2011.06.23

恐怖と信頼

「状況の無防備さ」と「猜疑心」とを積算したものが「恐怖」の総量となる。猜疑心が低くなると、信頼は高まっていく。

無害な人間と、信頼できる人間とは異なる。いざというときに、無害な人間は頼られることなく、むしろ真っ先に切り捨てられる。信頼できる人間であろうと思ったならば、約束をただ守るのでなく、約束が交わされる状況について気を配る必要がある。

恐怖は少ないほうがいい

怖いのは誰だっていやだから、人間は常に恐怖の総量を減らそうと試みる。怖い状況をそうでない形に持って行くことが理にかなったやりかただけれど、状況を無防備なままに固定されてしまうと、その人にはできることがなくなってしまう。それでも恐怖はいやだから、状況の改善を禁じられた人は、猜疑心の減量を試みて、逆説的に相手に対する信頼が高まってしまう。

整体やマッサージのようなサービスは、療法師に対して背中を向けた姿勢になることが多い。お客さんの側は、お店の人に対して無防備であることを強いられる。

相手が見えないのは怖いけれど、サービスの前提上、その姿勢は変更できない。怖いまま我慢するのはいやだから、お客さんは結果として、「このお店の人は信頼できる」という判断を暗黙に下す。

フロイトの昔、インタビューを行う人は、患者さんから見えない場所で行われたんだという。患者さんはソファーに腰掛けて、分析者はソファーの背後に腰を下ろして、患者さんの声を聞いた。これは患者さんが緊張しないようにという配慮だったようだけれど、別の効果もあったのだと思う。

無防備な姿勢と説得力

無防備な姿勢が前提のサービスは、それをサービスとしてお客さんが受け入れる限り、恐らくは説得閾値を大きく下げる。

整体師の言葉が、時々強力な説得力を生むのはそのためなのだろうし、秋葉原で昔流行した「耳かきサービス」のお店もまた、耳かきという体勢と、何らかの説得的コミュニケーションがセットになったのならば、強力な信頼を生んだのだろうと思う。

視界から隠れる、あるいは目隠しをする、耳かきみたいに動いたら危ない状況を作る、とにかく本人が「無防備だ」と感覚する状況は、その人の説得閾値を下げる。病院では普段、お客さんと話すときには1m ぐらいの間合いを取って、相対して会話する。あれはそういう意味で、「私たちは他人同士ですよ」という、説得閾値をむしろ上げるやりかたになっている。

催眠術の実演は、相手を目隠しした上で、催眠術師が相手の背中側から語りかける。ああいうやりかたは説得の手段としては理にかなっていて、病院があれをやってもいいのなら、説得は相当に楽になる。

説得と恫喝

「説得」と「恫喝」というものは地続きなのだと思う。言葉や暴力による明示的な恫喝も、お互いのポジショニングが生む暗黙の恫喝も、相手の状況を無防備な側に追いやる。状況を無防備にした上で、相手による改変を禁じれば、結果として恫喝が信頼に転化する。

暴力見せてから、「私はこれ以上の暴力を行使しません」と宣言すると、そう宣言された側にはそれ以上できることがなくなる。それでも暴力の記憶は怖いから、それを減じようとした結果として信頼が高まる。「昔ワルだった」人が持ち上げられたり、暴力をふるう夫がいる家庭が崩壊せずに続いたりする原因一部には、こうした機序が信頼を生むからなのだと思う。

信頼というものは、内面の「まじめさ」が生むのではなくて、お互いが置かれた状況と、場の猜疑心が作り出す。それが正しいことなのかどうかはともかく、信頼というものは、部分的には演出を通じて人工的に作り出すことができるし、それをやる人と、やらない人とでは、やる人のほうが信頼される。

医師の白衣や外来ブースの構造、真っ白に塗られた廊下の壁や、複雑に入り組んだ病棟の構造は、説得と信頼の道具として有効に利用できる。そうすべきなのだと思う。

2010.02.05

理解と納得

劇作家の平田オリザが書いた本からの抜き書き。

演劇という技術

  • 演劇の技術とは、自分の妄想を他者に伝える技術である。それが技術としてたしかなものであるならば、それはある程度の部分まで言語化できる
  • 人間は人間を正確に把握することなどできない。だからこそ表現者は、「私はこのように世界を把握する」という認識を示していかなくてはならない。芸術家がなすべきは、評論家のように事の善悪を説くのではなく、事件を直接的に捕まえ描写すること
  • 舞台は時間軸が一定で、場面もそんなに変えられない。漫画や文章なら、100年も、地球の裏側もすぐだけれど、舞台ではそういう、出来事の連鎖によってストーリーを進めるやりかたができない
  • 小説のように、だんだんと状況がのみこめてくる展開は、用意できる舞台道具に限りのある演劇では難しい。戯曲の場合には、だからその戯曲、その舞台が何についての、どういう作品なのかを、できるだけ早い時期に観客に提示し、観客の想像力に方向付けを行う必要がある
  • 劇作家は、ストーリーの中で、ある特定のシーンだけを抜き出して、その前後の時間については観客の想像にゆだねることしかできない

リアルということ

  • 舞台設定を美術館だとして、主人公が「ああ美術館はいいなあ」と独り言を言うのは、駄目な台詞。リアルでない
  • イメージには距離の概念がある。遠いイメージから入ってくのが鉄則。それが美術館なら、絵がある、静かである、高尚な雰囲気、人がゆっくり歩く、などがイメージ。遠いほうから、「静か」「デートに向く」「交渉」などがあって、もちろん「絵がある」が一番近いイメージ
  • 伝えるべきテーマはないけれど、その代わり表現したいことなら、山ほどある。表現したい何かがあって、それをリアルにするために、舞台がある。オリザが美術館を舞台にした戯曲を書いたとき、台詞にリアルさが足りなくて、「第二次世界大戦中、有名な絵画が日本に避難してきた」という設定を付け足したのだという。付け加えられた設定で、美術館のロビーでの会話に必然性が生まれて、戯曲にリアルが付加された
  • 列車の中にヤクザがいれば、自ら好んで話しかける人は少ない。それでもヤクザが切符を落としたら、「落としましたよ」と話しかけざるを得ない。私たちはこのように、周囲を取り巻く環境によって、「しゃべらされている」
  • 舞台作家は、鑑賞者が自ら、作家の文脈を受け入れるよう、穏やかに導いて行かなくてはならない。演劇においては、文脈のすりあわせがなされない段階で、表現者の側が鑑賞者に仮想のコンテクストを押しつけると、その時台詞はリアルな力を失ってしまう。「穏やか」というのは、「遠いイメージ」から「近いイメージ」への移行で表現される
  • 演劇とはリアルに向かっての無限の反復なのだ

会話と対話

  • 対話と会話は異なる。対話とは他人と交わす情報交換や交流、会話とはすでに知り合っている人同士の単なるおしゃべり。戯曲の素人は「会話」を台本に書いてしまう。対話がないと戯曲が成立しない
  • 情報量がほとんどないにもかかわらず、「会話」には冗長な言葉は少なく、「対話」にはむしろ、「ああ」とか「いやぁ」とか、冗長な言葉が頻出するようになるらしい。私たちは、親しい者同士の会話では、無駄な単語を使わない
  • 冗長率の高い「対話」を描くときには、だから当然、間投詞や感嘆詞が多くなり、これをやらないと「固い」言葉になってしまう
  • 会話が複雑になればなるほど、演じる側の負担というものは、むしろ減る
  • 他人はどうか分からないが、私は愛情の表現の前に沈黙する。その沈黙、一瞬の停止から演劇が始まる。演劇は静止から、無から出発する

理解と納得

  • 韓国人は茶碗と箸とスプーンで食事をする。お椀は持ち上げずに、机に置いたまま食べる。日本の俳優にそれをやらせることはできるけれど、最初は当然ぎこちなくなる。すぐに上手になるけれど、会話をしながらそれをやらせると、またぎこちなくなる。スプーンを持っているのに、「箸で食べる」動作をしてしまう。日本の俳優は、そのとき初めて、「ああ、自分は普段、こうやって箸でご飯を食べているのだ」と、自分の日常動作に気がつく
  • 芸術作品を見て人が感動するのは、突き詰めていえば、「ああ、たしかに私は世界をこのように認識している」という感覚が起点となる
  • 理解というのは事実の把握、納得というのは事態の認識

個人的にはここの下りが、「理解」と「納得」とを隔てる説明として腑に落ちた。

「理解」はそれでも案外簡単で、必然性を持った状況で、分かりやすく語ることに気を使えば、まだどうにかなる。理解というのは「相手の言葉を相手の文脈で呑み込むこと」だけれど、恐らくは納得というものは、「相手の文脈で自分の考えを再発見すること」だから、聞いただけでは分からない。

医師から話を聞かされた段階で、患者さんはそれを「理解」することはできる。「納得」した患者さんは、今度はたぶん、自分の診断であるとか、これからおこること、その時の対処なんかを、今度は自分の言葉で語ることができるようになる。何らかの状況を「理解」の先に導入することで、改めて自分が今まで行ってきた判断に気づきが生まれ、恐らくは初めて「納得」が出現する。

「納得」が正しく得られたのなら、主治医は患者さんの指示に従って動くこともできる。もはや「説得」の必要もないし、医師は患者さんの部下になれるから、「謝罪」の機会も消失する。患者さんの納得が、医師の理解とずれていたときには、価値判断の重み付けを調整する、「説得」を行う必要があるし、説得に失敗して、患者さんとの信頼関係が破綻しそうになったときには、まずは「謝罪」という刃物を振るって、状況から、感情と事実とを切り離して、事態の収拾をはかる必要がある。

「理解」「納得」「説得」「謝罪」を、こういう関係で記述することができれば、いろいろ応用できそうな気がする。

2009.11.05

ガタがあるからうまくいく

先週の日曜日には、熱を出した子供さんが100人近く来た。休みが明けて、外来が始まって、 もちろん「それ以上」を覚悟していたのだけれど、外来は、平和なままだった。

インフルエンザはたしかに流行しているんだけれど、パンク寸前の休日外来は、 みんな「休みだから」病院に来てたわけで、「熱が出たから」病院に来た人は、実は案外少なかった印象。

遊びが減ってこうなった

社会から「遊び」要素が減って、平日にみんな、休めなくなった。

土日をずらして営業していた病院というのもあって、一時期はうまく機能していたんだけれど、結局みんな止めてしまった。土日外来の収益自体はよかったのだけれど、世の中が土日休みで回ってるから、役所とか学校とか、「平日」を要求する場所がシビアになって、スタッフに子供ができると、組織が瓦解しちゃうんだという。

世の中の遊びが減って、しわ寄せが、緊急避難装置的な場所に集まって、結果として、救急外来のパンクとなって現れてる。誰が悪いというわけではないんだろうけれど、遊びを「無駄」だと断じる文化が、こうさせたのだとは思う。

AK-47にはガタが多い

世界の兵士に愛用されるAK-47 というライフルがあって、AKは、部品どうしのはめ合わせは遊びだらけで、部品はどれも、けっこう重たい。

見た目の精度感みたいなものとは無縁なんだけれど、AKはその代わり、ガタが多いからホコリに強くて、どんな状況でも、少ない手入れでよく動く。部品が重たいから、銃弾を動かす力もそれだけ強力で、弾が少々凹んだぐらいなら、AK-47は、弾詰まりを起こすこともなく動作する。

AK-47の「ガタ」とか「重たい部品」は、それを設計したカラシニコフに言わせれば、最初からそういうように作ってあるものなんだという。これをたとえば、より精密に「改良」したところで、改良されたその製品は、たぶんオリジナルより悪くなる。そこにどうしてガタがあったのかを考えないで、「前より厳密」を、無批判に「いいことだ」なんて努力する人たちには、AK-47 は一生かかったって作れない。

厳密を、単純に「いいこと」なんて断じると、AK-47はたぶん、砂粒一つ噛みこむだけでで動作を止める。「厳密に改良された」ライフルで戦って、兵士がみんな、動作不良で殺されたところで、努力の好きな人たちは、「やるべきことはやった。しかたがなかったのだ」なんて、満足そうに敗北をふり返る。自分たちのせいなのに。

うまく回ってた何かに「無駄」を見つけ出して、それを「改良」したとのたまって、むちゃくちゃになった現場からは目をそむけつつ、勝利宣言して尻まくる人たちって、幸せそうだなといつも思う。

精度を出して系が死ぬ

AK-47をコンサルタントに手渡して、「これをもっと高性能にして下さい」なんて問題を出したらいい。少なくとも、ガタをなくす方向の改良を提案した人は、AK-47で射殺されるべきだと思う。

「精度を追求した帰結として系が死ぬ」現象というのに、何かもっともらしい名前を付けて、世の中にもっと周知してほしい。トヨタの「カンバン方式」にしてから、あれはたぶん、「無駄とり」なんかじゃなくて、もっと別の理由があって、ああいうやりかたにたどり着いてる。

「個々の部品が完璧な動作をすることで、系としての動作が完璧になる」なんて考えかたは迷信であって、むしろ「個々の部品に最大の自由度を与えつつ、系としての動作を一定に保つような制約をデザインする」ことを目指さないといけない。世の中で成功している多くのプロダクトが、たぶんこうした方針に沿っているのに、それはしばしば、「改良」が好きな人から見れば、「無駄の多い」ものに見えて、「改良」を受けた結果として、いろんなものに不具合が波及する。

個々のその場所を「よく」することそれ自体は、正義どころか悪徳なんだと思う。「全体の良さ」につながる改良は、むしろしばしば、どこかを「悪く」、「いいかげんに」することで達成される。

その代わりたぶん、「無駄の多い平凡なもの」を開発するには、莫大な人的コストがかかる。それはたとえばAK-47だし、米軍のジープだとか、補修用のダクトテープなんかもそうだけれど、ああいうのは、誰かのアイデア一発で生み出されたものでは決してなくて、実際には、プロダクトには莫大なコストが投じられて、長い開発期間がかかってる。

「必要なガタ」を備えた、ロバスト性の高いプロダクトを生み出すためには、たくさんの人的資源を擁する大きな組織が必要で、そういう場所は、しばしば高機能高精度病に侵される。「一見平凡に見える非凡なプロダクト」は、だから組織を強力にガバナンスするリーダーがいて、フォンブラウンとか、デヴィッド・カトラー みたいな、「大組織を束ねる独裁者」と、独裁者を支えるたくさんの技術者とがそろって、初めてたぶん、そうした製品が作られる。

平凡なのに、何となく広く使われる、「 これ以上改良の余地がない中途半端さ」を備えたプロダクトの裏側には、たぶんすごい物語が隠れてる。それを読めない人は、そもそも「改良」になんかかかわってはいけないのだと思う。

2009.08.22

ゲームとジレンマ

ゲームとは

問題の中心にジレンマがあって、参加者が、自らの選択を通じてジレンマの解消を試みるとき、その状況は「ゲーム」であると言える。

ゲームにはルールがある。ルールとはジレンマの設計であって、よくできたルールは、 ジレンマの観察が容易で、「誰にでもできる簡単なことをふたつ同時に行おうとすると難しくなる」状況を内包している。

ジレンマ解消の先にあるもの

  • ゲームのルールがルールとして機能している時期、ジレンマに対する最適解がまだ見つかっていない時期のゲームは楽しい。 多様な戦略が提案されて、その多くは失敗するけれど、全ての失敗もまた、経験として参加者に蓄積される。試行のコストは低く、 失敗しても、失うものは少ない
  • ルールの中心に見えていたジレンマが解消されたそのとたん、ゲームはいきなり地獄になる。多様性を競った時代は終わり、 定番となったある戦略に、全ての参加者が収斂していく。アイデアの価値は減り、むしろグラム1000万円の素材を買うのに、 どれだけのコストをそこにつぎ込めるのか、資金力、体力の勝負になっていく
  • シトロエンと三菱が争っていたパリダカールラリーでは、「速い自動車」という漠然としたテーマの中から、 「とにかく大きくて丈夫な車を、砂漠の真ん中をまっすぐ走らせれば速い」という解答に行き着いて、 車の構造はむしろシンプルになった。その代わり、たとえば「ジャッキ」みたいな走行には関係ないパーツがチタン製に変更されたり、 地味でお金のかかる軽量化競争が始まった
  • 「カーボンボディ」という解答が発見されて以降の鳥人間コンテストは、チームごとの差違が、素人目には分かりにくくなった。 かつて6輪タイレルが走ってたF1は、ウィングカーやフラットボトムが発見されて以降、レギュレーションの変更もあって、 どのチームも同じようなデザインへと収斂していった
  • それが「本当の解答」でなかったのだとしても、恐らくは定番の戦略が生まれると、それを外すリスクや、失うコストが大きすぎて、 競合者は違った戦略をとれなくなってしまう。バイオ系の学科が、ひたすらピペットを動かす実験しかできなくなったのも、 たぶん「ゲノムの新発見で論文を書く」という、業界なりの勝利方程式みたいなものが確立してしまって、どのラボも、他のやりかたが できなくなってしまったからなんだと思う
  • 心カテなんかだと、「膨らませると血管が広がるけれど再狭窄しやすくなる」というジレンマがあった。風船を暖めたり、逆に冷やしたり、 放射線当てたり、血管削ったり、いろいろ試みられる中、薬物溶出ステントというジレンマ解消の技術が生まれて、アイデアが一気に収斂した
  • 今だと内視鏡による腫瘍切除の分野が、毎月のように新しいナイフが発表されたりして、アイデアがあふれている状態。あと数年して、 偉い先生が「ガイドライン」を作ったら、きっと同じやりかたに収斂するような気がする

ジレンマが解消されて洗練が始まる

  • 恐らくは洗練というものは、 ジレンマが不可視化していく過程なのだと思う
  • 最初の段階、大きなジレンマが解消されたあとは、そのゲームは、外野からは地獄の匍匐前進競争にしか見えなくなる。その状況は、 最前線で頑張っている参加者にしてみれば、やっぱりそこに別のジレンマが見えている。ところがそれは、ゲームに参加していない素人からは 見えないものだから、参加者全員が同じ方向に、体力を削りながらじりじり進んでいるようにしかうつらない
  • 外野にしてみれば、最初のジレンマが解消されて以降のゲームは、理解できないからつまらない。その代わりたぶん、 ルールからジレンマが追放されて、多様なアイデアが、地獄の収斂を経て、競争が、腕力オンリーの匍蔔前進になったときからが、 その技術の本当の進歩が始まるのだと思う
  • 蒸気と電気とガソリンが競ってた昔の自動車業界は、フォードが「ガソリン車を大量生産して安価に供給」という 勝利方程式を生み出して、この方向に収斂した。「タイヤ4つのガソリン車」という意味では、T型フォードと最新のスカイラインGTR と、 本質的な差違はないけれど、走らせてみればもちろん、フォードはGTRに追いつけない

ゲームデザインの失敗は難易度で代償できない

  • ゲームのデザインと、ジレンマのデザインというのは等価であって、ジレンマが何らかの手段で解消されたり、 あるいはジレンマのデザインに失敗すると、もはやそれはゲームでなくなってしまう
  • ジレンマのないデザインに「難易度」を導入したところで、それはやっぱりゲームにならない
  • 「内科や外科から人が逃げていく」だとか、「東京に医師が集中する」という問題も、 これは「医師の進路決定」というゲームが、そもそもジレンマのデザインに失敗していて、 そこに「進路を変更するのが難しい」という難易度を加えることで、それを無理矢理「ゲームである」と宣言していたのが、 そもそもの問題だったのだと思う
  • 制度が変わって、進路の変更が容易になった結果として、そもそもジレンマを持たない、 ゲームとして成立していなかった「進路決定ゲーム」の解答が、一つの答えに収斂してしまったのが、たぶん現在の状況
  • 時計の針を戻したところで、状況は変わらない。やるべきは「難易度の付加」でなく、「ジレンマの再デザイン」なのだと思う
  • 具体的には、ベッドを持ってリスクをとらない限りは報酬が生まれないとか、各専門ごとに「リスク係数」を設けて、 リスクの低い科に進むと生活できないようにするとか。ここを「報奨金」みたいな形で解決しようとしても、たぶん失敗する

ジレンマの深度問題

  • 「ジレンマを上手にデザインすれば、ゲームに難易度は必要ない」という、任天堂ゲーム風の考えかたは分かりやすくて、たくさんの ユーザーを楽しませるのだろうけれど、その反対側を志向して、「最初から定番戦略を示して、 ことごとくのユーザーを極め競争に引きずり込む」やりかたをするのも、お金引っ張るいい方法なんだと思う
  • ルールの入り口にはジレンマがあって、それを解消してさらに頑張ると、もっと深いところに、また別のジレンマが見えてくる。 ルールの世界というのは、ちょうど「漏斗」みたいな格好をしていて、奥に行けば行くほどに、差違は小さくなっていくけれど、 奥は無限に深くなっていて、一度入り込むと、今度は引き返すのにものすごい勇気がいるようになる
  • 漏斗上のルール世界を想定して、「どの深度で勝負をすべきか」を考えないといけないんだと思う。漏斗の入り口で勝負するなら、分かりやすいジレンマを設計しないといけないし、深いところで勝負するなら、参加者のアイデアよりも、むしろ「作業」や「仕事」を強調して、投じたコストがそのまま参加者の利得として跳ね返ってくるようなルールをデザインしたほうがいいのかもしれない
  • 自分のいる場所だとか、援用している技術の「ジレンマ深度」を知っておいたほうがいいんだと思う
  • たとえば自分は「内科診断」という、ジレンマ深度の浅いゲームで遊んでいて、「症状->病歴->診察->検査->診断」という定番のやりかたに対して、「症状->検査->診断->確認のために診察」というやりかたを提案している
  • この論拠になっているのは「検査が洗練されている」ことであって、CTを作っているエンジニアだとか、検査機器を改良している技術者の人たちだとか、あの人たちはたぶん、地獄みたいな洗練競争、ジレンマ深度の極めて深いところで頑張っている。だからこそ「洗練」と「進歩」が期待できて、自分みたいな技術の素人は、こうした技術に寄りかかることで、ジレンマ深度の浅いところで遊んでいられる
  • このへんを逆にして、「ジレンマ深度の浅い」技術に寄っかかりながら「ジレンマ深度の深い」場所で何かをしようとすると、自分とは全然違う世界のワンアイデアで、10年積み重ねてきた何かが容易に吹き飛ぶから、気をつけないといけない

2009.02.28

ユーザーは狭く見る

Google の新しいブラウザ 「Chrome 」を使った感想。

Chrome は速く感じる

今まで使っていて、なんの不便も感じていなかった Sleipnir が、どうにも調子が悪い。 中で動いているIE8 の問題なんだろうけれど、 blog の更新だとか、コメント欄の管理だとか、エラーが頻発する。

いい機会なので、常用するブラウザを、Google Chrome に変更したんだけれど、これはたしかに速く感じる。

自分には、技術的なことは何一つ分からないし、普段見ているページのほとんどは、 文字しかないようなページばっかりだから、ブラウザの本当の速さ、 内部処理の速さだとか、実装のすばらしさだとか、そういうのは全然分からないんだけれど、 素人がちょっとさわってもびっくりするぐらい、Chrome は速く「感じる」。

このブラウザは、ユーザーへの「速さの見せかた」に、気を遣ってデザインされている気がする。

Sleipnir にしても、Firefox にしても、タブブラウザを使う人たちは、いちいちページを開いたりしない。 「お気に入り」をフォルダごとクリックして、タブを一度に20も30も開く使いかたをする。 フォルダを開くと、タブが一気に開いて、タブの横には、進捗状況が棒グラフで図示されて、ちょっと待つとタブを開けて、 それぞれのページを閲覧できる。

Sleipnir だとかFirefox は、ユーザに対して「正直」であることを優先して、デザインされている気がする。 進捗状況は正確だし、ブラウザが一生懸命動いているのはよく分かるんだけれど、 リンク先のページが、ある程度「見られる」状態になるまではタブを開けない。 それはほんの1秒か、その半分ぐらいのことなのに、たしかに「待つ」感覚がある。

Chrome はたぶん、そういう意味では嘘をついている。

タブをまとめて30ぐらい開いても、Chrome のタブは、あたかも「いつでもどうぞ」みたいなアイコンを出す。 開いてみれば、そのページはまだ空っぽなんだけれど、Chrome はそれでも、タブを開ける。

ダウンロードが終わるまでのほんの数秒間、Chrome は、その間にもユーザーにできることがあって、 それがなんだか、すごく速いブラウザをさわっている気分にさせてくれる。

「使える奴」の動きかた

何かをお願いしたあと、たぶんたいていの上司は、その人が視界から消えるまでの時間でもって、 その人の「使える度」を判断する。

問題解決のプロセスは、上司からは見えない。見えないものは、評価できないし、評価の対象にはされない。

「まじめなグズ」は、まじめだから、上司がいる目の前で、問題の検討を行って、分からないことは、目の前の上司に尋ねる。 やりかたは正しいんだけれど、「まじめなグズ」は、上司の視野からいつまでも立ち去らないから、ウスノロ扱いされてしまう。

「使える奴」は、問題の解きかたを知っていようが、知るまいが、問題を依頼されたその瞬間、ダッシュして、廊下の陰に隠れる。 上司の視界から身を隠しておいて、あらためて、問題の検討を行って、分からないことは、上司以外の誰かに尋ねる。 そのやりかたは効率悪くて、結果が帰ってくるまでの待ち時間は、「まじめなグズ」よりよっぽど長いのに。

「使える奴」は不真面目で嘘つきで、それなのに、あるいはだからこそ、上司から「使える」という評価を手に入れる。

Chrome というブラウザには、すごい内部構造とは別に、そんな「嘘つきの名人」が、 ユーザーの体験を設計している気がする。 速度感をユーザーに体感させるために、ブラウザには、あえて不自然な動作をさせてるような印象。

ごくごくわずかな差でしかないんだけれど、その「速さ」はたしかに気持ちがよくて、 しばらくはこれを使ってみようと思わせる。

同じGoogle が作っている「Gmail 」にも、そういうデザインがされているらしい。

Gmail は、普通のWebメールと違って、全てのメールが読み込まれてから表示される。メールの一覧が表示されるまで、 Gmail はわずかに待つけれど、そのときにはもう、全てのメールが読み込まれているから、 メールを一件一件開くときには、全く遅延がない。他のWeb メールは、最初にリストが読み込まれて、 メールを開くためにクリックすると、メールをサーバーまで取りに行くから、ごくわずか、待たされる。 コンマ数秒の、わずかな差なんだけれど、けっこう大きい。

Gmail のやりかたは、最初にリストだけ読み込んで表示する、もっと常識的なやりかたに比べれば、 ユーザーの待ち時間はむしろ長いのに、ユーザーは、立ち上がるのが遅いメーラーソフトで、 一覧が表示されるまでに「待つ」ことには慣れているから、そこはそれほど気にならない。

Gmail は、メールをクリックしてから、それが開くまでの時間を最小化することに特化されていて、 それが「軽快さ」という感覚につながっているのだという。

名前がほしい

ゲームの業界には昔から、こういうユーザーを「欺く」ためのノウハウみたいなものを持った人が活躍できるらしい。

ゲームの要素技術は、現実にそれが正しいかどうかよりも、「正しいと感じられるかどうか」、 すなわち理論的整合性よりも心理的整合性をより強く要求されるのが常であり、 これはとりも直さず被験者の心理状態を操作するということである。 shi3zの日記

限界がある中で、正直にやったのでは、ユーザーの満足につながらない場合、 あるいは正直な競合者に対して、ユーザーを上手に「欺く」ことで、自らの強みにするやりかたというのは、 たぶん「センス」の一言で片付けられてしまうんだろうけれど、もったいないなと思う。

昔の内視鏡クリップは、手先の器用な助手が、いちいち装着しないといけなかった。2mm ぐらいの小さなパーツだから、 慣れないと難しいし、不器用だともっと難しい。

クリップの装着は、若手の技師さんとか、研修医の仕事だった。検査技師の仕事だとか、 あるいは研修医の技量の中で、「クリップ装着」なんて、それこそ直径2mm のクリップぐらいの価値しかないのに、 それは通過儀礼みたいなものだったから、「できる奴」と「使えない奴」は、クリップで選別された。

クリップをくっつけるのが下手な研修医は、実は内視鏡をやってみたら天才だったとしても、 「こいつは使えない」という先入観の中で、内視鏡を学ばないといけない。 たぶん「クリップ装着が下手」という理由で、内視鏡あきらめたり、内科自体が嫌になった人がいるような気がする。

今のクリップは、買ったら5円もしないような、プラスチックのさやの中に格納されていて、 素人が目をつぶってたって、ワンタッチでクリップがつけられる。クリップ装着なんて、 そもそもこの程度のものでしかないのは自明だったのに、当時はみんな、 「クリップ」こそがユーザー体験の全てだったから、人間は、それで判断された。

それが顧客であっても上司であっても、ユーザーから見える世界を測定して、 それを上手に欺くためのやりかたを、学問として名前をつけてほしいなと思う。

名前を持たない、実体のあいまいなものは、あいまいだからお金につながらないし、 あいまいだから、それが一人歩きすると、「クリップ一つで全人格否定」みたいな、 おかしな現象が起きてしまう。

Chrome の速さだとか、Gmail の軽さみたいな感覚を、もうすこしきれいに言語化できると、 幸せになれる人が多いと思うんだけれど。

2009.01.06

予想どおりに不合理

予想どおりに不合理 という本の抜き書き。「行動経済の本」とあったけれど、むしろ心理学とか、マーケティングの本だと思った。

「おとり」の効果

  • 選択枝に「おとり」を設定すると、特定の選択枝に、顧客を誘導することができる
  • 似たような製品が販売されていると、たいていの場合、中間価格の製品が選択される。 最初から、一番売りたい製品を「中間」に設定すると、それを売ることができる
  • 飲食店経営コンサルタントのノウハウ。価格の高い料理をメニューに加えると、たとえそれを注文する人がいなくても、 レストラン全体の収入が増える。たいていの人は、「次に高い」ものを注文するから
  • 誘導したい選択枝によく似ていて、それよりもわずかに劣る、「おとり」選択枝を加えることで、 誘導したい選択枝がより引き立つだけでなく、競合する選択枝よりも優れているように見せることができる

相対性

  • 「比較」されると、劣位に回った人間はそれを挽回しようと思う
  • アメリカの最高経営責任者の給与が公開されるようになってから、 彼らの給与は法外な水準にまで上昇した。「金持ちが大金持ちに嫉妬する時代」という表現が使われている
  • 全社員がお互いの給与を知ってしまったら、恐らくは一番の高給取りを除いて、 全ての社員が「自分の給料は安すぎる」と感じてしまう。こうした情報を公開することは、 その企業の息の根を止める可能性がある

「皆さんこれを買っていますよ」だとか、「お客さんぐらいの収入なら、これぐらいの品物でないと…」とか、 古典的なセールス技法は、だから有効なんだろう。 年齢だとか収入、あらゆる序列は、可視化のやりかたに適切な工夫を加えることで、対象を説得するための、 強力な武器として援用することができるはず。

無料の効果

  • 人は誰でも、「失うこと」に本能的な恐怖を抱く
  • 「失う」リスクがない、「無料」という価値は、だから単なる値引き以上の効果をもたらす
  • Amazon は、一定金額以上の本を購入すると、送料を「無料」にするサービスを行って、大成功した。 フランスの Amazon だけは、送料を無料にしないで、「1 フラン」に止めた。 わずか20円程度の金額にすぎないのに、フランスでは収益が伸びなかった
  • 2セントと1セントとの違いは小さいが、1セントとゼロとの違いは莫大になる。 値段ゼロは、単なる値引きではなく、むしろ全く別の価値と考えるべき。
  • 選択もまた、「失う」ことに対する恐れから自由になれない。私たちは、全ての選択枝を残しておくために、 同じように必死になる。必要以上に高性能のコンピューターや、無駄な保証のついたステレオは、だからこそよく売れる

たぶん「こんなことができますよ」よりも、「言うとおりにしないとこんなものを失いますよ」のほうが、 あるいは、「みんなこんなに得してるのに、あなたは損を選択するんですね」みたいなやりかたのほうが、 その人を強力に動かすんだろうと思う。

追記: 「無料」と同様、「無制限」もまた、同じような効果がありそう。「コピー100回可能」は無価値だけれど、 「コピー無制限」になると、それはとたんに、とてつもない価値を持ちうるみたいな。

社会規範と市場規範

  • 「愛情」のような、社会規範で回っている状況に、「キスは○○円」のような市場規範を持ち込んでしまうと、 人間関係を損ねる。一度この逸脱を生じてしまうと、関係を修復するのは難しい
  • イスラエルの託児所で、子供の迎えに遅れる親に対する罰金の効果が調査された。 罰金制度はうまく行かないばかりか、むしろ遅れる親を増やした
  • 罰金制度は数週間で撤廃され、「市場規範」は「社会規範」へと戻された。 親の意識は戻らなかった。罰金はなくなっているのに、 罰金ルールの時と同じように、遅刻する親が増える状態が続いた

社会規範は限界があるけれど安価で、市場規範で同程度のガバナンスを実現するためには、 たぶん想像以上に莫大なコストがかかる。今みたいな時代、コスト削減と士気の維持とを 両立させる手段として、不況の時こそ宗教団体の絡んだ会社が競争力を持つかもしれない。

「現金」の効果

  • 25年前、アメリカ人家庭の貯蓄率は、2桁台が標準だった。1994年でも、貯蓄率は5%あった。 2006年にはゼロ以下になり、貯蓄率はマイナス1%になった
  • 平均的なアメリカ人家族は、クレジットカードを6枚持っている。平均的な家族のカード負債額は9000ドル程度にのぼり、 7割の家庭が、食費や光熱費をクレジットカードの借金でまかなっている
  • MIT 学生寮の共用冷蔵庫に、コーラを6本 置いておいたら、72時間で全て持って行かれた。 このとき同様に、冷蔵庫の中に1ドル紙幣を6枚、 皿に載せて入れておいたが、こちらを持って行った学生は一人もいなかった
  • 企業は会計で不整をするし、役員は過去の日付に改ざんしたストックオプションを使う。こうした人達が、ならば誰かの小銭を 盗むような真似をするかと言えば、まずそんなことはありえない。不正行為は、現金から一歩離れたときにやりやすくなる
  • 現金を使わない取引には、必ず都合のいい正当化が見つかる。職場の鉛筆を失敬することも、 誰かの缶コーラをもらっていくことも、どれも「あとから返すつもりだった」だとか、もっともらし言い訳がたつ
  • 現金を使わない取引においては、自分を不正直な人間だと思うことなく、誰でも不正直になれる

本文中では、「だからこそ人は、自分の弱さに自覚的であるべき」なんて結論だった。 パチンコ屋さんの「玉」という代替貨幣だとか、環境保護みたいな「免罪符」に結びつけた、 「現金」を隠蔽する支払いの手段を見つけられれば、そのコミュニティは成功しやすい。

2008.12.09

「コンマ秒」の改善が人の振る舞いを変える

n-clickを1-clickにすると商売になる。1-clickを0-clickにすると革命になる。

待ち時間を短くすると、みんな「便利だ」なんて思うけれど、人の振る舞いは、そんなに変わらない。 短くなった待ち時間をさらに短く、「ゼロ」に向けた最後の最後、ごくわずかなその改良が、 しばしば人の振る舞いを一変させる。

YouTube がもたらしたもの

ライターの渡辺祐は、「アレってどんな曲だったかなあと思ったら即、YoutubeとiTunes Storeでリサーチします。 CDラックまで行かずとも調べ物ができるのが、締め切り前など特にありがたい」なんて、 YouTube 以降変化した、自らの振る舞いを語っている。

プロの評論家はもちろん、手元にオリジナルの音源を持っているのだろうし、 恐らくは自宅には、参考文献だとか音源だとかが山と積まれた書庫があって、 ちょっと歩けば膨大な資料に当たれるんだろうけれど、 インターネットとYouTube を利用すると、机から書庫に向かうまでのほんの数秒を節約できる。

YouTube のもたらしたものは、ほんの数秒の変化でしかないはずなのに、 「書庫を漁って何か書く」という、ステレオタイプとしての評論家の振る舞いは、 恐らくはその数秒によって、大きく変化したのだと思う。

「コンマ秒」の改善が行動を変える

google デスクトップサーチは、Ctrl キーを二連打するだけで、ネット検索を行うことが出来る。

このホットキーが提供するのは、たかだか2クリック分の節約。

ブラウザを立ち上げる手間を省くだけのことだけれど、自分についてはもはや、 「検索」といえばCtrl キーの連打であって、ブラウザを立ち上げて何かするという動作は、 目的が検索である限り、ほとんど行われなくなってしまった。

ソフトバンク携帯についてくる 「Yahoo! 」ボタンも、恐らくは似たような変容をもたらすんだろうなと思う。

ソフトバンク携帯の機能にこだわって購入した人だとか、あるいは料金プランに魅力を感じて購入した人なんかは、 ボタンを無視して好きな検索サイトを選ぶかもしれないし、あまつさえ、あのボタンを「邪魔だ」と感じるかもしれないけれど、 携帯電話にそこまでのこだわりを持たない、たぶん8 割ぐらいのユーザーは、検索といったら「Yahoo! 」ボタンを 押すことを刷り込まれていて、今さらもう、その行動は変えられない。

あのボタンを有料化する試みは、「蒔いた麦を刈り取る」やりかたとしては乱暴に過ぎるきらいがあるけれど、 たぶん多くの人達は、文句も言わずにYahoo! ボタンを押して、料金を支払う気がする。

「コンマ秒」の改善で変化した行動は、ときにはもはや、 それが為される以前のことを忘れてしまうぐらいの変化をその人にもたらして、 わずかな障害ぐらいでは、もう行動は元に戻らないだろうから。

わずかな改良は予想しにくい

1時間あった通勤時間が30分になったら、生活は相当便利になったと感じる。30分が10分になると、もっと便利になるだろうと思う。ところがたいていの人は、「10分が1分になる」なんて言われても、その世界が「すごく便利になる」とは考えない。

「1時間が30分」の変化は理解しやすいけれど、「10分が1分」によって起きる変化は予想しにくいし、 あるいはたいていは、「そこまでしなくてもいいよ」なんて思う。ところが最後のごくごくわずかな変化、 「1分 」の改良は、しばしばその人の生活スタイルを一変させて、生活には、 「通勤」という考えかたそれ自体がなくなってしまう。

田舎の病院で、ほとんど「住み込み」で働いていると、生活から通勤がなくなる。

「通勤時間ゼロ」に慣れると、忘れ物をしないように気をつけるだとか、 大事な書類を揃えておくとか、そういう感覚が無くなる。昼休みにはちょっと寝に帰れるし、 忘れ物しても、白衣を脱がずに取りに行ける。生活の中から「通勤」という、 後戻りの出来ないコンポーネントが完全に欠落して、社会復帰するのが大変だった。

恐らくは「革命」が起きるためには、最後のごくごくわずかな改良、「1をゼロ」に近づけていく 領域でのあと一歩が必要なのだけれど、その「わずか」は、1時間を10分にまで縮めてきた人にとっては、 しばしば誤差として認識されて、改良の手は、そこで止められてしまう。

世の中にはだから、「1時間を10分」にまで改良されたものがたくさんあるけれど、「10分を1分」、あるいは「1分が1秒」にまで突き詰められたものは少なくて、世の中にはたぶん、「革命」をおこす余地は、まだまだたくさんあるような気がする。

当たり前のものをゼロにする

会計をしなくてもいい売店が出来たら、生活が変わる気がする。

会員制にして、全ての商品にRFID タグを付けておいて、 お客さんはほしい品物を勝手に持ち帰って、会計は銀行で引き落とせるようなしくみ。

お客さんが、商品を思い思いに「万引き」しているような風景になるけれど、こういうスタイルになれてしまった顧客は、もう後戻り出来なくなるし、「会計」というものが生活から排除されると、恐らくは財布のひもがゆるむ気がする。

一番最初の「会員になる」部分がネックになるけれど、たとえば病院の売店がこのシステムになるならば、 患者さんの身分はみんな明らかだし、退院の時に「精算」できる。ホテルなんかも同じことが出来る。

あるいは「診察の要らない病院」。

「頭痛セット」とか「風邪薬」、「不眠セット」とか「胃薬」なんかを2週間分、とりあえず病院に来て、「眠剤下さい」なんて頼んだら、ごく簡単な問診のあと、とりあえず薬をくれるようなやりかた。歩いてくるような大多数の人はこれで十分なはずだし、 それに慣れた人達は、もしかしたら「病院で待つ」という、当たり前と受け止めていた動作それ自体に疑問を持つようになる。

そういう人が増えてくれば、もはや伝統的な外来診療、元気な人に、さもありがたそうに問診して、 2週間ごとに馬鹿高い受診料請求する、欺瞞的な商売モデルそれ自体を吹き飛ばせるかもしれない。

「待たなくていい料理屋さん」なら、世の中にはすでに、回転寿司とバイキング方式の食堂という、 画期的に成功したモデルがすでに存在している。病院が果たすべき役割のある部分は、 「回転寿司」方式でも、十分いけると思う。

世の中にはたぶん、「1分待つ」場面がたくさんあって、その1分はしばしば、 「しょうがない」とすら思われず、当然のものとして認識される。当たり前すぎて、 改良の意欲も湧かない、そんな1分を削る発想は、あるいは世の中一変させるチャンスなんだろうなと思う。

2008.11.15

政治家の作法について

大義を運用して、道義でもって対象を操作することが政治家の「アート」であって、 それを怠ったり、ましてや政策なんてものに頼るような人は、政治家になってはいけない。

阪南市立病院のこと

阪南市立病院で、2000 万円の報酬で働いていた医師が、 市長の交代に伴って、1200 万円への減額を提示されて、全員退職するらしい。

この事例は、もう全面的に市長が悪いよな、と思う。

前職を破って当選した今の市長が、きちんと「政治家」として振る舞っていれば、 恐らくは医師の確保と予算の削減と、両立できる目は十分あった。

「政治家」なら、まずはマスメディアを引き連れて、病院に乗り込んでいく。 医局にカメラを入れて、減額されたら辞めるかもしれない内科の医師がいる目の前で、 「私がだらしないせいで、来年度は1200 万円しか払えない。 市長としてあなた方の仕事には本当に感謝しているのだが、市にはお金がない」なんて、 カメラの前で土下座したり、涙の一つもこぼして見せれば、医師はもう辞められない。

頭を下げて大義を奪う

市長が「私の責任」を先に認めてしまうと、医師の進退は、「モラルの問題」に帰着させられる。

お金じゃない」なんて、通勤の足にフェラーリ買って、 雨の日には長靴代わりのレクサス使い捨てるような開業医ですら、間違いなくそうつぶやく建前は、 医師の振る舞いを強力に縛る。

「お金じゃない」の文脈で、市長が自ら頭を下げて、ここで医師が退職を表明すれば、 それは「要するにお金でした」なんて本音を、満天下にさらすことになってしまう。

医師は辞められなくなるし、辞めるとしたら、もう全国民敵に回すことになるから、 医師が所属する医局もまた、撤退を支持できなくなってしまう。

「医師の給与は高すぎると思っていた」なんて、市長がふんぞり返ったその時点で、大義は医師の側に来る。

新しい市長は、医師の仕事を今までの「6割掛け」でしか評価をしていないことを表明したわけだから、 医師は「我々の仕事が6割の評価なら、10割評価している人の下で働きたい」なんて、 「お金じゃない」大義の下に、自分の行動を自由に決められる。

ほんの少し、頭を前後に振ってみせるだけの行為を惜しんで、結果として「道義」を全て自分でかぶる形になって、 大切な「大義」を相手に譲る。

これは失政であって、大阪の人達は、市長の無為を叩くべきだと思う。

大義を守って道義を押しつける

政治というのは本来、相手の振る舞いを道義で縛りつつ、大義を自らのものとして守る、 言葉による格闘技術なのだと思う。

今回のケースなんて、「政治ゲーム」が開始されたその時点で、医師側は圧倒的に不利だったし、 実際問題、医師にできることなんて何一つ無かったのに、市長は一方的にゲームをしくじって、 結果として、医師が全員退職してしまった。

両親におもちゃをねだる小学生でも知ってそうな扇動の基本技法を、最近の偉い人は、 どうしたわけだか使おうとしない。「モラル」を口にした通産大臣も、医師を辞めさせた市長さんも。 振る舞いが「教科書どおり」なのは、「そのまんま東」と「橋下知事」ぐらいしかいない。

どうしてなのかよく分らない。それは「劣化」なのか。それとも何か、使えない理由があるのか。

扇動の技術というのは、そもそもが「無駄」な技術ではあるんだろうけれど、 無駄だから省いていいことと、それを知らなくてもいいこととは、全く違う。

医療の問題なんかは、気の利いた扇動者が一人でもその場にいれば、 自分達なんかは明日からでも、「誠意のある熱心な医師」として、 倒れるまで働かざるを得ない状況に追い込まれたって、全然おかしくないのに。

大臣の「モラルが足りない」発言は、なんかおかしい。

政治家にとってモラルというのは、「相手からの発露」を期待するのではなくて、 言葉の力で、相手を「モラルを発揮せざるを得ない場所」に追い込むことで、 強引に作り出して、利用されるもの。

モラルはだから、政治家なら自由に生み出すことができるし、時にはだから、「モラルがありすぎて」、 側近が自殺に追い込まれたりする。「モラルがない」なんて怒る政治家は、本来は自らの無能を恥じるべきであって、 なんで自分達が怒られないといけないのか、正直よく分らない。

挑戦者から厳しく攻められた将棋の羽生名人が、「君には挑戦者としての慎みが足りない」 なんて怒り出したら、みんな名人のことを笑うだろう。

朝三暮四を通用させる

「政策を作る」ことなんて、そもそも政治家の仕事にしてはいけない気がする。

国なんてなかった大昔、リーダーの役割は「鼓舞」であって、具体的なやりかた、政策に相当するものは、 リーダーに鼓舞された、方向だけを与えられた集団の、たまたま先頭に立った人が、場当たり的に生むものだった。

リーダーは、煽って示して押し出して、最前線が、押されて頑張る。成果を全て自分の功績にする人は独裁者だし、 成果を「みんなのもの」にして、リーダーがリーダーであり続けることを望むなら、民主主義が生まれる。

本当の政治家は、「朝三暮四」の、無意味なやりかたから、実体としての力を生み出す。

大義を振りかざした政治家が、頭を下げて握手して、にこやかにほほえみながらスピーチするだけで、 周りにいる人達には「道議」が発生して、「誠意のある人間」という立場に追い込まれて、 笑顔で倒れるまで働かざるを得なくなる。

そうするのが一番楽だからこそ、人は「そう思われる」ように振る舞おうとする。

どうせ汚職するだろうとか思われれば汚職に走るし、「画期的な国策を考える人達」なんて、 舞台のてっぺんに押し上げられれば、その人達は、嫌でも「すばらしい人」として振る舞う。 政治家というのは、「そう思われるありかた」を、対峙する全ての人に示せる人であるべきだし、 そういう技能を継承したり、身につけることができなかった人は、やっぱり政治の舞台に立ってはいけないような気がする。

2008.11.06

舞台装置がプラットフォームになる

大きくなりすぎた問題に対して発生するかもしれない無関心のお話し。

新大統領のこと

新しい大統領を警護する人達は、今頃頭抱えてるだろうな、とか想像する。

オバマ大統領が劇的な勝利を挙げて、「負けた」感覚を味わった人は、たぶんすごく多い。

勝ったのがマケイン候補だったなら、年老いた、たくさんの財産を持っている人が今さら勝ったところで、 マケイン候補に「負けた」と思う人は、そんなにいないはず。「ああまたか」と絶望する人は いるのだろうけれど、絶望は、怒りや怨嗟には結びつかない。

勝った人が受ける恨みの総和は、その人が追い抜いた人数に比例する。

若い人が勝てば、年老いた人は「負けた」と思うし、移民が勝てば、昔からその国にいる人達は、「負けた」と思う。 年齢が若い、移民の息子であるオバマ候補は、スタートの時点から極めて不利な条件を背負っていて、 それをひっくり返して大統領になれたのだから、きっとすごい人物なのだろうけれど、 あの人がここに来るまでに「追い越した」人数も、また多い。

若い大統領の誕生は、だからアメリカが大きく変わるかもしれないけれど、 それと同じぐらい、「変わりたくない」人達が、大統領を傷つけようなんて、 ろくでもない計画立ててそうな気がする。

対物ライフル時代の要人警護

アメリカ軍がイラクで使っている対物ライフルは、よく使われるもので口径12.7mm、 大きなものだと口径が25mmぐらいある。米軍はこれを使って、建物に隠れる相手を 建物ごと破壊したりだとか、装甲の薄い装甲車のエンジンを狙ったりだとか、活用しているらしい。

対物ライフルは強力で、1km ぐらい離れた距離でも普通に狙えるし、 それぐらい離れていても、当たった人が真っ二つになってしまうぐらいの威力があるんだという。

威力がありすぎて、本来それは、人間を狙って撃つことは禁じられているのだけれど、 アメリカ国内でも同じライフルが購入可能で、グアムあたりでお金を払えば、日本人の観光客にも撃たせてくれるらしい。

要人を傷つける目的でこういう銃が使われると、それを防ぐ側は、相当大変な思いをすることになる。

最近の対物ライフルは、有効射程 2000m、最大射程 2400m。動画サイトを探すと、 レポーターの人が普通に 2300m 狙って的に当ててた。この距離はちょうど、 「本気を出したゴルゴ13」と同じぐらい。

追記:そこまで強くはないよというコメントをいただきました。ありがとうございました。

漫画「ゴルゴ13」は、主人公が 2000m という人間に不可能な距離を狙撃できるのが前提。 ゴルゴに狙われて助かった人はほとんどいないし、「ゴルゴが来る」なんて 事前に分っていたところで、警察には、半径 2000m の円周を全てカバーすることなんて無理だから、 ゴルゴは止められない。

漫画でも実世界でも、恐らくはそんなに変わらなくて、ヘリコプターを使ったところで撃つ前の狙撃者は 見つからないし、たとえシークレットサービスが要人の四方を囲んだところで、対物ライフルは コンクリートの壁ぐらい簡単に貫いてしまうから、「人の壁」などあったところで、役に立たない。

大口径の銃が人間に向けられて、狙撃用途に使われたのは、フォークランド紛争が始まりらしい。 イギリスの兵士を迎え撃ったアルゼンチンの軍隊が、50口径の重機関銃に狙撃用のスコープを載せて、 相手の射程外から狙い撃ったのだという。

イギリスには当時、この射程をひっくり返せる武器が存在しなかったから、 相手を迎え撃つために対戦車ミサイルを発射して、相手の機銃陣地ごと吹き飛ばすことで、 やっと戦いになったのだという。

アメリカ国内で、「大口径の対物ライフル」と「対戦車ミサイル」との応酬が始まれば、 これはもうテロリストが逃げ出すぐらいの大惨事になってしまうから、 大統領を警護する側の人達は、もちろん対戦車ミサイルなんて使えない。

恐らくはアメリカで要人警護を行う人達は、こうした事態を何年も前から想定しているのだろうから、 オバマ大統領の警備というのは、たぶん今までの考えかたの延長では為されないような気がする。

銃の発射速度が向上して、結果として「騎馬突撃」という戦いの基本理念が意味を失って、 「塹壕戦」という、新しい考えかたが生まれたように、銃の威力や射程が伸びて、 本物のゴルゴ13みたいな人を仮想敵に想定しなくてはならなくなった現在のシークレットサービスは、 たぶん今までの延長ではありえない、新しい何かに変貌していく。

物語を作る人達

当事者でない「読者」を想定した物語を作る人達、作家であったり、 あるいは「画を作る」マスメディアの人達は、分かりやすいステレオタイプを大切にする。

「威力が増した」みたいな、連続的な変化は伝わりやすいけれど、対抗する側の、ある種の 断絶を伴った変化というのは分りにくいし、それを伝えたところで、たぶんたいていの読者は喜ばない。

これから「大統領暗殺」みたいな本が作られるとすれば、大統領を狙う側は、 躊躇なく対物ライフルを選ぶことになる。相手が選ぶ武器が決定したところで、 守る側もまた、拮抗する火力を持った武器を手にする必要があるけれど、 舞台が街中である以上、「正義」にそれをやらせるのは難しい。

守る側があまりにも不利な、こんな舞台設定で物語を作ると、狙撃者が「撃った」時点で大統領が倒れなければ嘘だから、 物語を盛り上げようと思ったら、作家の人たちは、守る側の「撃たせない」戦いを主軸にせざるを得なくなる。

物語を引っ張る主役は、「狙撃者」と「シークレットサービス」みたいな銃を持つ人達から、 「スポッター」と呼ばれる狙撃を補助する人、目標を探す「目」の役割を担う人々へとシフトしていく。

物語は情報戦になる。予測される大統領のルート設定を巡る情報戦だとか、 攻める側と守る側、お互いの土地勘だとか、気候や風、温度に対する感覚みたいなものが、 狙撃の成功を左右する。

物語には強力な銃が導入されて、結局それは、「人間の物語」へと回帰する。

舞台装置はプラットフォームになる

お互いが扱う武器の火力が「決定的」過ぎるとき、物語を盛り上げようと思ったら、 作家はもはや、その銃を撃てなくなってしまう。

銃撃戦が幕間に入る物語は、盛り上がる。威力の強い銃で銃撃戦が描写されると、もっと盛り上がる。 ところがある閾値を超えると、銃はもはや単なる舞台装置ではいられなくなって、 いつしか舞台それ自体になってしまう。

ゴルゴ13 は、頼まれた狙撃はほとんど100% 成功させる。ゴルゴの腕前はすごすぎて、 他の登場人物との釣り合いが取れなくなって、漫画「ゴルゴ13」は、ゴルゴ自身の物語から、 「ゴルゴ13というルール」を取り巻く人々の物語へと変貌した。ゴルゴはただのルールであって、 「体調悪くて的を外すゴルゴ」だとか、「誰かと喧嘩して技と的を外すゴルゴ」だとか、 人ならあり得るそんな情景は、もはや誰も想像しない。

社会のいろいろな問題点を「舞台装置」として用いながら、作家は物語を紡ぐ。

ところが作家の手に負えないぐらいに大きくなった問題は、 もはや物語の舞台装置ではいられなくなって、その問題をプラットフォームにした物語を紡ぐための、 舞台それ自体となって、観客から想像の余地を奪ってしまう。

救急医療の問題なんかが、下手するとそうなりそうな気がする。

毎日のように運ばれてくる患者さんは、これはもう間違いなく現実のものだから、 人が連続的に減っていく中、現場はそれでも頑張ってはいるんだけれど、 問題はなんだか大きくなる一方で、解決は見えない。

人が圧倒的に足りていない救急外来の問題が、どこかで作家の手に負えないぐらいに大きなものになってしまうと、 恐らくは救急の問題は、「問題」から「前提」へと変貌する。

前提になった問題は、視聴者に「そういうものだ」という、一種のあきらめを要請する。 産科とか、救急とか、マスメディアの人達がいろいろアイデア出して、それでも問題は大きくなる一方で、 彼らがどこかであきらめたとき、自分達が今抱えている問題は、もしかしたら全ての人から 見捨てられてしまう、そんなことを考える。

2008.10.28

嫉妬が生みだす公正な社会

田舎の常で、マイナーな漫画本だとか、ハヤカワのSFだとか、本屋さんにほとんど売ってない。

最近はだからAmazon ばっかりだけれど、発注かけて、題名検索して、実物手に入る前に海賊版が 見つかったりすると、なんか落ち込む。

海賊版は便利

特によく売れている漫画本は、発売されてから10日もすれば、たいていは世界の誰かが海賊版を作る。

漫画の題名と、よく知られているダウンロードサイトの名前と、検索ワードに両方入れて検索すると、 英語圏だとか中国だとか、たいていはどこかのサイトが引っかかってくる。

日本の漫画家が、漫画を書いて本を出す。

海外の誰かが、それを購入してスキャンして、ダウンロード可能な形で、アップローダーに上げる。

恐らくはどこかに、海外の「2ちゃんねる」みたいな掲示板があって、そういう人達が情報を交換して、 やっぱり海外の、別の誰かが「まとめサイト」みたいなものを作って、検索しやすい形で公開する。

場所によっては、すごく「親切」な作りになってる。

文章は読めないけれど、その漫画の題名の下には小さなサムネイル画像が何枚かあって、 恐らくは漫画の紹介文だとか、感想文だとか、細かく書いてある。文章の最後にはリンクが張ってあって、 そこからダウンロードサイトに飛ぶと、もうそのまま、海賊版のファイルがダウンロードできる。

「海賊版」は便利。中身は画像ファイルの集まりだから、好きなソフトで読むことができるし、保存も削除も自由にできる。

出版社にも、「ダウンロード版」を提供するところが増えたけれど、お金払うまで内容が全く 読めなかったり、お金払ってデータもらって、それを読むためには、その出版社でしか使えない、 お世辞にも出来がいいとは言えない電子ブックソフトをインストールしないといけなかったり。 自分で買ったデータなのに、保存する場所も自分で選べなかったりして、 せっかく電子化された情報なのに、なんだか実物の本よりも取り回しが悪い。

検索できること。あらゆる本が揃っていること。「まとめサイト」があって、同じような本が探せること。 今の「海賊版」は、Amazon よりもむしろサービスがいいぐらいで、どこにでも居ながらにして、 クリック一つで「実物」がダウンロードできる。

それはたしかに「違法」だけれど、「合法」側の分が悪すぎて、 これではたしかに、まじめにお金払う人は減る一方だよなと思う。

ゆるい絆の強い力

海賊行為をする人達は、スキャンする人、アップロードされたファイルを探す人、 サーバーを提供する人、様々な情報を見やすくまとめて公開する人、たぶんみんなバラバラに動いていながら、 それが何となく、検索エンジンを介したゆるいつながりを保っている。

「ゆるい共同体」は、結果として Amazon 以上の規模を持った「バーチャル書店」みたいなものを ネット上に作り上げているけれど、この組織には「頭」に相当する場所がないから、 今までの法律だとか、警察のやりかたでは潰せないし、たとえどこか一部を潰したところで、 個々の人達がやっていることは決して複雑なことではないから、需要がある限り、その機能は別の誰かが置換して、 海賊行為は無くならない。

「ヒトデ」のような、中枢神経を持たない生き物のような組織の典型で、こういう構造を持った組織は、 著作権を管理する人達がいくら強力に取り締まっても、たぶん問題は解決しない。

嫉妬でヒトデを退治する

「ヒトデはクモよりなぜ強い」という本には、こういう「ヒトデ」退治の方法として、 アメリカ先住民族のアパッチ族に、牛を与えるやりかたが紹介されていた。

スペインが南米を征服した昔、そのまま北に進んだスペイン軍は、アパッチ族に撃退された。

アパッチ族には「族長」の概念が希薄で、リーダーに相当する人は、その場の雰囲気で何となく決まっていたから、 スペイン軍が「頭」とおぼしき人物を倒しても、相手の勢いは乱れなかったのだという。「頭」を倒しても、 すぐに別の誰かがその場所に座って部族を率いたから、アパッチ族は負けることがなかったのだと。

北米に移り住んだアメリカ人は、アパッチ族を撃退するのに、相手に「牛」を贈与した。

牛は貴重な財産で、財産をもらった「頭のない組織」には、組織のリーダーになることに、 財産という実利が発生するようになった。財産の取り分を巡って、アパッチ族には いざこざが発生するようになって、結果として「頭」が生まれたアパッチ族は、 軍隊が与しやすい相手となって、アメリカ大陸の主導権は、白人が奪うことになったんだという。

合法違法を問わず、全ての「ダウンロード」にお金が発生する仕組みにしたら、面白いだろうなと思う。

これをやると、違法ダウンロードを許可しているアップローダー管理人だとか、 あるいは「まとめサイト」を運営している人達には、すごい財産が転がり込んでくる。

その一方で、漫画を購入してスキャンデータを作る人にはなんのお金も発生しないし、 今まで無料の漫画を楽しんできたユーザーは、今度はまとめサイト管理人にお金を支払わないといけなくなる。

恐らくは「バーチャル巨大企業」と化していたゆるい共同体には、嫉妬心が生まれる。

大金を手にして笑いが止らない人達を見て、まじめに(?) スキャンしていた人達は、 バカらしくなってデータを上げなくなってしまうだろうし、 どうせお金を払うのならば、ユーザーはたぶん、「ずるく儲けている奴ら」よりは、 たぶん漫画の原作者を探して、そこにお金を払いたいと思うようになる。

結果としてたぶん、漫画をスキャンしていた人は、単なる漫画好きの読者に戻って、 海賊版をダウンロードしていたユーザーは、原作者から直接漫画を購入して、 「ずるい」中間層には、データもお金も入ってこなくなる。

この人達がもう一度、いい思いをしようと思ったら、今度は自分で漫画を購入して、 自分でスキャンして、有償配信を行わないといけない。 これはもう、単なる犯罪だから、今までどおりの法律で容易に取り締まることができる。

ユーザーの知能化が公正を生む

「ずるい」人達に罰を与える代わりに、彼らに財産を与えて大笑いさせることで、 共同体に嫉妬心を育てて、結果として、無難な状態としての「フェアな世界」を作り出す。

恐らくは「支払い」という行為をユーザーに強要することで、ユーザーには「頭を使う理由」が発生して、 そのときたぶん、自分がお金を受け取る理由をきちんと説明できない人達は、共同体から追われてしまう。

こうしたやりかたは案外有効だと思うんだけれど、恐らくはたぶん、最初のひと転がり、 「ずるい奴らが大笑い」を我慢することができない、あるいは、「ユーザーに知能化してもらっては困る」、 著作権を守る側の嫉妬心が、こうしたやりかたを阻害してしまうんだろうなと思う。

Next »