2015.04.06

仮復旧

データベースの書き戻しがどうにもうまく行かず、とりあえずローカルに保存していた記事だけ再アップロードしました。 転職から1年が過ぎ、正直いろんなことがありすぎましたがどうにか元気にバタバタした日常が続いています。

2012.06.04

危機コミュニケーションのゲームデザイン

公平は信頼の基礎になる。ところが災厄に代表される危機的な状況において、機会や配分の公平は、たいていまっ先に失われてしまう。

危機コミュニケーションの現場において、情報の発信者が唯一管理可能な公平は「ルールの公平」であって、信頼が重視されるコミュニケーションにおいては、「それがゲームとして楽しい」ルールの設定が大切になってくる。

「それがゲームとして楽しい」ことと、「その状況におけるルールが信頼できる」こと、ひいては「ルールの範囲内において相手を信頼できること」は等しい価値を持つ。相手から信頼を獲得することは、コミュニケーションの場におけるゲーム構築の試みに他ならないのだと思う。

昔話

原発災害の当初、情報が錯綜して、不安ばかりが広がっていくさなか、英国大使館が「日本の原発についてのお知らせ」という見解を発表した。

新しい情報こそ発表されなかったけれど、現在公開されている情報を吟味して、そこから導かれた大使館の見解を語り、予想されるワーストケースを、過去に発生した最悪の災厄と比較してみせる、英国大使館のあの発表からは、あの時期にあって大きな安心感が得られた。

「原発が爆発しそうだ」というニュースが何度も繰り返された夜、総理大臣の会見が設定された。誰もが安心を望むあの時、総理大臣の口から出てきたのは「がんばっている」という言葉だった。全国の人たちが「がんばっている」こと、自分もヘリで視察して「がんばっている」こと、「がんばっている」の連呼で10分間、原子力発電所の現状に関する情報は得られないまま会見は終わり、不信だけが残った。

豚インフルエンザの流行最初期、まだ災厄の全貌もつかめない中、検疫の人たちは防護服で汗まみれになりながら、一生懸命働いていた。「みんながこれだけ頑張っている」というメッセージが、カメラを通じて全国に放映されたけれど、不安はやはり、まだまだ大きかった。

当時某所で、ウィルスというものはしょせんは恐ろしく細かい粉にすぎないこと、湿気で失活すること、紫外線で失活することなど、いくつかをリストにして公開したら、それが安心だという評判をもらった。今にして思えばあれなんかも、医師の考える「こうすれば大丈夫」を公表するだけでは安心にはつながらなかったのではないかと思う。

ゲーム性について

「ルールデザイナーまたは他プレイヤが提示したルールからプレイヤが最適解を求めようとする」という関係が成立する時、それはゲームだと言える。

説得が信頼の獲得であるのなら、それに必要なのは「頑張っている」の連呼ではなく判断の根拠であって、すでに公開されている情報をお互いに共有したうえで、それに基づいた自分の判断を語ってみせることで、コミュニケーションはゲーム性を獲得できる。

ゲームは「楽しい」ものでなくてはいけない。楽しさとは、ルールに対する見通しの良さでもあり、ルールに対する戦略の多様性でもあり、デザイナーとプレイヤーとが、ルールにおいて対等であることでもある。

笑いの許されないクリティカルな現場にあってこそ、コミュニケーションはゲームであって、ルールには「楽しさ」が追求されないといけない。「楽しくできない」ルールでどれだけまじめに語ったところで、プレイヤーが楽しめない以上、ゲームデザイナーに対する信頼は得られない。

内容の「固さ」では、ルールの不備は補填できない。

笑いの要素などどこにもない戦場で、相手に対して身勝手な誠意を見込み、悲壮な覚悟だけで突入を命じる将軍は、部下を皆殺しにしてしまう。お互いが置かれた状況から、「楽しく」殺しあいができるルールを見出して、ルールの範囲で最善の選択肢を探索できる将軍が率いた軍隊は、悲惨な戦場を生き延びる。

有能な将軍は、恐らくは優れたプレイヤーであるのと同時に優れたゲームデザイナーでもあって、名将と讃えられた人物の日常会話は、案外不謹慎なものであったのではないかと妄想する。誠意や道徳を好む真面目な人は、危機にあって部下を殺してしまうだろうから。

危機管理の失敗とゲームの失敗

破綻した危機管理においては、「判断の失敗」や、あるいは「意思の不在」がその原因として語られることが多いけれど、その根本にあるのは「ゲームの失敗」なのだと思う。

判断が失敗と認定されるためには、前提としてそこにルールが成立していなくてはいけない。「それが失敗であったこと」だけでは、ルールの存在を証明できない。判断の失敗が原因とされる危機管理においては、実際にはたぶん、その状況をゲームとして成立させることに失敗していたことのほうが多い。

その状況にルールを見いだせる人にとって、判断とは選択肢の探索に等しい。議論にを通じてより良い選択肢を探索できれば、ルールにおける勝利を獲得できる可能性は向上するし、選択肢の探索に失敗した状況は、「判断の失敗」であると認定される。

「真面目な人」はそもそも、状況にあってルールをデザインしようとしない。判断とは場の総意を探索することであって、探索しようにもルールがないから、議論は改良に結びつかない。判断の根拠はたいてい、そこで流された「汗の量」、「がんばったこと」に求められる。

決断の不在は現場の出血で贖われることになる。

同じ危機管理の失敗であっても、これは「判断の失敗」ではなく、選択肢を探索しようにも、そもそもそこに解くべきゲームが存在していなかった、「ゲームの失敗」なのだと思う。

「専門家に任せておけば必ずうまくいく」という信念は間違いだけれど、「素人に指揮を任せると必ず最悪の選択肢を踏む。とくにその素人が専門家を自認している場合には」という信念はたぶん正しい。専門家は「判断の失敗」から自由になれないけれど、専門家を自認する素人は、そこにゲームを作れない。

危機管理、危機コミュニケーションに必要なのはゲームなのだと思う。危機の当事者であるゲームデザイナーと、災厄の引き受け手である被災者、プレイヤーとがそこには存在する。プレイヤーがお互いの関係を「不公平だ」と思ったら、ゲームは失敗してしまう。ゲームが成立すれば、災厄がどれだけ理不尽なものであったとしても、ゲームが継続される限りにおいて、お互いの信頼は保たれる。

リスクコミュニケーションをゲームデザインで読み解いた解説が読んでみたい。災厄にあって、情報も不十分なあの状況で、政府がどんな発表をすれば信頼を獲得できたのか。リーダーがどんな振る舞いを行い、どう宣言すれば、現場はもう少し動ける可能性があったのか。

あの時点でできることは、恐らくはまだたくさんあったのだと思う。

2012.05.24

悪役には「ずれ」がある。主役には欠落がある

漫画原作者である小池一夫 さんの「主人公には弱点を。敵役には欠点を」という教えは、シンプルなのにとても深いなと思う。物語を作る側ではなく、読む側からそれを改変すると、主役には「欠落」を、敵役には「ずれ」を、になるのではないかと思う。

悪の組織は素晴らしい

主人公に立ちはだかる「悪の組織」を束ねるのは、理想の上司と形容されるような素晴らしい人物でないといけない。

「ブラック企業」に代表されるような、部下をこき使う、魅力のかけらもないような人物を悪の黒幕として設定すると、主役の戦いに大義が生まれない。

ブラック企業の上司は、部下となった人たちから選択肢と睡眠時間を奪う。部下に対して、組織に賛同する意思を引き出すのではなく、「組織に賛同しない」という選択肢を奪おうとする。物語ではたいてい、主人公は悪の組織に何かを奪われた存在として描かれるけれど、「ブラック企業」的な組織の末端には、やはり大切な何かを奪われた人たちが主人公に立ちはだかることになる。

能力にまさる主人公が、等しく「奪われたもの」であるこうした人達を倒してしまったら、読者の共感は主人公から離れてしまう。

物語を背負う悪の組織は、社長から平社員に至るまで、だから自分の意志で組織の目的に賛同し、モチベーションの高い人達で構成される必要がある。

悪の黒幕は素晴らしい人物で、目的は遠く大きく、進捗管理に巧みで部下のモチベーションを引き出すのが上手で、自身には常に厳しく未来を見据える。強力な能力と動機を兼ね備えた人たちが素晴らしい上司のもとに結集して、目的に向かって一丸となって突き進む。主人公の戦いを通じて読者の共感を維持しようと思ったら、悪の組織は必然として、組織としてむしろ理想的なものにならないといけない。

悪役には「ずれ」がある

物語の目的が「主人公に共感する」ことである限り、悪役は必然として、組織人として完璧で好ましい人物で構成されることになる。

こうした人々に「悪」の大義を背負ってもらうために、彼らには「ずれ」が設定されることになる。素晴らしい人達が、高いモチベーションのもとにどれだけ努力したところで、その目的が読者に代表される「普通の人」の思惑と「ずれ」があって、それが迷惑なものであれば、彼らの組織は悪と断じられるに足る。主人公の戦いにも大義が生まれる。

世の中で陰謀が観測される事例の大部分はタイミングがたまたま一致した「無能」であって、能力の高い人達が、ならば本当に「迷惑な目的」に向かって高い動機で結集したとして、果たして目的に邁進する彼らの側が悪なのか、あるいは現状の維持回復を期待する読者の側が悪なのか、「革新」と「既得権」とはどちらの側も正義を名乗るから、本来は誰にも決められないものなのだけれど。

主人公には欠落がある

主人公には逆に、何らかの欠落が設定されていないといけない。欠けているのは勇気であったり腕力であったり、人間的な魅力や、あるいは何らかの知的な欠落かもしれない。いずれにしても「普通の人」にはそれなりにあるべき何かが足りない人物が、主人公としてふさわしい。

普通の人は、問題と対峙した時には、まずは「普通の問題解決」を試みる。ヤクザやカルト宗教みたいな「悪の組織」と対峙しした「普通の人」は、まずは話しあい、住民投票を行い、交渉が決裂すれば警察を要請する。夜中に一人、マスクをかぶって組織の本部を襲ったりしない。

物語の主役は大抵の場合、人として間違ったやりかたでの問題解決を目指す。普通の人がこれをやったら単なる犯罪者であって、物語を盛り上げようと思ったら、主人公からは「問題を普通に解決する」という選択肢を、あらかじめ奪っておかないといけない。

「普通にやる」には何かが足りず、問題と対峙した主人公には「普通に解決する」という選択肢がない。物語はここから始まって、欠落の必然として「普通でない」手段が選択され、主人公は何かと「戦う」ことになる。

主人公にとっての戦いとは、常に「不足の補填」という側面を持つ。悪を倒せば物語は終盤だけれど、「戦う」ことを通じて主人公の欠落もまた補填される。不足を失い、「普通にやる」選択肢を得た主人公は、悪との戦いが終わる頃には、戦う理由も失うことになる。

主人公は能力を持つ

主人公には、欠落に見合った「能力」が付加されることになる。能力は文字どおりの超能力でもいいし、火力であったり知力であったり、人間的な魅力であったり、主人公は、何かの不足と、何かの過剰とを併せ持つことになる。

不足は主人公から「普通」の選択肢を奪う。能力は、主人公が行使せざるを得なくなった「普通でない」選択肢に説得力をもたらす。

物語とは、普通にやるには何かが足りない主人公が、代償として得た何かの能力を用い、戦いを通じて自身の不足を取り戻す過程であるといえる。普通の人には不足も能力も存在しないから、主人公のやりかたはいびつなものとして観測され、そのいびつさが物語の面白さを生み出す。

主役は「不足」と「能力」とを持っている。不足に見合った能力の活かしかたをしている主役は魅力的に見える。不足を無視して、主人公を単なる超人に祭りあげてしまうと、読者の共感が剥がれてしまう。

たとえば犬並みの嗅覚を持っていたり、あるいは壁の向こう側を見ることができたりする主人公は、壁の向こう側に誰がいるのか考えたりしない。能力があって、その能力に頼りきっているのならば、壁の向こうは「すでに見えている」ものであって、思案の対象には成り得ない。それを思案したその時点で、主人公は能力を生かしていないし、主人公の不足には切実さが感じられなくなってしまう。

たとえば空を飛ぶ能力を与えられた主人公には、空中での索敵をやらせてはいけない。そんなのはラジコンヘリでもできることで、その程度の活かしかたでは切実さが足りない。

空を飛べるのだからこそ、主人公は逆に、ひたすらに地図を眺める必要に迫られてほしい。空を飛べる人間が、敵の組織を空から襲撃してみせたところで、銃で打たれればそれで詰む。飛べる能力に頼りきった主人公が何かを成し遂げようとするのなら、「相手が回り道せざるをえない状況でも自分は飛べる」ことを活かす必要があって、「地図を調べて待ちぶせ」という地味な戦法が、飛べる能力の生かしかたになってくる。

誰もが与えられたカードで勝負するしかない。物語ではたいていの場合、悪役にはいいカードが揃っていて、主人公はその代わり、ジョーカーを持っている。

  • 悪の組織は悪を背負うに足るだけの人材を備えているのか
  • 彼らの目的は読者に不快を与えるだけの十分な「ずれ」が備わっているのか
  • 主人公に与えられた不足は何か。それは主人公をいびつな選択肢に追い込むに足るほどに深刻なのか
  • 主人公の能力は何か。主人公はそれを活かした、それに頼りきった戦略で能力を行使できているのかどうか

何かが決定的にかけた主人公が、完璧な能力を備えた迷惑な人々と対峙する。彼らに打ち勝つために、主人公は能力を活かした「卑怯」を行使し、戦いを通じて欠落を取り戻した主人公は、「普通の人」として日常に回帰する。そんな物語が読みたいなと思う。

2012.05.16

研修期間中の勉強について

研修医の期間に行う勉強は、将来にわたって学習を続けていくために必要な、「健全な偏見」とでも言うべきものを養うために行われるべきなのだと思う。

偏見は学習の道具として役に立つ。どれだけ優れた大工さんであっても素手で家を建てることが不可能なのと同様に、偏見を持たずに膨大な教科書にあたったところで、身につく知識は得られない。

マニュアル本は役に立つ

全領域の内容が簡便に記載されたマニュアル本、聖路加の「内科レジデントマニュアル」や、三井記念の「内科レジデント実践マニュアル」ぐらいの大きさを持ったメモ書きは、年次が上がっても役に立つ。

記憶はどうしても曖昧で、よほど慣れている分野でもないかぎり、ちょっとした調べ物をする機会は無くならない。ちょっとした調べ物は、まさにその場で、その瞬間にできることが大切で、ハリソン内科学みたいに4000ページ近くあるような参考書、あるいはUpToDate みたいな電子教科書出であってもやはり厳しい。

研修医向けのマニュアル本をそのまま使うことはないだろうけれど、たいていのベテランは、自分の知識をあれぐらいの大きさにメモ書きとしてまとめていて、メモを参照しながら仕事を回す。そうしたものを作るのには能力が必要で、ある分野の知識を身につけるということは、臨床医が病棟業務を回していくのに必要な、あるひとかたまりの知識をメモ書きとしてまとめることにだいたい等しい。

知識を削るのは難しい

研修医向けのマニュアル本を読み比べると分かるのだけれど、どれも同じような大きさを持ち、同じような読者を想定し、同じような知識を提供することを目的にしているのに、記載されている知識はびっくりするぐらいに異なっている。どのマニュアル本にも固有の偏りがあって、「使える内容」と「限られた大きさ」とを両立させるために、それぞれの筆者が、それぞれの考えかたに基づいて、記載すべき知識を絞り込んでいるのだろうと思う。

簡便なマニュアルをまとめる際に、「全部の縮小コピー」を目指してしまうと、出来上がったものは使いものにならない。

一般内科の日常業務を回すのに、たとえばハリソン内科学には「内科の全部」が記載されていて、あの程度の知識があればだいたいどうにかなることが多い。ところがハリソンの各章をそのまま短い文章に要約して、A4 サイズ4000ページを手のひらに乗る300ページにまとめてしまうと、目次こそ「使えそう」な体裁を保つだろうけれど、そのメモ書きが現場で使われる機会はまず訪れない。

鈍器みたいに巨大な教科書が、装飾過多で無駄の多い文章に満ちあふれているかといえばそんなわけがなく、定評のある教科書を書いた人たちもまた、限られた割り当てページに可能な限りの知見を押しこむ。実用性を保ったままに全てを要約することは不可能で、知識をコンパクトに持ち歩こうと思ったら、どうしても取捨選択を行う必要に迫られる。

知識の削除を目指したその時点で、その人の態度には偏りが生まれる。知識を身につけること、それを持ち歩き、実用できるということは、「内科という全部」に対して自分なりの偏見を身につけることに等しい。

偏見で教科書を「引く」

無重力空間では歩けない。人間は、骨格という制約に、さらに「重力」と「地面」という制約を加えることで、歩行という動作を生成している。人間は歩くのではなく、そうした制約に「歩かされている」。

学習における偏見の獲得も、重力や床、あるいは骨格のような制約の再発明であるとも言える。制約を獲得することで、ようやくその人は、莫大な情報を「学ぶ」ことができるようになる。

情報に「溺れる」ことと、情報を「泳ぐ」こととでは意味が異なる。偏見を持たずに情報と接することは、情報に溺れることに等しい。溺れた結果として、読者は自分の意図を超えた、どこか素晴らしい地平にたどり着けるかもしれないけれど、溺れた人はたいていそこから動けないし、溺れた結果として、致死的なダメージを受けてしまうことだってある。「泳ぐ」ことは、「溺れる」ことで出会えたかもしれない何かを、最初から切り捨てることでもある。これは機会を放棄する態度でもあるけれど、泳いだ人は比較的高い確率で、泳がないと到達できない別の地平にたどり着く。

泳ぎと同様、制約もあらかじめ自分で用意しないと前に進めない。

参考書を読むときには、自分はこの本から何を「学ばない」のか、という態度をあらかじめ決めておくことで、読書の速度を向上できる。道徳的には、偏りのない態度で知識に接するほうが正しいけれど、これを目指すと溺れる。「何を学ぶのか」が戦術ならば、「何を切り捨てるのか」が戦略であって、偏りなく勤勉に、ひたすら勉強を続けた人は、戦略の不在に敗北することになる。

辞書を「読む」人は少なく、辞書は「引く」ものだと考える人は多い。辞書というものは、あらかじめ「これ」という目的があって開かれる本であって、読者はたいてい、「知らない単語の意味を知る」という明確な目的を持っているから、辞書を開いて溺れる人は少ないし、辞書を調べたら、調べた分だけ前に進める。

明確な目的と、身に着けた偏見でもって教科書に当たることで、辞書を引くようなやりかたで、教科書を引けるようになる。これは大切なことだと思う。

「実用的な偏見」の作りかた

若い人達が、もしも「総合的な内科」みたいなものを学びたいと思ったのなら、大体5年目ぐらいで内科の小冊子を作るぐらいの気持ちでメモ書きをまとめ、改良していくといい。

最初は市販されている研修医マニュアルでもいいし、できれば研修施設で指定されている、あるいは内製しているマニュアル本を基礎にするのがいい。それを読んで業務に当たると、たいていは様々な問題に突き当たる。

マニュアル本にはたとえば、「この疾患を見逃さないように」という記載が出てくる。「見逃さない」ためには何に気をつければいいのか、どういう検査を行えば見逃さないのか、書かれていないことも多い。それを上司に確認したり、あるいは調べたりしたら、それを書き加えていく。メモにはできれば、出典というか、「この言葉はこの教科書に書いてあった」と分かるような見出しを添えておくとあとが楽になる。

マニュアル本にはたとえば、「正確に行う」とか、「確実に○○が行われていることを確認する」といった記載も登場する。 「正確に行う」ためには何に気をつければいいのか、どこをメルクマールにすることで正しさは定義しうるのか、そこを正しく行えなかった場合に、どんな致死ルートが想定され、それを回避するためにはあらかじめ何を予期し、何を準備すればいいのか、それをまた上司に尋ね、教科書で調べ、メモに追記していく。

追記を繰り返していくことで、メモ書きからは曖昧な言葉が減っていく。「○○に気をつける」は「○○を除外診断するためにこの検査を提出する」といった言葉に置き換わる。「分かったつもり」の偏見は、改良が重ねられていくにつれ、身についた実用的なものになっていく。

質問を受ける機会が大切

曖昧な言葉を減らすのは案外に難しい。

曖昧な記載が行われた場所は、自身では「分かっている」つもりでいて、あまつさえ得意分野であるにもかかわらず、実は細かい検証を怠っている場所であったりもする。懸賞を怠っても業務には全く支障が出ない代わり、その分野では「適当にやってくれればいいから」という指示が飛ぶ。みんなが慣れていると、場の「適当」は実際に上手に動いて、検証の機会はますます遠のく。

他者からの質問は、勉強会や講演の品質を向上させる。「当たり前」を共有していない誰かからの質問は、マニュアル本から曖昧で便利な言葉の排除を求める。「それを当たり前と思っている自分自身」は、他人の目線で検証される。

同級生でやる勉強会は、そういう意味で役に立つ。定期的に各自がメモ書きを持ち寄っては、更新された差分を発表する。「ちゃんと」や「正しく」、あるいは「〇〇の可能性を必ず考慮する」といったずるい言い回しを使ったら、お互いにそれを指摘して発表から削除していく。指摘を受けた人は次回までの宿題として、その場所を曖昧でない言葉に置き換える義務が課される。

これを個人で続けるのは難しく、インターネット上でメモ書きの改良を行うことも、いろいろ試みたけれど自分には厳しかった。メモ書きの集積と改良、その先にある「実用的な偏見」を身につけるためには、研修病院の同級生で助け合うのが結局正しいような気がする。

現場で体験したことを自身のメモに照らし、足りなかったところを上司の言葉や教科書の記載で埋める。勉強会でお互いのメモを比較し、曖昧な表記を指摘することで偏見の改良を行う。改良された偏見でもって現場に当たり、「体験」と「偏見」との衝突を経ることで、また足りなかった何かが見つかる。衝突は、本来患者さんのためにあってはいけないことだけれど、研修期間なら、上司がバックアップしてくれる。

研修医の期間、こうしたサイクルを繰り返すことで、偏見は実用的なものになっていく。

道具について

メモ書きの基礎となるマニュアル本に加えて、やはり何か定評ある内科の教科書を持つべきだと思う。誰もが知っていて、「あの教科書なら」と誰もが納得してくれることが大事で、結局それは、ハリソンやセシルの原著になるような気がする。最近のはけっこう読みやすいし、幸いずいぶん安価になったから、やっぱり早い時期に買っておくべきだと思う。

メモを書きためるための道具が問題になってくる。

  • 文章の構造化が容易で、勉強会で役に立つメモをお互いに共有できないといけない
  • 全てのメモにはそこに到達するための導線が欠かせない。お互いのメモを交換していくのなら、目次や索引の自動生成機能はどうしてもほしい
  • 自分のメモ書きにおいて、どの分野をどのタイミングで更新したのか、勉強会では差分を提出する必要が生まれるから、バージョン管理システムとの相性がいいことも必要になってくる
  • メモ書きは印刷したり、ネットで公開したり、PDFを配信したり、様々なメディアとの親和性が求められる。

自分はふだん LaTeX を用いているけれど、LaTeX かMarkdown ぐらいしか、いまのところこうした用途に使いやすいアプリケーションはちょっと思いつかない。

電子化の昨今、学習の態度もまた、これからいろいろ試してみるといいと思う。

2012.05.14

「ちゃんと」できる人なんていない

あってはならない「確実に」という作業指示 – プリウスに見るゴムホースの「組み付け基準」 という記事が興味深かった。

「適切」は難しい

「適切に」判断したり、「正しく」組み付けたりすることは、特にそれが100% に近い再現を求められた場合には、とんでもなく難しい。

詳細なマニュアルを作成して、現場にそれを徹底したところで、大きく「適切に判断を行う」と書かれた項目が残っていたら、かならず誰かが間違える。

「適切」な判断や「正しい」組み付けを現場に実現しようと思ったら、マニュアル本から「適切」や「正しく」といった言葉を追放すればいい。便利な言葉が禁止されれば不便になって、マニュアルを書く人は頭を抱える。抱えた頭で手順を見直すと、「正しく」やらなくても正しい結果にしかなりようがない、本来そうあるべき手順にたどり着ける。

困っている人は「正しく」やらない

最近部屋を整理していたら、棚の奥から研修医時代のシステム手帳が出土した。

内科のメモを書きためていた当時、問題は山積みで、教科書に書かれた「適切な判断」を再現できるだけの能力が自分になくて、本当に困っていた。

全領域で困った結果、教科書に「低血糖を見逃すな」と記載された項目には「血糖を測れ」とメモを追記し、「○○病の可能性にも留意する必要がある」と書かれた項目には、提出すべき検査のルーチンにあらかじめそれを組み込み、正しくできなくても正しい結果が出力されるようなやりかたを、いくつか作ることができた。

自身の経験が積み重なる中で、知識の量は増えて、同時にメモ書きには、「正しく」とか「適切」、「○○病に気をつける」といった記載が増えた。

「どうにかしたい」という切実感は、経験とともにむしろ遠のいた。メモ書きは今でも続いて、リビジョンはそろそろ200を超えて、改定を重ねるごとに記載される文章量は増えているけれど、こういうのはやっぱり、「現場で今困っている人が、問題の解決に必要な道具を作る」のが正解なのだろうと思う。

便利な何かが生まれても、それを「もっと正しく」改良しようと考えたそのときは、劣化が始まる瞬間でもある。

「ちゃんと」はやめたほうがいい

「ちゃんとやれば大丈夫」という道徳が強い場所で、ちゃんとできない場合を考えるのは難しい。

今はきっと減っているだろうけれど、「ちゃんと話を聞けば、患者さんは検査などしなくても全てを語ってくれる。不必要な検査は患者さんに余計な負担をかける」系の言説が昔は強くて、あれが怖くて嫌だった。素直に「怖い」と悲鳴をあげれば、今度は「ちゃんとやれば患者さんはきっと分かってくれる」と諭された。

安全と道徳とは、どうしても衝突が避けられない。安全を徹底しようと思ったら、まずは「人間はちゃんとやれない。事故が起きるような状況においては特に」というところから始めないと難しい。「飲み会の翌日は、初診の腹痛にCTと採血一式を出しても怒らない」と研修医に通達を出すような、そこまで不謹慎な状況を真面目に論じて見せないと、会議室は「ちゃんと」から自由になれない。

「ちゃんとやれば大丈夫」みたいな言葉の根拠が、「俺様は運がいい」である人は多い。「最近の若い奴らはだらしない。俺達の世代はもっと頑張り、ちゃんとやり、成果を掴んだ」というベテランの人たちはたしかに嘘入っていないのだけれど、その人達の同級生は、同じく頑張り、体を壊し、成果に到達する前に亡くなった。

能力は、再現の手法を示してみせることで、はじめてそれを他人に求めることができる。「ちゃんと」やって生き延びてきたベテランの人たちには、ぜひとも「ちゃんとを再現する方法」を残してほしいなと思う。

2012.04.26

自己紹介の戦略要素

「私はこれが得意です」という自己紹介は、わかりやすい代わりに役に立たない。「これが得意」は戦術レベルの長所であって、戦略が見えてこない。何かが得意な人がいて、ならばその人はどの分野をの習得を諦めたのか、「私はこれを得意分野にするために、代わりにこの分野を切り捨てました」という自己紹介が、その人の戦略を教えてくれる。

切り捨てた何かを説明できない人、あるいは「私は何も切り捨てるつもりはありません」と答える人は、局所の戦術こそ得意だけれど、長期的な戦略を持っていないか、示せない。誰かに物を教えてもらう際に、戦略を持っていない人に弟子入りすると、伸びた先には何もないから気をつけないといけない。

家庭医の教科書を読んだ

最近出版された「新総合診療医学」という教科書を読んだ。家庭医や、総合医を目指す若い人に向けて企画された教科書で、読んでみて勉強になったし、自分が知らなかった総合診療領域の記載がいくつもあって役立ったのだけれど、この教科書を通じて「家庭医的なるもの」がならば何なのか、やはりよく分からなかった。

総合診療や家庭医のような分野はまだまだ新しい領域で、だからこそ、その分野で活躍しているビッグネームの先生がたには、個人で一冊、その分野の参考書を書いてほしいなと思う。教科書を書くのは大変だし、手分けして作った教科書に比べれば、あるいは知識の抜けだってあるかもしれないけれど、「新総合診療医学」という教科書を書いた先生がたの間には、まだ「これだ」というその業界の形みたいなものが十分に共有されていないような印象を持った。

短所を知るのは面倒くさい

「全部頑張る」と宣言するのは容易だけれど、実際にやるのは難しい。明示的に、あるいは暗黙のうちに、大抵の人はどこか得意な分野を頑張って、そうでない分野を弱点として抱えることになるけれど、いざ振り返って、「自分はこの分野が弱い」と知るのは案外難しい。

弱いところは、全ての領域をまんべんなく振り返ってみないと分からない。「全て」はもちろん莫大で、たいていそれは面倒で、苦手な領域はもっと面倒な事になる。

自分が「苦手な」知識と、自分の戦略にとって「知らなくていい」知識とはよく似ていて、忙しいときほど間違えやすい。「これ」と決めた得意分野の知識を詰め込んでいる最中は忙しくて、勉強をしている時にはだから、「これは知らない」と「これはいらない」との区別はますます難しい。

きちんと勉強している人ほど、常に知識の吸収を怠らず、最新の情報に通じている人ほど、裏を返すと「自分にとっていらない知識」を設定しにくい。切り捨てた分野を持たない、それが説明できない人は「単なる勤勉な人」であって、その勤勉さを成果につなげることが、もしかしたら難しい。

要約から個性が見える

「一般内科」と「家庭医」、あるいは「総合診療医」は、外野が眺めても区別ができない。まだまだきっちりとした定義もないのだろうし、いろんな分野の先生がたが集まっている領域だから、得意分野を解説してもらうと、たぶん各自がぜんぜん違うことを語りはじめて収拾がつかなくなってしまう。

「ある業界の考えかた」というものは、得意分野を深く語ってもらうことよりも、むしろ広くて浅いあるひとかたまりの知識を、その人の立場から要約してもらうことでよく分かる。

たとえばどこかに「神経内科の知識に恐ろしく通じた消化器外科医」がいたとしても、その人に「研修医に向けた消化器外科の入門書を書いて下さい」とお願いしたら、神経内科の知識に関する記載は削除されるか、少なくとも重点的に語られる可能性は少ない。その人の得意不得意と、その人が所属する業界としての物の見かたは、一致しないことは珍しくない。

内科にはたとえば、「ハリソン内科学」という広くて浅い入門書があって、ハリソン内科の3600ページを、その科の立場で200ページ程度に要約してもらうと、「科としての物の見かた」が見えてくる。

要約というものは、お弁当を詰めるのにどこか似ている。「お弁当を作るのが得意な人」の中にだって、揚げ物が得意な人もいるだろうし、煮物が得意な人もいる。料理なんてやらないけれど、冷凍食品に関する知識なら誰にも負けない人だっているかもしれない。得意とするものは様々だけれど、同じ箱を使ってお弁当を作ったら、きっと誰もが「こうだろう」というステレオタイプに収斂する。どれだけそれが得意でも、お弁当箱いっぱいに揚げ物だけ詰め込む人は、揚げ物の名人ではあっても、「お弁当を作るのが上手な人」とは言えない。

「自分が何を知っているのか」を語れる人はたくさんいる。ところが「自分のような立場の人間が何を知るべきなのか」を語れる人はずっと少ない。

「こうだ」という物の見かたを共有できない組織には、戦術だけがあって戦略がない。「どうすればいいのか」という問いに答えられる人はたくさんいるかもしれないけれど、そこには「これからどうしたいのか」という問いに答えを出せる人がいない。

教科書もまた表現の手段であって、それを通じて「その科の目線」みたいなものを学べたら、読者としてはとても勉強になるのだけれど。

2012.04.12

研修医の潰しかたを考えよう

平和を実現したいのならば、戦争に関する学習が欠かせない。

平和を願うのは大切かもしれないけれど、戦争のやりかたを知らないと、攻める相手をどうすれば止められるのか、相手の軍隊に動きがあって、それに対してどう応対すれば、そこから戦争につながる道筋を断てるのか、問題解決のやりかたが発想できない。ひたすらに平和を願う人達は、平和を願った結果として、相手の軍隊に間違ったメッセージを送ってしまう。会話が成立しないから、コミュニケーションが破綻した結果として、学習抜きの平和祈願は、むしろ戦争を近づける。

失敗を防ぐには陥れかたを考える

「平和を欲するのなら戦争を学べ」の論理が正しいとして、たとえば失敗を防ごうと思ったのならば、「失敗させるやりかた」を研究するのがひとつの方法なのだと思う。

どうすれば失敗を防げるのかを考えるのは大事だけれど、どうやれば相手を陥れることができるのか、暗黙にプレッシャーをかけてみたり、あえて曖昧な指示を出してみたり、誰かにミスを誘発させるやりかた、一種のいじめの方法論みたいなものを大勢で真剣に考えることで、失敗はたぶん遠ざかる。

「どうやって防ぐのか」という立ち位置は、どうしても道徳から自由になれない。「みんなで頑張りましょう」を難しい言葉で言い換えたような結論に逆らうことは難しいし、「指差し確認」とか「ダブルチェック」みたいな、間違ってこそいないのに、失敗につながる緊急事態には必ず省略されてしまう手続きが、平時の手順を複雑にしてしまう。

良心に基づいた邪悪を排除する

防ぎかたではなく、攻めかたを考えることで、「何が悪いことなのか」が会議室に共有される。たとえば失敗を防いでいく上で、「現場に気合を入れる」ことは明らかな間違いだけれど、「気合」はたいてい良心に基づいて、防ぐ空気の会議室では、これを「悪い」と断じるのが難しい。

「誰かを陥れて、その人にミスを誘発するのにどんなやりかたが有効なのか」という議論は邪悪だけれど、これを行うことで、何をすればミスが増えるのか、どんな振る舞いが邪悪につながるものなのか、「悪いこと」の定義ができる。邪悪の認識が会議室に共有されて、ようやくたぶん、議論の場から「良心に基づいた邪悪」を排除することができるようになる。

職場に新人が入ってくる季節だけれど、研修医を潰さず育てようと思ったら、まずは病院の上司が集まって、研修医の潰しかたを学ぶのが正しい。

立場が弱い研修医には、いろんな人が、「良かれ」と思っていろんなやりかたを試みる。教える誰もが下級生を「きちんと」育てようという思いを持って、でも実際問題として、良かれと為された試みは、一定の確率で誰かを潰す。こうした結果はたぶん、「教えかた」こそ学ばれるけれど、「潰しかた」が共有されない現場の限界であって、教える人たちは、まず何よりも潰しかたに熟達しなくてはいけないのだと思う。

2012.03.28

「なぜ?」 の効用

従順な現場に支えられた組織は効率がいい。利益に向かって現場が自発的に「暴走」を行なって、あまつさえ自己責任で法を破ることも厭わないのなら、利益は勝手に増えていく。リーダーはメディアに向かって、きれいな理念を賢しげに語ってみせるだけでいい。

暴言の効果は少ない

暴言で部下を従わせるやりかたや、あるいはみんなを集めてスローガンを叫ばせるようなやりかたは、暴力的な見た目に反して、実際の効果は少ない。

「絶対にやれ! 」 なんて暴言を行使する上司は、現場の側からは「嫌な奴」に見える。「嫌な奴」の命令に心から従うのは難しい。明示的な悪役として振る舞う誰かの存在は、現場の空気を厳しくする一方で、一種の安全弁としての機能を提供する。

人間をとことん追い詰める、無理の限界をはるかに過ぎて、それでも働くことをやめられない、体を壊したり、亡くなってしまったりする領域に誰かを到達させるためには、暴言だけでは威力が足りない。そうした領域に誰かを追い詰めるために行使されるのは、「やれ! 」という命令ではなく、「なぜ?」という問いかけなのだと思う。

「なぜ?」 は役に立つ

「できない」という現場の声に、徹底的に「なぜ? 」を問う組織は、ときおり爆発的な成果をあげる。

「できない」という声に対して「やれ!」 と命じてしまうと、命じたその人が悪役になる。怒鳴っても結果がついてこなかったら、今度は悪役が責任者になる。現場に対して「なぜ? 」をたたみかけて、返答に詰まったことを「できる」の根拠にするやりかたは、次の「できない」が、現場の責任へとすりかわる。

「できない」という言葉に対して、徹底的に「なぜ?」を重ねる。「できる」ことを本人に発見してもらう。そんな空気を醸成すると、すべての「できない」は現場のせいになる。誰もが倒れるまで働くし、それが必要であれば、法も破ってくれる。全ては「現場の判断」で行われる。上司はそれを、大笑いしながら見下ろしていればいい。

ブラック企業はみんなでスローガンを叫ばせる。綺麗なスローガンは「なぜ? 」を問う根拠であって、「ブラック」と形容される組織では、あらゆる「できない」に「なぜ?」 が問われる。「仕方がない」の気分がその場から徹底的に排除されることが、ブラック企業をブラックにしているのだと思う。

やさしいやりかたの怖さ

できないと思っている誰かに対して、「なぜ?」を重ねて望ましい結果に誘導する、コーチング的な、「できることを自分で発見してもらう」やりかたは、見た目こそ優しげだけれど、道具としてはおっかない。

大昔の小学校には、「逆らったらもれなくビンタ」の怖い先生がいた。現代の先生がたは、子供に優しく「なぜ? 」を問う。「ビンタ」と「問いかけ」と、見た目が怖いのはビンタだけれど、道具の威力は「問いかけ」のほうが圧倒的に強力で、使いかたを間違えるととんでもない結果をもたらす。

穏やかそうな見た目の方法を駆使する誰かが、自分が今使っている道具の威力を自覚していないことは珍しくない。人も殺せる威力を持った道具が、案外無邪気に行使されていたりする。そういうのが恐ろしい。

神様は便利

コーチングを受けたスポーツ選手は、実際に成績が向上したりする。コーチングは単なる説得ではなく、その人の抑制を外すための方法だから、上手に使えば高い効果が期待できるけれど、外す場所を間違えるととんでもない方向に暴走する。

「なぜ?」 という問いかけを重ねると、その場から「仕方がない」という気分が放逐されていく。そうした空気に、「だって、仕方ないよね?」と水を差してやると、状況はリセットされて、場は健全な気分を取り戻す。ところがたぶん、水を差すのは大変で、空気に抗えるだけの勇気と知力、上司と拮抗できるだけの暴力とを持っていないと難しい。

「なぜ?」 を重ねるやりかたは強力だけれど、その威力が発揮される前提として、その場に過剰な理性を要求する。追い詰められた状況で、自身の内部に神様を持ってる人は、「信仰上の理由でそれを受け入れることはできない」というカードを切ることで、場の理性に拮抗できる。

理性を根拠にした問いかけに対する返答として、「信仰」という理不尽が導入されると、上司が更なる「なぜ?」 を重ねようと思ったら、「お前の信じる神はクソだ」と断じる必要に迫られる。問題は解決しないかもしれないけれど、「なぜ? 」の連鎖は大抵断たれる。

「なぜ?」 に対する安全装置として、自身の内部に「神様」的な理不尽を常に持っておくことは、きっと大切なことだと思う。

2012.03.22

「ない」ことと「必要ない」こと

単なる自由には意味がない

自由というものは、不自由が作り込まれてはじめて意味を持つ。

飛べるようになった人間は、飛べない人間に比べればたしかに自由かもしれないけれど、「行く手を阻む壁」や「飛び越えられない谷」が存在しない現代社会なら、鳥人だってたぶん、電車に乗って移動する。「できる」だけでは足りなくて、それが切実な機能として要請されて、世界はようやく書き換わる。

あるべきものがない状態は不自由を産んで、それがどれだけきれいな機械であっても、ユーザーはどこかで妥協を感覚してしまう。

ボタンのない機械は不便

最近のタブレット端末にはボタンがついていない機種が多くて、ボタンだらけの携帯電話に比べれば、タブレットの佇まいはたしかにきれいなのだけれど、使っているとやっぱり、たまにボタンがほしくなる。単なる「ない」を「必要ない」に変えるためには、機械の側に、「それがいらない」機能を作り込む必要があって、今のタブレット端末は、まだまだ「不自由なボタン」から自由になっていないような気がする。

ボタンはたいてい、何らかの判断や、選択を行う際に必要になってくる。機械を持った人が「こんなことをしたい」と考えて、目当ての機能に紐づいたボタンを押す。選択を行う以上、ボタンの存在は必然であって、画面に設けられたソフトウェアボタンは、どうしてもどこか、「押せるボタン」の劣化コピーに思えてしまう。

「ボタンがない機械」が「ボタンの必要ない機械」になるためには、ユーザーを取り巻く状況から、選択や判断という行為それ自体を追放しないといけない。具体的にはたぶん、「画面を触ったらあらゆるアプリケーションが全部立ち上がる」ことが、「ボタンの必要ない機械」の正解なのだと思う。

ボタンが必要ない機械

それは「位置」であったり「時間」であったり、あるいは外からの入力であったり様々だけれど、人間の行動は、何らかの文脈にそって行われることが多くて、ある文脈で必要になる機能は、大抵の場合それほど多くない。たとえば自宅で安静にしているときに、タブレットに求められる機能はといえば、メール確認とブラウザ閲覧、Twitter やFaceBook の確認ぐらいがせいぜいだと思う。

使う機能が4つであるのなら、「自宅にいる」という状況に4つのアプリケーションを予め紐付けしておいて、「ユーザーが画面を触ったら、4つのアプリケーションが同時に立ち上がる」という設定を行うと、ユーザーが端末を使う際に、選択が発生する余地を追放できる。ユーガーが画面のどこかに指をおいたら、そこを中心に画面が4分割された状態で立ち上がり、それぞれの画面にそれぞれのアプリケーションが割り当てられる。そのまま指をずらせば、4分割された画面の中心がずれて、ある画面は大きく、ある画面は小さく表示され、ユーザーは選択を行うことなく、好きな機能を行き来できる。

「Tasker」 みたいな機能に、無駄にアプリを立ち上げるランチャーを組み合わせることでこうした機能が作れるのではないかと思う。アプリケーションが無駄にたくさん立ち上がる上に、その文脈に乗っからない機能については選択がいきなり面倒になるけれど、ボタンを持たない機械がボタンを持った機械を超えようと思ったら、何らかの手段で「必要ない」を獲得してほしい。

2012.03.19

美談の受益者について

認知症の老人が紙幣の代わりにティッシュペーパーを出したときに、素晴らしい対応をしたレジ打ちの人がいたという記事 を読んだ。

ヘルパーの方と街を歩いていたおじいさんがハンバーガーショップに入り、会計の時に「紙幣」として取り出したものがティッシュペーパーだったのだと。

「それは紙幣ではありません」と応対すれば済むことだけれど、それをやると、認知症の人を傷つけてしまう。レジ打ちの人は気を効かせてくれて、「申し訳ありません。当店においては現在、こちらのお札はご利用できなくなっております」と応対してくれ、おじいさんは自身が傷つけられることもなく、間違いに気がつくことができたのだという。

これは間違いなく美談であって、レジ打ちの人は素晴らしい応対を行ったことにはなんの異論もないのだけれど、こんな話が「美談」として広まることには、個人的にはあまり同意できないな、とも思う。

美談は現場を苦しめる

レジ打ちの人がとっさに行った対応は素晴らしいけれど、こういう話が「美談」の形で上司から現場に語られてしまうと、今度はそれが、暗黙に「当たり前」の水準になってしまう。

「結果オーライ」は素晴らしいことだけれど、たまたま上手く行ったそうした事例を、そのまま美談として現場にアーカイブしていくと、賃金は変わらないくせに、仕事に対する要求水準だけが信じられない勢いで上昇していく。美談は結局、現場の首を締めて、今までだったら平均点であった振る舞いは落第点になり、偶然が成し遂げた素晴らしい成果が最低水準となり、そこで働く人たちは、常に「落第」し続けることになる。

「よすぎる」人の脆弱性

完全なワンマンアーミーならともかく、接遇はたいてい、チームで行われることになる。

チームの中に「悪い」応対を行った人がいれば、チーム全体の責任が問われることがしばしばあって、だからこそ現場ではマニュアルを作り、「悪い」メンバーを出さないように気をつける。

ところが接遇の問題を考えるときには、「悪い」メンバーも、「よすぎる」メンバーも、等しく接遇のリスクを生み出す。自分の判断で「良すぎた」成果をお客さんに提供するメンバーが出現してしまうと、お客さんの側から見れば、それは「当たり前」の水準が向上したのだ、と受け止められてしまう。クレームの頻度は、「悪い」メンバーが出現しても、「よすぎる」メンバーが出現しても等しく向上して、どちらにしても、結局チームは疲弊してしまう。

その美談で得をするのは誰か

新聞記事は、「素晴らしいレジ打ちの人がたまたまそこにいて、お客さんに素晴らしいサービスを提供した」という事例だけれど、これは同時に、「よすぎる」人材をチームに配置してしまった、マネージャーの失敗であるのだとも言える。

マネージャーは、「予期された結果」を出すためのマネージメントが期待されているわけで、「予期に反した素晴らしい結果」の素晴らしさと、オーバースペックな人材をそこに配置したマネージャーの無能とは、きちんと分けて語られないといけない。

「結果オーライ」が美談になることで、マネージャーの無能は隠蔽される。予想に反したいい結果を成果として享受する、「当たりくじだけ持って来い」という態度を上司に許せば、現場はますますきつくなる。

この事例が「いい話」であることはもちろん確かなのだけれど、「それを美談として共有することで、得する人は誰なのか」を、きちんと考えるべきだと思う。

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