2008.12.25

西原理恵子の言葉

西原理恵子の新刊 「この世で一番大事なカネの話 」からの抜き書き。

作者のやってきたことを、「カネ」という価値軸でひもといた本。

努力のしかた

  • 順位に目がくらんで、戦う相手を間違えちゃあ、いけない
  • 目標は「トップになること」じゃない。これだけは譲れない、大切な何かを実現すること
  • 肝心なのは、トップと自分の順位を比べて卑屈になることじゃない。最下位でも出来ることを探すこと
  • 自分の得意なものと、限界点を知ること。やりたいこと、やれることの着地点を探すこと。最下位の人間には、最下位の戦いかたがある
  • 「どうしたら夢が叶うか」って考えると、全部あきらめてしまいそうになる。「どうしたらそれで稼げるか」って考えれば、必ず、次の一手が見えてくる

「カネ」を失うことで見えてくるもの

  • 銀玉親方に教わったのは、まず 「負けてもちゃんと笑っていること」。これはギャンブルのマナーの、基本中の基本
  • ギャンブルでした失敗を、もし、どうにも笑えなくなったなら、それはもう、その人が受け止めきれる限度を超えた負けかたをしてるってこと
  • 限度を超えたが最後、ギャンブルは、怖い本性をむき出しにして、その人に襲いかかってくる

「カネ」が外の世界へと案内してくれる

  • 「カネについて口にするのははしたない」という教えを刷り込むことで、得をしている誰かがどこかにいる
  • 「お金がすべてじゃない」「幸せはお金なんかでは買えないんだ」って、何を根拠にして、そう言いきれるんだろう
  • 旦那の稼ぎをアテにするだけの将来は、考え直したほうがいい。失業みたいなことがこれだけ一般化している今の時代に、「人のカネを当てにして生きる」ことほどリスキーなことはない
  • 人の気持ちと人のカネだけは、当てにするな

人が人であること

  • 「働くことが出来る」「働ける場所がある」って言うことが、本当の意味で、人を貧しさから救うんだと思う
  • 生きていくなら、お金を稼ぎましょう。どんなときでも、毎日、毎日、「自分のお店」を開けましょう
  • どんなときでも、働くこと、働き続けることが「希望」になる。人が人であることを止めないために、人は働く

読んでみて、作者の人はたぶん、母親として、この本を子供に読んでほしくて書いたんだろうな、と思った。

2008.11.20

「下向き」の想像力について

頭がいい人が、「上」に向かって想像力を働かせて、それまで誰も考えなかったようなサービスを作る方向と、 同じく頭のいい人が、「世の中には想像を絶する馬鹿がいる」という信念の下に、 カモをコントロールするやり方を模索する方向と、想像力には「上」と「下」みたいな方向性がある。

上向きの想像力が生み出すプロダクトはすばらしいけれど、世の中を回しているのは、 むしろ下向きの想像力なんだと思う。

振り込め詐欺のこと

振り込め詐欺の人達が使う手口はあまりにもあからさまで、どうしてあんなものに大勢が引っかかるのか 不思議でしょうがないけれど、詐欺の秘訣というものは、「たくさんの人に電話をかける」、 それが全てなんだという。

常識的な人達は、たぶん「こんな話に騙される人が世の中にいる」という、 そのこと自体を信じられない。信じられないから、あんなことをやろうなんて思わない。

振り込め詐欺にかかわる人達は、たぶん「世の中には絶対にカモがいる」と考えていて、 1 日に数千人とか、「カモ」に当たるまで電話をかける。

振り込め詐欺の手口というのは、あたかも会社勤めの人と同じく、すごく「勤勉」にやらないと 成功しないらしい。その勤勉さを支えているものこそが、あの人達の「下向きの想像力」なんだと思う。

「金払いのいい阿呆」が社会を回す

「パチンコ業界が危ない」なんて特集で取材されてたお客さんは、年間40万円ぐらい借金して、 たぶん同じぐらいの金額を、パチンコ屋さんで消費していた。今は消費者金融が厳しくなって、 だからパチンコ業界に流れ込むお金も減っているのだと。

借金してまでパチンコにお金をつぎ込むような熱狂的なユーザーは、自分が遊び場にしている ネットサービス界隈にはいない。

今使っているサービスのほとんどは無料のものだし、有料ユーザーとしてお金を支払っているサービスにしても、 月にせいぜい500円だから、パチンコ屋さんとは比べるべくも無い。

パチンコの面白さは自分には分らない。借金してまでパチンコ屋さんにお金を貢ぐ人達は、 だから自分なんかから見ると、「金払いのいい阿呆」に見える。

理解は出来ないけれど、30兆円産業なんて言われるあの業界を回しているのは間違いなくあの人達だし、 すばらしい理念と技術をぶち上げたIT 企業が軒並み失速していく一方で、 技術であったり、顧客の規模なんかでははるかに劣る「出会い系サイト」は、 そうした「金払いのいい阿呆」の支持を得て、確実に業績を伸ばしてる。

「金払いのいい阿呆」は行動する。「バナナで痩せる」なんて声を聞いたら、気前よくバナナに殺到するし、 メディアが推薦する、雰囲気のいい候補者がいたら、気前よく自分の時間を費やして、選挙会場に足を運ぶ。

上向きの想像力は響かない

ネット界隈の、ブックマークがたくさんついているような、冷静な、「頭のいい」意見は、 「金払いのいい阿呆」の心には、全くといっていいほど響かない。

たぶん政治家の人たちは、「俺は頭がいい」なんて、世の中に距離を置く意見を持つ人を、 顧客として想定していない。政治家が大事にするのは、号令かけたら集まって、 鉢巻きを巻いて、スローガンを受け入れて、腕を振り上げて叫ぶ人達であって、 政策を「分析」する人間なんて、そもそも求めていない。

社会には、「祭りを見る人」と「祭りに参加する人」とがいて、祭りに参加する人の中に、 さらに「御輿を担ぐ人」がいる。

パチンコ業界を繁栄に導いて、IT 企業としての出会い系サイトを繁盛させて、 やせるためにバナナを買って、選挙があれば素直に投票場に行くような、お金を払ったり、行動したり、 自らのリソースを支払うことに気前のいい、「御輿を担ぐ人」達こそが、社会を回す。

google だとか「はてな」だとか、世界を相手に巨大なサービスを展開する企業は、 観光客として祭りにきて、焼きそば一つ買わないで、デジカメ片手に祭りを観察する人達のほうにばっかり 目を向けていて、祭りを本当に盛り上げる人達、祭りに参加して、祭りを作って、お金を払って、御輿を担ぐ、 そんな人達の方向を向いていない気がする。

google だって成功した企業であることには間違いないけれど、莫大な資本を投下して、 あれだけのインフラを構築した割には、得られたお金は決して多くない。なんだか効率悪く見える。

「現金工学」みたいな学問を見てみたい

ある状況によって生み出された人々の行動を、「お金」に変えるやりかたというのは、 まだ「学問」の形で体系化されていないんだろうか ?

経済学には、「マネタイズ」というカタカナ言葉があるみたいだけれど、 「こういう状況ならこんなやりかた」みたいな、方法論が体系化されていたり、 定説が作られていたりと行ったイメージとはちょっと違う印象。

自分は会社を経営しているわけでもないし、本業以外のビジネスを手がけたこともないけれど、 「ビジネスをしている人」だとか、「お金を稼ぐやりかた」を見るのが好き。

どんなやりかたが興味を引くのか、企業家の人と、自分みたいな外野と、 また全然違うんだろうけれど、このあたりは個人の感覚として、 「お金の匂い」のしてくるやりかたというのがたしかにある。

「コミュニティでタイアップ企画」とか、「ユーザーと商品開発」とか、「Win-Win」とか、嘘だと思う。 そんな理念はたしかにすばらしいけれど、やっぱりお金の匂いがしないから。

ネットサービスが収入にしている「広告モデル」なんかも、本来は正しい現金化手法が 見つかるまでの「つなぎ」でしかありえなくて、あれをゴールに据えるのは、どこかおかしい。

  • どんな「カモ」がいるのか。どんな「カモ」を想定するべきなのか
  • 人を「金払いのいい阿呆」にする状況をどう作り出せばいいのか
  • 「金払いのいい阿呆」になった人々を、どうやってコントロールするのがうまいやりかたなのか

「下向きの想像力」に優れたいろんな分野の人達が、お互いの知恵を持ち寄って、 こんなテーマを語りあったなら、きっとすごく面白いことになると思う。

2008.11.04

「幸福の名人」を探す方法

知識と時間が結びつく

空から食べ物が降ってくるのを期待して、1 日中口開けて空を眺めている人は、そのうち飢えて死ぬ。

農業の知識がある人は、同じ時間を使って畑を耕す。運がよければ雨が降って、そのうち作物が取れる。 運が悪ければ、作物は枯れて、そのひとはやっぱり飢えて死ぬ。

知識と時間が結びつくと、運がよければ生産が発生する。運が悪ければ、何も生まれない。

時間を上手に使えば、そこから何かが生まれるけれど、リスクを取らない限り、 「何か」は絶対生まれない。

価値は観測されて発生する

「もの」は生産されて、交換される。

価値は人が集まる場所に発生して、他者からの観測を受けることで確定する。

誰かに観測されて、価値が確定するまで、生産されたものの価値、 その人が投じた時間の価値は、誰にも決められない。 ものが生産されたその時点では、それは形を伴ったリスクに過ぎない。

価値はリスクに宿る。

その人がどれだけ勤勉に働こうと、どれだけ身体を酷使しようと、 価値のほとんどは、その人が「これを作る」という判断に、 その時取ったリスクそれ自体により決定されてしまう。

畑を耕した人も、山で猟をした人も、みんな生産している。あるいはたぶん、天を仰いで雨乞いした人も。 雨を降らせた人は、雨の所有権を正当化するのが難しいかもしれないけれど、それをやり遂げて頑張れば、 もしかしたら卑弥呼になれる。

ものを持ち寄って、お互いそれを観測して、市場が生まれる。そのうちみんな、 もっといいものが欲しくなって、「価値」と「生産」は、分割されて、「お金」と「消費」 という道具が生まれた。

消費せざる者喰うべからず

お金というものは、確定された価値であって、形を持ったリスクである生産物は、 「消費」を受けて、その価値が確定される。

お金を使う、「消費」という行動もまた、リスクと価値との交換だから、 「リスクを取る」という言葉を使うと、「生産」と「消費」は、区別をする意味がなくなる。

「働かざる者食うべからず」は、受け入れやすい考えかただけれど、恐らくは同時に、 これが真ならば、「消費せざる者食うべからず」も真実として成立する。

リスクを取らない人、判断を行わない人は生産できないから、そのうち飢えて死んでしまう。

誰もが「消費」を行わない世の中は、村中の人が天を仰いで「食べ物下さい」なんてお祈りする光景に ちょっと似ている。祈りにリスクはないけれど、村中の人が畑を放り出して祈った村は、 やっぱり飢えて滅んでしまう。

誰もが「消費」を行わない社会と、誰もが「生産」を放棄する社会は、リスクの前に等しく滅びる。

採算と消費の幸福論

幸福になりたいから、みんなリスクを取る。「生産」や「消費」は、リスクを「幸福」に変換するために生まれた道具。

物々交換の昔、「生産」が目指した幸福とは、「ものがたくさんある」状態だった。 豊作だとか、豊漁であることそれ自体が、そのまま幸福の定義になった。

物々交換から貨幣が生まれて、「消費」が目指す幸福は、「いいものをより安く」へと変化した。 いいものを安価に供給する人のところにはたくさんの貨幣が集まって、貨幣をたくさん集めた人は、 たぶん「人を幸福にするのが上手な人」であるはずだった。

安価で効率のいい商品を大量に販売した「勝者」は、たしかに正しいことをしたけれど、 恐らくはたぶん、安価に大量に作られた商品を買った消費者は、それだけでは幸せになれなかった。

リスクを取って、本来みんな何をしたいのかといえば「幸福になりたい」のであって、 各々がリスクを取って、生み出した価値の集まる先は、「幸福の名人」でなくてはならない。

「消費」の方法論で「幸福の名人」を探すのに行き詰まって、「投票」が生まれた。

「政治」とは、他の手段を持って継続する「生産」や「消費」の延長。

「生産」と「消費」、そして「投票」は、全て「幸せの名人」を探すための道具であって、 本来はたぶん、「リスクを取る」という言葉の前に、お互いの区別は無意味になる。

「嫉妬の最小」と「価値の最大」

「投票」という道具が志向したのは、社会の嫉妬を最小にするやりかた。

政治の人達は、いろんな嫉妬を最小化する方法を演説して、大きな支持を集めた政府は、 ときどき屍の山に「労働者の天国」なんて看板ぶら下げて、人はやっぱり、まだ幸せには遠かった。

「投票」の次に来る道具、「投資」というものが目指した「名人」は、「社会の財の総和」を最大にしてくれるような人。

「投資」は相当に効率よくて、恐らくは技術的にも改良されたから、「投資」は「投票」よりもずっと正確に、 「財を増やす名人」を見つけ出すことができたけれど、名人は案外、みんなを幸福にするのが下手だった。

お金が増えた格差社会は、たしかにお金が増えたはずなのに、やっぱりなんだか幸福度が増えなかった。

「通信」という道具

「幸福の名人」探しは終わらない。

「生産」「消費」「投票」「投資」の次に来る道具は、恐らくは「通信」なのだと思う。

不景気の時代、いくら刺激をしたところで、好きこのんで「消費」や「投資」をする人なんていないだろうし、 「投票」は、政府の中の人が嫌がってる。

誰もがリスクを取らなくなった村は滅ぶけれど、今は「リスクを取らない」状態が見えにくいから、 恐らくは意識的にせよ無意識にせよ、リスク取らないで「祈って待つ」人が増えている。

世の中の人が少しずつでもリスクを取って、それをどこかにいる「幸福の名人」に集めるために、 「通信」という道具、インターネットを有料化するといいような気がする。

昔みたいにあらゆる「ダウンロード」が有償化すると、たぶん大きな経済圏が生まれる。

恐らくは全国民猛反対するだろうけれど、これをやると、 映画の無圧縮動画をWinny なんかでやりとりするようなヘビーユーザーは排除されるだろうし、 そうでなくてもほとんど全ての国民はネットを使うだろうから、莫大な税収と、社会を回るお金が発生する。

お金の行き先が今ひとつはっきりしないけれど、一部を国がつまんで、残りを権利者に分配すれば、 恐らくは今まで「無償で」公開することを余儀なくされていた著作者が、けっこういい思いできるような気がする。

儲ける気になれば、トップページに100 MB ぐらいのクソ重い画像を置いておいたりすればいいんだろうけれど、 そういうページは排除されるし、何よりも「有償化」は嫉妬心を拡大するから、 ブラックリストはいち早く公開されて、そうした人の努力にもまた、「有償インターネット」は お金で報いることになる。

「通信」が志向する「幸福の名人」は、かなり直接的に、「人を幸せにするのが上手な人」に なるような気がする。

莫大なトラフィックを稼ぐニュースサイトの管理人とか、有用な情報を教えてくれるエロゲソムリエの人達だとか、 人気サイトが提供するコンテンツは、多かれ少なかれ、それを見る人達を「幸せ」にしているだろうし、 そうした人達はたぶん、ネットワークを介して、どこかにいる「幸福の名人」につながっている可能性が高い。

「有償」は面倒だけれど、有償だから、みんな自分のクリック一つにリスクが生まれて、判断の機会が発生する。

ネットワークにつながった全ての人が、わずかずつリスクを持ち寄って、「クリック」を介して判断と思考を集めれば、 どこかにいる「幸せの名人」は、こんどこそ見つかりそうな気がする。

2008.10.24

正しい手続きが腐敗する

脳出血を合併して亡くなった妊婦さんの事例に思ったこと。

亡くなった方は、きちんとかかりつけのクリニックを持っておられて、 そこで勤務する医師もまた、患者さんを正しく診断して、 正統な手続きのもとに、地域の基幹病院に助力を要請した。

全てが正しく行われたにもかかわらず、あるいは、正しいやりかたが重ねられた 帰結として、「受け入れ可能」を表明する病院が見つからなくて、受け入れに時間がかかった。

正しくなければ速かった

最初に「受け入れ不可能」の返事が返ってきた段階で、救急車でなくタクシーを呼んで、 「大学の救急外来に飛び込んで下さい。うちのクリニックのことは伏せて」なんてアドバイスしたなら、 診療が開始されるまでの時間は、もう少しだけ速くなったような気がする。 若い方の脳出血だから、やっぱり予後は厳しかっただろうけれど。

全て正しい手続きで紹介された患者さんに対しては、医療者側もその施設にできるベストを尽くして、 確実に結果を出さないといけない。今は「確実」のコストは急騰しているから、 病院の対応もまた、ガイドラインにがんじがらめに縛られた、杓子定規なものにしないといけない。 「正しいやりかた」は往々にして難しくて、それが夜間なら、なおのことそれができる施設は減る。

紹介するまでの過程が正しければ正しいほどに、結果として、その正しさに応えられる施設は減ってしまう。

飛び込みできた患者さんに対しては、手持ちの資材で対応せざるを得ない。 施設としてなんの準備もできない状態から始まるから、それはどうしても 緊急避難的な対応になってしまうだろうけれど、大学みたいな場所ならば、 たとえ休日の夜間であっても、まだ緊急手術に参加できるぐらいの人は残ってる。

緊急避難的な対応は、もしかしたらその施設にできるベストには遠いかもしれないけれど、 たいていはそれで十分どうにかなって、少なくともたぶん、正しい手続き踏むよりは、診察できる可能性は高かった。

負ける代わりに機会を得る

「確実さ」のコストが天井知らずに上昇すると、どんな形であれ、信頼コストの 一部を放棄した人には、そのことによる見返りが期待できる。

ところが医療は平等で、信頼性というものは、高いほうがもちろん正しいから、「抜け駆け」は難しい。

紹介状無し、タクシー飛び込みできた患者さんは、正しい手続きを一切放棄しているわけだから、 病院に来た段階で、患者さん側には落ち度が発生する。

「どうしてこんな真似するんですか! 死にたいんですか!」なんて怒られたって文句言えないし、 仮にその病院にできるベストな診療が受けられなかったとしても、正しい手続き踏んでないんだからしかたがない。 そうした患者さんは、病院の門をくぐった段階で、いわば病院に「負けた」状態を受け入れざるを得ない。

最初に「負け」を認めた人に対しては、だからこそ医療者側は、堂々と「緊急避難」を開始できる。

情報無いんだから、仮にそれが妊婦さんであってもCTを撮らないと分からないし、 救急外来もまた、「とんでもない人がいきなり飛び込んできたから」なんて、 全部を「患者さんのせい」にして、当直している全員に声かけて、 病院内のあらゆるリソースを、その「負けた人」に突っ込める。

「タクシー飛び込み」は、かかりつけ医の情報に期待できないし、病院だって準備できない。 それは受診する患者さんの不利益がとても大きなやりかただけれど、見返りとしての診療機会の向上は、 今は「正しくない」デメリットと、釣り合うどころかおつりが来るぐらい、メリットが大きな気がする。

病院どうしがお互い正直で、参加する医師すべてが良心的であることが前提に組まれた 病院間ネットワークというものが、そもそも成り立ちからして欺瞞的なんだけれど、 最近はなんだか「公式ルート」はますます細って、 大学の同窓会名簿だとか、医局のOB会名簿に頼る機会が増えてきた。

「久しぶり。僕先輩だよね。先輩だよね。先輩だよね。で、こういう患者さんがいてね…」みたいな。

なんか病んでる。

どうすればいいのか

診療報酬をゼロにすればいいのだと思う。

信頼の需要は増える。現場を回す医師の数は減る。みんな責任回避して、 細った「公式ルート」には、あらゆる重症患者が殺到する。

「公式ルート」の危険度はますます上がって、それを受けられる病院は、たぶんそのうち存在しなくなる。

正しい手続きが見返りとして求める極めて高い信頼性が、結果として、患者さんから診療機会を奪ってしまう。

機会を昔どおりに分配しようと思ったら、だから施設同士の責任移譲を事実上禁止して、 高価になった「責任」というものを、なるべく多くの医師で分配することを考えないといけない。

いくら「禁止」を明文化したところで、それこそ医院の近くに救急車呼んで、「自分の名前は絶対出さないように」なんて 言い含めたりすれば、禁止条項なんていくらだって回避可能だから、対策としては、 責任を分担することで、初めて対価が発生するような報酬体系にするのがいいと思う。

具体的には、「生き死に」に直接かかわってこない、外来で回せる患者さんの診療報酬をゼロにして、 その代わり、全ての基幹病院は、基本的にオープンホスピタル化する。 入院が必要な患者さんを診察した医師は、誰でも基幹病院の設備と人員とを指揮することができて、 たとえば病棟スタッフに「手術」を命じたりすることができる代わり、患者さんにかかわる責任は、 主治医になった、その医師が負う。

「開業医」と「勤務医」みたいな区分けは微妙に変わって、「責任から対価を得る医師」と、 「行為から対価を得る医師」みたいになる。基本的に勤務医は、責任者たる主治医の指示で 動くけれど、自分で主治医を取った患者さんに対しては、そこに発生する「責任」から報酬を得ることもできる。

対価は基本的に、ベッドから発生する。

開業した人は、患者さんを在宅ベッドで診療することもできるし、あるいは病院のベッドを利用することも できるけれど、誰か他の医師に責任移譲を行った時点で、その患者さんからは対価を得られない。

恐らくは開業を続けられる人は減る。ある意味それは、原点に返るだけだとも言える。

漫画「ブラックジャック」の昔、主人公も、対立する悪徳医師も、登場する医師はみんな自分のベッドを持っていて、 ブラックジャックが患者さんを奪ったりすると、悪徳医師もまた、ブラックジャックのクリニックに乗り込んだ。 医師というのは患者さんと不可分で、患者さんが動いたら、主治医は呼ばれなくても、一緒にくっついて動くものだった。

開業という行為は、本来は能力が有り余ってて、病院という器の中では自分の能力をもてあましてしまう 有能な人達が、自分に合わせた入れ物を作るために行うものだった。

そもそも開業できるだけの能力持った人なんて少数だったし、 自分達が学生の頃、開業している先生方に話を聞くと、「勤務医はいいよ。楽で」とか、 今とは正反対の言葉が返ってきた。

「無料」ルール敷いたとして、今開業している先生がたの半分、たぶん4 万人ぐらいが開業を止めて、 そのうち半分ぐらい、2 万人ぐらいの先生方は、たぶん基幹病院に帰還して、また一緒に現場を回してくれる。 ベテランの知識と経験は、再び基幹病院の設備と結びついて、医療リソースは増えるはず。

責任を分担する余力を十分に持った人は、今までどおりに開業を続けるだろうし、 そうした人達が責任を分担して下さるのなら、開業した人達の能力は、 重篤な患者さんを受ける勤務医を精神的に支えて、現場に力を与えてくれる。

そう悪い未来じゃないと思うんだけれど。

2008.06.17

能力のこと

「激動中国」という番組で、中国の医療が特集されていた。片目を失明してしまった少年が、 網膜のレーザー照射を受けるために700km離れた北京まで出かける必要があって、それには ものすごいお金がかかって、一家が経済的に傾くお話。

番組を作った人達は、高騰する医療費に批判的な、市場化が暴走した医療を問題視する 立ち位置だったけれど、取材を受けていた一家に限れば、問題はむしろ他にあるように見えた。

主人公の子供さんが受けていたのは、たぶんごくありきたりな治療。報道されていたのが全てだったら、 わざわざ北京まで出かけた先の「名医」は、必ずしもすごい技量を発揮していたわけではないし、 子供が受けていた、網膜のレーザー照射にしても、日本だったらどこの市中病院にでも普通においてあるような機械。

中国の医療レベルは決して低くなくて、トップクラスは普通に英語をしゃべれるし、医療機器なんかも、 法律の縛りが穏やかな分、日本なんかよりもよっぽど速く、最新の機器が導入されてたりする。 網膜のレーザー照射なんて、自分たちが研修医の頃から普通に行われていた治療だから、 あの一家は恐らくは、わざわざ北京の一流病院に出向くまでもなく、もう少し近場で、 同じ治療を安価に受けることができたはず。

たぶんあのご家族が対峙してたのは、医療の問題と言うよりは、むしろ情報の問題。 あの人達は、適切な情報を手に入れる手段を持っていなかったから、たぶんもっとも「高級な」 治療手段を選択せざるを得なかった。

あのご家族にもっと経済力があれば、あるいはもっと適切な情報を探せれば、あるいは詳しい人に知りあいが いれば、漠然と「能力」を持ってさえいれば、結果はずいぶん違ったのだと思う。

生きるためのコスト

「生かす」の単位がそもそも定義できないんだけれど、生活力のない人を「生かす」ためのコストというのは、 それを持っている人に比べて、圧倒的に高いような気がしている。

何もできなくて生きていけない人というのが、いる。身体的な病気はないのに、 とにかく何もできない人。仕事もしてないし、親類縁者は縁を切ってて、 役所がお金を渡しても、全部アルコールに変わってしまって、ご飯を買うお金を取っておくとか、 そんな発想がそもそも無くて、肝臓壊して餓死しかかって、ある日救急車で運ばれてくるような人。

もちろん生活保護になるんだけれど、お金を渡すだけでは同じことの繰り返しで、田舎だから住む家は あったりするんだけれど、見守るための民生委員とか、介護人だとか後見人の確保だとか、 退院に持って行くためには、すごい人手がかかる。

自宅に帰っても同じこと繰り返して、緊急避難的に特養に入れて、結局そこから先の展望無くて、 そんな人はたいてい、そのまんま一生そこにいる。食事の世話から風呂から着替えから、そうなると 全部介護の人がやってくれるし、あらゆる事務手続き、書類の世話とか財産の管理は、 今度は全部、市のソーシャルワーカーがやってくれる。

もちろん毎日のナース巡視はあるし、体温と血圧ぐらいは毎日測って、異常があったら病院に来る。 送迎はもちろん施設の車で、病院にはちゃんと、施設の人が付き添ってくる。こういう人は、ここまでやって、 やっと生きられる。

ただ「生きる」だけのコストが、こういう人達は、どういうわけだかすごく高い。

絶対的な財産の量で言ったら、企業経営をしているような富裕層のほうがもちろん多いはずだけれど、 「生きること」に必要なコストは、生きていく能力のある、財産を持った人というのは、 あるいはとても安価なのだと思う。

自分の居場所から見える「生活できない人」というのは、人口20万人圏内のうちで、100人程度。 たぶん保護なんかが行き届いてない人はもっと多い。自分は内科だから、外科だとか精神科だとか、 他科から見た風景は、もっと異なってくるのだとは思う。

「楽しむ」能力

医局の人達と、ご飯を食べに行ったりする。同じお金を支払って、同じもの食べて、 条件を一緒にしても、感覚する「おいしさ」みたいなものは、やっぱりその人が持つ「能力」に 応じて、ずいぶん異なるような気がする。

上手な人は、楽しむことが本当に上手。いい料理屋を知っているとか、いいワインが選べるとか そういうのではなくて、どこに行っても何だか気負わない、場を楽しむのが上手な人。 それができる人が一人いると、みんなでご飯を食べてもおいしくて、まわりもまた楽しめる。

「できない」人ばっかりだと、どんなに高級なところで外食しても、何だかみんな見栄張って、 料理見ないで仕事の話し始めたりして、ご飯がもったいない。「見られる自分」みたいな、 余計なことばっかりに意識が行って、何だか楽しめない。自分も含めた「できない」連中は、 きっとみんなそのこと分かってるんだけれど、楽しみかたが分からなくて、楽しもうとするんだけれど、 やっぱり「楽しめる」人が一緒でないと、楽しめない。

料理食べて、「おいしいね」なんてほんの一言、気負わないで言うだけの能力なのに、 それが何だか決定的な能力差として効いてくる状況というのがしばしばあって、 できる人はそれが当たり前のように身についてるし、できない人は、そうなりたいと思っても、 やっぱりどうやっていいのか分からない。

たとえば「自分で料理を作って、それを日記にして公開する」なんて試験をすると、この能力が 定量できるような気がする。

いろんな料理サイトがある。見た目がきれいだったり、いろんな材料を使ってたり、 「一生懸命さ」みたいなものは、どこ見ても伝わってくる。「自分も作りたいな」なんて思う文章は 案外少なくて、あんまりおいしそうでうらやましく思えるような文章は、もっと少ない。 そういうところに限って、作ってるのはただ豆腐ゆでただけだったり、魚焼いただけだったり、 もっと手をかけて、もっとおいしそうな写真出してるサイトなんていくらでもあるのに、 「うらやましいな」なんて指くわえて眺める料理は、かけた手間とは無関係だったりする。

お金の使いかた、同じ金額のお金を使って、そこから得られる楽しみの量みたいなものは、 やっぱり「能力」みたいなもので相当に左右されるのだと思う。

自力で生活するだけの能力に欠けていて、なし崩しに生活保護になるような人は、 それでも生活していけるだけの収入と、生活に困らない程度の住居を得られるのに、 お金は結局全てお酒に変わって、娯楽なんてせいぜいパチンコぐらい。

「やることがないんだ。すごく辛いんだ」とか言われたことがある。本心なのだと思う。

平等という前提が格差を生む

持っている能力と、能力を生かすための環境要素と、パラメーターは複数あるけれど、 ベクトルが幸福な一致をみた状態においてもなお、その人が持つ「能力」の絶対値みたいなものには、 やっぱり厳とした差が出てしまう。

「能力差」みたいなものは、「あるのだ」と積極的に認めるところから議論をはじめないと、 何だかいびつなことになるし、問題は解決しない。平等だとか正義だとか格差だとか、 そもそもはたぶん、能力の平等なんていう、間違った考えかたを前提に、 世の中を見てしまったがために生じた誤謬だと思う。

「能力の平等」が、揺るぎない前提になってしまっていると、本来は能力差でしかないものが「勝ち負け」を生んでしまう。 そもそも前提が間違っているところに生まれた勝ち負けを正当化するために、欺瞞に満ちた、 本来は必要ないはずの、正義というあやふやな価値軸が後付けされた。

「人間は平等」という立ち位置は、市場原理主義みたいな人も、人類皆兄弟の人も、みんなそれを前提にして、 自らの考えかたを補強するための武器にしている。市場の人達は、だから「機会均等が平等だ」なんて言うし、 皆兄弟の人は、平等なのに結果が不平等なんておかしいなんて言う。行ってること全然違うのに、どちらも平等で、 どちらも正義で、反駁が難しい。

人類皆兄弟の人達は、能力平等、機会平等なのに結果が不平等な現状を見たら、 まずは「能力平等」の前提を疑ったっていいはずなのに、それをしない。 能力の不平等を前提にするならば、政治の不作為を矛盾なく叩けるのに。

市場原理主義の人達は、「能力平等」が誰からも反対されない状況を利用できるからこそ、 「機会の平等」を矛盾無く主張する。派遣労働のやりかたとか、格差社会一般とか、 能力の不平等性が前提になってたら、もっと救済策取られてもいいと思うけれど、 能力は平等なことになってるから、「それはこれから能力発揮する人達に失礼だ」なんて、 本心からそう叫べたりする。

「椅子取りゲーム」みたいな自由競争ゲームは、勝ち負けを生むけれど、みんなの機会は均等。 負けた子供が先生に抗議しても、「君の努力が足りない」なんて突っぱねたって大丈夫。ところが足の悪い子供が 混じってたり、目が見えない子供が交じってるクラスで「椅子取りゲーム」を企画したら、 きっとその教師は、世界中から見識問われて、きっと叩かれる。

持って生まれた能力差を呑み込むところから議論はじめたほうが、物事がシンプルに、 世の中あるがままに議論ができるような気がするんだけれど、ここから先は分からない。

そもそも能力の異なった、不均一な集団を相手に「機会の平等」を説く欺瞞というものは、 能力の不平等性をみんなが受け入れた時点で、その効果を失うはずだけれど、 その代わり、ならば能力が不均一な人達を相手に、どんなルールを敷くのが一番「正しい」のか、 そもそも正しさという価値軸が必要なくなったはずの不均一な集団にどうして正しさが必要なのか、 このへんになると、もう想像力が届かない。

誰か考えて。。

2008.05.24

分配と経営

何とかしないといけない状況があって、そのときに何も考えないのは最悪で、 一人のリーダーが状況を仕切るやりかたは、「頭一つ」分だけまし。

一番いいのは「みんなで考える」やりかただけれど、それをやるのは案外大変。

アイデアというのはサボると出なくて、絞り出す、引きずり出すようなやりかたしないと出てこない。

状況を乗り切るために「みんなで考える」やりかたは、だからあんまり快適じゃなくて、 むしろ思考を引きずり出される側の人にとっては、しばしば不快ですらあるんだけれど、 「状況を乗り切る」目的達成するためには、援用できる思考リソースは、 きっと多ければ多いほど、いい結果に結びつく。

分配と経営

助けを必要とする人がたくさんいて、提供できる手の数は限られる。 有効な助けを出すためにはリソースの集中が必要で、不十分な助けというのは、 慰めにはなっても、結果につながらない。

こんな時に「みんな平等」をやると、みんなに「不十分」が行き渡って、 投入するリソースは、全部無駄になってしまう。

誰か有能なリーダーを投入して、限られたりソースを正しく分配できれば、 今度はたぶん、十分な助けを得られる人と、全く助けが得られない人とが出る。またもめる。

平等とか、分配の考えかたは、「相手には能力がない」ことを前提にしている。

「平等」ルールを回すには、そもそも誰の思考も必要としないし、リーダーによる分配もまた、 リーダー一人が考えて、それ以外の人達には、思考したり、手助けしたり、そんな能力が 最初から期待されていない。

「限られた」リソースは、状況によっては増やすことができる。

「経営」を考える人達は、サービスの受け手に「能力」を想定する。その人達の考えかたとかアイデア、 あるいは「手」それ自体をも利用して、限られたリソースを増やす仕組みを考える。

手を増やす

状況さえ選べるならば、「手」を増やす方法はある。

島の病院ではご家族が付き添ってくれるから、検温だとか、患者さんの経過報告だとか、看護師さんとか、 あるいは医師の能力をずいぶん肩代わりしてくれる。それができるのは、もちろん島の失業率が高いだとか、 「島にそこしか病院がない」からこそ、医師があんまり信用されなくて、付き添いながらも 「監視」されてる面もあるとか、いろんな理由はあるんだけれど。

キリスト教系の某病院は、「看護への家族参加」をうたっていて、おむつ交換とか、体位交換とか、 そんな業務は、付き添いの家族が主役になる。看護師は、やりかたを教えたり、介護の相談に乗ったりして、 主役はあくまで患者さんなんだという。

10年ぐらい前の話。今そんなことが通用するのかは分からないけれど、その病院ではだから、 看護師さんの業務がある程度軽減されて、その一方で家族はその施設への長期入院をいやがって、 医療者がゴリ押さなくても、病棟の回転がよかったらしい。

もちろん災害現場トリアージの時に、茫然自失のけが人に向かって「ほらあなた軽症なんだから手伝って下さい」 なんてやるのは無理だし、そもそも「今すぐ」何とかする状況が求められてるときには、 たぶんどんなに巧妙な制度設計を行ったとしても、「みんなの意見」を集めることなんてできないんだけれど、 そこまで絶望的な状況というのは決して多くはなくて、状況を「経営」するチャンスというのは、 探せばきっと多いはず。

小児医療の手が足りなくて、今現場に「トリアージ」を導入しようなんて気運が高まってる。 それをどれだけベテランの医師が行ったとしても、外来で待ってる親御さんに、 「あなたの子供は軽症なんだから3 時間待ちなさい」をやったら、やっぱりトラブルになるし、 子供も親御さんも、3時間もの間、黙って待つことしかできない。

夜間の小児科医療費を明日から10倍にしたら、元気はあるけれど熱のある子供の親御さんは、 たぶん子供の額に氷枕を当てて、自宅で朝を待つ。「10倍」ルールはただの受診抑制手段だけれど、 親御さんに「病気の価値判断」を要請して、結果としてたぶん、氷枕持った親御さんの数だけ、 限られてたはずの小児医療に、「手」を増やす。

現場を無能にするルール

心筋梗塞の患者さんが紹介された。既往もリスクもそろっていて、「動悸がしてめまいがする」なんて、 もう話聞いただけで心筋悪そうな患者さん。

「最初から心臓の専門施設を紹介したほうがいいんじゃないでしょうか? 」なんて水向けたら、 「症状は頭が中心だから、貴院のほうがいいと思います」なんて、ありえない返事。

救急車来て、紹介状開いたら「心筋梗塞の患者です。御高診下さい」。心電図添えられてて、 自動診断装置が「心筋梗塞」なんて診断してた。

その先生は要するに、もちろん全部分かってて、急を要する状況に対して正しく振る舞って、 にもかかわらず、自分に電話くれるときだけ「無能」になった。たぶん自分で大きな施設に電話するの 面倒だから、知能障害おこしたふりして患者さん投げた。

うちでは心カテできないから、患者さんは専門施設に搬送してもらったけれど、 忙しい午後、連絡したり同乗したり、2 時間以上持って行かれた。

このあいだ、外来で「胆石」を診断した産科の先生が、搬送先探すのに、 都市部なのに何軒も断られたとか記事にしていた。「外科だけれど胆嚢やってません」だとか、 「まずは内科に」だとか、理由はいろいろ。つまるところは「私には能力ありません」という宣言。

こんな時の最適解は、残念ながら、紹介する医師が「もっと無能になること」で、 この場合なら、「胆石」なんて診断つけないで、「お腹痛がってるんだけれど私馬鹿だから分かりません」なんて、 自分の「無能」を訴えればいい。高次施設は患者さんを受け入れざるを得なくなる。

能力見せると損をする。本当に馬鹿な話なんだけれど、今のルールは「無能」であることに罰則がなくて、 判断をするごと、能力を行使するごとに責任が発生して、残念ながら、能力を見せても見せなくても、 報酬はあんまり変わらない。

現場はだから、能力あって先が見える人から「無能」を宣言して、そんな人達は「隠れたニーズ」とか 勝手に掘り起こしては、やっかいそうな人をこっちに投げる。「能力ある」なんて一方的に認定された、 本当は経験年次も能力も、「能力ない」宣言した人に比べてはるかに劣る自分たちは、 「能ある無能」に食い尽くされて、現場はますます疲弊する。絶対間違ってる。

経営してほしい

行うべきは「トリアージ」なんかではなくて、やはり「経営」なのだと思う。そもそも足りてないんだから。 何万人もいる医師の集団は、未だに「経営」されていないから、リソースは「限られた」ことになって、 分配のやりかたばっかりが議論になるけれど、本来はたぶん、経営して増やすこと考えないといけない状況。

たとえば「紹介」という行為を1 回行う際に、一律100万円程度の紹介料を徴収するルールを設定するだけで、 最初に患者さん診た開業医の先生には「紹介の価値」を判断することが科せられる。

その価値があると判断されれば、その先生はお金をかぶって患者さんを紹介するだろうし、 正しい信頼関係が作れていれば、あるいはその医師が有能ならば、 「命の報酬」は、患者さんから受け取る手段を考えればいい。 あるいは自分のクリニックで患者さんを診察するなら、もちろん紹介料は発生しない。

全ての医師が「判断」を求められて、紹介料の価値が上がれば、今度は「有能であること」に 経済的な動機が発生する。本来有能な人達は、たぶん無能であるふり止めて、 きっと本来の能力を見せてくれるはず。

みんなで考えて、考えた結果として、足りない現場に「手」が増える。

「みんなで一緒に考える」社会というのは、だから本来的に苦しくて、 誰もが「能力を出す痛み」から逃れられない。

「みんな一緒で平等」という考えかたは楽だけれど、それは「みんな無能」を前提にした安楽。 「みんなで一緒に考える」、経営は、その「みんな」の能力を前提に、痛むことを強いる考えかた。

「平等」よりも「経営」のほうが、よっぽど人間的だと思うんだけれど。

2008.05.10

安全の市場化

航空業界で、長年「安全指導」にたずさわってきた人達が、最近になって医療安全の業界に 参入してきてる。講演会とか、あるいは大学病院にポストを獲得した人もいる。

航空業界は、長い間「安全」学をリードしてきて、ヒューマンエラーを回避するやりかたとか、 緊張する現場で働く人に、一定期間の休息を義務づけるやりかたとか、昔はいろいろ 勉強したけれど、無理だった。

うちの業界は、安全というものに価格が無くて、頑張ってもお金につながらないから。

良心のお値段

航空業界が長年作り上げてきた、人間を安全に運用するための方法論、 良心的な、理性的なやりかたを担保してきたのは、たぶんある種の寡占状態だったのだと思う。

「良心」にはお金がかかる。飢えてる人に「パン」と「良心」の選択迫ったら、 やっぱり凡人はパンを取る。10年前の航空業界は、たぶん今程価格競争が厳しくなくて、 航空券なんて目の玉飛び出る程に高価なのが当たり前だった。今の馬鹿安チケットの価格思えば、 当時の航空会社はとんでもない利幅稼いでたんだけれど、その見返りとしてたぶん、 「良心的な運営」だとか、「安全への配慮」なんてものがもたらされてきた。

安全を売りにしてきた航空業界も、今は競争ルール。 現場に余裕が無くなれば、たぶん「良心」なんて、真っ先に吹き飛んでしまう。

航空整備とか、もちろん「ちゃんと」やることもできるし、あるいは基準ぎりぎりの「不真面目な」 整備しかしない会社だってあるんだろうけれど、示された基準をクリアするのが目標なら、 不真面目な会社はより多くの利益を上げることができて、そのうち価格競争に 打ち勝って、市場から「ちゃんと」やる会社を追い出してしまう。

日本の整備会社とか、今海外の会社に価格競争で勝てなくて、けっこう苦労しているらしい。

基準は現場を腐らせる

国が「あるべき姿」を提示して、それを守らせるやりかたは、 現場を腐らせて殺してしまう。

「マネーの虎」に出演していた起業家、高橋がなり氏が、農業の会社を興した 話 を書いてて、そんなことを嘆いてた。

農業の世界では、何か新しい試みとか、新しいビジネススタイルとか提案しても、 「それをやると、もしかしたら補助金が打ち切られてしまう」という問題にぶつかって、 変化を起こすのが難しいのだという。

医療が目指す「あるべき姿」は、病院機能評価機構という第三者機関、もとい 天下り団体が決めている。

大きな病院だと認定試験受けるのに300万円近くかかって、山程のマニュアルと、 ありえないぐらいたくさんの「委員会」と「会議」の設置を義務づけられる。

厚生労働省は喫煙者が嫌いだからなのか、病院は全面禁煙を義務づけられる。 喫煙室を別に作ったりとか、病棟から離れた場所に喫煙所作ったりとか、そんな 工夫は認められない。病院の敷地内では、だから患者さんもスタッフも、一切の喫煙が禁じられてしまう。

ところが「道路の上」は、厚生労働省の管轄じゃないからなのか、そこで喫煙する分にはかまわないらしい。

「認定」を持ってる近くの公立病院は、点滴頃がした患者さんが、道に出てきて喫煙する。 幹線道路で、トラックとか点滴引っかけそうになってるけれど、道路で誰か無くなっても、 それは国土交通省の管轄だから関係ないんだろう。

二酸化炭素排出権取引のこと

そもそも「それに意味があるのか?」という議論は未だにつきないけれど、 「二酸化炭素を減らす」やりかたとして、「それを市場化する」という発想は、 やはりすばらしい発明なんだと思う。

エコマーク認定するのに何百万円も請求する霞ヶ関官僚とか、「地球に優しい」なんて 独りよがりなテーマ叫んで、きれいな川に細菌ばらまいて喜ぶ環境保護団体の人だとか、 特定の「正解」示して、みんなにそれを守らせるやりかたというのは くだらない利権を生んだり、正しさの定義を暴走させる人を生んだり、 ろくな結果を生まない。

二酸化炭素の排出権取引市場で活躍する人とかみてると、やっぱりなんだか怪しげな、 いかにも「空気商売で潤ってます」なんて、道徳の反対側にいるような人ばっかりだけれど、 少なくとも二酸化炭素の排出量は減ってきてるし、何よりも多くの企業が環境保護に動いた。

安全とか、環境とか、それを「道徳」で引っ張るやりかたは、道徳の規準作る人達には 莫大な利益をもたらしてくれるんだろうけれど、現場には一切のお金が落ちない。 環境問題みたいに、「安全」それ自体をお金にするやりかたを考えないと、 「安全」はこれから先、ますます軽視されてしまうと思う。

保険会社は「安全な車」を知っている

危険な車、事故を起こしやすいドライバーが好む車は しょっちゅう事故を起こすから、保険料が高くなっている。

事故にかかる金額はだいたい決まっていて、保険会社はもちろんそれを値切ろうとするけれど、 何よりもまず、彼らにとっては「安全な車」を顧客に持つことそれ自体が、 自らの利益につながるから、いろんな車の事故率を調べて、それを価格に反映させている。

保険会社は道徳とは無縁だけれど、安全がお金につながるからこそ、 彼らは「安全な車」、少なくとも「みんなが安全だと思う車」を 知っているし、それを知ろうと努力する。

車に関しては、だから「事故が起きない期間」というものが、 ドライバーと保険会社との間で、不完全ながら市場として成立している。 ドライバーは、自らの運転技能とか、「安全な車」を購入することで、 「事故が起きない期間」を販売して、保険会社は顧客として、 その商品を評価して、「保険料の割引」という対価を支払って購入する。

同じことはたぶん、医療機関と保険会社との間でも通用する。

「命の値段」を決めてほしい

市場回すのにどうしても欠かせないのが、「命の値段」。 疾患ごと、状況ごとに、病院が患者さん側に支払うべき「標準価格」みたいなもの。 こればっかりは、政府の代表者に決めてもらわないといけない。

今はまだ、誰も「命の値段」をつけようなんて思ってないみたいだし、裁判所が決定するそれは、 残されたご家族の心情とか、病院側の態度とか、もっと個人的な状況が「価格」に反映されるみたいだから、 そんな流れの先に「市場」は見えない。

政府が「これ」という価格を決めれば、市場が生まれる。保険会社は、病院相手に新しい保険商品を販売できるし、 病院側は今度は、今まで事故を起こしてこなかった信用であるとか、 充実したスタッフの数であるとか、もっと呪術的な要素、「うちは有名な祈祷師に加護をお願いしてるから大丈夫」 みたいなものですら、それを「顧客」たる保険会社が有効と判断するなら、 事故防止の取り組みとして評価され、保険料の割引分として、病院に利益をもたらす。

全てはお金だし、そこにはもちろん「道徳」だとか「正義」なんて発生しないけれど、 保険会社も病院側も、自らの利益のために「有効なやりかた」を模索するし、 自分たちが置かれた状況の中で、最大限に事故の発生を防ぐはず。

政府が「価格」をつり上がれば、安全が高まる代わりに医療費は高騰するし、価格を下げれば、 みんなが利益を追求するから、効率が上がる代わりに、安全度は下がるかもしれない。

「安全」とか「道徳」とか「良心」だとか、そもそも定義が曖昧で、基準作るのが難しいものほど、 国家が「正解」示すんじゃなくて、「価格」だけ示して市場に任せるやりかたしたほうがいいのだと思う。

2008.04.30

後期高齢者医療制度がよく分からない

外来で使えるお金が、月に6000円までに制限されること。 患者さんを何もしないで看取った場合、国から2000円の「ご褒美」がもらえること。 入院した患者さんの扱いは、よく分からない。

後期高齢者医療制度が始まって1ヶ月が経ったけれど、現場の理解だって、まだこの程度。 これから起きる問題を見極めようにも、それ以前の混乱が大きすぎて、まだ外来には何も伝わらない。

現状

75歳になった人は見殺しに」なんてメッセージが力強く伝わるこの制度は、 だから全然普及していない。

今はまだ移行期間だからなのか、患者さんは旧制度と新制度、どちらか一方を選択できて、 地元医師会も「もう少し様子を見ましょう」なんて、外来主治医制度に名乗りを上げていない。

ソフトウェアのアップグレードに似ている。「人柱」になる人達がまず試して、 その制度が「いい」ものなのかそうでないものなのか、見極めがつくまでは、 普通の人は怖くて手を出せない。

うちの地域にはだから、この制度を利用するお年寄りはいない。今のところは旧制度のまま。 まず間違いなく全国同じだろうから、 たぶんどこかのタイミングで、「新制度の利用を促進してください」なんて、お役所から指導が入る。 そのとき誰が先陣切るのか、全然分からない。

ルールは悪用して理解する

ルールというのは、それを「悪用」するやりかたを考えてみると、理解が深まる。

後期高齢者医療制度の基本は、定額支払制度。患者さんに大量の薬を出しても、 病気になっても何もしないで放置しても、支払額は同じ。何か検査が必要で、 それやると月額6000円超えるときでも、支払いは同じ。どこか別の医師に 患者さんを紹介しても、「6000円」の取り分は、最初に主治医を名乗った医師のもので、 あとの施設に入るのは、出来高分のお金だけ。

こんなルールの下で「儲けを最大に」なんて考えるなら、まずやるべきは患者さんの囲い込み。

とにかく高齢の患者さんに片端から声をかけて、自分を「主治医」として認めてもらう。 これで人数分、6000円の収入が確保できる。新制度の下では、高齢者から得られる 収入は、実質これだけになる。

収入を得たら、あとは支出を抑えるやりかた。

削れる薬は全て削る。検査はもちろんやらない。「検査してください」なんて頼まれたら、 「うちではできない」なんて突っぱねて、「検査をよろしくお願いします」なんて、 近くの大きな病院に、検査だけをお願いする。

心不全の患者さんとか、閉塞性動脈硬化症の患者さんとか、元々の薬価が高い人達は、 もしかしたら最初から「主治医」を断られるかもしれない。薬止めたら悪くなるの 見えてるし、どんなに安く抑えたところで、月6000円ではそもそも足らないから。

最善手はたぶん、自分の施設で「主治医」だけもらって、検査は近隣施設、 一定期間ごとに入院依頼を行って、投薬はそのとき2ヶ月分とか、入院を依頼した 施設で出してもらうことなんだろうけれど、そんな「ずる」をどこまで見逃してもらえるのか、 今の段階では分からない。

「主治医」の名乗りを上げる医師は、あるいはすばらしい人かもしれないし、とんでもない悪徳かもしれない。 外からはそれが分からないから、この「市場」は、たぶん最初から成立しない。

自由は進化する

厚生労働省のページを見ても、「国を信じてください」みたいなことしか書かれていない。

患者さんが支払うお金とか、年金天引きになるとか、支払いについては詳しいけれど、 新しいルールのもと、医師がどんな「ずる」をする可能性があって、 厚生労働省として、予測される「それ」に対して、どんな抑止策を行うのか。そんな記載が 見つからない。手段は分からないのに「信じろ」といわれても、けっこう困る。

医療の「質」については、医学知識を持たない患者さんには、今でもそれを評価するすべが無い。 患者さんに与えられる治療の「自由度」については、新しい制度はそれを極端に減らすことは 明らかで、そのことを理解するのに、医学知識なんて必要ない。

出来高支払制度の昔は、患者さんが「お金を払うから」といえば、検査だろうが点滴だろうが、 「医療費の無駄遣い」を医師に強制することはできた。それがどんなに必要な検査であっても、 本人が「嫌だ」と断言したら、それを行うことはできないし、お金も請求できなかった。

新しい定額支払制度は、こうした選択ができない。

患者さん本人にできることは、「月に6000円支払うこと」が全て。追加のお金を支払って 何かやろうにも、全てを自費診療にでもしない限り、何か特別なことはできなくなるし、 その検査をどんなに断ろうにも、断ろうが受け入れようが、支払う金額は一緒。 医療者側から提供されるサービスはいつも一定で、それに対して患者さんサイドから できることは、従来の制度に比べて極端に少なくなってしまう。

自由は進化する。一度増えた選択肢が減らされると、たぶんほとんどの人は違和感を感じる。

「国を信じてください」なんて、今も昔も、患者さんは自らに施される医療については「信じる」以外の 立場をとれないのは一緒なんだけれど、選択肢を減らされて、「信じて」なんていわれても、 たぶん信じる人はいない。

今日のお菓子と明日のパン

国にはお金が無くて、高齢者の医療費は、全医療費の3 割以上を占めている。 政治回してる人達にとっては、こうした医療が「無駄」に見えて、何とかしてこれを削りたい。

このあたりの問題意識は、たぶんほとんどの人に、もしかしたら当の高齢者に相当する 人達を含めて、共有されているのだと思う。

「自分が病気になったら、もう何もしないでいいから、苦痛だけ取って、 医療行為に相当することは一切しないでほしい」なんて、技術系の、 そろそろ高齢者なんて声が聞こえてきそうな方々から、時々頼まれる。

もしかしたら自分がよっぽど信用されてないだけなのかもしれないんだけれど、 寝たきりの、チューブで栄養されてるだけの、1 日中叫んでるだけの老親を 介護した経験を持ってしまうと、「自分はここまでしてくれなくてもいい」なんて 思いはある程度共有されるのかもしれない。

お金はない。「今日のお菓子」も「明日のパン」も、両方手に入れるのは、たぶんもう無理。 そんな中でもせめて、「今日お菓子を食べる」べきか、「明日パンを食べる」べきかの選択ぐらい、 自分でやりたいなと思う。

「今ここでお菓子を食べる」のか、それとも今を我慢して「明日のパン」を残しておくのかといった選択権が、 患者さん側には全くない。患者さんは、「お菓子」を出されたら、たとえ満腹でもお金を支払わないといけないし、 「明日のパンは我慢するからお菓子を下さい」なんてお願いしても、そのときそれが出てくるとは限らない。

シンガポール方式がいいと思う

高齢者医療削るなら、やっぱりシンガポール方式 がいいと思う。

ある一定年齢、今の制度だと75歳になったとき、その年齢の高齢者が一生に使う平均医療費を 計算して、その金額を人数割りして、一括して渡す。たぶん一人あたり数百万円になる。

そのお金を大事に使ったり、あるいは投資や運用を行って次世代につないでもかまわないし、 もらったお金を競馬やパチンコに溶かしてしまって、あとは「自己責任」貫くのも、 その人の自由。自由だけれど、その人が生涯に支払う医療費は、その中でまかなわないといけない。

これをやると、ある日突然、数百万円の現金抱えた高齢者が発生する。ガン治すキノコ売ってる人とか、 幸福の壺売ってる人とか大喜びするだろうけれど、こんどはたぶん、弁護士の人達とか、 介護を提供する会社なんかに「後見人」ビジネスを行う機会が生まれる。

司法制度改革で大量発生した弁護士の人とか今困ってるみたいだから、こうした「顧客」の 発生それ自体は、それなりに歓迎されるはず。

「世代交代」には、莫大なお金がかかる。ワーストケース想定すれば、たとえば70歳で両親が 寝たきりになるような病気になって、その人達が要介護のまま90歳ぐらいまで生存すると、 首都圏だったら家一軒買えるぐらいのお金がかかる。年金があったり、20年分割されるから、 その場その場の実感は薄いのかもしれないけれど、「引き継ぎ」にかかるお金は馬鹿にならない。

どこかでまとめてお金を渡して、「使えるのはこれだけ」を実感してもらうのは、 医療費削減とか、「引き継ぎ」にかかるお金を実感するいい機会になると思う。

2008.04.17

「能力ある人の不作為」という罪悪

動物愛護団体の人たちが「すばらしい人」なんて引用するのは、 圧倒的にマザーテレサが多いらしい。ほかの偉人とか、ましてや 経営者の言葉なんて出てこないらしい。

マザーテレサは、もちろんすごい人であることには間違いないのだろうけれど、 あの人は同時に、「もっとすごいことが出来たのにやらなかった」人なんだと思う。

マザーテレサのこと

マザーテレサは、世の中どうにでも出来るぐらいのすごい力を持っていたのに、 目の前の難民を救うことに全精力をつぎ込んで、「もっとすごいこと」には興味を示さなかった。

悪い言いかたすれば、マザーテレサは能力を持ちながら、怠惰だった。

社会的な立場も、ネームバリューも、あるいは「集金能力」みたいなものも、 マザーはあれだけの能力を持ちながら、自分が「きれい」でいたいがために、 もっと泥臭い、経営の世界に踏み込まないで、難民キャンプの現場にとどまって、 「本気を出せば」救えたはずの、もっと多くの人を救おうとしなかった。

マザーテレサは、たしかに率先して難民の手足を洗ったかもしれないけれど、 そんな仕事は、マザーテレサに比べれば圧倒的に時給の安い人にだってできた。 マザーテレサがちょっと頼めば、100人雇用することだって出来ただろうし、おそらく「雇用」は、 マザーテレサ本人が足洗いに乗り出すよりも、もっと多くの人を喜ばせたはず。

あの人はむしろ現場から離れて、率先してベンツに乗って、プライベートジェットで世界巡って、 寄付をかき集めて「商売」をやるべきだった。マザーテレサならたぶん、難民キャンプ選りすぐりの かわいい子供にボロ着せて、ニューヨークのまっただ中で寄付募るとか、 もっとあざといまねしたところで、世間は反発しなかったと思う。

そんなやりかたはもしかしたら、キリスト教価値観では「汚い」ものかもしれないけれど、 カルカッタの施設1 年分の運営費なんて、たぶんほんの1 日で稼ぎ出せた。

マザーテレサクラスの能力があれば、あるいは存命中、これまでの100倍の人にご飯を配れたかもしれないし、 ワクチンを配布することも出来たかもしれない。

あの人はもしかしたら、自らのスタイル貫くことを最優先して、もうちょっと本気出せば 余裕で救えた多くの人たちを、スタイルのために見殺しにしたのかもしれない。

「能力ある人」の不作為

たとえばスーパーマンが実在する世の中で、本人が環境保護活動に目覚めたら、 スーパーマンはその能力を放り出して、河原でゴミ拾ったりするかもしれない。 たとえ目の前でジャンボジェットが墜落しそうになっていても、河原で弱った子猫見つけて、 猫保護するのに全リソースつぎ込んだなら、ジャンボは墜落するかもしれない。

環境保護活動に汗を流すスーパーマンは、たしかに「いい」人なんだろうし、 環境保護活動とか、動物愛護の活動なんかは「正しい」ことなんだろうけれど、 ジャンボジェットが墜落したら、人々はスーパーマンの不作為を責めると思う。

世の中には明らかに「能力が高い」人がいて、その人たちはしばしば、「きれいさ」とか 「正しさ」みたいな間違った価値観にとらわれる。その能力を全て発揮する前に、 「いい人」である自分に甘んじて、勝ち逃げしようとしたりする。

マザーテレサは間違いなくすごい人で、もちろんいい人だったのだろうけれど、 もしかしたらその「すごさ」を全て解放して、お金とご飯とに換える前に、 「きれい」なまま亡くなった。

そんなやりかたは、みんなもっと「間違ってる」と批判しないといけない。

好きを貫くことは大切で、マザーテレサの「好き」は、たしかに大きな成果を生み出したけれど、 たぶんあの人が本気出してたら、もっともっとすごい結果を出せていた。 あの人がもしも、冷酷な拝金主義者だったのだとしたら、難民キャンプは それ自体が「産業」になって、ちょっとした観光地になっていたかもしれない。

もちろんそうなったら、キャンプはたぶん、平等とは縁がなくなって、壮絶な格差社会に 変貌したかもしれない。それでもたぶん、飢えてなくなる人の数は、 マザーテレサが「きれい」でいたときよりも減った。

マザーテレサ批判する側のお話読むと、頑固で融通が利かない側面があったりとか、 実はけっこうお金に汚い側面あったりとか、 いろいろ出てくるみたいだけれど、むしろそのほうが人間くさくて親しめるなと思う。 それを見ないふりして、「きれい」だけを褒めそやす人たちというのは、やっぱり何か違和感がある。

「正しさ」とか「よさ」みたいなものを、不作為の免罪符にしてはいけないんだと思う。