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2008.05.30

泥沼パターン

叩かれて反論して、いつまで経っても議論がかみ合わないのに、 気がついたら一方的に勝利宣言されて、何だか世間では自分が「負けた」 ことにされてる。

そんな理不尽の、パターンと対処。

見える「世間」はものすごく狭い

それはコメント欄であったり、ブックマークに寄せられたコメントであったり。

実際にサイトを見て下さる人は、たぶん数万人の単位でいるはずけれど、 その人達が文章を読んで、実際のところどう思っているのか、文章を書いた 側からは、「コメント」を通じることでしか、把握することができない。

自分は「こう」思われているなんて、作者の印象は、だからコメントを 残したり、ブックマークを残してくれる、ごく少数の「世間」が決める。

世間はすごく狭い。

自分がこの場所で文章を書く。たまにほめられたり、叩かれたりする。

時々「匿名ダイアリー」みたいなところでも書く。匿名だから、 いつもと同じ立ち位置で書くときもあれば、正反対の立ち位置で、 「表の自分」を叩くようなことを書いたりもする。

ネット世間で一応「人格」みたいなものを認められている、表の自分と、 一応正体がばれていなければ匿名の、匿名ダイアリーの自分と。 書いてる人間は「違う」のに、叩く人も、ほめてくれる人も、IDを見ると、ほとんど変わらなかったりする。

分野をまたぐ「行為が好きな人」

もっと大きなサイトになったらまた違うのかもしれないけれど、 自分から見えている「世間」というのは、だいたい100人ぐらい。 その中の20人ぐらいが「叩き」に回って、残りは時々ほめてくれたり、 メモ代わりの引用をしてくれたり。

ネット世間には、医療だとか軍事だとか、「分野」に興味を持つ人と、 叩きだとか哄笑だとか、「行為」に興味を持つ人とがいる。

行為それ自体が興味の対象となっている人は、分野の壁を超えてくる。 叩かれて、泥沼になってるサイトを見ると、うちなんかとは興味の分野が 全く違うのに、同じような人達が、同じような立ち位置で、全く違った 分野の文章を叩いてる。

叩かれてるときは、何だか世間の半分ぐらいが「敵」になったように感じるんだけれど、 実際起きていることは、たぶんいつもの人達が、いつものように集まって、 その日見つけた叩きやすそうなサイトを叩いてる、そんなイメージのほうが近いのだと思う。

あの店の皿は欠けている

客:「見ろ、この料理屋の皿は欠けている」 店主:「料理食べてよ…」

面白い文章が好きな人と、瑕疵のない文章を要求する人とを分けて考えないといけない。

料理店で料理を出す。「料理がまずい」という人とは、それでも会話が 成立するし、そんな人が「あそこの料理はまずい」なんて声あげて、 それ聞いて集まったお客さんの中には、「けっこう食べられるよ」なんて人も 出てきたりする。料理それ自体を論じてくれる分には、それが賞賛であっても 叩きであっても、文章書く側としては、すごくありがたい反応。

料理のことはおいといて、「皿にひびが入ってた」なんて人を相手にするのは、 すごく大変。「皿はおいといて食べてよ」なんて水向けても、 今度は「客に割れた皿を出すとは何だ!」なんて叫ばれて、しまいには 「あの店は割れた皿を出す」なんて評判立てられる。

「料理」食べに来るんじゃなくて、「割れた皿」を見るためだけに、 料理店の門には大勢の人が殺到する。大勢集まって、「たしかに割れてる」 「割れた皿出すとか最低だ」なんて、叩かれる。

料理は最初から無視されて、店主が聞く声は、「皿」の話ばっかりになる。

このそうめんにはコクが足りない

客:「このそうめんにはコクが足りない」 店主:「つけ麺屋さんに行って下さい…」

軽い文章書こうと思って、軽いもの書く。「軽さ」に反応があって、 それなりに反響が来る。そこまでは良循環。

ところが「このそうめんにはコクが足りない」みたいに、そもそも 文章が想定した役割を超えて、すごく大きなもの求める人がたまにいて、 やっぱり困る。

それは「子供達に正しい教育を」みたいな正論が好きな人だとか、 何か信仰している「正義」があって、全人類がその正義のもとに かしずくべきだなんて、普段から「活動」を続ける人達。

話の枕に、不謹慎な話だとか、その人達の「正義」にかするような 話題を持ってくると、そのあとが大変。軽い気持ちで日常雑記を 書いたつもりが、いつの間にか世界人類に戦い挑む文章として論じられて、 「こんな話題を扱っているのに不勉強だ」とか、「あいつは全体主義の手先だ」 とか、話はどんどん大きくなっていく。

こんなものはフランス料理と呼べない

客:「こんなものはフランス料理と呼べない」 店主:「あなたに出したのはラーメンです」

ある分野の「権威」だという人達はけっこう多い。勉強してる人達。 たくさん本読んでて、サイト見ると、たいてい別の誰かを叩いてて、 叩く根拠に、いろんな本を引用してる。うちだって文章量は 多いほうだけれど、引用文だけでそれぐらいあって、文字ばっかりで 圧倒される。

本の威力で誰かを叩く人達は、特定分野の物差しで叩く対象を測定して、 「この分野から見て、これは不完全極まりない」だなんて、相手を叩く。

そもそも想定している分野が全然違うんだけれど、「分野違いますから」 だなんてその人に反論すると、件の「引用の山」が待っている。

頑張って読んで、やっぱりそれでも何言いたいのかよく分からなくて、 「分かりません」だなんてコメントすると、「なんて馬鹿なやつなんだ」なんて 勝利宣言される。

この本を読んでくれれば分かると思います

読者:「あなたは間違っています。この本を読んでいただければ、それが分かると思います」 筆者:「4700円払ってその本を買えと…?」

「あいつは馬鹿だ」と叩くぐらいなら、「こうすれば馬鹿じゃなくなる」 やりかたを教えてくれると、本当にありがたいのだけれど、 叩く人達は、「どこが馬鹿」とか、「ここが間違ってる」とか、 絶対に教えてくれない。

それでもしつこく食い下がると、今度は「この本を読んで下さい。分かるはずです」 だなんて、本を勧められる。

「読書の勧め」は3重のトラップになっている。

その本を読まなければ、「不勉強を棚に上げて強弁する奴」だなんて、 レッテルを貼られてしまう。

本を読んでも、その人が言う「分かる」に到達できる可能性なんてゼロなんだけれど、 読んだら読んだで「あなたとは、どうも前提が共有できないようですね。残念です」なんて、 なぜだか相手に有利な終結宣言を出される。

万が一、相手と同じ「分かる」境地に到達できたとして、本の世界は体育会。 「おまえよりも先にこの本に気づいた俺様勝ち組」だなんて、手下になること強要される。

「読書の勧め」につきあうのはだから、時間があってもお勧めできない。 本当に分かっている人ならたぶん、「こうすればいいよ」だなんて解決策を 教えてくれて、その上で「もっと理解したいならこれ」なんて、いい本を紹介してくれる。

本の使いかたとしては邪道もいいところだけれど、目の前に「泥沼」が口開けて待ってるのを見たら、 「まずはこの本を読んで、前提を共有していただかないことには、建設的な議論はできないと思います」なんて、 クソ分厚い洋書の定番本を示して逃げるのが、たぶん一番簡単なんだと思う。

相手の人は勉強が好きで議論が好きで、あるいはもしかしたら、本当に良心から泥沼コメント 残してくれたのかもしれないけれど、泥沼に足を踏み込むと、やっぱりそこは泥沼にしかなり得ない。

お互い住み分ける方法考えたほうがいいと思う。

2008.05.29

間違えることが無意味になる仕組み

住んでるのが田舎だから、毎朝の出勤は自家用車で、田んぼの中を縫いながら、 信号のない交差点をいくつも通る。

あぜ道だけに、道はまっすぐ。田舎の常で、あらゆる道には素敵な舗装が施されてて、 見通しのいい直線道路は、その気になれば高速道路と変わらない。朝の忙しい時間帯、 みんな床までアクセルを踏む。

交差点を右に曲がる場所が何カ所かある。みんな飛ばしてる。いつも命がけになる。 車は切れない。だから自分が曲がろうと思ったら、相手のウィンカーを見るしかない。

曲がりたい側の車が、自分の方向にウィンカーを出す。そのときその車は減速して、 後続の車を遮ってくれるから、そのタイミングで交差点に進入できれば、自分も曲がれる。

相手がもしも「嘘をついた」ら、間違いなく事故になる。

田んぼ道のローカルルール

自分たちがいる車線は細くて、曲がりたい側の道は、太くてまっすぐ。同じ車同士だけれど、 何となく「立場」みたいなものは相手のほうが圧倒的に強くて、細い道で待ってる車は、 何だか譲っていただくような気分。

相手がウィンカーを出したら、だからそれ信じて突っ込むしかないんだけれど、 「相手のシグナルが常に真実」なんてこと自体、今の世の中信じられない。

細い道走る車はだから、道の真ん中付近で交差点を待つ。これをやると、 相手車線の進入経路を自分の車が微妙にふさぐ形になる。 車が進入しようと思っても、自分たちの車が邪魔で、入れない。

見通しの悪い交差点でこれをやると、間違いなく事故になる。交差点曲がったら、 道の真ん中に対向車が居座ってるわけだから。けれど、田んぼの真ん中は、100m先ぐらいまで、 遮るものが一切ない。

相手車線の車はだから、こちら側に進入するためには停止せざるを得なくて、 相手が減速してくれたら、こっちは安心して交差点に進入できる。 ローカルルールだし、もしかしたら道路交通法違反なんだろうけれど、 このルールを運用すると、相手のウィンカーが、仮に「嘘をついた」としても、事故は起きない。

判断の真実性について

ウィンカーみたいなシグナルにしても、人間同士の契約にしても、コミュニケーションというものは、 「相手が真実を述べていて、こちらがそれを信じる」ことが前提になっている。

相手が嘘をついたり、相手の判断が間違えていたりすれば、もちろん意図した結果は得られないし、 相手のシグナルを自分たちが読み違えれば、やっぱり正しい結果にたどり着けない。

シグナルを介したやりとりは、それが上手に回ればすごく効率がいいし、 「相手が真実を述べている」という前提の共有が為されなければ、 そもそも料金後払いの通信販売だとか、口約束で話進めるやりかただとか、 絶対に上手くいかない。

ウィンカーを無意味化する交差点ルールは特殊解かもしれないけれど、なんとなく、 一般化できそうな気もしている。

どんなコミュニケーションについても、相手が真実を述べようが、嘘を述べようが、 そもそも相手のそんな「判断」それ自体を無意味化できるようなやりかた。

交差点のローカルルールは、相手が自分たちの方向に曲がりたかったら、減速して、 居座っている車を進ませる以外の戦略がとれない。ウィンカーを正しく出そうが、 あるいは「間違って」ウィンカーを出しっぱなしのまま直進しようが、そもそも 道の真ん中で待ってる車はウィンカーを見ていないから、その「間違い」は、結果に 何の影響も与えられない。

料金先払いの、食券制度の食堂ルールと似ているけれど、これだとまだ、 食堂側の判断、相手に「おいしい」ものを提供するのか、「まずい」ものを 提供するのか、コミュニケーションに判断要素が残ってしまう。

相手の進入経路みたいな、相手のやりたいことに欠かせない何かをこちら側が持つことと、 「田んぼのあぜ道」みたいな見通しのよさというのが、何かヒントになっている気がする。

高信頼性が求められるような状況が増えてきている昨今、「過誤が無意味化する構造」 という考えかたは役に立つと思う。

2008.05.27

貨幣がもたらす秩序

中国の被災地で、援助物資の横流しを行っている人がいるとか、 市民による略奪が起きたり、被災地は暴動寸前だなんて報道を見た。

「貨幣」というものは、あるいは秩序をもたらすのかもしれないなんて、ちょっと考えた。

災害現場に銀行を作る

今のやりかたは、軍隊だとか政府機関が、援助物資と一緒に現場に入って、 被害にあった人達を集めて、物資を均等に配る。政府側の人にだって限りがあるし、 被害にあった人達だって、ほしいものとか足りないものとか、みんな違うだろうから、 時間はかかるし、「配る側の公平」と、「もらう側の公平」とは、絶対に一致しない。

物資は全て「もらう」ものだから、お互い買えないし、市場がないから交換も難しい。 10人ぐらいで集まって、「うちはミルク要らないから、代わりに毛布下さい」だとか、 お互い持っているものの価値が分からないと、たぶんやりにくい。

「市場」と「銀行」は、あるいは混乱した現場に「公平」と「秩序」とを もたらして、物資を上手に回すインフラとして機能するような気がする。

状況が一段落した頃を見計らって、政府がその場所に、「銀行」と「市場」の設立を宣言するようなイメージ。 戦後日本の「闇市」が相当近いかも。

援助物資なんかは、最初から「分配」をあきらめて、その代わり、スーパーマーケットよろしく それをまとめて「販売」する形式。もちろん現場にはお金なんてないから、同時に「銀行」を 設立して、被害にあった人達にお金を「貸し付ける」か、あるいはベーシックインカム制度みたいに、 一定金額を配分する。

貨幣が自制を生む

「平等に取る」じゃなくて、「選んで買う」のやりかたのほうが、たぶん「各自が必要なだけをとる」やりかた、 自制心みたいなものを引っ張れる気がする。

軍人が大挙して「平等」を実現したところで、自家用車に避難できた人には、とりあえず天幕は要らないし、 家族が多かったり、何軒か仲のいい家どうし、共同で生活していけるところなら、いくつかの物資は 共同で使うこともできる。

買うやりかたは、別にその場にいる人が互助の精神に目覚めたりするわけでなくて、 みんな「今は使わないで、将来のためにとっておく」なんて、利己的な欲求に従っているだけなんだけれど、 得られる結果は一緒。足りてる人は少なくもらうし、何もかも足りない人は、 「銀行」からお金を借りて、その分多くのものを購入できる。

「マーケット」はひとつ。マーケットに近い被害者は、たぶん「定価」で品物を購入できるし、 余力のある人はお金を借りて、たくさんの援助物資をリヤカーに積んで、離れたところまで「行商」にいける。

マーケットから離れたところの被害者は、だから利ざやの入った高額な品物を購入するか、 あるいはマーケットまで歩いていって、そこで「定価」で購入できる機会を待つことになる。

少なくとも「その場にいる人」がにわか商人になって分配に参加できる分、全てを政府機関が分配するやりかたよりも、 援助物資の拡散は速くなるような気がする。もちろん不当な利益をせしめる人だってでてくるのだろうけれど、 政府の「マーケット」が定価を決めている限り、その場の相場は保証されるし、NPOみたいな機関が 入ってきて、別ルートでの援助物資を安価に「販売」することを始めれば、相場は下がっていくはず。

すごく不公平なやりかたではある。被害の状況にしても、マーケットからの距離にしても、それは完全に「運」だから。 運がよかった人は、上手く立ち回れば大儲けできるし、運が悪かった人は、どうあがいても借金の山。

「運」要素についてはだから、別途政府で保証を行って、それまでは、現場に作った「銀行」が、お金を貸し付ければ いいのだと思う。政府のお仕事なんてどうせ遅いから、「何かを決めてから実行する」よりも、 とりあえず借金でもいいからマーケット回して、政治タームのお仕事は別のところでやってもらったほうが、 たぶん助かる人増える。

人が人でいられるルール

それが仮に災害現場であったとしても、人はやっぱり人でしかいられないのだと思う。

阪神淡路大震災の現場なんかですら、臨時に作られた救急外来には、「眠れない」だとか 「何となく具合が悪い」、「お腹がすいた」だとか、当面の生死には直結しない主訴を訴える人だって たくさん来たそうだし、なんだかよく分からない症状を訴える人が入院希望で来院して、 カップラーメンを「処方」したらすぐに全快しただとか、極限の状況であっても、 制度をおいしく利用する人もいれば、どんなに制度を充実させても、 それに到達できないで亡くなる人だって、やっぱりいる。

災害現場に居合わせた人が、災害が発生したその瞬間から、聖人君主になって互助の精神に目覚める なんてことはなくて、病院にはやっぱり「ノイズ」選別の問題、全てのサービスを無償で 提供したときに発生する、モラルハザードの問題がつきまとう。

平等とか、正義が好きな人というのは、何だか「困っている人は無垢でなくてはいけない」なんて信じてる。

災害に遭遇した人は、かわいそうな人だからこそ「平等でないといけない」なんて 信じられるし、彼らは「無垢」でないといけないから、援助物資で商売を始めたひととか、全力で叩かれる。

援助物資でお金を儲ける人というのは、たしかにずるく立ち回っているのだろうけれど、 あれだけ悲惨な現場にいてもなお、手に入る物資を集めて、自らの時間を使って、 それを他の人に配分しているとも言える。もちろん不当に高い対価を取ったりしているんだろうから、 「相場」は政府が介入すべきだけれど、彼らは少なくとも手を動かしていて、 動機はともかく、状況をよくすることに寄与している。

あの人達を「悪人だ」なんて射殺したら、平等とか「かわいそう」好きな人達の気は晴れて、そこは平等な社会に 近づくのかもしれないけれど、曲がりなりにも分配されていた援助物資は、たぶんそのまま 放置される。

「お金のない平等な国」、クメールルージュ時代のカンボジアでは、だから物資が公平に足りなくて、 目の前に椰子の実が転がっているような、それでも食べ物がまだ残っている原生林の中、 食べ物を目の前に餓死する人がたくさん出た。

平等ルールとか、トリアージの考えかたが本当に役に立つ、あるいは市場ルールが全く通用しない状況というのは、 サービスの受け手に判断能力が期待できないケース。子供だとか、災害現場のトリアージだとか。

START法みたいな災害トリアージのやりかたには、患者さんとの会話が想定されていない。 息をしているかどうか、歩けるかどうか、循環は確保されているのか、そんなものを見て、患者さんの重症度を決定する。 会話ができる人とか、そもそも「判断」が自分でできる人は、だから最初からトリアージの対象になり得ない。

判断ができる人達を相手にできるなら、たぶん「市場」とか、「経営」の考えかた、人が人のままいられるルールは、 きっと役に立つと思う。

2008.05.24

分配と経営

何とかしないといけない状況があって、そのときに何も考えないのは最悪で、 一人のリーダーが状況を仕切るやりかたは、「頭一つ」分だけまし。

一番いいのは「みんなで考える」やりかただけれど、それをやるのは案外大変。

アイデアというのはサボると出なくて、絞り出す、引きずり出すようなやりかたしないと出てこない。

状況を乗り切るために「みんなで考える」やりかたは、だからあんまり快適じゃなくて、 むしろ思考を引きずり出される側の人にとっては、しばしば不快ですらあるんだけれど、 「状況を乗り切る」目的達成するためには、援用できる思考リソースは、 きっと多ければ多いほど、いい結果に結びつく。

分配と経営

助けを必要とする人がたくさんいて、提供できる手の数は限られる。 有効な助けを出すためにはリソースの集中が必要で、不十分な助けというのは、 慰めにはなっても、結果につながらない。

こんな時に「みんな平等」をやると、みんなに「不十分」が行き渡って、 投入するリソースは、全部無駄になってしまう。

誰か有能なリーダーを投入して、限られたりソースを正しく分配できれば、 今度はたぶん、十分な助けを得られる人と、全く助けが得られない人とが出る。またもめる。

平等とか、分配の考えかたは、「相手には能力がない」ことを前提にしている。

「平等」ルールを回すには、そもそも誰の思考も必要としないし、リーダーによる分配もまた、 リーダー一人が考えて、それ以外の人達には、思考したり、手助けしたり、そんな能力が 最初から期待されていない。

「限られた」リソースは、状況によっては増やすことができる。

「経営」を考える人達は、サービスの受け手に「能力」を想定する。その人達の考えかたとかアイデア、 あるいは「手」それ自体をも利用して、限られたリソースを増やす仕組みを考える。

手を増やす

状況さえ選べるならば、「手」を増やす方法はある。

島の病院ではご家族が付き添ってくれるから、検温だとか、患者さんの経過報告だとか、看護師さんとか、 あるいは医師の能力をずいぶん肩代わりしてくれる。それができるのは、もちろん島の失業率が高いだとか、 「島にそこしか病院がない」からこそ、医師があんまり信用されなくて、付き添いながらも 「監視」されてる面もあるとか、いろんな理由はあるんだけれど。

キリスト教系の某病院は、「看護への家族参加」をうたっていて、おむつ交換とか、体位交換とか、 そんな業務は、付き添いの家族が主役になる。看護師は、やりかたを教えたり、介護の相談に乗ったりして、 主役はあくまで患者さんなんだという。

10年ぐらい前の話。今そんなことが通用するのかは分からないけれど、その病院ではだから、 看護師さんの業務がある程度軽減されて、その一方で家族はその施設への長期入院をいやがって、 医療者がゴリ押さなくても、病棟の回転がよかったらしい。

もちろん災害現場トリアージの時に、茫然自失のけが人に向かって「ほらあなた軽症なんだから手伝って下さい」 なんてやるのは無理だし、そもそも「今すぐ」何とかする状況が求められてるときには、 たぶんどんなに巧妙な制度設計を行ったとしても、「みんなの意見」を集めることなんてできないんだけれど、 そこまで絶望的な状況というのは決して多くはなくて、状況を「経営」するチャンスというのは、 探せばきっと多いはず。

小児医療の手が足りなくて、今現場に「トリアージ」を導入しようなんて気運が高まってる。 それをどれだけベテランの医師が行ったとしても、外来で待ってる親御さんに、 「あなたの子供は軽症なんだから3 時間待ちなさい」をやったら、やっぱりトラブルになるし、 子供も親御さんも、3時間もの間、黙って待つことしかできない。

夜間の小児科医療費を明日から10倍にしたら、元気はあるけれど熱のある子供の親御さんは、 たぶん子供の額に氷枕を当てて、自宅で朝を待つ。「10倍」ルールはただの受診抑制手段だけれど、 親御さんに「病気の価値判断」を要請して、結果としてたぶん、氷枕持った親御さんの数だけ、 限られてたはずの小児医療に、「手」を増やす。

現場を無能にするルール

心筋梗塞の患者さんが紹介された。既往もリスクもそろっていて、「動悸がしてめまいがする」なんて、 もう話聞いただけで心筋悪そうな患者さん。

「最初から心臓の専門施設を紹介したほうがいいんじゃないでしょうか? 」なんて水向けたら、 「症状は頭が中心だから、貴院のほうがいいと思います」なんて、ありえない返事。

救急車来て、紹介状開いたら「心筋梗塞の患者です。御高診下さい」。心電図添えられてて、 自動診断装置が「心筋梗塞」なんて診断してた。

その先生は要するに、もちろん全部分かってて、急を要する状況に対して正しく振る舞って、 にもかかわらず、自分に電話くれるときだけ「無能」になった。たぶん自分で大きな施設に電話するの 面倒だから、知能障害おこしたふりして患者さん投げた。

うちでは心カテできないから、患者さんは専門施設に搬送してもらったけれど、 忙しい午後、連絡したり同乗したり、2 時間以上持って行かれた。

このあいだ、外来で「胆石」を診断した産科の先生が、搬送先探すのに、 都市部なのに何軒も断られたとか記事にしていた。「外科だけれど胆嚢やってません」だとか、 「まずは内科に」だとか、理由はいろいろ。つまるところは「私には能力ありません」という宣言。

こんな時の最適解は、残念ながら、紹介する医師が「もっと無能になること」で、 この場合なら、「胆石」なんて診断つけないで、「お腹痛がってるんだけれど私馬鹿だから分かりません」なんて、 自分の「無能」を訴えればいい。高次施設は患者さんを受け入れざるを得なくなる。

能力見せると損をする。本当に馬鹿な話なんだけれど、今のルールは「無能」であることに罰則がなくて、 判断をするごと、能力を行使するごとに責任が発生して、残念ながら、能力を見せても見せなくても、 報酬はあんまり変わらない。

現場はだから、能力あって先が見える人から「無能」を宣言して、そんな人達は「隠れたニーズ」とか 勝手に掘り起こしては、やっかいそうな人をこっちに投げる。「能力ある」なんて一方的に認定された、 本当は経験年次も能力も、「能力ない」宣言した人に比べてはるかに劣る自分たちは、 「能ある無能」に食い尽くされて、現場はますます疲弊する。絶対間違ってる。

経営してほしい

行うべきは「トリアージ」なんかではなくて、やはり「経営」なのだと思う。そもそも足りてないんだから。 何万人もいる医師の集団は、未だに「経営」されていないから、リソースは「限られた」ことになって、 分配のやりかたばっかりが議論になるけれど、本来はたぶん、経営して増やすこと考えないといけない状況。

たとえば「紹介」という行為を1 回行う際に、一律100万円程度の紹介料を徴収するルールを設定するだけで、 最初に患者さん診た開業医の先生には「紹介の価値」を判断することが科せられる。

その価値があると判断されれば、その先生はお金をかぶって患者さんを紹介するだろうし、 正しい信頼関係が作れていれば、あるいはその医師が有能ならば、 「命の報酬」は、患者さんから受け取る手段を考えればいい。 あるいは自分のクリニックで患者さんを診察するなら、もちろん紹介料は発生しない。

全ての医師が「判断」を求められて、紹介料の価値が上がれば、今度は「有能であること」に 経済的な動機が発生する。本来有能な人達は、たぶん無能であるふり止めて、 きっと本来の能力を見せてくれるはず。

みんなで考えて、考えた結果として、足りない現場に「手」が増える。

「みんなで一緒に考える」社会というのは、だから本来的に苦しくて、 誰もが「能力を出す痛み」から逃れられない。

「みんな一緒で平等」という考えかたは楽だけれど、それは「みんな無能」を前提にした安楽。 「みんなで一緒に考える」、経営は、その「みんな」の能力を前提に、痛むことを強いる考えかた。

「平等」よりも「経営」のほうが、よっぽど人間的だと思うんだけれど。

2008.05.22

狭帯域メディアのこと

物事に対する理解が深まったのなら、本来はたぶん、考えかたを伝達するのに必要な 帯域幅が狭まっていかないといけない。

理解の深さに比例して、学ばなくてはいけないことが増えていったり、あるいはいつまでも 過去の資産を学び続けないと使えないようなメディアというのは、その分野が「エンジニアリング」と呼べるほどには 成熟していないか、あるいはその分野が「メディア」として選択した何かが、そもそも コミュニケーションを担えるだけの能力を備えていないのだと思う。

メディアとしての処方箋

慣れた医師同士が処方を交換するような状況では、 「紹介状」と「処方箋」との境界が曖昧になってくる。

病院を変わる。その患者さんの病名とか、経過とか、詳しく書いた紹介状が来る。 患者さんはたいてい、前の病院でもらっていた薬とか、処方箋なんかを一緒に持ってくる。

本来はもちろん、患者さんを受ける側の医師は紹介状を読んで、その患者さんを診察して、 その医師が患者さんを判断して、新しい薬を処方する。

現場で外来を回しているとき、この流れに乗っかることはほとんどない。 たいていの場合、まずは処方箋を「読んで」、とりあえずは前医の処方を継続して、 ある程度人間関係ができてから、「こうしませんか? 」なんて、処方に自分の判断を加えていく。

処方箋はいろんなことを語る。

紹介状は、もちろん日本語で書けるものなら何でも書ける媒体なんだけれど、 公開情報だから、患者さんにだって読まれてしまう。 「この人はマナーにうるさいから気をつけて下さい」だとか、 「どんな薬出しても、最初は合わないなんて文句言います」 だとか、患者さんをおとしめるようなことは絶対書けない。たまにそのまんま書く先生いたりして、 患者さんの目の前で紹介状の封切って、見せるに見せられなくて冷や汗かいたこともある。

処方箋に記載できるのは、もちろん薬の種類だけ。ところが処方箋は、医師が書いて、医師が読む。 もちろん誰だって読める情報だけれど、医師は医師同士、お互い持っているバックグラウンドの情報量が 極めて多いから、薬の種類しか書いてない処方箋から、いろんなことを読みとれる。

「この人はたぶん、薬の変更にうるさいんだろうな」とか、「この人はたぶん、 いろいろ細かい訴え多くて、薬減らすと怒るんだろうな」とか。

交響楽団なんかで楽器を弾いている人達は、ラジカセから流れるチープな音楽と、楽譜さえあれば、 高価なオーディオセットを使う素人よりも、はるかに多くの情報をラジカセから引き出す。

「処方箋というメディア」の帯域幅は、文章メディアの紹介状に比べて極端に狭いけれど、 「医学知識」というバックグラウンドさえ共通ならば、狭い帯域幅しか使えなくても、 それを通じて莫大な情報をやりとりできる。

「ボタンとハンドル」のコミュニケーション

「マリオカート」は、言葉の壁を越えるために、あえてチャット機能を搭載していないのだという。

見知らぬ誰かとレースしながら、同時に会話ができたら何となく楽しそうだけれど、 その機能を使うには、今度は「相手の言葉をしゃべれないといけない」なんて制約がつく。 レースがいくら上手になっても、言葉がしゃべれなければ、コミュニケーションは深まらないし、 言葉がどれだけ上手になっても、レースが下手なら、たぶん上手な人とは友達になれない。

「ゲーム」と「言葉」は、お互いが独立していて、言葉はゲームの本質を担う媒体になっていない。 おしゃべりしながらのレースはきっと楽しいのだけれど、その機能を付加して得られるものは、 もしかしたら案外少ない。

「アクセルボタンとハンドル」というコミュニケーションメディアは、言語というメディアに比べると、 表現の幅は圧倒的に狭いけれど、それでもたぶん、「マリオカート」をやり込んだ人同士なら、 ハンドル操作とボタン2つで、相当深い「コミュニケーション」ができる気がする。

高校生だった頃、ゲームセンターにはナムコの「ファイナルラップ」という、通信対戦ゲームの 先祖みたいなものがあった。今から見れば、本当にチープな画面で、コースだって 鈴鹿サーキットしか選べなかったけれど、当時はずいぶんやり込んだ。

「通信できる」という言葉の意味は、レースをやりこんでいくに従って、だんだんと変わっていく。 始めたばっかりの頃、クラッシュしないでコースを回るのに必死だった頃は、 もちろんコミュニケーションを自覚する余裕なんてないんだけれど、 コースを覚えて、しばらくすると、カーブごと、状況ごとの基本操作を体が覚える。

たとえばそれは、「鈴鹿のヘアピンを1番車で曲がるときには、時速183km が限界」だとか、 「ダンロップコーナーくぐったら、インベタからすぐブレーキ踏まないと、シケインクリアできない」だとか。

1 コインで当たり前のようにクリアできて、そこから先の領域、昨日は200kmでコースアウトしたこのカーブを、 コース取りを変更したら、どこまでブレーキ遅らせられるだろうなんて考えるようになった頃、 はじめて周囲が見えてくる。

前を走る誰かの車が、「ここはインベタだろ」なんて思うところでコース開けてたり、 自分だったらアクセル抜いてるような状況で、フルアクセルでカーブに突っ込んでみたり。 それは自分が知らない、新しいやりかただったこともあるし、実はそれは「作られた隙」みたいなもので、 そこに自分が突っ込んでみたら、フルブレーキされて車潰されたり。

レースゲームはいつの間にか、格闘ゲームみたいな空気になって、見知らぬ人間同士、みんな子供だったから、 もちろん喧嘩寸前の不穏な空気になってばっかりなんだけれど、 あれはたしかにコミュニケーションだったし、お互い隣に座った日本人だったのに、 言葉なんて必要なかった。

「病名」探すことに意味あるんだろうか

内科限定で話をすれば、「医師」という仕事の目標は、「症状を抱えてきた患者さんに薬を渡すこと」。 「治癒」というものは、どうしても最後は確率論だから、それ自体を目標にするのはちょっと厳しい。

治癒も遠いのに、そのはるか手前、「病名」あるいは「診断名」というものの価値が、 やっぱり未だによく分からない。

それが「処方」なら、お互いの医療の知識が増えるほどに、処方箋を通じたコミュニケーション、 相手の医師が考えてることとか、外来での患者さんとのトラブルやら、その回避だとか、 いろんなことが想像できる。「処方」はだから、医療に対する理解の深度と、そのメディアを使った コミュニケーション深度とが比例している。そのことはたぶん、「処方」というものが、 医療を担うメディアとして十分な能力を持っている証拠みたいなものになっている。

ところが診断書に書いてある「病名」をいくらにらんでも、何も浮かばない。

研修医が病名見ても、すごいベテランが病名にらんでも、やっぱりそこには病名しか書いてなくて、 その診断名に至った医師の考えかただとか、苦労だとか、何も浮かんでこない。「思い」を共有して、 前の医師とのコミュニケーションを図るためには、結局のところ、診断という行為を全てやり直さないといけない。

それが病名であっても、処方であっても、メディアとしての言語から見れば、 はるかに限られた単語しか選べない、ごく帯域の狭いメディアであることには変わりないんだけれど、 「病名」というメディアは、何かを極めることで、そこにより多くの情報が載っかっていく、 コミュニケーションを担う媒体として、何かが欠けている。

エンジニアリングとしての医療が成熟していけば、本来理解はより容易になるし、 より少ないリソースで、今までと同じ結果を生めるようになれないと、やっぱりおかしい。 それはたぶん、医療がエンジニアリングとしてまだ成熟していないのか、 医療を理解するメディアとしての「病名」には、そもそもそれだけの能力がないためなのか。

医療というメディアを理解するやりかたとして、「病名」を捨てるやりかた、 病名ごと、臓器ごとの分類ではなくて、「抗生物質が効く疾患」だとか「輸液が必要な疾患」だとか、 「処方」で分類した教科書が書かれてもいいんじゃないかと思った。

2008.05.21

公平の対価

倒れてきた建物に挟まれて、身動きがとれなくなってる人にカメラが集まって、動けないその人を、ずっと取材していた。 レポーターの人は携帯電話を差し出して、その人に「今誰かと話したいですか?」なんて尋ねて、電話渡されたその人は、 どこか離れた町で出産を待っている奥さんと、「君と暮らせて幸せだった」とか、そんなことをしゃべってた。

その人はそのまま、カメラマンに助けられるわけでもなく時間は過ぎて、息も絶え絶えになった頃、 人民解放軍の救助隊がその人を助けてた。大腿部の圧迫がひどくて、恐らくは筋の挫滅がひどいんだろうな、 なんて思いながらテレビ見てたら、その人はカメラの前で亡くなった。

バックグラウンドに昔風のメロドラマみたいな音楽が流れて、レポーターの人は芝居がかった仕草で遺体をなでて、 「奥さんの出産もうすぐだと言ってたじゃないですか」とか、しゃべってた。

日本の報道もいいかげんひどいと思うけれど、中国の放送局もまた、相当なもんだなと思った。

公平のこと

中国当局の方針だとかで、地震の映像は本当に悲惨な現場は放映されないし、 テレビでは、連日のように「奇跡の救出」なんて、人民解放軍の活躍をたたえる映像が流れてる。

現場に関係ない、外野からそれ見ると、やっぱり不公平だなと思う。4万人亡くなって、 人民解放軍がどれだけ精鋭そろえたところで、たぶん現場の人的リソースは全く足りなくて、 救助しても助からなかった人とか、そもそも救助隊に目の前素通りされた人とか、 たくさんいるはずなのに。

現場とは無関係な、無責任な立場の人ほど、きっと「公平な事実」を知りたがる。

奇跡的に助かった人。助かったけれど病院で亡くなった人。救助隊が誰か助けたあおりを受けて、 ケガをしたり、最悪亡くなってしまった人。もちろん、再挙から救助の手を待つことなく亡くなった人。 全部をありのままに視聴して、「今後の参考にする」とか、その人が「参考にした」ところで、 その思考が絶対に何かに生きることなんてない、そんな人ほど、考えたがるし、知りたがる。

放送局の人達が、全てをありのままに、上手くいったケース、失敗した、 あるいは手が足りなくて何もできなかったケースを、 そのまんまの頻度で報道したら、現場はきっと、そんな報道を「不公平だ」と感じる。

そもそもが絶望的な状況に、失敗覚悟で命張ってて、「公平な」報道されて、 人民解放軍は失敗ばっかりなんて評価されたら、温厚な自衛隊員でも怒り出す。

投票箱から見える世界

ニュースの流れで道路の話題になって、「道路族」の人達がインタビューを受けてた。

「国民の大多数は、やっぱり道路を望んでる」なんて、 全国民を敵に回すようなことを答えてた。

自民党の元幹事長だったか、やっぱり支持者の集会にテレビを入れて、 「道路の方針は曲げません」なんて、絶賛浴びてた。

ニュースステーションあたり見て、古舘伊知郎の言葉にうなずくような「世間」の大部分は、 たぶん道路なんて望んでないけれど、インタビューに答える道路族の人達から見た世界には、 何だかそんな「世間」なんて、存在しないみたいだった。

実際問題、道路族議員の人達は、テレビの前ではああ言うしかないんだろうなとは思う。

政治家は、選挙で票を集めて、議員になるのが仕事の始まり。どんなにお金をかき集めようと、 たぶん「票」は誰にでも平等。何よりもまず、「票」につながる振る舞いをしないと、議員でいられない。

道路に投じられるお金で生活する人達は、たとえば全国で300万人ぐらいしかいないのかもしれないけれど、 その人達はたぶん、自分たちの仕事が「利権」だなんて叩かれてるからこそ、雨が降っても選挙に出向いて、 自分たちの生活を守ってくれる議員に投票する。

道路族議員の人達は、だから国民の9 割を敵に回しても、残る300万人の支持を勝ち取れれば、 たぶん相当高い確率で、次も議員になれる。

国会議員にとっての「現場」は、国会議事堂よりもむしろ選挙の戦場であって、 そんな「現場」においては、「頼れる300万人」は、頼りにならない残り1億余人の支持よりも、よっぽどありがたいはず。

公平な視点にはお金がかかる

少し前、霞ヶ関キャリアだった人達が外資系企業に転職しているなんてニュースがあって、 年間の報酬が6500万円だとか、インタビューに答えてた。

その報酬は、もちろんその人が官僚だったときよりも高いんだけれど、外資に勤めたその人は、 それだけの報酬を手にして、はじめて「国家のために働く意志を持った」とか、今は 外資系企業にいながら、それでも日本の国益のことを思いながら働いているとか、そんなことを 答えていた。

たぶんこの6000万円を超えたあたりが、「公平」の価格なんだと思う。

マスメディアは偏る。誰だって自分が見たいものしか見たくないし、メディアの人達もまた、 自分たちが撮影した「絵」を販売して食べてるんだから、お金も支払わないで、 彼らに「正義」とか「公平」を要求するのは筋違いだし、たぶんたいていの場合、 たとえば医療従事者が「公平だ」と思った報道は、きっとそれを見て「偏ってる」なんて不満に思う人を作り出してる。

政治家だって偏る。あの人達はもちろん、選挙に落ちたらただの失業者だから、 それがどんなに公平で正しいことでも、選挙を支持してくれる人を敵に回すようなことは、 口が裂けたってしゃべれない。

NHKみたいな国営放送ですら、たぶん「偏り」から自由になれない。彼らだって視聴率が気になるだろうし、普段誰もほめようとしないから。

公平だけ要求するのに手を貸さない、正義の志だけは高いのに、 自分たちのことを「マスゴミ」とかけなすのに、 取材お願いしてもむげに断るような人達の味方になんて、絶対にならないだろうなと思う。

「公平な視点」というものは、あらゆる「現場」に対して無責任で、無関係な立場になれないと、たぶん身につけることはできない。マスメディアの人達とか、政治家の人達に、超越的な、全国民にとって公平な視点を持ってもらうためには、だから視聴率とか、罵倒の声とか、 ごく遠い世界の雑音にしか聞こえないぐらい、高い報酬支払うしかないんだと思う。 それこそたぶん、一人あたり6000万円ぐらい。政治家に「公平」求めようと思ったら、 もちろん選挙で落ちたときの収入も。

「公平な報道を」なんて、ありえない「公平」を振り回すやりかたは、なんかウソっぽい。 「自分たちにもっと偏向した報道を」なんて求めるやりかた、 露悪的だけれど、「公平はありえない」から出発するやりかたしたほうが、 何だかよほど公平に近い気がする。

2008.05.19

正しさは市場に決めてもらったほうがいい

昔研修していた病院は、400床規模の施設に医師100人あまり。 臨床研修を行う病院としては、決して規模の大きな施設では なかったけれど、総合病院を名乗ってた。

今いる病院は、300床に対して医師10人。専門外来は、 大学の先生に来ていただいているけれど、カテ室が必要な患者さんだとか、 放射線治療が必要な患者さんだとか、一部の患者さんを除けば治療できるし、 人工呼吸器が必要な患者さんとか、それなりに重症の患者さんもいるけれど、何とか回ってる。

人数は1 割になったけれど、労働時間はむしろ少なくなった。

研修医の頃とか、大学病院で働いてたときとか、夜の10時に病院から帰れれば、 それは速いぐらいだったけれど、そんな頃を思えば、今はずいぶん速く帰れる。 当直だって、昔は月に10回が当たり前だったけれど、今は片手に余る。

医師の平均経験年次が圧倒的に違うから、もちろん単純比較なんて できないんだけれど、昔研修させてもらった、「正しい」医療を売りにしていた病院は、 「正しさ」故にずいぶんと無駄が多くて、あれだけ人がいたわりには、 それでもやっぱり忙しかった。

正しいやりかたのこと

昔の病院には「すごく正しい」医療を実践する先生がいた。

外来で患者さんを診察するときは、相手が満足するまできちんと話を聞いて、 どんな訴えの人であっても、頭の先からつま先まで、手を抜かずに 診察をしておられた。

もちろんその裏では、「正しくない」医療をするスタッフが、必死に外来をさばいてた。

前の病院には夕方診療という制度があって、午後の5 時から7 時まで、 スタッフの先生方が交代で、主に初心で来た患者さんの外来診療を行う。 いつも50人ぐらい来る。

「正しくない」先生が外来をやると、50人待ってた患者さんは、7 時になると ほとんどいなくなる。正しくない人達は、隙を見つければ手を抜くから、 最後のほうになると、片端から血液検査を出す。7 時になって、夕方診療の 患者さんを引き継いだ当直医は、あとは検査の説明をして、患者さんに帰ってもらう。 データ読むだけだからすぐ終わる。

「すごく正しい」先生は、どんなときでも正しいやりかたを貫く。

50人待ってた患者さんは、7 時の時点で20人も進んでなくて、 当直が外来に降りる頃には、2 時間待たされて仏頂面した患者さんが列をなしてる。

2 時間待った患者さんは、もちろん2 時間分話を聞いてもらわないと満足しない。 外来はだから9 時になっても終わらなくて、当直は泣き顔になる。

正しい先生はいつも正しくて、正しく診療して、7 時になると、そのまま帰る。

夕方診療のルールは紳士協定で、7 時まではスタッフの時間、それ以降は当直の時間と きっちり分かれてたから、その行動もまた「正しい」のだけれど、その正しさ故に、 その人と組む当直は、いつもとんでもなく大変だった。

丁寧に診ると悪くなる

今いる施設は、それでもやっぱり忙しいから、落ち着いてる患者さんは、 みんな3ヶ月処方。心不全の人とか、「具合悪かったらすぐ来て下さいね」なんて 予防線張ってるけれど、それでも90日ごとに外来に来てもらって、 時々レントゲン撮ったり採血したりする以外は、ほとんど挨拶だけ。 たぶん3 分かかってない。

フォローしている患者さんは、時々近隣施設に戻る。紹介状書いて、「安定してます」なんて 書いたはずなのに、なぜだか患者さんは重症扱いになる。

3 ヶ月ごと、挨拶だけしかしてなかった外来は、2週間ごとの詳細な診療を受けるよう、変更される。 薬も増えて、処方が複雑になる。何だかやたらと丁寧に診療された患者さんは、 時々具合が悪くなって、また戻ってくる。

何とか立ち上げて、紹介状書くの面倒だから自分で診てると、 そのうち「うちでフォローします」なんて依頼が事務経由で入って、 患者さんはまたまた「重症」扱いに戻る。

自分なんかは単純にサボりたいから、診療間隔開けて、診察しないで検査ばっかり。 検査データ見て「大丈夫みたいです」なんて、ステレオタイプ化した「馬鹿な医者」の 見本みたいな外来続けてるけれど、案外大丈夫。

診療間隔を詰めること、丁寧な診察を行って、「不必要な」検査を省くこと、いろんな症状を問診して、 薬をたくさん増やすことは、たしかにそれは「正しく」て、 あるいは患者さんもそれを望んでるのかもしれないけれど、 それを「医師のあるべき姿」とか、強要しないでほしい。

「正しさ」の判断は市場に任せてほしい

初心者とベテランとで大きな差が出て、そのわりにはたぶん、「なくても大丈夫」と思ってる、 「診察」という行為それ自体を、まずは保険診療の枠から外してほしいなと思う。

乳腺外来とか、整形外科とか精神科の外来とか、「診る」ことが絶対に欠かせない科だって たくさんあるけれど、あれは「診療」と言うよりも「検査」の領域。 内科領域で、特に「診断」を探す過程の中での「診る」行為は、 「正しい」医師が強調するほどには、もはや大切なものではないような気がしている。

世界中で発売されている教科書は、もちろん「問診」と「診察」に重きを置いていて、 「まずは検査から」なんて考えかたは邪道もいいところだけれど、実際問題、 「正しい」医療を行う先生がたの陰には、たいてい「正しくない」なんて馬鹿にされる人達がいて、 その人達はたぶん、「正しい」人達よりも、ずっと多くの患者さんを回すし、馬鹿にされてるほどにはたぶん、 診療成績だって変わらない。

医師足りないとか、医療費足りないとか言われているけれど、「正しさ」目指すの止めるだけで、 効率はずいぶん上がる。ところがそれは「正しくない」から、確実さが求められる今の時代、 みんなが「正しくない」のに「しかたがない」なんて考える、検査ばっかりのやりかたは、 いつまで経っても裏道で、ちゃんとした検証を受けられない。

「診療」みたいに定量的な検証が不可能なものは、だからこそ、市場に検証をゆだねてほしいなと思う。

診療報酬を「ゼロ」にして、機械を用いない診療に対しては、別途自費での対価徴収を許可してくれれば、 きっと面白いことが起きるはず。自分みたいなのはさっさと「診療」を見限るだろうし、 「正しい」医療をする人達、長い時間をかけた、丁寧な診察を必要なものと考えていて、 なおかつそれが生み出す利益は、患者さんに欠かせないと考えている人達は、 丁寧な診療を行って、その費用を請求すればいい。

丁寧な診察に対して、みんなが喜んで対価を支払うなら、「診療」は市場に支持されて、 技量の高い医師が経営するクリニックは成功するだろうし、診療の価値が市場から 評価されないのなら、今度はたぶん、報酬が支払われる「検査」を組み合わせて、 医師がなるべく手を動かさないで患者さんを治癒に導くような、そんな方法論が 「正しさ」を主張できるはず。

診断技量を向上した先にも「安全」は見えてこなくて、「身を守るためのマニュアル診療」というやりかたが、 個人的には結局正解なんだと信じてる。伝統的な、「正しい」やりかたを見直すきっかけとして、 たぶん一番簡単で、実行に移しやすいやりかたというのが、「診療報酬の撤廃」なんだと思う。

2008.05.16

「絶対効かない薬」はよく売れる

一番いいのは「必ず効く薬」だけれど、「絶対に効果のない薬」にも、たぶんそれなりの使いようがある。

効くのか効かないのかはっきりしない薬であったり、たいてい効くけれど、 時々効かない薬というのは、たとえ高い効果が期待できても、 「大事なお客さん」には怖すぎて、勧められない。

「うまい話」で失われるもの

学生の頃、中古車売買に詳しい人と知りあいになった。友達に、たまたま安い車を探している男がいたから紹介して、 なんだかいい車を安く紹介してもらえたとかで、喜ばれた。

友達の友達がそれ聞いて、「自分にも紹介してくれ」なんて頼まれて、また紹介した。

今度紹介された車は、どうも気に入られなかったみたいで、「友達の友達」の両親から、 うちの実家に連絡が入った。「おまえの息子は詐欺師か何かか !」なんて母親が怒鳴られて、 自分も同様に、母からえらく怒られた。

友達と、友達の友達と。「うまい話」を紹介して、全部失った。

高信頼クラスタのこと

医局のコミュニティとか、あるいはたぶん、資産をたくさん持っている 人達のコミュニティなんかでは、「うまい話」が広まらない。

「うまい話」それ自体は、たぶん多かれ少なかれ、誰もが持ってる。 「節税のためにマンション買いませんか?」なんて電話はうちみたいな田舎の病院にだって 毎週のようにかかってくるし、古い開業医の先生方とか、昔からの町の体制に がっちり組み込まれてるから、表も裏も知り尽くしてるような人もたくさんいるし。

みんな多少なりとも資産を持っていて、お互いの社会的なバックグラウンドとか、 それなりに信頼できる者同士だからこそ、「うまい話」を紹介するのには抵抗がある。

たとえそれが本当に「うまい話」であったところで、医師の世間なんてすごく小さいから、 お互いの距離が今まで以上に密になるメリットなんて、ちょっと想像できない。 その一方で、「うまい話」と紹介した何かが、 その人にとって「うまくない」結果になったとき、失うものはあまりにも大きい。

お互いのつながりが緊密なコミュニティでは、「うまい話」を紹介することで得られる利益と、 それが「うまい話でなかった」時に失うものとのバランスがとれない。

リスクはあるけれど得られるものは多い、そんな「うまい話」はだから、それがどんなに 大きな利益をもたらすものであったとしても、伝播する力が弱くて、広まらない。

「利益の大きさ」というパラメーターは、うまい話の「感染力」には貢献できない。

「絶対効かない薬」の効果

例えばそれは、「ホメオパシー」みたいな、ほとんど水そのものみたいな民間療法であったり、 あるいは「ホワイトバンド」とか「○○ちゃんを救おう募金」みたいな、 自分自身にはなんの利益ももたらさないことが、原理的に明らかなやりかたであったり。

そんな「絶対に役に立たない」ことが分かっている何かは、もちろん役には立たないんだけれど、 役に立つことが絶対にないからこそ、誰にでも安心して勧められる。

「必ず役に立つよ」なんて勧めて、その人の役に立たなかったなら、お互いの関係は、 やっぱり何だかぎこちなくなる。相手がすごい人格者なら、財産投じて不利益ばっかりの 結果になっても「気にしてないよ」なんて答えるかもしれないけれど、それを気にしないような 人間には、そもそもたぶん、失うことの不利益が大きな絆なんて作れない。「絶対」のないものは、 だから大切な絆の上には絶対に乗っからない。

「絶対裏切らない」ことを保証するのは難しい。その人がどんなに「絶対」を叫んでも、 医療みたいに、「腕」が確実な結果を保証できないようなサービスの場合、 どんなに頑張ったところで、「絶対」なんて保証できっこない。

「日本一まずいラーメン屋」は、まずい代わりに「絶対」を保証してくれる。 最初から「まずい」と分かっているものは、それにお金を払ったところで、もちろん失うものしかないんだけれど、 だからこそたぶん、そんなサービスはコミュニティに伝播して、多くの人が「まずい」を体験するために、 そのラーメン屋さんに列をなす。

不確実から確実を切り取るやりかた

富裕層向けの医療サービスは、たぶん「普通の」医療では広まらないから、成立し得ない。 ある人にいい結果を提供できたところで、その人から紹介された次の人に、 同じようないい結果を保証できないから。

医療は本来、不確実なものを相手にする仕事だけれど、そこから「確実」を切り取った人は、 ビジネスで大成功している。

横浜のガン治療医は、「末期ガン」の人だけを相手に治療を行う。そんな人達は、 何をやっても「必ず亡くなる」からこそ、結果が確実で、治療はコミュニティに伝播した。

内視鏡の権威だった先生は、そもそも病人でない、健康な人を相手に、 「ミラクルエンザイム」なんて薬じゃない薬を売っている。病気じゃない人に、 病気に効かない「薬」を売っているからこそ、あのビジネスは広まって、よく売れる。

自分たちみたいな、従来どおりの、不確実な医療を提供する側の人間もまた、「絶対」を 切り取るやりかた、「治癒」とか「診断」みたいな、不確実さから逃れられないものを 回避することを、もっと考えないといけないんだと思う。

「絶対」作って伝播したらお客さん増えて、ただでさえ忙しい外来がもっと大変になるかもしれないけれど、 今までのやりかた繰り返しているだけでは、そのうち誰かが新しい「絶対」見つけては おいしいところ奪っていって、一般内科なんて細る一方になってしまう。

不確実から「絶対」見つけるやりかた。考えれば考えるほど、産科とか小児科に進んだ人達には、 やっぱりなんの未来も見えてこないんだけれど。。

2008.05.15

赤い本が来た

サンフォードの感染症ガイドブック2008年版。毎年出版される感染症治療のガイドブックで、 版が変わるたびに表紙の色が変わる。今年は「赤表紙に黄色い文字」という狂った仕様。

  • 17ページ:旅行者下痢症に対して推薦される治療薬が、ラテンアメリカとアフリカ、アジア諸国とで分けられた:ラテンアメリカではフルオロキノロン、 アジアではアジスロマイシン
  • 18ページ:ホイップル病の治療薬としてクロロキンが取り上げられた
  • 25ページ:右心系の感染性心内膜炎治療薬として、「ダプトマイシンはバンコマイシンとゲンタシンの併用と同じぐらい効く」という記載が追加された
  • 35ページ:入院が必要な肺炎患者に対して最初に開始する抗生剤として、エルタペネムとアジスロマイシンの併用が記載された
  • 36ページ:ICU入室が必要な肺炎患者に対する治療に「喀痰、血液、胸水の培養と、尿中抗原検査をするように」という記載が入った
  • 38ページ:緑膿菌肺炎に対する治療に、「感受性があれば、セフェムやペネムを使ってもいいよ」と記載された
  • 38ページ:ペストの治療が追加された
  • 47ページ:MRSA保菌者に対する治療の項目が追加された
  • 49ページ:敗血症を伴った外傷の治療薬にセフトビプロールが追加された
  • 50ページ:ブドウ球菌による外傷敗血症の治療薬にセフトビプロールが追加された
  • 58ページ:CVライン感染の「救済」療法に、ミノマイシンによる「ロック」療法が記載され、従来のやりかたが削除された
  • 71ページ:腸球菌感染症の治療手段として、ロセフィンとアンピシリンの併用療法が記載され、セフトビプロールが追加された
  • 71ページ:MRSAに対する治療薬として、いくつか見込みのありそうな抗生剤が記載された
  • 85ページ:PIPC/TZ の使いかたについて、去年よりも推薦される使用量が増えた
  • 87ページ:ロセフィンの使い方について、2g を1 日かけて持続的に静注する方法が紹介された
  • 113ページ:多剤耐性結核菌の分類が、「多剤耐性」と「ものすごい多剤耐性」とに細かくなった
  • 117ページ:MACに対する治療が、もっと徹底的なものに改められた
  • 119ページ:やはりMACに対する治療で、「小児の場合、外科的な切除も効果的」という記載が入った
  • 123ページ:寄生虫に対する治療薬としてNitrazoxanide に言及している記述が入った
  • 127ページ:トリパノゾーマ症に対する治療に、新しい記載が追加された
  • 131ページ:神経有鉤嚢虫症に対する治療に、新しい記載が追加された
  • 135ページ:「マールブルグ出血熱のウィルスがコウモリから検出された」という記載が入った
  • 139ページ:「ベル麻痺」の治療手段としてステロイドの有効性が記載された
  • 142ページ:サル咬傷の時に見られるヘルペスB に対する治療で、「アシクロビル、ガンシクロビルの効果が薄いかもしれない」と記載された
  • 145ページ:パピローマウィルス、パルボウィルスに対して、「症状をとるための治療手段」が新たに記載された
  • 146ページ:抗RSV抗体パリビズマブによるRSウィルス感染の予防について、記載が加わった
  • 152ページ:HIV感染患者に対する治療が、今年の版で大幅に書き換えられた
  • 168ページ:胆道系手術患者に対する予防的抗生物質投与のやりかたについて、リスク予測のやりかたが、新たに追加された
  • 175ページ:暴露者の感染予防について、単純ヘルペスウィルス、アスペルギルス、カンジダについて、記載が変わった
  • 186ページ:子供の予防接種について、肺炎球菌と髄膜炎菌が、「6歳までに受けるべき予防接種」の項目に入った

記述があいまいなのは、ネタバレ回避…じゃなくて、翻訳に自信がないので。

昨年まで発売されていた半に比べて、頁数がわずかに増えている分は、ほとんどがレトロウィルス治療に関する 増ページ分。細かいレイアウト変更とか、一部の活字が太字に変更されているとか、去年までの判と比べて 全体に「見やすい」方向に変っているけれど、そもそもがものすごく読みにくい本だから、 編集した人の努力はあんまり実っていない印象。

1回の静注で24時間効くカルバペネム「エルタペネム」と、MRSA を殺せるセフェム「セフトビプロール」は、 両方とも日本にない薬。最近発売された新製品だからなのか、いろんな感染症で、こっそり推薦されていた。

書かなかったけれど、「これは妊婦に使ってはいけない」という但し書きが太字になって、 今まで記載がなかった薬について、わざわざ記載が追加されていた。どれもおそらく、 昔から妊婦に使ってはいけない薬だったけれど、こんな小さな本にも記載しないといけないぐらい、 たぶんそのへんがうるさく言われるようになったんだろう。

一応全頁比較したけれど、「抜け」があったら教えていただければ幸いです。

アップデートカンファレンスのこと

前働いて他病院には「アップデートカンファレンス」という制度があった。 カンファレンスを名乗っているのに研修医を対象にしてなくて、 忙しいスタッフの先生方が、新しく改訂された教科書を分担して、 一気に読んでしまいましょう、という主旨の講義。

一般内科の入門書だとか、感染症のガイドブックだとか、一般医家をやっていく上で 外せない教科書というのが何冊かあって、残念ながら、日本語の教科書には 優れたものが少なくて、「定番」なんて呼ばれるものは、全てが洋書。

誰だって英語を読むのは面倒だし、それなりに知識を持っている人にとっては、 「新しい」ことそれ自体よりも、むしろ「どこが変ったのか」、「どうして変ったのか」のほうが、 もっと大切だったりする。

アップデートカンファレンスは、だからスタッフの先生方限定で、 各専門家が自分の分野を分担して、出席する人は、その本を「読んでる」ことが 前提になっていて、「どこが、どんな意図で変更されたのか」だけが説明される。

研修医には、もちろんそのカンファレンスに出席する権利はあるんだけれど、 流れ読まない質問だとか、「分かるように説明して下さい」なんて要求する権利は 一切なくて、みんな時間を捻出して、読んでもいない洋書を開いて、 なんだかありがたそうな、分かったら、きっとすごく貴重なお話が耳から耳へ ただ流れて行くのを聞いていた。

スタッフの先生方もみんな散ってしまって、「アップデートカンファレンス」も、 自分たちが研修してた頃にはほとんど開かれなくなってしまったけれど、 今みたいな時代だからこそ、同じ教科書を共有して、記載された内容だけでなく、 筆者の意図とか時代の流れとか、そんなものを共有できる空間が、 どこかにできたらいいなと思った。

2008.05.13

「要するに」が社会を滅ぼす

「国家の運営」みたいな複雑なものを、指導者の人が間違った単純化に走って しまうと、虐殺が起きたり、あるいは単純化の犠牲なる人が増えるんだと思った。

伝記を読んだ

「ぽる・ぽと―ある悪夢の歴史」という、カンボジアの独裁者を扱った 伝記を読んだ。ポルポトは、虐殺者などではなく、ただ単純に、 「人を生かすことに対して無能な人物」に過ぎなかったのだ、という 立ち位置の伝記。

内乱に勝って、カンボジアを支配したクメールルージュは、平等で、 不正のない社会を作り出そうと努力して、努力の結果として、多くの人が亡くなった。

革命政府と対立していた、「革命に目覚めていない」人達は、首都から 田舎へと追放されて、「革命家としての教育」を受けることになった。 飢えと労働。カンボジアに革命を起こした人達と同じ、あるいはそれ以上の 苦労を味わうことで、革命の精神に目覚めてもらうみたいな。 革命に目覚めた人が耕す畑からは多くの作物がとれることにされて、 実際にはもちろん作物は育たなくて、多くの人が餓死した。

革命は「純粋な」人がやらないと上手くいかないらしい。

革命政府が政権取って、首都の住民を追い出したり、「お金」というものを 国から追放したり、社会を平等に、シンプルにして行くほどに国は 傾いて、それは「革命家として純粋でない」人達のせいになった。

「純粋でない」と名指しされた人は、やっぱり田舎送りになった。 もちろんそこでは「教育」が行われて、過酷な環境の中で、また人が亡くなった。

食べるものがない。道に椰子の実が落ちている。これは食べられる。 でも道に落ちているものは、国家の所有物。これを食べてしまうと、 その人は「純粋」でなくなって、後が無くなったその人は殺される。 これを食べなければ、いずれ飢えて死ぬ。

みんな亡くなった。

「平等」はけっこう怖い

平等が目指すべき目標になった、シンプルな社会からは、逃げ場が無くなってしまう。

クメールルージュ時代のカンボジアのやりかた、飢餓と強制労働とを通じて、 国民を「純化」「教化」していくやりかたというのは、なんだか 洗脳の手法を利用する宗教カルトを思い出すけれど、カルト団体には 「階級」みたいな複雑な構造があって、もしかしたらそんな仕組みは、 一種の安全装置として機能している。

カンボジアで「純粋じゃない」なんて指摘を受けた人には、再教育が 待っている。革命政府では、純粋な人と、餓死寸前まで苦労した人とは だいたい同じだから、そんな人から「純粋じゃない」なんて叩かれたら、 その人以上の苦境を乗り越えて、自らの純粋さを証明しないといけない。

革命政府の建前は「みんな平等」。「純粋じゃない」なんて指摘された人には、 だから社会のどこにも逃げ場が無くて、教育を受けて殺されるか、 殺されて「最初からいなかった」ことにされるか、いずれにしても 無難な選択枝が残されてない。

階級制度とか教育社会というのは、もちろん必ず「負け組」を生む やりかただけれど、「負けられる」というのことそれ自体もまた、 平等に殺されるよりはまだいいのかもしれない。

怪物はいなかった

虐殺者として紹介されることの多いポル・ポトは、それでも「怪物」では 無かったのだそうだ。あの人はあくまでも、「人を生かすのに無能であった」 だけであって、「人を殺すのに有能であった」わけではないのだと。

クメールルージュが行ったことは、「靴に合わせて足を切る」なんて 描写がなされていた。足が切られて、たしかに社会は大出血したけれど、 「足にあった靴を作りたい」なんて思いそれ自体は、 決して悪意から生まれたものではなくて、あれは虐殺ではなくて、 あくまでも無能が生み出した「事故」なのだという。

歴史には何人もの「怪物」がいて、ひどい虐殺とか、残忍な戦争だとか、 それらは全て、その人が「怪物」だったからなんて考えかたはシンプルで 分かりやすいけれど、やっぱり「怪物」なんてきっと少ない。

そのときそこにあったのは、そうならざるを得ない「状況」であって、 「怪物」と名指しされた人達は、あるいはその状況を止める能力を持たない、 「怪物になれなかった」人達なのかもしれない。

本当の怪物は、むしろ目に見えない。

歴史上、同じような状況におかれた 社会はきっとあって、同じ状況におかれてもなお、その社会を平凡に、 まるで状況変化なんて気がつかなかったかのように運営した人物は、 もしかしたら本当は「怪物」であって、そこに怪物が居合わせなかったら、 その国には虐殺が起きたのかもしれない。

複雑なものを複雑なまま理解するやりかた

社会とか国家みたいな、極めて複雑な物事を「要するに」で理解しては いけないのだと思う。

権力を持った指導者が、「要するに」で社会を間違って単純化して とらえたときに、たぶん「靴に合わせて足を切る」現象が発生して、 それが極端に走ると虐殺になる。

複雑なものを、複雑なまま処理するやりかたをしないといけない。

もちろんそれを個人でやるのは不可能で、だから「いい独裁者」が 統治するコミュニティは、それが小さな時には気持ち悪いぐらいに 上手くいくけれど、組織が大きくなる程に制御は難しく、 近似によって犠牲になる人の数は大きくなって、最後は収拾がつかなく なってしまう。

資本主義みたいな競争社会は、勝ち抜いていくためには、みんなが 頭を使うことを強要される。みんなが頭を使うから、社会に投じられる 思考リソースは、少数のリーダーが全てを回す社会よりも圧倒的に 多くなる。その振る舞いは複雑で、だから資本主義は「最低だ」なんて 言われるけれど、それでも社会制度の中では「最良」なんて評価も受ける。

選ばれた少数の執行部が回す組織は、必ずといっていいぐらい、 「サヨク」的だなんて叩かれる。「団結」だとか「平和」だとか、 「サヨクっぽい」言葉の裏には、たいていどこかに平等思想、 大多数のメンバーに思考停止を強要する何かが隠れてる。

たぶん社会の「よさ」なんてパラメーターは、「量」が問われる。 質の高い少数よりむしろ、やっぱりたぶん、たとえ質は劣っても、 たくさんの思考リソースを投じられる仕組みの方が、 その社会は「いい」ものなんだと思う。

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