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2008.11.26

共同体工学のすすめ

最近考えていることなど。

言葉の定義

  • 「共同体」と「主催者」というものを想定する。宗教団体ならば、教団と教祖の関係になるし、 パチンコ屋さんなら、パチンコ屋さんの門をくぐった顧客は全て、共同体の一員で、主催者は社長になる
  • 共同体はしばしば重なり、見る角度によって様相を変える。 「はてな」という共同体を主催しているのは近藤社長とその周りの人々だし、 「はてな村」という、議論それ自体を楽しむ共同体は、「はてな」と重なるけれど、主催者は異なる

「共同体工学」の目指すもの

  • 上手に制御された共同体は、実体としての力を持つ。「コミュニティエンジニア」は、 共同体に対する操作を通じて、そうした力を引き出そうと試行錯誤する
  • 「共同体の成功」というものを、主催者がそこから取り出した、実体としての力であると定義する
  • 「お金」であったり、投票のような「権利」であったり、行動であったり、主催者が、 共同体から大きな力を引き出せたなら、その共同体は成功している
  • たとえば「会社組織としてのはてな」は、あれだけの人数を集めて、 維持管理に会社一つ分の人的リソースをつぎ込んでいるにもかかわらず、共同体としての効率は悪い
  • 「はてな村」は、議論それ自体を楽しむ場所だから、これは「非営利共同体」であると定義できる
  • 「はてな」と重なるところの大きい、「梅田望夫氏」という共同体から梅田望夫氏個人が得たものは、 本の売り上げであったり、梅田氏の「名」であったり、個人が得たものとしては相当に大きい
  • 「共同体工学」みたいな学問を想定したとき、梅田氏のとった技法は、 だから近藤社長のそれよりも、「優れている」と言える
  • 理念だとか、ビジネスモデルの美しさには、何の価値もない。「正しさ」は、 主催者がその共同体から引き出し得た「行動」の総和として比較されるべきであって、 理論の美しさとか、ましてや「正しさ」など、負け犬の遠吠えでしかない

どうして人は行動するのか

  • 「人を動かす方法」は、アンケートでは調査できない
  • 同じ品質、同じ量のアイスクリームを、「四角」と「丸」、別の容器に入れて、価格を揃えて販売すると、 「丸」い容器のほうが圧倒的に売れる。それがマーガリンなら、白いものよりも、黄色く着色したほうが売れる
  • ユーザーに「どんなアイスクリームが食べたいですか ?」なんてアンケートを行ったところで、 「丸い容器がいい」なんて回答は得られない。誰もが自分は「自分は頭がいい」と思っているから、 アンケートには「品質がいいもの」だとか、「環境に優しいもの」だとか、考えているようでいて、 自分の購買を促した何かとは全く異なった答えを返す
  • 丸いアイスクリームを購入した人に種明かしをして、「どちらも同じだったんですよ」なんて指摘したあとでさえ、 たいていの人は気取ろうとする。素直な人なら、「こっちのほうがおいしそうに見えたから」なんて 感想を述べるだろうけれど、「頭がよく見られたい」ほとんどの人は、「丸い容器のほうが丈夫」だとか、 「丸い容器のほうが環境により優しい」だとか、種明かしをされるほんの一瞬前まで、 想像もしていなかったような「事実」を、その場で創作してみせる

人間というもの

  • 人間の「頭のよさ」というものは、状況を取り繕う、その一瞬にこそ最大限に発揮される。 コミュニティエンジニア「人間」を想定するときには、もっと愚かな、 「虚栄心を持った猿」みたいな生き物を想像しないと失敗する
  • メーカーが努力すべきは、「アイスクリームを丸い容器に入れる」ことだったり、 「マーガリンを黄色く見せる」ことであって、「身体にいい材料を使う」だとか、 「品質」を志向してはいけない
  • 大事なのは、「顧客にいいものを買った気分にさせる」ことであって、 ものの「よさ」それ自体は、売り上げに何ら貢献しない
  • 人間は利己的で、幸福を相対的に把握する。自分の幸せは「他人の不幸」を通じることでしか実感できない。 長期的なものの見かたはしない。目の前の利益に最大限固執して、それがあとから損になると分っていても、 まずは「目の前の飴に手を出す」ことをためらわない

良心はいらない

  • 良心というものは、「虚栄の購入」という形で、悪意で記述できる。「利他的な行動」も、たいていの場合、 「自分の利益と周囲のねたみ」とのトレードオフの結果として説明できる
  • ほとんど全ての「良い」行動は、恐らくは悪意で記述することが可能だけれど、あらゆる種類の 「悪い」行動は、「よさ」をどう運用したところで表現できない
  • 「良さ」という価値は、悪意で記述可能であるが故に、本来必要のないものであって、 共同体から行動を引き出すやりかたを考えるときに、「良さ」に軸足を置いたやりかたは、 だから必ず失敗する

「通過儀礼」と「支払い」

  • ある共同体に誰かを引き込むやりかたと、共同体に入った誰かを、熱しやすい、 行動しやすい状態へと変換するやりかた、さらに、そうなった人から実際の行動を支払ってもらう 方法とは、分けて考えなくてはいけない
  • 人と人との距離というのは、共同体の効率に大いに影響する。ネズミ講みたいなやりかたは、 目の前に「友人」としてある相手の機嫌を損ねたくない、という心理を利用している
  • 距離を縮めれば、共同体の効率は上がる。プログラマーのDankogai さんの書評なんかも、あれを mixi みたいな「相手の顔が見える」空間で行ったなら、恐らくは購買確率は上がる。もちろんblog の 読者数は、共同体が「閉じた」分だけ減るだろうけれど
  • 情報に情動を重積できると、ユーザーの行動はより強力に促される。潜在読者を「叩いて」見せた 梅田氏のやりかたは、恐らくはたくさんの読者を、購買に転化させた
  • 共同体工学的に、2 つのやりかたは「正しい」。ところが正しいやりかたを重ねると、 恐らくは大失敗して、せっかく生み出された共同体は、吹き飛んでしまう
  • 共同体の盛り上がり、さしあたって何かの行動につながらない「熱気」みたいなものは、 恐らくはノイズとして処理すべきなんだと思う。本当に忠誠心が高い共同体は、盛り上がらなくても黙って動く
  • たくさんの人を集めて、「盛り上がっている」ことを持って成功であると定義するやりかたは、間違っている。 扇動者は、共同体から行動を引き出す道具として熱気を用いるけれど、熱気それ自体を目標にした やりかたからは、「結果」は生まれない

支払いの問題

  • パチンコ屋さんは儲けている。何が面白いのか一切理解できないけれど、少なくともパチンコは、 日本を代表する巨大ビジネスになっていて、多くの人が、パチンコ屋さんにお金を落とす
  • 多くの共同体で、たぶん「支払い」の実装が問題になる。成功している共同体は、 恐らくは支払いの問題に、上手な解決手段を見いだしている
  • ネットマネーは面倒くさい。銀行振り込みの手続きはおっくうだし、 コンビニでお金を支払うにしても、何というか、「品物」が手元に来た感触がない
  • それはたとえわずかな時間であっても、自分の財布から現金を支払って、品物がない状態というのは、 「相手を全面的に信頼せざるを得ない」状態で、これは恐らく、 人間の猜疑心にとって、極めて不快な状況になっている
  • パチンコ屋さんに現金を支払うと、すぐにその場で「玉」にしてくれる。 「パチンコ屋さんという共同体」では、玉というのは通貨であって、それを使って遊ぶこともできるし、 品物を購入することもできる。現金を支払って、すぐに見える形で通貨が返ってくるから、不安が最小限になる
  • ネットマネーは、たとえ「○○ポイント」なんてカードをもらったところで、 実際にコミュニティにログインしてみないことには、お金があるのやらないのやら、分らない。 たとえ30秒ぐらいのことであっても、「確かめてみるまでは分らない」という状況は不安で、 ユーザーが、そのコミュニティにお金を落とす障壁になっている
  • 「支払い」につながる動作については、「コンマ秒」レベルの時間短縮が、ユーザーの行動を大きく変えうる。 Ctrl キーの連打でgoogle が立ち上がるgoogle デスクトップに出来ることは、ただそれだけのことにしか 過ぎないけれど、あれに慣れると、もうブラウザから検索することなど考えられなくなってしまう

銀行としてのAmazon

  • 「大きい」ことと、たいていの人が繰り返し利用していることで、Amazon は信頼を作っている。 Amazon が持っている最大の強みは「信頼」であって、競合サイトがどれだけの利便性を打ち出したところで、 状況をひっくり返すことは難しい
  • 一種の銀行機能をAmazon に託すやりかたは有望に思える。共同体の内部から、Amazon 経由で品物を買うことで、 アフェリエイトから「ポイント」を生むやりかた。信頼についてはAmazon に任せて、 何か品物を買ったその瞬間、コミュニティにあるユーザーの「お財布」には、ポイントが増える
  • 支払いは、ユーザーから隠蔽されなくてはならない。「ポイント」が貯まることで、 「支払い」は隠蔽され、コミュニティ内部では、それは「生産」と表現される。 下らないごまかしだけれど、どれだけ田舎の商店街にも「スタンプカード」が置かれているのは、 やっぱりあれは、間違いなく「効く」からなんだと思う
  • Amazon 経由で「ポイント」をためるやりかたは、商品を買えば買うほどに、 コミュニティ内での自分は「金持ち」になっていく。「自分は誤魔化されないよ」という人ほど、 こういうのに誤魔化されるような気がする

後戻りの出来ない通貨

  • 「宵越しの銭は持たない」やりかたは、たぶん現代でも通用する。散財により生み出された「ポイント」が、 何かの形で換金できたり、あるいは次の消費に利用できたりすると、人間はたぶん、「金を惜しむ」ようになる
  • 共同体内部での「通貨」は、だから内部での自由度を最大にすると同時に、顧客自身の懐には、 絶対に戻れないような仕組みを作っておかないといけない
  • 「戻れないお金」を手にすることで、人ははじめて、利己を捨てて、利他的な、 「良心的な」振る舞いを始める。消費というものは、恐らくは真っ先に「もの」に向くけれど、 「もの」がない場所に置かれた人間は、たぶん虚栄心の購入、良心を発揮できる場所へと動く。 もちろん全ての振る舞いは、最終的に「支払い」となって、主催者の懐を潤す
  • 「みんなが雪を持ち寄る雪山」みたいなものを想像するのがいいのだと思う
  • 雪を買うには現金が必要な雪山。雪は「鎌倉」を作る材料にもなるし、誰かに分けることもできるし、 「雪合戦」みたいな、お互いそれをつかんで相手を攻撃することにも使えるけれど、溶けるから、持ち帰れない
  • 「その空間にたくさんの現金がポイントに変換される仕組み」と、 「その空間でたくさんのポイントが消費される仕組み」とは、たぶん分けて論じられないといけない
  • 前者についてはタイミングの問題だとか、散財を巧妙に隠蔽する仕組み作りが大切
  • 後者についてはたぶん、ポイントをたくさん消費する人が、いい意味で「馬鹿」と言われるような、 対立軸が有料ユーザーと無料ユーザーとの間に来ることを回避するやりかたが望ましい
  • どの人形が最強だとか、どのアイドルが一番魅力的だとか、対立軸をお金以外の何かに設定して、 「善の無料ユーザー」と「善の有料ユーザー」、対抗する、悪の有料、無料ユーザーとが協力して、 お互い戦える世界観を生み出せると、ポイントの消費が期待できる
  • ポイントを使わないユーザーにも役割を与えないといけない。「自陣に有料ユーザーを誘致する」とか、 何かの役割を受け持ってもらうことで、自ら属する陣営に貢献できる機会が与えられないといけない
  • 「お金持ち」であることが、何か決定的な差を「生まない」、コミュニティ内部での「貧乏人」と「お金持ち」というものは、 ロールプレイングゲームで言うところの「戦士」と「魔法使い」みたいな、お互いの存在意義とか、 得意分野がそれぞれあって、お互い交換可能な存在でいられるような空間を生み出すことが、 最終的に、多くのユーザーを「ポイント購入」につなげる

体系化してほしい

人の動きをエンジニアリングするやりかたは、どの業界を見渡しても、あまり上手くいっていない。

経済学を含めて、そうした学問は、「起きたことを説明する」ことは出来るけれど、 「これから起きることを予測」したり、人を想定どおりに振る舞わせることは、まだ出来ない。

「共同体工学」は、だから各々の主観として、「こうしたら儲かった」みたいな記述を重ねることでしか見えてこなくて、 それは「症例報告」、学問のレベルとしては、一番証拠価値の低いとされるものでしかないけれど、 きっとすごく面白い逸話が集まるような気がする。

2008.11.22

取り違え回避のやりかた

今住んでいる地域には「持ち帰り」に対応してくれる回転寿司屋さんがあって、ときどき利用する。 この地域には、そもそも外食産業がそこぐらいしかないから、いつも忙しそうにしている。 うちには子供がいないから、お願いするのはもちろん「ワサビ入り」の、普通の寿司だけれど、 「ワサビ入り」を注文したのに、受け取りに行ったらワサビがなかった。

今までの状況

そこにお寿司を頼むと、最初に注文する寿司を聞かれて、最後にいつも「ワサビはどうしますか ?」なんて尋ねられる。

同じ応対を繰り返すのが面倒だったから、最近は、注文をするときに「ワサビ入りで」なんて頼む。 今まではそれで、「ワサビはどうしますか?」がスルーされて、ワサビ入りのお寿司が出来上がっていた。

今回、いつもの通りに「ワサビ入りで」なんて頼んだのに、そのあともう一度「ワサビはどうしますか?」と尋ねられた。 そこで「ワサビ入りで」なんてお願いして、相手も「ワサビ入りですね」なんて返事したのに、ワサビは入ってなかった。

バックグラウンドで起きていたこと

恐らく電話の応対をしてくれた店員さんは、相当に忙しい思いをしていて、自分なりに、手順を「改良」していたんだと思う。

  • ワサビ入りの、「普通の」お寿司を頼む人は、店員さんが尋ねない限り、ワサビのことなんて気にしない
  • 子供がいる家だと、「ワサビ抜き」であることは大切だから、恐らくはそういう家は、最初から「ワサビ抜き」なんてお願いする

たぶんこんなことが何度か繰り返されて、店員さんの頭の中には、 「ワサビの話題を相手が振ってきたらワサビ抜き」なんて回路が出来上がっていたんだと思う。

人間は、同じ作業を繰り返していると、認知にかける労力を節約しようとする。

マニュアルどおりの、最後に「ワサビの有無」を確認するやりかたよりも、恐らくは「ワサビの話題が出たらワサビ抜き」 の覚え方のほうが、頭の仕事量は、もっと少ない。

そんなやりかたをしても、たぶん高い確率でミス無く回っていて、そこにたまたま、うちみたいな「例外」が 入ってきたものだから、店員さんは、ミスを修正できなかったのだと思う。

データベースは判断を行わない。間違った情報を入力されれば、間違った出力を返してしまう。

この事例はたしかに「ミス」だけれど、たぶんその店員さんにとっては、 「データベースに間違った情報を入力された」帰結でしかないのだと思う。

わさびの入ってないお寿司をつまみながら、「これからはわさびの話をこちらからするのは止めよう」なんて、 うちではとりあえず、ユーザーサイドで対策をすることにした。

認知のモード

たぶん「人間モード」と「機械モード」と、人間は認知のやりかたを状況に応じて使い分ける。

  • 「人間モード」は時間がかかるし、脳の負担も大きくて、間違えも多い。その代わり柔軟な対応ができて、 間違えの修正も容易
  • 「機械モード」は、認知がハードワイアされた状態で、正確で、すばやい判断が可能。 その代わり、想定されていない情報がそこに入り込むと、間違えて、修正できない

注文を受けた店員さんは、おそらくは「機械モード」で仕事をしていて、注文を受けたときに 自分たちが「わさびの話題」を出したその時点で、恐らくは「ワサビ抜き」の出力が確定していた。 注文のあと、「ワサビの確認」があって、「ワサビ入りの復唱」も為されたにもかかわらず、 結果は変更されなかった。

ミス回避のやりかた

人は容易に「機械」になる。そのことを前提にしないミス対策、 「指差し確認」だとか「ダブルチェック」みたいなやりかたは、 手続きを面倒にするだけだと思う。

手順書を作るときには、「機械になった人」を意識しないといけない。 たぶん「機械モードに入れない」手順を作るやりかたと、「機械人間でも結果が変わらない」やりかたとがある。

「機械」を回避するためには、たぶん応対マニュアルの中から、「ワサビ」という言葉を削除すればいい。

店員さんは、注文を受け付けたあと、最後に「ほかに何か言い残したことは ?」なんて質問をするルールにしておく。 「ワサビは ?」とか尋ねちゃいけない。

お客の答えは「ワサビ」かもしれないし、あるいは「マグロ増やしてくれ」だとか、 「お前のその態度が気に入らない」だとか、客の数だけさまざまだから、店員さんは、 手順を改良して、機械化することができなくなってしまう。

電話の応対は疲れるし、恐らくは店の効率も少しだけ悪くなるだろうけれど、「ワサビといったのにワサビが抜かれる」 状況は、回避できると思う。

「機械でもいい」やりかたを目指すなら、お店は「ワサビ入りのお寿司」というメニューを削ればいい。

最初からワサビの入っていない、ワサビが別になった寿司しか販売しないお店であれば、 原理的にミスは発生しない。お客もいなくなるかもしれないけれど。

サクシンとサクシゾン

最近起きたサクシンの誤投与は、電子カルテ出たときから「危ない」なんて言われていて、 「電子カルテはやばい」なんて話をするときには必ず引用されていることが、 ついに本当におきてしまったな、という印象。

本来が文脈依存で薬が選択されないといけない、「医療」というお仕事に、 薬品名での入力を求める電子カルテのやりかたは、そもそも根本的に間違っていて、 最初から「どうぞ殺して下さい」感ありありで、電子カルテが嫌いな人たちは、 だからこそ「あれ危ないから」なんて叫んでたのに、偉い人達は「IT で何でも解決するんだ」なんて 自信満々で、病院には、型落ちのパソコンが何百台も導入された。

「サクシン」と「サクシゾン」は、どうソートしても隣に並んで、 覚悟決めないでサクシンを使うと、患者さんは本当に死んでしまう。

このへんは、電子カルテの構造的欠陥ではあるんだけれど、 その代わり「間違えると死んでしまう」、紛らわしい薬の組み合わせは、今のところは 「サクシン」と、あとはせいぜい「アルマールとアマリール」ぐらいだから、 ここだけ回避できる仕組みを入れておけば、醜いけれど、おおむね安全な運用は可能だった。

事件がおきて、たぶんこれから「根本的な解決を」とか、IT 叫んだ人達がまた叫んで、 何億円ものお金が、各病院の「アップデート」費用としてむしり取られるんだろう。

電子カルテで処方するときは、文字変換じゃなくて、POBoX みたいな推測変換積んでほしいなと思う。 カルテの側から「おいお前、ここは当然この薬だろ…」なんて、圧力を返すようなやりかた。

POBoX による入力は、「昔の焼き直し」みたいな文章を書くときには極めて快適なんだけれど、 過去の文脈を外した単語を打ち出すと、いきなり使いにくくなる。新しい単語を打ち込んで、 PoBoX に新しい「文脈」を覚えてもらう労力が、馬鹿にならない。この「馬鹿にならなさ」加減が、 医師に「馬鹿なミス」を回避させるような気がする。

手書きカルテの温かみ

「手書きの暖かみ」みたいなものは、あるいは何らかの情報を伝える媒体になってたのかなとか思う。

電子化されて、「活字」になった文字は、人間の「機械」部分をフックする。判読するのに頭を使わないといけない、 汚い手書き文字ならば、そこに「解読」という作業が必要だけれど、誰が打ってもドットの狂いすら見つからない、 きれいなフォントで印刷された処方箋は、単語が「一塊の記号」として認識されてしまう。

手書きの文字ならば、サクシゾンをサクシンと「解読」してしまう可能性は低いだろうけれど、 その人が「サクシゾン」という先入観を持って「サクシン」という活字を読むと、 恐らくそれは、容易に「サクシゾン」と認知される。

ちょっとした変更で簡単にできる間違え防止なら、Twitter みたいに、薬品名の前に 「アイコン」をくっつけるだけでもずいぶん違うだろうし、トイザらス方式で、 「サクしゾン」と「サクシン」でも、少しは効果があると思う。目がちかちかするだろうけれど、 「し」のフォントを赤にすれば、システムの変更しなくても、似たようなミスは減らせる。

医師の仕事から処方を追放する

最終的に目指すべき場所というのは、医師の仕事から「処方」を追放することなんだと思う。

すべての治療がマニュアル化できれば、たとえば「急性呼吸不全」なんて暫定的な診断が下されたとき、 医師は処方箋を書く必要もなく、薬局から「急性呼吸不全セット」のお薬詰め合わせが上がってくるようなやりかた。

現場の仕事から創造性が消えるから、恐らくみんな反対するだろうけれど、「創造」の余地がなくなれば、 そこからミスが創造されることもなくなる。

自分が研修していた病院では、「1 年生が使える薬」、「2 年生になったら使える薬」、 「部長を起こさないと使えない薬」というのが決まっていて、救急外来で当直するとき、 特定の薬が使いたかったら、夜中でも部長をたたき起こさないといけなかった。

恐らくは研修医だけで救急外来を回さざるを得なかった時代の名残なんだろうけれど、 たしかにミスは起きようがなかったし、「恐い」薬を使うときには、必然的に、 研修医には「その薬を使う理由」が説明できないといけなかったから、「人間モード」で 仕事せざるを得なかった。

こういう工夫は素朴すぎて、「IT 」みたいなハイカラなやりかたが好きな人は笑うんだけれど、 もう少し見直されてもいいと思う。

2008.11.20

「下向き」の想像力について

頭がいい人が、「上」に向かって想像力を働かせて、それまで誰も考えなかったようなサービスを作る方向と、 同じく頭のいい人が、「世の中には想像を絶する馬鹿がいる」という信念の下に、 カモをコントロールするやり方を模索する方向と、想像力には「上」と「下」みたいな方向性がある。

上向きの想像力が生み出すプロダクトはすばらしいけれど、世の中を回しているのは、 むしろ下向きの想像力なんだと思う。

振り込め詐欺のこと

振り込め詐欺の人達が使う手口はあまりにもあからさまで、どうしてあんなものに大勢が引っかかるのか 不思議でしょうがないけれど、詐欺の秘訣というものは、「たくさんの人に電話をかける」、 それが全てなんだという。

常識的な人達は、たぶん「こんな話に騙される人が世の中にいる」という、 そのこと自体を信じられない。信じられないから、あんなことをやろうなんて思わない。

振り込め詐欺にかかわる人達は、たぶん「世の中には絶対にカモがいる」と考えていて、 1 日に数千人とか、「カモ」に当たるまで電話をかける。

振り込め詐欺の手口というのは、あたかも会社勤めの人と同じく、すごく「勤勉」にやらないと 成功しないらしい。その勤勉さを支えているものこそが、あの人達の「下向きの想像力」なんだと思う。

「金払いのいい阿呆」が社会を回す

「パチンコ業界が危ない」なんて特集で取材されてたお客さんは、年間40万円ぐらい借金して、 たぶん同じぐらいの金額を、パチンコ屋さんで消費していた。今は消費者金融が厳しくなって、 だからパチンコ業界に流れ込むお金も減っているのだと。

借金してまでパチンコにお金をつぎ込むような熱狂的なユーザーは、自分が遊び場にしている ネットサービス界隈にはいない。

今使っているサービスのほとんどは無料のものだし、有料ユーザーとしてお金を支払っているサービスにしても、 月にせいぜい500円だから、パチンコ屋さんとは比べるべくも無い。

パチンコの面白さは自分には分らない。借金してまでパチンコ屋さんにお金を貢ぐ人達は、 だから自分なんかから見ると、「金払いのいい阿呆」に見える。

理解は出来ないけれど、30兆円産業なんて言われるあの業界を回しているのは間違いなくあの人達だし、 すばらしい理念と技術をぶち上げたIT 企業が軒並み失速していく一方で、 技術であったり、顧客の規模なんかでははるかに劣る「出会い系サイト」は、 そうした「金払いのいい阿呆」の支持を得て、確実に業績を伸ばしてる。

「金払いのいい阿呆」は行動する。「バナナで痩せる」なんて声を聞いたら、気前よくバナナに殺到するし、 メディアが推薦する、雰囲気のいい候補者がいたら、気前よく自分の時間を費やして、選挙会場に足を運ぶ。

上向きの想像力は響かない

ネット界隈の、ブックマークがたくさんついているような、冷静な、「頭のいい」意見は、 「金払いのいい阿呆」の心には、全くといっていいほど響かない。

たぶん政治家の人たちは、「俺は頭がいい」なんて、世の中に距離を置く意見を持つ人を、 顧客として想定していない。政治家が大事にするのは、号令かけたら集まって、 鉢巻きを巻いて、スローガンを受け入れて、腕を振り上げて叫ぶ人達であって、 政策を「分析」する人間なんて、そもそも求めていない。

社会には、「祭りを見る人」と「祭りに参加する人」とがいて、祭りに参加する人の中に、 さらに「御輿を担ぐ人」がいる。

パチンコ業界を繁栄に導いて、IT 企業としての出会い系サイトを繁盛させて、 やせるためにバナナを買って、選挙があれば素直に投票場に行くような、お金を払ったり、行動したり、 自らのリソースを支払うことに気前のいい、「御輿を担ぐ人」達こそが、社会を回す。

google だとか「はてな」だとか、世界を相手に巨大なサービスを展開する企業は、 観光客として祭りにきて、焼きそば一つ買わないで、デジカメ片手に祭りを観察する人達のほうにばっかり 目を向けていて、祭りを本当に盛り上げる人達、祭りに参加して、祭りを作って、お金を払って、御輿を担ぐ、 そんな人達の方向を向いていない気がする。

google だって成功した企業であることには間違いないけれど、莫大な資本を投下して、 あれだけのインフラを構築した割には、得られたお金は決して多くない。なんだか効率悪く見える。

「現金工学」みたいな学問を見てみたい

ある状況によって生み出された人々の行動を、「お金」に変えるやりかたというのは、 まだ「学問」の形で体系化されていないんだろうか ?

経済学には、「マネタイズ」というカタカナ言葉があるみたいだけれど、 「こういう状況ならこんなやりかた」みたいな、方法論が体系化されていたり、 定説が作られていたりと行ったイメージとはちょっと違う印象。

自分は会社を経営しているわけでもないし、本業以外のビジネスを手がけたこともないけれど、 「ビジネスをしている人」だとか、「お金を稼ぐやりかた」を見るのが好き。

どんなやりかたが興味を引くのか、企業家の人と、自分みたいな外野と、 また全然違うんだろうけれど、このあたりは個人の感覚として、 「お金の匂い」のしてくるやりかたというのがたしかにある。

「コミュニティでタイアップ企画」とか、「ユーザーと商品開発」とか、「Win-Win」とか、嘘だと思う。 そんな理念はたしかにすばらしいけれど、やっぱりお金の匂いがしないから。

ネットサービスが収入にしている「広告モデル」なんかも、本来は正しい現金化手法が 見つかるまでの「つなぎ」でしかありえなくて、あれをゴールに据えるのは、どこかおかしい。

  • どんな「カモ」がいるのか。どんな「カモ」を想定するべきなのか
  • 人を「金払いのいい阿呆」にする状況をどう作り出せばいいのか
  • 「金払いのいい阿呆」になった人々を、どうやってコントロールするのがうまいやりかたなのか

「下向きの想像力」に優れたいろんな分野の人達が、お互いの知恵を持ち寄って、 こんなテーマを語りあったなら、きっとすごく面白いことになると思う。

2008.11.17

答えを出すために規格を作る

解答しなくてはいけない問題が大きすぎて、どこから手を付けていいのか分らないときには、 まずはリーダーとして旗を振る人が、「規格」を作ってしまうと上手くいくような気がする。

電気自動車のこと

ちょっと前の「夢の扉」だったか、大学の先生が水素自動車を作っていた。

沼地にいる「水素生成菌」を培養して、砂糖から水素を取り出す実験を繰り返して、 最終的には「砂糖水で走る車を作る」なんて夢を語ってた。

番組終盤、その研究室ではたしかに「水素自動車」が走っていたけれど、 それは「貯めた水素で走る実験車」であって、水素生成菌は、あんまり関係なかった。 その人の研究を世に問うためには、動く車があったほうが説得力あるんだろうけれど、 「水素で動く車」それ自体は、すでにいろんなメーカーが作ってるんだから、 今さらそれを再発明したところで、なんだか道のり遠そうだった。

「次世代の自動車」には規格がなくて、燃料電池だとか、水素自動車だとか、 アイデアがひしめいて、誰も「解答」を知らない状態。現行のエンジンを改良するのか、 それともモーター中心にやっていくのか、そのあたりもまだ、何も決まっていない。

何も決まっていないからこそ、「当たり」を見つけた人が成果の総取りができるから、 世界中の研究者がこのテーマに取り組んでいるのだろうけれど、問題はすごく大きい。 「当たり」にたどり着くためには、エネルギーを作ること、動く車を作ること、 エネルギーを供給するためのインフラを整備すること、あらゆる問題に答えを出して、 その全ての領域で、自分達の優位を証明しないといけないから。

電池の規格を決めるべきだと思う

政府の人達が、次世代の自動車を本当に欲しがっているのなら、まずやるべきなのは、 「電池の規格」を勝手に決めてしまうことなんだと思う。

電池の大きさだとか重量、生み出さないといけないエネルギーみたいな規格が「これ」と決まったなら、 自動車メーカーは、その規格に沿った範囲でもっとも効率のいい自動車を設計できる。 電池の性能が多少変わったところで、自動車メーカーは設計を変える必要はないし、 自動車を作る人達は、とにかく「その電池で動く性能のいい車」を作ることに全力を挙げて、 電池の開発だとか、インフラの整備だとか、考えなくて済む。

燃料電池屋さんも、水素屋さんも、昔ながらの電池屋さんも、大きさと、 必要な電力が規格化されれば、今度はその範囲での設計が要求される。

どれだけ画期的なやりかたを思いついたところで、規格内におさまらなければ意味ないし、 だからこそたぶん、開発段階での選択枝は、相当に絞られる。将来的に技術が進歩して、 蓄電池の大きさの原子炉だとか、「電池サイズのハイブリッドエンジン」なんかができて、 それが市場を席巻したとしても、混乱は最小限で住む。大きさと、取り出せるエネルギーが 同じであれば、自動車メーカーは、「電池」を取り替えればいいだけの話だから。

「充電スタンド」だとか「水素スタンド」みたいなインフラの問題も、 規格さえ決まってしまえば、それが商売になるのかどうか、実物なしで検討することが出来る。

「電池」の大きさと重さが決まれば、あとは電池寿命と輸送の問題で、 輸送コストを誰に負担してもらうのか、ガソリンスタンドの役割をどう置換していくのか、 規格さえ決まっていれば、ガソリンスタンドの人達がいきなり路頭に迷うような事態は避けられて、 インフラの置換も、穏やかに進めることができるはず。

規格は問題を切り分ける

解決しなくてはいけない問題が大きすぎて、どこから手を付けていいのか、 正解がどの当たりにあるのか、誰にも想像がつかないときには、とりあえず「これ」という規格を、 強引に決めてしまえばいいのだと思う。

今ある世界と、問題が解決された、次の世界と、規格というものは、 長くて暗い道のりに、とりあえず「杭」を打つ行為。

杭には意味がないし、杭をたどっていく道のりが、果たして最短なのか、最善なのか、 それは杭を打つ人にだって分らないだろうけれど、「杭は動かない」ことを前提に出来るのなら、 開発者は、杭の数だけ増えていく。それは最善ではないかもしれないけれど、 確実なやりかたではあると思う。

「救急が危ない」だとか、「とりあえずIT」だとか、自分達の業界が抱えている問題というのもまた、 なんだか相当に大きくて、大きな割にはアイデア無いし、保険診療は好き勝手出来ないから、難しい。

「医療の問題」という大きすぎる問題に、病院だとか政府、マスメディア、たくさんの「知識人」だとか「市民」 だとか、系の内外からいろんな人が意見するけれど、そもそもの「治癒」とは何なのか、 「問題が解決した」とはどういう状態のことを指すのか、統一しないから、まとまらない。

政府の人達が今やらないといけないのは、「ここから先は不可抗力」だとか、 「ここまで来たら治癒」みたいな規格をとりあえず決めて、「10年は絶対変えない」だとか、 それを宣言することなんだと思う。

そんな決定はベストではないし、恣意的に決められた基準のために割を喰う人なんかも 出てくるんだろうけれど、動かない場所が与えられると、そこを基準に発想を生む人も、また増える。

「何とかする」だとか「治す」なんて問題は大きすぎて、こんな時だからこそ、 一番偉い人達が、「規格」だとか「基準」を示すべきだと思う。

2008.11.15

政治家の作法について

大義を運用して、道義でもって対象を操作することが政治家の「アート」であって、 それを怠ったり、ましてや政策なんてものに頼るような人は、政治家になってはいけない。

阪南市立病院のこと

阪南市立病院で、2000 万円の報酬で働いていた医師が、 市長の交代に伴って、1200 万円への減額を提示されて、全員退職するらしい。

この事例は、もう全面的に市長が悪いよな、と思う。

前職を破って当選した今の市長が、きちんと「政治家」として振る舞っていれば、 恐らくは医師の確保と予算の削減と、両立できる目は十分あった。

「政治家」なら、まずはマスメディアを引き連れて、病院に乗り込んでいく。 医局にカメラを入れて、減額されたら辞めるかもしれない内科の医師がいる目の前で、 「私がだらしないせいで、来年度は1200 万円しか払えない。 市長としてあなた方の仕事には本当に感謝しているのだが、市にはお金がない」なんて、 カメラの前で土下座したり、涙の一つもこぼして見せれば、医師はもう辞められない。

頭を下げて大義を奪う

市長が「私の責任」を先に認めてしまうと、医師の進退は、「モラルの問題」に帰着させられる。

お金じゃない」なんて、通勤の足にフェラーリ買って、 雨の日には長靴代わりのレクサス使い捨てるような開業医ですら、間違いなくそうつぶやく建前は、 医師の振る舞いを強力に縛る。

「お金じゃない」の文脈で、市長が自ら頭を下げて、ここで医師が退職を表明すれば、 それは「要するにお金でした」なんて本音を、満天下にさらすことになってしまう。

医師は辞められなくなるし、辞めるとしたら、もう全国民敵に回すことになるから、 医師が所属する医局もまた、撤退を支持できなくなってしまう。

「医師の給与は高すぎると思っていた」なんて、市長がふんぞり返ったその時点で、大義は医師の側に来る。

新しい市長は、医師の仕事を今までの「6割掛け」でしか評価をしていないことを表明したわけだから、 医師は「我々の仕事が6割の評価なら、10割評価している人の下で働きたい」なんて、 「お金じゃない」大義の下に、自分の行動を自由に決められる。

ほんの少し、頭を前後に振ってみせるだけの行為を惜しんで、結果として「道義」を全て自分でかぶる形になって、 大切な「大義」を相手に譲る。

これは失政であって、大阪の人達は、市長の無為を叩くべきだと思う。

大義を守って道義を押しつける

政治というのは本来、相手の振る舞いを道義で縛りつつ、大義を自らのものとして守る、 言葉による格闘技術なのだと思う。

今回のケースなんて、「政治ゲーム」が開始されたその時点で、医師側は圧倒的に不利だったし、 実際問題、医師にできることなんて何一つ無かったのに、市長は一方的にゲームをしくじって、 結果として、医師が全員退職してしまった。

両親におもちゃをねだる小学生でも知ってそうな扇動の基本技法を、最近の偉い人は、 どうしたわけだか使おうとしない。「モラル」を口にした通産大臣も、医師を辞めさせた市長さんも。 振る舞いが「教科書どおり」なのは、「そのまんま東」と「橋下知事」ぐらいしかいない。

どうしてなのかよく分らない。それは「劣化」なのか。それとも何か、使えない理由があるのか。

扇動の技術というのは、そもそもが「無駄」な技術ではあるんだろうけれど、 無駄だから省いていいことと、それを知らなくてもいいこととは、全く違う。

医療の問題なんかは、気の利いた扇動者が一人でもその場にいれば、 自分達なんかは明日からでも、「誠意のある熱心な医師」として、 倒れるまで働かざるを得ない状況に追い込まれたって、全然おかしくないのに。

大臣の「モラルが足りない」発言は、なんかおかしい。

政治家にとってモラルというのは、「相手からの発露」を期待するのではなくて、 言葉の力で、相手を「モラルを発揮せざるを得ない場所」に追い込むことで、 強引に作り出して、利用されるもの。

モラルはだから、政治家なら自由に生み出すことができるし、時にはだから、「モラルがありすぎて」、 側近が自殺に追い込まれたりする。「モラルがない」なんて怒る政治家は、本来は自らの無能を恥じるべきであって、 なんで自分達が怒られないといけないのか、正直よく分らない。

挑戦者から厳しく攻められた将棋の羽生名人が、「君には挑戦者としての慎みが足りない」 なんて怒り出したら、みんな名人のことを笑うだろう。

朝三暮四を通用させる

「政策を作る」ことなんて、そもそも政治家の仕事にしてはいけない気がする。

国なんてなかった大昔、リーダーの役割は「鼓舞」であって、具体的なやりかた、政策に相当するものは、 リーダーに鼓舞された、方向だけを与えられた集団の、たまたま先頭に立った人が、場当たり的に生むものだった。

リーダーは、煽って示して押し出して、最前線が、押されて頑張る。成果を全て自分の功績にする人は独裁者だし、 成果を「みんなのもの」にして、リーダーがリーダーであり続けることを望むなら、民主主義が生まれる。

本当の政治家は、「朝三暮四」の、無意味なやりかたから、実体としての力を生み出す。

大義を振りかざした政治家が、頭を下げて握手して、にこやかにほほえみながらスピーチするだけで、 周りにいる人達には「道議」が発生して、「誠意のある人間」という立場に追い込まれて、 笑顔で倒れるまで働かざるを得なくなる。

そうするのが一番楽だからこそ、人は「そう思われる」ように振る舞おうとする。

どうせ汚職するだろうとか思われれば汚職に走るし、「画期的な国策を考える人達」なんて、 舞台のてっぺんに押し上げられれば、その人達は、嫌でも「すばらしい人」として振る舞う。 政治家というのは、「そう思われるありかた」を、対峙する全ての人に示せる人であるべきだし、 そういう技能を継承したり、身につけることができなかった人は、やっぱり政治の舞台に立ってはいけないような気がする。

2008.11.13

理想には情が足りない

大雑把に「理」と「情」というものがあって、情報の送り手と受け手との間で、 「理」と「情」と、両方が揃わないと、人は動かない。

情報の送り手が「理」と「情」両方を用意するときもあるし、提供のやりかたを 工夫することで、送り手は「理」を提供して、それに反応した受け手から、 「情」が引っ張られるやりかたもある。恐らくはその逆も成り立つ。

梅田望夫氏の書評を読んで、個人的に考えたこと。

書評のこと

企業家の梅田望夫氏が、書評を書いた。

たぶん氏にとってはとても大切な内容が書かれている本で、抑えた文体で内容をほめて、 「全ての日本人が読むべきだと思う」なんて書かれていた。

その文章に、あんまり肯定的な反応が返ってこなかったからなのか、 普段冷静な梅田氏が、珍しくいらだった調子で、Twitter に「はてなブックマークのコメントには、 バカなものが本当に多すぎる」なんてつぶやいていた。

こういうのは、自分自身の心の動きを記述することしかできないから、一般化していいのかどうかは分らないけれど、 「梅田氏の書評」を読んでも、その本を買おうとか、興味を持ったとか、心はあまり動かなかったのに、 「苛立っている梅田望夫」のつぶやきを読んで、「ああやっぱりその本は重要なんだな」とか、買いたくなった。

言葉のアフォーダンス

「理」と「情」と、大雑把に内容を分けて、恐らくは、理と情と、両方が組み合わさって、初めて人は「動こう」と思う。

言葉にも恐らく、「アフォーダンス」に相当する考えかたがある。

「全ての日本人」に向けられた、抑えた調子の、「理」の勝った文章は、 情報の送り手と受け手との間に、「理」しか共有されないから、響かない。

梅田氏が「苛立った自分」を見せて、恐らくは情報の送り手と受け手と、お互いの関係の中に、 そこで初めて「情」が出現して、自分を含めてたぶん多くの人が、「買わなきゃ」なんて動いた気がする。

ピーキーすぎてお前にゃ無理だよ

漫画「アキラ」に出てくる金田の台詞「ピーキーすぎてお前にゃ無理だよ」というのは、 乗りこなすのが難しいバイクを自慢した言葉だけれど、その言葉を聞いた人達は、 自らもその「ピーキーすぎて無理な」バイクを乗りこなせる理由を必死に探して、 自分もまた「乗りこなせる人間」であることを証明しようとする。

キャタピラーが作っているごつい腕時計だとか、パタゴニアが作っている極地用途のジャケットには、 街中使うには過剰な機能がたくさんついている。メーカーは、特殊な人達に向けた「理」を、 過剰な機能に体現させているけれど、その過剰さはまた、「そうなれない多くの人」から、「情」を引き出す。

恐らくは町の人に向けた「ぬるい」製品を作ったその時点で、 ああいうブランドからは「情」が失われて、人気が無くなってしまうんだろうと思う。

理を詰めた文章はつまらない

「理」を積み上げて動くことを説得されたとき、たぶんその人は、 自分自身もまた「理」を詰むことで、断る理由を探そうとする。 「情」を伴わない説得は、だから「無情に」断られてしまう。

マスメディアみたいな「全て」をターゲットにしたメディアは、 売り上げという目標に特化したが故に、「情」に特化した立ち位置にたどり着いた。

「皆さんは…」なんて、丁寧に呼びかけるような調子で書く初心者のblog は、つまらない。

「皆さん」を対象に、「理」の勝った文章を書いたところで、情報の送り手にも、 受け手にも、「情」が発生する余地がなければ、その人の文章は響かない。 文章を書く人が、マスメディアの「悪いところ」を回避しようとするあまりに、 「理」を積んだ、資料だとか数字だとか、公平な立ち位置みたいなものを重視すればするほどに、 その人の文章は、誰の心をも動かない、単なる文字列になってしまう。

「理」の勝った文章で読者を引っ張ろうとするならば、「あなたたちにはまだ難しいかもしれませんが」だとか、 「これから書くことは分ってくれる人にだけ伝わればいいんですが」とか、そういう前置きを置いたほうが響く。

そうすることで、文章は、「分っている人」と、「分りたい人」、両方の読者には「情」を喚起されて、 その人が発信する「理」が、読者を動かす。

個人的には、数字を使わないようにしている。

統計が手元にあったら「統計がある」としか書かないし、数字が具体的に示されているものであっても、 その数字を読んで自分が感じたこと、「いっぱい」だとか「遠く」、「大きな」だとか、 全てを「情」で表現することを心がけている。

それは突っ込まれ防止の、 細部を曖昧にするやりかただったのだけれど、恐らくそんなやりかたは、 自分が書いた文章に「情」を重積して、読者に「響かせる」効果もあるのだと思う。

「理」のレイヤから「情」は見えない

「理」をいくら頑張っても、「情」の不在は隠蔽されない。むしろ悪くなる。

DOS の土台の上にGUI をくっつけた、昔のWindows に似ている。

「DOS なんて無いんだよ」なんて、見栄えのいいウィンドウで DOSをどれだけ巧妙にそれを隠蔽しても、 事態は改善しない。隠蔽を強めれば強めるほどに、OS は「いきなり固まる」ことが増えて、 その原因は隠蔽されて見えないから、ユーザーには手出しできない。せっかくのGUI も 使いにくさばっかりが目について、ユーザーは「使えない」なんて、そのうち離れてしまう。

梅田望夫氏は、理想家なのだという。

理想という言葉には、「情」が存在しない。「理」を想う人達は、どこかで「情」を表現することをためらっているようにも見える。

「理」によって「情」の記述を試みる学問、心理学みたいなものはどこかずれていて、 その一方で、たとえば扇動の技術であったり、広告の技法であったり、怪しいのだけれどたしかに「効く」、 結果につながるやりかたは、秘伝的に語り継がれていたりする。

「情」という存在を、「情」の言葉で記述するやりかた、大昔、 科学がなかった時代の宗教家のやりかたは、もう少し見直されていいような気がしている。

2008.11.11

モデルガンのこと

自分がモデルガンで遊んでたのは、マルゼンがエアーソフトガンを発売して数年後から、 マルイの電動ガンが発売されるちょっと前まで。

火薬で遊ぶ「モデルガン」はまだまだ元気で、エアガンは、スプリングを手で圧縮しないと撃てなかった。 ガスでブローバックするガスガンだとか、電動ガンなんて、まだ誰も考えなかった時代。

モデルガンという小さな文化が、プラモデルという、もっと大きな文化に呑み込まれた頃のお話し。

エアガン以前

金属モデルガンがまだ真っ黒だったのは、昭和48年の規制まで。

亜鉛合金でできたモデルガンは、火薬の反動が肩に来て、新聞にはときどき、 「ガンマニアの犯行」なんて、違法改造して実弾発射可能になったモデルガンが報道された。

表現規制法に反対する人達が憂慮する未来というものは、モデルガンが好きな人達にとっては、 すでに通り過ぎて来た道だった。

規制以降、手元の金属モデルガンは「違法」になって、銃口を鉛でふさいで、 黄色いペンキで塗装しないと所持できなくなった。

「ガンマニア」という言葉には、どこか犯罪じみたイメージがついて、モデルガン雑誌も 「ガンマニアでなく、ガンファンと自称しましょう」だとか、言葉狩りみたいになった。 規制に過剰に対応した、全然リアルじゃない新製品を、「実物じゃないことが一目で分るすばらしい工夫」だとか 褒めそやしたり、「リアルだ」なんてほめたライターを、別の雑誌が「けしからん」なんて叱ったり、変な時代だった。

モデルガンという趣味は、国家によって「マニア」になることが禁じられた趣味で、 古株の人達は、「マニアですね」なんて評されると、「私は違います」と否定する。

実物そっくりを目指したいのに、それが許されない中で、モデルガン界隈には、文化が生まれた。

「リアル」とは何か

「モデルガンが目指すリアル」というのは、「実物そっくり」とは違う場所にある。

見た目は実物と違っても、動作だけは実物そっくりを目指すやりかただとか、 実物と同じ形のパーツを使いながら、その実各々のパーツは、実物とは全然違った役割受け持っているだとか。

モデルガンは実物のイミテーションでしかないんだけれど、「そっくり」を目指すことをあえて拒否して、 「実物とは違う何か」から、「実物を抽象化した何か」だけを伝えるような、 そんなリアルさを意気に感じる文化があった。

自分が最初に買ったマルゼンのエアガンは、ちゃちな見た目ではあったけれど、 分解の手順なんかは実物を思わせた。動作もまた、実物と正反対だったけれど、 それでも引き金を引けば弾が飛んで、スライドは後退して、本物みたいにカートリッジが排出された。

実物とは全然違う何かを手にしながら、設計者の意図を汲んで、実物を想像する余地を楽しむ。 そんな文化は、トイガンの主流がエアガンの時代になっても受け継がれた。

MGC がM93R を出してから、時代はガスガン一色。

もはやカートリッジも無くなって、引き金を引いても、スライドはピクリとも動かなくなった。 「これでは単なる銀玉鉄砲だ」なんて声は当時からあって、93R は一種の踏み絵みたいなところがあったけれど、 みんなはそれでも、ロッキングピンが別パーツになっているところだとか、 部品の合わせかたが実物どおりだとか、実物とは違う何かから、実物を思わせる何かを見つけては、ひっそり喜んでた。

マルイルガーP08

プラモデル屋さんである「マルイ」が発売した最初のエアーガン、ルガーP08 は画期的な製品だった。

マルイは昔、モデルガンを販売していたことだってあったのに、 初めてのエアガンは、モデルガンと言うよりはプラモデルの延長で、 価格は安くて、プラスチックは薄っぺらで、銃を分解しようにも、「モナカ」みたいに 左右を貼り合わせるような、実物とは全然違う何かに仕上がってた。

ルガーはその代わり、外側の動作は実物そのまんまで、見た目は圧倒的にリアルで、高性能だった。

当時売られていた、何万円もするライフルよりも、マルイが出した2000円しない拳銃のほうがよく当たって、 よく飛んだ。なんだかバカみたいだった。

いろんな会社が追求していた「モデルガンのリアル」、実物を想像させる内部の動作だとか、 実物の「思想」みたいなものを引き継ぐ姿勢だとか、マルイのルガーにはそういうものは 一切無かったけれど、流れは決定的に変わって、各メーカーが暗黙のうちに課していた、 「リアルのお約束」みたいなものは、これ以降急速になくなった。

ホビージャパンの人達

プラモデル専門雑誌である「ホビージャパン」の人達が、別冊の形でモデルガンの専門誌を 発行したのも、この少し後の頃。今売られている「アームズマガジン」が創刊する2 年ぐらい昔。

モデルガンやエアガンを「改造」するだとか、「カスタマイズ」するやりかたなんていうのも、 モデルガン界隈の人達は、どこか「リアル」に縛られてた。

外見を止めないぐらいに改造したエアガンであっても、「もしもこれが実物だったら」みたいな お約束を引きずらないといけなくて、改造には制約が大きくて、「お約束」を外した改造は、邪道だなんて怒られた。

ホビージャパンの人達にとっては「モデルガンのリアル」なんてどうでもよくて、 プラスチックのエアガンは、大きなプラモデルでしかなかった。

プラモデル界隈の人達が持ち込んだ技術は圧倒的だった。「ちゃんと動作するガトリング銃を一から作る」だとか、 見た目がいびつな銃床にパテを持って整えて、あまつさえ木目を描いて本物そっくりにしてしまうだとか、 やりたい放題だった。

「自分で作るフルオートガスガン」だとか、ポリパテや歯科用レジンの固まりから、ライフルを一本 削りだしてしまうやりかたは、モデルガンでなく、プラモデル畑の文化。

新しい価値を受け入れる

小さな田舎の、世間と隔離されたムラ社会で、平和に「リアル」を楽しんでいたモデルガン業界は、 この頃からプラモデル業界の文化に組み込まれた。小さな村の隣に、ある日いきなり 高速道路と大規模なスーパーマーケットができて、それでもみんな、最初のうちこそ 伝統文化を守ろうとしたけれど、圧倒的な価格差と、力量の差に直面して、新しい価値を受け入れざるを得なかった。

安くて性能よくて、おまけに外観は本物そっくりなんだから、それはもう、文句を言う筋は全然無いんだけれど、 受け継いできた「流れ」みたいなものは断ち切られて、どこか寂しかった。

新しい価値を受け入れたメーカーは、「裏切った」なんて言われた。

真鍮削り出しのモデルガンを販売していた「ウェスタンアームズ」が、電動ガスガンのヤティマチックを 出したときも、「まさかあそこが」なんて声があった。ヤティ は優秀な銃で、 ガスガンなのに冬でもきちんと動いたし、改造すれば何百連射もできて、価格も安くて、 機能的にはとても優れていたのに、その「思想」はプラモデルだった。 何か裏切られた気分だった。

JAC のバトルマスターは「正し」くて、ヤティは「裏切り」、 アサヒファイアーアームズのM60ガスガンは「究極」なのに、 ガスガン最盛期に発売された、当時最強なんて噂があった、トイテックのキャレコは「邪道」。

メーカーに対する好みそのまんまでしかないけれど、分ってくれる人は分ってくれるはず。

普遍の中で文化を受け継ぐ

居心地のよかったモデルガン村には、「モデルガンの文脈」というものがあって、1980年代の終わり頃、 そこにもっと普遍的な、プラモデルの流儀が持ち込まれて、大成功して、モデルガンは大きく変容した。

マルイはこのあと、外側は本物そっくり、内部はまるでラジコンカーみたいな「電動ガン」を 販売して、電源さえあれば本物そっくりに動作するライフルは、すぐに世間の標準になった。

「北海道の職人が作る伝説の楕円断面スプリング」だとか、「命中精度高めるためにバレルをテーパーリーマーで削る」だとか、 モデルガンの、エアガンの文脈を引き継いだ「改造」は廃れて、モーターのパワーアップだとか、 ギヤボックスの改造だとか、雑誌にはなんだか、モデルガンの話とは思えない記事が増えて、 自分はその頃大学に入ったばかりでお金無かったから、モデルガンをあきらめた。

今のエアガン界隈のページを覗くと、自分が遊んでた頃に「最新型」だったライフルなんかが、 化石扱いされてたりして落ち込む。昔からの「思想」を引き継いだそのエアガンは、 あの頃たしかに最新型だったし、20年前のあの頃、みんなすごい技術だと興奮してたのに。

今は業界が成熟したのか、よっぽどマイナーな銃であっても、ネットを探すと、たいてい誰かが作ってる。 昔だったら部品から削りだして、苦労して、ようやくの思いで「動かないけれど実物に似た何か」にたどり着いたものが、 今はきちんとブローバックしたり、電動ガンとして普通に使えたり。

それは間違いなく進歩であって、「思想がない」とかうそぶいたって、部品の寸法だとか、 重量感だとか、外から測定できるあらゆるパラメーターは、今ある製品のほうが圧倒的に優れているのだけれど、 やっぱりどこか寂しい。

今自分がサバイバルゲームに参加する機会があったとして、技術も体力もないから、 足りない部分はお金でカバーするとして、選ぶとしたら、やっぱりSS9000 探してくるだろうなと思う。 たくさん売られていた、「思想」を引き継いだ数少ないおもちゃだったから、今でもたぶん、 おもちゃ屋さんの倉庫を漁れば出てくる気がする。

カビの生えたような昔のおもちゃに、アルバイトする大学生の年収を余裕で超えるぐらいのお金をかけて、 単発の、「お金のかかった種子島」みたいになった「思想」を担いでゲームに参加したところで、 たぶん電動ガン持った小学生に蜂の巣にされて終わるんだろうけれど、それでいいと思う。

「普遍の中で文化を受け継ぐ」営みは、たぶんそんなものだから。

2008.11.10

現場の能力を「上」が把握するのは難しい

来年度の研修医がますます減りそうで、県内にある基幹病院の先生が、大学のことを憂慮していた。

来年度の研修医を獲得するために、大学は、たしかに多様な研修プログラムを準備しているみたいで、 たしかに大学の「上」にいる人達は、成果を見込んだ努力を行っているように見えるけれど、 外野から見たそのプログラムは、今の大学に残っている「現場」の力で運用するのは困難で、 たぶん計画倒れに終わってしまうだろうと。

大雑把に「上」と「現場」という言葉を使うと、「現場」が実際にどれだけの能力を持っているのか、 「上」が計画を立てたとして、「現場」は果たしてそれを実行できるのか、どれだけ詳細な報告を 上げたところで、「上」がそれを予測するのは、今も昔もやっぱり難しい。

医療の「現場」力

たとえば自分は「循環器内科」ということになっているけれど、今の病院にはカテ室がない。 心電図を読んだり、心不全の患者さんを診ることはできるけれど、心筋梗塞の患者さんとか、 専門的な治療が必要な患者さんについては、本格的な治療ができる施設にお願いしないと回らない。

心臓専門のセンター病院にしてからが、たしかに100人近い医師を擁してはいるけれど、 その中には外科医が居たり、不整脈の専門家とか、集中治療の専門家とか、 いろんな分野の人もいるし、すごいベテランから研修医まで、個人の能力は一定しない。

県にいる「上」の人達が、たとえば県内の「心筋梗塞を治療する能力」を把握しようとしたら、 それはたぶん、とんでもなく大変な作業になる。

医師の実数はつかめるだろうし、どの医師が、どんな専門を名乗っているのかも分る。 医師の経験年次だとか、病院内での役職だってすぐ分るけれど、いくら詳細に調べても、 そこからは「現場の能力」みたいなものは見えてこない。彼らはまた、県内のカテ室の総数だとか、 設備を把握することもできるだろうけれど、うちの病院の近くには、 稼働しなくなって久しいカテ室を持った病院が、少なくとも2ヶ所ある。

「上」の人達はだから、能力というものを、「結果」でしか把握できない。たとえばうちの県で、 年間1000人の心筋梗塞治療が行われたとしたならば、その年には少なくとも、「1000人分」の 能力は証明されたことになる。ところがこれが「500人」に落ちたとして、本当のところ何が起きたのか、 たぶん「上」には分らない。

状況把握の対象を、「お産」だとか「救急」だとか、範囲を広く設定すればするほどに、 恐らくは「上」が把握している能力と、現場が実際に持っている能力と、 お互いの数字はかけ離れていく。

「員数」と「実数」のこと

日本の軍隊には「員数」という考えかたがあって、「この場所にはこれだけの員数があってしかるべき」 なんて上が定義すると、それはもう、「それだけの数がいる」ことにされて計画が進んで、 現場には兵隊なんていないのに、員数上は規定数存在していたから、 無茶な計画が押しつけられては、現場は敗北を重ねたんだという。

第二次世界大戦当時、日本の首相だった東条英機には、ミッドウェイ海戦での敗北が、 すぐには伝えられなかったのだ。 海外に遠征した陸軍が敗北を繰り返す報告が上がってくる中、「連合艦隊はいったい何をしている」なんて東條が憤ると、 まわりの人から「ミッドウェイでとっくに沈んでます」なんて進言されて、絶句したんだという。

このあたりは「海軍将校某の陰謀だ」とか、「実際にはそんなことはなかった」だとか、 諸説入り乱れているみたいだけれど、実際問題、計画を練る人達だって、現場の能力を把握することは できなかったんだろうなと思う。

戦艦の「能力」一つ見たところで、完成したばっかりの、乗務員の練度だって低い状態だって1 隻だし、 単純に「沈没していない」というだけの、満身創痍の状態だって、書類上は「1」として送られる。 現場はもちろん「大損害を受けた」ことは十分分っているはずだけれど、「大損害だ」と言葉にすれば 簡単な何かを、「上」に伝えるためには数字にしないといけないし、数字になったその時点で、 情報はなくなってしまう。

情報の粒度をいくら細かくしたところで、情報が、「現場」から「上」への方向を 目指したその時点で、一番大切な何かは、やっぱり失われてしまうのだろうなと思う。

米軍には新品の戦車がない

アメリカ軍は、この20年近く、新しい戦車を作っていないのだそうだ。

今動いている戦車は全部「中古品」で、もう新しい戦車は作られない。その代わり、 国内には20平方キロメートルの敷地面積を持った、巨大な「再生工場」が2ヶ所あって、 戦車の再生を恒常的に繰り返しているらしい。

古くなったり、故障した戦車は、一度「解体工場」に送り返されて、部品単位にまでバラバラにされる。 エンジンから装甲版から、全ての部品は修理、再生されて、完全な「新品」の状態になるまで約半年、 そのつど装備のアップデートを受けて、また現場に戻される。

米軍の戦車は、だから中古品でありながら、それは何年経っても「新品」であって、 恐らくはそれ故に、米軍の「上」の人達が「戦車が10台ある」というレポートを読んだときの認識と、 現場の感覚として「戦車10台分戦える」という感覚と、日本軍の「員数主義」に比べれば、 その乖離は少ないんだろうなと思う。

「再生工場」を維持するのは大変で、米国以外の国には存在しないらしいし、 日本を含んだ他の国では、作った戦車は「作りっぱなし」で、書類上は「10台」と記載されていたところで、 いざというとき、果たして何台分戦える能力を現場が持っているのか、恐らくはその時になってもなお、 「上」の人達は把握できないんだろうと思う。

現場の把握は難しい

医師の人数を増やしたところで、現場の戦力がどう動くのかなんて、「上」の人達には把握できない。 今までの「作りっぱなし」のやりかたを繰り返す限りにおいては、 現場が持つべき能力を「上」が統治することなんて、不可能なんだと思う。

恐らくは米軍にしてからが、「上」の人達が「現場と情報の対応」に失敗して、 たぶん何度も大きな犠牲を払った結果として、こんな「再生工場」に行き着いたのだろうし、 ならば医療の現場で「再生工場」めいたものをどう作ればいいのか、 現場からはちょっと想像つかない。

「上」と「現場」とを上手にすりあわせる構造をひねり出すか、 そもそも「把握」それ自体が要らない仕組みを考え出すか。

員数主義貫いても、現場全滅するだけだと思う。

2008.11.08

ボトルネックに商機が生まれる

「炎上コンサルタント」という商売の思考実験。

レンタル犬業者の事例

東京にあった「レンタル犬」の業者が飼っていた犬に、伝染性の病気が発生した。

近所の公園を散歩するのに、お供をする犬を貸し出す業者で、30頭ぐらいの犬を飼っていて、 顧客の人達が犬の引き取りを希望したら、販売も行っていたらしい。ドッグカフェみたいなものを 併設していて、自分のペットを連れてくる人だとか、一緒に散歩させる人だとか、 いろんな顧客がいたらしい。

「ブルセラ症」という、犬どうし、あるいは犬-人の感染が成立しうる病気がこの業者の飼い犬に発生して、 情報が錯綜して、問題になっている。

病気はうつる。レンタル犬を借りたことのある人には感染の可能性があるし、 そこの業者から犬を買った人だとか、あるいはそのお店に自分の飼い犬を連れて行った人なんかが、 「被害者」になっている可能性がある。

業者の人は当初、自分のblog で謝罪を繰り返していて、しばらくして、話が膨らんで、 blog は「炎上」し始めた。

コメント欄には感情的な言葉が増えて、問題は今どこまで解決しているのか、 業者としては、最終的にどういう形で問題を解決したいのか、コメント欄が盛り上がるほどに、 そのあたりは見えなくなった。

業者の人は、コメント欄を承認制にしてみたり、ときどき反論のコメントを書き込んでみたり、 その人なりの「炎上対策」をやっていたみたいだけれど逆効果だった。

今はなんだか、業者の後ろ暗そうな過去話だとか、手助けに名乗りを上げた団体が怪しいだとか、 いろんな「情報」が問題の周囲に集まりだして、いよいよ混沌としてきている。

声は一つじゃない

炎上しているコメント欄には、恐らくは3 種類の「声」がある。

業者の人が本来聞かないといけない声は、直接的な被害を受けた人。

案外冷静で、問題解決に向けての対話が可能で、「炎上した」場所の中にあって、 唯一問題を解決する能力を持っているけれど、一度問題が炎上すると、その声はかき消されてしまう。

一番声が大きいのは、観客の人達。

ペットが好きで、業者が嫌いで、問題が解決することよりも、むしろ「正義」が為されることを望む。 たとえ問題が一応の解決を見たところで、それが「正義でない」と判定されれば、 もしかしたら「炎上」の状態は、収束するどころかもっと燃え上がってしまう。

火に油を注ぐのは、「まとめサイト」を作ったり、掲示板で「裏情報」みたいなものを流す人達。

インターネットに詳しくて、議論が上手で、道義よりも技術を好む。 この人達が敵に回ると、問題は加速度的に大きくなる。 当事者はいろんな陰謀論にくっつけられるし、問題の解決策を提示しても、 たちどころに「穴」が見つけられて、それがまた観客にフィードバックされて、コメント欄はますます燃える。

3 つの声が一つに固まると、もう手が付けられない。

被害者は大義を提供して、まとめサイトが知識を提供する。大義を借用して、 知識を得たたくさんの観客が、炎上した場所に殺到する。 道徳が勝利して、観客がみんな満足した頃、焼け野原だけが残る。

「消火」作業はだから、直接の利害関係がはっきりしている人と、同情的で信じやすい「観客」とを 分離すること、できればもう一つ、まとめサイトを作るような人達を味方に付けて、 彼らのサイトを一種の報道機関として、冷静な情報を速やかに配信するための助力を要請することが基本になる。

最初は精神的なサポートから

よっぽど慣れていたり、炎上それ自体を楽しめるような人でもない限り、「炎上」に巻き込まれた当事者は 慌てるし、むき出しの感情に対峙すると、疲れて落ち込む。利害関係がある人は有限なのに、 「炎上」中はなんだか、全世界を敵に回したような気分になる。

ここで感情的になって、「我々だって頑張ってる」だとか、道徳とか正義に訴えるメッセージを出すと、 とんでもないことになる。

道徳というメッセージに反応するのは「観客」であって、直接的な被害を受けた人達は、 道徳よりも問題の解決を望む。道徳論は、本来の被害者にとっては「ごまかし」に見えて、 観客はそれを「逃げ」だと受け止める。

当事者が冷静さを失うと、「被害者」もまた、冷静でいられなくなる。被害者と、大勢の観客とが 接続されると、問題は「炎上」に向けて動き出す。

「炎上コンサルタント」の仕事は、まずは当事者にこんな話をして、 冷静な、問題解決に向けたメッセージのみを発信するよう、説得するところからはじまる。

問題を切り分ける

「問題を切り分ける」ことは、しばしば「顧客を切り分ける」効果をもたらす。

「誠意」とか「謝罪」、あるいは「熱意」みたいなメッセージではなくて、 まずは当事者たる本人が、問題をどう把握しているのか、 その人が「解決すべき問題」と認識しているものは何なのかをなるべく具体的に、 できれば解決の期限を区切って公開しないといけない。

いつまで待てば情報が得られるのかがはっきりしているなら、間は待てる。しかし、いつ、 どこで発表されるのかが分らないと、待ちきれなくなって、あやふやな情報に飛びつく。

コメント欄は、何をやっても絶対に荒れるし、炎上中盤は、 コメント欄を何らかの形で「管理」しないと、話が前に進まない。

当事者が認識している「問題」というものを、具体的な形で公表することは役に立つ。 「炎上」後半、これは「問題解決に向けた有用な書き込み」と、「そうでない書き込み」とを峻別するための根拠 として効いてくる。

「認識の根拠」もまた、なるべく具体的に提示する必要がある。

病気の重症度とか、問題の大きさなんかは、もちろん受け止める人によって、認識は様々に異なってくる。 当事者はだから、「私はこういう根拠の下に、問題をこの大きさだと認識しています」みたいな、 参考文献みたいなものを公開すると、議論を前に進めやすくなる。

分かりやすく提示した難しい文献は、「議論に加わりたい人はまず最低限これだけ読んで下さい」といったような、 問題解決に興味のない観客に対する牽制としての役割を期待できる。

「立ち位置」を決める

情報を発信する側には、一貫性が厳しく求められる。

炎上中は、当事者は無数の目線にさらされる。矛盾した行動は全て記録されて、 矛盾が蓄積すると、被害者との信頼関係は失われてしまう。

当事者の「立ち位置」というものは、だからできるだけ早期に決定されるべきで、 行動は全て、一定の約束事に基づいた、予測可能性の高いものにしないといけない。

それは「何よりもまず金銭的な保証を優先する」でもいいし、「自分の利益を第一にするからこそ、 早期の問題収拾を目指す」でもかまわない。その代わり、金銭を口にした人が「安心」を 口にすると「こいつは値切ろうとしている」なんて思われるし、 利益を最優先させる立ち位置を選ぶのならば、犬への同情とか、たとえ思っていても 口にしちゃいけない。

「この情報は出すけれど、この情報は出さない」だとか、 「自由書き込み可能だった掲示板をID 制に移行する」だとか、炎上中は、恐らくは何回も、 当事者はいろんな決断を下すことになる。

「立ち位置」というものを早期に決定して、全ての決断は、 それに矛盾しないよう、立ち位置を揺るがせないように行動しないと、信頼は得られない。

「立ち位置」は、たぶん炎上中の人が一人で決定することは難しくて、 実際の炎上を経験して、それを乗り越えたことのある人が手助けしないと難しい。

守るべきものを明確にする

実名だとか自宅の住所みたいなものから、家族や貯金みたいな財産に至るまで、 「これだけは守りたい」という範囲をできるだけ早くに確定して、炎上中は、それを厳守しなくてはならない。

ひどい攻撃にさらされたり、あるいは相手が譲歩するようなそぶりを見せても、 その範囲を崩してはいけないし、交渉が上手に転がりはじめても、 欲を出してはいけない。

ネット世間にいる交渉が上手な人には、原則勝てない。

相手は無数にいるし、娯楽として議論に参加してくるような人は、圧倒的に冷静で、 たとえ「負けた」ところで何も失わない。

こういう人達とは、交渉した時点で負けが確定しているようなものだから、そもそも交渉をしてはいけない。 「私が守りたいのはこの範囲です」みたいなものを決めておいて、突っ込まれてもそれを愚直に繰り返せば、 議論が上手な人達は、そのうち飽きて立ち去ってくれる。

ただし質問があったときに「ノーコメント」という返信は避けないといけない。

それをやると、相手も感情的になって、痛くもない腹を探ろうとしたり、 まとめサイトで報復されたりして、こちらが大怪我することになる。

ボトルネックに商機が生まれる

ネットワークがどれだけ発達したところで、人と人とのつながりはどうしても必要で、 システムを改良しても、ボトルネックは解消しない。

「炎上コンサルタント」の業務は、たぶんこんなパターン化ができるけれど、 方法論を知ったところで、恐らくは「冷静な誰か」の助けがないと対処は難しいだろうし、 そこに「誰か」がいる余地があるならば、それは商売になる。

「開業コンサルタント」みたいな人達に医院の広報を依頼すると、 「宣伝をするために、是非医院の名前で blog を書きましょう」なんて勧められるらしい。

双方向性を持った、安価で効果的な広報メディアとして、blog はいろんな業界で普及してるから、 恐らくはこれから、様々な形で、当事者に実体を伴ったダメージが生まれる「炎上」が、増えていく。

問題に対して適切な態度が取れれば、顧客は必要な情報を当事者に伝え、当事者はそれを速やかに公表して、 被害者と当事者と、問題解決に向けた、blog というものは、効果的な双方向メディアとして機能する。 残念ながらそれが上手に機能することは少ないけれど、そこに「コンサルタント」が加わることで、 問題はある程度、収拾される。

大きなblog を運営している人達が、たとえば開業医の人達相手に、1 案件70万円ぐらいで「コンサルタント」 を引き受ければ、それなりに商売になりそうな気がする。

お客がつかなかったら焼き畑すればいいんだから、きっとこういう人達が、これから出てくると思う。

2008.11.06

舞台装置がプラットフォームになる

大きくなりすぎた問題に対して発生するかもしれない無関心のお話し。

新大統領のこと

新しい大統領を警護する人達は、今頃頭抱えてるだろうな、とか想像する。

オバマ大統領が劇的な勝利を挙げて、「負けた」感覚を味わった人は、たぶんすごく多い。

勝ったのがマケイン候補だったなら、年老いた、たくさんの財産を持っている人が今さら勝ったところで、 マケイン候補に「負けた」と思う人は、そんなにいないはず。「ああまたか」と絶望する人は いるのだろうけれど、絶望は、怒りや怨嗟には結びつかない。

勝った人が受ける恨みの総和は、その人が追い抜いた人数に比例する。

若い人が勝てば、年老いた人は「負けた」と思うし、移民が勝てば、昔からその国にいる人達は、「負けた」と思う。 年齢が若い、移民の息子であるオバマ候補は、スタートの時点から極めて不利な条件を背負っていて、 それをひっくり返して大統領になれたのだから、きっとすごい人物なのだろうけれど、 あの人がここに来るまでに「追い越した」人数も、また多い。

若い大統領の誕生は、だからアメリカが大きく変わるかもしれないけれど、 それと同じぐらい、「変わりたくない」人達が、大統領を傷つけようなんて、 ろくでもない計画立ててそうな気がする。

対物ライフル時代の要人警護

アメリカ軍がイラクで使っている対物ライフルは、よく使われるもので口径12.7mm、 大きなものだと口径が25mmぐらいある。米軍はこれを使って、建物に隠れる相手を 建物ごと破壊したりだとか、装甲の薄い装甲車のエンジンを狙ったりだとか、活用しているらしい。

対物ライフルは強力で、1km ぐらい離れた距離でも普通に狙えるし、 それぐらい離れていても、当たった人が真っ二つになってしまうぐらいの威力があるんだという。

威力がありすぎて、本来それは、人間を狙って撃つことは禁じられているのだけれど、 アメリカ国内でも同じライフルが購入可能で、グアムあたりでお金を払えば、日本人の観光客にも撃たせてくれるらしい。

要人を傷つける目的でこういう銃が使われると、それを防ぐ側は、相当大変な思いをすることになる。

最近の対物ライフルは、有効射程 2000m、最大射程 2400m。動画サイトを探すと、 レポーターの人が普通に 2300m 狙って的に当ててた。この距離はちょうど、 「本気を出したゴルゴ13」と同じぐらい。

追記:そこまで強くはないよというコメントをいただきました。ありがとうございました。

漫画「ゴルゴ13」は、主人公が 2000m という人間に不可能な距離を狙撃できるのが前提。 ゴルゴに狙われて助かった人はほとんどいないし、「ゴルゴが来る」なんて 事前に分っていたところで、警察には、半径 2000m の円周を全てカバーすることなんて無理だから、 ゴルゴは止められない。

漫画でも実世界でも、恐らくはそんなに変わらなくて、ヘリコプターを使ったところで撃つ前の狙撃者は 見つからないし、たとえシークレットサービスが要人の四方を囲んだところで、対物ライフルは コンクリートの壁ぐらい簡単に貫いてしまうから、「人の壁」などあったところで、役に立たない。

大口径の銃が人間に向けられて、狙撃用途に使われたのは、フォークランド紛争が始まりらしい。 イギリスの兵士を迎え撃ったアルゼンチンの軍隊が、50口径の重機関銃に狙撃用のスコープを載せて、 相手の射程外から狙い撃ったのだという。

イギリスには当時、この射程をひっくり返せる武器が存在しなかったから、 相手を迎え撃つために対戦車ミサイルを発射して、相手の機銃陣地ごと吹き飛ばすことで、 やっと戦いになったのだという。

アメリカ国内で、「大口径の対物ライフル」と「対戦車ミサイル」との応酬が始まれば、 これはもうテロリストが逃げ出すぐらいの大惨事になってしまうから、 大統領を警護する側の人達は、もちろん対戦車ミサイルなんて使えない。

恐らくはアメリカで要人警護を行う人達は、こうした事態を何年も前から想定しているのだろうから、 オバマ大統領の警備というのは、たぶん今までの考えかたの延長では為されないような気がする。

銃の発射速度が向上して、結果として「騎馬突撃」という戦いの基本理念が意味を失って、 「塹壕戦」という、新しい考えかたが生まれたように、銃の威力や射程が伸びて、 本物のゴルゴ13みたいな人を仮想敵に想定しなくてはならなくなった現在のシークレットサービスは、 たぶん今までの延長ではありえない、新しい何かに変貌していく。

物語を作る人達

当事者でない「読者」を想定した物語を作る人達、作家であったり、 あるいは「画を作る」マスメディアの人達は、分かりやすいステレオタイプを大切にする。

「威力が増した」みたいな、連続的な変化は伝わりやすいけれど、対抗する側の、ある種の 断絶を伴った変化というのは分りにくいし、それを伝えたところで、たぶんたいていの読者は喜ばない。

これから「大統領暗殺」みたいな本が作られるとすれば、大統領を狙う側は、 躊躇なく対物ライフルを選ぶことになる。相手が選ぶ武器が決定したところで、 守る側もまた、拮抗する火力を持った武器を手にする必要があるけれど、 舞台が街中である以上、「正義」にそれをやらせるのは難しい。

守る側があまりにも不利な、こんな舞台設定で物語を作ると、狙撃者が「撃った」時点で大統領が倒れなければ嘘だから、 物語を盛り上げようと思ったら、作家の人たちは、守る側の「撃たせない」戦いを主軸にせざるを得なくなる。

物語を引っ張る主役は、「狙撃者」と「シークレットサービス」みたいな銃を持つ人達から、 「スポッター」と呼ばれる狙撃を補助する人、目標を探す「目」の役割を担う人々へとシフトしていく。

物語は情報戦になる。予測される大統領のルート設定を巡る情報戦だとか、 攻める側と守る側、お互いの土地勘だとか、気候や風、温度に対する感覚みたいなものが、 狙撃の成功を左右する。

物語には強力な銃が導入されて、結局それは、「人間の物語」へと回帰する。

舞台装置はプラットフォームになる

お互いが扱う武器の火力が「決定的」過ぎるとき、物語を盛り上げようと思ったら、 作家はもはや、その銃を撃てなくなってしまう。

銃撃戦が幕間に入る物語は、盛り上がる。威力の強い銃で銃撃戦が描写されると、もっと盛り上がる。 ところがある閾値を超えると、銃はもはや単なる舞台装置ではいられなくなって、 いつしか舞台それ自体になってしまう。

ゴルゴ13 は、頼まれた狙撃はほとんど100% 成功させる。ゴルゴの腕前はすごすぎて、 他の登場人物との釣り合いが取れなくなって、漫画「ゴルゴ13」は、ゴルゴ自身の物語から、 「ゴルゴ13というルール」を取り巻く人々の物語へと変貌した。ゴルゴはただのルールであって、 「体調悪くて的を外すゴルゴ」だとか、「誰かと喧嘩して技と的を外すゴルゴ」だとか、 人ならあり得るそんな情景は、もはや誰も想像しない。

社会のいろいろな問題点を「舞台装置」として用いながら、作家は物語を紡ぐ。

ところが作家の手に負えないぐらいに大きくなった問題は、 もはや物語の舞台装置ではいられなくなって、その問題をプラットフォームにした物語を紡ぐための、 舞台それ自体となって、観客から想像の余地を奪ってしまう。

救急医療の問題なんかが、下手するとそうなりそうな気がする。

毎日のように運ばれてくる患者さんは、これはもう間違いなく現実のものだから、 人が連続的に減っていく中、現場はそれでも頑張ってはいるんだけれど、 問題はなんだか大きくなる一方で、解決は見えない。

人が圧倒的に足りていない救急外来の問題が、どこかで作家の手に負えないぐらいに大きなものになってしまうと、 恐らくは救急の問題は、「問題」から「前提」へと変貌する。

前提になった問題は、視聴者に「そういうものだ」という、一種のあきらめを要請する。 産科とか、救急とか、マスメディアの人達がいろいろアイデア出して、それでも問題は大きくなる一方で、 彼らがどこかであきらめたとき、自分達が今抱えている問題は、もしかしたら全ての人から 見捨てられてしまう、そんなことを考える。

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