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2008.12.31

それがいらない世界を想像してみる

「それ」はたいてい、もちろん必要だからこそ世界にあり続けて、 そもそも「それ」を無くすことにどれだけの意味があるのか、無くしてみて、 世の中どれだけ便利になるのか、無くしてみないことには、もちろん分からないのだけれど。

たとえば「配線」のいらないない世界

ごく至近距離での高速無線通信が規格化されて、それが実用的に、安価になった世の中を想定する。

そういう世界のパソコンは、たとえばビデオカードとマザーボード、 あるいはメモリーやハードディスクといった部品を、お互い配線でつなぐ必要が無い。

ノートパソコンみたいな道具は、配線の制約から解き放たれる。とりあえず「ノートの形をしたもの」のどこかに、 それぞれの部品がおさまっていればいいわけだから、今までからは想像も出来ないようなデザインが生まれるかもしれない。

自動車のアクセルやブレーキ、ハンドルだとか、トランスミッションの制御を全部無線規格にしたら、 自動車というものは、エンジンと車輪のついた、単なる箱になって、内装の自由度を、飛躍的に高めることができる。

自動車の内装部分は、メーカーから買わなくてもよくなるかもしれない。そうなったところで、 9 割 の人達は、 恐らく今までどおりの「自動車」を選ぶだろうけれど、戦闘機のコックピットみたいなものを注文する人がいるかもしれないし、 「ガンダム」のコックピットみたいなものに人気が集まるかもしれない。

「配線のいらない世界」からは、そのうちたぶん、「組み立て」という動作が消え去ってしまう。

ユーザーは、それぞれ好みのパーツを買ってきて、 マザーボードだとか、キーボードだとか、何となくお互いを近い場所に置いておけば、 お互いが勝手に通信を初めて、それは一つの「パソコン」として機能しはじめる。

配線のない世界からは、「接続」が必要な状況が追放されて、結果として「組み立て」は、 ユーザーによる「選択」へと置き換わる。「組み立て」でお金を稼いでいた人達は、 市場に居場所を失って、別の会社が台頭するかもしれない。

「あって当然の何か」を一つ無くすだけで、「もの」に付随する様々な動作が一緒に消えたり、 変容したりして、世の中はいろんな方向に変化する。

診断のいらない世界が来てほしい

救急外来という場所は、ほとんどあらゆる患者さんが通過するはずなのに、 やりかたはこの10年ぐらい、あんまり変わらない。

毎年のように、新しい教科書が出版される。胸部外傷で注意すべき疾患は何なのか。 最初にどんなことをやるべきなのか。語呂合わせで覚える大切な10疾患は、 この10年変化がなくて、語呂合わせの方法だけ、何か進歩があったみたいだけれど、 覚えるべき疾患名それ自体は、変わらない。

機械は毎年進歩しているのに、CT はやっぱり、「すぐに撮ってはいけない」なんて書かれてる。 診察だとか、問診だとか、何よりも「診断」を重視しなさいなんて、 10年経っても、教科書が変わっても、やっぱり権威は、そう繰り返す。

技術としての救急診療を進歩させたいのならば、やっぱり何よりも、「診断」を追放するやりかたを考えてほしいなと思う。

「診断」がいらなくなれば、もちろん「診察」も不要になって、 医療の現場からは、「医師の判断」という動作が追放される。

判断が存在しないから、病院でできることは、日本中どこでも一緒になって、 一緒であるが故に、「医療過誤」は、原理的に発生し得ない。「診断のいらない医療」 が実現したところで、助かる人は助かるし、亡くなる人は、やっぱり亡くなってしまうのだけれど。

しゃべれないし、診察できない、症状があっても所見が現れない、寝たきりの超高齢者の診療は、 そもそも診察が全くできないケースというのが、珍しくない。

「何となく具合が悪い」なんて、ごく漠然とした症状で病院に来て、 とりあえず胸腹のCT 切ったら腸閉塞だったとか、肺炎だったとか。 あるいは熱が出て、熱源調べようにも、体中熱源みたいな患者さんで、 しょうがないから抗生剤適当に選んで使ったら、何となく治ってしまったとか。

「そんなやりかたすれば、馬鹿にだって治せる」だとか、 「間違ってはいないけれど、それは邪道だ」とか、教科書書くようなえらい先生が罵倒する、 「診断」を回避するやりかたは、たぶんいろんな病院で、それでもこっそり行われている。

教科書からは観測できないだけで、「診断のいらない未来」は、もう老人病棟の片隅で、 すでに始まっているのだと思う。

世界を変えるパッケージ

何か新しい技術を足したのなら、世界からは、別の何かが消えていかないといけない。

「何も消えない世界」では、いろんなものが、一方向的に複雑化する。 あらゆる技術が「こんなに複雑になりました」なんて、 自己言及的に、自らの正当性を主張して、進歩してるのに、みんなが不幸になっていく。

「あって当然の何か」を世の中から消し去るのに必要なのは、技術それ自体の進歩よりも、 それらを組み合わせて「それがいらない未来」を示す、パッケージングの力なんだろうと思う。

車でないと運べないぐらいに大きな「自動車電話」が登場した昔、 あれは高価で、実用的とは言いがたかったけれど、それでもたぶん、「それが世に出た」ことが、 携帯電話への進歩を加速した。

レジオネラや肺炎球菌、各種ウィルスの検査キットとか、たしかに新しい学問の産物なんだろうけれど、 今のところはまだ、手続きを複雑にする以上の成果が出せていない気がする。

あれなんかもたぶん、技術者は、主要な細菌の検査精度を上げていくやりかたを目指すよりも、 まずは同定できる菌腫を増やして、「採血一滴、主要菌30種類を一気に同定できる」未来を、 とりあえず製品として作ってしまったほうが、世の中大きく動くんだと思う。

そんなキットが発売されたら、感染症の領域からは、もう診断がいらなくなる。診察も不要になる。 採血で「○○菌感染症」が分かるようになったなら、その時点で使用すべき抗生剤も決まるから、 あとはもう、その人が肺炎だろうが髄膜炎だろうが、感染部位の特定は、予後に貢献できなくなってしまう。

そんなキットを今作ったところで、それは恐ろしく高価であったり、診断精度はまだまだ不十分で、 権威はやっぱり、「そんなもの必要ない」なんて言うんだろうけれど、 誰かがそれを示したそのときから、いろんなものが、きっとその方向に向かって動きはじめる。

権威はアートを否定してほしい

たとえば原因が分からない発熱の患者さんが来て、「ここに肺炎の患者さんがいる」と宣言して、 絶食にして、ガイドラインどおりの抗生剤を開始したその時点で、人体からは、ほとんどあらゆる細菌が死滅する。 髄膜炎から軟部組織感染症、呼吸器、心臓、腎臓、あらゆる消化管感染症、 全ては「肺炎ガイドラインの抗生物質」で、消滅する。

それやって3日間、検査をフォローして悪くなってたら、その人はそもそも感染症でないか、 その人は結核に感染しているか、どこかに膿瘍を作っているのか、可能性は絞られる。

結核だとか、膿瘍ができる場所なんて限られてるから、この時点で胸と腹のCT を切れば、もう診断はつく。

こういうやりかたをすると、あとからどのタイミングで突っ込まれても、 「常にあらゆる可能性を考慮に入れていました」なんて、あと知恵の言い訳ができてしまう。 こういうのは邪道だけれど、言い訳レベルで無敵であるが故に、これから絶対広まってく。

偉い人たちは、もちろん眉をひそめるんだろうと思う。その人達が、 こういうやりかたをどうしても阻止しようと思ったら、権威自らが別の未来を描いて見せなきゃいけない。

アートを研鑽してきた権威は、権威だからこそ、自らのアートを否定してほしいなと思う。

「これはもういらないよ」なんて、アートを否定したベテランはパラダイムシフトを起こすけれど、 それができない、変化を拒む人たちは、たぶんもうすぐ老害になる。

自分たちの業界にも、大きな変化を起こすだけの素地は、もう出来上がっている。 総合診療部だとか、救急部みたいな、「診断のアート」を鍛えた権威が誰か一人、 「これはもういらないよ」と宣言するだけで、きっとすごく面白いことが起きるはず。

来年もよろしくお願いします。。

2008.12.29

今年面白かった記事

アルファブロガー・アワード2008:ブログ記事大賞 に関連して。

自分の知らない世界

テレビゲームに関する文章。自分のテレビゲーム体験は高校生の頃までで、ゲームセンターには毎日のように 通っていたけれど、自宅には何もなかったし、結局今でも、ゲームに手を出す機会はすごく少ない。

リンク先に書かれていることは、だから自分の見知った世界とは全く関係のない話で、 実際問題、ジャーゴンだらけで、何が書かれているのか、部外者である自分には理解できない。

でも面白い。

自分が面白いと思っていることを誰かに伝えるときに、たぶん一番大切なことは、「面白がってみせる」ことなんだろうなと思う。

リンク先の文章は、読者に何かを紹介するための文章としては不親切で、 言葉の解説は為されないし、読んだところで、そもそもそれがどんなゲームなのか分からない。

分からないけれど、書いた人達が面白がっていることは分かりやすく伝わってきて、 自分もまた、その面白さを体験してみたいなと思う。

分かりやすさというのは、それを本当に面白がっている人が文章を書く限りにおいて、そんなに大切ではないのかなと思った。

コミュニケーションのこと

コミュニケーションというものに「勝ち負け」を想定すること自体、それはもう、 コミュニケーションとは違う何かなんだろうけれど、自分が昔から興味を持ってきたのは、 そんな「勝つ」ための方法論。

リンク先の方々は、もちろんそんなことを考えているわけではないんだろうけれど、 「勝ち」を志向したやりかたをあれこれ妄想するときに、参考になる視点をいただいた。

コミュニケーションというものは、大きな山の頂上に向かって、いろんな立場の人達が、 思い思いの方向から、自分なりの方法論で、登ろうとしているイメージ。

「登った」人達は、たしかにある種のコミュニケーションを記述することに成功しているのに、 その言葉はみんなバラバラで、比較できない。 自分もまた、その人が登った入り口とは、立っている位置が違うから、「こうすればいいんだよ」なんて 教わっても、そのとおりにやっただけでは、うまく行かない。

心理学者の人達は、そんな山を、遠くから眺めて解説しているイメージ。

彼らの言うことは、だからもっともなことが多いんだけれど、あの人達は山に登った分けじゃないから、 今ひとつ信じられない。

いろいろ試行錯誤を重ねながら、今年もたぶん、こんなことを続けるんだろうと思う。

新鮮な価値観

考えもしなかったことに出会うと、その考えかたに感染して、しばらくのあいだ、 書くことといったらその話題ばっかりになる。

自分が普段いる場所は、病院の奥の奥、「社会」なんて、 外来の窓からわずかに眺める程度にしか接点がない。同業者なんてみんなそんなものだから、 新しい視点をもらって、そこから自分達の仕事を振り返ると、実はおかしいところだとか、 こうすればいいんじゃないかとか、いろいろ妄想できて面白い。

新しい考えかたというのはその代わり、見たことがない分だけ、受け入れるのが不快というか、 そもそもそれに興味を持とうという考えかたすら浮かばなかったわけだから、滅多に出会うことはないんだけれど。

で、今年一番傷ついた記事

気をつけなきゃいけないな、と思った。

2008.12.27

足したら引かなきゃいけない

「改革」は常に必要で、それなりにうまく回っている職場においてもまた、 定期的に新しい技術が導入されて、現場には、「複雑さ」が付加される。

技術者の人達は、「それが入ることによって出来ること」を強調するけれど、 宣伝されたすばらしい未来は、来てみれば案外役に立たなかったり、手続きが複雑になるだけだったり、 価値を実感できないことも多い。

技術はたぶん、「それが入って何が出来るのか」を問うよりも、むしろ 「それが入ることで、現場から何を不要にできるのか」を考えたほうが、 価値をより正確に判断できる。

「何も引けない」新技術というものは、おそらくはたいていの場合、結果の改善に寄与しない。

ガンマ単位の昔

昇圧薬を使うときには、昔はガンマ単位を計算した。

患者さんの体重あたり、必要な量を小数点以下まで計算して、その人なりの、 昇圧薬の使いかたを表にして、血圧をコントロールするやりかた。中身は全く同じ薬なのに、 ベッドごと、患者さんごとに、薬の使いかたは、みんな異なってた。

複雑だった。そうした複雑さこそが集中治療だと思ってたし、かっこいいと思っていた。 電卓片手に、小数点を計算することに、みんな何の疑問も持ってなかった。

実際のところ、計算ミスだとか、点滴の取り違えだとか、たぶんたくさんあったはずだけれど、 みんな「集中治療とはそういうものだ」なんて、危険な状況を、 下手するとむしろプライド持って誇ってたりした。

自分達が研修医を始めた当時から、現場には「動脈ライン」というものが導入されていたけれど、 患者さんにそれが入っているのが当たり前になるためには、もう少しだけ時間がかかった。

大学に移って、今の集中治療室なら、患者さんには全員、動脈ラインが入るようになった。 手動で測定していた頃、血圧は、せいぜい測って1時間に1回だったのが、動脈ラインを使うと1 拍動ごと、 1 分間に最低でも60回ぐらいは測定できるのが当たり前になった。

血圧がリアルタイムで把握できることが当たり前になって、今度は昇圧薬の使いかたが、「現物合あわせ」で いけるようになった。体重を計算して、1 時間後の血圧を予想して、小数点以下まで量を指定していた昇圧薬は、 今では「血圧が上がるまで適当に増やす」なんていいかげんなオーダーを行っても、 ガンマ単位を計算していた頃と、全く同じ結果が得られるようになった。

複雑さを放り出すことには抵抗があって、それでも何年間か、みんなガンマ単位を計算していたけれど、 そのうち誰もが計算機を捨てて、昇圧薬の濃度は、全患者さんで共通になった。

集中治療室には、「動脈ライン」という複雑さが一つ増えた代わり、 「ガンマ計算」という、やっかいな、ミスの可能性が高い複雑さを一つ、放り出すことが出来た。

結果としてこれは、点滴の間違いだとか、量の間違いみたいなミスの可能性を減らすことにつながって、 恐らくはたぶん、動脈ライン以後の集中治療室は、少しだけ安全な場所になったのだと思う。

無人戦闘機のこと

最新鋭の戦闘機は、もはや翼なんていらないんじゃないのか、と思えるぐらいに複雑な機動が出来るけれど、 今以上にすごい動作を行うと、たぶん中の人間が耐えられない。

いろんな国で、だから「無人戦闘機」というものが研究されているけれど、 「無人」という新技術を導入するならば、人間の許容範囲を大きく超えた、 無人の超絶戦闘機を想像してはいけないのだと思う。

「人が乗らなくてもいい」という、新しい複雑さをそこに導入するならば、 今度はたぶん、「相手の戦闘機に勝つ」という、戦闘機本来の任務、複雑さを捨てられるという 発想をしないといけない。

無人戦闘機には、人が乗っていないのだから、もう勝たなくてもいい。たとえ撃墜されたところで、 基本的に誰も困らない。困らないなら、機体は安く、たくさん作ればいい。

どれだけすごい戦闘機を作ったところで、銃弾の数には限りがある。おもちゃみたいな、 安価で弱い戦闘機であっても、それが無数に、群れを作って飛んできたら、もう撃墜できない。

無人機は、たぶん高性能なものと、安価なものと、開発は両極化していくんだろうけれど、 戦争というものの風景を大きく変える可能性を持っているのは、技術的にはちっぽけな、 安価な無人戦闘機なんだろうと思う。

結果に貢献する技術

恐らくは世の中には、「現場に何か足す」技術と、「現場から何か引ける」技術とがある。

技術者はたぶん、「足せる」ものを好む。だからこそ、戦闘機は新しくなるほどに「強く」なって、 年を追うごとに技術は変化しているのに、「相手に勝つ」という目標は、決して変わらない。

技術を受け入れる現場の側も、足される複雑さに目がくらんで、 「これはすごい」なんて、状況の改善に寄与しない複雑さを賞賛したりするけれど、それは違うんだと思う。

新技術が導入された必然として、現場の手続きはより複雑になるけれど、結果の改善に寄与しない、 「足す」だけの技術というのは、たぶん「やりかたが複雑になった」ということでしか、 自らの正当性を主張できない。

新しい技術を受け入れる側は、何かを引かないといけない。その技術を受け入れて、 その技術は、代わりに何を不要にしてくれるのか、それを見つけ出すのは、 技術を開発する人の仕事ではなくて、現場でそれを使う側の責任で、 その技術が入ったとして、現場から何も「引く」ことが出来ないのならば、 それがどれだけ複雑な、すばらしい技術であったのだとしても、それを受け入れてはいけない。

「その技術が加わったとして、我々はどこで手を抜けますか? 」

技術を評価する人達は、自らに、こう問い続けなくてはいけないのだろうと思う。

2008.12.25

西原理恵子の言葉

西原理恵子の新刊 「この世で一番大事なカネの話 」からの抜き書き。

作者のやってきたことを、「カネ」という価値軸でひもといた本。

努力のしかた

  • 順位に目がくらんで、戦う相手を間違えちゃあ、いけない
  • 目標は「トップになること」じゃない。これだけは譲れない、大切な何かを実現すること
  • 肝心なのは、トップと自分の順位を比べて卑屈になることじゃない。最下位でも出来ることを探すこと
  • 自分の得意なものと、限界点を知ること。やりたいこと、やれることの着地点を探すこと。最下位の人間には、最下位の戦いかたがある
  • 「どうしたら夢が叶うか」って考えると、全部あきらめてしまいそうになる。「どうしたらそれで稼げるか」って考えれば、必ず、次の一手が見えてくる

「カネ」を失うことで見えてくるもの

  • 銀玉親方に教わったのは、まず 「負けてもちゃんと笑っていること」。これはギャンブルのマナーの、基本中の基本
  • ギャンブルでした失敗を、もし、どうにも笑えなくなったなら、それはもう、その人が受け止めきれる限度を超えた負けかたをしてるってこと
  • 限度を超えたが最後、ギャンブルは、怖い本性をむき出しにして、その人に襲いかかってくる

「カネ」が外の世界へと案内してくれる

  • 「カネについて口にするのははしたない」という教えを刷り込むことで、得をしている誰かがどこかにいる
  • 「お金がすべてじゃない」「幸せはお金なんかでは買えないんだ」って、何を根拠にして、そう言いきれるんだろう
  • 旦那の稼ぎをアテにするだけの将来は、考え直したほうがいい。失業みたいなことがこれだけ一般化している今の時代に、「人のカネを当てにして生きる」ことほどリスキーなことはない
  • 人の気持ちと人のカネだけは、当てにするな

人が人であること

  • 「働くことが出来る」「働ける場所がある」って言うことが、本当の意味で、人を貧しさから救うんだと思う
  • 生きていくなら、お金を稼ぎましょう。どんなときでも、毎日、毎日、「自分のお店」を開けましょう
  • どんなときでも、働くこと、働き続けることが「希望」になる。人が人であることを止めないために、人は働く

読んでみて、作者の人はたぶん、母親として、この本を子供に読んでほしくて書いたんだろうな、と思った。

2008.12.23

老人を食べるしかない

年配のドクターが多い病院だから、「友達の友達」ぐらいのところに政治家がいて、 医局ではときどき、政治の床屋談議がはじまる。

大局無視の、田舎の財源について。

地方都市の現況

うちの県は、街作りが完全に破綻していて、県庁所在地の駅前でさえ、夜の8時も過ぎれば真っ暗。

もともと古い街並で、自動車時代のうんと前からある街だったから駐車場を増やせなくて、 飲み屋街だとか、ショッピングモールだとか、人とお金が集まる施設は中心街を見捨てて、 みんな郊外へ移ってしまった。

街の中心に残っているのは、シャッター閉じたままの古い商店と、平均年齢が恐ろしく高い、 駅周辺の、ちょっとだけ高級な住宅地。

駅前からちょっと歩いた場所には、新しいマンションが建築中だったりする一方で、 数年前に炎上した一軒家は、引き取り手もなく、廃墟のまんまになっていたりする。

自動車に見捨てられて、若者に見捨てられて、目立った産業もない、都市の「代謝」機能が 衰えてしまったこういう場所を、これからどうすればいいのか、市会議員の人とかそのあたりはさすがに 閉塞感実感していて、どうにかしたいんだという。

病院を作るつもりだったらしい

医局で話題になっていた政治家の人は、古い街並を一掃してそこに巨大な病院を作るんだなんて息巻いていたのだそうだ。

その方は、病院というものを金の卵を産む鶏みたいに思っていたらしくて、町全体を大きな病院へと 作り替えることで、県にはお金が流れ込んで、街が豊かになるんだと。

病院なんてもちろん、いくら作ったところで赤字を生むだけだし、どこか大学を誘致したところで、 そもそも人のいないうちの県で、そういうやりかたが成功するわけもないんだけれど。

医局で「こんなことになってるらしいよ」なんておしゃべりして、 で、今の時代、地方都市に出来ることは「老人を食べる」ことに尽きるんだろうね、なんて話になった。

お金は東京を目指す

田舎で暮らす若い人達は、そもそもそんなにお金持ってないし、買い物といえば、 イオンだとかジャスコだとか、郊外のショッピングモールですませる。 そういう建物は、たいていは本社が東京にあって、ショッピングモールも、コンビニエンスストアも、 若い世代の持つお金は、結局東京に吸われてしまって、県内には落ちてこない。

老人はお金を持ってる。たぶん土地もあるし、財産もある。そういう人達は、その代わり出歩かないし、 もうたいていのものは持っていて、消費するお金が少ないから、ほとんどの人は、 持っていたお金を使い果たすことなく亡くなってしまう。

亡くなったら、もちろん相続税が得られるけれど、これはもちろん国家の税金だから、 そのお金はやっぱり、県には落ちてこない。地方交付金みたいな形で、 お金はめるぐるんだろうけれど、「紐付き」のお金は、使えない。

田舎の町にできること

地方にお金が落ちることそれ自体、落ちたところで、果たしてそれを、 有効に使ってくれる人がどれぐらい居るのか、よく分からない。今までやってきたことを振り返れば、 どうせまた、無駄な県道増やして、せっかくの税金溶かしてお終いになりそうなんだけれど、 とにかく「県にお金を落とす」には、地域の高齢者を、生きているうちに身ぐるみはぐしかないよね、なんて結論になった。

要するにそれは老人ビジネスで、県立でも、地元企業でも何でもいいけれど、市の中心街を「老人の町」 へと改装して、老人のための商店、老人のためのサービス、高齢者向けをうたった、 利幅の大きい、質の比較が出来ない、「消費すること」以外の選択枝が許されない、 そんなサービスをたくさん提供して、その人が亡くなるときには、もうほとんど全ての財産が、 「老人の町」に吸われてしまうような、そんな地域を作らないといけないんだよね、なんて。

閉塞感はどこの地域も同じで、政治家の人達は、もちろん誰だってお金が欲しい。

持っているものも、目的も一緒なんだから、どこかでたぶん、田舎の町は、この方向に舵を切るのだろうなと思う。

飢えたタコが自分の足を食べるのに、どこか似ている。

2008.12.22

成熟するとシンプルになる

技術が成熟する、ということは、求められる機能が、デザインへと包埋されていく過程なんだろうと思う。

ベテランは無造作に切る

熟練した外科医は、腕を上げるほどに、あたかもそれが簡単なものであるかのようにメスを動かして、 臓器を無造作に切っていくようにみえる。動作はたしかに簡単そうなんだけれど、 「じゃあ同じことをしてごらん」なんて言われても、簡単そうなのに、絶対に再現できない。

内視鏡の大家は、やっぱり簡単そうに、内視鏡を操作する。 上手な人の内視鏡は、最初からそれが当然であるかのように、 カメラはまっすぐ、目標に近づいていく。これを見るのとやるのとでは大違いで、 胃の「地形」はすごく複雑だから、まっすぐ進むのは難しいし、 そもそも自分がどこにいるのか、カメラを始めたばっかりの頃は、胃の中で道に迷ったりする。

手を動かすのは疲れる。手の動かしかたは、だからなるべく疲れないように、 同じ結果を出せるなら、なるべくシンプルな動作で済むように改良されていく。

「手のベテラン」が生み出す成果はシンプルで、真似するのは簡単そうなのに、 シンプルなの動作を身につけるには、ベテランと同じだけの経験が要る。

ジェット戦闘機のこと

「コブラ」だとか「クルビット」みたいな、飛行機としてありえない挙動を実現してみせた、 ロシアのフランカー戦闘機は、それを可能にするために、小さな可動翼が追加されていた。

それは未来的でかっこよかったけれど、すごい機動が出来るようになった分、 機体はそれだけ、今までの戦闘機よりも複雑に見えた。

もっと新しい世代の戦闘機、アメリカのF-22 Raptor だとか、ロシアのMiG-29 (->追記:Mig-29 の設計年次はフランカーよりもむしろ古いぐらいという指摘をいただきました) なんかは、 そうした可動小翼は省略されて、外観はむしろ、今までの戦闘機以上にすっきりした、 子供が描く「戦闘機の絵」みたいなデザインになっている。

新世代戦闘機の見た目はシンプルだけれど、その挙動は今まで以上に複雑で、 空中で停止するとか、バックするとか、なんだかもはや、 それが飛行機であることが不思議に思えてくるような動きかたをする。

デザインはシンプルになったけれど、恐らくは何気ない曲面であったり、出っ張りであったり、 シンプルさの中には莫大なノウハウが隠れていて、その「シンプルさ」を 再現できるのは、せいぜいアメリカとロシアぐらいしか無理なんだろうなと思う。

洗練の結果としての単純さ

技術が洗練された結果として、たいていの場合、その技術を外から見ると、技術はシンプルになっていく。

成熟という営みは、求められる機能を達成するのに必要な複雑さを、 シンプルなデザインの一部として内部化していく過程であるとも言える。

自分達の業界で、たとえばがん治療のやりかたであるとか、抗生剤投与のやりかた、 あるいは診断という行為それ自体は、むしろ年々複雑になっていく。

覚えなくてはいけない数字だとか、同じ結論にたどり着くための計算量は年々増えて、 自分達の振る舞いは複雑になっている割に、その複雑さが達成したものは、 実感として、それほど多くは得ていないような気がしている。

このあたりの「実感できる複雑さ」というものが何なのか、未だによく分からない。

自分の視点が内側にありすぎて、シンプルなデザインという、系の外側からの視点を持てていないのか。 それとも世の中には、そもそも「複雑になっていく進歩のありかた」というものが厳として存在するのか。 それともまた、こうした複雑さというものは、老害が既得権にしがみついた帰結として、 毎年のように「改良」が付加された、汚穢みたいなものを見ているだけなのか。

「結果を見て判断する」やりかたは、鑑別の手段として有用なのだろうと思う。

名人の手術は成績いいし、昔の戦闘機と、最新の戦闘機と、勝負をしたら、 昔の飛行機は、たぶん最新型にかなわない。

年々複雑になっているように見える技術は、果たして「結果」を出しているんだろうか。。

2008.12.20

サービスの考えかた

認知症の厳しい99歳のお年寄りが今入院していて、看護師さんがそのまんま、 「認知症が厳しくて大変です」なんてご家族にお話ししたら怒られて、 病棟で、「あの家族は厳しいから気をつけて」なんて申し送りしてた。

何かが間違ってると思った。

接遇向上のこと

看護師さん達は、「接遇向上」と称して、この数年、丁寧なしゃべりかただとか、 相手の目を見て、受容的な態度を取るだとか、サービスの向上を目指して、 医師なんかよりもよっぽど熱心に取り組んでる。熱心なんだけれど、どこかずれている。

「サービス」というもの、顧客に「理解」を販売する、医療みたいなサービスにおいては、 サービスの向上とは、すなわち印象から判断を削除して、事実をより分かりやすく、 予断を除いた形で提供することなのだと思う。

事実と判断とを峻別する

「その人が認知症であるか否か」をきちんと定義することなんて、そもそもできない。 極論すれば、あらゆる病気の診断は、「医師がそう判断したから」という以上の根拠を持てない。

熱を出した患者さんがいて、肺の中が喀痰と細菌で満たされているのが確認されても、 確実に断言できるのは、「発熱している」こと、せいぜい「肺の中に膿がある」ことぐらいで、 「肺炎である」というのは判断であって、断言できる事実にはなり得ない。

病名というのはだから、状況を判断する人の口から出るべきものだし、 「インフォームドコンセント」だとか、「病気を指揮するのは、サービスの受け手である患者さん自身である」 なんて立場を本気で貫こうと思ったならば、医療従事者の口からは、「病名」を出してはいけない。

判断はサービスに貢献しない

医療者が提供する「判断」というものは、恐らくはサービスに貢献しない。

医療従事者は、患者さんの目の前に事実を積む。患者さんはそれを見て、何かの判断を下して、 病衣はそれに従って動く。これが行われてはじめて、健全な主従関係が、 「従僕としての医療者」という、絵に描いた理念が実体化する。

「診断」のような、医療者側の判断を含んだ言葉は、本来はたぶん、 「事実の詰みかた」を工夫する形で、患者さんとの会話から回避されないといけないし、 そうした工夫を考えることが、医療従事者にとっての「サービス向上」なんだろうと思う。

99歳の、くだんの患者さんにしてみれば、一晩に6回以上点滴引き抜くだとか、 便こねした手を口に入れようとするとか、一晩中叫び通しで一睡もしないとか、 それは疑いようもない、看護師さんが観測した事実。

事実を重ねて、患者さんのご家族に「じゃあ、どうする」を考えてもらうのが筋であって、 「この人は認知症だから、そういう対応をします」をこちらからやると、 それをどれだけ丁寧な言葉で飾ったところで、やっぱりご家族は不快に感じる。

クソの山にバケツいっぱいの香水を振りかけたところで、それは「いい匂いのするクソ」にしかなれない。

「香水」を工夫しちゃいけないのだと思う。

2008.12.19

頻度の非対称性について

「どうしようもない人にぶつかる頻度」というのは、サービスを提供する側と、 サービスを受け取る側とではどうしても異なるけれど、救急車というサービスは、それが極端すぎる気がする。

救急車を邪魔する人は多い

患者さんを他の病院にお願いするときとか、 救急車に1 時間同乗していると、だいたい2 回ぐらい、死にそうな目に遭う。

救急車は、サイレンを鳴らして止らず走る。交差点に行き当たれば、 当然信号を無視して突っ込むし、自分の車線が渋滞していれば、 対向車線にはみだして、そのまま走行を続けたりする。

もちろんそれは、救急車両の特権として認知されたやりかたで、 行き当たる車の99 %までは、きちんと交差点で停止してくれたり、 対向車線でも道を譲ってくれるのだけれど、そうでない車が1台でも混じっていると、大変なことになる。

交差点にサイレン鳴らして進入したら、真横から猛スピードで車が突っ込んできて死にそうになったりだとか、 往来の両車線とも渋滞する中、みんながそれでも道を空けて、やっと出来上がった「真ん中」に、 何を考えているのか車が割り込んできて、救急車と衝突しそうになったりだとか。

自分が救急車に乗るのは、もちろん勤務時間中の1時間だけで、あの人達はそのまま、基本的に24時間の 勤務が終わるまで、こんな頻度での「死にそうな思い」が続く。

ひどい人を排除するのは難しい

道路を利用する人達のうち、99%までは「善良」だから、 サイレン聞いたら道を譲ってくれる、大多数の人達にモラルを訴えたところで、 これ以上、状況が改善することはありえない。

実際問題、モラルのないドライバーが飛躍的に増えた、ということでは決してなくて、 モラルのないドライバーの出現頻度は、たぶん今も昔もそんなに変わっていない。

恐らく大きく変化したのは、救急車の走行距離と出動頻度で、これが増えれば増えるほどに、 常識のないドライバーに行き当たる頻度も、また増えてしまう。

救急車が走るとき、ほとんど全ての車は停止している。みんなが動いている状況と違って、 救急車と行き交う車の数は、他の車両に比べて圧倒的に多い。

1 時間救急車に乗っていれば、その間に「追い抜く」車の数は、混んでいる道を使うと1000台近くになる。

相手が止っているんだから当たり前だけれど、「1000台に1台」クラスのひどいドライバーがその道を走っていれば、 救急車はもちろん、1時間に1回づつ、怖い思いをする羽目になる。

今は救急車の出動件数が増えて、24時間あたりの走行距離は、以前に比べて増えている。

以前行き当たるのは、せいぜい「町のチャンピオン」ぐらいのひどい人だったのだろうけれど、 今の救急車が行き当たるのは、人類代表クラスのどうしようもない人ばっかりだから、 こういう人達にモラルを説いても、救急車が救急車としての仕事を続ける限り、状況はたぶん、変わらない。

さすがにそろそろ何とかしてほしい

たまに救急車に乗ると、やっぱり怖い思いをして、救急隊の人達は、もちろんいつも、今よりもっと怖い思いをしてる。

怖いのに、昔よりももっと怖いのに、「救急車のサイレンがうるさい」なんてクレーム増えて、 今の救急車のサイレンは、昔よりも「優しい」音色に変更されて、相手の乗用車からは、 ますます聞こえにくくなるよう、改良されているんだという。

あの人達は、本当に良く持つなと感心するけれど、電波飛ばして、有無をいわさず信号を「赤」にするだとか、 せめて救急車を装甲車両に変更するだとか、何か考えてほしいなと思う。

こんな救急車があるよ」と教えていただいた。。 これなら安心して搬送できそう。

これとか。。

日本の救急車がこういう力強いデザインだったら、突っ込んでくる車とか気にしないで済むのに。

2008.12.16

若い人はご飯が遅い

外来もようやく一段落して、14時だとかその後半だとか、ずいぶん遅い時間になって、 アルバイトに来てくれている若い先生がたは、やっとお昼ご飯を食べに、医局に戻ってくる。

ベテラン勢、それでも自分が一番年下なんだけれど、この仕事をずいぶん長くやっている人達は、 たいていもっと忙しいのに、同じ時間帯にはほとんどの人が、もうご飯を食べ終わってる。

忙しいときにはまず飯を食え

研修医期間を過ごした病院には、そもそも昼休みという考えかたはなかった。

朝病院に来て、病棟で仕事して、後はもう1 日中バタバタとかけずり回って、 自分の手は今より圧倒的に効率悪くて、仕事の量も多かったけれど、 食事だけは、それでも3食、きちんと食べてた。

研修医になって最初の頃、先輩から「忙しくて何から手を付ければいいのか分らなくなったら、まず飯を食え」なんて習った。

「これから心肺蘇生の患者さんが入ります」なんて一報が入ったら、そのあとしばらくは、 もう他の仕事は一切出来なくなる。だからみんな、放送聞いたら真っ先に食堂に駆け込んだ。

病院には、「昼休み」とか、ましてや「ご飯の時間」なんてものは一切無くて、 病院は、「食事をする間もないほど忙しい」状態が常に続いていたけれど、 それでもみんな、ないはずの食事時間をどこかから調達して、3食きっちり食べていた。

機動歩兵が習うこと

小説「宇宙の戦士」の訓練風景にも、しばしばそんな描写が出てくる。

兵士は早朝にいきなり招集をかけられて、部隊長が、「今から行軍訓練を行う」なんて宣言する。

どこに行くだとか、どれぐらいの期間行軍するとか、情報は一切無いし、集まった訓練兵には、 食事や水といった物品は渡されない。

新兵は、何も分からないままに行軍を続けて、どこまで行ったら休むとか、何を達成したら食事が取れるとか、 もちろんそんなことは教えてもらえない。

行軍中、主人公が仲のいい上官に、「食事はいつ取れるのですか?」なんて尋ねると、 上官はニヤリとして、「俺は食堂からクッキーをくすねてきている。お前も食うか? 」なんて問い返される。

このとき主人公もまた、招集前に食堂に忍び込んで、ちゃんと自分の食べ物を盗んできている。

こんな訓練が行われた頃は、新兵も「軍隊のやりかた」を心得ていて、主人公以下、 行軍に参加した全ての兵士は、みんな思い思いの食料を「装備」して、 休憩だとか、食事の配給だとか、一切行われないまま、訓練はたしか、60時間ぐらい続けられてた。

不備なシステムと個人の技量

人間に食事が必要なのは当たり前なのに、それを最初から用意しない、 昔の研修病院だとか、SF だけれど軍隊だとか、こういう組織に共通するやりかたというのは、 不備なシステムに対峙したときでも、それを個人の技量で補えるようになるための、 やはり「訓練」の一環なのだろうなと思う。

病院組織が、昼休みとか、食事時間を最初から設定しておけば、 CPRコールがかかってから食堂に飛び込むだとか、「非常食」を自分の机に常備しておくだとか、 こんな生活の知恵みたいなノウハウは、必要なくなる。実際問題、今の研修制度はそのあたりが 整備されて、昔みたいな小細工をしなくても、みんなご飯を食べられる。

整った研修環境で育った今の人達は、その代わり、外来がちょっと忙しくなったりすると、 そこから食事時間をひねり出したりすることが難しいみたいで、悪い意味でまじめすぎて、 ときどき心配になる。

システムの不備はシステムを描いた人間の責任だけれど、 完璧なシステムは、たいていの場合構築不可能で、不備というものはだから、 その時になって初めて現れることが珍しくない。

人も時間も足りない現段階で、すでに医療のシステムは破綻していて、 それはもちろん、これから現場に出てくる若い人達には何の責任もないはずだけれど、 若い人達が現場の不備に対峙して、状況はしばしば、「出来ません」を許してくれない。

こういうのはどうしたって「昔はよかった」なんて昔語りになってしまうんだけれど、 「何とかする技術」というものを伝えられなくなった今の研修制度は、やっぱりどこか怖いなと思う。

2008.12.15

専門家は結論を出せない

病院は「(開業医は)患者を救急搬送したら、墨東に入って手伝ってほしい」と提案した。 開業医たちは「なぜ医師を補充しないのか」「公立病院の責務はどうなったのか」と反発し、 議論は2時間半に及んだが、具体策は決まらなかった。 毎日新聞ニュースより引用

墨東病院産婦人科を今後どうしていけばいいのか。昨年行われた、 病院のスタッフと、地元で開業した人達とが集まっての話しあいの記事。

政府だとか、行政の人達、現場をろくに見もしない素人が提案する「政策」なんてものはたいてい的外れで、 現場にとってはむしろ有害なことが多くて、だからこそ、現場を知り抜いた専門家が、集まって話しあう。

集まって、話しあって、開業医側は、「俺たちにもっとおいしい患者を回して、 墨東は文句言わずに厳しい患者を受けろ」なんて意見。そもそも墨東病院に手が足りてないのは 誰が見たって明らかだから、墨東側は「手伝って下さい」なんて、当たり前のこと言っただけなのに、 結論のでない泥仕合になって、現場を知ってる専門家は、お互い話しあった帰結として、 「政府はいったい何をやっている」なんて結論を出した。

いろんなところでグダグダしてる

新型インフルエンザの対策も、病院施設長同士の話しあいが去年から続いていて、結局何も決まっていない。

これなんかはむしろ、行政側は「どうしていいのか分らないからお願いします」ぐらいのスタンスで始まったのに、 地域の大きな病院が、公立市立問わずに集まって会合開いて、「先生のところ、リーダーどうです? 」なんて、 もう2 年間も譲りあいを繰り返してる。

大学に残る研修医は、今年もまた減ったらしい。

自分達の頃、残る研修医が100人割り込んで、「大変だ」とか騒いでたのに、対策をどうするとか、 何か新しい研修カリキュラム作るとか、誰か「客寄せパンダ」的な、有名な先生を講師として招聘するとか、 そうした試みは一切なされないままに時は過ぎて、年を重ねるごとに、残る研修医は半減を繰り返してる。

専門家同士のグダグダというのは、何となく、うちの業界だけじゃなく、 あらゆるところで共通なのかな、と思う。

「声の大きな素人」が専門家を統治する

道路行政はある時期、専門家でもなんでもない、ルポライターの猪瀬直樹氏が仕切ってた。

安倍内閣時代の「教育再生会議」には、「ヤンキー先生」をはじめ、やっぱり教育の現場とは それほど縁のなさそうな人達が集められて、政策を提言してた。

道路の業界にも、あるいは教育の業界にも、現場のことをよく知る専門家がいて、 問題を抱えた政府の人達は、最初はさすがに、専門家の助力を求めたはず。

専門家が集まって、たぶんグダグダするばっかりで、もしかしたらあまつさえ、 「政府はいったい何をしているんだ」なんて「結論」が専門家から提出されて、 政府はどこかで、専門家を見限ったのだと思う。

専門家から「これは政府の問題」だなんて、問題を返されたら、もう専門家には頼れない。

政府はだから、どう見ても専門とは遠い、ただ声が大きいだけの「素人」を招聘して、 アドバイザーとして、彼らの声を頼らざるを得ない。

恐らくはこういう構図は、「専門的な」あらゆる業界で繰り返されて、これから先、増えていく。

素人を笑えなくなると思う

医療の業界は、どこを見渡しても「今すぐどうにかしないといけない」なんて切迫した問題ばっかりで、 今のところはまだ、問題を解決するために、現場を知ってそうな専門家が招集されている段階。

専門家がこれからいろいろ話しあって、やっぱりそれで結論が出せなかった分野については、 今度はたぶん、「現場を知らない素人」が集められて、現場の専門家は、その人達の考えかたを押しつけられる。

あと数年もしたら、医療のどこかの分野には、タレントの西川史子 氏だとか作家の久坂部羊 氏、 あるいは「医療ジャーナリスト」の伊藤隼也 氏あたりがトップに君臨して、 「専門家」は彼らに頭を下げて、自らの考えかたを奏上して、ありがたく予算をいただく、 そんな時代が来るような気がする。

「現場をよく知る専門家」というのは、たぶん誰か素人にお尻を蹴飛ばされないかぎり、 頭抱えて、ずっと悩んで動けない。自らはまり込んだ穴から、自力で抜け出せるといいのだけれど。

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