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2008.02.29

設計者の「運の良さ」

アポロの番組を見た。

あまりにも多くの運が、あのミッション支えてるの見て感激した。

アポロ8号は、月着陸船のコンピューターが着陸寸前に故障したのに、 気合で何とかなった。

アポロ12号は、大気圏突破する時に雷に打たれて、電気系統 全部吹っ飛ばされたのに、復活して月まで行った。

アポロ13号の不運は映画にまでなった。月着陸船に詰め込まれた、 様々な余剰物資が、あの生還を支えてくれた。 アポロ13が爆発した時、爆発の方向がもしも内側だったなら、 乗組員は瞬殺されてた。運がよかった。

アポロにしても、サターンロケットにしても、あるいはソユーズ宇宙船にしても、 結局成功したプロジェクトというのはこれぐらいしかなくて、 スペースシャトルですら、どちらかというと失敗プロジェクト。 サターンロケットは、20年たって、これからリバイバルかかる雰囲気。

「運がいい設計」ができる技術者というのがいるんだと思う。

何がいいのか、どんな人なのか、全然知らないけれど、 成功したプロジェクトの設計者、アポロ計画のあらゆる幸運、不幸を乗り切る 舞台を提供した、アポロの設計に関与した人たちには、 みんな神様がついてたんだと思う。

あれだけのドラマを抱えて、それでもほとんどの人たちを死なせずに、 地球に返した劇場となったアポロ宇宙船というのは、 やっぱりドラマを見たい神様が、人間に手を貸したとしか思えないぐらいの 神がかった設計なんだと思う。

どうすれば運を味方につけられるのか、見当もつかない。

同業者もまた、運のいい人と、引きの悪い人は厳然といて、 みんな「運」には無自覚だし、運を記述できる人なんていないけれど、 それでも厳然と「運」はそこに存在する。

それは神様が与えてくださるものなんかじゃなくて、あくまでも人が、 自覚的にであれ無自覚にであれ、どこかから、 自らの力で引き寄せるものなんだと思う。

第二次世界大戦中、「運が悪い」将軍は、米軍だと更迭されて、 日本軍だと、「間違ってはいなかった。運が悪かっただけだ」とか、許された。

米軍は勝って、日本軍は負けた。

何かこう、今の科学では認識不可能なものに対する敬意みたいなものが、大事なんだと思う。

2007.09.22

美的感覚が逆転するとき

「相転移」という現象が面白い。環境を決定するパラメーターの変化は常に連続的で、 ゆっくりとしたものなのに、表面に現れてくる変化は劇的。昨日まで何も変わらなかった 日常の連続が、ある日を境に全くの別世界になるような。

技術が成熟して、同じ事をやるのに要するコストはだんだんと安価になって。 成功が重なり、それが成果でなく当たり前のことになり、失敗したときのコストばかりが 加速していく昨今。

たぶん、技術が成熟してくるどこかのタイミングで、「その問題に誰が取り組むのが最善なのか」 を論じるコストが、「その場で使える全員に、同じ問題に取り組ませる」コストを上回る 時が来るのだと思う。

問題の取り組みかたは真逆になる。それまでは、問題を慎重に吟味して、 「最善の誰か」を選んで、その人が問題に取り組む。技術が成熟して安価になると、 「そのへんにいる技術者全員に同じ問題を放り投げて、出来上がった成果の中から、 一番よさそうなものを採用する」やりかたを行っても、そんなにコストが変わらなかったり、 もしかしたらかえって安上がりになる。

発注する人が何も考えなくていい分、後者のやりかたのほうが、 結果が出るのは圧倒的に早い。その技術領域に「競争」が保たれているのであれば、 変化は劇的なものになるかもしれない。

プロセッサーのこと

以下しばらく、適当な理解の上にうろ覚え。間違いのご指摘をいただければ幸いです…。

コンピューター神の一人、D.クヌースがプロセッサーを設計する仕事をしていたとき、 一つの計算に対して、CPU 内の全ての計算機を動作させたときのほうが、 必要な計算機だけを動作させたときよりも、動作が圧倒的に速かったことに気がついたのだという。

CPU 内には、乗算器であったり、加算器であったり、無数の計算ユニットがあって、 2つの数を足したいときには もちろん加算器だけを動作されればいい。ところがこのやりかたには問題があって、加算器だけ 動かして、乗算器に「お前は休め」という命令をくっつけるコストが莫大になってしまって、 速度が上がらない。

「計算機的に正しいやりかた」は、2つの数が入力されたら、とりあえずCPU内の全ての計算機が 計算プロセスを走らせる。出力には加算を行った結果、乗算を行った結果など、 いろんなデータが出てくるけれど、もちろん必要な結果以外は全て破棄される。 一つの刺激でものすごい数の脳細胞が働く、人間の脳にどこか似ている。

こんなやりかたをすると、必要な計算を行った以外の計算機は全て無駄足を踏むのだけれど、 計算のスピードは圧倒的に速くなって、結局プロセッサーを停止させる命令は 組み込まなかったのだという。

道徳的な美しさと計算的な美しさ

門外漢から見ると、こんなやりかたは無駄が多くて、何となく「美しくない」。

どんな正しさが美しいと感じられるのか?。

たぶんこれには一般解がある。

技術の黎明期には、もちろん発想の正しさ。技術がまだまだコスト高で、 その技術を遣っていること自体が売りになっていた時代には、たぶん美しく見えたのは、 プロセスの正しさ。 技術がもっと進化して、それがあって当たり前になってしまうと、 たぶんプロセスの正しさなんか評価されなくなってしまって、「結果の正しさ」こそが美しいと 評価されるようになる。

プロセッサーを設計する人達、あるいはプログラムを組む人達にもきっと美的な感覚というものが あるのだろうけれど、自分達の成果物に対して、「道徳的な美しさ」と「経済的な美しさ」とが コンフリクトおこすことはないんだろうか?

医療の分野なんかだと、たとえば抗生物質の選択。

自分達が研修医だった頃は、「正しく診断して、正しい抗生物質を使いましょう」なんて教わった。

熱が出ている。状態も悪そう。とりあえず、何でもいいから抗生剤使いたい。 こんなときに「とりあえず」なんてやったらむちゃくちゃ怒られて、 まずは話を聞いて診察をして、それから検査やら、培養やら、グラム染色やらを一通り行って、 それからはじめて適切な抗生物質を考えて、点滴をする。大体2 時間。

時は流れて、「細菌は待ってくれない」なんて当たり前の結果が論文に乗っかって、 今ではなるべく早くに抗生剤を使いましょうなんてガイドラインに書かれるように なったけれど、「正しいやりかた」の手順は昔のまま。

自分だって「正しいやりかた」のほうを美しいと感じるセンスが残っていて、 挨拶もそこそこに抗生剤落として、それから考える自分のやりかたは、 やっぱり「汚いやりかた」なんだと思ってしまう。いつかこれが主流になると信じてるけど。

あいまいなものをあいまいに処理するやりかた

物事を前に進める「科学」と、科学者が作った成果物を実世界に応用した「技術」と。

技術はきっと、「扱う問題の複雑さ」と、「問題を解決するのに必要な理解の深さ」で いくつかに分類できる。

医療なんかはたぶん、問題は常にあいまいで、問題の解決には、もしかしたら 医学に関する深い理解は必ずし必要としない。

あいまいなものをあいまいに処理する場合、それを確実な結果につなげるためには、 早さを重視しないといけない。あいまいな問題は、時間と共にその形を変えてしまうから、 時間をかけて「本当に正しい答え」を見つけたところで、それを適用する頃には、 問題の形が変わってしまう。

「深く正しく考えて、正しいことを行う」やりかたは、道徳的には正しく、美しいけれど、 結果の確実さだけを評価する立場からは、そのやりかたは正しくもなければ美しくもない。

「正しいやりかた」を疑い続けること

プロセスに価値を見出さず、結果に価値を見出す立場。 医療なんかだと、診察も、診断も、それどころか病気をおこした原因にすらも価値はなくて、 意味を持つのは治療手段のみ。

  • 同じ治療で治癒する病気は、そもそも疾患名を分ける意味はないし、 診断をつける意味がないのなら、たぶん何となく抗生物質の使用を決断した時点で、 それ以降の診察やら検査やらはすべて無駄なものとして評価される
  • 同じ疾患名であっても、ある治療に効果があるものと、そうでないものとが あるのなら、それは本来違った疾患として扱われるべき何か。どんなにコストが高くても、 そんな検査があるなら真っ先になされるべきだし、今度はその検査技術をコストダウン する手段を考えないといけない
  • 「治療のスケール」という考えかたが必要になる。極端な話、「熱が出ない、喘鳴を伴った呼吸不全」 の治療というのは、喘息の治療と心不全の治療を同時に行えばいいだけの話。 それぞれの診断名ごとに最適な治療を行うならば、両者の治療は一部かちあってくるけれど、 治療を「甘く」していいのなら、2つの治療手段を同時に走らせて、一切の検査を省略しましょう、なんて 話が出てくるはず
  • 治療スケールごとに「同じ治療」が許される病気であるなら、その中では鑑別診断は不必要だし、 たとえば胸部の聴診であったり、レントゲン写真やら、血液検査やらといった評価も不必要になる。 逆に、スケールをまたぐ疾患を見分けるために、たとえばCTを頭から腹まで撮る必要があるのなら、 技術を投入すべきはCTを安く施行することであって、より確実な診断をつける技術は必要なくなる

技術にはいろんな「正しさ」があって、技術に対する考えかたの違いによって、 一番ふさわしい正しさが変わってくる。

医療はたぶん、まだまだプロセスの正しさが一番重要視されていて、 今でもよく論文になるのは、「時間がかかるけれど、より正確な診断ができる」検査手段であったり、 今まで同じやりかたで治療していた病気を2つに分けて、 特定の人にもう少しだけ良く効く治療手段であったり。 技術は微細化、タコツボ化しているけれど、あいまいにいってもいいところを厳密にやろうとしていて、 何となく回り道。

「正しい診察、正しい診療の先に正しい結果が出現する」みたいな確信を疑うのが大切なんだと思う。

システムをどんなに理解したところで、システムの生む結果をコントロールするのは不可能だけれど、 システムの撹乱に気がつくのは案外容易だし、撹乱した先の結果を確率論的に読むこともまた、 システムをそんなに理解していなくても可能。

望ましい結果を生むのに大切なのは、たぶん対処の早さと大雑把なものの見かた。

訴訟のプレッシャーと包括支払い制度の導入は、 診断学、あるいは診療そのものを書き換えるかもしれない。

医療を取り巻く環境が変化するならば、医療もまた、 その環境変化に最適化していかないと生きていけない。

世界はそう、美しくあらねばならない。最適化した果ての美しさがその人の美学を響かせないのなら、 もはやその人の居場所というのは、その世界にはもう存在しない。

あいまいなものをあいまいなまま処理するやりかた。1日待って、成功率9割の治療を走らせるなら、 その場ですぐに成功率7割の治療を2つ走らせるようなやりかた。非効率で、不恰好で、 頭を使わない、むしろ「医師が頭を使うこと」それ自体を害悪とみなすような、そんなやりかたをこそ 「美しい」と感覚する医師がこれから出てくるのなら、医療もきっと、そろそろ相転移の時期。

こんな流れになったら、もちろん医師の地位なんて地に落ちて、 医療を前に進めるのは、医師よりもむしろ理学部の人達のお仕事になって。

自分もきっと、間違いなく置いてけぼりにされる側なんだけれど。

2007.08.28

安心を記述すること

ドッグフード、添加物の入っていない、安心して使えるようなものを いろいろ探しているんだけれど、なかなかいいものが見つからない。

子犬だし、そんなに量食べないからコストは度外視でいくにしても、 ドッグフードには安心に対する需要がそんなに無いからなのか、 どれも今一つ。

「安心」をうたいながら添加物たっぷりだったり、「安全」うたって人気集めて、 その実何がどう安全なのかの説明無かったり。

「無添加」を売りにしている国産のフードが あって、そこが最近高級品を出した。

購入してみると、それはやたらときれいな色のフードで、 「無添加」を売りにしていたパッケージは一新されて、 「安心」「信頼」の文字は躍っても、「無添加」の文字は消えていた。

メーカーに問い合わせて見ると、添加を止めたはずの防腐剤は復活していて、 高級感を出すためなのか、発色剤も新たに採用されていて。

「今までのグレードには添加物は使っていません」なんて返事をいただいたけれど、 漠然とそのフードに抱いていた安心は霧散して、どうしていいのやら。

可能性と公算と

例えば「北○鮮が今度こそミサイルを発射するらしい」なんて情報があったとして。

  • あの国にはそれだけの技術があるとか、最近某国から有名な技術者を招聘したとか、 技術的な側面というのは「可能性」
  • 今は外交的に安定しているから発射する動機が無いとか、アメリカに援助打ち切る動きがあるから、 たしかに今発射する意味が出てくるとか、社会的な側面をも加味したものが「公算」

安全と安心。

安全というのは技術的に達成すべきもので、可能性で論じる概念。安心というのは公算。 技術が達成した「安全」を、今度は社会的な立場、あるいは心理的な立場から 査定して得られるた結果が「安心」。

安全を達成する技術ができて、それが正当な評価を受けて安心ができるというのは 理想だけれど、安全というのは、上を見はじめたら際限がなくて。

妥協できる安心というのは、「これなら安心」という公算と予算とがまずあって、 その中で安心を担保しうる妥当な安全率が決まり、それに必要な技術目標が決まる、 そんな流れで作られるはず。

予算の限られた実世界で安心を担保するには、結局のところ「安心とはなんなのか」を ユーザーが決定しないといけない。

論理は安心を記述できるのか

安心というのは、「論理が及ぶ範囲ではこれ以上は何もしないで大丈夫」みたいな、 論理の上位に位置する概念。

だから、「これで安心」というものを論理で考えようとすると無理がある。 論理で記述される対象が、その論理を超越することになってしまい、 安心の定義に矛盾を生じる。

安心というのは、こんな天井知らずの概念だからこそ、どこかで思考停止するポイントを作らないと、 論理が破綻する。

定義無しに「安心」を実現することはできない。

「安心なドッグフード」を定義無しに実現しようと思ったら、 工場に運び込まれる全ての材料をチェックしないといけないし、 製造者が違反をしないよう、誰かがつきっきりで見張らないといけない。 「安全です」なんて報告をもらったところで、今度はその監督者が不正をする 可能性だって考えられるから、つき詰めればつき詰めるほどに安心は遠のいて、 コストばかりが高まっていく。

ドッグフードの安心を考えるときに、たとえば「色が悪くて3日で腐るようなフードは安心」 のような安全の定義を無批判に受け入れられるならば、話は相当簡単になる。

こんな定義を受け入れる人が一定数出てくるならば、その人達相手に商売を行う分には、 業者には添加物を入れる動機がなくなる。その定義が本当に安心を記述しているのか どうかはともかく、こんな定義をとりあえず無批判に共有できるならば、 その人たちが添加物のないフードを手に入れられる公算は相当高くなる。

安心記述の考えかた

それは例えば柱やボルトの太さであったり、その原子炉を設計した技術者に まつわる伝説であったり、あるいはブランドに支払ったお金であったり。

いろんな業界、いろんな考えかたをする人達ごとに「安心を記述するために思考停止した何か」 というものがあって、みんなどこかで思考停止を行っているからこそ、 不安だらけの世の中でも何とか回る。

論理の範囲でいくら考え抜いたところで、安心は絶対に手に入らない。 ところが論理を逸脱した何か、たとえば「山崎パンを食べて死んだ奴はいない」 なんて前提を受け入れることさえできるなら、そこには食品添加物を使った食品という、 安心を伴った広大な世界を手に入れることができる。

建築とか原子力とか、あるいは証券やら信用取引やら、そんな「安心」が 強く求められる業界に住んでいる人たちが前提として受け入れている 「安心記述」を教えてほしいなと思う。

自分達が提供している安全を担保する技術、それを社会的、心理学的にも 受け入れてもらえる「安心」へと転換するための前提条件が安心記述というもの。

医療の業界にはこれが実装されていないか、あるいは医学が進歩を続けてきた 過程の中で失われてしまって、病院業界の中の人、あるいはそれを監督する人、 どちらも安心の定義が分からないから、予算をいくらかけても安心は得られない。

突っ込める予算が限られている以上、安心を得ようと思ったら、 何かの前提を受け入れることを避けて通れない。

世界に無数の宗教があるように、世の中のいろんな立場の人たちが、 自分達の安心記述を相互参照すれば、ある程度の人が納得できる安心記述というものが いくつか出来上がるはず。

それぞれの安心記述ごとに、その定義の中で実装できる安全を模索できれば、 病院の安全というものに多様性が生まれ、選択の範囲が広がる。

「前提の受容」と「安全の選択」。こんなプロセスを患者さんサイドに発生させられれば、 それだけで今みたいな訴訟の泥沼が、いくぶんかでもましになると思うんだけれど。

2007.08.17

安全工学と技術の癌化

技術が成熟していくと、技術それ自体が生み出す富よりも、 その技術に対する間違った期待感とか、技術者の名声に対する 盲目的な信頼なんかを利用した商売のほうが、圧倒的に大きな利益を生むようになる。

ノイズがシグナルを駆逐する

「たらいまわし」なんて言葉が生まれた大昔。夜間に救急外来を開いている病院なんて ほんの一部で、救急当直は戦場のような騒ぎ。一晩たって朝日拝んで、 気がついたら白衣血まみれだったりして。

就職したのは10年ぐらい前。この頃には病院も大きくなっていたけれど、 救急の現場にはまだまだ人が足りなくて、夜中になっても患者さんが列を作った。

救急に来る患者さん達は全てが「本物」。みんな具合の悪い人ばかりで、 待合室で人が亡くなったり、診察している最中に、 真っ青な顔した別の患者さんが倒れこんできたり。

様子がおかしくなったのは、仕事を始めて3 年目ぐらいのこと。

大きな公立病院が夜間救急を始めるようになって、 「救急外来」というものが、いろんな人に認知されるようになって、 患者さんの質が変化した。

「主訴:入院希望」 「主訴:飲みすぎ」

緊張しながら救急受けて、救急車のドアが開いたら、元気そうに歩いてくる人達。

最初のうちこそ笑って流せたけれど、そのうちだんだんとこんな人達が増えてきて、 救急外来のお仕事は、「診察」から「選別」へ。

「元気な救急患者」の人達はサービスにもうるさくて、こんな人達の影に隠れて、「本物」 がやってきて、病院で急変する。「本物」見逃してトラブルになって、 元気な人にたまたま病気見つけて、入院の話を切り出したら、 「お前は薬だけ出してればいいんだ」なんて、またトラブって。

12年目。

  • アメリカで成功した消火器内科の先生は、日本に凱旋帰国して、サプリメントを売りはじめた
  • がん患者さんの塞栓治療を専門にやっていた先生は、 治療効果が期待できない末期がんの患者さんだけに商売を絞った
  • 消火器外科の華、高難度だけれど成功すれば治癒が見えてくる「膵頭十二指腸切除術」は、 何度が高いわりには患者さんの満足度が得られなくって、やる人がほとんどいなくなった

技術の「シグナル」、技術が恩恵をもたらすはずの受益者は、今では文句やリスクばっかり。 「ノイズ」であったはずの人々、その技術が対象としていなかったり、 技術者の持つ技術じゃなくて、その肩書きとか、その名声なんかに興味を持つ人たちが、 シグナルに代わって利益をもたらした。

昔鍛えた「ノイズの中からシグナルを見出す」技術は、今では診療リスクの高い 「シグナル」を除外するために大活躍。

病院では、小児とか、若い人の急病は歓迎されない。大きな病院でもなかなか受けてくれない。 羽振りのいい近くの病院は、「元気な寝たきり老人」なんかを大量に入院させて、病棟をブン回す。 その人達が具合悪くなって、「ノイズ」が「シグナル」を発するようになったなら、 間髪入れずにうちみたいな施設に転送依頼。

技術者の楽園だった業界に、技術を理解していない人達が土足で踏み込んで、 その技術を本当に必要としている人達を「楽園」から放逐してしまう。

ノイズがシグナルを駆逐する。技術が成熟していく過程の中で、 技術 - ユーザー間の関係が変化して、目標を見失って迷走した技術は、 その技術が本来想定していなかった人たちに、何の意味もない成果物を 売りつけるようになる。

技術の癌化。こんな現象はたぶん、 大体同じ時期に、いろんな業界でみられているはず。

技術の癌化を生じた「安全」

  • それが誰かの役に立つこと
  • 「パズル生産性」が高いこと
  • 外界から隔絶されていること

医療を含めた様々な技術業界は、たいていこんな条件を満たしていて、 それぞれの業界が外界から隔離された「細胞」として、お互い弱いところを補間しあって、 「理系」という一つの生態系を維持してきた。

生体組織を作っている細胞のどれかが癌化すると、周囲の細胞もその影響を受けて、 そのうち生体を維持することができなくなってしまう。

技術系の業界を迷走させる原動力になっているもの、漠然と「市民」的なとしか 表現できない得体のしれない力を生じたのは、たぶん「安全という技術」の癌化なのだと思う。

「安全」は役に立つし、実世界を見渡すだけで問題山積み。学者が食べていくための「パズル」の 量には不足がなくて、いいことづくめ。

「安全の癌化」の原因となったのは、恐らくは言葉の問題。「安全」を記述するための言葉は 耳にやさしすぎて、安全工学にかかわる技術者と、そうでない人達とを隔てるのに 十分な力を持てなくて、非専門家の進入を容易にしてしまった。

十分丈夫な細胞膜を持てなかった安全工学は、それゆえに感染を生じて癌化してしまい、 安全と責任というキーワードはすべての技術者にとっての抵抗できない弱点となって、 いま「理系という生物」全体が揺らぎつつある。

  • アメリカの麻酔科医は、手術前に患者さんの胸部単純写真や心電図を見ないで、 それを読影した専門家のサインだけを確認する。実物を一目見た時点で、 それに対して責任を生じてしまうから
  • ワクチン接種を広めようにも、学校は「ワクチンのお知らせ」を配ってくれない。 これもまた責任問題。お知らせ配ろうと思ったら、医療者が学校にいって、自分で配布するしかない

安全問題が難しいのは、「間違わないようにする」なんて本質を把握するのが 一見簡単で、そのくせ絶対避けられないヒューマンエラーとか、未来予測が 確率論的にしかできない人体であるとか、コストの問題であるとか、 実体としての安全を実装するのに要する技術が恐ろしく複雑であること。

本質と実体との乖離が激しすぎて、技術者が本来の技術の受益者を見放してしまう構図が 癌化という現象。

たぶん医療だけではないはず。

「癌化した安全」を治療するには

癌細胞の治療手段というのは、大雑把に外科的に切除するか、 内科的に何とかするか、どちらかのやりかた。

切除した組織が持っていたニッチは、周囲組織が代替手段を提供したり、 あるいは医師が薬で何とかしたり。

外科的なやりかたを行うなら、それは市民団体の言うがままに制度を作って 大事故をおこしてみせるとか、マスコミ様が病院叩いて、気がついたら救急医者は 一人も残っていませんでしたなんて、ひどい結末ばっかり。

もしも「化学療法」を実践するなら、それは要するに分裂毒の注入。 「シミン」の活躍で誰が利益を得ているのかを明らかにしてみたり、 市民団体を支援する人達の人格攻撃を行ってみたり。 何をやるにしても、あんまり楽しくないやりかた。

内科にはもう一つ、「癌細胞と共存する」という考えかたがあって、 これは癌細胞に流入する微小血管を ターゲットにする治療方法。

癌細胞が成長するにも血流が必要で、 癌は周囲血管組織から微小血管を誘導して、自分が増殖する血流を得るのだけれど、 血管新生を阻害する薬を用いることで、癌の増殖だけを止めるやりかた。

作用は限定的で、効果のある腫瘍とそうでないものとがあるけれど、 副作用が少なくできそうで、いろいろ試みられている分野。

「癌化した安全」の成長を止めようと思ったならば、 いろんな技術畑の人達が、自分達の言葉で 安全というものを記述して、それを発信すべきなんだと思う。

立場が違っても、そこにはきっと共通する何かがあって、 それは決定論よりも確率論に重きをおく立場であったり、 安全確保とコストとの天秤を頭に思い描くセンスであったり、 多様性を拒むやりかたよりも、冗長性を美しいと思う感覚であったり。

対話の力なんてもうほとんど残っていないのだけれど、 狂信者じみた議論をぶち上げる市民団体を笑うだけでは、 やっぱり癌の進行は止まらない。

精神論とか、人間ドラマとか、安全とか責任といったものを面白おかしく 報道する人達と、工学としての安全を育ててきた人達と。最後は結局物語の勝負。

実世界を記述する言語としての科学の力は、ちゃんと使えば、 マスコミが描く人間ドラマなんかよりも、よっぽど面白いはずなんだけれど。

2007.03.03

いやな予感の伝えかた

集中治療室の仕事というのは、人間と機械との共同作業。

集中治療室の患者さんは、体中センサーだらけになってベッドに横になる。 患者さんは意識がなかったり、呼吸器につながれて鎮静されていたり。 体中電線だらけ、機械だらけ。診察もろくにできない。

集中治療室では、センサーが伝えてくれる数字の情報が頼り。 リアルタイムで変化する数字をモニター画面で追っかけながら、薬を調節したり、 人工呼吸器を調節したり。

「数字だけ見て何かするだけなら、この仕事は、完全に自動化できるんじゃないのか?」

みんな一度は考える。実際、インテリジェントICU の実験は論文になっているし、 人工呼吸器制御のインテリジェント化はもう実用にもなっている。

個人的には、これは絶対使わないだろうなと思う技術。

機械には致命的な弱点があって、それが克服されるのは、残念ながらもう少し先。 フィードバック制御をかけて、人体のいろんなパラメーターを 正常範囲に保つことだけならば、 たぶん人間よりも機械のほうが上手だけれど、患者さんを黙って見ていて「何かヤバそうだ」 と予感することだけは、人間じゃないと無理。 集中治療室はこれをやるために医師がいるし、 実際役に立っている。

患者さんが急変するその直前までは、患者さんの血圧や脈拍、 酸素濃度といったセンサーが伝えるいろんなパラメーターは、ほとんど変化しない。 そんな変化のないデータの流れを見て、機械が「患者さんは安定している」と判断するとき、 人間は「なんだかいやな予感がする」と危機を予感する。

こんな予知を可能にしているのは、人間が、患者さんの現状維持に 要した努力の積分値を「疲労感」として体感できるからなんじゃないかと思う。

たとえば、同じ血圧を維持するのにも、何もしないで勝手に安定する患者さんと、 何分おきかにいろんな設定を調節しないと不安定になる患者さんとがいる。

機械は疲れないから、血圧が安定して維持出来てさえいれば、黙って維持を続ける。 人間は疲れる。不安定な人を管理すると、もっと疲れる。 その疲労感を「なんかおかしい」という危機感として体感でき、急変を読む。

表に出てくる数字だけを見ていたのでは、予感は絶対に伝わらない。

国立循環器病センターのICUが崩壊したけれど、現場を維持するために払われていた 現場の努力というのは、きっと疲れない人達から見れば単なる「定常状態」としか 写らなかったんだと思う。おこった事はまさに急変だったけれど、事務方でそれを予感できた 人はいなかったのだろうか。

自動操縦の飛行機は落ちた

ずいぶん前、中華航空のエアバスA300 が着陸途中で墜落する事故があった。

パイロットが自動操縦を切らずに着陸動作に入ろうとした際、エアバスの 自動操縦装置が水平飛行を維持しようとしてパイロットの操作と競合してしまい、 パイロットの「下降」操作にもかかわらず、機種は下がらなかった。

パイロットが着陸をやり直そうと操縦桿を「上昇」に入れた瞬間、自動操縦と パイロットの操作がいきなり協調してしまい、機体は急上昇して失速、墜落してしまった。

これは機械と人間の相互信頼が招いた事故。 パイロットは自動操縦を信頼し、自動装置もまたパイロットを信頼して、 お互いの動作が競合していることを相手に知らせなかった。

お互い「上手くやっているんだろう」と 連絡を取り合わないで、自分の仕事だけを続けていると、いつか大事故になる。

ところが、コミュニケーションをルールで強制するのは難しい。

自動装置がいちいち補正量を申告して、パイロットの許可をもらうルールにしてしまうと、 手間がかかって自動操縦の意味が薄れる。アラームだらけの操縦装置を作ったところで、 そのうちアラームがだんだん無視されるようになって、根本的な解決には至らない気がする。

「機械と人間との健全な相互不信」をうまく維持するシステムというのは、 バックグラウンドで行われている速度や方向の補正量を「コンピュータの汗」として統合して、 それが一定の閾値を越えた時点で「何かヤバいよ」というメッセージを乗組員に伝えるシステムだと思う。

飛行機はたしかにまっすぐ飛びつづけているのに、自動制御の仕事量が、この1 時間やけに忙しい。

「なんだかいやな予感がするよ。一度人間側に制御返すから、それを体験してみてよ」

機械がこんな反応を返してくれたなら、なんだかいい関係が続けられそうな気がする。

機械にも誤作動はあって、「いやな予感」は外れることも多いし、 場合によっては機械の故障が「予感」となって出てくるかもしれない。 「予感」を伝える機械というのは、お互いが自分の仕事をこなしながらも、 機械と人間とが、きっと同じ危機感を共有できる。

こんなシステムを作るときに問題になるのが、様々な制御を「機械の疲労感」として 統合するやりかた。バックグラウンドで行われている様々な仕事をどうやって重み付けして、 どんな数字でそれを表現して、閾値がいくつになったら「予感」として表現するのか。

このあたり、医学や生物学が役に立つかもしれない。

胎児性心拍の話

人間の脳は、心拍数を使って「予感」をアウトプットする。

患者さんが亡くなる寸前というのは、脈拍数が機械のように一定になる。

心電図モニターすらない大昔、診察といえば「脈診」だった頃の医師というのは、 脈拍のごくわずかな変動を知覚して、それが消失するときを「危ない」と感覚したのだそうだ。

生まれたばかりの子供の脈もまた、機械のように一定のリズムを刻むため、 こんな脈拍のことを「胎児性心拍」というのだという。

心拍変動というのは本当にある。たとえば1分間に80回で脈拍を打つ人が大きく息を吸い込むと、 脈波わずかに遅くなって、79回ぐらいになる。息を吐き出す瞬間、 今度は脈はわずかに早くなって、81回へ。

1分間脈をはかって、呼吸に合わせてだいたい12回から15回、 脈拍はわずかな変化を周期的に繰り返す。

心電図を1日記録して、脈拍変化をフーリエ変換すると、こんな変動が2つのピークとなって現れて、 人体に実装されている2つの自律神経、交感神経と副交感神経との 興奮バランスを評価することができる。

亡くなる寸前の人、生まれたばかりの子供というのは、見た目落ち着いていても、 バックグラウンドでは交感神経が活発に活動していて、体の制御に一生懸命。こんなときには 心拍の呼吸変動が消失してしまうので、脈拍を読んで危機を予感することができるらしい。

手先の感覚だけでこれをやるのはあまりに微妙すぎて、自分には無理だけれど、こんな話を利用して、 たとえば心不全の患者さんで突然死を予測しようとか、いろいろ応用されている。

ゴーストのささやきを感覚するまで

新人研修医は疲労を知らない。休まない。寝る必要もない。病院では昔から、そういうことになっている。

救急外来に来たばっかりの研修医は、心肺蘇生しながら担ぎこまれた 患者さんに「どうしましたか?」なんてインタビューをはじめたりする。

病棟デビューしたばかりの研修医にとって、彼らにできる最良のことというのは、 手順書を守ること。教科書に書いてある診察の手順は「まず挨拶から」と書いてあるから、 ある意味これはしかたがない。機械と同じ。

新人は手順を学んで、手順に従う。ベテランは手順を学んで、その上で予感に従い、手順を破る。

新人が、心肺停止の人に手順どおりに挨拶をしている傍らで、ベテランは、挨拶もしないで CPR を始めたりする。理不尽な思いを繰り返して、疲労することを覚えて、 みんなと予感を共有するようになった新人は、危機を読めるようになってようやく一人立ちする。

エビデンスとかガイドラインとか、現場を見ないで統計に乗っかる数字だけを愛好する 人達が作った「真実」が一人歩きする時代だけれど、それを単純に鵜呑みにしないで、 危機感覚とか、内なるお告げみたいなものを大切にしてほしいなと思う。

研修医の人達は、誰かが大切そうなことを伝えようとしたとき、少しだけ考えてほしい。

「これは直感が正しいと告げる考えかたなんだろうか? あるいはこれは、エビデンスやら、統計やら、それを信じたい人たちが勝手に作り出して、 そう信じるよう仕向けたものなのだろうか?」

そして、誰かが何かを本当だと言うとき、こう尋ねてみたらどうだろう。 「あなたの直感は、それが正しいと告げているのですか?」 と。

2007.01.17

信頼性と冗長性

ネジやビスみたいな部品から電子機器まで、メディカルグレードというのは いつも一番の高級品で、それに続くのが軍用規格。大分安くなって、汎用部品。

現代の宗教「ピュアオーディオ」業界では、医療部品がよく使われる。 昔、アンプの入力段にNECが出していたメディカルグレードの トランジスタが「音がいい」という評判になって、それが1個1500円だか、1800円だか。 同じ型番の汎用品だと、1個当たり30円ぐらい。

信頼性には本当にお金がかかる。

壊れる人工呼吸器

人工呼吸器というのは、医療機器の中では安いほうだけれど、 高信頼性部品の固まり。呼吸器1台600万円とか、800万円とか。

この数年、技術的には相当進歩した機械が出回るようになったけれど、信頼性は落ちた。

内科が昔から信用しているのは、ベネット7200という呼吸器。 旧式で、大きくて重くて使いにくいことこの上ない機械だけれど、 何があっても動きつづける。

「自分が挿管されたら、この機械をつけてね」という呼吸器の先生、けっこう多い。

最新の機械は壊れる。

壊れるといっても2年に1回とか、ごくまれな頻度ではあるけれど、 それでも「壊れたのをみたことがある」 というだけで、今までからするとありえないぐらいの高頻度。

  • 古い呼吸器は構造が簡単で、そもそも壊れない
  • 世代が古い機械は「枯れて」いるから、壊れそうなところは改良済み

原因はいろいろ。いずれにしても新型の呼吸器は本当に便利になったけれど、 出回って10年ぐらいたった奴のほうが、やっぱり安心。

人間というセキュリティホール

機械に責任はなくても、呼吸器を分解洗浄して、もう一度部品を組むのは人間。

昔病棟で使っていたのは、ドイツ軍のガスマスクなんかも作っている 某社の呼吸器。800万円ぐらいした、今でも最新スペックのやつ。

病棟で使おうとすると3回に1回は絶対に動かなくなって、 「ユダヤ人の呪い」なんていう不謹慎な冗談の種にしていたけれど、 呼吸器を使うときというのは病棟がパニクってる時だから、 機械に裏切られるとダメージ大きい。

「この機械、絶対呪われてるから調べて下さい」

何回か業者の人に調べてもらっても、機械はノートラブル。

不具合というのは、分かってしまうと単純なことなんだけれど、事前に予見するのは本当に困難。

原因になっていたのは、呼吸器回路の部品が正しく組まれていなかったことだった。

使い終わった呼吸器回路は、医療材料部のオバチャンたちが洗って滅菌して、もう一度組み直す。 部品は中に隠れてしまって、外からは確認できない。滅菌から帰ってきた回路は「きれいに」 見えるから、病棟側も無批判に信頼してしまう。で、鉄火場になってこの回路を使って、 大騒ぎになっていた。

「裏切る」機械であっても、裏切りかたのパターンが見えたり、 「こいつは裏切る」というのが分かってしまえば対策はできる。

試運転を最低10分ぐらいやっておくとか、急変の時には常に2台の呼吸器を準備して、 1台目が今一つだったらすぐに次をつなぐとか。使いこなしで、「呪い」は解けた。

価格と信頼性は比例する

アメリカで企業の再編があって、呼吸器は相当安価になった。

技術的に進歩したものは価格が上がって当然なんだけれど、最近の呼吸器は どんどん安くなっている。以前より小型軽量になって、性能そのまんま、値段半分なんてザラ。

何がそうさせたのかを聞いてみると、部品のグレードを抑えたらしい。

部品の信頼性というのは、一種の宗教。「この部品は10万回に1回しか誤作動しません」と 言われたって、そもそも汎用品が誤作動するところだってみたことがない。 「壊れません」の言葉ひとつで値段100倍とか、医療用の高信頼部品にはよくあって、 新しい世代の呼吸器はそのあたり、割り切っているらしい。

今いる病院の呼吸器は安くなったものばかりだけれど、今のところは壊れていない。 もともとが壊れにくく作っている機械だけに、一人の医者の経験程度では、 部品のグレード差を実感できるのかどうか。

信頼性と冗長性と

100回に1回故障する機械の信頼性を、1万回に1回レベルにまで向上させようと思ったら、 取れる戦略は2つ。

  • 個々の部品の信頼性を上げて、「1万回に1回」を達成する
  • 同じ機械を2台セットで販売して、「壊れたらもうひとつを使ってください」とお願いする

部品一つ一つを改良するのは大変。機械の信頼性は、それを構成する全ての部品の中で、 一番壊れやすい物が決定してしまう。機械の信頼性を上げようと思ったら、 全部の部品に「高級品」を使わないと、コンポーネントとしての信頼性は上がらない。

冗長性戦略は簡単。同じ製品2台で、値段が2倍になるだけ。

たぶんどこかにカットオフがあって、 あんまり高価な機械とかではこんなやりかた不可能なんだろうけれど、 うちの病院では今年、安い呼吸器を2台買った。

冗長性戦略のいいところは、目で見て分かりやすいところ。

信頼性はしばしば宗教だけれど、冗長性は数学。

誰かに安心してもらうという意味では、分かりやすさは大事。

伝えられない冗長性

手技中の急変。

現場はみんな浮き足立ってしまって、部長以外はみんな真っ白なんていう場面、 時々あって。

そんなときでも一人落ち着いていたのがトップの人。超人にしか見えなかった。

部長と「その他大勢」とを分けていたのは、「腕の良さ」以外に頭の中身。

  • 鉄火場になったとき、下々の頭の中は「203高地」の戦い。目の前の問題を解決するのに 全兵力を投入してしまって、他の戦略をとることを考えられない
  • 鉄火場で落ち着いている部長は、今やっているやりかた以外に何通りかの方法を考えていて、 「これがダメならこうしよう」とか、いろいろ考えているらしい

鉄火場で他の戦略を考えるためには、経験が必要。

ところが、経験を積んだベテランがいる現場では、ほとんどの場合その人が問題を解決してしまうから、 「他の戦略」があったことすら知らないまま、急変した患者さんが回復して、歩いて帰る。

冗長性を身につけるためには、乗り切らないといけない問題に直面して、 そのときに聞ける人がまわりにいなくて、自分で何とかしないと人が死ぬ、 そんな状況に直面することが必要。

今の時代、新人をそんな状況に置くことなんて 許されないから、冗長性は伝えられない。

技術が継承されていく中で、冗長性戦略は失われてしまう。今まで冗長戦略が可能で、 低コストと高信頼性を両立できた場面でも、次の世代では信頼性戦略がそれを置き変える。 コストはどんどん高くなり、外から見た信頼性は分かりにくくなり…。悪循環。

たぶん、臨床研修の中にスタートレックの「コバヤシマル」試験みたいなものを 組み込んでやると、このあたりの考えかたが伝わるんだと思うのだけれど、 シミュレーションを本気でやるのはお金がかかるし、 それを誰がどう評価するんだか。

こういうの、医療情報の人とか、 医学教育の人達とか、なんかカリキュラム考えないんだろうか?

2006.10.29

医療機器の祭具的側面

奈良県の母体死亡事例。

  • どうして止血剤を使わなかったのか
  • どうしてCT スキャンを撮らなかったのか

医療者側と、患者側、一方が「意味がない」と断じ、もう一方が「絶対そんなことはない」と信じる、 そんな断絶の考察。

魔法使いは杖を持つ

古代ケルト魔術のドイルドをはじめ、魔法使いの多くは杖を持った姿で登場する。

杖は老人が使う道具。年長者の知恵と経験を象徴している。

杖を持つということは、知恵や権威を身にまとうという象徴的な行為だから、科学的には意味がない。

それでも、この状態でかけた魔術は効果が高くなる。

魔術も科学も、対象に「納得してもらう」ための技術という点では、そんなに変わらない。

単純に投げるとか、あるいは火薬で吹き飛ばすとか、どんな方法であれ、石が「納得する」科学理論を用いれば、 石は空中に浮く。もしも石が納得してくれるなら、その方法は魔法の呪文だって同じこと。

人に壺を買わせるのだって同じ。機能とか、美術的な価値を科学的に示せれば、その科学に対して 人はお金を払う。もっと非科学的な方法を用いれば、科学的にはゴミ同然の代物にだって、 全財産をつぎ込む人だっている。

大事なのは、「対象に納得してもらうこと」それ自体であって、その方法に科学を用いようが、 非科学を用いようが、結果が出れば、どちらだって同じ。

止血剤。茶褐色の注射薬で、「効かない薬」の代表みたいなもの。

科学的な立場に立てば、あれを用いたところで、たぶん出血は止まらない。 ところが、止血剤を混ぜた輸液ボトルは、色が茶色に変化する。 色の変化というのは、医師の「行為」の象徴。

たとえ血が止まらなくったって、「何かをやってもらった」という印象だけは残る。

それだけのことだけれど、あのタイミングで止血剤が入っていれば、 家族の心情が変化して、結果は変わったかもしれない。

防御の円=魔法陣

悪魔を召還するときには、術者を守る魔法陣は欠かせない。

悪魔は、正しく作られた魔法陣の中には入れない。

魔法陣は、一部でも間違っていると効果がなくなるし、術者がその中から指1本出しただけで、 魂を悪魔に持っていかれる。

魔法陣は単なる象徴、悪魔と術者を隔てる境界にしかすぎないけれど、 境界の内外での、悪魔と魔法使いとの駆け引きは、ファンタジー小説の一つの見せ場。

魔法陣の理屈もまた、悪魔に「こちらも一生懸命準備をしているから、 ここには入ってこないでね」と納得をしてもらうもの。

CTスキャンには治療的な効果は全く期待できないし、これを撮って原因が分かったところで、 搬送を断る病院の数は増えこそすれ、「うちが取りましょう」と助け船を出してくれるところなんて出てこない。

それでも、CTさえ撮ってしまえば、「今何がおきているのか」、あるいは 「医療者が今何を考えているのか」を画像で示すことだけはできた。

意識を失っている患者さんにとっては、それは何の意味もないことだけれど、 そのときの家族と医療者、両者の思考を一致させる効果だけはきっとあって、 それはやはり、何か結果を変えたかもしれない。

祭具の代わりになるもの

魔術の本質は強力なイメージの力だから、それがある術者ならば、杖なんか要らないし、 魔法陣をわざわざ描かなくても、同じ効果をもつことができる。

魔法陣は、本来は必ず地面に描かなくてはならないけれど、 エノク魔術においては、緊急時には頭の中に魔法陣を想像しても、効果があるとされている。

ただしその場合、術者の頭の中では、線の1本1本、文字の全てに至るまでが具体的なカタチをとるぐらいに 強力に想像されていなくてはならず、集中力が切れてしまうと、魔法陣は効果を失うという。

止血剤とか、あるいはCTスキャンという道具は、医療器具という科学の側面とは別に、 相手に「納得」をもたらすための象徴という、祭具としての側面を持つ。

祭具的な力のためだけにこうした道具を使うのがためらわれるなら、 「自分のイメージの力」を駆使して、今おきていること、自分が考えていることを 相手に納得してもらわないと、望ましい結果は得られない。

今自分が働いている病院も、夜間は一人。

CT スキャンも血液検査もろくにできないから、 「納得」をしてもらおうと思ったら、自分のイメージをどうやって相手に説明するかが全て。

けっこうな重症の人も来るから、いつもいい結果で終わることなんて決してないけれど、 何とかトラブルにはならずに済んでいる。

お前は他人を言いくるめるのだけが上手なんだろ」と言われれば返す言葉もないんだけれど、 自分は医療の科学的な側面にはあんまり自信がないから、実力のなさを祭事的な部分で 多分に補っていて、今のところはまだ生き延びている。

仮説:誠意を持ったみのもんた

みの(もんた)さん」という医師を仮定する。

  1. みのさんには医療の知識は全くないが、何か手を出そうという意志だけがある
  2. みのさんは「患者家族から自分がどう見えるのか」をよく理解していて、 信頼のイメージを裏切らないように行動する
  3. 残念ながらみのさんには運がなくて、やったことはことごとく裏目に出る
  4. みのさんは分かりやすい物語を作って、それにみんなを巻き込むのが上手

今回のようなケースで、全科当直をしていたのが「みのさん」だったなら、 事態は大分変わったんじゃないかと思う。

  1. みのさんは医学の知識がないから、患者さんの意識がなくなっても、何がおきたのかは分からない。
  2. みのさんは「患者家族から自分がどう動けば信頼されるか」は分かっているから、とにかく家族の目に見える行動をおこす
  3. みのさんのやることは絶対に裏目に出るから、「色のついた輸液」を探してマイトマイシンを注射してしまったり、 CT室の隣、ライナック室に患者を運んでしまうかもしれない
  4. 不幸な転帰になったとき、みのさんはすかさず、「生命を賭けて子供を世に送り出した母親の物語」を作って、 家族とそれを共有しようとする

医療知識のある医療従事者と、知識のない「みのさん」。

おきたことは、全く同じ。違ってくるのは、物語の受け取られかた。 残された家族は、どちらの「物語」に、より納得できただろうか?

同じ落第点であっても、0点から40点まで、「患者の死」というのは様々な点数を取りうる。

物理事象の査定が0点にさえならなければ、物語の作りかたひとつで、 認識された現実なんていかようにでも変化する。

非常識な仮定だけれど、常識で可能なことを、あえて非常識を用いてやろうとするのが祭事という試み。

科学的には意味のない行為には違いないけれど、世の中科学ばっかりが全てじゃないと思う。

2006.10.25

ウォーリーのジレンマ

一昔前に流行った「ウォーリーをさがせ」。

  1. 画面の中にウォーリーが隠れている
  2. それをできるだけ早く探す

これは特徴抽出の問題。解答に至る道筋はいくつもあるし、最適化の方向も見える。

ルールをわずかに変えるだけで、この問題は解答が極端に困難になる。

  1. 画面の中にウォーリーはいないかもしれない
  2. いるならば、それをできるだけ早く探す

「不確実なウォーリー」のルール

ウォーリーの存在が不確実になったとき、 問題になるのが「この画面にはウォーリーはいない」と証明すること。

「ウォーリー」の定義は以下のとおり。

赤と白の縞模様の服・長靴下・帽子、ジーパンを身に着て、 眼鏡をかけて杖を突いている。茶髪で、細長い体形。

ウォーリーを見つけて、「この人がウォーリーである」と証明するのは簡単。

ところが、画面内の適当な人を捕まえて、 「この人はウォーリー要件を満たしていない」ということを証明するのは、極めて難しい。

「確実なウォーリー」ルールでは、画面内のどこかには必ずウォーリーが隠れていることになっていて、 悪魔の証明に陥ることを回避している。

確実な画面の中に、1枚でも不確実な画面が混じったとき、 ルールは簡単に覆る。

西洋医学は「確実なウォーリー」ルール

昔は、本当の病人以外は病院になんて来なかった。

西洋医学は、どこかに確実に病気があって、それを探すための学問として発達したもの。

病気は押すと痛む。病気は熱くなる。病気になった部分は腫れる。

症状をみて、バックグラウンドで何がおきているのかを推定して、それを証明するという 思考過程は、「その人の身体には確実に病気がある」ことを前提にしている。

医学が発達して、病院へのアクセスがよくなった結果、 「健康かもしれない」人が病院に来るようになった。「確実なウォーリー」ルールは 不確実なものへと変貌した。

病気の人を診て、「あなたの症状の原因は○○です」と証明するのだって十分に困難だけれど、 まだまだ何とかなる範囲。

ところが、病気かもしれない人を診て、「あなたは健康です」ということを証明するのは、ほとんど不可能。 医学の発達の過程では、「健康であるとはどういうことか」なんて考える必要もなかったから、 そもそも定義が存在しない。

健康の定義なんて、「ふるい」 の粒度でいくらでも変わってしまう。

  • 問診で健康な人だって、全身の診察をすれば、古いけがの跡なんかが見つかる
  • 全身のCTを撮れば、もっと小さな病巣だって見つかるかもしれない
  • 最近流行のPET を使えば、5mm程度の癌だってみつかる

細かい検査をすればするほど、「その人が健康である」可能性は低くなり、 処理しなくてはいけないデータの量は莫大なものになっていく。

それらを見つけて除去することが、 その人を本当に「健康」に近づける行為なのかは、誰にも分からない。

不確実ルールを確実ルールへ帰着させる方法

「不確実なウォーリー」問題を解答可能な形にする方法は2つ。

  • 問題を大きくする:全ての画面をつなげれば、その中には絶対にウォーリーがいる。 マススクリーニングの発想だけれど、計算が莫大になる代わり、力技で解答可能な問題になる
  • 別の特徴を探す:ウォーリーに「極めてまれな」特徴を追加設定して、問題の大きさを小さくする

後者は、たとえばこんな設定を追加する。

ウォーリーは子供の頃、いたずらをした弟をかばって、祖母から左手の爪を剥がされた。 ウォーリーの左手をよく見ると、今でも2枚の爪が変形している……

爪を2枚剥がされた人なんてそんなにいないから、画面内の全員の爪が正常ならば、 その画面にはウォーリーはいないことになる。

一般化すると、たぶんこんな文章。

  • 問題の大きさを増す代わりに、計算の深さを浅くする
  • 計算の深さを増すことで、問題の大きさを小さくする

医療の現場の話でいくと、前者をやろうとしているのが新生児マススクリーニングや、老人検診。 あるいは、症状にかかわらず、病院に来た人は全員、頭からつま先まで、 とりあえずCTを切ってみるとか。

問題の大きさを増すためには、まずは人間の介在する判断を放棄するところから。

後者の方法が、たとえば「病気でない」証明のためにCRP を測ってみたり、 本物の狭心症をバイタルサインだけで判断しようとする試み。

狭心症は見逃すと恐ろしいけれど、胸痛を訴えて病院に来る人は多くて、全員に詳しい検査をすることはできない。 心電図が典型的でない胸痛の人を見たとき、以下の3つがすべて陰性の人は、 狭心症でない可能性が高く、救急外来から返しても大丈夫らしい…。

  • 患者の自覚症状が狭心症に典型的
  • 胸水がある
  • 血圧が100以下

どちらの方法論も、まだまだ完全には遠い。

スクリーニングは、コストとふるいの粗さの問題からは逃れられないし、 新しい特徴を探す試みは地味だから、たまに論文になる程度。広まらない。

いずれにしても、病院の中の人は、「確実なウォーリー」ルールを解く訓練を受けていても、 不確実ルールに当たるのは不得手。だから疲れるし、誤診から自由になれない。

モデル化は現実を変える

「囚人のジレンマ」や、「共有地の悲劇」。

こうしたモデルは社会の問題を一般化して、いろいろと新しい解決方法を生んできた。

ノーベル平和賞を取ったグラミン銀行なんていうのは、まさにこうした理論の申し子。

モデルは理論を作り、やがて社会を変える。

「悪魔の証明」問題、あるいは「不確実なウォーリーをさがせ」問題の解決方法というのは、 どうも今のところは「そうならないように注意しましょう」という以外に提案されていないみたい。

頭がいい人、そろそろこちらの方面にシフトしてくれないだろうか?

2006.08.24

出産数日本一の病院で摘発

横浜市瀬谷区の産科・婦人科・小児科病院「堀病院」(堀健一院長、病床数77)で、助産師資格のない看護師らが妊婦に「内診」と呼ばれる助産行為をしていた疑いが強まり、神奈川県警生活経済課は24日、保健師助産師看護師法違反の疑いで病院と院長宅など十数か所の捜索を始めた。 看護師らの助産行為を受けた女性は女児を出産後に死亡していた。助産師不足を理由に、より給与の低い看護師らに助産行為をさせているケースが多くの産院であるとされ、県警は、“氷山の一角”とみて押収したカルテなどを分析し、実態解明を進める。 2006年8月24日 読売新聞

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やっぱり、神奈川県産科婦人科医会の抗議声明に 対する報復なんだろうか。。。

年間3000人というと、田舎のちょっとした医療圏一つ分以上の出産件数だから、 いくら神奈川県でもこの人数を吸収しきれるのか?

産科医療をとりまく現実世界の状況の進行が速すぎて、もう想像力が追いつかない状態。

米軍のやった「衝撃と恐怖」作戦みたいなものだろうけれど、 これから先はイラクみたいに泥沼化するんだろうか…。

なんとなく、警察病院の産婦人科の先生方のコメントが聞きたいと思った。

2006.07.29

部長のみっともない治療

研修医の頃

当直帯で「患者さんが苦しがっています」というコールがあったときの話。

心不全なのか喘息発作なのか、目の前の患者さんはとにかく苦しがる。 聴診してもゼーゼーいう音が聞こえるだけで、診断にはつながらない。

1年目だった自分だけでは手に余ったから、すぐに上の先生を呼んだのだけれど、 それでも原因が分からなかった。

当時いたのはそこそこ有名な研修病院だったから、教えられていたのは正しいやりかた。

まず患者さんの話を効いて、理学所見をしっかり取って、原因が分かってから治療を開始。

当たり前のことなのだけれど、原因が分からなければ、「正しい」治療ははじめられない。

1年生にとっては、上級生のやることは常に正しい。逆もまた然りで、上級生である以上、 1年生の前では常に「正しい」ことしか出来ない。

患者さんはゼーゼー苦しがっているのに、当直の医者2人、お互いを縛りあってしまって思考停止。

結局原因が分からなかったから、その日の責任当直だった内科の部長先生のお出ましを願った。

治療は滅茶苦茶。

とりあえず点滴をつないで、喘息と心不全に効きそうな薬を端から打っていく。

「部長、かっこわるい…」

そのときはそう思った。 普段「やってはいけない」と習っていた、頭の悪い治療の典型。内科部長ともあろう人が。

それでも、いつのまにか患者さんは落ち着き、30分もすると症状はとれた。

頭の悪い、みっともないやりかただったけれど、その場を乗り切ったのは たしかに部長の判断があったからで、自分達しかいなかったなら、その人は どうなっていたのか分からない。

立場は人を縛る

みんないろいろ学んで成長する。成長とともに、自分の立場というのもまた変わる。

研修医の立場。馬鹿であることを許されるけれど、馬鹿だけに何でもやれる自由さがある。

研修医は学んで上級生になり、その中でも優れた人は、もっと上の立場へとのぼる。

立場が上になるほど、行使できる力の大きさは大きくなる。反面、立場はその人の行動を縛る。

模範的であること。正しくあること。

学ぶにつれて「正しいこと」は自然になり、 どう振舞っても正しいやりかたをするようになる。

ベテランの治療は常に正しくて、洗練されている。

新人の医者があれこれ悩みながら、不細工な治療方針を立てている横で、 ベテランは当然のようにシンプルな治療プロトコールを仕上げていく。

問題は、不測の事態が生じた時だ。

成長のしかたには2種類ある。

  • 成長するとともに立場に縛られる人
  • 成長とともに立場から自由になれる人

何かあったとき、自分の立場を捨てられるか、それに縛られるか。

つまらないことなんだけれど、こんなことが患者さんの予後を左右する。

「あるべき自分」を捨てられますか?

「洗練」という行為は、無駄な部分を削ぎ落とす行為のことだから、 何かあったときの安全マージンはどうしても少なくなる。

初心者のやりかたというのは不細工だ。 いろんなことを考えて、あれこれ寄り道しながら進んでいくから、 どうしても人手がかかるし、手間がかかる。

初心者は予測ができない。

予測可能な急変だろうが、本当の不測の事態だろうが、初心者にとっては同じ。

初心者の背負っている「初心者」の看板というのは簡単に外せるから、 いつでも誰かに応援を求められるし、どんなに汚い治療だって「あり」。

ベテランは、しばしば不自由だ。

ベテランは何をすればいいのかを予測しているから、予想の範囲で何がおきようが、 エレガントに対処できる。

ところが、ベテランが予測していなかった自体がおきたとき、 ベテランの医師は「ベテランである自分」という立場を捨てなくては次の一歩が踏み出せない。

ベテランが「立場」を捨てる姿というのは、下から見るとかっこ悪い。

その行為は本当は凄くかっこいいことなんだけれど、初心者にはそれが分からないし、 ベテランもまたそれを忘れてしまうことがある。

「自由なベテラン」の持っているもの

急変時に自由に振舞えるベテランと、立場に縛られて何もできなくなってしまうベテランとを 分けているのは、「最終的な解決手段」を想像できるかどうかだと思う。

  • 呼吸困難の人なら、心不全と喘息の治療を全部やって、無理なら人工呼吸器に乗っけてまた考える
  • ショックの人なら、とにかく水と昇圧剤を突っ込んで、無理なら人工心肺を回してまた考える
  • 腹痛の人なら、循環器内科じゃ分からないから知りあいの外科の先生に土下座してすぐ来てもらう

自分で治療するのか、あるいは治療できる誰かに頼むのか。

いざという時のために、こうした「汚い、洗練されていない治療手段」を想像しておくこと、 そして、「この一線を越えたら、ベテランという立場を捨てて、頭の悪そうな治療を開始しよう」という そのラインを想像しておくことというのは、けっこう大切なんじゃないかと思う。

最近、全然原因の分からない意識障害の患者さんを診察する機会があり、 大学の神経グループの先生と相談しながら治療した。

電話でいろいろアドバイスをもらった後、こんな言葉をもらった。

「ぶっちゃけ、神経内科なんて、ゾビラックス使ってステロイドパルスとガンマグロブリンを落として、 それでもダメなら血漿交換するぐらいしか治療手段ないですからね~」

この先生は、きっと「立場」から自由なんだな。

そんなことを考えた。

2006.07.17

正直さと即興性

料理人や大工仕事、手術や心カテに至るまで、様々な職人仕事には、 「正直さ」に優れた人と、「即興性」に優れた人とが存在する。

菓子職人の正直さ

たとえば、同じ料理人であっても、菓子職人の凄さと、出張料理人の凄さとでは 意味あいが異なるんじゃないかと思う。

NHK の番組に出ていた 菓子職人、杉野英実氏がフランスの菓子工房に弟子入りした際、 もっとも驚いたことが「当たり前のことしかしていなかったこと」だったという。

素材を一つ一つ検品すること、お菓子の焼き時間を秒単位で守ること、 お菓子に染み込ませるお酒の量をグラム単位で守ること、 隠し味に使うショウガを2ミリに切りそろえること。言葉にすると、どれもあたり前のこと。 しかし、毎日数百ものお菓子を作り続ける厨房で、ひとつも手を抜かずに完璧に貫けるかどうか。 それが一番むずかしい。

レシピにしてもそんなに特別なものではなく、 材料にしても、無くなったら近くのスーパーマーケットに買いにいく。 そのかわり、全ての材料をチェックして、痛んでいるものは絶対に使わない。

工程を遵守すること。基本を忠実に守ること。 そうした正直さの積み重ねが、その菓子工房を特別な存在にしている秘密だった。

出張料理人は嘘をつく

菓子職人に求められる技能が「正直さ」なら、 出張料理人に求められる技能というのは、「嘘をつく能力」だ。

もちろん、材料だって厳選していくだろうし、 料理の手順にしても事前の計画は欠かせないにせよ、 出張料理人の人がいくのは他人の家。

8人のパーティーが予定のところが10人ぐらいに増えるのは当たり前だし、 そんなときに8人分出して「あとは知りません」というわけにはいかない。

8人分の材料を10人分に伸ばしてみたり、レシピを変えて、別の料理を10人分用意してみたり。

パーティーの流れによっては、料理を出す順番とか、種類を変える必要だって あるかもしれない。それはもちろん契約の範囲外だろうけれど、 その場での変更に応じられなかった出張料理人には、次回の「お呼び」はかからない。

即興性という能力

「生きる、死ぬ」の現場をくぐる職場にいるベテランは、 修羅場を乗り越えるのが本当に上手だ。

一歩間違えれば、目の前で人が死ぬ。下っ端がみんなビビって手を出せないような、 そんな危険な状況でも、即興性に秀でた人は、 まるでプレッシャーなんて感じないんじゃないかというぐらいに淡々と仕事をこなす。

「この人には、恐れという感情は無いんだろうか?」

部長の手技を見ながら、よくそんなことを考えた。

戦場では、殺さなきゃ殺される。実際の戦争になったら誰でも自分がかわいいと思うけれど、 第2次世界大戦のころは、半分近くの兵隊が引き金を引けなかったのだそうだ。

銃弾が飛び交っているように見える戦場でも、実際には撃つふりだけしてみたり、 あさっての方向を狙ってみたり。

戦争が終わってからのアンケートでは、 「撃たなきゃ死ぬ」という状況ですら、多くの兵隊が撃っていなかった。

有効だったのは、「自分にウソをつく」訓練だった。

人の顔が書いてある的を狙ってみたり、あたると血しぶきの飛ぶ的を作ったり。

実際の戦場と、訓練との差異を少なくすることで、「これは訓練の延長だ」という ウソを自分に信じさせ、兵隊は「撃てる」ようになったのだという。

鬼手仏心は医者の理想なのだけれど、鬼にならなくてはならないときに 鬼になれない人は、実際多い。

「鬼の手」を持てない人は、人の命を軽く考えているのか?

事実は逆だ。

考えるだけなら、今のQOML とかいってるヘタレの方が、 ベテランの先生がたの何倍も、生命を大切に考えている。 ところが、患者さんの生命だけでなく、自分達の生命のことまで考えちゃうから、 若手はみんな厳しい職場からいなくなる。

鉄火場に弱い「正直な職人」

仕事の再現性というのは、同じやりかたを「馬鹿正直」に繰り返す能力だ。

マニュアルとか、レシピとかいった、人の動作を規定するものが ちゃんと出来ている仕事であれば、優れた職人は同じものを完璧に再現できる。

医療ミスの多くは「マニュアルを破った」ことから生じている。

馬鹿正直にマニュアルを遵守していれば防げた事故というのは たしかにあって、そういう意味では、 現場には「正直な職人気質」を持った医師が、まだまだ足りないのかもしれない。

ところが、こうした正直な医師というのは、患者さんの急変に弱い。

急変の現場というのは、「出張料理人が8人分の材料を持っていったとき、 そこには10人の客がいた…」という状況なので、求められるのは即興的な技能。

  • レシピを守って、8人分の料理を出すか
  • レシピを破って、10人分の料理を作るか

レシピとお客さん、どちらを優先するのかは自明なのだけれど、 レシピに対して正直であればあるほど、職人の目の前の状況が日常と逸脱しているほど、 この選択を正しく行うことは困難になる。

正直さと即興性は両立できるか?

  • 初心者は、たとえば対人地雷を目の前にして、1m 手前まで近づいたら足が震える
  • ベテランの先生方は、同じ状況で、1cm の距離まで平気で近づく
  • 本当の即興者は、地雷を持ってお手玉ができる

職人が即興性を伸ばすことは、ある程度のところまでは可能だけれど、 たぶん決定的な「何か」を越えるのは難しい気がする。

急変に強い職人を作ろうと思ったら、 職人が平常心を失う環境を、極力作らないようなルール作りをすることだ。

かつてのアメリカでは、警察官が一般市民を誤射してしまう事故が多かったそうだけれど、 そのほとんどは「自分の安全確保を行う手順」を遵守していないケースだったという。

  • 必ず2人以上で容疑者を追跡する
  • 犯人が背中を向けてじっとするまでは、必ず自分の身を安全地帯に置く
  • 犯人が武器を捨てたことが確認できるまでは、一定以下の距離には近づかない

誤射があったケースでは、警察官自身を安全にするための、 こうしたルールが守られていなかった。

たぶん、誤射が多かった時代の警察というのは、「命知らずの男らしい警察官」という ステレオタイプと、現場で作られたルールとの間に整合がとれていなかったのだろう。

「男らしくあれ」という理念はルールを破ることを求め、 ルールを破ることは警察官自身を危険な状況に置く。

  • 至近距離に近づいたとき、容疑者が怪しい動きをした
  • 一人で犯人を追いかけようとして、犯人が逃げそうになった

犯人を追い詰めるこうした状況は、自分の身の安全が保証されないならば、 追いかける警察官をもまた追い込んでいく。

警察は、自分で自分を追い込んで、容疑者を射撃せざるを得ない状況を作ってしまった。

刑事ドラマというのは、即興性に優れた主人公が、職人の集団の中で活躍する物語だ。

犯人を一人で追い詰めざるを得ない状況というのは、まさに即興性が求められる ときなのだけれど、本来はそんな状況を作らないためにルールがあり、 それを遵守することで職人が活躍できる。

「ゴッドハンド」はなぜいなくなったのか

医療のレベルが低下している。

新聞では連日のように医療ミスが叩かれて、 日本の医療のレベルは地に落ちたような報道が続いている。

実際の事故率とか、死亡率といったものは決して悪くなっているとは思えないけれど、 医療のレベルがジワジワ落ちているのはある意味真実だ。

ブラックジャックになりたかった某心臓外科医とか、「大リーガー」医師を海外から 招きまくっていた某内科医師とか、本当に優れた腕を持って、いろんな武勇伝を 作ってきた医師の数というのは、たぶん減っている。

時代は進歩した。神がかった腕とか無くても手術はできるし、 触診ができなくてもCT 撮って読んでもらえば、たいていは大丈夫。

マニュアルや診療ガイドラインといったものの進歩で、それをきちんと守っていれば、 そんなに大きなミスはしなくなった。少なくとも、平均値としての医療のレベルは、 たぶん向上しているはず。

それでも「神」の数は減ってきている。

それは、医療の技術の低下によるものではなく、みんなが同じ医療をする時代、 「正直者」の医師が増えてきて、マニュアルから逸脱することで大成功を おさめる医師が減ってきたからだ。

マニュアルなんて無かった時代は、各自の即興性だけが成功率を決めた。 とんでもないヤブもいれば、「神」もいた。

技術が進歩して、「神」の足跡がマニュアル化されて、それを守ることに長けた「正直者」が 業界に参入してた。平均の成功率は上がったはずだけれど、成功率の分布の幅は狭くなった。

よくできたマニュアルは、正直者を守るとともに、即興者の手足を縛ってしまう。

みんな頑張っているつもりなのだけれど、「神」がいなくなってしまったように見えるとすれば、 たぶんこういうことだ。

臆病な正直者を罰したときにおきること

  • 勝たなかったら罰
  • 負けたら罰

一見同じようだけれど、戦略は異なる。

「勝ちかた」は、プレーヤーが勝手に決められる。

格闘技なら、ルールで負けたって、 最後までリングに立っていればそれは「勝ち」。解釈のしかたひとつで、 「勝ち」なんていくらだって宣言できる。

「負け」を決めるのは、審判の権限。

こちらにはプレーヤーに選択の余地は無い から、負けないためには審判の意志をくむのが重要。

「勝つ」のが得意なのは即興性に優れた人で、「負けない」のが得意なのは正直者。

「勝たなかったから罰則」という法律は、本来は即興者を縛るためのもの。 正直な人は「勝ちかた」が分からないから、これを守るのが非常に難しい。

交通安全週間のときは、大きな横断歩道の脇には、警察官が立っている。 普段は何も考えなくても安全な交差点では、このときとばかりに事故がおきる。 交差点を横切る自動車に求められる「勝利条件」は、人を轢かずに曲がりきること。 ところが、交通安全週間の期間だけは、この条件が「警察に怒られないこと」に変わってしまう。

  1. 期間中、交差点では警察官が信号役をする。
  2. ところがまれに、警察官が「曲がってよい」というシグナルを出したそばから、横断歩道を横切ろうとする小学生がいる
  3. ドライバーの注意は、横断歩道でなく警察官に注がれる
  4. 子供はドライバーには見えず、事故がおきやすくなる

自分みたいに、学生のころに(夜中の峠道で)警察から嫌がらせを受けたような人間なら、なおさら。

正直者ばかりの業界は、安定していて確実な進歩が期待できる。

ところが、「負け」の定義が明確でないのに、「勝て」といわれても困ってしまう。

こんな状況で「負けない」ためには、勝負を避けるしかない。

だから、現場からは医師がどんどん減っている。

ルールに求められること

法律を作る人達に何とかしてやって欲しいことの一つは、 「負け」の条件を明確にしてほしいことだ。

今はまだ、マニュアルも不備だらけ。

マニュアルに「最後は臨床症状とあわせて考える」なんて入っている時点で それはマニュアルとしては使いものにならないし、 最低何人必要なのか、どれだけの物量を投入すれば「十分」と判断されるのか、 そのあたりはマニュアル本には全然書かれていない。

そのあたりを現場に合わせてやりくりするのがセンスなのだけれど、 今はその「センス」の部分で罰せられるから、手が出せない。

限られた人的リソースでベストな結果を出すには、即興性に優れた人間をそろえるか、 職人気質の人間が納得できるような方法論を示すか、どちらか。

残念ながら、安定期に入った業界からは即興性に優れた人間はいなくなってしまうから、 今必要なのは方法論を誰か偉い人が決めること。

お菓子のレシピのように、誰が作ってもそれなりの物ができて、 レシピを完璧に再現できれば奇跡が生まれる、そんなやりかた。

もっとも、それができた時点で、全ての医者は菓子職人になる。

お客が8人から10人に増えたとき、料理人なら材料をごまかして調整できても、 「ショートケーキ2個おまけして!!」は相当難しい。

今ごまかしてもらっている「2人分」の財源をどこから持ってくるのか、 その問題は必ず出てくると思う。

2006.06.01

医療過誤に至る物語

船の中から船の動きを知るのは難しい。

動きというのは相対的なものだ。それを測定するには、 何か動かないものを見なければならない。外の景色とか。星の動きとか。

自分自身で自分のことを知るのは難しい。

自分が考え、行動していることは果たして正しいのか。行動方針を決めて、それを観察しているのは自分自身。判断の基準になる「絶対正しいもの」なんか、自分の中には存在しない。だから難しい。

過誤というのは、おきる時までは自覚されない。思い込みを、その人の力だけで覆すのは不可能に近い。

いやな予感は当てになる

  • 治療を開始したけれど、なんだかすっきりしない
  • 方針は正しいけれど、このケースは完全には症状がとれない
  • 退院前だから検査は止めておこう
  • 患者さんの全ての症状は同じ原因で説明可能だ
  • 今日は「呪われてる」先生の当直日。うちの患者大丈夫かな…

病棟で感じるいやな予感は、大抵当たる。

予感があると、病気は悪い流れに入る。

病気が治るのかどうかとはべつに、病気には「いい流れ」と「悪い流れ」の2種類の経過がある。

いい流れとは、予定調和の物語。

経過や症状から原因を推定して、検査所見はそれを裏付け、必要な治療を施せて、後は治ったり治らなかったり。

よしんば治らないような病気であっても、医学的には現時点で「正しい」ことができている。

意識と感覚とが協調している状態。心に葛藤は生じない。

残念ながら、悪い流れもまた予定調和だ。ただし、水面下では「感覚」と「意識」との せめぎあいがおきている。

  1. 初期の判断に間違った思い込みが混じっていたり、入院時の派手な検査所見に判断を引っ張られたり。すっきりしないけれど、意識は間違えを認めない。
  2. なまじ考えて行動しているから、患者さんの症状は部分的にはよくなってしまう。
  3. 誰かの助けがあれば間違いに気がつくけれど、判断をする主治医の意識には、「助けが欲しい」という自覚が無い。完全に治らない理由は「これは○○だから」とすぐ説明が入り、自分の間違いに思い至らない。
  4. 感覚は「検査したい」という欲求を訴えるけれど、間違いを認めたくない意識はそれを止める。退院が近いからとか、医療コストが…とか。
  5. うまくいっていれば絶対しない「検査結果の見直し」をしても、意識には間違が見つけられない。なおさらドツボにはまる。
  6. 「呪われた先生」はベテランに多い。何かの葛藤を抱えている主治医は、ここぞとばかりに速く帰るから、そんな日に限って自分の患者が急変する。

「ああ、やっぱり」と納得できるものから、「呪われた医師の当直日」みたいなオカルトじみたものまで。 予感にはいろいろなものがあるけれど、それを感じる理由は同じ。

オカルトなんかではない。意識が知覚していなくても、感覚が「悪い流れ」を感じているから 警告を出す。これが縁起が悪いとか、いやな予感がするという現象。

物語は同じパターンをとる

物語世界では、主人公を取り巻く状況や、 その行動には一定の規則が存在する。

たとえば、桃太郎と金太郎とは置換可能だ。

  • 両方とも田舎の村の不遇な家の出身。
  • 生まれたときから非凡。
  • 何らかの試練を乗り越えて、悪を倒す。
  • 最後は民衆、あるいはその時代の殿様からほめられる。

桃と金とは置換可能。鬼が島から帰った金太郎が足柄山 に凱旋したって意味は通るし、幼少の桃太郎が悪い熊を投げ飛ばしたって、鬼が島には問題なく行ける。

それぞれの要素が、どのような人物によって、 あるいはどんな方法によって実現されるのかは、問題ではない。

大切なのは、その要素を実行するのが誰かではなくて、動作する順番のほう。 物語では、それぞれの要素が出現する順序というのは、決まっている。

出来事が起きる順序は偶発的ではない。

扉をこわす前に強盗に押し入ることはできない。 鬼が島から帰った桃は、もう団子で動物を釣るような真似をしてはいけないし、一度立身出世した金は、熊を投げ飛ばしちゃいけない。これをやると、物語の構造が崩れてしまう。

順番は、物語のジャンルごとに定まっている。 魔法物語とミステリーとでは順番が違うけれど、それぞれのジャンル内では、だいたい同じ。

過誤の物語の構造

入院してから悪い転帰に至るまでの 行為というのも、いくつかの要素に分けられる。

  1. (間違った)原因の発見
  2. それを部分的に裏付ける検査所見
  3. 部分的に解消する症状
  4. 早期退院などの何らかの圧力
  5. 他人に相談しずらい状況
  6. 患者の不安の訴え、家族からのプレッシャー
  7. 入院からの経過の見直しと、間違った納得
  8. 「つく」、あるいは「呪われた」当直医
  9. おせっかいな誰かの指摘
  10. 間違いの気づき、あるいは悪い転帰

過誤物語の構成要素は、たぶん本当はもっとあるけれど、 とりあえず思いついたものだけ。

これらの構成要素が、 1から10まで全部そろうことは少ない。

  • 1から3は順番にくる。検査が全く外れていたり、症状が悪くなったりしたら、過誤物語はそれ以上に進まない。
  • 4~6は、順番はばらばら。ただし、どれも入院中に無言のプレッシャーとなって主治医を罠にはめる。
  • 8~10の「悪い予感」は、やはり順番に訪れる。プレッシャーに焦ってカルテを見直して、「やっぱり間違いない」と納得した頃に患者が悪化、誰かが助けてくれて…という経過をたどる。

予感で事故を回避する

過誤がおきるためには、その前に必ず「過誤の物語」の経過をたどる必要がある。

全ての過誤が同じ機能経過をたどるなら、それを予期することができる。

いやな予感とか、縁起が悪い行いといったものにはたぶん それなりの理由があって、過誤がおきる前にあった「予兆」みたいなものを収拾すると、 けっこう面白いかもしれない。

ジンクス。因縁。縁起や予感。物語の文脈から考えると、昔からの言い伝えと言うのは 真実を含んでいて、幸運のお守りとか、護符といったものもまた、現代社会でも 効果のあるものを作れると信じてる。

たとえば、このあいだ入ったラーメン屋。

きれいな店内。愛想のいい店員。清潔な厨房。材料一つ一つ、 水の一滴に至るまでの、店主のこだわりをつづったポスター。

今思えば、全ては「まずい料理の物語」の前兆だった。

そのときは期待高まりまくり。

出てきたのは血の味のするスープ。

たしかに、素材の味は生きてたよ。

でも、とんこつラーメン食べたい客は、生の骨髄飲みたいわけじゃないんだけどな…。

お守り代わりに、その日はクラビットと酒飲んで寝た。

今ところ無事。

2006.03.19

クレームの対策について

息子 お母さん、明日の遠足のお菓子代、300円頂戴。 明日は雨よ。

遠足前日。担任の先生との約束では、お菓子代は200円まで。 息子は友達と共謀していて、当日にはみんなで、少しだけ多くのお菓子代を持って行こうと 画策している。

母親は別の情報を持っている。PTAからの通達で、遠足は雨なら中止。 明日の天気予報は、80%の確率で雨。お小遣いの話以前に、そもそも遠足が行われるのかすら疑わしい。

母子の会話は、成立しているようで成立していない。

「明日は雨」といわれた息子は、「自分の要求がスルーされた」ということしか分からない。 息子が取れる戦略は一つしかない。もっと大きな声で「300円」と繰り返すのみ。

母親は常に正しい。経済を握っていて、情報量も莫大。 雨なら遠足は中止。だから、そもそも お小遣いについて議論することは無意味。

「だから、明日は雨!」

このバカは何故気がつかないんだろう…と、母は同じ言葉を繰り返す。

ねじれの位置から脱出できない会話はエスカレートする。最後は息子は泣き出し、 母親は息子を張り倒す。明日が雨になろうが晴れようが、いずれにしても 明日の遠足は楽しいものではなくなってしまう。

現場は理不尽なクレームの連続だ。

患者さんが一人や二人なら、少しの医学知識さえあれば、誰だって名医になれる。

一般内科の「腕」は、皿回しに似ている。1枚や2枚の皿を回すのなら、ちょっと練習すれば すぐできる。プロと呼ばれるには、20枚とか50枚の皿を回す必要がある。 1枚でも割ってしまえば、プロとしての名声は地に落ちる。

たくさんの皿を回しつづけるコツは2つ。

皿を動かさずに自分が動くこと、皿がグラグラになる前に、自分の方から 皿を回しつづけることだ。

まずはこちらから歩み寄る

昔一緒に働いていた同僚に、患者さんからのクレームをいなすのが非常に上手な男がいた。 ディープ関西圏の、某病院出身。

忙しい救急外来。待たされた人のクレームは多い。

売り言葉に買い言葉。当時の自分は良くトラぶりそうになったけれど、 そんなときによく助けに入ってくれた。

関西の患者さんの意思表示は過激なんだそうだ。

外来の壁を蹴るのは挨拶代わり。待ち時間が長くなると平気で外来ブースに怒鳴り込んでくるし、 週に1回は事務長がロビーで誰かに土下座をするらしい。

続かない奴は本当に3日で辞める病院。そんなところにいたからなのか、異様に人間ができていた。

外来では、患者さんと、医者との距離は大体2メートル。お互い頭に血が上って、胸倉つかみあう 議論に発展しそうになったときとれる行動は2つだ。相手に来させるか、自分から距離をつめるか。

トラぶりそうになったとき、彼はいつも、その距離を自分から縮めにいった。そうすると、相手の激昂が 不思議とおさまってしまう。

怒りは閾値で発動する

売り言葉に買い言葉の状態は危険だ。

今までは曲がりなりにもコミュニケーションをとれていた患者さんは、 怒りが始まると急速に「理解が悪くなる」。こちらがいくら論を尽くして説明しても、 怒りがおさまらない相手に 「理」が通じることはほとんどない。

多分相手も同じなのだろう。

こちらがいくら「分かりやすく」要求を伝えようとしても、 受ける医者は、ポイントのずれた返答を返すばかり。

話はこじれる一方。最初は「ごめんなさい」ですむはずだった話はどんどん大きくなり、 そのうち弁護士が出てきて、最悪警察沙汰になる。

何かを要求する側と、クレームを受ける側。

お互いの求めるものの違い。状況判断に使える情報量の違い。対立する利害。 立場の違う相手同士、そもそも友好的な会話を成立させようとするほうが難しい。

それでも、相手が「怒り」の状態に入る前であれば、なんとか交渉のチャンネルというものは 確保できる。一度そういった状態に入ってしまうと、交渉を継続すること自体が困難になる。

「怒り」という感情は、個人の不快感が一定の閾値を越えたときに発動する。

その時の不快感の総和が閾値以下であれば、どんなにバカな応対をしても大丈夫。 患者さんは不快を覚えても、それが売り言葉に買い言葉の悪循環を生むことはない。

一方、一度でも閾値が越えると、その関係を戻すのは難しい。こちらが冷静になればなるほど、 理を尽くせば尽くすほど相手の怒りを煽ってしまい、収拾がつかなくなる。

単なる「不快の集積」が「怒り」の感情へと変わるとき、その直前には、 必ずお互いが実際に向かい合う場面が生じる。

不快感を蓄積させている相手の心情は、爆発寸前の風船そのもの。

この風船を爆発させるのか、あるいはわずかでもガス抜きができるのかの選択権は、 幸いクレームを受ける側にゆだねられている。

相手と直に面談するとき、その相手をどこかに呼びつけるのか、あるいは自分が迎えに行くのか。

呼びつけることによる相手のストレスの増加の幅は読めない。 わずかなものなのかもしれないし、その行為が相手の心情に止めをさしてしまうかもしれない。 こちらが歩み寄ることによって、ストレスはわずかだけれど確実に減ることが期待できる。

怒りの感情というものが確率論的な振る舞いをするならば、わずかな変化はただの誤差だ。

ところが怒りは閾値に従う。閾値ギリギリのわずかな差は劇的に運命を変える。 医者がほんの数歩を歩くだけで、その生存確率はかなり高くなる。

遠足の話の中で、母親がとりあえず子供の小遣いの交渉に耳を傾けることを約束していたら、 あるいは子供に泣かれずにすんだかもしれない。

何がほしいのかは指摘されるまで分からない

最初の遠足の話。「300円」と騒ぐ子供は、本当に300円がほしかったのだろうか? 争点にしたかったのは金額の絶対値だったなのか。それとも、 「他の子と一緒であること」だったのか。

仮に300円もらったとして、約束した他の子供がみんな100円しか持ってこなかったら、 あるいはみんな500円持ってきたりしたら、果たしてその子はうれしいのだろうか?

クレームの種類はいろいろある。誰もが怒り、そのとき手に入る情報の中で、最善と思う 要求を突きつけてくる。院長出せ。訴えてやる。賠償しろ。事実を明らかにせよ。いろいろ。

要求する側がそのときもっている情報は少ない。情報が少ないから判断できない。 少ない情報の中で要求を作らなくてはならないから、それを受ける側としては その要求は「不当な」ものに写る。

人間、本当に「やる気」になった時は黙ってやる。相手を訴えたり、最悪殺したりする人は、 相手に警告など出さない。いきなり来て、黙って刺す。

訴訟ざたのトラブル。相手が黙っているときのほうが怖い。 「返答によっては訴える」という言いかたをされたときは、 逆に訴訟になることは少ない。

「訴えるぞ」という人にとっては、 訴訟はすでに目的ではなく、たんなる交渉のカードの1枚に過ぎなくなっている。

相手の人も、ただ訴えるという解決法がベストではないことが分かっているから交渉に 来ている。「訴えるぞ」というクレームは、裏を返せば「もっといい知恵を教えてください」 という相談に他ならない。

とにかく自分の不快な気分を解消させる「何か」がほしい。クレームというのは、つまるところ これがすべてだ。

具体的な「何か」がなんなのか。それは、クレームを受ける相手から指摘されるまで分からない。

イメージを解決可能な問題へ帰着させる

クレームの対処というのは、圧迫面接の相当きついバージョンみたいなところがある。

マイクロソフトの入社試験は1日がかりで行なわれる。 「富士山を動かすには何日かかるか」とか「南に1Km, 東に1Km, 北に1Km行ったらもとにもどるような場所は地球上に何個所あるか?」 のような奇抜な問題が出題されるらしい。 これは遊びでやっているわけではなく、無能な人材を雇ってしまうことは良い人材を雇いそこねるよりも悪いということから、絶対に無能な人間を雇わないようにするための工夫らしい。

マイクロソフトのパズルのような問題は、問題の定義のしかたから解答までのプロセスを見ているそうだ。 だから、問題点はなんなのかの前提条件をいわずに、いきなり答えをいっても合格にはならないらしい。

相手にも漠然としたイメージでしかないものを、どうやって実現可能な具体的な計画として提案できるか。

大事なことは、とにかく全ての情報を共有することだと思う。

トラぶりそうなときに心がけているのが、全ての情報配信を「プッシュ型」へと変更することだ。

普段の仕事は黙ってやる。相手からの面談希望とか、 説明希望があるとき、まとめて話す。 「プル型」の情報配信だ。

鉄火場になりそうな時は逆。

状態の変化だろうが、今自分が考えていることだろうが、部長からの指示が変わったことだろうが、 なんであれ変化があるとき、常に自分から相手へ情報を発信する。けっこう、どんなに下らないことでも 電話している。

相手に聞かれた事だけを答えるやりかたは、相手の状況把握が 十分でない時には役に立たない。不十分な状況把握からは、不十分な 情報要求しか出せない。

全ての情報には、発信者の思考の断片が紛れ込んでいる。 相手に聞かれたことを答えるのではなく、 「自分はこう考えていて、今あるデータからこういう 判断を下すつもりだ」ということを患者さんや その家族、あるいは同僚や上司に積極的に発信することで、 お互いの情報のみならず、その 思考過程をも共有できるのではないかと信じてる。

クレームの対処という仕事は、同情とか共感とか誠意とか、そんな情緒的なものではなくて、 もっと技術的な問題に帰着するような気がする。

今回の産科の先生の巻き込まれたトラブルは、もはや全面戦争の様相だけれど、 いい結果になればいいなと思う。同業者を代表するような先生方が何人も コメントを発表しておられるのはすばらしい事だけれど、このことは 医者側の退路を断つことにもなっているように見える。

よもや医者側の「負け」は無いのだろうけれど…。

2006.02.28

良医という普通の存在

以前のケースも今回のケースも、医学的にはたしかに回避不可能なケースで、 それを結果責任で刑事告発されてはたまったものではないのだけれど。

一方で、同様のケースにあたっても何とかしてしまう医者というのも世の中には 多分いて、そういう人達はどんな状況にあっても、やっぱり何とかしてしまうんだろうな、 という予想みたいなものはある。

鉄火場を生き延びる3つの技能

どういうわけか昔から僻地や激戦地に一人で飛ばされる機会が多くて、 「生き延びる」ということを考えることが多かった。

  • どんなレアケースの急変にあたっても、まるでいつもの外来をこなすように淡々と乗り越えて しまったり、通常なら「奇跡」と呼ばれるような難しい手技を、まるで予定されていたように こなしてしまう、神の手を持つ先生方。
  • どんな失敗であっても、誰かを身代わりに立ててみたり、何か起きそうなときには巧妙に 責任を分散してしまったり、変わり身の速さがいい意味でも悪い意味でも すばらしい、政治的な立ち回りの上手な人。
  • そういう人に責任をおっかぶせられたり、いつも地雷を踏む役をやらされているわりには、 「クロをシロと言いくるめる」ことで世の中を渡ってきた、詐欺師の技術に長けた人。

生き延びるということを考えながらいろいろな先生にあってきて、 その多くの人達はもちろん普通にいい先生方なんだけれど、「いい」人か「そうでない」かは さておき、生き延びる手段を持つことに自覚的な先生方というのは、 大概上記のどれかの技量を持っている気がする。

もちろんいい腕を持って、普段から人あたりが良くて、医学的には正しいリスクの範囲で 必要なリスクをとって診療を続けていれば、本来は刑事告発なんかされるわけがないのだが、 今回の産科の先生のケース、そして以前のケースにしても、両方とも「普通の」いいお医者さん をやっていた人が持っていかれている気がする。

もしもこうした「普通の」人たちが、生き延びるための何らかの技量を持っていたならば、 事態はもう少し違っていた。

たとえ急変の鉄火場を乗り切れなかったにしても、 あるいは自分ならやっぱり乗り切れなかっただろうけれど、例えば相手方の家族を 何とか味方につけてしまうなり、自分のいる施設の長や、所属医局のトップを 最初から相談の席に巻きこんでしまうなり、自分だけが首を切られて 後は丸くおさまる、という結末にはならないんじゃないかと思う。

自然界のルールで生き延びる個体

例えばサバンナの中で暮らすシマウマの群れというのは、群れの中の一定数を常に ライオンに食われる宿命にある。その中でも、食われる奴と生き延びる奴というのは 存在する。

身体の縞の具合がちょうど良くて、ライオンからは草に隠れてほとんど見えない奴というのは、 騙すのが上手い詐欺師だ。たとえライオンが目の前にいても、「私はそこにいませんよ」とばかりに 気配を殺してさえいれば、危機は目の前から去ってしまう。

政治的な立ち回りが上手い医者というのは、要は足の速いシマウマだ。 ライオンという脅威がいきなり群れに飛び込んできても、かわすのが上手で 足の速いウマは、常に逃げられる。誰かが代わりに食われてしまうけど。

ゴッドハンドを持った医師というのは、いわば肉食化したシマウマだ。 なぜか生まれたときから臼歯の代わりに牙を持っていて、 ライオンが来ても戦って追い払ってしまう。ゴッドハンドが群れにいると、 脅威が来ても戦ってくれるから、群れ全体が非常に助かる。

その代わり、そもそも牙を持った肉食のシマウマなんて、アフリカ中探したって、 1頭いるかどうか。存在自体が自然のルールに反しているものだから、 群れ全体が「肉食化」することはありえない。

自然のルールの中では、ルールのウラをかけない個体は淘汰されるのが常識だ。

問題なのは、自然界の中では、シマウマというのはそもそもライオンに食われるのが 「ルール」なのだということで、食われてしまう「普通」の奴こそが、 実際の生態系を支えていることだ。

モラルとルールのこえられない壁

サバンナにライオンという存在がそんなに多くなかった頃は、医者もまだまだ平和なもんだった。

そこにはルールなどはなく、モラルがあるだけ。ただ一言「良医たれ」。

いつのころからかモラルは崩れ、その世界にはいろいろなルールが入り込んできた。

ルールを入れたい誰かの思惑が先だったのか、あるいはモラルが勝手に崩れて、 それを制御するためにルールが必要だったのか。

今はもう、良医のイメージそのものが崩れてしまって、 「良医」という普通の存在は、まず真っ先にライオンにとって食われるシマウマのように、 「死にたくなければなってはならない」ものへと変貌しつつある。

モラルのない世界で医療という生態系を維持するためにはルールが必要なのだが、 世の中がモラルベースからルールベースへとシフトした過程で、 生態系を構成する個体もまた、ルールを変えうる存在に変貌した。

ルールが変われば、生き延びる個体は真っ先にルールの「穴」を探すし、 それはシマウマもライオンも同じ。 ルールの作成者が「良医」を増やそうとルールを弄くっても、残念ながら新ルールに適応した ライオンの格好の餌になる。

普通の奴が生態系で幸せに増えていた世界というのは、 ルールが必要になる前の世界で、普通の奴に福音を与えようと 思ったら、ルールをいじるんじゃなくてルールを捨てる方法を考える必要がある。

そのためには、自然界ならサバンナからライオンを全て駆除してしまえば 万事解決…なわけがなくて、そもそもサバンナにライオンが侵入した時点で、 それが「自然」というルールの方向を決定してしまった。

いまさら大自然のルールを覆すことはできないし、自然によって生存本能に 火をつけられてしまったシマウマは、ライオンがいなくなれば草を食い尽くして、 アフリカ大陸は砂漠化してしまう。

時計の針を巻き戻すにはどうすればいいのか。そもそも昔はなんでルールでなくモラルが 支配する世界なんていうのが可能だったのか。

いつからそれが崩壊して、その きっかけはなんだったのか。変化は急激なものだったのか、それとも気がつかないぐらい ゆっくりと進行したものだったのか。

モラルとルールのそもそもの違いというのが、この産科の先生の逮捕以後、 ぐるぐると頭を回っているのだけれど、どうもよく分からない。

2005.12.19

偽医者稼業は効率がいい

ローリスクハイリターンの医療詐欺

偽医者をやっていた人が逮捕された。

評判は良かったらしい。たぶんそんなに大きなトラブルもおきてはいないはずだ。

偽医者という「仕事」は、リスクの割りに得られるものが大きい。もちろん犯罪ではあるけれど、 いろいろな犯罪行為の中ではかなり効率がいい

10年ぐらい前ならば、偽医者という商売はほとんど成立しなかった。

安部譲二の「塀の中の懲りない面々」本の中には、 偽医者をやって「ドクター」と呼ばれていた人の話が出てくるけれど、あの人物は 大学病院で本物の医者を教えていたぐらいだから、もう本物と同じ。

詐欺の鉄則は、「手に入るものが同じなら、より簡単な場所から手に入れろ」ということだ。

10年前、病院の中には「簡単な場所」なんか無かった。 医者の絶対数が少なかったし、外来に来るのは実際に困っている人ばかり。 実際に症状があって病院に来るから、いいかげんなことをしても治らない。 救急外来には本物の急患しか来なかったから、知識の無い医者は絶対にボロが出る。 間違ったことすると、たぶん死んじゃうから。

今は違う。病院には、簡単にお金を騙し取れる人があふれている。

カモは夜に来る

夜間の救急外来は、「カモ」の宝庫だ。

風邪をひいた人。眠れない人。単に話を聞いてほしいだけの人。

もちろんそんな中に「本物」が隠れているから油断はできない。それでも、 「ばれたら逃げる」を前提に仕事をするならば、そうした人達を相手にするのに 医学知識は要らない。

医学の知識や医者の研修というものは、そのほとんどが万が一に備えるために 行われる。

  • 急変したときに対処できるため。
  • はっきりしない症状の中から、まれな疾患を見逃さないため。

急変したときに逃げればいいなら、まれな疾患を見逃してもかまわないなら、 医師免許など無くても「評判のいい先生」にはなれる。

医療という商品の2つの顔

患者さんというのは、病院に「医療」という商品を買いに来るお客さんだ。

この商品の価値には2つの側面がある。

  • 病気を治すという確実な医療の要素
  • サービスをしてほしいという、サービス業本来の要素

評判のいい医者というのは、腕もいいしサービスもいい。

腕だけよくても、医者としては片手おちだ。たとえ病気を治すのが上手だったとしても、 外来に来る人だれもが「2度とかかるか」と思ってしまうなら、すぐにその人は相手にされなくなる。

一方、腕は悪くてもサービスのいい医者というのは、万が一の時が来るまでは名医でいられる。

もちろん、患者さんが急変したりすれば、こうした偽の名医はすぐに馬脚をあらわす。 まれな疾患を見逃したことが後からばれると、恥をかく。

ところが、患者の急変なんてめったにあることではないし、まれな疾患というのは本当にまれだ。 起きないことにエネルギーを注いでもしょうがない。無愛想な隠れた名医など 存在しない。名医と呼ばれる人は、みなどこかの方面で愛想がいい。 それが患者さんなのか、同業者なのか、マスコミ限定なのかは人によるけれど。

医学の勉強を怠れば、患者さんの危険度は増す。本当は、誰もが「歩く総合病院」を 目指して勉強しないと、患者さんの安全というのは向上しない。

医者は勉強する。もっと勉強する業界もたくさんあるだろうけれど、医者だって毎日勉強する。 インターネット時代。主要な論文雑誌はほとんどが週刊誌だ。水曜日のCirculation、木曜日の NEJMとLancet、毎月月末はJACCとかAnnals。読んだっていまさら自分の手の動きがそう大きく 変わるわけではないけれど、それでも読まないとおいていかれる。

勉強をすることで、たぶん少しづつは安全率が向上しているはずだけれど、 どこまでいってもゴールは見えない。

安全の青天井ルール

一般的に、競争というのはルールがあって、その枠内でいかに優れた バランスをとれるかが競われる。

プライドみたいな「何でもあり」の格闘技だって、武器無しで人間が戦うという ルールがある。ミルコやヒョードル、ノゲイラといった格闘家はみんな出身が違うけれど、 その格闘スタイルというのは、今のルールに沿った同じようなスタイルに収束している。

自動車の競争もそうだ。F1みたいなフォーミュラカーはルールが厳しいけれど、 かつては CAN-AM という「4輪ならば何でもあり」というルールのレースが実際にあった。

それすらも、初期の試行錯誤の時期をのぞくと、速い車のデザインや規格というものが 自然に決まってしまい、1970年に入ってからはどれも同じような車ばかりになってしまった。

どんなに「何でもあり」のルールを考えても、競技である以上、例えば格闘技なら「武器無し」、 自動車レースなら「車輪で走る」という縛りがつく。

縛りの中で何かの性能を向上させようとすると、どうしても何か失うものが出てくる。 格闘家がウエイトを上げることでスタミナを失ってしまったり、車のパワーを上げることで、 今度はタイヤの消耗が激しくなってしまったり。

これを本当の青天井ルールにしてしまうと競技は成り立たない。格闘技が「武器あり」になってしまえば、 最後に行きつくのは銃や核兵器だ。自動車競走にジェット戦闘機を持ち込んだら、もはや 「自動車」競争にすらならない。

そんな中で、「安全性の向上」という競技にだけは、青天井ルールが成り立っている。

安全というものは、お金をかければかけただけ向上する。

ダブルチェック、トリプルチェックといった安全対策を行うと、それだけ煩雑さはますけれど、 それすらも人海戦術でカバー可能だ。お金に糸目を付けないならば、 安全性の向上は、いくらでも性能を追求できる。

安全性の追求には、本当はコストの上昇というトレードオフが存在するのだけれど、 医療という産業の特殊性が、コストについての問題を見えづらくしている。

競合相手のいない医療界

調子が悪ければ医者に行く。近くの開業の医師にかかるか、ちょっと離れた大病院にかかるか。 このとき、開業医と大病院との間には競合関係が生じる。

一見するとこれは競争なのだけれど、どちらに行ってもでてくるのは医師免許を持った同じ医者だ。 医者同士の競争意識というものは、たかが知れている。別に談合しているわけじゃないけれど、 同じ西洋医学の医者ならば、考えることは大体同じだ。

自分が飢えない程度の利益を考えながら、 そこそこサービスが良くて、そこそこ安全な医療を提供する。

医師ごとのポリシーの差はあっても、しょせんは「そこそこ」の範囲の差でしかない。

救命的な要素とサービス業としての要素、この2つの医療の側面は、 総合格闘技でいうと「人間が」「武器無しで」戦うという2つのルールに似ている。 ルールというのは最低限2つ無いと、競技が成り立たない。

今の医療で、この2つのルールをもっと強力に展開しようと思ったら、 やはり医者とは別の競合者を設定する必要がある。

価値の軸を増やすとニッチが生まれる

具体的には、医療技術は限られていても、コストが安くて会話の時間を長く取れる 職種を”準医師”として新たに認定する。

イギリスの「NP(ナーシングプラクティショナー)」、毛沢東時代の「裸足の医者」、 少しシステムは違うけれど、日本の接骨院やマッサージといった職種もそうかもしれない。

今の医療の選択肢というものは、「医者にかかる」という一つの選択肢しかない。

これはちょうど、薪を割るのと刺身を作るのに同じ鉈を使うようなもので、 実用的ではあっても効率が悪い。余裕があったら、普通は「切れ味のいい鉈」を探す前に、 包丁を買うだろう。

今の医療も同様だ。医者という1種類の職種以外に、サービスに特化した別の職種を導入して 選択可能にする。

問題はもちろんある。道具が増えると、正しい道具に出会える確率は減る。 2つの業種を導入すると、その界面に落ち込む患者の問題は必ず出てくるだろう。

それでも、ルールが増えると選択肢は多様になる。

サービスで勝負する準医師に対して、従来の医師が取れる選択肢は大きく2つ。

  • 専門性に引きこもって、安全で確実な医療を追求するか。
  • 「安く」「サービスのいい」医療を提供して、準医師と競合する道を選択するか。

いずれにしても、選択肢が2つになるだけで、医師の将来像というのは2次元的に 無限に展開可能になる。

何が正しいのかはますます分からなくなるし、患者さんサイドも「どこにかかればいいのか」が 決められなくなるかもしれないけれど、そこにまた「ガイド」としての別のビジネスが生まれる かもしれない。

ルールは複雑なほうが面白い。

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