2011.08.06

Amazonのレビューについて

「韓国に関するフジテレビの報道姿勢はやりすぎだ」という話題があって、フジにスポンサーとして参加している「花王」が叩かれて、Amazon のカスタマーレビューがものすごいことになっている。

「この製品を買ってはいけない」だとか、「花王は韓国の手先だ」とか、ネガティブなコメントが50ぐらいついていて、「使いやすいです」みたいな無難なレビューは、序列のした側に押し込まれて、その製品が実際のところどうなのか、レビューからは読み取れないような状態。

ものすごい熱気を感じることには間違いないのだけれど、「花王という会社にダメージを与える」ことがその目的なのだとしたら、力の使いかたを間違えている気がする。

密林のレビューは恐ろしい

密林のカスタマーレビューは、本を置かせてもらう側からするとあれぐらい恐ろしい場所もない。

あの場に書かれた内容について、作者の側からは言い訳できないし、誰かが本にお金を支払ってくれる、まさにその瞬間、買う人はそのレビューで最終的な意志を決定することになる。

支払いボタンと、レビューの記事と、Web ページ上でのあの近さが恐ろしい。書評サイトでお勧めされて、じゃあ買おうなんて思ったそのとき、レビューの記事が目に飛び込んでくる。実際の購買が、レビューの内容でどの程度左右されるものなのか、売る側からは分からないにせよ、密林で何かを販売する人は、みんなあの場所を恐れているものなのだと思う。

叩きと推奨はよく似ている

「いい本だ面白かった」という5つ星のレビューと、「ひどい内容だ絶対に買ってはいけない」という1つ星のレビューとは、購買行動において同じ程度の、同じ方向の効果を持つ。どちらの言説も、恐らくは購買を決定した人の背中を押してくれる。

たとえばこれが、「この本が取り上げているテーマはたしかに面白い。しかし原著の誤読に基づいた意見が散見されて鵜呑みにできない」というレビューがあって、星が3つついていたりすると、購買の意志は大いに揺らぐ。「この分野ならば、この本のほうがおすすめ」といった記事があったら、もしかしたらそちらを購入してしまうかもしれない。

極端な対抗意見は、むしろ購買を後押ししてしまう可能性がある。「買ってはいけない」という本が流行した際、あれを「トンデモだ」と考える人も多くて、「買ってはいけないは買ってはいけない」という検証本が発売された。元の本を真っ向から叩く内容であったにもかかわらず、「買ってはいけない」と、「いけないは買ってはいけない」とは、隣り合わせに平積みされて、両方ともよく売れた。

「買わせない」文章の書きかた

Amazon で購買ボタンを押す人は、そこを訪れた時点で、すでに「これを買おう」という意志を持っている。そうした人に、「これを買おうという、お前の人間性それ自体が間違っている」などと、その人を真っ向から大きく否定してしまうと、否定されたその人は、むしろその本を買うことで、その否定に対抗する。結果として全面的な否定というものは、購買をむしろ後押ししてしまう可能性がある。

的を一つずらせば達成できる目標に、それ以上の力を叩きつけてしまうと、目標はむしろ遠のく。購入する人をためらわせる文章は、たとえば「この本が目的とするところは理解できるものの、根拠になった文献を読み間違えている」だとか、「この本が取り上げている領域はたしかに面白いのだが、この本については支払った金額に見合った内容を持っていない」といった書きかたになる。

その分野の知識を仕入れたいという、購入する人の意志を肯定しつつ、「その目的は正しいがこの本を買うという手段はベストじゃない」という、肯定9割、否定1割の態度を取ってみせることが、購買をそらす役に立つ。

「買わせない」文章というものは、一見すると正面から叩いていないから、売る側としては対処がかえってやっかいになる可能性もある。密林を通じた不買運動は、それなりの文章を、その会社の製品に対して網羅的に付加すると、案外馬鹿にできない効果があって、対処のやりかたを含めて、これから問題になってくるのだろうと思う。

2011.05.12

無能から見える風景

組織のリーダーが「情報を隠蔽」したり、あるいは「まわりをイエスマンで固めた」り、なにやら陰謀めいた振る舞いをしているときには、隠された意図があるのではなく、リーダーの能力が足りていないことのほうが多いのだと思う。

扱える事実には限りがある

判断というものは、現場に対する見解に基づいて行われ、見解というものは、その人に報告された事実から組み立てられる。

一人の人間が同時に扱える事実の数には限りがある。その数は人によってまちまちで、同時に扱える事実が最も多い、より広い範囲から集めた事実に矛盾しない見解を組み立てられる人が専門家と呼ばれて、専門性の高い業界では、専門家がリーダーを兼ねることが多い。

見解は、無数の事実から作り出すこともできるし、少ない事実から組み立てることもできるけれど、基礎となる事実の量が少ない見解は、外乱に対してもろくなる。わずかな事実に基づいて「こうだろう」と作られた見解に、例外事項を突きつけられると、その見解は瓦解する。リーダーの見解が瓦解してしまうと、チームは方向性を失うことになるから、まじめに仕事をしているリーダーは、自らの見解を補強するために、能力の限界まで事実を収拾、認識した上で、意志決定を行うことになる。

能力を超えた事実は見えない

人の持っている認識能力には限界がある。限界を超えた状況で、そこに新しい事実を持ってこられても、その人はそれを認識できない。リーダーの能力が足りないときには、視野の外からいきなり突きつけられた「新事実」が、その人の状況に対する見解を根本から破壊してしまう。

たくさんの事実を同時に扱う能力を持っていない人は、見えない弾丸におびえることになる。弾はどこから飛んでくるのか分からない上に、一度当たるとそれが致命傷になる。こんな状況は恐ろしいから、リーダーに認識できない事実は、全ての人に対して「無かった」ことにされる。それが大事な情報なのか、そもそもそれを隠蔽することが、リーダーに何か利するところがあるのかどうかすら、「事実の隠蔽」を指示したリーダーには、そもそも判断できないことが多い。

陰謀論の裏側

能力の足りないリーダーは、ある日いきなり「自分の知らない事実が部下から突きつけられて、自分の立場が脅かされる」恐怖が日常になる。裏を返すとそれは、「自分には必要な事実が知らされていない。部下は大事な情報を隠している」という認識につながる。

リーダーに認識できない「新事実」は、だから最初から無かったことになるし、助言する側の人たちもまた、リーダーが認識できる事実「のみ」に基づいた意見が求められることになる。この状況を外から観測すると、「必要な事実がリーダーの指示で隠蔽されている」ように見えるし、「周囲の専門家がイエスマンで固められている」ように見える。

こうした光景は、だから能力を持ったリーダーが、何らかの意図に基づいて暗躍しているのではなく、能力の足りないリーダーが、莫大な情報量になすすべもなくなったときに陥る必然なのだと思う。

これはちょうど、Win95 時代のPCに間違ってVista を乗せてしまったようなもので、ファイルはなくなるし、固まるし、なんだかこう、PCがユーザーに悪意を持ってるようにしか見えない状態になる。必要なのはいいPC か、あるいは軽いOSであって、「隠蔽しないこと」や「反対意見を広く聴取すること」は、そもそもこの状況では達成できないし、それをやると状況はむしろ悪化する。

2011.04.25

悪い奴らは来なかった

病棟で3年過ごした昔、上司の書いた処方箋を見て、「こうすればもっといいのに」なんて批評家気取りができるようになった頃、島に飛ばされた。邪魔な上司の指示が入らない、「こうすれば」を自分の責任で行える機会がいよいよ巡ってきて、それをやろうとして、手が動かなかった。

決断のお話。

実戦は怖い

島への派遣が決まったとき、粋がって英語の本ばかり持ち込んだ。世界的に権威のある教科書だから、信頼性なら完璧なのに、いざそれを使おうとして、それを翻訳するのが自分であることに思い至って、その本がいきなり信用できないものに変わった。普段は馬鹿にして、ろくに読みもしなかった日本語の「今日の治療指針」がありがたくて、それに頼ってようやく病棟を回すことができた。

畳の「へり」なら転ばず歩けるのに、それが地上10m の高さに置かれたそのとたん、足がすくんで動けなくなる。模範解答を知っていることと、実際に決断ができることとは全くと言っていいほど異なって、いざ自分がその状況に置かれてみないと、その違いには気がつけない。

叩くのは気分がいいし、叩く人はしばしば賢しげに見えたりもする。叩いて叩いて、現場を回してきた人たちが退場して、叩いてきた人たちが勇躍リーダーになると、現場は固まる。固まって、再び動き出すまで、恐らくは何年もかかる。

「部長の処方は今ひとつ」なんてえらそうに批判できた研修医の頃から、その「今ひとつ」をようやく再現できるまで、結局10年近くかかった。

アソビは大切

「無駄の多い」上司の処方箋というものは、一種の保険でもあった。四方に保険を掛けるような、スマートでないやりかたというものは、重圧のかかる環境にあっても自身を自由にするために、どうしても必要な「アソビ」であったのだけれど、当時の自分には、それが「無駄」に見えた。削ってはいけないアソビは、素人には真っ先に削るべきものに見えて、そこを削ると、戻すのにとんでもない時間がかかる。

AK-47 には部品のアソビが多い。知らない人があれを見ると、もしかしたら「これだからロシア製は」なんてつぶやきながら、精度を上げて、部品同士の隙間が全くないライフルへと「改良」してしまう。

アソビをなくしたライフルを実戦に持ち込むと、埃一つで動かなくなって、死ぬ思いをすることになる。運良く生き残れれば、その場所のアソビを増やすような「改良」が施されることになるけれど、ライフル一つ取ったところで、必要なアソビは何カ所もあるから、全ての意味に気がつくためには、何回も失敗を繰り返さないといけない。運良く破綻を回避して、それを無数に繰り返した結果として、手元には「アソビ」だらけの、改良する余地がそこいら中にあるように見えた、元のAKが再生される。

悪い奴らは来なかった

無駄を叩くのは気分がいい。必要な無駄に気がつくのには経験がいる。無駄を叩く側からすると、必要な無駄をかばう人は「悪者」に見える。

批判や提案、あるいは前提の変化を受けて、「じゃあこうしましょう」とか、「いやそれだとこういう問題が」とか、かみ合った議論が続けられる人と、自分の論理がいかにすばらしいものであるのか、正当性を大声で繰り返す人とがいる。声の大きな人と話すのは大変なのだけれど、彼らの論理は、その論理の中では整合がとれていて、けっこう人気が出たりする。

論理はよくできていて、それ想定している範囲内であれば、突っ込む場所もないのだけれど、彼らが前提としている「絶対」が、しばしば絶対でなかったりする。

前提がひっくり返ると、状況は悪化する。彼らの叩く「悪い奴ら」は、変化した状況に合わせて見解を変えるから、問題は解決して、きれいな論理は「悪い奴ら」のおかげで、その威力を発揮できなかったことになる。

「悪と叩く何かが、問題を常にちゃんと解決してくれていること」が、悪を叩ける前提になっていることがある。世の中は「本当はこうあるべき」なのだけれど、「悪い奴ら」が外面だけ取り繕っているから、今の世の中がこれだけ腐っているにもかかわらず、一見するとそれなりに回って見える。「悪い奴らの醜い論理に比べて、俺たちの論理は美しい。だから俺たちのほうが正しい」と、論理は続く。

「悪い奴ら」が退場した昨今、旗を振っている人たちは、犯人捜しに忙しい。彼らが探しているのは責任者ではなく「悪い奴ら」であって、問題を解決してくれる「悪い奴ら」を探すことは、あの人たちにとっては問題解決の手段に他ならないのだろうなと思う。

2011.04.06

責任者はいなかった

東京電力の記者会見が、ニコニコ動画で公開されていた。

見どころというか、不気味な光景は30分を過ぎて以降の後半部分で、「放水の決定を下したのは、結局誰なのですか?」という記者の質問に対して、東京電力の人たちは「申し訳ありませんが、調査をしてから、改めて回答させて下さい」というコメントを繰り返していた。同じ質問を繰り返す記者と、ひたすら同じコメントを繰り返す東電の人たちと、空気が恐ろしく重たく見えた。

社長を出してはいけない状況がある

話の流れが「社長を出せ」につながりかねない、たとえば製品の瑕疵について、損害賠償を求める人との応対では、「社長に話をつながない」ことが原則になる。

相手との会話に臨む人は、「自分は事実関係を調べるための専門家」であるという立場を取る。クレーム対応の現場においては、事実に対するお互いの見解が、まだ十分に共有されていないから、そこにいるべき人は、事実関係を鑑定する専門家でなくてはいけない。「社長を出せ」という相手の要求については、「ここは事実関係を鑑定する場であって、まずはそれを行いたい。私がその責任者です」という理屈で、まずは押す。結果として「社長」はかばわれることになるけれど、ここで社長を出してしまうと、相手の要求はもっと大きくなってしまう。

社長の出番が必要な状況

危機対応の原則に従うと、最初から「社長」が表に出ないといけない場面は少ないのだけれど、事実がすでに確定している状況、事故に対する対応の時には、話が異なってくる。

企業の謝罪会見の席には、たいていの場合「社長の謝罪」が行われる。謝罪会見や、何かの事実を報告する席においては、場の見解が「こう」と固まっている状況だから、事実鑑定の専門家には、もう出番がない。見解の確定した状況で行われるべきことは、事態の報告と、必要ならば謝意の表明、質問の受付と今後の方針決定で、その場での判断が要求される可能性がそこにあるから、そこに座るべきは「社長」、意思決定ができる責任者でないといけない。

テレビのニュースで放映されるような企業の会見は、ほとんどの場合がこうしたケースで、「決定権を持った誰かが会見に臨まない」会見の光景は、むしろ珍しい。食品会社の会見にしても、銀行の不祥事にしても、謝罪が前提の記者会見というものは、基本的には「頭を下げる社長」という光景が定番なのに、「汚染された水を放出する」という、今回の記者会見には、意思決定権を持った人は出席していなかった。

あの場所で責任者が出席していないのは、「逃げた」と言われても文句が言えないと思うし、そうした人たちを上にいただく現場の人たちは、相当に辛いだろうなと思う。

会話が詳細を決める

しゃべるのは、書くことよりもよほど難しい。

「書く」ならば、語順はどうであれ、読み手は自分が大切だと思った場所から読んでくれるし、文字数を増やせば、それはそのまま情報量の多さに結びつくけれど、言葉はそうはいかない。

しゃべり言葉は、聞き手によるランダムアクセスが期待できない分、しゃべる側が語順に注意して、聞き手の興味を想像しなくてはいけない。詳しく語ろうと言葉を増やせば分かりにくいし、そうした配慮は、もしかしたら逆に聞き手の不快感を増してしまうかもしれない。

考えたことを形にして、外に出すときには頭を使う。文字にして初めて詳細が見えてきたり、概念の欠落に気がつくことは珍しくない。同様に、言葉として口に出したり、誰かに向かってしゃべることで、初めて気がつくことはとても多い。概念が実体を得る場所は、頭ではなく、手や口であるのだと思う。

疾患の治療方法は、教科書に「これ」と決まったやりかたがあるけれど、それを病棟での指示に落とし込んでいくときには、やはり詳細を自分で決定しなくてはいけない。詳細部分は、沈思黙考した結果として決定されることは少なくて、患者さんやご家族と会話をしているときに、ある意味「行き当たりばったり」的に決定されることのほうが、個人的にはむしろ多い。

誰かと面と向かって語る機会を持たない人が、何らかの意思決定を行う立場にいることが、自分にはちょっと信じられない。

頭がなくても組織は動く

記者会見の席では、「意思決定者は誰ですか?」と東電の人に尋ねても、結局答えが返ってこなかった。あの状況はあるい、本当に「そんな人はいない」というのが正解なのかもしれない。

現場は現状を報告できず、指揮官は「現場の意思を汲んで」考えつつ、判断は示さない。現場は「指揮官の意思を汲んで」、自分たちで判断を行って、上手くいかないときには「暴走した現場」が責任を負う。旧軍以来の、こうした伝統的な意思決定システムは、「誰が決めたの?」という身も蓋もない質問をされると、誰にも答えが返せない。

上手くいっていた過去の記憶だけで状況を回す、それでもなぜか上手くいっている組織というのは決して珍しいものではないのだと思う。そういう組織は、人間だった頃の思い出だけで歩くゾンビのようなものだから、頭を吹き飛ばされた程度のダメージなら、問題なく歩き続けることだってできる。その代わり、そうした組織はもしかしたら、道に落とされた小石一つで転んでしまうし、そうなるともう二度と起き上がれない。

想定外が発生して、現場では「報告しないこと」が決定される。データは本来の想定に合うよう修正されて、方針はそのデータに基づいて策定されて、新しい想定が作られ、現場がそれを検証する。間違いが許されない現場では、こんな無限ループがしばしば発生して、全てが「想定どおり」に進められた結果として、発生しないはずの想定外に対する対処は為されないまま、破綻するそのときまで、想定に対する確信だけが積み重なっていく。

事故が明るみに出るたび、間違いが許されない業界では、「俺たちの番でなくてよかった」なんて、エンジニアが首をすくめる。想定外が発生して、ようやく現場は、「想定されていた想定外」を語ることが許される。

今がその過渡期なのだと思う。

2011.03.28

喧嘩する上司の見守りかた

どんな組織でもたぶん、問題に対してチームが一丸となって当たる時期と、お互いが功を取り、過失を押しつけあう分裂の時期とがある。

問題が大きな状況においては、どれだけ仲の悪い人たちも団結する。そうでないと、自分たちが問題に食われてしまうから。成功が見えてくると、今度は誰が功を取るのか、お互いに裏切るタイミングを探りはじめる。

利害が完全に一致するなら、チームにはそもそも団結の必要がない。あえて「団結」というプロセスを経るのなら、そこには当然利害の対立があって、成功には、「功」の部分と「失」の部分とが入り交じる。問題の解決が近づくにつれて、チームの和は、どうしたって遠のいていく。

上司の喧嘩は、だからしばしば成功が近い徴候でもあるのだけれど、問題の大きさに上司が屈して、問題解決そっちのけで、責任の被せ合いになっていることがまれにあって、これがおっかない。

ニュースでは、 政府が東電を叩き、保安院が内閣を刺す。メディアを通じて見えてくるのは、指揮官同士の、指揮管制そっちのけのつかみ合いであって、問題解決の糸口はいっこうに見えてこない。こんな状況の真下で、現場は粛々と作業する。士気を保つのは本当に厳しいだろうなと思う。

問題の解決はまだまだ遠いのに、チーム「一丸」期から「分裂」期へと移行してしまうと、問題はもう解決しない。上司は「絶対」を求めるようになって、要求された絶対を達成できなかった人間には責任が被せられてしまうから、問題の解決に向けてがんばること自体が、後ろから誰かに刺されるリスクに直結していく。

成功に絶対はないけれど、失敗なら、手を出すのを止めてしまえば、いつかは必ず達成できる。絶対を求める上司が部下をなじる組織に身を置くのなら、「できません」と宣言してから手を置けば、上司の望む「絶対」は達成できる。現場がそういう気分になると、成功は加速度的に遠のいていく。

この状況は、自動操縦のない旅客機で、機長と副操縦士、機関士が操縦そっちのけで殴り合いを始めたのに似ている。現場たるキャビンアテンダントは、水平飛行もおぼつかない旅客機にしがみつきながら、ただただ操縦室を眺めることしかできない。自分の仕事をやろうにも、機体が揺れて、立っていることすらおぼつかない。

危機対応の初動に遅れると不信を招いて、謝意を表明するタイミングを逃してしまうと、上司が引き受けるべき責任は、時間とともにどんどん大きくなっていく。

今の状況は、大きくなりすぎた責任を、もはや引き受けられなくなった上層部の人たちが、お互いに必死になってそれを押しつけあっているようにも見える。

それが誤解であるといいのだけれど。

2011.01.05

努力には正しい方向がある

どこかに就職したり、何か会社を興してみたりといった体験を持たない、生まれついての「プロの政治家」という人たち、 学校を出て、最初から政治家として活動して、努力した人たちが、そのまま最上階まで行ってしまうのは、恐ろしいことだと思う。

努力した人はしがみつく

何かの目的を持った人、目標を「これ」と決めて、それを実現するためのやりかたを考えた経験を持つ人は、 あらゆる場所が通過点になる。目標を達成したなら、たぶんまた別の目標が見つかって、やるべきことや、必要な資格なんかは、その都度変わってくるだろうから。

漠然と「努力」を重ねて、努力の「ご褒美」として、一番高い椅子を手に入れてしまった人には、もはや「上がりの先」を想像することができない。努力をもっとやろうにも、 そこにはもう、問題集とか、次のご褒美を用意してくれる誰かはいないから、先が見えない。

こういう人が頂点に座ってしまうと、今度はじゃあ、何かの事情でその椅子を誰かに明け渡さないといけなくなったとして、 自分の「その次」が想像できないから、しがみついて、そこに留まり続けること以外に、選択肢がなくなってしまうのだと思う。

1970年代ぐらいのある時期、「頑張れば報われる」と教わって、本当にそのまま頑張ったら、どういうわけか報われた世代というのがたしかにあって、 あのあたりを生きてきた人たちが頂点に立ってみて、次の目標を決められなくて、仕方がないから椅子にしがみつくという情景が、 たぶんいろんな業界で認められているんだろうと思う。

「しがみつく」にも向きがある

「次」を探すリスクが高かったりして、生きていくために意識してしがみつくのと、 何をしていいのかが分からないから、現状維持を目指してしがみつくのと、外から見たって区別は付かないだろうけれど、 中の人の心のありかたは、恐らくはずいぶん違う。

意識してしがみついている人は「悪人」であって、そこから剥がそうとしたら、ますます悪く立ち回るけれど、 次に何をしていいのか分からない人は、基本的に「善人」であって、剥がそうとするほどに、その人は「いい人」になって、それがいっそ不気味に見える。

西原理恵子の本に、「漫画家になりたいじゃなくて、漫画を書いて食べていきたいと考えると、何をすべきかが見えてくる」という内容の言葉があったけれど、 いわれてみれば明らかなそんなことが、自分にとってははじめて指摘を受けたことであって、読んだときにはずいぶん新鮮だった。

「なりたい」と、「それで食べていきたい」との差はわずかだけれど、努力の方向は大きく異なる。 努力に親和性が高いのは前者で、「お金は汚い」という、道徳に合致するのも前者で、結果としてなんとなく、 学校では後者を教えないような気がする。

学校で習うこと

  • 「学校で教えられていることは真である」は、間違っている
  • 「学校で教えられていることは、8割程度は正しい」は、ある程度は真であってほしい
  • 「学校で教えられていることは、世の中の8割程度の人が、正くあってほしいと願っている」が、本当のところなのだと思う

学校で教えられたことに、だから自分をあわせる必要はないし、教わったことが自分の価値観とは異なっていたとして、 それは全然間違っていないのだけれど、学校で何かを教わる意味それ自体は、やはりあるような気がする。

学校は、正しい知識を習得するというよりも、将来自分が何かで食べて行くに当たって、 財布の8割がどんなものを望んでいるのかを知るために、そこで教えてくれる何かを、大いに利用すべきなのだと思う。

「人生何でも好きなことをやりなさい」という教えも、間違いなのだと思う。

本来教えるべき、できれば学校で教えるべきありかたというのは、「好きなことで食べていけるよう、よく考えなさい」ということなのだと思う。

「やること」の中には「食べていくこと」が含まれて、「好きなことをやりなさい」という教えかたのほうが、より広い価値が含まれているけれど、 「それで食べる」以外の方向には、未来がない。

努力は部分的な正解に過ぎない

一生懸命勉強して、いい大学に入る努力をして、面接だとか、選挙をくぐり抜けて、ようやく頂点に到達した人というのは、 「こうあることが正しい」と学校で教わって、世の中の8割ぐらいの人が、こうあってほしいと念じたシナリオを忠実になぞった結果を具現化している。

プログラマーの小飼弾 さんが「ケインジアンビューティー」という言葉を教えてくれたのだけれど、 「学校が教えてくれる努力」の結果として、社会的な地位を手に入れた人たちというものは、要するに「美人コンテストの勝者」なのだと思う。 「アジアンビューティー」と「ケインジアンビューティー」とでは、ルールが違うから「勝つ顔」も異なってくるし、 一つのコンテストで勝った人が、じゃあ他のコンテストでも必ず勝てるかといえば、決してそんなことにはならないし。

努力教が本当に成り立った時期というものがあったのだろうとは思う。景気が上向いて、何をやっても上手くいった時期は、 実は「努力しなくても」上手くいったのだけれど、努力した人も、同じような成功体験を手に入れた。

努力教はそれでも、いつの間にかカーゴカルト化して、未だにそれでも必死になって偶像を拝んでる人も多い。

今の首相にしてからが、「俺はこんなに一生懸命偶像を拝んでるのに支持率が来ない。何故だ!」とか、毎日怒って、 怒りはたぶん、最後まで止むことはないのだと思う。

「努力の方向音痴」という言葉があるのだという。自戒したいなと思う。

2010.08.19

刑事尋問の今が知りたい

最近ずっと、コミュニケーションに関する昔の文章をまとめて「blog 本」みたいなのを作っているんだけれど、 その流れで、米国の、医療過誤訴訟の対策本をずいぶん読んだ。

どの本にもたいてい、「弁護士はこんな罠を仕掛けてくる気をつけろ」という対策を指南していて、 書いているのも弁護士の人だから実話なのだろうけれど、想定問答集みたいなものがついてくる。 本が変わっても、方法論というか、聞かれること、罠のパターンみたいなもののバリエーションは 有限で、逆にいうと「尋問術」というものは、むこうだとある程度、技術として確立しているような印象を受ける。

「デポジション」に相当するもの

米国の裁判には、「デポジション」といって、裁判の前に、原告側弁護士と、被告になった人とが面談する制度がある。

裁判所からの書記官が同席して、そこで交わされたやりとりは記録されて、質問に答えたこと、 あるいは答えなかったことが、証拠になる。デポジションは「裁判の最初の華」みたいな描かれかたを していて、本番に相当するものが公判なんだけれど、観客が、言わば「プロ」しかいない分、 デポジションでの質問のやりとりというものが厳しくて、ここでの想定質問と、その対策というものが、 マニュアル本には詳しく語られる。

日本の民事裁判には、どうもこの「デポジション」に相当する制度がないみたいで、 お互いのやりとりは、基本的に文書が中心となって行われるみたい。文章だと考える時間が取れるから、 口頭で、録音して、原告と被告とが罠の仕掛けあい、化かし合いみたいなことにはならないらしい。

こういう状況が、日本ではじゃあどこにあるかといえば、一つは国会の場であって、 弁護士でもある谷垣代表が「もっと尋問術を学んでおくのだった」なんてぼやいていたように、 あの場所で行われているのは、こういうやりかたにけっこう近いのだと思う。

で、外からは見えないから想像だけれど、恐らくは刑事尋問の場というものも、デポジションのルールに、相当に近いように思える。

刑事尋問というもの

警察の中で、机一つに向かいあって、カツ丼注文したりするあの情景が、デポジションにのイメージに近いといえばまあ近いんだとして、 だったら日本の警察の人たちに、じゃあああいう、相手に罠を仕掛けるような弁論術がどの程度あるのかといえば、それがよく分からない。

患者さんを外来で診療したときに、たまたま現場で捜査をしていた人たちが病院に来ることがあって、 「捜査の手引き」だったか、そんなマニュアル本を持っていたのだけれど、表紙には昭和50年代の年号が印字されていた。 恐らくはそれが、その本が作られた年なのだと思う。改訂はされているのだろうけれど。

刑事裁判も、米国の裁判も、ああいうのは基本的に、追求する側も、される側も、自分が想定した「物語」をつくって、 それに合致した単語を拾い上げて、法廷の席で、お互いの物語をぶつけ合って、信憑性を競うものなんだという。

これは日本の刑事訴訟の本にも同じことが書いてあったから、そんなにずれてないはず。 「面白い物語」を作ることが、裁判官の心証を傾けるコツであって、犯人の内面の描写が、「面白さ」を作る上では大切なのだと。

「むらむらと来た」という言葉

じゃあならば、「警察の人が描いた内面の描写」というものがどこで読めるかといえば、それはテレビのニュース番組なんだと思う。

ニュースや新聞では、たとえば痴漢で捕まった人の自供を報道していて、「ついむらむら来た」から手を出したとか、報道する。 「むらむら」は恐らく、新聞記者の作った言葉ではなくて、警察の発表を記事に起こしたものなんだろうけれど、 じゃあ今の日本人で、「むらむら来た」という言葉を、口語として常用する人がいるかといえば、いないと思う。

あれはたぶん、警察の人が、犯人の「内面描写」を物語に起こした段階で、中の人が使っている参考書籍に、 そういう「文例」が出てくるのだと思う。 いかにも古くさい、それこそ昭和50年代のサザエさんにでも出てきそうな語彙が、 ああいう警察を通じた言葉には時々出てきて、それを邪推していくと、警察の人たちが使っている手引き書というものは、 実は昭和50年頃から、ほとんど進歩していないのではないかな、という気がしている。

たしかにそれで、有罪がガンガン確定しているんだから、方法論を変える必要はないのかもだけれど、 それはどこかこう、「それで上手くいっているんだから」と、電気メスの現代に、磨製石器で無麻酔手術に挑むようなところがあって、 「腕力」が十二分に強ければ「それでいい」のかもだけれど、やられるほうは怖い。

真っ黒な事例を、鼻歌交じりで漂白できる米国弁護士のやりかたは、あれはあれで「うへぇ」、って思うけれど、 少なくとも海のむこうでは、それが技術になって、公開されて、改良されている。

このへん国内がどうなのか、あんまり聞こえてこない。

こういう「道具」みたいなものは、裁判員制度が大々的に導入されたり、あるいは取り調べが録画されるような時代になると、 否が応でも公開されて、対策されるだろうから、あるいはこれから進歩するのかもだけれど。

2010.06.28

いい人の脆弱性

今は誰もがネットワークでつながっていて、自分がどれだけ気をつけたところで、つながりを持った誰かから、漏れてはいけない情報は、簡単に漏れてしまう。

情報が漏れたところで、そもそもそれが問題にならないような振る舞いをしていれば大丈夫なはずなんだけれど、「漏れた」という事実を受け取る側も、やっぱりネットワークでつながっているものだから、「こんな話を聞いた。御社は一体どうなっているのか」なんて、攻撃者が、別の誰かにそのことを告げたときに、その人が、ネットでの自分の振る舞いを、額面どおりに受け取ってくれるとは限らない。

知らない人ほど恐怖する

ネットに疎い人は、ネットを気持ち悪いと思うし、ネットの評判を必要以上に怖がる。

掲示板での叩きみたいなものは、たいていの場合は他愛のない悪口で、笑い飛ばせば、話はそれで終わる。よしんばそれが、犯罪性を持ったものであったとしても、ネット世間は忙しい。黙って口をつぐんでいれば、1年もやり過ごせば、みんなもう忘れてしまう。

ネット世間に親しんでいる人たちは、恐らくは誰もがこんな感覚でいると思うんだけれど、普段ネットを見ない、ましてや2ちゃんねるを覗いたりしないような人たちは、なかなかそんなふうに割り切れない。「嫌がらせには無視が一番」というのは、あくまでもネット上での常識であって、ネットよりも圧倒的に実世界に親しんだ、ネットをむしろ気持ち悪いと思う人たちに、「ネットでこんな叩かれ方をしている」なんて話を接続すると、恐らくそれは、想定以上に深刻な事態を引き起こす。

「あの人が、あなたの悪口を言っていたよ」なんて告げられれば、たいていの人は、恐らくは「ああこの人とはつきあわないほうがいいな」なんて、告げた人とは遠ざかろうと思う。一方で、「いいことを教えてくれた。あなたは本当の友達だ」なんて、告げられた「あの人」に憎悪をたぎらせる人もたしかにいて、攻撃する側が、こういう人を味方につけると、問題はしばしば、実態以上に深刻な結果を引き起こす。

教育は難しい

「リテラシーを身につけましょう」なんて叫ぶのは、間違ってはいないんだけれど、解決にはつながらない。

漏れてはいけない情報というものは、人を疑うことを知らない、「いい人」から漏れていく。「情報を大切にしましょう」なんて教育を行うと、こういう人はたいてい、いい点を取る。ところが実際に情報を渡されると、情報漏洩する。「いい人」で、「えらい人」というのが、本当におっかない。「鍵を貸して下さい。御社の金庫からお金を盗みたいんです」なんて、ネクタイに背広を着こんで、いい笑顔で握手しながらそう言うと、笑顔で鍵貸してくれる人はけっこういる。

「厳罰化」というやりかたも、恐らくは効果は少ない。「罰は怖いけれど、自分は情報を悪用しようなんて思わないから、全く関係がない」なんて、「関係ない」と思う人から、情報は簡単に逃げていく。

悪い想像力が必要なんだと思う

漏らしちゃいけない情報というのは、むしろ「悪い人」にこそ、管理させるべきなんだと思う。情報があることをまず開示して、それを使えばどういう悪事が働けるのか、それを想像できない人には、そもそもその情報を触らせない、という管理ポリシー。

情報の悪用なんて下らない。下らないし、やらないに越したことはないんだけれど、プライバシーの暴きかた、ゴミ箱あさりのやりかた、カモの探しかた、上手な告げ口や、印象操作のやりかたみたいなものを身につけて、ようやく初めて、「そういうのは下らないよ」って言う権利が生まれるのだと思う。

大学には、事実上すべての扉を開けられるマスターキーがあって、許可をもらった人しか触れなかった。大学祭の前日、事務長からマスターキーを貸してもらって、いろんな悪巧みを妄想してニヤニヤしてたら、「それは鍵屋さんでは絶対に複製できないから」とか、釘を刺された。

思いが顔に出ていた時点で、自分にはマスターキーを悪用する資格なんて無かったんだけれど、マスターキーを手にしてニヤニヤできない人というのは、大切な情報を触ったらいけないのだと思う。マスターキーをもらって悪事を想像できない人、「それは単なる大事な鍵だ」としか認識できない人は、下手すると大学が潰れかねないマスターキーを手に持って、それをふつうの鍵と同じようにしか管理できないだろうから。

それが鍵であれ情報であれ、受け取るときには、それを自分が悪用すると何かできるのか、それをなくすとどういう対処が発生するのか、それがコピーされたり、誰かに奪われるとどういうことが起きるのかを、3つセットで伝える、あるいは想像できる必要がある。

「そんなの伝えられるわけないだろう」なんて思う人、あるいは悪用する自分が想像できない人には、恐らくは情報を託しちゃいけないんだと思う。

2010.05.12

根暗な報酬のこと

ある日のテストが60点で、頑張って次回80点取れた子供がいたとして、その子はたぶん、「20点増えた」という喜びと、「20点分見下せる奴が増えた」という、根暗な喜びとを、報酬として体感することになる。

努力や頑張りの報酬には、明るく表明できるものの裏側に、必ず根暗な何かがセットになっている。人を誘ったり、説得するためには、もちろん「明るい報酬」を前面に出さないといけないのだけれど、報酬には、常に根暗な側面がセットになっていて、そのことに自覚的でないと、どこかで上手くいかなくなるような気がする。

「明るい報酬」は希望を生むけれど、「根暗な報酬」は、自意識の地盤を固める。脆弱な地盤の上に、希望のお城を打ち立てて見せたところで、お城が大きくなるに連れて、いつかは地盤ごと、お城が倒壊してしまう。

自尊心の不足で疲労する

新しい学問だとか、仕事を立ち上げるときにけっこう大切なのは、「そこで働く人が自尊心を保てるための論理」なのではないかと思っている。

たとえば救急医療とか、総合診療部というのは比較的新しい学問領域で、専門別に分かれていた今までの病院では、このあたりがしばしばおろそかになっていたから、一時期ずいぶん人が増えた。その領域には需要がちゃんとあるはずなのに、せっかく人が集まったのに、すぐにチームが解散してしまったり、こうした分野は、大成功した話をあまり聞かない。

救急医療は、たしかに仕事はハードだけれど、休みはそれなりに確保できるし、疾患も多様で、やりがいみたいな「明るい報酬」要素もきちんとそろっているのに、医師が疲れてしまう。こういうのはたぶん、「仕事がきついから」疲れるのとは別に、そこで働いていても、自尊心が摂取できないから疲れてしまう要素というのがあるんだと思う。

地域の大きな公立病院は、昔はまさに基幹病院で、地域施設の「親」として、その場所に君臨していて、医局に送られてくる勤務希望リストの上位は、いつもこういう病院だった。救急の体制が、救急の体制が整備されて、患者さんの受け入れは、昔ながらの「お願い」から、公立施設の「義務」みたいなものへと変わって、細い声で「お願いします」なんて頼んでた電話依頼は、「ご苦労さん。また一つ頼むよ」なんて、元気で張りのある声に変わった。同じ頃からたぶん、公立の基幹病院からは、勤務希望の声も減っていったのだと思う。

地域基幹病院の崩壊が叫ばれて久しいけれど、待遇みたいな「明るい報酬」をどれだけ増やしても、事態はそんなに変わらないのだと思う。状況が変わって失われたのは、もっと根暗な報酬であって、そういうものは、議論の場所に提出されることはないだろうから。「根暗な喜び」をお金で買うこともできるんだけれど、それはしばしば、恐ろしく高価についてしまう。

自尊心を摂取できる場所

たとえば「手術しかできない外科医」という人を仮想すると、その人は手術をすることから、自尊心を摂取できる。その人がたとえば、心電図一つ満足に読めないことだとか、自分がこれから手術を行う、その疾患について、内科のほうが詳しかったとしても、内科が「手術をお願いします」と頭を下げるかぎり、自尊心は傷つかない。自尊心という根暗な報酬は、「誰かに頭を下げられる」ことから発生する。誰かに「お願いです」と乞われるかぎり、その人は仕事が続く。

ところがたとえば、総合診療部の先生がたは、もしかしたら自尊心を摂取する機会が乏しいのではないかと思う。

総合の人たちが何か珍しい疾患を見つけたとして、専門外来から「もうあとやるからいいよ」なんて返事をもらうと、自尊心が少し傷つく。「先生達診断だけだから楽しいでしょ」なんて言われたりすると、たぶんもっと傷つく。そういわれるのは誰だって嫌だから、たとえば治療に手を出して、「余計なことしないでいいよ」なんて言われてしまうと、たぶん自尊心は折れて、もう戻らない。

総合の人たちがならばと必死に勉強して、たとえばある分野の専門家よりも知識が豊富になったところで、実際に患者さんと対峙して、「専門的な」判断を下すのはやはり専門家のほうだから、自尊心は摂取できない。総合医は何でも診療できるその代わりに、その人でないと、専門家の側から、「お願いします」という頭を下げられる状況というものが発生しない。一生懸命勉強を頑張ったところで、それは沼地にお城を建てるようなものだから、知識を積んで、積み上げて、ある日専門家から「この患者さんはだいたい落ち着いたから、あとは総合の先生でお願い」なんて逆紹介受けて、お城は崩れてしまう。

「自分たちはこの仕事のどこから自尊心を摂取できるのか」という問題は、下らないんだけれど、下らないからこそ、一番最初に、徹底的に考えないといけないのだと思う。

外からは口に出しにくい、下手すると「ない」ことになっている根暗な何かをきちんと作り込んだ場所には、人が集まって、長続きする。そういうみっともないお話をスルーして、自分の居場所を美談で飾ると、そこは沼地に花をまいたような場所になる。花畑はきれいでひとが集まるんだけれど、みんな泥まみれになって、疲れて沈んでしまう。

根暗な報酬について

たとえば将棋盤を液晶ディスプレイにして、将棋を指しているその真下で、無修正のアダルトビデオを放映したら、たぶん普通の人は将棋に集中できない。プロ棋士クラスの人ならともかく、普通の人が、ならばと将棋をどれだけ頑張ったところで、アダルトビデオに打ち勝つのは難しい。感情の根っこに近いものに目をつぶりながら、もっときれいなものをどれだけ鍛えても、そういうものはやっぱりなくならない。

学界の重鎮レベルにまで大成功した人は、たまに年を重ねたら急に進路を変えて、よく分からない民間療法の広告塔になったりする。ああいうものもまた、「お城が崩れた瞬間」を見ているのだろうと思う。明るい報酬を摂取する横で、きちんと根暗な報酬を摂取してきた人は、恐らくはそのまままっすぐ進む。ある意味「まじめな」生きかたを貫いて、根暗な喜びの摂取を怠ってきた人たちが、あるいはもしかしたら、引退したとたんに報われない気分がどっと押し寄せて、希望のお城を崩してしまうんだろう。

大きな家は、堅固な地盤に建てないと崩れてしまうし、お城みたいに巨大な建物を造ったところで、泥沼みたいな地盤が固まることはあり得ない。自尊心という、「根暗な報酬」が摂取できない状況をそのままにして、やりがいだとか、患者さんの笑顔だとか、あるいは金銭だとか、もっときれいで正しい報酬をいくら上乗せたところで、あるいはその人は満足できないし、その人の満足には結びつかない。

何かの努力を積むときには、副次的に生まれるであろう「根暗な喜び」というものから目をそむけないで、そういうものをこそ、きちんと摂取したほうがいいのではないかと思う。

2010.02.22

武徳について

自分たちの業界だと「やる気」や「正義感」みたいな言葉であったり、あるいは生産の現場だと「現場力」だとか仕事の丁寧さ、といった言葉になるんだろうけれど、世の中のあちこちには、「軍人の武徳」に連なる何かというものがどこにでもあって、今はこれが失われたことになっている。

武徳は「あると便利なもの」

武徳を備えた軍隊は、恐ろしく強力になる。命がけで相手に立ち向かっていくし、容易なことでは戦線を崩さない。国のため、目的のため、武徳を備えた軍人は、それこそ死ぬ気で働いてくれる。

軍隊は、軍人は、武徳を備えていることがもちろん望ましいし、普段から武徳を発揮できるような訓練を受けるのだけれど、クラウゼヴィッツは、「武徳はあると便利だが、将軍は、兵士に武徳を求めてはいけない」と説いていた。武徳を備えた軍隊が勝った事例はもちろんたくさんあるのだけれど、武徳を持たない軍隊が、グダグダしながらも、それでも勝った事例もたくさんあって、軍隊を指揮する人は、たとえ「武徳を持たない部隊」を任せられたとしても、そこから勝利を目指すやりかたを考えるべきなのだと。

武徳というのは、あくまでも「あると便利なもの」であって、それを必須であると考えたり、あるいは失敗したときの原因として「武徳の不足」を挙げるようになってしまうと、たぶんおかしなことになる。

また人が減る

うちの地域から、また何人かの先生がたがいなくなる。来年度から当直も増えて、救急当番日も増えた。当直のアルバイトをお願いすることも増えて、非常勤で働く医師がずいぶん増えた。

上の先生たちは、「あの施設はやる気がないから」とか、「あの人は燃え尽きちゃったから」なんて言う。「やる気」とか、あるいは燃え尽きる前の燃料に相当する何かこそは「武徳」であって、やっぱりこの世代の人たち、70歳がそろそろ見えるぐらいの人にとっては、医療というのは「武徳を備えた人」が運用するものが、当然になっていたんだろうと思う。

武徳というのは目に見えないから、それが前提になった組織は、オーバーワークが当たり前になるし、現場を離れた人は、武徳を失った「裏切り者」になる。あるのが前提の武徳は、それでも目に見えないから、去った人を叩いて、じゃあ残った人たちに武徳の炎が燃え上がるかといえば、もちろんそんなこともない。

武徳がどうして消えたのか、自分には分からないけれど、やっぱり年々厳しくなってきてる。

叩く世代と調べる世代

何かの道具がおかしな動作を始めたときに、「スイッチを入れたままでとりあえず叩いてみる」のが基本動作になっている世代と、「まずは電源を入れ直して再起動を試みる」世代とがあって、文化が断絶しているのだと思う。

恐らくは昭和40年代から50年代ぐらいの日本には、たしかに「武徳」に相当する何かがあって、働く人は、ある種宗教的な情熱で、それは裏を返せば思考停止を半ば自らに強制しながら働くことを当然としていて、組織をガバナンスする側の人たちもまた、武徳が前提の組織操縦を行って、今までとりあえず、何とか上手くここまで来れた。

今とりあえず、社会として、あるいは世代として、武徳というものが少ない、あるいは最初からそういうものを持たない人が増えて、組織の旗を振る上の世代の人たちは、「武徳を持たない軍隊」を指揮するやり方を習ってこなかったから、いろんなところで迷走が生じている。

判断を行ったり、あるいは「成功、失敗」の評価を行う人たちは、ある意味みんな「武徳世代」なものだから、失敗はとりあえず、「武徳の不足」が原因になる。やる気文脈で生きてきた人たちは、たぶん「ちゃんとやれば大丈夫」が信条になっていて、上手くいかないのは「ちゃんとやってないから」だと判断する。判断が下されて、現場に対する目線圧力はますます増えて、現場はいよいよ回らなくなってしまう。

もうすぐたぶん、「若い奴らはやる気が足りない。やる気で俺たちの生活を守れ」という上の世代と、「構造の問題に手をつけなかった不作為が、こういう状況を生んだ。老害さっさと退場しろ」という若い世代とで、争いが始まる。多数決だと若い側が必ず負けるんだけれど、その時はもしかしたら、「やる気に満ちた若い世代」なんて、どこを探したっていないんだろうと思う。

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