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2008.08.30

形が機能を支配する

形が機能を支配する

待合室に座っている患者さん達が、携帯ゲーム機で遊んでた。

大人も子供も、イヤホンつけて、膝の上にゲーム機抱えて、みんな同じ格好をしてた。

そこで行われているのはゲームだけれど、ある意味その姿は、未来の風景の先取りなんだと思った。

形から入るやりかた

何か新しい物を広めようと考えたときに、「形から入る」やりかたのほうが、正解に近いのだと思う。

機能は十分だけれど不格好な製品をまず出して、それを改良するやりかたと、 機能はまだ不完全もいいところだけれど、形だけは、デザイナーが描いた「未来」になっている製品をまず作り上げて、 機能はあとから作り込んでいくやりかたとがある。

技術者のコミュニティに受け入れられて、新製品に最初に飛びつく人達が未来を感じるのは、 たぶん十分な機能が実装された不格好な製品なんだろうけれど、最終的に広まって、 未来の日常の中で、風景として認知されるのは、たぶん形から入った製品になるような気がする。

携帯電話のご先祖は、自動車電話だった。

高価だった自動車電話は、そのうち改良されて小さくなって、今では誰もが携帯電話を持ち歩く。

技術的には、携帯電話は車載電話の延長線上にある製品だけれど、文化的には、 携帯電話と車載電話とは、どこかで断絶があるような気がしている。

車載電話は、固定電話に移動という機能を付加した。車載電話は、持ち運べる家である「自動車」 に備え付けられた固定電話だから、技術的にも文化的にも、固定電話と車載電話は間違いなく 地続きのものだけれど、携帯電話の文化的なルーツとなったのは電話機ではなくて、 むしろ子供の頃に遊んだおもちゃのトランシーバーだとか、特撮ヒーローが使っていた無線機だとか、 そんな「風景」なのだと思う。自宅の電話機も、電話ボックスも、自動車電話も、 電話という風景は、本来「部屋」とは不可分なものだから。

組み込まれた動作セット

このあたり完全に妄想だけれど、自動車電話が小型化されて、携帯電話が一気に広まった理由というのは、 恐らくは料金プランだとか、生活スタイルの変化だとか、そんな分かりやすい理由とは別に、 「街で無線を使って会話する」動作セットが、たぶん70年代生まれ以後の人達には、 様々な物語、ウルトラマンだとか、宇宙戦艦ヤマトみたいなものを通じて、 最初から組み込まれていたからなのだと思う。

病院の待合室では、待っている間、子供は誰でも携帯ゲームで遊ぶ。 あれはたしかに、まだ単なるゲームでしかないけれど、「液晶画面がくっついた道具を片手に持ち歩いて、 それで何かする」、そんな動作セットは、彼らが大人になっても、変わらずにそのまま残る。

iPhone みたいな携帯情報端末は、いずれどこかで急速な普及をするだろうけれど、 それもまた、恐らくは技術者の努力だとか、画期的なコストダウンだとか、機能的な理由とは別に、 ある文化が日常の風景として一般的になるタイミングというのがどこかにある。携帯ゲームは、 たぶんそんな新しい風景を受け入れるための動作セットを作り出している。

iPhone を今利用している人達は、あのデバイスの「新しさ」が面白いという。

新しさというのは意識に対する違和感で、意識というものは、 生まれてから今までに蓄積されてきた、動作セットの蓄積だから、iPhone はたしかに新しいのだろうけれど、 あのデバイスはまだ新しすぎて、日常の風景として、あれを受け入れた人は少ないのだと思う。

何か日常で使うものを広めるときには、それを使う人に、驚きを与えてはいけない。新しさとか、 驚きという価値軸は、遊びとか、ゲームをするための道具にあるべきもので、日常で使うものに 新しさを付加する考えかたは、どこか違う。「新しい」道具は、機能が好きな人には受けるかもしれないけれど、 形から入る人、「キャズム」を越えた先にいる、本来その道具を大量に使うであろう多くの人には、 その新しさが足かせになるような気がする。

たとえば人型のロボットがいたとして、それが人のように振る舞うのを見ても、違和感を感じる人は、たぶん少ない。 「家事ロボット」みたいなものが将来発売されるとしたら、たとえ機能的に必要なくても、 張りぼてであっても「頭」を作ったほうが、そのロボットの普及はきっと速いはず。

形が機能を支配する

ダイナブックの発想、最初に形を決めて、それを使っている人の風景を描いて見せて、 まずはイメージから、風景から、形から入るやりかたというものは大切なんだと思う。

何かを本格的に普及させようと思ったら、だから「それがある風景」をまず浸透させるやりかた、 イメージボードや小説、映画みたいな物語を使って、まず形から入るやりかただとか、 「今ある風景」を見直して、そこにある動作セットを「ハック」して、何気ない日常の動作に、 新しい意味を付加するやりかたというのが、本来正しいのだと思う。

chumbyみたいな、 「画面がついた目覚まし時計」というやりかたは、だから未来があるような気がする。 お布団に寝っ転がって、目覚ましの文字盤みながらボタンを押すのは、日常の動作として、 多くの人に組み込まれているものだから。

文字盤が液晶画面に変わって、目覚まし時計を止めるためのボタンを「クリック」するたびに 画面が変わって、将来的にはたとえば、その目覚ましに携帯電話回線が組み込まれて、 ボタンをクリックするたびに、なにか有料のサービスにつながったりする。地味だけれど、 「目覚まし時計のボタンを押す」のはみんなの基本動作だから、「クリック」が積み上がると、 馬鹿に出来ないような気がする。

見やすい画面だとか、コンテンツの工夫を通じて「クリック」してもらうことを考えるのでなくて、 日常生活の動作セットを見直して、「ボタンを押す」風景を、別の機能で乗っ取るような考えかた。

変革というものは、形から始まる。

それがあることで、今より圧倒的にすばらしい生活の風景を物語るやりかた。あるいは、 今ある風景を「ハック」して、同じ動作に、全く違った意味とか機能を忍ばせるやりかた。

歯ブラシとかトイレットペーパー、洗面台の内側、目覚まし時計、冷蔵庫、 今ある風景の「いつもの動作」を見直して、それがいつから日常としてすり込まれたのか、 同じ動作セットを使うことでそこにどんな意味を割り込ませることが出来るのか、 部屋を眺めれば、たぶん何か見えてくる。

2008.08.27

酒の切れ目は技術の切れ目

8年ぐらい昔。技術継承のために飲み屋さんを利用している地域があった。

誰か有名な先生を他の地方から招聘して、「つぼ八」みたいな飲み屋さんを借り切って、 ただひたすらに飲む会。

有名な医師の講演会とか、偉い人のありがたいお話とか、そういうのは抜きにして、 最初はとにかく飲む。県内の各病院の、上の人達が集まって、ただ飲む。

みんなにお酒が行き渡った頃、宴会場にスクリーンが持ち込まれる。

まだ飲んでない若手が入場して、各病院の症例、うまく行かなかった症例だとか、 苦労した症例のスライドを持ち込んで、 酔っぱらった偉い先生がたを前にして、自分の経験を語る。

会場からは、酔っぱらいの容赦のない突っ込みが入る。

「どうしてこういうやりかた試さなかったの?」だとか、 「こんなケースはこうすればいいんだ」とか。忌憚のない、でもみんな酔ってるから「厳密な検証」なんかとは 少し外れた、ベテランの知恵みたいな言葉を、若手はたくさんもらえたんだという。

無礼講の成立条件

  • 人間関係がフラットであること
  • 外に対して閉じていること
  • そこで話されたことを「真に受けない」こと

アイデアは、質よりも量。瑕疵がないことよりも、面白いことが大切。

人間関係だとか、社会的な体面を重んじる態度、場に出された言葉に、厳密さだとか、 ある種の責任を求められてしまうと、アイデアは頭の中で腐ってしまう。

「ブレインストーミング」だとか、「アイデアマラソン」だとか、フラットな議論、 新しい発想を生み出すための会議手法がいろいろ提案されているけれど、 こんなやりかたが最終的に目指しているのは、要するに 「お酒の入らない無礼講」。無礼講を実現するための道具として、 お酒というものは、だから案外理にかなっている。

宴会の席。「酔う」ことで、人間関係は平等と見なされて、多少の失礼は許される。 そこで話される言葉は「酔っぱらいの戯れ言」だから、言質とか、責任を求めるのは野暮。

酔った席での言葉は、「真に受け」てはいけない。

宴会の席で、何かいいアイデアをもらっても、それを「実地」に応用しようと思ったら、自分で検証しないといけない。 酔いが覚めて、自分の上司に尋ねてみるとか、論文調べて、その時もらった言葉を検証するとか。

ネット世間で、病気のことが話題になっていても、よっぽど信頼出来る人でもない限り、 怖くて口を挟めない。発言して、それが一人歩きした先のことまで、責任取れないから。

言葉を「真に受けない」こと、その人自身の症状と、インターネットを介して伝えた自分の印象と、 食い違ってたとき、「あの人ならば、迷わず自分自身の症状を信じるだろう」なんて信頼。 逆説的だけれど、迷ったときに「相手の言葉を信じない」ことに対する信頼がお互いに作られないと、 ネットを使ったアイデアのやりとりは難しい。

酒の切れ目は技術の切れ目

お酒が作り出す「無礼講」が技術を育む時期というのが、きっとどの業界にもあるのだと思う。

アイデアを出して、討論して、技術を共有するための場を作り出すために、 お酒が持つ社会的な機能が援用される。同じ状況をお酒抜きで、 「ルール」で実現するのは、たぶん難しい。

技術が始まる。「無礼講」の中で、お互いの経験だとか、アイデアが交換されて、 それが実地で検証されて、技術が確立して、広まっていく。

技術が広まると、その業界に注がれる「目線」が増える。目線は「きれい」を望んで、不謹慎なものを嫌う。 技術者の集まりからは、「酒」の出番が減っていく。

目線からの自由を失った技術は、継承が途絶えて、衰退してしまう。

技術には確実さが、言葉には厳密さが求められるようになる。飲み会での馬鹿話は、 目線の中での公開議論になって、会話は記録され、言葉は「ですます」になる。

会議は退屈な、和やかな空気が支配する。厳密に検証された、「正しい」やりかたが好まれる。 「おまえ馬鹿じゃねぇの?」なんて、へべれけに酔っぱらいながら厳しい突っ込み入れてたベテランは、 今では背広にネクタイしめて、「おっしゃるとおりだと思います。○○先生」なんて。

技術が全ての人に対して開いていること。瑕疵のない、厳密な議論を重んじる態度。 発想の面白さよりも、反論されないこと、瑕疵を指摘されないことを最重視するやりかた。

そんな態度のどこがいけないのか、「これ」という指摘は出来ないのだけれど、 たぶんいろんな業界で、技術が停滞するときにはこんな空気が支配的になって、 一度歩みを止めた業界からは、もう新しいアイデアなんて生まれてこない。

技術者の集まりから「酒の席」が消えると、たぶんその業界は衰退してしまう。

ある種のきれいさを重んじる人からみれば、酒の席それ自体、 業界から抹消すべき悪しきものなんだろうけれど、消しちゃいけないんだと思う。

2008.08.25

チームに対する考えかた

「指示する人」と、「指示されて動く人」とがいる。

病院だと、「指示する人」はたいてい医師であって、「指示される人」は看護師さんであることが多くて、 個人的にはそれを逆にする形、いろんな人から医師が支持されて、それに反響返していくうちに、 患者さんが治ってた…というのを目指してるんだけれど、なかなか難しい。

「指示される人」が目指してるロールモデルは一つでなくて、 「ガンダム」目指している人と、「鉄人28号」目指している人とに分かれている印象。

「ガンダム」と「鉄人」とが共存するのは難しくて、しばしば危険で、それは個人のポリシーと言うよりも、 むしろ病院だとか、地域の文化が、目指すべき、あるいは求める資質みたいなものを決めている気がする。

「鉄人28号」目指す人達

鉄人28号には、「行け鉄人」と「飛べ鉄人」、「頑張れ鉄人」ぐらいのコマンドしか存在しない。 ごく簡単な指示しか入らないけれど、鉄人は案外器用に戦って、目的を成し遂げる。

自分が今まで働いていた病院、関東地方と東北地方のいくつかの病院では、 看護師さん達は、「鉄人28号」を目指してた。

新人の看護師さん達は、まだ何かをお願いしても動けないし、動いてもらうにしても、 医師側が細かいところまで口を出さないと、自分たちの役に立ってくれない。 「鉄人28号」目指してる人が熟達してくると、医師の漠然とした指示で適当に案配してくれたり、 食事のオーダーとか、病棟管理の方針だとか、「お任せ」と指示に書いておくと、 あとは自分たちの判断で動いてくれたりする。

「看護の自立」信じてる人が多い。

「鉄人28号」目指してる人達は、 だからその動作を医師側が100% 管理することは不可能で、 ほしい道具が足りないこともときどきあるし、医師側の「こうしてほしい」と、 看護師側の「こうやってほしい」はしばしば食い違って、細かいところでトラブルになったりする。

その代わり、一度「お任せ」になれてしまうと、忙しいときとか、漠然とした指示を出しておくだけで、 「いつもどおり」に動いてくれる。慣れてる看護師さんは、医師を「誤りを犯す生き物」だと分かっているから、 慣れてくると、「看護師の指示の下に、医師がお願いを書く」形になって、すごく快適に仕事が出来る。

もちろん、こんな形になることを「快適」と思わない医師もいる。

関西の人は「ガンダム」目指す

関西、それも「大阪」限定で、看護師さん達は「ガンダム」目指してた。 3 人しか知らないから、それを一般化していいのかどうかは分からない。

昔働いていた関東地方の病院に、大阪の、誰でも知っているような有名病院で働いていた 看護師さん達が転勤してきたことがある。循環器のプロだという触れ込みだった。 たしかに何でも知っていて、仕事も上手だったのだけれど、 相手が研修医であっても、なんだか「下僕」みたいな接し方をして、ちょっとやりにくかった。

なんでも知っている人だったし、頼めばなんでもやってくれるし、何でもできる。

その代わり、その人の目の前で何が行われているのか、みんなきちんと把握しているのに、 たとえば手技を行っているのが研修医であって、 今目の前で間違ったことが行われていたとしても、よほどひどい間違えでない限り、 教えてくれない。

意地悪だったとか、そういう印象はなくて、むしろポリシーの問題。「看護師というものは、医師に対して 一切の文句を言わずに働くことが美徳なのだ」という考えかたを持っていて、 そのやりかたは、良くも悪くも「ガンダム」で、「鉄人28号」になれてる自分からすると、けっこう怖かった。

下着みたいな格好にヒョウ柄のコート羽織って出勤して、冬でも全身日焼けして金髪、 細巻きの葉巻を吸っていた。その姿はたしかに、どこから見ても「大阪」を主張していたけれど、 仕事に対する価値観は、自分が想像していた「大阪」とは、ずいぶん異なっていた。

お願いする側の文化

何かを依頼する医師側もまた、相手に対して「鉄人28号」であることを求める人と、 「ガンダム」を求める人とがいる。

田舎で働いてた頃、やっぱり関西のほうから来て下さった先生がいて、その人もまた、 看護師に対して「ガンダム」であることを求める人だった。自分なんかが「居心地がいい」と 感覚していた病棟ナースの気遣いは、その人にしてみると「思った通りに動いてくれない」なんて 不快感につながって、しばらくの間、それでも病棟はなんとか回っていたけれど、 最後はやっぱり「妥協出来ない」なんて話になって、退職してしまった。

そのあたりも、やっぱり個人の資質と言うよりは、地域の持つ文化の問題。 「適当」を目指して、「適当にやっといて」が通用する職場作りを目指す文化と、 医師が「右手を1 ㎜」と宣言したら、黙って右手を1 ㎜だけ動かす人を求めて、 そういう人を育てようとする文化と。

診療科の違いというよりは、その施設が建っている地域の持つ文化による 違いのほうが大きな印象。病棟変わっても、「適当」が通用する病院は、 どこに行ってもやっぱり「適当」が通用したから。

チームに対する考えかた

「チーム」というものについて、「鉄人28号」目指す人と、「ガンダム」目指す人とでは、 考えかたが異なるのだと思う。

スタンドプレーから生じるチームワークを目指す立場と、チームプレーを目指すためには「個」を殺すべき、と 考える人と。

他の業界にもこういう考えかたの違いがあって、「自立的組織文化」を「アテネ」に、 「統制的組織文化」を「スパルタ」に例えたモデルがあるのだなんて、某所で教えていただいた。

業界ごとに最適な組織文化が存在するのか、それとも文化それ自体は、 ある程度の多様性が認められるのか、よく分からない。

いずれにしても、組織文化にはいくつかのやりかたが混在していて、 文化を共有していない人同士が一緒に働くと、現場は混乱するし、 文化の違いはしばしば、乗り越えるのがすごく難しいのだと思う。

2008.08.22

表現型は輸入できない

「航空業界のやりかたを見習いましょう」なんて考えかたが、病院では今ずいぶん話題になっている。元航空業界の人達だとか、航空から流れて、原子力の安全問題かすった人達なんかが「安全コンサルタント」自称して、いろんなところに食い込んでる。

休憩時間をしっかり確保すること。安全委員会を立ち上げること。事故のレポート提出を義務づけて、対策を委員会で考えること。恐らくは航空だとか交通だとか、文化としての安全が先行している業界で行われていた慣習を輸入したのだろうけれど、 こういうのを真似しても、たぶん役に立たない。

昔はこれが正しいと思ってた

ずいぶん昔、「チーム医療で防ぐ医療過誤」という 文章を書いた。これは画期的だろうなんて、当時はそう意気込んでWeb に乗っけて、全然受けなかったんだけれど。

今から6年も昔。まだ当時は、自分も「航空業界見習おう」なんて思ってた頃。

医療過誤の多くは「ヒューマンファクター」で、それを回避するためにはどうすればいいのか。 航空業界の人達は、その答えを心理学とか、コミュニケーションに求めていて、 自分はそれが面白くなかったから、統一教会だとかヤマギシ会、「カルト」の人達が 得意としていた「洗脳」の技法に、解決手法を探した。

「安全」とか途中でどうでもよくなって、人の心を動かすやりかたそれ自体が面白すぎて、 何だか今みたいにおかしな方向に来てしまったけれど、結果として当時書き上げたやりかたは、 今でもそんなにぶれていないと思う。

厚生労働省主催の「医療安全対策の講習会」なんかで使われるテキスト読むと、 やってることは6年前の航空業界そのまんま輸入されている印象。

あれから6年経って、もちろん自分の書いた文章が注目されなかったからひがんでるんだけれど、 そんなやりかたは間違ってるし、もしかしたら問題をよりいっそう複雑にしてしまうと考えている。

表現型は輸入できない

企業の文化、安全を含んだ業界文化というものは、業界が置かれた環境に、 何らかの淘汰圧が加わった結果としての「表現型」として、目に見える形で発現する。

表現型それ自体を輸入したところで、問題は何も解決しない。

「オーストラリアのカンガルーは速い」なんて事実があって、じゃあ彼らの足を、 アフリカのサバンナで暮らすライオンに移植したら、サバンナ最強の無敵生物が誕生するかと言えば、 もちろんそんなことはありえない。

「カンガルーの足を持つライオン」は、もしかしたらサバンナ最速の肉食動物になるかもしれないけれど、 ジャンプしないと走れない。サバンナでは、ジャンプする肉食動物は相手に見つかってしまうから、 最速の肉食動物は、たぶん飢え死にしてしまうだろう。

カンガルーの足とライオンの足と、その絶対性能は、たしかにカンガルーのほうが 優れているかもしれないけれど、生活環境も、対峙している淘汰圧も全く異なる 生き物は、「パーツの交換」で強くなることなどありえない。

淘汰圧に注目しないといけない

異業種のノウハウを移植しようと思ったならば、彼らの表現型それ自体に注目するのではなくて、 それを生み出した環境因子、特にその表現型を生み出すきっかけとなった「淘汰圧」に注目しないといけない。

サン=テグジュベリが空を飛んでた昔、飛行機というのは落ちるものだったし、 彼らは短命で、命知らずで、無鉄砲だった。

彼らが「安全」を志向するようになったきっかけ、航空業界に安全という文化を生むきっかけとなったのは、 恐らくは「お客さんがお金になる」という業界の変化と、たぶん淘汰圧となったものは、 「ボイスレコーダー」と「フライトレコーダー」なんだと思う。

飛行機は落ちてしまえば、たいていはみんな死んでしまうから、証拠が残らない。 パイロットは死んでしまう。その時点で何が起きたのかは誰にも分からないから、責を問われない。

今のパイロットは、あらゆる行動ログが記録されて、機内での会話が記録される。 たとえ自分が墜落死したところで、過失は死後であっても追求されて、原因は徹底的に調べられる。

パイロットは今も昔もプライド高いから、恐らくはそんな不名誉に耐えられない。

耐えられないなら「落ちない方法」を探す必要があって、その帰結として、様々な安全文化、 全てのログを取られてもその理由を説明できる振る舞いかた、失敗しても落ちないで帰還する、 起きそうな失敗を事前に回避する、そんなやり方を模索する文化が生まれたのだと思う。

医療の業界に、彼らが生み出したやりかたを形だけ持ち込んだところで、たぶん何も変わらない。

「事故が起きました。安全委員会を作って、検討を行っていました。勧告されていることは型どおり行っています」なんて、 事故が起きて、病院が木で鼻くくったような声明出したところで、患者さんは納得しないし、事故は減らない。

知恵というものは、それが引きずり出される状況に追い込まれない限り、生まれない。

自らを厳しい状況に追い込む淘汰圧、形でなくて、医師自ら、スタッフ自らが生き残りを志向して、 知恵を引きずり出されるような状況を輸入しない限り、「安全文化の輸入」なんて、出来るわけがないと思う。

2008.08.21

文化は誰のものか

医師がまだ「プロ」として認知されてた大昔、自分たちは病院内で自由に振る舞って、 患者さんは慎み深く、トラブルなんてなかった。

技術だとか、知識だとか、彼我の差は圧倒的で、だから病院は聖域であり得たし、 トラブルが起きたところで、もしかしたらたぶん、患者さんには、それがトラブルであると認識出来なかった。

時代は進んで、いろんなことがやりにくくなった。

患者さんの突っ込みは厳しいし、「自由に振る舞う」なんてとんでもないし、 どんなトラブルも、それが起きたその時点で、そこにいる全ての人が、 「トラブルである」と認知するようになった。

時計の針を逆に回すやりかた。

知識は追いつかれる

「知」というのは、それが知であるためには記述可能で、再現可能でないといけない。

知識は広まって、模倣されて、広まるが故に、いつかありきたりになって、追いつかれる。

進歩のスピードは、維持できない。

自分が医師になって10年ちょっと、当時流通していた薬は、今でも全て現役で、 この10年間、「新薬」として発売された多くの薬は、明日からなくなっても、あんまり困らない。

要素技術のほとんどは、自分たちの手を離れてしまった。「画期的な新薬」は、 それを開発するのも、販売するのも、検証するのも、基本的には全部薬屋さんの仕事。 人工呼吸器の設定だとか、追加機能だとか、自分たちが「こうしてほしい」なんて要望上げても、 それを取捨選択して、実装するのはメーカーの人達。

医師自身が試験管振るって新薬作ったり、人工呼吸器試作したのは、もう何十年も昔。 医師はたしかに「えらい」けれど、権威は拡散して、要素技術は他人のものになった。

医師は薬に詳しいけれど、薬学の人とか、生化学の人とか、もちろん医師よりももっと詳しい。 医師は安全を重んじるけれど、工場のラインを設計している人が病院をみると、 あまりのずさんさに卒倒しそうになるらしい。

権威を知識量に求める今までのやりかたでは、もはや現場を守っていけない。

先駆者の優位は「逸脱」できること

マーケットを支配していた先駆者は、知識それ自体に頼っているだけでは市場を牽引できない。 先駆者はそのうち追いつかれて、価格競争や品質競争に巻き込まれて、 競合者に打ち倒されてしまう。

技術を伸ばすには限界がある。マーケットを支配することが出来た人は、だから今度は、 自ら築いてきたマーケットそれ自体を攻撃することで、自らルールを逸脱して、 競合者との距離をとる。

例えば自動車の技術は模倣可能で、競合者を生む。地上で初めて自動車を走らせた会社は、 たしかにすごい技術を持っているけれど、商品は、発売されたその時点で解析されて、 新規性を失ってしまう。

デザインやスピードの競争、価格の競争は不毛で、どこかで競合者に追いつかれる。 「我が社には技術があるから」なんて思考停止するのは悪手であって、時には先行メーカーが敗北して、 マーケットを競合者に奪われる。「我が社」の本当の強みというのは、道に車を走らせたことそれ自体なのに

先行メーカーは、自らのマーケットを攻撃することで、こうした不毛な競争を避けることが出来る。

「自動車は資源の無駄遣い」だとか、「自動車こそは環境破壊の元凶」だとか。

こんな広告は、競合者にも、もちろん先駆者自身にも不利に働くけれど、「攻撃」のタイミングも、 その攻撃対象も、先行メーカーは全て自分たちで決められる。攻撃者は、自分自身なのだから。 「攻撃」を行うその前に、先行メーカーは燃費のいい車だとか、環境に優しい材料で作った車だとか、 十分な備えを行うことが出来る。競合者は攻撃を読めないから、優位はいつまでも揺らがない。

録音するといいと思う

医師にはもはや、「技術的な優位」なんて残っていない。

あらゆる要素技術がメーカー開発になっている現在、医師が提供しているものは、 要素を集めたパッケージであって、パッケージを作るためには、複雑な知識は必要ない。 免許があるから「競合」は発生しないけれど、権威はもはやそこにない。

病院の中に入ったら紳士的に、医師を気遣うよき患者でいましょう」なんて貼り紙を貼ったところで、 もちろん何も変わらない。

もともと紳士的だった人は、貼り紙読んで「馬鹿にするな」と怒るだろうし、 紳士から遠い人もまた、貼り紙読んで大笑いして、やっぱり何も変わらない。 「自由な医師と、紳士的な患者」なんて、良かった昔を再現しようと思ったならば、 それを目標にするのではなくて、ルールを変えればいい。

ただ一言「この施設内での会話は全て録音されています」とアナウンスするだけで、 「よかった昔」は、たぶんすぐに再現できる。安全性向上のためだとか、お互いの正確な意思疎通のためだとか、 「録音」を行う理由はいくらでもある。今の時点でも、病院にはあらゆるベッド、あらゆる外来にマイクがあるから、 設備はすでに整っていたりする。

今も昔も紳士的であった人は、録音の有無で振る舞いを変える必要はないはずだし、 酔っぱらって絡む人とか、理不尽なクレームつけてくる人だとか、「録音してます」なんて 貼り紙読んだら、たぶん不自然な気遣いを始めてみたり、墓穴掘って翌日後悔したり、 いずれにしても、状況は望ましい方向に変化する。

録音は公平。一部の患者さんは、もちろん録音ルールで不利益を受けるけれど、 それは我々だって一緒。病院内の全ての場所で録音が始まれば、もちろん患者さんの悪口だとか、 陰口だとか、それらも全て録音されて、請求があれば公開される。

ルールというのは、公平でシンプルであればあるほど、お互いの能力差が、決定的な差として露呈する。

医師だってだから、録音ルールに耐えられない人は淘汰されてしまうけれど、我々はルールを作る側。 「録音されている環境」は、練習して適応することが出来る。医療従事者は、 録音環境におかれてもなお、自由に振る舞うやりかたを身につけることができるはず。

とりあえず裁判は一段落したけれど、それでもなお、「だから全ての医療行為について免責せよ」は、 やっぱり通らない。むしろ「新しい環境で、お互いを健全に縛りましょうよ」のほうが正しい。

文化は誰のものか

医療の業界には、「安全」だとか「丁寧さ」なんかが求められるようになった。

安全性高めるために、航空会社の偉い人が大学に天下ったり、「接客マナーを向上しましょう」なんて、 ホテルの接遇コンサルタントが講習会開いてみたり。

「安全」も、「丁寧」も、本来は医療のものなのに、病院には、医療以外の「専門家」が 大挙して、自分たちの文化を病院に持ち込もうとする。航空業界も、ホテル業界も、 たしかに「安全」「丁寧」のプロかもしれないけれど、背負ってる文化はやっぱり違う。 うち業界だって、そんなもの突っぱねればいいのに、偉い人達は、 どうしてだかそんな異文化を、ありがたく、無批判に受け入れる。

「録音環境」が出来たとして、そんな場所での振る舞いかたには、航空業界とか、ホテル業界の ノウハウは役に立たない。文化的な接点求めるなら、そんな空間は、むしろネット世間に似ている。

無難なことばっかりしゃべってもアクセス増えないし、いいかげんなこと口走ったり、 事実と判断との切り分けをきちんと出来ないと、そこを突っ込まれて炎上する。

ある程度の面白さ、わかりやすさを維持しつつ、ひどい「炎上」を回避しながら、 なおも病院に立ち続けるやりかた。そんなノウハウを蓄積することは可能だし、 その方向に舵切ることで、この業界の文化はまた、医療従事者の手に戻ってくる。

業界が奉じる価値観、文化のコンセプトそのものを変えることは、 最大手か最古参だけに許された特権。

文化というのは、他の業界が立ち入る場所ではないはず。

病院が、自ら文化を背負う存在であり続けるために、自らに攻撃を仕掛けるやりかた、 医師自身が、今いる場所をより厳しく、より厳密な振るまいが求められるようなルールを作っていかないと、 文化の担い手としての医師の居場所は、病院から無くなってしまう気がする。

2008.08.20

水は低いところに流れる

「顧客の声に耳傾けるのは大切」なんて言われるけれど、耳を傾けたその瞬間から、何か大切なものが劣化する。

小児医療無料化のこと

「医療費はタダがいいよね」なんて「顧客」の声が、小児医療の無料化を実現した。

これから大変になる、らしい。

自分たち、それでもまだ部外者でいられる内科や外科は、この問題を「数」の問題と考えていた。 無料化して、外来に人が殺到して、ただでさえ少ない小児科医が疲弊して、系全体を巻き込んで潰れる情景。

小児科の先生に言わせると、無料化で問題になるのは、むしろ「質」、患者さん側からみたときの、 医師の価値がゼロになることなんだという。

無料になっても、大多数の患者さんは、やっぱり病気にならないと病院には来ないし、みんな忙しい。 無料化すると、夕方の外来はたしかに混雑するらしいのだけれど、それはまだ、覚悟ができていれば何とかなるのだと。

問題なのはむしろ、小児科医療が、患者さん側から見て「タダ」だと思われてしまうこと、 小児科医という存在に、何の価値も見いださない人が増えることらしい。

「モンスター」とか言われる親御さん達は、ただでさえ、自分たち「かわいそうな」人達こそが、 世間でもっとも敬われるべきと心の底から信じてて、「恵まれてる」存在、医師とか教師を見下す。 これが無料になると、そういう人達から発射される目線の傾斜がますますきつくなって、 それが外来やってて辛いんだという。

子供のためと言うよりも、むしろ自分のために病院に来る親御さん達は、 どういうわけだか時間だけは無限に持ってる。どこにかかっても、何回かかっても、小児科医療は これから無料になるから、気に入らない答えを返す小児科医とか、自分にへつらわない小児科医とか、 どんどん「クビ」にして、他の施設に移動する。

今までなら、せいぜい施設を2つか3つ。お金払うのは馬鹿らしいから、3人ぐらいの医師を罵倒して、 「やっぱり医者は馬鹿ばかり」なんて満足げにつぶやいて、子供は「自然治癒」したことになって、 それなりに世の中回ってたらしいんだけれど、無料ルールだと、こうした親御さんの財布が傷まない。

罵倒される小児科医が6人にも7人にも増えて、子供はもちろん自分の時間を親御さんに奪われて、 お互い大変なことになるんだという。

衆愚が世の中悪くする。

「みんなの意見」に対抗する論理は、上から目線で「専門家である我々に任せておけ」なんだけれど、 専門家の意見もまた、集まると、どういうわけだか状況悪くする。

人工呼吸器のこと

人工呼吸器は、とにかく「呼吸しない人に、安全な呼吸をさせる」ことが機能の本質であって、 呼吸器がどれだけ高機能化しようが、「安全な呼吸」を見失った改変は、やっぱり改悪にしかなり得ない。

出現したばかりの人工呼吸器は、そもそも電源ボタンすらついてなくて、圧搾空気ラインを接続すると、 いきなり勝手に動き出す。呼吸器は患者さんにつながっていないから、もちろんアラームが鳴り響いて、 部屋の中がすごくうるさくなる。

いきなり動くし、アラームうるさいし、たしかにそれはろくでもないんだけれど、 「絶対動く」こと、「安全を第一にする」こと、人工呼吸器は、登場した時点で、 すでにこのあたりを達成できていた。

1970年代の登場から30年。

  • 人工呼吸器には電源ボタンがついて、「オフ」にすれば止るようになった
  • アラームは高機能化して、機会が「正常」を判断すれば、勝手に止るようになった
  • 今回の改良品に至って、呼吸器にはサスペンドモードがついて、電源を入れただけでは動かなくなって、 人間がモードを設定してからでないと、呼吸が始まらなくなった

電源ボタンは「操作してるかんじ」をもたらしたけれど、間違って電源が切られる可能性を作り出した。 機械の判断で勝手に止るアラームは、病室を静かにしたけれど、もしかしたら大切なサインを見落とす可能性を生み出した。

今度実装されたサスペンドモードは、一番動いて欲しいその瞬間、呼吸器が沈黙して、アラーム一つ鳴らさない。 患者さんが落ち着いてるときはそれでもいいけれど、真夜中の鉄火場で、「今すぐ」使いたいとき、 沈黙する呼吸器というのは本当に怖い。

勝手に動く呼吸器は、今では電源入れて、医師が指示しないと動かないように「従順」になった。 人工呼吸器は、専門家である医師が意見して、30年かけて様々な改良が加わったのに、 それで「お得な思い」したのは生き死にに関係ない人ばっかりで、 「安全な呼吸」という、本来人工呼吸器が目指してた何かは、最初の呼吸器が登場してからこの30年、 何だか遠くなった気がする。

「下流」目指した時点で劣化が始まる

誰かの「声」を、政策だとか製品に反映させるやりかたは、だから顧客の専門性いかんに関わらず、 本質をダメにする方向、ダメにする方向に動かしてしまう。

登場したとき、欠点は目についても十分に魅力的で、役に立っていたプロダクトは、 それを開発する人達が顧客を志向したその時点で劣化が始まって、一度味をしめた「顧客の声」は、 次から次へと「改良」を要請して、結果としてろくでもないものを生み出す。

アニメーターの宮崎駿監督は、「下流を志向すると文化が衰退する」なんて言っておられた。 文化を創り出す人を「上流」においたときの、文化が流れていく先、クリエーターが顧客の方向を 向いたその時点で、その人が創り出した文化は、劣化してしまうのだと。

裁判が終わった。本当によかったなと思う。

マスメディアも、司法の人達も、そもそもの原因作った事故調査委員会の人達も本当にひどかったけれど、 その「ひどさ」というものもまた、あの人達が「顧客」の目線を意識した結果の劣化なのかなと思う。

「真実を明らかにする」ための事故調査委員会は、ご家族という 顧客に「配慮」して、玉虫色の判定出して、裁判が始まった。

警察組織はもうずっと前から不作為を叩かれて、叩かれて、たぶん今では、 公式に「過失」を認めた文章が出された時点で、もう叩かれたくないだろうから動かざるを得ない。 「正しさ」と、「柔軟さ」とは、目線の中では両立できない。

「俺たちの方を向いて仕事しろ」なんて声は、もちろん患者さんからも、あるいは医師からもでるけれど、 「上流」にいる人達が、こういう声に耳を傾けたその瞬間から、何かが劣化して、 それはしばしばひどい結果に結びつく。

こういうの、どうやって回避できるのか、未だによく分からない。

2008.08.18

環境と対峙するためのシンプルな道具

無人島みたいな環境に1 人残された主人公が生き延びるために知恵を絞る、「ロビンソンクルーソー」 みたいな物語には、その環境に対峙していくための道具が欠かせない。

恵まれた環境は、小説を生まない。何も持たない人間でも生活できるような場所なら、 その人は生き延びる努力をする必要がないだろうし、取り残された主人公が、 軍隊が持ってるような装備一式を持ち運んでいたら、それは生存の物語でなくて、教科書になってしまう。

ロビンソンクルーソーみたいな、生き延びる努力を物語として表現するためには、 主人公が環境と対峙するための道具、シンプルで、一見すると役不足で、 主人公の能力とか、工夫に応えてその能力を発揮して、主人公が生き延びる 決め手になるような、そんな道具が欠かせない。

シンプルな、一見ごくありきたりの道具一つが、主人公の手にかかると思いもかけない汎用性を 発揮して、絶望的な状況を切り開いていく、サバイバル物語のおもしろさというのはそんなところにあって、 活躍する道具というのは、道具であると同時に、主人公が追い込まれた状況を説明するための手段にもなっている。

定義としてのサバイバル

一般化するなら、「環境から導かれたルールから、プレイヤが最適解を求めようとする」という関係が成立するとき、 それはサバイバルであると言える。

サバイバルといえる状況はどこにでも存在しうる。ロビンソンクルーソーの精神は、 だからしばしば、実世界でも役に立つ。

主人公が対峙する環境が変化すれば、持つべき道具も当然変わる。

ロビンソンクルーソーが対峙した自然環境は、今はもう探すことも難しくて、 そんな「穴場」にたまたま主人公が流れ着いたところで、きちんと探せばたぶん、 歩いていける範囲内には、今なら必ず観光客がいる。

今の時代に、海に放り出された人が流れ着く場所は、まず間違いなくゴミの山。 そういう場所はたぶん、針金屑だの棒きれだの、半分腐ったビニールシートだのがたくさん転がっていて、 斧が要りそうな大木だとか、獣が潜んでそうな洞窟なんかは存在しない。

「現代のロビンソン」が、そんな環境で生存していくためには、ナイフはもはやふさわしくなくて、 むしろラチェットレンチだとか、針金を締めるためのペンチだとか、その環境を乗り切るのにふさわしい 「これ」という道具は、工事現場で使うようなものになる。

生きる知恵をつけるために、子供にナイフの使いかたを教えましょうなんて意見は昔からあるけれど、 サバイバルするために必要な道具というのは、たぶん環境から事後的に決定される。 今の子供にナイフを持たせたところで、それを生かせるような環境を探すのは大変だと思う。

ダクトテープとシノ棒

宇宙を漂流する羽目になったアポロ13号で役に立ったのは、ダクトテープだったのだという。

宇宙船に事故が起きて、その宇宙船本来の設備だけでは地球に帰れなくなって、 彼らは一緒に持ってきた月着陸船に、足りない設備の材料を求めた。

機材は交換不可能で、口金の形なんかはみんなバラバラだったから、 彼らは船内に積んであったボール紙とかメモ用紙を利用して、 ダクトテープでそれらをつないでアタッチメントを作り上げて、 地球までの命をつないだ。

ダクトテープはメモを貼るとか、新しい部品を作るとか、地球からの指令を直接メモするとか、 いろんな目的に応用できたから、NASA は今でも、宇宙に行くロケットには、必ずダクトテープを積む 決まりになっているんだという。

南極越冬隊の人達は、みんなが「シノ棒」という、 先の尖った金属棒を持つ。

ごくシンプルな道具だけれど、これを使ってずれたボルト穴を直したり、ワイヤーを締めるときの「てこ」にしたり、 缶を開けるときのへら代わりに使ったり、応用範囲がすごく広いのだという。

素手で出来そうなものだけれど、南極で手袋脱いだら大変なことになるんだろうから、 たぶんこういう「爪」の代わりになるような道具というのは、南極の野外で生き延びていくためには、 大切なんだろうなと思う。

環境と対峙するためのシンプルな道具

シンプルだけれど汎用性の高い道具、生存を志向する人が、 ある環境に対峙したときに、「これだけは」みたいに一つだけ持って行ける道具、 自分が対峙している環境は、いったいどんな道具を要請しているのか、ときどき考える。

生きていくのに役立つ道具というのは、対峙する環境に応じて本当に様々。 たいていそれは、「ノートパソコン」みたいな複雑さとは縁のない、 南極越冬隊なら「シノ棒」、無人島なら鉈とかナイフ、アポロ宇宙船ならば「ダクトテープ」だったり、 ごく単純な、そこに行ったことがない人が見たら、「どうしてそんなもの持って行くの? 」なんて疑問持つような、 特別さとは縁のない、ありきたりの道具。

軍隊が使う、スイスのアーミーナイフは、新兵であればあるほど多機能な製品を選んで、ベテランの将校は、 むしろシンプルな、ナイフ2種類に、せいぜいコルク抜きがついたようなのを持ち運んで、 ただのナイフをいろんなやりかたで応用して、機能を省いていくんだという。

道具はだから、それを使う人が熟達するほどに、環境と対峙する経験が増すほどにシンプルに、 応用が利きやすいものへと変貌して、「これ」という道具が指定できない職種というのは、 まだそこまで生存に必死になれていないか、あるいは業界自体にノウハウを蓄積する態度が乏しくて、 道具を洗練する機会に恵まれていないのかな、と思う。

自分が生息している「病院」という環境では、それが何なのか、未だによく分からない。 白衣や聴診器、ボールペンといった道具はたしかに便利なんだけれど、応用効かないし、 病院中に転がっているものだから、それらはむしろ「環境」に所属するもので、道具ですらないかもしれない。

「うちの職場はこれが頼りで、欠かせないんですよ」なんてやりかた。自分たちが対峙している状況を代表する 道具というのは、業界越えた相互理解を志向するときは、すごく役に立ちそうなんだけれど。

2008.08.15

人工呼吸器の思想的後退について

呼吸状態の悪い患者さんがいて、病棟で挿管して呼吸器につないだ。

電源も、酸素の配管も、いつもどおりにきちんと接続されているのに、呼吸器は作動しなかった。すごく焦った。

その日はたまたま、今まで使ってた呼吸器がメンテナンスに出されてる日で、病棟には代替機として、 その呼吸器の次世代機が入ってた。見た目はそんなに変らなくて、「制御系が今までよりよくなってます」 なんて説明で、普通に動いてたから、納得してた。

一度動いてしまえば、呼吸器の操作は今までと同じなんだけれど、一番最初の起動手順、 呼吸器と患者さんとが接続されて、「最初の一呼吸」が開始されるとき、新型機は、 医師に「モード設定」を要求するように変更されてた。

呼吸器は、「電源入れたら勝手に動く」のが当たり前だと思ってたから、この変更はショックだった。

昔はスイッチなんてなかった

ベトナム戦争前後に登場した最初の呼吸器は、そもそもスイッチに相当するものがなくて、 人工呼吸器に圧搾空気ラインを接続したら、機械は勝手に動き始めた。

ちょっと時代が進んで、呼吸器には「電源ボタン」がついたけれど、電源はメーターの照明だとか、 換気量を計算するための計算機だとか、呼吸それ自体とはあんまり関係ない用途にしか 使われていなかったから、電源オフにしても呼吸器は動いて、病院が停電しても、 呼吸は絶対に止らなかった。

もう少し時代が進んで、呼吸器の制御には電源が欠かせなくなったけれど、 呼吸器の電源を一度でも「オン」にしたら、呼吸器はもう止められらなかった。 人工呼吸器には「一時停止」に相当する機能がないから、ベッド移動するときとか、 吸痰するときとか、呼吸器を「ちょっと」外すときでも盛大なアラームが鳴って、 うるさいことこの上なかった。

一度鳴ったアラームは止められなかった

広く普及していた高機能呼吸器の走り「サーボ900」のアラームは、たとえ患者さんが 「正常」に戻っても、止むことはなかった。

アラームが鳴り出したら、とにかく誰か人間が呼吸器のところに走って、 アラーム停止ボタンを押さない限り、アラームは止らない。サーボを作ってるメーカーは、 「アラームが鳴ったら、絶対に患者さんを見よ」なんて、メーカーのくせに医療従事者に 強制してて、サーボ呼吸器のオプションには、「アラームを遠くから止めるための有線リモコン」 があったのに、アラームの自動停止は、頑なに実装されなかった。

高機能呼吸器がアメリカでもたくさん作られるようになって、アラームの信頼性も上がったこともあるんだろうけれど、 アラームは自動停止するようになった。患者さんに何かあって、呼吸器がアラームを鳴らすことがあっても、 その「異常値」が勝手に正常に戻ったならば、アラームも自然に止まるように改良された。

最新世代の呼吸器は沈黙して待つ

人工呼吸器に配管をつないで、電源を入れる。

この時点では、呼吸器は患者さんにつながっていないから、呼吸器のセンサーは「異常」になって、 電源の入った呼吸器は、まずは「異常動作」が始まって、けたたましくアラームが鳴る。 みんなうるささに顔しかめて、アラームオフにしてから呼吸器を患者さんにつないで、 そこではじめて、呼吸が始まる。

一番新しい世代の呼吸器は、この「うるささ」が解消されている。

電源の入った呼吸器は、まずは自己診断を走らせて、今度は「自分が人間につながっているのかどうか」を 判断する。何もつながっていないのなら、あるいは患者さんが息をしていないのなら、 人工呼吸器は動作を停止して、医師が「モード」を入力するのを待つ。

この動作のおかげで、「電源入れたらすぐアラーム」のうるささは解決したんだけれど、 これ知らない医師が今までと同じことすると、冒頭みたいなことになる。

これは改良なんだろうか?

  • 電源ボタンがついた
  • アラームが自動停止するようになった
  • 電源を入れた直後の呼吸器が「指示を待つ」ようになった

どの変化をとっても、たぶん「スイッチつけろ」とか、「アラームうるさい」とか、 現場の誰かがクレーム入れて、メーカーがそれに答えただけなんだろうけれど、 なんか腑に落ちないものがある。

電源スイッチつけたから、呼吸器には「電源オフで止る」可能性が生まれたし、 アラームが自動停止するようになったから、今度は患者さんが、 「アラームなったのに見過ごされる」可能性にさらされるようになった。

もちろんこういうのは注意していればいいのだし、たとえトラブルになる可能性があっても、 それを「運用」で解決することは出来るのだけれど、「構造的にトラブルが起きない状態」と、 「毎度毎度のアラームに耐える不便さ」と、それは果たして、トレードオフに足るものなんだろうか?

今度の改良、「電源入っても待つ」という動作もまた、これに慣れればたぶん、 電源入ってアラーム止める手間が回避できるのだろうけれど、電源入れて、 アラームも鳴らないのに、その呼吸器を患者さんにつないでも、呼吸が始まらない。

自分が「動け」と入力すれば、もちろん呼吸器は設定されたとおりに動いたんだけれど、 電源入れたのに動かない、動かないのに、動かないその状態にアラームを鳴らさない、 仕事しないのに沈黙する呼吸器は、何だかとても不気味に見えた。

時代の変化に自分がついて行けてないだけなんだろうけれど、「患者さんを安全に呼吸させる」、 人工呼吸器本来の目的を考えると、歴代行われてきた改良というのは、 やっぱりどれも、思想的に後退しているような気がする。

顧客の意見を聞くのは大事なんだろうし、顧客の意見無視した製品は、やっぱり売れないんだろうから、 呼吸器のこうした「改良」は、ある意味必然なんだろうけれど。。

2008.08.14

一本勝ちは強いのか?

ボクシングだとかレスリングみたいに、「相手が自分と同じ技量を持っている」 ことを前提に技が作られている競技と、合気道みたいに、「相手がこちら側の技を知らない」ことを前提に している競技とがあって、柔道もどちらかというと、「技をかけられる側の無知」を前提にしている気がする。

柔道の授業で習ったこと

柔道の授業では、最初に受け身の練習があって、お互い試合を始める前に、 「これだけはやるな」という教えを受ける。

投げるときは、絶対に足を曲げちゃいけないこと。投げられたら、粘らないで素直に受け身に入ること。

「これ守らないと、死ぬぞ」とか、一番最初に注意される。

投げるときに足を曲げると、受け身とれないまま、後頭部から床に落ちるし、 投げられるときに粘ろうとすると、投げられたとき、2人分の体重が腕にかかったりして、骨が折れてしまう。 お相撲の「河津掛け」みたいなことすると、だから本当に危ないだとかで、 やる真似するだけで怒られる。

柔道は、元々が人を殺す技をアレンジした競技で、「一本」を取れる状態というのは、 だからやりかたを少しだけ昔に戻しさえすれば、たぶん投げられた相手が大けがをする。 まじめにやると、相手が本当に死んでしまうから、投げが決まって、相手が「死に体」になった時点で、 投げるは「お約束」に従って、背中から落とす、安全な投げかたをする。

投げた瞬間に相手にしがみつくと、男2人分の体重がどこかに集中して、破壊力が増す。 投げる側は、そのとき「2人分の体重」を相手の首にかけてしまえば いいだけの話しなんだろうけれど、それやると大けがするから、バランスを崩して倒れないといけない。 それが続くと試合にならないし、やっぱり危ないから、「粘るな」なんて習う。

技が成立する前提のこと

柔道の一問一答だかで、「柔道の谷は本当に強いんですか?」なんて身も蓋もない質問があって、 「柔道知らない人が相手なら、谷の前に5秒と立っていられない。柔道知ってる人なら、 たとえば高校生の初段ぐらいでも、体格が十分大きければ、谷でも難しい」とか答えてた。

柔道みたいな武道は、たぶんどこかに「相手が技に無知である」という前提があって、 お互い「一本」を狙う戦いを成立させるには、一番大事な場面になったとき、 投げられる側が、投げる相手に対して「無知」にならないと、お互いに怪我をしてしまう。

柔道よりももっと「お約束」が多い合気道は、触っただけで相手がふき飛ぶ。

あれは飛ばされてるのではなく飛んでいるんだけれど、技をかけられたとき、 飛ばないと手首が折られちゃうから、身を守るためには飛ぶしかないんだという。

合気道の技を上手な人にかけてもらうと、何だか自分の体が自分のものでなくなったような、 面白い体験が出来る。合気道は、相手が無知で、「面白がって」いるうちは、 良くできた術理が成り立つのけれど、技を知っている相手が少しでも逆らおうとすると、 痛い思いをすることになって、自分から飛ばないと、競技にならない。

合気道はだから、対外試合みたいな制度が、そもそも存在しないらしい。

柔道も、技を本気でかけると、相手が大けがすることになってる。 お互い空気読まないで、本気出して試合すると、たぶんどちらかが大けがするから、 上手な人の一本勝ちというのは、どこかで相手が「空気を読んで」、 相手に対して何かをあきらめることで、はじめて技が成立している気がする。

「死に体」のこと

日本の柔道みたいな、そもそもが殺しあいの技であった武道を、 それを残したまま対戦形式にするのは、どこか無理がある。

剣道もそうだけれど、高校剣道で強かった人が大学の大会に出ると、 全然勝てなくて悩んだりするらしい。どれだけ相手に竹刀を当てても、 「気がこもっていない」とかで、審判の人に無効扱いされてしまうらしい。

その技が本当に有効なのかどうか、竹刀の代わりに真剣使えば、もちろん一瞬で答えは出るけれど、 それはもうスポーツじゃないから、相手が「死に体」になったかどうかは、審判の経験で判断する。

今の技が本当に有効であったのかどうか、それを選手がお互いに判断したら、 空気を読まない側が勝つのは見えてて、日本ではだから、審判がきちんと「一本」を判定して、 「一本勝ち」がきれいに決まる柔道競技が成立する。

剣道も、柔道も、「一本」というのは、「これで相手を殺せるかどうか」を 審判の経験で判断しているわけだから、「一本」を誰もが納得するような形で 判定するのは難しいし、数字で示せるような定義には遠い、「名人芸」的な判定をしないといけない。

レスリングとかボクシング、あるいは海外の人がやってる「judo 」なんかは、 たぶんお互いが技を知ってることが前提になっていて、文章できちんと定義された「負け」の 状態に相手を持って行くためには、自分はどうすればいいのか、結果を想定して、 そこからやるべき動作を演算しているような印象。

日本のやりかたは、「正しいやりかた」がまずあって、勝ちというものは、 正しいやりかたの帰結として、審判とか、さらにその上にいる「武道の神様」が授けてくれるもの みたいな考えかたをして、正しさを追求するのが目的になって、勝ちはあとからついてくるものみたいに見える。

「一本」目指すのは強いのか?

柔道で金メダル取った選手が、「一本勝ちにこだわった成果です」とか、インタビューで答えてた。

喜んでいたし、もちろんそんな姿勢は金メダルという結果につながったけれど、 それでもやっぱり、今の「一本勝ち」目指すやりかたには、どこか納得できない気がする。

強い人は、勝つ。

でも「強い」と「勝ち」との間にある「だから」については、勝った選手それ自身の言葉で「だから」を語られてもなお、 それが真実かどうかは誰にも分からないし、「だから」には、いろんな人の思惑が投影されてしまう。

金メダルを取った選手は、これはもう、疑いようもなく「強い」のは間違いないけれど、 あの選手は、一本を取りに行った「にもかかわらず」金メダルを取れたのか、それとも 一本を取りに行った「から」勝てたのか。金メダルを取ったことそれ自体は、 必ずしも「一本を狙うやりかた」のすごさを証明したわけではないのだと思う。

やりかたには、「強い」と「弱い」以外に、どういうわけか「きれい」というパラメーターがあって、 「強い」はたしかに「弱い」の対極にあるけれど、「強い」と「きれい」、あるいは「正しい」は、 目指すべき場所が異なってしまう。

えらい人達は、「きれいさ」という、「強さ」とは微妙にずれた価値観を選手に投影して、 勝てるやりかたが出来ない状況作り出しておいてなお、選手に「勝ち」を求めてる気がする。

「きれい」目指すなら、「勝つ」ことあきらめて、神様に捧げる美しさを目指すべきだし、 「勝つ」こと目指すなら、むしろ真っ先に否定されるべきは、前提必須の「きれいさ」で、 前提が共有できない相手を想定しても、なお勝ちに行けるやりかたを「きれい」と定義しないといけない。

「一本」で勝つ柔道はたしかにきれいだけれど、あれをいびつだと思う価値観が、 審判だとかコーチの人達に共有されないと、不幸になる人多い気がする。

2008.08.13

「乱暴な当直マニュアル」を作りたかった

出版をもくろんで、いろいろあって潰れた企画。研修医向けの、「翌朝まで」を乗り切るための本になるはずだった。

各科の言い伝え

都市伝説にも届かないような、いろんな先生方から聞いた、乱暴な一言。

  • 腹痛の患者さんは、絶食して抗生物質と十分な輸液を入れておけば、一晩は死なない
  • 例外として「化膿性胆管炎」「急性膵炎」「腹部大動脈瘤」「絞扼性イレウス」は、特別な治療をする必要がある。これは単純CTで診断できる
  • 虫垂炎は、絶食と抗生物質のみで、手術しない方針の病院もある。だから点滴と抗生物質守っていれば、不作為は問われない
  • 意識障害原因が分からない患者さんには、気道確保とステロイド、ガンマグロブリンを用いたら、それ以上は専門家でもやれることはない
  • ゼーゼーして酸素濃度が上がらない患者さんは、人工呼吸器つないでステロイド、血管拡張薬を使ったら、原因がなんであれ、それ以上何もできない
  • 肺炎治療のガイドラインに出てくる抗生物質の使いかた、第3世代セフェムにキノロンをかぶせるやりかたをした時点で、あらゆる菌は死ぬ。 病名を「肺炎疑い」とつけたその時点で、だから感染症を診断する必要はなくなる。全部治るから
  • 分からない腎不全は、とりあえず透析してから考える
  • 原因が分からない肝機能障害は、ウィルス肝炎が除外できたら、あとはステロイドを使って様子を見るぐらいしか、することがない
  • 熱だけで死ぬ人はいない。データが揺れていないのなら、熱に慌てなくても大丈夫

検証はしていない。

たとえば「外科っぽいけれど分からない」だとか、「神経疾患っぽいけれど分からない」だとか。症状を持った患者さんが来て、 とりあえず一通りのことを調べたけれど分からなくて、分からないから、怖いから、「たぶんここだろう」なんて専門科に泣きついて、 狼狽する一般内科医を哀れんで、各科の先生方からもらったコメント。

こういうのは、「ここまでやれば、この症状は大丈夫」なんて考えかたにつながって、 この通りにやるのはたしかに無様なんだけれど、分からないときは、やっぱり専門科の人達だって分からない。

分からないときには、それでも本当の専門科は、「分からないときのやりかた」というのを心得ていて、 必要なときには、無様なやりかたをためらわない。

「分からない」から始まるやりかた

症状を持った患者さんが来る。「だいたいこの病気だろう」なんて当たりをつけて、それを調べる。 当たればそれまでで、病名に応じた治療をはじめて、話は終わる。

問題なのは外したときで、異常だろうと読んでいた検査が正常値で返ってきたり、 感染症だろうなんて抗生物質はじめて、症状がいつまでたっても取れなかったり。

不十分な情報から患者さん診察して、お話聞いて、理学所見取って、「これ」なんて断言するのは たしかにかっこいいんだけれど、外したときは最悪。情報圧倒的に足りないし、 狼狽したこの瞬間は、患者さんが入院してからもう3日ぐらい経ってたりして、どうしようもない。

こういうときに教科書をひっくり返しても、やりかたなんて書いてない。教科書に出てくる医師は、 間違えることとか想定してなくて、判断して、間違って、それでもなお、「分からない」状態から、 どうやって復活をかければいいのか。

「分からない」というのはそれでも大切な手がかりで、症状があって、「分かる」病名は、 もうこの時点で考える必要はないから、それだけでも診断は相当に絞れる。

入院して、見込みを外れた治療を行って、「分からない」に至って、この時点でやるべきことは、 「狙撃銃」を「機関銃」に持ち替える、点で攻めていたのを面で攻めるやりかたと、 診断がなんであれ、患者さんの状態が治癒に向けて前に進む、分からないままに治るやりかた。 診断の方法と、治療の方法と、「分からない」からはじめる医学は、 伝統的な教科書のそれとは、ちょっと違う。

頭のいい「頭の悪いやりかた」

それは「肝機能障害スクリーニングセット」であったり、「採血一発で診断する不明熱セット」であったり、 各科の先生方のメモ帳の奥に隠れてる、汚いやりかた。

「分かりません」なんて相談すると、専門各科の先生がたは、聞いたこともないような採血を、黙って20項目とか提出する。

伝統的な、「きれいな」医学習ってると、こういうやりかたは「大学病院流」とか蔑まれて、 「あんなやりかたしてたら、誰だって病気治せる」とか馬鹿にされてたんだけれど、 そんな馬鹿なやりかた一つとっても、知識のない自分には、その「20項目」をどうチェックしていいのか、分からない。

「頭の悪いやりかた」やるには、それでもやっぱり専門知識が不可欠で、症状ごと、専門各科ごとの 「頭の悪いやりかた」は、だから得がたい知識の集積だったりする。

こういうやりかたをまとめておくと、ある症状を見込みで治療して、どこかのタイミングで「分からない」に ぶつかったとき、分からなくても、やるべきことは見えてくる。

分からないまま前に進む

たとえ熱源が分からなくても、とにかく広く効く抗生物質落としておけば、それが細菌による発熱ならば、 いつかは治る。治らないならば、それは細菌による発熱じゃないわけだから、調べるべき対象は絞れる。

ステロイドを使えば、たいていの発熱は落ち着く。よしんばそれが細菌感染であっても、少量のステロイドは 「悪さをしない」から、広域抗生物質とステロイドとの併用は、「分からない発熱」の人を、 分からないままに前に進める、一般解に近いやりかたになる。

ステロイドはもちろん、使っちゃいけないケースもある。ウィルス肝炎にこれをやると、 患者さんの症状が悪くなる可能性が出てくるから、こういうやりかたする前には、最低限、 ウィルス肝炎でないことは、証明しておかないといけない。これは採血するだけで、 3時間もすれば結果が分かる。

いろんな症状ごとに、「全部やる」やりかたというのがある。

その症状を解決しうる、全ての治療を同時に開始するやりかた。極めて頭の悪い、 それこそ「馬鹿でも治せる」やりかた。

これをやるためには、その代わり前提条件がいくつかあって、ステロイドみたいな薬だと、 使っちゃいけないケースがあったり、薬ごとに、併用するのがよくない組み合わせがあったり。

だから頭の悪いやりかたを開始するためにも、それを実行するための前提というものがあって、 症状ごと、やりかたごとに、前もって調べておくべきことだとか、「何でも全部」というわけには いかないだとか、決まり事がいくつかある。

くだらない知識ではあるけれど、いざというときの緊急避難的な、こういうやりかたは、 やっぱり知っておくと、それだけ余裕持って鉄火場に臨めるような気がしている。

未知問題への対応

分からないとき、たとえば経済学者は過去に学ぶ。物理学者や数学者は、仮説を立ててから実験で検証する。 生物学者なら、分からなかったら、森に出かけて観察をやり直すかもしれない。

自分たちの分野「医学」は、最古の学問である割には、「分からない」にぶち当たったときのやりかたを きちんと教えてもらったことがなくて、それは「もう一度診察する」とか、「頭からつま先まで診察し直す」とか、 たしかに間違ってはいないんだけれど、勝算薄そうな、検査とか、治療とか、これだけ発達した割には、 進歩の望めない、古いやりかた。

「名医」が記した教科書には、たしかにこれやって、他の医師には診断できなかった特殊な病気を発見しましたとか、 成功したケースがたくさん書いてあるんだけれど、あれやるのは無理だと思う。名医はそんなに多くないから。

「検査をたくさん出す」やりかたは、スマートさとか、真摯な態度とはほど遠くて、 たぶんベテランなら10人が10人、そんなやりかたする医師のことを馬鹿扱いすると思うけれど、 じゃあその人達に、専門外の症状見てもらって「馬鹿なやりかた」再現できるかと言えば、やっぱり無理。

馬鹿には馬鹿なりに、知らないと出来ないことがあるし、そういうやりかたを知っていることは、 たぶん忙しい病院で、それでも忙しく生き残っていく上では、きっと役に立つ。

分かるなら、スマートなやりかたすればいいけれど、分からないときにどうすればいいのか、 「分からない」から始める乱暴なやりかた、「ここまで分かった」時の少しだけきれいなやりかた、 確定診断ついたときに目指すべききれいなやりかた、症状ごとに、こうしたやりかたを 階層構造にして、「分からなかったらここに立ち戻る」場所を、マニュアルで示せればいいなと思ってた。

需要はあると思ったんだけれど。。。

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