「医療とコミュニケーション」第9 章 謝罪を行う

平成23年1月に刊行予定の新刊、レジデント初期研修用資料 医療とコミュニケーションについて の一部見本を公開します。

ここで公開した9章をはじめ、本文に相当する部分は、普段書いているblog と似たような文体になっています。機会がありましたら、手にとっていただければ幸いです。以下本文。

「医療の失敗」とされている事例の中では、おそらく「謝罪の失敗」が大きな割合を占めている。

謝罪というものは敗北宣言などではなく、事実と感情とを切り分けるための手段であると考えたほうがいい。主治医がそれを「道具である」と認識することで、謝罪が上手にできるようになる。

「主治医に非はない」ことは、謝罪をしない理由にはならない。謝罪というものは、「相手にとっての事実」と「それに関して生じた感情」に対して機械的に行われるものであって、客観的な事実はどうであったのかは、謝罪の行使について言えば、まったく関係がない。

 ●9.1 手段としての謝罪

病気というものはどうしても、主治医の思惑どおりに進まないものだから、病院で誰かとコミュニケーションをしていく中で、誰かに対して謝る機会は多い。一方で、医師はプライドが高いから、謝らなくてはいけないタイミングで、しばしば謝ることがためらわれて、結果として状況を悪くしてしまう。

謝罪は単なる道具~

「謝罪というのは弱さの現れ」であるという文化はやめたほうがいい[23]。「謝れる人は強い」という意見も同じぐらいに有害で、謝罪は手段であって、手段は中立でないといけない。

道具としての謝罪を使っていく上では、相手に怒られた状況というものを、「相手の勘違い」などではなく、常に「こちらの配慮不足」であると考えないといけない。「相手の理解が足りないから文句を言われた」のなら、それは理解の足りない相手を想定した対応ができなかった自分の非であって、だからこそ謝らないといけない。

タイミングが大事

謝るべきタイミングが来たら、行動は一刻を争う。衝撃力は、火力に比例して、スピードの2 乗に比例する[29]。相手の不快感は、遅延に2 乗して大きくなっていく。「自ら出向く」ことが大切で[23]、ほんの数歩であっても、相手に来てもらうのと、自分が歩くのとでは、印象がまったく異なってくる。

「謝意の表明」と「責任の表明」を分ける

謝罪することそれ自体は、相手の訴えを、事実として確定することにはつながらないy1[33]。「謝意の表明」と「責任の表明」とは分けて考えられるべきで、謝意の表明は一刻を争うけれど、責任の表明は、事実関係が明らかされて責任の所在がはっきりとしてから、初めて行われないといけない[41]。

謝罪することで、起きたことを「なかったことにする」ことはできない。その代わり、適切なタイミングで謝罪を行うことで、状況がそれ以上に悪化することを回避できるかもしれない[41]。

元検事は謝らなかった~

ある事件で、冤罪事件の元検事が、「謝らない」ことで、ずいぶん叩かれていたところを見た。

元検事の「謝らない」という選択は、たとえば何か、検察側に深謀遠慮があって、あえて今は謝罪を拒否しているということではなくて、あれはむしろ、検察の側に「謝罪を手続きとして折り込んだ交渉戦略」が用意されていなかったものだから、謝罪を決断するタイミングを逃してしまったように見えた。

謝罪は終わりという誤解

あの場所で、冤罪を有罪と断じられた人の不快感に対して一言謝ってみせたところで、それが決定的な証拠として、何かを不利にしてしまう可能性は低いだろうし、たとえば相手側の弁護士がそこで言質を取りに来ても、それを切り返すことは、そんなに難しくないy2。

謝罪という行為を、そこで「終わりである」と考えてしまうことは、交渉においては間違いなのだと思う。ある特定の状況においては、謝罪は単なる道具であって、交渉の終了を意味するものにはならないし、「謝ったらそれで終わり」なのだとしたら、おそらくは交渉の戦略を間違えている。

すべての情報を集積、評価した上で、最後に「万全の謝罪」を目指すのは悪手であって、問題が大きくなることが読めたなら、そうなるはるか手前の段階で、「小さな謝罪」を行わないといけない。そうすることで、交渉に消費される資源の量を抑えることができる。

手段として謝罪を運用するときには、緻密さよりも、むしろ決断の早さが大切で、それを適切に用いるためには、あらかじめ謝罪を折り込んだ戦略を作っておかないといけない。

謝罪の効果を引き出す~

戦争において、「攻撃」や「相手の破壊」は、到達すべき目標ではなく、状況をコントールするための手段に過ぎない[1]。戦争学でいうところの「攻撃」と「謝罪」とは、向きが違うだけで、まったく同じ考えかたで切られるカードなのだと思う。

謝罪のタイミングは難しい

謝罪のタイミングは難しい。たとえば「攻撃のタイミング」は、将軍の能力を決定する大事な要素で、それを学習、再現することが難しいから、名将と呼ばれた人には、「戦局眼」という神秘的で説明できないものが備わっていることになっている[29]。「戦局眼」は、偉大な将軍に欠かせない資質で「戦場にあって、一瞥にして有利、不利を見透かす偉大な才能」と説明されている[8]。

謝罪のタイミングを決定する能力というものも、あるいはそれに近いのだと思う。攻撃の達人である「戦局眼」を持った名将は、おそらくは謝罪の達人にもなれる。

伽藍の誤謬と戦局眼

情報を集めることは大切だけれど、状況をどれだけ正確に把握できたところで、正しいタイミングで判断が行えないのなら、集めた情報は無駄になってしまう。

2002 年、ペンタゴンは、冷戦終結以降、最大規模の軍事作戦演習を行った。イランへの攻撃を想定した、「ミレニアムチャレンジ」と名付けられたこの演習は、情報化、ネットワーク化の行き届いた、最新装備の米軍が無敵であることを証明するための演習だったはずなのに、時代おくれの装備を与えられた「仮想イラン」軍に、「仮想米軍」は歯がたたなかった。

ポール・ヴァン・ライパー退役中将が率いた「仮想イラン」軍は、ことごとく米軍の行く手を遮ることに成功した。ペルシャ湾岸に入った米艦隊は、イラン軍の自爆船、対艦巡航ミサイルによる攻撃を受け、米戦艦のほぼ半数が沈められるか、作戦遂行ができない状態に追い込まれた。これはパール・ハーバー以来の大失態だった。

『第1 感「最初の2 秒」の「なんとなく」が正しい』[39]

情報の伽藍に圧倒される

このエピソードの主役、ポール・ヴァン・ライパー退役海兵隊中将は、別のインタビューでこのことに触れて、「戦争において、情報は非常に便利だが、戦場で人を殺すのはいつだって弾丸だ」と語っていた。

情報収集の手段を手に入れた人はしばしば、「情報の伽藍」を作ろうと夢見てしまう。たくさんの材料が手に入って、壮大な伽藍を夢見て、設計して、それが完成するまでの間、道具であるはずの情報に圧倒されて、動けなくなる。

弾が撃てれば、人は殺せる。だから戦争で必要なのは、「弾を撃つための目標と、その根拠」がすべてであって、「戦場全体を見渡せること」それ自体は、便利だけれど、必ずしも必要なものとは言えない。

「雨をしのぎたい」と思ったなら、柱を立てて、とりあえず屋根をかければ、その掘っ立て小屋は、すでに十分役に立つ。伽藍に支配されてしまった人は、雨が降っているのに、伽藍は8 割方完成して、すでに居心地のいい大広間が出来上がっているのを目の前にして、「伽藍が未完成である」ことに圧倒されて、豪雨の中、無為に立ちすくんでしまう。

戦局眼は自分を見る目線

シミュレーションとはいえ、圧倒的な戦力差が想定されていた米国正規軍を打ち破ったライパー中将もまた、おそらくは戦局眼の持ち主なのだろうけれど、「戦局眼」というものは、「自分にできることとできないこととを正確に把握した上で、行動決定に必要なものだけを見る」ことができる目線のことなのだと思う。

「眼」という言葉で表現されるから、戦局眼はレーダーとか千里眼みたいな能力に思えるけれど、戦局眼を備えた人の目線というのは、たぶん半分以上が、外でなく、自分自身に向けられている。

意思決定の速度と制約~

自分たちにできることと、できないこととがきちんと把握できていなければ、行動を決断するのに、そもそも何を見ていいのか分からない。分からないなら、どれだけたくさんの情報を集めても、その人は行動できない。

「戦局眼を持った将軍」は、自身を把握する能力に長けていて、莫大な情報を前に、むしろ視界を限定することで、代わりに意思決定の速度を得ている。

「自分にできること」と、「それを決定するのに必要なこと」とを突きつめて理解している人が判断を行うと、意思決定が早すぎて、他者からは「一瞬」としか思えない。最初の一瞥で物事を判断できる戦局眼の逸話というのは、そういうことなのだと思う。

謝罪というものは本来、交渉の終結宣言などではなく、むしろ交渉を前に進めるための道具であって、それが道具である以上、使いこなすためには技術が必要で、技術に優れた人は「達人」と呼ばれる。

謝罪という手段を行使する上では、やはり意思決定の速度が大切になる。交渉の中にあって、「ここ」というタイミングですかさず小さな謝罪を切り出せる「謝罪の達人」は、おそらくは「戦局眼を持った将軍」と似たようなやりかたで、意思決定の速度を得ているのだと思う。

●9.2 正しい謝罪に必要なこと

質の高い情報がたくさん手に入る時代になったけれど、主治医が莫大な電子データベースにアクセスできたところで、そもそも自分に何が必要なのかを理解していないのならば、その場から動けない。

謝罪を決断するために必要な情報というのは、そんなには多くない。正しい謝罪のタイミングというものは、普段自分たちが考えているよりもずっと早い。

医療における謝罪~

「医療の謝罪」という話題に限定すると、患者さんから、あるいはご家族から「謝れ」と言われたときには、それがどれだけ理不尽であっても、謝罪のタイミングとしてはすでに遅すぎる。医学的な正当性が医療者側にあったとしても、相手から「謝れ」と言われるもっと早い段階で、「説明が下手」なことには謝罪すべきであったし、不満が発生した段階で、一言でも「ごめんなさい」と発音できていれば、そもそも「謝れ」と言われる状況は、発生しなかった。

怒りの対象となった事象が、医師側から見た「本質」と外れていても、それを指摘しないで、まずは謝罪しないといけない。

自分たちに瑕疵のないことは、謝罪をしなくてもいい理由にはならない。まずは謝意を表明して、事実関係を確認して状況に見通しが立った時点で、改めて「誤解に対する謝意」を表明するのが正しい。

部分を謝罪して感情を切り離す~

謝罪というものは、事実から感情を切り離すための刃物なのだと思う。

小さな謝罪を繰り返す

日本刀で手術はできない。外科医は小さな刃物を何十回も動かして、状況ごとにやりかたを変えながら、少しずつ手術を進める。交渉も同じで、いくつもの「小さな謝罪」を状況ごとに使い分けながら、事実から感情要素を切り離していく。

状況ごとのタイミングを見る

切るタイミングが遅すぎても、あるいは大きく切りすぎても、状況は悪くなる。その代わり、状況ごとの「正しいやりかた」というものは記述可能で、手術の手順書みたいに、訓練を通じて共有できる。

「部分の謝罪」という技術があるのだと思う。「全面的にごめんなさい」を行ってしまうと、患者さん側の選択肢として、病院から出ていく以外の道がなくなってしまう。

状況を「治癒」させるために謝罪を行おうと思ったならば、相手の抱いた感情に対する謝罪と、疑念や誤解を抱かせてしまったことに対する謝罪、医療行為の招いた結果に対する謝罪とを、それぞれ使い分けていかないといけない。

事実と見解とを分離する~

正しいタイミングで謝意を表明するためには、患者さんと主治医との間で事実が共有され、その事実に対する主治医の見解が表明されて、患者さんの側がどんな見解を持っているのか、主治医がそれを把握している必要がある。

訴訟になるような事例では、ご家族はしばしば、「事実が知りたい」というコメントを出す。その「事実」は、病院の側から見ると「ご家族がそう思いたかったこと」であることが多いのだけれど、ご家族の出した見解というものを病院側が否定してしまったり、あるいは病院側の見解を、あたかもすべての事実であるかのように押しつけたりしてしまうと、ご家族の見解が無視されてトラブルの原因になってしまう。

事実を共有する

事実をお互いに共有して、お互い相違する見解を並べることで、謝罪の基準と責任表明の基準は明確になる。

共有された事実に対して、ご家族が不満に思う場所があったのならば、その不満に対して病院側は謝意を表明すればいいし、ご家族の見解に、医学的に妥当でない部分があれば、病院側は説明の不足を謝罪して、見解の修正をお願いすればいい。病院側が示した見解の中で、ご家族の目から見て「医学的に妥当でない」部分があったのならば、事実関係を確認した上で、その瑕疵について謝罪と責任の表明を行えば、問題はそれ以上に大きくなることはない。

表明の基準を定める

謝罪において、「謝意の表明」と「責任の表明」とは区別される必要がある。どこまでが謝意でどこからが責任なのか、どの謝罪までが正当でどこから先が不当なのか、基準が定められることで、意思決定は加速する。

「事実と判断とを峻別する」ことは、チームで何かの仕事を行っていく上での基本だけれど、このルールというものは、患者さんに何かを説明するときにも、謝罪するときにも、あるいは法廷で原告側弁護士の質問に答えるときにも、徹底されないといけない。

常に状況をコントロールする~

心は絶対に読めない。読めないから、患者さんに何かの疑念が生まれる瞬間を読むためには、患者さんの疑念というものまで含めて、医療者側が状況をコントロールしていかないといけない。

具体的に何をすればいいかと言えば、それはお互いに同じ事実を共有することと、主治医の見解を分かりやすい物語として表明することなのだと思う。

ゆがみのない事実を「中継」する

ゆがみのない事実を伝えて、それに対する自らの見解を「実況中継」することで、患者さんが現在抱えている問題に対して、医師はどんな鑑別診断を考え、それに対してどんな検査プランを作り、何を行うつもりでいるのか、お互いに意思を共有することができる。

事実のアナウンスを行うこと、「予期」だとか、「失敗したその先」を見解の中に折り込むことで、予期したとおりに物事が動いていないとき、患者さんに疑念が発生するタイミングを読むことができるようになって、発生した疑念に対して適切なタイミングで謝罪をすることができる。

これはあざといやりかたなのだけれど、この「あざとさ」を実現するためには、主治医は検査プランや治療プランをきちんと作る必要があり、患者さんの側にそれを分かりやすく伝えられるよう、言葉を工夫して常に改良しておかなくてはならない。

●9.3 「つまらない」は正義

言葉を選んで、すべてのわだかまりを解消してしまうような、そんな「上手な」謝罪のやりかたを考えて、そのために謝罪のタイミングが遅れるようなことがあってはならない。

遅延を伴った「上手な」謝罪は、素早く行われた「つまらない」謝罪に劣るし、「つまらない」こと自体に意味がある状況も多い。

謝罪にうまさはいらない~

診断が正しくて、教科書どおりの対応が行われている限り、医師が独自に判断できる部分というのはそんなに多くないものだから、何か病状がうまく進行しない事態になっても、「医学的には問題がない」ことは、実際多い。

何に対して謝るか

思わしくない状況を説明する必要があって、医師の側には瑕疵がなくても、たとえばご家族が、「問題があって、責任者は主治医である」という認識を持ってそこに来ていたのならば、主治医は謝罪しなくてはいけない。

集まった人たちに「問題がある」と思わせてしまった時点で、すでに「謝罪の対象となる誤解」というものを、主治医は作ってしまっている。この時点で「問題の否定」を行っても、状況は改善しない。問題がない状況で、「問題がない」と断言するのは悪手であって、こういうときにはたぶん、「問題があるという誤解」に対して、誤解を招いてしまったことを謝罪するのが正しい。

模範的にやるのなら、「我々の説明不足から皆様に不安を抱かせてしまい、申し訳ありませんでした。対策については今後、行われていることを遅滞なく伝えるよう徹底いたします」といった言葉になる。

官僚的な、紋切り型の、つまらない言い回しだけれど、謝るときにはたぶん、「つまらないこと」が、大きな価値を持つ。

「つまらない」という価値~

謝りかたには、相手の側から見て、「こう」という定型があって、定型を演じれば、つまらないから、火は消える。怒りを増幅させるコストは、「つまらない」謝罪には引き合わないから。

謝る必要が発生したときに、まず思い出すべきなのは、「うまく謝る必要はないんだ」ということだと思う。

謝罪においてはたぶん、「上手であること」には価値がない。「上手な謝罪」が持つ価値というのは、上手を思いつくコストほどには高くない。考え抜かれた上手な謝罪が、迅速に行われた平凡な謝罪の効果を上回ることは滅多にない。

小さい火なら水でも消える

「非凡な謝罪」は時々効果的だけれど、その非凡さに打たれて燃え上がる人を生むリスクがある。謝罪というのは「火消し」であって、平凡な、水みたいな謝罪であっても、すぐに使えば火は消える。

油田火災みたいな特殊な状況でもない限り、水で消せる火を、あえて爆薬で消火する意味は薄い。

平凡な記者会見にも意味がある

メディア相手の謝罪会見、みんなが並んで頭を下げるあのやりかたは、リスクコミュニケーションとしては悪手なのだけれど、メディアに対する対策としては、むしろあれこそが正しいのだという[38]。

あの風景はもはや当たり前で、平凡な謝罪会見をどれだけ詳しく報道したところで、「つまらない」からお金にならない。ニュースを流すのにだってお金が必要で、「つまらない」ニュースは、それ以上深く突っ込んだところで、もはやそのニュースからお金が生まれる余地がないから、「頭を下げる」側の目的は、それだけで達成できる[38]。

面白さには弱点がある

群がる記者を相手に、軽妙に応対してみせて、最終的に椅子を失った総理大臣は、もしかしたら「メディアとの対応が下手」であったのかなと思う。あのやりとりは「面白かった」からこそ、メディアはこぞって報道して、記者はいつも「負ける」側でいたから、裏を返せば総理を叩く大義が生まれた。

つまらない政治家の話はつまらないし、つまらないから、それを報じて叩いたところで、面白くならない。つまらないことが価値を持つ状況というのはいろんなところにあって、謝罪を行うときであるとか、特にマスメディアを相手にする状況に陥ったときには、「つまらないことの力」みたいなものを利用できると、きっと状況を乗り切れる。

●9.4 典型的な謝罪のやりかた

何か問題が発生した際には、まずは「申し訳ありません」という感情を表明し、次に「事実を隠蔽しません」という約束を行う。そのあとで、問題に巻き込まれた人、特に患者さんのご家族に対して、病院からの援助とサービスの申し出を行う[41]。

「謝意の表明」と「責任の表明」は違う~

謝罪を行うときは、「謝意の表明」と、「責任の表明」とを区別しないといけない。

例: 「大変申し訳ありません。何が起こったのかすぐに調べて、分かったことについては、隠すことなく必ず報告します。何か我々にできることがあったら、何でも教えてください」

「申し訳ありません」という言葉と、「私の責任です」という言葉は、意味合いがまったく異なってくる。謝意の表明は一刻も早く行われるべきであるけれど、責任の表明は、何か事故が起きて、その後きちんとご家族や患者さんとのコミュニケーションが行われ、信頼が築かれて、事実関係が明らかになってから行われないといけない[41]。

事故の説明を行う機会は、事故直後や、診療記録を第三者にレビューしてもらったあと、患者さんの剖検レポートが返ってきたあとなど、複数設けるようにする。説明に疑問がないかどうか、前回の説明で何か分かりにくかったところがなかったかどうか、そのつど尋ねるといい[41]。

「責任の表明」を行うときには以下の手順を踏む[41]。

  1. 最初に「申し訳ありません」と、感情の表明を行う 2.「これは私の責任です。こうしたミスが発生しました」と説明する
  2. 具体的にどんな原因でミスが生じて、今後それをどう予防していくのかを説明する
  3. 最後に必要があれば、補償についての話をする

おしまいの型というものがある~

悪化した状況があって、それを乗り切るために「謝罪」という道具を用いて、それでどこを目指せばいいのかと言えば、「おしまいの型」なのだと思う。

型というと、構えだとか、刀の振りかた、あるいは駒の並べかたや進めかたみたいな、むしろ序盤の技術を形容するための言葉に聞こえるのだけれど、達人と呼ばれる人たちは、「おしまいの型」というものを体得していて、ここに向かって状況を動かしていく。

名将の勝ちかた

歴史的な「名将」と呼ばれる人たちは、たいていは一つの「勝ちか た」しか持っていないのだという[29]。

戦争に勝つためには練習が必要で、部隊は大きな集団だから、一つの戦術をものにするには、とても長い時間がかかる。だから戦術というのは、いくつものやりかたに習熟することは不可能で、たくさんの戦術に手を出す将軍は、戦争で勝つことはできないのだそうだ[29]。

将軍であっても、エースパイロットや剣術の達人であっても、達人と呼ばれる人たちは、一つの戦術を「おしまいの型」として持っているのだと思う。達人にとっての戦いは、相手をある状況に追い込むまでの手順であって、その状況が成立したら、あとは機械的な作業になる。ルーチンワークは鍛えることができて、鍛えるほどに、速く確実なものになるから、結果として達人は、自分の得意な型にはまれば、誰にも負けない。

型を持って勝負に挑む

状況のバリエーションは無限にあって、目指すべき型を持っていない人は、とにかく目先のこの瞬間を有利にすることしか考えられない。そこを勝ったとして、そこからどこに向かって駒を進めればいいのか分からないから、型を持った達人とでは、勝負にならない。

「おしまいの型」は、「必殺技」と紛らわしいのだけれど、別物だと思う。零戦の撃墜王であった坂井三郎は、零戦の必殺技である「左ひねりこみ」を、実戦ではほとんど使わなかったと語っている。

漠然と強い達人はいない

勝負事には状況の特異点のようなものがあって、それを知っている人、あるいは特異点に先に到達した人は、そこから先を型どおりに、力技で、半ば強引に、終盤まで状況を進めてしまう。

達人は、「そこに至る過程」と、「そこ以降の進めかた」とを、別個に徹底的に鍛えてるから強いのであって、「ただ漠然と強い」達人はいない。

型を体得している人は、そこにたどり着くやりかたと、型自体を極めるやりかたと、鍛錬の目標を限定できるけれど、そもそも型を持っていない人は、ただ漠然と強くなりたいと願うことしかできない。お祈りは役に立たないし、強くなれない。

状況は無限である中で、無限に敗北して祈りに走る人と、無限の中に、強引に有限を見いだして、力技に舵を切る人とがいて、達人は後者なのだと思う。

医療の業界が目指すべき「謝罪の型」~

「敵」のいるいないにかかわらず、あらゆる業界には「謝罪の達人」がいて、その人たちはきっと、「おしまいの型」に相当する何かを身につけている。

あらゆる場所に型がある

たとえば弁護士ならば、危機管理に際しては、「こちら側は誠意を持った対応を試みたのに、先方が聞く耳を持ってくれない」という型を目指すのだという[33]。こういう型を体得していれば、ある状況で相手から論破されたり、自らが頭を下げたりといった振る舞いは、「おしまいの型」に到達するための手続きになる。それが手続きである限り、腹も立たないし、自尊心も崩れない。

患者さんの視点と医師の視点

患者さんの側から見て「実際に起きたこと」と、「医師の側からそう見えたこと」とでは、意味合いがまったく異なってくる。観測された事実と、事実に対する医師の見解というものは、別のものとして、常にセットで伝えられないといけない。

生じた事実を要約して、「これが事実です」と断言するやりかたでは、それを聞かされた人の満足は得られないし、病院側の見解を、あたかもそれがすべての事実であるかのように伝えるやりかたでは、「何か大切な事実が隠されているのではないか」という疑念を払拭できない。

「発生した事実」と、「相手の見解」とが一緒に伝えられることで、それを聞かされた人は、自らの見解を組み立てることができる。たとえ「見解の相違」が発生しても、感情的な問題を、謝罪で切り離すことができたのならば、客観的な事実を共有することができる。病院側は、あとは自らの見解をなるべく分かりやすく伝えることに全力を挙げればいい。

常に見解を持つ

トラブルになって、「あなた方には誠意がないのか」と怒られるような状況に陥ったとして、「観測した事実をすべてお話しすることと、医学的に妥当な判断に基づいて行動することが、我々の誠意であると考えています」と返せるよう、主治医は常に、自分はどういう見解に基づいて今こういう行動しているのかを説明できるy3ようにしておかないといけない。

何か問題が発生したときに、医療の業界が目指すべき「謝罪の型」は、「事実を患者さんにすべてお話しした上で、事実に基づいた、医学的に妥当な見解を伝えること」なのだと思う。

●9.5 謝罪は切り返しの出発点

事実が共有されている前提で生まれた「見解の不一致」は、トラブルにはならない。

譲歩を行えば合意は得られるし、事実が共有されているのなら、どの程度の譲歩が妥当であるのか、お互いの思惑が異なっていても「妥当」の範囲は変わらない。

ところが譲歩の余地がそもそもなかったり、お互いの見解が極端に異なっていたりするときには、今度は見解の根拠となっている事実それ自体が攻撃の対象になる。

お互いに共有していたはずの事実に、その人しか知らない、別の事実が加えられてしまうと、主治医の見解は根拠を失ってしまう。謝罪という道具は、そうした付け加えを拒否するための道具になる。

夜間外来で騒ぐ患者さんのこと~

麻薬系鎮痛薬の中毒になった人が、夜間の外来を騒がせることがある。

パターンはだいたい決まっている。特定の病名を訴えて、ものすごく痛がって、「診断書はちゃんとある」などと言って、文字のかすれた、診断書のコピーを見せる。大学名のところはにじんで読めなかったりする。

こういう人には、麻薬の処方を行ってはいけないとされているのだけれど、断るのはそれなりに難しい。

このときに、患者さんが持ってきた診断書を「偽物だろう」などと断じるのは最悪で、泥沼になる。

憶測は危険

患者さん本人は、「痛い」といって病院に来ている。診断書が偽物であることと、本人の痛みとは関係ないし、もしかしたら患者さんは別の病気で本当に痛がっていて、たまたま「いつもの病気だ」と思って、診断書を見せているのかもしれない。「本人が嘘をついて、麻薬をせしめようとしている」のは、いくつもある可能性の一つであって、「偽だろう」という憶測は危ない。

「その診断書はどうせ偽物でしょう?」などと言った日には、大変なことになる。

患者さんはたぶん、「俺はそれが本物だと信じてる。お前はそれで、診察もしないで、痛がっている患者をその程度のことで疑うのか?」などと、外来の主治医をなじる。なじった上で、「謝れよ。お前、俺の痛みのこと、どうでもいいって思ったろ? そうじゃなきゃ痛む患者ほっといて診断書確認するなど、ありえないよな? 俺は痛いって言ってるんだよ。まずは謝れよ」と、相手を怒鳴る。

怒鳴られることで、医師側の「感情」と「事実」とが、今まさに接着されようとしているのだと思う。

感情と行動が接着されたら終わる

「謝れ!」と言われて、ドツボにはまる医師は、そこで初めて謝罪する。謝意を表明したところで、次は「じゃあ麻薬をくれよ」という話になる。

謝るけれど麻薬は出せないと切り返そうにも、このときすでに、患者さんは「怒り」という道具を使って、医師側の謝罪表明と、麻薬を処方するという行動とを、強力に接着している。処方はできませんと返答しても、たぶん「じゃあ俺を信じてないんじゃないか。謝ってないじゃないか!」と怒鳴られる。面と向かって怒鳴られるのは疲れるし、この段階で、患者さんの怒りと、自らの行動とを分離しようにも、難しい。

ここで謝罪して、麻薬系鎮痛薬を処方してしまうと、今度はたぶん、その医院は「かかりつけ」になる。日本中から痛みを表明する患者さんが集まって、主治医が身動きできなくなったころ、患者さんの側から「偉い人」が出てきて、お金を引っ張る話が切り出されるのだろうと思う。

まず謝罪してから切り返す~

こういうときの正解は、主治医の側から「今ここにある事実だけでは、あなたの痛みがどの程度なのか、麻薬を処方するに値するものなのか、私には判定できません」と、ひたすら頭を下げることなのだと思う。

「事実」を「感情」から切り離す

患者さんは診断書を掲げるし、診断されているのだから処方しろと怒鳴るのだけれど、診断書の真偽を議論の俎上に上げると、患者さんの目的は、その時点で達成されることになる。

外来の主治医は、患者さんの痛みを評価することで、薬を処方すべきかどうかを判断する。このときに、「紹介状の真偽」というものを判断材料として受け入れてしまうと、「医学的な事実に基づいて妥当な判断を行う」という、主治医の立ち位置が根拠を失ってしまう。

「謝罪」という行為は、「事実」と「感情」とを切り離す道具として用いることができる。

「感情」に対して謝罪する

救急外来に麻薬をもらいに来る人は、おそらくは偽であろう紹介状と、偽であろう痛みを携えてやってくる。こういう人たちに、よしんば「診断書が偽である」ことを証明できたとしても、「痛みが偽である」ことを証明することは、絶対にできない。痛みは測定できないからこそ、痛みに対してはとにかく謝罪して、紹介状の真偽と、痛みの大きさとを、真っ先に切り離さないといけない。

麻薬をもらいに来る側は、紹介状を切り離されると、もう麻薬をもらう大義がなくなってしまうから、これを強引にくっつけようとする。だから怒鳴るのだけれど、この時点ではまだ、「痛みに対する疑念」という、医師側の失敗が出現していないから、ひたすらに頭を下げ続けていれば、一応何とかなる。

拮抗してから譲歩する~

こういうやりかたは、患者さんのご家族が、何かこちらの不作為とか、治療の瑕疵、たとえば「ここにある擦り傷は何ですか?」とか、「久しぶりに来てみたらおむつが濡れていたんですけど、この病院は何をしているんですか?」とか、不満を表明することで、病院側に入院期間の延長を求めたときの対応にも役に立つ。

譲歩は自らの見解に基づいて行う

「病院に落ち度はありません」だとか、「医学的には大きな問題ではありません」という説明では切り返しにならない。「患者さんはみんな公平ですから」とか、「今病棟には重症の患者さんがいるんです」などという弁解も、瑕疵を指摘した患者さん自身には関係のない問題だから、意味がない。弁解はお互いに不満を残すし、この先擦り傷がもう一つ増える可能性もあって、こういうときに、あとがなくなってしまう。

ぶつかりあいが発生したら、病院側は譲歩しないといけないのだけれど、たとえば「入院を延長する」といった譲歩が、「長期間入院すれば、それだけ病状は良くなっていく」という、ご家族の見解に基づいて行われると、これは単なる妥協や問題の先送りになってしまう。

今度は退院のタイミングが決められなくなって、あとが大変になる。

譲歩をするための謝罪の方法

トラブルを回避しながら次につながる譲歩を行うためには、やはり謝罪を利用することになる。

  1. まずは発生した事実に対して謝意を表明して、発生した事実とご家族の感情とを切り離す
  2. その上で本筋の問題について、たとえば「○○さんの病状は、治療を行った結果として、現在は安定していると考えています」といった表現で、病院側の現状に対する見解を表明する
  3. 事実の確認と、病院側の見解表明とをそれぞれ行って、今度は「リハビリテーションを少し行ってから家に帰りましょう」とか、「在宅のサービスを入れるまでの間は病院で経過を見ましょう」とか、あくまでも医学的に妥当な主治医の見解に基づいた譲歩を行う

結果として行われたことは、患者さんのご家族が訴えたことに対する譲歩だけれど、「主治医の見解に基づいて行われた譲歩」が受け入れられることで、結果として状況は、「医学的に妥当な見解」に基づいて進むことになる。

見解の不在がトラブルを生む~

利害が一致しない以上、同じ事実に対して、見解は無数に生まれる。「見解の相違」というものはあらゆる場所に発生する。

見解の相違それ自体は当たり前に発生するものだから、受け止めかたや切り返しかた、譲歩のやりかたは決まっていて、定められた手続きを繰り返している限り、トラブルはそれ以上に大きくはならない。

些細なトラブルが大きな災厄を引き起こすような状況は、「見解の相違」よりもむしろ「見解の不在」から発生する。

持っていない見解は語れない

見解というものは、持っていないと語れない。

病棟でトラブルが発生した際に報告を受けた主治医は、しばしば現場を前に、自分の見解ではなく、報告を受けた事実関係を語る。報告された事実を復唱して、今度は相手側の見解を語って、「こういう誤解のないように気をつけてください」という、現場に対する「指導」を行う。これでは残念ながら何の解決にもなっていない。

「ご家族は誤解している」というのは、ご家族の見解に対する単なる感想であって、病院の側が同じ事実に対してどういう見解を持って臨めばいいのか、主治医の見解が提示されてそれが現場で共有されないと、現場は判断ができなくなってしまう。ご家族の見解に対して否定ばかりが積み上げられて、トラブルはますます大きくなっていく。

自分たちは今どんな事実を把握していて、それに対してどんな見解を持っているのか、それに基づいてこれからどんな行動していくのか、自分たちが行っていること、判断していることを常に一つの物語として語れるよう、主治医は普段から心がけておかないといけない。

謝罪というコミュニケーション~

訴訟になったケースの大部分では、事故が起きたあと、患者さんと主治医との間で正しい関係が築かれていなかったか、コミュニケーションがまったく行われていなかったのだという[41]。

動機はとても後ろ向きだけれど、コミュニケーションを続ける努力それ自体は、訴訟回避のメリットだけでなく、最終的には患者さんに対するサービスを改善することにつながっていく。