2012.05.14

「ちゃんと」できる人なんていない

あってはならない「確実に」という作業指示 – プリウスに見るゴムホースの「組み付け基準」 という記事が興味深かった。

「適切」は難しい

「適切に」判断したり、「正しく」組み付けたりすることは、特にそれが100% に近い再現を求められた場合には、とんでもなく難しい。

詳細なマニュアルを作成して、現場にそれを徹底したところで、大きく「適切に判断を行う」と書かれた項目が残っていたら、かならず誰かが間違える。

「適切」な判断や「正しい」組み付けを現場に実現しようと思ったら、マニュアル本から「適切」や「正しく」といった言葉を追放すればいい。便利な言葉が禁止されれば不便になって、マニュアルを書く人は頭を抱える。抱えた頭で手順を見直すと、「正しく」やらなくても正しい結果にしかなりようがない、本来そうあるべき手順にたどり着ける。

困っている人は「正しく」やらない

最近部屋を整理していたら、棚の奥から研修医時代のシステム手帳が出土した。

内科のメモを書きためていた当時、問題は山積みで、教科書に書かれた「適切な判断」を再現できるだけの能力が自分になくて、本当に困っていた。

全領域で困った結果、教科書に「低血糖を見逃すな」と記載された項目には「血糖を測れ」とメモを追記し、「○○病の可能性にも留意する必要がある」と書かれた項目には、提出すべき検査のルーチンにあらかじめそれを組み込み、正しくできなくても正しい結果が出力されるようなやりかたを、いくつか作ることができた。

自身の経験が積み重なる中で、知識の量は増えて、同時にメモ書きには、「正しく」とか「適切」、「○○病に気をつける」といった記載が増えた。

「どうにかしたい」という切実感は、経験とともにむしろ遠のいた。メモ書きは今でも続いて、リビジョンはそろそろ200を超えて、改定を重ねるごとに記載される文章量は増えているけれど、こういうのはやっぱり、「現場で今困っている人が、問題の解決に必要な道具を作る」のが正解なのだろうと思う。

便利な何かが生まれても、それを「もっと正しく」改良しようと考えたそのときは、劣化が始まる瞬間でもある。

「ちゃんと」はやめたほうがいい

「ちゃんとやれば大丈夫」という道徳が強い場所で、ちゃんとできない場合を考えるのは難しい。

今はきっと減っているだろうけれど、「ちゃんと話を聞けば、患者さんは検査などしなくても全てを語ってくれる。不必要な検査は患者さんに余計な負担をかける」系の言説が昔は強くて、あれが怖くて嫌だった。素直に「怖い」と悲鳴をあげれば、今度は「ちゃんとやれば患者さんはきっと分かってくれる」と諭された。

安全と道徳とは、どうしても衝突が避けられない。安全を徹底しようと思ったら、まずは「人間はちゃんとやれない。事故が起きるような状況においては特に」というところから始めないと難しい。「飲み会の翌日は、初診の腹痛にCTと採血一式を出しても怒らない」と研修医に通達を出すような、そこまで不謹慎な状況を真面目に論じて見せないと、会議室は「ちゃんと」から自由になれない。

「ちゃんとやれば大丈夫」みたいな言葉の根拠が、「俺様は運がいい」である人は多い。「最近の若い奴らはだらしない。俺達の世代はもっと頑張り、ちゃんとやり、成果を掴んだ」というベテランの人たちはたしかに嘘入っていないのだけれど、その人達の同級生は、同じく頑張り、体を壊し、成果に到達する前に亡くなった。

能力は、再現の手法を示してみせることで、はじめてそれを他人に求めることができる。「ちゃんと」やって生き延びてきたベテランの人たちには、ぜひとも「ちゃんとを再現する方法」を残してほしいなと思う。

2011.05.22

堅牢さについて

  • セキュアなシステムというものは、どこかに歴史を内包している。それぞれの階層は、それぞれの時代で使われた技術で作られていて、技術は階層をまたがないようになっている
  • 乗用車のパワーステアリングは古典的なギア機構だけれど、アシスト貴構は、それを包み込むような構造になっていて、精緻な制御と堅牢さとが同居している。フライバイワイアのシステムは、そのあたりどこか、過去を切り捨てた怖さがある。高性能を目指したシステムと、堅牢さを目指したシステムと、おそらく両立は難しいのだと思う
  • 東京都消防のPCが落ちた際、消防署の職員はビルの屋上に上がって火の監視を行った。現代の通報システムがダウンしたときに役立ったのは、江戸時代の火の見櫓のシステムだった
  • 米軍のミレミアムチャレンジにおいて、敵役を任命された将軍は、「開戦当初に米軍は敵の通信設備を破壊した」という設定に対抗して、サーチライトと手旗による通信を駆使した結果、演習とはいえ最新鋭の米軍を打ち負かした。これはハイテクに頼った米軍の限界を示したのと同時に、この将軍もまた海兵隊軍人であって、米軍というシステムの堅牢さを示した例であったともいえる
  • 計画停電の際、総電子化された基幹病院は、院内の通信が全て止まった結果として、業務が停止した。厨房も高層にあったから、食事の配膳はおろか、水が使えなくなって往生したのだと。紙カルテ併用、「厨房は水のそば」を守る施設は、全館停電の中にあって、最低限度の業務は止まらなかった
  • PCにはBIOS があって、ドライバがあって、OSがそれを支配して、さらに上位にアプリケーションが乗る。こうした構造もまた歴史の内包であって、堅牢さに貢献しているのだと思う
  • 基本的にはたぶん、現代にセキュアなシステムを組もうと思った際にもまた、進化の歴史を繰り返す必要がある。中心部分にはなるべく原始的な、できれば人力で動かせる、制御はラフでも確実な構造を用いて、それを外側から、機械や電子を駆使した精密な制御を試みる。システムを直接電子制御するやりかたに比べれば無駄が多いかもしれないけれど、こういう仕組みを作っておかないと、いざというときに「ここで決死隊を組織できれば何とかなる」ような状況は、そもそも生み出せない
  • 歴史を内包したシステムを「改良」する際には注意を払う必要がある。それを「無駄」と切って捨てるのが間違いであるのは当然として、その場所を改良する際には、そのときに使えた技術にはどんなものがあったのか、使える道具や技術にも、あえて制限を加えないと、堅牢さが損なわれてしまう可能性がある
  • ミュージカル「ライオンキング」の舞台には、びっくりする仕掛けがいくつも施されているけれど、基本的には全て「人力」で、電気仕掛けやCGのような道具立ては使われていない。そうしたハイテクを用いれば、もっと安価に、もっと大がかりな舞台を作ることができるかもしれないけれど、あえてそれをやらないで、昔ながらの技術に現代の発想で挑んでみせることで、あの驚きが生まれたのだと思う。歴史を内包したシステムを改良する際にも、たぶんそうした態度が必要になってくる

2011.03.31

無様にやるのは難しい

「戦力の逐次投入」という代表的な失敗パターン、問題を解決するための資源を過小に割り当てて、それでは足りない、という反応が返ってきても、なおも「足りない」資源だけを現場に送って、結果として貴重な時間を浪費してしまうあの状況というものは、作戦を指揮した将軍が戦力を「節約」しようとしただとか、相手を見くびっていただとか、そんな理由からは生まれない。

不足は見えない

診療をしていると、たまに「このままでは病気に追いつけない」という、いやな予感に襲われることがある。患者さんの治療はそこそこにうまくいっているけれど、ベストと言えるほどの反応は得られなくて、やることはやっているはずなのに、何か足りない。

このまま状況を放置すると、「ちょっと反応が少ない」ままに状況が進んで、気がつくとその「ちょっと」はさらに少なくなって、事態はむしろ悪化していく。気がつくと数日間という期間が、根本への対処を怠ったままに消費されていて、愕然となる。

目の前が真っ暗になるような経験を何回か繰り返していくうちに、「このままだと追いつけない」ときには、そんな予感がするようになった。これは何かと言えば、「戦力の逐次投入」という、古来ずっと繰り返されてきた失敗パターンを、当事者として体験している状況そのものなんだと思う。

問題を解決するために、結局どれだけの資源が必要なのか、当事者として問題に関わっている最中にはそれが見えないし、反応の大きさは測れない。反応の有無にだけ注目していると、不十分な資源であっても、反応それ自体は得られてしまう。予期より少ないというだけで。

予期には経験が必要

「反応があった」ことに安心して、方針をそこで固定してしまうと、逐次投入の泥沼に足を突っ込む。

先が見えない状況にあって、わずかでも安心が得られてしまうと、人はそこから動けなくなる。本当はそのときこそが動くべきタイミングなのだけれど、反応が「足りない」ことに気がつくためには反応を予期できることが必要で、予期を行うためには経験がいる。知識は教科書で学べるけれど、当事者としての経験は、当事者をやらないと身につかない。

「戦力の逐次投入」を行った結果、失敗してしまった将軍に不足していたのは、予期に必要な「経験」なのだと思う。部隊が対峙する問題があって、それを無難に解決したい、そのために投じる労力は惜しまないという状況にあってもなお、経験が不足していると、初期に必要な資源を読めないし、それが不足していたときに、その不足に気がつくことができなくなってしまう。状況のまっただ中にあるときには、不足は見えない。不十分な反応を、「不足である」と判断するためには経験が必要で、不足を経験したことのない将軍が、不足を感覚したときにはもう、状況は手遅れになってしまう。

物量を使いこなすのは難しい

「足りない」と思ったならば、その時点から全力で動かないといけない。そこが病院なら、昨日検査したばかりでも、バカと言われようがなんだろうが、今日出せる検査を全部出す。みんながいなくなる前に、心当たりのある人に片っ端から相談して、頭下げて、とにかく病気に「追いつく」ために、打てる手を全部打つ。無能の振る舞いの典型だけれど、こうすることで、今までに何回か、災厄を回避することができた。

不明の現場にあってできることは、「止まる」か「進む」かが全てであって、「考える」ことは「停止」に等しい。「無目的に走る」ことよりも、「そこで立ち止まって考える」人のほうが上等だけれど、その上等さを成果に結びつけられる人は少ない。

原因不明の腹痛を訴える患者さんがいたとして、「外科が3人集まって、一人が手術を決断したら、手術することが正しい」という格言が伝わっている。未知状況においては、誰もが「このまま様子を見たい」という誘惑にとらわれて、そんな中にあって重たい判断をした人の意見は、たいてい正しい。少なくとも安全なことのほうが多い。

少ない物量ですばらしい成果を上げるのはかっこいいけれど、物量を投入して無様に成果を上げるほうが、むしろ難しい。未知の状況にあって、自分の判断に自信が持てないときには、逆説的に「柔よく剛を制す」的な、最小の物量で最大の効果を期待するやりかたが好まれて、判断をゆがめてしまう。それはリスクを取るやりかたであって、リスクが高まったこういう状況においてこそ、「もっとも無様な」やりかたが選択されないといけないのだと思う。

2010.04.17

負担のしわ寄せと想像力

間に合っている状況に、何か新しいやりかたが導入されると、誰かが楽になる代わり、どこかにしわ寄せが行くことが多い。みんなが楽になれれば、もちろんそれが一番いいんだけれど、負担の総和を減らすのは、やっぱりなかなか難しい。

負担の総和が減らない前提で、新しい仕組みをそこに入れるときには、だから導入後の負担デザインがどうなるのかが想像できないといけないし、そもそもその導入を決断した人が、現状の負担デザインに、どんな問題を感じていて、それをどういうデザインに作り替えたいのか、きちんとした考えかたを持っていないと、たぶんたくさんの人が不幸になる。

オーダリングシステムとか、電子カルテの話。

うちの病院

自分が今働いている病院は、伝統的な伝票システムをずっと引き継いでいる。医師として仕事をしているかぎり、このやりかたは古くさいけれど、やりやすい。

書けば記録が残るし、手描きの伝票は柔軟性に富んでいて、それが文字で表現できるものなら、何でも書ける。他の病院からアルバイトに来て下さる先生がたとか、70歳目前の、顧問の先生がただとか、伝票システムは、誰もが違和感なく使いこなせる。

このやりかたはその代わり、人手がかかる。

入院した患者さんの場合、医師はカルテに処方を記載する。記載された処方を看護師さんが拾って、それが処方箋に転記される。転記された処方は、医事課と薬局にコピーが回って、会計処理と、薬の払い出しが行われる。カルテの処方は、さらに看護師さんの「温度板」に転記されて、看護師さんたちは、この温度板に従って、業務を行う。

病院のシステムは、医師と看護師と事務系統と薬局と、大きく4系統を同時に動かさないと成り立たないし、医師の振る舞いだとか、思考過程を、カルテとして残さないといけない。同じ処方、同じ判断を、各部署に同時に配信するための仕事というものが、システムを動かすときの、大きな負担になってくる。

どこの病院でもたいてい、こういう作業は看護師さんたちの仕事ということになっていて、同じことを処方箋と温度板とに転記しないといけないから手間が膨大だし、手書きだから、どれだけ注意をしたところで、間違いが必ず入る。この作業をたとえば、医師が記載する処方箋にカーボン紙を裏打ちして、医師が処方箋を書いて、それがカルテに転記されるようなやりかたをしているところも多いはずだけれど、それでもカルテの内容を温度板に記載する業務が残る。

電子化は医師の負担が増える

電子オーダーリングシステムだとか、電子カルテのやりかたは、医師の処方を4系統に分ける工程が、全部電子化される。

医師がカルテを書いて、処方箋だとか、点滴の予定を電子カルテに打ち込むと、それがそのまま処方箋になるし、温度板にも処方が自動的に転送されて、看護師さんが温度板を作るための手間が、これでずいぶん少なくなる。

これは解決策ではあるんだけれど、今度は医師の負担が大きくなって、仕事の効率がずいぶん落ちる。特に高齢の先生がたには、電子カルテというのは相当に評判が悪くて、今までどおりのペースで外来を回すのが難しくなるし、患者さんの待ち時間が増えて、いい結果を生まない。キーボード専属の事務さんを置く病院だとか、このへんもまた工夫されてはいるんだけれど。

「一番人件費の高い生き物に、仕事量をしわ寄せする」やりかたが、医師から見た場合、電子カルテが抱える大きな問題に思える。インターフェースをどれだけ改良したところで、キーボードを打つのが医師である以上、問題はあまり解決しない気がする。

正解の裏側は不正解

「ハイブリッド方式」みたいなのを妄想すると、医師から見た電子カルテの問題は、部分的に解決できる。

医師は今までどおりにカルテを書いて、紙のカルテに処方を書く。カルテに書かれた処方を、看護師さんが温度板に転記するときに、それが自動的に処方箋になって、事務方と、薬局とに伝票が降りる。処方を書き直すのは、やっぱり薬の内容を体感できる人でないと難しいから、事務方の人にこの作業を全部やってもらうのは、ちょっと怖い気がする。

医局で話すと、「これはいい」なんて話になるんだけれど、転記担当の看護師さんの側からすると、このやりかたには何のメリットもない。ただでさえ電子温度板の入力が面倒なところに持ってきて、今度は処方箋の転記まで自分たちの業務に入ってきてしまうことになる。

負担というのはたぶん、結局のところは業務をまたいだ押し付けあいになるんだろうけれど、医師が人件費の高さという問題を抱えている一方で、看護師さんたちは同じように、雇用の流動性が高い、という問題を持っている。

医師は病院に居着く。転職はそんなに繰り返せないから、業務が少々面倒になったところで、みんな文句は言うだろうけれど、それで病院を移る人は少ないし、システムはたいてい、文句を言われながらも受け入れられる。

看護師さんたちの平均年齢はどうしたって若いし、病院を超えた横のつながりが強くて、今はどこの病院でも「看護師募集」の看板を出しているものだから、けっこうみんな、いろんな病院を渡り歩く。昨日までうちで働いていた看護師さんが、患者さんを転送してみたらそこにいたとか、ときどきある。

で、うちの施設を辞めた人が、他の施設に移動して、真っ先に「これはいい」と思うことというのが、待遇だとか、業務の厳しさではなくて、「新しい病院には転記の業務がない」ことなんだという。電子カルテやオーダーリングシステムが入っているところは、今はたいてい医師が入力するルールだから、看護師さんからすると、転記の業務がないことが、魅力としてうつるんだという。

想像力は大切

どの業務にもたぶん、譲れない何かというものがあって、待遇をよくしたから、じゃあ譲れない何かを譲ってくれと言ったところで、たぶん人は居着かない。

医師にとっては案外、キーボードによる入力というのは時間がかかって、これは人件費の無駄遣いではあるかもだけれど、「譲れない」ほどではないのかもしれない。一方で、看護師さんたちにしてみると、転記の業務というのはリスクがあって、看護師さんたちが習った「本来の業務」とはずいぶん離れているものだから、あるいはこのへんは、どれだけ待遇を改善したところで、譲れないから、病院を移ってしまうのかもしれない。

こういうのは、病院を移って、移った先の看護師さんに聞かないと正解が分からないから、ほんの数件のことでしかないんだけれど、「転記は嫌だ」ということ自体が、自分にとっては想像の埒外で、今までさんざん電子カルテを叩いてきたけれど、やっぱりこのへんを一番妥協しやすいのは、たぶん自分たちなんだろうと反省している。

今までの負担を、どこか別の業種に寄せるやりかたにはいろいろあるんだけれど、やっぱりたぶん、誰もが幸せになれるシステムというのは、なかなか難しい。

新しいものを入れるときには、それは電子カルテもそうだし、あるいは勉強会だとか、何かの委員会を立ち上げるとか、全て共通するのだろうけれど、想像力が大事なんだろうなと思う。

それがどういう根拠に基づいて、そのシステムを、そのやりかたを導入することで、自分たちは何を実現したいのか、総人件費を減らしたいのか、それとも組織の総幸福度みたいなのを上げたいのか、一番妥協をしやすい業種はどこにいて、逆に一番譲れない人たちはどこにいて、負担をしわ寄せた結果としてどんなことが起こりうるのか、そのへんをちゃんと考えないといけないなと思った。

2010.04.08

Android は壊れない

壊れたんだけれど。

今使っているAndroid 携帯が故障して、結局新品交換してもらったら、ほとんどのデータを、Google を通じて復活できた、そんなお話。

機械が立ち上がらなくなった

今使っている HT-03A でyoutube を見ていたら、いきなり固まって、ボタンに反応がなくなった。しかたがないので電池を抜いて、再起動を試みたんだけれど、起動画面から前に進まなくて、結局その日、携帯電話が使えなかった。

DoCoMo ショップに動かなくなった携帯を持ち込んだら、その場で新品交換していただけることになったのだけれど、元の携帯が全く動かないものだから、データの移行は一切できなかった。

ところがAndroid 携帯は、電話帳だとかカレンダーに記録したスケジュール、今までのメールなんかがすべてWeb 連携になっていて、データはGoogle 側に補完されていた。新しい携帯電話に交換していただいて、自分のメールアドレスとパスワードとを登録したら、新しい携帯電話は、その場で「自分の携帯」になって、今までどおりに使えるようになった。

信頼性の考えかた

Google の携帯電話は、本体が壊れて困ることというものが、だから案外少なくて、Google 経由で復活できないデータは、たいていはSDカードに待避できるし、本体内部に記録されていて、復活できなかったのは、自分だとせいぜい、CallFilter というアプリケーションの、電話番号NGリストぐらいだった。

この携帯電話は、買ったときから「雨のの中で使うと簡単に壊れます」とか、DoCoMo の人からも信頼性の低さを警告されてはいたんだけれど、この電話は逆に言うと、壊れたところでたいていのデータはGoogle 経由で継続できるから、故障に対して極めて強い、という見かたもできるんだと思う。

Google のサーバーは丈夫みたいで、世界のそれぞれの大陸にバックアップがあるのだそうで、最悪大陸が一つ吹き飛んでも、データは残るんだという。携帯電話をどれだけ高精度に作り込んだところで、これより丈夫にするのは難しい。

電話機単体としての信頼性を高めるやりかたは、正しい代わりにお金がかかって、どれだけすごい作り込みを行ったところで、そのすごさというのは、ユーザーからは案外、分からない。あらゆる情報をネットワーク上にバックアップとして持つやりかたは、電話機本体の信頼性が低くても、データ自体の信頼性はけっこう高い。携帯電話が壊れたところで、データがすぐに復活するから、これは案外、「これは信頼性が高い」なんて、ユーザーに訴える効果もあるんじゃないかと思う。

昔の「ねじ」はハイテクだった

ホームセンターで普通に売られている木ねじは、あれが発明された当初は、ハイテクのかたまりだったんだという。ねじを作る村というのがあって、ねじ山を作る人、座金を作る人、ドライバーと噛む溝を切る人、いろんな人たちの工程を経て、はじめてねじは製品になったから、木ねじは高級品で、最初の頃、ねじは1本単位で売買されるものだったのだ。

日本の釘というものは、昔は鍛冶屋さんが叩いて作るもので、あれは火入れをして再利用すると、何百年でも持つんだという。鍛造で作った釘は、丈夫で長持ちするんだけれど、釘なんかはそれこそ、ホームセンターなら1本1円ぐらいで買えてしまうから、今ではもう、和釘を打つ専門の職人さんなんて、いないんだろうと思う。

職人さんの技術を駆使して作ったすごいものというのは間違いなくすごいのだろうし、安価な量産品は、やっぱり信頼性が低いんだけれど、低い信頼性を、別の何かで補うやりかたが作られると、「いいもの」の価格というものが、一気に下がってしまうんだろうと思う。

品質がそこそこで、安価に作られた量産品は、高品質、高信頼性の製品に比べれば、価格競争ではもちろん、圧倒的に優位に立てるのだろうから、Android 携帯みたいなものが、実用的に使えるようになってしまうと、伝統的な「いいもの」の居場所というのは、やっぱり減っていくんだろうと思う。こういう状況になると、今度はもう、単体としての完成度を高めることそれ自体に意味がなくなってしまうから。

今はまだ、「安価な量産品」と言っても、定価で買ったら何万円もするものだけれど、もっとちゃちで、それでも安価で、そこそこ実用に足りる商品がこれから出るなら、そういうものを「使い捨て」前提で、交換を前提にした信頼性の確保という方向に、これからなっていくのかな、なんて考えてた。

2009.01.15

一貫性の誤謬

経営が迷走した企業だとか、政府に対しては、「一貫性を持った対応が為されていない」なんて批判される。

「一貫性なくしてビジネスに勝機なし」なんて断言する、成功した経営者もいる。

こういう考えかたは間違っていると思う。

成功した人には一貫性が観測される

成功したプロジェクト戦略のことごとくは、あとからそれを振り返れば、 リーダーの、一貫した判断に基づいた運営が為されているように見える。

経営判断や政治、戦争の判断に至るまで、「判断の一貫性」というものは、 まず必ずといっていいほど観測されて、「一貫性は大切だ」なんて思われる。

ところがたぶん、「成功したプロジェクトには一貫性が観測できる」ことはたしかだけれど、 そのことは決して、「一貫した判断に基づいたプロジェクトは成功する」ことを意味しない。

「一貫した判断が観測された」プロジェクトのリーダーは、プロジェクトが進行しているその時は、 一貫した基準に基づいて、何かを判断していない。

幅の広い道路を、ただまっすぐ走る。 ある人は真ん中を走るし、ある人は、端っこを走る。対角線に走る、迷惑なドライバーだっている。 流れに従う車もいれば、前の車にただついていく人もいる。 外からそれを観測するかぎり、「走りかた」にはいろんな流儀を見いだせるけれど、走っているドライバーは、 「自分のポリシー」なんて考えないで、目的地まで、安全にたどり着くことだけを考えている。

成功したプロジェクトを外から眺めれば、必ずといっていいほど、何か一貫した判断基準が観測できるけれど、 そんな事例をいくら集積したところで、「一貫性が大切だ」という結論は、出してはいけないのだと思う。

たぶん現場でやられていること

状況は見えない。それはたぶん、どれだけ天才じみたリーダーにおいても変わらない。 あらゆる判断は、チームが対峙した状況ごとに、不十分な情報に基づいて、場当たり的に行われる。

判断はだから、合っていることもあれば、間違っていることもある。 自分が考え、行動していることは果たして正しいのか、行動方針を決めて、 それを観察しているのも自分自身だから、正解は見えないし、 系の中からは、「絶対的な正しさ」なんか、判断できない。

成功したリーダーは、たぶん「成功しそうな」ことだけを考える。 判断の都度、自らの「一貫した価値基準」を確認したりはしない。

成功したリーダーはその代わり、自分の正しさを信じない。

手元に集まる情報が不十分なときには、「どちらに転んでも大丈夫な」ように判断を下すし、 それすらできないとき、「これまで自分はどんな基準に基づいて判断を下してきただろうか? 」なんて、 自問することしかできない状況に陥ったなら、判断を放り出して、一刻も早く、その状況から逃げ出すことを考える。

結果として「成功するリーダー」には、あとから観測すれば、 必ずといっていいほど「一貫した判断基準」を見いだすことができるけれど、 一つのプロジェクトが終了するまで、リーダーには「一貫した基準」など存在しないし、 むしろリーダーが「一貫した基準」にこだわったその瞬間、「成功するリーダー」は そこから逃げ出すから、そのプロジェクトもまた、失敗から逃げられるのだと思う。

警報としての一貫性

「自分は正しい」と思ったその時にこそ、自分自身を信用してはならない。

「一貫した判断を重視せよ」という言い伝えは、だからそんなものが自分の内面に形成されたり、 普段なら気にもとめない、「自らの一貫した価値基準」なんてものが頭をよぎったその時には、 その人はすでに、危機的な状況に足を踏み入れていることを自覚すべきだ、と解釈すべきなんだと思う。

病棟で働いていていると、「一点全賭け」状態になって、 結果を待つこと以外何もできない状況に陥ることがある。

不明熱の患者さんなんかを診察していて、「これは○○ウィルス感染症に違いない」なんて、 特殊な検査を提出して、結果が出るまでの4 日間、無為に過ごすしかないような状況。

自分が一度そう判断してしまったものだから、待っている間、患者さんに対して 別の介入を行うことが、何となくためらわれる。「分からなかったら病歴を振り返れ」だとか、 「症状に表れない病気は考えなくていい」だとか、偉い先生達の教えに従ったところで、 「自分は正しい」なんて考えかたに取り憑かれてるから、判断はもう、覆るどころか、 待ち時間の間、根拠のない確信だけが膨らんで、状況は何も変わらない。

診断が「当たり」だったなら、話はそれで丸く収まるんだけれど、 予想が外れたら、その間に失われた患者さんの時間がすごい重圧になって、 頭の中には「代案」なんて浮かばなくて、目の前が真っ暗になる。

こんなことを繰り返していると、「この病気だろう」なんて確信が生まれて、 他の選択枝が失われそうなその時、すごく嫌な予感がするようになる。一貫性が頭をよぎると、 自分なんかは恐慌状態になって、その状況から逃げだしたくなる。

そうなったらとりあえず、自分を全力で否定することにしている。

採血検査を、同僚10人が10人「馬鹿」と判定するぐらいに広く提出して、 怪しそうな場所を、造影なしのCT スキャンで広範囲に撮影して、とにかくまず、 全力で「馬鹿で哀れな医者」を目指して突っ走ってから、いろんな科の先生に泣きついて、意見を仰ぐ。

過誤というのは、おきる時までは自覚されない。思い込みを、その人の力だけで覆すのは不可能に近い。

不可能だからこそ、それが危険だからこそ、自らの正当性を裏打ちするような「一貫性」が 頭をよぎったその時には、それを警報と受け取るべきなんだと思う。

2008.12.27

足したら引かなきゃいけない

「改革」は常に必要で、それなりにうまく回っている職場においてもまた、 定期的に新しい技術が導入されて、現場には、「複雑さ」が付加される。

技術者の人達は、「それが入ることによって出来ること」を強調するけれど、 宣伝されたすばらしい未来は、来てみれば案外役に立たなかったり、手続きが複雑になるだけだったり、 価値を実感できないことも多い。

技術はたぶん、「それが入って何が出来るのか」を問うよりも、むしろ 「それが入ることで、現場から何を不要にできるのか」を考えたほうが、 価値をより正確に判断できる。

「何も引けない」新技術というものは、おそらくはたいていの場合、結果の改善に寄与しない。

ガンマ単位の昔

昇圧薬を使うときには、昔はガンマ単位を計算した。

患者さんの体重あたり、必要な量を小数点以下まで計算して、その人なりの、 昇圧薬の使いかたを表にして、血圧をコントロールするやりかた。中身は全く同じ薬なのに、 ベッドごと、患者さんごとに、薬の使いかたは、みんな異なってた。

複雑だった。そうした複雑さこそが集中治療だと思ってたし、かっこいいと思っていた。 電卓片手に、小数点を計算することに、みんな何の疑問も持ってなかった。

実際のところ、計算ミスだとか、点滴の取り違えだとか、たぶんたくさんあったはずだけれど、 みんな「集中治療とはそういうものだ」なんて、危険な状況を、 下手するとむしろプライド持って誇ってたりした。

自分達が研修医を始めた当時から、現場には「動脈ライン」というものが導入されていたけれど、 患者さんにそれが入っているのが当たり前になるためには、もう少しだけ時間がかかった。

大学に移って、今の集中治療室なら、患者さんには全員、動脈ラインが入るようになった。 手動で測定していた頃、血圧は、せいぜい測って1時間に1回だったのが、動脈ラインを使うと1 拍動ごと、 1 分間に最低でも60回ぐらいは測定できるのが当たり前になった。

血圧がリアルタイムで把握できることが当たり前になって、今度は昇圧薬の使いかたが、「現物合あわせ」で いけるようになった。体重を計算して、1 時間後の血圧を予想して、小数点以下まで量を指定していた昇圧薬は、 今では「血圧が上がるまで適当に増やす」なんていいかげんなオーダーを行っても、 ガンマ単位を計算していた頃と、全く同じ結果が得られるようになった。

複雑さを放り出すことには抵抗があって、それでも何年間か、みんなガンマ単位を計算していたけれど、 そのうち誰もが計算機を捨てて、昇圧薬の濃度は、全患者さんで共通になった。

集中治療室には、「動脈ライン」という複雑さが一つ増えた代わり、 「ガンマ計算」という、やっかいな、ミスの可能性が高い複雑さを一つ、放り出すことが出来た。

結果としてこれは、点滴の間違いだとか、量の間違いみたいなミスの可能性を減らすことにつながって、 恐らくはたぶん、動脈ライン以後の集中治療室は、少しだけ安全な場所になったのだと思う。

無人戦闘機のこと

最新鋭の戦闘機は、もはや翼なんていらないんじゃないのか、と思えるぐらいに複雑な機動が出来るけれど、 今以上にすごい動作を行うと、たぶん中の人間が耐えられない。

いろんな国で、だから「無人戦闘機」というものが研究されているけれど、 「無人」という新技術を導入するならば、人間の許容範囲を大きく超えた、 無人の超絶戦闘機を想像してはいけないのだと思う。

「人が乗らなくてもいい」という、新しい複雑さをそこに導入するならば、 今度はたぶん、「相手の戦闘機に勝つ」という、戦闘機本来の任務、複雑さを捨てられるという 発想をしないといけない。

無人戦闘機には、人が乗っていないのだから、もう勝たなくてもいい。たとえ撃墜されたところで、 基本的に誰も困らない。困らないなら、機体は安く、たくさん作ればいい。

どれだけすごい戦闘機を作ったところで、銃弾の数には限りがある。おもちゃみたいな、 安価で弱い戦闘機であっても、それが無数に、群れを作って飛んできたら、もう撃墜できない。

無人機は、たぶん高性能なものと、安価なものと、開発は両極化していくんだろうけれど、 戦争というものの風景を大きく変える可能性を持っているのは、技術的にはちっぽけな、 安価な無人戦闘機なんだろうと思う。

結果に貢献する技術

恐らくは世の中には、「現場に何か足す」技術と、「現場から何か引ける」技術とがある。

技術者はたぶん、「足せる」ものを好む。だからこそ、戦闘機は新しくなるほどに「強く」なって、 年を追うごとに技術は変化しているのに、「相手に勝つ」という目標は、決して変わらない。

技術を受け入れる現場の側も、足される複雑さに目がくらんで、 「これはすごい」なんて、状況の改善に寄与しない複雑さを賞賛したりするけれど、それは違うんだと思う。

新技術が導入された必然として、現場の手続きはより複雑になるけれど、結果の改善に寄与しない、 「足す」だけの技術というのは、たぶん「やりかたが複雑になった」ということでしか、 自らの正当性を主張できない。

新しい技術を受け入れる側は、何かを引かないといけない。その技術を受け入れて、 その技術は、代わりに何を不要にしてくれるのか、それを見つけ出すのは、 技術を開発する人の仕事ではなくて、現場でそれを使う側の責任で、 その技術が入ったとして、現場から何も「引く」ことが出来ないのならば、 それがどれだけ複雑な、すばらしい技術であったのだとしても、それを受け入れてはいけない。

「その技術が加わったとして、我々はどこで手を抜けますか? 」

技術を評価する人達は、自らに、こう問い続けなくてはいけないのだろうと思う。

2008.11.22

取り違え回避のやりかた

今住んでいる地域には「持ち帰り」に対応してくれる回転寿司屋さんがあって、ときどき利用する。 この地域には、そもそも外食産業がそこぐらいしかないから、いつも忙しそうにしている。 うちには子供がいないから、お願いするのはもちろん「ワサビ入り」の、普通の寿司だけれど、 「ワサビ入り」を注文したのに、受け取りに行ったらワサビがなかった。

今までの状況

そこにお寿司を頼むと、最初に注文する寿司を聞かれて、最後にいつも「ワサビはどうしますか ?」なんて尋ねられる。

同じ応対を繰り返すのが面倒だったから、最近は、注文をするときに「ワサビ入りで」なんて頼む。 今まではそれで、「ワサビはどうしますか?」がスルーされて、ワサビ入りのお寿司が出来上がっていた。

今回、いつもの通りに「ワサビ入りで」なんて頼んだのに、そのあともう一度「ワサビはどうしますか?」と尋ねられた。 そこで「ワサビ入りで」なんてお願いして、相手も「ワサビ入りですね」なんて返事したのに、ワサビは入ってなかった。

バックグラウンドで起きていたこと

恐らく電話の応対をしてくれた店員さんは、相当に忙しい思いをしていて、自分なりに、手順を「改良」していたんだと思う。

  • ワサビ入りの、「普通の」お寿司を頼む人は、店員さんが尋ねない限り、ワサビのことなんて気にしない
  • 子供がいる家だと、「ワサビ抜き」であることは大切だから、恐らくはそういう家は、最初から「ワサビ抜き」なんてお願いする

たぶんこんなことが何度か繰り返されて、店員さんの頭の中には、 「ワサビの話題を相手が振ってきたらワサビ抜き」なんて回路が出来上がっていたんだと思う。

人間は、同じ作業を繰り返していると、認知にかける労力を節約しようとする。

マニュアルどおりの、最後に「ワサビの有無」を確認するやりかたよりも、恐らくは「ワサビの話題が出たらワサビ抜き」 の覚え方のほうが、頭の仕事量は、もっと少ない。

そんなやりかたをしても、たぶん高い確率でミス無く回っていて、そこにたまたま、うちみたいな「例外」が 入ってきたものだから、店員さんは、ミスを修正できなかったのだと思う。

データベースは判断を行わない。間違った情報を入力されれば、間違った出力を返してしまう。

この事例はたしかに「ミス」だけれど、たぶんその店員さんにとっては、 「データベースに間違った情報を入力された」帰結でしかないのだと思う。

わさびの入ってないお寿司をつまみながら、「これからはわさびの話をこちらからするのは止めよう」なんて、 うちではとりあえず、ユーザーサイドで対策をすることにした。

認知のモード

たぶん「人間モード」と「機械モード」と、人間は認知のやりかたを状況に応じて使い分ける。

  • 「人間モード」は時間がかかるし、脳の負担も大きくて、間違えも多い。その代わり柔軟な対応ができて、 間違えの修正も容易
  • 「機械モード」は、認知がハードワイアされた状態で、正確で、すばやい判断が可能。 その代わり、想定されていない情報がそこに入り込むと、間違えて、修正できない

注文を受けた店員さんは、おそらくは「機械モード」で仕事をしていて、注文を受けたときに 自分たちが「わさびの話題」を出したその時点で、恐らくは「ワサビ抜き」の出力が確定していた。 注文のあと、「ワサビの確認」があって、「ワサビ入りの復唱」も為されたにもかかわらず、 結果は変更されなかった。

ミス回避のやりかた

人は容易に「機械」になる。そのことを前提にしないミス対策、 「指差し確認」だとか「ダブルチェック」みたいなやりかたは、 手続きを面倒にするだけだと思う。

手順書を作るときには、「機械になった人」を意識しないといけない。 たぶん「機械モードに入れない」手順を作るやりかたと、「機械人間でも結果が変わらない」やりかたとがある。

「機械」を回避するためには、たぶん応対マニュアルの中から、「ワサビ」という言葉を削除すればいい。

店員さんは、注文を受け付けたあと、最後に「ほかに何か言い残したことは ?」なんて質問をするルールにしておく。 「ワサビは ?」とか尋ねちゃいけない。

お客の答えは「ワサビ」かもしれないし、あるいは「マグロ増やしてくれ」だとか、 「お前のその態度が気に入らない」だとか、客の数だけさまざまだから、店員さんは、 手順を改良して、機械化することができなくなってしまう。

電話の応対は疲れるし、恐らくは店の効率も少しだけ悪くなるだろうけれど、「ワサビといったのにワサビが抜かれる」 状況は、回避できると思う。

「機械でもいい」やりかたを目指すなら、お店は「ワサビ入りのお寿司」というメニューを削ればいい。

最初からワサビの入っていない、ワサビが別になった寿司しか販売しないお店であれば、 原理的にミスは発生しない。お客もいなくなるかもしれないけれど。

サクシンとサクシゾン

最近起きたサクシンの誤投与は、電子カルテ出たときから「危ない」なんて言われていて、 「電子カルテはやばい」なんて話をするときには必ず引用されていることが、 ついに本当におきてしまったな、という印象。

本来が文脈依存で薬が選択されないといけない、「医療」というお仕事に、 薬品名での入力を求める電子カルテのやりかたは、そもそも根本的に間違っていて、 最初から「どうぞ殺して下さい」感ありありで、電子カルテが嫌いな人たちは、 だからこそ「あれ危ないから」なんて叫んでたのに、偉い人達は「IT で何でも解決するんだ」なんて 自信満々で、病院には、型落ちのパソコンが何百台も導入された。

「サクシン」と「サクシゾン」は、どうソートしても隣に並んで、 覚悟決めないでサクシンを使うと、患者さんは本当に死んでしまう。

このへんは、電子カルテの構造的欠陥ではあるんだけれど、 その代わり「間違えると死んでしまう」、紛らわしい薬の組み合わせは、今のところは 「サクシン」と、あとはせいぜい「アルマールとアマリール」ぐらいだから、 ここだけ回避できる仕組みを入れておけば、醜いけれど、おおむね安全な運用は可能だった。

事件がおきて、たぶんこれから「根本的な解決を」とか、IT 叫んだ人達がまた叫んで、 何億円ものお金が、各病院の「アップデート」費用としてむしり取られるんだろう。

電子カルテで処方するときは、文字変換じゃなくて、POBoX みたいな推測変換積んでほしいなと思う。 カルテの側から「おいお前、ここは当然この薬だろ…」なんて、圧力を返すようなやりかた。

POBoX による入力は、「昔の焼き直し」みたいな文章を書くときには極めて快適なんだけれど、 過去の文脈を外した単語を打ち出すと、いきなり使いにくくなる。新しい単語を打ち込んで、 PoBoX に新しい「文脈」を覚えてもらう労力が、馬鹿にならない。この「馬鹿にならなさ」加減が、 医師に「馬鹿なミス」を回避させるような気がする。

手書きカルテの温かみ

「手書きの暖かみ」みたいなものは、あるいは何らかの情報を伝える媒体になってたのかなとか思う。

電子化されて、「活字」になった文字は、人間の「機械」部分をフックする。判読するのに頭を使わないといけない、 汚い手書き文字ならば、そこに「解読」という作業が必要だけれど、誰が打ってもドットの狂いすら見つからない、 きれいなフォントで印刷された処方箋は、単語が「一塊の記号」として認識されてしまう。

手書きの文字ならば、サクシゾンをサクシンと「解読」してしまう可能性は低いだろうけれど、 その人が「サクシゾン」という先入観を持って「サクシン」という活字を読むと、 恐らくそれは、容易に「サクシゾン」と認知される。

ちょっとした変更で簡単にできる間違え防止なら、Twitter みたいに、薬品名の前に 「アイコン」をくっつけるだけでもずいぶん違うだろうし、トイザらス方式で、 「サクしゾン」と「サクシン」でも、少しは効果があると思う。目がちかちかするだろうけれど、 「し」のフォントを赤にすれば、システムの変更しなくても、似たようなミスは減らせる。

医師の仕事から処方を追放する

最終的に目指すべき場所というのは、医師の仕事から「処方」を追放することなんだと思う。

すべての治療がマニュアル化できれば、たとえば「急性呼吸不全」なんて暫定的な診断が下されたとき、 医師は処方箋を書く必要もなく、薬局から「急性呼吸不全セット」のお薬詰め合わせが上がってくるようなやりかた。

現場の仕事から創造性が消えるから、恐らくみんな反対するだろうけれど、「創造」の余地がなくなれば、 そこからミスが創造されることもなくなる。

自分が研修していた病院では、「1 年生が使える薬」、「2 年生になったら使える薬」、 「部長を起こさないと使えない薬」というのが決まっていて、救急外来で当直するとき、 特定の薬が使いたかったら、夜中でも部長をたたき起こさないといけなかった。

恐らくは研修医だけで救急外来を回さざるを得なかった時代の名残なんだろうけれど、 たしかにミスは起きようがなかったし、「恐い」薬を使うときには、必然的に、 研修医には「その薬を使う理由」が説明できないといけなかったから、「人間モード」で 仕事せざるを得なかった。

こういう工夫は素朴すぎて、「IT 」みたいなハイカラなやりかたが好きな人は笑うんだけれど、 もう少し見直されてもいいと思う。

2008.09.11

停止に対する考えかた

最近読んだ診断学の教科書は、診療という行為を「カードゲーム」に例えていた。

そこに記述されていることは、たしかに正論ではあるのだけれど、全く共感出来なかった。 診療という行為を、自分はむしろ、「鬼ごっこ」だと考えているから。

追い越す感覚

普段から「病気を追い越す」感覚を目標に、診療計画を立てている。

症状の原因だとか、あるいは病名が「これ」とはっきりしているときならかまわないのだけれど、 よく分からない症状の人を相手にしているときは、そこで立ち止まることが、すごくおっかない。 病気と競争をしているというか、暗闇の中で、お互いに鬼ごっこをしているような気分。

自分たち医療者側の目標は、病気を「追い越す」ことで、なんというか、 病気が行き着くであろう場所に先回りして、病気が予想していた以上に「重たい」治療を繰り出して、 相手が壁にぶつかって、乗り越えられなかったらこちらの勝ち、というルール。

病気が自分たちに「追いついた」ら、負けてしまう。鬼ごっことはいっても、そこは真っ暗闇だから、 追いつかれるその瞬間、病気の行方が、医療者の想定を越えるその瞬間まで、相手の居場所は分からない。 病気を「追い越す」時は、どういうわけだか追い越した感覚というものが漠然とあって、 それを感覚出来ると、初めてなんだか落ち着けて、患者さんと安心して話が出来る。

患者さんの見た目がどれだけ軽そうだろうが、症状があって、原因がはっきりしなくて、 自分たちにまだ「追い越した」感覚がないときは、なんだかすごく焦ってる。

追いつかれるとき

「たぶん肺炎だろう」なんて見込みで抗生剤使いはじめて、「肺炎の割に痰が少ない」だとか、 「肺炎の割には、酸素濃度の上がりかたが悪い」だとか、思考が「肺炎」に引っかかって止っているときは、 医療過誤につながる必然を踏んでいる可能性が高い。

「○○の割には」で思考停止して、病気に追いつかれて驚いて、狼狽しながら上司に助けてもらったり、 悪あがき的な検査だとか治療だとか繰り出して、なんとか状況を切り抜けたり。今でもなんとか生き延びてはいるけれど、 実際問題、そこに止まって怖い思いしたことが何回もあって、今はとにかく、「分からないときは動く」ことにしている。 動こうが、止ろうが、分からない状況というのは闇の中だから、「動く」ことが本当に正しいのか、患者さんにとっての 安全に結びついているのか、やってみないと分からない。

分からないけれど、分からないから、難しいから、暗いところは怖いから、 そういう状況に陥ったら、とにかく「ここじゃないどこか」を目指して動き回って、そこから逃げる。

自分はそれを「暗い中での追いかけっこ」として感覚しているんだけれど、 教科書とか読んでても、こうした感覚について言及している人は、あんまり見ない印象。 みんな怖くないのかな、とか、ときどき思う。

カードを切る人

同じ状況を、カードゲームだとか、将棋みたいなゲームにたとえる人と、 鬼ごっこにたとえる人が、たぶんいる。

カードゲームが好きな人達は、たぶん時間はたくさんあると考えている。制限時間はもちろん決まってはいるけれど、 自分が止っているときには相手も止っているし、そこに止って考えて、 相手の裏をかくような、きれいな解決策が見つかれば、そのほうが正しいと考える。

「鬼ごっこ」というゲームは、止ることの意味が全然う。

自分たちが止ったその瞬間から、時間とともにどんどん不利が積み重なる。 将棋とか囲碁なんかでは、止れば相手も考えるけれど、少なくとも目に見える状況は動かない。 鬼ごっこでは、息が上がって、止った奴から鬼に狩られる。

状況を、鬼ごっこ世界観で考えるときは、たぶん巧遅よりも拙速が重視される。 待つぐらいなら、どちらかの方向にとりあえず動いて、状況に支配される側から、 状況を動かす側に回ったほうが、まだしも生存可能性が高くなるから。

カードゲーム世界観に親和する人達は、むしろ止ることに「攻め」の意味を見いだすかもしれない。

自分たちが相手よりも賢い限りにおいて、そこにとどまって考えることは、 相手よりも優れた戦略を生み出す可能性を高めるから。

停止に対する考えかた

診療を、カードゲームに例えたくだんの先生とは、一緒に働けないような気がする。

自分にとっては、その人のやりかたは賢すぎて、患者さんにリスクを積みすぎるように思えるし、 その人からみれば、自分なんかはたぶん、検査を乱発するバカだと思われるだろう。

きれいなやりかた追求して、特定の検査を「一点賭け」で提出して、 その結果が返ってくるまでの3日間、ただ待つなんて状況になると、すごく怖い。 たとえその患者さんが軽症であっても、特定の検査に判断の重心をゆだねてしまうと、 状況がそこで止ってしまうから。

重篤感とか、診断だとか、個人的にはどうでもよかったりする。

その患者さんがたとえ軽症であっても、「追い越した」感覚が得られないと不安だし、 たとえ診断が未確定でも、とりあえず病気を追い越しさえすれば、確定診断は出ていないけれど、 病気が転ぶ先が「この方向」以外ありえないと確信出来て、状況に対して「面」で対処する やりかたが思い浮かんだら、重篤な患者さんを受け持っていても、安心できるから。

状況は本来、自らが置かれたありのままを受け入れるべきであって、何かに例えたその瞬間から、情報の欠落が始まる。

頭の処理能力には限界があるから、抽象度の高い何かに例えないと、 全容を把握するのは難しい。状況に抽象化をかけるとき、時間軸と、きれいな考えかたと、 捨て去るべき何かの重み付けが、「カードゲーム」と「鬼ごっこ」では違うのだと思う。

「ちょっと待て、落ち着いて考えてみよう」なんて、正論ぶち上げて状況悪くする「臨床をよく知った人」 と一緒に仕事をすると、ときどき困る。価値観違うから議論にならないし、言ってることは たしかに正しくて、反論するとなんだかこっちが悪者みたいで、余計に困る。

いやー分からなかったんでさっさとCT 撮っちゃいましたよ無能でごめんなさいHAHAHA」とか、 議論になる前に笑顔見せるのがたぶん正解なんだけれど、やっぱりなんだか負けた気分になる。

「鬼ごっこ」好きな他の人は、こういうときどうしてるんだろう。。

2008.08.22

表現型は輸入できない

「航空業界のやりかたを見習いましょう」なんて考えかたが、病院では今ずいぶん話題になっている。元航空業界の人達だとか、航空から流れて、原子力の安全問題かすった人達なんかが「安全コンサルタント」自称して、いろんなところに食い込んでる。

休憩時間をしっかり確保すること。安全委員会を立ち上げること。事故のレポート提出を義務づけて、対策を委員会で考えること。恐らくは航空だとか交通だとか、文化としての安全が先行している業界で行われていた慣習を輸入したのだろうけれど、 こういうのを真似しても、たぶん役に立たない。

昔はこれが正しいと思ってた

ずいぶん昔、「チーム医療で防ぐ医療過誤」という 文章を書いた。これは画期的だろうなんて、当時はそう意気込んでWeb に乗っけて、全然受けなかったんだけれど。

今から6年も昔。まだ当時は、自分も「航空業界見習おう」なんて思ってた頃。

医療過誤の多くは「ヒューマンファクター」で、それを回避するためにはどうすればいいのか。 航空業界の人達は、その答えを心理学とか、コミュニケーションに求めていて、 自分はそれが面白くなかったから、統一教会だとかヤマギシ会、「カルト」の人達が 得意としていた「洗脳」の技法に、解決手法を探した。

「安全」とか途中でどうでもよくなって、人の心を動かすやりかたそれ自体が面白すぎて、 何だか今みたいにおかしな方向に来てしまったけれど、結果として当時書き上げたやりかたは、 今でもそんなにぶれていないと思う。

厚生労働省主催の「医療安全対策の講習会」なんかで使われるテキスト読むと、 やってることは6年前の航空業界そのまんま輸入されている印象。

あれから6年経って、もちろん自分の書いた文章が注目されなかったからひがんでるんだけれど、 そんなやりかたは間違ってるし、もしかしたら問題をよりいっそう複雑にしてしまうと考えている。

表現型は輸入できない

企業の文化、安全を含んだ業界文化というものは、業界が置かれた環境に、 何らかの淘汰圧が加わった結果としての「表現型」として、目に見える形で発現する。

表現型それ自体を輸入したところで、問題は何も解決しない。

「オーストラリアのカンガルーは速い」なんて事実があって、じゃあ彼らの足を、 アフリカのサバンナで暮らすライオンに移植したら、サバンナ最強の無敵生物が誕生するかと言えば、 もちろんそんなことはありえない。

「カンガルーの足を持つライオン」は、もしかしたらサバンナ最速の肉食動物になるかもしれないけれど、 ジャンプしないと走れない。サバンナでは、ジャンプする肉食動物は相手に見つかってしまうから、 最速の肉食動物は、たぶん飢え死にしてしまうだろう。

カンガルーの足とライオンの足と、その絶対性能は、たしかにカンガルーのほうが 優れているかもしれないけれど、生活環境も、対峙している淘汰圧も全く異なる 生き物は、「パーツの交換」で強くなることなどありえない。

淘汰圧に注目しないといけない

異業種のノウハウを移植しようと思ったならば、彼らの表現型それ自体に注目するのではなくて、 それを生み出した環境因子、特にその表現型を生み出すきっかけとなった「淘汰圧」に注目しないといけない。

サン=テグジュベリが空を飛んでた昔、飛行機というのは落ちるものだったし、 彼らは短命で、命知らずで、無鉄砲だった。

彼らが「安全」を志向するようになったきっかけ、航空業界に安全という文化を生むきっかけとなったのは、 恐らくは「お客さんがお金になる」という業界の変化と、たぶん淘汰圧となったものは、 「ボイスレコーダー」と「フライトレコーダー」なんだと思う。

飛行機は落ちてしまえば、たいていはみんな死んでしまうから、証拠が残らない。 パイロットは死んでしまう。その時点で何が起きたのかは誰にも分からないから、責を問われない。

今のパイロットは、あらゆる行動ログが記録されて、機内での会話が記録される。 たとえ自分が墜落死したところで、過失は死後であっても追求されて、原因は徹底的に調べられる。

パイロットは今も昔もプライド高いから、恐らくはそんな不名誉に耐えられない。

耐えられないなら「落ちない方法」を探す必要があって、その帰結として、様々な安全文化、 全てのログを取られてもその理由を説明できる振る舞いかた、失敗しても落ちないで帰還する、 起きそうな失敗を事前に回避する、そんなやり方を模索する文化が生まれたのだと思う。

医療の業界に、彼らが生み出したやりかたを形だけ持ち込んだところで、たぶん何も変わらない。

「事故が起きました。安全委員会を作って、検討を行っていました。勧告されていることは型どおり行っています」なんて、 事故が起きて、病院が木で鼻くくったような声明出したところで、患者さんは納得しないし、事故は減らない。

知恵というものは、それが引きずり出される状況に追い込まれない限り、生まれない。

自らを厳しい状況に追い込む淘汰圧、形でなくて、医師自ら、スタッフ自らが生き残りを志向して、 知恵を引きずり出されるような状況を輸入しない限り、「安全文化の輸入」なんて、出来るわけがないと思う。

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