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2009.02.28

ユーザーは狭く見る

Google の新しいブラウザ 「Chrome 」を使った感想。

Chrome は速く感じる

今まで使っていて、なんの不便も感じていなかった Sleipnir が、どうにも調子が悪い。 中で動いているIE8 の問題なんだろうけれど、 blog の更新だとか、コメント欄の管理だとか、エラーが頻発する。

いい機会なので、常用するブラウザを、Google Chrome に変更したんだけれど、これはたしかに速く感じる。

自分には、技術的なことは何一つ分からないし、普段見ているページのほとんどは、 文字しかないようなページばっかりだから、ブラウザの本当の速さ、 内部処理の速さだとか、実装のすばらしさだとか、そういうのは全然分からないんだけれど、 素人がちょっとさわってもびっくりするぐらい、Chrome は速く「感じる」。

このブラウザは、ユーザーへの「速さの見せかた」に、気を遣ってデザインされている気がする。

Sleipnir にしても、Firefox にしても、タブブラウザを使う人たちは、いちいちページを開いたりしない。 「お気に入り」をフォルダごとクリックして、タブを一度に20も30も開く使いかたをする。 フォルダを開くと、タブが一気に開いて、タブの横には、進捗状況が棒グラフで図示されて、ちょっと待つとタブを開けて、 それぞれのページを閲覧できる。

Sleipnir だとかFirefox は、ユーザに対して「正直」であることを優先して、デザインされている気がする。 進捗状況は正確だし、ブラウザが一生懸命動いているのはよく分かるんだけれど、 リンク先のページが、ある程度「見られる」状態になるまではタブを開けない。 それはほんの1秒か、その半分ぐらいのことなのに、たしかに「待つ」感覚がある。

Chrome はたぶん、そういう意味では嘘をついている。

タブをまとめて30ぐらい開いても、Chrome のタブは、あたかも「いつでもどうぞ」みたいなアイコンを出す。 開いてみれば、そのページはまだ空っぽなんだけれど、Chrome はそれでも、タブを開ける。

ダウンロードが終わるまでのほんの数秒間、Chrome は、その間にもユーザーにできることがあって、 それがなんだか、すごく速いブラウザをさわっている気分にさせてくれる。

「使える奴」の動きかた

何かをお願いしたあと、たぶんたいていの上司は、その人が視界から消えるまでの時間でもって、 その人の「使える度」を判断する。

問題解決のプロセスは、上司からは見えない。見えないものは、評価できないし、評価の対象にはされない。

「まじめなグズ」は、まじめだから、上司がいる目の前で、問題の検討を行って、分からないことは、目の前の上司に尋ねる。 やりかたは正しいんだけれど、「まじめなグズ」は、上司の視野からいつまでも立ち去らないから、ウスノロ扱いされてしまう。

「使える奴」は、問題の解きかたを知っていようが、知るまいが、問題を依頼されたその瞬間、ダッシュして、廊下の陰に隠れる。 上司の視界から身を隠しておいて、あらためて、問題の検討を行って、分からないことは、上司以外の誰かに尋ねる。 そのやりかたは効率悪くて、結果が帰ってくるまでの待ち時間は、「まじめなグズ」よりよっぽど長いのに。

「使える奴」は不真面目で嘘つきで、それなのに、あるいはだからこそ、上司から「使える」という評価を手に入れる。

Chrome というブラウザには、すごい内部構造とは別に、そんな「嘘つきの名人」が、 ユーザーの体験を設計している気がする。 速度感をユーザーに体感させるために、ブラウザには、あえて不自然な動作をさせてるような印象。

ごくごくわずかな差でしかないんだけれど、その「速さ」はたしかに気持ちがよくて、 しばらくはこれを使ってみようと思わせる。

同じGoogle が作っている「Gmail 」にも、そういうデザインがされているらしい。

Gmail は、普通のWebメールと違って、全てのメールが読み込まれてから表示される。メールの一覧が表示されるまで、 Gmail はわずかに待つけれど、そのときにはもう、全てのメールが読み込まれているから、 メールを一件一件開くときには、全く遅延がない。他のWeb メールは、最初にリストが読み込まれて、 メールを開くためにクリックすると、メールをサーバーまで取りに行くから、ごくわずか、待たされる。 コンマ数秒の、わずかな差なんだけれど、けっこう大きい。

Gmail のやりかたは、最初にリストだけ読み込んで表示する、もっと常識的なやりかたに比べれば、 ユーザーの待ち時間はむしろ長いのに、ユーザーは、立ち上がるのが遅いメーラーソフトで、 一覧が表示されるまでに「待つ」ことには慣れているから、そこはそれほど気にならない。

Gmail は、メールをクリックしてから、それが開くまでの時間を最小化することに特化されていて、 それが「軽快さ」という感覚につながっているのだという。

名前がほしい

ゲームの業界には昔から、こういうユーザーを「欺く」ためのノウハウみたいなものを持った人が活躍できるらしい。

ゲームの要素技術は、現実にそれが正しいかどうかよりも、「正しいと感じられるかどうか」、 すなわち理論的整合性よりも心理的整合性をより強く要求されるのが常であり、 これはとりも直さず被験者の心理状態を操作するということである。 shi3zの日記

限界がある中で、正直にやったのでは、ユーザーの満足につながらない場合、 あるいは正直な競合者に対して、ユーザーを上手に「欺く」ことで、自らの強みにするやりかたというのは、 たぶん「センス」の一言で片付けられてしまうんだろうけれど、もったいないなと思う。

昔の内視鏡クリップは、手先の器用な助手が、いちいち装着しないといけなかった。2mm ぐらいの小さなパーツだから、 慣れないと難しいし、不器用だともっと難しい。

クリップの装着は、若手の技師さんとか、研修医の仕事だった。検査技師の仕事だとか、 あるいは研修医の技量の中で、「クリップ装着」なんて、それこそ直径2mm のクリップぐらいの価値しかないのに、 それは通過儀礼みたいなものだったから、「できる奴」と「使えない奴」は、クリップで選別された。

クリップをくっつけるのが下手な研修医は、実は内視鏡をやってみたら天才だったとしても、 「こいつは使えない」という先入観の中で、内視鏡を学ばないといけない。 たぶん「クリップ装着が下手」という理由で、内視鏡あきらめたり、内科自体が嫌になった人がいるような気がする。

今のクリップは、買ったら5円もしないような、プラスチックのさやの中に格納されていて、 素人が目をつぶってたって、ワンタッチでクリップがつけられる。クリップ装着なんて、 そもそもこの程度のものでしかないのは自明だったのに、当時はみんな、 「クリップ」こそがユーザー体験の全てだったから、人間は、それで判断された。

それが顧客であっても上司であっても、ユーザーから見える世界を測定して、 それを上手に欺くためのやりかたを、学問として名前をつけてほしいなと思う。

名前を持たない、実体のあいまいなものは、あいまいだからお金につながらないし、 あいまいだから、それが一人歩きすると、「クリップ一つで全人格否定」みたいな、 おかしな現象が起きてしまう。

Chrome の速さだとか、Gmail の軽さみたいな感覚を、もうすこしきれいに言語化できると、 幸せになれる人が多いと思うんだけれど。

2009.02.26

才能がなかった

昔話。

研修医の頃

「研究」と「臨床」と、自分たちの頃は、卒業生がとるべき進路は 真っ二つに分かれていて、自分は臨床で名を上げたくて、そっちを選んだ。

忙しくて、厳しい研修をさせる病院に入って、バタバタと走り回って、何とか走れた。 走れたことで自信ついて、自信あったから、大学医局に入った。

新しい環境に慣れるのには相当に時間がかかったけれど、大学でも、 それなりに居場所ができて、そこは居心地がよかった。今から思うと勘違いだったんだけれど、 居心地よかったから、自分はきっと、そこそこすごいんだろうなと思ってた。

地方会に症例発表をする機会があって、田舎の大学は駅から遠いから、 駅までの道のりを、下級生の車で送ってもらった。

昔も今も、下級生には上級生を持ち上げることが義務づけられているから、道中の車内は、 もちろん自分の大自慢大会になって、下級生は「わぁすごいですねぇ先生」なんて、賞賛してくれた。

それはたしかに賞賛だったんだけれど、何か違ってた。ほめてほしかったのは、 たとえば臨床医としての判断力だとか、心臓カテーテル検査の腕前だとか、 そういうかっこいい部分だったのだけれど、出てこなかった。

下級生から見た自分の「すごさ」というのは、 たとえば誰も興味を持っていなかった、患者さんの食事の好みに詳しいだとか、 当時の病棟では、みんなが使い捨てにしていた人工呼吸器のパーツから、 新しい呼吸回路を組み立てられることだった。

下級生の風景には、自分という人間は、要するに、御用聞きとゴミあさり、廃物利用の エキスパートだった。彼らはそれを、たしかに「すごい」とほめてくれたのだけれど。

心臓カテーテル検査の腕前みたいな、かっこいい、競合者の多い、 みんながそこを目指していた序列の話になると、もう自分の名前は出てこなかった。

「先生はすごいですよね」なんておべっか使われながら、車の中で、 「自分は全然すごくないんだ」ということに気がついて、なんだかそのとき、 世界はずいぶん変わって見えた。

才能がないから成功する

「ブルーマングループ」という、米国で成功したパフォーマーの人たちは、 「才能がないことが成功の秘訣」なんだと語っていた。

「何の才能もなかったね。だから自分たちで楽器を作った。 楽器を作ることに才能が無くても、自分たちで作れば、 演奏者としてトップになれるからね」 ブルーマンを生み出した3人が語る秘密 – ブルーマンワールド

彼らには才能がなかったから、競合者のいる場所では、競争に勝てなかったから、 彼らは楽器と、たぶん世界を自作した。

彼らの音楽は、だから世界のどこにもないものだったから、それから15年、今でも成功し続けているのだと。

すでに出来上がった、「型」に追従していても、一番手には絶対に追いつけない。

劣化コピーには、「安い」という以上の価値が発生しない。そこでどれだけ頑張ったところで、 努力の成果は安く買いたたかれるし、もっと安価な新人は、ニッチを下から脅かす。

居場所というものは、自分で作り出さないといけないものなんだと思う。 たとえ先人のやりかたを継承するにしても、その人独自の見せかただとか、 切り口は、やっぱり自分で作らない限り、その人は絶対に、一番手にはなれない。

臨床頑張って、心カテ頑張って、自分は結局、芽が出なかった。

それでもその代わり、忙しい研修期間を通じて、大学の人たちが興味を持たなかった分野の知識が少しだけ身について、 「主流」とはかけ離れた、ちっぽけな知識が、自分に居場所を提供してくれた。そのときは気がつかなかったし、 むしろ自分にとって、それは余計な夾雑物にすら見えたのだけれど。

何かに「乗っかっている」と感じたその時点で、その場所は、沈みゆく泥船に変貌してしまう。

努力だとか、才能はもちろん大切なんだけれど、努力が成果に結びつかないことなんてしょっちゅうだし、 才能は、ない人間がいくら望んでも、もうどうしようもなく、手が届かない。

居場所というものはその代わり、かっこよさを望まなくていいのなら、 才能がなくてもたぶん、手持ちの部品でどうにか作れる。

自分にしかできない何かを身につけること。他の誰もが、それまで興味を持たなかったような場所を探すこと。 あるいは、自分が継承してきた何かに、新しい価値を探してみることが大切なんだと思う。

2009.02.23

「分からない」から始める医療

「トップナイフ」という、外傷外科学の教科書から。

外傷性ショックという状況

  • ショック状態というものを理解しなくてはならない。血圧が60mmHg に低下した患者に対して、皮下の出血点を一つ一つ焼くような外科医は、外傷外科に向いていない
  • 出血と虚血とでは、治療優先順位が異なる。生命に直結する出血は、直ちに対処しなくてはならない。たいていの虚血は、数時間の幅を持たせてよい
  • 外傷外科においては、たとえ結果が悪い方向に転んでも、何とかなるやりかたを考えないといけない

冷静さについて

  • 効果の期待できない操作を繰り返す術者は「呪的反復」の状態に陥っている。本人だけがこれに気付かない
  • 背景状況の変更、視野の改善や、器具や助手のような、何らかの変更を前提にしたときのみ、反復という選択に意味が出る
  • 止血鉗子を握りしめて、盲目的に血の海に突っ込むことは、初心者の陥る過ちの典型である
  • 「指で押さえる」「臓器を両手で圧迫する」といった原始的なやりかたは、止血鉗子に勝る
  • 優れた外傷外科医は「何もしない」ことも、選択枝の一つであることを理解している

ダメージコントロールの考えかた

  • 外傷の手術には、大きく「一気的な根治」を目指すやりかたと、「ダメージコントロール」を目指すやりかたとがある
  • 生体には、そのとき許容できる「受容可能侵襲量」という考えかたがある
  • モニタースクリーンの数字が正常範囲であったとしても、患者が受けた侵襲の累積値が一定量を超えた場合には、手術の中断を考えなければならない
  • ダメージコントロールは、根本的でなくても、そのとき許容可能な侵襲の範囲内で、問題の部分的な解決を試みる
  • そのときにできる必要最低限の処置は何か、根治は後回しにできないか、外傷外科医は常に問い続けなくてはならない

軽い損傷と重大な損傷

  • 「軽い損傷」と、「重大な損傷」とを区別しなくてはならない
  • それが重大な損傷ならば、術者は一時的な止血ができた時点で、一度その場で「停止」しなくてはならない
  • そこから先は修羅場になるので、輸血や手術室の準備といった、周辺状況が整うまで待たないと、兵站が追いつかない
  • 「迅速な止血操作で一気に勝負をつける」誘惑に負けた外科医は、患者を失ってしまう
  • 重大な損傷に対峙するときには、「手術操作を続ける」という衝動と戦わなくてはならない
  • チームが「何でもいいから動き続けよう」という意識に陥ったときに、全血を失うような事態が生じる
  • 損傷の軽重は、全体を見て判断されなくてはならない。「軽い損傷」ならば治癒を目指せる傷であっても、 状況でも、体全体としての損傷が重いのならば、一期的な治癒よりも、上手な撤退を優先しないといけない

蛮勇を捨て、常識に頼る

  • 教科書に図示されているような、見栄えのいい、複雑な術式は実際の手術現場では役に立たない
  • 単純で、凡庸なやりかたを選ぶべきで、曲芸は避けなくてはならない

このあと全臓器の損傷について、最悪の状況を回避するためのやりかたが語られる。

内容を、「状態の悪い人を生かし続ける」ことに限定してあって、 本は250ページしかないのに、一応人体全部を網羅していて、よくまとまってた。

内科のこと

以下私見。

内科の患者さんについてもまた、同じ症状に対して、それを「ちょっと治す」状況と、 「がっちり治す」状況とがある。

異論はあるかもしれないけれど、「がっちり治す」ことは案外簡単で、体力さえあれば どうにかなる。「ちょっと治す」のは難しくて、油断すると大失敗する。

「息が苦しい」という患者さんに対して、問答無用で鎮静かけて挿管して、 人工呼吸器をつないだ上で、広域抗生物質を使うような、「がっちり治す」やりかたというのは、 それを決断するときには勇気がいるけれど、始めてしまえば、病名が何であろうと、 やるべきことはおおよそ同じ。こういうやりかたは、「がっちりやる」という覚悟が全てで、 頭はいらない。

「この人は軽そうだから、点滴だけで、ちょっと治そう」なんて判断して、 そういう患者さんが想定どおりに行かないときには、なまじ「ちょっと」という思いがあるから、 全ての対応が後手に回りがちで、泥沼にはまって失敗する。

誰かを「ちょっと」治すことは、だから本来、患者さんを「がっちり」治すのに比べて遙かに多くの覚悟がいって、 それをやるなら、1 日に何度も病床に見舞わないといけないし、自分の判断が間違っている可能性を、 常に自覚していないといけない。

本来はだから、田舎の小さな病院みたいな場所こそ、人工呼吸器のつながった患者さんがたくさんいないと おかしいし、大学病院みたいな、患者さんを診るための「目」だとか「頭」の数が極めて多い施設でないと、 「ちょっと」治すことは難しいのに、そうなってない。小さな病院で「ちょっと」治すのは、本来すごく危ないことなのに。

「がっちりやる」ために必要な知識は、「ちょっと」でいい。

安全に「ちょっと治す」ためには、「新内科学大系」全99冊ぶんの知識があっても、もしかしたらまだ足りない。

「分からない」から始めるやりかた

目の前の患者さんに「重大な損傷がある」という認識から始めていいのなら、 外傷外科医の知識量は、それほど多くを要求されない。

「分からないけれど具合が悪い」状態の患者さんを、「がっちり治す」ために必要な知識もまた、 恐らくは薄い本1 冊ぶんにまとめられる。

その患者さんの病名が「分かる」のならば、その人が持っている、今までの知識で十分に対応できるのだろうし、 「分からないけれど具合が悪い」という状況認識それ自体、その患者さんを、 「分からないけれどとりあえず死なない」状態へと持って行く上で、大きな手がかりになる。

「分からない」なら、それ以上鑑別診断を考える意味はない。「がっちり」行くならば、 最初から複数病名をカバーした治療手段が選択されるのが前提だから、 治療のバリエーションは減らせるし、目標を、「治せる人のところまで、患者さんを悪化させず維持する」ことに 限定できるなら、必要な知識はそれだけ少なくて済む。

これから先の卒業生は、1年間で何でも治せる研修を受けるようにシステムが変わるけれど、 「1年総合医」を本気で作るなら、こんな方向で教科書作らないと無理だと思う。

あれを本気で考える偉い人たちは、自分たちでこういうの書かなきゃ嘘だし、 それができないのなら、あの人たちは、1 年間でどういう医師を作りたいのか、 もっときちんと説明すべきだと思う。

今年度中になんか書く。

2009.02.21

見える場所に価値が宿る

たとえば10億円ぐらいするCTスキャンの機械は、カバーを外すと、 そのへんのホームセンターで売られているようなアルミのアングル材で組まれていて、 基板もむき出しで、美しさだとか、精密さみたいな感覚とは遠い。素人である自分たちが、 ユーザーとして「中身」を見ても、CTスキャンには、あんまり価値があるように見えない。

フェラーリの車についている「跳ね馬」の紋章には、けっこうお金がかかっているらしい。 紋章はその代わり、けっこういい加減な固定をされていたり、ボディーを外したフェラーリは、 内部の配線だとか、エンジンやトランスミッションの構造だとか、必ずしも工学的に 突き詰められているわけではないらしい。

素人は「中身」を重視する

以前に「家を一軒自作しました」という日記を読んだことがある。公務員の人が、 材木を削り出すところから初めて、在来工法で、2階建ての我が家を一人で作るお話。

素人が人生かけて作っているだけあって、たとえば屋根裏の断熱材の配置とか、きれいだった。

建築途中の家を見ていると、プロの大工さんの「仕事」というのは時々いい加減で、 断熱材なんかは無理矢理押し込んでる印象。日記を書いていたその人の仕事は丁寧で、 たとえ目に見えないところでも、細かいところまできっちり作り込んでいた。

仕事の丁寧さは、もしかしたらその人は、プロの大工さん以上なんだけれど、 出来上がった部屋の写真だとか、実際にそこに住む人が見る、その家の風景は、 やっぱりどこか、「素人が頑張りました」という雰囲気が残ってた。

顧客が見る風景

顧客の目から見えるものというのは、たぶん想像以上に少ないのだと思う。あるいは顧客は、 そのプロダクトの美しさだとか、精密さを、プロの人みたいに正しく評価できない。

病院のCT スキャンは、そもそも自分たちでは分解できないし、基板の場所だとか、 構造材の組み方だとか、それが果たして「いい」ものなのか、「そうでもない」ものなのか、 判断できない。理解できないから、それが価値を持っているように、認識できない。

顧客の見る風景を見切って、そこをきっちりと作り込むことが、たぶん「プロの仕事」を 演出する上で、大切なのだろうと思う。

CTスキャン は、カバーがなくても動く。プラスチックの巨大なカバーは、機械としての性能には、 たぶん全く貢献していないはずなのに、病院におけるCTスキャンの「存在感」だとか、 何億円もする機械を所有する「満足感」だとか、顧客の意識に最も貢献しているのは、 実際にはなんの役割も持っていない、ただの「カバー」なのだから。

わずかな差が「プロの仕事」を作る

素人は、最初から最後まで、誠実な仕事をする。プロはたぶん、 顧客から見える風景を見切って、顧客の想像する「プロの仕事」を目指して、 自らの投入努力量を配分する。

素人はたぶん、「中身」にも、「外側」にも、同じように注意を払う。 何か作るときには、まずは中身が作られて、最後に外側を仕上げるから、 素人は、「中身」の段階から、丁寧な仕事をする。

素人はその代わり、最初から最後まで、同じ丁寧さで仕事をする。 中身も外側も、仕上げはもちろん、その人なりに丁寧だけれど、ごく些細な瑕疵が 残ったり、あるいは「その程度ならいいだろう」みたいな判断が下されて、 出来上がったものは、丁寧だけれど、素人っぽいものになる。

恐らくは「プロの仕事」に到達するには、こうしたごくわずかな差というものが、 断絶として効いてくる。

顧客の見る風景を見切ること

プロはたぶん、投入努力量のより多くを、「見栄え」に振る。

顧客に認識できないところ、機能に影響のないところは「手抜き」されるし、 プロの人たちは、素人ほどにはいい材料を使えないかもしれないけれど、 建物なら、壁紙の「コンマ数ミリ」の段差はきっちりと合わせるし、料理なら、「味」には 何ら関係ない、料理の配置だとか、お皿の色みたいな部分に、 素人よりもより多くの努力量を投入する。

恐らくはだから、「自らの価値観に誠実な」仕事のやりかたというのは、 「プロではない」のだと思う。

誠実に仕事をしたのに、上司が馬鹿で評価してくれない、という憤りは、 それは「素人」の言葉であって、「プロ」を名乗るなら、「顧客の風景」を最高のものにできるような 働きかたをしないといけない気がする。

それが上司であっても、顧客であっても、自分たちの業界ならば患者さんであっても、 たぶんその人たちからみえている「プロの仕事」は、恐ろしく範囲が狭い。範囲を見切って、 その場所に、「コンマ数ミリ」をきっちり合わせる努力を行って、その人は初めて、「プロ」なんだと思う。

2009.02.19

臨床研修制度見直し

臨床研修制度見直し 医師不足に一定の改善効果も – MSN産経ニュース

来年度から、研修制度がまた見直されて、今度こそ、各地域ごとの受け入れ可能研修医数に「上限」が 設けられるらしい。

まだこのとおりになるのかどうかは分からないけれど、実施されると、 たぶん今まで以上に「東京一極集中」が進んで、地方の医療は止めを刺されるような気がする。

序列の可視化は弊害を生む

今はまだ、研修医が働く場所は、研修医の自由選択にゆだねられていて、 みんなが東京を目指した結果として、田舎には人が残らない。

東京の病院は設備がいいし、なによりも、いい先生がたくさんいるから、教えてもらえる。

研修医は、とにかく「教えてもらえる」環境に身を置かないと、何も身につかないからこそ、東京を目指す。

「東京の研修医」に、上限が設けられると、首都圏の研修病院は、競争試験で定員を削らざるを得なくなる。

競争試験はたくさんの敗者を生んで、「負けた」人たちは、しかたがないから田舎で働く。

負けっ放しなのは嫌だから、みんなもちろん、ある程度の経験年次を積んだら、もう一度東京を目指して、 結果としてたぶん、田舎はみんなの「腰掛け」になる。

研修医の序列は、自分たち、田舎の医者にも序列意識を持ち込んでしまう。

君たち田舎医者は、せいぜい負け犬研修医諸君を温かく迎えてくれたまえ」 なんて、「見直し」を提言した東京の先生たちは、田舎で働いている中堅に、「負けた」研修医と一緒に、 こんなメッセージを届けてしまう。

自分たちだってもちろん、負け犬認定、馬鹿認定されたまま、ヘラヘラ笑って幸せに働けるほどには 人間できていないから、こういう制度はたぶん、今いる場所を捨てて、多少無理してでも東京を目指す中堅を、 むしろ増やしてしまう気がする。

まずは皆さんから田舎へどうぞ

若手の振る舞いを強制するやりかたは、恐らくは、制度全体を、下から崩壊させてしまう。

何かを変更しようと思うのならば、本来真っ先に変わるべきは、「上」の振る舞いなのだと思う。

田舎のお金は、道路と病院ぐらいにしか使い道がないものだから、幸いにして、地方の基幹病院は、 今ではけっこういい設備を誇る。足りないのはマンパワーだけ。

都会で活躍する名医の人たち、いろんな提言を行って、「阿呆な若者は地方で働け」なんて、 身も蓋もないメッセージを発信するその人たちこそが、まずは真っ先に、地方に来ればいいんだと思う。

研修医は「人」につく。

カリスマ名医の先生方が、本当に人を引っ張る力を持っているのなら、その人たちの吸引力は、 自然と地方に研修医を集める。

沖縄中部病院にしても、亀田総合病院にしても、立地で行けば、お世辞にも「都会」とは言えないような病院は、 それでも「人」に優れているから、研修医は今でも群れをなして、ああいう病院の門を叩く。

偉い人たちは田舎に来て、そのときたぶん、自らを試される。

その人めがけて、若手が群れをなすならば、そのベテランは「本物」なんだろうし、 田舎に降臨したカリスマ一人、ぽつん、とそこで働いて、若手がだれも寄りつかないのなら、 その人はそもそも、その程度の人間だったんだろう。

試みとしては、そのほうがよっぽど面白いと思うんだけれど。

2009.02.16

コミュニケーションにおけるゲーム性

「ルールデザイナーまたは他プレイヤが提示したルールからプレイヤが最適解を求めようとする」 という関係が成立する時、それはゲームだと言える。 定義「ゲーム性」 – うさだBlog / ls@usada’s Workshop

コミュニケーションもゲームとして記述できる

ある状況の元で、適切なルールが実装されると、そこに「ゲーム」が発生する。

同じルールを引き継いでも、状況に変化があればゲームが発生しないこともあるし、 状況は変わらないのに、お互いがルールを変更していく中で、その場所にいきなり ゲームが発生する場合もある。

コミュニケーションにおいてもまた、「ゲーム性のあるコミュニケーション」が発生する場合と、 ゲームに相当する概念を伴わない、独りよがりなシグナルの投げつけあいに終わる場合とが存在する。

実世界コミュニケーションのほとんどはゲーム性を持っている

コミュニケーションには「帯域」の概念がある。

面と向かったやりとりは、帯域の広いコミュニケーションであって、言葉の抑揚や声色、 演者の姿形や身振り、あるいは「拳」にものを言わせる意志の押しつけといった、 様々なやりかたを選択できる。

テキストが主体になるネットメディアの持つ帯域幅は狭い。

音声を伝えるのは難しいし、手書き文字が持つ「勢い」だとか「筆圧」みたいな要素もまた、 活字メディアには存在しない。文章による表現は、幅広いように思えるけれど、 「面と向かったやりとり」と比較した場合、テキストメディアの帯域幅は、極端に狭い。

帯域の広いメディアにおいては、「コミュニケーション」と「ゲーム」とを区別する必要は、通常発生しない。

実世界でのコミュニケーションにおいては、あらゆるルールが持ち込まれる可能性があるけれど、 自身の探索空間もまた、十分に広い。どんなルールに対しても、「解答」が発見される可能性が高いから、 コミュニケーションには、「ゲーム」の成立する可能性が高い。

面と向かったやりとりは、たいていの場合「ゲーム」であって、 「ゲームの伴わないコミュニケーション」というものは、実世界にはまれにしか存在しない。 それが殴りあいの喧嘩であったり、あるいは上司からの理不尽な叱責であったとしても、 そこが実世界なら、たいていの場合、どこかに「ゲーム」を見いだせる。

泥試合には2 種類ある

自身の選択肢が限られる状況では、相手プレイヤの持ち込んだルールの中に、「解答」が探せないケースが発生する。

帯域の狭い、ネット空間でのコミュニケーションにおいては、「そもそもゲームになっていない状況」だとか、 どちらかが新しいルールを持ち込んだ結果として、成立していたゲームが消失するケースが、しばしば発生する。

「泥試合」と形容される状況には、ゲームが継続されたまま、膠着状態に陥った場合と、 ゲームの消失それ自体に、泥試合という呼称を当てはめている場合とがあって、これは区別されないといけない。

対立する両者が、それでも「勝利」を目指してお互いを面罵し続ける状況は「泥試合」ではあるけれど、 お互いが、相手のルールの中から正解を見いだそうとしている限り、ゲームは継続している。

片方が「これは意味のない罵倒だ」と感じ、もう片方が「これは自由な言論の延長である」と 宣言しているようなケースは、お互いが、お互いの提示したルールの中に「解答」を見つけることが 不可能だから、これは「ゲームが消失した状況」であると言える。

ルールが帯域から逸脱するとゲームが失われる

帯域に見合った適切なルールが設定されないと、ゲームは成立しなくなる。

blog というメディアは、表現の制約が少ない代わり、しばしば炎上する。 同じようなテキストメディアなのに、そこに「140字」という制約を持ち込んだTwitter には、 「炎上」が発生しにくいし、周囲が「つまらない」と感じた話題はタイムラインに流されて、その場所に止まれない。 Twitter というメディアには、常に「ゲーム」が成立していて、制約が多いのに、人が減らない。

ネット上でのやりとりというのは、「文字」という、帯域幅の狭いメディア上で行われる。

喧嘩をするのに「糸電話」を渡されたら、たいていの人はそれを馬鹿らしいと思うのに、 ネット空間という、「糸」よりももっと狭い帯域しか持たない場所に、 実世界でのルールをそのまま持ち込むと、ルールが帯域から逸脱して、 ゲームは失われてしまう。

メディアが許容する帯域幅を超えた振る舞いをする人は、あらゆる帯域に存在する。

物理世界でのコミュニケーションであっても、たとえば「鼻血を出して泣いたら負け」みたいな、 最低限の「喧嘩のルール」があって、コミュニケーションのゲーム性を担保している。

ルールを逸脱する人たちは、気に入らない相手の頭をバールや鉄パイプで叩き潰して、 それを「敵を殲滅した」と表現したりする。あの「コミュニケーション」には、 ゲーム性は存在しないと思う。

自由と強さと楽しさと

言葉だとかお喋りというのは、お互いに、勝ち負けだとか、どこまで罵倒するだとか、 ルールの自由度が大きい。大きいがゆえに、制約を共有できない人とのお喋りを、 帯域の狭いメディアで行うと、ゲームが成立しない。楽しくない。

酔っぱらいとの会話は、しばしば全くつながらない。救急外来で応対していて、 こっちは医師としての制約を背負って、全然楽しくない。泥酔した人は、 酔っているぶん、文脈を無視することが出来るから、しらふの人間よりも、 よっぽど自由であるとも言える。

「自由」であることと、たぶん「強い」こととはしばしば等しい。病院が、 泥酔した人を迎え入れたその段階で、自分たちは、酔って寝るその人に、もう絶対に「勝て」ない。 その代わり、制約を受け入れない限り、その人は「強く」はあっても「楽しい」存在にはなれない。

「言論の自由」を叫ぶ人たちに対して、「あなたとの会話は全然楽しくありません」という理由で、 コミュニケーションを拒絶する態度は、お喋りをゲームであると考える限りにおいて、間違っていない気がする。

俺様は気持ちのいいこの状況に糞を塗りたくれるぐらいに自由なんだぜ」と宣言するのは勝手だけど、 まき散らした糞は、ちゃんと責任もって片づけようよと思う。楽しんでいる人たちには、 状況を糞まみれにされて、黙ってそれを我慢する義務はないはずだから。

2009.02.13

MacBookPro が来た

医局の先輩がMacBookPro を買った。

同じ世代のパソコンなのに、自分が使っているThinkPad のT61 が、 いきなりみすぼらしく見えて、悲しくなった。

黒が輝いていた頃

銀色のノートパソコンに人気が集まってた頃、ThinkPad は「黒は銀より輝く」だったか、 黒いプラスチックの筐体にこだわりを持っていることを宣言したりして、かっこよかった。

昔のThinkPad は風格あった。

今も昔も、ThinkPad の筐体はプラスチックだけれど、中身には金属のフレームが入っていて、 しっかりしていた。プラスチックだけれど、まっすぐであるべきところはまっすぐだったし、 たわむところなんてどこにもなかった。

今まで使っていたA30 からT61 に乗り換えて、パソコンの性能は4倍ぐらいに上がったけれど、 見た目は安っぽくなった。T61 の筐体は、フレームを包んでいるプラスチックの薄板が微妙に歪んでいて、 それはもちろん、実用するには全く問題ない、ごくわずかな瑕疵でしかないんだけれど、 昔に比べると、なんだか劣化して見えた。

電源だとかキーボードだとか、指が触れる部品を支えているのは、内蔵されている金属フレームだから、 さわってみれば、ThinkPad は今も昔もしっかりしているんだけれど、普段指が触れない場所は、 軽くするためなのか、プラスチック1枚で支えられていて、けっこうたわむ。これは合理的なのかも しれないけれど、やっぱりどこか、安っぽさを連想してしまう。

MacBook の新しい筐体は、アルミ板を削りだして作られている。Apple が宣伝するほどには、 この作りかたは精密でもないし、ハイテクが必要なわけではないんだろうけれど、 新しいMacBook のたたずまいは清潔で、シンプルで、エッジが立ったデザインで、かっこよく見える。

「現場力」を信じないやりかた

ThinkPad とMacBook と、製造国はどちらも中国で、値段もそれほど大きくは変わらない。 MacBook はたしかに安いと評判だけれど、企業が乗せる利幅はそんなに変わらないだろうから、 筐体にかけたコストは、そんなには変わらないのだと思う。

ThinkPad を作った日本の設計者は、製造現場の「作りのよさ」が、 昔と変わらず維持されるのを前提にしているけれど、MacBookをデザインしたアメリカ人は、 何となく、現場が適当に作っても、見栄え品質が大きく変わらないようなやりかたを目指してる気がする。

ThinkPad の構造、複雑に鋳造されたマグネシウムのフレームを、プラスチックの薄板でくるむ構造は、 恐らくは作る人たちが慣れていないと、歪んでしまう。プラモデルを射出形成するときは、 薄い平面をきれいに出すのはけっこう難しいはずだから、温度管理だとか、材料の管理だとか、 それを組み立てる工場の「現場力」みたいなものが、そのまま見た目に現れる。

MacBook の筐体は、たぶんアルミの押し出し材をフライス盤でくりぬいて、レーザー加工で穴を開けている。 このやりかたは、たしかにお金がかかるけれど、操作はほとんど機械だろうし、削られたアルミの固まりは、 ある程度粗雑に扱っても歪みにくいから、恐らくはMacBook は、 どこの工場で作っても、見た目がそれほど変わらないような気がする。

MacBook の図面を引いた人は、工場の「現場力」みたいなものを、どこかで見切ったか、最初から信じていないのだと思う。

スケールにあった技術のこと

パソコンをたくさん作って、それを「いい工場」が組み立てるなら、恐らくはThinkPad のほうが、 コスト的にも、性能的にも、よりすぐれた設計に思える。マグネシウム鋳造のフレームは量産できるし、 「いい腕」を持った職人が扱う限り、プラスチックの薄板は、昔ながらの、きれいな平面を出せるだろうから。

MacBook の筐体は、大量生産のメリットを生かしにくい構造。たくさん作ったところで、 部品は削り出しだから、コストダウンにはつながりにくい。工業製品としては、 MacBook のやりかたは、必ずしも優れていない。

Apple の人たちはたぶん、ノートPCという業界自体に、もはやそれほど大きな夢を持っていなくて、 「これぐらいしか売れないだろう」なんて、どこか業界を見限った結論として、 そのスケールに見合った技術を選択した気がする。

「中身」だとか、筐体の「性能」で勝負するなら、ThinkPad のロールケージは緻密だし、 図面引いたのは「大和魂」持ってる日本の設計所で、部品の実装にもこだわっていて、 MacBook なんかに負けてない、はず。でも表面はプラスチックで、しかも薄いから、 エッジが微妙に歪んでたり、直線であるべきところがわずかにうねったり、 ThinkPad の設計は、プロダクトとしての美しさを保てない。

MacBook の中身は、しょせんはアルミくりぬいた「ドンガラ」の中に、基板を置いている だけで、分解写真を見ても、なんだかシンプルに見える。筐体の強度については、 バスタブ型にくりぬかれたアルミが保証してくれるから、そのやりかたは贅沢だし、 理にかなってはいるんだけれど、工業製品として極めていないというか、 技術者が汗かいてないというか、どこか突き詰めていないように思えるのに、 MacBook はまっすぐであるべきところがまっすぐで、エッジ立ってて、 比べると負けた気分になってしまう。

「カイゼン」の先に未来はあるのか

旧日本軍は、精兵でなければ実行不可能な作戦を立てて、現場の奮起に期待した。

米軍は、未熟な兵士でも実行可能な作戦を立てて、物量を投入して、戦争に勝った。

工業製品には、「現場の力」みたいなものを全く想定しない、一部のエリート層が 全体を率いるようなやりかたと、現場の力に期待して、それを当てにした設計を行って、 総合力として、すばらしいプロダクトを目指すやりかたと、大きな対立というか、 考えかたのぶつかりあいがあるのだと思う。

MacBook を設計した人たちから見れば、現場の「カイゼン」に期待するような やりかたというのは、技術者としてはまだまだ未熟な証であって、彼らはむしろ、 「技術者なら、未熟な現場であっても、すばらしいプロダクトを生み出さざるを得ない設計をすべき」 ぐらいのことを考えているのかもしれない。

米軍は勝って、自動車は、「カイゼン」を頑張った日本が制して、 机はさんでThinkPad とMacBook と、見た目は何となく、今負けた気分。

「カイゼン」は時に奇跡を生んで、やる気のある工場は、設計者の想定を超える 製品を作り出す。一方で、現場に期待しないやりかたは、現場力に欠けた工場であっても、 設計図面どおりの製品が生み出せるから、世界中探して、一番安価なところに発注できるし、 作りすぎたら現場を「切れ」ば、調整も簡単にできる。

自動車業界も、今では世界中に工場を持つようになっているから、 むしろパソコン業界以上に、「現場に期待しない設計」が主流になっているのだろうけれど、 より多くの人が幸せになれるのは、果たしてどちらの立ち位置なんだろうとか、 Mac のきれいな画面を見せてもらいながら、考えてた。

2009.02.09

ロシアは鉛筆を使った

宇宙飛行士は、無重力状態ではボールペンが書けないことを発見した。 NASA は120億ドルの開発費をかけて、無重力でも書けるボールペンを開発した。 ロシアは鉛筆を使った。

定番の科学ジョークだけれど、大事だと思う。

Mig-25 のハイテク

1970年代最速のジェット戦闘機、Mig-25は、正体が分かってしまえば、 ありふれた技術で作られた、時代遅れの戦闘機だった。

ベレンコ中尉が北海道に亡命してきた昔、あのときはまだ、Mig-25 といえば「正体不明の究極戦闘機」 であって、小学校の頃に読んだ図鑑にも、なんだか秘密兵器みたいに描かれていた。

分解調査された実物は、たいしたことがなかったのだそうだ。

  • チタニウムの合金だろうなんて言われていた機体は、ありきたりなニッケル鋼で作られていた
  • 基本的に「まっすぐ飛ぶ」ことしかできない飛行機で、格闘戦の性能は悪く、燃費も極端に悪かった
  • すごいエンジンを使っているのだろうと思ったら、低速度域はスカスカの、 高速性能に特化しただけの、ふつうのターボジェットエンジンが使われていた
  • 電子機器に至っては、たしかに強力なレーダーは積まれていたけれど、部品には「真空管」が使われていた

Mig-25 の正体は、「ハイテクで作られた最強戦闘機」なんかじゃなくて、 速くまっすぐ飛んで、強力なレーダーで、長距離ミサイルを相手に撃ったらそれでおしまいの、 よくできたミサイル運搬機みたいなものだった。

あの飛行機は要するに、ローテクで作られていた「張り子の虎」だったのだけれど、 まっすぐに、高いところまで速く飛ぶという、「牙」に相当する機能は本物だったから、 迎撃戦闘機としてミサイルを運んだり、速度を買われて偵察機として活躍したり、 最近では、「成層圏体験ツアー」の遊覧機として、観光客を乗せて空を飛んだり、 Mig-25 は、30年以上経った今でも、いろんなところで使われる。

機能の依って立つところ

それが機械であっても技術者であっても、自らの「よさ」みたいなものを 成り立たせている何かに対しては、自覚的にならないといけない。

  • その機能ニッチに競合者がいないのなら、その技術は長生きする
  • 競合者がいるのなら、その機能を成り立たせるための「前提」がより少ないほうが生き延びる

たとえばMig-25 には、「成層圏で、何かを運搬したまま高速が出せる」という機能があって、 その機能を肩代わりできる飛行機は、そんなに多くない。

Mig-25 は「ローテク」で作られているから、燃費は悪いけれど頑丈で、維持管理するための 費用がそれほどかからないから、観光目的に転用してもやっていけて、30年経った今でも、 「出番」が回ってくる。

これがたとえば「強い戦闘機」という機能ニッチには、たくさんの競合者がひしめいていて、 Mig-25 にはもはや、ここでの出番はないように思える。

今ならたとえば、「強い戦闘機」というニッチを制しているのはアメリカのF-22 ラプター なんだろうけれど、あの飛行機を運用するコストは高いし、あの性能が前提として要求するものはたくさんあるから、 ラプターを「長生き」させるのは、たぶん大変なんだろうなと思う。

それが生きていくための「ニッチ」に適応できない生き物は、淘汰されて滅んでしまう。

走るのが速いだとか、繁殖力に優れるだとか、生き物には必ず、何かニッチに特化した機能が あって、それぞれが「専門家」になることで、競合に打ち勝って、生き延びる。 ところが同じ「専門家」なのに、サーベルタイガーや恐竜は滅んでしまって、 ゴキブリだとかサメ類は、昔も今も、姿形を大きく変えることなく、今でも繁栄している。 同じ専門家であっても、長生きできる専門技能と、そうでないものがある。

自分たちの業界を振り返って、たとえば循環器内科医ならば、 「詳細な心臓診断が出来る」という機能ニッチには、競合者がこれからたくさん出てくる。 漠然と「いい医師」を目指すような努力は、もしかしたらだから、ニッチごと滅んでしまって、報われない。 一方で、「冠動脈の任意の場所に、任意のデバイスを運べる」という機能には、今のところは、 恐らくはこれからも、競合者が出現する可能性は低い。

「長生き」を目指すなら、技術者は、自分が依って立つ専門機能というものを点検して、 競合者の少ない、あるいはその専門性を生かすための前提条件がシンプルな機能を、 特徴として磨くべきだし、戦略抜きの、留保なしの「よさ」を目指した未来というのは、 やはり暗いのだろうなと思う。

2009.02.07

やりかたは無数にある

「絶対に正しい手順」というものは、一つに決められないのだと思う。

現場にあって「絶対」と言い切れるものは、状況を乗り越えるための「目的」と、 それを達成する上で「制約」であって、「手順」というものは本来、 「こうしたらたまたま上手くいった」という以上の意味を持っていない。

偽のベテランが正しさ競争を始める

医療の教科書は、今はもちろん、「こうするのが正しい」のカタログみたいになっているけれど、 あらゆる手技だとか、治療だとか、手順というものは、本来は暫定的なやりかた。

ある状況から「治癒」を目指すためには、状況ごとの「目的」というものがあって、 目的が、身体の解剖学的構造だとか、病気が生み出す「制約」とぶつかりあった結果として、 制約をくぐり抜けるための手順が生まれる。

手順はだから、本来は無数にある。「こうしたらうまくいった」という、試行錯誤の経験が重なって、 どこかのタイミングで「暫定的に正しいやりかた」みたいなショートカットが生まれる。 「正しさ」を伝えるのは簡単だし、試行錯誤を経験しなくても再現できるから、 そのうちたぶん、本来の「目的」だとか「制約」は、伝えられなくなってしまう。

目的を見失った正しさは、原理主義の競争を生む。

「教わったやりかたよりももっと厳密」だとか、「こうしたほうが切開線を3mm 短くできる」だとか、 正しい手順には、「目的達成」には何ら貢献できない、様々な「改良」が積み重なって、 手順はますます、本来の目的から遠ざかっていく。

切る爺医のこと

ベテランの外科医は、切ったことのない病気の「切りかた」を推測できる。

うちの施設にいるベテランの先生がたは、人体というものを、「制約の集積」として理解している気がする。

外科のカンファレンスを聞いていると、そういう先生がたは、診たことのない病気であっても、 CT 画像で「ここ」という場所に病変を見つけると、「そこに到達するなら、この場所から入って、 切除するときには血管の処理が問題になるね」とか、語り出す。

「爺医の語り」はおおむね真実で、もう少しだけ世代の若い、最新の知識を蓄えた外科の先生もまた、 「今はそういうときにはこんなことをするんです」なんて、おべっかでなく、「議論」が始まる。

「理解」の深度には、たぶん「正しいやりかたを知っている」のレベルのもっと深いところに、 「やってはならないことを知っている」という段階があって、ここに到達できた外科医は、 教科書的な知識を持っていない病気と対峙しても、「目的」さえ示されたなら、 それを解決するための方法を、その場である程度演算できるようになる。

「教科書の正しいやりかた」は、本来はたぶん、その人が自分なりのやりかたを演繹できる段階にまで至って、 初めてそこで、無批判な受容を強要するものから、自分のやりかたと比較するための対象として、 読んだその人に、「確信」をもたらしてくれる。

「ここからのやりかた」を教えてほしい

治療ガイドラインを丸暗記した専門医の言葉は、しばしば空虚で、 今ひとつ響かない。

何かを相談しても、正しいやりかたを教えてくれはするけれど、じゃあ今の段階から どうすればいいのか、どこを目指せば、この人は治癒に向かうのか、分からない。

たとえばある感染症を治療するには、教科書には「ペニシリンG を使いなさい」なんて書いてある。 それで十分治るから。それが「正しい」考えかただからと、明快に書いてある。きっとそれは正しいんだろうけれど、 じゃあ今自分たちが患者さんに使っている薬は、果たしてこのまま続けていいものなのか、それとも絶対に、 専門家推薦の薬に変更しなくてはならないのか、分からない。

専門家は、「いい検体」をとって調べれば、それに従った抗生剤を使えば十分に効くという。

教科書には、たしかに「いい検体をとれ」と書いてあって、いい検体のとりかたも、一応書いてある。

ならば「いい検体」がどうしてもとれなかったときにどうすればいいのか、あるいは今自分たちが とった検体が、果たして「いい検体」なのかどうか、どうやって判定すればいいのか、やっぱり分からない。

検体にしたがって薬を選んで、それが効いたら、その検体は「いい」ものなんだろうし、 患者さんの具合が悪化したなら、それは「検体が悪かった」せいになって、 専門家の「思想」は明快なまま、変わらない。それはやっぱりおかしいと思う。

目的と制約から手順を見いだす

戦略家のクラウゼヴィッツは、「戦争論」の中で、「武徳」の効用について説く。

武徳を持った兵士で作られた軍隊は優秀で、いざというとき、非常な力を発揮するのだと。 武徳は大切で、兵力を何倍にもしてくれるものだから、普段から兵士を鍛えて、 武徳を発揮できるよう、訓練しないといけないのだと。

古くさい精神論なんだけれど、クラウゼヴィッツはそこから、 「それでも武徳を持たない兵士を率いて、なおも勝利を収めた例は、歴史上たくさんある」と続ける。

武徳の備わった軍隊は強力だけれど、軍隊を率いる人は、「武徳を欠けば勝てない」などと言ってはならないのだという。

将軍は、平時から武徳を養うべきではあるけれど、敗北の理由を武徳の欠如に求めるのは軍人として間違えで、 武徳を持たない兵士を率いた戦いかた、あるいは、武徳をほかの何かで補いながら、 何とか「勝利」を拾う戦略を、軍人は、発見する努力を、最後まで放棄してはいけないのだと。

目的と制約とを理解した人たちが、結果としてある手続きに収斂していくことと、 そこにいる人たちが、「最初からそれしか出来ない」こととは、 一見同じような状態であるようでいて、恐らくは全く異なっている。

「こうして治す」を記述するやりかたは間違えで、症状ごとの「目的」と、 「制約条件」を、まずは前提として示せない限り、その専門家には、人を教える資格がないような気がする。

「総合医を1 年間で養成しましょう」とか唱えている人たちの中に、本当の専門家がいるといいのだけれど。

2009.02.06

運の良さについて

ずいぶん昔、アポロ宇宙船の特番を見た。

あまりにも多くの「運」が、あのミッションの成功を支えていた。

アポロは運がよかった

  • アポロ11号は、月着陸船のコンピューターが着陸寸前にエラーを生じたけれど、マニュアル操作でどうにか着陸できた
  • アポロ12号は、大気圏を突破する時に雷に打たれて、電気系統を全部吹き飛ばされたのに、 何とか復活して、月まで行って、生きて帰った
  • アポロ13号の不運は映画にまでなった。月着陸船に詰め込まれていた、メモ帳だとかダクトテープだとか、 様々な余剰物資が、あの生還を支えてくれた
  • アポロ13の爆発は、これもたまたま、「外側」を向いていた。あのときもしも、爆発が内側を向いていたなら、 乗組員はその場でなくなっていた。運がよかった

アポロ宇宙船にしても、サターンロケットにしても、あるいはロシアのソユーズにしても、 成功したプロジェクトというのは、どこか「運がいい」要素を持っていて、基本設計が優れているだとか、 技術者の士気だとかプロダクトの品質みたいなものは、「運の良さ」には直接貢献していない気がする。

ハイテクの固まりであるスペースシャトルは、どちらかというと「運の悪さ」につきまとわれた 失敗プロジェクトだし、日本のH2 ロケットにしたところで、日本の技術者が、あれだけ品質の良さを心がけても、 ロケットはなかなか飛ばせない。

運のいい技術者がいる

最新の火星探査ロボットには、1970 年代の「バイキング宇宙船」のパラシュートが、そのまま引き継がれて用いられた。

アメリカのサターンロケットは、開発されてから何十年もたっているのに、 スペースシャトルの後を引き継いで、これからまた、現役復帰しそうな雰囲気になっている。

恐らくは技術者には、独創的であるとか、緻密な設計ができるとか、外からみて分かるすごさとは別に、 「運のよさ」というパラメーターがある。

運がいい技術者が作ったものは、案外不格好で、他の人の目から見て、必ずしも「優れた」 ものではなかったり、あるいは「改良」の余地がたくさんありそうに見えるのに、 そのプロダクトはうまく動いて、「改良」すると、なんだか運に見放されてしまう。

特番が組めるぐらいのドラマを生んで、それでもほとんどの人たちを死なせずに、 宇宙から帰還させることに成功し続けたアポロ宇宙船のシステムというのは、 恐らくは相当に「運がいい」設計が為されたのだろうと思う。

認識不可能な価値に敬意を払う

第二次世界大戦の頃、「運悪く」敗北した将軍は、米軍だと更迭されて、日本軍だと許された。

「運」という、科学では認識不可能な何かに対して、米軍は一種の「敬意」を持って、 日本は逆に、「ないものは関係ない」という、科学的な立場をとった。

米軍は勝って、日本は負けた。

同業者にもまた、「運のいい人」と、「引きの悪い人」というのがいて、努力していて、 「腕」もいいのに、どうしてだか重症の患者さんばっかりに当たる先生もいれば、 正直適当に仕事しているようにしか見えないし、何か隠れた努力をしているわけでもないくせに、 どういうわけだか「軽い」患者さんばっかり引き当てて、病棟が荒れない先生もいる。

科学だとか、工学の分野には「運」なんてパラメーターは存在しないし、 運というものを、それ以外の言葉で記述できる人もいないけれど、 それでも厳然と、「運」はそこに存在する。

運というものは確率論で決まるものではなくて、やっぱり人間が、自覚のできないどこかから、 自らの力で引き寄せるもの、方法論はないけれど、それでもいつか、手を伸ばせば届くものなんだと思う。

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