2009.11.19

「雑な物づくり」に未来がある

今作っている研修医向けのマニュアル本について、少しだけ話が前に進んで、昨日は出版社の方と、いろいろお話をさせていただいた。まだまだ先は長そうだけれど。

いろいろ思ったこと。

出版は大変

「自分の電子原稿が、出版にはあんまり貢献できない」ということが、個人的にはショックだった。

原稿はすでに、表紙から目次、本文、図版、索引に至るまで全て完成しているし、原稿内部でのページ参照だとか、あるいは索引だとか、ああいうのも全部ラベル参照にしてあるから、出版社の方から、判型と1行当たりの文字数、ページ当たりの行数の指定さえいただければ、コマンド一発、せいぜい1秒もあれば、参照ページの入った原稿が、いつでも出せる状態。たとえばそれを電子化したいなら、LaTeX ならhtml の出力も簡単だから、こういうのが、少しは役に立つだろうなんて考えてた。

少なくとも電子原稿は、「手書き原稿の山」なんて状態に比べれば、出版社の人も圧倒的に楽できるだろうなんて思ってたんだけれど、手間はそんなに変わらないらしい。

「これから」のことを尋ねると、原稿は、今のPDFからテキスト部分だけを抜き出して、それをDTPソフトで再編集、TeX の図版はそのままだと使えないので、これはイラストレーターで全部作り直したうえで、自分のマニュアルには、ページの相互参照が200箇所ぐらい、索引が300箇所以上あるんだけれど、こういうのは全部「手」でやるんだという。

LaTeX の自動編集は、ワープロよりはきれいとはいえ、やっぱりそれは機械の仕事であって、「プロの品質」を達成するには、やっぱりまだまだ役不足らしい。

プロの仕事にはお金がかかる

個人的に妄想していた落としどころみたいなのは、「1冊1000円ぐらい、できれば半年、無理でも毎年改訂」ができたらいいな、なんて思っていたんだけれど、こういうのは、とうてい無理らしい。

プロのお仕事には莫大なお金がかかって、商業品質に耐える版面を整えるためには、自分の原稿ぐらいの本を作るなら、ちょっとした高級車ぐらいのお金がかかるらしい。全部手仕事だから、そもそも「ちょっとした改訂」というのはありえなくて、品質のいい原稿というのは、裏を返せば、一度作ると、それを直すのにも膨大なコストがかかるらしくて、改訂という作業は、そう簡単にはいかないのだと。

「1000円ぐらい」の本というのは、だから最初から数万部オーダーで勝負をするような大規模出版でないと厳しくて、医学書というのはそもそもそんなに売れるものではないから、必然的に価格も上がってしまうんだという。

今相談をさせていただいている出版社は、本も雑誌も出しているようなけっこう大きなところで、多色刷りだし、図版も多い。小さな図版には文字がきちんと回り込んでいるし、爪見出しみたいな、裁ち落とし部分に印刷される部分も多い。素人仕事ではたしかに追いつけない、きれいな版面の本がばかりなのだけれど、品質にはやっぱりお金がかかって、あらゆるものが電子化されたこの時代に、品質は、やっぱり「手」が必要みたい。

「鬼のようにページ参照入ってますけれど、こういうの大丈夫なんですか?」とか尋ねたら、「もっと大変なのも手でやってますから大丈夫です」なんて、なんだか大変そうだった。

これからは雑な物づくりが大事なんだと思う

「最上の日々」のこれからの日本は、雑な物づくりだろうか というエントリーを読んで、こういうのはたぶん、いろんな業界で、「品質」から「雑」に舵を切る時期に、今はさしかかってるんだろうなと思った。

たとえば自分の原稿は、あらゆるものをフリーソフトで作っていて、原稿の改訂はリアルタイムだし、PDF もHTML もその場で作って公開できる。たしかに原稿のできあがりは「雑」だけれど、読むに耐えないほどひどいわけではないし、出版社の人に原稿を託したなら、もちろん「プロの仕事」が施されて、比較にならないぐらいに高品質なものが作られるのは分かるんだけれど、その「品質」に、はたして何百万円ものお金をかける意味というのは、どれぐらいあるものなんだろう。

全てを手仕事で、ページの隅にまで気を配ったプロの原稿というのは、きれいな代わり、それは「紙」の形式でしか出版できない。参照ページは、「数字」として記載されるだろうから、判型が変われば全部やり直しだし、たとえばその原稿を電子化して、有償閲覧形式で配信しようにも、今度は参照ページだとか、索引を全部「リンク」に直さないといけないから、恐らくそれには膨大な手間とコストがかかって、実際問題、出版社で「電子書籍」に対応できるだけの体力を持ったところというのは、決して多くないんだという。

プロの人たちは、高品質な「プロの仕事」しかできないが故に、「雑な仕事」ができないんだという。

自分は最初、「自費出版詐欺」みたいな報道で話題になったようなサービスを探していた。やりたいことは、あくまでも「原稿が書籍として流通すること」が全てであって、上の先生がたは「本」にならないと読んでくれないから、ある意味それで十分だった。だからたとえば、「100万円であなたの本が本屋さんに並びます」みたいなサービスが、医学系の出版社から提供されていれば、たぶんそれに乗っかったと思う。やりたいことは、それで十分に達成できるから。

たとえば「研修医を集める」目的で、自分の病院独自のマニュアル本を作って出版したいという要望は、たぶんいろんな病院にあるものだろうし、60も過ぎたベテランの先生がたとか、あるいはblog で日記を書いている無数の同業者とか、ちょっとした本を作って、自分のノウハウを多くの人に知ってもらいたいという需要は確実にあって、それは小さいかもしれないけれど豊穣な、よその業界から見れば相当に「おいしい」市場がそこにあるはずなのに、高品質だけれど高コストな仕事しかできない「プロ」しかいない医学出版の業界には、こういう需要に対して、サービスを提供できない。

どこかの出版社が、たとえば「旺文社の赤本」よろしく、日本中のあらゆる病院から「研修医マニュアル」の原稿を集めて、どこかに就職を希望する医学生がそれを買って比較したり、あるいは自分の研修医にそれを買ってもらったり、部数でいったらせいぜい1000部ぐらい、「雑な装丁」の、その代わり、出版を依頼する病院側からお金を支払ってもらうような、そういうやりかたにだって十分勝ち目がありそうなものだけれど、そういう話は全然ないんだという。

この場所に、誰も名前を知らないような新興出版社が入ってきたところで、勝負にならない。自分たちはやっぱり、「名前」でいろんなものを判断するから。ところがその代わり、「名前」を得た多くの出版社は、今度は仕事の品質があまりにも高すぎて、こういう場所には行ってこれない。

恐らくは企業とか、あるいは国家にも、「品質で名前とブランドを形成する時代」のあと、どこかで「雑」と「多様」とにシフトをするタイミングというものがあって、そのタイミングを間違えて、「より高品質」に行ってしまうと、袋小路に入ってしまうんだろうなと思う。

病院ごとのマニュアルを商業ルートに乗せること。blog の文章に「プロの添削」を依頼すること。書いた文章を翻訳して、どれだけマイナーな形式であれ、「海外のどこか」に自分の意見を問うこと。恐らくは「出版」というものに期待されている仕事というのはたくさんあって、プロの人たちが「プロの仕事」を続けている限りは、こうした「多様」に対応することはできないだろうし、よしんばそれが実現したとして、それは高コストで、素人には手が出ない。

「出版のプロ」にはじめてお会いする機会をいただいて、自分はむしろ、「雑で多様なサービス」というものが、これから先、もっと考えられてもいいんじゃないかなんて考えてた。

2009.11.16

伽藍の誤謬と戦局眼

2002年、ペンタゴンは、冷戦終結以降、最大規模の軍事作戦演習を行った。イランへの攻撃を想定した、「ミレニアムチャレンジ」と名付けられたこの演習は、情報化、ネットワーク化の行き届いた、最新装備の米軍が無敵であることを証明するための演習だったはずなのに、時代おくれの装備を与えられた「仮想イラン」軍に、「仮想米軍」は歯がたたなかった。

ポール・バン・ライパー退役中将が率いた「仮想イラン」軍は、ことごとく米軍の行く手を遮ることに成功した。

ペルシャ湾岸に入った米艦隊は、イラン軍の自爆船、対艦巡航ミサイルによる攻撃を受け、米戦艦のほぼ半数が沈められるか、作戦遂行ができない状態に追い込まれた。これはパール・ハーバー以来の大失態だった。

情報の伽藍に圧倒される

第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい」という本に登場するこのエピソードの主役、ポール・ヴァン・ライパー退役海兵隊中将がどうして強かったのか、この本を読んでもよく分からなかったんだけれど、別のインタビューで、将軍が「戦争において、情報は非常に便利だが、戦場で人を殺すのはいつだって弾丸だ」と語っていたのを読んで、何となく分かった気がした。

圧倒的な情報収集手段を手に入れた人は、しばしばたぶん、「情報の伽藍」を作ろうと夢見てしまう。たくさんの材料が手に入って、壮大な伽藍を夢見て、設計して、伽藍の壮大さに圧倒されて、それが完成するまでの間、道具であるはずの情報に圧倒されて、動けなくなる。

弾が撃てれば、人は殺せる。戦争で必要なのは、だから「弾を撃つための目標と、その根拠」が全てであって、「戦場全体を見渡せること」それ自体は、便利だけれど、必須じゃない。

「雨をしのぎたい」と思ったなら、柱を立てて、とりあえず屋根をかければ、その掘っ立て小屋は、すでに十分役に立つ。

伽藍に支配されてしまった人は、雨は降ってるのに、伽藍は8割方完成して、すでに居心地のいい大広間が出来上がっているのを目にしているのに、「未完成な伽藍」に圧倒されて、しばしば豪雨の中、無為に立ちすくんでしまう。

目的が雨をしのぐことであったなら、翌日濡れずにいた人が、もちろん正しいのだけれど、世の中はしばしば、「状況を正しく判断した人」よりも、「雨に濡れなかった人」よりも、「ずぶ濡れになりながらも伽藍の完成に尽力した人」を評価する。伽藍に支配された人は、だからしばしばいい評判を勝ち取って、伽藍が壮大になるほどに、仲間はますます増えていく。

戦局眼というもの

偉大な将軍に欠かせない資質だとか、「戦場にあって、一瞥にして有利、不利を見透かす偉大な才能」なんて説明されている「戦局眼」というものがあって、シミュレーションとはいえ、圧倒的な戦力差が想定されていた米国正規軍を圧倒してしまったライパー将軍の能力もまた、こうしたものなんだろうけれど、「戦局眼」というものはたぶん、「自分にできることとできないこととを正確に把握した上で、行動決定に必要なもの「だけ」を見る」ことができる目線なのだと思う。

「眼」なんて言葉が付いているから、戦局眼はなんだか、レーダーとか千里眼みたいな能力みたいに思えるけれど、戦局眼を備えた人の目線というのは、たぶん半分以上が、自分自身に向けられている。

自身と味方とに向けられた目線、自分たちにできることと、できないこととがきちんと把握できていなければ、行動を決断するのに、そもそも何を見ていいのか分からない。分からないなら、どれだけたくさんの情報を集めても、その人は、それを行動に転化できない。 「戦局眼を持った人」というのは、たぶん自身を把握する能力に長けていて、莫大な情報を前に、むしろ視界を限定することで、代わりに意志決定の速度を得ているのだろうと思う。

どれだけ莫大な戦力、莫大な情報能力を持っていたところで、意志決定ができないのなら、死体に等しい。

「最初の一瞥で物事を判断できる」超人的な能力を持った人の逸話というのは、たぶん「自分にできること」と、「それを決定するのに必要なこと」とを、それぞれ突き詰めて分かっている人が判断を行うと、それが他者からは「一瞬」にしか見えないということなんだと思う。

エビデンスの時代に大切なこと

質の高い情報を手に入れることが、本当に簡単になったけれど、研修医が莫大な電子データベースにアクセスできたところで、自分自身に向けられた目線を鍛えないかぎり、そもそも自分が何を分かっていないのか、それ分からないから、きっと動けないのだと思う。 知識を蓄えたり、手技を磨いたりすることと、「戦局眼」に相当する何かを身につけることとは、たぶん相当に異なる。エビデンス語るのに判断しない名医とか、何でもできるのに何もできない凄腕医師とか、このへんが、違和感の原因なんだと思う。

たとえば救急外来で、患者さんの治癒に貢献できる行動というのは、そんなに多くない。

病気は無数にあるし、病気の数だけ治療手段は異なるんだけれど、「できること」という数えかたをするなら、補液と輸血、ステロイド、抗生剤、気管支拡張薬、昇圧薬、あとは挿管とチェストチューブと、たぶん10指に余る。診断手段は無数にあって、正しい診断にたどり着くためには、伽藍を建てるほどの情報が必要だけれど、「たかだか10の行動」を決断するのに、人体全部の情報なんて必要ない。

医師として大切な資質は、だから分からない状況に陥ったときに、「自分には今問題解決の能力が欠けている」ことを理解できることなんだと思う。

「分からない」を「分かる」ためには、自分にできることと、それを判断するために必要な情報とを把握していないといけない。これができていれば、「分かるまで探す」こともできるし、「分かる誰かに問題を渡す」こともできる。これができていないと、「理解できないのは問題が悪い」なんて、無能の原因を患者さんに押しつけてしまったり、情報の伽藍に圧倒されて、必要なタイミングで動けなくなったり、しまいには、「それでも見ろ、壮大な伽藍がここにある」なんて、状態の悪くなった患者さんを前に、それが「正しく」思えてしまう。

「もっと適当にやるのが本当は正しいんだよ」なんて、なかなか分かってもらえないんだけれど、そういう本作りたい。

ルーデルの「武徳」と、カラシニコフの「誠実」、そしてライパー退役中将の「目線」、そういうものが伝えられればいいのだけれど。

2009.11.14

合理化が手にした利益

恐らくは「能力ある人を育てる仕組み」があった場所に、「既得権」と「無駄」というキーワードをぶつけると、そこが「合理化」する。合理化した帰結として、「能力ある人を育てるための教育コスト」が、「無駄を排除した利益」として、攻撃者に転がり込んでくる。

合理化はだから、短期的には間違いなく利益を生む。その代わり、教育システムが「合理化」されてしまうから、もう後続は育たない。教育システムを再建しようにも、それには「既得権」のラベルが張り付いているものだから、政治という営為が「嫉妬の最小化」を目標に行われている以上、システムが再生することはあり得ない。

昔は旦那がいた

「日本一の左官職人」の昔話。

その人が若い頃には、どこの町にも「大旦那」とか「若旦那」がいて、若手の職人は、そういう人に目をかけてもらって、ある日「粋な茶室を作ってくれ。金は出す」なんて注文を受けたんだという。機会を与えられた若手は必死になって茶室を作って、それはもしかしたら、師匠の手には及ばないのだけれど、「旦那」はどこかに光るものを見つけて、お金をくれたのだという。

茶室を頼む旦那はいなくなって、「若手」はもう育たないから、日本一の職人は、同時に最後の職人でもあって、たぶん今、「最後の日本一」が、いろんな業界にいるんだと思う。

「マタギ」と「ナガサ」

熊撃ちの猟師であった「マタギ」が羽振りのよかった昔は、地元の鍛冶屋さんに自分の刃物を作ってもらうものだったんだという。

鍛冶屋さんにもやっぱり、「師匠」と「若手」とがいて、手分けして、いろんな刃物を打ち分ける。マタギの人たちは、「ナガサ」と呼ばれる大きな刃物を携帯するのが常で、これで藪を割って山に入って、何かの理由で銃が使えないときには、ナガサで熊と戦うときもあるらしい。

ナガサはだから、恐ろしく頑丈にこしらえてあって、先端部分だけ、相手をさせるよう、両刃になっている。マタギの命を預ける刃物だから、もちろんこれは「師匠」の仕事で、値段もえらく高価なものだそうなんだけれど、「師匠」が留守にしていたある日、マタギがナガサをオーダーして、まだ若手であったその鍛冶屋さんは、必死になって一振りのナガサを仕上げて、その人に届けたんだという。

それが独立したきっかけになったのだと。

無駄と一緒に捨てたもの

昔の問屋さんは、若手を育てる役割を担っていたのだなんて記事を読んだ。

昔はあちこちに問屋さんがいて、こういう人たちは、流通から対価を得ていたんだけれど、問屋さんは「無駄」であると同時に、たとえば作家の目利きをして、腕のいい若手にはお金をはずんだり、引き合いの少ない気切には在庫リスクを引き受けてくれたりして、若手の作家を育てる役割も担っていたんだという。問屋さんがAmazon に追い払われて、流通には無駄がなくなったその代わり、「若手」はたぶん、育つ機会を減らしたのだと思う。

「能力」というものを、「仕事を作り出して、それを最初から最後まで完成できる人」みたいに定義すると、その人がどれだけ優秀であったとしても、機会がなければ、能力は磨けない。今はなんだか、「能力を持った人」を育てる仕組みが、社会の中からどんどん減っているような気がする。

焼き畑農業の先にあるもの

それは無駄といえば無駄なのだと思う。「大旦那」というのは要するに成金なんだし、「マタギ」の財を作った熊の胆のう、同じ重さの金より高いなんて言われた物質にしたって、今では普通に薬局で買える。無駄がなくなること自体は、決して悪いことには見えないんだけれど、「無駄にお金を使える人」が社会から減ったことで、「能力を持った人」が誕生する余地が、世の中から失われてしまった。

「社会から無駄を放逐して、全体の富が増えました」なんて、これは一見いいことなんだけれど、「富」が増えた本当の理由というのは、実は社会というか、旦那衆が負担していた「教育コスト」をお金に換えて、それに変わるものを、社会からなくしてしまったからなんだと思う。

戦争を民営化する、「戦争株式会社」を導入すると、戦争のコストが劇的に下がる。雇う側は、安価に「強い軍隊を購入する」ことができて、現場で戦う兵士もまた、国軍で戦うよりも、はるかにいい給料、いい装備で仕事ができる。

民営化はだから「いいこと」なんだけれど、このやりかたで損をするのは、「戦争株式会社」に熟練した兵士を奪われる国家の軍隊で、彼らは軍隊の教育コストを負担しないからこそお金を得られるし、教育を受けていない、何の資格も持っていない人たちには、だから「戦争株式会社」は、過酷に安い給料しか支払わない。

国内の問題にそっぽを向いて、「移民入れましょう」なんて人たちの本音は、あれは「能力を生むコストの外注」であって、「教育に必要な無駄」、能力を持った人を生むシステムを、今から日本に再構築することを、「上」の人たちは、もう無理だと、日本をどこかで見限っているからなんだと思う。

いろいろ詰んでる。

2009.11.08

「普通の人」に向けたサービスのこと

恐らくは「便利であること」それ自体には、お客さんは魅力を感じないのではないかと思う。

「便利さ」に価値を見出すのは、新しいものに飛びつくのが好きな、ごく一部の人であって、 お客さんの多くは、便利であることよりも、「自分が真ん中にいる」感覚を共有することを好む気がする。

2つの入り口を持つ料理屋さん

うちの近所にあるショッピングモールに「ドリア専門店」と「石焼き鍋専門店」とが入っていて、2つのお店は、中で厨房を共有している。

お店はモールの角地にあって、図面上はたぶん、「角地にある大きな店舗」なんだけれど、中を仕切ってあって、「三角形に分かれた2つのお店」に改造してある。お客さんは、ドリアを食べたければドリアの門に、石焼きビビンバを食べたければ石焼きの門にそれぞれ入って、お互いの行き来はできないようになっているんだけれど、バックグラウンドでは、同じ厨房で、いろんな料理が作られている。

そこは要するに、「暖めれば出せるもの」をたくさん冷蔵で用意しておいて、学生アルバイトを雇って、火にかけた品物をお客さんに供給しているだけなんだけれど、保存が利くからなのか、メニューの数はけっこう多い。それぞれのお店で、「ドリア」と「鍋」と、だいたい20種類ぐらいずつ。

お店はだから、その気になったら「40種類の料理を出す大きな店」にすることもできたんだろうけれど、そのお店は、あえて仕切りを入れたのだと思う。

普通の人の普通の楽しみかた

恐らくは「普通のお客さん」は、典型的な楽しみかたをしたい。

たとえば異国のお祭りに迷い込んだところで、「普通の人」はたぶん、それを楽しめない。異国なんだから、何を見たって珍しいのだし、自分が面白いと思ったものを楽しめればそれで十分なんだけれど、普通の人にとってはたぶん、「自分が楽しい」ことよりも、「みんなと同じ楽しみかたができた」と納得することのほうが、もっと大切。

40種類のメニューを持った大きなお店は便利だけれど、そのお店を、普通の人が、じゃあどういう楽しみかたをしたらそれが「典型」なのか、大きなお店は分かりにくくて、たぶんお客さんは、「普通に楽しんだ」満足感を味わえない。

賑やかでなんだか楽しそうなんだけれど、どこから楽しめばいいのか分からない、こういうのはたぶん、「楽しみたいように楽しめる」ような、「強い」人には居心地いいんだろうけれど、「普通の人」は、たぶんマニュアルを渡されて、それをなぞって「はい楽しんだよね」って言われないと、楽しいとは思えない。

「顧客から見た風景をシンプルにして、分かりやすい楽しみかたを提供する」ことが大切なのだと思う。「何でもあり」を楽しめる少数に向けたサービスは、どこかでしぼんでしまうような気がする。

ニコニコ動画が複雑になった

ちょっと前のニコ動は、好きな単語を検索して、再生数の多い動画を楽しんで、タグをたどって面白そうな動画を探して、大体みんな、そんな風に楽しんでいたみたいだったから、安心だった。

今はなんだか、「いわゆるニコ動」以外にも、生放送とか大百科、コミュニティ、いろんな楽しみかたが提案されて、それぞれ連携して、便利になって、多様になって、結果として、「自分はたぶん真ん中を楽しんでいる」なんて、そんな安心感が遠くなった。今までどおりに遊んでいるのに、なんだか不安な気分。

これが文化祭とか、あるいは実世界でのイベントなら、たとえば「順路を回る」とか、「好きな歌手のコンサートを聴く」とか、主催者側はたいてい、「典型的な楽しみかた」というのを提示する。お祭りを楽しみたい人は「祭の正門」をくぐるってパンフレットを受け取るだろうし、コンサート目当ての人は、たいていは看板が立っていて、中庭のステージ前で待機していれば、そこでコンサートを楽しめる。

「普通の人」はたぶん、自分がそこを楽しむよりも、むしろ「みんなと同じ」を志向して、びくびくしながら「群れの真ん中」を探す。「いつも真ん中」感を提供しようと思ったなら、だから「たくさんの選択肢」を提供するよりも、むしろ「たくさんの門」を提供して、「つながり」は、バックグラウンドで提供したほうがいいような気がする。

今みたいな「何でもあり」の賑やかな入り口ページは、やっぱり難しい。

たとえば「いわゆるニコ動」を楽しみたい人なら、Google みたいな検索窓と、カテゴリーごとのタグで十分だし、「ニコニコ生放送」を楽しみたい人に向けたページなら、やっぱりそれはテレビの延長なんだから、入り口ページを開いたそのとたん、「世界の生放送」が勝手に始まるぐらいでちょうどいいんだと思う。コミュニケーションのページなら、そこはmixi そっくりのページレイアウトでいいわけで、たとえそこでやりとりされるのが動画サイトの話題とはいえ、コミュニケーションを提供するページからは、あえて動画を隠すぐらいでいいんだと思う。

ページを開いて、開いたそのとたん、「どうすれば典型的に楽しめるのか」が視覚的に提供されて、はじめてたぶん、普通の人は「楽しみかた」を理解できて、理解を提供できないサービスは、それがどれだけすばらしいものを提供していても、やっぱりどこかで天井に突き当たる気がする。

あくまでも「自分が典型的な普通の人」であることが前提での印象なんだけれど。

2009.11.05

ガタがあるからうまくいく

先週の日曜日には、熱を出した子供さんが100人近く来た。休みが明けて、外来が始まって、 もちろん「それ以上」を覚悟していたのだけれど、外来は、平和なままだった。

インフルエンザはたしかに流行しているんだけれど、パンク寸前の休日外来は、 みんな「休みだから」病院に来てたわけで、「熱が出たから」病院に来た人は、実は案外少なかった印象。

遊びが減ってこうなった

社会から「遊び」要素が減って、平日にみんな、休めなくなった。

土日をずらして営業していた病院というのもあって、一時期はうまく機能していたんだけれど、結局みんな止めてしまった。土日外来の収益自体はよかったのだけれど、世の中が土日休みで回ってるから、役所とか学校とか、「平日」を要求する場所がシビアになって、スタッフに子供ができると、組織が瓦解しちゃうんだという。

世の中の遊びが減って、しわ寄せが、緊急避難装置的な場所に集まって、結果として、救急外来のパンクとなって現れてる。誰が悪いというわけではないんだろうけれど、遊びを「無駄」だと断じる文化が、こうさせたのだとは思う。

AK-47にはガタが多い

世界の兵士に愛用されるAK-47 というライフルがあって、AKは、部品どうしのはめ合わせは遊びだらけで、部品はどれも、けっこう重たい。

見た目の精度感みたいなものとは無縁なんだけれど、AKはその代わり、ガタが多いからホコリに強くて、どんな状況でも、少ない手入れでよく動く。部品が重たいから、銃弾を動かす力もそれだけ強力で、弾が少々凹んだぐらいなら、AK-47は、弾詰まりを起こすこともなく動作する。

AK-47の「ガタ」とか「重たい部品」は、それを設計したカラシニコフに言わせれば、最初からそういうように作ってあるものなんだという。これをたとえば、より精密に「改良」したところで、改良されたその製品は、たぶんオリジナルより悪くなる。そこにどうしてガタがあったのかを考えないで、「前より厳密」を、無批判に「いいことだ」なんて努力する人たちには、AK-47 は一生かかったって作れない。

厳密を、単純に「いいこと」なんて断じると、AK-47はたぶん、砂粒一つ噛みこむだけでで動作を止める。「厳密に改良された」ライフルで戦って、兵士がみんな、動作不良で殺されたところで、努力の好きな人たちは、「やるべきことはやった。しかたがなかったのだ」なんて、満足そうに敗北をふり返る。自分たちのせいなのに。

うまく回ってた何かに「無駄」を見つけ出して、それを「改良」したとのたまって、むちゃくちゃになった現場からは目をそむけつつ、勝利宣言して尻まくる人たちって、幸せそうだなといつも思う。

精度を出して系が死ぬ

AK-47をコンサルタントに手渡して、「これをもっと高性能にして下さい」なんて問題を出したらいい。少なくとも、ガタをなくす方向の改良を提案した人は、AK-47で射殺されるべきだと思う。

「精度を追求した帰結として系が死ぬ」現象というのに、何かもっともらしい名前を付けて、世の中にもっと周知してほしい。トヨタの「カンバン方式」にしてから、あれはたぶん、「無駄とり」なんかじゃなくて、もっと別の理由があって、ああいうやりかたにたどり着いてる。

「個々の部品が完璧な動作をすることで、系としての動作が完璧になる」なんて考えかたは迷信であって、むしろ「個々の部品に最大の自由度を与えつつ、系としての動作を一定に保つような制約をデザインする」ことを目指さないといけない。世の中で成功している多くのプロダクトが、たぶんこうした方針に沿っているのに、それはしばしば、「改良」が好きな人から見れば、「無駄の多い」ものに見えて、「改良」を受けた結果として、いろんなものに不具合が波及する。

個々のその場所を「よく」することそれ自体は、正義どころか悪徳なんだと思う。「全体の良さ」につながる改良は、むしろしばしば、どこかを「悪く」、「いいかげんに」することで達成される。

その代わりたぶん、「無駄の多い平凡なもの」を開発するには、莫大な人的コストがかかる。それはたとえばAK-47だし、米軍のジープだとか、補修用のダクトテープなんかもそうだけれど、ああいうのは、誰かのアイデア一発で生み出されたものでは決してなくて、実際には、プロダクトには莫大なコストが投じられて、長い開発期間がかかってる。

「必要なガタ」を備えた、ロバスト性の高いプロダクトを生み出すためには、たくさんの人的資源を擁する大きな組織が必要で、そういう場所は、しばしば高機能高精度病に侵される。「一見平凡に見える非凡なプロダクト」は、だから組織を強力にガバナンスするリーダーがいて、フォンブラウンとか、デヴィッド・カトラー みたいな、「大組織を束ねる独裁者」と、独裁者を支えるたくさんの技術者とがそろって、初めてたぶん、そうした製品が作られる。

平凡なのに、何となく広く使われる、「 これ以上改良の余地がない中途半端さ」を備えたプロダクトの裏側には、たぶんすごい物語が隠れてる。それを読めない人は、そもそも「改良」になんかかかわってはいけないのだと思う。

2009.11.02

努力は報われないほうがいい

現在進行形ですごい状態にある人を見て、「僕も頑張ってああなるんだ」なんて、 その人と同じやりかたで、同じ場所を目指して頑張るのは、危険なことだと思う。

何かの間違いがあって、頑張ったその人の成功を許してしまった業界は、その時点で詰んでしまうから。

承認のコストがつり上がる

同じ方法論で頑張った人は、どうあがいたってオリジナルのコピーにしかなれないものだから、 そういう人は、ものすごく頑張る。頑張った人が、「頑張り」に見合った承認を求めると、 世代を重ねるごとに、「頑張り」のコストはどんどん上がる。

業界のどこかで「すごい」を観測したのなら、その人と同じやりかたを重ねるのではなく、 「もっと簡単にあそこに到達するにはどうすればいいんだろう」なんて考えないといけないし、 それでも「頑張り」以外の答えが出ないなら、「すごい」その人たちがいなくても何とかなるように、 仕事のやりかた自体の書き換えを目指すべきなんだと思う。

「僕も頑張るぞ」というのは、危険な選択だと思う。

一度「頑張り」の魔界に足を入れると、もう後戻りができない。 頑張ったあげくにどこかに到達したとして、頑張りの元を取れなかったら失敗判定される。 「頑張り」というのは本来、ものすごく分の悪い賭けであって、「頑張るぞ」という選択は、 だから地雷原にあえて足を踏み入れるようなものなんだ、と理解しないといけない。

個人の体験が一般化する

頑張った結果として成功した人が、次世代に頑張りを「正解」として伝えると、業界が終わる。

教育をする人たちは、研修医には、「頑張る前に、それが本当に必要なのかどうか考えなさい」なんて 教えてほしいなと思う。

「とりあえず頑張る」というのは本来、保身の手段であって、成功の手段とは違う。

誰かの天才的なひらめきを見たら、それを「天才」と評するのは思考停止であって、 「凡人」を自覚している競合者は、同じような発想に、力ずくでたどり着くやりかたを考える。 天才抜きでも同じ結果を出せるような、そんなやり方が示されて、 初めてそこで、「頑張る」意味が見えてくる。

「漠然と頑張る」ことで成功した人というのは、たしかにいる。でもそれは、 やっかみ10割で言ってみれば、誰か高齢の、偉い人たちの視界に入り続けることで、 組織にとって「かわいい」人間となり、上に引き上げてもらうための、一種の処世術であったはずなのに、 「頑張った」人たちが、「僕たちは頑張ったから報われたんだ」なんて賢しげにつぶやくのは、 それはもう、後続を殺すための欺瞞情報なんだと思う。

「俺は偉くなるために年寄りの尻舐めたんだ」って威張るのは、むしろ大いに「あり」だと思うし、 そういうことを包み隠さず話してくれる人の言葉はとても大切なんだけれど、 「じじいの肛門を吸引すると元気が出るぞ」って後輩に教えたところで、 それを実践した下級生は、たぶんみんな病気になって倒れてしまう。

伝統芸能が証明されると業界がダメになる

自分たちの暮らす医療という業界が、「やっぱりあったけぇのが一番だよ」みたいな、 年寄りの価値観的なものに収斂していって、統計屋さんがそれを覆すどころか、 「暖かいやりかた」を強化する方向にすり寄ってるのに、すごく嫌な予感がする。 それをやられると、臨床が続けられない。

「名医ならば一目で分かる」的な、昔ながらのやりかたというのは、 それが再現できたらたしかにすばらしいんだけれど、それが統計的に「正しい」やりかただと証明されて、 それを常に再現するように求められたら、困ったことになる。自分は名医にはなれないから。

「名医なら余裕で分かる」が真になってしまうと、逆説的に、 「診察して分からなかったら名医でない」なんて、あるいは「診察直前までは名医でいられる」なんて価値を生む。 これは結果として、「診察しない名医」とか「逃げる名医」を増やしてしまう。

古い価値軸が統計で固められてしまうと、成功事例が収斂する。

「最初に診察したバカ医者を、あとから来た名医が口でたしなめる」というやりかたが 成功すると、リスク抜きに成功をつかむやりかたが決定して、 みんながそれを再現する。「名医」であり続けたい人は、そんな場所に自らを置こうと 立ち回って、実際問題、分からない患者さんを抱えると、 相談しても「分かってから相談して下さい」なんて、 「専門的意見」をもらうことが増えている。

昔のカブトムシは空を飛べた

統計野郎が業界のベテランにすり寄るちょっと前、自分が3年目ぐらいだったころ、 救急外来は大賑わいで、病院どうし、患者さんの奪いあいだった。 どこの病院も救急を受けて、救急外来はお互いに覇を競って、毎晩がお祭り騒ぎで、そこには医師があふれてた。

「名医のやりかた」が統計で固められて、「とりあえず何とかする」乱暴なやりかたは、 いつの間にか統計的に間違いであるなんて「証明」された。

「カブトムシは航空力学的に飛べないことが証明された」なんて、虫が飛んでるのを見れば、 嘘だってすぐ分かるのに、うちの業界だと、何とかしている奴らが「間違ってる」ことになった。

「飛んだら間違いだ」なんて言われたら、虫もたぶん地面を歩く。 何したって「間違ってる」とか言われたら、もう仕事ができない。 今から8年ぐらい前から、だから救急外来には、「診たら負け」なんて信じられない言葉が飛び交って、 救急車は行き場を失って、救急外来に立つ人は、一気に減った。

第一世代の「達人」は、本当に達人だったんだけれど、その超人的な正しさを、 「統計的に裏付ける」ことを許してしまったことは、致命的な失敗だったんだと思う。 達人は再現不可能で、達人抜きでも同じ結論にたどり着くやりかたを編み出して、 それを検証することこそが、統計屋さんの仕事だったはずなのに。

医療は実質吹き飛んでる。

原因はいろいろだけれど、つまるところは、これは当時の達人が、 尻舐めにすり寄ってきた統計野郎を皆殺しにしてたら、世の中こうはならなかったんだと思う。 エクセル以外に友達のいない、さみしい大学時代を送った根暗な奴らが、世の中に復讐しようと 「頑張った」結果として、復讐は達成されて、業界は焦土になった。

じゃあどうすればいいのか

自分は「頑張るという文化」それ自体が間違いだ、と思っていたんだけれど、 「自分の生きていく世界で「頑張る」こと自体は幸せなことだと思うし、「頑張る」方法が間違うのはしょーがなくて、そこで競争すればよくって、頑張るなというのは違う 」 という指摘をいただいて、反論できなかった。

で、じゃあ今度は、顧客を志向した、公正なルールなら、統計野郎を打ちのめせるのかといえば、 やっぱりあんまりそんな気がしなくて、 今度は「払った犠牲と得られた結果が比例するとき、人は嫉妬しないんですよね。要領よくやって、少ない努力で大きな成果を得る人に対して、人は嫉妬する」なんて指摘をいただいて、 たしかに系の嫉妬を最小化するやりかたとして、 えらい人のたどってきた歩みをそのまままねるというのは、 その先に滅びがあるんだとしても、局所的には正解なんだな、とも思った。

どうすればいいんだろう。

2009.10.31

交渉手段としての火砲と装甲

交渉ごとというのは要するに、「相手に何かをあきらめてもらう」必要が生じたときに発生するものなんだけれど、相手のあきらめを促す手段として、「ものすごい火砲」を見せるやりかたと、「分厚い装甲」を見せるやりかたとでは、交渉の質が異なってくるような気がする。

火力にできないこと

現代戦は「ミサイル」が主役になるから、分厚い装甲を装備したところで効果は薄くて、今の戦艦は、案外装甲が薄いのだという。それとはまた、理由は異なるのだろうけれど、民兵の武器はせいぜいライフルぐらいだから、「今の時代、戦車は不必要で、装甲車で十分」なんて議論もあるらしい。

状況を支配している軍隊に、ライフル程度の武器で戦いを挑んだところで、彼我の火力差をひっくり返せないのなら、勝負にならない。戦うことは無意味だから、理屈の上では、味方に圧倒的な火力があるかぎり、相手の武器に見合った装甲を持っていれば、戦いに負けることはないし、そもそも戦いは始まらない。

ところがイラクなんかでは、起きないはずの「戦い」が至る所で発生して、装甲を持たない車両で移動しているアメリカ兵に大きな被害が発生したり、パレスチナをパトロールするイスラエルでは、だから市街をパトロールする目的で「戦車」を導入して、一定の効果を上げているらしい。

「相手の火砲に見合った厚さの装甲を持っていればいいものじゃない」というのが、不謹慎だけれど面白い。

コミュニケーションとしての戦争

戦いというものも、たぶん数学ではなくコミュニケーションの問題なのであって、たとえ圧倒的な火力の差を持っていたところで、分厚い装甲があって、初めて成立する交渉というものがあるのだと思う。

圧倒的な火砲は、「戦ったところで、皆殺しだよ」というメッセージを伝えるけれど、圧倒的な装甲は、たぶん「戦っても、弾が無駄になるだけだよ」なんて、質の違ったメッセージを発信する。

火砲を前にあきらめた人は、「臆病者」になってしまうけれど、装甲を前にあきらめた人は「物事が見える賢明な人」になれる。同じ「あきらめ」を促す手段にしても、相手の面子を立てるのは、火砲でなく装甲のほうであって、こういうのはたぶん、コミュニケーションには大切なんだと思う。

戦わずして勝つために

「戦わずして勝つ」を実現するには、だから火砲を見せつけるよりも、分厚い装甲を見せつけたほうが、そうなりやすい気がする。

ただしその代わり、歴史上、「圧倒的な装甲」が状況を決定した戦いがあったのかどうか、そのへんがよく分からない。調べようにも資料がないんだけれど、なんとなく、無いような気がする。

Twitter では、「比喩においても現実においても、あらゆる場面で現代は盾より遥かに矛が強い」なんて感想をいただいたのだけれど、たしかにならば、自分たちの病院で、「法律という矛」以外に、理不尽な要求を通そうとしてやってくる人たち相手に、何かその人たちのあきらめを促すような「盾」に相当する機能があるかといえば、そもそもそんなものが存在しない。

「成功した盾」として、今現在、実社会で機能しているものというのは、何かあるんだろうか?

2009.10.29

総合医はお辞儀ができない

相手に打ち勝つためでなく、むしろ様々な業種の人たちと「共生」していくために、 専門性という看板が役に立つような気がする。

握手をしないと始まらない

「何でもできる医師ははかっこいい」なんて、そういう価値軸に基づいた訓練を受けた大手民間病院の医師が、 大学に「帰還」して、「何でもできる」自分をそこでデビューさせることに失敗して、 そこから先がちょっと不遇になるという事例が時々ある。

こういうのはたぶん、「握手の失敗」なんだと思う。

人がたくさんいる豊かな環境、様々な専門技能に分化した、そのくせ「優秀さ」みたいな漠然としたパラメーターにおいては 似たような人たちが群雄割拠している場所に割り込んでいくためには、たぶん「見えやすい弱点」が必要になる。

頭を下げないと、新しい場所には入れない。「何でもできます」という人は、 「何かができない」人に対して頭を下げるための理由が発生しないから、 どこか新しい場所に分け入って、そこに自分の居場所を確保するのが難しい。

これが専門家なら、こういうときに「専門家です。他のこと分かりません。教えて下さい。よろしくお願いします」 なんて、最初からそこにいる誰かと握手して、自分の居場所を分けてもらうための「最初のお辞儀」がやりやすい。

恐らくは専門技能というのは、それを使って誰かを従えるための武器というよりも、 「私はここが弱いんです」なんて、その専門家を迎え入れる人たちに明示することで、 新しい場所に入り込むための切符を提供する道具として、上手に機能しているんだと思う。

「えらくなれる場所」を探す

誰だってたぶん、「相手に舐められたくない」なんて、どうしようもなく思ってる。 メッセージはだから、発信する側と、それを受け入れる側と、しばしば意味あいが異なってくる。

「専門技能を持っています」というメッセージは、それを受ける側からすれば、 「専門領域以外は弱いんだ」なんて受け取られる。迎える側はだから、 「教えてやろう」なんて、素直に行動する気がする。

「何でもできます」という看板は、相手には「俺すげぇ、俺に黙ってついてこい」なんてメッセージを送る。 「何でもできる」人が、どれだけ丁寧に、腰を低くして相手に接したところで、 そうしたメッセージは伝わらない。

「何でもできる」人が、看板の伝えるメッセージのとおりに、その能力を生かすためには、 最初から「そこで一番えらい人」としてそこを訪れない限り、難しい。 「俺すげぇ」の看板を背負わざるを得なかった、「何でもできる」以外の売り要素を身につけることに失敗した人は、 だから「自分がえらくなれる場所」を探して、そこに居着くことを考えないと、幸せにはなれない。

「万能選手」はたぶん、高地とか、雪山みたいな厳しい環境に追いやられる。 ジャングルだとか、サバンナだとか、生態の豊かな場所にいる生き物は、 競争の結果として、ある種の専門性を備えた、お互いに生態系を形作る理由を持っていないと、 生き残れない。

夜行性の生き物や、あるいは高地や雪山、乾燥地帯みたいな場所に適応した生き物というのは、 一見すると専門性が高いようでいて、彼らは案外、「そこに追いやられた何でも屋」であるような気がする。 そういう場所には栄養だって少ないだろうし、使えるものなら何でも使い尽くさないと、 たぶん生き残っていけないだろうから。

「何でもできる」訓練を受けた医師は、自分みたいに田舎の病院に引きこもったりとか、 救急に進んだりとか、当直専業で働いていたりする。ああいうのはみんな、 「えらくなれる場所」を、それぞれ探した帰結なんだと思う。

それでも頑張ったほうがいい

ここ何年間か、いろんな科の先生に、「バカです。無能です。よろしくお願いします」と頭を下げて、 いろんなノウハウを教えてもらった。そういうものがずいぶんたまって、 それはやっぱり便利だったから、マニュアルにまとめて、無料だからではあるんだろうけれど、 一応そこそこ評判がいい。

「君はここが弱いね」なんて指摘から始まった交流は、長持ちするし、いろいろ教えてもらえる。 「明示的に無能を表明する。外に対して常に開いている」というやりかたは、だからあざとい 処世術として、理にかなっているんだけれど、それでもなお、「これ」という専門技能は、 自分なりに磨いておくべきなんだと思う。

教えてもらって、「内なる技術屋のプライド」みたいなのと戦うのは、やっぱり難しい。 握手の代わりに「教えてあげますよ」なんて言われるのは、それは交渉の第一歩として大成功なのに、 内心では「俺知ってるよ」って言い返したくなる欲求を抑えるのが大変で、こういう葛藤を乗り越えるには、やっぱりどこかで「えらくなれる場所」を持っていないといけない。

下らないことなんだけれど、blog をほめてもらえるようになって、 こういう葛藤がずいぶん減って、「バカなんで教えて下さい」なんて、 いろんな人に頼めるようになった。

自分の中に、「相手に素直に頭を下げられる何か」を得るために、たぶん専門技能というものは 磨く必要があって、頼れる何かを一つ持つことで、その人はたぶん、たくさんの人と、 葛藤無くつきあえるようになるんだと思う。

2009.10.26

働きかたが多様化している

今うちの施設に来てくれている内視鏡の先生は、普段は別の県で仕事をしていて、 週に1回、200km近く離れたその場所から、内視鏡検査のためだけに、車を飛ばして 病院に来る。もっと近くにだって、たぶん内視鏡医を必要としている場所は あるんだろうけれど、車が好きなんだという。

当直だけを代行してくれる、という働きかたが増えているらしい。

リクルートを経由して、最近何人か、夜間の当直だけを担当したい、という 仕事の依頼が入ってくるんだという。昔はこういうのは、医局の若手が アルバイト代わりに病院を泊まり歩いて、大学の安月給を補ったり、 あるいは部活の「先輩後輩」つながりで、他の大きな病院に勤める傍ら、 小さな施設に、当直だけ来てもらったり。

外来だけとか、あるいは検診だけ、内視鏡だけ、当直だけなんて、 今までだったらあり得なかったような勤務形態が、ここに来て、田舎の病院にも増えてきている気がする。

伝統的な医師のありかた

これから来てくれるかもしれない当直代行の先生は、東京都内でホテル暮らしをしているらしくて、 決まった住所を持っていないんだという。陸の上で「船医さん」みたいな暮らしかたをしていて、 いろんな病院を、いわば泊まり歩くような仕事のしかたをしていて、気ままに過ごしているんだという。

大学でも最近は、医療以外のことに、人生の軸足を移す人が増えてきていて、 医局を離れて、リクルートを頼って、県内の病院に、外来だけの非常勤医として 勤めたりする例が出てきているんだという。

「医局出身」の医師というのは、基本的には外来と病棟と、最低限度の当直と、全部一通りできて、 初めて「○○大学」を名乗ることが許されて、医局から派遣されてきた医師は、 だからある程度の「規格」に沿った、いわば使いやすい形で派遣されるのが 当たり前だったんだけれど、その代わり、多用なやりかたは許されなかった。

当直専業の医師なんて、医局出身の医師のありかたからすればこれは「規格外」であって、 医局に「こうしたい」なんて相談したところで、もちろんそれは許されなかったし、 仮にどこかの病院で、そうした勤務形態に需要があったところで、医局という場所は、 そこまで細かい対応をしてくれなかった。

人と人とをつなぐやりかた

今はたぶん、リクルートに代表されるような、医師を派遣する会社、 人字の需要と供給を代行するプロ集団が自分たちの業界に入ってきて、 流れがずいぶん変わりつつある。

うちの業界に一番欠けていた、あるいは今でも欠けているものというのは、 「人と人とのつなぎかた」であったのだと思う。

医局はたしかに、医師の配分に貢献してきた組織だと思うんだけれど、 「つなげる」ことには徹底的に不得手であって、だから医局は、 あたかもレンガを量産するみたいに、一つの決まった規格に沿った「勤務医」を 生み出して、規格に外れた人は、「開業医」になるしかなかった。

派遣される医師と、医師を受ける病院側には、本来は様々な勤務需要と、仕事の需要とがあって、 そうした中間地帯には、必ずしも「レンガ」の規格がぴったり来ない場所がたくさんあったはずなんだけれど、 「つながり形成」のプロであるリクルートみたいな会社が入ってくることで、そうした間隙にも、 医師が入っていけるようになったのだと思う。

「若手医師はどこに消えた?」論議というのは、たぶん大学病院と市中病院との衝突ではなくて、 むしろ流通形態の衝突であったのだと思う。

勤務医という、一つの規格に沿った勤務形態を大量に提供する、大学病院という流通形態と、 医師個人の需要と、受け入れ病院の仕事需要とを対応させて、全国区で需要のすりあわせを試みる、 リクルートみたいな会社のやりかたと、こういうのはたぶん、新聞メディアがネットに駆逐されつつあるのと 同じく、技術の進歩に乗り遅れた側が、一方的に敗北していくのを見てる気がする。

「カタログ映えするラベル」の時代が来る気がする

「○○大学医局」のブランドで、一定の規格に沿って養成された医師を迎える時代から、 これからはたぶん、「こういう勤務形態で働いてくれる人がほしい」なんてどこかの会社に発注したら、 「人間のカタログ」が届いて、「この人」なんて指定できるようになるんだと思う。

需要に最適な人間を、全国区で選択できるようになったなら、「人柄」とか「信頼」みたいな、 カタログに載せにくいパラメーターは、意味を持たなくなる。たぶん「いい医師を目指す」とか、 これから先は、止めたほうがいいんだと思う。

カタログの時代、大切になるのはやっぱり、専門医を持っているとか、 学会認定の資格を持っているとか、 カタログ映えするラベルを自分にたくさん貼り付けることであって、大学医局の役割もまた、 人材派遣に敗北して、これから先は「ラベルの印刷」と「ラベルの販売」へと 移行していくような気がする。

漠然とした「良さ」を目指して、カタログ映えするラベルの獲得を怠ってきた自分みたいなのは、 これから先、どう考えてもいい目を見る可能性がなさそうなんだけれど、 次どうしようかなとか、けっこう考える。

2009.10.24

CMDT 2010年版に対応しました

  • 参照していたCurrent Medical Diagnosis and Treatment の改訂に伴い、各章の参照ページを2010年版に準じたものに訂正し、主だった改訂箇所について、内容に反映させました
  • CMDT2010年版に記載が加わったことに伴い、新たに「インフルエンザ」と「ワーファリンの使いかた」の項目を追加しました

こちら からHTML 版が読めるようにしてあります。

2009.10.17

交渉の名人が来た

警察で収監中の人が、「症状悪化にて入院希望」でやってきた。刑事さん同伴で。

外来でおきたこと

  • 「ひどい頭痛にて受診希望」ということだったんだけれど、元気だった。朗らかで、親しそうで、 当直をしていた自分と患者さんと、なんだか15年ぶりに出会った友達としゃべってるみたいだった
  • その人が外来に来た最初、「先生、俺はこの病院が第2の実家みたいなものなんだよ」と言われた。 子供の頃はよくこの病院に来てたとかで、「俺は小学校の頃からここの院長に頭叩かれてたから、 バカになっちまったんだよ」とか、懐かしそうに語ってた。目も笑ってた
  • 愛想がいいのが、逆に怖かった。警察の人が6人ぐらいでその人を囲んでいて、その人も全身入れ墨、 手錠に腰縄のフル装備なんだけれど、ずっと朗らかだった
  • 「症状が悪化」しているようには見えなかったし、本人も、痛がってみせるとか、 苦しんでみせるとか、そんなそぶりは全くないんだけれど、「今は生涯最悪の症状」であって、 「頻回の嘔吐」と「頻回の頭痛」があるんだなんて、笑顔で語った。ちゃんと証人もいるのだと
  • 「症状」は極めて具体的だった。○月○日より頭が痛くなって、その日に何回トイレで吐いて、 「そのことは刑務官の鈴木さんが証言してくれる。写真もあとから撮ると言っていたし、そう約束した」とか、 とにかくあらゆる細かい振る舞いを、「何回」という具体的な数で語って、 何かあったらそのつど、「証拠」とか、「証人」の存在を付け加えていた
  • その人は今までにも、いろんな施設から薬をもらっているらしくて、もらった薬もまた、 「これは飲みたくない」とか、「これは朝にまとめて飲みたい」とか、刑務所で、ずいぶんいろいろ訴えてたらしい
  • で、薬の飲みかたはずいぶんアレンジされていて、「これどれぐらい飲んでましたか?」とか尋ねると、 「自分はこう飲みたかったのに、刑務官の○○さんがそういう飲み方はよくないと、自分に薬をくれなかった」とか、 「○月○日に、○○病院に受診をしたいと弁護士を通じてお願いしたのに、刑務所のレベルでそれが断られてしまった」とか、 自分が置かれた環境が厳しいこと、「治療」しようにも、それが許されないことを、やっぱり具体的に語り出した

外来には、自分と看護師さんと事務の人と、あとは警察の人がたしか6人、みんな緊張していて、 何があっても対応できるように身構えていたのに、手錠に腰縄をつながれて、警察官に囲まれたその人は、 なんだか八方ふさがりのその場所で、世界で一番自由な人に思えた。

患者さんの「症状」が、どこまで本当だったのかは分からない。自分たちには、それを疑うことは許されないし、 疑ったらたぶん、「先生は俺を疑うんですか?」とか笑顔で尋ねられるだろうし、よしんば刑務所に問い合わせをして、 刑務官の人が「そんな現場は見ていない」なんて語ったとしても、あの人ならたぶん、「俺は刑務官に裏切られた」と、 やっぱり笑顔で傷ついてみせるような気がする。

見た目は元気なその人は、それでも症状を尋ねた限りでは「重症」であって、本人さんの口を借りれば、 「刑務所という場所は、病人が療養するには不十分な環境しか提供してもらえない」から、 たしかにこの状況は、「入院」という選択枝以外とれないように思えた。ここで折れると、 その人がまた来たとき、今度は「入院の先」を笑顔で求められるだろうから、折れるわけにはいかないんだけれど。

自分ではもう手に負えなくて、それこそ「小学校の頃から知っている」上司に来てもらって、 いくつか検査を行って、全ての検査が正常値であることをお話しして、話は丸く収まったんだけれど、怖かった。

患者さんが求めていたもの

その人は、良くも悪くも「言葉のプロ」なのであって、このとき外来で起きたことというのは、 その人にとってはそれがお仕事みたいなものなんだと思う。

「お仕事」の前半は、自分に向けられてた。「気の弱そうな医者から入院を勝ち取って、刑務所を離れて英気を養う」のが目的。 その人は最初から、自分に対してはとても丁寧に振る舞っていたし、「先生みたいな人なら、オレの具合が悪いのは、 よく分かるでしょう?」なんて、朗らかに語りかけてきた。

友達みたいな口ぶりで、「具合が悪くてご飯が食べられない」とか、「発作が昨日は13回あって」とか、 「親しい友人がこれだけ具合が悪くなったら、ここはもちろん入院だよね」なんて、 言外に込めたメッセージはすごくよく分かるんだけれど、そんな要求は、もちろん相手から出ることはなかった。 朗らかに語って、親しそうに笑って、具合の悪さを、証拠付きで、すごい勢いで積み上げていくだけ。

上司に代わってもらって以降、その人は、「ああ先生、いてくれたんですか。助かりました」なんて、 やっぱりにこやかに、うれしそうに話してたんだけれど、その時点でたぶん、 自分は「仕事」の対象から外れたんだと思う。そこからあとは、もう一瞥もされなかったから。

後半になって、たぶん「公判の証拠」作りというのが、その人の仕事のテーマになった。 具合が悪いこと。それを訴えても、刑務官が取り合ってくれないこと。刑務所が、病気に見合った食事を提供してくれないこと。 薬の飲み方が自由にできなくて、治療が不十分になっていること。いろいろ語ってた。

公判が近いんだと言っておられた。入院は難しそうだとその人はたぶん判断して、 今度は自らの境遇が劣悪であることをいろいろ語って、たぶん「それを医師が聞いた」という、 言質とか、証拠を得ることに、仕事の目的を切り替えたんだと思う。

言葉を蒔いて証拠を収穫する

「あらゆる行動を記録しろ。数字をメモしろ。ノートにまとめて、それを交渉の席に持参しろ」というのは、 企業や役所を相手にする交渉の基本なんだけれど、その人のやりかたもまた、その延長なんだと思った。

恐らくは「名人」の症状には、「嘘」や「誇張」も混じっているのだろうし、 「証人の○○さん」だって、下手するとその場で適当に思いだした名前なのかもしれない。 それでも「○○さん」が証言を否定すれば、「刑務所は嘘をついた」と叫べばいいんだし、 そのとき同席した医師や刑事さんが確認をしなかったなら、今度は自分たちの怠惰を責めればいい。 いずれにしても、本人さんは絶対損しない。

  1. 相手の「サービス」に、あれこれと難癖をつけてみたり、自己流を通したり、状況をできうる限り複雑にする
  2. 付き合いきれなくなった相手が、「要するに」で何かを省略したその瞬間をめざとく記録しておく
  3. その人がいない場所で、権威を持った別の誰かと親しく語り、「ここにいない誰か」の不作為や不義を訴える
  4. それを否定すれば、自分たちの手落ちだから「交換条件」を引っ張れるし、それを傾聴すれば、 今度はたぶん、「これ聞いたよね。その時否定しなかったよね」なんて、言質をとれる
  5. たくさん作った「証言」や「証拠」は、裁判一歩手前の状況なんかで、交渉のテーブルに山と積まれて、 相手を不利な立場に追い込む武器になる

こういうのはたぶん、状況を耕して、言葉を蒔いて、証拠や言質を収穫する、どこか農作業に似た営みであって、 「耕される」側がどう突っぱねようと、こういうやりかたの上手な人には、あんまり関係ないような気がする。

今回たぶん、ずいぶんたくさんの言質を収穫された。その人の症状は、どこまでが本当で、 どこから先が嘘だったり、誇張だったりするのか、それを判断することはできないんだけれど、 「症状を訴えた人が病院に来て、その人の話を医師が聞いた」ことは事実だから、 法律の席ではきっと、「医師も話を聞いてくれました」なんて、自分たちのことが「証拠」として、 その人の言葉を補強してしまう。

「証拠と結びついた言葉」が、交渉の貨幣になる。

いざ交渉に臨めば、その人はだから、ものすごい量の貨幣をテーブルに積めることになる。 身の回りに起きたあらゆることを記録していたところで、「普通の人」に提出できる貨幣の量なんてたかがしれていて、 呼吸するように、何もないところから無尽蔵に交渉の貨幣を生める、こういうプロの人たちには、 原理的には絶対勝てない。

そこに居合わせた法律の人たちが、貨幣の「質」を吟味してくれるのを祈るしかないんだけれど、 それがきちんとできるなら、そもそも法律なんていらない。

「名人」の仕事に立ち会えたことなんて、まだ何回もないんだけれど、自分たちが仕事の対象に なったとして、そのときどうすればいいのか、本当に分からない。

2009.10.12

「当直医学」を作ってほしい

できれば雑誌の連載とか、なにか公的な文章として残る形で。

「総説」は役に立たない

患者さんはみんな違うから、医療という分野においては、 議論の土台になる「一般」というものが、定義できない。

病気についてはだから、「一般的にこうだと私は思う」という書きかたが難しくて、 どうしても、誰かの論文を引っ張って、「○○らはこう述べている」という書きかたしかできない。 どれだけたくさんの「○○ら」を引用したところで、その文章を書いた作者自身が、患者さんと当たって どういう治療を選択するのか、あるいはある病気に対して、「一般的には」どうやって対処するのが 一番無難なのか、読者として、一番知りたいことは、あんまり書かれない。

「エビデンス」なんかよりも、「言質」がほしいな、といつも思う。

論文どおりのやりかたを行うためには、その患者さんが、議論の余地なくその病気を発症している 必要があって、そういう人たちは、たしかに専門機関の先生がたも喜んでみてくれるんだけれど、 現場で問題になっているのは、もっとあやふやな、「正解」がどこにあるのか分からない人たち。

症状は明らかにあるんだけれど、原因が「どれ」とも断定できないような、そんな患者さんに対して、 「俺ならこうするよ。責任持つよ」なんて書いてくれたらすごくありがたいんだけれど、 そういう一言を探すのは大変で、「エビデンス」の時代になって、それはますます困難になった。

「問題」の裏に「責任」がある

恐らく世の中には、「問題」と「責任」とがセットになってる業界と、 両者が根本的に分かれてる業界とがあって、医療なんかは前者なんだと思う。

研修医向けの教科書に載っているような病気についてなら、たぶんどこの病院であっても、 似たような治療ができるだろうし、たとえ専門家がいなくても、検査の機械だとか、薬とか、 少なくとも日本なら、どこに行っても似たようなものは手に入る。

よっぽど特殊な病気でもない限り、たいていの病気については、 少なくとも教科書どおりの治療を提供することぐらいは、どこの病院でもできるはずなんだけれど、 専門技能を持たない医師は、今の時代、患者さんの病気に対して「責任」を負うことができないから、 専門機関に紹介される。

「紹介」という行為は、だから紹介する側からすれば「責任の移譲」であって、「問題の解決」それ自体は、 もはや紹介の理由にならない。

今仕事をしている人たちは、もちろんそんなことはとっくに分かっているはずなのに、 「大事なのは問題の解決それ自体であって、責任なんて考えたこともない」という建前が、 責任の議論をやっかいにしている。

「判断」のコストというか、リスクみたいなものが、どんどん上がっている。今はだから、 専門家の意見が本当に必要な、具合が悪いんだけれど原因の分からない人、 ある疾患が疑わしいのだけれど、症状が典型的でないから確定診断がつかない人ほど、 専門病院の受診が難しくなって、当直なんかでそういう患者さんを引き受けてしまうと、 そこから先、誰からも意見が聞けなくて、時々ものすごく困る。

こういうのやってほしい

具体的には「当直医学」という連載企画をやってほしい。若手がベテランに、 翌朝までの、当直の乗り切りかたを尋ねる企画。

ベテランに語らせてしまうと、これはもう、役に立たない自慢話になってしまうから、 形式としては、若手からの提案を、ベテランに訂正してもらう形にする。

たとえば「腹痛」というテーマに対して、「原因不明の腹痛は、補液と抗生剤、絶食だけでも、 一晩なら経過を見て大丈夫」という仮説を、若手からぶつける。

こういう仮説の根拠になる、腹痛の原因として考えうる疾患を列挙して、例外ケースを探して、 それを除外するための検査をセットにする。

こういう思考実験をすると、一つの症状に対して、ある検査を行って、いくつか特定の疾患を否定できれば、 あとはこれとこれをやっておけば、朝まで様子を見て大丈夫、という、一般ルールみたいなものが作れる。 若手が「ルール」を作って、これをベテランの先生に添削してもらう。

「そんなのはケースバイケースで答えられない」とか返すベテランはチキン野郎認定で、 例外ケースの抜けとか、根拠になる論文の補完なんかをベテランに行ってもらえば、 最終的に、「腹痛の対処については、あの有名な○○先生お墨付のやりかたでいける」なんて結論が得られる。 ○○先生が死ぬまで、腹痛の法廷仕事は、その人に任せればいい。

頭痛とか腹痛、意識障害、呼吸困難、麻痺、症状ごとに、「若手のルール」と「ベテランの返し」と、 一つの結論を目指してぶつけ合う企画を続ければ、そのうちたぶん、「当直ならこうすればいい」という、 症状ごとの、一連の対処リストができる。

悪までも「翌朝まで」限定だけれど、こういうことを2年もやれば、内科当直というお仕事からは、 「判断」が追放される。医師に要求されるのは、行動と、検査の解釈だけになるから、 その地域にある施設で、どんな症状の患者さんなら受けられるのか、ある程度数字で測定できるようになる。

流れとして、こういうのは間違ってないと思うんだけれど、みんな責任が嫌だから、 あるいはそもそも、現場には「問題」だけがあって、「責任」なんてないことになっているから、 やっぱりこういう流れにならない。問題の解きかたが、どれだけ詳細に、「エビデンス」を積んで示されたところで、 責任の引き受け手がいないのなら、問題はやっぱり解決しないのに。

救急を受ける病院が本当に減った。あるいは「分からない人」を受けてくれる専門施設も。

こういうのはたぶん、解決する方法がちゃんとあるのに、上の人たちがそれをやろうとしてくれないから、 現場から黙って人が去ってるんだと思う。

「いわゆる当直」の技能は、もう実質失われているようなもので、うちに手伝いに来て下さっている当直専門業務の 先生がたも、みんな50台。こういうのは体力のある若い人の領域なのに、いまはそもそも、働き手がいないのだと。

ベテランから何かを「引きずり出す」企画というのは、やったら絶対に役に立つとは思うんだけれど、 ベテランの人を、いわば罠にはめるようなものだから、やっぱり難しいとは思う。

それでも責任だけが、「ないこと」にされたまま、必要以上に重くなってしまった現在、 それが軽かった昔を知っているベテランの知恵を受け継いでいかないと、もう後が続かないと思う。

2009.10.07

付属品としての生き残りかた

ある生態系において、優位に立った新世代に追いやられる旧世代の生き残りかたとして、 新世代の、いわば「付属品」になる、というやりかたが考えられるんだと思う。

モバイルは便利

Android 携帯を買って、「お布団インターネット」を始めてみて始めて分かったのだけれど、 こういう「怠惰な革命」は、一度始まると止まらない。布団の中とか風呂の中、 ほんのちょっとした待ち時間ができれば、携帯電話をのぞけばインターネットにつながって、 とりあえず退屈しない。読むだけなら、それでほとんどの用が足りてしまって、 結果として、自宅のデスクトップPCで何かを見る時間が減った。

自分の生活は、自宅と病院との往復が9割以上で、どちらの場所にもデスクトップPC が常備してあるから、 モバイルなんて縁がないと思っていたんだけれど、実はデスクトップPC から1m でも離れれば、 そこはもう、「モバイルの領域」だった。今まではそれに気がつかなかったから、 なんの不自由もなくデスクトップPCを立ち上げていたんだけれど、ポケットに手を突っ込んで、 スイッチを入れたらもうネット、というのに慣れてしまうと、もう戻れない。

待合室の患者さんたちは、今はたいてい、待っている間は携帯電話を開いている。 検査の待ち時間だとか、受付に呼ばれたわずかな時間、人によっては、外来で診察中、 聴診をされてるわずかな時間も、携帯電話をのぞく。

ああいうのは、自分でAndroid を使ってみるまで理解できなかったんだけれど、 携帯電話でネットを見られるようになって、あれをやる人の気持ちがずいぶん分かる。

細切れの時間が埋められるようになると、たぶん人間というのは、本能的にそこを埋めたくなる。 埋められるようになって、ところがそういう小さな場所には、ノートPCとか、ましてやデスクトップPCは、 もう絶対に入れない。デスクトップPCの性能がどれだけ上がろうと、価格がどれほど安くなろうと、 デスクトップPC がデスクトップPC である限り、この流れは止まらない。

携帯電話には限界がある

携帯電話は簡単に持ち歩けて、立ち上がりが一瞬で、インターネットを見る場所を選ばない。 こういう立ち位置には、従来のPCは、絶対に入ってくることが出来ないから、 携帯電話には、競合するデバイスが存在しない。

携帯電話は、道具としてのポジションが完璧であるがゆえに、犠牲にされているものは多い。

  • 携帯電話は電池駆動。CPUの性能を上げれば上げるほどに、恐らくは電池の消耗が速くなるから、 処理速度の進歩は、そう多くは望めない
  • 電話回線のスピード向上も、たぶん難しい。無線の周波数は自由にならないし、新しい周波数が 使えるようになったとして、日本中のインフラを置き換えないといけないから、コストが馬鹿にならない

従来のPCが、「ムーアの法則」で進歩するのに、携帯電話にはたぶん、それが許されない。 ノートPC の処理速度は上がる一方で、価格は下がる一方だけれど、そうした改良は残念ながら、 携帯電話のいる場所を脅かすだけの威力はなくて、「インターネットは携帯で」という 流れ自体は、たぶんもう覆らない。

お布団でごろごろしたほうが、机に座るよりも、圧倒的に楽だから。

「本体より高価な付属品」という立ち位置

「携帯電話でインターネット」というのは、たぶんもう、これが「解答」なのであって、この部分は覆らない。 性能向上の努力だとか、あるいはコストカットの努力というのは、小さくなっていくパイを大きくする 役には立たない。

旧来のPCが、今の付加価値を維持したままで生き残っていこうと思うなら、 「速い」とか「安い」じゃなくて、PCとして別のありかた、携帯電話との「連携」を志向する、 具体的には「個人が個人のサーバーを持つ」という方向に向かってほしい。

イメージとして、携帯電話を持っているユーザーが、「マイサーバー」機能がついたPCを買うと、 ユーザーは、ネットにつなげた自宅のPCを経由して、携帯電話でインターネットを見ることができる。

「マイサーバー」には、携帯電話にあわせたフォントやレイアウトの調整、広告のカット、 画像の縮小や軽量化といった機能が備わっていて、ユーザーの携帯電話は、 自宅に置いたPCを経由することで、電池の寿命を犠牲にすることなく、 より軽快なネットが楽しめる。サーバーに「先読み」機能をつけておけば、遅延はもっと減らせる。

ユーザーによって、「このページの画像はいらない」とか、「このページだけは本来のレイアウトで読みたい」とか、 需要はいろいろ異なるだろうから、そういうのはあらかじめリストを作って「マイサーバー」に 登録しておけばいいだろうし、リストはPC上でも、あるいは携帯電話上でも修正できるとうれしい。

PDFだとか、flash動画だとか、携帯電話で閲覧するにはCPU負荷の大きなコンテンツも、 たとえば「マイサーバー」上で文字だけ抜き出すとか、flash ならあらかじめPC上で再生して、 携帯電話も楽しめるような小さな圧縮動画として送ってくれるとか、電力を喰う、 CPU負荷の大きな、携帯電話ではできないような仕事を、「マイサーバー」が代替すればいいと思う。

こういうのはもう、airproxy というソフトがあって、 サーバーを自宅に設置できる人たちは昔からこういうことをしているみたいなんだけれど、 素人が手を出すには、まだまだ敷居が高い。

PCの機能というよりは、「携帯電話より高価な携帯電話の付属品」としてPCを販売するような、 こうしたやりかたというのは、少なくとも携帯電話の機能向上が難しい間は、 有効な生存戦略になるような気がする。

付属品としての生き残りかた

「インターネットを見る道具」という競争があって、流れとしてはたぶん、携帯電話がその主役になって、 旧来のPCが携帯電話の居場所を奪おうと思ったなら、もはやそれはPCでなく携帯電話になってしまう、 そういう状況というのはたぶんいろんなところにあって、旧来のメディアは、 「どう頑張っても自分たちのパイが膨らまない状況」に、いつか追い詰められてしまう。

トップランナー、あるいは自分たちの居場所を脅かす新世代が生まれたときには、 それと競い合ったり、あるいは自らの「性能向上」を目指すやりかたはあまり賢いとは言えなくて、 どこかで「パイが膨らまない」状況に陥ったら、新世代の無敵性とトレードオフになっている何かを探して、 自らの能力が、それを補うことができないかどうか、新世代の「高価な付属品」としてのありかたを探ることで、 新たな付加価値を生めるんじゃないかと思う。

「大学病院のありかた」とか、携帯電話を見ながらあれこれ考えてる。

2009.10.04

完璧と無難

ある状況を支配している「完璧」なトップランナーに対抗するときには、 価格競争とか、品質競争とか、そういう努力を始める前に、相手の「完璧」を、 「無難」へと変換する何かを作らなければいけないのだと思う。

チーズケーキを売る店

15ヶ月ぶりに休みが取れて、那須高原に遊びに行ってきた。

旅行には「お土産」がつきものなんだけれど、恐らくは「那須高原のお土産」という 業界をリードしているのは、「那須高原 チーズガーデン」というお店で、 ここで売られている「御用邸チーズケーキ」という商品が、ずいぶんたくさん売れていた。

ここのケーキには「御用邸」という、ちょっとした権威がくっついていて、商品はそれでも1000円ぐらい。 室温保存で日持ちがして、おまけに固めに焼かれているからなのか、少々乱暴に扱ったぐらいでは壊れない。

お土産物として、このケーキはすごく良くできていて、そのお店には実際、 ツアーのバスが何台もやってきては、お店の中には様々な商品が山と積まれて、 チーズケーキと一緒によく売れていた。

「安さ」では「良さ」に対抗できない

チーズガーデンの近くには、他にもたくさんのお菓子屋さんとか、土産物屋さんがあって、 そこでもいろんなお菓子が売られているんだけれど、どれも今ひとつぱっとしないというか、 トップランナーのお店に比べてしまうと、お客さんの入りは今ひとつだった。

店によっては、「チーズガーデン」よりも大きな敷地を持っていて、販売されているお菓子の種類も充実していた。 価格にしても、たぶん品質にしても、「チーズガーデン」とそんなに大差はないはずなのに、 たぶんそうした商品は、そのお店を運営している人が期待したほどには、頑張りに見合った分の 成果を上げていないように見えた。

「那須のお土産」という一つの業界があったとして、 業界を牽引するリーダーが「チーズガーデン」なら、たぶん2番手以降のお店は、 同じ方向で「より良い」だとか「より安い」を目指してはいけないのだと思った。

2番手がどう頑張っても、方向が同じなら、それは「劣化コピー」になってしまう。「お土産」という、 伝統とか、名声が圧倒的な差として効いてくる業界においては、わずかな差違は、 越えられない壁となって、2番手の努力を無にしてしまう。

「完璧」が犠牲にしているもの

チーズガーデンのチーズケーキは、伝統も、権威も、価格も、 可搬性も持ち合わせていて、お土産としての性能は、たぶん完璧に近い気がする。

「完璧な商品」に、安さや品揃えといった努力要素で対抗しようと思ったならば、 まずは「完璧な商品」が完璧であるがゆえに犠牲にしている何かを探して、 そこをひっくり返さない限り、その努力に意味が生まれない。

チーズガーデンのチーズケーキについては、これは完璧な商品で、すごい人気であるがゆえに、 在庫を欠かすことができない。材料が安定していないと、商品を大量に供給することができないから、 那須高原だけでは材料を安定調達するのは難しいみたいで、そこで扱っている他の商品になると、 「フランスのチーズ」だとか「イタリアのワイン」だとか、那須高原とはあんまり関係のない商品が並ぶ。

完璧な定番商品は、たぶん定番であり続けるために、安全係数が高く取ってある。商品の瑕疵は 許されないから、恐らくは保存料みたいなものを欠かすことはできないだろうし、商品としての安全性を 高めるための工夫は、必ずしもたぶん、お菓子としての「性能」を高めることにはつながらない。

「完璧」は「ピーク性能」という価値の前に「無難」になる

2番手のお店は、「材料はオール那須、保存料無添加、その代わり作れるかどうか分からない」ぐらいの、 「不安定なチーズケーキ」を売り出して、それをぶつける、というやりかたがいいと思う。

その商品は、朝の10時に予約が必要で、店はそれから材料の調達に走って、夕方4時頃、 1000個の注文に600個しか応えられないとか、最悪「牛の調子が悪くて、 今日は作れませんでした」なんて看板ぶら下げて、買いに来たら店主が土下座してたとか、 それぐらいに不安定な製品。

「買えるかどうか分からない不安定な製品」を用意できれば、運がよければたぶん、 「那須に来たらあの店で予約」という、人の流れが生まれる。

不安定だから、お客さんの数は少ないだろうし、あるいはチーズガーデンの商品のほうが、 価格でも、品質でも圧倒的に優れているのだろうけれど、「不安定」を買いそびれたお客さんにとっては、 完璧であったはずのチーズガーデンの製品は、もはや「無難」であり、「次善」に思えてしまう。

「完璧」を「無難」に書き換えることで、そこで初めて、価格競争だとか、 品質競争みたいな、努力要素に意味が生まれて、2番手以降のお店は、競争の入り口に立てるのだと思う。

それでもトップは努力している

で、「チーズガーデン」にはすでに、こういう商品があったりする。

「オール那須」でこそないみたいだけれど、冷凍前提、解凍すると3日しか持たない高級品を売っていて、 これは崩れるし、保存が利かないし、常温にすると溶けてしまうから、距離があると持ち帰れない。

リーダーがリーダーであり続けようとしたら、リーダーは常に自分の弱点を自ら攻めて、 業界全体に、自ら新しい価値を提案し続けないといけないけれど、「那須のお土産」業界は、 リーダーが正しくリーダーの役割を演じていているのに、セカンドグループ以降は、 まだ「競争」を行ってすらいないように見える。

このへんにマーケティングの人たちが入り込むと、きっとまだまだ盛り上がるだろうし、 競争しているように見えて、実は競争は、始まってもいない業界というのは、 案外多いんじゃないかと思う。

2009.10.02

Google 携帯を買った

何年ぶりだかに携帯電話を買い換えて、iモードも使わない人間が、スマートフォンに乗り換えたときの記録。 使い始めてそろそろ1ヶ月になるけれど、けっこう便利。

DoCoMo はあんまり教えてくれない

買い換える携帯電話は、正直なんでもよかった。今まで使っていた、機能のほとんどついていない、 ストレート型の携帯電話に不便を感じていなかったし、動く場所のないデザインは、そもそも壊れようもなかったから、 楽だったし。

電池の持ちが悪くなったのと、Mova のサービスがもうそろそろ終わってしまうだとかで、 「ストレート型の小さい奴を下さい」なんてお願いしたら、HT-03A という、Google 携帯を勧められた。

ネットで見て、Google 携帯というものがある、ということぐらいは知っていたんだけれど、 「Twitter 見れますか?」とか、「SDカード にほんのスキャン画像仕込んどいたら、あとから閲覧できますか?」とか、 何を尋ねても、「分かりません」という返事しか返ってこなかった。

右も左も分からないまま、とりあえず進められたプランどおりに購入して、2万円ちょっと。 月に最大7000円ぐらいかかるらしいんだけれど、 まだよく分からない。

買ったもの

買ったままの状態だと、この携帯電話は、充電器がついてこない。FOMA ユーザーの人だったら、 昔の充電器を使うように言われるし、 Mova ユーザーだと、昔の充電器はそもそも使えない。「電池切れたらそれで終了ですか?」なんて尋ねたら、 DoCoMo の人が、充電器をサービスで一つくれた。

とりあえず、クレードル型の充電器と、液晶保護シートを購入した。

クレードルは、とりあえず立てて置いておける充電器だけれど、一応普通に使える。その代わり、 携帯電話はそもそもクレードルに対応した端子になっていないものだから、つけ外しの時にはちょっと引っかかる。 HT-03A は、バッテリーが2つついてくる割に、DoCoMoの充電器だと、2つめのバッテリーが充電できないから、 こういうクレードルを持っていると、一度に2つのバッテリーを充電できるのが、便利と言えば便利。

液晶保護シートは2枚買った。「Plus」のほうは低反射、「Brilliant」のほうは、透明度が高い。 Palm の時代は、たしかOverLay Brilliant が定番になっていて、最初はこれを買ったんだけれど、 個人的には失敗だった。 相変わらず貼りやすいし、透明度は極めて高いのだけれど、画面の上で指を滑らせる操作をすると、ちょっとべたつく。

HT-03A には独立したキーボードがないから、操作しているとき、画面上で指を滑らせる機会が多い。 画面と指との摩擦というのが、結構気になる。OverLay Plus のほうは、低反射加工の分、 透明度はわずかに落ちるんだけれど、画面がさらさらしていて、操作が軽く感じられて、快適。

今のところ、買ったのはこれだけ。ソフトは今のところ、フリーウェアしか入れられないみたいで、 有償アプリケーションが出てくるのは、もう少し先らしい。

アプリケーション

HT-03A は、ユーザーこそそんなに多くないみたいだけれど、多くの人が、 自分の経験をネットで公開しているみたいで、調べるといろいろ出てくる。

買ったばかりのGoogle 携帯は、インターネットを閲覧する以外、 正直あんまりたいしたことができないんだけれど、アプリケーションを入れると、 いろんな機能が増える。

以下のアプリケーションを入れた。

  • FlickWnn: フリック入力という文字入力の機能を導入する。最初は小さなQWERTY キーボードしかついてこないんだけれど、フリックになれると、入力がずいぶん楽になる。
  • ドロイドあんてな: 2ちゃんねるのまとめサイトを、さらにまとめて表示してくれる。 動作も軽いし、ちょっとの時間を潰したいときとか、どうでもいい話題に無駄に詳しく なれる
  • Twidroid: Twitterクライアント。ボタンが少し小さくて押しにくいんだけれど、 必要な機能は全て備えている。Twitter クライアントは何種類もあるみたいだけれど、 いくつか試して、これに落ち着いた
  • Toggle Settings: 同期やGPS、無線LAN のオンオフが画面からできるようになる。 GPS オフ、無線LAN オフにすると電池の持ちがある程度よくなるので、1つの電池で 当直明けまで何とか使えるようになる
  • AK Notepad: メモ帳。メモを書いて、投稿したりできるらしい。入れたんだけれど、 メモは全部Twitter に放り込んでいるから、あんまり使っていない
  • 世界天気時計: 画面上に常駐して、指定した場所の天気を表示してくれる。病院の中にいると、 「雨が上がった」とか、そういう感覚が分からなくなって、こういうのがあると 和んだりする
  • Digital Clock Widget: iPhone みたいなデジタル時計が画面上に表示される。 純正のアナログ文字盤時計に比べて表示が小さくて見やすい
  • Steel: ブラウザ。標準のブラウザに比べると、動作が少し軽い。今はブラウザを 2種類使い分けているので、2つめのブラウザとして
  • ASTRO: ファイラ。買ったままだと読みに行けない、SDカードに置いたファイルを 読むことができるようになる。よく使う

普段使っているのはこれぐらい。

標準でついてきたアプリケーションは、ブラウザと、目覚まし代わりのアラームと、 あとはカレンダー機能、「ギャラリー」機能ぐらいしか使っていない。

SDカードにスキャンした教科書とか、漫画本を大量に格納しておけば、携帯図書館が作れるかも、 なんて期待したんだけれど、漫画本と、文庫本はぎりぎり読めるけれど、教科書をスキャンした奴は、 さすがに画面が小さすぎて、お話にならなかった。

Google のショートカット

一部の機能は、独立したアプリケーションを導入するよりも、Google の ホームページからリンクされているGmail とか、Google リーダーを、 直接読みに行ったほうが高機能だったりする。

HT-03A のブラウザを開いて、必要なページを「お気に入り」に登録したあと、 画面の空いた場所を長押し->「ホーム画面に追加」画面から「ショートカット」-> 「ショートカットを選択」画面から「ブックマーク」を選ぶと、 携帯電話の画面上に、それをタップするだけでブラウザが立ち上がる、 ショートカットが設定できる。

  • Gmail: HT-03A にはメーラーがついてきて、Gmail に新しいメールが来ると、 それを教えてくれる機能もあるんだけれど、ホームページを読みに行ったほうが 高機能で使いやすい。ちゃんとHT-03Aに特化したページを読みに行ってくれる
  • Google リーダー: これも同様に、RSS リーダーアプリよりも、そのページを 直接見に行ったほうが、使いやすいような気がする
  • iGoogle: PC からiGoogle のホームページに飛んで設定すると、 任意のニュースが自動配信されてみたり、メールやカレンダーが読みに行けたり、 便利に使える。一部のリンク先は、Googleの側で携帯電話で読みやすい形に 体裁を整えてくれるから、読みやすくて、ブラウザの読み込みも高速で快適

Google のショートカットは、携帯電話上でできることを、わざわざ Google のサーバーまでデータを取りに行って、携帯電話用にデータを 生成させているわけだから、なんだかすごく胡乱なことをしているんだけれど、 今はもう、どこにいてもネットにはつながりっぱなしになっているから、 こういう使いかたでいいんだと思う。

あとはGoogle ではないけれど、自分で作ったマニュアルの索引ページを ショートカットにして、やはり画面上に置いている。タップするだけで 索引が立ち上がって、必要な単語をクリックすると、当該ページに 飛べるから、病棟で便利。

Google には「モバイルゲートウェイ」というページがあって、このページに必要な URL を入れると、モバイル用途のページに変換してくれる。変換後のページをお気に入り登録しておくと、 軽くて便利。

使いかた

朝おきて携帯電話の画面を見ると、外の天気が表示されていて、 夜に入ったメールとか、Twitter の自分宛メッセージがあれば、 それが表示されている。あったらその場で読める。ごくつまらないことだけれど、 「自分でそれを捜しに行かなくてもいい」というのは、この状態に慣れてしまうと、 そのまま定着してしまう。どこまでも怠惰になれるものなんだなと思う。

布団の中でiGoogle のショートカットをタップすれば、今話題になってる新聞の見出しとか、 2ちゃんねる の話題なんかが、大体一覧できる。昔はそんなものは読みもしなかったのに、 画面をちょんと触るだけで見出しが並ぶと、つい読んでしまう。

フリック入力に慣れていなかった頃は、さすがに携帯電話で何かを打つということはしなかったんだけれど、 この入力は、一つの動作で一文字打てるから、ぎこちなくてもずいぶん速く打てるようになる。 2週間ぐらいでずいぶん慣れて、今は時々、携帯電話のまま、Twitter で遊んでる。

こういうのがほしい

インターネットの閲覧は、やっぱりどうしても遅い。回線も遅いし、さすがに携帯電話だと処理能力の限界があるのか、 たくさんの画面が並ぶページを開くとスクロールが追いつかないし、画面を4つも5つも開くような使いかたをすると、 ブラウザが固まったりする。

標準のブラウザを、Steel に変えたところで、そこまでの大差はないんだけれど、「画像読み込み」をオフに、 「JAVAスクリプトの読み込み」をそれぞれオフにすると、実質文字を読み込むだけの機能になって、 スクロールが指についてきて、とても快適になる。

ところがこれをやると、もちろん画像が読めなくなるから、たとえば自分のマニュアルページなんかは、 何が書いてあるのか全然分からなくなってしまう。ボタンアイコンを採用しているページなんかでも、 それがクリックできなくなるから、次のページにいけなくなったりする。

今はだから、標準のブラウザは全機能を生かした状態で、Steelのほうは最小限の機能に絞って、 画像が必要なページと、文字だけ読めればいいページとで使い分けているんだけれど、 こういうのを任意にフィルタリングできるアプリケーションがあったらいいなと思う。

PC だとProxomitron というローカルプロキシソフトがあって、回線が遅かった昔、 広告をカットして読み込みを速くしたり、 ブラウザクラッシャが仕込まれたページを回避するのに使ったり、昔はずいぶんお世話になった。 スマートフォンにも、ネットと電話との間に立って、ユーザーが必要な情報だけを画面に取り込んで、 細い回線を有効に生かせるようなアプリケーションがあるとうれしい。

機能的には、こういうのは十分可能なのだそうで、有償アプリケーションが解禁になって以降、 また探してみたい。

「できないこと」が文化を作る

「これができない」ことが、そのメディアの文化というか、空気みたいなものを決めるんだと思う。

Palm なら、それは「PC と切り離された、単独での使いかたができない」ことだったから、PCとの上手な連携を 意図したアプリケーションがたくさん生まれて、それを解消したスマートフォンからは、「連携」という 考えかたが消滅した。

スマートフォンは、インターネットと接続されているのが当たり前になったけれど、 今度は無線回線の帯域幅だったり、電池の容量から来る性能の上限が、 携帯電話で読みやすい軽快なサイトを作らせたり、携帯電話の一部機能をネット上に置くことで、 性能以上に快適な使いかたを考えたりだとか、きっといろんな使われかた、 デスクトップPC でのインターネットとは、また違った使われかたが出てくる気がする。

iモードに近い、簡素なページが増えてくるんだろうと思う。HT-03A は、たしかに PCと同じようなページ表示ができるけれど、装飾されたページは重くて、どこでも使える「軽便さ」みたいな ものとは、その重たさが釣り合っていないから。

たぶん「できないこと」を前提とした作り込みみたいなのが、文化を生む。

盆栽というメディアには制限が大きいけれど、その制限こそが盆栽を生んで、 迫力を出そうと大きな鉢植えを用意したら、それはもう、盆栽でなくなってしまうだろうし。

サイズの限界、電池の限界が制限を生んで、細いけれど、気軽に携帯できて、 常にネットワークとつながっている状態と、そうした制限とのせめぎ合いが、 たぶんスマートフォンというメディアに、新しい文化を作り出す。 それはPCで見るインターネットとは、もう違った何かなんだと思う。

2009.09.26

「これはこういうものなんだ」体験のこと

まだ運転免許証も持ってなかった学生の頃、夕方遅く、すでに乗用車を乗り回していた同級生の 「トヨタカローラ」に乗っけてもらった。

昔も今も、カローラは「あって当たり前」を目指してる車であったはずなのに、 ダッシュボードに光るメーターと、田舎の夜景とが重なって、なんだか一瞬、 その光景がSF映画にダブった。

「要するに、乗用車を持つということは、どこにでも行ける自分だけの空間を持つということなんだ」なんて、 一人勝手に納得がいって、その時初めて、車というものが心からほしくなった。

ゲーム機のこと

「快適さ」というパラメーターにも、住宅みたいな階層構造があって、 「地盤の脆弱性」みたいな下位レベルの問題を、たとえば「家具の配置」みたいな上位レベルでの努力では 取り返せない。

据え置き型のゲーム機は、やっぱり昔ほどには売れていないらしい。ファミリーコンピューターの時代から見れば、 今のプレイステーションなんて夢の機械になったのに、そこでどれだけ魅力的なソフトを販売しても、 「ゲーム機のある場所に行って、スイッチを入れる」という工程から、据え置き型ゲーム機は自由になれない。

携帯ゲーム機だとか、携帯電話が当たり前になっている世代の人たちにとっては、 たぶんゲームとか、インターネットというものは、「思い立ったらもうそこにあるもの」だから、 そういう人たちにとっては、「ゲーム機のある場所に行く」という一手間が、どうしようもない「地盤の脆弱性」 に見えてしまう。

内装をどれだけ立派にしたところで、基礎がグラグラの家には人が住まないように、 据え置き型ゲーム機がどれだけ高性能に進化したところで、携帯電話世代の人たちを、 据え置き型ゲーム機の世界に引っ張り込むのは難しいんだと思う。

動作の意味を書き換える

たぶん「○○は、要するに○○なんだよ」という原体験が、自動車でも、据え置きゲームでも、 携帯ゲームでも、あるいはインターネットでも、あらゆる「メディア」に存在するのだと思う。

デスクトップPC から入った人と、iモードが当たり前にあった世代の人とは、 同じ「インターネット」というメディアを挟んで、しばしば話が通じない。

「寝室から3歩歩いて電源を入れる」ことなんて、モデム接続の昔を知っている人から見れば、 今のやりかたは「進歩」なのに、携帯電話世代の人から見れば、それはたぶん「基礎の脆弱性」に思えてしまう。

見えかたが異なれば、同じ一手間が「進歩」にも見えれば、「致命的な欠陥」にも見える。 恐らくはだから、「これはこういうものなんだ」というメディアの見えかたみたいなものを書き換えれば、 欠点は欠点でなくなるし、意味の書き換えができなかったメディア、 あるいはそれを怠って、代わりに「高性能化」の方向に舵を切ったメディアというのは、 業界ごとしぼんでしまうのだと思う。

こうなってほしい

  • たとえば「自動車」というメディアには、「コンテンツ生成装置」になってほしい。どこかに行くこと、 移動することそれ自体が、インターネットに文章を書くのと同じような、「発信」になるような
  • 乗用車はたぶん、単なる移動の手段であった昔から、一時期はコミュニケーションの手段というか、 個人の考えかただとか、社会的な立場を表すための手段として普及してきた時代があった
  • 今の「自動車離れ」という現象は、たぶんネットというコミュニケーション手段が生まれて、 「表現手段としての自動車」という場所が、インターネットに浸食されてしまったからなんだと思う
  • トヨタ自動車みたいな、業界を牽引する会社は、だから日産やホンダを相手にしてはいけないし、 「高性能な車」なんて作っちゃいけないんだと思う。むしろ「移動という意味」だとか、「乗用車である意味」みたいな ものを書き換えて、Amazon みたいなコンテンツ販売業者だとか、 mixi みたいなコミュニティが持っている「メディアの意味」を、率先して浸食していくべきなんだと思う。
  • メディアには縛りがある。そこを「乗り越える壁」としてでなく、「長所」として前に押し出せないメディアは滅ぶ
  • 自動車が「移動」、「実世界にあるどこか」にしか行けない、ということに縛られるように、 携帯電話はたぶん、「実際の知りあいとしか会話ができない」ということに縛られる。 もちろん技術的には十分可能だけれど、全然見知らぬ他人と毎日何百人も会話するなんて、 電話を使った音声コミュニケーションだと、ちょっと考えにくい
  • コミュニケーションという機能は、だから「電話の束縛」なのであって、より広いコミュニケーションを志向する方向に作り込んだら、携帯電話はしぼむ気がする
  • たとえばこれが「ネットワークRPG」なんかだったら、全然知らない人と、その場で「戦友」になれたりだとか、 見知らぬ他人が何百人も集まって、ネット世界でお祭り開いたりだとか、実世界とは比較にならないぐらい、 広いコミュニケーションが行える
  • 「携帯ゲーム」はたぶん、「コミュニケーションに新しい意味を与える道具」となって、 携帯電話の意味を浸食していく。携帯電話はコミュニケーションに縛られると、たぶんゲーム機に喰われてしまうから、 むしろ「実世界」という縛りを生かして、「実世界に別の意味を付加する道具」になってみたり、あるいは 「実世界の知人としか会話ができない」という縛りを生かして、「個人を実世界ネットワークに接続する道具」を 目指すべきなんだと思う
  • たとえばそれは、携帯電話の「目」を通じてお店を見れば、「ここの店員最悪」とか、「○○ランチは頼んじゃダメ」とか、 そういうタグがたくさん見えることであったり、あるいはまた、誰か友人から電話が入ると、自分の居場所、 相手の居場所、自分が今ほしいものとか、自宅の冷蔵庫にある野菜一覧みたいな情報も同時に送信されて、 「そこにいるなら、ついでに○○買ってきて」みたいな会話がその場できるような機能であるとか
  • 据え置きゲーム機は、高性能になって、異世界を細部まで作り込むのが、結果として得意になった。 異世界というのは「ここでないどこか」であって、「ここでないどこかに行く」という行動の先には、 たぶん「海外旅行」がある
  • 海外旅行という体験は、視野から聴覚から、あらゆる体験が、普段なじんだ世界と置き換わる。 実世界なんだけれど、そこはなじんだ空間とは別の場所で、「ここでないどこか」を体験したくて、 たぶんみんな海を越える
  • 「感覚を全部別の何かで置き換える」メディアを作れば、それは海外旅行というメディアを 浸食することができる。 「顧客の視野を全部乗っ取る」ことを、 すごく大規模にやって見せたのがディズニーランドで、たしかあの場所は、 顧客から見える風景というのをすごく大切にして、他の風景を巧妙に隠したり、 建物に錯視の原理をとり入れたりしている
  • 「感覚を全部乗っ取る」こと、日常世界との断絶を演出することが、 ゲームの次を想像するときには必要で、個人的にはやっぱりドームディスプレイがほしい。 以前サンシャインプラネタリウムで見た、ドーム映画の没入感には、本当にびっくりしたから
  • たとえば全周スクリーンのあらゆる方向から、人間ぐらいの大きさのゴキブリの群れに囲まれて、 足下見下ろせば子供の腕ぐらいはあるヒルがびっしり、絶望して天井見上げたら、 上には巨大なクモの口が…なんて体験ができたら、子供さんの一生の思い出になると思う
  • 「一般家庭にドームを置く」ために、今度はまた、据え置き型ゲーム機は、別の何かを浸食しないといけない。 WiiFit が、「家庭に板を置く」ために、ライバルとして体重計を想定したように、 家にあっても不思議じゃない、「ドームっぽい何か」を置き換えるような
  • こういうのはたぶん、「スーパーマーケット」だとか「病院」だとか、そういうものもあまねく「メディア」なのであって、 自らの「こういうもの」という意味に、みんなもっと自覚的になると、世の中きっと面白くなる

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