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2007.11.06

ネットからお金を引っ張る方法

ネット世界では、欲求を満足させるための手段は常に複数提供されて、 たいていの場合、その中にほとんど無償に近いやりかたが隠れている。

何を販売しても「無料」ルートが存在する、そんな世界でお金を引っ張ろうと思ったならば、 対価を支払うことそれ自体が、自分の満足ではなく、 他者からの賞賛につながる仕組みを作らないといけない。

「機能の価値」と「目線の価値」

ものの価値には機能的な側面と、自意識的な側面とがある。

それが物体であれサービスであれ、対価を支払って何かを購入する行為は、 その人が持つ機能を変化させるとともに、その人に注がれる視線の質をも変化させてしまう。

目線からの自由がありえないネット世界では、自意識は常に他者からの査定を受ける。

ごく単純に「いい物」がほしい。それに対して対価を支払う。それだけの行為一つを取っても、 その「よさ」はネットでつながる誰かの査定を受けて、 対価を支払ったことが賢かったのかそうでないのか、 お金を支払った人の振舞いもまた、誰かの査定から逃れられない。

ほしい物が目の前にある。買えるだけのお金を持っている。目線が支配する現代社会では、 これだけではまだ不十分で、「購入」という動作は始まらない。

ネットワークでつながった誰かから「あいつ馬鹿じゃないの?」なんて言われる恐怖。 化学反応の「活性化エネルギー」に相当するこんな恐怖は、品物とお金との結びつきを妨げる。

広告の役割は触媒。購入にまつわる視線の恐怖を隠蔽したり、 あるいは「それを購入するあなたはかっこいい」なんて、購入という行為によい意味を持たせたり。

広告それ自体に否定的な目線が集まる現在、何かを販売することで対価を得る、 そんなやりかたを通じた集金は上手くいかない。

視線の価値はお金で変えない

承認欲求をお金で満たすことはできない。

金メダリストに何千万円だかの対価を支払って金メダルを購入しても、 残念ながらパレードは始まらないし、そんな行為をほめてくれる人なんて誰もいない。

メダルの持つ「視線の価値」は、あくまでも競技に勝った個人に付随する。

お金さえ払えるならば、事実上なんでも買える現在、「お金を出しても買えないもの」は、 極めて高い価値をもつ。

それはもちろん、買えないからこその価値なんだけれど、 もしも自意識を通貨で購入することができるなら、 そんな状況は、きっと効率のいい集金装置として機能する。

両替装置としての「公共」

視線の価値を決定するもの、優越感通貨を実世界の通貨で置き換えるのは不可能だけれど、 視線世界と機能世界との境界に、虚構としての「公共」を仲立ちさせることによって、 営利行為を正義として正当化することが可能となる。

金メダルを首からぶら下げて、市民の賞賛を浴びながら町中をパレードする、 そんな一連の行為それ自体、通貨を支払うことで購入可能だけれど、 正当化を伴わない「他者からの賞賛」には意味がない。

裏を返せば、賞賛の購入を正当化してくれる何かがあれば、自意識の貨幣というものは、 実世界の通貨で購入することができる。

「公共」とは、消費の意味を仮託できる上位存在。

「みんなのため」ではまだまだ漠然としすぎてて、 それはたとえば国家であったり、神様であったり、あるいはもう少し身近に、アイドルなんかでも。

公共を実装し得たコミュニティは、巨大な集金装置として働きはじめる。

具体案

たとえば次世代の「アイドルマスター」は、 各アイドルに国家元首になってもらって、 オンラインで戦争シミュレーションを行う設定があったりすると、面白いと思う。

プレイヤーは、兵士として各アイドルの国家に加入する。武器は現金で購入できて、 いい武器を持っていると、戦いはそれだけ有利になる。

ゲームの目標は、自分の名を上げるなんて個人的なものではなくて、 自分が支持したアイドルが元首を務める「国家」を勝たせること。 戦いの勝敗は、個人が支払ったお金の量と、 そのアイドルに入れ込んだユーザー、「国民」の数が決する。

国家は公共物。対価を多く支払って、味方を勝利に導いたプレイヤーは 「勇者」として称えられるし、ニコニコ動画で「参加兵士募集」の広告動画を作る職人とか、 大陸間弾道弾みたいな超高額兵器を購入するための募金活動などもまた、 コミュニティからの賞賛を受けることになる。

コミュニティ内での「勇者」の行動、職人の行動というのは、 つまるところ全ては会社の利益につながる消費活動なのだけけれど、 コミュニティの内部にとどまる限り、全ての消費活動は他者からの賞賛として正当化されるから、 利益は上がるし、ユーザーは消費を止めないし、 自ら広告を作ったり、参加者を増やす努力をしてくれるはず。

行動の対価は、査定不可能なものでなくてはならない。実世界のお金で買える「階級」や 「称号」などには意味がなく、特定のアイドル国家に対して消費を行うこと、それ自体が価値をもつ。

「こうすれば元首=アイドルが喜ぶ」、「これを買って戦いに勝てば、きっとみんなが喜ぶ」、 こんな公共幻想こそが、消費を維持する原動力となる。

コミュニティ創造による囲い込みと、その中で認められる「公共」の実装とが大切なのだと思う。

コミュニティに参加するときには、そこには昔ながらの反応エネルギー、 「購入の恐怖」があって、触媒としての広告の役割はやっぱり残るはずなんだけれど、 ネットワークの匿名性というものは、あるいはそんな触媒の助けなんかなくても、 ユーザーの興味を引っ張るインフラの存在だけで、案外上手くいくような気がする。

企画運営を行う「中の人」を利するユーザーのあらゆる振る舞いが、 「神」だとか「勇者」だとか、「信心深い」だなんて周りから賞賛される、 昔ながらの宗教組織が実装、運営してきたそんな仕組みが、これからきっと成功する。

2007.07.12

ネット時代のランチェスター戦略

ネットワークの法則

  1. コミュニティが分割されておらず、十分に大きいこと
  2. 個人同士が、各々同程度の弱い関係で結び付けられていること
  3. コミュニティを形成する個人に同一性が認められること

ネットワーク化が進んだコミュニティは、小さな刺激で全体が動く。

その振舞いは雪崩や台風の進路と同じで、初期条件のわずかな変化が 結果を大きく左右するため、未来は確率論的にしか予想できない。

ネットワーク化が進んだコミュニティでは、少数側、弱者の側にも強い力をもたらす可能性があるが、 その力は弱者の側を滅ぼしてしまうこともある。

利己的個人の法則

ネットワークが分断されたコミュニティでは、各個人は利己的に、より合理的に振舞うようになる。

コミュニティを動かすためには大きな力が必要になるが、適切なインセンティブを設定することで、 その振舞いをかなり正確に規定できる。

利己的個人の集団を相手にする場合、力の強い側が適切なインセンティブを設定する 用意があるならば、それだけ優位に物事を進めることができる。

強者の戦略

安定多数を占めている政府であるとか、既得権的な立場を維持している側は、 コミュニティを分断する戦略を取ったほうが、確実な勝利を得られる。

具体的には「敵」の外部化を避け、自己責任を訴え、 コミュニティの横のつながりを断ち、各個人に格差を導入することで、 コミュニティを利己的個人の集団へとコントロールしていく。

利己的個人の集団をコントロールするコストは高いけれど、 資本を投入し続けるかぎり、強者側が安定した勝利を手にすることができる。

弱者の戦略

保有している資本が少なかったり、多数決の論理で敗北してしまうような側が逆転を狙うためには、 コミュニティを強力にまとめる必要がある。

具体的には責任者を名指しで指名したり、 政府省庁を悪役認定するような「敵の外部化」を強力に行うことで、 コミュニティの各ノードは問題に対して「均一」な立場を取るようになり、同調圧力が高まっていく。

同調圧力の高いコミュニティは、小さなきっかけを与えるだけで、大きな力を生み出す。

同調したコミュニティの生み出す力は膨大だけれど、その向きをコントロールすることは、 たいていの場合不可能で、場合によっては仕掛けた側がその力によって打撃を受けてしまい、 コミュニティからはじき出される可能性も高い。

「流れ」は確率論的に決まる。勝利戦略は「成功するまで何度でもやる」こと。 失うものが大きな強者側は、「何度でもやる」ができないから、 根性以外に失うものが無い弱者が有利になる。

ネットに翻弄された大学医局

大学医局の欺瞞がばれたとか、「やりがい」なんかの地位が下がって、 収入であったり、休暇であったり、「名より実を取る」選択が主流になったとか。

地方国公立病院の人気が落ちて、産科や小児科、内科や外科みたいな「メジャー」 科から研修医がいなくなった。

そこまでは予測の範囲。選択の幅が増えれば、厳しいところからは人が減る。 みんなある程度まで覚悟をしていたけれど、蓋をあければ想像以上。

メジャー科の入局人数は、例年少なくとも10人以上。科によってはそれが「ゼロ」になってみたり、 せめて7人ぐらいを見込んでいて、結局確保できたのは2人だったり。

当てが外れて愕然とする医局が出る一方で、つらさや厳しさ、 あるいは歓迎会の規模なんかはそんなに変わらないはずなのに、 あるメジャー科は、例年以上に人を集めたり。

あれから2 年ぐらい経って、「どんなマジック使ったんですか?」なんて尋ねてみても、 やっぱりタネなんて無いらしい。勧誘も例年どおりで、なんで「一人勝ち」がおきたのか、 勝ち組み医局の先生がたにも分からないのだという。

未来予測とネットワーク

古典経済学は未来を予測する学問。

人間がみんな利己的で、合理的に振舞う個人であるならば、 占い師はみんな、経済学を学んでいるはず。

実世界での予想は外れることが結構あって、技術的には不利である側が大勝利をおさめてみたり、 いくつかの競合者が共存していくはずの医局市場は、特定科の「一人勝ち」状態になってしまったり。

インセンティブの問題だけでは説明できない、経済学者の予想を狂わせる原因は、 たぶんコミュニティのネットワーク化。

「女の子はそこまで無理しなくてもいいよ」

ある医局が「入局ゼロ」を計上した原因は、先輩医師のこんな一言だったらしい。

今のローテータ―は男女比がほぼ半々。女医さんの割合がすごく高い。 女性は増えたけれど、仕事の内容は同じ。 忙しい科は、徹夜になるときは徹夜になるし、忙しい時はソファーでザコ寝。

慣れないうちは誰だって体力的に厳しいはず。「その日は野郎だけ残して、 女医さんには仮眠に帰ってもらおう」、その程度の言葉だったのだそうだ。

当の女医さんはそう取らなくて、上級生の言葉に少しだけ、差別的な意味を汲んだ。

その場はそれで流れて、何かのおりに携帯メールでそんな話が流れて、話は膨らむ。

「あの科は女医を差別する」

そんな空気が学年に共有されたのは、ローテーション研修が始まって間もない頃。 その科だって新人勧誘を頑張ったけれど、最初から勝負は決まっていた。

当局は今もそんな理由を知らない。もしかしたら、当の女医さんすらも、 自分がきっかけを作ったことを知らないのかもしれない。

遍在するネットワーク

ネットワークはもはや当たり前すぎてしまって、自覚的な人は少ない。

学年でWiki 作るとか、掲示板作るとか。 情報共有を何か考えるよう、研修医に檄を飛ばしたことがある。

情報の共有はなされるべきだし、何といってもそれを知らない振りして上から覗くの、 ものすごく楽しそう。研修医にID 配って匿名掲示板に書き込んでもらって、 上級生でAdmin 権限共有して、みんなで楽しむ。そんなことを考えて。

「サーバーの空いたスペース貸すよ?」とか水向けたけれど、 結局彼らは自分達で掲示板を作って、で、案の定、 書きこむ人は数人で、全然盛り上がらなかったらしい。

明示的なネットワークは動作しなかったけれど、研修医のネットワークは、 上級生から見えないところで、とっくの昔に作られていた。

携帯メールと、全員で共有する着替え部屋。

ローテータ―は、医局に属していないから、大学はロッカールームを用意した。 噂話のネットワーク。会話のログは、携帯メールの些細なおしゃべりとして、 全員で共有。

中央サーバーを置く発想自体がもう古かった。

どこかのサーバーに情報をアップロードするとか、そんな面倒なことしなくても、 研修医はP2P で情報をやり取りする。リーダーのいない、中心を持たない、 その存在が当たり前すぎて、もはや意識されることもないネットワーク。

今の若い人達はパソコン持っているくせに活用しない、情報を共有しない。 そんなことを勝手に歯がゆく思っていたけれど、何のことはない、自分が取り残されていただけだった。

卒業したばかりの彼らはみんな同じような年格好で、頭の中身だって似たようなもの。 それぞれが同じような弱い力でつながって、学年100人、それなりの数が集まって。

ネットワークの相転移。本当に些細なきっかけが、 時として想像もつかない大きな変異を生んでしまう。

国公立病院に希望を出す研修医がいなくなった。大学に入局する医師が激減した。 たぶん、きっかけはささやかなものだけれど、その動きをコントロールすることは、 たぶん当の研修医達にもできなかったはず。

時計の針を戻すには

バズマーケティングとか、炎上をコントロールする技術とか、たぶんウソ。

いろんな人が試行錯誤を繰り返して、膨大な失敗事例を積み重ねていく中で、 たまたまいくつかが成功したり、あるいは外れた予想がいい方向に転んだり。

ネットワーク科学は、おきた事を説明するためには使えるけれど、これからおきることを 予想する役には立たない。

それを認めると経営コンサルタントの仕事がなくなってしまうから、上手くいったような事例を集めて、 さも自分達でコントロールしたように見せかける。

ネットワーク化したコミュニティの振舞いは、変動幅ばかりが大きくて、予想をするのは困難で。

コミュニティをコントロールする技術に可能性があるとするならば、それは炎上コントロールの 技術ではなくて、コミュニティからネットワークを外す技術、予測不可能を 予測可能な問題へと帰着させるようなものになるはず。

今の研修医を相手に、昔の医局制度を復活させても、元には戻らない。 それをやることで何か大きな「変動」はおきるだろうけれど、結果が読めないから、 上手くいかない可能性だって高いはず。

コミュニティからネットワークを外すやりかた

正しい結果を得るためには、インセンティブを設定するだけでは片手落ちで、 研修医のネットワークを破壊するやりかたを考えないといけない。

「関係を断ち切る」のは有効だけれど、実行は難しい。

  • 研修医は携帯電話禁止
  • ネットとか、2ちゃんねるとかもちろん禁止。自宅にパソコン置くのも禁止

これが実現できるなら、きっと古典的な医局制度は復活できるだろうけれど、 そんな施設に入る研修医、たぶんものすごく少ない。

比較的簡単にできて有効なのが、「ハブになっている医師を潰す」ことと、 「振動子の同一性」を壊すこと。

医療崩壊の話題。盛り上がりを支えているのは、強固なネットワーク。

ネットワークは全国規模だけれど、話題を集める「ハブ」を作って維持しているのは、 ごく少数の先生がた。上から10人、少し調べれば、それが実世界で誰のことなのか、 比較的簡単に特定できる。

名誉毀損とか、風説の流布とか、言いがかりをつけるのはたぶん簡単。 みんな実世界での仕事があって、面倒ごとは嫌だから、 「ハブ」はすぐに消滅するはず。

中心を持たないネットワーク。次の「ハブ」は簡単に出現する……なんてことにはならなくて、 みんな面倒だから、ネットワークは腐って死んで、たぶんそのまんまになるはず。

同一性の破壊は、もう少し確実。

  1. 2年間のローテーション後、上位3 割の「良くできた研修医」と下位7 割の「そうでない研修医」とを 区別して、それ以後の待遇にも差をつける
  2. 地域基幹病院の部長級に任命権を割り振って、例えば青森県の産婦人科には5人とか、 部長が任命できる「できる研修医」の数は厚生省が決める
  3. 研修医が一極集中した東京では競争が激しくなって、 地方では「できる研修医」認定の競争倍率が下がるように人数を配分する
  4. 「できる」認定を持った者と持たない者。同一性を維持できないネットワークは 同調現象を生じないから、みんな「利己的な個人」として振舞い始める
  5. 利己的に振舞う個人の集団は、適切なインセンティブを設定することでコントロールが可能

そんな制度を今の研修医が受け入れるとは思えないけれど、 大切なのはルールを受け入れることではなくて、ルールが提出されること。

絶対出会った研修医の同一性が破壊されて、グループには裏切りとか、猜疑心とか、 同調するネットワークを邪魔する雑音が大きくなって、たぶん今みたいな相転移は生じにくくなるはず。

どんな方法論であれ、ネットワークを腐らすことができたなら、あとは経済学の問題。 いい条件を用意した医局には人が集まるし、精神論ぶつだけの所からは人が去る。 問題の予測可能性が少しだけ高まるから、政治家の人とか、役所の人とか、 もうすこしコントロールしている実感が出ると思う。

ネット時代のランチェスター戦略

「劇場型政治」なんて言われた小泉内閣というのは、たぶんネットワークの力を利用したのではなくて、 むしろネットの力を上手に阻害して、「力の論理」を押し通した政府だった。

「自己責任」を強調したこと。国民を「がんばっている人」と「既得権に乗った人」とに分断して、 格差を強調したこと。郵政省問題は例外。

あの頃の政策は、たぶんネットワークの力を利用したというよりは、 力よりもコントロール性を重要視して、あくまでも自民党の地力で勝負したやりかた。

社会保険庁や日教組みたいな「明確な敵」を設定したり、格差が行きすぎて、 少数の勝者と、圧倒的多数の敗者を作ったり。今の政府がやっていることは、 コミュニティを一つにまとめる方向に作用していて、その結果はたぶん、 相当ろくでもないことになりそう。

個人的には、こんな「ネットワーク潰し」の政策、どんどんやってほしいと思う。

自分の想像力では「潰すやりかた」までしか発想できなくて、こんなやりかたをどうかわすのか、 潰されたネットワークをどうやって再生するのか、 あるいは炎上するネットワークは、本当にコントロールできるのか。 そんな問題の答えを知るには、もっと頭のいい人達が必要。

医師のコミュニティというのは本来、超絶に頭がいい人達がゴロゴロいる集団で、 医療はそんなに頭使わないから、莫大なCPU パワーが使われずに放置されてる状態。

「コントロール」に昔から興味があった。いろいろ調べたり、考えたり。あれこれ試行錯誤して、 能力の限界が見えて、それでもやっぱり、「次」が見たくて。

ネットワーク時代。序列の可視化が容易になって、自分の能力不足もよく見えて、 ネット世界にはもっと大勢の「上」がいて。

個人での解決が不可能な問題であっても、適切な問題設定さえ行えば、 もっと能力を持った人達が問題解決にあたってくれるのが、ネットワークの最大の収穫。

残念ながら、その問題提示すら、自分では役不足なんだけれど、今の厚生省には幸い、 その能力も、その動機もあるはず。

ここで提案していることというのは、自分では解けない数学の問題を目の前にして、 それを誰かに解いてもらうために自分の首を締める、そんな滅茶苦茶なやりかた。

ネットワーク化した社会の中で、確率論的に振舞う強大な力を援用するというのは、 たぶんそういうことなんだと思う。何といっても、能力無い奴には、 失うものなんて何も無いんだから。

誰かやってみませんか? 中の人。

2007.01.29

対話の論理と劇場の論理

  • 立場の違いによって最適な議論手法は異なる
  • 立場の強い側は対話的な、立場の弱い側は劇場的な議論手法が最善手
  • 対話の論理は原因を人間に求める。「悪い人間は誰か」「どちらが悪なのか」が争点になる
  • 劇場の論理は原因を構造に求める。問題は悪人が生じる「構造」であって、人間それ自体ではないと考える
  • 対話の論理では「正義か悪か」が大切なのに対して、劇場の立場は「悪」であることを受け入れるところから議論が始まる
  • 劇場論理を行使する者は、まず悪であることを容認して、その上で悪役を作らざるを得ないシナリオの問題点を指摘する
  • 片方が対話の論理を取り、片方が劇場の論理を取った議論は全く噛み合わないか、泥仕合になる
  • 相手を自分のフィールドに引きずり込むところから議論は始まっている

強者の論理=対話

強い立場の人、あるいは正義の側が用いるのが対話の論理。

強い立場の人達は、社会の構造というものは、 自分達を強く保つのに有利に働いているから、 できればそれを壊したくないと考える。

社会に何か問題がおきたとき、「構造」に手をつけないで問題だけを解決するのにいちばん 簡単な方法は、「誰かのせいにする」こと。

問題をおこしたのは、あくまでもその人個人の資質が足りなかったり、 その人が「悪」だったからであって、社会の構造自体には何の問題もない。

自らの正義を保証してくれるのは、社会の構造。社会を構成している大勢の人、「みんな」 の理性にはとりあえず眠っていてもらって、悪役を振られた誰かにだけ犠牲になってもらう。 マスコミであったり、司法であったり。世の中の正義を維持する側の人達が使っている、 そんなやりかた。

  • レッテル―攻撃対象となる人にネガティブなイメージを押し付ける。相手を「男性」でなく「男」と 表現したり、攻撃対象が「やっちゃった」「最悪」と発言していたなどと報道したりする
  • 普遍化―多くの人が普遍的価値を認めているものを利用する。「命は地球より大事」「健康は国民の権利」とか。 異を唱える連中は絶対悪になる
  • 権威―多くの人が認めやすい権威を味方につける。「テロリストがお父さんを殺したんだ」 と子供に泣いて訴えさせたり、原油まみれの水鳥を「イラクの犯罪」として公開したり。 「権威」は大人である必要はなく、人間である必要すらない
  • 平凡化―正義の側に親近感を持たせる。 「遺族の目線で捜査をしていきます」と検察が宣言するのはこれ。 「捜査」が「操作」になったところで、「庶民の味方」ならしょうがない
  • バンドワゴン―その事柄が世の中の権勢であるように宣伝する。みのさんの得意技

対話ルールに必要なのが、わかりやすい悪役の存在。

悪役の中から「正義に目覚めた例外」が出てくることは、正義にとっては必ずしも成功を意味しない。 こうした例外は味方になる反面、「悪の中にも善がいる」というシナリオを駆動してしまい、 善悪の2元論的対立というシンプルな物語を分かりにくくする。

国家同士の戦争では、たとえ敵対関係にあっても、敵国民全員を例外なく憎むことはたいてい 不可能であるため、 敵国の指導者という「顔の見える悪役」を用意して、 その人格の醜さを強調することで「例外」を国民から隠す。

隠された「例外」は無かったものとして処理される。

弱者の戦略=劇場型論理

対話型論理にはめられると、立場が弱い側が勝つ見込みがほとんどなくなる。 弱い側が生存率を上げようと思ったら、相手の論理から脱出することを考えないといけない。

劇場型の論理というのは、「悪」が生じた原因を、人ではなく「構造」にあると訴えるやりかた。

構造主義的な立場は、立場の善悪と、人間の善悪とを区別して考える。

どちらか一方の立場を「悪である」と正義が認定するのも、その立場を受け入れるのも、 社会の構造がそう決めたからであって、その人自身が悪いのかどうかは、全く別問題。

社会の構造自体に問題や矛盾があるからこそ、叩く側と叩かれる側とが生じる。 問題なのは悪役が必要なシナリオの不備であって、その人自身ではない

劇場型論理では、議論の場には3人、「悪役」として叩かれる側と、「正義」の立場から叩く側、 そして、両者を上から観察する「観客」との3つの立場の人がいると考える。

  • 対話論理は、観客になるべく眠ってもらっていて、その間に悪役を叩く
  • 劇場論理は、「役」としての悪の立場を受け入れて、その上で観客に訴え、 台本の不備に気がついてもらう
  • 物語の台本こそが、正義を正義たらしめているから、 対話論理を支持する側は、台本が書き変えられるのを好まない

立場の弱い側は、どんな戦略を取ったところで勝率は低いのだけれど、 対話ルールから劇場ルールへと転換することで、少しだけ生存確率を上げられる。

独裁国家の秘密警察は、政治犯を政治犯罪者として逮捕することは避けるのだという。

政治犯罪者が政治犯として逮捕されるというのは、そのこと自体が政治犯の勝利。 秘密警察はそれが分かっているから、政治犯を万引きとか痴漢とか、もっと矮小な犯罪で検挙して、 その政治犯の人格を貶め、対話ルール内での勝負を続けようとする。

福島県の事例では、検察側はこんなコメントを発表した。

我々としても医療関係者が日夜困難な症例に取り組まれていることは十分認識している。 しかし、今回の事件は、医師に課せられた最低限の注意義務を怠ったもので、 被告の刑事責任を問わなければならないと判断した

このコメントは、「我々は対話ルールで物事を進めるから、 みんなバックグラウンドの構造に立ち入るような真似をしないでね」 という検察サイドからの牽制に思える。

のび太と次元とゴルゴの決闘

劇場型の勝負を仕掛けるときには、戦わないことすら勝利戦略として機能しうる。

  1. のび太と次元とゴルゴ13 がピストルで決闘する
  2. のび太の命中率は 30% 、次元は 60%、ゴルゴ13 が 100%
  3. 弾を撃つ順番はのび太、次元、ゴルゴの順
  4. 生存確率を最大にするには、のび太は誰を狙うべきか?

最適戦略は、のび太は「パス」すること。空に向かって撃つとか、狙わないとか。

  • もしも次元を射殺すると、のび太は100% の確率で ゴルゴに殺される
  • ゴルゴの射殺に成功すると、のび太は60% の確率で次元に殺される
  • ゴルゴと次元の最適戦略は、お互い「のび太以外を狙う」ことだから、初弾を外せばお互い殺しあう

初弾を外したとき、のび太の生存確率は46% 程度まで上昇しうるという。

対話ルールというのは、決闘場にのび太と次元しかいない状態。 のび太がこの世界で生き残ることは難しい。

うまく理由を見つけて、ゴルゴ13を決闘に引っ張り込むことができるなら、 ルールはそれだけ複雑になって、のび太の生存確率が上がるケースも出てくる(のび太が何人いればゴルゴ13に勝てるか?より)。

「のび太―次元―ゴルゴ13 」の関係というのは、 たとえば「医療―司法―国民」であったり。自分がどの立場なのか。引っ張り込むべき「上」が 実体として存在するのか。状況によって取るべき戦略は変わってくる。

我々はマスコミもまた話し合えば分かり会えると信じている。 ○木記者ですら、その立場上暴走するしか選択の余地がなかったのだと思う。 ならば、記者の暴走を許すような甘い監視体制、 真実を曲げてまでも新聞者に売上げ強要する、「広告主-新聞社」の構造には、 改善すべき問題点は無いのか?

こんなやりかた。弱さを認めて、悪である立場をとりあえず受け入れて、 その上でもっと「上」の人達、新聞社なら広告主の人達を議論の場に引っ張りこんで、 医療者と新聞社とどちらが悪いのか、それを一緒に考えてもらう。

福島県の裁判では、事実関係の応酬の後、弁護側が「憲法38条と医師法21条の違法性について」 という議論を展開したらしい。

これは「対話ルール」から「劇場ルール」へと議論のルールを変更しようという動きで、 検察側はこれに対して「弁護人の陳述は本件と全く関係ない事柄です」という反論を行い、 議論のルールが劇場型に流れるのを阻止しようとしている。

自分達にできること

劇場型の戦略は、話がどんどん大きくなるから、問題解決までに時間がかかる。

一度切り出した話題は引っ込められないし、「観客からどう見られるか」が とても大切になるから、一度劇場戦略を開始すると、 相手側とは妥協できなくなってしまう。泥沼化必至。初回から弁護側が憲法問題に 話を振ってきたというのは、泥沼に足を踏み出す覚悟をみんな固めてきたという 意思表示なんだろう。

これは実存主義と構造主義との争い。

論争の中心を「人間」から「構造」へと変更するのは難しくて、 「構造」の矛盾を誰にでも分かりやすく解説することと、 「人間」の話題をなるべく小さく維持することと、両方が必要。

色あせた事実に判断の色をつけて、構造の問題点を人間中心に再構築するのがマスコミのやりかた。

マスコミの描いた絵から余計な色を抜いて、事実が生まれた構造を分かりやすく広めることが 医療者側の戦略で、弁護側の人たちはそんなプランを持っているはず。

外野ができることというのは、弁護側の「構造解析結果」が公開されるまで、あんまり騒がないこと。

相手の人格攻撃とか、「国民に思いしらせる」とか、そんな騒ぎかたというのは「対話ルール」を 進める人達にとってのプラスにこそなれ、医療者側には利益がない。

医療者側が劇場論理で戦うことを決めていて、それを支持する立場をとろうと思ったならば、 みんなが常に「観客」というものを意識しながら行動することと、 長期戦に対しての支援を止めないことだと思う。

分析と発信とは、専門の先生方がきっとこれから進めていくはず。進めてくれないと困る。 誰もが納得するような「構造の矛盾」が発信できないならば、そもそも劇場型戦略なんて まったく機能しない。

今自分にできるのは、だまって寄付を続けることぐらいだろうか…。

追記:「ものすごく恥ずかしいことに完璧に間違っている」「頭使おうよ!!」という批判をいただきました。非常に真摯に書かれている文章で、本当にありがたいのですが、私の限界なのでしょう、残念ながら後半部分がよく分かりませんでした。読者の方は、ぜひともリンク先を一緒に見ていただき、判断をしていただきたいと思います。

2007.01.15

家の改装歴史の階層

家具を直してる。

引っ越しのあと。大量の本とか、いろんな荷物とか。ダンボール箱の山。 新しい住処には、うまく収納できない。大量の本を処分したけれど、それでも足りない。

生活が変わって住居を変えて、以前と違う形の住居は、今度は生活スタイルの変更を要求する。

住居と生活。2つは相互に影響しあって、「建物」という大きな構造を作る。

建物の6つの階層

建物という社会構造は、6つの層でできている。

  1. 敷地:これは地理的条件であり、都市のなかでの位置関係であり、 法律的に定義された区画で、建物が世代交代しても変わらない
  2. 構造:基礎や荷重を支える構造物を変えるのは危険であり、 費用が高くつくので、普通は変えない
  3. 外装:流行や技術の進歩などから、外装は平均して20年程で取り替えられる
  4. 設備:建物の内蔵にあたる電力・通信などの配線、配管。 これが建物に深く埋め込まれすぎていると交換が難しく、 建物自体が取り壊されることになる
  5. 空間:ドアや壁など。変動の激しい商用スペースでは 3年ごとに変わったりもするが、平穏な家庭なら30年もつこともある
  6. 生活:椅子、机、電話、絵画、台所用品、毎月のように動かされる ありとあらゆるものと、「中の人」の生活スタイル

今は「生活」レイヤを変更して、それだけでは全然追いつかないから家具を作り変えて。 たぶんそれだけでは変えられなくて、たぶんドアを外したり、 壁に棚を作りつけたり、「空間」レイヤに手を加える予定。

人を取り巻く社会が変わっても、建物は変化する。

家族が増えて、生活が車中心になって、パソコンなんか使わなかった時代から、 今ではこれが無いと生活すらできない毎日へ。

部屋の隅で埃をかぶっていたパソコンは、今はモニター2台つながって部屋の真ん中に。 テレビを見なくなって、MP3 が普及して、引越しをきっかけにオーディオセットも処分。 空いたスペースは全部本棚に。

消防法の改正とか、地震や台風、地球温暖化などの気候変動が 今後生じたら、住居は「構造」レベルで変化を迫られる。 住居は元の形を保てないかもしれないかもしれないけれど、 それでも「建物」という大きな構造は壊れず残る。

「その場所での生活」に需要があるかぎり、たぶん誰かが「建物」という営為を続ける。 構造を壊しても、設備を壊しても営みは続くし、中の人の生活が変わっても、 構造に需要があるならば、他の人が内装を変化させて、建物は別の誰かに受け継がれる。

建物が終焉を迎えるのは、「層」が離開したとき。

社会や環境が変化して、「その場所での生活」というもの自体に需要が無くなって、 その住居の構造で生活を維持する理由が消滅したとき、建物は役割を終える。

ローマ帝国は何故滅んだ?

ローマ帝国の興亡については、塩野七生が「ローマ人の物語」でやったような英雄史観、 「人の物語」という視点とは別に、ローマ帝国の滅亡というのは単なる気候変動の 結果であって、環境の変化に「帝国」という社会モデルが耐えられなかったという見かたもあるらしい。

実はローマ帝国崩壊の大きな原因に「3世紀以降北半球の気候が寒冷化した」という話があります。 この時期はローマ帝国に限らずあちこちで戦乱が記録されていて、 例えば中国では漢が滅びて三国志の戦乱が起きてます。日本だと倭国大乱の頃だから 「古墳寒冷期」て呼ばれてる。(中略)寒くなって食えなくなった北方民族がみんな移住しようとした。 寒冷化による農業の不振から税収も落ち込み、あちこちで国が滅びたわけです。 (中略)環境問題ってえやつは、キャラクタとしての登場人物の視点からは出てこない。 「人間も環境を構成する要素の一つに過ぎない」っていう自然科学的な視点が必要になる。 (中略)我々が未来をかけるべきは、物語じゃなくて、サイエンスですよ。 raurublockの日記 - 「ローマ人の物語」シリーズに欠けているもの より引用

たぶん「帝国」にも建物みたいなレイヤ構造があって、 人の層では人の物語が、構造の層では気候変動とか、 民族大移動とか、もっと別の物語が進行している。 帝国の瓦解という現象は、この「層」どうしの歪が大きくなりすぎて、 「帝国」という一つの構造を保ち切れなくなってしまった結果なのではないかと思う。

救急崩壊と老人医療と

  • 研修医が内科に来なくなった
  • 産科や小児科の問題
  • 僻地医療の問題
  • 訴訟社会になった現代医療の危険
  • 老人医療の問題
  • 医療保険制度の崩壊

こうした諸問題をパラレルに論じるのはたぶんあんまり正しくない。

「建物」とか「帝国」みたいに、医療もまたレイヤ構造をとるならば、 それぞれの問題が「どの層の問題なのか」 を一緒に考えないと、うまく行かないような気がする。

  • 医師の心境変化とか、「人の層」で進行する問題ならば、それは人のレベルで解決可能
  • 高齢化の問題とか、不景気に伴って国家予算がなくなって…とか、「環境の層」で進行する 問題については、解決するよりは適応する術を探ったり、 あるいは「人の層」とは別の方法を使わないといけない

言葉の使いかたは、たぶん「層」が変わると異なってくる。

「人-人」レイヤの問題に対して役に立つのは誠実さ。 嘘を言わないこと、論理を重ねて正しい答えを 探すことが大切だけれど、「人-環境」レイヤの問題に対しては、「正しさ」は無力であるか、むしろ有害。

産科の問題とか、救急医療の問題を突き詰めると、ネオコンの思想に行きつく。

人は「自分でできることは自分でやる」。 どうしてもできないことだけ国家が助ける必要がある。 知識人はそのことを分かっているけれど、知的水準の高くない一般大衆はそれが理解できないし、 また大衆に迎合したネオコン以外の知識人が「タダなんだからどんどん使いましょう」とやるから国が滅びる。

ネオコンの立場をとる知識人は、何かを発言する場合、 大衆がそれを受け止めて、どう行動するのかまでを含めて 戦略的な発言を行う。要は「嘘をつく」わけだけれど、それは決して不誠実な態度ではなく、 「発言の結果に対して誠実な態度をとるのだ」と考える。

人殺したり、戦争したり。ネオコンの人はろくなことしてないように見えるけれど、 「言葉で社会を動かす」ことを 世界で一番真剣に考えているのは、ネオコンの人たち。「正しさ」だけでは、まだまだ不足。

世代を超えて生き残る構造

あいかわらず本を読む。生活スタイルがどれだけ変わっても、本だけは不変。

いつでも読めるとか、パソコン無くても読めるといった利便性以外に、本が便利なのはその自由度。

ページを折るとか、線を引くとか。本には「目次」という基本構造があるけれど、 読者の興味に応じて、あるいは本を読む目的に応じて、その内部構造はいくらでも変えられる。 1回読んだ本は、2回目以降は大事に思った場所から読めるし、 もちろん最初から読み直すのも自由。

他人が読んだり、線を引いた本を読むのも楽しい。

誰が何をしようが、ページを破くような真似さえしなければ、 本の基本構造は変わらないから、誰かが読んだ本でも最初から読める。

自分が思いもよらないところに線が引かれて いたり、何かの書き込みを見つけたり。そうした自由さは、 所有者の「世代」を超えて、楽しさとして 受け継がれていく。

  • 外側の構造が硬いこと
  • 内側の構造が変更可能で、その自由度が高いこと
  • 構造の「外」と「内」との乖離が激しくなっても、その影響が構造に及ばないこと

世代を超えて続く「構造」の条件というのは、たぶんこんなこと。

人間が作る組織で長持ちしているのは、公務員組織。

書類ひとつ回すのに20も30もハンコを要求する、非効率の代名詞みたいな組織構造は、 それでも世代を超えて受け継がれて、みんなの恨みを一心に受けながら、今も変わらず続いてる。

もちろん、公務員組織を維持するために莫大な国家予算が突っ込まれているのだろうけれど、 公務員組織というのは「外からは硬くて、中は意外に自由度が高い」という、継続する構造の 条件を満たしているようにも見える。

  • バッドノウハウの蓄積が可能:書類のハンコをあらかじめ押しておくとか、 書類の内容に応じて巡回ルートを決めてしまって、意味の無い会議をパスするとか、 面子にこだわる変な上司さえいなければ、たぶん状況に応じた業務の効率化が可能
  • 外乱からの安定性:意味不明な法律の山とか、ハンコの山は、 ノウハウを知らない「外」から見たとき、強力な「壁」として機能する
  • 「内」と「外」との整合性:役所内のバッドノウハウというのは、 あくまでも「法律を変えないで」蓄積されるから、 内層と外層との整合性が高く、外部構造が破壊されにくい

役所のいいかげんな上司というのも、言いかたを変えれば組織の自由をヘッジする存在。

ものすごくまじめな、不正を許さない公務員の上司がいて、 「自分が目の黒いうちは法律違反は許さない」とか、 「全ての書類は自分を通してほしい」とかやったりすると、 役所という組織は動かなくなるような気がする。

今は政治家の人たちが中途半端にクリーンになって、法律が分かりやすく、 厳密な解釈がされるようになった。その影響で「構造」が透明化して、 外乱がもろに役所の組織内に入ってきて、 官僚組織がまともに機能しなくなったなんていう要素、ないんだろうか?

医療組織は、「中の人」が医療従事者。 「外乱」要素を与えるのがマスコミや政治家。 最近は外乱が激しくなって、もう揺らぎまくり。

医療組織の「構造」部分を守ってきた医師会の偉い人とか、 あるいは学会の偉い人なんかが、今はすっかり市民の味方。

偉い人達は何もかも公開して、正しいことを重ねることで「誠実さ」でもって 「外乱」に対抗しようとしているけれど、やっぱり道具の選択を誤っている気がする。

「正しさ」という道具は「内層」に働きかけるには有効だけれど、 「外乱」に抵抗するには無力。

偉い人たちが「正しく」なったおかげで、医療という組織には、 建物でいう壁や屋根に相当する「構造の固さ」が失われ、 中身むき出し。雨や風がダイレクトに現場に当たって、 もう家具の移動で何とかするとかそういうレベルじゃなくて、 逃げ出す算段をするしかなくて。

「中身」が自由に変化して、時代に対応していくためには、 「構造」が十分固いのが必須条件。

偉い人の邪悪なロビー発言、けっこう大事だと思うんだけれど。

2007.01.01

テロルのやりかたと生態系

地域医療や、産科小児科。以前からヤバいヤバいと言われていた状況が、 一気に動いた昨年。

福島県で産科の先生が逮捕されたのをはじまりに、年末には墨東病院と豊島病院、 東京都内で年間分娩件数1000人級を誇っていた2つの中核病院が産科を閉じた。

年間の訴訟件数とか、たぶんそんなに劇的に増えたわけではないし、 裁判というのは3審制。全ての訴訟が有罪になるわけではないけれど、ダメージ深刻。

法律なんかどうだっていい。大事なのは、マスコミ様がどう思うのか。

たとえ完全無罪が決まったところで、 報道なんてマスコミ様の胸先三寸でどうにでもなる。 1人を殺した殺人犯は血も涙もない極悪人として報道されるけれど、100万人を殺した人が 国を救ったヒーローとして祭り上げられたりするのはいつものこと。

医療を取り巻く「世間」というのは、マスコミ様を頂点にいただく生態系。我々は単なるエサ。

有効なテロのやりかた

  • 安保闘争
  • 中国共産党
  • 日本の某宗教団体
  • イラクのテロリスト

テロの定義ははっきりしなくて、とりあえず「小さな力しか持たない勢力が、 大きな力を持った勢力に対抗する手段」としておく。 「戦い」の規模としては、オ○ム真理教とベトナム戦争の間にあるもの。

安保闘争は失敗。

60年安保なんて、100万人オーダーの人を集めて、一時は政権の交代まで成功したのに、 結局大きな流れは何一つ変わらなかった。総括してしまえば「団塊世代のお遊戯」。 全共闘白書なんて、みんな「いい思い出だった」とか、当時の指導者までもが 「下らないことだった」とか、信じられないことを書いていて唖然とする。

中国共産党の革命とか、創○学会の発展なんかは、大成功したテロル。

「テロ」と定義するのは報道する側で、マスコミなんて常に成功した側の味方だから、 誰もこの2つを取り上げて「テロ」なんていわないけれど、戦いをはじめたのは、 最初は本当に少数の人。 仲間を集めて、当時の大きな流れに逆らって、時には喧嘩も辞さない態度を貫いて、 ついには国家を転覆したり、政権で重要な地位を占めるようになったり。

イラクもそうなりつつある。

犠牲者の比でいったら、イラクで行われているのは 戦いなんかじゃなくて単なる虐殺。それでも、イラクの兵士は、無敵を誇ったアメリカの政府を たしかに転覆しつつある。

何が違うのか。

  • 「種火」の大きさでいったら、安保闘争とか、天安門事件みたいな学園紛争が最強で、 イラクなんかまだくすぶっているだけ。それでも前者は失敗して、後者は成功しつつある
  • 革命を駆動する「理念」の中身は、みんなバラバラ。安保と共産主義はほとんど同じ方向だけれど、 宗教と政治理念とは対立する概念

成功したテロルと失敗したテロルとを分けているのは、たぶん社会という生態系の「キーストーン」に 影響を与えることに成功しているのかどうか。

テロリズムと生態系

生態系というのは重層的な考えかたで、サンプリング範囲を大きく取れば地球は一つの生態系だし、 そのへんの野原にだって、小さな生態系が回ってる。

「系」に共通する特徴はこんなもの。

  • 「系」の中には、餌を食べる支配する強い種と、餌になる弱い種とがいて循環している
  • どんな種も複数の餌を食べるし、複数の種に食べられるから、いくつかの種がいなくなっても、「系」は維持される
  • 「系」の中には「キーストーン」と呼ばれる種がいて、これがいなくなると、「系」は崩壊する
  • キーストーンは、捕食者の場合もあるし、餌になる単なる雑草のこともあって、外からそれを同定するのは難しい

テロリズムというのは、「系」の中で餌にされる側、弱いものが強いものに挑むための手段。 弱いものが強いものにつけいる隙があるのだとすれば、「強いものが必ずしも生態系の キーストーンではない」という部分。

挑むといっても、たとえば牧場という生態系の中で、牧草が手足を生やして 牛に戦いを挑むなんて現実的ではないから、 実際には牧草が「苦く」進化してみたり、草にとげを生やして、牛に食べられにくくしてみたり。 すごく地味な変化。

牧場の中に、他に食べる草がたくさんあれば、「ある草が苦くなること」はたんなる嫌がらせ。 一生懸命苦くなってみたところで、牛には他にも食べ物はたくさんある。 牛が食べなくなった場所には糞が落ちないから、 結局そこには栄養が回らなくなって、苦くなった草はやがて枯れる。これが失敗したテロル。

牧場という生態系を支配しているのは間違いなく牛だけれど、この生態系を「維持」しているのは、 たぶん牧草の中のどれか特別な種。

たとえば、牛がそれを食べないと、特定の栄養素が取れなかったり、ある草が害虫の侵入を 抑えていて、他の草がなくなって、それが食べられるようになってしまうと、牧場全体が 枯れてしまったり。

そんな草がもしも「苦く」進化して、牧場の生態系を維持できなくなってしまったら、 「草が牛に勝つ」ことなんてしなくても、牛は牧場で生きていけない。

草が苦くなる。そんな小さな変化をきっかけに、社会というネットワーク全体を巻き込んで落とす。 そこから先は運次第。テロリズムというのは、そんな考えかた。

  • 学生運動。そもそもが直接政府転覆を狙いに行ったのが間違い。60年安保が部分的にも成功したのは、キーであったアメリカの外交官に「嫌がらせ」ができたからだった。選挙に行く「ふつうの人」を巻き込めなかったから、運動は大きく広がったけれど、たぶんあの頃「キーストーン」になっていた人達は、現状維持を選択した
  • 中国共産党とか、某宗教団体が成功したのは、 取り込んだ層がそのまま社会のキーストーン種だったから
  • イラク紛争。「イラク-アメリカ」という大きな生態系を支配しているのはアメリカ政府で、 キーストーンになっているのは「かわいそうな若いアメリカ人」というマスコミが括った一群の人。 イラクでは、もちろん対立して殺しあっている関係だけれど、イラクのゲリラ兵と、アメリカの軍人 というのは、ある種の協調関係を持ってアメリカ政府を転覆させる方向に動いている

医師はどうするべきなのか

大マスコミ様を頂点とする日本社会という生態系では、現場の医師というのはどう見たって 単なるエサ。

ネット社会ではマスコミはもはや笑い者になっていて、朝日や毎日が何を書こうが、 みんなそれを冗談と受けとるけれど、ネットでマスコミを笑う「みんな」と、 実際に社会という生態系を維持して、医療が滅んでいくのを傍観している「みんな」とは 全く別物。

マスコミが支配する「言論」世界や、ネットの中でいくらマスコミの非を叫んだところで、 マスコミにとっては「エサが苦くなった」感覚は全くないはず。笑いというのは痛くないから。

マスコミに「医者は苦い」という感覚を持ってもらうには、 やっぱり「マスコミの中の個人」を攻撃すること。

マスコミを構成する個人をいくら潰したところで、マスメディア全体が潰れることは絶対に無いけれど、 それでも彼らはわざわざ「苦い草」を食べにくることだけはしなくなるはず。

  • 医師会が音頭をとって、「悪い報道」をした記者を「個人名」で訴訟
  • マスコミ全体を敵に回しても無駄なので、医師会がメディアを敵に回すのは止める
  • 賠償金なんて個人の生活を潰せる程度で十分。とにかく訴訟の数を増やして、目に見える「刺」をたくさん作ること
  • たまには身内にも刃を向ける。迎合的な発言をした医師とか、 ミスリードに荷担した医師なんかは身内で 処刑して、医師の結束力を力で固めて、マスコミ様に「医師という餌の苦さ」をアピール

我々は牛に食われる草なんだから、牧草の分際で、牛を倒そうとか考えるのが間違い。 刺を持ったり、ちょっと苦くなるだけで十分。

メディア一辺倒だった社会も少しづつ変わって来ていて、 単なる報道機関だったマスコミも、自分で火をつけて、それをエサにするという新しい ビジネスモデルを組み立てつつあって。医者は叩かれて一儲けされて、 今度は危機を煽られてもう一儲け。やられっぱなし。

ネットメディアではみんなマスコミを笑うけれど、それでも朝日はみんなが読むし、 亀田家のボクシングはものすごい視聴率を稼ぐ。ネット世論は何も変えていないし、 キーストーンはまだ「維持」を望んでる。

現状変えるには、遠回りだけれど生態系全体を巻き込んで「落とす」しかなくて、 それはとても難しいようでいて、もしかしたら案外簡単な手段でできるかもしれない。

我々がキーストーンなら、ネットワークは「落ちて」再起動されるだろうし、そうでなければ マスコミからみた「医師という牧草」は枯れて、代替手段がどこかから出てくるだろう。 どちらに転んだって大丈夫。少なくとも、 苦くなった医師が、これ以上マスコミ様に喰われることだけはなくなるから。

マスコミ様がいよいよ凶暴さを増す昨今、いろんな分野の「エサ」が苦くなる戦略を とり始めれば、きっとどこかでキーストーンに当たる。キーが抜けて系が「落ちた」時、 世界はきっと、とんでもなく面白いことになる。

そんな初夢。

2006.12.09

納得してもらう方法

アナロジーやたとえ話の学びかたと大切さについて。

合意と納得

単純に「イエス」をもらいたいだけならば、それはむしろ簡単。

基本的なやりかたというのは、相手の見たいものが何なのかを推測して、 それだけを見てもらうこと。

合意を得るのに理解や納得はいらない。それは不必要どころか、むしろ有害でさえある。

ところが、相手から「ノー」をもらって、それを通じて何か有益な体験がしたい、 あるいは何かを学習したいと思ったならば、納得の問題は避けて通れない。

相手の立場からみて、自分の意見の欠点はどこで、改善するにはどうすればいいのか。

こうした疑問に答えをもらおうと思ったならば、 自分の抱えている問題点がどういうもので、それに対して自分がどう考えているのか、 相手に理解してもらわないといけない。

「生データ」は役に立たない

事実をありのまま伝えただけでは不十分。

たとえば「先週箱根に紅葉を見にいったとき、ある一枚の葉だけが緑で、それに強い印象を持った」 というイベントを写真で伝えようと思うと、相当厄介なことになる。

ものすごく解像度の高いデジカメを使えば、「箱根に行った」という情報と、 「一枚の葉に興味を持った」という 情報とを1枚の写真におさめることは可能。

ところが、箱根に焦点を当てれば葉が霞み、 葉に焦点を当てれば箱根が失われてしまう。デジタルデータは無限に細かく再現可能であっても、 頭が一度に処理できる情報は有限だから、「思い」を伝えきるにはデータ量が大きすぎる。

個人の考えを相手に理解してもらおうと思ったら、 変形の効かない写真よりも、むしろ絵のほうが 有利かもしれない。下手すると、統合失調症患者の 心象風景みたいなものになるかもしれないけれど。

なんとか「箱根」と「緑の葉」とを伝えられたところで、それでもまだまだ足りない。

同じ「緑の葉」を見ていても、それをどう認識するのか。それを共有するのは画像だけじゃ無理。

「同じ世界」という幻想

箱根にいった自分と、話を聞く相手。同じ世界を「見る」ことができたところで、 2人が同じ世界を「認識」しているのかどうかは全く別の問題。

その人が認識している世界と言うのは、生い立ちとか、文化背景、興味の対象がちがってしまうと、 全く異なってしまう。

大人というのは、数字が好きだ。 あなたが新しい友だちのことを話すとき、大人たちは大事なことは絶対に質問しない。 「その子はどんな声? その子はどんな遊びが好き? その子はちょうちょを集めてる?」などとは絶対に言わないのだ。 彼らが言うのは 「その子は何歳? 兄弟は何人? 体重はどのくらい?お父さんはいくら稼いでいるの?」 そうやって大人はその子を分かった気になるだけなのだ。 ……星の王子さまより

「緑の葉」というものに対して、たとえばしゃべる側が闘病中の親友のことを考えている一方で、 それを聞いている側は、地球温暖化の問題とか、あるいは環境ホルモンの話題なんかを考えていたり。

みんなが見ているのは、一人一人が意味を与えたものだけから構成される世界。 全人類共通の「客観的な世界」などというのは、その人の認識現実の中には存在しない。

違いの中に同じを見る

たとえ話、アナロジーというのは、相手に納得をしてもらうための手段。

「緑の葉っぱに闘病中の親友のことを思った」という思いを伝えたかったのならば、 相手の立場に応じて、たとえば太陽黒点の話をするとか、 心停止後もなお生きている細胞の話をするとか。

アナロジーというものは、そもそもが自分の言葉で作り出すものではなく、 相手の持っている「体験の部品」を使って、 自分の思いを組み立て直す行為なんだと思う。

萩尾望都の名作SF「スターレッド」の中で、 「火星人はそもそも目を使ってものを見ていない」という話題が出てきた。

「彼らみんな生まれながらにして超能力者だから、視覚を用いなくても外界を直接感覚できる。 眼はついていても、それは単なる飾りにしか過ぎない。」 「ほんの4世代前までは同じ人間であったものが、今では全く違った世界を見ている。 そんな相手と、今さら対話なんかできるのか?」

地球のエスパーが、そんなことを思い悩んでいた。

物語の本筋とは離れるけれど、超能力を持った彼らと、何も持たない地球人との コミュニケーションを成立させたのは、絵や言葉なんかじゃなかった。

役に立ったのは、「子は親から生まれる」「人間は世代を重ねる生き物」という、 同じ種としての人間の共通体験。

争いは止んで、全てを次の世代に引き継いで、物語は終わる。

アナロジーの学習

アクセス厨だ。

一番大事なのはアクセス数と反響で、内容なんて2の次。

これもアナロジーの学習のため。

アナロジーには、「理解と納得とを助ける有効な手段」としての側面と、 単なる形容詞、会話を面白くするための手段としての側面とがある。

独り善がりなたとえ話ならいくらだって作れるし、昔から「分かりにくいたとえ話」で 他人を煙に巻くのが好きだったのだけれど、これは単なる形容詞の延長。 ウケを取れればとりあえず成功だし、それで十分。

ところが、意味や概念の伝達手段としてのアナロジーというのは、 それが「いい」のか「悪い」のか、 自分だけでは検証ができない。

会話というのは、最終的には「合意」で終わってしまう。

合意形成のプロセスには、「納得」という行為は必要で無いか、むしろ有害ですらあるから、 アナロジーが優れているかどうかの評価には使えない。

面と向かった相手との会話には、 ただでさえ同調圧力がつきもの。いいたとえ話であっても、そうで無くても、「そうだね」という 返事しか返って来ない。

検証を行うためには人数を集める必要、それも匿名の「忌憚の無い」意見をたくさん集める 必要があって、それにはどうしても多くの人に呼んでもらう工夫が必要。

内容のほうが大切とか、アクセス厨になるなとか異論はたくさんあるけれど、 こうした行為を一種の学習であると考えると、アクセス数は多くなければ意味がない。

とにかくたくさんの人に読んでもらって、できればアクセス可能な場所で「陰口」を叩いてもらって、 それを読んでまた表現を修正する。

そんなことの繰り返し。

相手の頭で考えて自分の言葉で話す

体育会的な社会、あるいは病院みたいな「退院したらおしまい」みたいな場所では、 「納得してもらう技術」なんてあんまり役に立たない。

反乱分子は潰せばいいし、大切なのは合意形成までに要する時間であって、 合意の深さなんてどうだっていい。

これから先、ネットワーク化が進んで世界が小さくなって、 一つの問題に多くの意識が集中する時が来ると、たぶんこういった技術が役に立つ。

外圧を使って合意に導く方法というのは、表面張力を使ってシャボン玉を維持するようなもの。

小さなシャボン玉はいつまでたっても消えないけれど、それが大きくなればなるほど、 一つの球を維持し続けるのは難しくなる。

集団をまとめる力、表面張力=同調圧力を強化するには、「水」の集団に対して敵対する「油」を 導入することが欠かせないから、争いは避けられない。

これから先、水と油との共存を嫌でも考えないといけない時代。

それは若者世代と団塊世代との確執であったり、医師-患者間の確執であったり。

アナロジーでまとめて、お互いが納得するというのは、水と油とを卵でまとめて マヨネーズにしてしまうようなもの。

顕微鏡レベルでは、水と油とは全然混じっていなくても、全体としては混和している。そんなイメージ

合意の技術や印象操作の技術をいろいろ調べてきていて、どんな方法論があって、実際 どこまでできるのかはなんとなく見えてきた気がするけれど、「納得の技術」はまだまだこれから。

教科書とか、あるんだろうか?

2006.12.06

「最初の1回だけ無料」ルール

トイレに入るときの救急隊ルール

  1. トイレに入ったら、まずトイレットペーパーを手にとる
  2. それから便器に座る

消防や救急、レスキューというのは いつ呼ばれるから分からない仕事。呼ばれたらすぐに尻を拭いて、現場に飛び出せるように。

地元の救急隊にも確認したけれど、これは全国ルール。もっとも、今はトイレの中にも無線が 入ったから、「慌ててトイレットペーパーをとる」ぐらいの時間はできたらしいけれど。

感染性腸炎が流行して、今すごいことになっている。

療養病棟2つは満床。急性期病棟の利用率は、この3日ぐらい9割越え。身動き取れない。

救急隊も休めないらしい。

日中は、食事が取れなくなった老人の搬送で手いっぱい。夜になると、日中がまんしていた 若い人が耐えられなくなって、朝の4時とかに「昨日からの吐き気」で救急搬送依頼。

救急勤務は24時間交代。

何もないとき、救急車は消防署にいて、搬送要請があったら、そこから出動する。 この前聞いたら、「今日はもう、17時間乗りっぱなしです…」と。

警察と消防隊の鍛えかたは人間レベルじゃない(制服の下は全部筋肉)から、 たぶん17時間ぐらいの勤務では全然何ともないんだろうけれど、 その日はさすがに疲れた顔をしていた。

流行性腸炎は、やっとピークを越えつつあるけれど、ここにインフルエンザがやってきたら、 たぶんこの地域の救急は終わる。

有料ルールは最適解か?

救急車を有料化しようという話は前からあるけれど、あんまりうまくいかないような気がする。

実費でやると、1回の救急搬送代金というのは、たしか7万円ぐらい。

救急車事態がとても高価なものだし、訓練を受けた専門家が24時間待機してるんだから、 あの制度にはものすごいお金がかかってる。

そのまま請求するのはどう考えたって無茶。せいぜい取って 1000円とかそのぐらい。

「美しい国」には、そもそも税金を使って救急車に乗る非国民なんて 想定されていない存在なんだろうけれど、政府だって世論を気にするだろうから、 たぶんタクシー代よりも安い程度。

有料化の厄介なところは、不利益を生じる人がまちがいなく出る反面、 本来使用を抑制してほしい人に対する抑制効果はあんまり無いこと。

「救急車に乗ってきて欲しい人」というのは、要するに重病人。老人の多くはこれだし、 がまんする人今でも結構多いから、「有料化が原因で亡くなった」という叩きは避けられない。

医療者側のやる気をそぐ原因になっているのは、救急車をタクシー代わりに使う人。

某市では、改革派市議のシンパの人たちが「病院を監視しよう」という運動を 展開していて、夜中にわざわざ救急外来を「視察」する。 朝の4時。3日前から風邪を引いているという子供を連れた親御さんが救急搬送。 帰り際に一言「我々は税金を払ってますから、あなた達には感謝しません」とにっこり。

改革派に泣かされた看護婦さんはそこを辞めて、今うちの病院にいる。

こういう人達はお金持ってるし、そもそもがタクシー呼ぶのが面倒だから119番をかけるわけで、 抑制するには、相当な金額を吹っかけないと無理。

で、こういう人達は「払った分だけ元を取ろう」とするから、 病院にきてからのトラブル必至。

早く診ろとか。金払ってるんだから、それだけのサービスしろとか。

現場の士気はまちがいなく低下する。

「1回まで無料」ルール

  • 地域の住民に、1年間有効、1回限り使用できる「救急車利用券」みたいなものを毎年配る
  • 利用券は、お互いに交換したり、他人に券を譲ることも可能
  • 2回目以降、あるいは券を持っていない人が救急車を使うには、ある程度の金額負担が必要

「救急が崩壊しかかっています」とか、「利用を抑制して下さい」とかアナウンスしたところで、 しょせんは他人事。

共有地の悲劇というのは、みんなが共有地の崩壊に無関心だからこその「悲劇」。

前提としては無料を維持しながら、救急車の利用を抑制しようと思ったら、 こんな「1回まで無料ルール」の導入は無理だろうか?

「券」をもらったところで、ほとんどの人は救急車なんか使わないから、実質無意味。

本当の病人は自分の券を使うだろうけれど、たいていは家族とか、親戚とか、その人の病気の「重さ」を 理解している人がまわりにいるから、その人から券を融通してもらう。あるいは、医師の判断で、 病院、あるいは役所から券を新たに発行する。

で、救急車をカジュアルに使っちゃう人というのは年に何回も救急車に乗るのが前提だから、 嫌でも「次の機会」を考える。

今救急車を呼ぶのが本当に一番「いい」機会なのか。

2回目からは有料。考えるから、無料券は使わないで取っておこうという動機が働く。

報酬の即時性

共有地のジレンマ的な問題に対処する一つの方法が、それを利用する人に 「即時的な報酬」を付与すること。

未来に生じうる悲劇とか、みんなが救急車の利用を抑制した先に広がる「美しい国」とか、 「今ここ」にあるもの以外のもので人を説得しようとしても、みんなを納得させるのは無理。

たとえ意味がなくても、とりあえず「モノ」をあげて、「利用すると、これがなくなっちゃうんですよ」と やったほうが、ある種の人にはたぶん効果的。

経済活性化のために「インフレターゲットを設定しよう」なんていう意見があるけれど、 あれもまた、反応できるのは経済学に詳しい人だけ。自分も含めたほとんどの人は、 「そうなると、何がおきるの?」と他人事。

同じことをやろうと思ったら、たぶん貨幣の価値に「半減期」みたいなものを設定して、 「使わないで持っていると、お金の価値はなくなっちゃいますよ~」とやったほうが確実。

国滅ぶだろうけれど。

救急制度が吹っ飛んだ先にあるもの

救急体制が何とかなったところで、患者を受ける病院側には 何のメリットもないのだけれど、制度を維持する意味はある。

最悪のシナリオは、マスコミが救急隊を叩くこと。

たらいまわしの問題、搬送判断のミスみたいなものを叩いて、「救急車は信用できない」という 空気をマスコミが作り出したら、病院にはもう後がなくなる。

医者を叩きおこすのに最凶の方法というのは、「自分で直接病院に来る」こと。

救急車を使った場合は、それでも救急隊とのコンタクトが可能。専門外だったり、 自分達の施設で手に負えないようなケースは、他に行ってもらえる。責任は発生しない。

ところが、自分の足で来た患者さんに対してはルールが変わる。

アメリカンフットボールのタッチダウンよろしく、病院の門をくぐった時点で患者さんの「勝ち」。 初診の人であろうが、専門外の患者さんであろうが、病院が責任を持って治療する 義務が生じる。

「駄目な救急隊は放っておいて、近所の病院に直接行きましょう」

こんなキャンペーンが張られて、民間の寝台タクシーみたいな制度が安価に開始されたら、 もう当直なんてできない。

救急を断ろうが、当直医が眼科だろうが、門をくぐった時点で生じる診療義務。 自分で治療できなくても、その医師には患者さんを専門病院まで搬送する責任が生じる。

そんな時代、リスキーな飛び込み患者の転院を受ける病院なんかあるわけないから、 当直業務は命がけ。

急患取った時点で負けどころか、泊まった時点で負け。

こうなると、もう内科なんかやる奴、絶対いなくなる。

その一歩手前、救急体制の崩壊を止めるのは結構大切。 お互い喧嘩している余裕、 ないはずなんだけれど。

2006.11.07

鎮火のための爆破メソッド

原油火災を消火するには

イラクがクウェートに侵攻したあと、撤退したイラク軍は、油田に火をつけた。

燃料の上におきた火事。こうなると、水を撒いたって消えない。

こうした火災を消すのには、爆薬を使う。

炎上している原油井戸の周囲に爆薬を置いて、炎ごと爆破する。

爆発の瞬間、燃料と酸素と、両方の供給が一瞬途絶えるから火は消える。 そのタイミングを見計らって、井戸のバルブを閉鎖すると、消火できるのだという。

炎を維持するのは、意外に難しい。

  • 燃料や酸素の供給が少なすぎれば、火は消える
  • 燃焼速度が上がりすぎたり、酸素の供給が過剰になったりすれば、炎は「爆発」して、燃焼を維持できない

炎を維持するには、燃料の供給や燃焼速度を、一定の範囲内に保ちつづけないといけない。

「爆発」鎮火する掲示板

ずいぶん前、2ちゃんねるにペット大嫌い板、通称「動物虐待板」という掲示板があって、 動物虐待を肯定する「黒ムツ(黒いムツゴロウさん)」さんたちが、「愛誤(動物愛護)」の人達と、 24時間ぶっ通しで罵倒合戦を続けていた。

「臨界」の範囲なら、燃焼温度は高ければ高いほど面白い。

動物虐待板は、人間の悪意だけでディベート合戦を楽しむ場所で、 「ネタをネタとして」楽しむ空気。

状況が変わってしまったのは、本当に「猫殺し」をする人が出てくるようになってから。

逮捕者が出る前からいくつか出回っていたけれど、あれで一気に熱が冷めた。

「黒ムツ」だって、みんな「黒じゃない」と分かっていたからこそめちゃくちゃなことが言えたし、 掲示板もいい感じに炎上を続けた。

ところが、「黒ムツ」の中に「本物の黒」が一人でも入ってしまうと、 あとはみんな同類扱い。

本当の「黒」になんか誰もなりたくなかったから、あの掲示板からは一気に人が減ってしまって、 当時の雰囲気なんてほとんど残っていない。

グロ画像掲示板。あれも「世の中には殺人現場をおさめた動画があるらしい」という都市伝説があって、 あたかも「ツチノコ探し」みたいなノリで、「俺見たことある」とか、 「ロシアのサイトに公開されたらしい」とか、そんな楽しみかたをするところだった。

戦争が起きて、生きてる人の首を切られる動画が当たり前のように全世界に発信されて、 もうグロ画像なんて珍しくも何ともなくなってしまって、みんなの熱は冷めた。

Dan’s Gallery of Grotesque やFreak Show Case、Ogrish やGoregasm 。 海外のグロ画像サイトのフォーラムで、 海を越えた同業者同士の活発な討論会が行われたりしたのも、今は昔の話。

掲示板鎮火のための爆破メソッド

炎上したblog や掲示板の鎮火は難しい。

「無視する」のは最上の方法の一つだけれど、後に残るのは焼け野原。 どうしたってダメージは残るし、そこから何事もなかったように再生できる人は限られる。

水をかけるのは最悪。炎上の勢いが強くなると、筆者側がかける「水」すらも燃料になってしまう。

「炎上」を維持するためには、炎上に参加するみんなの罪の意識が、 ある一定の「グレーゾーン」に保たれていることが必要。

本物の炎と、原理は一緒。炎を消すには、燃焼温度を炎が維持できないぐらいに下げてしまうか、 燃焼速度を上げて、「爆発」にもっていってしまうか、どちらか。

炎上に参加する「みんな」は、グレーの範囲で限りなく「黒」に近い発言をしようとして競い合う。 鎮火をしようと思ったら、この温度を一気に上げて、 みんなを「黒認定」してしまうのがひとつの方法になる。

  • 掲示板が誰かの中傷などで盛り上がったら、筆者自らが自分を罵倒する競争に参加して、 「みんな」が引いてしまうようなひどいことを積極的に書き込む。 祭の場に「こいつと同類扱いされたくない」という空気が流れたら、自然に鎮火していく
  • 医師のWeblog での主張に反対意見が殺到したときなどは、相手を論破しようとする代わりに、 話題を筆者の人格否定とか、下衆な中傷発言などに持っていく。医師なんてみんなお上品だから、 流れが下品になれば、みんな去っていく
  • 集団の中で誰かを保護しようと思ったら、その場の制空権(空気の流れを作る権利)を持っている人が、保護したい誰かに関するひどい陰口の口火を切る。それが十分に「ひどい」話なら、 誰もそれ以下にはなりたくないから、自然にみんな口を閉じる

実績はある。「上手くいった」という伝聞いくつか。自分でやったこと、何回か。

誰かの悪口とか、「炎上」というのは一種のチキンレースで、 「グレー」が「黒」に変わる境界、その境界にもっとも近づいた者が、 その場の空気を決める。

残念ながら、罵倒される側が「白」の立場に固執していては、 いつまでたっても制空権が取れないから、 炎上はいつまでたっても止まらない。

制空権を取るというのは、その場の「悪意の引き受け手」になること。

匿名世界でそれをやるのは簡単だけれど、実世界では相当に難しい。 「公平」ルールが蔓延して、弱者の権利なんていうものが強い昨今、 それはますます困難になっている。

絶対的な悪人、あるいは権力者がいて、それに対する反発でみんなまとまって、 その「悪」を何とかするというのが昔の学園ドラマの基本だったけれど、 今の公立学校にそんな「悪」が君臨したところで、朝日新聞への投書一発で即死。

みんなそれが怖いから、「悪意の引き受け手」なんかになれず、燃焼速度がいつまでも 臨界以下にしかならないから、一度火のついた「いじめの炎」を止める術がない。

やっぱり「みんな公平」という概念は、発明としては今一つないんじゃないかと思う昨今。

2006.10.15

NHK「日本の、これから」

総括

「医療、安心できますか?」という副題。

医療者、厚生労働事務次官、患者代表、メディアがそろう討論番組とあって、興味があった。

舞台立てとしては、真ん中に司会者、タレント、厚生労働事務次官氏、医師代表の本田先生、 医師会長、医療ジャーナリスト氏が集結。 それを取り囲んで、患者代表、地方自治体代表、医師代表がそれぞれ15人ぐらいずつ集まる。

結論は、厚労省の完全勝利。医師全面敗北。

  • 番組開始と同時にドレスコードの違いが目に付く。患者、医師、 司会者まで含め、登場者はみんなノーネクタイで、 ラフな格好。髪型もバラバラ。そんな中で、厚生省事務次官だけがネクタイにスーツ。
  • ホームページを見ると、司会者も普段はネクタイをしている。 今回のノーネクタイは、たぶん意図的なもの。
  • 番組冒頭、救急の話題。患者代表が「ドイツでは、開業医もみんな救急をやる。満足度は90%近く。 なぜ日本の開業医は救急医療に参加しないのか?」と、 いきなり外国の数字をあげて開業医を刺す。 医師側反論できず、画面には目線を泳がせる開業医の先生と、 「開業医」の文字が入ったネームバッジ。カメラマンはいい絵撮りすぎ
  • 救急の話題。事務次官が止めを刺しにくる。「日本の勤務医の先生方の頑張りには、我々は 本当に頭が下がる思いです。だからこそ…」。勤務医だけをほめ殺す。分断工作。
  • 中盤。産科医療の話題。「なぜ、日本の産科医が減っているのか?」 という質問。 「足らないんじゃない、婦人科だけやる医者ならたくさんいるんです」ジャーナリスト氏がすかさず、横から質問を奪う。 本来なら「たくさんとはどのくらいですか?」と反論しないといけない場面。医師側の反論なし。
  • 前半の終盤。医師代表の本田氏、いろいろなデータをあげて反論を試みようとするけれど、 途中でタレントが「私の家族の話では…」と、的確に話の腰を折る。 完成した議論をほとんど展開できず。
  • 後半開始。ようやく、医師側も議論のルールが間違っていることに気がつきはじめる。 ジャーナリスト氏が医師の意見と称して、「現場の意見では…」とミスリードを誘ったとき、 すかさず本田氏が「伊藤さんは勤務医じゃないでしょう。 我々勤務医はみんなうなずいて居るんですよ。 なぜ現場のことがわかるんですか、伊藤さんは。」と刺しにいく。 下品だけれど、これが本来求められていた戦いかた。
  • 終盤。医師代表本田先生、ようやく「厚生省の無策が医療をここまで駄目にした」 という論を張る。 地方自治体代表がそれに賛意。ところがその矢先、 厚生省事務次官氏が「地方公共団体の頑張りで地域医療が回っているのは、 我々も本当に頭が下がる思いです。 それを無駄にしないためにも…」すかさずほめ殺して自治体を刺す。 長い話なのに、司会者もそれを止めない。自治体側からの攻撃は、1回で沈黙。
  • 終盤。本田先生が何とか気を吐いても、多勢に無勢。番組のエンディングを締めたのは、 スーツにネクタイの事務次官氏。

誰が勝ったのかは明らかだった

ファシリテーターのいない議論=潰しあい

司会者の態度によって、議論というのはルールが変わる。

  • 結論があって、よりよい意見を求めるための議論では、正しい論を張る人が求められる
  • 結論のない、楽しい泥仕合の絵が欲しいだけの議論では、相手の意見を潰して、時間が終了したときに喋っていた人の勝ち

この討論番組のルールは後者。

参加者は、司会側、厚生省、患者側、ジャーナリスト、 医師の大きく5系統。

  • NHK の司会者は、明らかに結論の誘導を放棄していた。 医者側に問題提起から結論までを含んだ論理を展開されてしまうと、 後の話題が続かなくなるから、「空気の読めない人」としてタレントが呼ばれ、 論理が張られるたびに特攻してきた。 あのタレントの人は、「自分の仕事」を分かっていて、あえて突っ込んできていた。
  • 厚労省側には、たぶんPR 専門の会社が入っていて、想定質問のリハーサルをこなしている。 相手をほめて刺したり、医師側を分断したりするのは高度な技術で、 アドリブでやるのは無理。シナリオがあったか、少なくとも相手をきっちり潰す意図をもったやりかた。 医師側の想定したルールとは、あきらかに違った戦法。
  • 患者側、ジャーナリスト氏のいずれも、「番組のルール」をちゃんと理解してあの場にいた。 みんなバラバラに発言するだけだったけれど、医師側の発言を殺して、 ジャーナリスト氏の論をサポートする 役割は十分にこなしていた。
  • 番組前半の時点では、医師団は番組のルールを読み違えていた。 みんな、「相手の話をまず聞いて、それから 自分の論理を展開する」つもりでいたから、様々な立場の医師が片端から刺され、 発言できなくなっていった。
  • 医師代表の本田氏は、後半になって「下品な」戦略に転換して、 積極的にジャーナリスト氏を潰しにかかって いたけれど、その意図はたぶん、最後まで全ての医師には伝わらなかった。

たとえば、柔道の試合をやるつもりで会場にいってみたら、柔道着を着ている人なんて誰もいなくて、 みんな思い思いの凶器を持って、プロレスをはじめていたという…、 今回の番組は、そんなかんじ。

論旨はさておき、 事務次官氏の議論の技術はすごかった。たぶん、あの人はもっと下品な戦いも想定して 現場にきていたけれど、そういう戦いを予防する腕前があまりにも見事で、 誰も事務次官氏を刺しに行けなかった。

自転車置き場の議論

原子炉の建設のような莫大な予算のかかる議題については誰も理解できないためにあっさり承認が通る一方で、 市庁舎の自転車置場の屋根の費用や、果ては福祉委員会の会合の茶菓となると、 誰もが口をはさみ始めて議論が延々と紛糾する。(中略) FreeBSD のコミュニティでは、この現象は自転車置場の議論 (bikeshed discussion) として呼ばれている。 いやなブログ: 自転車置場の議論

今回の番組は、まさにこれ。

原子炉をどこに作るのか。本当にそれが必要なのか。代替案は何かあるのか。

そういったことを 検討するためにみんな集まったのに、市民団体は原子力発電所の自転車置き場の屋根の費用を論じ、 ジャーナリスト氏は発電所の外壁を彩るペンキの色の効果を論じた。

医師団は、原子炉の話をしようとしたけれど、その青写真を展開する前に、 タレントやジャーナリスト氏に図面を破かれてしまった。

NHK と厚生省は、問題の中心が原子炉だと分かっていたけれど、 たぶん分かってて議論が紛糾するに任せ、 最後の最後で「本当に問題を把握しているのは、厚労省だけ」というアピールをして、 番組を締めた。

そのための、会場でただ一人のネクタイ。政治集会のとき、ヒトラーだけがナチスの 帽子をかぶらないのと、意図するところは同じ。

政治家の討論番組では、みんなてんでばらばらに喋りだして、品のないことおびただしい。

でも、まずあれをやって、議論の場に党の政策を展開しておかないと、 議論が相手の土俵の上で進行してしまう。

俺の原子炉を見てくれ……こいつをどう思う?

医師代表の先生が「医師の考える理想の原子炉」の論を展開できていれば、後半の患者側からの 突っ込みは、全部この一言で返せたはず。ところが、論を展開するだけの時間は、 与えられないまま番組が終わってしまった。

第2ラウンドがあるとすれば

メディアと手を組んだ厚生省なんて、限りなく無敵に近い存在だけれど、 医師側ももっと品の無い戦いかたをしていれば、あるいは結果を曲げられたかもしれない。

  • チームプレーの徹底。ワールドカップのオーストラリア戦。ジーコジャパンは11人で戦ったけれど、 オーストラリアは最初から選手を入れ替えるのを前提に、「15人」で戦おうとしていた。戦略面では、 日本は最初から数の上で劣勢だった。今回の反省点もそれ。
  • 具体的には、善なる医師を代表する論を張るのは本田先生に任せ、後ろに控える医師は、 厄介な相手を潰す「悪役」に徹する。
  • 「開業医は救急やれ」といわれたら、「自分は年老いた両親を介護するため、開業しました…」 という老医師とか、「救急当直をしていた晩、父が亡くなりました。 生きていればあなたぐらいの年です」という 研修医とかがすかさず反論する。 たぶん、会場の全ての開業医は老親持っていて、全ての若手医師の両親は当直中に亡くなっていたり することになっちゃうけど、そんな些細なことを気にしてたんでは喧嘩に勝てない。
  • 「婦人科医はサボって産科をやらない」は、最初から想定されるべき質問。 婦人科の女医さんをメンバーの中にいれて、お腹の中に丸めたタオルでも突っ込んでおけば、 悪者になるのはジャーナリスト氏。女医さんが泣き出せば、たぶん二度と発言できない。 NHK も、まさか女医さんを捕まえて「スーツの腹をまくってください」とは言わないはず。
  • まともな論を張るのには、どうしても時間がかかる。 NHK 側は、相手を潰すために「高負担にあえぐ老人」とか、 「難病で苦しむ若者」を刺客として仕込んできている。 そういう人に「あなたが1ヶ月生きるのに何百万円かかるか、 知っていますか?」なんて身も蓋もない正論で反抗する、「空気を読まない若い医者」が、身体を張って 本田先生が攻撃論理を展開する時間を作る。
  • できれば、「医師会が考える理想の医療制度」みたいなものを立体もので作って、 会場の真ん中におく。 どかすのはNHK側の人物。 「NHKが医師の考えを排除した」みたいなビジュアルイメージを作れれば、つけいる隙が できるかもしれない。

いずれにしても、こんな番組は印象操作の戦いなんだから、 医師会ももっとPR の手段を考えてほしかった。負けっぱなしはとてもくやしい。

まじめ一辺倒なんじゃなくて、勝てないならば、まじめな議論をお笑いにしてしまうような やりかただってできたと思うし。

2006.10.01

凄いのにそう見えない人

本当に仕事ができる人というのは、一見すると何も仕事をしていない ように見えるのかもしれない。

できるほど透明になる

最近、ベテランの医事課のスタッフが一人、退職された。

適当にやっておいて下さい」が通用した、数少ない人だった。

何か特別な資格を持っているとか、ものすごく大きなプロジェクトを成功させたとか、 そういう武勇伝みたいなものはなんにも無くて、淡々と医療事務をこなすだけの人。

でもすごい。仕事が快適。

事務仕事というのは複雑怪奇で、医者をやっている側からすればできれば近寄りたくない。

ああしたい、こうしたいという思いが医療者側にあっても、行政側にはその制度が無いとか、 それをやるためにはなにか特別な申請が必要とか。医療事務は、 そのあたりをすり合わせる能力が問われる。

医療と行政。

2つの世界の「橋渡し」をする仕事というのは、それが上手な人であればあるほど、 その人の存在が透明になっていく。

ああ」したいとか「こう」したいとか、医療者側があいまいな概念を放り投げても、 上手な事務方は、それを行政に伝わるように言語化してしまう。 あんまりスムーズだから、医事なんかいないように仕事がすすむ。

上手でない事務方が間に入ると、その人の「活躍」が、嫌でも目に入る。

あいまいな言葉を放り投げても、「具体的に、どうすればいいんですか?」なんて返事が返ってきたり、 行政からの返答も、こちらの意図とは微妙に異なってみたり。

概念の言語化や、行政サイドとの折衝。

こういう仕事は、お願いする側からもよく見える。 「この人、使えねぇな」と思うよりは、「この人は仕事ができる人なんだな」とか、誤解しやすい。

本当に上手な人は、このあたりの「仕事」が、ごくわずかしか存在しない。 医者からすると、「ほら、俺の言ったとおりになっただろ」という気分になるから、 快適なんだけれど、その人の活躍は感覚しにくい。

乱暴な人は評価される

一時期評判になった、病院再建のプロ。

あの人の「再建戦略というのは非常に簡単。とにかく急患を受け入れて、 病院の窓口をきれいに改築して、職員の給料を引き下げて…といったもの。

どこの病院にいっても、やりかたはだいたい同じ。

現場は大混乱。その人の「仕事」ぶりというのは嫌でも感覚される。 「使用前、使用後」の違和感がものすごいから、その人はたしかに大活躍して いるように見える。

実際には、その人が去ったあとの病院は、もう悲惨なことになっているらしいけれど。

「病院をなんとなく改革したい」という、病院経営者のあいまいな概念と、 再建請負人が実際に施行する、現場を変える様々な戦略。

あいまいな概念を単純化して考えるとき、そこに情報の欠落が生じる。本来は不都合な欠落。 ところが、依頼人に感覚される仕事の量というのは、たぶんこの欠落の大きさに比例する。

本当に上手な再建人がいるとしたら、その人が現場にはいっても、 一見何も変わらないように見えるはず。 再建人の考えかたは、ウィルスのように感染する。 中の人も気がつかないうちに、現場の空気はだんだんと変わり、 業績が上がる。そんなふうに「効果」が現れる。

現場はきっと、「その人がいなくても、自分達だけでも同じことがやれた」と錯覚する。 再建人に依頼した県の役人も、たぶん「わざわざその人を呼ばなくても、 現場が変わるのは時間の問題だった」と総括するだろう。

認知的複雑性の定量化

あいまいで複雑な概念を、単純化しないでそのまま処理する力というのは、 こんなふうに評価が表に出てこない。

退職してしまった事務の方も、たぶんその人の優秀さみたいなものは分かりにくくて、 たとえば転職するにしても、その力を分かってくれる施設は少ないのかもしれない。

たぶん、ある種の職業では、本当に優秀な人というのは空気みたいな存在で、 あんまり目立たなかったりするのだろう。

今流行の成果主義なんかは、こうした人の「凄さ」を発揮する場を奪い、 組織内の空気がますます殺伐としたものになっていく。

会社や組織、個人といった機能単位には、「複雑なものを複雑なまま処理する能力」 というパラメーターがあって、それは、中の人には評価ができない。

それを評価するのには、組織の外にあって、集合知の力を借りることができる存在でないと、無理。

株式相場というのはたぶんそのひとつ。

投資家という職業に何か社会的な役割を求めるとしたら、こうした外からは見えにくい、 「分かりにくいけれど結果を出す」能力や存在を可視化するという部分なんだと思う。

プログラマーで投資家のDan さんが以前、 たぶん同じことを書いていた気がするけれど、 会社ごとの評価単位を個人のレベルにまで解体して、 こうした能力に正しく価値を付加して、「頑張っている人が正当に評価される」 社会を作ろうなんて思ったら、たぶんこういう人があと10万人、日本で実働している 医者の数と同じぐらいは絶対必要。

ところが、誰かの能力を査定するには、査定者にはその人以上の能力がいる。

で、それだけの能力を持った人を10万人も集められるなら、 日本政府も「いい社会」なんか目指さないで、 さっさと世界征服でもはじめたほうがよっぽど簡単に 理想郷が作れるかもしれなくて…。

2006.09.27

お受験 2.0

前提条件として以下のことを想定した場合の、新しい入学試験形態の提案。

  • 格差社会という現象が今後も続く
  • 「勝ち組み」といわれた人も、先のことが全然読めない状態は続く
  • 少子化は進み、大手学校法人でも、生徒を集めるのに苦労するようになる

こんな前提が続くのならば、「入学希望者を試験で選抜する」という従来の制度を止めて、 「受験を本人にやらせるのではなく、その子供の推薦人を試験で選抜する」という 試験制度を提案する大手私学が出てくるんじゃないか、という話。

高校生のころ

通っていたのは結構有名な私学。総生徒数 8000名を数える、マンモス校なんて言葉を通り越した、 ひとつの町みたいな学校。

朝夕の国旗掲揚なんていう習慣があって、世間からは保守的な学長だと思われていたみたいだけれど、 結構時代の先を読んでいた。

  • 創立当初から野球に力を入れて、まず野球で有名になって、次に受験に力を入れた
  • J リーグが誕生する前から、「これから流行るのはサッカーだ」と、サッカー推薦の学生を多く取った。 今もこの学校出身のJ リーガーは何人かいる
  • 「社交の技術として、テニスとスキーは絶対に欠かせない」というのが昔からの方針で、 この2つのスポーツは必修科目
  • 「社会人として、歌舞伎とオペラを語れないと恥ずかしい」というのも昔からの方針で、 学校の中に演劇用のホールがあったりする
  • 「女子高生制服図鑑」なんていう本がベストセラーになったあと、「これからの学生は制服で学校を決める」と 予想し、女子部の制服を全面的に変更、それに合わせて男子部の制服も変わった。OB 会を含め、 全校生徒が反対したこの「制服改革」の結果、入学希望人員が大幅に増えたらしい

入学試験の選抜基準を大幅に変えたのも、自分達の頃。

ただでさえ人数の多かった学生数が、ある年いきなり2倍に増えた。

教えきれないとか、学校全体のレベル低下を招くとか、みんな猛反発。 それでも強行。

入学試験の時は、誰でも緊張する。実力がありながら、緊張のために普段の実力が出せない学生と いうのは、たいていは合格ラインぎりぎりのあたりで落ちてしまう。 そうした学生を拾えれば、レベルが下がることはありえない。

学長の説明は、たしかこんな話。

実際そうなった。

マスの中から目的の小数を見つける技術

あの頃はバブル前だったから、「定員2倍」なんていう力技は有効だった。今なら絶対無理。 実際、けっこう無理もきているらしい。

ネットワークばやりの昨今、たとえば疫病の予防線を張るときなどに使われているのが、 「感染者の友達はやはり感染者」という方法。

疫病のワクチンは、自宅に引きこもっている人よりも、 何百人もの友達と接する人に接種したほうが、 より予防効果が高い。

ところが、何万人もの中からそうした人を探すのは大変な手間がかかるし、 エイズみたいな病気だとそもそも聞けないから、 ワクチンを打ちに来た人に、「あなたの友達を紹介して下さい」とお願いして、 その人にもワクチンを接種する。

友達の多い人は、そうでない人に比べて、友達がワクチンを接種される確率が高い。 だから、紹介された先に「何百人もの友達を持つ人」がいる可能性は高い。

学生のパイは年々小さくなるし、優秀でない生徒が増えれば、学校のブランド力も落ちていく。

入学生をたくさん取って、ブランド力を「東大合格者数」だけに求めるようなビジネスモデルが 今後通用しなくなるなら、「受験」というリクルートの考えかたを変えなきゃいけない。

富裕層は不確定要素を嫌う

流動性が高まって、先の全く読めない時代。

富裕層にだって、「国家100年の計」なんて、未来を考える道楽をする余裕なんかほとんどないはず。

今度の内閣のテーマはチャレンジだけれど、 今「上」にいる人達が望んでいるのは、チャレンジャーが成功できる世の中でなくて、 たぶん「勝者が勝者でありつづけられる」ためのシステム。

どんな優秀に育った子供だって、「一発勝負」には不確定要素がつきもの。 受験というのも十分に不確定な要素だから、それを嫌う富裕層は、きっと多いと思う。

「不公平ルール」による入試の提案

不確定要素が少なくて、十分に「優秀な」生徒を集めるための方法というのは、以下のようなもの。

  1. 子供の親は、その子を推薦してくれる、身内以外の「推薦人」を探す
  2. 推薦人は、自分の履歴書と、その子供を推薦する文章を書いて、学校側に提出。 これが1次試験になる
  3. 2次試験は、子供本人ではなく、推薦人が試験され、合否判定が下される
  4. 子供の質については、入学まで一切問わない。推薦人は、「面子を失う」という社会的ペナルティのみ下される
  5. 推薦人は何人用意してもいいルールにすると、もっと不公平感が高まって面白いかも

昔からある大手私学で、いわゆる「ブランド力」のあるところであれば、 結構うまく行くような気がする。

根拠になっている理屈は2つ。

  • 優秀な人の友達は、やはり優秀である可能性が高い
  • 頭の中身に関係なく、優秀なネットワークに接続されている人は、社会的に成功する確率が高い

「社会的に…」というのがごまかしを入れているところで、こういうやりかたをすると、 東大合格者数とか、塾の偏差値といった、数字で評価できる要素は間違いなく下がる。

だから、古くからある私学みたいな、数ではなく、ブランド力を維持することに 力を注げるところでないと、たぶん失敗する。

このシステムは、まず推薦人を用意できないと始まらないから、 すごい人を雇えるぐらいに裕福か、すごい人に知りあいの多い親でないと、 まず受験の入り口にすら立てない。

推薦人の社会的な信用も試されるから、推薦人になるのだって度胸がいる。

推薦人に心当たりのある家庭に育って、その推薦人が自信を持って推薦できる子供であれば、 その時点で「外れ」は相当少なくなる。

このシステムは、ノードとしての子供を評価するのではなく、その子供がつながる ネットワーク全体を評価する。

仮に、その子供がそんなに優秀でなかったとしても、その子の身内には、 高い確率で優秀な人がいるし、学生生活を通じて「親のネットワーク」に みんなが接続される。

だから、その子供が社会的に失敗する可能性は相当低くなる。

公平さを全く欠いたルール。日教組系の人が発狂しそうで、ちょっと面白い。

「公平」ルールの生み出したもの

公平なルールの最たるものが、神奈川アチーブメント方式だった。

これもまた、一発勝負の受験から、なんとかして不確定要素を減らそうという 発想から生まれた方法。ところが、優秀な人の「優秀さ」を殺して、 落ちこぼれを選抜して隔離するためのやりかたになってしまった。

神奈川県内の全ての中学生は、2年生の頃に同じ試験を受ける。

その結果と、学校の教員の内申点で、高校の合否のほとんどが決まる。

県内は、だいたい5校ぐらいの「学区」に分けられて、成績のいい順に受験校を 割り振られる。倍率は1倍ちょっと。入学試験は、ほとんど飾り。

成績上位校から4番目の学校までは、入学試験なんて無いも同然。 その代わり、中学生時代の素行ひとつで内申点が上下するから、 中学生には自由なんて無い。

「内申書が悪くなるぞ」というのが、当時の公立中学の先生の殺し文句で、 これひとつで授業を静かにしたり、女子中学生を暴行したり、何でもあり。

最悪なのが「成績下位校」と呼ばれる存在。

成績上位から学生を人数ごとに区切っていくと、どうしても でてくる「最後に残る」学生の一群。

当時の神奈川方式では、試験の倍率が一番高いのが、それぞれの学区内で一番成績の低い学校。 他が1.02 倍程度の倍率なのに、ここだけ倍率が3 倍とかあって、受験は大変。

仮に入学できたところで、入学した時点で「下位校」のレッテルが張られるから、 やる気なんか出るわけがない。

高校数学で最初にやるのが「掛け算の九九」だったとか、みんな中途退学しちゃうから、 卒業までにはクラスの人数が2/3 に減っていたとか、都市伝説的な噂が山ほど。

あんまりいい結果が出なくて、いろんな不祥事が報道されたりして、 「神奈川方式」は立ち消えた。今はどうなっているんだか。

教育は投資

「教育は投資です。この学校の授業料は高い。しかし、大学受験が近くなって、 塾だ何だと投資をすることを考えれば、トータルの出費は決して高くない。 結果を出せるように頑張りますから、余計な出費はしないで下さい。」

入学したときの父母会で、担任の先生からこんなことをいわれた。

入学以後も、「君達は投資物件」だとか、「戦略物資」だとかいわれたこと、何度か。

仕方ねえな。俺達はモノかよとか思ったけれど、それでも結構面白い学生生活。

超人的な体力を誇った野球部の連中とか、10万年以上生きている悪魔の先輩の伝説とか、 お笑い要素もたくさんあったし。

当時みたいに、今も教育というものが投資なら、リスクを避けて 高いリターンが望めるものに人気が集まるのは当然で、 その「リターン」を評価するのが「東大合格者数」だけというのは、いかにも寂しい。

営利団体としての学校が、教育という商売のタネをはみ出そうとしたとき、 その人その人が属しているネットワークの格付けと、ネット同士の相互作用の場の提供 という2つの側面を打ち出してくると、面白いような気がする。

格差維持装置としての私学と、格差是正装置としての公立学校との争いなんかも あったりして…。

2006.07.06

父親はどこへいった

悪い話を切り出すのは難しい。

病名がちゃんと分かっていて、悪い予後が避けようもないような病気であれば まだ何とかなるけれど、急変の時なんかは最悪。

一体何がおきたのか。他の医者ならまだ何とかなったんじゃないか。

患者さんの家族は絶対にそう疑っているし、なによりも主治医だってそう思ってる。

理不尽な結果に対するこの怒りをどこへ持っていけばいいのか? 「目の前の主治医は?

この考えかたは全く正しくて、たしかに主治医が無能なのが 一番いけないんだけれど、医療者側としてはとても困る。

誰か「上の人」が現れて、この状況を何とかしてくれないものか。

患者さんを治療するところまでは技術だけれど、 人間関係を何とかするのは無理。結局神頼みだ。

最初は女神様から始まった

宗教が始まった最初の頃は、女神信仰が多かったのだそうだ。

頼めば何でも与えてくれる、現世利益の神様。

人が作る集団が小さくて、産業なんて狩猟ぐらいしかなかった頃は、 多神教的で、偶像崇拝、動物神崇拝を行う自然宗教が当たり前だった。

文明ができて、多くの人が集まるようになると、理不尽なことが 多く目に付くようになる。

農作物の不作。洪水や日照りなどの異常気象。仲間の死。

神様を恨んだところで何もしてくれないけれど、その頃には 宗教の「便利さ」にはみんな気がついていたから、神様の形は変化した。

女神様退場。与えてもらう宗教から試練に耐える宗教へ。

信者に禁欲と試練を強いる父権宗教では、 人間が神に要求するのではなくて、神が人間に要求する。

母なる神が豊穣を与えてくれるのに対して、父なる神は苦難を与える。

何ももらえず、試練に耐えなくてはいけない代わりに、 それに耐えた人は次の世界での幸福を約束される。

何かごまかされているように見えるけれど、神様なんてそんなもんだと思っていれば、 「試練を与える神様」という存在は、案外納得できる。

医療父権主義

パターナリズム、医療父権主義という昔からの医者の立場は、 患者さんが急変したときにはうまくない。

絶対に良好な経過で治る人ならば、「神様は俺様だ」という立場はとてもうまくいく。

ところが、「俺が神様」的な立場は、失敗したときに後戻りができない。

神様を名乗っておいて、いまさらうまくいかないから「人間宣言」しても、 誰も納得するわけがない。

父権者の下の仲間という立場

望ましいのは、患者さんの家族の誰かに「父なる神」になってもらって、 医者はその参謀という立場だ。

問題なのは、「誰が」「どうやって」父権を任命するのかという問題。

子供の親なら誰でも父親になれるけれど、理不尽さを受容、あるいは家族に要求して、 「次」を約束してくれる父権を持った人は、そうはいない。

「昔の父親は強かった」なんていう話はよく聞かれるけれど、 昔と今とで何が違ったのかというと、ムンテラの時に集まる人の数だと思う。

大きな家族の怖さと優しさ

儒教思想の強い某国の人達とか、某田舎の方の患者さんの家族との会話は大変だ。

もう人が集まる集まる。10人とか、当たり前のように人が来る。

人の目線というのは、集まっただけ力を持つ。

10人もの人から見つめられると、着なれた白衣がやけに薄く感じたりする。

急変の時なんかは、修羅場。

何人も集まると、必ずといっていいほど「一族の若者」が遅れて来て、医者の胸ぐらをつかむ。 つかまれたり、怒鳴られたり。最悪パンチが入ったり。

医者と、若者と、一族の中の偉い人と。

  • 医者を吊るし上げることで、若者は遅刻の謝罪と患者への思いを表現する
  • 怒る若者をなだめることで、偉い人は若者を赦し、権威を強化する
  • 医者は全面的にやられ損だけれど、ここはがまんする

人数の多い家族を相手にするのは大変だけれど、たいていの場合は「父権を持った偉い人」 が決まっているから、やりやすいとも言える。

大きな家族の中の偉い人は、それはもう主治医なんて比べ物にならないぐらいに偉いから、 争いがおきない。

「偉い人」を見つけておいて、その人に主治医の恭順の意思をちゃんと伝えられれば、 患者さんが理不尽なことになったとしても、若者に吊るし上げられるだけですむ。

小さな家族は争いがおきる

小さな家族ではこうはいかない。

年長の人、あるいは家族の中に父親がいたところで、その人が「父権」を持っているとは限らない。

理不尽な思いをした人は、それを受け止めてくれる権威を探す。

医者と年長者。どっちが一番偉いのか。

人数が少なくて、グループの中の年長者に十分な権威が集まっていないときには、 主治医と年長者との間に「権威の争い」がおきる。

家長がみんなに権威を示すためには、医者に勝たなくてはならない。

最初から協調の線が潰れているから、どうしても対立せざるを得なくなり、 落としどころが作れない。

対立して、議論に医者が勝ったところで、みんなの理不尽な思いは消えない。

ボトムアップで生まれる父権

父権というのは、誰かから与えられるものではなくて、集団の中に自然発生するものだ。

  1. 理不尽なことがおきたとき、誰もがその理由を探す
  2. 理不尽なことには理由なんかない
  3. 理由のない状態というのは居心地が悪いから、無いなら自分達で作る

大きな人数が集まって、その集団の感じる「理不尽さ」がある閾値を越えたとき、 その理不尽さを受け止めるために「父権者」が誕生する。

ナッシュ均衡からパレート最適へ。

理不尽さを解消するには、個人個人がバラバラにやってたんじゃ埒があかない。

父権者は、みんなの思いを受け止める、「集団の理性」の体現者 として、「みんな」の上に君臨する。

主治医の権威と父権の対立

主治医の権威というのは、「お上」から与えてもらったものだ。

ボトムアップで生まれた権威と、トップダウンで生まれた権威。 2つの権威の関係は、医師と患者との関係を大きく変える。

  • 十分な人数がいて、その人達の尊敬の念が父権者に十分集まれば、 主治医という異物も父権者の下に組み込んでもらえる
  • 数が少なくて、主治医と父権者との力関係がはっきりするだけの権威が集められないと、 主治医と父権者との間の対立が発生してしまう。

父権の大きさは足し算に従う。絶対的な人数と、一人一人が父権者に信託する「権威の量」とが、 その大きさを決める。

核家族化した現在、家族を集めたって、集まる人数は知れている。

父権者のいない家族と、父権者を求めておどおどする主治医。対立は避けられない。

父と子と情報開示

「父権者」に出会う機会はますます減っている。

今はネットワークの時代だから、ひとつの「理不尽さ」に集まる人の数は、 実は昔よりもはるかに多くなっているのだけれど、 誰もが忙しいからその場には集まってこない。

単にナースルームに集まって、話を聞くだけ。

それだけのことなんだけれど、 それでも現場の持つ情報の量というのは大きくて、馬鹿にできない。

情報の少ない人は、遅れてきた若者と同じ。

医者を吊るし上げることでしか集団に参加できないから、対立は深まるばかり。

「父」の復活を果たすために必要なのは、みんなの情報へのアクセスを公平にして、 「仮想的な大家族」を形成することだと思う。

何もかも隠さずに、こちらの情報をどんどん流す。

もっている情報はとりあえず公開するのは当たり前として、主治医がそれを見てどう解釈しているのか。 検査から分かること。分からないこと。成功する自信はあるのか。失敗するとしたら、次はどうするのか。

とりあえず持っているものや思考のプロセスといった物は全部公開して、 あとは相手集団の中に立ち上がってくるであろう「父権者」の理性を信じる。

相手家族との駆け引きは、とりあえず「見せて」から。

見せることを武器にする

情報を隠さなくても、駆け引きは十分にできる。

高校時代によくやった賭けトランプ。 東大にいくような連中は、みんな平気で手札をさらす。

手札を隠さず、その一部をあえて見せてしまうことで、 他のプレーヤーの意志をコントロールする。何度もやられて、いつも負けてた。

力量に十分な開きさえあれば、見せることもまた武器になる。

見せながら操作するのは難しくて、やりかたを間違えるとただの ヘタレな医者にしか見えなくなってしまい、かっこ悪いことこの上ない。

隠すやりかたから見せるやりかたへ。

対立を避けようと思ったら、もう「隠す駆け引き」というのは通用しない。

オープンに出来るものはオープンにして、仮想的な大家族を作って権威者を育て、 その上でその権威に圧倒的に「負けて見せる」。

インフォームドコンセントというのは、きっとこうしたやりかたの延長上にあるんだけれど、 うまくやっている人、どれぐらいいるんだろうか?

2006.05.17

祟りが支配する複雑な世界

同業者以外からは同意が得られないだろうけれど、医者というのは立場が弱い。

強さとは、「攻撃力」×「打たれ強さ」。

病院と言う限られた空間の中では、医師の攻撃力は非常に強い。 職業倫理さえ捨てる気になれば、もうどんな暴言だって吐ける。

ところがそれをやった瞬間、医師の立場もまた地に落ちる。

攻撃力は強くても、打たれ強さはほとんどない。だから「弱い」。

弱い立場の人は、暴力に弱い。法律にも弱い。いいところが無い。

暴力と秩序。この両極端の世界で弱い立場なら、 もう世の中には「強く」ふるまえる場所は残っていないようにも思える。

びくびくと何かにおびえながら仕事をするのは嫌だ。 暴力的でも秩序だってもいない世界、「複雑な世界」には、 まだ希望がありそうな気がする。

複雑さとは何か

世界の状態を、暴力と秩序の割合だけで表現することは可能だろうか?

全くの無法地帯から、先進国の法治国家まで。秩序という点では、 北○鮮みたいな国は相当秩序だっている。 南アフリカのヨハネスブルグみたいな暴力都市は、法律なんか存在しない。

アメリカや欧州はどうか?

独裁国家ほどには秩序だってはいないけれど、無法というにはしっかりした政府を持つこうした国は、 北○鮮とヨハネスブルグの混合比だけで表現するにはあまりにも豊かだ。

世界を表現するには、暴力と秩序の割合だけでは足りない。 その「足りなさ」を補ってくれるのが、 複雑さというパラメーターだ。

あまりにも暴力的過ぎたり、逆にあまりにも秩序だった国からは「複雑さ」が失われ、 結果として豊かにならない。

「複雑さ」とは、安定した状態からの隔たりだ。 法律を守った平和な世界も、暴力が支配する無法地帯も、 「毎日その状態で安定している」という点では、どちらも同じ。

程々に政府が機能していて、一方でそこそこに「ズル」が許されると、 社会には多様性が生まれ、複雑さが増す。

複雑な世界は複雑だから、逃げ場も多い。「暴力」からも「秩序」からも見捨てられた 奴が逃げ込むには、こうした世界が望ましい。

世界に複雑さを付加する「祟り」

複雑な世界では、立場の弱い者のほうが、強い者より「強くなる」。

こんな立場の逆転を可能にしてくれるのが、祟りというルール、 明文化されてはいないけれどたしかに「ある」、そんなルールの存在。

「いい法律」と「いい祟り」、その基準はずいぶんと異なる。

  • 法律は、どうなったら法律違反になるかの基準が明確で、 それが発動すると何をされるのかがはっきりしている。 その法律を破らない範囲なら、そんなものは最初から無かったかのように行動できる。
  • 祟りは、どうなったら発動するかの基準があいまいで、 また祟られたら何をされるのかがはっきりしない。 原則が無いから、その存在を常に意識しないと行動できない。

法律は、強者に優しい。ルールの限界に挑むためには、それなりの勇気と打たれ強さは 欠かせない。強いものは、常に法律ぎりぎりまで行動できる。弱いものは、 その法律の境界のはるか手前であきらめるしかない。

祟りは常に、弱者に味方する。

祟りは「みんな」に信じられることで、その効果を出す。どんな世界でも強者は常に弱者に 数で劣る。「みんな」の信じる祟りの原則は、多数決と公平だ。 弱い人には、祟りは弱い。強い人には、些細なことで強力な祟りがおきる。 強い人は、祟りのそばには近づけない。

祟りを実体化するものは何か

祟りは目に見えない。

その存在はあいまいで、「祟られる」ことで受ける罰の内容も、 その人が想像するしかない。

目に見えないものなのに、祟りは誰の目にも明らかに見える

あいまいである一方で、誰もがその存在を信じられないと、そもそも「祟りルール」は成立しない。

たとえば、「ここでの会話は、24時間録音を続けています」という張り紙は、立派な祟りとして 機能する。

録音するだけ。マイクもレコーダーも見せない。 警察に通報するとか、暴言が出たら弁護士を呼ぶとか、祟りに触れたら何がおきるのかは 一切言わない。 こんな通達を、病院側が一方的に行ったら、これは単なる恐喝。 そんな施設は地域から見捨てられるだろう。

ところが、これを「市民のための医療オンブズマン」みたいな団体との取り決めで、 「言った、言わないを避けるためにこうしましょう」とみんなの合意で行うと、 単なるテープレコーダーが、地域に君臨する祟り神として実体化する。

「いい祟り」の成立条件は、以下のようなものだ。

  • 祟りの根拠となるものが具体的であること。オカルトは厳しい。 たとえば「会話は全てテープレコーダーに録音します」というの具体性がある「祟りルール」だ。 具体的な存在に乗っかった祟りは、いやでも目に見えるようになる。
  • 祟りの効果のおよぶ範囲が見えにくいこと。「警察官が巡回しています」「ビデオカメラを回しています」 といった祟りは、警察のいないとき、ビデオの視野から外れた場所では祟りが成立しなくなる。 「境界」を考察させるルールは、祟りとしては弱い
  • 祟りの罰則は予測可能であるが、その予測には相当な困難が伴うこと。 警察が来るなら、罰則が簡単に読めるから、強い人はその範囲で好きにやれる。「テープレコーダーで録音しています」 だけなら、それを警察に提出されるのか、マスコミに持っていかれるのか、想像するしかない。 想像を刺激する「祟り」は、怖い

祟りの価値というのは、祟りのルールそれ自体にあるのではなく、 それから想起される「もの」の大きさにある。 強い人、背負っているものが大きな人ほど、同じ文章から想起するものの大きさは大きくなる。

いい祟りはその人の強さを移す鏡となる。弱い人は、祟りが「弱い」と予測する。強い人は、実際以上に 祟りの罰則を恐れてしまう。

複雑さのもたらす平等なコミュニケーション

見えない「祟りルール」に支配された会話というのは、複雑性が非常に高い。

会話はもはや、単純な情報交換ではなくなる。言外の会話、非言語コミュニケーション、 無言の持つ意味など、様々な要素が同時進行的にやりとりされる。

お互いに気を使って、「祟り」というものを意識しながらコミュニケーションを行ったとき、 もともと持っている「弱さ」「強さ」は意味を失い、全ての人は「祟り」の下に平等になる

もともと、人は誰でも平等だ。

私が思っているのは、実は人間そのものに強弱はないのではないか、といこと。 違うのは、「力」の有無と強弱。 「なんだ、力があるのが強者で、力がないものが弱者じゃん」というなかれ。「強者」「弱者」という場合、 それは「埋め込まれた」属性だけど、「力があるない」というのは、「後づけされた」属性。 そう。力はすべからく後付けなのだ。 「金持ち」「貧乏」というのもそうだし、「知者」「愚者」というのもそう。それはあなたそのものではなく、 あなたの持ち物にすぎない。また、持ち物にすぎない以上、失うこともあるけど手に入れることもできる。 私が「弱者」という言葉を思考停止だと思う理由がそれ。 404 Blog Not Found:弱いんじゃない、力がないだけだ

祟りというルールは、もともと平等だった人同士が共有していた「平等な世界」のありようを、 もう一度見せてくれるものだ。

神話の時代、誰もが「祟り」という共通の「なにか」を見ていた。 共有するものがあったから、何もいわなくても相手を気遣い、法律が無くても社会はできた。

ザシキワラシの伝説は、祟りルールの大切さを伝承している。

誰にも見えない、いないはずのものを「いるもの」として扱っている家は栄える。 誰もがサシキワラシを大切に扱う。 それが出ていった家、祟りに「見捨てられた」家は複雑さを失い、没落する。

科学が進んで、祟りが世の中から無くなったときに失われたものというのは、 たぶんこうした「誰もがほんとは平等だった」という社会の記憶みたいな ものだったんじゃないかと思う。

平和な救急外来がしたい…。

もとネタにさせてもらったサイトはこちら。 3ToheiLog: いつ撃たれるか不明という圧力のゲーム

2006.05.12

空気の取り扱い説明書

要約

空気は操作できる。

空気を読める人とそうでない人、空気を操作できる人とそうでない人との差というのは、 「空気が扱える」ことに自覚的であるかどうかが大部分だと思う。

基本操作は以下の4つ。

  • 締める
  • 緩める
  • 押す
  • 引く

空気の締め具合、緩め具合を調節するのは以下の3つ。

  1. チームが直面した問題の重要さ
  2. チームメンバー同士の物理的な距離
  3. リーダーの言葉遣いや、身振り手ぶり

「押す」「引く」というのは、プレゼンテーションのやりかた。

  • 「押す」やりかたは普通に要望を伝える。誰でも伝わる代わりに反発も来る。 その反発力を利用することもできる。
  • 「引く」やりかたは、チームメンバーの何割かが知っている「お約束」に訴える。 知らない人は仲間になろうとして、 リーダーの意思に無批判に従うようになる。ギャンブル的な要素が強い。

「空気を読む」必要があるのは、以下ようなケース。

  • 「締まった空気」のときに、チームが抱えている問題以外の話題をしゃべる奴は嫌われる。 問題に関する議論自体は全くかまわないし、リーダーに反対しても大丈夫。 関係のない馬鹿話は、たとえみんなが笑っても「空気が読めてない奴」 とみなされる。
  • リーダーが何かの問題を「引いて」きた時に、その「お約束」の答えを知っているか、あるいは 知ろうとして回りを見渡す人は「空気が読める」。そうでない人は「空気が読めない」。 お約束を知っている人が、その場の1割以下ならばリーダーが悪い。2割以上いたときは、知らない奴が悪い。
  • 空気が緩んでいるときに大事なのは「人気」であって、「読めるかどうか」は関係ない。 「人気」は訓練できないので、緩んだ空気で居心地よく過ごすのは難しい。

締まった空気の「筋」と「弾力」

空気は様々な状況、あるいはリーダーの思惑で締まったり、締められたりする。

締まった空気には、「」と「弾力」が生じる。

普通の状況では、誰もが自由に会話ができる。空気が締められたとき、 話すことができる話題は「空気が締まった原因」に関する話題のみになる。 これが空気の「筋」。

締まった空気の中で、もっとも「空気が読めていない」とされるのは、筋の存在を無視して自由に話す人。

筋に沿った議論自体は規制されない。賛成だろうが反対だろうが、 「空気」が望んでいるのは問題解決のための 活発な議論であって、議論に参加する奴がとがめられる理由は全くない。

問題なのは、議論に参加して来なかったり、全く関係のない話題を話そうとする人だ。

たとえば患者さんの急変。空気は締まる。

このとき、みんなが緊張しすぎてガチガチになると、乗り切れる状況も乗り切れなくなってしまう。

だから、手を動かしながらも、会話には多少の冗談を混ぜる。けっこう不謹慎な話題も多い。 そういうのを振るの、たいてい自分だったけど。

このときに許されるのは、急変の原因に関する議論か、そうでなければ オチが「頑張ろう」という方向に向かう冗句のみ。 全く関係ない世間話、たとえば昨日見たお笑い番組の話題を 振る奴がいたら、「空気読めない」奴とみなされる。

締まった空気は、筋ができるとともに「弾力」を持つようになる。

空気が締まると、基本的にはみんなまじめに話すから、議論も熱くなる。

チームリーダーが何かをやってほしい、あるいは問題解決のためにこうしようといった発言をするとき、 締まった空気の中では反発も強くなる。メンバーからの反発が予想されるような提案、 たとえば「まだ効果のはっきりしない治療を試そう」とか、 「明日から走りこみの距離を伸ばそう」などといった 提案をするとき、空気を締めすぎると反発が強くなる。

空気が弾力を持ちすぎると、リーダーとはいえ自爆する可能性もある。

弾力は、空気の反発力を使う形で生かすこともできる。

  1. チームメンバーの誰かを「イジメ」から保護するのは難しい。 たとえば、学校のイジメで、担任の先生が「○○君と仲良くしようよ…」と 学級会で提案するのは最悪のやりかただ。イジメがひどくなりこそすれ、 改善する可能性はまずない。
  2. チームの規模が小さなとき、保護したい本人がいないところでみんなを集め、 顔と顔をつき合わせて「空気を締める」。陰口を言いあう空気というのは、 たいていの場合こんな感じだ。
  3. 空気を締めたところで、リーダーが保護したい本人を話題にして、 できるだけ口汚い罵りの言葉を吐く。「イジメ」にも越えてはいけない一線というものが あるけれど、リーダー本人がそれを乗り越えてみせる。
  4. うまく行くと、みんなの空気が引く。リーダーに対する「こいつ怒らせたら、 何されるか分からない…」 という反発が、そのまま「○○の悪口言うのやめよう…」という動機になってくれる。

空気が締まったとき、チームメンバーが気を付けなくてはいけないのが「筋」。

チームリーダーが気を付けなくてはならないのが、空気の「弾力」。

空気の締まる状況

チームが抱える問題が大きかったり、深刻だったりすれば、自然に空気は締まる。

個人の意思は事実の生み出す状況には逆らえないし、逆らう理由もない。

状況で締められた空気の中では、単純にまじめに振舞ったり、 あるいはまじめそうに振舞うだけで、十分に「空気に溶け込める」。

気の効いた振舞いかたを考える必要はない。不必要に冗談を言う必要もない。

締まった空気の後では、必ず空気の緩みが来る。

空気が緩むタイミングというのは、問題が解決したか、あるいは問題が解決する までの道筋がはっきりついたとき。

今から緩もう」というのは、本来はリーダーが 明示的に指示するものだ。

空気の挙動としては、これは当たり前のことなのだけれど、 リーダーが「空気が緩む」のを認められない人だと、 みんなが呼吸できなくなってしまう。

このときは、リーダー以外の誰かが空気を破って、空気を緩ませる。

うまくいっているチームには、こうした役まわりの人が必ずいる。 空気を緩めるのはリーダーか、あるいは緩ませる「プロ」の役割。

協定を破るのは、必ず2番目以降に」。空気の密度が変わるタイミングを 生き延びるときの鉄則だ。

空気を「物理」で締める

人と人との物理的な距離が縮まるだけでも、空気は締まる。

病院での「お客さん」たる患者さんや、その家族が集まるときというのは、やはり空気が締まるときだ。

だから、ナースルームで家族の人を交えて話をしているときには、原則として関係ない人も口をつぐむ。

このときの空気は締まっている。締まった空気で使うのは、締まった言葉だ。 たとえば研修医の私語を注意するときでも、患者さんの家族が集まっている前ではきつい言葉を使う。

「きつい言葉」は、研修医の教育効果を狙っているのではなく、 患者さんの家族から主治医に対する信頼を勝ち取ることを狙っている。

締まった空気の中で、だらしのない言葉を使う主治医は、信用を失ってしまう。 締まった言葉を使う医者は、締まった空気の中では信頼される。

その代わり、空気が緩んだ後に、その研修医に対するフォローを忘れると、 今度はその研修医の信用を失うことになる。

「みんなで集まる」というのは、空気を締めるときの基本だ。 会議のとき。陰口を叩くとき。人は必ず集まって話をする。

距離で空気を締めるためには、実世界の中で距離を縮める必要がある。 残念ながら、バーチャルな距離は、空気に影響を与えることはできない。

少し前、航空会社のビジネスマンクラスのCMで、こんなのがあった。

部下:「ところで部長、この出張は何のためなんです?」 部長:「握手するためさ

CMでは一種の「オチ」として使われていたエピソードだけれど、実世界ではこれと同じことは多い。

誰かに何かをお願いするというのは、「押す」行為だ。押しを効かせるには、空気は堅くないといけない。 緩んだ空気をいくら押しても、文字通り空気を押したようにかわされてしまう。

だからみんな、大切な仕事の用事は、お願いする相手のところへ歩いていく。

相手を呼びつけるのではなく、必ず自分から出向く。

この行為というのは、空気を締めるともに、縮めた距離の分だけ、相手に強引に貸しを作る 効果がある。素朴な方法だけれど、「貸しを返そう」という意識は、しばしば非常に強力な武器になる。

言葉で締める

他愛のないおしゃべりをしていた中で、リーダーの語調が急に変わると、みんな驚く。 「何だ?」という驚きは、自然に空気を締める。

リーダー役をやろうという人は、最低でも2種類の言葉を使い分けるべきだ。 普段の親しみやすい言葉と、空気を締めたい時の言葉と。

使い分けの方法は、人により様々なやりかたがある。

  • 普段丁寧語で、締めるときは乱暴な言葉
  • 普段はおしゃべりで、緊張が必要なときには寡黙になる
  • 表情やしぐさを変えて、言葉の調子を変えない人もいる
  • 服を着るとか眼鏡を外すといった、芝居がかった動作も空気を変える

人によっては、2段階どころかもっと細かく変える。大事なのは、それが分かりやすくて、 また誤解を生まないこと。そして、「あざとさ」がなるべく少ない方法を選ぶこと。 だから、言葉の変更だけでは、ちょっと弱い。

実世界での会話というのは、言語それ自体だけでなく、表情やしぐさ、目線の合わせかたや 着ている服など、様々なものから成り立っている。

ネットでは、こうした「言語外の会話」ができない。だからトラブる。

緩んだ空気を支配する「人気」

空気が締まると、空気には筋が通り、空間は均一になる。大事なのは「筋が読めるかどうか」。 「読む」ことは、訓練すれば誰でも出来る。個人の資質は関係ない。

締まった空気の中で泳ぐのはたやすい。緩んだ空気の中でうまくやっていくのは難しい。

解決すべき目的がないとき、人がまばらに散らばっているときに、空気は緩む。 緩んだ空気を支配するのは、「読む力」ではなく、「人気」というもっと得体のしれないものだ。

中学・高校で発生する「人気のヒエラルキー」。俗に「1軍・2軍・3軍」「イケメン・フツメン・キモメン(オタク)」1等と呼ばれるグループにクラスが分断され、グループ間交流がほとんど行われなくなる現象。未だ根強い影響力を持つインドの階級制度、「カースト制度」に酷似していることから名付けられた。 スクールカーストにおけるヒエラルキーは、「人気」を軸に構築される。「人気」とは、「特定の人間関係市場における、その人間の市場価値」である。中高生にとっては、「一緒にいて面白いこと」「外見的魅力に優れていること」「運動能力が高いこと」が至上の価値を持ちやすいため、スクールカースト上位層は、自然とそういった者で占められる。 一般にスクールカーストは、「コミュニケーション能力」を軸に構築されていると思われがちである。しかし、スクールカースト上位階層者の中には「他者をモノのように扱う自己中」「カオを武器に浮気を繰り返す」といった行動に走る者も若干名含まれており、(中略)彼・彼女等を含めて一概に「コミュニケーション能力が高い」と言い切ることには違和感を感じる。 はてな - スクールカーストとはより改変引用

余暇を余暇として楽しめる人でないと、緩んだ空気の中で居心地よくやっていくのは難しい。

「緩んだ空気の中での泳ぎかた」というのが得意な人もきっといるのだろうけれど、 自分はぜんぜんダメ。

戦争さえ始めれば、人々の心はきっと一つになれるんです!!」。

パフォーマーの鳥肌実氏がよく使う言葉だけれど、ときどき真実に思えてくる。

同じ空気の密度を共有する人は意気投合できる

居心地のいい空気の密度は、一人一人異なる。

専門は違っても、好きな密度が同じ人同士は意気投合できる。

最近発売された「第一感」という本の中に、ニューヨークの株式取引所のトレーダーの人と、 海兵隊の将軍達とが意気投合するエピソードが出てくる。

太り気味でだらしない長髪の男達」と形容されるトレーダーの人達は、 米軍基地の用意した作戦演習で、見事な指揮をとったそうだ。

普段は全く顔を合わせる事のない両者だけれど、常に何らかの問題を抱えていて、 限られた情報の中から判断を下しつづけていかなくてはならないという点で一致していた。

彼らが意気投合できたのは、トレーダーも軍人も「締まった空気」の 中で力を発揮するタイプだからだ。

空気の締まり具合と、規則の厳しさとは何の関係もない。

同書の中では、海兵隊の将軍達は、「規則は無視するけれど戦いには勝利する」人物として 描かれる。対象的なのは、「規則は守るけれど戦いには負けてしまう」制服組の軍人だ。

将軍は規則を破るけれど、空気は締まっている。一方制服組は、規則は守ったけれど、 その空気は緩んでいた。だから戦いに敗北した。

たぶん、トレーダーの人たちとも仲が悪いだろう。

プレゼンテーションの「押す」と「引く」

  • 「押す」やりかたは簡単で万能だけれど、全員の賛成を得るのは難しく、必ず反作用がある
  • 「引く」やりかたは使える状況が限られ、効果も一定しないけれど、うまく行くと全員の賛意を得られる

空気は押せる。押すことで風を起こし、人を動かす。

「○○してください」とか、「こうしましょう」といった伝統的な問題提起のやりかたは、 誰でもできるし、どんな状況でも通用する。

そのかわり、押す対象はあくまでも「空気」だ。緩んでいては、いくら押してもしょせんは空気。 「みんな」に漠然と訴えるやりかたは、反動も無いかわり、いかにも効率が悪い。

効率を上げようと思ったら、空気を締めることだ。締まった空気なら、どこを押しても反応が返ってくる。 そのかわり、今度はその反動が強くなる。強く押せば、それだけ反動もきつくなる。

いいやりかたは、空気を緩めておいて、 「みんな」を少数ずつの集団に分けて、個別に「押す」ことだ。

公務員は最も自己責任回避がしやすい職種ではあるが、 それでも名無しで仕事をするわけには行かない。 名前を控えた上で、それをしかるべきところに持っていくというのが、彼らを動かしやすいようだ。 404 Blog Not Found:木端公務員のいなし方より引用

「名無しの集団」から「名のある個人」を切り離して、個別にお願いをする。 そうしておいた上で空気を締めると、「みんな」の中にはいつのまにか「お願い」の釘が 何本も刺さっていることになる。伝統的にはこれを「根回し」と言う。

根回しというのは、「押す」やりかたの効率を最大にして、その反作用を最小限に抑える知恵だ。

公の場での議論や説得での決着というのは、空気をぎりぎりに締め上げた上で、 そこに全力で押し込んでいる。効果はあるけれど、「押された」ほうは疲れるし、 反動も大きい。

たとえば10人の集団がいて、何かの仕事をお願いする状況。

根回しをすれば、10人中8人ぐらいは 気持ちよく動いてくれる。真っ二つに割れた議論なら、動くのは6人だ。反対側に4人回るから、 実際の稼働率はもっと悪くなる。

全員参加を狙える「引く」やりかた

稼働人数を10人全てに持っていける可能性があるのが、「引く」やりかただ。

「引く」やりかたというのは、やってほしいことを明らかにしないで察してもらう。

  1. リーダーが、一見何の関係もないような話を始める
  2. 以心伝心の効いた何割かの人達は、リーダーの意志を「読んで」、動き始める
  3. それ以外の人は、何をしてほしいのか分からない
  4. それでも「空気読めない奴」と思われるのが嫌で、分かったような顔で仕事に協力する
  5. なんとなく納得できないながらも、そもそもリーダーの意志が明示されないから、 反発もせずに全員参加する

風というのは、「吹く」ものではなく「吸引される」ものだ。

空気をいくら押しても、力を加えたほんの一部をのぞいては、 空気は動かない。

自然界の風というのは、気圧の高い部分が空気を押すのではなく、 気圧の低い部分が空気を「吸引する」ことで大量の気体が動く。

空気を引っ張ったとき、実際に「引かれた」ことが理解できるのは、全体の中のわずかな部分。 それ以外の人は、「何かが動いた」ことは理解できても、それが何なのかは理解できない。 でも動く。空気には分子間力があるから、となりが動けば自分も動かざるを得ない。

大切なのは、「お約束」の存在。

  • 「…私の弟、諸君らが愛してくれたガルマ・ザビは死んだ!なぜだッ?!」とギレンが問えば、 当然返答は「坊やだからさ」がお約束
  • 手の遅い上司や同僚がいないときに「今日はなんとなく、気分がいいねー」とリーダーが上機嫌なら、 「今日は議論しないでさっさと仕事を終えましょう」というのがお約束

「お約束」の通じる相手は、最低でも全体の2割以上で、半分ぐらいまで。 みんなが知っている「お約束」は、ただのお願いと同じ。「引く」効果は期待できない。

「引く」プレゼンテーションというのは、集団に雪崩を起こすやりかただから、 話の通じる人は多すぎてはならない。

状況によっては、このやりかたは結構うまく行く。

そのかわり、良くも悪くも「雪崩」だから、 集団の持つエラー訂正機能はほぼ完全に殺される。 リーダーもまた、この雪崩に巻き込まれているから、 行き先を間違えると破滅的な結果になるかもしれない。

大戦末期、無茶な作戦行動に誰も反対できなかったのは、こうした雪崩の作用が 一人歩きしてしまったからだと思う。

事前の情報収集は必須。

たとえば地理関係から戦争戦略を考える学問「地政学」というのは、 「地図の学問ではなく地球儀の学問」という表現が使われる。

地図には、球体である地球を平面化する過程で何らかの歪みが入っている。

歪みの無い正しい情報収集があって、その上で「お約束」を共有できる何割かの仲間がいれば、 集団を「引く」力を上手に利用できる。

人月の神話を成就させる空気の操作

  • 一人でやれば10ヶ月かかるお産は、2人がかりでやったところで5ヶ月にはならない
  • 一人しか入れない、狭くて深い穴を掘るような作業は、 多人数でやろうとすれば、どんどん効率が落ちる

一人では手におえないような大きな仕事があるとき、それを複数人数でやろうとすれば、 人数に比例した効率の低下を覚悟しなくてはならない。

医師の集約化が叫ばれている。

医者は足りないし、医療の質へのニーズは高まる一方。2施設にいる医者を1施設に集めることで、 効率を2倍にしましょう。

うまく行くわけがない。

2施設分の効率を出そうと思ったら、3施設分のスタッフがいる。3施設分の 効率を出そうと思ったら、5施設分のスタッフがいる。

集約化と効率とは、逆比例する。 高価な予算をつぎ込んで「○○救急センター」などを作ったところで、人数を今以上に増やさなければ、 地域の救急のキャパシティーはかえって落ちるかもしれない。

プロジェクトが火の車っていうときに、じゃあ人を足せば問題が解決できるかといったらんなこたない、 むしろ人が少ない方が余計な干渉がなくてやりやすかったりする。 人を増やすだけで問題が解決できるような体制をしくことこそが管理術です。 運用というのは、人数を増やすことで問題を解決するのではなく、”いかに「人数を増やすだけで問題を解決できる」状況を作るか”ということを理解してもらえばいいのかなと。 サーバーを増やすだけで解決できるように努力するのだより改変引用

集まった人の数だけ能力を高めるのには工夫がいる。

集まってくれた人の効率を落とす元凶、人と人との通信の無駄を最小限にして、 人数分の能力を引き出す運用の技術こそが「空気」だ。

空気は、わけの分からない厄介なものではない。 議論のやりかたなどと同じく、本当は再現性のある技術。

基本はここまで。応用はいろいろ。いい方向にも悪いことにも。

2006.05.08

情報の視覚化と祭りの力学

人が道徳に服従するのは、道徳的であるからではない。 道徳への服従は、君主への服従と同じく、奴隷根性からでも、虚栄心からでも、狂信からでも ありうる。それ自体は、それは何ら道徳的なことではない。 道徳的理想の勝利は、他のあらゆる勝利と同じく「不道徳な手段」によって得られる。 嘘、暴力、誹謗中傷、不公正によって。

ニーチェも「にーちぇ」って書くと、ちょっと親しみやすい。なんとなく。

混沌から貴族主義的ネットワークへ

始まりは混沌。

誰もが自分のことで精いっぱい。全ての個体が競争を行う世界。

競争は勝者と敗者を生む。

1回でも勝った経験のある個体というのは、そうでない 個体に比べて、次の競争でも有利になる。

勝利に限界のない世界では、富めるものはますます富む。

混沌とした世界は徐々に分かりやすいものとなり、全体像を把握可能なものへと変貌していく。

「みんな」という視点の登場

時間の経過と共に、熱く混乱していた世界は冷えて固まる。

世界が混乱している頃は、みんなまわりが見えなかった。

世界のどこかには、うまいことやった連中がいるらしい。

分かってはいても、正体が見えなければ考えようがない。

誰もが知っている大企業でも、創業期はけっこう後ろ暗いことをしていた黒歴史が あるものだけれど、昔は誰も気にしなかった。見えなかったから。

誰もが自分の生活で精いっぱいだったちょっと前。バブル景気がおきて、世の中のあちこちから 成金めいた人たちがわいてきた。

知らなければ全くの他人だったバブル紳士も、「知って」しまうと妬ましい。

バブルがはじけ、成金だった人の一部は一緒にはじけた。テレビを見てはいい気味だと思った。 たぶん、みんなそう思っただろう。 そもそも報道されなければ、そんな感情がわくわけもなかったのに。

情報視覚化という仕事

政治やマスコミの仕事というのは、見えない世界の全体像を「見える」ように加工することだ。

全体把握のための、様々な世界プラン。 今まで「全体」なんか見えなかった人は、そのプランに 賛同する人同士で集まることで、「みんな」という共同体を作る。

たとえば、もっとも単純な世界プランというのは宗教だ。

信じるものは善。そうでないのは悪。 信じていればいつか救いがあって、日常生活のごたごたなどは、信仰に比べれば誤差レベル。

単純なものは細部が見えにくくなり、逆に詳しい世界プランは理解しにくい。

マスコミとか、政治家の人たちが提示する世界プランというものは、 古典的な宗教と、実世界の生情報との中間に分布している。

「みんな」の世界の階層構造

  • 世界本来の姿に忠実な可視化プランは分かりにくく、全体像の把握が困難
  • 分かりやすい可視化プランは世界全体の把握が容易になるけれど、作為の介入を避けられない

「みんな」の世界というのは、一種の階層構造をとる。

「いいことがおきれば神様のせいで、そうでないものは全部悪魔の仕業」という 人もいれば、その日の朝飲んだコーヒーの実在について、自分の記憶すら疑う人まで。 高層ビルのような、様々な階層の人が縦に重なる世界。

話をするには、同じ層に立たなければならない。 階層が違う人というのは、基本的には分かりあえない。

人をまとめるのが上手な人は、この階層構造の中を行き来する。

  • 疑り深い人の階層では議事録を残したり、契約書を交わしたりする
  • 人情重視の人の階層では、話の途中で酒を入れ、最後は握手

それぞれの層には、それぞれの言葉や、会話の方法がある。 それを間違えたら、契約はうまく行かない。

様々な層を、自由に行き来できる人は少ない。だから組織はゴタゴタする。

全ての階層を集める「祭り」という装置

それぞれの階層の「みんな」の元に出向いて合意を取り付けるのは大変な作業だ。

それを簡単にやってのける人は少ないから、 なんとか理由をつけて、それぞれの層にいる人達に集まってもらう。

高層マンションの住人を、近所の夏祭りに招待するのに似ている。

祭りというのは、結界を張った「異界」を作って、そこに様々な層の住人を勧請する儀式だ。

神様も、普通の人も、罪人も、同じ空間に集まって踊る。特別な時期に、特別な場所で行う行事 だから、このときばかりは「無礼講」になる。

みんなが食いつくような、新しい世界プラン。それが祭りの場だ。

某巨大掲示板でおきる「祭り」と、盆踊りなどのお祭りは、全く同じ意味。

  • 叩きがいのある敵役が現れたから。
  • 夏が終わって神様が帰ってしまうから。

誰でも乗れるプランがあれば、祭りは始まる。理由なんかどうだっていい。

作る力と探る力

誰もが共通にアクセスできる、世界の生データ。

祭りの祭司はそのデータを加工して、みんなに「祭りのテーマ」を見えるようにする。

世界の可視化と空気の操作というのは大体同じ意味だけれど、 それには「作る」と「探る」の2つのやりかたがある。

古典的な「空気を操る」方法というのは、「作る」やりかた。

社会的な上下関係とか。同じ大学出身だったとか。「あの人は○○派」みたいな噂とか。

「風説の流布」という古典的な方法は、存在しない「関係」というものを無から作り出して、 実世界の地図にそれを重ねる。

中学校の幾何学の問題でも、補助線を追加すると問題が解ける。

正しい作りかたをした風説は、実世界の情報にないものを付け加えることで、話を見えやすくする。 「分かりやすさ」というのは強力な力になる。

もちろん、その「補助線」の引きかたには、術者の意志が入るのだけれど。

「探る」方法というのは、世代的にはより新しい方法。

実世界で流通している「事実」の断片をあれこれ組み合わせて、ひとつの意味を 浮き上がらせるやりかた。

一つ一つの「事実」は実際におきたことだから、これを時系列で分かりやすく並べられると、 反論が難しい。

それでも、それぞれの「事実」を取捨選択して、ひとつの分かりやすい ストーリーへと組みあげていく過程の中では、そこに誰かの意図が入ってくる。

  • 見えないものに「線」を引く、作る力
  • 生データの中から必要なものだけを視覚化する、探る力

想像力と、解析力。両方得意な人は最強。

適切なテーマが作れれば、賛成反対の如何を問わず、「みんな」はその場に集まってくる。

そして名付ける力

「モノ」の根本的な在りようを縛るのは「名」だ。

名づけられないものは、存在しないというのと同じ。

正しいやりかたで「場」ができて、正しいタイミングで「名前」が括られると、 その名前は強力な力を持って一人歩きする。

「正しい」というのは難しい。

科学的に正しいとか、道徳的に正しいといったものは、全然関係ない。

科学を信じる層。道徳を信じる層。科学も道徳も、しょせんはそれぞれの「層」を代表する 概念にしかすぎない。科学的に正しいことは、しばしば道徳的に正しくない。

「正しさ」とは、伝わる力だ。多くの層の住人が食いつく概念は、正しい。 賛成だろうが反対だろうが、それはどうでもいい。大事なのは数だ。立場じゃない。

たとえば「ゲーム脳」。

「科学」層の人達は、みんなこの「名」を叩いているし、「正しい教育」層の人達は、 この言葉を熱狂的に支持している。反対と賛成。立場は全く逆だけれど、 多くの人がこの話題に集まっている。これは正しいやりかたで作られた言葉だ。

  1. 「テレビゲームが子供の脳を駄目にする」というテーマを作る
  2. 「科学」の技法を用いて「科学」の住人を挑発する
  3. 科学的な言葉を用いて、「教育」層の住人の支持を集める
  4. そうしてできた場の力に、「ゲーム脳」という名を与える

祭りの舞台を作るプロセスとしては、この過程はまったく「正しい」。

たとえば、悪だくみで儲けた「ヒルズ族」。

あの巨大なビルが「六本木ヒルズ」などというハイカラな名前でなかったら、 事態は相当違っていた気がする。

法律的に正しいかどうかとか、道徳的にどうかとか、しょせんはその「層」だけの問題。

「祭り」になってしまった本当の原因は、あんなおしゃれな場所に、あんな大きなビルを建てて、 あまつさえ「六本木ヒルズ」なんていう「名」を与えてしまったから。

ビルの名前が単なる「六本木ビル」だっら。事態はここまで大きくなっただろうか?

祭りを回避するために

治すのは医者の仕事。叩くのはマスコミの仕事。

もともと「悪い医者」というプランがあって、多くの層の住人がそれに乗っかって。

出来上がった「場」の力はだんだんと大きくなってきたけれど、 幸いにもまだ「祭り」はまだ始まらない。

この祭りには、まだ2つの要素が欠けている。

  • 「悪い医者」プランに反対する層の参加
  • 正しい「名」がつけられること

「医者は悪くない」とか、「これ以上医者を叩くと…」という言葉は、祭りの場に参加する やりかたとしては全く「正しい」。正しいけれど、参加しちゃうと祭りが始まる。

医者は医者。それ以外の「名」を与えられていないから、「医者」としてふるまっていれば、 他の名前は寄り付けない。

戦うとか、何かをボイコットするといった行動は、「医者」という名の定義の 中には入っていない。

医者を括る「医者」というカバーが外れれば、それはもはや医者ではなく、 白衣を着て医師免許を持った、ただの「存在」にしか過ぎなくなる。

空白の「存在」は、名が無いから守れない。守りのなくなった存在には、誰か他の人に、 新しい名前が付けられてしまうかもしれない。

マスコミと言いう祭司が「正しい」とは思えないけれど、それでも祭りは「正しい」工程で 作られつつある。

日常の継続と不作為の力

起こりうる未来を予見して、「悪い医者」テーマに対抗するのもきっと 大事なのだろうけれど、たぶんもっと大事で、もっと多くの医師がやらなくてはいけないのは、 今までの業務を淡々とこなし続けることで。

日常の継続は、きっと何よりも大きな力だ。

日和見だけれど、ここはやっぱり外せない。

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