2012.06.04

危機コミュニケーションのゲームデザイン

公平は信頼の基礎になる。ところが災厄に代表される危機的な状況において、機会や配分の公平は、たいていまっ先に失われてしまう。

危機コミュニケーションの現場において、情報の発信者が唯一管理可能な公平は「ルールの公平」であって、信頼が重視されるコミュニケーションにおいては、「それがゲームとして楽しい」ルールの設定が大切になってくる。

「それがゲームとして楽しい」ことと、「その状況におけるルールが信頼できる」こと、ひいては「ルールの範囲内において相手を信頼できること」は等しい価値を持つ。相手から信頼を獲得することは、コミュニケーションの場におけるゲーム構築の試みに他ならないのだと思う。

昔話

原発災害の当初、情報が錯綜して、不安ばかりが広がっていくさなか、英国大使館が「日本の原発についてのお知らせ」という見解を発表した。

新しい情報こそ発表されなかったけれど、現在公開されている情報を吟味して、そこから導かれた大使館の見解を語り、予想されるワーストケースを、過去に発生した最悪の災厄と比較してみせる、英国大使館のあの発表からは、あの時期にあって大きな安心感が得られた。

「原発が爆発しそうだ」というニュースが何度も繰り返された夜、総理大臣の会見が設定された。誰もが安心を望むあの時、総理大臣の口から出てきたのは「がんばっている」という言葉だった。全国の人たちが「がんばっている」こと、自分もヘリで視察して「がんばっている」こと、「がんばっている」の連呼で10分間、原子力発電所の現状に関する情報は得られないまま会見は終わり、不信だけが残った。

豚インフルエンザの流行最初期、まだ災厄の全貌もつかめない中、検疫の人たちは防護服で汗まみれになりながら、一生懸命働いていた。「みんながこれだけ頑張っている」というメッセージが、カメラを通じて全国に放映されたけれど、不安はやはり、まだまだ大きかった。

当時某所で、ウィルスというものはしょせんは恐ろしく細かい粉にすぎないこと、湿気で失活すること、紫外線で失活することなど、いくつかをリストにして公開したら、それが安心だという評判をもらった。今にして思えばあれなんかも、医師の考える「こうすれば大丈夫」を公表するだけでは安心にはつながらなかったのではないかと思う。

ゲーム性について

「ルールデザイナーまたは他プレイヤが提示したルールからプレイヤが最適解を求めようとする」という関係が成立する時、それはゲームだと言える。

説得が信頼の獲得であるのなら、それに必要なのは「頑張っている」の連呼ではなく判断の根拠であって、すでに公開されている情報をお互いに共有したうえで、それに基づいた自分の判断を語ってみせることで、コミュニケーションはゲーム性を獲得できる。

ゲームは「楽しい」ものでなくてはいけない。楽しさとは、ルールに対する見通しの良さでもあり、ルールに対する戦略の多様性でもあり、デザイナーとプレイヤーとが、ルールにおいて対等であることでもある。

笑いの許されないクリティカルな現場にあってこそ、コミュニケーションはゲームであって、ルールには「楽しさ」が追求されないといけない。「楽しくできない」ルールでどれだけまじめに語ったところで、プレイヤーが楽しめない以上、ゲームデザイナーに対する信頼は得られない。

内容の「固さ」では、ルールの不備は補填できない。

笑いの要素などどこにもない戦場で、相手に対して身勝手な誠意を見込み、悲壮な覚悟だけで突入を命じる将軍は、部下を皆殺しにしてしまう。お互いが置かれた状況から、「楽しく」殺しあいができるルールを見出して、ルールの範囲で最善の選択肢を探索できる将軍が率いた軍隊は、悲惨な戦場を生き延びる。

有能な将軍は、恐らくは優れたプレイヤーであるのと同時に優れたゲームデザイナーでもあって、名将と讃えられた人物の日常会話は、案外不謹慎なものであったのではないかと妄想する。誠意や道徳を好む真面目な人は、危機にあって部下を殺してしまうだろうから。

危機管理の失敗とゲームの失敗

破綻した危機管理においては、「判断の失敗」や、あるいは「意思の不在」がその原因として語られることが多いけれど、その根本にあるのは「ゲームの失敗」なのだと思う。

判断が失敗と認定されるためには、前提としてそこにルールが成立していなくてはいけない。「それが失敗であったこと」だけでは、ルールの存在を証明できない。判断の失敗が原因とされる危機管理においては、実際にはたぶん、その状況をゲームとして成立させることに失敗していたことのほうが多い。

その状況にルールを見いだせる人にとって、判断とは選択肢の探索に等しい。議論にを通じてより良い選択肢を探索できれば、ルールにおける勝利を獲得できる可能性は向上するし、選択肢の探索に失敗した状況は、「判断の失敗」であると認定される。

「真面目な人」はそもそも、状況にあってルールをデザインしようとしない。判断とは場の総意を探索することであって、探索しようにもルールがないから、議論は改良に結びつかない。判断の根拠はたいてい、そこで流された「汗の量」、「がんばったこと」に求められる。

決断の不在は現場の出血で贖われることになる。

同じ危機管理の失敗であっても、これは「判断の失敗」ではなく、選択肢を探索しようにも、そもそもそこに解くべきゲームが存在していなかった、「ゲームの失敗」なのだと思う。

「専門家に任せておけば必ずうまくいく」という信念は間違いだけれど、「素人に指揮を任せると必ず最悪の選択肢を踏む。とくにその素人が専門家を自認している場合には」という信念はたぶん正しい。専門家は「判断の失敗」から自由になれないけれど、専門家を自認する素人は、そこにゲームを作れない。

危機管理、危機コミュニケーションに必要なのはゲームなのだと思う。危機の当事者であるゲームデザイナーと、災厄の引き受け手である被災者、プレイヤーとがそこには存在する。プレイヤーがお互いの関係を「不公平だ」と思ったら、ゲームは失敗してしまう。ゲームが成立すれば、災厄がどれだけ理不尽なものであったとしても、ゲームが継続される限りにおいて、お互いの信頼は保たれる。

リスクコミュニケーションをゲームデザインで読み解いた解説が読んでみたい。災厄にあって、情報も不十分なあの状況で、政府がどんな発表をすれば信頼を獲得できたのか。リーダーがどんな振る舞いを行い、どう宣言すれば、現場はもう少し動ける可能性があったのか。

あの時点でできることは、恐らくはまだたくさんあったのだと思う。

2012.03.28

「なぜ?」 の効用

従順な現場に支えられた組織は効率がいい。利益に向かって現場が自発的に「暴走」を行なって、あまつさえ自己責任で法を破ることも厭わないのなら、利益は勝手に増えていく。リーダーはメディアに向かって、きれいな理念を賢しげに語ってみせるだけでいい。

暴言の効果は少ない

暴言で部下を従わせるやりかたや、あるいはみんなを集めてスローガンを叫ばせるようなやりかたは、暴力的な見た目に反して、実際の効果は少ない。

「絶対にやれ! 」 なんて暴言を行使する上司は、現場の側からは「嫌な奴」に見える。「嫌な奴」の命令に心から従うのは難しい。明示的な悪役として振る舞う誰かの存在は、現場の空気を厳しくする一方で、一種の安全弁としての機能を提供する。

人間をとことん追い詰める、無理の限界をはるかに過ぎて、それでも働くことをやめられない、体を壊したり、亡くなってしまったりする領域に誰かを到達させるためには、暴言だけでは威力が足りない。そうした領域に誰かを追い詰めるために行使されるのは、「やれ! 」という命令ではなく、「なぜ?」という問いかけなのだと思う。

「なぜ?」 は役に立つ

「できない」という現場の声に、徹底的に「なぜ? 」を問う組織は、ときおり爆発的な成果をあげる。

「できない」という声に対して「やれ!」 と命じてしまうと、命じたその人が悪役になる。怒鳴っても結果がついてこなかったら、今度は悪役が責任者になる。現場に対して「なぜ? 」をたたみかけて、返答に詰まったことを「できる」の根拠にするやりかたは、次の「できない」が、現場の責任へとすりかわる。

「できない」という言葉に対して、徹底的に「なぜ?」を重ねる。「できる」ことを本人に発見してもらう。そんな空気を醸成すると、すべての「できない」は現場のせいになる。誰もが倒れるまで働くし、それが必要であれば、法も破ってくれる。全ては「現場の判断」で行われる。上司はそれを、大笑いしながら見下ろしていればいい。

ブラック企業はみんなでスローガンを叫ばせる。綺麗なスローガンは「なぜ? 」を問う根拠であって、「ブラック」と形容される組織では、あらゆる「できない」に「なぜ?」 が問われる。「仕方がない」の気分がその場から徹底的に排除されることが、ブラック企業をブラックにしているのだと思う。

やさしいやりかたの怖さ

できないと思っている誰かに対して、「なぜ?」を重ねて望ましい結果に誘導する、コーチング的な、「できることを自分で発見してもらう」やりかたは、見た目こそ優しげだけれど、道具としてはおっかない。

大昔の小学校には、「逆らったらもれなくビンタ」の怖い先生がいた。現代の先生がたは、子供に優しく「なぜ? 」を問う。「ビンタ」と「問いかけ」と、見た目が怖いのはビンタだけれど、道具の威力は「問いかけ」のほうが圧倒的に強力で、使いかたを間違えるととんでもない結果をもたらす。

穏やかそうな見た目の方法を駆使する誰かが、自分が今使っている道具の威力を自覚していないことは珍しくない。人も殺せる威力を持った道具が、案外無邪気に行使されていたりする。そういうのが恐ろしい。

神様は便利

コーチングを受けたスポーツ選手は、実際に成績が向上したりする。コーチングは単なる説得ではなく、その人の抑制を外すための方法だから、上手に使えば高い効果が期待できるけれど、外す場所を間違えるととんでもない方向に暴走する。

「なぜ?」 という問いかけを重ねると、その場から「仕方がない」という気分が放逐されていく。そうした空気に、「だって、仕方ないよね?」と水を差してやると、状況はリセットされて、場は健全な気分を取り戻す。ところがたぶん、水を差すのは大変で、空気に抗えるだけの勇気と知力、上司と拮抗できるだけの暴力とを持っていないと難しい。

「なぜ?」 を重ねるやりかたは強力だけれど、その威力が発揮される前提として、その場に過剰な理性を要求する。追い詰められた状況で、自身の内部に神様を持ってる人は、「信仰上の理由でそれを受け入れることはできない」というカードを切ることで、場の理性に拮抗できる。

理性を根拠にした問いかけに対する返答として、「信仰」という理不尽が導入されると、上司が更なる「なぜ?」 を重ねようと思ったら、「お前の信じる神はクソだ」と断じる必要に迫られる。問題は解決しないかもしれないけれど、「なぜ? 」の連鎖は大抵断たれる。

「なぜ?」 に対する安全装置として、自身の内部に「神様」的な理不尽を常に持っておくことは、きっと大切なことだと思う。

2011.12.06

対等な関係は難しい

白い巨塔という医学小説は、主人公たる財前は悪役として、財前を告発した患者さん家族の味方となった里見は正義として描かれるけれど、あの物語において、財前はむしろ被害者であって、本当の悪役は里見なのではないかと思う。

対等と正義は相性が悪い

物語の序盤、財前は、手術した患者さんの肺転移を見逃す。まわりはそれに気がつきつつ、誰もそれを財前に進言できないままに状態は悪化する。里見もまた、財前に「これは肺転移だ」と進言したはずだけれど、結局生検は行われることなく、患者さんは亡くなってしまう。

患者さんの経過において、もちろん責任者は主治医であった財前だけれど、患者さんは結局亡くなってしまうであろうとはいえ、訴訟を回避できた可能性は無数にあった。肺転移した胃癌に対して、昭和40年代の医療でできることはほとんど無かっただろうから。ところが「正義の人」である里見があの場所にいたことが、そうした可能性を閉ざしてしまった。

「対等な関係」にある誰かが「正義の人」であったとき、その組織で致命的な失敗が起きる確率は飛躍的に高まってしまう。

火嫌いと火消し好きの関係

小説とドラマの記憶が混ざってしまっているけれど、「白い巨塔」の里見という人は、一緒に働くにはけっこう厳しい。

何か問題を発見すると、里見は「これは問題だ。君はこうするべきだ」といったやりかたで問題を指摘する。プレゼンテーションのありかたとして、これは微妙に挑発的で、「売り言葉に買い言葉」的な状況に陥りやすい。

里見の助言は、それを受け入れる側に「ただ負ける」のではなく「大きく負ける」ことを強要する。兵隊の位が異なっているのなら、特に相手が明らかな上役ならば、こうした言い回しは全く問題にならないけれど、対等な関係という、組織においてバランスを保つのが難しい状況において、「大きく負ける」ことを素直に呑むのは難しい。

同じ状況に置いて、里見が常にヘラヘラとした、いっそ財前に「ちゃん」付けで呼びかけるような人物であったなら、白い巨塔の問題は発生しなかった。財前に見逃しがあって、里見がそれを見つけたとして、「財前、お願いだからこの検査をやってくれないか?」なんて、財前の肩にでも手をかけながら頭下げていれば、必要な検査が提出されて、問題はそのまま収拾したのではないかと思う。

火が嫌いな人と、火を消すのが好きな人とがいて、同じ「消す」ことを目指しても、問題に対する態度はずいぶん異なる。火が嫌いな人は真っ先に火を消そうとするけれど、火を消すのが好きな人は、もしかしたら火を大きくする方向に舵を切る。火消しを公言する人は、火が大きくなるまで待ってしまったり、案外放火が好きでもあって、こういう人と一緒にやるのはリスクが高い。

クズには使いようがある

大ざっぱに「クズ」と「正義」がいるとして、患者さんの状態悪化を見逃した財前は人間のクズであったのかもしれないけれど、里見も等しく人間のクズであったなら、白い巨塔の物語は、そもそも起動しなかった。

「クズ」と「正義」には使いどころがある。対等な関係を作らざるを得ない場所に「クズ」と「正義」を配置すると、たいていろくでもないことになる。対等に組んだ「クズ」同士はうまくいく。同じことを「正義」でやると殺しあいになる。「正義の人」は、上司と部下しかいない、対等が存在しないところに置いて、上下を「クズ」で挟むと馬車馬のように働いて、組織全体の生産性が向上する。

白い巨塔の物語というのは、財前の失敗ではなく人事の失敗であって、同僚に恵まれなかった財前の物語であったのだと思う。

2011.11.23

顔の見える距離について

外に対してある程度閉じた、小さな町で仕事をしていると、どうしても知った顔が多くなる。病院に来る人は、主治医に自分の情報を預けているわけで、病院の外で患者さんと出会ってしまうと、お互いどこか居心地が悪くなってしまう。

その町の本屋さんが外来に来ると、もうその本屋さんには行きづらくなる。床屋さんに行き会うと、もうその床屋さんにはいけなくなる。飲み屋さんを主治医として受け持ったとして、たとえば飲みに行った先にその人がいて、不相応なサービスもらってしまうと、もうそのお店には行けなくなって、外来で「最近来ないね?」なんて水を向けられても、「いや、忙しくて」なんて、やっぱりどこか居心地が悪い。

病院の外に知った顔が増えていくほどに、そこでできることが限られてくる。お互いの顔や名前がしっかりと見える距離感と、顔見知りであってもある程度匿名的に振る舞える距離感と、ある程度自由にやれる生活を回していくためには、両方の距離を持っていないと難しい。

水を差すと自由になれる

学生だった大昔、左翼系の全国サークルが主催する「夏の合宿」に参加する機会があった。

全国から医学生、看護学生が集まって、意識の高い学生よろしく何かを作ったり、議論したり、話題はといえば、恐らくは何年もこういう合宿を主催している先輩方に誘導されたものだったのだろうけれど、場は盛り上がって、誰もが同じ方向を向いていた。

夜に入って、ご飯を囲みながら、やっぱり集まりは和やかに盛り上がって、先輩方から「あしたは○○町に平和アピールに行きましょう」なんて提案があった。医学と社会の勉強会であったはずの合宿が、いつのまにか平和運動に置き換わっていて、自分はそれが嫌だったのだけれど、すでに見知った「仲間」の顔を曇らせるのがはばかられて、どうにも反対意見を切り出せなかった。

話の流れが「全員参加で平和アピール」に傾きかけた矢先、別の学生が手を挙げた。「先輩、俺は「この会に参加すると女の子たちと思い切り遊べる」と聞いたからここに来たんです。まだ遊び足りません。明日は遊びたいです」空気を読まない、どこかとぼけた「意見」に場は笑った。平和アピールの話は自由参加になって、そのときもしかしたら、参加を提案した先輩の顔は曇ったのかもしれない。

外に対して閉じた場所で、お互いの顔や名前を見知った関係がずっと続くと、誰かの顔を曇らせるのが怖くなっていく。そんな状況で、ある空気に真っ正直に反対するのは難しくて、一度誰かが「こう」と決めた流れを変えようとすると、結果として場が割れてしまったり、喧嘩になってしまったりする。こんな状況で、固まった空気に「水を差す」ことができると、場は和んで自由が戻る。多様な意見を確保する上で、これができる人は本当に貴重だし、多様な意見を追放したい誰かにとっては、場に水を差す人は、放逐の対象になったりもする。

顔色と洗脳

NHKのニュースで、オウム真理教の事件が特集されていた。番組中、オウム側の証言者が口をそろえたように「洗脳されていた。あのときには善悪の判断ができなかった」と語っていた。

オウム真理教側の証言は、事件がもう少し新しかった昔は、「教祖のために行ったことだ」とか、「あれは救済だ。悪いことなどやっていない」とか、もう少し宗教がかった、常識の立ち位置から見て違和感を覚える言葉があったような気がする。「洗脳されていた。あのときには判断ができなかった」という言い回しは、それがどんな意図で発せられたのだとしても、悪と断じられた組織が抱える「悪い人」の数を最小限にする効果が得られる。証言を行った人たちのそれが内面の変化によるものなのか、それとも「そうあってくれ」という誰かの意志が働いた結果なのか、ちょっと知りたいなと思う。

どれだけ有能な教祖であっても、個人の力で誰かを洗脳して、無茶な行動を後押しするのはやはり難しい。危険な決断、「常識」からはありえないような危ない決定は、誰かがそう決めたのではなく、たぶん「誰もが決断しないこと」から生み出されることのほうが多い。

危険な決断は、方向としての「そういう空気」があるなかで、議論無し、決断無しで、その方向に前進した結果、止める人が誰もいないままに実行されてしまう。実行されたことは事実だけれど、そこに至るまでの過程において、恐らくは誰も議論せず、誰も決断していないから、それが失敗に終わったそのとき、そこにいた誰もが「洗脳されていた。あのときにはどうしようもなかった」と述べることしかできない。オウム真理教も旧軍も、あるいはおそらく東京電力の人たちも、そうした決定プロセスは共通しているような気がする。

災厄が予知されて、対策を指示されたにもかかわらず、対策が為されず災厄を生んで、将来的に東電の上の人たちがいろいろ口を開く機会が来ることもあるのだと思う。「どうして?」と誰かが問えば、結局のところ「洗脳されていた。仕方がなかった。判断できなかった」に連なる言葉が出てくるのだと思う。それは本音なのだろうし、悪人を作らない、他の人を悪役にしない、同時にたぶん、そこからは何も改善されない言葉でもある。

「水も入らぬ距離」を望む人

外に対して閉じた場所を設定して、お互い見知った距離を保って、個人を取り巻く匿名の殻を浸食すると、「仲間の顔」がよく見えるようになる。

そうした場では、「仲間の顔が曇ること」が恐ろしい意味を持つ。相手の顔を曇らせないよう、そこにいる誰もが「空気を読んだ」結果として、誰もが身動きを取れないまま、組織は「空気」の示す方向に暴走して止まれなくなる。

ソーシャルゲームやネットワークRPGは、仲間の顔を曇らせたくない、自分が誰かの顔を曇らせる原因になりたくないという思いを上手に利用して、課金サービスを効率よく回す。新興宗教は、どこかゲーム的な教義の構造を持っていることがときどきあって、ああいう団体が「ゲーム」を通じてお金を集めると、けっこうすごいことになるのだろうと思う。

商売を試みる側からすれば、様々な価値観を持った人が忌憚のない意見を交わす、無数の価値軸が全体として動的平衡になっている場所なんて、なんの魅力もないのだろうと思う。熱狂を期待して何かを提案しようにも、あらゆる方向から水を差されて、系全体はびくともしない。

地域のお年寄りに高額のお布団セットを売りつける人たちは、人を集めて狭い場所に押し込んで、熱狂的な空気を作って、「忌憚のない意見」を封じ込めにかかる。個人的には、それを全世界規模で行おうとしているのが実名空間のソーシャルネットワークに見える。

「顔本とかG+ で人気になった○○さん」は、それが評判になった瞬間、過去ログを掘られて未来との整合を検証される。一貫性を手放せば評判が落ちるし、流れが見えれば先が読めるから、その人からはお金が汲み出せる。評判は中立地帯を地雷原に変える。あの場で目立つのは危ないし、そういう危機意識のない人を人気者と煽る人は、自爆要員としての役割以外は期待していないのだろうと思う。

試作段階のプリウスは、遊びをゼロにした動作系に中枢を複数搭載した結果として、判断のコンフリクトを生じて、数メートルしか走らなかったのだという。お互いの結合を緩やかにして、いろんな場所にバッファを入れて、試作車はようやく走ったのだと。「停止」と「暴走」とは、系の中にいる人には一切のコントロールが効かないという部分でよく似ていて、実名のソーシャルネットワークは、あらゆる個人が遊びゼロで全部直結しているような怖さがある。

実世界にはドアや壁があって、ドア1枚を隔てたほんのわずかな匿名が緩衝になって、お互い見知った人同士が自由に考え、暮らしていける。考える人がたくさんいるから、空気が固まると水が差されて、場は柔軟さを取り戻す。

水の入る余地がない距離は身動きが取れないし、暴走すれば止まらない。それは恐ろしいことでもあるし、同時にたぶん、とても利用しやすい。そんな場所を本当に誰もが望んでいるのか、そんな場所を作って得をするのは誰なのか、考えたいなと思う。

2011.10.18

講習会覚え書き

最近参加した、某講習会での感想。新しいことを教えてくれる講習会というよりも、ある程度知っていたことを整理して、ひとかたまりの知識として提供してくれるようなものだった。有償。

スライド棒読みはそこそこ満足できる

  • 研究発表よりも資格講座に近い講習会だったから、スライドは教科書の抜粋で、その分野の参考書も、講習会で使われたパワーポイントも、ハンドアウトとしてあらかじめもらうことができた。その結果として、講習会は「パワーポイントの朗読」に近い形式になってしまうことになったけれど、それでも案外、「何かを聞いた」という満足感が得られた
  • スティーブジョブズのプレゼンテーションは、あれは全く新しい何かを予告無しに紹介するという、プレゼンテーションとしてはむしろ特殊な状況であって、講習会みたいな場所で、ジョブズと同じことをやろうものなら、たぶんメモ取りが追いつかなくなる。プレゼンテーションの話者が場を上手に盛り上げるほどに、頭に残る知識は減ってしまうのではないかと思う。そういう意味では、パワーポイントを朗読するようなやりかたは、必ずしも悪い例ではなく、ある程度確実な効果が期待できる次善の策として、十分に通用するのではないかと思った
  • ジョブズのやりかたは、それでも参考になるのではないかと思えた。慣れている演者の先生は、演壇から自分たちの側に歩み寄りつつ、スライドを見ないで、スライドの内容を言葉で伝えた。話されている内容こそ、ハンドアウトに書かれた内容をそのままなぞっていたけれど、それがいかにも上手に見えた。同じような「朗読」であっても、スライドの文字をレーザーポインターで追いながら文章を読む演者の講演は、いかにも朗読しているように見えて、演者の立ち居振る舞いは、印象をずいぶん変えた

脱線にもやりかたがある

  • 自分たちが普段学んだり、あるいは実際に利用したりする診療ガイドラインは、必ずしも現場でそのまま使えるものだとは限らないし、その内容に賛成する立場の人もいれば、反対する立場の人もいる。演者の先生がガイドラインを伝える講演を行った際にも、その演者は、必ずしもガイドラインの立場に賛成しているとは限らない
  • 伝えるべき内容と、演者の立ち位置とは、異なっていても全くかまわないはずなのだけれど、けっこう戸惑った。「私はこの勧告にはあまり賛成できません」という前置きを置いてから、講習テキストに対して少し批判的な立ち位置で講演を行った先生がいて、話それ自体は熱意があって上手だったのに、聞く側としては、せっかく何万円ものお金を支払って購入した教科書を、買ったその場で批判されているような気分が残って、最後までそれがぬぐえなかった
  • このあたり、「有償/無償」が印象を微妙に左右しているのではないかと思った。お金を支払って購入したものは、それが自分の判断かどうかはともかく、自分にとって価値のあるものになる。それに対して批判したり、あるいはその教科書から脱線しようと思うのならば、演者は逆に、その教科書に賛成している人以上に、教科書の論理に通じていないと厳しいような気がした。教科書の論理や、それを書いた人の意図するところを肯定的に紹介して、初めてそこから、脱線が聴衆に対する面白さとして効果を発揮してくれる。最初から脱線前提、本筋は各自勉強、という立ち位置は、特に有償の講習会の場合には厳しい印象を持った

経験の提示は難しい

  • 大筋はパワーポイントスライドの朗読、その隙間を補完する形で、たとえば箇条書き形式の病名を紹介する際に、ちょっとした経験談を挟み込んだりするだけで、講習会の満足度はずいぶん上がる気がした
  • その代わり、ちょっとした経験談が、スライドの流れと離れてしまうと、講習の印象がずいぶん変わってしまう。講習会だから、聞く側はメモを取りながらスライドを見ることになるのだけれど、演者の先生がたの経験談には、たまに「どこにメモを書いていいのか分からない話」が出てきて、それがどれだけ面白い逸話であっても、なんだか流れが切られたような印象を生む
  • 特に「例外の提示」が難しいのではないかと思った。大筋の流れがあって、「実際にはこんなふうに実践されているようです」と具体例を提示する分には、経験提示は話を盛り上げ、聞く側をお得な気分にしてくれる。逆に「こういう例外を経験したことがあります。気をつけて下さい」という体験談は、演者が提示した経験がごくまれな例外なのか、それとも今学んでいるガイドライン自体が穴だらけで信用ならないものなのか、例外の提示だけでは判断できない
  • 例外の経験を提示する際には、たとえば「このガイドラインが想定している疾患に、こうした症状が加わった際にはこんな例外を想像したほうがいい。当院でも2年に1回程度ある」だとか、あるいは「ガイドラインの流れで9割以上の疾患については網羅されているものの、残りの可能性として以下の疾患を考慮しなくてはいけない」だとか、呈示された症例と、講習会を通じて学ぶ一般的な傾向との間に、何らかの橋渡しがあるとありがたい
  • 症例は症例、一般的な傾向は、あくまでも統計的に検証されなくてはいけないもので、ここを安易に「橋渡しする」ことは、マスメディアがよくやらかしては叩かれるやりかたそのままなのだけれど、聞くことしかできない側としては、橋渡しをされて、初めてたぶん、講習会の流れの中で、自分が今聞いた体験談の居場所が定まる。知識の置き場所なんて自分で決めるのが筋なのかもしれないけれど、講習会というものそれ自体、ある程度見知った知識に新しい置き場所を与えるための場なのだから、演者の側に過剰なぐらいのサービス精神がないと、聞く側は案外、物足りなく思う

まとめ

  • 講習会の品質というものには、たぶん「面白さ」と「伝わりやすさ」という側面がそれぞれあって、面白い話は必ずしも伝わりやすさを生まないし、スライドをただ朗読するだけの、面白さを捨てたようなやりかたが、それでも案外伝わりやすくて、聞く側の満足度もそこそこ高かったりもする
  • 伝わりやすさを高めていく際には、知識の居場所をきちんと定めて、聞き手を混乱させないことが大切になる。ひたすら朗読するだけのやりかたは、たとえつまらなくても混乱の余地が発生しないし、脱線したり、あるいは例外経験を挟んだりするやりかたは、面白さを増すための方法としては効果が期待できる反面、もしかしたら伝わりやすさを減じてしまう危険がある
  • 笑いどころではきちんと笑い声を挟んだり、芸人が脱線しても司会者が必ず流れを元に戻す、バラエティ番組のあのぬるい空気は、尖っていない代わり、とても分かりやすい。あれをそのまままねするのは少し違うけれど、「面白い講習会にしよう」という意気込みは、必ずしも「いい講習会」にはつながらないのではないかと思えた

2011.09.23

熱心な人は恐ろしい

それが敵であっても味方であっても、正義や熱意で動く人というのは恐ろしい。

損得勘定で動く人なら、立ち位置が異なっても会話はできるし、お互いの行動はある程度読めるけれど、正義や熱意で動く人はまず真っ先に損得勘定を除外するから、何が出てくるのか分からない。

有能な敵は頼りになる

「有能な敵」は、状況によっては味方よりも頼りになる。「無能な味方」は、もしかしたら真っ先に背中を刺しに来る。

倒さなくてはいけない相手だからこそ、抜け目のない敵は相手をよく観察している。観察した相手だからこそ話は通じて、立場は異なっても、ゆがみのない会話ができる。味方を自認する人は、味方であることにしばしば安住してしまう。観察を怠った人は、「あいつならたぶんこうだろう」という予測が外れると怒り出す。味方であったはずなのに。

当直時間帯における頼るべき「有能な敵」は、「見逃すと翌朝までに患者さんが亡くなりうる疾患」のリストに相当する。病気の数は無数だけれど、時間軸を翌朝までにすることで、特定の症状から急変に至る疾患の数を限定できる。原因がこれと定まらないときには、そこに「能な敵がいない」ことをもって、暫定的な「大丈夫」を定義できる。

正義感が背中を刺しにくる

当直時間帯における「無能な味方」は、正義感や使命感の姿を借りる。

「疲れた」だとか「面倒くさい」という感情は、「訴えられたくない」という後ろ向きな気分を捨てない限り、致命的な判断ミスにはつながりにくい。「患者さんのため」だとか、「医療資源を無駄にしたくない」だとか、当直医の頭によぎった道徳や正義が、踏んではいけない地雷を踏ませる。

「ここで頑張って詳細な身体所見を取ることで、血液検査は出さないで返そう」と思うときが一番危ない。うまく回っているときには、そもそも「頑張って」という感覚は浮かばない。頑張るという状態は、すでにして平時でない状況で、そこで浮かんだ道徳の声は、たいていの場合間違っている。「疲れた」だとか「サボりたい」といった怠惰の感情は、力にこそならないけれど、ひどいミスにはつながらない。怠惰を前提とした行動計画を組むことで、怠惰はむしろ強みにすらできる。

若い人が原因不明の腹痛を訴えて、外来で連日点滴、腹膜炎を手遅れにした土曜日の夕方、ショック状態になった患者さんが開業医からいきなり紹介されたりする。原因不明の患者さんを、検査もしないで外来で「頑張る」、ああいう行動は、怠惰や無知、保身の文脈からは絶対にありえない。「やらかす」人は恐らくは熱心で、それを正義と信じて、あえて地雷を踏み抜いているのだと思う。

道徳と損得とは両立しうる

研修医の昔、病院長からは「お金を稼げる医師になりなさい」と習った。誰もがどこか過剰な、教育熱心で暑苦しい病院だったけれど、研修医はそれでも、「いい医師に」とか「正義の医師に」とか、そういう指導は受けなかった。当時はよく分からなかったけれど、今にして思えばそれが正しいのだと思う。

やりがいとか使命感、道徳や正義を研修医に強要する人は、教育の場から離れたほうがいいように思う。「熱心な医師」は「致命的な誤りを前に止まれない医師」であることが多くて、そういう人と働くと、勝手に起爆装置入れた地雷をこっちに放り投げてくるから、おっかなくてそばに寄れない。

これが研究者ならまた異なってくるのだろうけれど、臨床を安全にやっていく上では、「後ろ向きに抜け目なく」という態度がいいのではないかと思う。患者さんに関わる誰もが「保身第一の屑野郎」ばかりになるだけで、回避できる医療事故はけっこう多い。

「損得で行動しろ」という教えは、「道徳を無視しろ」という教えとは全く異なる。道徳は、「得」を獲得しに行くときにはとても役に立つ道具になるし、道徳を外さず行動することで目先の得を逃がしても、将来的に大きな得を獲得できる可能性を高めるのなら、そうした行動は損得勘定においても正しい。

まず損得を勘定してから道徳を行使するのなら問題はないのだけれど、順番が逆転するのが恐ろしい。まず一番に正義や道徳が来て、損得を敵視するような考えかたや教えかたは、「道徳や正義は立場によってまるで異なってくる」という当たり前の前提を無視してしまう。

「正義は地理から自由になれない」という地政学の考えかたには納得できる気がするし、「普遍的な正義がある」という考えかたは、いろんな人を不幸にする。

熱心な医師であろうとするならば、熱心の取り扱いにはせめて習熟してほしいなと思う。

2011.09.21

「普通」の標準偏差

「守り」のことを考えた際には、デモ行進や不買運動といった集団活動と、サービス業における接遇対応とは、注意すべきポイントが似かよってくる。

印象は裾野が決める

デモ行進のようなアピール活動を、「普通に」行うことはとても難しい。訴えたい何かがそこまで極端なものでなくても、集まった人の大半が、無難なやりかたをしていても、報道されたり、写真に撮られたりするのは一番過激な誰かであって、集団の訴えとして取り上げられる声もまた、一番極端な誰かが全体の印象を決定してしまう。

正規分布の中央部分に相当する人たちがどれだけの高みを目指しても、印象は裾野を受け持つ誰かが決める。デモの意志に反対したい人も、それを面白おかしく取り上げたい人も、注目は裾野に集中する。大多数が受け持つ「平均」を見てもらおうと、裾野にいる誰かを、「裾野である」ことを理由に切断すれば、今度は集まりの大義が失われてしまう。

正義の旗印で人を集めると、参加者は「頑張り」を表明するために、しばしば過激さに向かった競争を始めてしまう。単なる行動が暴力になり、公共物を破壊してしまったり、誰かが暴行を受けたりすると、無難を受け持つ大多数の参加者はスローガン自体を嫌いになって、集団は自壊してしまう。

集団行動の危機管理

様々な人を集めて何かを訴えたり、あるいはサービスを提供したりする際には、極端な人の扱いかたが問題になってくる。平均を受け持つ大多数の頑張りは、行動の効果にこそ貢献するけれど、その行動が他の人たちにどんな印象を持って受け止められるのか、印象形成には、そうした頑張りは必ずしも役に立たない。

サービスの印象は、最もうるさい顧客と、最も練度の低い窓口とが出会ったときに決定される。評判を高めようと思ったら、最高をもっと高めるよりも、最低を底上げするほうが役に立つ。同様に、「最高でありすぎる」誰かもまた、しばしばサービスの意味を根底から揺さぶる原因になる。裾野の誰かが生む印象は、すばらしすぎることもまた災厄を生む。利害の異なる誰かが、礼儀正しい集団を叩きたかったのなら、相手の訴えを正面から叩く代わりに、相手の集団に「極端な裾野を付け加えてしまう」というやりかたが、攻撃手段として有用になる可能性もある。

集団行動の危機管理を考える上では、振る舞いの標準偏差をどこまで小さく追い込めるのかに気を使わないといけない。トップがどれだけすばらしい活躍をしても、分布の裾野が広すぎてしまうと、リーダーには印象のコントロールができなくなってしまう。そこに集まった一番極端な誰かが全体の評価を決めて、大多数の頑張りは、もしかすると意味を失ってしまう可能性もある。

偏差を減らす試みについて

有志の集まりは切断できない。「ある大義に賛同すること」が集まりの前提であった場合に、誰かを「極端だ」という理由で切り離してしまうと、集まりの大義が崩れてしまう。

サービス業の接遇対応においては、「お客さんと対応する人に名乗ってもらう」ことが行われる。名乗ることで、「群衆」は個人の集まりに解体されて、群衆がしばしば失う細かい気遣いが、失われず保たれる。

軍隊が戦争を行う際には、「交戦規定」というものが共有される。交戦規定というものは「大義を行動で記述したリスト」であって、何をやるべきなのか、何をやってはいけないのかが明確になることで、それを守らない「よくやり過ぎる」兵士を、集団から切り離すことができる。

集団行動と対峙する側は、最も極端な反応をした誰かを捕まえて、「あの集団はこんな人ばっかり」と嘆いてみせる。それが極端であるほどに、「こんな人」扱いされたくない多数が抜けて、集団は瓦解する。そうした裾野の運用を避ける意味でも、偏差を減らす試みというものは、もっと考えられなくてはいけないのだろうと思う。

「それしかできない」ことは強みになる

極端な人を生み出さないという意味で、amazon のコメント欄を使った不買 (?) 運動というものは、やられる側にとっては極めてやっかいなものになる。

コメント欄にどれだけ悪口を書き込んでも、見ない人は見ないで買うから、デモ行進みたいなやりかたに比べれば効果は限定されるけれど、「コメント欄に書くことしかできない」という制約は、「極端な誰かの印象で全体を語ってみせる」というやりかたが成り立たない。行動を受ける側からすると、反撃の糸口がどこにも存在しないから、数と期間が効果に正比例してしまう。

叩かれた会社の側が何かの反応を返してしまえば、「効いた」となって敵を増やしかねないし、スルーを決め込むと、ガードの上から体力を削られる。会社の危機管理担当の人は、たぶん大変な思いをしているのだろうと思う。

2011.08.28

「できない」がチームを作る

チームを作って何かするときに大切なのは、「できない」ことの把握なのだと思う。誰もがたぶん、何らかの「できる」を持ち寄ってチームを作る。「できる」はもちろん大切だけれど、お互いの「できない」を共有することで、個人の集まりははじめて、チームとしての機能を獲得できる。

神経内科は怖かった

今いる施設にはいろんな患者さんが紹介されて、自分の手に負える患者さんもいるけれど、もちろんそうでない患者さんも多い。特に神経内科方面の症状を訴える患者さんが紹介されて、頭部の画像診断で、少なくとも素人目には明らかな問題がない場合には、うちの施設ではほとんど「お手上げ」になってしまう。

県内には神経内科を標榜する施設がいくつかあって、大学にはもちろん医局があるし、外来を持っている施設も、神経の専門を掲げている施設もあるのだけれど、「こんな患者さんがいるのですが、診療していただけないでしょうか?」なんてお願いすると、「僕にはそれが、どうしても神経疾患には聞こえないんですけれど?」とか、電話の対応が怖かった。

どこの施設も、看板こそ神経内科ではあるけれど、たとえばベッドがごくわずかしかないだとか、その人は虚血が専門で変性疾患は不得手であったりだとか、それぞれに固有の「できない」を持っていて、それが理解できるのに結局5年ぐらいを要した。

断られた昔、もうこの県内では「断る」ことでしか患者さんを専門施設に送り届けることはできないんじゃないかと考えていたのだけれど、「できない」がある程度分かるようになってから、ようやくたぶん、病院同士の連携というものが、強引にでも回せるようになってきた。

10徳ナイフは難しい

「無人島に持って行く」という条件を付けると、素人は10徳ナイフを選択して、登山のプロは、たぶんシンプルで丈夫なナイフを選ぶ。

10徳ナイフには様々な機能が備わっているけれど、たいていの機能は、ナイフがあれば事足りる。はさみがなくても紙は切れるし、缶切りがなくても、ナイフの刃が十分に丈夫であれば、たいていの場合用が足りてしまう。ナイフには「できないこと」があまりないから、結果として10徳ナイフは、「不便な単機能ナイフ」として酷使された結果、壊れてしまう。

たくさんの機能を持った道具を使いこなすのは難しい。10徳ナイフには様々な「できる」が備わっている代わり、ある状況においてどの「できる」が最もふさわしいものなのか、ユーザーは自分で考えないといけない。「できる」の範囲は案外広くて、判断はしばしば重たい。単機能で丈夫な何かを工夫するのと、多機能の道具を使いこなすのと、漠然とした使いやすさは、機能の数に逆比例することが多い。

「できない」で連携する

警察が人質交渉を行う際には、「交渉人」と「指揮官」とがチームを組む。チームには「交渉人は判断を行わない」、「指揮官は交渉を行わない」という原則があって、お互いに「ない」を持ち合うことで、チームには優れた連携が備わるんだという。

「ある」を使って同じことを目指すと、「交渉人は交渉を行う」こととなり、「指揮官は判断を行う」という、ありきたりな分業ができあがる。ところがこのルールで交渉に臨んでしまうと、ならば交渉人が判断を求められたときに、どうしてそれができないのか、あるいは逆に、指揮官自らが、相手からの交渉を求められたときに、どうしてそれを断れないのか、分業のポリシーからはそれを説明できないから、チームは混乱して、ルールでは混乱を収拾できなくなってしまう。

同じことは複数の道具を使う際にも言える。この道具はこのことができない、この道具はこのことができないという具合に、「ない」を使った道具の連携に失敗すると、それは「使い勝手の悪い十徳ナイフ」になってしまう。

たとえばスイスアーミーナイフの虫眼鏡は丸くデザインされていて、厚ぼったい。「レンズは刺したり切ったりできないし、隙間をこじることもできないよ」というメッセージがデザインに込められていて、迷わない。キリは細くて華奢で、たいていは握りの真ん中から立ち上がるように作られていて、あれをナイフの代わりにするのは難しい。

多機能ナイフはそうすることで、小さな刃をキリの代わりに使われて折れてしまったり、レンズで隙間をこじ開けようとして割れてしまったりといったトラブルを回避している。同時に「できない」をデザインに組み込むことで、ユーザーはたぶん、機能の重複から来る迷いが減って、たくさんの機能を持った道具を、いくらかでも使いやすく感じることができるのだと思う。

ネットサービスはどうなのか

たとえばTwitter にできることはシンプルで、とにかく字数制限がついた書き込みをひたすらに重ねていくこと以外、ユーザーには何もできない。検索も今ひとつ当てにならないし、過去ログを掘るのも難しいのに、Twitter を、あたかも自分の日記みたいに使う人はけっこういる。

blog サービスを自分のホームページとして使っている人は多い。基本的には日記帳だから、記事はどうしたって時系列に並ぶことになるけれど、「2100年」みたいな未来の日付でページを作って、その記事をホームページの看板のように使っている人も多い。

コミュニティを作りたい、自分の日記に看板を出したい、何かを販売してみたい、日記を書いて発信したい、様々な機能を最初から全部提供できるサービスはたしかに便利なのだけれど、機能の数と使い勝手は逆比例して、ユーザーは迷うのではないかと思う。

たとえばULOG のサービスには、「ブログ」と「日記」、「チャット」と「コメント」というものが、それぞれ独立した機能として備わっていて、どれも同じぐらいに高機能で、たぶん「できない」ことがない。これは長所でもあるのだろうけれど、逆に言うといくつもの機能を使い分けて、お互いを連携させる動機を生まない。Web の記事には「題名」と「日付」、「本文」、「URL」という役割が備わっているけれど、それぞれに「できない」を付加すると、使い分けと連携が容易になるのだと思う。

たとえばこんな実装はどうなんだろうか?

  • 「ブログ」は題名をつけることができるけれど、日付を記録することができない。サーバーサイド、ユーザーサイドで日付を管理するとはできるにせよ、読者の側から、少なくともサービスの内部からは、それが書かれた日付を知ることができない
  • 日記は逆に、自動的に日付が記載される反面、題名をつけることができない。題名が必要な、時間軸を超えた記述については、必然的にブログを選ばないといけない。日記はその代わり、日付でサービスを横断することができて、その日に書かれた日記を串刺し検索することができる
  • チャットには文字列を記載できるけれど、パーマリンクが付加できない。ユーザーサイドにはログが残るにせよ、読者の側から見て、過去ログを掘ることはできても、特定のつぶやきに対してコメントを残したり、そこだけをURLとして切り出して、他のサービスで引用したりすることはできない
  • コメントには日付とURL、引用先文章の題名が付記されるけれど、文章のトップには常に誰かの書いた文章がくる。自分の言葉だけ、単体としてのコメントというのはありえない

お互いの機能がじゃんけんのように 3すくみ、4すくみになった構造をしていると、使い分けの動機が生まれて、単なる高機能ではない、多機能ならではの論拠になるような気がする。「できない」の実装はその代わり、今度は機能を削ることになるから、今までできたことがどうしてできなくなるのか、それを使いにくいと感覚する人が出るかもしれない。

2011.08.25

会見記事を読んだ

島田紳助の引退記者会見 を文字におこしたものを読んだ。

一連の事実がきれいな物語として報告されて、きちんと管理された事実のみをを前提にした、突っ込みどころの少ない、自身が頭を下げる必要のない見解を組み立てているような印象を持った。

きれいな物語は何かが欠落している

語りたくない不都合な事実があったり、事実関係に何らかの瑕疵があったりするときほど、物語としての事実はきれいに、一貫したものとして語られることが増えてくる。

事実が自分でも管理できていない場合、通信のログが保管されていないとか、事実関係が曖昧で、証言の収拾もまだ十分に行われていない場合には、一連の事実を物語のようにつなげようと思っても、うまくいかない。話は必ずグダグダになるし、物語には「詳しくは覚えていないのですが」とか、「昔のことなので記録は残っていないのですが」とか、たくさんの但し書きが入ることになる。

語る側が隠さなくてはいけない何かを持っていない場合、相手がその部分についての詳細な記録を発見することができれば、それが物語の見通しをよくすることに貢献する。突っ込みどころの多い、整っていない物語というものは、裏を返せば物語る側に、そもそもリスクを冒してまで隠蔽すべき何かが無い可能性が高い。

語る側が、事実の瑕疵を見解の堅固さで補強しようと試みるとき、物語は磨かれることになる。事実のピースがいくつか抜けているにもかかわらず、物語は逆説的に、欠落など最初からなかったかのように、無理のない、きれいに過ぎるものに磨き上げられる。

きれいにすぎる物語というものは、聞き手による「新しい事実によって明快になる要素」を、暗黙のうちに拒絶している。あの記者会見は、そういう意味でスムーズに過ぎて聞こえた。

見解のコントロールと事実のコントロール

話者と聞き手との間である事実が共有されて、今度はお互いが、その事実を地盤とした、それぞれの見解を作ることになる。見解を強固なものにするためには、その土台となる事実を強固にしなくてはいけない。一貫した、ぶれの無い見解を語ろうと思ったら、なおのこと事実のコントロールを確立することが大切になる。

記者会見において、物語は「こういう事実があった。自分はそれを認める。自分の認識に照らして後ろ暗いことはなかった。ところが会社からそれが違法と聞かされた。お互いの認識が異なっていた」という論理で一貫していた。

物語は通常、いくつかの事実が出会うことで幕を開ける。一連の事実を体験した結果として、話者の見解は、時系列に従ってその形がはっきりしていく。話者の見解が「これ」という実体を持ったその時点で、過去との整合性が取れないのはむしろ当然であって、最初から一貫した見解を持って事実と対峙できる人がいたとしたら、むしろそれは不自然だと言える。

会見記事では、出会いの当初から一貫した見解が語られていた。あれはだから、確立した見解に整合するように、体験した事実に対して再構築を行っているように思えた。

再構築された事実関係と、それに基づいた見解との組み合わせは、「事実の真実性が管理されている」という前提において強固であると言える。あの場で語られた様々な事実について、話者は嘘をついていない、少なくとも語られた事例についての調査を行っても、話者の見解を崩すような矛盾は出てこない可能性が高い。会見の席では、過去のトラブルであったり、今も終わっていない訴訟の話にも触れられた。本筋にはあまり関わってこない、痛い腹をあえてさらけ出してみせるあの態度もまた、自身の語った範囲において、事実のコントロールがきちんとできていることの現れなのだと思う。

見解の崩しどころは語られなかった部分にある。あれだけ一貫性を強調するやりかたをすると、矛盾した事実が出てくれば見解が瓦解してしまう。語られた事実を時系列に、時の軸を等間隔の目盛りで区切ると、どこかに空白があるはずだから、その時期にどんなことがあったのかを詳しく調べると、何か出てくるんじゃないかと思う。

損得勘定と正義

島田紳助の見解は、損得勘定で行くとむしろあえて損を取っているように思えた。あれがどうしてなのかよく分からなかった。

「当初から一貫した態度の元に行動した。その態度が間違っていたことが最近分かったから責任を取って引退する」という論理はきれいに過ぎる。もっと無難にやるなら、「最初は出会いが楽しかった。それが業界的に黒だとうすうす気がつきながら、やめられなかった。ずるずるここまで来て、いよいよそれが黒だと思い、上司からそれを指摘された。自分が間違っていた」という論理になる。このほうが傷口を小さくできる。

「人間の謝罪」と「システムの謝罪」というものがあって、同じ謝罪や反省であっても、意味合いや受け止められかたがずいぶん異なってくる。

「自分の認識が変化していく中で、現在の自分から見て過去の自分が間違っていた」という持って行きかたをすると、そこで人間として謝罪する機会が生まれる。謝罪の会見は通常、「システムは間違っていなかった。人間の側に油断があった」という落としどころを目指す。本来の原因がシステムの瑕疵であったとしても、あえて人間の側に謝罪の主体を持ってくることで、システムを守ることができる。コストを低く抑えることができるし、人間が頭を下げるから、追及の手を断つこともできる。

「自分は正しいと思うことをしていた。業界の正しさと、それは相容れなかった」という持って行きかたは、業界のシステムに対して、自身のシステムが敗北を認めた、という謝罪をすることになる。これは同時に、システムの改変を宣言することにつながる。人として謝罪しているわけじゃないから、システムを改良する行程は検証されて、追及の手はむしろ深くなるし、「システムの謝罪」を行った人は、それを断る根拠を失ってしまう。ミスを防ぐ観点からはこのやりかたのほうが正しいのだけれど、高コストで「しっぽ切り」ができないからこそ、このやりかたは選択されない。

道徳や正義が先走ると、損得勘定が後回しになる。損得勘定を優先することと、正義を無視することとは全く異なった考えかたで、自らの側に正義を持ってくることは、最後に大きな「得」を獲得する際、状況を有利にしてくれる。損得勘定と道徳律とは両立できる考えかたなのだけれど、正義を先に走らせると、2つの価値はむしろ対立するものへと変わってしまう。正義が前に立つ人の判断は、だからこそ恐ろしいのだという。

正義は人によって大きく異なる。大切だけれど届く範囲が狭いからこそ、「損得勘定は我らの共通の言葉。それはこの天と地の間で二番目に強い絆だ」という原則が生きてくる。損得勘定を後ろに回す人はしばしば、違う誰かに同じ正義を仮想する。仮想が間違っているわけだから、それが争いの種を生む。

あえて損を取ってでも、トラブル収束の可能性が遠のいても表現したかったものが正義なのだとしたら、会見で述べられた話者の見解は、あれはあの人にとっての正義であったのかもしれない。

いろんな意味で、不思議な印象の会見だった。

2011.08.14

曖昧さという対立軸

上司にとって、曖昧な指示は武器になる。

「臨機応変に」やってくれだとか、「患者さん第一に現場の判断で」考えろといった指示を出すことで、上司は部下に対して「当たりくじだけ持ってこい」と命じることができてしまう。

あいまいさは便利

成果を厳しく問われない場所ならば、曖昧な指示は武器として役に立つ。無難なくせに内容のない、耳あたりのいい言葉を運用すると、上司は責任を回避しつつ、部下の成果を独り占めできる。

部下の側が曖昧な指示に抵抗しようと思ったら、「自分では無能すぎてこのケースを判断できません」という立ち位置で、全ての判断を上司にゆだねることになる。現場の誰もが無為に立ちすくんで、上司は無能な現場を叱って、組織の空気は悪くなっていくけれど、部下の側が結束している限り、上司はまともな指示を出さざるを得なくなる。

ピラミッド型の組織において、部下の数は上司よりも多い。現場の結束は、「まじめな」誰かの裏切りによって壊されて、「臨機応変に」やれという上司はたいていの場合、その場所に安住できてしまう。

厳密な判断に脆弱性が生まれる

弱い立場の側が、強い立場の誰かに喧嘩を仕掛ける際には、「判断の基準を厳格にして下さい」という方向で攻めるのが有効な手段になってくる。具体的には、あなたの判断は曖昧な根拠に基づいているから信頼できない、もっと厳密な判断の基準を示してほしい、という攻めかたになる。

良い悪いの議論は、水掛け論になってしまう。悪と叩かれた強い立場の人たちが、「私はそれを良いものだと考えています」と表明してしまうと、議論はそこで膠着する。停止のダメージはゼロだから、立場の高低が勝敗を分けて、結果として立場の弱い側は勝てない。

良い悪いという価値軸ではなく、「もっと厳密に」とか、「それは曖昧に過ぎる」という指摘を行うと、水掛け論を回避できる可能性が高まる。「厳密」にしても、「それは見解の相違だ」と返されると厳しいけれど、「根拠を示して下さい」と質問されて、それを無視することは、ダメージを受け入れることにつながる。

曖昧な部分が少ない、厳密な根拠に基づいた判断を行うということは、相手に対して脆弱性をさらけ出すこともつながる。厳密な基準に基づいた判断を貫きます、という立場を表明してしまうと、その人の振る舞いは予測可能なものになってしまう。その人に突きつける証拠を吟味することで、あらかじめ「これ」と定めた結論を言わせることが容易になってくる。

相手の厳密を運用する

「厳密」が、強い立場の側から宣言された段階で、いくつもの攻め手が生まれる。その人が過去に行ってきた判断は、新しい厳密な基準に基づいて検証されることになるし、あるいは逆に、「私たちはこんな証拠を持っています。判断して下さい」と、相手の判断回路を利用して、攻める側に有利な結論をその人の口から言わせることもできてしまう。

医療の業界におけるEBM、証拠に基づいた医療という考えかたは、そういう意味での成功例なのだと思う。医師の側がそれを認めて、「論文で検証されたやりかたを自分の直感よりも優先させよう」と表明して以降、今までは「弱い」立場であった製薬メーカーの人たちは、「こういう論文が出ました。あなたはこの薬を使うべきです」という、広告というよりも命令に近いパンフレットを持ってくるようになって、「証拠」を添えられた薬が販売されれば、現場はそれを使わざるを得なくなった。

判断の厳密性が宣言されてしまうと、議論のルールは大きく変わる。水掛け論で時間切れを狙う勝利戦略は通用しなくなる。立場の高低も事実上失われる。必要なのは証拠の量と資金力で、資本をそこに集中できる側が、ほぼ確実に勝利する。

用意できる資本が少なくても、目的を限定すれば、投資に見合った効果は回収できる。「どんな病気にでも効く」薬の効能を証明するのには莫大な資金がかかるけれど、特定の疾患の、特定の時期にだけ効く薬の効果なら、比較的少ない資金で証明できて、証拠ができたその薬は、特定の場所における必然として使われることになる。

効果をふくらませるのに必要な資本は、たいていは強い側から徴収できる。医療を動かすのもそうだし、役所や大企業を動かす際にも、恐らくは同じやりかたが応用できる。

手続きのコストを考える

武道で技をかけるときに、相手を崩して、柔らかい体を棒のような状態に持って行くのが肝心なんだという。一度相手を固くしてしまえば、あとは崩して投げられるのだと。立場が強い人たちの強みというものも、そうした柔らかさに似ているところがあって、判断から柔軟さを追放できれば、操作はそれだけ容易になっていく。

「厳密なのはいいことだ」という価値軸に反論するのは難しい。柔軟さにあぐらをかいていた側は、一度それが破られてしまうと、どんどん厳密に、厳密な方向に押されてしまう。強かった側は厳密に潰されて、厳密から自由な人たちは、小さく手広くお金を奪っていく。

テレビ局に圧力をかけようと思ったのならば、社会の公器を自認するところから「これを報道する、これを報道しない、の根拠を公開して下さい」という攻めかたをするのがいいのだと思う。判断の根拠が提示されたその段階で、今度は「じゃあ条件に合致したこれを、取材の上報道して下さい」と持って行くといい。

そうした何かが報道されることはたぶんないけれど、報道する、しないの交渉のテーブルを相手が設けてくれたその段階で、すでに大きな譲歩を勝ち取っているわけだし、それがスルーされたら、今度は「ダブルスタンダードだ!」と怒りを表明して、また「判断の根拠を示して下さい」からやり直せばいい。

「どうやったら相手の手続きコストを増やせるだろう?」と考えることが、弱者の戦略を発想するための近道になる。「厳密」以外にも、恐らくはいくつもの価値軸が武器として役に立つ。

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