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2008.07.31

戦争の心理学

戦争の心理学という本の抜き書き。

本書の目的は「裁くことでも非難することでもなく、ただ理解すること」。

「パンツを汚す」兵士は珍しくない

  • 警察官や消防士として負傷者の救出に当たっている人は、負傷者の大小便失禁が珍しくないことを知っている
  • 戦闘中の人間にも、大小便失禁は珍しくない。みんな面子にこだわるので、そうしたことは公然と認められず、失禁した兵士は、 自分がどこかおかしいのではないかと思ってしまう
  • 激しい戦闘を体験した兵士のおよそ半分が尿を漏らしたと認め、四分の一近くが大便を漏らしたと認めている
  • にもかかわらず、「パンツを汚した」兵士が出てくる戦争映画は、かつて作られたためしがない。典型的な兵士の姿は、だから嘘に基づいている
  • スターリングラードの戦いから生還したロシアの兵士は、当時の平均年齢70歳に対して、皆40歳前後で死亡したのだという

「気のゆるみ」は正常な反応

  • ナポレオンは「もっとも危険な瞬間は勝利の直後だ」という言葉を残している。戦闘直後の緊張が解けた瞬間には、急激な生理的虚脱を生じて、 ほとんどの人が何もできなくなってしまう。これは「油断」や「気のゆるみ」などではなく、生体の正常な反応
  • 警官は、犯人を逮捕した瞬間に緊張が解ける。犯人はむしろ、逮捕されたときが「戦闘開始」の合図になる。逮捕直後に暴れ出した犯人に、警官が 殺されたケースが報告されている。現在はだから、目標を確保した直後から、安全確保や射界の整備といった「忙しい活動」を開始して、 緊張状態が自動的に維持されるような訓練が行われている
  • 「気がゆるむ」のが正常な反応なので、それをとがめるのではなく、「気がゆるむ人間」が安全に作戦を遂行できるように考えるのが筋
  • 犯罪者と対峙したときのような極限の緊張状態に入ると、人間は訓練したことしかできなくなる。救急コールの「911」という番号ですら、 普段から押せるように訓練しておかないと、家族にそれが必要になったとき、冷静に3つのボタンを押せる人などそうはいない
  • 戦闘が始まると、視野が狭くなり、聴覚が抑制される。これは「何かに気を取られる」ためなどではなく、これもまた正常な反応であるらしい。 戦いを優勢に進めていたにもかかわらず、自分の銃声が聞こえず、「銃が故障した」と思い込んでいた警官の例が記述されている
  • 「戦いを覚えていない」こともまた正常であって、「勇気がないから」などではない。戦いのあと、皆が集まって「反省会」を 行うことは、誰もが忘れていることをお互いわかり合うという意味で、ストレスに対する解毒手段となる

訓練されたことしかできない

  • 戦闘の「本番」になると、皆訓練どおりの反応しかできなくなる
  • アメリカの警察官は、訓練中は空薬莢をポケットの中にしまう習慣がある。銃撃戦でなくなった警官のポケットに、 戦闘で使った「空薬莢」が入っていたケースが少なからず報告されている
  • 犯人から銃を取り上げる訓練をするときには、相手から銃を取り上げて、その銃を相手に返して、また取り上げる動作を繰り返す。 「本番」になったとき、犯人から銃を取り上げた警官は、奪い取ったその拳銃を、そのまま犯人に返してしまったのだという
  • 訓練の時には、安全のために拳銃の代わりに「指」を使っていた警察組織では、戦闘に入ったときにも犯人に指鉄砲を突きつけた ケースが続々報告されたため、この訓練には模型の拳銃が使われるように改良された
  • FBIの射撃訓練は、拳銃を2発撃ち、その後ホルスターに戻す。この訓練もまた、現実の撃ち合いの時に「二発撃ってホルスターに戻す」 警官が報告されて、現在では「発砲した後に周囲を見渡し、状況を確認する」ように訓練が改められている
  • テレビゲームを参考に大量虐殺に走る子供には、「一時停止」ボタンが内蔵されているケースがある。銃を突きつけられた教師が「止まれ」と 子供に命じると、それだけで虐殺が停止したケースが報告されている

「撃たれても前に進む」勇敢な兵士は作り出すことができる

  • ペイント弾を用いた「痛い」訓練は、実際の銃で撃たれて「痛み」を感じたあとも行動を続ける兵士を育成できるので、理想的と考えられている
  • 訓練演習を行うときには、兵士を「殺して」はいけないのだという。教官に「君は死んだ」と宣告されてしまうと、 実際の戦闘になって、一発の弾丸に痛みを感じたその時点で、兵士は「死んで」、行動不能に陥ってしまうのだという
  • 訓練を受ける兵士は、だから撃たれても撃たれなくても、死なずに容疑者と交戦することを強要され、 自らの安全を確保し、そこから生き残るまでは、訓練のシナリオは継続される
  • 「撃たれても前に進む」兵士は、だから再現性を持って作り出すことができる

戦闘の心理的効果

  • 否認が人を羊に変える。安全に携わる人は、「そんなことは起きない」ではなく、「それが起きたら用意はできている」を常に心がけないといけない
  • 「強い」人が内心の恐怖を打ち明け、それを克服する方法を教えると、「勇気」を別の誰かに伝授することができる
  • ミサイルや航空へ威力といった、長距離からの大火力は、相手に恐怖を与えることができない。テロリストにはだから、 「火力」それ自体の大きさは、意味を持たない。刃物のような、個人に対して直接的な脅威をもたらす武器のほうが、ハイテク兵器よりも心理的な効果が高い
  • 「仲間」がそばにいれば、兵士は発砲できる。兵士1人であれば、個人で「引き金を引くまい」と決心することもできるけれど、 チームに属する個人が発砲を回避するには、「仲間」に相談しなくてはならない
  • 古代のチャリオットは、御者と射手とのペアで戦う初めての兵器で、このことがおそらく、この兵器をより強力にした

前作の戦争における「人殺し」の心理学とあわせて、高ストレス環境に置かれた人の振る舞いかたを考える上で、大いに参考になると思う。

2008.07.28

きれいの弊害 洗練の誤謬

医療みたいな不確定要素を相手にする業界は、「模範的な医師」を想定してはいけないのだと思う。

症例検討会のこと

研修医が患者さんを受け持って、必然と、偶然と、病棟でいろんなことが重なって手術になる。 珍しい病気だったり、病理学的に「きれいな」症例であったりしたら、そうした経過は症例検討会で 発表される。

主治医は患者さんの症状や経過、何を考え、どんな検査を行ったのかを報告して、外科医は手術所見を述べ、 病理の先生がたは、取り出された病巣を顕微鏡で検討して、そこに集まったみんなで、貴重な経験を分かちあう。

症例検討会には、「きれいにされた」経過が供覧される。

どこの病院も、現場はたいてい、混乱に次ぐ混乱。患者さんが入院したところで、 実際にその人に会えたのは当日の夜中だったり、後から考えれば最初にやっておくべきだった検査は、 それに気がついたときには、もう患者さんは手術室だったり。

自分たちだって人間だから、忙しいときにはサボりたいし、絶対に忘れてはいけないものに限って、 一番大事な場面で忘れたりする。たいていはそれでも何とかなったり、あるいは誰かを拝み倒して 「何とかして」、足りない準備でその場を乗り切る。

妥協と混乱、その場限りのごまかしを繰り返しながら、それでも患者さんを「治癒」へともっていくのが現場だけれど、 症例検討会にそのまんま出したら笑いものだから、時系列いじったり、検査データを最初から一覧できるように工夫する。 報告された症例は、主治医はあたかも完璧な人間で、患者さんが入院したその日には、すでにそこから先の展開は 全て読めていたかのように描かれて、検査のプランだとか治療の方針だとか、経過中、 主治医には一切の葛藤がなかったかのように語られる。

医学の発展だとか、教科書に書かれた定説だとか、最初は全て症例報告から。きれいに磨かれた症例報告が 積み重なって、医師の「かくあるべき」態度みたいなものが、導き出される。恐らくはそうして生まれたであろう 「医師としての正しいありかた」みたいな医師象は、たぶんいろんな人を不幸にしたのだと思う。

破ることが前提の「正しさ」

どの分野でもたぶん、一つのお仕事が完結したあと、「こうすればよかった」「次はこうしよう」なんて思って、 技術者はそんな後悔を次に生かそうとする。

ところが自分たちの業界は、「こうすればよかった」は、「こうした」ことにしてしまって、 症例検討会には「きれいな」経過が発表される。それが積み重なって教科書になって、 教科書はだから、現場でその通りにやろうとすると、患者さん診察する前に病名分かってるのが前提になったり、 24時間注意力最大に発揮してるのが前提になってたり、運用するのがとても難しくなってしまう。

教科書どおりの「正しいやりかた」は、だからそのまま回していくと、たいていはうまく行かない。 教科書はしばしば、患者さんを「正しく見殺しにする」役には立つけれど、その人を治そうと思ったら、 主治医はしばしば、どこかで教科書を飛び越えて、治癒に結びつくやりかたに飛びつかないといけない。

「きれいな」やりかたを提示するガイドラインや教科書は、そこかしこに「現場の判断」だとか 「必要ならば」みたいな回避ルートが用意されていて、現場が教科書を「破る」ことを、暗に認めていたりする。

昔いた病院では、「自らの脊髄を信用せよ」なんて言葉が伝わってた。

現場で何をしていいのか分からなくなって、頭が真っ白になったとき、 頼るべきは教科書なんかじゃなくて、自ら身につけた脊髄反射、「体の声」みたいなものなんだと。

状況が鉄火場になったとき、頭の中にある「教科書の知識」と、自分がいつも病棟でやっている「脊髄の記憶」とは、 しばしばバッティングする。普段なら、当たり前のように無視される教科書は、自分自身に信用がおけない、 主治医が慌ててるときになると大きな声で「俺に従え」なんて騒ぎ出して、混乱している主治医の頭を、 余計に混乱させる。パニックに陥っても、なお自らの「脊髄の記憶」を信じられるよう、 普段から何となく仕事をするのではなくて、なぜこの場面で教科書から逸脱するのか、 常に問いながら仕事をしないと、本当に大変なときに、失敗するんだと。

「ビジョナリーカンパニー」だったか、社長の成功哲学みたいなものを取材されて、 それを文章化された会社は、たいてい潰れたらしい。最近改訂されたマーケティングの本でもまた、 20年前に「すばらしい成功例」をたたえられてた会社は、たいていそのあと舵取りを間違えて、 第二版が発売されたときには、会社が傾いてたり、マーケットを失っていたりしていた。

恐らくは個人であっても、企業みたいな法人であっても、自らの動作記憶を文章化する過程で、 一番大切な者は失われてしまう。動作記憶を欠落無く保持しているのは自分自身だけなのに、 状況が変わって、どうしていいのか分からなくなったとき、自らの脊髄を信じられなくなったなら、 その人はもう動けなくなってしまう。

動けなくなった個人や企業は、昔のやりかたにすがろうとする。文章として記録されている そんなやりかたは、「きれいに」されたぶんだけ情報が欠落していて、劣化した情報に 今さらすがったところで、成功にはたどり着けない。

「正しい兵士」はウンコを漏らす

「正しい兵士」は人を殺せない。適切な訓練を受けていない兵士は、相手が見える状況だと、 せいぜい20%ぐらいしか発砲しない。適切な訓練を受けることで、発砲率は90%程度にまで 高まるけれど、今度は「人を殺せるようになった」ストレスで、せっかく育成した兵士は、 すぐに戦闘を継続できなくなってしまう。

アメリカ軍兵士の4人に1人は尿失禁の経験があって、8人に1人が大便の失禁を経験した。 激戦を経験したあとは、半数の兵士が尿を漏らし、4人に1人の兵士が大便を漏らした。

空胞を使った訓練などで、「弾に当たったら死ぬ」と教えられた兵士は、実戦で弾に当たると、 実際に動けなくなってしまう。「弾に当たったら生き残れ」と教えられた兵士は、 弾に当たっても、なお生き延びようとする。

米軍は歴史に学んで、勇気があって、どんなときにも冷静沈着、戦闘にも何らストレスを感じない人間を 「正しい兵士」と呼ぶことをしないのだという。正しい兵士は、むしろ戦闘に対してストレスを感じるし、 昔ながらの価値観だと「みっともない」ことをするし、極めて強いストレスを感じたときには「適切な」 行動などとれるはずもなくて、教えられた行動を繰り返すことしかできなくなってしまう。

今はむしろ、こうした不完全な、ある意味みっともない兵士を「正常」と定義して、 ならばこうした人達がどういう訓練を受けたら戦闘を継続できて、厳しい状況でも 生存を志向できるようになるのか、米軍だとか、アメリカの警察は、そんなことを考えて訓練プログラムを作るのだという。

制度が混乱して、人がいなくなって、救急の現場がいよいよ回らなくなってる。

どう振る舞えばいいのかみんな分からなくなって、その時結局、すがるのは教科書になる。

きれいなやりかたしか書いてない、それにすがったら、現場が絶対回らなくなる教科書にみんな殺到して、 混乱した現場の振る舞いは、実用からは一番遠い、もっとも「きれいな」やりかたに収斂する。 今はだから、どこに問い合わせても「十分な設備がないので」とか、厳密に教科書どおりの治療ができない、 という理由で断られる。

それはもちろん、「訴訟圧力」だの、「患者さんの質的変化」だの、いろんな理由付けがなされているのだろうけれど、 バックグラウンドで動いてるのはたぶん、こうした教科書への回帰現象なんだと思う。

上の人達が「きれいさ」にこだわり続けたツケが、ここに来て噴出しているような気がする。

2008.07.24

「医学的」は案外狭い

年次が上がるにつれて、当直とか徹夜とか、だんだん辛くなってきて、 「深く眠る」、ただそれだけのことが、今はすごく切実。

求めるものはみんな一緒。上の先生がたは、エルゴフレックス という寝具を使ってて、けっこう調子がいいらしい。

マットレスと敷き布団と、セットで20万円以上する代物だけれど、お店で寝かせてもらうと、 体が空中に浮かんでるような気がして、たしかに気持ちよく眠れそう。

お店の人には、「気持ちがいいだけじゃなくて、背筋がまっすぐになって、医学的にもいい効果があるんです」なんて 勧められた。いちいち「医者です」なんて断らないけれど、医学的かどうかぐらい、自分たちに決めさせてほしいなと思った。

「背筋まっすぐ」は医学じゃない

「気持ちがいい」は医学じゃないし、「背筋がまっすぐ」もまた、医学じゃない。

背筋が曲がった状態は、医学的に見て、たしかに正常ではないけれど、 ならば背筋がまっすぐな状態が、「健康を生む」ことにつながるのかどうか、 たぶん医学的な検証は為されていない。

自分たちの学問は、あくまでも「病気」になった人達を対象にするものだから、 病気じゃない人の「医学的にかくあるべき正しい姿」みたいなものは、定義ができない。

医学的な「健康」というのは、単純に「医師の出番がない状態」ではあるけれど、 その状態を維持するために、じゃあ健康な人は何を目標にすればいいのか、 自分たちの学問は、そんな目標をしばしば提示できない。

気持ちよく眠れる寝具「エルゴフレックス」が目指しているのは、背筋がまっすぐな寝姿。

お布団の構造は、科学的に考えられていて、恐らくはその効果の検証も、ある程度科学的に行われ ている印象。構造も機能も、「科学っぽい」のだけれど、科学的なやりかたで達成された「背筋まっすぐ」が、 果たして「いい眠り」とか、究極的には「健康な生活」につながるものなのか、その検証が為されていない以上、 この寝具が「医学的に正しい」とは言えない。

集中治療室で使われるのは、「熱傷ベッド」であったり、「絶対に褥瘡ができないエアマット」であったり。

買えば数百万円オーダーのこうした医療器具が目指しているのは、体にかかる圧力が 均一であること。医学的に目標が定められて、それを達成するための構造が、科学のやりかたで考えられて、 その効果も医学的に検証されたから、これはたしかに「医学的に正しいベッド」であるけれど、 目標にしてるのは「体圧均一」であって、「いい眠り」は管轄外。

こういうベッドはそもそも意識のない人を対象にしてるから、実際寝ても、あんまり気持ちよく眠れない。

医学的なるもの

カイロプラティックだとか、整体の人達は、「姿勢の悪さ、あるいは骨の歪みが病気を作る」という前提から出発する。

何か症状を抱えた人が来る。骨の歪みが検証される。歪みが発見されて、それが矯正されて、症状は「解決」する。

整体の人達も解剖を知っているし、骨のずれとか歪みを検証するやりかた、 それを矯正するやりかた、それぞれはたぶん、きちんとした科学的な裏付けが 為されているのだろうけれど、一番最初の前提部分、「症状の原因は姿勢の悪さであって、 それを矯正することで、その人は健康になる」という考えかたについては、 恐らくは科学的な検証が行われていない。

それを「医学的に」証明するためには、姿勢が悪い人と、そうでない人、他の病気の合併率とか年齢性別、 生活習慣なんかを一致させたグループを用意して、お互いのグループを、できれば10年ぐらい追っかけて、 死亡率とか罹患率がどう変わるのか、あるいは悪い姿勢を「正しく」矯正したとして、 そのことが果たして何もしなかった群と比べて、何か「健康」を生み出しているのか、 それを検証しないといけない。すごく大がかりな調査になるし、いろんな要素が結果を左右するだろうから、 「歪みをただすことが健康を生む」という考えかたは、たぶん医学的な正しさを獲得できない。

医学の正しさというのは、だから「医師が必要ない状態」、あるいは「診断可能な病気がない状態」とまでしか 定義できなくて、「これ」という目標を示せるケースは少ない。「病気でない」人に対しては、医学はだから案外無力。

正しさを追求して魔界に踏み込む

「正しい栄養」なんかは、定義不可能な魔界の学問。

病院で使っている経腸栄養剤は、大手の製薬メーカーが開発していて、成分だとか、効果の評価だとか、 医師だとか栄養士が何人も関わっているはずだけれど、大手メーカーが作っている栄養製剤には、 なぜか「コエンザイムQ10」が添加されていたりする。

ペットフードもまた、最近はいろいろと研究されたものが市販されて面白い。

新しいフードを開発した人のお話を読むと、みんなずいぶん苦労している。 市販のフードに不満を持って、「理想の栄養」求めて資料探して、案の定、「ペットの理想の栄養」もまた、 獣医学はきちんとした定義を出していないから、人間の栄養学を参考にしながら、試行錯誤を繰り返したのだと。

まじめそうな人が、きちんとした科学的な裏付けのあるフードを作ろうと努力して、 「やっと理想のフードができました」なんて発売された製品には、やっぱりなぜか「アガリクス粉末」が添加されてた。

寝具の領域だと、「トルマリン」だとか「遠赤外線」あたりが危険。構造的によく考えられてる寝具なのに、 なぜだかだめ押しに「トルマリン配合」だとか、「遠赤外線効果」だとか。あるいはエコロジー。 気持ちよく寝たいだけなのに、「地球に優しい素材」とか正直どうでもいいのに。

今回見せていただいた寝具には、そんな魔界ワードがなくて一安心したけれど、 案内して下さったお店の人は、最後に「金属が一切使われていませんから、電磁波被害も安心です」なんて。

健康はドーナツの中心部分

医学にとっての健康とは、ちょうど「ドーナツの中心」みたいなもので、そこにはそもそも医師の居場所はないし、 これからもたぶん、医療は「健康」を定義できない。

「健康」は、だから地図のない、またどこか中心を目指す必要のない場所なんだけれど、 健康を「追求」したいと思ったその時点で、その場所は魔界に変貌して、誰もが納得できるような「中心」は、 やっぱりどこにも見つからない。

靴とか寝具、椅子のデザイン、栄養だとか、生活習慣、運動のやりかた、健康食品。 何となく医療っぽい、でも今のところそこに医師がいない分野は、「健康」の周辺にはたくさんあって、 「医学の言葉で健康を語る」ことが実現されると、この分野には医師免許持った人間の千年王国が築けるぐらいに 広大な経済圏が広がっている。

えらい人の言葉一つで、広大なマーケットを医師が独占できるのに、 この分野は、キノコや水売る人だとか、整体だとかカイロプラティックだとか、医療じゃない人達にやられっぱなし。

医師本来のすみかがだんだんと不景気になって、これから先、「ドーナツの中心」目指して、 食い詰た医師が大挙する流れが生まれると思う。「よく眠れる寝具」とか、 あるいは医学的に検証が為されたものが発売されるかもしれないけれど、 今度はもしかしたら、「厳密な科学」としての医療は、どこか終わるような気もする。

2008.07.23

みんなの意見で社会が滅ぶ

うちの地域でも、中学生以下の小児医療が無料になる。来年あたりから本決まりになるみたいで、 まだかろうじて生き残っている、小児救急やってる先生がたは、今からもう「終わった」とか言ってる。

夜間の小児科外来は、来る子供のうち9割以上は「軽症」。たいていの子供さんは、 日中の小児科外来が開くまで待っても、大きな問題は生じない。

今はそれでも、「時間外」であることが、わずかながら抑止力にはなっているけれど、 これが「無料」になってしまうと、もう歯止めがかからない。

黒幕はいない

たぶん、議員も役所もそんなに馬鹿じゃないから、無料になったら患者が殺到して、 現場が疲弊して、病院が潰れることぐらい、容易に想像できるはず。

「無料化」を推し進める人は、たぶんそうなることを分かっているんだろうけれど、 多数決の原則は、その流れを止められない。

選挙は公約の争い。

誰かが「小児科医療無料化」を打ち出したら、無料に反対する理由はないから、 その候補者には票が集まる。集まる票を黙ってみてたら落選するから、対抗する側も、 同じく「無料」だとか、補助を出すとか、対抗せざるを得ない。恐らくは誰もが、 無料化すると大変なことになるのは分かっているけれど、「無料化」叫ばないと そもそも議員になれないから、そう叫ぶ。

「無料」を公約した議員が当選する。公約に従って、無料化を進める。 うちの地域なんかは、与党側も、野党側も、両方の陣営が「無料」を公約してたから、 流れとして無料化は確定して、現場が震え上がってる。

そこから先は分からない。ワーストケース想定するなら、たぶんうちの地域の基幹病院は 小児救急回せなくなって、地域にここしかない新生児集中治療室は稼働できなくなる。 県内に、また「子供を産めない街」ができて、夜間子供が病院にかかろうと思ったら、 県庁所在地あたりまで行かないと難しくなる。

現場が吹き飛んで、はじめてその時、犯人捜しが始まる。

現場から「逃げた」小児科医。 現場守りきれなかった基幹病院の病院長。「無料化」推し進めた議員だとか役所の人。 「医師としての良心が足りない」だとか、「こうなることをどうして予見できなかったのか?」とか また叩かれるんだろうけれど、やっぱりそこには、「黒幕」に相当する人はいないのだと思う。

こんな流れの真犯人は、そんなに困ってない大多数が「ちょっとお得」なやりかたを志向する空気であって、 あとから犯人扱いされる人達は、たしかに破綻の特異点に立ってはいたけれど、 誰にもたぶん、そんな流れを止めるだけの力はなかった。

「成果の最大化」と「嫉妬の最小化」

小児科医療の問題には、たぶん「正解」がある。

小児科の受診料を、夜だけ値上げするとか、 医療費を全体的に値上げした上で、還付金だとか補助金みたいな制度を拡大して、 その時本当に医療が必要だった人には、あとから医療費を戻すようにすればいいはず。 小児科医は眠れる時間が増えるだろうし、本当に医療が必要な子供さんは、結果として 医療費負担は減らせるはず。

ところがそんなやりかたは、夜間の救急外来に来る人達の97%、 医療者からみて「明日の朝でも大丈夫」なんて断じられた人にとっては、「痛み」として感覚される。 97% の人が「痛い」と感じるやりかたは、それがたとえ全体最適を約束するものであっても、 社会制度が多数決で回っていくかぎり、そんなやりかたは選択されない。

上手な独裁者が支配する独裁国家と、良くできた民主主義社会とは、 しばしば似たような振る舞いかたをする。時にはむしろ、独裁主義国家のほうが、 もっと正しいことをやってみたりする。

独裁者は、成果を最大にするやりかたを選択する。独裁者というのは、「みんな」とは切り離された個人だから、 独裁者個人の最適と、全体最適とが、しばしば一致する。「いい独裁者」には、 全体最適な政策と、個人の思惑とに葛藤が生じない。独裁国家は、だから案外うまく行く。

選挙で選ばれる政治家は、社会にある「嫉妬」の量を最小化するように振る舞う。 多数の人に恨みを買った政治家は、次の選挙で落選してしまうから、「成果最大」と「嫉妬最小」とが ぶつかりあう状況になると、議会制度の下では、「成果最大」はしばしば選択されなくて、 政治家は何だか、馬鹿の集まりのように見られてしまう。

政治を回す人達と、現場回す医療者と、恐らくは両方とも、成果を最大にできる「本当の正解」を 知っているのに、多数決で回っているほとんどの地域では、嫉妬を最小にする、 無料化という「間違った」やりかたが押しつけられて、現場が吹き飛ぶ。

「衆愚」と言ってため息つくのは、それでも何か違うと思う。衆愚という言葉は、状況を形容する 言葉ではあっても、それを受け入れたところで、問題は解決しないから。

空気の暴走というか、単純に「衆愚」と言っていいのかもしれないけれど、 多数決、みんなの意見を集積しながら回していく限界みたいなものは、今あちこちに出ている気がする。

水道だとか、自治体管理のインフラを「ファンド」として公開するやりかただとか、 大失敗したけれど病院を民営化して出資をつのるやりかただとか、多数決ルールで回ってる社会に、 部分的な「独裁」を受け入れるやりかたは、一つの正解として、これから増えてくるのだとは思う。

2008.07.19

信頼を価値につなげる

ピーク性能自体は決して高くないけれど、裏切らない、不実なことをしない、そんな「まじめ」な人の まじめさというものが、何かの価値につなげられないか、ときどき考える。

その人に成し遂げられる仕事というのは、もっと人件費の安い、中国だとかベトナムあたりに 外注しても変わらない。まじめさは、昔は美徳として尊重されたけれど、 今は何だか影が薄くて、損してばっかり。

まじめな人に任せたときの安心感というか、 信頼性維持のコストを削減できる部分であるとか、 それを実体を持った付加価値につなげることができるようになると、著とだけ幸せになれる気がする。

ピーク性能と信頼性

何かを生み出したり、何かを発想することに価値が生まれる業界には、「まじめなだけ」の人の出番はない。 問われるのは生み出されたものの品質、ピーク性能であって、 それを生み出した人がどれだけいいかげんであろうが、「まじめに作られた駄作」には、 やっぱりなんの価値も生まれない。

自分たちの業界だと、業務の8割ぐらいまでは、誰がやってもそう大きくは変わらない。 残った2割、腕を極めた専門家であるとか、その人以外に経験がない症例であるとか、 そうした領域で活躍する人達には、やっぱりピーク性能が求められて、そういう人達こそは 高い対価をもらってしかるべきだけれど、自分たちの業界は、建前平等のやりかたが 今でも色濃く残っている。

すごい腕を持った人でも対価は変わらないし、存在自体が犯罪みたいな、 他人からみれば本当にいいかげんなことしかしていないような医院が、「いい病院」とかいわれて 人気を集めてみたりする。

多くの業界ではたぶん、ピーク性能も、信頼性も、きちんとした測定手段が存在しないから、 能力ある人が割を喰ったり、ふさわしくない人が居座ってたりする。

信頼性のはかりかた

ずっと日記を書いていて、何とかしてこれを、何かの商売につなげられないか、ときどきそんなことを考える。

広告収入を得るのは大変だし、ネットで日記を書くことで、自分の「腕」みたいなものをアピールしようにも、 腕自慢をいくら書いたって信用されない。

日記を長く書くことで、唯一他人様に自慢できるものがあるとすれば、それは「こんなことを長く続けている」こと それ自体でしかなくて、長く続けていること、ここに居続けられていることを、 何か信頼要素に結びつけられると、日記を書き続けることに、もう少し経済的な意味が生じる気がする。

「信頼」を測定するのは難しい。同業者が同業者を評価するやりかたを除けば、 その分野の知識を持たない人が、相手の信頼度を評価しようと思ったら、 たぶん「その人が同じ仕事を長くやっている」という事実に頼るしかない。

信頼性それ自体が売りになる産業、商店だとか金融業、あるいは道路建設みたいな、 外から見ると「質」の違いに気がつくことが難しいような業界は、 だからこそ長く続けている業者に信頼が集まって、「そこに長くいる」ことが 競争に有利に働く。

信頼性が大切な、そんな業界はだから、少数の勝ち組老舗と、大多数の、 極めて安価に買いたたかれる新参業者から作られる、硬直した産業構造を生み出すことになる。

「老舗の誇り」とか「職人のプライド」みたいなものは、たぶんそうした寡占構造が作り出す。 業界に流入してくる資金の総量が減ってきたり、国外の業者が、競合社として参入してくると、 だから「老舗のプライド」は消え失せて、業界全体を象徴していたような老舗から、 信頼が崩れていってしまう。

目線が信頼を作り出す

信頼というものは、恐らくはたくさんの目線によって削り出すことができる。

「blog を長く続けている」みたいなこと、自分がやっていること、考えていることを 常にオープンにしつつ、他者からの意見であるとか、考えかたをぶつけられて、 それに反論したり、受け流したり、受け入れたりといったことを繰り返していく中で、 「それでもそこに居続けていること」が、信頼性につながっていく。

「頻回」「長期間」が条件に加わると、嘘をつくためのコストが馬鹿にならなくなってくる。 思ってもいないことを書き続けたり、いろんな人から意見をもらって、八方美人的な 受け答えを繰り返したりするのは、すごく疲れる。「いい人」気取ってみたり、 自分自身を正義の代弁者みたいな立場に置くやりかたは、いろんな目線を受けるにつれて削られて、 書いてる本人が消耗してしまう。

呼吸するように嘘をつける少数の例外はともかく、ネット世間で長く発信を続けて、 荒れたり沈静したりを繰り返しながら、それでもそこに居続けている人というのは、 たいていは「地」に近い立ち位置で文章を書いていることが多くて、恐らくはだから、 そういう人の、ある種の「まじめさ」は、信頼できる。

公的な役所に勤める人達なんかは、本来「ピーク性能」的な能力よりも、 むしろ信頼性を求められるお仕事だから、いっそ「3年以上Web日記を続けている」を受験の条件にしたら、 透明度が嫌でも上がりそうな気がする。

「まじめさの物差し」みたいなものに社会的な合意が得られたならば、恐らくはまじめさみたいなものも、 目指すべき目標として、もう一度価値が出ると思う。

「なぜ飛車と角は王の側近になれないのか?」 「金は裏がないから王様が信頼してんだよ

2008.07.15

欺瞞と匿名がネット社会の本質

世田谷区の小学生が、任天堂の携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」を使った、 独自の鬼ごっこを考え出して遊んでるなんてニュースが、なんだかすごく未来っぽい。

細かいルールは報道されていないけれど、基本は普通の鬼ごっこ。 ゲーム機の通信機能を駆使して、「鬼が来た」だとか、「○○君が鬼になった」だとか、 お互いに情報を交換したり、あるいは鬼になった子供が偽情報流して「人間側」の混乱を はかったり、情報戦になるらしい。

「DS鬼ごっこ」に感じたわくわく感、今まで見たことのないものを見たときに感じる、 前向きな違和感みたいなものというのは、「誰もが欺瞞情報を流せる」というところなんだと思う。

トランシーバー鬼ごっこの頃

子供の頃にはトランシーバーが流行ってて、鬼ごっこだとかかくれんぼだとか、 そんなときに誰かがおもちゃのトランシーバー持ち込んで、おしゃべりしながら遊んだ記憶がある。

トランシーバーみたいな機械が伝統的な遊びに加わって、たしかにそれは面白かったんだろうけれど、 「お互いに通信できること」がもたらしたものは小さかった。単に大声出さなくて済むようになっただとか、 缶蹴りやるとき、味方同士タイミングあわせるのに、身振り手振りを工夫しないで済むようになっただとか。

トランシーバーも、あるいは携帯電話や電子メールも、発信者が誰なのか、 発信されたら分かってしまうメディア。通信できることそれ自体は、だから大声出すのとあんまり変わらなくて、 「トランシーバー鬼」は、ルールを根本から変える要素は、案外少なかった。

それが会話であれ手紙であれ、あるいは携帯電話に至るまで、従来の通信メディアはたしかに進歩した。 一度に多数の人ともコミュニケーションできるし、距離の問題とか、時間の問題とか、 今はいろんな問題が解決された。

その代わり、通信はやっぱり通信であって、「その情報を発信しているのは本人だ」ということが、 正しい通信が成立する前提になっていて、それを破ると嘘吐きだとか、卑怯者扱いされてしまう。

「嘘をついちゃいけない、他人を騙っちゃいけない」なんて、そんな前提を当然のものとしている メディアは、やっぱりどこか、古い道徳を引きずってる印象で、新しくない。

DS鬼ごっこ

「DS鬼ごっこ」を楽しむ子供達は、あの道具を、最初から欺瞞情報を流せる道具、 他人になりすませる道具として楽しんでいて、「嘘をつける」とか、「誰かになりすませる」という、 通信メディアの人達から見れば欠点にしか見えない特徴を、最大限に生かして楽しんでる。

誰にでも成りすましができてしまうこと、匿名だとか、他人の名前を騙れることは、 ネットワークメディアの欠点なのではなくて、むしろそれこそが、 旧来のメディアと、新しい世代とを分かつ本質みたいなものに見える。

詳しい報道はないけれど、たぶん「DS鬼ごっこ」のルールはこんなかんじ。

  1. 何人か集まって、くじ引きで鬼を決める。本人以外、鬼が誰なのか分からない
  2. 1対1なら、鬼は絶対に人間に勝てる。その代わり、人間が複数、たとえば3人で鬼に当たると、鬼は狩られる
  3. 複数固まった人間は、間違って「人間を狩る」こともできる。狩られたら、それが人間だったのか鬼だったのかは明らかになる
  4. お互い通信できる。誰もが好きな人間の名前を騙れるし、鬼が人間のふりすることもできる
  5. 鬼に喰われた子供は、それ以降発言ができなくなる
  6. 鬼が人間を全滅させたら、あるいは鬼が人間に狩られたら、ゲーム終了

誰もが嘘をつけて、しかも発言者の名前すら、信憑性を保証できない中でも、目で見たものは真実。 鬼一人と人間一人、さらに目撃者が一人そこにいれば、一つの真実、「○○君が鬼に喰われた」が発信できる。

ところがその信憑性は、他のみんなには証明できない。

鬼はすかさず「○○君は今も僕の隣で生きてるよ」とか、「僕は○○だけれど、今の発言嘘だよ」だとか、 欺瞞情報を発信できるし、今度は鬼の犯行を目撃した本人が疑われたりする。

欺瞞情報から、何らかの真実が生まれることもある。

「○○が今、人間を襲った」なんて情報が回ってきて、その時当の○○君を囲んで数人の「人間」が 集結してたら、たぶんかなり高い確率で、その集団には鬼がいないことになる。人間が複数固まったら、 もう鬼には手出しができないから、彼らは今度は人間側の狩人となって、「自分たちでない誰か」を 狩りにいける。

みんなが嘘をつける環境、誰もが誰かを騙れる環境においてもなお、見たものは真実であり続けるし、 信頼度を上げた人間が複数固まれば、そこに真実が集まる可能性が高くなる。

鬼になった子供は、だから前半戦では欺瞞情報をばらまいて、人間側に猜疑心を育てないといけない。 群れを分断して、はぐれた人間を狩りつつ、狩った人間を片端から騙って、生き残りが群れないよう、 群れないようコントロールする。

人間側の最適戦略は「人間だけで群れること」になる。人間同士、お互いに通信を繰り返して、 信頼度の高そうな人間同士が固まった「正直村」を作らないといけない。信頼を得られなかった人間は 村から排除されて、たぶん鬼の餌食になってしまう。

ゲーム中盤、鬼は今度は、「正直村」に入り込むことを考えはじめる。目撃者を片端から狩ったり、 狩りを目撃した人間の名前を騙って、その人の信頼度を下げつつ、自らしか知らない真実を 会話に織り交ぜつつ、「信頼できる人間」として正直村に入り込んで、今度は人間が、 人間を狩るのを黙って見守ることになる。

狩ってみるまで鬼が誰なのか分からない「人狼」ルール、鬼が感染して数を増やしていく「ゾンビ」ルール、 鬼が次々とバトンタッチして、最期に鬼になってた奴が負けになる「憑依」ルール、ルールが変わるごとに、 情報のやりとりのしかたであるとか、戦略なんかが変わっていって、きっと面白い。

欺瞞と匿名がネットの本質

誰にでも嘘がつけること、誰かの名前を騙れることは、ネットメディアの欠点なんかじゃなくて、むしろ本質なんだと思う。

情報には嘘が混じっていること、欺瞞情報であっても、状況をきちんと設定すれば、 そこから必要な真実を取り出せること、前提としての真実を廃棄して、虚偽と真実とを、地続きのものとして 統一できたことが、DS鬼ごっこの、あるいはネットメディアの画期的なところ。

「真実が美徳」という古い価値観にとらわれた人は、もしかしたら「DS鬼ごっこ」を楽しめない。

そんな人達にとっては、DS鬼は「かくれんぼ」と「推理ゲーム」とが合体したものになってしまって、 「鬼ごっこ」にならない。欺瞞情報を駆使して、動く相手に操作を仕掛ける楽しさに気がついて、 自らも他人を騙って、積極的に嘘つくような人でないと、たぶん鬼ごっこを鬼ごっことして楽しめない。

見知った顔の友人が話していることですら嘘かもしれない、あるいは当人が真実と思っていることもまた、 知らない誰かが操作を仕掛けた結果かもしれない、何かを判断するための確実な土台など無くて、 入ってくる情報の真実性は、自ら置かれた状況ごとに査定することを強要されるのがネットというメディア。

それを欠点だと叩くのは、古い世代の悪あがきみたいなもので、ルールが変わった以上は、 新しいルールに適応したほうが、きっと楽しい。

「DS鬼ごっこ」の発明は、そうした新しいルールに適応した子供達の、最初の一歩みたいに見えた。

追記。

「人狼じゃね? 」なんて突っ込みは「そのとおり」。それでも、DSというデバイス手にした子供が、 自然発生的に「人狼」にたどり着くというのは、やっぱりすごいなと。

このルールで鬼ごっこやるときは、広場みたいなところだとゲームにならないので、真夜中の学校だとか、 廃院になった総合病院とか、見通しが悪くて、お互いどこにいるのか分かりにくいところでやるのがいいかも。

狩られた人とか、あるいは遠く離れた「善意の第三者」が解析部隊として鬼ごっこに介入するのもありだろうし、 たとえば悪意持った誰かが、ハーメルンの笛吹き男よろしく、子供達をネットワークごと乗っ取って、 どこか特定の場所に子供を誘導したり、賢い子供が誘拐犯に逆操作仕掛けて、誘拐犯が 逃げた先には交番が…とか、そんな時代が来たら楽しいなと思った。

2008.07.14

「大丈夫」の排出権取引をやらせてほしい

今の時代、「大丈夫」という言葉は、腕を磨いて到達するものではなくて、「ここ」という領域を 切り取ってくるものになっている。

テレビに出てくる病院

TBS の医療番組をときどき見る。今時珍しい、医師を褒めちぎるスタンスの番組。

特集されるのは、たいていは個人の病院。あんまり聞いたことがない、主流と外れた治療を売りにしている。 誰でも聞いたことがあるような大きな病院で仕事をしていて、「普通の仕事を無難にこなしています」なんて 医師は、出てこない。

前半部分は医師の紹介。患者さんのためを思って、 要約の思いでこの治療に到達しただとか、休日は趣味に打ち込んで、患者さんのために自らリフレッシュする姿だとか。 休日に受け持ち患者さんトラブって、夜中呼ばれてそのまま泊まったり、「わざわざ東京から出てきました」なんて 遠縁の親戚がやってきて、「説明を求めます」なんて、日曜の夕方に、居丈高な身内の人を前に怖い思いしたりといった 日常は、あんまり出てこない。

医師の紹介終わると、患者さんが出てくる。みんな困ってる。診察受けて、「大丈夫ですよ」なんて言われて 安心して、数ヶ月経って、「すっかりよくなりました」なんて笑顔になってる。みんな笑顔。

番組後半、水戸黄門だと印籠かざすあたりにさしかかると、難しい患者さんがやってくる。 治すのが難しかったり、困難な手術になったりして、後半ちょっとだけ盛り上がって、でも必ず治る。

大円団になって、取材された医師が「この治療をもっと多くの人に知ってほしい」だとか夢語って、 番組終わる。

ドキュメンタリーと言うよりは、恐らくはPR 会社が間に入った30分広告みたいな番組なんだろうけれど、 いつ見ても、やっぱりどこか「ずるいな」と思う。

「大丈夫」のコスト

自分たちだって「大丈夫ですよ」って言いたい。

患者さんにしても、ご家族にしても、病院に来る人達は「大丈夫」を買いに来るわけだし、 お話ししていて、みんな何とかして「大丈夫」を引っ張り出そうとして、あの手この手で言質取りに来る。

言っちゃえば楽だし、言わないと、いつまで経っても信頼関係作れないんだけれど、 「大丈夫」と請け合って、大丈夫じゃなくなったら、あとがない。今住んでるのは 曲がりなりにも総合病院だから、逃げられない。

取材されてた腫瘍内科の先生は、「末期」と診断されている癌患者さんしか相手にしない。 その先生がやっていることは、だから完治を目指した治療じゃなくて、あくまでも 症状をとったり、大きくなった腫瘍を一時的に小さくしているだけなんだけで、予後を変えない。

整形外科の先生は、若い患者さんを相手に、人工関節置換の手術を行っていた。 人工関節は20年もすると「ゆるみ」が出るから、若い人に入れると再手術が必要になる。 普通はだから、治るまでに時間がかかるけれど、「骨切り術」という、骨を形成する手術を考える。 若い人の骨は丈夫だから、人工関節置換術の合併症も少なくできるんだろうけれど、将来のこと考えると、 いきなり人工関節入れるお話しするのは、けっこう怖いなと思う。

自分と同期だった内分泌内科の男は、自分の専門分野を放り出して、 ハーブを使った女性専用のクリニックを始めた。何があったのかは分からないけれど、 やっぱり「大丈夫と言えない西洋医学」に、どこか疲れたんだと思う。

たどり着くものと切り取るもの

昔の「大丈夫」は、医師が腕磨いてたどり着くものだったのだと思う。

結果の確実性が厳密に求められるようになるにつれて、「大丈夫」のコストは上がった。 もはや腕だけで「大丈夫」を保証することなんてできないし、どれだけ腕磨いても、 どれだけ設備を整えても、「大丈夫」なんて言えなくなった。

いろんなものがよく見えてる先生がたは、だから「大丈夫」を、たどり着く目標から、 切り取ってくるものへと見かたを変えてきた。

無数の患者さんから、「大丈夫ですよ」と笑顔で断言できる人達を切り取ってきて、 あるいは逆に、自分が持つ技能の中で、絶対に「大丈夫」を宣言できるものだけを切り取ってきて、 その中でだけ「大丈夫」を販売するやりかた。

  • 治癒を目的にしない末期癌の患者さんなら、予後は変わらないから、「大丈夫」を断言できる
  • 「20年先」は総合病院に紹介してしまえば、若い関節症の患者さんにも、「大丈夫」と言える
  • 「ハーブ」に限定した治療に限定をかけるなら、医師はその領域で、かなり安心して「大丈夫」を宣言できる

その「大丈夫」はもはや昔ながらのものではありえなくて、昔の立ち位置から見れば、 それは解決になっていないんだけれど、あの人達が限定をかけた範囲から 患者さんが外れたら、たぶん近くの総合病院に患者さんぶん投げるんだろう。

いろんなやりかたが考えられる。

薬を絶対に出さない、「自然治癒力」信じる内科医。治癒を目的にしない、 末期癌の患者さんだけを対象に「癒し」を販売する医師。そもそも病気でないような人を つかまえて、生活指導とか、「より健康な人生」を販売する医師。酸素バー。点滴バー。

ニッチを探せば、「大丈夫」を切り取れる場所はたくさんあって、これからたぶん、 業界がだんだんと冷えてく中で、こういう場所に進出する人は増えていく。

最近ようやく抜管できた喘息の患者さんは、ずっとたばこを止められなかった。 近くの開業医にかかってて、やっぱり何年もたばこを続けて、「何かあっても対処するから大丈夫」なんて言われてた。

「苦しくなったら電話しなさい」なんて言われた番号は、その人が苦しくなったときに誰も出なくて、うちに運ばれて挿管した。 要するにその先生の「大丈夫」は、「何かあったらあの病院に丸投げするから大丈夫」なんて意味だった。

「大丈夫」の排出権取引をやらせてほしい

地域の基幹病院から呼吸器内科の先生がいなくなって、今本当に困ってる。

肺気腫の人とか、喘息の人とか、うちにかかったこともないような人が、 「専門的なご加療をよろしくお願いします」なんて紹介状持って、うちみたいな施設に運ばれてくる。 相手は呼吸器専門の開業医で、自分たちはただの一般内科なのに。

やっぱりずるいと思う。やろうと思えば仕事できるのに。無能のふりして「大丈夫」大安売りして、 明らかに格下の医者相手に「専門的なご加療を」とか、思ってもいないこと口にして、 自ら設定した範囲を超えた「大丈夫」のツケを回して、自分はまた別の元気な人つかまえて、 また「大丈夫」を売り歩いてる。

二酸化炭素と同じように、「大丈夫」にも排出権取引市場ができればいいなと思う。

いくら限定をかけたところで、一度排出された「大丈夫」は一人歩きする。大丈夫と言われて、 悪くなって丸投げされて、入院してからもっと具合悪くなって、 「大丈夫と言われたのにどうしてですか ?」とか、受けた側が怒られる。

今はまだ我慢してるけれど、もう余力無い。入院受け持った医師が「どうして?」なんて怒られて、 「偽物つかまされたんですよ」なんて答えるようになると、お互いの信頼関係終わる。

施設同士の信頼関係なんて、もしかしたら自分たちが一方的に夢見てただけなのかもしれないけれど、 「大丈夫」をこのまんま拡大再生産し続けたら、そのうち病院という生態系ごと温暖化して滅ぶと思う。

2008.07.12

粒度について

今さらながら、手術後患者さんの塞栓予防について、「どの薬使おうか」なんて相談してる。

とくに整形外科の患者さんは、術後の安静時間が長かったりで、下肢の静脈血栓を合併しやすい。 足が腫れたり、場合によっては血栓が肺に飛んだりして怖いから、今ではどこの病院でも、 下肢にフットポンプみたいなものをつけてもらったり、抗凝固薬を投与したりして、合併症を予防する。

薬物による塞栓予防にも何種類かやりかたがあるけれど、伝統的には「ヘパリン」を使う。 もっと効果があったり、あるいはもっと簡単に使える新製品が、いくつか出てる。

ヘパリンのこと

ヘパリンは、大昔から流通している抗凝固薬。

半減期が短くて、何回も注射する必要があったり、効きかたが人によって異なるから、 まじめに使おうと思ったら、定期的に採血を行って、効き具合を測定しないといけない。

ヘパリンのこうした欠点は利点でもある。半減期が短いから、効き過ぎたり、 あるいは出血のコントロールが必要なときにはいつでも中止できるし、ヘパリンの効き具合は、 昔から行われている血液検査で測定できるから、「これぐらい効かせたい」みたいな調節ができる。

新しい抗凝固薬は、ヘパリンの欠点と言われてきた部分を改善してきている。半減期は長くて、 注射で使うにしても、1 回使えば24時間効く。患者さんの状態で、その効き具合が左右されにくいから、 頻回の採血検査で効き目をチェックする必要もない。

その代わり、新しい薬の効き具合は測定できない。特殊な採血検査を外注しないと、 その薬が本当に効いているのかどうか、数値で分からない。うちみたいな施設からは、 そんな検査出せないから、メーカーの「効きます」という言葉を、そのまんま信じるしかない。

旧世代のヘパリンは、不便だけれどコントロール性に優れていて、効き目が「見える」という 大きな強みを持っているから、新しい、もっと便利な薬剤が登場している現在でも、 やっぱり「ここ」と言うときには必ず使われる。

「見える」というのは、この業界では本当に大切なことだから。

「見える」が欠点になる

抗凝固薬は、新しい世代のほうが「良く効いて、出血も少ない」ことになっているけれど、 実際にはやはり、良く効く薬は出血も多いし、出血の少ない薬は効かない。 メーカーの人達がどう言いつくろったところで、「血液が固まりにくくなる」というのは、 要するに血が止らなくなることだから。

術後の塞栓予防は、だからガイドラインでもやっぱり昔ながらのヘパリンが推奨薬に入っている。 新製品はもちろん「効く」とされているし、ガイドラインにもそう書いてあるんだけれど、 リスクが高い人、「絶対に血液を固めたくない」なんて状況になると、やっぱり「見える」薬が活躍する。

最近になって、「見える」ことが、問題になってきている。

薬を使う。測定する。データをみて、薬の量を調整する。ヘパリンみたいな古い薬は、 どうしても数字をみながらの調整が必要だけれど、その過程では「効き過ぎ」だとか「効かなすぎ」だとか、 正常から外れた数字が残ってしまう。

患者さんに何らかのトラブルが起きたとき、こんな数字が、時に相手から突っ込まれてしまうのだという。

ヘパリンの効き具合は、なまじっか見えるから、見えるのに見ようとしなかったら、不作為を問われる。 見て調整して、そのデータが想定された効き具合から外れていたら、今度は「外れていた」という過失を問われる。

新世代の、「見えない」薬は怖いけれど、見えない以上、現場にはどうすることもできないから、 メーカーの言い分を信じるしかない。本来ならデメリットでしかない、「見えない」ことが、 今はどういうわけだか利点になって、今うちの病院でも、 新しい薬を入れようかどうしようか、上の先生達が迷ってる。

議論の粒度のこと

戦争の技術が発達した。現場の状況、兵士が何人亡くなっただとか、相手の街並みはこんな情景で、 重要な施設はここにあるだとか、詳しい状況が現場で把握できるようになって、中枢に上るようになった。

情報の伝達がスムーズになれば、たとえば補給がもっと効率よくなるだとか、 休戦だとか、外交だとか、政府同士の「手打ち」がもっとやりやすくなるだとか、 現場はそんなことを期待していたのに、政府の人達は「今度はあの建物を狙ってくれ」だとか、 現場の人間に、すごく細かい部分にまで口を出すようになったのだという。

「政府高官がライフルを持っている気分になる」なんて表現されてたこんな現象は、 たぶんいろんな業界で起きている。現場の人間が細かいデータをとればとるほど、 「上」の人達はその情報を欲しがって、大局的な判断を下すべき人達が、 ごく細かなことにまで口を出すようになる。

行き来する情報の粒度が詳細になるほどに、上からの指示も詳細になり、現場は混乱する。 上の人達は、もっと細かい情報を要求して、「大局」の判断は、いつしか放棄されてしまう。

  • 手術を施行すべきか否か
  • どんな術式で行くべきか
  • 輸液管理はウェットサイド、>ドライサイド、どちらの方針で行くべきか
  • 術後の塞栓予防には、どんな薬剤を、どの程度の本気度で用いるべきか

医療という「作戦」一つをとっても、現場が下す判断には様々な粒度がある。大局的な判断が下されて、 さらにそれが正しいものであって、そこではじめて、より細かい粒度の問題が論じられる。

情報の粒度を一覧できるようにして、訴える側と訴えられる側、そんなカタログを、お互いで共有できればいいなと思う。

報道されてる「過失」の粒度はまちまちで、もちろん結果として、 患者さんには何らかの不利益が生じているのは間違いないのだけれど、大局的な判断と、粒度の極めて 小さな問題と、「過失」を問う側の人達は、そのあたりをフラットに論じている。

効き具合が見えない薬は、見えないぶんだけ、情報の粒度が粗くなる。粗いからこそ、 粒度の細かい部分での過失は、仮にあったとしても論じられることはなくて、 「見えないこと」それ自体が、欠点でなく大きな利点として効いてくる。

現場はもちろん、見えるものなら見たいと思う。見えないことは怖いから。古くから使われている、「枯れた」薬は、 そのあたりはっきりと見せてくれるのに、相手が「粒度」をどう評価してくれるのか、 お互い信頼関係が構築できていないから、現場もまた、「効き目が見えない」薬を 選択せざるを得なくなる。

どうすればいいのかよく分からないけれど、やっぱり何かおかしいと思う。

2008.07.11

型のこと

型というのはたぶん、何かを学習するための道具なのであって、それ自体を学ぶべき目標と 定めてしまってはいけないのだと思う。

弓道に関するうろ覚え

もう道場に行かなくなってずいぶん経つから、うろ覚えでしかないけれど、 今の弓道で教えられている「型」というものは、実用的と言うよりは、ある種政治的な経過で決定されたものだった。

弓は本来が実用的な道具であって、よくあたり、破壊力の高い弓のひきかただとか、狙いかただとか、 昔は日本中で様々な流派があったり、秘伝があった。第二次世界大戦前、国の武道を統一しましょうなんて 運動が起きて、当時の弓道の偉い人達が集まって、「これからの弓道」みたいなものを話しあって、 「型」を決めたのだという。

当時のそれは、日本中で行われていた弓の型をそのまま平均したようなもので、全国的にも評判が悪かったから、 戦後になって弓道が復活した頃、偉い人達がもう一度相談して、今のような型になったのだという。

恐らくは他の武道でもそうなのだと思うけれど、武道というのは「強い人がいる」ことで発生するものであって、 「強い型」が発見されて生じるものではないんだと思う。

強い人があちこちにいる。戦う。生き残る。生き残った人達が、お互いの動きを観察したり、 教えを請うたりしていくなかで、「型」が生まれる。

体型だとか、筋肉の付きかたなんかはみんな違うから、動作を完璧にコピーすることはできなくて、 その人独特の、例外的な動き方なんかは省かれるし、動作の序列みたいなものもまた、 結果につながる「強さ」みたいなものとは違う、学びやすさとか、見た目の派手な動きであるとか、 「型」というものはしばしば、それをはじめた人が本来意図していた目的とは違うやりかたで体系化されてしまう。

できる人はみんな型破り

型というものは、だからしばしば現実に即していなかったり、型を学んだ人達が、 それを実地に、たとえば強くなりたいだとか、患者さんを診察するときに見逃しを減らしたいだとか、 何か本来の目的のために、その方を応用しようとしたときに、型が教えるやりかたと、 自分が「こうしたい」と思うやりかたとにずれを生じる。

「こうなりたい」なんて目的がはっきりしている人は、だからその時、型を破る。

右も左も分からない初心者は、たぶん「型」を学ぶことで動作ができるし、 型を通じて、自分が置かれた世界だとか、直面した問題を把握できるようになる。 型はそれでも、そうなるための道具にしか過ぎなくて、型それ自体を無批判に守り続けてはいけないのだと思う。

強い人、あるいはその人と目的を同じにした人達が協力して、「型」を作る。 型というのは「作られた」ものだからこそ、本質的なものだけが残されて、 枝葉に相当するものは省かれる。残念ながらたぶん、「本質」というものはしばしば、 省かれた枝葉の中にこそ存在する。「型」だけを繰り返したところで、 省かれた枝葉を見つけることはできないし、型の学びを通じて、型を作った人の 問題意識を共有することが、型を学ぶ上で、一番大切なことなのだと思う。

防衛医療のこと

臨牀の現場でたくさん発行されている「ガイドライン」というものも、政治的に作られるものなんだという。

欧米でガイドラインを作っている人達なんかは、たしかに朝から晩まで論文を読み続けているような 人ばっかりなんだけれど、知識を集積した先に、誰もが納得する共通見解が現れるわけもなくて、 ガイドラインを決める会議は、毎回紛糾するし、学会がガイドラインを発表した直後、 その編纂に携わった当の本人が、別の学会で「あのガイドラインは嘘っぱちだ」とか、不満ぶち上げたりするらしい。

今あるガイドラインも、だから古来の「型」の延長であることには変わりなくて、 それ自体を守ったところで治癒は見えないし、ガイドラインが想定している事態と、 目の前の患者さんに起きている事態とにずれが生じたときにどうすればいいのか、 ガイドラインには書いてない。どこかでそれを「破る」ことを考えないといけないし、 多かれ少なかれ、とくにガイドラインの編纂に関わるような「できる」医師なんかでも、 案外たぶん、こっそり約束破ってる気がする。

武道が発達した戦国時代みたいに、とにかく目的だけを追求すればよかった頃なら、 それでも今のやりかたでよかったのだと思う。治療のやりかたは、 たぶん上手な人ほど多様になって、ガイドラインなんて、あたかも最初から存在しなかったように見えるだろうけれど。

「治癒」とは別に、「第三者からみたわかりやすさ」みたいな、追求すべき目標が複数になってしまうと、 たぶん従来のやりかた、型を作って、型を学んで、型を破っていく修行のやりかたというのは、通用しなくなってしまう。

武道みたいな考えかた、競争を勝ち抜いたやりかたをまとめて「型」を見いだす方法は、 そもそも複数目標をバランスさせるようには作られてないし、 戦いの現場で、「バランス」なんてものを考えたその時点で、その人はたぶん、 単独の目標に力を特化した相手に打ち負かされてしまう。

「治癒」と「訴訟」、追求すべき目標を複数が複数に設定されたなら、 従来のやりかたは通用しない。今度はたぶん、そもそもの「戦い」みたいな状況を 回避すること、あらゆるワーストケースを想定した、鈍重で高コストなやりかたを「型」として提案して、 全ての人がそれを忠実に守って、競争を徹底的に排除しないといけない。

現場の判断を追放していくやりかた、技術者同士の競争だとか、切磋琢磨だとか、 昔は美徳だったそんなものを現場から排除していくような「型」というものを、 これから先の偉い人達は、ぜひとも提案してほしいなと思う。

今のままだと、型を学ぶことも、型を破ることも、どちらに転んだところで、現場にはリスクしか残らないと思う。

2008.07.07

学問の舞台設定

しっかりした地盤なしで成立する建物がないように、専門家が「学」を立ち上げるためには、 専門知識が実際に役立つための舞台設定が欠かせない。

砂漠戦に強い将軍がいたとして、その人が単純に「強い」という理由だけで艦隊を率いる立場に抜擢されても、 たぶん勝てない。将軍の「強さ」というのは、あくまでも砂漠という舞台があってこそ成り立つもので、 舞台が変わって、戦いのルールが変われば、その人がいくら名将であったとしても、その力を発揮することは難しい。

将軍の「強さ」、専門家の「専門性」みたいなものは、だから特定の舞台設定とは不可分なもので、 自らの知識を役立てるための舞台を定義できない学問は、それがどれだけ壮大な知識と技量とを集積していても、 肝心なところで役に立たない。

基礎のない建物はありえない

何か建物を造るなんてことを考えたとき、「基礎を作る」人達と、基礎の上に何かを立てる人達とは、 考えかたが異なるような気がする。

基礎を作る人達は、いろんな土壌を相手にする。建設予定地は山の中かもしれないし、 沼地だったりするかもしれない。ちょっと掘り返せば岩盤がむき出しになるような土地もあれば、 いくら掘っても粘土ばっかりで、ビル立てたら傾くような土地だってあるかもしれない。

相手は様々だけれど、目指すべきは「固くて平らな基礎」であって、その上に建てられるのが伝統的な寺社仏閣であろうが、 六本木ヒルズみたいな高層建築だろうが、建築家が基礎に求めるものは、多分そう大きく変わらない。

上物を作る建築家は、強度だとか予算だとか、いろんな要素を妥協しながら、顧客が求める何かを作ろうとする。 造られる建築物は、いろんな制限と折り合いながらも、建築家の能力が高ければ、たぶんそれだけ顧客の意志にそったものが出来上がる。

基礎を作り出す要素と、基礎の上に何かを建てる要素ととの区別をなくしてしまうと、たぶん建築という分野は、 「学」として成立しなくなってしまう。

「基礎」と「上物」との境界を無くす方向を目指してしまうと、その土地の状態そのものが、建物の姿を決定してしまう。 顧客の意志は、建物の姿をゆがめる「ノイズ」として排除されてしまうだろうから、そんな「学」には、たぶん誰もお金を払わない。

恐らくはどんな専門性、どんな学問にも、集積された知識を運用して、誰かの役に立てるための「基礎」、あるいは「舞台」となる ものが必要で、舞台装置を持たない学問は、それが役立つ「誰か」を設定できないから、「学」として成立し得ない。

医師が目指す「安定な状態」

たとえば外科医は、全身麻酔がかかった患者さんが手術台の上に横たわった状態を、「安定な状態」と定義する。 カテ屋さんにとっての「安定な状態」は、患者さんが消毒されてモニターつけられて、カテ台の上に乗った状態だし、 それが集中治療医ならば、患者さんはICUにいて、モニターと動脈ライン、下手すると透析用のブラッドアクセスなんかを 最初からつけられた姿を想像する。

みんなもちろん医師だから、患者さんがそうならなくても技量を発揮できる機会はあるけれど、「生き死に」に 関わる状態の患者さんを診るときには、まずは患者さんを「安定な状態」に持って行かないと、 自分の技量を最大にできない。

救急外来に不安定な患者さんが来たときは、だから超急性期は「陣取り合戦」みたいな雰囲気になることがある。 いくつかの科が呼ばれる。「ここで治療する」という選択枝はどこの科も想定してなくて、 みんな自分のホームグラウンドに患者さんを移動しようとする。そこで「安定な状態」を作り出してからでないと、 自ら責任もって働けないから。

医師にとっての「安定な状態」というのは、その医師が持っている能力の範囲内で、 患者さんの身体に起きたことを、最大限に見通しが良くできる状態。

患者さんは、もちろん助かることもあるし、不幸な転機をたどることもあるけれど、 「安定した状態」におかれた患者さんに起きたことは、その状態を要求した専門科は、 かなり詳しいところまで解説できるし、原因の見通しがいいからこそ、技量の範囲で対処もできる。

カテ室に連れてこられた患者さんは、心臓についての治療はできるけれど、その人がその場で吐血して、 いくら消化器科の専門医が呼ばれたところで、すぐに対処はできない。手術中の患者さんが急変して、 「心臓に何かありそうだから見て下さい」なんて循環器が呼ばれても、麻酔かけられてお腹開いた患者さんには 検査も出来ないし、やっぱりカテ室に運ばないと、何もできない。

生き死にに関わる分野は、だから専門知識を知ってるのとは別に、自分が働けるような舞台設定とは 不可分で、「どんな状況からでも舞台を作り出す」能力と、「舞台の上ですごいことをする」能力とは、 別個に磨かないといけないし、学びの方向みたいなものは、共通していないイメージ。

「舞台を作る」お仕事というのは、「診断」とか「状態把握」を行うもっと以前の段階、 そういうものは基礎の上に立つ「上物」の範囲であって、まずはそういう仕事を やりやすい状況に、一刻も早くたどり着くためのやりかた。

外傷医学はどうなのか

外傷医療の、やっぱり「緊張性気胸の対処」というものが、よく分からない。

見逃すと致命的になる。基本的な治療には絶対反応しない。「修行すれば」診断できるけれど、 診断確度はいいところ8 割ぐらいで、それすらも、たぶん慣れてない人には無理。

外傷医療のガイドラインは分厚くて、それが建築ならば、高層ビルだって建てられそうなぐらいに 様々な知見が集積されているけれど、知識の伽藍が依って立つ「基礎」は、2 割の確率で吹き飛んで、 基礎が吹き飛んだとき、それに対してどんなに立派な高層ビルが建ってたところで、やっぱりビルは崩れてしまう。

アメリカの外傷ガイドラインには、「分からなかったら両肺にチェストチューブを入れよ」という記載があるんだという。

アメリカの外傷医療は、だから「静脈ラインとモニターをつけられて、両肺にチェストチューブが入った患者」というものを 外傷医療の「安定した状態」と定義していて、この定義で行けば、緊張性気胸の患者は理論的に発生しないから、 医師は十分に安定した基礎の上で、自らの技量を振るえる気がする。

舞台設定を「患者さんにCT が為された状態」と定義してもいいし、 あるいは「輸液に反応しない血圧低下にはPCPSを入れよ」でも いいし、「基礎」の作りかたにはいくつかやりかたがあると思う。

どちらも問題あるし、お金かかるけれど、「修行して死ぬ気で頑張れ」というのは、 やっぱり学問の基礎にはなり得ない。このへんは、本来偉い人達がもっと考えてくれたっていいと思う。

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