2010.09.17

通過儀礼が事後的に合理化する

機能の豊富さだとか、造形の緻密さだとか、何かを「好みだ」と判断するときの、 合理的な理由というものは、けっこうな割合で、後付けされるものなんだと思う。

判断というのは、やっぱり不合理に行われることが多くて、人間は結局「好み」で いろんなものを決定するけれど、何かを好きだと判断したとき、何らかの通過儀礼を そこに挟むと、「好きの閾値」が大いに下がるような気がする。

犬の足形を作った

休みに旅行に行って、犬の足形をとってきた。

行った先で配られていた、「ペットと一緒には入れるお店」のリストに、たまたまそういうサービスを 行っている工房があった。粘土の板に、飼い犬の足形を押して、陶板に焼いてもらって、 送料込みで3500円。

陶芸作家の人が一人でやっている、ごく小さなお店だったのだけれど、犬も「お客さん」扱い してくれる工房は他にはなかったからなのか、陶板のバックオーダーはたくさんあって、 今から足形をとって、出来上がりはずいぶん先になります、なんてお話だった。

陶器を買った

犬の足形を陶板に焼いてもらって、このとき一緒に、そこで販売されていた、 いろんな陶器を購入した。

どちらかというと「奇妙に」近い、独特な形をしたコップやお皿がたくさん売られていて、 あえてそうしているのだろうけれど、どの陶器も微妙に歪んだ造形で、同じ形のものは 一つもなかった。

こういうのは、それが好きなら「作家性」だし、それが嫌いなら、単なるいびつな陶器なんだけれど、 その工房から、いくつかのティーカップだとか、マグカップだとかを購入して、 今はずいぶん気に入って、それを普段使いしている。

好きになると合理的に聞こえる

「きれいな形よりも、手になじむ形を目指しているんです」だとか、 「ろくろを回して、おもしろいと思った形を目指すと、どうしてもこうなっちゃうんですよね」だとか、 作家の人が説明してくれた。

こんな言葉は多分にテンプレート的で、恐らくは陶芸作家の人たちは、10人が10人、 大体同じような内容を語るんだろうけれど、このときはこの人の言葉がずいぶん響いて、 結局いくつかの食器を購入することになった。

自宅の周囲にも、何件か、食器を扱うお店がある。整った磁器も販売しているし、 有田焼だとか、備前焼だとか、もっと「有名な作家」が作った食器、 やっぱりわずかにゆがんだ、「作家性」みたいなのを感じさせるものは、 以前から購入することはできた。

ところがこういう人たちの「作家性」は、自分たちにはどうにも響かなくて、 ゆがんだ食器は重ねられないし、こういうのはどこか不安定で、 時々何となく貧相に見えて、あまり食指が動かなかった。

もっと大規模な工房と、今回買った個人の工房と、陶器を作っている数でいったら、 恐らくは100倍以上の開きがあるのだろうし、それを工業製品としてみたときには、 たとえ同じ手作りであっても、たくさん作っている工房のほうが、品質はより優れている 可能性が高いのに、今回購入した陶器製品は、形だとか、手触りだとか、 たしかに説明されたとおりに手になじんで、見た目に面白く思えた。

通過儀礼のこと

専門店で売られている陶器製品に魅力を感じることができなくて、観光地の、 個人の陶芸作家の作品に、購入に至る魅力を感じることができたきっかけというものは、 やっぱり「犬の陶板」だったのだろうと思う。

犬の陶板を注文するという、こういう機会でもなければ絶対にやらないような、 不合理な行動というものが、恐らくは通過儀礼として、それからしばらくの間、 その人の振る舞いを書き換える。

不合理な、普段ならやらない行いをあえて行ったあとでは、おそらく人間は、 そこから先の行為を、可能な範囲で合理化しにかかる。

不合理な注文を行ったあとだから、そこで販売されている商品は「いいもの」に見えたのだろうし、 奇妙にいびつな、普段はあまり見ることのない、「手になじんだ」を目指したという、 独特の食器というものが、そのときは、今でもそうなんだけれど、やけに合理的な、 魅力的なものに見えて、結局今もそれを使っているのもまた、通過儀礼の効果なのだと思う。

通過儀礼を意図した不合理を、あえて顧客に押しつけることで、そこからしばらく、 その人の財布は緩んで、恐らくは満足度も高くなる。

こういうのは何かに応用できそうな気がする。

2010.07.12

グレーな需要を掘り起こす

「欲しいもの」と「欲しくないもの」との間には、たぶん「お金を払うほどではないけれど、あるならほしい」という、グレーな需要というものがあって、値下げをいくら行ったところで、お金を支払うという動作がそこにあるかぎり、こうした受容は掘り起こせない。

グレーな需要は、お金の支払い方だとか、商品の見せ方を変えることで、けっこう大きな市場として、掘り起こせる可能性があるのだろうと思う。

普段読まないものを読みたい

自分がお金を払って買う雑誌は、今だとせいぜい「ムー」ぐらいなんだけれど、医局で当直していると、「週刊実話」だの、「DIME」だの、他の先生がたが置いていった雑誌が積んであって、普段だったら手に取ることはない、こういう本をパラパラめくると、けっこう面白い。自分が直接興味がある内容でなくても、そういうものに興味がある人がいて、それを面白がる人が書いた文章というのは、読んでみるとやっぱり、面白いから。

恐らくはたぶん、あえてお金をそれに支払ってまでは読みたくないけれど、あるならちょっと読んでみたい、というグレーゾーンの需要は、本当はけっこう大きいのだと思う。

「実話ナックルズ」だとか、「漫画大悦楽号」だとか、カストリ雑誌とか、三流劇画誌なんていわれたジャンルの血を引く雑誌はまだまだあって、こういうのを普段買う機会はないんだけれど、読めるものなら、ちょっとどころかぜひとも読んでみたかったりはする。ニューズウィークの英語版を読んでるようなエリートだって、当直室の片隅に、英語の論文雑誌と一緒に、こういうのが山と積んであったら、こっそりページをめくるだろうし。

値下げでは購買につながらない

「ちょっと読んでみたい」というのはしっかりとした需要なのに、ここを掘るのは難しい。スキャンダル雑誌みたいなのが、じゃあ1冊600円ぐらいするのを、たとえば100円に値下げすれば「ちょっと」が実現するかといえば、ふだんニューズウィークを読むような人は、やっぱり買わないだろうと思う。

こういうのをたとえば、電子書籍で、毎月一定の金額を支払ったら、そのサービスに登録してある雑誌を好きなだけ読んでいいよ、というようなサービスを展開してほしい。漫画喫茶を電子世界でやるのとだいたい同じだけれど、一定金額を支払って、何十種類かの登録された雑誌をダウンロードして、自由に読めるようなサービス。お金はどこかの会社が一括で集めて、雑誌ごとのアクセス数に応じて、集まったお金を配分するようなやりかた。

今みたいな「お試し読み」でない、雑誌のサービスパックみたいなやりかたは、恐らくは出版社ごと、ジャンルごとに、これから登場してくるのだろうけれど、できることなら、こういうのは、「固い」雑誌と、その対極にあるような、読むだけで頭が悪くなりそうな、そういう雑誌とを、ごっちゃにしてほしい。

固い雑誌に出来ること

昔はたとえば、エロマンガ本を書店で買うときには、エロ本を真ん中に、上下をAERA だとか、週刊金曜日みたいな固い雑誌で挟んで、店員さんの目から、本当の欲求を隠そうだなんて、なんてよくやっていた。こんなことをしたところで、もちろん会計があるから隠せるわけがないんだけれど、固い雑誌と、そうでない本とを一緒にすることで、本屋さんはその分多くの収入を得るわけだから、そのへんは黙って会計を済ませてくれた。

恐らくは、「本屋さんの目線」みたいなものは、自分自身の内側にもあって、自身の目線圧力が、「ちょっと読みたいんだけれど買うほどじゃない」という、グレーな需要を、購買から遠ざけている。

電子世界で、固い本と、その対極にある本とを混ぜる意味というのはこのへんにあって、固い本というのはたぶん、その下にある固くない本を、自身の目線圧力からも隠蔽してくれる。神田の芳賀書店みたいに、「最初からエロ本しか置かない」というポリシーでやると、たしかに買いやすいんだけれど、そういうお店には、「ちょっと読んでみたい」人は、今度は入りにくくなってしまう。

支払いのルールが変わると、いわゆる「固い雑誌」には、「固くない思惑を隠蔽する」という役割が生まれる。

護送船団みたいに、固い言論雑誌みたいなものが支払いの大義を、隠れた需要を掘る役割を、実話スキャンダル雑誌みたいものが担うようにすると、恐らくは今までだったら支払われることの無かった、グレーな需要に対して、支払いを期待することが出来る。もちろん「固い雑誌だけを読みたい」という人は、それだけを購入すればいいんだろうけれど、カストリ雑誌にあえてお金を支払いたいとは思わないけれど、読めるならちょっとだけ読んでみたい、なんて人なら、こういうサービスがあったら、便利にお金を払う。

それは恐らく本や雑誌でも、あるいはゲームでも、見せかたを変えること、支払いのやりかたを変えることで、新しく掘り起こせる需要というものがあって、ルールを変えて、それぞれの役割を変えてみせることで、いろんな形の購買というものを、そこから生み出せるんだと思う。

2010.04.25

不便が強みになる

お金というものは、 「説得力のある不自由」を提案できた人に対して支払われる者なんだと思う。

消費者にとっては、便利になるほうがもっとありがたいのだけれど、便利からはお金が逃げていく。

売るものだとか、情報それ自体の価値というものは、もちろん粗悪品よりも良品のほうがうれしいけれど、銭勘定だけを考える上では、恐らくは「良さ」というものには、それほど大きな意味はないのだと思う。

情報は自由になりたがる

情報は自由になりたがるけれど、自由からはお金も逃げていく。

物から自由になった、純粋な情報に近い、インターネット上のテキストだとか、アプリケーションは、それ自体からお金を得ることが、しばしばとても難しい。

情報が便利になればなるほどに、お金はそこから逃げていく。裏を返せば、情報という物に、何かの不自由を付加したものがメディアであって、不自由を付加されて、初めてその情報は、お金に紐付けられるのだと思う。

消費者に、説得力のある不自由を提案で気は人は、お金が得られる。

情報に、同時性だとか、そこにいないといけないという不自由をくっつけると、それはライブだとか講演会になる。インターネットで文章を公開するよりも、講演会に参加する人は少ないだろうけれど、講演会はしばしば、文章を書く人たちの、貴重な収入源になっている。

情報が、紙という不自由と結びついたものが本であって、昔はこれよりも自由な物が他になかったから、本は莫大な富を生み出した。

PCでインターネットという、自由な情報を扱う上での、ほとんど正解に近い媒体が生まれて、情報は本当に自由になったけれど、自由になって、お金はそこから逃げた。

クリック一つで海賊版がダウンロードできる世の中で、わざわざお金を支払って、面倒な制限がついた正規品を購入する人の動機は道徳であって、道徳は、お金を払う根拠としては弱い。「どうしてお金を払う必要があるの?」なんて疑問が消費者からでるような場所では、もう商売なんて成り立たない。

電子書籍に対抗する方法

昔ながらの出版社が、電子書籍メディアを滅ぼそうと思ったならば、新刊の海賊版を、電子データとしてさっさと流してしまえばいいのだと思う。

電子書籍はたしかに便利で、クリック一つでその場で本が購入できるし、本屋さんだとか、取り次ぎの人たちを回する必要がないから、本の価格も安くできる。

便利さの競争を行うならば、紙メディアと電子メディアと、だから対抗するのはどうしたって難しいけれど、お金というのは不便と結びついている。

漫画本は絵を見れば分かるからなのか、世界中で海賊版が出回っていて、今はもう、発売されてから3日もすれば、どこかで海賊版が出回った、なんて話が伝わってくる。日本語の小説は、そういう意味では海賊版を欲しがる人の絶対数が少ないだろうけれど、電子書籍が普及する前の段階で、「電子は無償」が当たり前になってしまったなら、もう電子書籍というメディカらは、お金が生まれない。

こういうのは焦土作戦で、紙のメディアだってダメージを受けるだろうけれど、紙の本を買う人は、たとえ電子の海賊版が出回ったところで、やっぱり紙の本を買うだろうから、被害はたぶん、電子出版の人たちよりは少なくて済む。

「電子は無償」が、書籍の分野でも文化になってしまったなら、もう電子出版というメディアでは、誰も食べていけなくなる。そこでプロとして食べていく人は、そうなると紙のメディアにとどまり続けるだろうから、電子書籍というメディアは、もう脅威でなくなってしまう。

競合潰しのフリー戦略

「フリー」戦略というのは、「無償」という意味でも、「もっと便利」という意味でも、いずれにしても競合殺しの武器として使うのが正しいんだと思う。

「フリー」という本の中では、情報を自由にすることで、結果としてみんなが幸せになりました、というケースがたくさん挙げられていたけれど、正しいタイミングで流された海賊版は、競合する相手の生態系を枯らしてしまう。

これだって一種のフリー戦略なのだろうし、「みんなが幸福に」なった、フリー戦略の成功例として取りあげられているやりかたにしたところで、たぶん「みんな」に含まれていない競合者は、「フリー」に潰されて、その場所で生きていけなくなっているのだろうと思う。

たとえば「電子はフリー」というカードが切られたとして、電子メディアを応援する人たちは、それでも電子書籍リーダーを購入するだろうし、それは間違いなく便利な道具になのだろうけれど、「もっと便利な海賊版」を真横に置かれると、その便利さは説得力を失ってしまう。

海賊版はもちろんルール違反で、それに手を出すのは悪いことだけれど、今はなんだか、支払いの逆転現象みたいなことが、いろんな場所で起きている。

Warez なんて言葉があった昔は、違法改造したソフトだとか、海賊版を扱えるのはPCに相当詳しい人しかいなかったのに、今では逆に、PCに詳しい人たちが、あれ買った、これ買った、というのを日記に書く一方で、九州の校長先生みたいに、PCに強いとは思えないような人たちが、おっかないP2P に手を出して、真っ黒な動画をコレクションしてたりする。

「便利であること」それ自体は、たぶんそのメディアにとっての弱点であって、それを脅威に感じて対抗するやりかたは、むしろ墓穴を掘っているのだろうと思う。

2010.01.27

弱い何かに財布を接続する

自分のためにお金を使う人は減っている。将来への不安とか、不信みたいなものがある限り、この傾向は変わらないと思う。

少し前なら、自分のすごさを表現するために無理して高い車を買うとか、「あえてお金を使ってみせること」というのが、ある種のかっこよさにつながっていたけれど、そうしたリンクはもう切れている。

で、今は何となく、「か弱くてかわいい何か」に強者の財布を接続できた人が、上手な商売を行っている気がする。

  • トリンプのサイトにはおねだり の機能がついていて、商品を買う女性から、男性の側に、支払いをお願いすることができて、これが大成功しているらしい
  • GREE というサイトのマスコットであるクリノッペがすごい らしい。自分自身の分身である「アバター」にお金を支払うことに抵抗がある人でも、加入すると勝手についてくるペットと遊ぶうちに、そっちにはお金を使ってしまうらしい
  • ペットビジネスは、「弱さ」と「財布」が直結していて、どちらかというと、小型犬ほどお金が出ていく。大型犬、フルサイズの狼犬なんかだと、ご飯も「鶏の首」みたいな、えらくスパルタンなものになるけれど、小型犬だと種類が豊富で、チワワ用の一食が700円とか、高いのがずいぶん売れているらしい
  • 子供が商売の王道なのは、今も昔も同じ。子供が映画を見たいと希望すれば、親もお金を支払う必要がある。やっぱり「ドラえもん」と「クレヨンしんちゃん」は強いらしい。お母さんを巻き込んだ平成ライダーは大成功して、もう少しマニア向けに大人な内容にした最近のライダーは、売り上げがちょっと翳ったらしい
  • ヒトパピローマウイルスワクチンは、若い女性に向けたものだけれど、自費だから数万円する。で、「おばあちゃんが孫にワクチンをプレゼント」する、なんて事例が紹介されていた。高齢の人が、若い人に「未来」をプレゼントするというのはたしかに美談なんだけれど、こういうお話が広まると、似たような行動をする人が、あるいは増えるのかもしれない
  • 新聞も売れなくなっている。「読む人」に訴えるやりかた、いい記事を書く、というのは、もはや購買を刺激しないのだと思う。むしろたとえば、「お孫さんに社会の正しい見かたをプレゼント」みたいなテーマで、「お爺ちゃんがお孫さんに朝日新聞を契約して、未来の日本をプレゼントした」とか、そういうエピソード作って広めると、少し違った購買を引き出せる気がする。「読む人」に向けた記事と、「読ませたい人」に向けた記事とでは、ずいぶん違ってくる。一面トップに「今日は敬老の日」とか並ぶ新聞になるんだと思う
  • 購買でなく、道徳的な振る舞いも、「弱い誰か」を仮想すると引き出せるのだと思う。ゲームだとか漫画は、海賊版の被害が相当に大きいらしい。「自分のため」ならば海賊版で満足する人も、あるいは「か弱い誰かにプレゼントをする」ときなら、海賊版でなく、正規品にお金を払う、道徳的なユーザーになるような気がする。今はそうでもないみたいだけれど
  • 財布を持った人にとっての「かわいらしさ」というのは大事なんだと思う。高齢者の患者さんなんかだと、数百円のおむつとか、食事代に「高い」と文句を言われるのは当たり前で、高いなんて言ってたご家族が、ペットショップで2000円の天然鹿肉をまとめ買いしてたりする

恐らくは「弱い何か」に対して「強い人」でありたいというのは、それなりに普遍的な感情で、「いい人」、「強い人」であることを表現するためにお金を使う、道徳的な振る舞いを引き出すという道は、まだ残っているような気がする。

弱いとは何なのか、かわいいとは何なのか。このあたりに鍵がある。

2010.01.17

「学」は平凡に価値を付加する

根拠なんてなくても、すごい技術を持っていればそれでご飯が食べられるけれど、状況が変わったり、才能のある素人が業界を浸食すると、技術は安く買いたたかれて、最後には業界が滅んでしまう。

業界の仕事が「学」として確立すると、平凡であることにも価値が生まれて、お金を取る根拠が生まれるのだと思う。

才能は買い叩かれる

プロが「才能の無駄遣い」を発揮する場面が増えた。ニコニコ動画もそうなんだろうし、blog が増えて、専門家が自分の意見を書く場面が増えて、フリーライターの人たちなんかは、今はけっこう大変らしい。ある分野の専門家は、たぶん「書くこと」以外の仕事で食べているのだろうから、何かを書くことそれ自体は「才能の無駄遣い」であって、それは無償で為されることが多いから。

いろんな業界の「才能の無駄遣い」は、それを見せてもらうのははすごく面白いのだけれど、残念ながらそれは「無駄」であって「無償」が前提で、そのうちそれが当たり前になると、業界もろとも細ってしまう。

作家の人が、無償で文章の提供を求められたりだとか、あるいは自分たちの時間外残業が、「熱意」の一言でボランティア査定されたりだとか、いろんな分野のプロが「才能の無駄遣い」を見せていくにつれて、プロがプロとして生きていける場所は、むしろだんだんと狭くなってしまう。

プロはだから、自らの価値を下げるような仕事をしてはいけないんだけれど、それにはやっぱり限界があるし、「業界のしきたり」みたいなやりかたで、自分の生活を守ろうとすると、今度はたぶん、「既得権」とか「カルテル」とか叩かれる。JASRAC みたいに。

「学」を作って生き残る

医学なんかはたぶん、大昔に活躍した呪い師の末裔で、今は薬草を調合する必要もない。症状をみて、判断を下して、処方箋が書ければ、仕事はできる。

外科みたいな科はまた話がずいぶん違うんだけれど、内科医のお仕事というのは、突き詰めれば「診断」と「処方」だけだから、それが血栓溶解剤だろうが抗がん剤だろうが、薬の名前さえ知っていれば、それを処方することはできる。

医学書なんて本屋さんに行けば売っているし、薬の本があれば、処方も出せる。じゃあたとえば、医療が「自由化」されて、医師免許なしでも、誰もが自由に処方箋が書ける世の中になったとして、たとえそうなっても、やっぱり病院に来る人は多いような気がする。

これはやっぱり、医療という業界が、ずいぶん昔から「学」として確立していることを宣言しているからなのだと思う。それが「学である」と宣言することで、再現可能な平凡な技術が、平凡であることに価値が生まれる。「学」に対して求められるものは「平凡」だから、「頑張った俺が無料でやった」ものがあふれても、「プロの作った平凡」が、価値を失わない。

これこそが学問の力なんだと思う。

ゴッドハンドは平凡

自分たち医療の業界で、たとえば「ゴッドハンド」なんて言われる人たちは、やっていることは「平凡」であることが多い。ゴッドハンドは、「その状況でもなお平凡でいられる」人が、全世界でその人しかいないだけの話で、ゴッドハンドがやっていることそれ自体は、「単なる手術」だし、「単なる治療」であることが多い。脳外科の福島先生も、ブラックジャックも、スーパードクターKだって、、そのへんは変わらない。

たとえば ブラックジャックしか手術ができない患者さんがいたとして、BJ じゃない医師にだって、その患者さんに手術が必要であるぐらいのことは分かる。医学は「学」として確立しているから、判断には再現性があって、ここまでは誰でも到達できる。ただしその患者さんにおいて、「教科書どおりの治療」ができる医師が、全世界でBJしかいないから、彼は物語の主人公でいられる。

「学」を宣言して生き残っているたいていの分野では、統一されたやりかたというものがあって、センスや能力の比較、定量ができる。ブラックジャックなら100人治せる患者さんが、研修医に手が出るのは、そのうち2人とか。十分なデータが与えられたなら、誰もが同じ解答に到達できるところが、「神」クラスになると、患者さんを一瞥しただけで、答えがすぐ分かるとか。

再現性と、定量性と、両者が備わると「学」が成立して、「学」が「平凡」を規定すると、その平凡に価値が生まれる。

たとえば編集は学なのか

Amazon のKindle みたいな道具が上陸しそうで、出版社の人たちは、今大変なのだそうだ。原作者がいきなり出版、という道がかなり容易になる世の中が来て、そうなると、出版社の意味が失われかねないのだと。

病気を治すのに医師が必要であるように、原稿の「病気」を診断、治療して、それを「健康な」状態に、読みやすくて手に取りやすいものに仕立てるためには、編集者とか、マネージャーみたいなプロの助けは、個人的には今、すごくありがたい。

原稿もやっぱり「病気」になる。

「自己顕示病」だとか、「スタイルの強制」という病、独りよがりな努力に賞を与えて、それを捨てられない状態だとか、原稿は簡単に「病気」になって、これはたぶん、たくさんの原稿を読み慣れた人なら「診断」ができて、「治療」のやりかたも、ある程度確立している。

文字を書ければ文章は書ける。これは誰にでもできることだけれど、読みやすい文章、原稿として「健康」な状態を、個人で維持できる人はたぶん少ないし、どうせ文章を書くのなら、できるだけ「健康な」、売れる文章にしたいという需要は、無くなることはないのだと思う。

編集者を医療にたとえて、じゃあ編集というお仕事が、医療みたいに技術として、「学」として確立しているものなのかどうかが、よく分からない。伝説の編集者なんて言われる人がメディアでときどき紹介されて、みんな個性的に見えて、その技術に再現性がなさそうなのが、医療からみると違和感がある。

「編集」の業界には、たしかに名人がいる。名人が、じゃあ業界の1年生と比べて「どれぐらい」すごいのか、外野からは、そんなものさしが見えにくい。たとえば駆け出し編集者からベテラン編集者、個性のかたまりみたいな伝説の編集者とが集まって、彼らが同じ原稿を読んで、その原稿を売るために、誰もが同じアドバイスを返せるものなんだろうか?

編集者の言葉がみんな同じなら、自分のイメージする「編集学」はすでに確立しているのだろうけれど、時々ニュースになる、漫画家と編集者とのトラブルなんかを読んでいると、再現性を持った技術としての「編集学」というものが、あんまり見えてこない。

学が平凡に価値を付加する

それがはったりだろうが科学的に証明されたものであろうが、何か統一された方法論があって、再現性を持った答えを導けるものは、「学」を名乗れる。「学」を名乗ると、平凡を再現することに価値が生まれて、それを根拠にお金が取れる。

学のないところには、「才能」以外の評価軸が存在しない。平凡からお金を生み出す根拠が生まれないから、すごい才能に届かない、再現可能な平凡が買い叩かれて、業界ごと細ってしまう。

ネット時代になって、それでも変わらない業界と、「才能の無駄遣い」がもてはやされて、才能が買い叩かれて、気がついたら本当のベテランですら食べていくのが難しくなっている業界とがある。このへんを分けているのが「学」の成立なのであって、業界を引っ張るトップランナーは、生き残りをかけるなら、自分たちの仕事を「才能」ではなく「学」として、単なるすばらしさでなく、自分にしか到達できない平凡として、表現しないといけないんだろうと思う。

2009.12.28

案外やっていけるお店のこと

自宅から車で10分ぐらいのところに、小さくて、今にも潰れそうな本屋さんがある。休みの日なんかにそこを通って、人が入っているのを見たことがないんだけれど、もうずっとそこで商売をしていて、風景は変わらない。

店の広さはせいぜい12畳といったところで、品揃えも漫画本と雑誌ぐらい、駅の売店がちょっと大きくなった程度で、これといった特徴のないお店。

「そこを使っているのは子供なんだよ」なんて、最近教えてもらった。

平日の人の流れ

このへんは例によって妄想でしかないんだけれど、その店を潤しているのは、たぶん「学校の子供さん」なんだと思う。

店のそばには小学校があって、そこの子供たちが、たぶん帰りしなに、そのお店による。子供は車を運転できないから、町中にあるもっと大きな本屋さんにはいけないし、クレジットカードも持ってないだろうから、Amazon で何かを買うのも難しい。「お客さん」の数自体は、どれだけ多く見積もったところで、その小学校の生徒分しかいないけれど、こういう人たちは、実世界の店舗に頼る確率が高いから、大規模書店ほどにはお金を使わない、小さなお店に生きる目が出てくる。

「市場」といっても、せいぜい小学校1つでしかないから、こういう場所に、全国チェーンが算入してくる確率は低くい。お店はたぶん、小さな場所で、小さな商売を続けながら、案外ちゃんと食べていけるんだと思う。

そういう目で周辺を見渡すと、「プラモデルとモデルガンがやけに多い、いつ見ても誰もいない模型屋さん」とか、「何でやっていけているのかよく分からない古い呉服屋さん」だとか、お店とか、それぞれたぶん、学校の男子にモデルガンを販売してたり、あるいは学校指定の上履きを一手に販売していたり、たぶんそこにいる人にしか分からない、小さな商売ができるだけの理由が、そこにあるのだと思う。

人数だけでは分からない

自分たちは普段、「平日」を知らない。休日の、賑やかな場所しか見たことがないから、そこに住んでいる人たちが、じゃあ普段どんな振る舞いをして、どういう生活を送っていて、生活を続けるために、どういう形でお金を使っているのか、そういうのが分からない。

病院にこもっていると、「平日の人」とか「平日の町」がどうなっているのか分からない。こういうのはもしかしたら、仕事として町をリサーチしている人ですら、人口の動態みたいなものは把握しているのだろうけれど、「生活する人の動きかた」みたいなものを細かく観察できる人は、決して多くないような気がする。

「独立してスモールビジネスを」なんてお話も、どことなく、「平日を知らない人」の発想が多いような気がする。想定顧客は全国とか全世界、「町の地形要素」みたいなものを効率よく利用しよう、という話題は少なめで、夢先行、企画先行、継続性とか、兵站要素みたいなものは、あんまり話題として出てこない。

「兵站の話題はつまらない」という大前提があるから、blog 界隈みたいな場所だと、そもそもこういう話題は受けないだけなのかもしれないけれど、全世界に語れる夢なんて持っていなくても、食べていける場所というのは、丁寧に探すといろんなところにあるような気がする。

流れのどこかによどみを探す

たとえば訪問診療なんかは、「商売にならない」医療の代表みたいに言われるんだけれど、町のどこかに「高齢者の多く住んでいるマンション」を探し出すことができると、病棟回診と同じペースで「訪問」ができて、訪問診療には訪問加算がつくから、黒字が増えて、きちんと食べていけるんだという。診療の腕とか、人当たりの良さみたいな、まっとうな努力はしばしば報われないけれど、人の流れを読んだり、そこに住んでいる人たちの生活が想像できたなら、施行はきっと報われる。

それは子供の集まる学校であったり、あるいは中高年の人たちが教室を開いて集う平日の公民館だったり、病院のそば、ショッピングセンターのそば、たぶんいろんなところに「平日生活する人が利用する場所」というのがある。

「平日の人」は、たいていは何かの目的だとか、資格があってそこに集まる。そういう人たちはたいてい、たとえば小学生なら自動車に乗れないとか、モデルガンはほしいけれど、親御さんに見つかるライフルは大きすぎて拳銃しか買えないとか、「選別されているがゆえに欠けている」要素というのがあって、欠けた人に、足りない何かを販売できれば、それはきっと商売になるんだと思う。

2009.11.08

「普通の人」に向けたサービスのこと

恐らくは「便利であること」それ自体には、お客さんは魅力を感じないのではないかと思う。

「便利さ」に価値を見出すのは、新しいものに飛びつくのが好きな、ごく一部の人であって、 お客さんの多くは、便利であることよりも、「自分が真ん中にいる」感覚を共有することを好む気がする。

2つの入り口を持つ料理屋さん

うちの近所にあるショッピングモールに「ドリア専門店」と「石焼き鍋専門店」とが入っていて、2つのお店は、中で厨房を共有している。

お店はモールの角地にあって、図面上はたぶん、「角地にある大きな店舗」なんだけれど、中を仕切ってあって、「三角形に分かれた2つのお店」に改造してある。お客さんは、ドリアを食べたければドリアの門に、石焼きビビンバを食べたければ石焼きの門にそれぞれ入って、お互いの行き来はできないようになっているんだけれど、バックグラウンドでは、同じ厨房で、いろんな料理が作られている。

そこは要するに、「暖めれば出せるもの」をたくさん冷蔵で用意しておいて、学生アルバイトを雇って、火にかけた品物をお客さんに供給しているだけなんだけれど、保存が利くからなのか、メニューの数はけっこう多い。それぞれのお店で、「ドリア」と「鍋」と、だいたい20種類ぐらいずつ。

お店はだから、その気になったら「40種類の料理を出す大きな店」にすることもできたんだろうけれど、そのお店は、あえて仕切りを入れたのだと思う。

普通の人の普通の楽しみかた

恐らくは「普通のお客さん」は、典型的な楽しみかたをしたい。

たとえば異国のお祭りに迷い込んだところで、「普通の人」はたぶん、それを楽しめない。異国なんだから、何を見たって珍しいのだし、自分が面白いと思ったものを楽しめればそれで十分なんだけれど、普通の人にとってはたぶん、「自分が楽しい」ことよりも、「みんなと同じ楽しみかたができた」と納得することのほうが、もっと大切。

40種類のメニューを持った大きなお店は便利だけれど、そのお店を、普通の人が、じゃあどういう楽しみかたをしたらそれが「典型」なのか、大きなお店は分かりにくくて、たぶんお客さんは、「普通に楽しんだ」満足感を味わえない。

賑やかでなんだか楽しそうなんだけれど、どこから楽しめばいいのか分からない、こういうのはたぶん、「楽しみたいように楽しめる」ような、「強い」人には居心地いいんだろうけれど、「普通の人」は、たぶんマニュアルを渡されて、それをなぞって「はい楽しんだよね」って言われないと、楽しいとは思えない。

「顧客から見た風景をシンプルにして、分かりやすい楽しみかたを提供する」ことが大切なのだと思う。「何でもあり」を楽しめる少数に向けたサービスは、どこかでしぼんでしまうような気がする。

ニコニコ動画が複雑になった

ちょっと前のニコ動は、好きな単語を検索して、再生数の多い動画を楽しんで、タグをたどって面白そうな動画を探して、大体みんな、そんな風に楽しんでいたみたいだったから、安心だった。

今はなんだか、「いわゆるニコ動」以外にも、生放送とか大百科、コミュニティ、いろんな楽しみかたが提案されて、それぞれ連携して、便利になって、多様になって、結果として、「自分はたぶん真ん中を楽しんでいる」なんて、そんな安心感が遠くなった。今までどおりに遊んでいるのに、なんだか不安な気分。

これが文化祭とか、あるいは実世界でのイベントなら、たとえば「順路を回る」とか、「好きな歌手のコンサートを聴く」とか、主催者側はたいてい、「典型的な楽しみかた」というのを提示する。お祭りを楽しみたい人は「祭の正門」をくぐるってパンフレットを受け取るだろうし、コンサート目当ての人は、たいていは看板が立っていて、中庭のステージ前で待機していれば、そこでコンサートを楽しめる。

「普通の人」はたぶん、自分がそこを楽しむよりも、むしろ「みんなと同じ」を志向して、びくびくしながら「群れの真ん中」を探す。「いつも真ん中」感を提供しようと思ったなら、だから「たくさんの選択肢」を提供するよりも、むしろ「たくさんの門」を提供して、「つながり」は、バックグラウンドで提供したほうがいいような気がする。

今みたいな「何でもあり」の賑やかな入り口ページは、やっぱり難しい。

たとえば「いわゆるニコ動」を楽しみたい人なら、Google みたいな検索窓と、カテゴリーごとのタグで十分だし、「ニコニコ生放送」を楽しみたい人に向けたページなら、やっぱりそれはテレビの延長なんだから、入り口ページを開いたそのとたん、「世界の生放送」が勝手に始まるぐらいでちょうどいいんだと思う。コミュニケーションのページなら、そこはmixi そっくりのページレイアウトでいいわけで、たとえそこでやりとりされるのが動画サイトの話題とはいえ、コミュニケーションを提供するページからは、あえて動画を隠すぐらいでいいんだと思う。

ページを開いて、開いたそのとたん、「どうすれば典型的に楽しめるのか」が視覚的に提供されて、はじめてたぶん、普通の人は「楽しみかた」を理解できて、理解を提供できないサービスは、それがどれだけすばらしいものを提供していても、やっぱりどこかで天井に突き当たる気がする。

あくまでも「自分が典型的な普通の人」であることが前提での印象なんだけれど。

2009.10.04

完璧と無難

ある状況を支配している「完璧」なトップランナーに対抗するときには、 価格競争とか、品質競争とか、そういう努力を始める前に、相手の「完璧」を、 「無難」へと変換する何かを作らなければいけないのだと思う。

チーズケーキを売る店

15ヶ月ぶりに休みが取れて、那須高原に遊びに行ってきた。

旅行には「お土産」がつきものなんだけれど、恐らくは「那須高原のお土産」という 業界をリードしているのは、「那須高原 チーズガーデン」というお店で、 ここで売られている「御用邸チーズケーキ」という商品が、ずいぶんたくさん売れていた。

ここのケーキには「御用邸」という、ちょっとした権威がくっついていて、商品はそれでも1000円ぐらい。 室温保存で日持ちがして、おまけに固めに焼かれているからなのか、少々乱暴に扱ったぐらいでは壊れない。

お土産物として、このケーキはすごく良くできていて、そのお店には実際、 ツアーのバスが何台もやってきては、お店の中には様々な商品が山と積まれて、 チーズケーキと一緒によく売れていた。

「安さ」では「良さ」に対抗できない

チーズガーデンの近くには、他にもたくさんのお菓子屋さんとか、土産物屋さんがあって、 そこでもいろんなお菓子が売られているんだけれど、どれも今ひとつぱっとしないというか、 トップランナーのお店に比べてしまうと、お客さんの入りは今ひとつだった。

店によっては、「チーズガーデン」よりも大きな敷地を持っていて、販売されているお菓子の種類も充実していた。 価格にしても、たぶん品質にしても、「チーズガーデン」とそんなに大差はないはずなのに、 たぶんそうした商品は、そのお店を運営している人が期待したほどには、頑張りに見合った分の 成果を上げていないように見えた。

「那須のお土産」という一つの業界があったとして、 業界を牽引するリーダーが「チーズガーデン」なら、たぶん2番手以降のお店は、 同じ方向で「より良い」だとか「より安い」を目指してはいけないのだと思った。

2番手がどう頑張っても、方向が同じなら、それは「劣化コピー」になってしまう。「お土産」という、 伝統とか、名声が圧倒的な差として効いてくる業界においては、わずかな差違は、 越えられない壁となって、2番手の努力を無にしてしまう。

「完璧」が犠牲にしているもの

チーズガーデンのチーズケーキは、伝統も、権威も、価格も、 可搬性も持ち合わせていて、お土産としての性能は、たぶん完璧に近い気がする。

「完璧な商品」に、安さや品揃えといった努力要素で対抗しようと思ったならば、 まずは「完璧な商品」が完璧であるがゆえに犠牲にしている何かを探して、 そこをひっくり返さない限り、その努力に意味が生まれない。

チーズガーデンのチーズケーキについては、これは完璧な商品で、すごい人気であるがゆえに、 在庫を欠かすことができない。材料が安定していないと、商品を大量に供給することができないから、 那須高原だけでは材料を安定調達するのは難しいみたいで、そこで扱っている他の商品になると、 「フランスのチーズ」だとか「イタリアのワイン」だとか、那須高原とはあんまり関係のない商品が並ぶ。

完璧な定番商品は、たぶん定番であり続けるために、安全係数が高く取ってある。商品の瑕疵は 許されないから、恐らくは保存料みたいなものを欠かすことはできないだろうし、商品としての安全性を 高めるための工夫は、必ずしもたぶん、お菓子としての「性能」を高めることにはつながらない。

「完璧」は「ピーク性能」という価値の前に「無難」になる

2番手のお店は、「材料はオール那須、保存料無添加、その代わり作れるかどうか分からない」ぐらいの、 「不安定なチーズケーキ」を売り出して、それをぶつける、というやりかたがいいと思う。

その商品は、朝の10時に予約が必要で、店はそれから材料の調達に走って、夕方4時頃、 1000個の注文に600個しか応えられないとか、最悪「牛の調子が悪くて、 今日は作れませんでした」なんて看板ぶら下げて、買いに来たら店主が土下座してたとか、 それぐらいに不安定な製品。

「買えるかどうか分からない不安定な製品」を用意できれば、運がよければたぶん、 「那須に来たらあの店で予約」という、人の流れが生まれる。

不安定だから、お客さんの数は少ないだろうし、あるいはチーズガーデンの商品のほうが、 価格でも、品質でも圧倒的に優れているのだろうけれど、「不安定」を買いそびれたお客さんにとっては、 完璧であったはずのチーズガーデンの製品は、もはや「無難」であり、「次善」に思えてしまう。

「完璧」を「無難」に書き換えることで、そこで初めて、価格競争だとか、 品質競争みたいな、努力要素に意味が生まれて、2番手以降のお店は、競争の入り口に立てるのだと思う。

それでもトップは努力している

で、「チーズガーデン」にはすでに、こういう商品があったりする。

「オール那須」でこそないみたいだけれど、冷凍前提、解凍すると3日しか持たない高級品を売っていて、 これは崩れるし、保存が利かないし、常温にすると溶けてしまうから、距離があると持ち帰れない。

リーダーがリーダーであり続けようとしたら、リーダーは常に自分の弱点を自ら攻めて、 業界全体に、自ら新しい価値を提案し続けないといけないけれど、「那須のお土産」業界は、 リーダーが正しくリーダーの役割を演じていているのに、セカンドグループ以降は、 まだ「競争」を行ってすらいないように見える。

このへんにマーケティングの人たちが入り込むと、きっとまだまだ盛り上がるだろうし、 競争しているように見えて、実は競争は、始まってもいない業界というのは、 案外多いんじゃないかと思う。

2009.08.08

見栄と嫉妬の行動学

経済学は、人の振る舞いを、「利得」と「リスク」とのバランスで説明しようとする。

「利得」とか「リスク」に対する感覚というのは、どちらかというと個人的なものであって、 ネットワークを作った人、「社会」の振る舞いは、しばしば「利得」と「リスク」では説明がつかない。

恐らくは「見栄」と「嫉妬」という判断軸を導入することで、ネットワーク化した人の群れに見られる、 「経済的に不合理な行動」というものが、説明できるような気がする。

個人に不利で、社会にとっては有益な振る舞い、しばしば「利他的」と表現されるこうした行動は、 「見栄」によって駆動されるものだろうし、社会にとって最悪な、しかも本人にとっても、 それが必ずしも個人の得にならない行動というのは、たぶん「嫉妬」によって駆動される。

「嫉妬する上司」問題

たぶん「部下に嫉妬する上司」というのがいる。こういう人たちはしばしば、自らの土台もろとも、 組織を潰してしまうような決断を下してしまう。

能力主義の組織においては、そこにいる人は、能力の限界まで出世することになる。 平社員の時には有能であった人物も、出世することによって、どこかで「無能な上司」となって、そこで出世が止まる。

「上に行けなくなった上司」というのは、その地位において無能になった人物だから、 その場所でたいした仕事ができるわけでもなく、かといって下には戻れない。 悪いことに、自分が有能であったその場所には、もっと優れた若手が座っていたりする。

こういう状況に陥った上司は、たぶん部下に嫉妬する。嫉妬という感情を認めてしまうと、 上司は自らが無能であること、後続の若手に「負けた」ことを認めてしまうことになる。 無能が嫌なら努力すればいいんだけれど、「努力」は同時に、「嫉妬」という感情の存在を 裏付けてしまうから、ジレンマに陥った上司は、だから「一発逆転」を狙う。

現場を回している部下が聞いたら鼻で笑うような、どうしようもない提案をするコンサルタントが、 たとえばカタカナ成分の多い、海外で評判とか、裏を返せば国内での評判は最悪の、 そんな提案を現場に持ち込む。

現場はもちろん猛反対して、上司もまた、その提案が荒唐無稽であることぐらいよく分かっているのだけれど、 現場の反対は、むしろ上司の背中を押して、コンサルタントの提案は、上司の支持を得て、現場に導入されてしまう。

嫉妬の脆弱性

競争に「負けた」人間には、もはや「信じる」ことでしか、状況を変えられない。

それがどれだけ荒唐無稽な提案であっても、有能な部下が「信じない」ものを「信じる」ことで、極めて低い確率ながら、 上司は努力を行うことなく、自らの嫉妬を認めることなく、嫉妬の対象たる部下を「逆転」できるかもしれないから。

特定の何かを見てるわけじゃないけれど、何となく、こういう傾向はいろんな場所にあって、 「会社」だけでなく「家族」だとか「クラス」だとか、たぶんいろんな組織が、「嫉妬する上司」という脆弱性を抱えているのだと思う。

なにかゴミみたいなプロダクトを、そんなものを必要としないような、安定した組織に売りつけようと思ったならば、 まずは「嫉妬する上司」にあたる立場の人を見つけ出して、その人に「逆転」の可能性を説くと、 きっと上手くいく。

認めると楽になる

「見栄」や「嫉妬」は可視化されないし、たいていは、それを抱いた本人も、 それを「ない」と否定する。

それを「ある」と認めたなら、たぶんその人は合理的に、肩の力を抜いて振る舞えるんだろうけれど、 それを認めたくないという思いが、嫉妬をして、見栄をして、極めて不合理な行動に、その人を駆り立てる。

恐らくはそうした感情を「ある」と表明してしまうことが、世の中を楽にやっていく秘訣みたいなものに つながるんだけれど、何かを「うらやましい」だなんて、嫉妬を表明できる人というのは、 あるいは相手にどこかで「勝って」いるからこそ、それが表明できるのかもしれない。

「妬んでも1人」、「嫉妬しても1人」という状況下で、どれだけ「嫉妬の表明」を行ったところで、 それはなんの解決にもならないから、「妬みの積極的表明」という行為は社会から全然自由になれていないし、 行為それ自体には、なんら治癒的効果はなくて、大事なのは行為でなくて、 そういう立場にいることのほうなのかもしれない。

嫉妬の行動学みたいなもの

「見栄」と「嫉妬」を上手につつくやりかたというのは、たぶん広告の人たちが詳しいんだろうけれど、 「嫉妬」という切り口で人の振る舞い、とくに社会化された人の振る舞いを見直すと、いろいろ 面白いような気がする。

某SNSで教えていただいた、「天皇制はトップに対する嫉妬を避けるための知恵だった」なんて 考えかただとか、「非上場のオーナー企業が案外強い」理由なんかもまた、 嫉妬が隠蔽されるような状況において、嫉妬を上手にコントロールする仕組みが要請された 結果として、特定の組織構造が生まれて、しばしば経済不合理に見えるそうした組織が、 歴史の重みによく耐えて安定していることを、上手に説明できるのかもしれない。

2009.06.12

足すこと引くこと

「その道具を定義する動作」というものがあって、そこに何か新しい動作を「足す」ことは難しいし、 そこから何かを「引く」、あるいは「隠す」と、今度はその道具が持つ意味が書き換えられてしまう。

足すのは難しい

大学に入っていた電子オーダリングシステムは、自分のID と、パスワードとを打ち込まないと、 PCが稼働しないようになっていた。これがものすごく面倒で、結果として、誰かがログインしたら、 そのIDをそのまんま使い回したり、ログインしたあと、「次に使う誰かのために」、 ログアウトしないでPCをそのまんま放置したりだとか、ルール違反が当たり前だった。

近所の病院に入っているシステムはもう少し上等で、職員はみんなカードを持っていて、 PC備え付けのカードリーダーにカードを通すと、そのPCにIDが認識される用になっている。 ID を打ち込むのに比べれば進歩したんだけれど、カードをリーダーに通す、その一手間がやっぱり面倒で、 状況はあんまり変わっていないんだという。

恐らくはPC という道具を定義する動作の中に、「ログイン」が組み込まれている人はUNIX 技術者ぐらいで、 大多数の素人は、PC をみて、そんな動作が想像できない。道具が定義する動作の中に、ログインが組み込まれていないから、 その一手間が面倒に感じて、守られない。

既存の動作をハックする

個人用途でPC を使うときには、PC の前に置かれた椅子に腰掛ければ、ユーザーはその瞬間から仕事ができる。 これが当たり前になってしまっている以上、ログインの操作をどれだけ洗練させたところで、 ルールを守ってもらうのは難しいのだろうと思う。

恐らくは「椅子に座る」「椅子から立つ」という、PC を取り巻く動作の中に、ログインとログアウトとを 組み込んでしまえたなら、ルールを意識しなくても、ルール違反をする人はいなくなるような気がする。

具体的には、自動車の「スマートキー」みたいなものを職員バッジに組み込んで、PCから50cm 以内に近づいた人を ログインユーザーと認識して、キーを持った人が近くからいなくなったら、自動的にログアウトするようなシステムが作れたら、 ログイン/ログアウトに関する問題は、きっと相当程度解決する。

PC ソフトだとか、あるいはインターネットを通じてお金を稼ぐ、ユーザーからお金を払ってもらうために、 いろんな会社が試行錯誤しているけれど、「これ」という解決策は、まだ見つかっていないような気がする。 これなんかもたぶん、PC という道具が定義する動作のなかに、「支払い」というコンポーネントが 存在しないからなんだろうと思う。

Apple が作ったiPhone は電話だし、Amazon の電子ブックリーダーは、全く新しい道具だけれど、 おそらくああいった新しい道具は、IT 企業の一種の敗北宣言みたいなもので、 その成り立ちの中に「支払い」という動作をあらかじめ組み込んでいないPC というデバイスに、 今から支払い機能を組み込むことは、Apple やAmazon でさえ、やっぱり難しかったんだろう。

引くと文化が変わる

補助金制度だとか、何かの理由で医療費が無償になると、人によっては、薬に対する態度みたいなものが大きく変わる。 もちろん全然変わらない人もいるんだけれど、変わる人は、外来3回ぐらいでがらっと変わる

無償になった人は、高価な薬を好むようになる。ジェネリック品というのは、たとえば薬のフォントがゴシック体であったり、 薬のパッケージが、色つきのアルミから無地になったり、どことなく値段が安く見えるんだけれど、そういう些細なことが、 無償ユーザーになった人には、我慢できなくなるらしい。

外来をやっていて、やっぱり不景気だから、普通にお金払って病院に来る人は、けっこう多くの人が、 「ジェネリック品にして下さい」なんて頼む。それなりに、この言葉は普及してるんだと思う。 無償ユーザーの人は逆行して、「このあいだ変えてもらった薬、なんか安っぽくて効かない気がするから、 前のに戻して下さい」とか頼まれる。

正規品を作っているメーカーは、安価なジェネリック品に対して「品質」で対抗しようとしているけれど、 それをきちんと理解して、それを感覚できるのは、むしろ支払いから自由になっている人のほうが多い気がする。 あれなんかを見てると、「お金を持っている人に品質を訴える」という、一見当たり前の広告戦略は、 どこか間違っているような気がする。

動作を見直して書き換える

たとえば「支払い」という機能を持たないPC という道具からお金を取るためには、電話線を供給している会社と、 銀行とが手を組むのが一番いいのだと思う。ブロードバンド時代、回線は月極で使いたい放題なのが当たり前で、 たぶんほとんどの家が銀行引き落としになっているのだろうけれど、銀行と、回線会社とが相互乗り入れして、 ネット世界での支払いを、全部自動で、支払いという行為と、マウスクリックとを直結するようにしたら、 ネット世界に流れ込むお金の総量は、ずいぶん増えると思う。

ソニーが今度出す、ダウンロード専用になったポータブルゲーム機というものがどうなるのか、 ゲームはしないんだけれど、あれは「ゲーム機」を取り巻く動作を大幅に書き換える試み。 ゲーム機には「ゲーム屋さんで買う」という、「小売り」と「支払い」という、それぞれ動作と機能とが 組み込まれていたのだけれど、ソニーの新しいゲーム機は、それをなくしてしまおうとしている。

それがiPhone なら、あれはあくまでも「電話機」だから、機械それ自体に支払い機能が組み込まれている (追記:iPhone の支払いは、あくまでもiTune 経由なのだそうです)けれど、 道具本来の機能を捨てて、そこに新しい支払い機能を組み込んで、ソニーという大メーカーなら、 道具が定義する本来の動作を書き換えることが可能なのかどうか、経過を追っかけると面白いと思う。

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