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2008.04.30

後期高齢者医療制度がよく分からない

外来で使えるお金が、月に6000円までに制限されること。 患者さんを何もしないで看取った場合、国から2000円の「ご褒美」がもらえること。 入院した患者さんの扱いは、よく分からない。

後期高齢者医療制度が始まって1ヶ月が経ったけれど、現場の理解だって、まだこの程度。 これから起きる問題を見極めようにも、それ以前の混乱が大きすぎて、まだ外来には何も伝わらない。

現状

75歳になった人は見殺しに」なんてメッセージが力強く伝わるこの制度は、 だから全然普及していない。

今はまだ移行期間だからなのか、患者さんは旧制度と新制度、どちらか一方を選択できて、 地元医師会も「もう少し様子を見ましょう」なんて、外来主治医制度に名乗りを上げていない。

ソフトウェアのアップグレードに似ている。「人柱」になる人達がまず試して、 その制度が「いい」ものなのかそうでないものなのか、見極めがつくまでは、 普通の人は怖くて手を出せない。

うちの地域にはだから、この制度を利用するお年寄りはいない。今のところは旧制度のまま。 まず間違いなく全国同じだろうから、 たぶんどこかのタイミングで、「新制度の利用を促進してください」なんて、お役所から指導が入る。 そのとき誰が先陣切るのか、全然分からない。

ルールは悪用して理解する

ルールというのは、それを「悪用」するやりかたを考えてみると、理解が深まる。

後期高齢者医療制度の基本は、定額支払制度。患者さんに大量の薬を出しても、 病気になっても何もしないで放置しても、支払額は同じ。何か検査が必要で、 それやると月額6000円超えるときでも、支払いは同じ。どこか別の医師に 患者さんを紹介しても、「6000円」の取り分は、最初に主治医を名乗った医師のもので、 あとの施設に入るのは、出来高分のお金だけ。

こんなルールの下で「儲けを最大に」なんて考えるなら、まずやるべきは患者さんの囲い込み。

とにかく高齢の患者さんに片端から声をかけて、自分を「主治医」として認めてもらう。 これで人数分、6000円の収入が確保できる。新制度の下では、高齢者から得られる 収入は、実質これだけになる。

収入を得たら、あとは支出を抑えるやりかた。

削れる薬は全て削る。検査はもちろんやらない。「検査してください」なんて頼まれたら、 「うちではできない」なんて突っぱねて、「検査をよろしくお願いします」なんて、 近くの大きな病院に、検査だけをお願いする。

心不全の患者さんとか、閉塞性動脈硬化症の患者さんとか、元々の薬価が高い人達は、 もしかしたら最初から「主治医」を断られるかもしれない。薬止めたら悪くなるの 見えてるし、どんなに安く抑えたところで、月6000円ではそもそも足らないから。

最善手はたぶん、自分の施設で「主治医」だけもらって、検査は近隣施設、 一定期間ごとに入院依頼を行って、投薬はそのとき2ヶ月分とか、入院を依頼した 施設で出してもらうことなんだろうけれど、そんな「ずる」をどこまで見逃してもらえるのか、 今の段階では分からない。

「主治医」の名乗りを上げる医師は、あるいはすばらしい人かもしれないし、とんでもない悪徳かもしれない。 外からはそれが分からないから、この「市場」は、たぶん最初から成立しない。

自由は進化する

厚生労働省のページを見ても、「国を信じてください」みたいなことしか書かれていない。

患者さんが支払うお金とか、年金天引きになるとか、支払いについては詳しいけれど、 新しいルールのもと、医師がどんな「ずる」をする可能性があって、 厚生労働省として、予測される「それ」に対して、どんな抑止策を行うのか。そんな記載が 見つからない。手段は分からないのに「信じろ」といわれても、けっこう困る。

医療の「質」については、医学知識を持たない患者さんには、今でもそれを評価するすべが無い。 患者さんに与えられる治療の「自由度」については、新しい制度はそれを極端に減らすことは 明らかで、そのことを理解するのに、医学知識なんて必要ない。

出来高支払制度の昔は、患者さんが「お金を払うから」といえば、検査だろうが点滴だろうが、 「医療費の無駄遣い」を医師に強制することはできた。それがどんなに必要な検査であっても、 本人が「嫌だ」と断言したら、それを行うことはできないし、お金も請求できなかった。

新しい定額支払制度は、こうした選択ができない。

患者さん本人にできることは、「月に6000円支払うこと」が全て。追加のお金を支払って 何かやろうにも、全てを自費診療にでもしない限り、何か特別なことはできなくなるし、 その検査をどんなに断ろうにも、断ろうが受け入れようが、支払う金額は一緒。 医療者側から提供されるサービスはいつも一定で、それに対して患者さんサイドから できることは、従来の制度に比べて極端に少なくなってしまう。

自由は進化する。一度増えた選択肢が減らされると、たぶんほとんどの人は違和感を感じる。

「国を信じてください」なんて、今も昔も、患者さんは自らに施される医療については「信じる」以外の 立場をとれないのは一緒なんだけれど、選択肢を減らされて、「信じて」なんていわれても、 たぶん信じる人はいない。

今日のお菓子と明日のパン

国にはお金が無くて、高齢者の医療費は、全医療費の3 割以上を占めている。 政治回してる人達にとっては、こうした医療が「無駄」に見えて、何とかしてこれを削りたい。

このあたりの問題意識は、たぶんほとんどの人に、もしかしたら当の高齢者に相当する 人達を含めて、共有されているのだと思う。

「自分が病気になったら、もう何もしないでいいから、苦痛だけ取って、 医療行為に相当することは一切しないでほしい」なんて、技術系の、 そろそろ高齢者なんて声が聞こえてきそうな方々から、時々頼まれる。

もしかしたら自分がよっぽど信用されてないだけなのかもしれないんだけれど、 寝たきりの、チューブで栄養されてるだけの、1 日中叫んでるだけの老親を 介護した経験を持ってしまうと、「自分はここまでしてくれなくてもいい」なんて 思いはある程度共有されるのかもしれない。

お金はない。「今日のお菓子」も「明日のパン」も、両方手に入れるのは、たぶんもう無理。 そんな中でもせめて、「今日お菓子を食べる」べきか、「明日パンを食べる」べきかの選択ぐらい、 自分でやりたいなと思う。

「今ここでお菓子を食べる」のか、それとも今を我慢して「明日のパン」を残しておくのかといった選択権が、 患者さん側には全くない。患者さんは、「お菓子」を出されたら、たとえ満腹でもお金を支払わないといけないし、 「明日のパンは我慢するからお菓子を下さい」なんてお願いしても、そのときそれが出てくるとは限らない。

シンガポール方式がいいと思う

高齢者医療削るなら、やっぱりシンガポール方式 がいいと思う。

ある一定年齢、今の制度だと75歳になったとき、その年齢の高齢者が一生に使う平均医療費を 計算して、その金額を人数割りして、一括して渡す。たぶん一人あたり数百万円になる。

そのお金を大事に使ったり、あるいは投資や運用を行って次世代につないでもかまわないし、 もらったお金を競馬やパチンコに溶かしてしまって、あとは「自己責任」貫くのも、 その人の自由。自由だけれど、その人が生涯に支払う医療費は、その中でまかなわないといけない。

これをやると、ある日突然、数百万円の現金抱えた高齢者が発生する。ガン治すキノコ売ってる人とか、 幸福の壺売ってる人とか大喜びするだろうけれど、こんどはたぶん、弁護士の人達とか、 介護を提供する会社なんかに「後見人」ビジネスを行う機会が生まれる。

司法制度改革で大量発生した弁護士の人とか今困ってるみたいだから、こうした「顧客」の 発生それ自体は、それなりに歓迎されるはず。

「世代交代」には、莫大なお金がかかる。ワーストケース想定すれば、たとえば70歳で両親が 寝たきりになるような病気になって、その人達が要介護のまま90歳ぐらいまで生存すると、 首都圏だったら家一軒買えるぐらいのお金がかかる。年金があったり、20年分割されるから、 その場その場の実感は薄いのかもしれないけれど、「引き継ぎ」にかかるお金は馬鹿にならない。

どこかでまとめてお金を渡して、「使えるのはこれだけ」を実感してもらうのは、 医療費削減とか、「引き継ぎ」にかかるお金を実感するいい機会になると思う。

2008.04.28

リソース分配のこと

子供の外傷とか、あるいは溺水とか。連休は「不慮の事故」で運ばれる子供が増える。 今年は休日当直。今から怖がってる。

うちの地域はまだ、かろうじて救急輪番制が機能しているけれど、 崩壊する一歩手前。救急当番を回せてるのは実質3 病院だけだし、 地域でそれなりの数を受けているうちだって「救急指定」だけれど、 全科一人当直。小児科の専門医は、もちろん待機していない。

手に負えないお子さんが来たときは、だから小児科の常勤が待機している病院に 運ぶんだけれど、今県内全域で機能している小児科は、せいぜい3施設ぐらい。 救急を夜間に受けてくれる施設はもっと少ない。ベッドはどこもいっぱい。 この連休も、どうなるか分からない。

死亡率のこと

日本ではなんだか、ゼロ歳から1 歳までの死亡率は世界一低いのに、 1 歳から4 歳までの死亡率がとたんに悪くなって、世界でも下位のグループに 転落するなんて、ニュースで報じられていた。

「そんなはずはない」なんてtwitter でしゃべってたら、 人口動態統計というものを 教えていただいた。

1 歳未満の死亡原因には「先天異常」が最も多い。1 歳以上4 歳未満、 ニュースで報じられていた、日本の小児死亡率が悪くなってしまう年齢層だと、 「不慮の事故」が死亡原因のトップ。 死亡原因の2位、不慮の事故に迫る勢いで多いのは、やはり先天異常の子供さん。

新生児医療に従事する先生がたは、本当にがんばってる。病院に泊まり込みで働くのは、 もはや「前提」になっていて、当直ルールはもちろんあるんだろうけれど、 集中治療室から新生児室に電話入れると、夜中でも普通にみんないる。

大学病院には新生児用の集中治療室があって、子供さんはほとんどみんな、 人工呼吸器が必要だったり、保育器から出せなかったり。 誰かがずっと貼り付いていないと、すぐに状態が悪くなる。

みんな帰らないで頑張ってる。頑張ったからこそ、先天異常を抱えたお子さんは、 日本では「1年」を乗り切れて、それでもやはり障害は重いから、4 年を超えるのは難しいのだと思う。 実際比べたわけではないけれど、先天異常の子供というのは、海外だともっと早期に亡くなってしまって、 そもそもたぶん、1年以上生きること自体が少ない。日本の小児死亡率はだから、1歳未満が 極端に低くて、その次の3年間で悪化してしまうのだと思う。

それでも医師は足りない

小児専門の医療センターは、日本にだっていくつもある。うちの県にもある。

ところがそんな病院は、いつ問い合わせても「満床」。 急患の入院だとか、夜間の診察依頼だとか、お願いしても難しい。

専門センターのベッドは、もう何年も前から埋まりっぱなし。 稼働しているベッドの数は常に1 ケタ。病院の規模自体は、もっと はるかに大きいんだけれど、動かせる患者さんはいないから、急患に対応できない。

小児センターには、そのセンターで生まれて、そのセンターで育って、 専門医が貼り付くことを止めたら、たぶん亡くなってしまうような子供さんがたくさん入院している。

たぶんどこの県でも同じなんだろうけれど、小児の専門施設は、 重篤な先天性疾患のお子さんで、常に満床に近い状態で動いていて、 小児救急とか、他の「重症」にマンパワーを回す余地が残っていない。

専門医の数は限られてて、使える設備も限られている現状で、どういうわけだか、 小児医療に対する補助金ばっかりが増やされた。小児の急患は「無料」で いいことになって、夜中の救急外来には、元気にはしゃぐ子供が増えた。

機会の公平と結果の平等

「生まれてからずっと重症であり続けるお子さん」と、 「昨日まで元気で、今重症になったお子さん」とがいる。

現場回してる小児科医師は限られていて、小児科医療の無料化で、 外来に来る元気なお子さんは、たぶんこれからますます増える。

アメリカは機会の平等を目指した国。子供の医療は割り切られていて、 重篤な先天性疾患のお子さんなんかは、一定以上の治療は行わないらしい。 医療費がものすごく高いから、実際問題、支払いができる親御さんもいないのだろうけれど。

日本はどちらかというと「結果の平等」目指してて、それでも今までどうにかなった。 その代わり、建前「平等」だからこそ、重たい子供に割かれるリソースが増えるほどに、 「平等」の要求水準は高まって、医師の数はあっという間に足りなくなる。

「結果の平等」目指すなら、全ての子供に総合病院を用意しないと、「平等」は実現できない。 今現在、そんな医療を受けているお子さんがいる一方で、そんな医療が必要で、 それを手に入れることができないお子さんが発生しているわけだから。

長野県だったか、小児の専門施設が、救急医療に参加すべきか否かでずいぶん揺れた。 入院しているお子さんのお母さん達が救急参加に反対してて、急患を引き受けるようになったら、 入院患児の介護が薄くなるなんて懸念を表明してた。

連休直前。これから入院が一気に増えるから、それに備えて、何とか帰れそうな人は、 ご家族説得してみんな帰す。高齢の患者さんとか、娘さんが一人で介護してるご家庭とか、 「弱そうな」人からとにかく帰す。

「うちでは看れません」なんて、お話しする前から宣言するご家族もいる。「強い」人達。 30分も話してやっと説得できて、「連休開けたら考えてもいいです」なんて、了解をいただく。

2008.04.25

ムラの条件

やっぱり村社会が好き。「批判は読者の権利です」とか、心にもないこと宣言しながら、 空気の力で、自分の手を汚さないで、叩きに来た人達潰せたら、きっといい気分。

今自分がいる場所は、外からは「村」なんて呼ばれてるけれど、 実際の「ムラ」度は案外低い。「ムラ」目指すには、まだまだ足りない。

一部の意見が全体を左右する

何か書いて発信して、叩きコメントたくさんもらうと、やっぱり疲れる。

最近のページビューは、1日あたり6万人ぐらい。全てのアクセスがblog を見に来るわけではないんだろうけれど、 実際にコメントを残したり、ブックマーク欄に何かメッセージを残す人は、多いときでもせいぜい50人。

批判される文章書いたときなんかは、そのうち半分ぐらいが「叩き」コメント。 読むと疲れる。次に書く文章なんか、間違いなく影響受ける。

「メッセージ」が「全体」に占める割合は、せいぜい多くて1 %。 「叩き」メッセージはその半分だけど、影響は莫大。

叩く人達が、どんなバックグラウンドを持つのかは分からないけれど、 「メッセージ」というのは、ずいぶん効率のいいやりかた。

ネットで何かを発信しても、歪みのない「全体」を実感できるのは、アクセスカウンターの数字だけ。 もっと細かいことを知ろうとしたら、いただいたメッセージを通じて、「全体」を妄想するしかない。

恐らくは政治家なんかも、問題は一緒なんだと思う。相手にしている「全体」の数は圧倒的に多いし、 彼らはなんといってもプロだけれど、あの人達もたぶん、直接陳情を受けるとか、 手紙を書かれるとかデモ行進を見るとか、ごく一部の人だけが発信するメッセージを通じて、 全体を想像する以外、自分たちの判断が正しいのかどうか、リアルタイムに把握するすべがない。 もちろん選挙をすれば、支持者の数ははっきりするんだけれど、それでは遅すぎる。

政治家はしばしば、特定分野の、声の大きな人達の意見ばっかり聞いているように振る舞う。 あれはたぶん、「声の大きな人達」以外、そもそも政治家からは「全体」が見えないからなんだと思う。

あなたを叩いた人はこんなblog も叩いています

コメント欄とかブックマーク欄とか、メッセージを残した人達の立ち位置を 視覚化する手段があると、すごくありがたい。

何か書いて叩かれて、叩いた人のリンクを踏んだら、その人がその人が過去に叩いた ページのリストとか、同じようなページを叩いてる人のリストなんかが 出てくると、叩かれたものどうし、傷の舐めあいできる。叩かれたときのダメージ減らせるだろうなと思う。

「立ち位置」はたぶん、視覚化できる。

コミュニティで、ID を背負って活動する人達を平面展開する。 「右」「左」を横軸、「冷静」「暴走」を縦軸にすれば、 たぶん「その人が所属する場所」が視覚化できる。

なんだかまとめて叩かれて、それを視覚化してみたら、やっぱり特定の立ち位置に 叩く人達が集中してたり、賞賛されてる中で否定的な意見もらって、 その人調べたら「中道」の「冷静」なんて立ち位置だったり。

叩かれたときに「ああこの人達か」なんて納得したり、 自分の立ち位置見直すきっかけになったり。視覚化は役に立つ。

立ち位置に「ゼロ点」作るのは無理だから、評価はきっと、相対評価の積み重ねになる。 ブックマーク欄にもらったコメント読んだり、あるいはその人が書いてる日記見て、 全ての住民が、他の住民を評価して、「自分を中心においたときの、他人の立ち位置」を 表現することになる。みんなの「相対距離」を加算平均すれば、たぶん「全体」が見えてくる。

「住民」が100人の時点で、すでに蓄積される評価数は10000近くなるから、 計算量はちょっと多くなるかもしれないけれど。

コミュニティの中での自分の立ち位置

自分というのは、結局のところ「どう」なのか。ネットで発信している多くの人は、 結局のところ、これが知りたいんだと思う。

「コミュニティの中での自分の立ち位置を」を視覚化してくれるサービスがあるなら、 利用してみたい。

自分自身を「冷静な中道保守」なんて位置づけてたら、まわりのみんなは自分のことを 「既知外サヨク」だと思ってたとか、馬鹿なキャラクターを演じ続けて、 まわりも自分のことを「馬鹿」だと思ってくれてるなんて安心してたら、 実は「すごく冷静な人」なんて見抜かれてたりとか。

コミュニティが見ている「本当の自分」と向き合うと、もしかしたらショック受けるかもしれないけれど、 そんなサービス提供できたら、利用したがる人多いと思う。

匿名が守っているもの

目に見えるルールは何もないのに、コミュニティで共有される「空気」は明らかにあって、 「強い」人はなぜだか自由なのに、新参者がそれやると叩かれる。 法律もなければ警察もいないのに、乱暴者はいつの間にか排除されて、 みんなどこか重苦しい、正体の見えない「空気」に配慮して、 いつも何かにおびえながら寄り添う、そんな「ムラ」が大好き。

「あの人はこういう人」という属性が、ムラのみんなに共有されるようになると、 「ムラ」ルールが発動して、コミュニティを「空気」が包む。

今のネットメディアは、そんな属性の把握と共有がまだ不十分で、 「ムラ」として機能しているコミュニティは少ない。

激しい言葉で綴られた叩きメッセージを読んだ時は、その人が普段どんなことを考えているのか、 自分が書いた文章のどのあたりが、その人の逆鱗に触れたのか、やっぱり気になる。

叩いた人が書いた文章読んで、「この人はこういう人なんだ」という属性が読み取れると、 ずいぶん楽になる。「立ち位置これだけ違うからしょうがないよね」とか、自分に言い訳できる。

叩かれた先に行ってみて、漫画買ったとか映画見たとか、なんだかごくありふれた、 「普通の」日常だけが綴られてる日記を読むと、逆に不安になる。属性が読めないそんな人達は、 何を考えて自分を叩きに来たのか。「祭り」に乗っかっただけなのか、 自分が何か人として相当間違ったことやっていて、義憤に駆られた「普通の人」が、 何かメッセージを残していったのか。

「ネットで発信する人は、全て実名を公表すべき」なんて意見を持つ人達は、 たぶんこんな「属性が見えない人」に対する不安感を、「匿名」という言葉に 代表させてる気がする。同じ匿名の叩きコメントであっても、 立ち位置が見えやすい人の叩きと、そうでない人のそれとでは、 意味あいがずいぶん違う。

「匿名」という立場が守っているものは、名前それ自体なんかじゃなくて、 「属性」の不可視性なのだと思う。名前を公開しなくても、属性を可視化するだけで、 きっといろんなものが変る。

属性の共有が「ムラ」を作る

「ムラ」の中では、住民の属性が共有される。 叩きコメントを連発する人は、そのうち「こういう人」という 認識が共有されて、叩くほどに叩きパワーは低下して、そのうち排除されてしまう。

普段は「叩き」なんかとは無縁の属性背負った人が誰かを叩いたら、たとえそれが 小さな声であっても、「村の空気」は大きく動く。「ムラ社会」ではだから、 ルールがなくても「空気」があって、匿名を維持していても、 おそらくは実名志向の人達が目指してるようなコミュニティが、 記述されたルールなしに実現できる。

「あなたを叩いた人は、こんな blog も叩いています」という、傷の舐めあい検索、 「自分を含めた住人の立ち位置」を可視化する立ち位置チャート、 「あなたはこの方面から叩かれています」という情報を伝える炎上レーダー、「ムラ」を支える インフラは、こんなイメージ。

ネット世代の「ムラ」は、それでも「空気読まない人」、立ち位置チャート作っても、 存在がチャートに類型化できないような、そんな人達がもっと自由に振舞える場所になる。

実世界のムラと違って、ネット世界には目指すべき目的とか、ムラの繁栄とか、方向性が存在しない。 道徳も正義も法律もいらない、「強度」が「空気」を生んで流れを作る、そんな「ムラ社会」はきっと楽しいと思う。

2008.04.24

ミームのこと

ウィルスみたいに「広まる」文章は、「権威付けがなされていること」、 「具体的であること」、「読者を鼓舞すること」といった、共通する性質を持っている。

内容が不正確であったり、勧めていることが違法であったりしても、 たぶんこんな条件を備えた文章は「ミーム」となって広まって、 いつかどこかで実行されてしまう。

デキサメタゾン大量療法

研修医の頃、脊髄外傷に対するデキサメタゾン大量療法のやりかたが論文になって、 救急部の部長がやりかたを貼りだした。

脊髄外傷患者に対するデキサメタゾン大量療法 脊髄外傷患者を診たら、「デカドロンを○アンプル静注、その後24時間かけて、生食100ml にデカドロン○アンプルを 溶解したものを持続静注

張り紙に書いてあったのは、部長の名前と、元の論文名と、具体的なやりかた。

体重あたりの計算は省略されていて、 読んだらすぐに実行できるように記述されていて、最後に一言「これは効くよ!」なんて書かれてた。

脊髄外傷の患者さんなんて、年に数人しか来なかったし、普段はもちろん、 そんな人は脳神経外科に入院するから、研修医がそれをやる機会なんて滅多になかったけれど、 あの張り紙をメモした研修医は多かったはず。

ウィルスとしての言葉

言葉にはたぶん「感染力」みたいなパラメーターがあって、言葉の「重さ」とか「正義」とか、 あるいは科学的な正しさというものは、感染力にはほとんど影響しない。

  • どんなに薄っぺらなものであっても、「権威」が正当性を担保していること
  • 勧められていることが具体的であって、読者が何か思考する必要がないこと
  • 最後に「これをやった人は勇者」みたいな、読者を鼓舞する要素を持っていること

文章の感染力というものは、たぶんこんな条件が決定して、全てを兼ね備えた文章は、 それがどんなにいいかげんなものであっても広まって、どこかで実行されてしまう。

「正しい知識」というものは、感染を始めたミームに対する治療効果を持たない。

正しい知識はその人に免疫を付与するから、「感染」以前なら、 知識はミームに対するワクチンとして作用する。 ところが、今まさに「感染」して、ミームに従って何かを実行しようとしている人に、 今さらそれを「間違いだ」と指摘したところで、その人は実際にそれを試してみるまで、 指摘の正しさを実感できない。

「間違ってる」という指摘は力を持たないし、ましてや「信じる奴は馬鹿だ」みたいな言葉をぶつけると、 ミームの感染力は、むしろ強くなってしまう。

最近になって爆発的に広まっているのは、硫化水素中毒のやりかた。

今週に入ってからもう10件、似たような中毒が相次いでいて、 みのもんたが「誰のせいでこんなことに…」なんて、朝のテレビで憂いてた。

硫化水素中毒のやりかたは、一気に広まった。某巨大掲示板に書かれていた やりかたは具体的で、恐ろしく分かりやすかった。使う薬品名は「商品名」であって、 ガスを発生させるのに必要な器具とか、薬品の量なんかも、具体的に指摘されていた。 そのやりかたを書いた人は、もしかしたら専門家でも何でも無かったのかもしれないけれど、 やりかたは一人歩きして広まった。

「感染」に対抗できるのは、ウィルスそれ自体の作用を止めること。

書き込みが指定していたその製品に規制をかけたり、あるいはもっと単純に、 商品名を「新○○」なんて変更するだけでも、ミームの蔓延は減らせると思う。

そんなことをしたところで、塩酸とか硫黄を含んでいる製品はたくさん発売されているし、 ホームセンターに行けば、代替品は容易に手に入れることができるけれど、 そんな知識を持っている人は、そもそもミームに対して「免疫」を持っているはずだから、 ガス作ろうなんて思わない。

ミームに「感染」して実行する人は、裏を返せばそんな知識を持っていないことがほとんどだから、 恐らくは商品のラベルを書き換えるとか、そんなごく単純なやりかたをするだけで、 実行する閾値を高められるはず。

やっぱりテロが怖い

「硫化水素を用いた化学テロ」という考えかたが、「ミーム」となって蔓延したら、 相当怖いことになると思う。

今の段階、「ガスを用いたテロの可能性」なんてものを、知識持った人が心配してるだけの 現在ならば、それをやれる人は、間違ってもそんなことしないだろうけれど。

ミームとして広まる「それ」は、たぶん専門知識を持った人が見たら、唖然とするほど いいかげんな、間違った知識で固められたものになる。

「権威」を担保する研究者はもちろん実在しないし、大学名なんかも、 専門分野なんかは考慮されなくて、ただ単純に「漢字が多そうなところ」みたいな 基準で選ばれた、適当なもの。

やりかたはきっと具体的だけれど、場所であったり用意すべき道具であったり、 そんなものは全ていいかげんで、応用のしようがなくて、 もしかしたら実行した人自身が巻き込まれるような やりかたが書かれているけれど、とにかく全て「具体的」に書かれているから、 そのとおりに実行するだけなら、知識が無くてもできるはず。

最後は鼓舞。

いつか出てくるそんなミームは、きっと「これ実行したら勇者」みたいな、 薄っぺらな鼓舞で締めくくられる。

それでも専門知識を持った人達は、 それを見て笑ったり、叩いたりしたらいけないのだと思う。そうした行為はたぶん、 すでに「感染した」不特定多数の人達の、背中を押してしまうから。

うちの近所のホームセンターでは、今でも普通に、くだんの薬品が手に入る。 ネットを通じて、そんな文章が出てきたときは、「それができないようにする」、 その商品を一時的に撤去するとか、成分をわずかだけ変えるとか、単純なやりかたで かなり防げるはずだから、やっぱり何か対策したほうがいいと思う。

2008.04.21

地域医療の地政学

地元の新聞に、地域医療の救急枠を、県境を越えて融通しあうようなお話が掲載されていた。

生命は最も大切なものだから、県とか市とか、自治体の境界を超えて、 患者さんの収容を最優先するのだと。

勘弁してくれと思った。

うちの施設を取り巻く状況

小さな規模の病院だけれど、救急車はけっこう来る。夜間でも、下手すると一晩に6台とか8台、 救急車がやってきて、もちろん外来も夜通し来る。当直は全科で一人。体勢は時代遅れだけれど、 そもそも自分が最年少とか、勤務している医師も十分に時代遅れだから、 それでも何とか回る。外科医も内科系疾患を診てくれるし、内科の自分が子供縫ったりする。 田舎だから何とか回る、「曖昧さ」がいい方向で共有されている病院。

救急車で1時間ぐらいかかる隣の都市では、救急体制が崩壊している。

そこは人口も多くて、病院もたくさんあるし、公立のセンターもあるのだけれど、センターは専門施設だから 救急を取らない。民間の病院も、救急は「出来ない」という立場を貫いてて、救急輪番制とか作れない。 人口多いから、急患はたくさん発生するはずなんだけれど、救急車はたいていどこも断られて、 他の市に搬送したり、うちみたいな病院まではるばるやってくる。

越境してきた患者さんを診るのは大変。

町がかわると、やっぱり医師に対する距離感とか、その町独特の文化というのは 微妙に異なっていて、何となく「いつものやりかた」が通じない。なによりも、 救急車使っても1時間かかるところにみんな住んでるから、見舞いに来るのも 大変だし、お話ししようにも、夜遅くにしか来てくれない。 見舞うほうだって大変だろうけれど、診るほうだって大変。

その都市の市長さんは、ずいぶん前から「改革派の騎手」として、時々マスコミなんかに顔を出す。 赤字の自治体を立て直して、財政をいい方向に持って行ったとか、そんな話題で。 なんだか国会議員デビュー狙ってるなんて噂もある。もうすぐ任期が切れる。

高速道路のこと

県内を走る自動車専用道路が、もう少しだけ整備されるという噂がある。 うちの施設なんかは、この道路にすごく期待している。

道路が完成すると、救急の無い、その町の救急車は、今度は専用道路を使って、 もっと大きな町へと患者さんを搬送できる。そっちでは、日赤の大きな病院が救急を担っているから、 そこならたぶん、うちなんかよりは余力がある。

最近は、非常手段だったはずの越境入院が当たり前になっていて、 市の境を超えて救急搬送される患者さんが増えている。うちなんかも実際問題、 これ以上搬送増えたら、もう回らないところまで来ている。医師の数はこれ以上増えないし、 地元の救急変らないのに、一方向的に救急搬送件数増えてくから、すごく危機感持ってる。

道路が出来て、救急車の流れが変ったところで、負担が他の病院に移るだけなんだけれど、 今はもうどこの施設もいっぱいいっぱいだから、「速く道路作ってほしい」というのが、 切実になってる。向こうは向こうで、全く逆のこと考えてるはず。

ところがもちろん、道路作るのにはお金が必要で、今道路のお話盛り上がってて、 先行きが本当に分からない。道路は本当に完成するのか、少しだけ楽できる「いつか」は 本当に来るのか、道路と病院なんて全然関係ないようでいて、けっこう気にしてる。

人道主義で「解決」しないでほしい

自治体を代表する人達が、県内県がいとわず、とにかく「連携」の話し合いをしているらしい。

もちろんなかの話なんて全く見えないけれど、話し合いするなら、やっぱりお金の話を ちゃんと絡めてほしいなと思う。

夜になると病院が無くなる、件の大都市には、たぶん救急を充実させる動機がない。

住民の意見はあるのだろうけれど、市長さんは、 もうすぐ任期切れていなくなってしまう。今支出を増やして「改革派」のイメージ 潰すよりは、「次」につなげて、現状を維持したほうが、得られるものは大きいはず。

病院にだって怖い。「最後の砦」に相当する公立のセンターが救急始めない段階で 手を挙げてしまうと、「じゃあ中心になってお願いします」なんて、責任者を名指しされてしまう。 鳥インフルエンザ対策とか、どこの施設も腹案あるはずだけれど、自治体病院も、民間病院も、 「あなたがリーダー」と指名されるのが怖くて、誰も「準備してます」なんて言えない。 公式にはだから、対策は「何もできてない」ことになってるし、有事のリーダーを誰がやるのかとか、 あんまり決まってないはず。

役所の人達も、今は責任かぶるのすごく怖がってて、判断は全て医療者側に振る。 誰も得しないチキンレースだけれど、公立施設にも、民間施設にも、もう救急に対応できる 医師なんてごく少数しか残ってないから、どこも「リーダー」なんて引き受けられない。

話し合いの席で「人道主義」なんて言葉を出されて、それが一人歩きするのは本当に困る。 「人道」なんて思考停止ワードには、結局誰も逆らえないから、予算を出し渋る、 救急体勢持たない自治体が、このまま行くと一人勝ちする。救急リソースなんて、 もう圧倒的に足りてないのに、「人道」で議論が止ると、回るわけない現場は、 どうしてだか「できる」ことにされて、「人道的立場に立ってがんばれ」なんて話になる。

救急を放り出した町だけ得する。あぶれた人達が隣の町に駆け込んで、そこもまた、 やってられなくなって、救急体勢放り出す。もちろんそれやると、患者さんがもっとあぶれるから、 次にその人達を吸収する病院は、たぶんもっとひどいことになる。

地域医療の地政学

「土台」レベルと「建物」レベル、「家具」レベル、家のこと一つ考えるのにも、 議論にはこんなレイヤがあって、土台の傾いた家直すのに、家具の配置考える論理で議論しても、 傾いた家は直らない。

「地域」というのは、そもそもその場所で「自給自足」を行うことが前提としてあって、 そのために必要な土地とか予算、医療資源みたいなインフラは、その地域の首長として選ばれた人が、 どんな形であれ、「力ずく」で調達してくる責任があって、そもそもそれがなされないと「地域」は発生しないし、 地域ができて、初めて法律のお話ができて、法律が整って、ようやく「人道」のお話ができる。

医療資源の話題というのは、本来は「力ずく」レイヤで奪い合うものであって、 法律とか、ましてや人道のレイヤで解決すべき問題ではないのだと思う。

小児科救急なんかは、実際「人道」重ねて完全崩壊していて、 夜間県内で小児科救急が稼働してる施設なんて、あと3つぐらいしか残ってない。 圧倒的に足りてないのに、来年から小児の救急無料化するから、 たぶんどこの施設にも、夜中になってから人があふれるようになって、 県内の小児救急はもう持たないだろう。

救急体制を維持できている「強い」側の自治体にこそ、「人道」否定して、せめて 救急持ってない自治体に、お金を請求してほしいなと思う。 自前で救急体勢作ったほうが、予算上より安価になるようにルール決めないと、 「人道」叫んで救急投げる自治体増える一方だと思う。

2008.04.19

正義の敵は正義

ここ2 日間のプチ炎上について。

背景など

動悸はごく素朴。

憲法に関わる高等裁判所の判決が出て、「自衛隊やっぱ間違い」なんて、 けっこう踏み込んだ判決が出た。はてなブックマークでそれ読んでたら、 元検事の方が言及してて、判決出した裁判官は定年間近で、 今回の判決文読んだのは、本人じゃなくて後任の人だったなんてことを知った。

ごく単純に「ずるい」と思った。踏み込んだ判断出して、自分は判決出し逃げして 玉置に逃げ込んで。来年になったらリベラル派のコメンテーターとして、 古舘伊知郎あたりとよろしくやってる姿とか想像して、なんだか腹立った。

最初はtwitter。

「ずるいと思う」とか、「対案示せ」とか、ぐだぐだと書き流した。

いろいろ指摘をいただけた。 立法権・行政権の侵害はできないこと。司法が民主的統制を受ける範囲のこと。 訴訟法上、政策を争うことはできないこと。何よりも、裁判官だって人間で、 ああいった踏み込んだ判決出すときには、すごいプレッシャーにさらされるものだということ。

なるほどなと思った。

とっさに思いついたわだかまりを解消するのに、インターネットという道具は本当に便利。 ぐだぐだ書いて、書きながら、リアルタイムに自分の「穴」を教えてもらいながら、 自ら空けた穴を見ながら、また書いた。穴だらけのエントリーが一本出来た。

わだかまりの解消手段が知りたかった

夜中に帰って、録画したニュースを見た。ずいぶん年季の入った市民団体の人達が、 「我々の実質勝利だ」なんて、雄叫び上げてた。

判決が解説されてた。判決それ自体は、被告となっていた政府の「勝利」であって、 市民団体の人達が喜んでた部分というのは、あくまでも判決の傍論として述べられたものだから、 政府側にはその判決を否定する権利は発生しないのだと。

やっぱり「ずるいな」と思った。今までの自分の立ち位置で行くと、今回の判決みたいな、 名を譲りつつ勝ちを拾いに行くやりかたは、むしろ「上手」と賞賛すべきなんだろうけれど。

エントリーは穴だらけだったけれど、自分が感じた「ずるさ」みたいな感覚を、 他の人達がどう折り合いつけてるのか知りたくて、blog に上げた。

三権分立勉強し直せとか、法律守れとか、ネガティブコメントがたくさん来た。 「穴」を指摘して叩くコメントは、ある意味予想の範囲ではあったけれど、やはりびっくりした。

そもそもみんな、法律とか憲法とか、そんなに大切に考えてるものなんだろうか ?

判決とか、ニュースでの解説読んで、自分は素朴に「ずるい」と思った。 ネット世間だと、自分よりも冷静な人とか、法律に詳しい人がたくさんいるから、 自分の思いはすぐに「まあそういうものなんだろうな」なんて場所に落ち着いたけれど、 あのニュース見て、「やっぱ三権分立最高」だとか、「あの裁判官は男の中の男」だとか、 うちなんかに叩きコメント残した人達は、「ずるさ」全く感じなかったんだろうか?

「自分もそう思う」みたいな同意コメント。「法律勉強し直せ」みたいな叩きコメント。 あのエントリーにいただいた反響は、だいたい半分ずつだったけれど、 叩く側の人達から、「私はこうして折り合ったから心が平和です」みたいな 意見がいただければ、自分としてはもっとありがたかったのだけれど。

正義の敵は正義

正義の勝ち軸に敵対するのは「悪」でなく、「別の正義」。

正義に「絶対」はないように、 反論を許されない「絶対悪」なんて存在もまた、せいぜいゲームの世界にしか存在しない。 叩かれても変わらない。依って立つ正義が違う人達と議論するのは、たぶんすごく難しい。

自分が立ってる「正義」というものは、たぶん世間一般の人が共有しているそれから見れば、 相当にゆがんでるんだろうけれど、ゆがんでるからこそ観察対象になっていて、 たぶんある程度の読者がついてる。

残念ながら、だから一般的な正義の立ち位置から叩かれても、そこを直したいなんていう 気分にはなれないし、それをやったらたぶん、うちのページからは、読者がいなくなってしまう。

blog には「トラックバック」という機能がついている。 議論を通じて相手を変えるやりかたをしない、「力ずく」で相手の論理を潰すための道具。

立ち位置が違う相手の意見を潰したかったなら、自ら依って立つ正義に沿った、 もっと面白い文章書いてトラックバックして、読者を根こそぎ奪ってしまえばいい。 その人自身は何も変わらないかもしれないけれど、読者を失った意見は失速して、 どんなに声を張り上げたところで、もはや力を失ってしまう。

立ち位置の違う人からトラックバックいただいて、アクセスを根こそぎ持って行かれたり、 お互いもらった「はてなブックマーク数」で大差つけられたりしたときなんか、本当に 惨めな気持ちになる。

今回のエントリーについても、何本かトラックバック をいただいた。冷静な、大人の意見。リファラがすごいことになってたから、うちのサイトはたぶん、 相当数の読者をもってかれたんだろうけれど、「正義は読者が決める」こんなやりかたは、とてもいいことだと思う。

「対話」に必要な帯域幅のこと

ネット世間は、「穏やかな弱肉強食」ルールがいいなと思う。

世間にはいろんな価値軸があるけれど、お互い歩くの大変だし、 ぶつかったときには顔が見える。「対話」というのはたぶん、 それを成立させるためには、相当広い帯域を必要とするやりかた。

ネット世間は狭いから、どうしてもいろんな価値観がぶつかりあうし、 回線は細くて、コミュニケーションに文字だけしか利用できない。 「対話」ルールを成立させるだけのインフラは、まだまだ整っていない。

コメント欄では、言葉だけ丁寧な、外面穏やかなのに、険悪な対立議論。 見てて疲れて、時間をいくらかけても、お互いやりとりする情報量が圧倒的に少ないから、 いつまでたっても「対話」にたどり着けない。

ブロードバンド時代になってもなお、言葉を尽くしたネット議論は、「身振り」や「手振り」を 実装できないし、「握手」一つが持つ情報量にすら、言葉はまだ追いつけない。

価値軸をあわせるのは大変だし、お互いのベクトルを比べるなんて無理だけど、 それぞれ依って立つ「正義」には、強度というパラメーターがあって、 アクセス数とかブックマーク数とか、今ネット世間で通用する数字要素は、 そんな強度を可視化してくれる。

価値を決定する道具として、そんな数字はまだまだ不完全な代物だし、 「数」に影響を与える人もまた、ネット全体から見ればごくわずかなものだけれど、 「声の大きさ」競争を延々やるのに比べれば、正解に近い気がする。

叩くエネルギーでエントリー書いて、相手の読者根こそぎ奪い合う争いしたほうが、 お互いメリット大きいと思う。

2008.04.18

司法も対案示してほしい

空自イラク派遣は憲法9条に違反しているという判決が出た。 名古屋高等裁判所。

たしかに正論なのだろうし、この判決は、一応政府側の「勝ち」ということになってるみたいだけれど、 テレビではなんだか、市民団体の人たちが「我々の勝利だ」なんて、雄叫び上げてた。

軽い言葉のこと

曲がりなりにも選挙で選ばれた人たちが、何年もかけて議論して、海外に軍隊派遣して。

政府の人たちも、もちろん現場守ってる自衛隊の人たちも、派遣に賛成する人、反対する人、 みんな様々な立ち位置もって、いろんな場所で議論とか、政治運動を重ねてきたのだろうけれど、 そんな積み重ねの決着は、あっさり一言。「あれ全部間違い」なんて。

「正しさ」重ねて下した結論は、なんだか正しいのは間違いないんだけれど、すごく軽い気分。 自衛隊派遣に反対の声上げてた人たちだって、なんだか馬鹿にされたような気分に ならないんだろうか?

なんだか司法の人たちが操る言葉は、軽い気がする。

人手が全く足りてない医療現場での、医師の不作為を問う裁判とか、今回みたいな、立法とか行政、 あるいは市民団体の人たちが積み重ねてきた苦労を全部吹き飛ばす判決だとか、 すごく多くの人たちが関わって、舵をどちらに切ったところで、現場が大混乱するのは間違いない判断なのに、 出された言葉はすごくあっさり、軽い印象。

もちろんその判断を下すためには、司法内部で議論したり、勉強したりといった過程はあって、 それは判決文として、その議論プロセスがある程度公開されてはいるんだろうけれど、 投げられた判断には、「じゃあどうすればいいのか」が見えてこない。

国会間違ってた。政府間違ってた。たぶん今回の判決で、政府のいろんな思惑はひっくり返って、 表から見えないところでは大混乱したり、命の危険侵してた現場仕事が、あっさり「あれ間違いだったよ」なんて 断定された。たぶん今、多くの人たちが困ってる。

「それはそもそも司法の仕事じゃないんだよ」なんて返されるのがオチなんだろうけれど、それでもやはり、 司法の人たちには、判断を下した以上、その判断に基づいた対案を示してほしいなと思う。法律読んで正しさ重ねて、 重ねた正しさの延長に下された判断は、たしかに正しいのかもしれないけれど、判断ぶん投げて 現場を混乱させて、「おまえら間違ってるよ。あと自分で考えな」で法廷閉じるのは、素人目には無責任に見える。

対案なき批判に意味はあるのか

対案なき判断には、やっぱり意味がないと思う。

誰だったか、「対案示せ」なんて要求するその態度こそがリベラルどもの欺瞞だなんて言ってた人がいたけれど、 対案一つ示せない批判もらっても、議論が生まれない。議論生まないなら、ノイズと一緒。

法律上、それは裁判官の仕事ではないのかもしれないけれど、判断を下した裁判官の人は、 やっぱり自分の判決に基づいて、行政は、あるいは医療は、今の能力をどう使えばいいのか、 やっぱりそれを「自らの市民感覚に基づいて」提案してほしいなと思う。

司法の人たちだって万能ではありえないし、あるいは専門家から見れば、 その「対案」は床屋談義レベルにしか過ぎないのかもしれないけれど、 対案を見せていただけるのならば、その裁判官は、いったいどんなことを考えて、 どんな未来を見据えてその判決を下したのか、判決文よりも、ずっと分かりやすくなる。

法律に則っていたようで、実は経済合理性優先してたとか、現場の大混乱分かってたけれど、 あえて正しさ表現してみましたとか。判断を下した「先」に対する考え分かれば、きっと議論が生まれる。 もちろん分かりやすいアイデアは批判されて、多くの味方と、あるいはもっと多くの批判的な意見に さらされるんだろうけれど、そんな「床屋談義」レベルの思考を世間の批判にさらせないのなら、 その人はやっぱり、世間大混乱させる判断に関わるべきじゃないと思う。

表現する人達

裁判官の人達は、判決それ自体を「自己表現の場」として利用してるように見える。

医療過誤裁判、とくに業界が紛糾するようなそれは、地方裁判所レベルの判決は、 しばしば極端にどちらか一方の側に偏っていて、なんだか結論が最初から見えてるみたい。 そんな極端な判決は、上級審に入るとたいてい修正されて、もっと穏当な、両者の意見を汲んだ結論に落とされる。

議論がどんなに偏ったところで、最高裁判所にまで上がってしまえば、「高度に政治的な問題のため、 司法の範囲を超える」なんて司法が逃げて、結論はなんだかうやむやになったりもする。

邪推にしかすぎないけれど、地方裁判所レベルで判断下す人達は、「どうせ上級審行ったらつまらない結論に戻るだろ」なんて、 自らの判断を軽く考えて、時々とんでもない判決おろして、現場吹き飛ばして、それを自己表現にしている気がする。 自分たちがblogスペース借りて、自分の意見を書き散らして発信するのと、なんかすごくよく似てる。 どうせ何も変わらないからなんて、無責任になれるところとか。

時々出てくる極端な判決は、「市民感情に配慮する」とか、その裁判官なりの立ち位置に基づいた自己表現であって、 利害が対立する両者の意見聞いて、法律を正しく運用した結果としての結論とは、なんだかかけ離れているような気がする。

イラク派遣の判決は、選挙で選ばれた人たちが考えて、議論して、判断した経過をまとめて、司法は「間違い」と断じた。 国会議員は、それでも選挙民の医師を背負ってあの場所にいるわけだけれど、それを「間違い」と断じた司法の人達は、 そんな選挙民の医師に拮抗するだけの「何か」を、あの場所に賭けているのだろうか?

賭けるものなんてなくて、「司法はあくまで法律運用するのがお仕事で、ちょっと 何かを表現したかったので、あんな判決出してみました。大丈夫、上級審ありますから」なんて返事が返ったら、 きっとみんな怒ると思う。そんなことは、裁判官の人達も言わないだろうけれど、彼らは判断だけ下して 対案示さないから、その言葉はショッキングなのに、なんだかすごく軽い。

元検弁護士のつぶやきによれば、今回の違憲判決を下した裁判官は、 この判決を最後に裁判官を引退される方らしい。

お辞めになる前の最後の裁判だったわけですね(^^)

blog 書いてる司法の人は、笑顔の顔文字入れて、こんなこと書いてた。こんなこと書いてるぐらいだから、 この裁判官の判決は、司法のプロからみても、要するに、「辞め際のどさくさに紛れた自己表現」なんだろう。

たとえば自分なんかが他科の手術みて、「また死んじゃいましたね(^^)」なんて書いたら、 きっと大変なことになる。うちの業界は、少なくともこういうことは絶対茶化せない。

これだけ大きな判決の感想書くのに、顔文字使って笑ってる時点で、やっぱり司法の人たちは、なんかずれてる。 もう少しまじめにやったほうがいいと思う。

2008.04.17

「能力ある人の不作為」という罪悪

動物愛護団体の人たちが「すばらしい人」なんて引用するのは、 圧倒的にマザーテレサが多いらしい。ほかの偉人とか、ましてや 経営者の言葉なんて出てこないらしい。

マザーテレサは、もちろんすごい人であることには間違いないのだろうけれど、 あの人は同時に、「もっとすごいことが出来たのにやらなかった」人なんだと思う。

マザーテレサのこと

マザーテレサは、世の中どうにでも出来るぐらいのすごい力を持っていたのに、 目の前の難民を救うことに全精力をつぎ込んで、「もっとすごいこと」には興味を示さなかった。

悪い言いかたすれば、マザーテレサは能力を持ちながら、怠惰だった。

社会的な立場も、ネームバリューも、あるいは「集金能力」みたいなものも、 マザーはあれだけの能力を持ちながら、自分が「きれい」でいたいがために、 もっと泥臭い、経営の世界に踏み込まないで、難民キャンプの現場にとどまって、 「本気を出せば」救えたはずの、もっと多くの人を救おうとしなかった。

マザーテレサは、たしかに率先して難民の手足を洗ったかもしれないけれど、 そんな仕事は、マザーテレサに比べれば圧倒的に時給の安い人にだってできた。 マザーテレサがちょっと頼めば、100人雇用することだって出来ただろうし、おそらく「雇用」は、 マザーテレサ本人が足洗いに乗り出すよりも、もっと多くの人を喜ばせたはず。

あの人はむしろ現場から離れて、率先してベンツに乗って、プライベートジェットで世界巡って、 寄付をかき集めて「商売」をやるべきだった。マザーテレサならたぶん、難民キャンプ選りすぐりの かわいい子供にボロ着せて、ニューヨークのまっただ中で寄付募るとか、 もっとあざといまねしたところで、世間は反発しなかったと思う。

そんなやりかたはもしかしたら、キリスト教価値観では「汚い」ものかもしれないけれど、 カルカッタの施設1 年分の運営費なんて、たぶんほんの1 日で稼ぎ出せた。

マザーテレサクラスの能力があれば、あるいは存命中、これまでの100倍の人にご飯を配れたかもしれないし、 ワクチンを配布することも出来たかもしれない。

あの人はもしかしたら、自らのスタイル貫くことを最優先して、もうちょっと本気出せば 余裕で救えた多くの人たちを、スタイルのために見殺しにしたのかもしれない。

「能力ある人」の不作為

たとえばスーパーマンが実在する世の中で、本人が環境保護活動に目覚めたら、 スーパーマンはその能力を放り出して、河原でゴミ拾ったりするかもしれない。 たとえ目の前でジャンボジェットが墜落しそうになっていても、河原で弱った子猫見つけて、 猫保護するのに全リソースつぎ込んだなら、ジャンボは墜落するかもしれない。

環境保護活動に汗を流すスーパーマンは、たしかに「いい」人なんだろうし、 環境保護活動とか、動物愛護の活動なんかは「正しい」ことなんだろうけれど、 ジャンボジェットが墜落したら、人々はスーパーマンの不作為を責めると思う。

世の中には明らかに「能力が高い」人がいて、その人たちはしばしば、「きれいさ」とか 「正しさ」みたいな間違った価値観にとらわれる。その能力を全て発揮する前に、 「いい人」である自分に甘んじて、勝ち逃げしようとしたりする。

マザーテレサは間違いなくすごい人で、もちろんいい人だったのだろうけれど、 もしかしたらその「すごさ」を全て解放して、お金とご飯とに換える前に、 「きれい」なまま亡くなった。

そんなやりかたは、みんなもっと「間違ってる」と批判しないといけない。

好きを貫くことは大切で、マザーテレサの「好き」は、たしかに大きな成果を生み出したけれど、 たぶんあの人が本気出してたら、もっともっとすごい結果を出せていた。 あの人がもしも、冷酷な拝金主義者だったのだとしたら、難民キャンプは それ自体が「産業」になって、ちょっとした観光地になっていたかもしれない。

もちろんそうなったら、キャンプはたぶん、平等とは縁がなくなって、壮絶な格差社会に 変貌したかもしれない。それでもたぶん、飢えてなくなる人の数は、 マザーテレサが「きれい」でいたときよりも減った。

マザーテレサ批判する側のお話読むと、頑固で融通が利かない側面があったりとか、 実はけっこうお金に汚い側面あったりとか、 いろいろ出てくるみたいだけれど、むしろそのほうが人間くさくて親しめるなと思う。 それを見ないふりして、「きれい」だけを褒めそやす人たちというのは、やっぱり何か違和感がある。

「正しさ」とか「よさ」みたいなものを、不作為の免罪符にしてはいけないんだと思う。

2008.04.16

「初心者」親和的なインターフェース

WordPress のこと

WordPress は、サイト名とページ名を『≫』で区切る。

エントリー書いて、「はてなブックマーク」みたいなサービスに記事が載っかると、 この区切り記号が文字化けして、なんだか見づらくなる。

ブクマするたびに自分で書き直したり、ブクマしてくださった方が直してくれたりするんだけれど、 すごく面倒くさい。何とかしたかったんだけれど、そもそもそれをどうやって調べればいいのか、 まずそれが分からない。

「はてなブックマークでなんだか題名が文字化けする」なんて、 検索エンジンでそのまんま検索しても、引っかからない。

結局どうすればいいのか分からなくて、Twitter 上でそのまんま質問したら、 「ヘッダを編集すればいいですよ」なんて、何人かの方から教えていただいた。

元々が他人様のテンプレートを使っているページだから、その教えはそのまんま使えたわけでは なかったけれど、とにかく「タイトルを変更する」という言葉で検索をかければ、 問題が解決しそうなことはよく分かって、実際そのとおりになった。

MovableType は楽だった

昔のMovableType は、こんなときすごく楽だった。

プログラムは改良を重ねてて、なんだかごちゃごちゃしてたけれど、「これをやりたい」 なんて思ったことは、ほとんどの場合「インデックス」ページのどこかに記述されていて、 書き換えれば何とかなった。

なんか漠然とやりたいことあったら、とりあえずそれを検索すると、「○○を書き換えましょう」 なんて記事が見つかるから、今度はその記事に書かれてる内容で、インデックスページを検索する。

HTML なんて今も昔も読めないんだけれど、検索すると、とにかく記事と同じように記述されてる場所が 見つかるから、言われたままにインデックスページを書き換えると、やりたいことが実現できた。

リンクを張ること。ブクマボタンをつけたり、カウンターをつけたりすること。 ブログパーツを貼り付けること。前のblog はいろんなものをくっつけていたけれど、 MovableType は「検索」によく応えてくれて、素人でもどうにかなった。

モジュール化は初心者に厳しい

MovableType のバージョンが上がった。何とか使おうとしたけれど、あきらめた。

バージョンが上がったMovableType は、プログラムが一新されていて、 徹底的にモジュール化がなされていた。

どこ見ていいんだか途方に暮れるぐらいにごちゃごちゃしていて、 その代わりそこを探せば何でも書いてあった「インデックスページ」は、 モジュールが数行並んでるだけのシンプルなものになった。

その代わり、シンプルなページは検索を拒んで、 今までやってたことを再現するのにいったいどこ見ていいんだか、全く分からなくなった。

インデックスを見る。モジュールしか書いてない。案外親切で、使われてるモジュールには 全てリンクが張られてる。リンク先に飛ぶ。またモジュールが並んでて、リンクで飛ぶ。

新しいMovableType は、深いところでは5 階層ぐらい潜らないと、書き換えるべき場所に たどり着けない。題名書き換えるとか、エントリーの内容整理するとか、 メーカーが想定している、簡単なことをやるだけなら、たしかに敷居は下がったのだけれど。

モジュール化というやりかたは、たぶん「分かってる人」、あるいは「教科書片手に何かする人」 にとっては、見通しがいい、シンプルな構造に見えるのかもしれないけれど、 分からない人間、検索エンジンと二人三脚で、理解しないでコピーする初心者にとってはすごく厳しい。

お城みたいに構造化されたモジュールを前に途方にくれて、URL 放り出して、blog ツール変えた。

初心者だって進化する

昔の初心者は、本屋さんでマニュアル買って、目的の場所を何とか探して、 びくびくしながらファイルを書き換える。そんな人たちにはだから、 見通しがいい構造が欠かせなくて、各モジュールを小さくすれば、たぶんそれだけ敷居が下がって、 プログラムに対する親しみやすさを持ってもらえる。

今の初心者はたぶん、ググって試して自爆して、真っ白になった画面を前に、 今度は「真っ白になっちゃいました」とか、またググる。

強力な検索エンジンの力を得た素人は、勉強しないでいきなり解答にたどりつく。 みんな恐れを知らない。ネットの先には親切な人しかいないと信じてる。それが どんなに危険な場所でも、バックアップ取らないで、平気で書き換えて自爆する。

初心者はいつの時代にも初心者だけれど、時代が変わって、初心者もまた、 昔ながらの初心者ではなくなっている。「初心者にあわせた」インターフェースもまた、 時代とともに変化しないとおかしい。

検索親和的なインターフェースがほしい

自分が使ってるパソコンは、ずいぶん前から「整理」をあきらめて、文章書いたり、 書類書いたり、書いた片端から同じフォルダに放り込んで、後は忘れてしまう。

ファイルの数は1000を超えてて、ファイルの名前も適当だから、 もう人間の目で探すのは不可能だけれど、デスクトップ検索ソフトで探せばすぐだし、 ハードディスクの全文検索機能を使っても、検索対象にするフォルダが一つしかないから、すぐ見つかる。

何か初心者向けのインターフェース作るときには、初心者に「人間」単独を想定しちゃいけないんだと思う。

人は道具を使う。10年前の、本しかなかった頃の初心者と、何かあったらまず検索する、現代の初心者とでは、 「人間」部分は一緒でも、「人間-機械系」としての振る舞いは、昔と全然違う。

「初心者」に向けて、人間親和的な進歩を思考するならば、blog ツールはこれから先、 総GUI 化したりするのだろうけれど、それをやると、もしかしたら初心者は、そんなツールを 見捨てるような気がする。複雑なことはできないだろうし、使いかたを検索できないし、 何か新しい発見したところで、それを画像でキャプチャしないと、体験を共有することすら出来ないから。

乗り換えた先のWordPress は、それでもMovableType に比べればずいぶん複雑になったけれど、 探索すべき階層が1 層で済んでるから、検索できるし、検索した内容を、 それらしい場所にコピーすれば、何とかやりたかったことが実現できる。

「検索」親和的なインターフェース目指すなら、階層構造止めにして、すべて1枚のファイルに 収めてしまえばいいんだと思う。それやると、複雑なプログラムなんかだと 何千行にもなってしまって、人間が必要な場所を探すのは不可能になってしまうけれど、 どんな問題に突き当たっても、「検索」ひとつで何だってできるようになる。

それをやると今度は、素人が適当にファイル編集しては、すべてが台無しになるケースが 多発する。だからファイルには自動バックアップをつけておいて、数世代分、 クリックひとつで時間をさかのぼれるようにしておけばもっとありがたい。

検索エンジンの力得て、勉強もしない、理解もしない、そのくせ恐れることを 全然知らない現代の「初心者」は、初めて銃を持った子供みたいに振る舞う。 子供は何でも撃ってみるし、場合によっては自分の足だって狙うだろうけれど、 中身は子供だから、それを禁じられたら、きっと不満を持って怒り出す。

初心者に必要なのはきっと、「自分の足だって簡単に撃て」て、なおかつ 引き金引いてから思い直せば、いつでも後戻りできる、そんなやりかたなんだと思う。

2008.04.15

パッチワークとしての言葉

コメディアンの「爆笑問題が」、テレビでプロファイリングの専門家を取材していた。

片割れのほうは相変わらずうるさかった。神戸連続児童殺傷事件のことが話題になってて、「俺は最初から、犯人が子供だと分かってました」とかしゃべってた。

あの脅迫文はたしかに整っていたけれど、あれはあくまでも「パッチワーク」であって、 つぎはぎ切り貼って大人文章目指すのは、要するに子供のやりかたなんだと。

この人はたぶん、自分の言葉で文章書いてるんだろうなと思った。

最初はパッチワーク

もうずいぶん昔、ブログとか書き始めて半年あまりは、自分はずっとパッチワークだった。 いろんなサイトをかけずり回って、面白そうな文章探してきては切り貼って、 「継ぎ目」を一生懸命整えて、一見自分で書いたような文章を仕上げて載せる。

まだまだぎこちなかった「自分の言葉」は、なんだか上手な人たちの言葉に比べるといかにも 陳腐で、子供っぽくて、比べるのが嫌だった。もっと上手な人の言い回しもらってくると、 自分の文章が大人びて、「高尚」そうに見えた。一生懸命切り貼った。

パクリはパクリなりに一生懸命書いてたし、アクセスもほとんどなくて、何度も 書き直したりしてたから、たぶんその頃の文章だって、外面はそれなりに 整ってたはずだけれど、時間がたってたくさん書いてみて、 何だかつながりの悪さが目についた。

「継ぎ目」は目につくようになると気になって、どう整えても流れが乱れて、 そのうち切り貼るの面倒になった。

身につく「流れ」のこと

たぶんたくさん書くことで、「流れ」みたいな感覚が身につく。

切り貼った文章は、見た目はたしかに整っているんだけれど、どれだけ文章を整えても、 やっぱり「流れ」が悪くなる。自分の言葉で文頭から流してきて、 もっと上手な、パクってきた部分に入ると目線が乱れて、何だかそこだけ目立つ思えてくる。

流れを重視して、パクるの減らして、自分の文章は、全体に子供っぽい、 陳腐な表現が増えたけれど、何となく自分のリズムみたいなものが出来て、 今でも一応続けてる。

爆笑問題の片割れは、やっぱり言葉のプロなんだろうなと思う。 それが小説であれ、コントの脚本であれ、あの人たちはたぶん、 当時から自分の言葉を記述して、多くの人に表現する必要に駆られていて、 そんな経験がたくさんあったからこそ、犯人が書いた文章に埋もれる 「縫い目」に対する違和感もてたんだと思う。

「iモードストラテジー」のこと

iモード躍進の立役者として大活躍していた夏野 剛 という方が、 「iモード・ストラテジー」という本を書いている。

iモードという全く新しいビジネスは、今までにはない考えかたと、価値観とを 基礎に作り上げたもので、その成功は、いわば最初から予定されていたなんて。種明かしの本。

iモードは大成功していたし、作者もまた、iモード成功後もNTT に残って大活躍されたすごい人なんだけれど、 「iモードストラテジー」という本それ自体は、何だかパッチワークだなと思った。

ベストセラーになった「iモード事件」の中で、夏野 剛 という人は、 先の見えない状況を直感で切り開いてしまうような、勢いにあふれた、 すごく魅力的な人物として描かれる。

「iモードストラテジー」は、まさにその本人が書いた言葉であるはずなのに、 本の中には複雑系のバズワードがたくさん出てきて、言葉は小難しい、借り物っぽい言葉に あふれてて、何だか「小物」っぽい、自らを大きく見せようと必死になってる様が透けてくるようで、 ちょっと残念だった。

本人の実像は、あれだけの壮大なインフラを築き上げて大成功した人物なんだから、 実際問題すごくないわけがなくて、たぶん自らの目で経験したことを そのまんま記述するだけで、誰もが心躍る冒険譚を紡げるはずなのに。

読者の邪推にしか過ぎないんだけれど、あの本を書くときに、 作者の人はたぶん、描かれた自分と対峙したんだと思う。描かれた自分の「きれいさ」に 負けて、きれいな言葉を切り貼ることから自由になれなくて、あんな言葉紡いだんだと思う。 本当は、「本物」のほうが何倍もかっこいいのに。

その人が「すごい」人であればあるほどに、その人にははきっと、 「きれいな自分」に打ち勝つ仕事が発生する。文章の整いかたとか、かっこよさとか、 外面整えること考えてパッチワークに走ってしまうと、読者にはたぶん、「縫い目」ばっかりが目に入る。

見えたものを見えたように、自分の言葉で記述することが大切なんだと思う。

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