2010.10.21

誤植のお詫びと訂正

販売中の「 内科診療ヒントブック 」という書籍について、以下の誤植がありました。

深くお詫びさせていただくとともに、訂正させていただきます。

誤植箇所は、p.280 の1行目です。

誤) 「喘息の薬」β遮断薬

正) 「喘息の薬」β刺激薬

皆様にご迷惑をお掛けしましたことを深くお詫び申し上げます。

2010.04.14

たくさんの人としゃべるための道具

ネット上で「本を買ったよ」という声をかけてもらったときには、できる範囲で、それに反応していこうなんて考えてる。

自分が今回出した本というのは読者が限定されているし、インターネット以外の告知をほとんど行っていないから、それが最大限売れたところで、その数はたぶん、頑張れば個人の範囲でどうにか手に負える。ネットに散らばった声を集めたり、話を聞かせていただいたり、あるいはこちらからお礼を言わせてもらったり、1000人ぐらいまでだったらたぶん、どうにかなる。

Twitter は便利

Twitter という道具は、言ってしまえば電子メールの劣化コピーみたいなもので、短いメッセージを、宛先をくっつけて誰かに送ったり、あるいは宛先なしで、ネットに公開したりが自由にできる、ただそれだけの道具なんだけれど、「1000人ぐらいまでの不特定多数の人と会話がしたい」なんて考えたときに、電子メールとのわずかな差というものが、決定的な差として効いてくる。

たとえば電子メールを使ってとりあえず1000通、お礼のメールを書こうなんて思ったら、大変な仕事量になる。

メールを打つには相手のアドレスを知らないといけないし、アドレスのリストを作るのがまず手間になる。メールを打つためには、そのアドレスをコピーしたり、最低限クリックして、宛先欄にアドレスを転記しないといけない。メールはやっぱり手紙の延長だから、宛先を入れて、件名にも何かを書いて、それでようやく、本文を書くことができる。

今はこういう作業を全部自動化するソフトもあるのだろうし、メーリングリストというのはこういうサービスなのだろうけれど、今度は本文まで含めて、全部自動化されてしまう。これはダイレクトメールであって、会話をしている感覚とは、またずいぶん違う。メーリングリストは他の人の反応を見ることもできないだろうから、手紙を書く側は、同じことを何回も書かないといけない。

これがTwitter だと、検索をして、そこに出てきた人のIDをクリックしたら、もう通信ができる。住所録を用意する必要もないし、件名を入れる必要もなく、いきなり本文が書けて、それで十分に用件が伝わる。

電子メールとTwitter と、減らせる手間というのは、せいぜい1クリックと1行程度で、電子メールに満足している人から見れば、それは誤差にしか見えないかもしれない。Twitter はよく落ちて、それは電子メールの劣化コピーにすら見えるだろうけれど、これから1000人ぐらいの人と会話をしようなんて考えたときには、これほどありがたいインフラはちょっと見当たらない。誤差に等しいわずかな差というものが、特定の需要を抱えると、しばしば大きな意味を持つ。

新しいメディアには、たぶん見えかたの非対称性みたいなものが存在する。今それで間に合っている人から見ると、新しいものというのはたいてい、今あるものの再発明か、劣化コピーに見える。今あるものでは足りなかった人にとっては、新しいメディアが実現した、ほんの数クリック程度の改良が、決定的な差に見える。

電子出版のこと

買って下さった方々に、一方的に作者の声を送りつけるようなやりかたというのは、実際のところ、どこまで意味があるのかは分からない。

こういうのは、やり始めたらきりがないし、数万部を売り上げるプロの人たちがこれをはじめたら、もう本を書く時間がなくなってしまうけれど、たぶん上限1000人ぐらいまでだったなら、個人の気合いでどうにかなる。

「こういうやりかたは、販売部数が少なく、かつ、ネットをホームグラウンドとしているという条件でのみ、成立する戦略ですね」という意見を某所でいただいたのだけれど、逆に言うとこういう場所で何かを小さく販売しようなんて考えたときには、読者と作者とが直接会話するというやりかたが、差別化をはかるための手段として、考えられてもいいんじゃないかと思う。

電子出版の時代が将来的に来るとして、出版それ自体のコストは下がって、たぶん電子書籍で何かを発信する人の数は増えていく。

電子出版はどこにいてもその場で買える。お風呂の中で、携帯用の端末で、誰かと会話をしながら話題になった本がそこにあったとして、興味を持って「自分もこの本を買ったよ」なんて宣言したら、即座に作者の人から「ありがとうございます」なんて返事が来るようになる。そういうのがこれから当たり前になる。

こういうのを下らないと思う人は、たぶん今までの書籍メディアで十分に間に合っている人なのだろうし、これから電子出版で何かを販売しようなんて考えている人は、世の中のどこかにいる競合者は、たぶん1万人ぐらいの読者だったら、全員にお礼のメッセージを送ることぐらい当たり前に覚悟をしているだろうから、そういう人たちを相手に互していけるだけの準備をしておかないといけない。

人に使える時間は有限だから、通信にも上限があるのだろうけれど、こういう流れは、そんなに悪いことではないような気がする。

2010.04.11

問題を先送りする医学

休日当直のアルバイトに来て下さっている、大学の救急医学教室の先生が本当に熱心で、休日でも、夜中でも、自分にできる検査はすべてやって下さって、あとから引き継ぐ側は大いに助かる。でもその一方で、地域にある基幹病院の専門家が、こうした熱意みなぎる診療スタイルに邁進すると、やっぱり後続は潰れるんだろうなとも思う。

専門家とは何か

いろんな科が覇を競う基幹病院にあって、「専門家である」ということは、やっぱり「他科の知らない何かを知っている」ということなのだと思う。

救急の先生がたは、何でもできる。救急車で来た患者さんは全部診療するし、内科の診察はもちろん、簡単な手術までこなせる人もいる。たいていの問題はその場で解決してしまうし、みんな熱心で、よく勉強している。

こういうのはたしかに頭が下がるんだけれど、じゃあ救急医学教室の先生がたが、他科の専門家が知らない何かを知っているのか、あるいは他科の人間がぜひとも知りたい何かの技術を、救急医学教室に行けば学べるのかといえば、やっぱり難しいような気がする。

救急の人たちは熱心だけれど、熱意で戦うかぎり、どれだけ頑張ったところで、「熱心ですね」といわれこそすれ、救急部が専門家であるという受け止められかたには、なかなか到達できないのだと思う。

熱意は競合殺しの武器

十分なマンパワーと設備があって、そこに熱意が加わると、真夜中でも緊急手術に対応できるとか、どんな問題でもその場で解決できるとか、恐らくはそういうやりかたに、救急という場所が一歩近づく。ところが業界のトップに立つ人たちがそれをやってしまうと、基幹病院以外の施設は、もう同じ体制を維持することなんてできなくなってしまう。

24時間体制の救急対応を売りにしている某グループが昔、神奈川県に初めて病院を作ったとき、その地域で開業していた17施設が倒産したんだという。

頂点に立つ病院が熱意を売りに頑張ると、他の施設で何か問題に突き当たったとき、「その基幹病院に患者さんを搬送する」という選択枝以外に、地域から正解がなくなってしまう。こうなるともう、不十分な設備で救急を受けること自体が罪悪だから、受けないこと、診ないことが「患者さんのため」になって、競合はみんな撤退してしまう。

熱意というのは、いろんな施設の救急外来が覇を競った昔のやりかたであって、人が減ってしまった現在、トップグループの人たちが、業界を育てていこうと考えたときには、基幹病院が熱意で頑張るほどに、地域の救急体制は崩れていってしまうんだろうと思う。

問題を先送りしてほしい

基幹病院の救急部みたいな場所、たいていの検査や治療が、真夜中でもすぐに動かせるような場所だからこそ、救急部の先生がたには、もっと積極的に、「問題の先送り」を試みてほしいなと思う。

今できる治療を、あえて翌朝まで待ってみる、今できる検査をあえて先送りして、患者さんがそれでも大丈夫なのか、十分な設備と人手、何かトラブルが起きたときに、それに即応できる体制が常に整っている施設でないと、こういうことは確かめられない。熱意というものをまじめに使うなら、24時間緊急手術に対応できる体制を整えたり、どんなに眠いときでも頑張って検査を行う方向に行くのだろうけれど、「できることをあえて今しない」ことにも、たぶんそれ以上にエネルギーがいる。

患者さんが抱えたいろんな問題を、その場での解決を試みないで、十分に対応できる状況を整えた上で、あえて翌朝まで先送りすることで、初めてそこで、「待ったらどうなるのか」、「この状況で待っていいのか」という、他科では得ることができなかった、救急医学教室ならではの知識が発生する。これは他科では得られない、ぜひとも学びたい知見になりうる。

緊急事態にそもそも対応できない病院では、まず「待つ」ことができない。待ったらどうなるのか分からないし、分からないから、大きな施設に患者さんをお願いして、その場で何とかしてもらうことしかできない。大きな施設が「何でもその場で」を向上させるほどに、そこに送ることが正解になって、小さな施設にできることの割合は減っていく。結果としてたぶん、小さな施設の「優秀さ」というものは、「大きな施設に紹介できること」で決まってしまうから、トップが頑張ると、トップ以外の施設は、トップから見て、急速に無能化していくことになる。

大きな施設が、今できることをあえて今やらないで待つことで、小さな施設はその経験を学んで、同じ「待つ」を再現できる。

後ろ向きなんだけれど、大きな施設、十分なマンパワーを持ったところが、熱意を持って後ろ向きになってみせると、たぶん業界が育つんだと思う。

2010.04.09

書籍の訂正箇所について指摘をいただきました

販売中の「 内科診療ヒントブック 」という書籍について、今までにいただいた「ここを直したほうがいいよ」という指摘を、 まとめました。 いただいた言葉については、原則そのまま用いる形式とし、それに対して 作者側の言い訳(ずいぶん見苦しいのですが…)を付記しています。

この本を改訂する機会があるのなら、あるいは何か別の形で、原稿を公開する機会があったら、指摘をいただいた部分については、 極力原稿に反映させていこうと考えています。

専門家の方々から見て、訂正が必要な箇所は、まだまだたくさんあるかと思います。ご指摘をいただければ幸いです。

誤記について

「p264表のANCAはWegenerがPR3-ANCA, MPAとChurgがMPO-ANCAですので、逆になっていると思います」という指摘をいただきました。 これについては申し訳ありません、おっしゃるとおりであり、訂正をかける機会があったら、直していこうと思います。

「p255 PcPの表記が「ニューモシスチス」、「カリニ肺炎」と、統一されていないようです」というご指摘についてもまた、 将来的に「ニューモシスチス」で統一していこうと思います。

食道破裂について

食道破裂は治療可能な外科疾患なので、なるべく早く外科に振って下さい、という指摘をいただきました。このあたりは 鑑別診断チャート内に食道破裂の記載はあるものの、緊急の疾患である、という描写が不足していたように思います。 今後文章を改めようと考えています。

リウマチ周辺の表記について

「リウマチ性関節炎」「リウマトイド関節炎」は「関節リウマチ」の方が、「リウマチ因子」は「リウマトイド因子」のほうが、 それぞれ適切であろうという指摘をいただきました。このあたりもまた、次回以降の機会があれば、改めていこうと思います。

リウマチ性多発筋痛症の治療について

「リウマチ性多発筋痛症 PMR の初期治療「プレドニゾロン 30mg」は、少し多すぎる感じがします」、という指摘をいただきました。 CMDT にも、あるいは「膠原病診療ノート」という教科書にも、プレドニンの量は15-20mg で効果がある旨記載がありました。

このあたりは、「自分自身が昔30mgと習った」というところが大きいのですが、また次回以降、改めます。

TNF阻害薬、その他の薬について

リウマチ膠原病領域について、今回出版させていただいた本には、TNF阻害薬 、シクロフォスファミド、ミコフェノール酸 モフェチルによる治療についての言及を行いました。

査読をお願いした先生がたからも、「実際に普段使ったことのない薬剤について、どこまで言及を行うべきか?」といった指摘をいただき、 迷ったのですが、TNM阻害薬 については、当院周辺の地域では、整形外科の先生がたが普通に使い始めていること、 シクロフォスファミド については、呼吸器科の先生がたが、たとえば間質性肺炎の治療等でこの薬剤を使っていることなど、 病院の中で実際に目にする薬剤であったため、今回は記載を行いました。

ミコフェノール酸に関する言及は、踏み込みすぎであったと反省しています。次回以降、訂正する機会があれば、 その時の国内での使用状況を、もう一度調べてみようと思います。

顕微鏡的多発血管炎の表記について

「顕微鏡的多発血管炎(動脈炎)は、MPA(Microscopic polyangiitis)と略され、顕微鏡的PNとは略されないのが普通です」 という指摘をいただきました。これも次回以降、「MPA(Microscopic polyangiitis)」で統一する方向で訂正をかけていこう と思います。

血管炎の疾患概念について

「MPAはWegenerと同じくANCA関連血管炎で「同じ箱」ですが、結節性多発動脈炎 Polyarteritis Nodosa PN or PANとは 「違う箱」に入っている、というのが最近の認識です」という指摘をいただきました。今回出版した本には、これらの疾患が、 言わば「同じ箱」に入っているかのような記載になっています。

こういった疾患の理解に関する記載は、ぜひとも次回以降、とり入れていこうと思います。恐らくは表組を変えることになると 思うのですが、対応できると思いますので。

小腸クローン病について

特に若い女性の不明熱を診察するときには、炎症性腸疾患を頭に入れておかないといけない、といった記載を、今回の教科書で 行いました。炎症性腸疾患を診断するための検査として、自分の書いた本の中では「大腸カメラ」を診断手段として挙げている のですが、これではもちろん、小腸の疾患を診断することができません。

小腸を診断するための検査として、小腸造影というものがあるのですが、小腸造影は、読影に慣れた医師が、できればその場に 居合わせないと診断が困難な検査であるため、記載をしませんでした。線引きが難しいのですが、「大腸カメラをお願い する」ところまでは一般医の仕事の範疇、小腸の疾患を疑って、それに対応した検査をオーダーして、それを解釈するのは、 もはや消化管の専門家が行うべき仕事であろうと考え、今回は記載を見送りました。

このあたりは、消化器の先生がたと、もう少し話を詰めてみようと思います。

「力が入らない」の診断チャートについて

「7.2 「力が入らない」で、PM/DMを取り上げておられるのですが、8.2 全身倦怠感の「診断チャート」部分にもCPKが 入っていた方が良いかもしれません」という指摘をいただきました。

全くそのとおりなので、これについても次回以降の機会があれば、訂正を入れていきます。

赤沈、フェリチン、尿沈渣

「p254 「わからないときには」の所に、鈴木先生の「チン・チン・チン」(血沈、フェリチン、尿ちんさ)を脚注で付け加えたい ように思います」という指摘をいただきました。こういうものが、標語としてすでに提唱されているものなのですね。。

まずは調べてみます。

「各科の普通」を持ち寄ること

恐らくはまだまだ、それぞれの専門家から見て、行き届かない点が多数あるかと思います。

この本はもともと、何か未知の状況に置かれた一般医が、患者さんを一刻も早く、その疾患を治療する知識と技量を持った 専門家に接続することを意図して、いろんな先生方に話を聞きながら、教科書を調べながら、書きためていた原稿をまとめたものです。

問題になったのは、病気の「見えかた」でした。

自分はたとえば、「鯨」という単語を聞くと、図鑑によくある構図、しろ背景に鯨の全身像が描かれていて、大きさを比較するため に、対象として人間のシルエットが描かれているようなものを想像してしまうのですが、世の中に実在する鯨という生き物が、 じゃあ白背景に空を飛んでいるかといえば、もちろんそんなことはありません。

これが自然保護を仕事にしている人であったり、海の上で活動する人たち、生きている鯨を普段から見ている人たちが「鯨」という 単語を聞けば、恐らくは自分とは全く違った情景が思い浮かぶはずです。同じ「鯨」という単語にあって、 バックグラウンドにある知識を持たない自分と、その分野が生活の場になっている人たちと、単語が持つ意味を共有するのは 難しく、それは恐らく、医療という、いろんな専門科に分類された世界であっても、同じような問題に起因する不備が、 この本の中にはまだまだたくさんあるのではないかと思うのです。

教科書を調べたところで、「それを日常にする」ことの情報量に到達することは困難です。お互いの知識に衝突があったとき には、もちろんそれを日常にしている人たちの感覚が優先されるべきなのは、論を待ちません。ところがそんな、 「言葉にするまでもないこと」というものが、教科書にはしばしば知識として記載されません。

これは総合診療を専門にしている先生がたですら、あの人たちもまた、「総合診療という専門分野」の住人であって、 恐らくは「全ての専門家の日常」と、「総合診療部の日常」とは、やはり近いけれども異なっている気がします。

「各科の普通」というものを、この本のような企画を通じて、お互い持ち寄れたらいいな、と考えています。

「この書きかたは自分の感覚とは違う気がする」という部分こそ、恐らくはこの本で真っ先に訂正すべき部分であり、 同時にそれは、筆者がぜひとも教えていただきたいと考えている何かでもあります。ご意見をいただければ幸いです。

2010.04.01

読みやすさという価値のこと

ずいぶん前から作っていた原稿が、ようやく本として出版された。出来上がった本を、原稿の下読みを手伝ってくれた若い先生がたにあげたんだけれど、「ずいぶん読みやすくなったんですね」なんて驚かれた。

みて分かりにくいものの価値について。

読みやすさは分からない

原稿の読みやすさという価値は、本というプロダクトを外から眺める人から見ても、分からない。世の中には、読みやすい本と、読みにくい本とは確実にあるけれど、同じ原稿を、作者が書いたそのままを本にしたものと、編集者が手を加えて、読みやすくしたものと、両者を比較できる機会というのは、そう滅多にないだろうから。

読みやすさは、たぶん作者の側からも、よく分からない。本を書いている側は、同じ原稿を、本になるまでに何十回も読み返すから、編集者が原稿に手を入れる最終段階になると、もう書いた内容の大半を暗記してしまう。その内容に慣れすぎてしまって、今さらそれが読みやすくなったのかどうか、感覚が摩滅して、もう分からない。

若い人たちに下読みをお願いしたのはリビジョン1以前の印刷原稿、上の先生方に査読をお願いして、それを原稿に反映させたものがリビジョン2からリビジョン60ぐらい、そこからさらに、編集部の方々が手を加えて、原稿が最終的に出来上がったのがリビジョン120だったから、最初の原稿と、今本になっている原稿と、120世代の開きはあるんだけれど、おおざっぱな内容それ自体は、そんなには変わらない。原稿は、当初からLaTeX を使って書かれていたから、最初の段階で、表題と目次、索引もついて、体裁としてはすでに「本」だった。

下読みをお願いした若い先生がたは、だから比較的厳密に、編集という作業の意味を体験できたんだと思うけれど、感覚されたそれは分かりやすさであって、ぱっと見て、その差はすぐに分かるものだった。

「こうすればいいのに」が価値になる

販売された本を買って下さった方々は、編集作業を経た、完成品としての本を読むことしかできない。

編集者の仕事は、読者の側からは見えないし、作者の側は、その時はもう、自分の文章に慣れすぎて、やっぱりその仕事を観測できない。一切の編集が為されなかった原稿が本になったとして、読者の人たちは、それを「読みにくい」と思うかもしれないけれど、「これがちゃんと編集されたらよかったのに」なんて感想は、たぶん出てこない。

「その価値を観測できる人がいない」仕事は、相手から安く見られる。一方的にボランティア認定されたり、コストカットが必要な状況にあって、「そんなものいらないよ」、なんて言われたりする。

見開きの状態で、本は2ページ分の情報が一覧できる。ページをめくる動作で、頭は一度リセットされて、次のページに記載された、新しい情報を受け入れる準備を始める。読書というのは断続的な動作の連続で、そのリズムに合わせて情報を上手に配分することで、はじめてそれは「本」になって、「読書」という体験を生む。テキストベタうちの文章には、そうしたリズムは存在しないし、文章を書いているときにはページ割りなんて考えないから、京極夏彦みたいな人でもないかぎり、原稿にリズムをつけて、情報を本としてまとめるためには、やはり技量の高い編集者というものが必要なのだと思う。

リズムのない本というのは、「読みにくい」といわれることもなく、「もっとちゃんとした編集を」なんて感想を持たれることもなく、ただ単に読まれなくなる。読まれなかった原因は、もしかしたら内容それ自体じゃなくて、「それが本になっていなかった」ことにあるかもしれないのに、そうだとしたら、すごくもったいない気がする。

「こうすればいいのに」なんていう想像が、ユーザーの側から出てくることが、何かの技量を商売に結びつけていくときには大切になる。「読みやすくなりましたね」なんてびっくりされて、自分ははじめて、あぁ編集の人ってすごいんだなんて、そんなことを考えてた。

2010.03.21

書かれなかったことから見えてくる

情報というのは、書かれたこと以外に、書かれなかったことにも載っていて、それを読むことで、作者が何を伝えたかったのか、外から科せられた制約の中、何を重視して、何を「伝える必要がない」と判断したのかが見えてくることがある。

研修医には制限がある

ローテーション研修制度ができて、今はいろんな病院で研修医を募集して、質の高い研修だとか、勉強の機会だとかを競い合ってる。恐らくああいうのをいくら読んだところで、これから研修医になる人たちは、果たしてどの病院に行くのが一番いいのか、自分のやりたいことと、その病院が提供している研修メニューと、どのぐらい同じ方向を向いているのか、分からないのだと思う。

効率の問題は多少あるだろうけれど、研修医の人たちが、与えられた2年間という時間で学べること、体験できることはやはり有限で、限られた時間、限られた能力の中、研修医の人たちに、どんなことを教え、どんな経験をしてもらうことで、翌年以降の成長につなげられるのか、こういうものは、伝えることよりもむしろ、何を伝えず、何を教えないのか、教える側が、教えないものに自覚的でないと、伝達が上手くいかない。

「うちの研修は質が高いんです」という言いかたは、ちょっとずるい気がする。医療というのは習得可能な、伝達可能な技術であって、そこでしか学べない何かがあったら、それはもう、技術としての医療とは違うから。

「新卒研修医の奪いあい」というゲームには、だから本来はルールがあって、それはたぶん、同じお弁当箱、同じ予算を与えられた中で作ったお弁当を比べるような、ピークの性能でなく、むしろ「編集」に近い能力、限られた条件の中でどれを選択枝、どれを捨てるのか、制約というものを、どう生かしていいものを目指すのか、そんな能力の競い合いなんだと思う。

弁当箱の蓋を叩く人

「お弁当コンテスト」みたいなルールだと、日の丸弁当では、たぶん勝てない。それこそ梅干しを漬けるところからはじめたような、恐ろしく手の込んだおかずを一品作って、余ったスペースにご飯だけ詰め込んだところで、その心意気こそ買われるかもだけれど、「お弁当」としての完成度は、必ずしも高くならない。

臨床研修というコンテストにも似たようなところがたぶんあって、「何を学べるのか」に注目するよりも、むしろ「何を学べないのか」に注目したほうがいい。最高の何かを見つけてその施設に入ったところで、2年たって、余ったスペースにご飯だけ詰め込まれてしまうかもしれない。

研修病院の選択をコンテスト形式で比較しようと思ったら、やっぱりルールは学生さんが作らないといけない。

たとえば2年間という時間で、知らないといけない疾患を100、できないといけない手技を100、それぞれ「お題」として準備して、それを明らかに足りないページ数に詰め込んだ本を、それぞれの病院に作ってもらって、お互い比較するような。知識や体験の総量が200あったとして、その本に入る量を150ぐらいに絞れば、各施設が何を重視し、何を削除するのか、削除された何かを見ることで、それぞれの研修病院が、研修医に、2年間という時間を通じてどんな人間になってほしいのか、施設の思いみたいなのが見えてくる。

そういうルールを学生側からお願いして、「うちは気合いで200全部だ」っていう施設は、お弁当作らせたら蓋も閉まらないドカ盛りをする人で、そういうところで頑張っても、ひたすら怒られて、学べるものは、下手すると150に届かない。お弁当の蓋が閉まらなくて、蓋をバンバン叩いて怒り狂ってたらおかしな人なのに、研修医に無茶な知識を詰め込もうとして、入らないから頭をバンバン叩いて壊す上司というのは、どうしてだか「熱心な人」と思われがちだけれど、叩くと時々壊れるし、盛られた知識はこぼれてしまう。

150の枠があったら、その中にきっちり150だけ用意できる施設というのが、恐らくはまともな研修を受けられる最低条件なのだと思う。伝えるべき知識や体験の重み付けがきちんとできている施設なら、枠が150なら150分、120なら120分の知識を、その施設が考える重要さの順番で、きっちり詰め込んでくれるはずだから、そこから先は、その施設が見せてくれた「お弁当箱」を眺めて、自分の好みで選べるといい。

書かれなかったものを知る

「書かれなかったもの」を知るためには、その代わり、何が書かれる予定であったのかを知らないといけない。学生レベルだと無理だし、研修医の人たちも、もちろんこれから自分に書き込まれるものがどういうものなのか、知るよしもない。こういうのはだから、いくつかの施設の3年目ぐらいを集めて、彼らが持っている知識や技量をリストアップして、それぞれを習得するためにかかった時間を教えてもらうといいのだと思う。全てを重ねると、2年間では絶対に学びきれない量の、知識と体験のリストができる。

「これから書き込まれるはずの全てのこと」がリスト化できたら、それぞれの研修病院に、各施設がリストの中から何を選択枝、何を削除するのかを、できれば伝達手段も含めて公開してもらえば、いろんなものが見えてくる。熱心さだとか、すばらしさだとか、叫びの影で消されている何かは、体験を受け取る側から動かないと、絶対に見えない。

本に書かなかったこと

いろんなことがあって、内科診療ヒントブック という本を書きました。

自分は循環器内科経由で、いまは市中病院で一般内科をしているから、本にはやっぱり、そういう体験が透けています。

たとえばこの本には、血液疾患のことがほとんど書かれていません。血液内科は自律しているというか、採血検査に異常があって、患者さんを血液内科に紹介すると、あとはだいたい、全ての問題について、総合的に診てくれることが多かったので。

同じような理由で、悪性腫瘍についての記載も、自分の本にはほとんど書かれていません。このへんは地域差があるのでしょうが、今住んでいる県は、悪性腫瘍は主に外科の領域で、外科治療はもちろん、化学療法も含めて、悪性腫瘍に関するほとんど全てのことは、外科の指示で行われることが多いので。

体験も少なくて、知識も浅いくせに、自分の本には、膠原病の検査に関する記載を行っています。査読をして下さった先生からも、膠原病は、疑った時点で、きちんとした専門家に紹介したほうがいいよ、というアドバイスをいただいて、脚注にそう記載しました。ところがうちの県には、そもそも「膠原病の専門家」がいなくて、皮膚科や整形外科、腎臓内科にそれぞれ専門が分かれてしまっています。自分たちである程度のところまでやらないと、そもそも患者さんをどこに紹介していいのかが決定できないという状況があり、それがこういう記載となって現れています。

この本は、知識はある程度広く、ごく浅く、自分が診断/治療を行えるというよりも、異常のある患者さんを見逃さないように、その患者さんを、しかるべき専門家に、なるべく早く紹介できるような、専門家が作るネットワークの、言わば「ハブ」になれるような、そんな医師を目指している人なら、きっと役に立つんじゃないかと思います。

機会があったら、手にとっていただけると幸いです。。

2010.03.15

「しかたねぇな」が生み出すもの

半導体というものは、今ではもう、ねじや釘みたいに「あって当たり前のもの」になっていて、高品質、高性能を追求した日本の半導体は、世界レベルだと高価すぎ、高品質に過ぎて、競争力を失っているんだという。

高性能、高品質な商品を生み出す能力を持っていたとして、ならばそんな会社がちょっと舵切れば、そこそこの性能で、劇的に安価な製品をすぐに作れるかと言えば難しいみたいで、「すごいもの」を作る技術と、「そこそこ我慢できるもの」を安価に作る技術とは異なって、日本は今、追いつくのが大変なのだと。

怒られて得られるものがある

「性能が悪くて安い半導体を日本で作るのは難しい」系の話は、たぶんいろんな業界にあるのだと思う。

「ものすごく信頼性が高いけれど高級なサービス」が普及して、それがあることが当たり前になってしまうと、今度はたぶん、「安価だけれど信頼性が低くてサポートも悪い」サービスというものが、対抗馬として登場してくる。

低品質、低コストのサービスを、お客さんに叱られながら、それでも何とか回していくためには、高品質、高信頼性のサービスを回すのとは、全然違った技術がいる。低品質なサービスでやっていくには、お客さんから「しかたねぇな」という声を引っ張り出す必要があって、どうやったら「しかたねぇな」が引き出せるのか、そのサービスは、果たしてどの程度まで「手を抜く」ことが許されるのか、そういうのは、試してみないと分からない。

ちょっと前にNHKで特集されていた、アフリカに進出した中国の携帯ネットワークの会社なんかも、これからたぶん、お客さんから叱られる。サービスは、どうしたってぎりぎりの品質だろうし、本社からは遠く隔たった場所だから、コストにかぎりがある以上、信頼性もそんなには上げられない。あの会社のエンジニアはその代わり、お客さんから叱られて、「しかたねぇな」というあきらめを引き出して、どこまでサービスを落としても文句が大きくならないか、どの程度の故障率なら、通信インフラとして、何とかやっていけるのか、そのへんを見極めるのだろうと思う。

「最低ライン」を知るためには、お客さんを怒らせないといけない。

「しかたねぇな」を引っ張るやりかた、緊急避難的な対応を、「しかたねぇな」で受け入れてもらえるような場所にいないと絶対に手に入らない経験知というものがたぶんあって、ある種のサービスで、こうした経験が、これから先、絶対的な強みになる。アフリカで仕事をしている人たちは、怒られながら、こういう経験を手にするのだろうし、今度はたぶん、ぎりぎりのラインを体験で理解できた人たちが、あきれるぐらいに安価で、それでもどうにか、「しかたねぇな」で受け入れられる程度の品質を持ったサービスを持って、日本みたいな国に、価格破壊を仕掛けてくる。

怒られた人が書き換える

安価だけれど品質の低いサービスがやってきたところで、高品質で売っていた側が負けることは、絶対にない。負けないけれど、価格破壊を仕掛けられると、業界はどんどん厳しくなっていく。

信頼性や品質というものは、目に見えにくい。

低価格、低品質のサービスが乗り込んできたところで、顧客のほとんどは、今までのサービスを、今までの品質で受けとろうとする。その代わりたぶん、「むこうは月100円なのに、何であなたの会社は10000円取るの?」なんて、コストカットの圧力が、時間と共に、際限もなく高まっていく。

高品質産業が、価格破壊を仕掛けられても、顧客は離れないし、勝負には絶対負けない。価格破壊で失われるのは、お客さん自体じゃなくて、お客さんの意識、「高品質にはお金が必要なんだ」という意識そのもので、長い目で見て、お客さんからこれが失われた業界は瓦解して、伝統的な何かは、新しい別の何かに置き換わるのだと思う。

辺境から変化がやってくる

コストがそんなにかけられないだとか、あるいは人手が絶対的に少ないとか、そこで何かのサービスをはじめるに当たって、「辺境」という場所には、何か大きな制約がある代わり、「しかたねぇな」という緊急避難を受け入れる空気があって、そういう場所から、次のやりかたというものが生まれてくるのだと思う。「都市から遠い」ということだけでは何かを生み出す辺境には足りない。制約だけ大きくて、一切の緊急避難が許されない場所からは、やっぱり何も生まれない。

内科は自分だけだとか、病院の中に医師1人とか、そういう状況が、昔からけっこう多くて、自分が当時提供していたのは、医療といってもずいぶんお粗末な、品質の低いサービスだった。

忙しくて、正しくやることなんてできなかったし、かといって、結果が悪ければ大変なことになる。検査ばっかりのやりかただとか、まずは見込みで治療を始めてしまって、外来が終わってから改めて診察するやりかただとか、サービスの品質は、相当に低かったんだけれど、どこを見渡しても、その場所に代わりの医師はいなかったから、トラブルになることはなかったとはいえ、あの場所で病院にかかった人たちは、それでも「しかたねぇな」なんて、医師に対して、何かをあきらめてくれていたのだと思う。

本が出ます

そんなわけで、本が発売されることになりました。

最新の知識が得られるわけでもない、エビデンスに基づいた正しいやりかたが書いてあるわけでもない、権威ある医師が執筆したわけでもない、小さな内科の入門書です。

経験も、技術も乏しい自分に、本として提供できる何かがあるとすれば、それは患者さんからもらった「しかたねぇな」というため息なんだと思います。

不十分な技術で、不十分な環境で、ばたばたしながら、叱られながら、それでも患者さんから「しかたねぇな」なんて呆れられながら、何とか現場を回して今まで来た、そんな経験を、この本に書いたつもりです。

正しくやってきた人から見れば、笑ってしまうような、呆れてしまうようなやりかたです。でも同時にそれは、こんなやりかたであっても、何とかお客さんは「しかたねぇな」なんてそれを受容してくれる、緊急避難のやりかたにもなっていて、正しくやるだけの余裕が持てないとき、役に立つ機会もあるんじゃないかと思います。

機会がありましたら、ぜひ手にとっていただけると幸いです。

2010.03.12

本が出ることになりました

研修医時代を過ごした病院には、何年も使われ続けてボロボロで、外科の若手が練習がてら、人工血管や人工硬膜で破れた場所にパッチを当てた、 なんだか異様な見た目のソファーがあって、勤務時間を終えた上の先生がたが集まっては、毎日遅くまで、患者さんのこと、病気のこと、いろんなことを語りあっていました。

夜間の救急外来は1年生の仕事で、救急外来で診断に困った患者さんが来たときには、実際問題「困る」のは日常であったのですが、ソファーのあるその場所に、資料を持って駆け込むと、そこに集った先生がたから、怒られながら、突っ込まれながら、いろんな科から、たくさんのアドバイスがもらえたものです。

現場の問題は、しばしば複数の診療科にまたがっていることがあって、ある科を回っている研修医にとっては深刻な問題が、別の科の先生にとっては常識になっていたりすることも多くて、いろんな科の医師が集まったソファーセットは、専門科別の講義では習うことができない、貴重な知識を学ぶ場所になっていました。

病院はそのうち増築されて、スタッフも増え、ソファーセットも新しくなりました。レジデントはレジデントの、スタッフはスタッフの、それぞれ専用の医局がもらえるようになり、救急外来も整備され、自分たちが怒られる側から教える側になった頃には、夜中の医局で研修医が突っ込まれる声も珍しくなりました。

ボロボロのソファーセットと共に、きれいになった医局からは、やっぱり何か、大切なものが失われたように思えました。

それは忙しい業務のなかで、未熟な研修医が、それでも何とか事故を起こさずに業務を回すための技術であったり、 「こういうときにはこう考えるとうまくいく」といった、教科書よりもむしろ経験に基づいたやりかたであったり、 正しい医療の時代にはそぐわない、古いソファーセットで教わった知識は、それでも捨て去るにはあまりに惜しく、自分にとって大切な財産でした。

大学病院に職場が移り、そこでまた、いろんな人と知りあいになりました。現場を回すのはやっぱりどこでも大変で、みんなやっぱり、ポケットにはメモ帳を忍ばせていて、教科書には書かれていない、現場で役に立つ知識のメモは膨らみました。

いろいろあって、本当にいろんなことが重なって、原稿をオーム社 様に拾っていただくことになり、 レジデント初期研修用資料 内科診療ヒントブック という本として、出版することになりました。

症状別の診療マニュアルというのは、書く人が「内科全部を隅々まで理解している」ということが大前提で、この本はだから、中の人にそんな能力がない以上、内容は正直不完全で、それぞれの専門を持った先生がたから見れば、まだまだいくらでも、改良すべき、訂正すべき部分があるのだろうと思います。

それでもこういう形式の本、症状別に分類された、考えかたの記載でなく、具体的な動きかたを中心に記載を行ったマニュアル本というものに居場所ができて、「こういうものなら簡単だよ」とか、「こんなのでいいなら、もっといくらでも上等なの作れるよ」とか、もっと有能な、ふさわしい知識を持った先生がたを呼び込むことができるのなら、不完全な内容であっても、この本を世に出す意味というものもあるのではないかと考えています。

機会がありましたら、ぜひとも手にとっていただければ幸いです。

2010.03.06

高すぎる目標について

こんな症例検討会をやってほしい

珍しい疾患だとか、典型的でない経過をたどった症例は、しばしば「ふとしたことから一気に展望が開けたすごい症例」として、症例検討会で発表される。演者の気づきはすごいことだし、頑張って、ああなりたいなとも思うんだけれど、「僕も頑張ろう」じゃなくて、演者の気づき、「ふと」というものを、どうやったら霊感抜きで再現できるのか、同じ状況に行き当たったとき、何か特定の検査を追加したりだとか、あるいはある治療を試みて、診断的な治療を行ってしまったらどうなるのか、そういうものを、みんなで考えられたら面白いなと思う。

「ふと」の再現を一人でやると、状況ごとに提出すべき検査項目が、時間と共に、症例と共に、際限もなく増えていく。予算も時間も、採血される患者さんの血液だって有限だから、どこかで歯止めが必要なんだけれど、だったら今度は、どういう状況なら、特定の検査を提出して問題を回避できるのか、どういう留保条件がついたら、それでも検査を出したほうがいいのか、立場が異なるたくさんの人が集まる場でなら、いろんなアイデアが生まれるかもしれない。

一瞥しただけで全ての疾患を診断するような、神様みたいな名医を仮想して、症例検討会を終えて、「みんなで名医を目指して頑張ろう」で締めるのは、きれいなんだけれど、目標が遠すぎて、積めるものが少なすぎる。「誰も積めない」ことに、みんな満足してしまう。

ある疾患を検討したら、その症例発表を聞いた人たちは、「次はこうしてみよう」という意思表明を行なう、という縛りをかけると、参加する人の意識はずいぶん変わる。

議論はたぶん、「見逃しのリスクを受け入れる代わりにやりかたを変えない」立場と、「何か新しいやりかたを考える」立場とに分かれる。現状肯定派の人は、今度はリスクをどうやって患者さんに受け入れてもらうのか、納得のいく説明を問われるだろうし、革新派の人は、新しいやりかたを考えて、それがどの程度妥当なものなのか、患者さんが支払うコストに、それは見合ったものなのか、検討する必要が生まれる。いずれにしても、「頑張ろう」で議論を止められなくなるから、盛り上がる。

主催する人の負担はきっと大変だろうけれど、こういうの面白いと思う。

身体所見という万能解

患者さんを「見る」こと、身体所見というものを言語化するのは、すごく難しい。

診察と診断という流れを、たとえばフローチャートで表現したとして、フローチャートの頭部分に「身体所見」という部品を入れてしまうと、もうフローチャートを作る意味がなくなってしまう。

名人は、詳細な身体所見を採ることで、ほとんどの病気を見つけてしまう。身体所見というのは、極めればいくらでも極められる万能の道具になるから、フローチャートみたいな、判断分岐の能力が公平であることが前提の記法にこれを入れると、バランスが崩れてしまう。

今回自分が作った本には、身体所見の話題がほとんど入っていない。あえて入れなかった部分ももちろんあるんだけれど、これを診断のチャートに組み込んでしまうと、そもそもチャートを作る理由がなくなってしまうこと、もう一つ、 能力的に、自分には、診察というものを言語化できるだけの力がなかった、というのが正直なところだった。

診察は難しい。自分はやっぱり、この年になっても診察ができない。見つけるのが難しい病気の多くは、身体所見で診断できることになっているし、「名人」の書いた本には、検査で見つからなかった疾患が、身体所見を取り直したら診断できた、といったエピソードがたくさんあるんだけれど、できないものを、できるように書いたところで、それは書いた本人にも使えない本になってしまう。病歴と触診を書いてある教科書は、だからそれができる人が書くんだろうけれど、同じことをしようと思ったら、その人たちと同じものを見て、同じことを認識できないと行けない。

ところが名人と同じものを見ようと思ったら、自分自身も名人である必要があって、自分がたとえば、そうした名人と同じ患者さんを、同じ時間だけ診察させてもらったところで、その人が見ているものは、たぶん自分には認識できない。

高すぎる目標を設定すること

「トラブルのパターンは無数にあるから、とにかく誠意を持って事に当たるのが大切です」なんて断言すると、一見もっともらしい。ところがたとえば、「毒物の数は無数にあるから、主治医の武器になるのは熱意が全てです」なんて断言したら、その講師は間違いなく、「中毒学勉強してください」なんて、叩かれる。

一見万能で、高すぎて届かないところにある目標を掲げて、現場にそれを目指してもらうやりかたは、指示する側は簡単なんだけれど、やっぱりどこか違う。

達成不可能な目標を提示した上で、現場の「奮起」を期待してみせると、要件定義を行った側には、一切の瑕疵が発生しない。計画は失敗したり、妥協の余地無く精密すぎて、現場がそれを再現できなくなったりするんだけれど、無敵に近い何かを指示した側は、過失を問われない。そういうのは全部、現場のやる気が足りない、気合いが足りないせいだから。

要件定義を厳密に、実現可能なレベルで行うと、恐らくは現場はそれに答えやすくなるけれど、今度は要件を定義した側に、限られた性能のプロダクトを運用して、想定された成果を出してみせる責任が問われてしまう。責任を問われるのは誰だって嫌だから、こういうのはなかなか出てこない。

こういう文化は変わっていくものだと思うし、変えていけたらと思うんだけれど、やっぱりいろいろ難しい。

2010.02.26

マスターアップしました

2009病棟ガイド の名前で昨年から製作を続けていたマニュアル本が一応完成し、データが印刷所に納品されることになりました。

メモ書きの束に過ぎなかった原稿をまとめるのは大変で、原稿をオーム社様に持ち込んだのが昨年12月、その頃から原稿は、Subversion を用いたバージョン管理が導入されるようになりましたが、上の先生がたに査読をお願いしたり、編集部の方にレイアウトを直していただいたり、訂正箇所は膨大で、最終的に、原稿のリビジョンは120に及びました。

結局この本はなんなのかと言えば、「平凡なやりかたの劣化コピーを簡便にまとめたもの」である、ということになるのだと思います。

世の中には正しい知識、最新の知識、それに基づいた正しいやりかたがあって、それをまとめた教科書を読み、理解することができれば、正しい知識を身につけることができます。いい教科書がたくさんある現状で、それでも「劣った教科書」を出す意味というものがあって、恐らくそれは、「間違った意見があって、初めて正しいものがなんなのかが見えてくることがある」ということなんじゃないかと思います。

正解というのは状況ごとに修正を余儀なくされて、正解を知っている人がそこに居合わせたからと言って、そのことは必ずしも、その人の口から正解が出てくることを意味しません。何もないところから正解を紡ぐのはけっこう難しくて、一方で、誰の目から見ても劣った意見というものは、その人の口から正解を導くための、触媒として働くことがしばしばあります。

「研修に役立つ本」は、たくさん市販されています。ところが「上司から上手に叱られるための本」というものは少なくて、教育というものが、上司から研修医への情報伝達であるならば、「ほめられるための本」がたくさん出版されている中、「怒られるための本」というものにも、それが役に立つ機会がどこかにあるような気がしています。

馬鹿なやりかたを知らないかぎり、正しいやりかたの正しさ、正しいことの価値というものは、しばしば見えて来ません。

自分が今まで収集してきた、古くて頭の悪いやりかた、劣ったやりかた、効率の悪さを覚悟する代わり、それを行使する人に能力を要求しない、取りこぼしの少ないやりかたというものは、対比の対象として、「馬鹿なやりかた」の典型として、それはそれで意味があるんじゃないかと思うのです。

「この本の作者馬鹿だよね」なんて、臨床の現場にあって、上級生と研修医とが、お互いのコミュニケーションを円滑に行う機会が増やせたのなら、この本の意図は成功したのではないかと思います。そういうものを、作ってきたつもりです。

出版自体はもう少し先になりますが、機会がありましたら、手にとっていただければ幸いです。

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