2012.05.16

研修期間中の勉強について

研修医の期間に行う勉強は、将来にわたって学習を続けていくために必要な、「健全な偏見」とでも言うべきものを養うために行われるべきなのだと思う。

偏見は学習の道具として役に立つ。どれだけ優れた大工さんであっても素手で家を建てることが不可能なのと同様に、偏見を持たずに膨大な教科書にあたったところで、身につく知識は得られない。

マニュアル本は役に立つ

全領域の内容が簡便に記載されたマニュアル本、聖路加の「内科レジデントマニュアル」や、三井記念の「内科レジデント実践マニュアル」ぐらいの大きさを持ったメモ書きは、年次が上がっても役に立つ。

記憶はどうしても曖昧で、よほど慣れている分野でもないかぎり、ちょっとした調べ物をする機会は無くならない。ちょっとした調べ物は、まさにその場で、その瞬間にできることが大切で、ハリソン内科学みたいに4000ページ近くあるような参考書、あるいはUpToDate みたいな電子教科書出であってもやはり厳しい。

研修医向けのマニュアル本をそのまま使うことはないだろうけれど、たいていのベテランは、自分の知識をあれぐらいの大きさにメモ書きとしてまとめていて、メモを参照しながら仕事を回す。そうしたものを作るのには能力が必要で、ある分野の知識を身につけるということは、臨床医が病棟業務を回していくのに必要な、あるひとかたまりの知識をメモ書きとしてまとめることにだいたい等しい。

知識を削るのは難しい

研修医向けのマニュアル本を読み比べると分かるのだけれど、どれも同じような大きさを持ち、同じような読者を想定し、同じような知識を提供することを目的にしているのに、記載されている知識はびっくりするぐらいに異なっている。どのマニュアル本にも固有の偏りがあって、「使える内容」と「限られた大きさ」とを両立させるために、それぞれの筆者が、それぞれの考えかたに基づいて、記載すべき知識を絞り込んでいるのだろうと思う。

簡便なマニュアルをまとめる際に、「全部の縮小コピー」を目指してしまうと、出来上がったものは使いものにならない。

一般内科の日常業務を回すのに、たとえばハリソン内科学には「内科の全部」が記載されていて、あの程度の知識があればだいたいどうにかなることが多い。ところがハリソンの各章をそのまま短い文章に要約して、A4 サイズ4000ページを手のひらに乗る300ページにまとめてしまうと、目次こそ「使えそう」な体裁を保つだろうけれど、そのメモ書きが現場で使われる機会はまず訪れない。

鈍器みたいに巨大な教科書が、装飾過多で無駄の多い文章に満ちあふれているかといえばそんなわけがなく、定評のある教科書を書いた人たちもまた、限られた割り当てページに可能な限りの知見を押しこむ。実用性を保ったままに全てを要約することは不可能で、知識をコンパクトに持ち歩こうと思ったら、どうしても取捨選択を行う必要に迫られる。

知識の削除を目指したその時点で、その人の態度には偏りが生まれる。知識を身につけること、それを持ち歩き、実用できるということは、「内科という全部」に対して自分なりの偏見を身につけることに等しい。

偏見で教科書を「引く」

無重力空間では歩けない。人間は、骨格という制約に、さらに「重力」と「地面」という制約を加えることで、歩行という動作を生成している。人間は歩くのではなく、そうした制約に「歩かされている」。

学習における偏見の獲得も、重力や床、あるいは骨格のような制約の再発明であるとも言える。制約を獲得することで、ようやくその人は、莫大な情報を「学ぶ」ことができるようになる。

情報に「溺れる」ことと、情報を「泳ぐ」こととでは意味が異なる。偏見を持たずに情報と接することは、情報に溺れることに等しい。溺れた結果として、読者は自分の意図を超えた、どこか素晴らしい地平にたどり着けるかもしれないけれど、溺れた人はたいていそこから動けないし、溺れた結果として、致死的なダメージを受けてしまうことだってある。「泳ぐ」ことは、「溺れる」ことで出会えたかもしれない何かを、最初から切り捨てることでもある。これは機会を放棄する態度でもあるけれど、泳いだ人は比較的高い確率で、泳がないと到達できない別の地平にたどり着く。

泳ぎと同様、制約もあらかじめ自分で用意しないと前に進めない。

参考書を読むときには、自分はこの本から何を「学ばない」のか、という態度をあらかじめ決めておくことで、読書の速度を向上できる。道徳的には、偏りのない態度で知識に接するほうが正しいけれど、これを目指すと溺れる。「何を学ぶのか」が戦術ならば、「何を切り捨てるのか」が戦略であって、偏りなく勤勉に、ひたすら勉強を続けた人は、戦略の不在に敗北することになる。

辞書を「読む」人は少なく、辞書は「引く」ものだと考える人は多い。辞書というものは、あらかじめ「これ」という目的があって開かれる本であって、読者はたいてい、「知らない単語の意味を知る」という明確な目的を持っているから、辞書を開いて溺れる人は少ないし、辞書を調べたら、調べた分だけ前に進める。

明確な目的と、身に着けた偏見でもって教科書に当たることで、辞書を引くようなやりかたで、教科書を引けるようになる。これは大切なことだと思う。

「実用的な偏見」の作りかた

若い人達が、もしも「総合的な内科」みたいなものを学びたいと思ったのなら、大体5年目ぐらいで内科の小冊子を作るぐらいの気持ちでメモ書きをまとめ、改良していくといい。

最初は市販されている研修医マニュアルでもいいし、できれば研修施設で指定されている、あるいは内製しているマニュアル本を基礎にするのがいい。それを読んで業務に当たると、たいていは様々な問題に突き当たる。

マニュアル本にはたとえば、「この疾患を見逃さないように」という記載が出てくる。「見逃さない」ためには何に気をつければいいのか、どういう検査を行えば見逃さないのか、書かれていないことも多い。それを上司に確認したり、あるいは調べたりしたら、それを書き加えていく。メモにはできれば、出典というか、「この言葉はこの教科書に書いてあった」と分かるような見出しを添えておくとあとが楽になる。

マニュアル本にはたとえば、「正確に行う」とか、「確実に○○が行われていることを確認する」といった記載も登場する。 「正確に行う」ためには何に気をつければいいのか、どこをメルクマールにすることで正しさは定義しうるのか、そこを正しく行えなかった場合に、どんな致死ルートが想定され、それを回避するためにはあらかじめ何を予期し、何を準備すればいいのか、それをまた上司に尋ね、教科書で調べ、メモに追記していく。

追記を繰り返していくことで、メモ書きからは曖昧な言葉が減っていく。「○○に気をつける」は「○○を除外診断するためにこの検査を提出する」といった言葉に置き換わる。「分かったつもり」の偏見は、改良が重ねられていくにつれ、身についた実用的なものになっていく。

質問を受ける機会が大切

曖昧な言葉を減らすのは案外に難しい。

曖昧な記載が行われた場所は、自身では「分かっている」つもりでいて、あまつさえ得意分野であるにもかかわらず、実は細かい検証を怠っている場所であったりもする。懸賞を怠っても業務には全く支障が出ない代わり、その分野では「適当にやってくれればいいから」という指示が飛ぶ。みんなが慣れていると、場の「適当」は実際に上手に動いて、検証の機会はますます遠のく。

他者からの質問は、勉強会や講演の品質を向上させる。「当たり前」を共有していない誰かからの質問は、マニュアル本から曖昧で便利な言葉の排除を求める。「それを当たり前と思っている自分自身」は、他人の目線で検証される。

同級生でやる勉強会は、そういう意味で役に立つ。定期的に各自がメモ書きを持ち寄っては、更新された差分を発表する。「ちゃんと」や「正しく」、あるいは「〇〇の可能性を必ず考慮する」といったずるい言い回しを使ったら、お互いにそれを指摘して発表から削除していく。指摘を受けた人は次回までの宿題として、その場所を曖昧でない言葉に置き換える義務が課される。

これを個人で続けるのは難しく、インターネット上でメモ書きの改良を行うことも、いろいろ試みたけれど自分には厳しかった。メモ書きの集積と改良、その先にある「実用的な偏見」を身につけるためには、研修病院の同級生で助け合うのが結局正しいような気がする。

現場で体験したことを自身のメモに照らし、足りなかったところを上司の言葉や教科書の記載で埋める。勉強会でお互いのメモを比較し、曖昧な表記を指摘することで偏見の改良を行う。改良された偏見でもって現場に当たり、「体験」と「偏見」との衝突を経ることで、また足りなかった何かが見つかる。衝突は、本来患者さんのためにあってはいけないことだけれど、研修期間なら、上司がバックアップしてくれる。

研修医の期間、こうしたサイクルを繰り返すことで、偏見は実用的なものになっていく。

道具について

メモ書きの基礎となるマニュアル本に加えて、やはり何か定評ある内科の教科書を持つべきだと思う。誰もが知っていて、「あの教科書なら」と誰もが納得してくれることが大事で、結局それは、ハリソンやセシルの原著になるような気がする。最近のはけっこう読みやすいし、幸いずいぶん安価になったから、やっぱり早い時期に買っておくべきだと思う。

メモを書きためるための道具が問題になってくる。

  • 文章の構造化が容易で、勉強会で役に立つメモをお互いに共有できないといけない
  • 全てのメモにはそこに到達するための導線が欠かせない。お互いのメモを交換していくのなら、目次や索引の自動生成機能はどうしてもほしい
  • 自分のメモ書きにおいて、どの分野をどのタイミングで更新したのか、勉強会では差分を提出する必要が生まれるから、バージョン管理システムとの相性がいいことも必要になってくる
  • メモ書きは印刷したり、ネットで公開したり、PDFを配信したり、様々なメディアとの親和性が求められる。

自分はふだん LaTeX を用いているけれど、LaTeX かMarkdown ぐらいしか、いまのところこうした用途に使いやすいアプリケーションはちょっと思いつかない。

電子化の昨今、学習の態度もまた、これからいろいろ試してみるといいと思う。

2012.04.26

自己紹介の戦略要素

「私はこれが得意です」という自己紹介は、わかりやすい代わりに役に立たない。「これが得意」は戦術レベルの長所であって、戦略が見えてこない。何かが得意な人がいて、ならばその人はどの分野をの習得を諦めたのか、「私はこれを得意分野にするために、代わりにこの分野を切り捨てました」という自己紹介が、その人の戦略を教えてくれる。

切り捨てた何かを説明できない人、あるいは「私は何も切り捨てるつもりはありません」と答える人は、局所の戦術こそ得意だけれど、長期的な戦略を持っていないか、示せない。誰かに物を教えてもらう際に、戦略を持っていない人に弟子入りすると、伸びた先には何もないから気をつけないといけない。

家庭医の教科書を読んだ

最近出版された「新総合診療医学」という教科書を読んだ。家庭医や、総合医を目指す若い人に向けて企画された教科書で、読んでみて勉強になったし、自分が知らなかった総合診療領域の記載がいくつもあって役立ったのだけれど、この教科書を通じて「家庭医的なるもの」がならば何なのか、やはりよく分からなかった。

総合診療や家庭医のような分野はまだまだ新しい領域で、だからこそ、その分野で活躍しているビッグネームの先生がたには、個人で一冊、その分野の参考書を書いてほしいなと思う。教科書を書くのは大変だし、手分けして作った教科書に比べれば、あるいは知識の抜けだってあるかもしれないけれど、「新総合診療医学」という教科書を書いた先生がたの間には、まだ「これだ」というその業界の形みたいなものが十分に共有されていないような印象を持った。

短所を知るのは面倒くさい

「全部頑張る」と宣言するのは容易だけれど、実際にやるのは難しい。明示的に、あるいは暗黙のうちに、大抵の人はどこか得意な分野を頑張って、そうでない分野を弱点として抱えることになるけれど、いざ振り返って、「自分はこの分野が弱い」と知るのは案外難しい。

弱いところは、全ての領域をまんべんなく振り返ってみないと分からない。「全て」はもちろん莫大で、たいていそれは面倒で、苦手な領域はもっと面倒な事になる。

自分が「苦手な」知識と、自分の戦略にとって「知らなくていい」知識とはよく似ていて、忙しいときほど間違えやすい。「これ」と決めた得意分野の知識を詰め込んでいる最中は忙しくて、勉強をしている時にはだから、「これは知らない」と「これはいらない」との区別はますます難しい。

きちんと勉強している人ほど、常に知識の吸収を怠らず、最新の情報に通じている人ほど、裏を返すと「自分にとっていらない知識」を設定しにくい。切り捨てた分野を持たない、それが説明できない人は「単なる勤勉な人」であって、その勤勉さを成果につなげることが、もしかしたら難しい。

要約から個性が見える

「一般内科」と「家庭医」、あるいは「総合診療医」は、外野が眺めても区別ができない。まだまだきっちりとした定義もないのだろうし、いろんな分野の先生がたが集まっている領域だから、得意分野を解説してもらうと、たぶん各自がぜんぜん違うことを語りはじめて収拾がつかなくなってしまう。

「ある業界の考えかた」というものは、得意分野を深く語ってもらうことよりも、むしろ広くて浅いあるひとかたまりの知識を、その人の立場から要約してもらうことでよく分かる。

たとえばどこかに「神経内科の知識に恐ろしく通じた消化器外科医」がいたとしても、その人に「研修医に向けた消化器外科の入門書を書いて下さい」とお願いしたら、神経内科の知識に関する記載は削除されるか、少なくとも重点的に語られる可能性は少ない。その人の得意不得意と、その人が所属する業界としての物の見かたは、一致しないことは珍しくない。

内科にはたとえば、「ハリソン内科学」という広くて浅い入門書があって、ハリソン内科の3600ページを、その科の立場で200ページ程度に要約してもらうと、「科としての物の見かた」が見えてくる。

要約というものは、お弁当を詰めるのにどこか似ている。「お弁当を作るのが得意な人」の中にだって、揚げ物が得意な人もいるだろうし、煮物が得意な人もいる。料理なんてやらないけれど、冷凍食品に関する知識なら誰にも負けない人だっているかもしれない。得意とするものは様々だけれど、同じ箱を使ってお弁当を作ったら、きっと誰もが「こうだろう」というステレオタイプに収斂する。どれだけそれが得意でも、お弁当箱いっぱいに揚げ物だけ詰め込む人は、揚げ物の名人ではあっても、「お弁当を作るのが上手な人」とは言えない。

「自分が何を知っているのか」を語れる人はたくさんいる。ところが「自分のような立場の人間が何を知るべきなのか」を語れる人はずっと少ない。

「こうだ」という物の見かたを共有できない組織には、戦術だけがあって戦略がない。「どうすればいいのか」という問いに答えられる人はたくさんいるかもしれないけれど、そこには「これからどうしたいのか」という問いに答えを出せる人がいない。

教科書もまた表現の手段であって、それを通じて「その科の目線」みたいなものを学べたら、読者としてはとても勉強になるのだけれど。

2012.04.12

研修医の潰しかたを考えよう

平和を実現したいのならば、戦争に関する学習が欠かせない。

平和を願うのは大切かもしれないけれど、戦争のやりかたを知らないと、攻める相手をどうすれば止められるのか、相手の軍隊に動きがあって、それに対してどう応対すれば、そこから戦争につながる道筋を断てるのか、問題解決のやりかたが発想できない。ひたすらに平和を願う人達は、平和を願った結果として、相手の軍隊に間違ったメッセージを送ってしまう。会話が成立しないから、コミュニケーションが破綻した結果として、学習抜きの平和祈願は、むしろ戦争を近づける。

失敗を防ぐには陥れかたを考える

「平和を欲するのなら戦争を学べ」の論理が正しいとして、たとえば失敗を防ごうと思ったのならば、「失敗させるやりかた」を研究するのがひとつの方法なのだと思う。

どうすれば失敗を防げるのかを考えるのは大事だけれど、どうやれば相手を陥れることができるのか、暗黙にプレッシャーをかけてみたり、あえて曖昧な指示を出してみたり、誰かにミスを誘発させるやりかた、一種のいじめの方法論みたいなものを大勢で真剣に考えることで、失敗はたぶん遠ざかる。

「どうやって防ぐのか」という立ち位置は、どうしても道徳から自由になれない。「みんなで頑張りましょう」を難しい言葉で言い換えたような結論に逆らうことは難しいし、「指差し確認」とか「ダブルチェック」みたいな、間違ってこそいないのに、失敗につながる緊急事態には必ず省略されてしまう手続きが、平時の手順を複雑にしてしまう。

良心に基づいた邪悪を排除する

防ぎかたではなく、攻めかたを考えることで、「何が悪いことなのか」が会議室に共有される。たとえば失敗を防いでいく上で、「現場に気合を入れる」ことは明らかな間違いだけれど、「気合」はたいてい良心に基づいて、防ぐ空気の会議室では、これを「悪い」と断じるのが難しい。

「誰かを陥れて、その人にミスを誘発するのにどんなやりかたが有効なのか」という議論は邪悪だけれど、これを行うことで、何をすればミスが増えるのか、どんな振る舞いが邪悪につながるものなのか、「悪いこと」の定義ができる。邪悪の認識が会議室に共有されて、ようやくたぶん、議論の場から「良心に基づいた邪悪」を排除することができるようになる。

職場に新人が入ってくる季節だけれど、研修医を潰さず育てようと思ったら、まずは病院の上司が集まって、研修医の潰しかたを学ぶのが正しい。

立場が弱い研修医には、いろんな人が、「良かれ」と思っていろんなやりかたを試みる。教える誰もが下級生を「きちんと」育てようという思いを持って、でも実際問題として、良かれと為された試みは、一定の確率で誰かを潰す。こうした結果はたぶん、「教えかた」こそ学ばれるけれど、「潰しかた」が共有されない現場の限界であって、教える人たちは、まず何よりも潰しかたに熟達しなくてはいけないのだと思う。

2010.09.20

泳ぎかたと溺れかた

本当に溺れている人は、溺れているというよりも、むしろ静かに沈んでいく ものなんだという。

それを体験したことのない人が「こうだろう」と想像したことと、実際それに遭遇したときに起きることは しばしば異なっていて、見張る側は、もちろんそれに気をつけたり、実際に起きることに即した対策を 行わないといけないのだけれど、「溺れる側」の人は、泳ぎを習うその前に、「正しい溺れかた」の 講習を受けてもいいんじゃないのかなとも思った。

泳ぎかたと溺れかた

高校の体育の授業では、柔道とラグビー、スキーについては、それぞれ受け身のやりかたや、タックルをもらったときの転びかた、 スキーを履いた状態での転びかたを、まず真っ先に習った記憶がある。小学校の頃、近所にスイミングスクールがあって、 泳げなかったから、一時期通ったのだけれど、「溺れかた」というものは、習わなかったんじゃないかと思う。

運転免許を取ったばかりのころ、大学の先輩がたからは、「山に行きなさい」なんてアドバイスを受けた。 普通に運転していたのでは、たとえばブレーキを床まで踏みつけたり、タイヤが滑った状態になって、 逆ハンドルで車を安定した状態に持っていったり、そういう状況を体験する機会はまず来ないから、 それを練習しておかないと、いざというときに対応できないからと。

免許を取って、もう何十年もだけれど、逆ハンドルで救われたケースこそないけれど、 思い切りブレーキを踏む練習、あるいは必要なときに、ためらわずにクラクションを鳴らす 「練習」みたいなものは、恐らくはいろんな場面で、役に立っている。ブレーキを踏まないと 事故なのに、ブレーキを「静かに」踏んで事故を起こした人だとか、クラクションを鳴らせば 避けられた事態を、周囲に「配慮して」、結果として事故になったケースとか、きっとあるのだろうと思う。

溺れている人というのは、苦しそうにしたり、暴れたりするのではなくて、むしろ静かに沈んでいくように 見えるのだという。助ける側が、それに気がつけばいいのだけれど、「溺れそうになったら、息のあるうちに 叫んで助けを呼びなさい」なんて講習会を行って、実際に「大声で叫ぶ」練習というものを行うと、 叫べる人も出てくるのではないかと思う。溺れるというのは緊急事態だから、叫べないケースもきっと多いけれど、 そう習って練習しないと、やっぱりたぶん、叫べる人も叫べない。

ワーストケースの伝達は大事

ワーストケースというのは、不運はもちろんだけれど、教えられるべき何かがきちんと伝えられないと、 単なる不運が、取り返しのつかない事故へとつながってしまう。

「失敗学」の話題で、世の中には、「偽のプロ」と「本物のプロ」がいるのだという。正しくできる人は「プロ」を名乗って、 あらゆる事例を経験して、悪くなった状況を切り抜けてきた人はプロだけれど、 正しいやりかたしか知らない、状況が悪くなったときにどう対処していいのか、実は経験のない人も、 やっぱりしばしばプロを名乗る。

「偽のプロ」は、正しいやりかたしか知らないから、そういう人に習うと、たぶん最初に「正しいやりかた」が 説明されて、厳密に、それに従う人が、「いい生徒」と認定される。あるいは世の中には「溺れかた」から 教えられる人がいたとして、溺れた経験から出発して、泳法にたどり着いた人というのは、 恐らくは「溺れかた」から教えるか、少なくともどこかで、「そもそもどうして泳ぐのか」という話題を 入れるのだろうと思う。

「偽のプロ」と「本物のプロ」との見分け方として、習う側からみれば、それは「泳ぎかた」から教える人と、 「溺れかた」から教える人との対比として観測できるだろうし、教える側からみて、 自分は果たして溺れかたを教えられるのかどうか、溺れたことはないにしても、 溺れた自分を想像して、それを切り抜けるための備えが自らにできているのかどうか、 教える人は自問するのが大事なんだと思う。

正しいやりかたのこと

高校生の頃、問題の解きかたは習ったけれど、受験の乗り切りかたみたいなもの、 何を使って勉強して、どんなスケジュールで勉強すべきなのか、いつ頃までに、 どんな問題集をこなしているのが「正しい」のか、受験校と呼ばれる高校にいたけれど、 そういうものは、先生からは習わなかった。

学校ではその代わり、「卒業生受験体験記」という小冊子が2年分、けっこうな分量になってるのが配られて、 これがとても役に立った。

十分に小さく切り分けられた問題には「正解」があるけれど、たとえば「受験勉強を乗り切る」みたいな、 漠然としすぎた問題に、「これ」という正解を示すのは難しい。「これをやらないと確実に失敗する」何かを 指摘することはできるけれど、正解のない問題に、「こうだ」と無理矢理正解を決めたところで、 それに合わない人にとっては、その正解は、むしろ成功を遠ざける。

「受験を乗り切る」みたいな大きな問題には、だから「これ」という正解がない代わり、 正解というものは、ある程度の幅を持った、中心を持たない、群れのようなものとして記述すべきなんだと思う。 どれが正解というわけではないけれど、群れの中に入っていれば、たぶんどこかにたどり着く。

大きな受験校の武器というのは、「群れを記述できる」だけ、十分な人数がいることが大きいのだろうと思う。 1学年1500人、事実上全員が大学受験を目指して、7割ぐらいが現役でどこかに入ってたはずだから、 群れのサンプルとしては、これは相当に大きな気がする。

もっと規模の小さな高校で、たまたまその学年にいた「神童」が成功モデルになったりすると、 その学校にはもしかしたら、「○○高校流」の正解みたいなものが、受験を乗り切るみたいな、 大きな問題に対して、正解として提示されてしまう。それが自分に合っていればいいけれど、 そうでないと、やっぱりたぶん、うまくいかない。

世界でそれだけしかない価値を目指すような人はともかく、成功モデルというのが、 受験や資格に合格することみたいな、「群れがたどり着く場所」として記述できるのならば、 大きなバンドワゴンに乗っかる意味というのは、だからあるんだろうと思う。

「いろんな人から話を聞く。できれば成功している人から、なるべくたくさん」というのが大切で、 平均を抽出するのではなくて、生データでたくさん見ることが、恐らくは大切になる。 雲と群れとは、似ているようでずいぶん違う。

「溺れかた」を最初に習って、たくさんの「泳げる人たち」と、群れの中で一緒に泳いで試行錯誤するような やりかたが、特に「大きな問題」に対する解答を探すときには、正解に近いんじゃないかと思う。

2010.06.08

ドクトリンを学びたい

ワシントンマニュアルという、ずいぶん昔から改訂が重ねられている教科書の33版を読んで考えたこと。

差分を知るのは大変

ワシントンマニュアルの33版はずいぶん厚くなっていて、今回のは1000ページを超えていたけれど、内容の骨組みみたいなものは、それほど大きな変更はないように思えた。細かい知識のアップデートはあちこちにあるのだろうけれど、ざっと読んだかぎりは、全く知らない考えかたみたいなのは、それほど多くなかった印象。

こういうのはそれでも印象論にしか過ぎなくて、実際問題、昔の版とどこが変わって、その変更が、これから先の臨床でどう生かされるべきなのか、変更が加えられたとして、それはどういう考えかたに基づいて、作者の人は、読者にどういう意図を汲んでほしいのか、新しい版画出て、読者として本来知りたいこういうことは、細かく読まないと分からない。

改訂の重なった本というのは、過去の版との比較を行うことで、いろんなものが見えてくるんだけれど、内容も違えば、レイアウトも微妙に異なる分厚い本で、一人でそれを全部やるのは難しい。毎年改訂されているCurrent Medical Diagnosis and Treatment は、「今年はここが書き換わりました」というページを別に設けていて、こういうのはありがたいんだけれど。

アップデートカンファレンスというのがあった

研修医生活を送った病院には、「アップデートカンファレンス」というものがあった。

ワシントンマニュアルの新しい版が出版されたときに開催される、研修医お断りの勉強会で、病院内での勉強会だから、研修医はもちろん出席してもかまわないんだけれど、質問は許されない。

その勉強会に参加する上の先生達は、新しい版に全部目を通してくるのが大前提で、勉強会では、前の版から何が変わったのか、その変更点は、どういう意図に基づいていて、それは演者の考えかたと比べてどうなのか、各科の先生がたが順番に演題に立って講義した。新しいワシントンマニュアルを一刻も早く自分のものにして、研修医にものを教えるための方針を、教える側で共有しようという試みだったのだと思う。

もうずいぶん昔のことだからうろ覚えだけれど、カンファレンスは平日の朝から晩まで、講師1人あたり持ち時間を50分、休憩10分だったと思う。教室の前のほうには上の先生達が座って、研修医は出席こそ許されたけれど、英語の本を通しで読んでた奴はいなかったし、講義の内容はひたすら差分だったから、そもそも質問もできなかった。

講義は「総論」、「循環器/不整脈/集中治療」、「呼吸器」、「腎/電解質」、「感染症/抗生剤」、「消化器/肝」、「血液」、「内分泌」、「神経」の各課の部長が担当して、最初に旧版から改訂された場所を読み上げて、そのあとで、その章を書いた人の意図みたいなものが解説されて、最後にたしか、その意図に対して、この病院としてどうしていくべきか、その先生の意見みたいなものが語られたのだと思う。

あの勉強会はだから、研修医を勉強させるというよりも、研修医を教える側が、施設として同じドクトリンを共有しようよという試みで、今から思い出しても、あのやりかたはけっこう進歩的だったような気がする。いい習慣だと思うんだけれど、今はどうなっているのか分からない。

ドクトリンは大切

ワシントンマニュアルという本は、良くも悪くも中途半端なところは否めない。ポケットに手軽に入れて持ち運ぶには大きすぎるし、じゃあ最新の詳しい知識が何でも載っているかといえば、今は電子媒体が発達しているから、書籍メディアではどうしたって情報量で追いつけない。

ポケットに入れてちょっと参照すればいい状況なら、今はMGHのPocket Medicine があるし、UpToDate みたいなデータベースにアクセスできる人ならば、詳しく知りたいことは、PCを叩いたほうが速い。

それでも病棟に出たばかりの人は、やっぱり「内科の考えかた」みたいなのをどこかで知っておく必要があって、漠然とした考えかたの方向性みたいなものを把握しようと思ったら、ざっと読みで一通りの知識が手に入る、ワシントンマニュアルみたいな本を開いてみるのが今でも正しいのだと思う。これをUpToDate でやろうとすると、もう情報量が莫大すぎて、ちょっと通しで読んでみる、なんてわけにはいかないだろうから。

たとえばアメリカ海兵隊には「WARFIGHTING」という本があって、そもそも戦うとはどういうことなのか、海兵隊であるとはどういうことなのか、海兵隊的な戦いというのは、どういうものを目指しているのか、そういうのを伝える試みが為されている。考えかたの本だけれど、描写は具体的で、腑に落ちる。自分たちの業界でも、このあたりをヒポクラテスに丸投げしないで、施設ごとの考えかたみたいなのをまとめて示すべきなんだと思う。

考えかただとかドクトリンみたいなものは、それだけを抜き出して語られると、どうしようもなく暑苦しい。

こういうのはたぶん、具体的な事例を通じて、知識をとり入れていく中で学ばれる必要があって、あるひとかたまりのマニュアル本を例に出して、「これはこう言う考えかたに基づいているんだよ」という解説を行った上で、その上で「俺ならこう言う考えかたで道筋を作るよ」という考えかたを語ってもらうと、きっと面白い。

今の勉強会というのはなんというか、哲学を暑苦しく語るのがみっともないから、それぞれの分野でひたすら最新を追っかけてるような気がする。本来はたぶん、哲学があって、それに基づいた演繹があって、それを検証したものが、最新のデータとして供されるべきなのだろうけれど。

たとえば胸が苦しい患者さんがいたとして、最初から心臓カテーテル検査に持っていくのを前提に検査を始める施設と、そういう検査は「最後の総仕上げ」的なものと考えて、最初はむしろ、心臓から遠いところから思考を進める考えかたと、教科書を開けば同じことが書いてあっても、それぞれの検査だとか、治療薬に対する重み付けみたいなものは、人によってけっこう違う。

エビデンスの時代にあって、それでも考えかたみたいなものは厳としてそこにあって、それを知ったり、あるいは自分の考えかたが、世の中の常識から見てどの程度王道で、どの程度独特なのか、教科書をざっと読みしても、それを把握するのは難しい。その人の考えかたを口にすることが年々難しくなる昨今だけれど、「アップデートカンファレンス」みたいなものは、今の時代でもあっていいんじゃないかと思う。

2010.03.17

経験の伝達には触媒が必要

ベテランの先生がたが持っている知識だとか、経験を若手に伝えるためには、伝えるベテランと、学ぶ若手と、もう1人、その場の道化役、経験伝達の触媒役としての、中間層が必要なのだと思う。

あってはならない話が聞きたい

症例検討会みたいな場所での演者は、若い先生方でなく、できればベテランの先生がたにやってもらったほうが、質疑応答がもっと面白くなるような気がする。

比較的珍しい症例だとか、典型的でない経過をたどった疾患が、身体所見だとか、特定の検査で発見されて、正しい病名に行き当たって、教科書的な治療経過と、教科書的な知識の考察が行われるのが典型的な症例検討会のありかただけれど、プレゼンテーションが若い人だと、正しいことを追認しないといけない空気があって、やりにくい。本当はそういう場所で、みんなで「もしも」の話ができたら、病気に対する理解が深まるんじゃないかと思う。

症例が呈示されたあとの質疑応答で、もしも身体所見をとったときに特定の所見を見落としていたら、その患者さんの症状はどうなっていたのか、あるいはそういう見逃し可能性を折り込んだ上で、その患者さんの症状に対して、どういう検査メニューをあらかじめ用意しておけば、見逃しを回避する役に立つのか。それは果たして、そうした見逃しの割合に、コスト的に引き合うものなのか。見逃して患者さんの具合が悪くなったとして、そうなったときに、どういうことを行えば、そこから再び、患者さんを治癒の流れに乗せられるのか。そういうことを、その場に居合わせたみんなで議論できたら、きっと勉強になるんだけれど、こういうのは「あってはならない話」だから、なかなか難しい。

間違えた人に習いたい

専門家というのは、その分野を深く勉強した人でなくて、その分野でたくさんの間違えを経験して、それを乗り越えてきた人にこそ、与えられる言葉なのだと思う。

専門家の言語定義を「たくさん間違えたことのある人」であるとした上で、専門家の人たちには、その分野の正しいやりかたでなく、むしろ間違えるためのやりかた、典型的な間違えかただとか、それを回避する方法、間違えて、状況が泥沼化したとき、そこから立ち上がって、元の正しい道に戻るやりかたを教えてほしい。

専門家という言葉は、今はしばしば、「道の真ん中を、極めて正しく歩ける人」に使われることがある。専門家でない人でも、1cm 程度の誤差で歩ける道路の真ん中を、その専門家は1mm の誤差も許すことなく、まっすぐ歩けるような。まっすぐに価値があることも多いのだろうけれど、「転ばず歩ければいい」人にとっては、やっぱり厳密に正しく歩ける人よりも、むしろ転ばない歩きかたを知っている人、転びそうになっても回復するやりかたを知っている人に、そういうのを習いたいなと思う。

昔は耳学問の機会が多かった。ベテランの先生がたから、「俺の経験では」みたいな言葉から始まる昔話を通じて、転んでも泣かないためのやりかたを教えてもらった。

1990年代の医療系メーリングリストでは、個人の経験に基づいた治療手技だとか、「うちの施設では」から始まるお話がたくさんあって、それはもちろん、エビデンスが積まれる遙か以前の、技術がまだ、世の中に出てきたばかりの、みんなが手探りの時代ならではの会話なのだけれど、あれが面白くて、勉強になって、それを読むことで、何となく、急変に対する心の余裕みたいなのが生まれた。

技術が進歩して、そういうメディアでは、論文の交換会というか、「その疾患にはこういうエビデンスが」みたいなやりとりが増えた。「私の経験」よりも、「こういう論文が」のほうが、たしかに高級なんだし、議論が論文ベースになること自体は、基本的には正しいことなんだけれど、エビデンスで固めた会話を読んで、未知状況に対する心の余裕が生まれるかといえば、難しいような気がする。

若手をいさめるカンファレンスがいいと思う

「きれいな世の中にあってはならない話」というか、失敗するためのやりかた、失敗から這い上がるためのやりかたというのは、公開された議論の場で聞くのは難しくて、研修医の勉強会みたいな場所で、ベテランから聞くことも、また難しい。「そういうときはこうするんだよ」みたいな知識の伝達は、自分みたいな30代後半ぐらいの人間が、今50代後半ぐらいのベテランとおしゃべりする機会があって、やっとぽつぽつと出てくる気がする。研修医ではこういう話を引き出すのは無理で、えらい人同士の対談でもまた、こういう失敗談は出てこない。

学びには、「怖さが分からない段階」と、「必要以上に怖がる段階」とがあって、学んで恐怖して体験して、実像が理解できて、ようやくベテランになれる。怖さが分からない人には質問ができないし、実像を理解できたベテランは、しばしば怖がっていた頃の自分を覚えていないから、恐怖を覚える世代が本当に必要な情報は、伝わらない。

経験知を伝える場として、上の先生をゲストスピーカーにお招きして、その人に「怖がる道化役をいさめてもらう」形式で、講義を行うと面白いような気がする。ベテランの声を直接聞くのではなくて、インタビューというか、恐怖を想像できるだけの経験を積んだ、インタビュー担当の15年目ぐらいの医師を別に用意して、中堅どころがまずは恐怖を語って、それを聞いたベテランが、中堅の恐怖を鎮めて、回避の方法を語るような。

知識の受け渡しを行うためには中間層が必要で、中間が怖がってみせることで、若手は初めて、「これは怖いのだ」と理解できるし、ベテランがそれをなだめて、今度は若手は、「そんなに怖がらなくても状況は回避できるのだ」ということを学べる。

事前の打ち合わせというか、準備が大変かもしれないけれど、きっと役に立つ経験が得られると思う。

2010.01.12

高重圧環境で正しく振る舞う

プレッシャーの大きい状況で、普段どおりの振る舞いかたをするのに必要なもの。

若い患者さんを見るのは怖い

そもそも本当は、そういう「差別」みたいなのがあってはならないんだけれど、「怖い患者さん」と「そうでもない患者さん」というのは、どうしたって存在する。

たとえば97歳の、もう5年ぐらい寝たきりで、呼びかけたってもう3年ぐらい返事をしないような高齢の患者さんが紹介されて、その人がたとえば重症の肺炎であったとしても、診察するほうは、そんなに怖くない。高齢で、重症だったら、もちろん生命にかかわることだって十分あり得るんだけれど、やるべきことをやって、よしんば経過が良くなかったとしても、ご家族はたぶん、それなりに納得してくれるだろうから。

これがたとえば、30歳ぐらいの元気な人が、細菌性の扁桃腺炎なんかで食べられなくなって入院したりするのを見るのは、ものすごく怖い。若いし元気だからこそ、たぶん教科書どおりの治療をすれば、高い確率で勝手に元気になってくれるはずなんだけれど、こういう患者さんが、万が一にもそうならなかったら、もう言い訳できない。若くて、元気で、だからこそ、外したときの責任というものが極端に重くて、一見楽に治りそうなそうした患者さんを見る側は、恐らくは恐怖に震えてる。

自分だけじゃないと思う。

責任が見えると固くなる

「畳のヘリから外れず歩く」ことは、たぶんたいていの人が上手にできる。ところが同じ幅の平均台を、たとえば地上20mにおいたとして、畳のヘリと同じような気分で歩ける人は、滅多にいない。

それがどんな形であれ、「責任」が見えてしまうと固くなる。もちろん超高齢者であろうが、若い患者さんであろうが、責任はみんな同じで、正しいことをやっていれば、固くなる必要なんてないのかもだけれど、自分は未熟で、やっぱり怖い患者さんを見ると固くなる。これはもう、そういうものだから、認めるしかない。

漠然と「努力」を重ねることで、じゃあこういうプレッシャーに対する耐性がつくかといえば、無理だと思う。どれだけ手技が上手になろうが、どれだけ勉強を仕様が、無理なものは無理。万が一が怖い患者さんと対峙するのはやっぱり怖いし、固くなるし、緊張すると、間違えは増える。

自由に振る舞うための言語化

上手くいっているとき、たいていの人は「何となく」振る舞う。上手くいっているときには、些細な瑕疵は「結果オーライ」で容認されてしまうから、振る舞いにはある程度の幅が得られる。上手くいっている人は、だから自由に好きなように、「何となく」振る舞って、結果として上手くいく。教科書を何冊読んだところで、「何となく」は、変わらない。教科書に書いてあることは、たしかによくまとまっているのかもしれないけれど、それはその人の振る舞いを言語化したものとは違うから。

何となく上手くいく体験を重ねてきた人が、あるとき高重圧の環境に晒されると、「何となく」を忘れてしまう。研修医が離島に放り出されたときとか、しばしばこんな「何となくの忘却」を体験するんだけれど、その時に教科書を開いたところで、そこに書かれていることは、普段の自分とは全然違ったやりかただから、いきなりそれに従ったところで、上手くいくわけがない。

重圧の高いところで上手くやるためには、だから動作から「何となく」を追放する、上手くいっているときの自分の動作を言語化ないといけない。

上手くいっているその状況で、どうして自分は上手くいっているのか、それをまずは自分なりに言語化して、今度は言語化されたその手続きを実際に行ってみて、言語化が正しく行われているのかどうかを検証する。そこまでやって、たぶんはじめて、「役立つ努力の1サイクル」というものが完結する。

みんなが手順書を書くといい

高重圧環境への耐性を身につけるには、だから自分の手順書を、みんなが自分で書くのがいいんだと思う。

言語化というのは難しくて、名人でも時々失敗する。自分で手順をまとめたものなのに、それに従うと、下手になる。ゴルフの帝王ジャックニクラウスが昔、自分のやりかたをゴルフの教本にまとめた翌年は、やっぱり全然勝てなかったらしい。

言語化した手順に従うと、何よりも不自由だし、「成績」みたいなものは、何となくやってたときに比べて落ちる。落ちたその時、また「何となく」に戻せばすぐに元に戻るんだけれど、それをやってしまうと、もしかしたらその人は成長できない。言語化した手順と、「何となく」の手順とを比較、検証することを重ねて、両者の解離が減っていくことが、たぶんベテランになるということだから。

何となくやっている手順というのはすぐにぶれるし、いろんなものに引きずられる。

研修医を相手に、たとえば「丁寧に診察することが一番大切で、検査なんてしなくても、病気は診断できるんだよ」なんへ自慢げに語った直後、緊急の対応が必要な患者さんが搬送されて、その人に必要な手順と、研修医に語った手順と、それは全然関係ないはずなのに、自分で作った物語から、たいていの人は自由になれない。こういうのを体験して、自分の「手順書」を改良して、「美談」で行ける状況と、それを放り出さないといけない状況とを区別できるようにしておけば、次からは切り替えられる。

何となくでなく、自らを納得させて、そう振る舞わせるための理論だとか、手順みたいなものを自分で書く、それを検証して、改良して、本当に使えるようにしておくということは、重圧から、文脈からその人が自由でいられるために、たぶん大切なことなんだと思う。

2009.12.07

名人の資質

「名医であること」や「名人であること」には定義があって、定義だとか、理論を知らないことには目指すことができないし、その人が置かれた状況によって、磨くべき能力も異なってくる。

医療の円環構造

「医療」においては、病歴や、家族歴の聴取に相当する「情報収集」、情報を元に、暫定診断や、バックグラウンドで生じていることを推定する「仮説設定」、他覚的な検査を使った「検証」という、各工程を経ることで、はじめて医師は、処方や手術といった「行動」を決断することになる。

「情報」「仮説」「検証」「行動」の各工程は、円環構造を作っている。行動の結果は再び情報収集され、治療の反応に対する仮説が作られ、それが検証された後、次の行動が決定される。

それぞれの工程は、「速さ」と「大きさ」の、各パラメーターを持つ。 それぞれの能力が大きいほどに、工程をこなす時間が短いほどに、患者さんの治癒可能性は、より大きくなっていく。

各工程ごとの「能力の大きさ」と、「工程を通過する速さ」とには、ある程度相補的な関係がある。たとえば収集された情報が貧弱であったとしても、収集が極めて短時間で行われるならば、その貧弱さはある程度許容できる。どれだけ詳しい情報収集能力を持っていたとしても、それに1時間も2時間もかかるようでは、患者さんの症状は、その間悪化していく。

ある工程の弱さは、円環構造を共有する別の工程で補うこともできる。仮説設定がいいかげんであっても、検証プロセスが十分に強力であるならば、「仮説設定」の能力が弱くても、それはある程度まで代償できる。

「よき臨床医」というもの

昔ながらの臨床研修が目指している「よき臨床医」は、情報収集と仮説設定の能力向上に、教育リソースの大部分を割り当てている。

能力の向上幅は大きな代わり、教育には時間がかかるし、能力の緻密さは、しばしば速度とのトレードオフになる。

「よき臨床医」はだから、緻密な情報と、それに基づく正しい仮説設定を前提にすることで、検証に要する検査を減らし、行動決定に至るまでの時間を短くすることで、円環サイクルの「大きさ」と、「速さ」との両立を目指すんだけれど、思考の「速さ」と「緻密さ」は、しばしば両立が難しい。

名人は「ずる」をしている

ティアニー先生みたいな、ああいう「名人」は、いわゆる「よき臨床医」とは、パラメーターの磨きかたが違うような気がする。

あの人は、情報収集が丁寧で、その代わり、仮説設定が恐ろしく速い。

あれは「頭の回転が速い」のではなくて、たぶん「膨大な知識と臨床経験による思考のショートカット」を行っているのだと思う。

患者さんを診察したあと、ティアニー先生はいきなり「講義」をはじめて、疫学データを語りながら、診断リストがみるみるうちに出来上がるんだけれど、あれはたぶん、その場で演繹しているわけではなくて、頭の中にある膨大な「脚本」の中から、状況にあったものを引き出して、それを朗読しているんじゃないかと思う。

「思考」というよりも、むしろ「想起」でそれを置き換えることで、名人はたぶん、緻密な仮説をすばやく作ることができて、検証プロセスは最小限でいけるから、結果として、能力の大きさと速さとが、高い次元で両立している。

「よき臨床医」を目指す人はしばしば、能力にこだわるあまりに、速さを見失っているような気がする。正しく研鑽を積んだところで、「名人」に到達できない。

速度を目指す別のやりかた

「よき臨床医」をみんなが目指せば競争になってしまうけれど、「能力の総和」と「円環を回す速度」とを両立させるやりかたには、たぶん他の解答もある。

たとえば情報収集の貧弱さを受容する代わりに速さを優先して、緻密な仮説設定をあきらめる代わりに、症状と病名とをハードワイアした表を用いることで、「情報」と「仮説」プロセスをショートカットすることができる。

「情報」と「仮説」はその代わり貧弱なものになってしまうけれど、「検証」工程に大きなリソースを割り当てることで、それを代償することができるなら、総能力をそれほど落とさずに、もしかしたら「速さ」が得られる。

「よき臨床医」の競争を勝ち抜くだけの能力を持っていなかったとしても、何か「別のずる」をすることで、競争を回避しながら、「名人」のいる場所を目指すことができれば、それはずいぶんかっこわるいことだけれど、患者さんの治癒可能性は高まる気がする。

必要な能力は状況ごとに異なる

内科の場合は、教科書が充実しているから、「仮説」を設定しあたとの行動については、人による差は少ない。「その人しか知らない特別な治療」を行う内科医というのは、「すごい名人」であるよりも、むしろそうでない可能性のほうが高い。

これが外科になると全然別で、人間的には今ひとつだけれど手術室に入ったら神になる人がいたりだとか、「とりあえず腹を開いてから考える」ような、いいかげんな思考をする人が、患者さんの治癒に最も貢献したりだとか、「行動」で全てをひっくり返す状況というものが、日常的に発生する。

「ゴッドハンド」という表現は、だから外科系の医師だとか、あるいはカテーテルや内視鏡治療の領域に発生する言葉であって、「ゴッドハンドを持った一般内科」を目指しても、その努力は効率が悪いと思う。

自分がどういう場所にあって、そこはどういうルールで回っているのかを知ることで、目指す場所だとか、磨くべき能力は変わってくる。

視野のどこかに「名人」をみる、幸運な状況に置かれた人は、その人のすごさにひとしきり驚かされたら、今度はマジックの種明かしを試みると、勉強になるような気がする。

2009.10.12

「当直医学」を作ってほしい

できれば雑誌の連載とか、なにか公的な文章として残る形で。

「総説」は役に立たない

患者さんはみんな違うから、医療という分野においては、 議論の土台になる「一般」というものが、定義できない。

病気についてはだから、「一般的にこうだと私は思う」という書きかたが難しくて、 どうしても、誰かの論文を引っ張って、「○○らはこう述べている」という書きかたしかできない。 どれだけたくさんの「○○ら」を引用したところで、その文章を書いた作者自身が、患者さんと当たって どういう治療を選択するのか、あるいはある病気に対して、「一般的には」どうやって対処するのが 一番無難なのか、読者として、一番知りたいことは、あんまり書かれない。

「エビデンス」なんかよりも、「言質」がほしいな、といつも思う。

論文どおりのやりかたを行うためには、その患者さんが、議論の余地なくその病気を発症している 必要があって、そういう人たちは、たしかに専門機関の先生がたも喜んでみてくれるんだけれど、 現場で問題になっているのは、もっとあやふやな、「正解」がどこにあるのか分からない人たち。

症状は明らかにあるんだけれど、原因が「どれ」とも断定できないような、そんな患者さんに対して、 「俺ならこうするよ。責任持つよ」なんて書いてくれたらすごくありがたいんだけれど、 そういう一言を探すのは大変で、「エビデンス」の時代になって、それはますます困難になった。

「問題」の裏に「責任」がある

恐らく世の中には、「問題」と「責任」とがセットになってる業界と、 両者が根本的に分かれてる業界とがあって、医療なんかは前者なんだと思う。

研修医向けの教科書に載っているような病気についてなら、たぶんどこの病院であっても、 似たような治療ができるだろうし、たとえ専門家がいなくても、検査の機械だとか、薬とか、 少なくとも日本なら、どこに行っても似たようなものは手に入る。

よっぽど特殊な病気でもない限り、たいていの病気については、 少なくとも教科書どおりの治療を提供することぐらいは、どこの病院でもできるはずなんだけれど、 専門技能を持たない医師は、今の時代、患者さんの病気に対して「責任」を負うことができないから、 専門機関に紹介される。

「紹介」という行為は、だから紹介する側からすれば「責任の移譲」であって、「問題の解決」それ自体は、 もはや紹介の理由にならない。

今仕事をしている人たちは、もちろんそんなことはとっくに分かっているはずなのに、 「大事なのは問題の解決それ自体であって、責任なんて考えたこともない」という建前が、 責任の議論をやっかいにしている。

「判断」のコストというか、リスクみたいなものが、どんどん上がっている。今はだから、 専門家の意見が本当に必要な、具合が悪いんだけれど原因の分からない人、 ある疾患が疑わしいのだけれど、症状が典型的でないから確定診断がつかない人ほど、 専門病院の受診が難しくなって、当直なんかでそういう患者さんを引き受けてしまうと、 そこから先、誰からも意見が聞けなくて、時々ものすごく困る。

こういうのやってほしい

具体的には「当直医学」という連載企画をやってほしい。若手がベテランに、 翌朝までの、当直の乗り切りかたを尋ねる企画。

ベテランに語らせてしまうと、これはもう、役に立たない自慢話になってしまうから、 形式としては、若手からの提案を、ベテランに訂正してもらう形にする。

たとえば「腹痛」というテーマに対して、「原因不明の腹痛は、補液と抗生剤、絶食だけでも、 一晩なら経過を見て大丈夫」という仮説を、若手からぶつける。

こういう仮説の根拠になる、腹痛の原因として考えうる疾患を列挙して、例外ケースを探して、 それを除外するための検査をセットにする。

こういう思考実験をすると、一つの症状に対して、ある検査を行って、いくつか特定の疾患を否定できれば、 あとはこれとこれをやっておけば、朝まで様子を見て大丈夫、という、一般ルールみたいなものが作れる。 若手が「ルール」を作って、これをベテランの先生に添削してもらう。

「そんなのはケースバイケースで答えられない」とか返すベテランはチキン野郎認定で、 例外ケースの抜けとか、根拠になる論文の補完なんかをベテランに行ってもらえば、 最終的に、「腹痛の対処については、あの有名な○○先生お墨付のやりかたでいける」なんて結論が得られる。 ○○先生が死ぬまで、腹痛の法廷仕事は、その人に任せればいい。

頭痛とか腹痛、意識障害、呼吸困難、麻痺、症状ごとに、「若手のルール」と「ベテランの返し」と、 一つの結論を目指してぶつけ合う企画を続ければ、そのうちたぶん、「当直ならこうすればいい」という、 症状ごとの、一連の対処リストができる。

悪までも「翌朝まで」限定だけれど、こういうことを2年もやれば、内科当直というお仕事からは、 「判断」が追放される。医師に要求されるのは、行動と、検査の解釈だけになるから、 その地域にある施設で、どんな症状の患者さんなら受けられるのか、ある程度数字で測定できるようになる。

流れとして、こういうのは間違ってないと思うんだけれど、みんな責任が嫌だから、 あるいはそもそも、現場には「問題」だけがあって、「責任」なんてないことになっているから、 やっぱりこういう流れにならない。問題の解きかたが、どれだけ詳細に、「エビデンス」を積んで示されたところで、 責任の引き受け手がいないのなら、問題はやっぱり解決しないのに。

救急を受ける病院が本当に減った。あるいは「分からない人」を受けてくれる専門施設も。

こういうのはたぶん、解決する方法がちゃんとあるのに、上の人たちがそれをやろうとしてくれないから、 現場から黙って人が去ってるんだと思う。

「いわゆる当直」の技能は、もう実質失われているようなもので、うちに手伝いに来て下さっている当直専門業務の 先生がたも、みんな50台。こういうのは体力のある若い人の領域なのに、いまはそもそも、働き手がいないのだと。

ベテランから何かを「引きずり出す」企画というのは、やったら絶対に役に立つとは思うんだけれど、 ベテランの人を、いわば罠にはめるようなものだから、やっぱり難しいとは思う。

それでも責任だけが、「ないこと」にされたまま、必要以上に重くなってしまった現在、 それが軽かった昔を知っているベテランの知恵を受け継いでいかないと、もう後が続かないと思う。

2009.07.21

Open Office で症例報告スライドを作る

だいたい10枚、急に頼まれたときなんかに、最小限の手間で、平凡な資料を作るやりかた。

表題、入院時病歴、理学所見、検査データ、画像所見のスライドが2枚ぐらいで、 だいたい7枚。あとは経過表を作って、考察を2枚ぐらい入れると、だいたい10枚になる。

病歴スライドと理学所見

これはカルテを引き写すだけ。

コツというか、姑息な知恵として、「症例」「現病歴」「既往歴」みたいな 見出しと、それに続く本文とを、全て独立したテキストボックスで作っておく。 あとからそれを、スライドを「表示->グリッド線を表示」にして、 適当に見栄え良く配列しておくと、あとから上司に「ここを直せ」なんて言われたとき、 レイアウトの狂いを最小限にできて便利。

検査データ

「エクセルで作ると便利」という意見を以前にいただいたことがあって、電子カルテ の入っている病院だと、検査データをCSV形式で読み出せるから、エクセルとの親和性が 高いのだけれど、うちの施設にはそんなものはない。

で、必要な検査データも限られているから、これは全部手打ちしてしまったほうが、 結局速いような気がしている。

これもまた、一つのテキストボックスに全ての数字を入れてしまうと、 あとからレイアウトの収拾がつかなくなってしまう。

だからたとえば、「Na 139 meq/l」なんて記述は、一つ一つ別のテキストボックスに収めておいて、 「血算」だとか「生化学」なんて見出しと同じく、全部ばらばらのテキストボックスとして配列する。 あとから「テキストボックスを複数選択後右クリック->配列」、または 「分布」を用いることで、数字を見栄え良く並べられる。

表作成機能を使うとか、もっと賢いやりかたはあるはずだけれど、 こういうのは外野の意見でどんどん体裁が変わるものだから、 一番馬鹿っぽいやりかたしたほうが、変更しやすいような気がする。

Open Office は、テキストボックスを複数作ると、そのうち画面の任意の場所を 右クリックすると、勝手に新しいテキストボックスを作るようになるので、 こういうやりかたをするのに少しだけ便利。

経過表の盗みかた

時系列に沿って、使った薬の量や、人工呼吸器の設定、 患者さんの体温だとか血圧、症状なんかを並べた「経過表」というものが、 作る上で一番面倒くさい。

発想は大変だから、まずは「盗む」ことを考えたほうが速い。

  • PubMed を使う:「Limits」を選択して、「links to free full text」 「Case Reports」にそれぞれチェックを入れてから病名を検索すると、 PDF がダウンロード可能な症例報告だけが残る。 症例報告には、たいていの場合経過表がついてくるから、それを見て考える
  • Google を使う:Google のイメージ検索で「clinical course」という言葉を検索すると、 いろんな病気の臨床経過表が引っ張れる。それを参考にする
  • PowerPoint 検索:病名と一緒に、「.ppt」という文字列を検索すると、 パワーポイントプレゼンテーションだけが検索できる。 運がよければ、「そのものずばり」のスライドがダウロードできる

Google の画像検索が、たぶん一番簡単だと思う。以前よりも患者さんの個人情報にみんな 配慮するようになったのか、パワーポイント検索を行っても、症例報告スライドが手に入りにくくなった。

作りかた

例によってこんなスライドを作る。

20090206083852

以下のものが作れれば、同じスライドが作れる。

  • 治療経過を書くための横棒グラフ
  • 日程や単位を記載するための目盛り軸
  • データを視覚化するための折れ線グラフ

横棒グラフ

治療薬や酸素投与量を書くときに使う横棒グラフは、ただの四角形。

下段のメニューから四角形を選んで、適当に大きさを調整して配列する。大きく作って、 「右クリック-> 配列」で並べたあとに「右クリック->グループ化」を行えば、 拡大縮小できる。

Open Office は、四角形の上にテキストボックスを重ねると、文字が四角形に 勝手に一体化されてしまうことがあるので、別の場所にテキストボックスを作って、 最後に重ねたほうがいいかもしれない。このへんの挙動は、Power Point と 少し違うような気がする。

目盛り付きの縦軸/横軸

折れ線グラフの目盛り軸を以下のように作る。

  1. まずは小さな横棒をひいて、それを必要な数だけコピーする。これが目盛りになる
  2. コピーした横棒を、これも適当な間隔を開けて、何となく縦に並べる
  3. 全ての横棒を選択-> 右クリック -> 配置 ->右揃え で、横棒が縦一列に並ぶ
  4. もう一度全ての縦棒を選択 -> 右クリック -> 分布 -> 縦 で、等間隔に並ぶ
  5. 等間隔に並んだ目盛りにくっつけるように縦棒をひく。これが軸になる
  6. 最後に全てを選択 -> 図形の調整 -> グループ化 で一つの固まりにする

グループ化を行ったあとは、長さや幅が自由に調整可能な目盛り軸が得られる。少し大きめに作って、 グループ化したあとで縮小すると、小さな目盛り軸がきれいに作れる。 あとはテキストボックスに数字を入れて、それも「右揃え->分布」を用いて 縦一列に並べてやると、目盛りと数値の入ったグラフ軸が作れる。

折れ線グラフを書く

体温変化をスライドにするときとか、検査結果を図表にする時は、全部折れ線グラフのお世話になる。

エクセルにまめにデータを打ち込んでいる人なら、そもそも慌てる状況にならないんだろうけれど、 急いでいるとき、とりあえずそこそこ見栄えのいい図をでっち上げるときには、 全部フリーハンドで、それっぽいグラフを描くことになる。

調整可能な折れ線は、下段メニューの「曲線」の中から、「多角形」を選択することで得られる。

マウスをドラッグして、時々クリックするだけで、関節のついた折れ線になる。最後にダブルクリックを行うと、 折れ線はそこで終了する。これは「関節」のついた、調整可能な折れ線なので、あとは折れ線を選択後、 「頂点の編集」で、何となくそれっぽい形を作れる。

Open Office の頂点移動は粗いんだけれど、Ctrl キーを押しながらマウスをドラッグすると、 折れ線の微調整が行える。

それっぽいグラフが書けたら、目盛り軸と折れ線とを全て選択して、右クリック->グループ化 を行っておく。

ラフスケッチの効用

マイクロソフトのPowerPoint に比べると、OpenOffice のそれはわずかに使いにくいというか、 こなれていない印象があるけれど、簡単なスライドならば、もう十分実用範囲に思える。

昔こういうのを作っていた頃は、最初からパワーポイントを手打ちしていたんだけれど、最近はたいてい、 そのへんのメモ帳に、ボールペンで下書きを殴り書きしておいて、それを「清書」するかんじでPC を使っている。

パワーポイントみたいなソフトは、清書するための道具としては相当に優れているんだけれど、 頭の中にあるものをまとめる道具としては複雑すぎるというか、なんだかピンセットで家を建てるような ところがあって、「作りながら考える」やりかたをすると、かえって時間がかかる。

自分が作るのは、せいぜい病歴だとか検査データの数字を配列したり、そこにX線写真の画像を張り込む程度で、 複雑さの程度は浅いんだけれど、こんなものでも、「絵コンテ」みたいなものがあると、作業が簡単になる気がする。

ラフな下書きは、もちろん適当に描くだけなんだけれど、ラフすぎるとうまくいかない。

それが文字なら、最悪それだけ読んでもスライドが作れる程度、写真なら、それが胸の単純写真なのか、 CTスキャン画像なのか分かる程度には、詳しく書かないといけない。あとから清書するからといって、 めんどくさそうなところをラフにやり過ぎると、今度は実際スライドを作るときに、 ラフがなんの役にも立たなくて、愕然とする。

ラフを描くときには、「めんどくさいな」とか、「ここはどうせ清書するときに作り込むから」とか、 自分に言い訳する場所が、たいていの場合、スライドを作るときに一番面倒な部分になる。 ボールペンで下書きするときに、ここをおろそかにすると、だからラフの意味がなくなってしまう。

「崖の上のポニョ」のDVD には、絵コンテのおまけがついてくる。

オープニングの、海の生き物が画面いっぱいにあふれている様なんかは、 絵コンテには、そのまんま全部の生き物がびっしり描かれているし、部屋の中で無線機を使う場面では、 机の上に並ぶ無線機のメーターだとか、本棚の本、たしか夏目漱石の本の背表紙まで、きちんと描かれている。

ああいうのを、たとえば「海の中にクラゲがびっしり」だとか、「雑然とした机」なんて言葉でごまかして、 絵コンテをいいかげんに済ましてしまうと、たぶん現場が混乱するんだろうし、 ラフを描く段階で「面倒くさいな」と思うその場所は、清書するときにラフがあると一番助かる場所であって、 「頭の中身を画像化すること」というのは、要するにそういう作業なんだと思う。

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