーザーは街を歩けるし、誰とでも会話が楽しめるし、 いろんな品物を購入できて、空だって飛べる。たしかに何でもできるんだけれど、 ユーザーの自由度をもっと増して、たとえばユーザーが「壁抜け」自由になって、 「テレパシー」機能が実装されて、会話が全て盗聴できるようになったなら、 ユーザーにはもはや、「歩く」だとか「飛ぶ」、会話をするために誰かに近づいたり、 街の中で誰かを捜すといった行為に、理由がなくなってしまう。

自由度が増すと、ユーザーを取り巻く世界は、だんだんとその意味を失っていく。

ユーザーは歩けるし飛べるけれど、遠くが見えないし、壁を抜けることもできない、 そんなセカンドライフ世界から始まって、ユーザーに様々な「自由」を付加していくと、 地形だとか、複雑な建物だとか、世界に用意された様々な制約は、意味を持たなくなってしまう。

ユーザーが最大限の自由を得た先にあるものは、ありきたりなチャットサービスだとか、 テキストメディアを主体にした、旧来のインターネットそのものなんだろうと思う。

制約が意味を生む

キーボードを使ったおしゃべりしかできないチャットサービスと、 現実世界そのままの風景が楽しめて、殺人以外は事実上何でもできたセカンドライフ世界と、 ユーザーの自由度は、セカンドライフのほうが高そうに見えるけれど、 その「自由」というものは、セカンドライフ世界に実装された、 様々な「制約」から作り出された。

セカンドライフ世界では、ユーザーは、壁だとか、建物をすり抜けられないし、 遠く離れた相手がどこにいるのか、探さないと分からない。「できない」ことが、 歩くだとか、向こう側を見るだとか、そういう行為に意味を付加して、 ユーザーは、自由を感覚する。

セカンドライフ世界では、離れた相手とは会話ができない。世界に「距離」という制約が導入されて、 ユーザーには、世界を移動して、相手を探すことに、合理的な理由が生まれる。

テキストしか使えないTwitter 世界では、そもそもあらゆる会話がタイムラインで素通しだから、 誰かを「探す」理由が生まれない。そこにいない相手であっても、会話に @ をつけるだけで、 簡単に「声」を届けることができる。

「見る」とか「探す」、「移動する」といった手続きは、Twitter 世界では、なんの意味も持たない。 意味がないから誰も試そうとしないし、結局みんな、テキストでのおしゃべりに収斂してしまう。

デザインされた制約が自由を作る

テキストを用いたおしゃべりというやりかたは、だから「不自由」なのではなくて、 逆に自由すぎる環境が、あらゆる行為を無意味化していった結果として、 全ての人が、同じやりかたに収斂した結果なのだと思う。

「何でもできる」ことは、多様性を殺してしまう。

相手を探す必要のない世界では、探索することに意味が生まれない。どんなに見事な風景を作っても、 1 回通り過ぎたら飽きられる。

グラディウスのフォースフィールドが無限に強くなったら、地形も抜けられるし、弾に当たっても死ななくなる。 ユーザーの自由度は最大になるけれど、動くことに一切の理由がなくなるから、 ゲームはつまらなくなってしまう。

実際の制約の少なさと、ユーザーの感覚する自由さとは、たぶん同じ方向を向いていない。

ユーザーが「なんて自由度が高いんだ」と思えるゲームは、他のゲームに比べて、 ユーザーに許される選択枝の幅自体は、それほど変わらないのだと思う。

「自由なゲーム」はその代わり、導入した制約によって意味を与えられた動作や戦略に自覚的で、 世界を一連の制約としてデザインするから、ユーザーにとっての意味のある選択枝が、 他のゲームよりも多くなっている。

「ユーザーは何でもできる」を素直に実装してしまうと、ユーザーは、 たぶん「最適なやりかた」に収斂してしまって、結局ユーザーは、自由さを感覚できない。 ゴールに向かわない選択肢がいくら増えたところで、それは実装者の独りよがりに過ぎなくて、 ユーザーはたぶん、それを「自由」とは認識しない。

多様であるためには、トレードオフがなくてはならない。

トレードオフを上手にデザインできたルールの下では、それぞれの選択枝に、 優劣が発生しない。どれを選択しても、長所と短所が必ず発生して、選択が、 本質的な優劣を生まないような状況になって、はじめてそのゲームは、 「選択枝が多様で自由である」と認識される。

多様性を担保するものは、自由さそれ自体よりも、むしろ制約デザインの巧妙さなんだろうと思う。

追記。「それを選択できる」ことと、「それを作ることができる」こととは、自由度の点では同じだけれど、 後者のほうが、ユーザーは、より自由を感じる。行為と意味とが、後者のほうが、より一体化しているような気がする。

ウルティマオンラインの「バッグボール」は、ゲーム世界の 部品を使って、ユーザーがルールを作ったけれど、たとえば後発のゲームメーカーが、 より洗練されたゲームを、ゲーム世界内で遊べるようにしたところで、ユーザーはそれを進歩と感じないかもしれない。

2009.03.02

「悪い人」とはつきあいやすい

ソセゴン中毒のこと

麻薬系鎮痛薬の依存になってしまって、いろんな病院を転々とする人がときどきいて、外来でトラブルの種になる。

パターンはだいたい決まっている。外来では診断不可能で、実際痛くて、 入院中は、たしかに痛み止めとして、麻薬系の鎮痛薬を使うような病気を訴えるケースがほとんど。

  • 「慢性膵炎で東京の病院にかかっている」
  • 「今出張中で、紹介状も薬もない」
  • 「痛みが強かったらソセゴンをうってもらえと主治医に言われている」

このあたりがキーワードになる。痛くて車いすに乗ってくるとか、 しわくちゃの、なぜか電話番号だけ入っていない、大学病院の紹介状を一緒に持ってくる人もいる。

痛みというのは患者さんの言葉を信じるしかないから、こういうのは実質診断不可能なんだけれど、 今はそもそも、「外来で麻薬をうってもらいなさい」なんて指示を出す同業者はいないはずだから、 「麻薬うってくれ」という訴えは、それを根拠に断ることになる。

悪い人は怒鳴って帰る

みんな「薬」が切れてから病院に来るから、いらいらしていて、 もちろん注射は断られるから、自分たちはたいてい怒鳴られる。

医師が患者さんに「負けて」、麻薬を出しちゃうと、以降その病院が「かかりつけ」になって、 自称慢性膵炎の人がたくさん来て、そこから先は大変なことになるらしい。出したことないから分からないけれど。

面倒なんだけれど、こういう人はその代わり、良くも悪くも「麻薬をもらう」という、 明確な目的を持った「プロ」だから、こっちが謝り倒して薬を出さないでいると、 時間の無駄だから、すぐに撤収する。

外来では、もちろん怒鳴るし、机を蹴るし、名札をにらんで「街で会ったら覚悟しとけよ」とか、 「お前は医者なのに、痛くて苦しむ患者を無視するのか」だとか、「この薮医者が」とか、 いろいろ言われるんだけれど、こういうのは歌舞伎の「見得」に似ているところがあって、 様式美だと割り切れる。

「いい人」たちはあきらめない

やっかいなのはむしろ、「いい人」たち。

選択枝の中に「撤収」の文字がなくて、 「目の前のかわいそうな馬鹿医者を、私が献身的に教育してあげよう」なんて、 行動が、良心で駆動される人。

良心というのは本当にやっかいで、目的必要なくて、絶対引かずに、ちょっとでも要求呑んだら、あとは際限がない。

「いい人」と対峙してしまったら、「よさ」を押し売るその人を、 あたかも人生の師匠であるかのようにあがめでもしない限り、 そういう人は満足しない。外来回らないし、帰しても「次」があるから、終わらない。

「悪人」は、つきあいやすい。目的をきちんと持った人と対峙するぶんには、 自分にできることと、そうでないこととの境界が必ず決まる。「悪い人」は怖いけれど、 お互いにやれることが明らかだから、「分」をわきまえさえすれば、何とかなる。

「いい人」は、目的を定義しない。自分の「よさ」を担保に、 相手の懐から、あらゆるものを奪い尽くすまで、よさの押しつけを止めない。 よさを押しつけられる側からすれば、彼らのやっていることは略奪なんだけれど、 彼らはそれを「正当な取引」だと信じて疑わない。

「よさ」の引き受けと取り付け騒ぎ

同じ怒鳴られるのでも、「この人は、目的達成のために、 怒鳴るという手段を選択したんだな」なんて分かっているときには、ダメージはない。

外来では、お互いぎりぎりの信頼はあるし、相手は怒鳴って、自分たちは無能で哀れな医者を演じて、 お互いが「プロ」の範囲で演じる限り、話はそれで終わって、相手もすぐに撤収する。

どちらかが「プロ」であることを止めてしまうと、相手なら警察行きだし、 自分たちが「プロ」を止めれば、以降その病院は「かかりつけ」にされて、骨までしゃぶられる。 怖いけれど、ルールは分かりやすい。

「いい人」の、目的意識のない、「ただ医師に腹が立ったから」とか、怒鳴ることで、こちら側を「矯正」してやろう、 なんて思いの元に発せられた「怒鳴り」は、どう対応したら相手が満足するのか、 そもそもそれが見えないことが恐ろしい。

「いい人」は怖い。彼らはいつも感謝して、いつも全面的にお任せで、 こちらが欲しがってもいない「よさ」を、ふだんからがんがん押しつけてくる。

「いい人」は、ふだん「いい人」であることそれ自体を「貯金」みたいなものだと考えていて、 いざというとき、医師の側から無限に「預金を下ろせる」ことを、心から信じて疑おうとしない。

取引の考えかたが成立しない、こういう人からの「よさ」を一度受け入れてしまうと、 「よさの貯金」が一方的に開始される。その人が、どこかのタイミングで「裏切られた」と感じたとき、 「よさの取り付け騒ぎ」が起きて、大変なことになる。

「よさ」を引き受けることと、麻薬中毒の患者さんに、外来で麻薬を処方してしまうこととは、 だから同じぐらいに危ないことだと考えないといけない。

よさの引き受けも、麻薬の処方と同じく、やってはいけないことなんだけれど、 「よさ」という価値に目をくらまされて、それをやって深みにはまった同業者は、 きっと多いんだろうなと思う。