Home > 6月, 2008

2008.06.30

猜疑心村の診療所

ときどき酔っぱらった人を診察する。様子がよく分からなくて怖いから、 「朝まで様子見ませんか?」なんて水向けるんだけれど、「俺は大丈夫だ」とか 宣言して、たいていお金踏み倒して帰る。それでも無事ならばいいんだけれど、 日本のどこか別の場所では、「大丈夫」で帰って亡くなってたりするから、 朝まで怖かったりする。

「おまえは冷たい」だとか、同じく酔った友達の人になじられる。

診るほうだって殴られたりするから、「帰る」という人を無理には止められないし、 帰るなら帰るで、同意書みたいなもの書いてもらわないと、身を守れない。 そういう態度は、たしかに何だか官僚的で、「冷たい」ものに見えるのかもしれない。

冷たくしてるというよりも、むしろ恐怖に震えてるんだけれど。

医療過誤保険のこと

アメリカの医療費は高い。医師の報酬もまた高い。医療過誤に対する保険料はもっと高い。

アメリカの救急医は訴訟が多くて、賠償金額も高いからなのか、医療過誤保険の保険料が、 年間1800万円とかするらしい。保険料高すぎて、払い倒れてフードスタンプをもらっている医師がいるらしくて、 年収2000万円もらっているのに、家賃払えないとか、笑えない。

日本の医療過誤保険は、学会で推薦してるようなものでも、年間せいぜい7 万円ぐらい。

国が違うから単純な比較はできないけれど、保険料の1800万円と7 万円の差というものが、 恐らくはその地域の「信頼のコスト」なんだと思う。

信頼のコストは、そのコミュニティの中で、もっとも猜疑心が大きな人が決定する。

誰かを信頼しやすい、「良心的な」人がいくらたくさんいても、 猜疑心の最大値が下がらないかぎりは、一度上がった信頼コストを下げるのは難しい。

「低信頼コスト村」の作りかた

「低信頼コスト村」作ってくやりかたというのは、たとえば保険会社だとか、 ちょっと前の、「神奈川方式」をやってた頃の高校入試とか。

一応ゴールド免許を持っているけれど、うちの自動車保険料は高い。 乗っている車が古くて、エアバッグもついていなくて、「持ち主に事故が多い」 車に分類されているから。

自動車保険は、事故を起こした人にお金が支払われるシステムだから、 特別に事故が多い、あるいは最初から事故を起こすのを前提にしている人の加入を許すと、 保険会社の持ち出し金額が増加する。自動車保険はだから、乗っている車を用いて、 その人の「信頼コスト」を計算して、統計的に事故が多い、「信頼できない」人が 多く乗っている車に対しては、保険料を高額にして対処する。

「購入した車」というのは、その人の信頼を推定する材料としては不完全だけれど、 保険会社が作り出した「低信頼コスト村」は、たぶんそれなりに機能している。 安全運転してるつもりなのに保険料高いのは、やっぱり納得いかないけれど。

アメリカの、民間健康保険のサービスは、所得に逆比例するところがあって、 富裕層向けの保険商品ほど、コストあたりのサービスが優れていて、低所得向けの商品は逆に、 値段が高いくせに、保険でできることというのが、限られてたりするらしい。

富裕層は気前よく保険料を支払うし、そもそも健康に気をつけるから、病気になりにくい。 「裏切らない」ことに対して、保険会社も信頼するから、健康保険はサービスよくて、 一方で所得が低い人というのは、恐らくは病気になる機会が多かったり、 自分の健康に対してそこまで気を遣うだけの余裕がなかったりで、結果として病気になりやすい。 低所得層向けの健康保険は、だから使えるサービスが限られて、支払ったお金の割に、サービス悪いらしい。

「神奈川方式」の高校入試は、中学校時代の成績順に、生徒を区切っていく。 成績上位グループは、受ける高校の選択幅が多くて、受験するときの倍率も、極めて低い。

その代わり、当時「底辺高」なんていわれてた、受験生を偏差値で区切った下位グループになると、受験倍率が跳ね上がる。 「そこ」という高校以外に受験可能な選択肢が示されなくて、そこに行くと、かけ算できない同級生だとか、 卒業する頃には同級生が2割ぐらい少なかったとか、すごかったらしい。

「猜疑心村」の診療所

「猜疑心を放棄すること」に利益が生まれるような市場設計ができればいいなと思う。

信頼のコストは地域によって様々で、自分たちが今働いている場所は、それでもまだまだ 信頼コストが安いほうだけれど、近隣の高コスト地域から病院が撤退して、うちの外来に来る人も、 顔ぶれがずいぶん変わった。

信頼コストが極端に高い「猜疑心村」では、医療のありかたがずいぶん変わる。

問診だとか聴診、エコーみたいな、術者の技量だとか、患者さんの状態によって 信頼確度が変わる検査は、怖くて施行できなくなる。

CTスキャンだとか心電図、採血検査みたいなものは、基本的に誰がオーダーしても 同じような結果が得られるものだから、「猜疑心村」の診断は、 むしろこうした検査で考えないといけないから、どうしたってコストがかかる。

病院に来る人の顔ぶれも変わってくる。

「猜疑心村」では、何か症状を訴えてくる人は相対的に減少して、むしろ「何もないこと」を 買いに来る人、自分が健康であることを証明してほしいだとか、とりあえず保険で健康診断をしてほしいだとか、 そんな訴えの元気な人が増える。

西洋医学は本来、症状で始まる学問だから、「ない」を証明することは、極めて難しい。それをやるためには、 目的のない、詳しい検査をたくさん出して、全てが正常であることを確認するやりかたしかできないから、 医療費は高騰してしまうし、「普通の診察」買いに来た人にも検査が乱発されてしまうから、 「普通の人」の満足度は、たぶん信頼コストの増加とともに下がってしまう。

恐らくはどこかのタイミングで、施設ごとの「囲い込み」みたいな戦略がとられる気がする。猜疑心の高い住民を 排除して、病院ごとに「低信頼コスト村」を作るやりかた。規模の小さな病院から、「村」を作って患者さんを囲って、 地域の基幹病院に、「猜疑心村」の管理をお願いする。

多かれ少なかれ、今地域の公立施設は「猜疑心村」になっていて、そこで仕事を続けるのは大変なんだとか、 いろんな話を聞く。みんな「暖かい」「人間的な」対応を求めて病院叩いて、叩かれた側は怖いから、 対応はますます官僚的な、画一的なものにならざるを得なくて、信頼コストは跳ね上がる。

公立施設はどこも厳しくて、中の人達が地域の猜疑心に疲弊して、後任もなかなか決まらない。 うちの地域もまた、基幹病院が吹き飛んだあとのことを考えると恐ろしい。

その時自分はまだここにいられるのか、正直自信なかったりする。

2008.06.26

多発外傷の人が来た

当直の反省。

内科の一人当直。その日の救急当番病院は、地域の総合病院だったのに、 多発外傷の患者さんを引き受けることになった。

「自転車で転んだ患者さんです。軽症です。顔から出血しています」

その日の当番病院が忙しいとかで、「自転車で転んだ」患者さんがうちに来ることになった。 「内科の先生でも大丈夫です」なんて。

たしかにその患者さんは自転車で転んだんだけれど、その上を、 自動車に通過されてた。顔から骨見えて、足はあらぬ方向に曲がってた。血圧は触れたけれど、意識は怪しかった。

多発外傷を内科で診るの無理だから、慌てて当番病院に電話した。さすがに嘘言えないから、 正直に話したら、むこうは満床になった。目の前真っ黒になった。そんなはずないのに。

頭真っ白になりながら、ライン取ってモニターつけて、外科の先生と検査の人呼んだ。

待つまでの20分が、長かった。

ご家族の目は怖い

多発外傷の超急性期は、やることが無数にあるように見えて、やることありすぎて、 実質何もできない。命に関わるような外傷は、手術室が準備できないと手を出せないし、 骨盤を含めた骨折も、状態が安定するまでの間は、手を出せない。

データが揃って人が集まるまでの間、当直はだから、ラインとモニターつないで、あとは 傷口洗うことぐらいしか、「治療」っぽいことができない。

応援が来る前に、病院には身内の人がたくさん集まった。

あなたはどうして叔父の傍らで無為に佇んでいるのですか ? 痴呆なのですか ?

囲まれて、だいたいこんな内容のことを、100倍ぐらい怖くして、尋ねられた。

「今診察を行っている最中ですので、もうしばらく待合室でお待ち下さい」なんてひたすら拝み倒して、 その間ほんの数分だったんだけれど、それがもうとてつもなく長かった。

嘘はよくない

救急隊に、もしも全てを正直に言われてたら「無理です」なんて返事したけれど、 状況を事前に把握できてれば、もっとできることはあった。

「転んだ人」は軽症だろうなんて、重症運んでる救急車を待つ15分間、時間は出血した。

全身の骨に骨折を生じていること。出血のコントールがついてなくて、 救急車内ですでにショック状態であること。最初から分かっていれば、待ってる間に人を呼べた。

小さな病院は、レントゲン技師さんなんかは、基本的にオンコール。当直体制を 引くためには莫大なお金がかかって、小さな施設だと、検査にそこまでの需要がないから、 当直組めない。

技師さんに電話でお願いして、実際来てもらうまで20分。みんなが「正直」で、 正しい情報伝達が為されている前提ならば、20分という時間は十分に現実的なんだけれど、 嘘つかれると大変。

病院に救急車が到着するまで15分。患者さん診て技師さん呼んで、来るまで20分。 最初から本当のところ教えてもらえれば、患者さんの待ち時間は5分間にまで縮められた。

今回のケースは結果として上手くいって、20分の遅れというのは、致命的なことにつながらなかったけれど、 患者さんがたとえば緊張性気胸を起こしてたり、腹腔内に大量の出血を生じてたりしたら、 たぶん大変なことになっていた。

救急隊は、一刻も早く「誰か」に患者さん渡したい。本当のこと話すと、とくにそれがお酒飲んでるだとか、 傷だらけで血まみれだとか、そういう情報を正直に話すと、今の時代、どこの施設も「無理です」なんて 返事が返ってくる。だから「本当のこと」を話せない。

救急隊が「嘘をつく」ことが前提になってしまうと、受けるほうもまた、嘘をつかざるを得ない。 当直医は極限まで無能化して、たとえ「擦り傷です」なんていわれたところで、 「私無能だから擦り傷分かりません」なんて。

うちみたいな小さな医療圏ですらこうなんだから、もっと厳しい地域では、 とうの昔に信頼の輪が破綻してて、送るほうも、受けるほうも、きっと疑心暗鬼がすごいんだろうなと思う。

待つのはつらい

患者さんが落ち着くまでの外傷治療は、輸液入れて、落ち着くまで「待つ」のが基本。

「待つ」というのは、当事者として実際やってみると、本当にきつい。身内の方がたくさん集まってるときなんか、 目線が痛くてものすごく辛い。

「待つ」ことにだって意味があるんだけれど、外から見ると、状況は動かない。 患者さんが輸液に反応して、きちんと持ち直せば、もちろんそれでいいんだけれど、 「持ち直さなかったとき」の選択枝は、外傷の時は、あるようでいてなかったりするから、きっと厳しい。

目線に対する耐性は、患者さんの状態と、手元にある情報の量が決める。患者さんが落ち着くならば、 あるいは状態が悪くても、原因がある程度明らかで、やるべきことが見えてれば、 たくさんの目線と対峙しても、そんなに怖くない。目線に負けてしまうと、ご家族としゃべるのが 急激に辛くなって、その場所から逃げ出したくなる。逃げるところなんてどこにもないんだけれど。

外傷の初期に「待ち」を入れるやりかたは、だから実際に自分でやってみると相当な精神力を要求される。 「待った」結果で心が折れて、医師が状況を自分でコントロールできなくなるケースはきっと多くて、 たぶん日本のあちこちで、みんなルールを破って検査に走ってるはず。

CTは役に立つ

外傷診療のガイドラインは、「患者さんの声」を大切にする。

患者さん正しく問診して、正しく診察して、患者さんの状態が落ち着くまでの間は、 救急外来からは動かさないやりかた。血液検査とか、ましてや画像診断なんて邪道は、後回し。

機械の進歩だとか、患者さんとの信頼コストがすごい勢いで高騰していることだとか、 理由はいろいろだけれど、そんなやりかたは、これからきっと変わっていく。

多発外傷の患者さんは、来たときはもちろん、状態が安定していない。安定していないから、 患者さんは自分のことをきちんと語れないし、痛がってたり、酔っぱらってたりすると、 もっと語れない。問診とか理学所見とか、正確さが患者さんの状態に依存する検査は、 こういうとき信頼性を保証できない。

エコーはあんまり役に立たない。自分が下手なのが悪いんだけれど、体格がいい人だったり、 全身傷だらけでエコー当てる余地なかったりすると、もう分からない。

外傷の治療手段は、そのうちたぶん、「病院に来たらすぐCT」に落ち着くような気がしている。

たとえば「水槽の中を泳ぎ回る魚」を数えるのは、けっこう難しい。動いてしまって、 最初の数匹を数えたところで、もう分からなくなってしまう。泳ぐ魚を水槽ごと写真に撮って、 写真に写った魚を数えれば、こんな時うまく行く。

CTスキャンは、今ではもう珍しくもない機械だけれど、問診だとか、エコーなんかと違って、 客観的な画像を残せる。これを使って、「診断ライン」と「治療ライン」と、一人の患者さんに対して、 マンパワーを2系統、同時に走らせることができる。

CTスキャンは、昔は「死の門」とか言われてて、CT切ってる間に患者さん亡くなったとか、 珍しい話じゃなかったけれど、電子機器の進歩は速い。今の機械は、頭から骨盤まで 切るのに1分ぐらいで行ける。

何よりも、CT1回切るだけで、あふれんばかりの情報が手に入る。 診断するための、方針決めるための、何よりも、集まったご家族の目線圧力に 耐え抜くための、情報というのは、強力な武器になる。

コミュニケーションとしての外傷診療

外傷診療のコミュニケーション要素について、もっと考えられてもいいかなと思った。 まだ応援来なくて、救急外来に自分しかいなくて、いきり立ったご家族に囲まれて、 すごくそう思った。

それが擦り傷でも動脈出血でも、とにかくまずはガーゼで覆って、外から見える血を隠すこと。 バックボードとかネックカラーとか、血で汚れた道具を可能な限り速く外して、 雰囲気「治療されてる」感覚を、一刻も早く演出すること。

みんなが興奮して、現場をコントロールできなくなる事態を避けるためには、もしかしたら もっとも最初に後回しにされるべきなのは、患者さんの病気それ自体なのかもしれない。

男塾に出てきた王大人の治療手技、とにかく見える傷口に包帯ぐるぐるに巻いて、 「治療完了」を宣言するやりかたには、たぶん一面の真実を認めないといけない。

包帯巻くことそれ自体は、患者さんの予後には影響しないけれど、 その光景を見たご家族にとっては、たぶん「包帯の有無」というのは、その後のスタッフを見る目を変える。

それを「意味がないごまかし」と断じるのは間違いで、包帯の効果というものは、 患者さんと、その人を取り巻くご家族という系それ自体に対する治療効果として、 きちんと医師が論じないといけないものなんだと思う。

以前どこだかの事故現場で、子供さんが亡くなった。親御さんがそれを受け止められなくて、 「子どもの顔の傷を何とかしてくれ!」だとか叫んでて、 医師が「もう亡くなってます」なんて言っても全然効果なかったのに、 居合わせた看護婦さんが絆創膏を一枚、亡くなったその子の顔に貼ったら、 親御さんは、子どもの死を受け入れたのだなんて話があった。

外傷みたいな病気ですら、やっぱりコミュニケーションの問題からは自由になれない。

ひどい外傷の患者さん抱えた夜、こんなことを考えてた。

2008.06.21

思考と暴力の相補性

父親が亡くなったとき、もちろん葬儀を行う必要があって、 大学の人達に葬儀社を推薦していただいた。

「先生ぐらいの方であれば、このぐらいの規模は必要かと存じます」なんて、腰の低い葬儀社の人が 相談に乗ってくれた。「800万円」の後半を請求された。すごい業績を残された方でしたとか、 大勢の人がいらっしゃいますから、大きな会場が必要ですとか、何だかいろいろ声をかけてもらったんだけれど、 よく覚えていない。

身内亡くなったばっかりで、みんな頭真っ白で、それでもさすがに、800万円の請求書見て目が覚めた。 払えるわけない。ハンコ押す一歩手前だったけれど、その日はお引き取りいただいて、 それでも葬儀の日程だけは、「いい人」達の提案に逆らえなかった。

夜になって、ようやくみんな考えた。「値切ろう」なんて話になって、翌日来ていただいて、 「お金払えません」なんて頭下げた。同じ条件で、200万円以上値引いてくれた。

大学出入りの業者さんだったし、何よりも思考が止ってる真っ最中だったから、 ボられてる可能性なんて、全く考えもしなかった。よくよく考えれば、 病院で紹介する業者さんとか、近いというだけで、その人達が「いい人」なのかどうかなんて、 誰も検証してないんだけれど。

思考止ってて、それでもそのくせ「世間体」なんてものにとらわれて、 暴れることすら放棄してガードを下げてる家族なんて、 葬儀社の人にとっては、きっと「いつものカモ」だったんだろう。

ワーキングプアに追い込まれる人

アメリカ医療があそこまで高額な理由が、未だによく分からない。

明日から、日本の健康保険が全て廃止になったところで、薬代だとか診察料だとか、 せいぜい高額になって今の3 倍。3 倍は高いけれど、健康保険料収めなくてもよくなるし、 家傾くほどの医療費使う人なんて、実際問題ごく一部だから、アメリカみたいな状況、 虫垂炎切ったら車一台買えるとか、ガン治療受けたら家買えるとか、あそこまでの状況が、 やっぱりちょっと想像できない。

アメリカ人の「信頼コスト」は高額で、だから医師の人件費も高いし、 医療過誤保険に加入するために、医師が支払う保険料もものすごく高い。そんな価格は、 たしかに医療費を押し上げる方向に働いているけれど、裁判おこして返ってくるお金を 差し引いたところで、アメリカには、病気になって保険が無くて、全財産吹き飛んだ人とか、 何だかたくさん報道される。

NHKの「ワーキングプア」特集で取材されてたアメリカ人は、みんな「いい人」っぽい印象だった。

あれが「いい人なのに割を食う」なんて、テレビ局側の文脈でそういう人が選ばれてたのか、 実際に「いい人から割を食う」現象が起きているのか分からない。案外「いい人」がたくさんいて、 とりあえず裁判おこして医療費棒引き狙う人とか、アメリカでも実はそんなに多くないんだとしたら、 やっぱり「いい人からワーキングプアに突き落とされる」流れというのがあるんだと思う。

裁判というのは、むき出しの感情がぶつかりあう場所だから、ものすごく疲れるらしい。

裁判に巻き込まれた医師は、例外なく疲れ果ててる。そのあたりはそれでもお互い様で、 訴えるほうもまた、本来裁判というものは、すごく疲れるものなんだと思う。 疲れるけれど、そこで「いい人」に甘んじてしまったその時点で、たぶんその患者さんは、 あとは「いいカモ」として、「嫌な人」のコストを上乗せされた、莫大な請求書を回されてしまう。

病気みたいな、思考を止めざるを得ない状況で、その人が「暴力」というカードを切れないのなら、 たぶん「カモ」として身ぐるみはがされる。そうなりたくないのなら、何をしていいのか分からなくなったときには、 だから目の前にいる「考えてそうな誰か」に対して、とりあえず暴力をふるうべきなのだと思う。

暴力の対価はパズル

能力だとか、立場だとか、もしかしたら絶対的な、少なくとも状況に応じた序列というものは、 確実に存在するし、そこを認めるところから始めないといけない。

系を安定に保つためには、「上」と「下」とが相互作用する必要があるけれど、それを 言語で行ってはならないのだと思う。言語というのは「水平」方向の道具であって、 お互いが同じ思考リソースを持っていることが、対話が成立する上での前提だから。

階層構造が前提となっている系においては、「下」が「上」に発信すべきは暴力であって、 「上」から「下」に発信するシグナルは、思考を強要されるもの、パズルにならないといけない。

言葉を発信するためには思考が必要で、思考を行い得ない状況に追い込まれた人に、 「言葉で話せ」なんて要求するやりかたは、なんかおかしい。

「下」の人はだから、「上」にいる人に、暴力という形で苦境を訴えないといけないし、 「上」は暴力を避けたいのなら、「下」が思考を行える状況、暴力に報いる対価として、 パズルを提供することで、暴力は思考によって補償され、暴力が消失した系は、ようやく安定するのだと思う。

お金にはたぶん、思考を促すお金の使いかたと、思考を封じるお金の使いかたとがあって、 お金で思考を封じたり、あるいは思考を引き出す報酬系を作れなかった「上」は、「下」の暴力を抑えられない。

暴力振るう側が訴えるべきもまた、「暴力が嫌なら、我々に思考をさせろ、思考に対価を与えろ」であって、 単純に「お金」だとか「生活」みたいなものだけなのは、何か片手落ちだし、それだけだとたぶん、 問題は解決しない。

問題を切り分ける能力というか、パズル生産力というか、能力を持った人、 階層の上位に座る人に課せられた義務というのは、単純に「雇用」だとか「給与」を 分配することではなくて、系全体に問題を切り分けて、みんなの思考を引きずり出すことなんだと思う。

2008.06.20

建築物としてのルール

去年以降診療報酬が改訂されて、ベッドあたりの看護師を、一定以上の人数確保した病院は 「いい病院」と認定されて、入院基本料を多く請求できるようになった。

この制度で得られる補助金は、経営方針変えるぐらいに大きなものだったから、 大学病院だとか、地域の公立病院なんかが真っ先にこれに飛びついて、地域の看護師を引き抜いた。 うちみたいな民間はあおりを食って、主任クラスのナースが引き抜かれて、えらい目にあった。

ところが今年になって、施設の審査基準が厳しくなった。看護師引き抜いて基準クリアして 補助金もらってた大規模病院は、一転して補助金もらえないことになって、今度は赤字に苦しむことになった。

赤字が出るなら、増やした人を使い回して、ベッドブン回して、赤字分「稼ぐ」のが筋なんだけれど、 補助金ルールが駆動してると、「稼ぐ」とかえって不利になる。

ベッドあたりの看護師をもっと増やせば、また補助金が出る。 地域にの看護師さんは、もうこれ以上増えないけれど、ベッドを返上して、ベッドあたりの看護師 を見かけ上増やしてしまえば、また補助金で一息つける。

地域の大きな病院は、今だからベッドを削りはじめて、本来500床あるのに稼働350床とか、 ベッドがたくさん余ってる。引き抜かれた看護師さん達仕事無くて、ヒマらしい。

働くほどに赤字が増えて、働けないから患者があぶれて、うちみたいな施設に重症の人が殺到する。 午前と午後で、同じベッドで患者さん二毛作したりして、先月の稼働率は100%を一瞬超えた。

なんか間違ってる。

「よさ」の疲弊とルールへの不信

なんというか、真っ当な商売やらないでお金につながるルールは、そもそも作っちゃ駄目だろと思う。

官僚の人達は、「ナースがたくさんいるのがいい病院」だとか、何か「いい」を定義して、 補助金使って、病院をその方向に向かせようとしているんだろうけれど、 大きすぎる力で「いい」を目指して、今は空きベッドの山。

せっかく集まった看護師さん達が仕事しようにも、仕事始めたらベッドが埋まって、補助金吹き飛ぶ。 ルールはどうせまた変わって、今みたいなゆがんだ状態は許されなくなるんだろうけれど、 ルールを変えれば変えるほど、「いい病院」はますます遠くなる。

ルールへの不信感が高まると、現場は「馬鹿」になる。

ルールを作った人のアイデアを読み取って、理解することを放棄して、ルールの中で、 目先の利益に一番つながりそうなことだけを行って、理念とか、アイデアの実現を放棄する。 上から見るとその様子は、たぶん「下々」の知力が劇的に低下して、馬鹿の集まりになったかのように映る。

たとえばスポーツなら、「ルールが変わらない」ことが宣言されてからでないと、 監督の人達は、戦術を考えられない。

サッカーみたいなスポーツは、もちろん細かいルールは時々変わるのだろうけれど、 ルールの基礎部分、それが「足を使うスポーツである」とか、 「丸い球を使う」であるとか、根本的なことは絶対に変えられない。

「明日から手を使ってもいい」だとか、ゴールの大きさが毎日変わるだとか、 サッカーが審判の気分でルールが変わるスポーツだったら、チームは戦術を作れない。 「戦術を組む」ということは、ある変わらない状況にチームを特化することだから、 「ルールが変わる」のが前提になってしまうと、もはや戦術を組むことそれ自体が、 チームの能力を落としてしまう。

選手もまた、特定の戦術にあわせたトレーニングが行えない。「毎日ルールが変わるサッカー」なんて スポーツがあったとしたら、選手はたぶん、闇雲に筋トレするぐらいしかできなくて、 試合はたぶん、チームプレイとは無縁な、集団格闘技みたいなものになってしまうはず。

国の人達は、「民間の活力」とか、期待を表明する割には、ルールをコロコロ変える。

ルールが変わるから、民間は怖くて参入できないし、ルールが変わるから、「選手」たる 研修医は、今どうしていいのか分からなくて、内科だとか外科だとか、 独り立ちするのに時間のかかる科から離れてく。

建築物としてのルール

医療なら、「患者さんを診察することで対価が発生する」ことと、 「何らかのリスクを取ることで対価が発生する」ことというのは、 ルールの基礎として、絶対に変更してはいけないのだと思う。

建築物には、階層化された「ルール」がある。絶対に変更してはいけない「基礎」だとか「構造」、 専門家がきちんと関与するなら変更可能な「外装」や「空間設計」、 住宅を購入した人が自由に変更できる、家具の配置だとか、建物それ自体の使いかた。

素人が基礎を掘り返すことが認められた建物は崩れてしまうし、 家具の配置を変更するのにも、役所への申請書類が必要な建物には、たぶん誰も住み着かない。 建造物が、ユーザーとの相互作用を継続していくためには、だから「ルールの階層性」と、 「基礎の普遍性」は、絶対に外せない。

今は何だか毎日のように新しいルール。ベッドのルールはまた変わるみたいだし、安全だとか救急体制だとか、 とりあえず学会が間に合わせてたところに「国家公認」の勉強会が 主催されて、ただでさえ人の少ない現場から、1週間単位での「研修」とか、無茶な要請来たりする。

行政は何だか、「家具の配置」を変えるために、建物の基礎を傾けようとしている印象。

企業単体の努力で何とかしようとすると補助金減って、「勉強会」開いたり、 使いもしない「院内マニュアル」作ったり、行政にアピールする不思議な踊りみたいなものを披露すると、 何故だか補助金がざぶざぶ振ってきて、病院がいきなり潤ったりする。

子供の「手術」見てるみたいだなと思う。

生物学知らない子供が、カエルつかまえて「手術」して、本人はカエルに良いことをしたと思ってるのに、 実際にはカエルの死骸が出来上がる。カエルの本音は、「ほっといてくれ」なのに。

「変える」のとりあえず止めといて、「ここは変えませんから」を、まずは宣言してほしい。

毎日のように形の変わる「基礎」の上になんて、誰も新しい住宅立てようなんて思わないと思う。

2008.06.17

能力のこと

「激動中国」という番組で、中国の医療が特集されていた。片目を失明してしまった少年が、 網膜のレーザー照射を受けるために700km離れた北京まで出かける必要があって、それには ものすごいお金がかかって、一家が経済的に傾くお話。

番組を作った人達は、高騰する医療費に批判的な、市場化が暴走した医療を問題視する 立ち位置だったけれど、取材を受けていた一家に限れば、問題はむしろ他にあるように見えた。

主人公の子供さんが受けていたのは、たぶんごくありきたりな治療。報道されていたのが全てだったら、 わざわざ北京まで出かけた先の「名医」は、必ずしもすごい技量を発揮していたわけではないし、 子供が受けていた、網膜のレーザー照射にしても、日本だったらどこの市中病院にでも普通においてあるような機械。

中国の医療レベルは決して低くなくて、トップクラスは普通に英語をしゃべれるし、医療機器なんかも、 法律の縛りが穏やかな分、日本なんかよりもよっぽど速く、最新の機器が導入されてたりする。 網膜のレーザー照射なんて、自分たちが研修医の頃から普通に行われていた治療だから、 あの一家は恐らくは、わざわざ北京の一流病院に出向くまでもなく、もう少し近場で、 同じ治療を安価に受けることができたはず。

たぶんあのご家族が対峙してたのは、医療の問題と言うよりは、むしろ情報の問題。 あの人達は、適切な情報を手に入れる手段を持っていなかったから、たぶんもっとも「高級な」 治療手段を選択せざるを得なかった。

あのご家族にもっと経済力があれば、あるいはもっと適切な情報を探せれば、あるいは詳しい人に知りあいが いれば、漠然と「能力」を持ってさえいれば、結果はずいぶん違ったのだと思う。

生きるためのコスト

「生かす」の単位がそもそも定義できないんだけれど、生活力のない人を「生かす」ためのコストというのは、 それを持っている人に比べて、圧倒的に高いような気がしている。

何もできなくて生きていけない人というのが、いる。身体的な病気はないのに、 とにかく何もできない人。仕事もしてないし、親類縁者は縁を切ってて、 役所がお金を渡しても、全部アルコールに変わってしまって、ご飯を買うお金を取っておくとか、 そんな発想がそもそも無くて、肝臓壊して餓死しかかって、ある日救急車で運ばれてくるような人。

もちろん生活保護になるんだけれど、お金を渡すだけでは同じことの繰り返しで、田舎だから住む家は あったりするんだけれど、見守るための民生委員とか、介護人だとか後見人の確保だとか、 退院に持って行くためには、すごい人手がかかる。

自宅に帰っても同じこと繰り返して、緊急避難的に特養に入れて、結局そこから先の展望無くて、 そんな人はたいてい、そのまんま一生そこにいる。食事の世話から風呂から着替えから、そうなると 全部介護の人がやってくれるし、あらゆる事務手続き、書類の世話とか財産の管理は、 今度は全部、市のソーシャルワーカーがやってくれる。

もちろん毎日のナース巡視はあるし、体温と血圧ぐらいは毎日測って、異常があったら病院に来る。 送迎はもちろん施設の車で、病院にはちゃんと、施設の人が付き添ってくる。こういう人は、ここまでやって、 やっと生きられる。

ただ「生きる」だけのコストが、こういう人達は、どういうわけだかすごく高い。

絶対的な財産の量で言ったら、企業経営をしているような富裕層のほうがもちろん多いはずだけれど、 「生きること」に必要なコストは、生きていく能力のある、財産を持った人というのは、 あるいはとても安価なのだと思う。

自分の居場所から見える「生活できない人」というのは、人口20万人圏内のうちで、100人程度。 たぶん保護なんかが行き届いてない人はもっと多い。自分は内科だから、外科だとか精神科だとか、 他科から見た風景は、もっと異なってくるのだとは思う。

「楽しむ」能力

医局の人達と、ご飯を食べに行ったりする。同じお金を支払って、同じもの食べて、 条件を一緒にしても、感覚する「おいしさ」みたいなものは、やっぱりその人が持つ「能力」に 応じて、ずいぶん異なるような気がする。

上手な人は、楽しむことが本当に上手。いい料理屋を知っているとか、いいワインが選べるとか そういうのではなくて、どこに行っても何だか気負わない、場を楽しむのが上手な人。 それができる人が一人いると、みんなでご飯を食べてもおいしくて、まわりもまた楽しめる。

「できない」人ばっかりだと、どんなに高級なところで外食しても、何だかみんな見栄張って、 料理見ないで仕事の話し始めたりして、ご飯がもったいない。「見られる自分」みたいな、 余計なことばっかりに意識が行って、何だか楽しめない。自分も含めた「できない」連中は、 きっとみんなそのこと分かってるんだけれど、楽しみかたが分からなくて、楽しもうとするんだけれど、 やっぱり「楽しめる」人が一緒でないと、楽しめない。

料理食べて、「おいしいね」なんてほんの一言、気負わないで言うだけの能力なのに、 それが何だか決定的な能力差として効いてくる状況というのがしばしばあって、 できる人はそれが当たり前のように身についてるし、できない人は、そうなりたいと思っても、 やっぱりどうやっていいのか分からない。

たとえば「自分で料理を作って、それを日記にして公開する」なんて試験をすると、この能力が 定量できるような気がする。

いろんな料理サイトがある。見た目がきれいだったり、いろんな材料を使ってたり、 「一生懸命さ」みたいなものは、どこ見ても伝わってくる。「自分も作りたいな」なんて思う文章は 案外少なくて、あんまりおいしそうでうらやましく思えるような文章は、もっと少ない。 そういうところに限って、作ってるのはただ豆腐ゆでただけだったり、魚焼いただけだったり、 もっと手をかけて、もっとおいしそうな写真出してるサイトなんていくらでもあるのに、 「うらやましいな」なんて指くわえて眺める料理は、かけた手間とは無関係だったりする。

お金の使いかた、同じ金額のお金を使って、そこから得られる楽しみの量みたいなものは、 やっぱり「能力」みたいなもので相当に左右されるのだと思う。

自力で生活するだけの能力に欠けていて、なし崩しに生活保護になるような人は、 それでも生活していけるだけの収入と、生活に困らない程度の住居を得られるのに、 お金は結局全てお酒に変わって、娯楽なんてせいぜいパチンコぐらい。

「やることがないんだ。すごく辛いんだ」とか言われたことがある。本心なのだと思う。

平等という前提が格差を生む

持っている能力と、能力を生かすための環境要素と、パラメーターは複数あるけれど、 ベクトルが幸福な一致をみた状態においてもなお、その人が持つ「能力」の絶対値みたいなものには、 やっぱり厳とした差が出てしまう。

「能力差」みたいなものは、「あるのだ」と積極的に認めるところから議論をはじめないと、 何だかいびつなことになるし、問題は解決しない。平等だとか正義だとか格差だとか、 そもそもはたぶん、能力の平等なんていう、間違った考えかたを前提に、 世の中を見てしまったがために生じた誤謬だと思う。

「能力の平等」が、揺るぎない前提になってしまっていると、本来は能力差でしかないものが「勝ち負け」を生んでしまう。 そもそも前提が間違っているところに生まれた勝ち負けを正当化するために、欺瞞に満ちた、 本来は必要ないはずの、正義というあやふやな価値軸が後付けされた。

「人間は平等」という立ち位置は、市場原理主義みたいな人も、人類皆兄弟の人も、みんなそれを前提にして、 自らの考えかたを補強するための武器にしている。市場の人達は、だから「機会均等が平等だ」なんて言うし、 皆兄弟の人は、平等なのに結果が不平等なんておかしいなんて言う。行ってること全然違うのに、どちらも平等で、 どちらも正義で、反駁が難しい。

人類皆兄弟の人達は、能力平等、機会平等なのに結果が不平等な現状を見たら、 まずは「能力平等」の前提を疑ったっていいはずなのに、それをしない。 能力の不平等を前提にするならば、政治の不作為を矛盾なく叩けるのに。

市場原理主義の人達は、「能力平等」が誰からも反対されない状況を利用できるからこそ、 「機会の平等」を矛盾無く主張する。派遣労働のやりかたとか、格差社会一般とか、 能力の不平等性が前提になってたら、もっと救済策取られてもいいと思うけれど、 能力は平等なことになってるから、「それはこれから能力発揮する人達に失礼だ」なんて、 本心からそう叫べたりする。

「椅子取りゲーム」みたいな自由競争ゲームは、勝ち負けを生むけれど、みんなの機会は均等。 負けた子供が先生に抗議しても、「君の努力が足りない」なんて突っぱねたって大丈夫。ところが足の悪い子供が 混じってたり、目が見えない子供が交じってるクラスで「椅子取りゲーム」を企画したら、 きっとその教師は、世界中から見識問われて、きっと叩かれる。

持って生まれた能力差を呑み込むところから議論はじめたほうが、物事がシンプルに、 世の中あるがままに議論ができるような気がするんだけれど、ここから先は分からない。

そもそも能力の異なった、不均一な集団を相手に「機会の平等」を説く欺瞞というものは、 能力の不平等性をみんなが受け入れた時点で、その効果を失うはずだけれど、 その代わり、ならば能力が不均一な人達を相手に、どんなルールを敷くのが一番「正しい」のか、 そもそも正しさという価値軸が必要なくなったはずの不均一な集団にどうして正しさが必要なのか、 このへんになると、もう想像力が届かない。

誰か考えて。。

2008.06.16

事象が社会と接続される

秋葉原の無差別殺人事件を見ていて思ったこと。

青年が「巖頭之感」という遺書を残して華厳の滝に飛び込んだ、昔の事件を思い出した。 個人と社会とを切断することに失敗して、事件が社会に接続されてしまった例として。

行動規範が一人歩きする

その人が亡くなった理由がよく分からなくて、何だか哲学的な遺書が残って、 メディアだとか、権威だとか、いろんな人達が、遺書の解釈だとか、評価だとかを 行った結果、単なる自殺は社会に接続されて、自殺という行為それ自体が、 新しい行動規範を生み出してしまった。

悩める青年は、自殺という手段を通じて、自らの悩みを世に問うべきだ」みたいな ロールモデルが一人歩きした結果、そもそも死ななくてもいい人が、「死ぬべき」なんて 社会の気分を受け入れて、ずいぶんたくさん亡くなったのだと思う。

最近になって、あの人が自殺したのは、本当は恋煩いみたいな個人的な悩みが原因であったなんて 結論が出たけれど、当時の政府は、それがたとえ欺瞞情報であったとしても、「あれは個人的な事件である」と 早いうちから宣言を行って、遺書を残して自殺した学生を、社会から切断するべきだった。

要人を狙っても社会は変わらない

少し前までのテロルというのは、特別な集団が、社会の特別な人達に対して行使する暴力だった。

「よど号」みたいな政治テロだとか、サッチャー政権時代に要人を狙った爆弾テロだとか。 事件は大きく報道されたし、巻き込まれて犠牲になったかたも多かったのだろうけれど、 大事件であった割には、社会はあんまり変わらなかった。

テロルというのは、社会を一度崩壊させて、再起動がかかるときに自らの考えかたを そこに織り込むのが基本。まずは社会そのものを壊さないと、暴力の効果が出ない。

少し前までの武装テロというものは、「特別な人達が、特別な人を狙った事件」であったから、 事件が起きても、それは速やかに社会から切断されてしまった。

社会を揺さぶる手段として暴力を考えるときには、暴力それ自体の大きさは、たぶんそんなに重要じゃない。 むしろ大切なのは社会との「接続度」であって、社会との接続が為されていない暴力には、 社会を揺さぶる力は発生しない。

政治家であったり、経済界の要人みたいな人達は、社会の中では特別な人間。 明確な武装闘争の思想を打ち出したテロリストというのも、また特別な人達だから、 裏を返せばたぶん、両方とも、社会との切断が容易な人物でもある。

特別な連中が、社会の特別な人達に対して暴力を行使しても、市民はそれを見守るだけで、 「観客席」から動く必要を感じない。「あの人達は特別」と思われたその時点で、武装闘争は 社会から切断されていて、切断された暴力は、もはや社会を揺さぶる手段としての意味を失っていた。

テロルの手法は、だから「改良」されて、今は市民を狙った無差別テロが主流になったし、 テロルを行う人達もまた、昨日までは日常生活を営んでいた「一般市民」であって、 政府の無策で生活ができなくなったから、不満を抱えていても、政府が何もしてくれないからこそ 暴力が発露する以外の選択枝が無くなったのだと宣伝されるようになった。

アメリカなんかは、テロルを行う人達を、あたかも怪物の集団であるかのように広報するし、 イラクで自爆テロを行う人達なんかは、テロ直前のビデオメッセージなんかを通じて、 自分たちの「普通さ」を強調しようとする。

体制側は、テロリストを社会から切断しようとして、テロリストの側は、自らを社会と接続しようとする。 今の「テロとの戦い」というのは、そういうことなんだと思う。

接続しようとする人達

事実が出てくるのはこれからなんだろうけれど、秋葉原の無差別殺人は、 たぶんあれはテロルではないのに、現状は「成功したテロル」、 「虐げられた普通の人」が、市民に暴力を行使して、社会が暴力で揺さぶられる、 それこそ武装テロをやってたような人が見たら、「こうしたかった」お手本みたいな状況になっている。

事件が社会に勝手に接続されて、政府だとか、企業だとか、様々な人達が、 個人的な暴力に対して、社会として反応している。これはよくないことだと思う。

社会の状況がどうであれ、「殺人を予防する」という立場からは、 政府はあれを単なる殺人事件として処理しなくてはならなかったし、 派遣労働の規制とか、労働者の保護だとか、たとえそれが緊急に必要なことであったとしても、 それは事件とは全く無関係の政治の問題として行われるべきだった。

メディアは今回、犯人の異常さだとか、特別さみたいなものを強調しないで、 むしろ犯人が追い詰められた社会的な状況だとか、派遣労働者の置かれた状況だとか、 事件を積極的に社会と接続しようとしていた。

ねつ造上等の、スキャンダル中心主義的な報道姿勢に批判的な人が増えたからなのかもしれないけれど、 もしかしたら、マスコミのそんなスキャンダラスな個人を強調する報道姿勢は、社会の安定装置として、 事件を社会から切り離す道具として、今まではそれなりに機能していたのかもしれない。

ロールモデルは伝播する

体験というものは、もちろんその人の個人的なものだけれど、 体験の解釈というものは、しばしば容易に他者の浸食を受けてしまう。 星の見えかたなんかは、本来はみんなバラバラだっていいわけだけれど、 星座の知識を得た人は、ランダムな星の配列が、もはや意味を持った星座にしか見えなく なって、他の選択枝を失ってしまう。

「巖頭之感」が社会と接続されて、漠然とした悩みと、自殺という行動とがロールモデルとして 一人歩きしたように、事件を社会背景から解釈しようとする試みそれ自体が、個人的な暴力を、 積極的に社会に接続して、もしかしたら新たなロールモデルを生む。

事象の解釈は、あくまでも個人的なものだから、それが規制される理由なんて無いけれど、 少なくとも「犠牲者がこれ以上出てほしくない」と思う人とか、「体制」側の、政府や企業の人達は、 あれを個人的な、特別な事件として、社会から切断して考えないといけないのだと思う。

2008.06.15

物語と利権

「この物語が広まって誰が特をするのかを考えましょう」なんて、道徳の授業でやってほしい。

「みんなで助けあいましょう」だとか、「高齢者を敬いましょう」だとか、道徳含んだ物語の読み聞かせ。 自分たちが子供の頃だと、「このときの主人公はどんな気持ちだったと思いますか?」とか、物語に 共感して、物語が本来持っているメッセージを無批判に呑み込むことを強要されて、道徳の授業はおしまい。

それがどんな物語であっても、作家が「伝えたいこと」を抱いたその時点で、 その物語は利権から自由でいられないし、よしんば物語を書いた作家自身に、 そんな意図が無かったとしても、物語は、意図を持った誰かの編集から逃れられない。

「姥捨て山」の利権

知恵ある高齢者が窮地に陥った息子を救う「姥捨て山」だとか、孝行息子に奇跡が 訪れる「養老の滝」みたいな物語を広めたのは、今で言うところの「後期高齢者」の人達なのだと思う。

昔話は、もしかしたら真実だったのかもしれないし、物語を作った本人にはあるいは 「高齢者を敬いたい」なんて意識は無くて、単純に「不思議な話」を書きたかっただけだったのかも しれないけれど、物語には「高齢者を大切にするといいことがあるよ」なんて メッセージが含まれていて、メッセージは利権を生んだ。

「姥捨て山」だとか「養老の滝」だとか、「高齢の人間を敬うといいことがあるよ」 という物語が子供達に広まれば、敬われる側の人間、もしかしたら虐待されたり、 あるいは捨てられたりしていた高齢の人達は、その物語から利益を得られる。

同じ時代、たとえば「姥捨て」を敢行して村の飢餓を回避した殿様の話であるとか、 高齢者を大切にする余りに畑をおろそかにして、一家が全滅した農家の話であるとか、 もしかしたらいろんな物語があったのかもしれないけれど、語り手によってそんな物語は あるいは「淘汰」されて、今に伝わるのは、やっぱり「高齢者を大切にするといいことがあるよ」なんて メッセージばかり。

語り手は、物語を選別して、後世に伝える。

「高齢者を敬おう」とか、「正義は必ず勝つ」だとか、「正直でいよう」とか「みんな平等」だとか、 何となく反論できない、受け入れやすいメッセージ。こうしたメッセージは、そもそも 受け入れやすいから生き残って広まったのか、語り手にとって都合がいいから広まって、 広まったからこそ受け入れやすいのか。

卵と鶏の議論みたいなもので、今となっては結論は出せないと思う。

神様のそばには利権が隠れている

高齢者が勝つ、「正直」が勝つ、「正義」が勝つのは、実世界では難しい。

正しさなんてなんの役にも立たない。成果につながらない正直なんて、なんの意味もない。

実世界では「正義が負ける」なんてことはいくらでもあって、もちろん物語世界であっても、 裏切りだとか虚偽だとか、有効な武器が最初から使えない「正義」の側は、そもそも 圧倒的に不利な条件で戦わないといけない。勝てるわけがない。

昔話には、だからしばしば「神様」が登場する。

それは「福の神」みたいにものすごく分かりやすい形で登場することもあれば、 「偶然の勝利」みたいな、目に見えない神様の形で描かれることもあるけれど、 駆け引きを放棄した、「バカ正直」に肩入れをする超常の存在として、神様はしばしば、 物語に介入する。

神様は、物語の矛盾を強引に解決して、背後に利権を隠している。

高齢者を大切にした者を勝たせた神様は、その行為を通じて高齢者の利権を保護するし、 平等だとか、正直だとか、実世界を生きていく上であまりにも不利な価値観を「正しい」と 認定した神様もまた、その後ろで利権を得る人達を保護している。

物語の作者は「こうあってほしい」なんて意図を持って社会を描写する。実社会のルールと、 作者の意図とがかけ離れていると、社会には矛盾が生じて、物語は成立しなくなってしまう。 「神様」はだから、そうした矛盾を強引に解決する手段として、物語に登場を要請されて、 神様は、作者の意図を、あたかもそれが実社会の常識であるかのように隠蔽する役割を担わされる。

神様の力が大きな物語は、だからそれだけ、「意図」と「社会」とがかけ離れていて、 矛盾を解決するための、神様の仕事量がそれだけ大きいのだと思う。

神様の登場しない物語

道徳を含んだ物語は、そのメッセージを子供が呑み込むことで「特をする人」を生み出す。 道徳の授業が本当に子供のためのものであるなら、道徳メッセージは優劣を比較することができて、 「その物語から利権を得る人が最も少ない物語」こそが、子供に伝えるべきメッセージとなるべきなんだと思う。

敬老だとか、正直だとか、物語が始まると、主人公はたいてい、何かの価値観を背負わされる。

それは本来、実世界で背負うにはあまりにも不利なことが多くて、「自分以外のみんな」がその価値観を 背負ってくれると、語り手として「お得」な、利権をたっぷり含んだ価値観。

それをそのまま語ったところで、そもそもが間違ったそんな価値観は、物語を 矛盾無く転がせないから、矛盾を解決するために「神様」に手伝ってもらって、 そんな「誰かを有利にする物語」は、それによって有利になる人に語り継がれて、 「道徳」なんて名前を背負って、世の中に広がる。

道徳含んだ物語を語り聞かせるような授業が今でも続いているのなら、やっぱり最後に 「この物語を受け入れることで得する人達」についての話しあいを持ってほしい。

その物語が広まって、誰が得するのか。あるいは得をする人がどれだけいるのか。 主人公がどんな価値観を選択すれば、利権を得る人を最小にできて、 「神様」を物語から放逐できるのか。

「利権最小化原則」で主人公の能力を探していくと、やっぱりたぶん、 主人公が選択すべき能力は、「ものの価値が分かる」ことと、「お金の使い方を知っている」ことに行き着く。 地味な力だけれど、そんな力を持つ人は、力が強いとか、持ったものを全て黄金に変えるとか、 そんな能力を得た人をも超越できるはず。

それは市場原理主義者の妄想かもしれないけれど、「正しさ」とか「平等」みたいな 考えかたに比べれば、「神様」の仕事量は相当少なくできると思う。

2008.06.11

運用解決と構造解決

1974年のパリ上空、トルコ航空のDC-10 が墜落して、乗客346人が全員死亡した。 飛行中に貨物扉が吹き飛んで、機体が制御できなくなったらしい。

この飛行機は、貨物扉が「半ドア」のままでもロックできてしまう問題を以前から指摘されてて、 改善が勧告されていたけれど、航空会社はドアに「のぞき窓」をもうけて、ロックがきちんと為されているよう、 整備担当の人に確認させることで、問題は「解決」されたことにしていた。

ごく最近、世界一高い航空機、B-2 爆撃機がグアムで墜落した。

原因はセンサーが湿気によって誤作動したことで、湿気の高いグアムの基地では、 始動前にセンサーを熱して、内部の湿気を蒸発させるという「技」が、 一部のパイロットや整備士らによって非公式に行なわれていたのだという。

島根県の診療所で、血糖測定用の針が使い回されて、肝炎ウィルスが拡散した。

採血の機械は6 回続けて使用可能で、本体には、赤い字で「複数患者使用不可」という シールが貼ってあったらしい。

時代も状況もバラバラだけれど、問題の根っこはよく似ている。

「運用」は解決にならない

DC-10 の貨物扉は金具がヤワで、たとえ半ドアになっていても、ハンドルに体重をかけて回してしまうと、 金具がゆがんで「ロック」されたことになってしまうのが問題だった。

提案された改善案は2つ。「のぞき窓」をもうけることで、整備士に確認を促すやりかたと、 金具に補強板を取り付けることで、そもそも半ドアのままロックを行うことを不可能にするやりかたと。

補強板の価格自体、決して高価なわけではないはずだけれど、「確認すれば大丈夫」なことも 間違いなかったから、補強板は取り付けられなくて、航空機は墜落した。

B-2爆撃機の事例なんかも、恐らくはこれから検証が為されるんだろうけれど、 もしかしたら湿気の問題は最初から報告されていて、誰かが途中で情報を止めたのかもしれないし、 あるいは現場の工夫はそこで「解決」したことになってしまって、そもそも情報が上に伝わらなかったのかもしれない。

今回トラブルを起こした採血用具も、「複数患者使用不可」なんて赤字シールを貼ってたぐらいだから、 あれを作ったメーカーの人達は、きっと問題を正確に認識していたはず。潤ってた昔だったら、 「危ないよ」なんて誰かが声出せば、あの製品は、即日全品回収がかかったんだろうけれど。

その改良に意味はあるのか

改良の方向には「性能が向上する代わりに、使用者にも一定のレベルを要求する」方向と、 「性能は変わらないけれど、どんな人にでも使える」方向とがあって、安全を志向する道具の場合、 前者を目指してはいけないんだと思う。

血糖測定用の針は、昔はただの針だった。細い注射針をそのまま使って、 患者さんの指先傷つけて、血液一滴もらって検査に回す。 それだと痛いから、バネ仕掛けで使って勢いよく針を飛ばせるようにしたのが、 血糖測定用の採血用具。

銃の進歩にちょっと似ていて、最初の頃は「単発」。針をセットするには本体を分解しないといけなくて、 分解して針を装着して、バネをセットして、ようやく利用できる。面倒だけれど、一度使ったら、 また分解しないとバネのセットができなかったから、「使い回し」の問題は発生しにくかった。

実物を見たことがないけれど、問題になった採血用具は「連発式」。バネのセットさえすれば 何回でも連射可能だけれど、使い回しを回避するためには、利用する人が何回撃ったのか、 覚えていないといけない。

「使い回し禁止」なんてシールを貼ることで、その問題は、 「運用」で解決されたことになっていたけれど、事故は起きた。

同じ改良品でも、絶対使い回しできない針と いうものも発売されている。

最初から針とバネがセットされてて、ボタン一発で動作して、一回使ったら針が隠れて、もう二度と使えない。 単発で、捨てる部品が多くてもったいないけれど、原理的には「針刺し」の事故は絶対起きないし、 患者さんまたいだ使い回しの問題も起きない。

問題の発生を避けられない構造を改めないで、シール一枚で「解決」したことにする。

あれを作った人のセンスも、その危なさを指摘できなかったユーザーのセンスも、 同じようにとがめられるべきだけれど、そもそもこういう問題は、昔みたいに メーカーも現場も潤ってた頃ならば、何も考えなくても起きなかったんだと思う。

製品の回収に伴うコストと、「シール」印刷するコスト、安全対策が為された道具を使うコストと、 そもそもが個人使用向けの製品を、病院で使うコストと。現場が潤ってる昔なら、 最初から考えもしなかったことが、今は天秤にかけられる。バランス取るのにはセンスが必要で、 センスに欠けた人もバランスを考えざるを得ないから、舵取り間違えて、事故が発生する。

安全をお金に換える仕組みを作らないと、こういう問題はなくならないと思う。

2008.06.10

怪しげな医療のこと

オリンピック目指すような運動選手のそばに、何だか怪しげな医師だとか整体師だとかが群がってるのは、 たぶん選手の周りにいる人達が、「原因」を求めるからなんだと思う。

「理由の不在」は、たぶん運動選手の文脈では認められない。伝統的な西洋医医学が 「分からないけれど様子を見ましょう」なんて繰り返すたび、理由を求める人達は、 「これが原因です」という断言を求めて、怪しげな「診断」を提供する治療者にたどり着く。

選手に「安静」は許されない

マラソン選手の人達が「ふくらはぎの違和感」なんかを訴えても、あれを自分たちの医療機器で証明することは、 もしかしたら難しい。筋肉に出血でもあれば、それをMRI で見つけることもできるけれど、 運動選手の感覚はものすごく鋭いだろうから、恐らくは「出血」なんて状態になるはるか手前で、 異常を「違和感」として訴える。

西洋医学の文脈では、「分からないけれどとりあえず死なない」状態の人には、手を出さないで様子を見る。 「違和感を感じる」なんて訴える選手が、歩いて外来を受診しに来たら、 だから「とりあえず安静で様子を見ましょう」なんて返事しかできない。

運動選手には、状況によっては「安静」が許されない。

妄想だけれど、中国で調子を崩したマラソン選手の人も、最初は普通の病院にかかって検査を受けて、 「とりあえず安静にして様子を見ましょう」なんて言われたのだと思う。オリンピックを目指すような 選手にとっては、もしかしたら「とりあえず安静」は、オリンピックをあきらめることに等しいから、 「安静」をお願いされたその時点で、病院が見限られたのだと思う。

方法論を変更するコスト

それがマラソンであっても野球であっても、たぶん全てのスポーツには指導者がいて、 競技ごと、あるいは指導者ごとに、「方法論」みたいなものがある。

方法論というのは過去の蓄積。おそらくコーチの人達は、 みんな自らの経験を蓄積して「論」を組み立てて、今指導している選手に、そんな方法論を生かそうとする。

指導している選手の成績が落ちたり、あるいは体の調子が悪くなったりすれば、 指導者は、責任を問われる。

選手に何か問題が見つかれば、不調は選手のせいになるけれど、選手には問題がないのに調子が崩れたならば、 今度はその指導者が蓄積してきた方法論それ自体が、選手の変化に追いついていないことを認めなくてはならない。

競技スポーツの世界では、たぶん理由の不在は許されない。方法論を変更するコストは莫大だから、 指導者はだから「理由」を探して、選手の不調を「例外」として処理しようとする。

最近報道される、通り魔的な無差別殺人事件なんかは、「動機」から思考をはじめる 旧来の犯罪捜査の方法論が、もしかしたら通用しない。警察が「通用しない」ことを認めると、 今度はたぶん、通り魔的な事件に対する予防責任が警察に求められるようになって、それに対応するための コストは莫大になってしまう。恐らくはだから、ああいう事件になると犯罪者の異常性がやたらと 強調されて、事件は「例外」として処理される。

伝統的な西洋医学は、分からないものに対しては「分かりません」と返事して、とりあえず、 悪さをしてそうな原因を、全て除去して様子を見る。「悪さ」の原因になっているのは、 スポーツ選手の場合には、なんといってもまず「トレーニング」だから、医師は「トレーニングの中止」を依頼する。

指導者にとっては、医師のそんなやりかたを受け入れるコストは、たぶんとても大きいのだと思う。

市場原理で健康を守る

高校野球の監督は、しばしば選手に過大な負担を強いることで、チームを優勝に導いて、 自らの名声を高めようとする。

「選手が健康であること」は、もちろん監督にとっても大切なんだろうけれど、 「チームの優勝」と「選手の健康」とを両立できない状況はしばしばあって、 プロで活躍したかもしれない選手は甲子園で使い潰されて、故障を残してしまったりする。

プロ野球のスカウトは、「チームの優勝」よりもむしろ、「選手の健康」に 利益を見いだす人達。優秀な選手が、健康な状態のまま卒業してプロ入りして活躍すれば、 そのこと自体が自らの利益につながる。

高校野球のチームを「市場開放」して、スカウトの人達が、選手個人に「投資」できるような 状況を作り出せれば、たぶん「悪い監督」は、市場から追放される。 選手を使い潰すことで名声を高めようとする「悪い監督」が仮にいたとしても、 選手が不健康になってしまうなら、投資家はお金を出さないだろうから。

もちろんバックグラウンドでは、金権乱れるすごい状況になるのだろうけれど、「市場化」された 高校野球は、少なくとも表向きは、スポーツとしても、健康増進手段としても、 たぶん今よりずっと「健全」になる。

選手の健康から利益を得る人

プロの世界とか、あるいはオリンピック目指すようなスポーツの世界には、 もしかしたら「選手が健康になって利益を得る」人が、そもそも存在しない。

「高校野球を市場化せよ」なんて言う理屈は、プロ野球のスカウトをやっている人達が 昔から口にしている論理だけれど、それが為されて、仮に選手が健康な状態でプロ入りしても、 プロの世界には、もはや選手が「健康」であることに利益を見いだす人は残っていない。

ファンの人達が望んでいるのは、あくまでも選手の「活躍」であって、健康それ自体は、もしかしたら望まれない。 横綱貴乃花は、自らの肩を壊して日本中を感動させたけれど、あのとき途中降板していたら、 もしかしたら「横綱は腰抜けだ」とか、無責任な声出す人もいたかもしれない。

体に違和感を感じたその段階で、トレーニングを続けるのも、止めるのも、 もちろん最後は選手の自己責任なんだろうけれど、 陸上競技みたいな、取り得る戦略の幅が恐ろしく狭い競技だと、選手はたぶん、 しばしば「自らの体を壊す」以外の戦略をとれない状況に追い込まれてしまう。

「止める」ことはたぶん、選手だけが一方的に損をして、怪しげな治療者の「確定診断」は、 たぶんコーチの方法論を保護する方向に作用する。西洋医者の「分かりません」は選手に味方するけれど、 「分かりません」はたぶん、選手も監督も、受け入れられない。

このへんの構造は、きっとスポーツ医学やってる先生方にとっては、 もう何年も前から変わっていないんだろうけれど、検査がどれだけ進歩しても、 「分からない」はなくならない気がする。

2008.06.06

「未知のウィルス感染症」のこと

学生だった頃、目が見えないのに、近所の「教祖様」が書いたお札を眼に貼ると目が見えて、 乗用車で通ってくる眼科の患者さんがいた。

教祖が本当にすごい人だったのか。病院がすごくないのか。その人が嘘付いてるのか。 そもそも「車を運転するのに視力が必要」なんてこと自体が先入観であって、 その患者さんを観測している我々全員が間違ってたのか。

証明しようがないことは、「絶対こうだ」なんて言えないんだけれど。

未知のウィルス感染症報道

陸上長距離・絹川、五輪出場厳しく…謎の感染症完治せず なんて報道があって、朝の医局でちょっと話題になった。

だいたい半年ぐらい続いている、全身を移動する痛みが主症状で、放射線同位元素を使った検査で 骨折が見つかって、「特別な血液検査」を行ったところが、赤血球と白血球とが 変形していて、「未知の感染症が疑われる」なんて報道。通常の血液検査は、 全て正常所見だったらしい。

「中国で発生した未知のウィルス感染症が国内に入って、もう半年近くも治癒しないままそのままになっている」

感染症やってる人達からすれば大問題で、それが本当ならば、それこそ選手生命がどうこうの 話以前に、まずはその人を隔離する騒ぎにならないとおかしい。

「未知」は診断できない

病院で出せる検査と、外注で出せる検査を利用する限りにおいては、 「未知」であって、「一人しか発症していない」ウィルス感染症を診断する ことはできない。

そもそもそれがウィルスによって発生した症状かどうかを判定する方法は ないし、仮に血液から「未知のウィルス」らしきものが見つかったところで、 今度は「そのウィルスが症状を作り出している」ことを証明するのが、 たぶん容易じゃない。

それが「ウィルス」であって「感染症である」ことを疑うときは、 同じ症状が集団発生していて、しかもその患者さんから病原体が 同定されないとか、少なくとも細菌感染が証明されないことを 前提にしないと、まず「ウィルスの検索」が始まらない。

スポーツ選手一人に発症した特殊な症状を前にして、最初からウィルス感染症を 疑うという考えかた自体、たぶん伝統的な西洋医学の文脈からはありえない。

治療に当たっているクリニック

はてな匿名ダイアリーでリンクが張られていた。

整形外科からリウマチ治療に興味を持って、今は何だか赤血球に すごいこだわりを持って治療に当たっておられる人。

伝統的な西洋医療に対しては、だいぶ否定的な立ち位置を取っていて、 「炎症と赤血球との関係」だとか、「培養白血球療法でリウマチを治す」 とか、やっぱり西洋医学の立ち位置とは、ずいぶん異なった考えかた。

「赤血球と白血球とが変形する未知のウィルス」というのも、 たぶんこの先生が独自に行っている検査で「赤血球の変形」が 証明されて、その変形が見られたから、「ウィルスの感染症である」と 断じられている印象。

この先生はちゃんと医師免許を持っている人だけれど、今回の診断だとか、治療だとかは、 必ずしも西洋医学の文脈で語られてるわけではないと思うし、新聞は、そのあたりは もっと強調すべきだと思う。

反対側の人にも取材してほしい

読売新聞だから、せめて裏ぐらい取ってると信じたいけれど、 新聞が「未知のウィルス」と書いたんだから、やっぱり 「昔ながらの西洋医学」の立場取る人の意見も聞いて、 報道するときには、両方並べてほしい。

国立感染症研究所の先生方に、「未知のウィルスが中国で発見されましたが、 なんの対処もしないで大丈夫なんですか?」なんて取材して、 その返事を一言載せるだけで、変な憶測吹き飛ばせる。

話を無駄に大きくしてしまう、マスコミが宿命的に持っている性質は、こういうときこそ役に立つと思う。

Next »