2011.11.12

丈夫なシステムについて

大学病院に入局した昔、田舎の電源事情は妙に悪くて、停電は日常だった。雷が落ちると病棟の電気が消えて、エレベーターに看護師さんが閉じ込められたり、大学のインフラは案外貧弱だったのだけれど、業務はあまり止まらなかった。非常用発電機の音を聞きながら、暗い病棟に殴り書きの伝票を持った研修医が走り回って、走らされるほうも、受け取るほうも、いい加減なシステムを回すのはきっと大変だったのだろうけれど。

きっちりやると脆くなる

震災直後の停電で、近隣の基幹病院は、病院の機能全てがダウンした。

電子カルテや画像診断装置が動かなくなるのはもちろん、薬剤を処方しようにもオーダーは出せないし、記録を残そうにもPCが動かない。救急外来の機能は止まって、救急車を受けることはもちろんできなくなって、調理室が上の階にあったから、入院患者さんに食事を配膳するのも大変だったのだと。

新しい施設は電子化が行き届いていて、動線は短く、働いていて効率がいい。昔ながらの紙伝票、増改築を繰り返した古い施設は、普段走り回っていて不便なことこの上ないけれど、紙の伝票は停電しても使えたし、改築を重ねた結果としてフロアをつなぐ階段がやたらと多い当院では、エレベーターが動かなって以降、人が動く階段と、病棟への食事配膳に使う階段と、それぞれ専用の流れを割り当てることができた。

原始を電子で制御する

大学が電子化されて久しいけれど、集中治療室の業務については、紙を使った伝票システムになっていた。

電子オーダーはどうしても入力が面倒になる。末端部分である種の複雑さを引き受けることで、全体として情報の流れがスムーズになるのが電子化の利点だけれど、1日のうちにオーダーがどんどん変わる集中治療室で複雑さを引き受けてしまうと、業務が止まる。電子の苦手な上の先生がたが文句を言い続けた成果なのだろうけれど、集中治療室では部屋の中だけ紙で回して、結局研修医が「電子化」することで外部システムとの整合を取っていた。

あのやりかたは研修医の評判が悪かったけれど、今回の停電にしても、たぶん集中治療室だけは業務が止まらなかったのではないかと思う。

機能の独立性は大切

つい最近、電気工事のクレーン車が電線を切ってしまったとかで、わずかな時間、予告無しの停電が発生した。結果としてこのとき、当院では画像配信システムが機能停止して、近隣基幹病院では、例によって全機能が停止した。

電源が復活すれば、PCを再起動すればいいのだけれど、個体のPCを立ち上げるのと、ネットワーク全てを再起動するのとではわけが違うらしくて、電源は復活しても、メーカーの人が来てくれるまで、システムは復帰しなかった。配信システムは止まったけれど、CTやMRI自体は動かすことができたから、画像配信システムを使わずに、放射線室まで画像を直接見に行けば、業務を回すことはできた。

レントゲンと言えばフィルム撮影だった昔、レントゲン室は写真を撮って、それを現像して配信するところまでがひとかたまりの機能として独立していた。今もまだ、他院に患者さんを紹介する際にはフィルムを現像する必要があって、そのための設備には画像モニターがついていて、ネットワークが落ちたときにはそれが役に立った。

昔ながらのやりかたは、レントゲン室でフィルムに焼いた画像を技師さんが外来まで持ってきてくれるのだけれど、画像配信システムは、画像閲覧の機能を外来の机に持ち込むことになる。画像はきれいで、撮影したその瞬間に閲覧が可能になるけれど、レントゲン室と外来と、お互いの依存が強まってしまう。普段はそれが長所になるけれど、外乱に対する備えを考える際には、依存は少ない方が安全になる。

丈夫さと効率について

外乱に対して頑丈な、ダメージ相応に機能を減じつつ、それでも止まらずなんとかまわるシステムには、たぶんいくつかの共通事項がある。

各機能はそれぞれ外に対して閉じて独立で、それぞれの機能単位は、動作が見込める限りにおいて穏やかに結合していることが望ましい。「結合」をになっていたのは、昔だったら伝票を持った人間で、今だとそれが電子になるけれど、電子が生み出す結合は強力に過ぎて、外乱に対してまだまだ弱い。

機構は原始的に、制御は近代的に、系は時代を内包することが望ましい。昔ながらの原始的なやりかたに、皮だけ新しい制御を被せるやりかたはみっともなくて、最新の制御系で機構から作り直したくもなるけれど、こうした無様さは、しばしば外乱に対する安定に結びつく。時代を切り戻せるシステムは、何かの原因で最新の制御系が落ちたとき、暫定的に昔のやりかたに戻すことで、システムを止めずに当座をしのげる。うちの施設にしても、会計処理こそ全てPCだけれど、伝票は紙だったから、停電したときには記録だけ紙に残して、会計は全て後回しでどうにか業務を止めずに済んだ。

こういうやりかたは間違いなく効率を下げて、世の中を競争で回す限りは真っ先に削除されてしまう。「止まりにくさ」の測定はできないし、「今動いていること」は、「止まらないこと」の保証にならない。基準がないから、世の中のシステムはどんどん脆く、落ちたときの被害はむしろ大きくなっていく。

「この業務に必要なロバストネス」を、ルールを作る側の人たちは定義してほしいなと思う。

2011.06.08

タスクの階層化について

Google が提供しているToDo のサービスが、個々のToDo を階層化して管理できることに気がついてから、けっこう便利に使っている。

単純なリストを並べるのと、それを階層化するのとでは、ことにToDo リストにおいては意味合いが大きく異なってくる。階層構造にすることで、単なるメモ書きが、何かの目標を達成するための行動計画になったり、あるいはこれからさきの目標を考えるための道具として応用できたりもする。

具体的には「ゴール」と「目標」、さらに「行動計画」の3段階に、ToDoリストを階層化することで、「こんなことがやりたいな」という漠然とした願望を、具体的な手順のリストで記述することができる。

ゴールは大切

何かを達成しようと考えたときには、まずは大ざっぱにどんな方向に向かえばいいのか、ゴールとなる何かを、一言で記述する必要がある。

目につく仕事は無数にあって、優先順位はしばしば付けにくい。そもそも自分はどんなことがやりたくて、限られた時間をどの方向に振り向ければいいのか、ゴールというものは、そうした序列の根拠になってくる。

目標は計測できなくてはいけない

ToDo リストにどれだけ壮大なゴールを並べても、それはまだ、「こんなことができたらいいな」という願望でしかない。

ゴールに向かって状況を前に進めるためには、具体的な、なおかつ数字として計測可能な目標が必要になってくる。

たとえばきれいな部屋に住みたい、快適な生活をしたいというゴールを定めて、「部屋を片付ける」という目標をToDo リストの下位に書き込んでも、それが実現される日は来ない。「片付ける」は願望であって、どうなったら片付いたと言えるのか、何から手を付ければ効率的なのか、計測できない願望を目標に定めてしまうと、人は動けない。

「片付いた部屋」の代わりに、たとえば「床に本が散らばっていない」とか、「机の上には何もない」とか、数字で表現できる状態を目標にすると、現状と目標との隔たりが計測できる。それを実現するためには今度は何が必要で、それをどこから調達してくればいいのか、やるべきことが見えてくるから、今度はそれを行動のリストとして、目標の下位に記述すれば、実際に行うべきToDo リストができあがる。

どこから書いてもいい

ゴールとなる願望、「きれいな部屋」とか「快適な生活」みたいなものをまず夢想して、その風景をなるべく具体的に想像することで、達成すべき目標が生まれる。「床には本が無い」とか、「机の上にたまった書類は電子化してゼロにする」とか、具体的な目標が定まれば、そこに到達するための行動が決まる。

ノートでToDo を階層化する際には、大きな概念から作って行かないとページが埋まらないけれど、PC上でこれをやる際には、どこから手を付けても格好がつく。

ゴールが見えない現状であっても、とりあえず目について、片付けるべき何かというのはいくらだってあるから、まずはそれを行動リストに記入する。それを片付けた結果としてどういう状態が生まれ、それは結果として自分自身に何をもたらすのか、「行動」から「目標」が定まり、それが積み重なってある「ゴール」へと到達するような考えかたをしても、PCだったら簡単に階層をずらせるから、便利に使える。

けっこう大きなゴールから、身近なゴールまで、ゴールごとに目標と、その目標ごとに行動計画と、たかだか3段階のブレークダウンでも、けっこう大きなゴールへの行動計画が割合具体的に記述できて、行動リストは手持ちのスマートホンと容易に連携することができる。

目標を達成するためにどんな行動が必要なのか、逆に、漠然と片付けていた個々のタスクが、最終的にどんなものを生み出せる可能性があるのか、まめにToDo リストを作るとけっこう効率が上がると思う。

2011.04.14

多勢を使いこなせる人

専門家と呼ばれる人は、「効率よく弱いものいじめができる人」でなくてはいけないのだと思う。

対峙した問題に対して、投じる物量は少ないに超したことはないけれど、少ない物量で問題に当たることは、もしかしたら専門家でなくてもできる。

物量が不足していると、問題の解決は、一定の割合で失敗する。失敗した人は、誰もが「もっと物量があれば」と嘆息するのだけれど、じゃあ実際に充分な物量が与えられたとして、素人はたぶん、その物量を持て余してしまう。ガバナンスのコストは、組織の大きさに比例する。プロを名乗るなら、物量をきちんと御して、問題を容易に解いてみせないといけない。

道場では卑怯なやりかたを習わない

1 対1 の状況、個人の技量でぎりぎり手を出せる問題に挑むような領域で活躍するのは、プロよりもむしろ、「プロに迫るアマチュア」の得意とするところなのだと思う。こういう状況だと、個人として強い人が強いから、「趣味としての鍛錬」が、時として専門家の技量を超える。

武道では、個人を鍛錬することが求められる。個人と個人、あるいは個人が多数を相手にしたときの戦いかたも、教わる機会があるかもしれない。ところがたいていの「道場」では、多数で少数を攻めるような戦いかたというものは「卑怯」だから、教えられない。

多数の相手に少数で挑むのはかっこいい。無勢に対して多勢で挑んで、なおかつ危なげなく勝ってみせるのは、見た目からして卑怯だし、勝って当たり前だから、つまらない。つまらないことは、教えるほうだってつまらないから、鍛練をどれだけ積んでも、「卑怯なやりかたで当たり前に勝てる」専門家というものは、道場からは生まれてこない。

多勢の使いかたを教えてほしい

多勢を頼めば、勝つことは当たり前になる。ところがたぶん、その当たり前ができる人とそうでない人とが明らかにいて、たくさんの人で協力して、当たり前のように勝ってみせるためにはそのための訓練がいる。そうした訓練を積んでいるのが専門家だし、普段から、そうした状況で危なげなく勝てる方法をきちんと考えている人がプロなのだと思う。

医学部という場所は、病気に対してどこか「騎士道精神」のような立場を取っているところがあって、研修医がたくさんの検査を出せば「馬鹿」と怒られるし、より少ない検査で、少ないヒントから診断にたどり着ける人が「名人」だとほめられる。たくさんの検査を出せば、診断にたどり着けることは「当たり前」のはずなのだけれど、当たり前を再現するのにだって方法論は必要で、学校でそれを教わる機会は少ない。

武道や戦争みたいなものだけでなく、様々な状況、様々な業界に、物量に相当する何かというものがある。物量なしで何とか成功してみせることよりも、むしろ物量があって言い訳できない状況で、つまらなく、危なげなく成功できる技量を持った人が専門家なのだと思うし、専門家を養成する学校には、是非ともそういう技量を教えてほしいなと思う。

2011.03.01

炊事のロジスティクス

大学時代の6年間、そもそも外食できるところがない田舎だったから、ずっと自炊をしていたけれど、今から思うと、あれは自炊ができていたとは言えなかった。

冷蔵庫にあるものを眺めて、とりあえず食べられる何かを作る、あるいは料理の本を眺めて、材料を揃えて何かを作ることならば、当時の自分にだってできていた。ところが気がついたら冷蔵庫は空っぽだったり、料理の本を眺めて、材料をそれから買い出しに行く必要があったり、そうした遠回りは、6年間変えられなかった。

「できる」の深度

そこにある材料で、一人分のご飯を作れる人は珍しくない。1年間を通じて、そこそこバランスのとれた食事を作れるだけの材料を、常に「そこ」に準備しておける人はほとんどいない。

手段が容易であることは、運用が容易であることを意味しない。手段にどれだけ通じたところで、運用の考えかたは、もしかしたら出てこない。

映画では、スタローンやシュワルツェネッガーみたいな無敵の兵士が大活躍する。主人公はたいてい、その場の戦闘に勝つけれど、その勝利はしばしば、国家レベルの問題解決に結びつかない。

「戦術」の問題と、「戦略」や「兵站」の問題は、あらゆる場面に存在していて、特に兵站を語れる人は、そんなに多くない。

運用を販売する人

手段を売る商売と、運用を売る商売とがあって、同じ業界であっても、お互いは共存できる。

料理の本は、手段を販売している。本を読むことで、その料理を再現することができるようになるけれど、料理の本は運用を提供しない。料理が再現できたとして、運用を知らない人が本の通りに作ろうものなら、もしかしたら冷蔵庫の中身は、余った食材で一杯になってしまう。「男の料理」がしばしば歓迎されないのは、「男」が片付けのことを考えなかったり、無駄に豪華な食材を買ってきたりすることが迷惑なのはもちろんだけれど、別の誰かが台所に介入することで、今まで保たれていたリズムのようなものが乱されて、それを立て直すのも大変だからなんだろうと思う。

食べ物屋さんは、料理を販売しているようでいて、実際には運用を販売している。冷蔵庫が空になった日であったり、あるいは自炊に疲れた日であったり、一定のタイミングで外食を導入すると、運用の破綻が回避できる。「外食の方が結局安いよね」なんて、自炊に慣れない学生はしばしばつぶやく。慣れない運用に疲弊して、運用を外から購入することで、「結局安い」という体感が得られる。

運用を本にしてほしい

料理の本と料理屋さんとは、お互いに料理という業界にあって、勝負している次元が違う。料理の本がどれだけ売れたところで、料理屋さんを利用する人は変わらない。

料理屋さんを経営している人たちが迷惑するような料理の本があったとしたら、それはたくさんの料理が掲載されている本ではなくて、自炊生活の運用を解説する本なのだと思う。

自炊の問題も、戦術要素、戦略要素、兵站要素といった段階がある。料理の上手な人はたくさんいるし、料理の記事、「戦術」レベルで自炊を語った記事を書く人はたくさんいるけれど、「戦略」レベルの料理記事みたいなものをもっと読んでみたいなと思う。豚肉だったら、肉の塊を買ったとして、どうやってそれを保存して、どうやって使い切ると飽きずに食べられるのか、それをやるには他にどんな材料が必要で、どのタイミングで買い出しに行けばいいのか。何かの調理器具を買ったとして、「買いました、便利です」でなく、それを購入することで、日常の生活サイクルがどう変わり、何が便利になって、どんな手入れが大事になってくるのか。

軍隊という組織は、現場レベルであがれる上限と、将官レベルの最低ラインとが厳密に区別されていて、「現場たたき上げ」の誰かが将軍になることは少ないし、階級が上がっていく過程で、どこかで一度学校に入り直さないと、そこから先の階段を上れない。

戦略や兵站は、戦術の延長線上には存在しない考えかたで、だからこそたぶん、「大学生がひとり暮らしをはじめて、お金がなければ勝手に自炊が身につく」なんて考えかたや、「お金が足りなくて外食ができないのなら、自炊をすればいいのに」なんて考えかたは間違っている。運用の考えかたは、どれだけ必要に迫られたところで、たぶん習わないと身につかないから。

「自炊で1年間を乗り切っていく」ことは、恐らくは相当に高度な知的作業であって、今日から1週間どんなものを食べ、それにはどんな材料が必要で、今日の買い物で何を買い、それをどう加工すれば一定期間の保存が利くのか、そのあたりを学ぶためには「クックパッド」では足りない気がする。

陸軍士官学校の教科書みたいな雰囲気の、「そもそも」論から説くような料理の本があったら、きっと役立つと思うのだけれど。

2010.08.31

約束志向について

恐らくは「最新の約束が最重要」というルールで、お客さんの問題を解決していくやりかたが、サービスとして、 顧客を最も快適にするのではないかと思う。

病棟移動のこと

ずいぶん元気になった患者さんがいて、過去に何回か入院した経験を持つ方で、この人から、 「なるべく早く、リハビリ棟に行かせて下さい」という要望があった。

医学的にももっともなお話で、たしかにリハビリ棟のほうが、床の段差も少なくて、歩きやすかったものだから、 病棟の移動を手配して、移動できたのは3日後だった。

病棟を移動するに当たっては、病棟どうしで引き継ぎを行わないといけないし、ベッドの数だとか、その日に勤務しているナースの 数だとか、お互いの事情というものがもちろんあって、思い立ったらすぐ、というわけにはなかなか行かない。

一方で、病棟を移動しなくても、患者さんに対するケアは同じように行えるし、リハビリ病棟よりも、 急性期病棟のほうが、医学的には手厚いケアができるから、移動を急ぐ理由は、たしかに病院側にはそんなに多くない。

で、ほんのちょっとしたずれが積み重なって、移動は3日間延びて、「医学的には」その3日間というものは、なんの問題もない3日間だったのだけれど、 患者さんにとってのその3日間は明確な「待ち時間」であって、トラブルにこそならなかったけれど、やっぱりずいぶん待った気がしたみたいだった。

iPhone は良くできている

今勤務している病院の医局には、iPhone とiPAD、Xperia とメガネケースと、たいていのスマートホンを誰かが持っていて、 自分は普段、DoCoMo のHT-03A という、Android の携帯電話を使っている。

時々触らせてもらう iPhoneは、押したらとにかく「押された」という反応を返すのが見事だと思う。

アンドロイド携帯だと、新しいのはそうでもないけれど、どこか画面をタップして、反応するまで、ごくわずかな遅延が入る。 この遅延はごくわずかなのに、反応がないから二度押しして、せっかく開いたアプリが、開いた瞬間に閉じてしまったりとか、 今でもよくやる。普段HT-03A だけ使っている分には、それをそこまで不便と感じないのだけれど、iPhone みたいな機械を 使わせてもらうと、快適さみたいなものが、はっきりとした違いとして感覚できる。

昔ながらの機械スイッチは、押したらボタンが沈む。押したという満足が、押した瞬間、すぐ手に返ってくる。 タッチパネルにはそれがないから、ボタンをタップした後、機械がそれを認識したのかどうかは、 目で見て確認するしかない(Desire は振動を返してくれるらしい)。

フィードバックの速さというのは、恐らくは快適さに直結するのだと思う。

約束志向インターフェース

  • 機械スイッチは、ボタンを押して、「押されたよ」というフィードバックがまず返って、それから「押したよ」という指令が、機械側に行く
  • タッチパネルだと、ボタンを押して、指示が機械に入って、機械が判断してから、「押されたよ」という反応を返す

動作として、より「正しい」のはタッチパネルのほうだけれど、人から見たとき、より「自然」に思えるのは機械スイッチのほうで、 こういう動作の流れを作り込むことで、快適性が増すんじゃないかと思う。

たとえばタッチパネルの外周2ドットぐらいに、見えない額縁をつくって、ボタンを押された、タップされたと機械が認識したら、 そこの色が一瞬変わるとか。OSの動作を書き換えなくても、「タップされたらとりあえず光と音を出す」だけのアプリを常駐させておいて、 他の動作は今までどおり、というやりかたでも、快適度が増す気がする。ユーザーを、単に騙してるだけのアプリだけれど、 上手に「騙す」ことというのは、恐らくは快適を生み出す上では、とても大切なことなんだと思う。

恐らくはサービスを受ける側の人は、「直近の約束」を、最も大切なものとして考える。

いくつかの問題があったとして、「重要なものから解決していく」やりかたと、「最初に以来のあったものから解決していく」やりかたと、 「最後に約束したものから解決していく」やりかたと、問題解決の序列には、だいたい3とおりが考えられるけれど、 そのやりかたが、たとえば「医学的に正しい」のかどうかはさておき、お客さんから見たときに、最も快適なやりかたは、 「最後の約束から最初に解決していく」順番なのではないかと思う。

約束を重ねていって、時系列に沿って解決を行っていくのではなく、上に重ねたら、重ねたものから順次解決していくほうが、恐らくは 満足度は上がる。時系列のほうが、まだしも正統なように思えるけれど、恐らく人は、約束を交わすと同時に、そのことを、すごい勢いで 忘れていく生き物でもある。

病院の待ち時間だとか、サービスのありかただとか、快適を演出する機械とか、問題解決の順番を工夫することで、 待ち時間から生み出される不快を減少させることができるような気がする。

2009.08.24

test

うちのわんこ

2009.01.27

もうすぐ家が建たなくなる

何となくだけれど、自分たちの業界では、もうすぐ「家が建たなくなる」予感がする。

業界からは、「いわゆる大工さん」がいなくなる。

煉瓦を積む専門家だとか、かんなをかける専門家はたくさん生まれるだろうし、 そうした「部分の専門家」の腕前は、おそらくは昔ながらの大工さん以上に優秀なんだけれど、 家は建たない。

「家建てる人」を目指している研修医は少ないか、もしかしたらみんな、「家を建てる」ことから逃げている。

部分の専門家

自分が昔習った病院は、「部分の専門家」を生み出す方針だった。

患者さんの方針は上司が決めて、研修医は、まずは手を動かす。

胸水のたまった肺炎の人が入院する。チェストチューブを入れるとか、 人工呼吸器をつなごうだとか、そういう決断は上司が行ってくれて、 研修医は上司の監督下に、手を動かす。

手が動くと、なんだか上手になったようで、やる気が出る。「一人前」になった気がする。

そればっかりやってると、「治る」というのは、部分を積んだ先に、いつの間にか降ってくる何かみたいに 思えてくる。目をつぶって、ひたすら目の前の「煉瓦」を積むことだけに没頭していると、 いつの間にか、そこに「家」ができあがるような。

もちろんそんなことをしても、できあがるのはせいぜい「壁」で、本当は、 指揮をする「大工」がいて、はじめて家が建つんだけれど、「煉瓦の専門家」だった自分には、 それが見えなかった。

震災の昔

「阪神大震災の時、若手が動けなくて大変だったんだよ」なんて、先輩の昔話を聞いたことがある。

自分がまだ学生だった昔、阪神大震災がおきて、当時の若手は大挙して、 現地の救急外来を回すために現地入りしたんだという。

みんな縫えるし切れるし薬も知ってるし、論文だって読む。「手を動かす」ことだったら、 たいてい何だってできるはずなのに、怪我した人を診て、その人が「治ったイメージ」を想像して、 そこまでの道筋をつける、そうした訓練をだれもうけていなかったものだから、 救急外来は最初の頃、まわらなかったんだという。

現地にはそれでも何人か、道筋をつけられるベテランがいて、もちろん現場は動いたのだけれど、 その人たちは「取り替え」が効かないものだから、交代できなくて、ずっと現場に張り付いていたのだと。

あと何年かして、ベテランが現場からいなくなると、このときの状況が再現されそうな気がして、けっこう怖い。

大学には大工さんがいた

神経内科をまわってた頃、大学から来た先生に、「どうしますか?」なんてやること尋ねて、 「この人は寝たきりで返すのがゴールになると思う」なんて返事を聞いて、ずいぶん驚いた。

自分は研修医だったから、予期していた返答は、とりあえずの点滴だとか、治療に使う薬だった。 当時の自分は自分は「治療」を見ていて、その人は、「治癒」、患者さんが退院するときの イメージを描いてた。そういう発想は、そのときの自分になかった。

昔の大学病院は、医局からの派遣でいろんな病院をまわる。当時は「臓器別」なんてハイカラな制度はなかったから、 循環器内科医も消化器疾患を診るし、外科医局には「外科しかいない関連病院」がたくさんあって、 外科の先生たちはたいてい、内科も診た。

知識がないからちゃんとできるわけないんだけれど、適当にやる。何とかする。日本中そうだった。

いい加減だけれど「何とかする」という訓練を積んで、昭和60年ぐらいまでの昔は、 それでもそれが許されたから、医師というのはみんな、「いわゆる大工さん」だった。

「大学のやりかたは根本的に間違ってる」なんて、自分が入った研修病院ではそう教わったけれど、 「いびつな専門家しかいない」はずだった大学病院の循環器内科医局は、 カテ屋さんなのに大腸カメラができたりして、自分なんかよりもよっぽどゼネラリスト揃いだった。

専門家が眉をひそめるような、いいかげんなやりかたであっても、とりあえず何とかして、治して帰す。 治癒のイメージを描く練習は、昔の「専門家」は、病院を問わず、当たり前のようにできていた。

そういう人は今、もう40代超えてて、みんなそろそろ開業したり、「次」を考えてる。 その人たちをみてショック受けた自分たちだって、臓器別の診療科制度が敷かれる以前を知っている最後の世代。

もうすぐ家が建たなくなる

「絵がうまくなる」ためには、とにかく何度も完成させることを繰り返すんだという。 「線を引く練習」だとか、「顔の輪郭描く練習」をいくら積んだところで効果がなくて、 きれいな絵を描くためには、とにかく完成させて、失敗して、落ち込んで、また次を完成させる、 それを繰り返すしかないんだと。

いい加減なやりかたであっても、とにかく完成させる練習を繰り返す、 昔ながらのやりかたは、うちの業界で続けるのは難しくて、 自分にはどうすればいいのか分からないし、処方箋を知っている人は、たぶんいないんだろうなと思う。

誰か患者さんが「家」を買おうと相談して、ひたすらに煉瓦を積んだ「壁」を売られる時代が、たぶんそこまで来ている。

支えのない壁は崩れてしまうんだけれど、文句を言ったら、 「私は煉瓦にベストを尽くしました。壁が崩れても、それは企画を持ち込んだあなたの責任です」なんて返答される。

うちの施設も人がいなくて、夜間の全科当直には、整形外科の先生方にも手伝っていただいて、 田舎の病院はようやく回る。

手広く内科の専門医を標榜する近所のクリニックは、それでも18時を過ぎた頃になると、 「貴院にての専門的ご加療をよろしくお願いします」だなんて、時間外の患者さんを紹介してくる。

「私は整形外科なので、せめて先生、最初の一晩だけでも、内科の指示をいただけませんか?」なんて、 当直の整形外科医は電話対応するんだけれど、応じてくれたことはないんだという。

2008.12.29

今年面白かった記事

アルファブロガー・アワード2008:ブログ記事大賞 に関連して。

自分の知らない世界

テレビゲームに関する文章。自分のテレビゲーム体験は高校生の頃までで、ゲームセンターには毎日のように 通っていたけれど、自宅には何もなかったし、結局今でも、ゲームに手を出す機会はすごく少ない。

リンク先に書かれていることは、だから自分の見知った世界とは全く関係のない話で、 実際問題、ジャーゴンだらけで、何が書かれているのか、部外者である自分には理解できない。

でも面白い。

自分が面白いと思っていることを誰かに伝えるときに、たぶん一番大切なことは、「面白がってみせる」ことなんだろうなと思う。

リンク先の文章は、読者に何かを紹介するための文章としては不親切で、 言葉の解説は為されないし、読んだところで、そもそもそれがどんなゲームなのか分からない。

分からないけれど、書いた人達が面白がっていることは分かりやすく伝わってきて、 自分もまた、その面白さを体験してみたいなと思う。

分かりやすさというのは、それを本当に面白がっている人が文章を書く限りにおいて、そんなに大切ではないのかなと思った。

コミュニケーションのこと

コミュニケーションというものに「勝ち負け」を想定すること自体、それはもう、 コミュニケーションとは違う何かなんだろうけれど、自分が昔から興味を持ってきたのは、 そんな「勝つ」ための方法論。

リンク先の方々は、もちろんそんなことを考えているわけではないんだろうけれど、 「勝ち」を志向したやりかたをあれこれ妄想するときに、参考になる視点をいただいた。

コミュニケーションというものは、大きな山の頂上に向かって、いろんな立場の人達が、 思い思いの方向から、自分なりの方法論で、登ろうとしているイメージ。

「登った」人達は、たしかにある種のコミュニケーションを記述することに成功しているのに、 その言葉はみんなバラバラで、比較できない。 自分もまた、その人が登った入り口とは、立っている位置が違うから、「こうすればいいんだよ」なんて 教わっても、そのとおりにやっただけでは、うまく行かない。

心理学者の人達は、そんな山を、遠くから眺めて解説しているイメージ。

彼らの言うことは、だからもっともなことが多いんだけれど、あの人達は山に登った分けじゃないから、 今ひとつ信じられない。

いろいろ試行錯誤を重ねながら、今年もたぶん、こんなことを続けるんだろうと思う。

新鮮な価値観

考えもしなかったことに出会うと、その考えかたに感染して、しばらくのあいだ、 書くことといったらその話題ばっかりになる。

自分が普段いる場所は、病院の奥の奥、「社会」なんて、 外来の窓からわずかに眺める程度にしか接点がない。同業者なんてみんなそんなものだから、 新しい視点をもらって、そこから自分達の仕事を振り返ると、実はおかしいところだとか、 こうすればいいんじゃないかとか、いろいろ妄想できて面白い。

新しい考えかたというのはその代わり、見たことがない分だけ、受け入れるのが不快というか、 そもそもそれに興味を持とうという考えかたすら浮かばなかったわけだから、滅多に出会うことはないんだけれど。

で、今年一番傷ついた記事

気をつけなきゃいけないな、と思った。

2008.12.16

若い人はご飯が遅い

外来もようやく一段落して、14時だとかその後半だとか、ずいぶん遅い時間になって、 アルバイトに来てくれている若い先生がたは、やっとお昼ご飯を食べに、医局に戻ってくる。

ベテラン勢、それでも自分が一番年下なんだけれど、この仕事をずいぶん長くやっている人達は、 たいていもっと忙しいのに、同じ時間帯にはほとんどの人が、もうご飯を食べ終わってる。

忙しいときにはまず飯を食え

研修医期間を過ごした病院には、そもそも昼休みという考えかたはなかった。

朝病院に来て、病棟で仕事して、後はもう1 日中バタバタとかけずり回って、 自分の手は今より圧倒的に効率悪くて、仕事の量も多かったけれど、 食事だけは、それでも3食、きちんと食べてた。

研修医になって最初の頃、先輩から「忙しくて何から手を付ければいいのか分らなくなったら、まず飯を食え」なんて習った。

「これから心肺蘇生の患者さんが入ります」なんて一報が入ったら、そのあとしばらくは、 もう他の仕事は一切出来なくなる。だからみんな、放送聞いたら真っ先に食堂に駆け込んだ。

病院には、「昼休み」とか、ましてや「ご飯の時間」なんてものは一切無くて、 病院は、「食事をする間もないほど忙しい」状態が常に続いていたけれど、 それでもみんな、ないはずの食事時間をどこかから調達して、3食きっちり食べていた。

機動歩兵が習うこと

小説「宇宙の戦士」の訓練風景にも、しばしばそんな描写が出てくる。

兵士は早朝にいきなり招集をかけられて、部隊長が、「今から行軍訓練を行う」なんて宣言する。

どこに行くだとか、どれぐらいの期間行軍するとか、情報は一切無いし、集まった訓練兵には、 食事や水といった物品は渡されない。

新兵は、何も分からないままに行軍を続けて、どこまで行ったら休むとか、何を達成したら食事が取れるとか、 もちろんそんなことは教えてもらえない。

行軍中、主人公が仲のいい上官に、「食事はいつ取れるのですか?」なんて尋ねると、 上官はニヤリとして、「俺は食堂からクッキーをくすねてきている。お前も食うか? 」なんて問い返される。

このとき主人公もまた、招集前に食堂に忍び込んで、ちゃんと自分の食べ物を盗んできている。

こんな訓練が行われた頃は、新兵も「軍隊のやりかた」を心得ていて、主人公以下、 行軍に参加した全ての兵士は、みんな思い思いの食料を「装備」して、 休憩だとか、食事の配給だとか、一切行われないまま、訓練はたしか、60時間ぐらい続けられてた。

不備なシステムと個人の技量

人間に食事が必要なのは当たり前なのに、それを最初から用意しない、 昔の研修病院だとか、SF だけれど軍隊だとか、こういう組織に共通するやりかたというのは、 不備なシステムに対峙したときでも、それを個人の技量で補えるようになるための、 やはり「訓練」の一環なのだろうなと思う。

病院組織が、昼休みとか、食事時間を最初から設定しておけば、 CPRコールがかかってから食堂に飛び込むだとか、「非常食」を自分の机に常備しておくだとか、 こんな生活の知恵みたいなノウハウは、必要なくなる。実際問題、今の研修制度はそのあたりが 整備されて、昔みたいな小細工をしなくても、みんなご飯を食べられる。

整った研修環境で育った今の人達は、その代わり、外来がちょっと忙しくなったりすると、 そこから食事時間をひねり出したりすることが難しいみたいで、悪い意味でまじめすぎて、 ときどき心配になる。

システムの不備はシステムを描いた人間の責任だけれど、 完璧なシステムは、たいていの場合構築不可能で、不備というものはだから、 その時になって初めて現れることが珍しくない。

人も時間も足りない現段階で、すでに医療のシステムは破綻していて、 それはもちろん、これから現場に出てくる若い人達には何の責任もないはずだけれど、 若い人達が現場の不備に対峙して、状況はしばしば、「出来ません」を許してくれない。

こういうのはどうしたって「昔はよかった」なんて昔語りになってしまうんだけれど、 「何とかする技術」というものを伝えられなくなった今の研修制度は、やっぱりどこか怖いなと思う。

2008.12.14

はてなからの写真貼り付け

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