2008.10.03

扇動の技術

バスが遅れる。待っている誰もがいらつく。不満のエネルギーが貯まる。

「バス会社はバスの増発を行うべきだ」という提案は、改革者のやりかた。 みんなが持っていた漠然とした不満は、現実的な提案へと落とし込まれる。 問題は解決するけれど、話はそれで終わって、せっかく集まった「不満」のエネルギーは散逸してしまう。

「これは何もバス会社のせいじゃない。全ては言葉もろくすっぽ話せない 外国人のせいだ。奴らを追い払わないといけない」というのが、扇動者のやりかた。 聴衆の不満を提案に変換しないで、たとえば「邪悪な外来者」のような、特定のテーマに翻訳する。

扇動者は、漠然とした不満を抱いた聞き手に対峙して、扇動者が持っている世界イメージを通じて、 聞き手の不満を実体化してみせる。

改革者はしばしば、特定の問題を解決するために、聞き手の努力を要求する。
扇動者は単に、「あらゆる抑制を取り払おう」という、聴衆の意志だけを要求する。

扇動のテーマ

個人が抱えている不満は様々で、一つとして同じものがないから、集中できない。 扇動を試みる人達は、聴衆が同調しやすいテーマ、分かりやすい世界イメージを用意して、 彼らの共感を引き出そうとする。

代表的なのは、こんなテーマ。

  • 外国人に対する援助が拡大されている。奴らに使うような無駄金や捨て金があるのなら、 政府はまず、それを我々自身のために使うべきだ
  • 外国人は、我々の金を取っていくばかりでなく、我々の仕事を奪ってしまった。 この国で生まれた人々は、亡命者が自分達の仕事を奪ってしまい、食べるものがない
  • ハリウッドの映画産業は、我々の子供達の若い精神に、唯物主義の思想を叩き込もうとする 共産主義者によって操られている
  • 贅沢な消費にうつつを抜かしているのはマルクス主義者、左翼国際主義者であって、 彼らは我が国のクリームを食い尽くし、我々にはミルクもバターもない生活を送らせようとしている。 自分達だけはシャンパンを好きなだけ傾けているくせに

聴衆は「おめでたい」人間

扇動の場においては、聴衆は常に「だまされた」人間であると定義される。

扇動者はある意味で、聞き手を侮辱することによって、追従者を獲得する。 彼らは聞き手が知識や力や勇気において、「敵」よりも劣っていることを指摘して、 扇動者が聴衆を必要としている以上に、聴衆もまた「指導者」を必要としているのだと訴える。

知的なコミュニケーションにおいては、たとえば教師と生徒との関係は、 教育という活動を通じて、お互いの距離は少なくなっていく。問題の解決を志向する改革者の 活動もまた、啓蒙を通じて、指導者と聴衆との隔たりが減らされる。

扇動においては、指導者と聞き手との距離はずっと変わらない。

聞き手が劣っているのは、一時的に「啓蒙されていない」からではなくて、 「だまされやすい人間」や「おめでたい人間」であるからで、 扇動者はしばしば、聴衆の人のよさを無遠慮に攻撃することで、彼らから永久的な支持を勝ち得る。

聴衆はだまされやすい、「善良な」人間である。しかし「指導者」の指摘を受けて、 彼らは今やそのことを知っている。指導者を得たのだから、彼らはもはや、 その知的劣等性、「善良であること」を隠す必要はなく、善良なまま在り続けることが出来る。

「善良な人間」が、今までだまされていた屈辱に対する責任は、もちろん「不道徳な敵」に丸投げされる。

「根治」を目指す

扇動者は、彼自身の世界イメージについて漠然と語る。そのことが逆に、 聴衆が持っている個々の不満に対して、「根源的な治癒」を 約束しているかのように聞こえる。

改革者は、社会が抱える問題を、それぞれ解決可能な大きさに切り分けようとする。 一方扇動者は、聴衆が抱える感情の全体性を問題とすることによって、 疾病の根源そのものを攻撃するのだとほのめかす。

扇動者は、本当は何の解決をも約束していないにもかかわらず、常に「戦い続け」ているように見える。

問題が解決してしまうと、扇動者の存在意義は消失するから、彼らにとってはむしろ、 聴衆の問題は、解決しないで定状状態を保ち続けるほうが望ましい。

強くて弱い「敵」

「敵」は世界の脅威となるぐらいに強力な存在であって、同時に扇動者の指導に従うことで排除が 可能であることが保証されなくてはならない。

「敵」と名指しされた存在は、だから本来的に弱い者であるにもかかわらず、 あえて危険な存在であることを装って、その弱さに仮面をかけている連中であると暗示される。

扇動者はだから、「本当に強い」人達を「敵」として名指しすることはない。その気になれば排除可能な 集団を探してきて、その強さを膨らませることで、邪悪な敵と対峙して戦う自分のイメージを作り出す。

「敵」の中にも、「いい」人間はいる。扇動者もそれを否定しない。

その代わり彼らは、「敵」自身の仲に紛れ込んでいる真の悪人に対してそれを排除しない、 不作為の罪を背負わされる。それはすなわち真の悪人に対する消極的な支持であって、 「敵」の連帯性や、集団としての責任は、扇動者にとって自明のものとして取り扱われる。

「敵」が、強くかつ弱いのと同様、扇動者自身もまた、強さと弱さを併せ持つ。

扇動者は「明日の秩序の番犬」になるべく予定された存在だけれど、 その一方で、今日の彼らは弱く、無力な存在であるとされる。陰謀を巡らせる「敵」に対して、 扇動者はいつ「攻撃」を受けるのか分からず、また攻撃され、その存在を貶められたりする。

扇動の時代

「煽動の技術―欺瞞の予言者」という本を読んだ。1950 年代の教科書だけれど、 紹介されているやり方は、今の時代でもそんなに変わっていない気がする。

本の中では、「敵」とされているのは「移民」であったり「ユダヤ人資本家」であったり、 あるいは「共産主義者」であったり。本の中で「操られている」政府を率いていたのは、 ニューディール政策を推進していたルーズベルト大統領だから、社会背景は全く違うけれど。

政治のやりかたは、たぶんずいぶん変わったのだと思う。

政府というのは、扇動者が叩く対象であって、扇動者と、扇動者に率いられた聴衆とによって、 「敵」が追放されて、政府は「正される」存在だった。今はむしろ、 この頃「扇動者」であった人が使っていたテクニックを、政府を率いる人達が普通に使う。

日教組を叩いて辞任した大臣とか、もしかしたら次の選挙は強いような気がする。

無茶なやりかただったけれど、あの人は辞任してみせたことで、「日教組に戦いを挑んで潰された男」、あるいは、 「真実を語ったがためにマスメディアに潰された男」という、大切な肩書きを手に入れた。

扇動者の前提が共有される限りにおいて、価値は逆転する。

メディアが支持率の低下を報道すれば、それは「敵の陰謀はそれだけ強力なのだ」と解釈されるし、 大臣が失言を叩かれて辞任すれば、それは「元大臣が敵の弱点を見抜いたから」潰されたことに他ならない。

元大臣の行動は滅茶苦茶なようでいて、「卑劣な日教組の手先が国民を騙している」という世界認識が 共有される限りにおいては、それが英雄の行動として聴衆に認識される。マスメディアだとか、知識人だとか、 あの人の行動を叩く人が増えるほどに、一方で、元大臣を支持する人も、増えていく。

元大臣にいきなり「敵」として名指しされた日教組側は、数字を示して反証を試みたけれど、 あれもまた、もしかしたら元大臣を利するような気がする。

きちんとした数字を出すほどに、「敵」の怪物性、手強さは強調されて、元大臣が作り出した世界イメージは強化される。 日教組側は、むしろ「自分たちにはもはやなんの権力もないんですよ」なんて、さっさと白旗挙げて見せたほうが、 たぶん元大臣にとっては、ダメージが大きいのだと思う。

デマゴーグの波に乗っかる人達を潰すためには、あの人達が前提としている「恐怖」それ自体を潰す必要がある。 反論して、戦って、扇動者を叩き潰したその時点で、扇動者の思惑はすでに成功している。

いろんな人達が「敵」にされている。

辞任した大臣の敵は「日教組」だし、自民党が「敵」として支持を集めようとしているのは、 公務員組織それ自体であったり、マスメディアであったり。恐らく彼らをまとめて「敵」認定するのは 得策でないから、これからは「一部の悪い公務員が」とか、「一部の売国メディア」だとか、 「敵」は分割されて、「いい敵」の不作為が、また政治家に叩かれる。

選挙になる前、自民党の人達は、たぶんマスメディアに対して敵対的になっていくような気がする。 「私はメディアに嫌われてるみたいだから」みたいな発言を閣僚が繰り返すようになったら、 それはたぶん、あの人達が「扇動」の方向に舵を切ったサインになる。

「扇動の技術」というのは、ネット界隈で誰かと遊んだりするときには便利なおもちゃで、 こうした技術で自分の文章をちょっと飾ると、議論が盛り上がる。

その代わり本来、こうしたやりかたは、「主役」が使うものではなかった。

この本が書かれた時代、扇動者は誰も、ルーズベルト大統領に打ち勝とうなんて思っていなかっただろうし、 扇動程度ではびくともしない政府があって、初めて扇動者の言葉は、聴衆に対して一定の説得力を発揮した。

社会にあって、揺るがない主役でなくてはいけない、本物の政治家がこうした技術を使う社会は、 なんか違う気がする。

2008.10.02

製本の意味

「知的生産」のブームというのが80年代にあって、 「知的生産の技術」だとか、「スーパー書斎の仕事術」だとか、「超整理法」だとか、 学生だった当時、たくさん読んだ。

京大カードとか、袋ファイルだとか、あるいはそれらを綴じ込むためのシステム手帳だとか、 今までは、ただノートにまとめるだけだった「メモ」というものを、分離、独立、編集、検索可能にするやりかた。

ただそれだけのことが、当時はえらく画期的に思えた。

スーパー書斎の仕事術

当時はまだ新人だった山根一眞がいろいろ工夫して、それを本にまとめてたけれど、 あの人があの頃試した多くのことは、結局のところパソコンに収斂した気がする。

山根一眞自身もまた、早い時期からパソコン通信を取り入れて、 海外のデータベースに電話回線でアクセスするだとか、書斎にいながらにして、 電話回線一本を駆使して人捜しをしてみるだとか、本の中で「ネットワーク」のすごさを紹介していた。

パソコンはその頃から年々高性能化して、山根一眞自身も、今まで作ってきたアナログ資産と、 どんどん進歩するデジタル資産と、お互いのバランスを取るのに苦労していた気がする。

あの頃紹介されていた多くのやりかたは、パソコンを持っていることが当然の現在から振り返ると、 あらゆるデータを単なるテキストファイルとして扱うやりかたであったり、 パソコン上の「フォルダ」の概念を、そのまんま実世界で再現していたり。

袋ファイルの考えかたは、間違いなく時代を先取りしていたけれど、 パソコンがこれだけ普及してしまった現在、ああいったアナログなやりかたは、 全てデジタル文具に置き換わってしまった。

製本という機能

パソコンが、アナログメディアを置き換えていない部分があるとすれば、 地味だけれど、「製本」の効果なんだと思う。

山根一眞がアマゾンを取材した折だったか、取材に使った膨大な資料だとか、 本のコピーだとか、写真だとか、ばらけた資料をそのまま持って帰るのが面倒で、 これを地元の印刷屋で「本」にしたら、それが非常に使いやすかったらしい。

その頃はまだ、日本には安価な製本機が存在してなかったらしくて、 「製本というのはすばらしい知的生産の技術なのに、日本でそれをやるのが難しい」とか嘆いていた。 後年、安価な製本機が当たり前のように売られるようになった頃には、もうノートパソコンが 普通に買える時代に入っていて、製本機はなんだか、知的生産の流れからは取り残されたような気がする。

あらゆる「知的生産」ノウハウのご先祖みたいな本、「知的生産の技術」を書いた梅棹忠夫が 最初に使ったのは、「どんこ張」という、リング製本のノートだったのだという。

民俗学の現地調査に行くときは、A4版だったか、とにかくリング製本のノートをたくさん買ってきて、 それを上下半分に切断して、横長の、ちょうど「京大カード」と同じようなサイズのノートをたくさん作って、 それを未開の奥地に持って行って、フィールドノートとして使ったんだという。

日本に持ち帰ってきた大量のノートは、そのあとリングを外されて、たくさんのカードになった。

梅棹忠夫は、バラバラになったカードを広げて、思案しながら、 似かよった文化が記述されたカードを集めたり、新しい発想を、 カードの群れに投影したんだという。

「知的生産」は、たくさんの情報の断片を、断片のままに分離独立して、そこから何かを生む相と、 雑多な情報をとりあえず一つにしたり、あるいは最初は一つのノートとにいろんな情報を書き込んでいく相と、 情報は、お互いの相を行ったり来たりするものだった。

情報をより自由にすることは、これはパソコンの得意分野なのだろうけれど、 「雑多なものを強引にまとめて扱う」やりかたは、案外パソコンは苦手なのかもしれない。

本という制約

大学生の頃はパソコンもテレビもなくて、でもコピー機と製本機だけは、個人で下宿に持ってたから、 いろんなものを「本」にして、ずいぶん便利に利用した。

製本機の機能、まだ整理もされていない雑多な情報を、とりあえず無理矢理まとめるというやりかたには、 カードが持つ、スマートな、パソコン上にそのままの環境を移行出来るようなきれいさはないんだけれど、 視覚的に「本」という形に固められた情報は、とりあえずやるべきことが見えてくると言うか、 「全体」が製本という行為によって決定されて、あとはひたすら削り出せばいいと言うか、 独特の、仕事の流れみたいなものが見えてくる。

「情報に制約を付加する」ことが、たぶん製本の機能的な意味であり、パソコンが未だに追いつけない、 「本ならではのよさ」みたいなものにつながる何かなんだと思う。

たとえば粘土の固まりを渡されて、「何でも自由に思うものを作っていいよ」なんて言われても、けっこう困る。 粘土は自由すぎて、自由すぎる情報を前にしても、発想が出てこない。

これがそのへんの石ころだとか、木片を渡されて、「これで何か作って下さい」なんて言われると、 石ころや木片の形だとか固さ、自分の工作技術なんかが、出来るものを大きく制約する。 とりあえず削れそうなところを削っていくしかないから、考える前に、 とりあえず「のみ」と「金槌」持って、後は叩きながら考えようかな、とか、 とりあえず体を動かし始めるような気がする。

全ての「仕事術」が目指すところは、要するに、「出来るだけ速く仕事を始める」ことにつきるんだという。

仕事の律速段階になっているのは、結局のところ、解決しなくてはいけない問題が発生して、 それに手を付けるまでの時間であって、「仕事術」というものは、とりあえず体を動かすための 閾値を下げているに過ぎないのだなんて。

引用や改編、編集みたいな自由度があまりにも高いデジタルデータは、自由であるが故に 制約が少なすぎて、制約が少ないから、「完成図」が拡散して、描けない。

重力があって初めて歩行が出来るだとか、手足が不自由な人を見ずに浮かべると、 水の浮力と抵抗が、その人の体に「泳ぎ」を創発するだとか。動作というものは、 環境に適応するために思考が生み出したものというよりは、 むしろむしろ環境という制約が、身体との相互作用を通じて、 意識に「教える」ものなんだという。

製本というやりかた、雑多な情報に適切な制約を付加することで、ユーザーが「完成品」を 生み出すことを助ける機能は、パソコン全盛時代、もう少し見直されてもいいように思う。

2008.10.01

輸入された価値観のこと

ほんの10年ぐらい前まで、感染症の治療には「広く効く新世代抗生物質」を使うのが常識で、 自分が研修した病院みたいに、旧世代の抗生剤を大量に使うやりかたは、当時はまだ珍しかった。

大学に移ったばかりの頃、連れて行ってもらった学会で、肺炎治療のフォーラムが開かれた。 「難治性の肺炎を、新世代の抗生剤で治した」症例が報告された。

虎ノ門病院の先生だったか、会場から質問が出た。「わざわざ新しい薬を使うまでもなく、 伝統的なペニシリンを大量に用いることで、それは十分に治療可能だったのではないでしょうか ?」なんて。 同じような考えかたをする人がいて、ちょっと嬉しかった。

パネリストをやっていた、偉い先生の反応はさんざんだった。

「 (゚Д゚)ハァ? 」
(´・ω・) 「先生、ペニシリン大量なんて聞いたことあります ?」
(・ω・`) 「私はちょっと、そういうやりかたはしたくありませんね…」

時は流れていろいろあって、「北米流」のやりかた、古い薬を大量に使うやりかたが、感染症治療の主流になった。

感染症科の先生がたは、今では誰もが「アメリカ」の看板背負って、病棟内を濶歩する。

自分なんかが不精して、昔風に広く効く抗生物質を使ってると、 「それはアメリカのガイドラインとは違います」なんて、自分より若い感染症医に怒られる。

「大丈夫」の意味

感染症科の先生がたは、ペニシリンを好む。

専門家に言わせれば、たとえペニシリン耐性を持っている菌であっても、 それが肺炎球菌による肺炎ならば、ペニシリンを大量に用いるのが正しくて、「それで大丈夫なんだ」と言う。 「耐性」というだけで内科は怖がる。効かない薬使ったら患者さん死んじゃうから、 たいていずるして、こっそり別の抗生剤投与して、見つかって、また怒られる。

「大丈夫」という言葉の解釈は、けっこう難しい。

「耐性でもペニシリンで大丈夫」という専門家の言葉が、それが「敵が新型ライフルを持っていても、 AK47 で十分戦える」みたいな意見なら納得するけれど、それが「熟達した兵士なら38式歩兵銃でも十分勝てる」 という意味ならば、そんな意見を吐く人の下で働くのは苦痛だろうなと思う。

肺炎球菌は、たとえペニシリンに耐性を持っていたとしても、たしかにペニシリンで十分戦える。

その代わりペニシリンは、他の細菌を叩くには役不足だから、ペニシリンが活躍するためには、 前提として「その患者さんの肺炎は、肺炎球菌が引き起こしている」ことが保証されないといけない。

残念ながら、患者さんを検査して、原因菌を突き止めるのは「兵士」である内科の仕事だから、 将軍がいくら「ペニシリンで十分」と宣言したところで、前提の保証が為されない以上、 その「大丈夫」は、現場の兵士に響かない。

技術と技芸のこと

ペニシリンは古い薬だけれど、使いどころを間違えなければ今でも最強の抗生物質の一つだし、 これがきちんと使いこなせる人というのは、たしかにどんな状況になっても、 「ここ」というタイミングでペニシリンを投入できる。

ペニシリンの使いかたに熟達した人のすごさは、その代わりペニシリンでしか発揮されない。 「ペニシリン名人」みたいな人が、世代の新しい広域抗生物質を使ったところで、 名人がその抗生剤の効果を何倍にも高められるかと言えば、もちろんそんなことはない。

「芸」を絶対化する価値観の中に生きていると、「芸」を成り立たせている外部環境が変わっても、 同様の絶対性を発揮するかのような錯覚を持ってしまう。これが行き着くところまでいってしまうと、 一芸に秀でた者は万能であるかのような考えかたを生む。

「芸」には欠点がある。状況が変われば対処が出来ないこと。「名人」を作るコストが莫大であること。 より高度な技術が開発された場合、「芸」は新しい状況に転用できず、たとえ日本刀時代の武芸者の「芸」は、 鉄砲時代には何の役にも立たず、無価値になってしまうこと。役に立たなくなってしまうが故に、 技術で遅れをとった場合、名人は、それを「量」で補うことすら出来なくなってしまうこと。

たとえばAK47 は、良くできた「工業製品」だった。それがカラシニコフの形をしていれば、 ロシア製だろうが、中国製だろうが、たいてい確実に動作する。射程距離は短くて、命中率も「そこそこ」 だけれど、それを正しく運用する技術は強力な戦力になるし、もっと優秀なライフルが手に入ったら、 その技術は軍隊をもっと強力にする。

日本軍が昔使っていた38式歩兵銃は、組み立てるのに職人芸が必要な芸術品だったのだという。

部品のばらつきが大きくて、まともに動作する銃に作り上げるためには、職人による技芸が必要だった。 きちんと組み立てられた38式歩兵銃は命中率が高かったけれど、「射芸」に熟達した兵士が、 「当たり」の銃を使わないと、本来の性能が発揮できなかった。

敗戦間際、職人の芸を持ってしてもまともな銃が組めなくなって、射芸に熟達した兵士が軍隊から いなくなって、日本の軍隊は、事実上戦えなくなってしまったのだと。

輸入された価値観のこと

感染症の先生がたは、「北米流」を輸入するのではなくて、 やっぱり自分たちなりの判断基準を、自分たちの言葉で記述してほしいなと思う。

状況に合わせて自ら創作したものは、状況に合わなくなれば、改訂して、 また使い続けることが出来るけれど、「輸入」したものは、それができない。

北米流を「権威」として輸入する今のやりかたは、それが権威であるが故に、 実情と合わない部分が出てきても改訂できないし、現場の不安に対して、 権威を運用する人達が答えを返せない。

借り物の権威は、「本家よりも厳しい」ことを持って、日本独自の権威として運用される。 それは同時に、「本家より厳しいのだから、自分達のほうが本物だ」という主張にもつながる。 欧米から借りてきたガイドラインは、だからしばしば「厳しさ」競争になって、 「それを破らないと治らない」、やっかいな代物となって、現場を縛る。

大東亜戦争の昔、西欧流のやりかたを輸入した日本軍は、軍紀の厳しさという点では、 世界のあらゆる軍隊よりも厳しく、融通が利かず、そしてこの融通が利かないところを一種の誇りとしていた。 日本軍は、軍紀上は最も合理的な軍隊でありながら、現実から遊離した、完全に不合理なものとなっていた。

抗生剤の「効き」というのは、薬としての力価、病巣への到達度、体内での持続時間、 さらにはその国の保険で認められている最大容量、いろんなパラメーターが左右する。

欧米と日本とでは、ほとんどあらゆるパラメーターが異なってくるから、 「武器」の強さは同じではありえなくて、輸入したやりかたは、やっぱりどこか、 現場とそぐわない。

状況が違うなら、それに合わせたやりかたを考えるべきだし、 判断を自ら記述しないで、借り物の権威を振り回す人達は、 やっぱり専門家名乗っちゃいけないと思う。

2008.09.29

神様のまずい設計

人間の体はよくできているけれど、ライフスタイルが変化すれば、やっぱり「設計」は古くなる。

胃を切った人は元気

「メタボ検診」の悪影響で、病院に健康診断の患者さんが大挙して、一時大変だった。

普段病院に来ないような人達をたくさん診察して、「胃を切った人は元気だよね」なんて、 医局で話題になった。

今70歳ぐらいになる人達が若かった頃は、胃潰瘍の治療といったら「手術」だった。 当時はまだ、開業した人達も手術してたから、今だったら薬を飲むだけで済むような人が 片端から手術を受けて、胃を切除された。

胃を切られた人は、食べられないから太れない。やせた人が来て、お腹を見ると手術跡があって、 「これは昔、潰瘍で」なんて教えていただく。診察して、後日血液検査を見ると、みんな正常値。 こんな人が何人か続いた。

サンプルは偏っているし、観察者の主観でしかないから、この事実にはまだなんの意味もないけれど、 「メタボ検診」は、患者さんの腹囲と血圧を測って、あとは高脂血症の検査と糖尿病の検査と、 「成人病」を診断するのに必要な検査が、一通り行われる。 もしかしたらだから、「若い頃に胃を切った」ことと、「その人が高齢でも元気」であることと、 何かの相関が、統計的に証明できるかもしれない。

当時の状況をきちんと検証すれば、たぶんたくさんの人が合併症で亡くなっていたり、 きっとろくでもない数字がたくさん出てくるのだろうけれど、とにかく日本のある年齢層の人達は、 「正常」な胃を当たり前のように切られていた時期を過ごしていて、 その人達が高齢になって、今健康診断を受けに、日本中の病院に来てる。

「カロリー制限」というのは、ある程度まじめな検証が為されている健康法の一つだから、 きっと面白い数字が出てくるような気がする。

仮に「胃を切った人は健康である可能性が高い」なんて結果が出たところで、 胃を切った「から」健康なのか、胃を切られた「にもかかわらず」健康な人が生き残ってるのか、 相関関係と因果関係とを鑑別するのは、また別の問題なのだけれど。

介護と人工肛門

寝たきり老人が増えた。人生の最後の10年ぐらいをベッドの上で過ごす人は、半ば当たり前になってきた。

団塊世代の人達が、これから寝たきりになってくる。

介護の需要はいよいよ増えるはずだけれど、若い人は減ってしまうから、人手は間違いなく足りなくなる。 人手が足りない業界の給料は上がるはずなんだけれど、今はもうお金無いから、 やっぱりたぶん、介護業界に投じられる予算は増えないのだと思う。

人間の「排泄」ラインは、あくまでも立って生活するのに特化していて、「寝たきり」の体位を想定していない。 おむつを当てたところで、寝たままの排泄は苦痛だし、うまく出ないし、介護するほうは、 だから1 日中、おむつ交換に忙殺される。

「人間らしい」介護が求められてるんだという。介護施設を外から観察する人達にとっての 「人間らしさ」とは、食事の介助を付きっきりでやることだとか、日中は車いすで外を散歩することだとか、 たとえ不隠のきつい人であっても、夜中も付き添って、縛ったりしないことだとか。

実際に療養病棟でやられていることは、「おむつ交換」と「体位交換」の繰り返し。 「人間らしい」お仕事は、もちろん介護を提供する側にとっても 「人間らしい」お仕事だから、みんなそういうことしたいんだけれど、便汁と床ずれは待ってくれない。

見学に来る人は、食事の風景だとか、レクリエーションの時間なんかはチェックするけれど、 スタッフが4 人がかりで便まみれのシーツ交換している風景だとか、茶色が染みた紙おむつの山を バケツに放り込んだ台車が廊下を何往復もしている風景だとか、あんまり見てくれない。

「おむつ」の問題が解決できれば、寝たままトイレに行ったり、排泄できたりするベッドが作れれば、 介護は画期的に楽になる。おむつ交換に回す人手が減らせれば、お互いもっと「人間らしい」ことができる。 そこにはすごく大きな市場が在るはずだから、今はもちろん、世界中の寝具会社が開発に全力挙げてる はずなんだけれど、未だに何も出てこない。

寝たきりになった高齢者に「人工肛門」と「膀胱瘻」を作ってしまうと、問題は解決する。 へその左右に、袋が一つずつつく形になる。

これをやると、肛門側からは何も出ないから、おむつ交換は理論上必要なくなる。 便とか尿が背中に漏れないから、シーツの交換頻度も減らせるし、お尻が便で汚染されないから、 床ずれも治りやすい。

介護の仕事は、食事の介助、体位交換、おむつ交換と便の始末がほとんど全てだから、 人工肛門を作った患者さんについては、食事の介助以外、ほとんど全ての作業が不要になる。 人的リソースが節約できるから、みんなが大好きな「人間らしい」仕事に、余力を割けるかもしれない。

これからは在宅介護が主流になるらしい。絶対無理だと思う。24時間、 4時間おきに体位交換とおむつ交換とか、一人でそれをやり続けるのは無理だから。

「自然」であり続けるためのコスト

  • 減量するために、あるいはもしかしたら、老後健康であり続けるために、胃を切除する
  • 介護を楽にするために、限られた人的リソースを「人間らしい」仕事に集中するために、人工肛門を作る

「自然でない」なんて反論が絶対に出るだろうけれど、神様にだって想定外のことはあるんだと思う。

食生活がよくなりすぎて、重量あたりのカロリーが高い、「いい」食品が世の中にあふれた現在、 神様が想定した胃の容量を今の食品で満たしてしまうと、カロリーオーバーになってしまう。

立って活動するように設計された「自然な人」が寝たきりになった状態は、そもそもが不自然な状態。 排泄みたいな行動は、そもそも寝たきりの状態を想定していないから、 その人を介護するのにすごい人手が必要で、介護施設では慢性的な人不足が続く。

人間が、本来想定されていない環境の中で「自然」であり続けるためには、 高いコストを対価として支払わないといけない。「寝たきり」みたいな不自然な環境に対して、 その状態にあわせて自分の体を作り替えた人は、たしかに「自然ではない」けれど、 「自然」な寝たきり老人に比べれば、たぶん環境に適応するためのコストを下げられる。

こういう考えかたの延長には、どうしたって安楽死が待っているんだけれど、 「どこまでが自然なのか」という議論は、それが必要になる前に、もう少し盛り上がってもいいと思う。

2008.09.27

説得的コミュニケーション

「プロパガンダ」という本を抜き書き改変。

「理由」の意味

  • コピーを取る列に並ぶとき、何か理由を一言付け加えると、たいていの人は、前に割り込ませてくれる。 理由には意味がある必要はなく、実験によれば、全く意味のない理由をつけて頼んだ場合であっても、 ほとんど全ての人が、割り込みを許してくれたのだという
  • 街で歩いているときに小銭を無心されたところで、たいていの人は無視して通り過ぎる。 ところが「170円下さい」のように、具体的な金額を提示して小銭を要求されると、 その人が、本当にお金を必要とする人に見えてくる。はっきりとした金額を示して募金への協力を呼びかけると、 そうでない場合に比べて、2倍もの寄付が集まった
  • 多くの点で私たちは、いつも認知的エネルギーを節約しようとする「認知的倹約家」である。 何かよい理由があるからではなく、「そこに理由があるから」という単純な説明があれば、 よく考えずに結論や主張を受け入れてしまう
  • 人間の能力には限りがある。認知を受け入れるときには、だから複雑な問題を単純化した、 認知の「周辺ルート」を採用することが多い。説得を試みるときは、 メッセージの受け手が「周辺ルート」を採用することを促し、人間の情報処理能力に 限界があることを、積極的に利用しなくてはならない

合理化の罠

  • 説得的コミュニケーションに熟達した人は、まずはメッセージの受け手の自尊心に脅威を与える
  • たとえば何かに罪悪感を感じさせたり、恥辱感や不適切感を喚起したり、 自らが偽善者であるかのように思わせてから、それに対して一つの解決策を提案する。 「解決案」に従うことで、メッセージの受け手の自尊心は回復され、認知の不協和は低減される
  • たとえば街頭募金を呼びかけたところで、たいていの人は、「わずかばかりの寄付を行ったところで なんの足しにもならない」などと言い訳して去ってしまう。このときに「10円でもいただけると助かるんです」と 付け加えられると、その人は「10円も払えないけちな人間」になってしまい、自尊心が脅威にさらされる。
  • 脅威を取り去るためには募金に協力することが最も簡単で、たいていの場合、10円以上のお金が支払われることになる

名前は実体を作り出す

  • 魅力的な言葉を選択することが大切になる。説得者の多くは、文脈上の意味が曖昧であって、 肯定的な響きを持つ言葉を好む。「殺戮者」は「勇敢な自由の戦士」であり、 「占領統治」は「名誉ある平和」と表現される
  • 名前はしばしば実体を作り出す。掃除の効能を説かれても、自発的に掃除を始める子供はいないけれど、 「あのクラスはいつもこぎれいにしている」という評価を与えられたクラスでは、生徒が勝手に掃除を始めて、 やがて教室は本当にこぎれいになる
  • 「算数の達成者」というラベルを与えられた平均的な子供達は、 算数を一生懸命勉強するよう励まされた同程度の子供達に比べて、成績がより向上していたという

絵を見せる

  • 社会を単純化して説明しうる、説得的な「絵」を描かないといけない
  • 権力の座にあって最も大切なことは、どの情報を広く伝達し、どの情報を選択的に無視するかによって、 組織の行動計画を設定する能力を保持し続けることなのだという
  • マスメディアは「何を考えるべきか」を人々に伝えることはできないけれど、 「何について考えるべきか」を伝えることには大いに成功している。 新聞記者や編集者がどのような絵を描いてみせるかによって、同じ事実が全く異なったものとして、 人々の目に映る
  • ゲッペルスは「忍び寄る危機」という言葉を作り、「頭の中の絵」を描くのに一役買った

「ロシア人とイギリス人は、共謀して我々を攻撃している。しかし幸いなことに、 イギリスには社会不安があり、我々には指導者がいる」

  • ヒッピー運動の指導者ジェリー・ルービンは次のように述べている

どんな革命家にもカラーテレビが必要だ。ウォルター・クロンカイトは、学生連合の最高のオーガナイザーだ。
ウォルターおじさんはアメリカの地図を引っ張り出してきて、今火花が散っている大学に○印を付けた。
戦況報告だ。これを見た学生は、みな「うちの大学もあの地図に載せたいな」と思ったものだ。

質問という説得

  • 誘導尋問は、事実を目撃した人の心証をも大きく変えうる。適切な質問を行うことで、事実は変化する
  • 自動車同士の交通事故を写したフィルムを見せた被験者に、違う言葉で質問を行った実験。 「車が 激突 したとき、それぞれの車はどれぐらいのスピードが出ていましたか? 」と尋ねた群と、 「車が 衝突 したとき…」と尋ねた群とでは、「激突」という言葉を使われた被験者のほうが、 車のスピードをより速く、事故現場をより悲惨に描写した
  • 質問は、受け手の意志決定を構造化する。正しく為された質問は、強力な説得の道具となる
  • 質問を適切に準備することで、当該の問題についての、受け手の思考を方向づけ、 暗黙のうちに可能な解答の範囲を限定することができる
  • たとえば「あなたは武器を携帯する権利を憲法で保障するという考えに賛成ですか?」という質問は、 人々の注意を銃保有の合法化問題に向かわせる一方、社会全体の安全問題を見直すことや、 銃を登録制にするような、中道的な意見について考える機会を排除してしまう

自分の行動は予測できない

  • 製品と無関係な有名人が、コマーシャルにはよく使われる。アンケートを取ってみると、 誰もが「有名人は購入動機と無関係」と主張する
  • ところが「他の人は有名人のことをどう思うだろうか? 」と尋ねると、 「他の人なら、映画スターやスポーツ選手の勧める 商品に興味を持つだろうけれど、自分は品質を見て決める」などという答えが返ってくる
  • 人は自分の行動を予測できるとは限らない。多くの人は、映画スターやスポーツ選手の言うことを信用しないかも しれないけれど、そのことは、「彼らが勧めた製品を買わない」ことを、必ずしも意味しない

メッセージ伝達者の立ち位置は大切

  • 元犯罪者が犯罪の厳罰化を求めた場合、それが犯罪者の言葉であっても信用される。 メッセージの伝達者が、説得に成功しても、そこから得る者がなにもないことが明らかである限り、 たとえ伝達者が道徳的な人物でなかったとしても、効果的な説得を行うことができる
  • 「自分と無関係な誰か」の立ち話は信用される傾向にある。全ての人は、 自分には向けられていないアドバイスを手に入れようとしており、 そうして手に入れた情報の価値は、より高く評価される。 「隠しカメラ」を用いたコマーシャルは、こうした原理を利用している

歌って逸らして圧縮する

  • 広告業界には、昔から「何も言うことがないなら、歌えばいい」という教えがある
  • 歌であったり、あるいはメッセージとは無関係な絵画を受け手に見せることによって、 受け手の注意が逸らされる。注意力を適切に逸らせることで、反論は抑制され、 説得的なメッセージの効果を高めることができる
  • 早回しを用いた、時間を圧縮された広告に対して反論するのは難しい。 時間の圧縮と、注意の散逸が適切に用いられたメッセージは、高い説得力を持つ
  • 強い論拠を含むメッセージが圧縮されると、説得効果は弱まってしまう。 一方弱い論拠しか持たないメッセージが圧縮されると、説得効果が高まる

ラベルを共有する

  • たとえ問題とは無関係であっても、ラベルを共有する人々は、あたかも親友のように振る舞う
  • 初対面であっても、ラベルを共有する他者に対して、人は好意を抱く。 ラベルを共有しない他者よりも、その人は望ましい性格を持っており、仕事の成績がよいと評定される
  • 説得的コミュニケーションを試みる者は、「宣伝部門」対「生産部門」、 「精神科医」対「心理学者」、自治体と大学のような対立する図式を宣言することによって、 自ら属する一方の側に、団結を生み出すことができる
  • 一度「仲間」になった人物には、教科書的な説得の技法を簡単に適用できる

容疑者不詳、友人が第一発見者となった殺人事件の事例。

警察の事情聴取が行われ、刑事は被害者を発見した友人と会話し、「仲間」になり、 弁護士に接触する権利を放棄するよう導いた。

刑事はその後、友人が殺された被害者を発見したときの様子を、何度も描写するよう促した。

殺される直前、被害者は友人と別れており、被害者を一人で残した友人は、罪の意識を持っていた。 話を繰り返すことで、友人の罪の意識が十分強くなったところで、刑事は凶器に彼の指紋がついていたことを説明した。

第一発見者であった友人には、その記憶がなかった。彼は混乱し、刑事に助力を求めた。

刑事は「もし自分が殺したのだとしたら、どのように殺したのかを想像してみると、 その時の状況を思い出すきっかけになるし、罪の意識から抜け出す助けになるだろう」とアドバイスした。

指紋のついた凶器など本当はなかったけれど、彼は自ら犯した罪を自白し、後日殺人罪で起訴された。

2008.09.25

見たいものしか見えなくなる

寝たきりの、普段から喀痰でうがいしているような患者さんを、老健施設から受ける。

そういう人は、どこから先が「病気」の範疇で、どこから先がそうでないのかはっきりしない。 熱が出て、呼吸が悪くなったら病院で受けて、なんとか立ち直って、熱が下がったら、また老健に戻る。

入院期間はどうしたって長引くし、老健施設だって、こういう人を介護するのには人手かかかるから、 「ある程度落ち着きました」なんて紹介状の返事書いても、施設によっては無視される。

問題は秘書のせい

寝たきりの人を引き受けて、介護するのが思ったより大変だったのか、 「本人が貴院での入院加療を希望しておられます」なんて、しゃべれもしない老人を紹介してくる。 地元の開業医が施設長を兼任してる。

外来に来て、そんなに具合が悪いわけでもないのに、気がつくとスタッフはみんな引き上げてる。 北朝鮮の瀬戸際外交されてる気分になる。

とりあえず部屋取って、点滴して、ある程度落ち着いて、また紹介状書く。 「先生におかれましてはお忙しい中大変申し訳ありませんが、患者様の今後のご加療をよろしくお願いします。 このたびは貴重な患者様をご紹介いただき、本当にありがとうございました」なんて。

無視される。1 週間待っても、2 週間待っても、「今検討中です」なんて、患者さん見にも来ないで、 なんか検討してる。

そうこうしているうちに別の患者さんが「紹介」されて、また「本人が貴院での…」なんて、 しゃべれない老人を、車いすに乗っけて連れてくる。

やりかたがあんまりひどくて、文句言う。「もう病棟残ってませんから。○○さん 引き取ってくれないと、次受けられませんから」なんて。むこうのスタッフはひたすら困ってる。 「施設長の方針で、その人受けられないんです」だって。

話が前に進まないから、施設長その人に、コンタクトを取ってもらう。

施設長は、たいてい席を外していて、 「連絡取れるまで、電話切らないで待ってますから」なんて応酬すると、ようやくしばらくして、 「あとから連絡するとのことです」なんて話になる。

年次が上の同業者。喧嘩になるの覚悟して電話を待ってると、 「うちのスタッフが失礼しました」なんて、和やかな返事。自分たちの施設では、 病院が大丈夫と判断した患者さんについては速やかに引き取ることを目標としていて、 対応が遅いのも、患者さん引き取らないのも、全てはスタッフが勝手にやったことなんだと。

「よく言い聞かせておきます」なんて電話が切れて、患者さんが引き取られて、 また別の人が紹介されて、やっぱりその患者さんも、いつまでたっても引き取られない。

文句言って、また同じスタッフの人が「勝手にやったこと」にされて、患者さんは引き取られていく。

「医師同士はお互い仲がいい」という世界観は、あの人達にはすごく大事なものみたい。

医師会の会合のこと

地域医療連携の集まりだか、医師会主催の講演会があった。

終わったあとに立食パーティーがあって、友達いないから一人で食べてたら、 「いつもどうもありがとう」なんて、年配の先生方が何人かやってきた。 いつもどうしようもない患者さんを、どうしようもない理由で送りつけてくる人達。

「君たちの施設も、我々がたくさん患者を紹介するからうれしいだろう」とか、 「他の公立病院が撤退してきて、君たちももっと忙しくなる。これから大変だろうけれど、 医師の数はもっと増えるんだろうから頑張ってくれたまえ」だとか。

みんなにこやかだった。集まった人達は、「勤務医は開業医の息子」だなんて思ってて、 息子はもちろん死ぬほど働いて、「親」の金儲けを喜んで支えるのが孝行だなんて、どうも本気で信じてた。

何を言っているのか分からないだろうし、自分も何を言われているのか分からなかった。 嫌味だとか皮肉だとか、そんなチャチなもんじゃない、もっと恐ろしいものの片鱗を味わった。

当たり前の話、紹介されたってうれしくないし、ベッドだっていつもいっぱい。 医師が増える話なんて無いし、一人当直の病院なんだから、今以上に患者さんが殺到したとして、 対応できるわけがない。

「頑張れないと思います」とか返事したら、自分たちの施設では設備が足りないだとか、 開業医は当直が出来ないだとか、「親には逆らうもんじゃない」みたいなコメントが返ってきた。

設備は買えばいいし、心配だったら自分で当直すればいい。患者さんの具合が悪くなっても、 その施設はいつも、患者さんをろくすっぽ診もしないで、、限界まで悪くしてからぶん投げるんだから、 患者さんの具合が悪くなって立場を失うのはその先生であって、自分たちじゃない。

「夜中に患者さんの具合が悪くなったら、君たちだって同じ医師として心配だろう? 」なんて言うから、 「だって先生、ボク達普段から仲悪いじゃないですか」とか言葉返したら、 なんだか異星生物見るような目でにらまれて、みんないなくなった。

また一人になって、お寿司いただいて帰った。

2008.09.24

交渉の自然治癒力

ベトナム戦争当時、制空権を握っていた米軍はヘリコプターが使えたから、 撃たれた兵士はすぐに後方に搬送されて、緊急手術を受けることができた。適切な治療が施されたにも かかわらず、兵士の死亡率は高かった。

フォークランド紛争でのイギリス軍は、制空権が不十分であり、夜戦が多かったことも手伝って、 撃たれた兵士の搬送は遅れがちになった。

外傷医療の技術には大きな変化はなく、撃たれた兵士は、応急処置だけで事実上放置されていたにもかかわらず、 ベトナム戦争のときよりも、兵士の死亡率は低かった。

こんな経験から、重篤な多発外傷の患者さんにおいては、「可能なかぎり早く手術し、治療する」という治療戦略自体に 疑問が持たれて、「ダメージコントロール」という考えかたが生まれた。

「ダメージコントロール」の考えかた

たとえば肝臓と脾臓が破裂して、多発肋骨骨折に血気胸、大動脈にも損傷が疑われる外傷患者さんが運ばれてきて、 手術でこれを全部治すと、患者さんはそのまま亡くなってしまう。

「ダメージコントロール」の考えかたは、患者さんに「受容可能侵襲量」という考えかたを持ち込む。

受容可能侵襲量とは、患者さんがその状況で支払い可能なコストみたいなもの。 「手術で直す」ためにはそれなりのコストが必要で、完治を目指す大がかりな手術を行っても、 手術室で患者さんが「支払い不能」に陥ったら、患者さんは亡くなってしまう。

外傷患者さんは、受容可能侵襲量が少ないから、手術は「支払い」可能なコストの範囲で行われる。 手術の目標は、治ることでなくて、「治っていないけれど死なない」状態で、素早く撤退することを目指す。

出血している血管を放置したまま撤退すれば、患者さんはやはり亡くなるけれど、 上手な「撤退」が行われた患者さんにおいては、次の手術までの間に回復が期待できる。 患者さんが支払い可能なコストの範囲で手術を行って、上手な撤退をして患者さんの回復を待ち、 支払い可能な「受容可能侵襲量」が再び貯まれば、今度は治癒を目指した手術が施行できる。 「ダメージコントロール」の考えかたは、だからきれいな治癒を目指さないで、 むしろ回復につながる撤退を目指す。

たとえば救急外来から患者さんが運ばれてきたら、まずは止血や損傷組織摘出などの処置は最小限にとどめる。 破裂した肝臓なんかは縫わないで、ガーゼで何となく寄せて固めておいて、ひどい出血がなければ、そのまま放置する。 最初の手術は、今やらないと死ぬ場所だけ処置を行って、あとはお腹も縫わないで、そのまま集中治療室に入れる。

集中治療室では、まずは全身状態の安定に全力を挙げて、状況が改善した数日後、 今度は臓器の再建だとか、凝血槐の奥にある、血管損傷の検索などが行われる。

ダメージコントロールの考えかたを治療に取り入れるためには、患者さんの「受容可能侵襲量」を 想像しながら、手術室に入ることになる。それぞれの外傷は重症度が判断されて、 軽いものは後回し、重いものは「治療」が選択されるけれど、治療に必要な侵襲が大きすぎて、 患者さんの支払い可能な量を上回ってしまうと判断された場合、「治療」ではなく、「次につながる撤退」が 選択されることになる。

ダメージコントロールの考えかたを取り入れてから、従来ならば間違いなくなくなっていた患者さんは、 けっこうな頻度で助かるようになったのだという。

交渉の自然治癒力

交渉が中断されると、お互いの印象はずいぶん変わる。

酔った外来で大喧嘩して、「二度とこんな病院には来ない」とか啖呵切った人も、 何かのきっかけでまた具合が悪くなると、「あのときはそんなにひどい喧嘩にならなかった」とか思い直して、 けろっとして病院に来たりする。

「あのとき主治医がもっと強く入院を勧めてくれれば帰らなかった」とか、 治療拒否して亡くなった患者さんが裁判になる。「あのとき」の主治医は、 つかみ合いの大げんかになるぐらい「強く」言ってたはずだし、ご家族はそれを見ているはずなんだけれど、 裁判になるとそれが「弱く」なる。

交渉ごとは人体とは違うけれど、中断によって変成する。変成にはいい方向と悪い方向とがあって、 上手な中断が為された交渉は、空白期間にある程度の「自然治癒」を期待できるし、 交渉が悪い形で中断されると、恐らくは交渉が中断している期間、相手の心証は、時間とともにどんどん悪くなる。

「交渉学」というのは、覇を競った昔の外科医に似ている。人質交渉人や営業マン、詐欺師やヤクザ、 政治家、心理学者、あらゆる分野の人達が交渉を語る。いろんなやりかたを発信する。よく似たやりかたで、 お互い参考にできる部分もあれば、その業界独特のルールに依存していて、他の業界では再現不可能なやりかたもある。

いろんな交渉の本を読んで、特に「交渉の自然治癒」について言及されているものはあんまり無いように思う。 みんな何となく、「エレガントに一度に直す」ことを目標にしていて、 少ない交渉回数で、短期間で合意に達することが「いいこと」とされている印象を持っている。

交渉にも、そのテーブルでの「受容可能侵襲量」みたいな概念があるような気がする。

救急外来は早さが命で、ここでトラブルを起こして状況が止っても、患者さんは次から次にやってくる。

トラブルを生じた相手に「今は無理だから後から文句言って下さい」なんて交渉を中断したら、 これは出血している血管を放置するようなもので、空白時間の最中、出血は続いて、 トラブルはますます大きくなる。

「ダメージコントロール」の考えかたが交渉にも当てはまるのなら、救急外来という場所は、 患者さんにも、自分たちの側にも、「受容可能侵襲量」が極めて少ない。交渉を完結することを目指すよりは、 むしろ上手な撤退を目指すこと、交渉を穏やかに中断することで、単なる待ち時間を お互い「頭を冷やす」期間として生かせるようなやりかたを考えたほうがいいような気がする。

交渉のテーブルに着いたとき、お互いが支払い可能な「受容可能侵襲量」、 その交渉が合意に達するのに必要な「侵襲」量をそれぞれ概算できること、 合意に達するためのやりかた、「治癒」を目指すやりかたとは別に、「次につながる」形で、 上手に交渉を中断するためのやりかたが考えられるのなら、交渉にもまた「ダメージコントロール」、 交渉の自然治癒力を利用した方法論が作れるのかもしれない。

2008.09.22

「無能な上司」という能力

「皇国の守護者」という、戦記物の小説を読んだ。

戦記物の常で、主人公は能力があるのに低い地位に甘んじていて、軍隊には、無能な上司があふれてた。

主人公が活躍するたび、「無能な上司」はそれを無視したり、足を引っ張ったり、 あるいは間違った判断を下すことで、主人公を不利な状況に追い詰めたり。

売れた小説というものは、多かれ少なかれ、社会の鏡として機能する。

この小説はずいぶん売れたみたいだから、「不遇な有能」である主人公と、 それを取り巻く「無能な上司」という構図に、自ら置かれている社会を見た人は、 きっと多いのだろうなと思う。

無能な上司のお仕事

小説世界、主人公はもちろん大活躍するわけだけれど、 その舞台を設営するのは、「無能な上司」の大切な仕事。

設営の条件は厳しくて、どうしようもない無能しかいない軍隊を設定してしまうと、 そもそも主人公が活躍するはるか以前の段階で、戦いが終わってしまう。

主人公が活躍するための舞台である軍隊は、だから列強と互角に戦える程度には有能であって、 なおかつその上層部は「無能」で占められていて、主人公を取り巻く有能な下士官もまた、 主人公が登場する以前の段階では、その能力を発揮することは許されない。

主人公が登場して、物語が始まるまでの間、「無能な上司」は、自らの能力を何ら認識されることなく、 もちろん軍隊にいる「隠れた無能」の力を引き出すことも許されないまま、自分が指揮する軍隊を守り通さないといけない。

「無能な上司」役を演じている登場人物は、ある意味主人公よりもよっぽど難しい条件を作者から押しつけられて、 しかも「出世すること」を義務づけられている。

「無能な上司」は果たして、主人公に比べて、本当に無能なんだろうか。

出世に能力は必要ない

いわゆる「出世」を考えたときに、外から見える「能力」を持っていることは、たぶん本質たり得ない。

成功は偶然だけれど、失敗は必然。失敗した人、能力を認められない人というのは、 失敗に至る過程のどこかで、必ず「失敗につながる必然」を踏んでいる。

ある人が偶然をつかむと、それが他者からは「能力」として観測される。

能力は分かりやすいけれど、あくまでもそれは偶然であって、その人の「有能さ」を どれだけ詳細に記述したところで、個人の前を通るものが偶然でしかない以上、 誰かの能力を、観察を通じて再現することは難しい。

「失敗につながる必然」を踏まない、そんな能力のありかたは、恐らくは目に見えにくい。

失敗につながる必然を踏まない人というのは、恐らくは何事も起きないかのようにただそこにあり続けるだけで、 たまに「運良く」何かを拾って「出世」して、上に上がったその場所で、再び無為に佇んでいるようにしか 見えないだろうから。

「成功する」ためには、偶然を生かさないといけない。偶然をつかんだ誰かを観測するのは容易であって、 そのドラマは面白いけれど、成功譚をいくら読んだところで、それを再現することは難しい。 「失敗しない」でそこに在り続ける人は「つまらない」から、そのやりかたを記述したところで、 重要そうにも見えなければ、読者が読んで面白いドラマにすることも難しい。失敗しないやりかたは、 それでも万人に共通だから、学習を通じることで、それを再現することができるはず。

小説世界から何かを学ぼうと思ったならば、逆境を持ち前の能力と勇気で解決していく主人公よりも、 むしろ主人公の足を引っ張る「無能な上司」、無能であるにもかかわらず、 能力を見せることを許されない立場にもかかわらず、主人公に倒されるその瞬間までそこに在り続けた、 そんな人達の行動原理を想像したほうが、何か役に立ちそうな気がする。

穴の空いた床を見ること

組織というのは、穴だらけの床を持ったビルディングみたいな構造をしている。

穴にはまったら下の下位に落ちるし、下から見た「上の床」は天井だから、 そのビルの天井にもまた、無数の穴が空いていて、運がいい人は、天井の穴に手が届いて、 上の階へと上っていく。

みんな上に行きたくて、「天井の穴」ばっかり気にして、床に空いた穴を見ようとしないから、ときどき落ちる。

大事なことはたぶん、「床の穴」に自覚的になって、まずはしっかり床に立ち続けて、どこか高いところ、 天井に上りやすい場所に行き当たるまで、穴を避けて歩き続けることなんだけれど、 穴の見えない、あるいはもしかしたら、床の穴なんて見たくない多くの人は、成功した人達が、 「穴を避けている」のではなく、「天井にぶら下がっている」ように見える。

有能な上司というのが仮にいたとして、そういう人は、「下」の誰かを引っ張り上げるのが上手なはずだから、 その人は間違いなく、「床の上」にたっている。同じフロアにいる人であっても、その人が天井から ぶら下がっていたのなら、その人は本来、下の階に手をさしのべる余裕なんて無いのだから。

「皇国の守護者」8巻、本の真ん中あたりには、 主人公と対立する人物、味方でありながら、 有能な主人公の足を引っ張る「無能な上司」が、挿絵として描かれる。 主人公なんてかすんでしまうぐらい、魅力的な人物として描写されている。

絵の力は時に物語をひっくり返すけれど、これだけ魅力的な人物をして、 どうしてこれが無能でありあるんだろうなんて、そんなことを考えた。

2008.09.20

ヒトデはクモより強い

医局のお話。

医局が独立国家だった時代があったんだと思う

「白い巨塔」時代の大昔には、大学病院だとか、大病院だとかの偉い先生方は、 どういうわけだか地元警察とか、国会議員なんかに知りあいがいて、 自分たちが率いている組織に何かトラブルがあったときには、実体としての政治力が 役に立ったんだなんて。昔話だからこそ、笑い話で済むようなお話。

恐らくは大昔、医局に所属することには、目に見えない形でのメリットがあった。

「研究ができる」とか、「大きな病院で働ける」、「学位がもらえる」みたいなものは、 「見える」メリット。「見えない」ものは、「その医局に所属している」ことそれ自体が、 その医局員の力を増幅する効果みたいな。

「我々の組織を甘く見るなよ」と言えることは、交渉の席ではすごい武器になる。

ヤクザの社会は、怖い人達が集まって「組織」を作って、あの人達は、 「集まった個人」以上の力を発揮する。「絶縁状」は重い刑罰で、ある組から縁を切られると、 もはやその人は「ただの人」になってしまう。医局にもたぶん、同じような効果があったんだと思う。

そこに属する人に服従を強制する代わり、「医局が考える人材」、医局にとってかわいい人材でありさえすれば、 医局は恐らくは、その医師に一定の保護を与えて、「看板」を運用することを許したから、 それが医師の忠誠心を引っ張り出した。

時代が進んで、いろんな物事がオープンになって、医局はどこかで、「見えない力」を 手放したような気がする。交渉の席に乗り込んでくのとか、トラブルにくちばし突っ込むのとか、 基本的に面倒くさいし、そんな力は、公式には「無い」ことになってるし。

ダークサイドを伴わないきれいな組織は、往々にして「いざ」と言うときに役に立たない。 裏側の力に対して、医局の人達がそれに無自覚になったとき、たぶん組織としての医局は力を失ったんだと思う。

民間医局は役に立つのか ?

大きな病院、とくに公立の病院は、トラブルが起きると、今も昔も「個人の問題」に矮小化して、 トラブルに巻き込まれた医師を切りにくる。

公立病院の冷たいやりかたに対抗する組織として、医局は昔から機能してきたけれど、 「医局の力」なんてものは、たしかに公式には存在しないから、今はどうなのか分からない。 分からないから、怖いから、公立病院からは人が逃げ出す。みんな民間の、小さな施設に逃げ込む。

民間病院が「守ってくれる」なんて、だれも一言も宣言しないけれど、民間病院には人が集まる。

小さな病院は、勤務する医師の数が少ないから、誰か1人が抜けただけて、外来に穴が空いたり、 当直が回らなくなったり、病院全体に影響が出る。人と組織との隔たりが少ないから、 その医師が、病院長にとって「かわいい」人間であり続ける限り、病院にはたぶん、 その医師を保護することにメリットが発生する。「その時」が来たら、だから民間の小さな病院は、 たぶん医師を守ってくれる。

恐らくは医師の最近の振る舞いは、こんなわずかな打算というか、 淡い期待というか、そんなものが駆動している気がする。

恐らくはこれから先、グッドウィルの医師版みたいな医師派遣会社が台頭して、 医師の保護と、労働条件の適正化をうたって、医師確保に走る。会社組織に所属する医師は、 ある程度までは増えるんだろうなと思う。

今のところはその代わり、まだあんまり成功していない印象。

市場は大きいし、利幅も大きいはずだけれど、医師の人件費は極端に高価だし、 基本的に自己中心的な人間の集まりだから、「会社」が忠誠心を引っ張るのは、たぶんすごく大変。 そのあたりは医局と同じで、会社から「絶縁」されたところで、医師には今のところ、 なんのデメリットも生じないから。

アルコホーリクス・アノニマスのやりかた

一定の「規格」を満たした医師であることを要求する代わりに、 「互助」と「保護」とを保証するやりかたとして、アルコール依存症患者さんの互助組織、 アルコホーリクス・アノニマスのやりかたを真似できたら、面白いと思う。

あの組織には「頭」に相当するものが無くて、組織を運営している母体になっているのは、 集会の効果と、その開催手法をまとめた本しかないらしい。「本部」に相当するものはあるけれど、 本を読んで、そのやりかたに賛同したその瞬間からその人は「会員」だから、 本部の人達もまた、どこにどれだけの会員がいて、どんな活動をしているのか、把握していないんだという。

クモとヒトデは、おおざっぱな形は似ているけれど、「組織」としての構造は、まるで違う。

クモの頭を潰したら、クモはそれで死んでしまうけれど、ヒトデには頭が存在しない。ヒトデを半分に切り裂くと、 ヒトデは2 匹に増えるだけで、死なない。

複雑なことはできないけれど、生存可能性に優れていて、部外者がそこに介入することが困難な、 「ヒトデ」みたいな組織形態は、医局みたいな、実はすごくシンプルな機能しか持たない組織を、 生存可能性と忠誠心とを高めるためのやりかたとしては、案外うまく行きそうな気がする。

具体案

「頭」を持った組織を止めて、「あるべき医師」の最低ラインと最高ラインを示した文章だけを用意する。 最低これだけは働くけれど、一方で、頑張りすぎて潰れるのも本人の責任みたいな、下限と上限とを持った文章。

医師としての下限と上限を宣言した上で、自分がその「真ん中」であり続ける努力をすることを 受け入れる代わり、何かあったとき、同じ「真ん中」にいた仲間の助け、裁判の時、 「私たちも同じ条件で勤務をしています」なんて証言するだとか、弁護士を手配するだとか、 そうした互助が得られるルールを定めておく。

努力の一方向性は弱点になる。「ヒポクラテスの誓い」みたいな、体力の限界越えて頑張りましょうというやりかたは、 宣言としてはかっこいいけれど、「保護」には遠くて、誓いを誰かに運用されてしまう。医師会みたいな条件闘争の やりかたもまた、ごく一部の戦う人達に「ただ乗り」することを許してしまって、「要するにおまえら 楽して稼ぎたいんだろ」みたいな、外野の突っ込みに対して防御できない。

努力の方向を定めない、組織に「頭」を作らないやりかた。組織は作らずルールだけ作って、 ルールを守ることを宣言したその瞬間から、その人は会員になる。

入会も、退会も自由なその代わり、その代わり、何かあったときは、その人の行動が、 本当にルールに沿ったものであったのか、「仲間」から検証を受けることになる。

サボりすぎた上での過誤なら保護の対象にはならないし、あるいは逆に、頑張りすぎた、 明らかにリスク取りすぎた上での過誤もまた、「熱心な私」であることをを優先するあまり、 患者さんに不当に高いリスクを積んだわけだから、保護の対象から外れる。

「下らないルールにこだわる屑どもが」なんて、こんなルールに賛同する連中を見放して頑張るのも自由だし、 もっと「おいしい」話に乗っかって、楽して大儲けするのも自由。

あくまでも「真ん中」で居続けることに賛同した医師同士の互助会にしか過ぎないけれど 一定割合以上の医師が、こんなガイドラインに賛同すると、自然と条件闘争が始まる。

「この労働規約で行くと、我々のガイドライン守れないから、仲間の保護が受けられません」なんて言いかたが、 「闘争」の武器になる。雇用する側が、「なら、君はいらないよ」と突っぱねようにも、近隣に住んでる 他の医師が、同じガイドラインに乗っかっていたら、ある程度の条件を呑まざるを得ないはず。

頭が存在しない、医師が医師を裁き、お互いを守る、こんなやりかたは、 次世代医局として結構面白いことになると思うんだけれど、誰か規約書かないだろうか。

「基本頑張るけれど、疲れたら休む。仲間が困ってたら助ける」

こんな内容を、ちょっとだけ難しそうな言葉で書けば、それでいいはずなんだけれど。

2008.09.18

NHK 特集 「戦場 心の傷」

戦争が兵士に負わせる心の傷を特集した番組。大雑把に、前編は男性の、後編は女性の、 それぞれ心に負った傷に焦点を当てて、番組が作られてた。

以下覚え書き。

リアルな舞台での訓練

  • アメリカの新兵訓練施設には、周囲の風景だとか建物、通行人の風俗みたいなものまで 再現した「イラクの街」が作られていた。「テロリストを建物に追い詰める」だとか、 「救援物資を届けたら爆弾テロに巻き込まれる」だとか、状況ごとにシナリオを作って、訓練を受けていた
  • 訓練に使う道具は極めてリアルだった。兵士の装備や武器はもちろん本物、建物だとか、 「テロリストが爆破した車」なんかもまた、本当に爆破した車を使ったりして、「本物みたい」を 通り越して、「そのもの」をそのまんま使っていた
  • 本番さながらの訓練を積むことで、「ぶっつけ本番」の混乱を避けることができたり、 人が人を殺す、人間が本来持っているためらいみたいなものを乗り越えることができたり、ひいてはたぶん、 戦闘によるPTSD みたいな症状を緩和することができる。「的を狙って銃を撃つ」みたいな訓練は放送されなかった
  • 番組後半の、PTSD になった女性を取材したパートでは、ライフルを持った子供に狙われて、 その子供を射殺してしまったことを悔いるお母さん兵士が取材されてた。非常に苦しんでおられたけれど、 恐らくは今頃、訓練キャンプでは、「ライフルを持った子供を殺害する」シナリオが、 訓練メニューとして取り上げられているんだろう

苦しむ人

  • イラク帰りだったかアフガニスタン帰りだったか、帰還してPTSD になった兵士のインタビューは 怖かった。「今でも夜が怖いんだ」なんて、PSTDに悩みながらも大学に通う元兵士が、 インタビュアーに「友人」を紹介していたけれど、「友人はときどき衝動的になるから気をつけろ」なんて、 取材班に護身用のナイフを渡してた
  • 「ときどき衝動的になる」、元兵士の友人は、筋骨隆々とした大男で、両肩に入れ墨入れてて、 女装して、ワンピースを着てた。机いっぱいに蒸留酒の空き瓶並べて、昼間からお酒をあおってた。 たしかにあの人になら、刺されても文句言えそうになかった
  • ああいう人達を見てしまうと、日本の自衛隊とか、よく我慢してるというか、抑えてるなと思った。 帰ってきた自衛隊員の目の前で、「自衛隊員辞めちまえ」とか反戦デモしても、たぶん殴られないだろうけれど、 アフガニスタン帰りの海兵隊を前に同じことしたら、その場で射殺されても文句言えない気がした
  • 戦争体験に伴う過剰なストレスと、それによって生じるいろいろな症状は、第一次世界大戦の頃から 報告されていたらしい。精神医学が発達していなかった頃は、そういう兵士に対する治療は「電気ショック」で、 スタンガンみたいなものを背中に当てて、入院中の兵士を無理矢理歩かせる「治療」が放映されてた。 今はもちろんそんなことはしないはずだけれど、PTSD にかかった兵士を治療する病院が放映されて、 そこをを卒業するための最終試験は、「テロリストを殺す」ことだった
  • イラクの風景がスクリーンに映されて、逃げ惑う市民に混じって、ライフルを持ったテロリストが こちら側に向かって走ってくる。「患者」はライフルを持たされて、テロリストを射殺できたら、 「治療完了」みたいなルールだった。昔の軍人精神の名残なのか、 それとも何か心理学的な裏付けの下に行われてるのか、よく分からなかった

葛藤が少なそうな人

  • アメリカ人は、戦争に行って人を殺すと、かなり高い確率でPSTDになって苦しむ。 治療をする必要があるし、逆に戦場に行くときには、よく考えられた訓練を受けて、 「人を殺せる」心の準備もしないといけない。ひどい話ではあるけれど、「相手方」はどうなんだろうな、と思った
  • クルド人の「名誉殺人」だったか、少し前に話題になったグロ動画では、村人が総出で、若い娘さんを殺してた。 対立する村の若者と不義密通をはかった村の娘さんが広場に引きずり出されて、村の人達総出で追い詰めて、 両手で抱えるぐらいに大きな石を頭にぶつけて、その人を殺す
  • みんななんだかうれしそうで、もちろん動画を撮影している人も止めなかったし、 村の人達は、各々手に持った携帯電話で「写メール」撮りながら、娘さんの頭を潰してた
  • 「戦争の心理学」という本では、「人は人を殺せない」ということが前提になっていて、 相手と自分との距離感が遠いほど、遠くの敵ほど、殺しやすいということが理論の基礎になっている
  • 戦争ではだから、ナイフよりも銃のほうが、銃よりも航空機とか、戦艦のほうが、「人殺しに対する葛藤」が 少ないし、実際PTSD になる人が少ない。「人を殺せる人間になる」訓練もまた、 殺す相手との精神的な距離感を広げるよう、広げるように行われる
  • そういう理屈で「名誉殺人」を考えると、よく分からなくなる。昨日まで一緒に暮らしていた村の娘を、 身内の人が中心になって追い詰めて、「石で頭を叩き潰す」やりかたで、その人を殺す。 心理的には恐ろしくきついやりかたをするはずなのに、フセインがそれを禁止する前までは、「名誉殺人」 はよく行われていたんだという。村中みんながPTSD になっても不思議じゃないのに
  • 「あいつらは文明とは無縁の連中だから」みたいに、彼らを例外処理しようにも、あの人達は動画を撮影して ネットにそれをアップしたり、携帯電話を使いこなして、写メールを撮ったりできる程度には「文明人」であって、 携帯電話を片手に持ちながら、反対側の手で石を持って、娘さんの頭を潰せる
  • ああいう人達を見ると、「人は人を殺せない」なんて考えかた自体、一種の教育による後天的なものなのかなと思う。 「人は人を殺せない」を、人類共通の資質として拡大するのは危険な気がする
  • 「取材」することなんてできないだろうけれど、アフガニスタンとか、イラクのゲリラとして 戦っている人達、今「テロリスト」として名指しされてる人達に、どれぐらいの割合でPTSD が発生しているのか、 興味がある。戦いかたもまるで違うから、単純な比較もできないんだろうけれど、発生頻度が少ないような気がする

正義の比較に意味はあるのか

戦争は地獄

  • ベトナム戦争のアスキーアートに出てくる海兵隊兵士は、人を殺すための訓練を受けて、 「あいつらは人間じゃない」なんて思いながら、遠くから機銃を乱射した
  • 人を殺すことに葛藤があって、それを乗り越えるための、人殺しになるための訓練が必要だった ベトナム戦争のアメリカ兵士と、「おまえは裏切り者だ」なんて定義されたそのとたん、 今まで一緒に暮らしてきた相手の頭を、石だとかバールのようなもので叩き潰して、 それを写メールに撮影したり、「襲撃成功」なんて勝利宣言したりできる人と、 どっちのほうが「人間的」なんだろうとか、考えた
  • 「内ゲバ」の昔、最終的に100人以上の人が犠牲になったらしい。 鉄パイプを片手に、撲殺に近い殺されかたをして、たぶんお互い見知った人間同士だったのだろうから、 「相手との距離」が極端に近い状況での殺人。あれに参加した人達は、その後PTSD を発症したりしなかったんだろうか
  • 「背中を押してくれる正義」の強さみたいなパラメーターが、各々背負ってる「正義」ごとにあるような気がする
  • 正義の名の下に、笑いながら人を殺して、そのまま葛藤なく日常に戻れる人が背負ってる正義は「強い」し、 アメリカ軍兵士みたいな、人を殺せるようになるために、巧妙にデザインされた訓練が欠かせなくて、 訓練を経てもなお、戦闘によるPTSD が問題になるような正義は「弱い」
  • お互いの「正義の正しさ」を、戦争で比較するのは、やっぱりナンセンスだと思う。正義の 力比べは、要するにお互い背負った「正義のイカレ具合」を比較しているに過ぎないわけだから
  • 軍隊は、葛藤なく人を殺して、戦闘のあと、葛藤を残すことなく日常に帰るような兵士を求めて、 そういう訓練を作り出す努力をしている。で、今のところはまだ、それを実現するに至っていない
  • 軍隊のやりかたとか考えかたは、「軍隊が人を殺す装置である」という前提を受容する限りにおいて、 最大限に人間的であるような気がする
  • 葛藤なく人を殺して、葛藤なく日常生活に戻れる人が、たしかにいる。「あいつは裏切り者だ」の 号令一下、誰かをバールで撲殺して、人を殺したその手を掲げて、何ら葛藤なく「戦争反対」を叫べる 人達のマインドセットは、軍隊が求めている「理想的な兵士」の正解に、たぶん一番近いところにある

「人間的」ってなんだろうとか、番組見てちょっと思った。

2008.09.14

自動体外式除細動器のこと

「うちの人が倒れました」なんて救急要請があって、救急隊が現着してみたら心臓停まってて、 救急車に積んである自動式の除細動器をつけてみたら「心室細動」の表示が出て、 すかさず直流除細動のボタンを押したら、患者さんが復活した、なんて事例が、 今年に入ってからすでに3 人目。

救急車に「AED 」 、自動式の直流除細動器が積まれるようになって、今までなら亡くなっていた人が、 ずいぶん助かるようになった。

自動式の除細動器はたしかにすばらしい機械なんだけれど、あの機械のすごさというのは、 「技術的には全然すごくない」ことにつきるのだと思う。

救命救急士の時代

研修した病院は、米国式の心肺蘇生術を広めた草分けみたいなところ。 職員は全員心肺蘇生の手順を覚え得ていたし、必要な機材も、一通り揃ってた。

14万人規模の中規模都市で、市内の救急半分以上受けていて、それだけの「備え」を病院で行いながら、 助かった人は6年間で2人だか3人、そのうち歩いて帰れた人は1人だけだとか、ひどいものだった。

患者さんが病院に運ばれて、心肺蘇生を行う。「米国式」は良くできていて、一生懸命やると、 かなりな頻度で心拍が再開するけれど、患者さんを集中治療室に上げて、人工呼吸器つけて、 やっぱり何日かすると心臓持たなくて、ほとんどの患者さんは病院で亡くなってしまった。

心肺蘇生の成功率が低かったから、日本では最初、「人」を改良する戦略がとられた。

アメリカみたいな「救命救急士」という制度を作って、心肺蘇生に必要な処置、 気道確保と直流除細動が救急隊レベルで行えるように、彼らを鍛えた。 うちの施設では心肺蘇生のトレーニングコースをやってたから、救急隊の人達は、 当時何人も参加して、勉強していた。

自動診断装置こそなかったけれど、救急車には当時から除細動器が積まれていて、 人工呼吸も、心電図モニターの機械も、何でもあった。必要な機械はすでにその場にあって、 機械を操作する救命救急士の人達も、それを使うための知識と技量を備えたのに、 一番肝心な、「診断」と「決断」を行う権利が、救急士には与えられなかった。

みんな一生懸命訓練を受けて、10年ぐらい前のその時点で、救命救急士の人達は、 事実上何でもできるだけの「腕」を持って、「武器」に囲まれていたのに、動けなかった。

「決断」を巡るグダグダ

「診断」と「決断」は医師のもの、なんて常識が誰かえらい人にあったのか、 救急隊は、あくまでも「腕」であることが求められて、今度は誰が「頭」をやるのか、問題になった。

構想では、救急隊が患者さんを救急車内に収容して、心電図モニターをつけて、その波形を病院に電送して、 医師がそれを読んで許可を出したら、救急士が直流除細動を行うことになっていた。

誰が「読んで」、誰が「決断」するのか、誰にも決められなかった。

「官」の人達は「官」と仲がよかったからなのか、最初は公立病院に話が行った。

市内で一番「格上」だったのは、近くにあった市立の病院だったけれど、 そこにだって循環器の医師が常駐しているわけじゃなかったから、 当直医は許可を出せなかったし、「決断」を下したその時点で、その患者さんは その病院で責任持たないといけないから、病院の体制から見直さないといけなかった。

うちみたいな民間病院は、そんな意味ではやる気十分だったけれど、「官じゃなかった」から、問題外だった。

話がグダグダしていく中、どうも市のほうでは「公立病院の医師が診断して、 救命救急士が処置を行って、その後うちの施設に運ぶ」なんてルールが、 うちの施設抜きで決定されてた。

何も聞かされてないのに、知らないところで「診断」と「決断」が下されて、 不整脈から回復したばっかりの、不安定な患者さんが、問答無用でうちに運ばれてきそうな流れになって、 それはさすがに無理だから、断った。

モニター心電図のデータをうちに送ってくれれば、問題はそれで解決するはずだったのだけれど、 やっぱり「官じゃない」ことが、あの人達には決定的な問題だったらしくて、また揉めた。

話が二転三転して、結局たしか、うちの病院が救急車の数だけ携帯電話を購入して、 それを「救急車に置かせていただく」ことまでは許可してもらった。モニター心電図の波形を 見ることはできないけれど、音だけは聞かせてもらえて、判断は公立病院の医師が行うけれど、 携帯電話を通じて「雰囲気」だけは味あわせてやるから、あとは黙って患者さんを受けろなんて。

においだけかがせてやるから、鰻重おごってもらった気分で働け」なんて言われても納得できなかったけれど、 話はたしか、それでまとまって、携帯電話が救急車に積まれた。自分たちが研修してた頃、 それが鳴ることは、ついになかったけれど。

外圧が状況を動かす

AED のお話というのは、「政治の力は、技術それ自体の力よりも、しばしば大きな変革をもたらす」好例だと思う。

除細動器の技術自体は、1970年代には実用化されていたし、心電図の自動診断もまた、 自分たちが研修を始めた10年前には、もう当たり前のように心電図モニターには搭載されていて、 「診断する心電図モニター」は、すでに救急車内にあった。

AED はだから、技術的に何か画期的な進歩の成果として登場したわけではなくて、 「ありもの」の技術を組み合わせただけ。それはたしかに画期的な道具ではあったけれど、 そのすごさは技術的なものと言うよりは、今ある技術を「組み合わせていい」という、政治的な決断にあった。

アメリカでAED が認可されて、「外圧」が生まれてからの動きは本当に速かった。

「偉大なるアメリカ人様」からお墨付きを戴いた機械に疑問を呈する人は少なくて、 あれだけグダグダしたのが嘘みたいに、たぶん「日本独自の検証」とかほとんどないまま、 救命救急士の人達は、医師の許可なんかすっ飛ばして、自らの判断でAED のスイッチを入れて、 結果として、とても多くの人が助かるようになった。

「とても」といったって、田舎の小規模病院で年に数人、今までだったら亡くなっていたであろう人が、 歩いて帰れるようになっただけのことだけれど、今まで「ゼロ」重ねてたことを思えば、これは画期的な進歩。

技術それ自体は案外何も変えないけれど、政治決定は時に大きな変化を生む。

大切な政治決定が国内で為されることはほとんどなくて、一番大切な決断は、常に「外圧」の形で輸入される。

結果オーライではあるけれど、10年かかった。

新しい薬だとか、技術を開発するのではなくて、「ありもの」の技術を転用するやりかた、 組み合わせるやりかたで解決できる問題は、まだまだたくさんあるはずだけれど、 その決定が日本で為されることは、たぶんないのだろう。

第二次世界大戦頃から今に至るまで、そのへん本当に何も変わっていないな、とか思う。

2008.09.12

フェアプレーの正しさ

研修医になりたての頃は、「お菓子の家」に迷い込んだような気分。

検査室は24時間フル稼働してたし、けっこう大きな病院だったから、CTだとかMRIだとか、 民間病院の割には、当時としてはずいぶんいいものが入っていた。

何だって診断できる、何億円もする機械に取り囲まれて、自分がサインするだけで、 どんな機械だって稼働可能だったのに、 研修医には、それを勝手に使うことは許されなかった。

正しいやりかたの正しさ

習ったのは、正しいやりかた。

ほめられた振る舞いは、患者さんの話を聞くこと。何度も診察して、 いろんな場所の培養を取ること。顕微鏡を覗くこと。血液培養を提出すること。

目的も決めないで血液検査を提出するとか、とりあえず肺のCTスキャンをオーダーしてみるとか、 勝手にやるとすごく怒られた。

「治癒につながらないことは、やっても意味がない」だとか、 「君のそのオーダーは、何か患者さんの予後を変えるの?」だとか、突っ込まれた。

研修医の無目的な振る舞いは、たしかに患者さんの予後に貢献することは少なくて、 そうした振る舞いはだから、要するに患者さんのお金を使って、主治医の安心を買っているだけ。 反論できなかった。

研修医を仕込むやりかたとしては、すごく徹底してた気がする。 原因不明の腹痛の人が来て、お腹のCT 撮るのは禁じられてたけれど、腹膜開いて、 診断的腹腔洗浄を行うのは許されてたりとか。習ったやりかたは正しくて、 時にそれは正しすぎるぐらい正しくて、なんだか間違ってる気もしたけれど、 反論できなかった。

虫垂炎の患者さんを外来で見つけて、手術になるから採血出したりすると、やっぱり怒られた。 外科のチーフがやってきて、「手術適応を決めるのは、採血やCTじゃなくて、僕の指だから」とか見得を切って、 それがやたらとかっこよく見えた。

その先生は他所の大きな病院に国内留学して、帰ってきたら、CT 撮るようになってた。

当時はみんなで「あの人は汚れちまった」とか、陰口叩いた。後年もちろん、自分もCT 撮る医者になった。

「決めボム」という文化

「決めボム」という戦略、シューティングゲームで、緊急回避の手段である「ボム」を、 最初から「ここ」という場所で使うことを想定してゲームを攻略する考えかたは、 91年の「ガンフロンティア」、あたりから出てきたのだという。

自分がゲームセンターに入り浸ってたのは、「タイガーヘリ」とか「飛翔鮫」、 「究極タイガー」と、せいぜい「Tatsujin 」が出てきた頃。

その頃の「ボム」は、あくまでも緊急回避の手段であったり、状況を力ずくで越えて、 とりあえずエンディングまで進むための道具であったり。上手な人達は、「ここ」という場所で ボムをうつことをためらわなかったけれど、そのさきにはもちろんボム無しのやりかたがあって、 ボムを使うことそれ自体を戦略に組み込む文化はなかったと思う。

ボムを特定の場所で使うのは、古い人間から見ると、何となく「フェアじゃない」ような気がする。 厳しい状況を「気合い」で抜けることこそがゲームの精神で、ボムを発動することは、 どこか邪道な、「正しい道」に反した行いみたいな。

「決めボム」を当たり前のように使いこなす、むしろボムをうつ場所を最初から考えながら攻略を進める 今の人達に「正しさ」といたところで、「じゃあやって見せてよ」なんて笑われるだろうけれど。

フェアプレーの罠

前回のワールドカップサッカーとか、ちょっと思い出す。オーストラリアと日本の試合。

日本の監督は、サッカーを11人でやるスポーツと考えてて、選手交代は緊急手段だったけれど、 オーストラリアの監督は、サッカーを15人でやるものだと考えてて、最初から、 選手交代を見込んだ戦略を立ててたから、日本は最初から、人数的に不利な戦いを 挑まれていたのだなんて。

「フェア」でありたいのか、それとも勝ちたいのか。

同じことを何十年もやってる業界は、どこかで「フェアプレーの罠」みたいなものにとらわれて、 目指すべき目標がずれるような気がする。

  • 完璧な診断身につければ、余計な検査など必要ない
  • 完璧な見切りとレバーさばき身につければ、ボムなんていらない
  • 11人の選手が完璧に仕事をすれば、選手交代は必要ない

正しいやりかたを身につけさえすれば、姑息な技を考える理由はなくなる。 それはたしかに正論なんだけれど、「だから」正しいやりかたを磨くこと以外考えるな、 というのは、やっぱりどこか正しくない。</