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2008.04.01

latex2html の設定

LaTeX の設定でドツボに嵌った時のメモ。

TeX は、インストーラーを発表してくださった方がいて、 今回の導入は楽勝…なんて思ってたら、LaTeX2html の導入で 完全につまづいた。

「これ」という原因は、正直よく分からないんだけれど、 「こうしたら動いた」という記録。

反省点

やっぱりTeX は、 /usr/local/ に展開しないとドツボに嵌る。 素人がうかつにディレクトリ変更しようなんて考えると、ろくなことにならない。

TeX インストーラーは、TeX のファイルを C:/tex/ というフォルダに 展開するように設定されている。

市販されているLaTeX の教科書は、どれもUNIX の伝統を引きずってるのか、 ファイルの展開先を C:/usr/local/ に展開することを想定している。

フォルダの開窓が無駄に深くなるのが嫌だったので、インストーラーの デフォルト設定でインストールを行ったのだけれど、PDF 作成までは 問題なく動くのに、html 作成になると全然駄目。

いくつかのサイトで、「悪いこと言わないから C:/usr/local/ にしとけ」 みたいな記載があって、やっぱりそういうもんだろうな、と反省した。

TeX のインストール

TexXインストーラセットアップマニュアル を利用させていただいて、インストールフォルダ名を C:/usr/local/ に変更する。ダウンロードするファイルは全部。 dviout、GhostScript、GSView もそれぞれダウンロード。最新版で大丈夫。

GhostScript、GSView をインストールするときにはインストールフォルダを 尋ねられるので、両方ともC ドライブ直下にしておく。ここをProgram Files みたいな 空白を挟んだフォルダ名にしてしまうと、やっぱりトラブルになるらしい。

WinShell のインストール

TeX 用のエディタは、結局WinShell に。もっと優れたものがあるみたいだけれど、 使っている人が一番多くて、情報が検索できるので楽。

WinShell のダウンロード&インストール&各種設定 に従って、それぞれのTeX プログラムの設定を行うだけで、 とりあえずTeX ソースを処理->dvi ファイル作成->PDF 変換->PDF 閲覧までは 問題なくいける。

奥村先生の設定 とは微妙に違うけれど、どちらに従っても大丈夫。今回TeX を何度か入れなおす 羽目になったから、どちらも試したけれど同じように動いた。

LaTeX2html の設定

何回入れてもめったに動作しないソフト。。

Windows にLaTeX2html を導入する方法は、北海道教育大学の 阿部先生のページが標準みたいになっていて、このページもまた、 TeX のインストール先を /usr/local/ にすることを前提にしている。

ちゃんと分かっている人なら、このあたりアレンジしても大丈夫なんだろうけれど、 今回は見事にドツボった。

TeX 一式を /usr/local/ に展開したあと、 l2h に 書かれているとおりにファイルをダウンロード、LaTeX2html のインストールを 行い、やっとうまく…いかなかった。

阿部先生のデフォルト設定だと、画像はPNG で保存する設定になっているのだけれど、 何度やっても pnmtopng.exe というプログラムのエラーが出て止まってしまう。

2回入れなおしてあきらめて、PNG 画像の代わりにGIF 画像を用いるように 設定を変えて、やっと動くようになった。

東北大学大学の岩熊先生のページで、そのあたりの設定が 公開されている。LaTeX2HTML に従い、l2h2002-2w32137patched 内にある prefs.pm を書き換える。

具体的には 228行目を $prefs’GIF’ = 1; 232行目を $prefs’PNG’ = 0; とすることで、 デフォルトでGIF 画像が選択されるようになる。

このあとコマンドプロンプトを開き、 c:\tmp\l2h2002-2w32137patched から config PREFIX+c:\usr\local\latex2html[改行]を実行、さらに install [改行] でインストールが完了する。

やっとエラー無く動いた。

WinShell との統合

これもまたコマンドライン叩くの面倒なので、WinShell でクリック一発作業ができるよう に設定を試みた。

阿部先生のパッケージ内には、l2h.bat というバッジファイルが作られているので、 これをWinShell に組み込む。

WinShellの[オプション]->[ユーザー指定プログラム]で、 今回は Tool 2 を LaTeX2html にした。 プログラム名 html 、exeファイル名 C:\l2h\tool\l2h.bat、コマンドライン “%s.tex” として、[オプション]->[表示]->[ユーザー設定] からユーザー指定プログラム を呼び出して、タスクバーに html というボタンを作成できる。

あとはボタンクリックでLaTeX2html が起動するので、すべての作業をWinShell 上で行うことができる。

デフォルトの設定だと、見栄えが好みと違うので、あとは LaTeX2HTMLのオプション に従い、l2h.bat を書き換えたり、dot.latex2html-init ファイルを 書き換えて対応する。

スタイルファイル

とりあえず昔作ったTeX の文章をPDF 変換して、html として公開可能なところまでは、 すべてWinShell 上でできるようになった。

それでもまだ、200ページを超えるTeX 文章をhtml変換しようとすると止まってしまう。 これは以前から同じ症状で、パソコンのスペックが足りないためかとも思ったのだけれど、 やっぱりうまくいかない。

同じ文章を半分に分割すれば、2つのhtml ファイルを作ることは可能だから、 ソースに致命的なエラーがあるようにも見えない。

何かまずいことやってるのか、LaTeX2html の限界なのか。誰か教えてください。。

2008.03.30

技術の欺瞞 広告の欺瞞

技術や企画、営業や広告、それぞれの職種には、たぶんそれぞれ持つべき 欺瞞のスタイルというものがある。 欺瞞を捨てた、全方向的な「よさ」を追求した先には、魅力的なプロダクトは生まれない。

「いい」製品と、魅力的な製品というものは異なっていて、商品の魅力というのは、 たぶん技術職と営業職の、欺瞞ベクトルの「ずれ」が作り出す。

Thinkpad を買った

新しいThinkPad を買った。自分みたいな素人には「速い」ということしか分からないし、 今使ってるぶんには何の不満も無いけれど、キーボードの印象がずいぶん変わった。

前使ってたA30 というモデルは、IBM 時代の製品。IBM が中国に買収されて、 「ThinkPad はもう終わりだ」とか言われる前、ThinkPad といえば質感の高い高級品という ブランドイメージがまだ残ってた頃。ノートパソコンはまだまだ高級品で、当時30万円近くした。

A30 は重くて固くて、キーボードを押した感覚も、しっかりしていながら粘るような、 たしかに自分は高級な製品使ってるんだな、と実感できるような感触。気に入ってたけれど、 打ち続けると結構疲れた。

今度買ったT61 は、もう4 世代ぐらい先に進んだ製品で、 薄いし軽いし、なんとなく「ありがたみ」に欠ける印象。

筐体の造りなんかはしっかりしているし、キーボードのしっかり感なんかは むしろ向上しているのだけれど、 キーを押した感触が何だかパシャパシャしていて、安いというか、ありがたみが薄いというか。

昔のThinkPad のほうが、キーを押したときの感触が滑らかで、わずかに重たい感覚。 今のキーボードはカサカサした、乾いた感触で、キーを押し下げる圧力が軽い。

「打っていて疲れない」という、キーボード本来の性能は、たぶん新型のほうが優れている気がする。 新しいThinkPad のキーボードは、軽く打てるししっかりしているし、メーカーの人達が 「改良しました」なんて言うとおり、道具としての使いやすさは、こちらのほうが上なんだろう。

新型は打ちやすくなったその代わり、何となく、自慢できる方向とは 乖離してしまった印象。道具として使いやすい、打ちやすいキーボードと、 誰か別の人に自慢して、その人から「これいいね」と言われるキーボードとは、 たぶん違うんだと思う。

新しいThinkPad は、だから道具としては十分満足して使っているんだけれど、 誰かに自慢したいとか、ものすごくいい物を買った充実感とか、そんなものは案外薄い。

スカイラインGTR のこと

日産が作ったスーパーカー「スカイラインGTR」を販売する人達は、あれを「いい車でしょう?」なんて 紹介してはいけないんだと思う。

今度のGTR は、開発した人のインタビューを読んでも「最高の車を目指しました」みたいなコメントが 並んで、それを売る人達もまた「いい車でしょう?」なんて。たしかにすごい性能の車なんだろうけれど、 何のゆがみも内包しない「よさ」という価値には、何だか魅力を感じない。

R32 型GTR が販売された頃の本を読むと、GTR を開発した人達は、 とにかく「レースに勝つ車」を作ろうとしていた印象。 誰も「よさ」なんか目指してなくて、当時のグループA 規約の範囲内で、 ほとんど反則に近いやりかたで、「勝つ」ことだけを想定していた。

あれを販売する人達も、想定外の化け物を送られて、 案外困ったのだと思う。「いい車でしょう?」なんて無批判に言い切るには、 当時のスカイラインは何だか不気味な印象。「うちの技術屋がとんでもない怪物作ってしまいまして…」 なんて売りかたするしかないような。

結果として、R32 は大成功したけれど、あとに続いたスカイラインは、 R32 よりも性能はよかったにもかかわらず、先代を越える魅力で語られらなった。 技術職と営業職の「ずれ」というものが、R32の魅力を生み出していたのだと思う。

欺瞞が魅力を作り出す

魅力というのはたぶん、製品の「よさ」が事後的に作り出すのではなくて、 製品を開発した人と、それを販売する人とが持つ欺瞞のベクトルがずれた場所に発生する。

思ったこと素直に伝える、欺瞞のないメッセージには力が無い。 訴える力が強い人達は、たぶんそれぞれ独自に作り出した欺瞞のスタイルを持っていて、 ある程度意識的に、それを運用している。

そもそも欺瞞が無かったり、技術者と営業との欺瞞ベクトルが一致してしまうと、 そのプロダクトは「つまらなく」なる。 それがたとえ「いい製品」であったとしても、つまらない製品は、自慢できない。

技術者と営業職と、大雑把にお仕事を分けると、 それぞれの職種に要求される「欺瞞の使いこなしかた」は 異なっていて、その異なりかたも、メーカーとか、人種で共有され、 引き継がれるべき文化なんだと思う。

日本人なら、技術者は常に「完成度はまだ中途で、まだ改良の余地がある」と言わなきゃいけないし、 それを販売する人達は、「うちの技術馬鹿どもが暴走しまして…」と顧客に謝らないといけない。 たとえどんなにいい製品でも、日本人は「いい製品でしょう? 」なんて言っちゃいけない。

アメリカの技術者なんかは、むしろ何作っても「これが自分の考える最高の製品だ」なんて 胸張るし、それを売る人達は、額に青筋浮かべながら、 苦虫噛み潰した笑顔で「いい車でしょう ? 」と言わなきゃいけない。

シェルビー・マスタングとか、ダッジ・チャージャーとか、 何だかもう、乗るだけで頭悪くなりそうで、ものすごく魅力的。技術者が全方向的な馬鹿車作って、 営業の人が、それを何の衒いもなく「すばらしい車ができました」と言い切るのは、 アメリカ車にだけ許された欺瞞のスタイル。

性能は、もちろんスカイラインGTR のほうが上なんだろうけれど、 こんなアメリカンスポーツが好きな人達にとっては、馬鹿みたいな排気量であったり、 燃費の悪さとか、音のうるささとかそんなものこそが魅力。たぶん10年たっても同じ車を乗り回して、 やっぱり「これ馬鹿でしょう?」なんて、みんなに自慢してそう。 限定生産品だから手が出ないけれど、乗れるものならものすごく欲しい。

トヨタのレクサスなんかは、やっぱりこのへん間違ってるんだと思う。

トヨタの技術者が全力注ぎ込んでるのは、やっぱりベースになった乗用車のほうであって、 レクサスで売ってるのは、それをきれいに仕上げて値段を上げた車。

「限られた予算に機能を詰め込む」のはまさに技術で、それは日本のお家芸だけれど、 「浮かせたお金で「きれい」を乗っける」のは、何となく技術屋としてかっこよく見えなくて、 中の人達もたぶん、「暴走する技術者」としてでなく、 「企画の人に言われるがままに仕事しました」というイメージ。

レクサスの販売店は、たしかに丁寧。非の打ち所の無いいい車を並べて、「いい車でしょう ?」なんて。 「いい」物を「いい」と表現することは、もちろん全然間違いではないんだけれど、 欺瞞の無い言葉は響かない。予定通りに作った「いい」車というのは、 「既製品を薄めて膨らませて、200 万円上乗せしてみました」なんて思惑が透けて、 なんだかつまらない。

トヨタ自動車には、電気レクサスのエンジンをヴィッツのボディに押し込んだ 「リアルチョロ Q」開発してほしい。そんな動く危険物を力ずくで販売して、 「いい車でしょう?」 なんてやってくれたら、もう一生ついていくから。

2008.03.27

Thinkpad 覚え書き

Thinkpad A30 という、7年来使ってきたノートパソコンを買い換えた。 T61 という新型。

初期設定のメモ書き。

Windows XP の設定

Windows XP は、買ったままで使うとなんだか軽快感に乏しいので、余計な機能を止めた。

WindowsXPの設定方法を公開しているサイトを参考にして、 余計な機能をOFF にしたり、「マイドキュメント」のフォルダを、ディレクトリ直下に移動したり。

代表的な設定ツール窓の手、 もう少し細かい設定を行ってくれるtuneapp をダウンロードして、それぞれなんとなく軽くなるように設定した。

クリックひとつでできる設定ばかりで、レジストリを編集するとか、 怖いことは一切やっていないけれど、ずいぶん軽快に動くようになる。

日本語入力の設定

標準で入ってくるのはIME 2002。巷ではATOK 2008の評判がすごくいいみたいだけれど、 昔からMS-IME を使っているので、しばらくこのまま。

標準のままだと医学用語が全滅する。幸いにして、さまざまな医学辞書を公開している方がいるので、 それを使わせてもらう。どれがいいのかは分からないけれど、 たとえばIME 医学辞書なんかは、 辞書のインストールまですべて行ってくれるので便利。

これで「気管内挿管」とか「胸膜癒着術」みたいな単語が一発変換できるようになる。

Word を使わなければ関係ないんだけれど、XP になってからのIME には、 「ナチュラルインプット」というよく分からない機能がついてくる。挙動が不審なのと、 IME 同士で変換を引き継いでくれないのか、意図した入力ができないことがあったので、 この機能は使えないほうがありがたい。

IME 日本語入力システムの使い方、を参考に、 IME の[詳細なテキストサービスを使用しない]オプションをOnにする。 (追記:これをやったらtwit で日本語入力ができなくなった。理由がわからないけれど、今は元に戻している。)

これで大体、Windows2000の頃と同じような感覚で入力ができる。

キーボード配列

初めてパソコンを買った頃、どうしてもブラインドタッチができなくて、キーボードを見ながら キーを打つ癖が抜けなかった。いつまでもこれではしょうがないので、 キーボードを OEA 配列に変更して、 キーを見たって何を打ってるのかわからない状態を2 週間も続けたら、やっとブラインドタッチを覚えられた。

その反動で、いまだに通常のQWERTY キーボードが打てなかったりする。

キーマップを変更するソフトはたくさん発表されているけれど、やっぱり 窓使いの憂鬱 が一番使いやすい。 設定が難しいソフトだけれど、ユーザーが多くて、いろんなユーザーが 独自のキーマップを発表していて、他人様の成果物をもらいやすいのが最大のメリット。

自分でキーマップを書かなくても、「窓使いの憂鬱」「OEA 配列」で検索をかければ、 公開されている設定が見つかる。テキストファイル形式だから、導入するのは簡単で、 事実上あらゆるキーに役割を割り振れるので、慣れるととても便利。

LaTeX の導入

理系のワープロ「LaTeX」も、今ではインストーラーが公開されて、導入するのが本当に楽になった。

「TeX インストーラ3 」セットアップマニュアルに やり方が公開されているので、このとおりに従えば大丈夫。

その代わり、無数のソフトがダウンロードされて、 インストールが完了するまで3 時間近くかかかるので注意。 途中で「導入に失敗しました」という表示が出て止まっても、インストーラーをもう一度起動しなおすと、 足りないファイルだけ再度取りに行ってくれる。

LaTeX 一式、ゴーストスクリプト、DVIOUT を各々入れて、あとは入力ソフト。

昔はAkasha を使っていたけれど、いい機会だから何か別のもの探してみる。

別途LaTeX2HTML を導入しないといけないんだけれど、まだやっていない。

以前の環境では、l2hのとおりにやってうまく行ったけれど、 まともに動かせるようになるまですごく大変。

その他ソフト

  • Sleipnir:ブラウザ。インターネットエクスプローラーの 代わり。たくさんの窓を開かなくてすむので便利
  • JTrim:画像変換ソフト。色を補正したり、切り取ったりサイズ変えたり。 とにかく動作が速いので、昔からこればっかり。学会発表に使う資料作るぐらいなら、PhotoShop とか必要ない
  • Lhaplus:解凍ソフト。DLL ダウンロードする手間要らないので便利。.rar の ファイルを解凍するときだけ、時々うまく行かなくなる
  • Open Office:新しいOffice をまだ買っていないので、しばらくこのまま。 Office 2000 を高機能にしたイメージ。普通に使えそうなら、買わないでこのまま使うかも
  • Twit:Twitter 用の日本語クライアント。 これを「スタートアップ」フォルダに入れておいて、一日中立ち上げっぱなしにしている
  • サクラエディタ:エディタ。人によって好みはさまざまだろうけれど、自分は昔からこればっかり
  • ZakuCopy:クリップボード拡張。この文章みたいなリンク集が一瞬で作れるから本当に便利
  • avast! 4 Home Edition:無償で使えるアンチウィルスソフト。 今まで使っていたのはAntiVirという、やはり無償公開されているアンチウィルスソフトだったけれど、 こちらのほうがなんとなく軽快そうな印象

速いパソコンのこと

そもそものきっかけはニコニコ動画。最近になって高画質化して、 それと同時にパソコンの負荷が大きくなって、今まで使っていたノートでは、 まともな再生ができなくなってしまった。

速いノートパソコンに買い換えて、ニコ動は快適になったし、 今までなら立ち上げることすらできなかった、重たいメガデモなんかがヌルヌル動く。

普段ゲームをすることはないから、パソコンの速さがもたらす恩恵は、 せいぜい動画再生ぐらいだと思っていたけれど、単にインターネットを覗いてるだけでも、 パソコンの性能は地味に利いてくる。

普段使っているのはタブブラウザ。「お気に入り」をフォルダごとに分けておいて、 一度に20ぐらいの窓をいっぺんに開いて、片端から見ていくやりかた。 今まで使ってたパソコンだと、これをやった後の待ち時間がかかったり、 タブを切り替えた後、ページが表示されるまでに、ずいぶん時間がかかったり。

今のページはどこも重たくて、それでも一つ一つのページを順番に見ているぶんには、 古いパソコンでも困らないけれど、たくさんのページを一度に開くときには、 回線の速さよりも、むしろパソコン自体の性能が律速段階になる印象。

発表の準備に Power Point 使ってたときには全然不自由してなかったのだけれど、 遊びの文章、たくさん読んで、ちょっと調べて書き飛ばす、こんな文章を書くときには、 コンピューターパワーは、あればあるだけ快適だった。

これでもっとたくさんの文章を読めるはず。

2008.03.06

ドーム型の没入ディスプレイがほしい

ドームの内面全てに映像が出力されるような、没入型ディスプレイが 家庭に普及したら、きっと面白い。

今のテレビとか、パソコンは平面ディスプレイ。もう何十年も前から 当たり前のようにそこにあって、薄くなったり大きくなったり。改良は続けられてきたけれど、 平面は「窓」にしかなれなくて、「向こう側」に行くためのドアにはまだ遠い。

未来世界のこと

もちろん未来になっても、川を渡るときには橋を使うし、 車はやっぱりタイヤで走ってるんだろうけれど、 SF はそれではつまらない。

SF 世界のディスプレイは、空中投影される画面だったり、あるいは立体映像だったり。 それは正しい未来予知だけど、相手を「向こう側」に知覚するデバイスは当たり前すぎて、 平面ディスプレイの考えかたから自由になっていない。

社会の窓として、平面ディスプレイは未来でも受け入れられるのだろうけれど、 SF はやっぱり、そんな既成概念に負けちゃいけない。

平面ディスプレイは実用上十分で、それが無い光景なんて想像もつかないぐらい、 それがある風景は日常になっていて、もはやそこから「驚愕」を生み出せない。

ドームディスプレイは邪魔なことこの上なくて、「ながら見」を徹底的に拒む。 映像を体験するという、ごくつまらないことだけのために、 その人の全リソースを要求する、欠点だらけのデバイス。

平面に比べて全てが劣る、その代わり、ドームディスプレイは、 今までの平面ディスプレイでは絶対実現できない、 「没入」という機能を当たり前のように実現できる。

ドーム映像の没入感はすごく分かりやすくて、みんなびっくりする。 「驚愕」にはきっと、新しい何かが隠れている。「そんなものには意味がない」だとか、 「昔ながらのやりかたのほうが優れている」とか、たいていそんな考えかたは、 最初は批判で迎えられるんだけれど。

こんなことができる

直径3m ぐらいのドームを、極低圧の空気で膨らませて、液晶プロジェクターを周囲に4台、 それを制御する本体と、サラウンド音声だすスピーカーとをセットにして、 ゲーム機としてとりあえず3000万台。大量生産前提で、 思い切りコストが下げられれば、それはきっと、新しい映像インフラになる。

こんなふうに見える。

  • ドームディスプレイを挟んだテレビ電話は、今までとは全然違う体験ができる。 たとえば 4 方向向いたカメラを使って、ドームに入ってオンラインになると、 次の瞬間、自分は相手の部屋に居る。2人ともドームに入ると、人間以外何も映らないから、 バーチャル世界みたいな「壁紙」を、わざわざ映す必要が出てくる
  • ドームディスプレイに対応したアダルトビデオなんかがあったら、すごく奇妙なことがおこる。 自分がどこか知らない部屋に居て、そこには自分以外に 2 人、裸になった男女がいて、 自分のことなどおかまいなしに、いかがわしいことをはじめる。すごい疎外感が味わえる
  • 一人称視点のゲームは、もちろんすごく面白くなる。後ろから敵に襲われたり、 天井からモンスターが降って来たりという表現が、ドームだと当たり前だから
  • 没入ディスプレイで、ゲームをずっと続けていたら、今以上に現実との境目が曖昧になる。 セカンドライフみたいな架空世界は息を吹き返す。あれは空を飛べるから、 とんでもないことがおきるかも

やっぱりゲームをしたい

全周に映像が出るドームスクリーンの中で、空中戦を楽しんだりしたい。 ホラーゲームなんか、「音が聞こえて隣を見たら、そこにジェイソンが座ってた…」なんて映像が 簡単に作れる。「血の雨」とか本当に上から降ってくるから、 きっと今までとは比べものにならないぐらい怖い体験ができるはず。

ただ単純に、海の中にカメラ沈めた映像見るだけでも、 「そこにいる」体験できて、すごく面白いと思う。 カメラを4方向に向けて並べれば、「世界」それ自体を切り取れる。 そんなカメラを積んだ車を世界のあちこちに走らせたり、 飛行機とか潜水艦とか、ライブ中継する番組あったら、 それを漫然と眺めるだけで、一日潰れる。

ドームディスプレイでゲームが発売されるようになったら、 どこか架空の町に「住んで」、郵便局員をやってみたい。

スーパーに牛乳を買いに行ったり、銀行でお金を下ろしたり。架空の町で日常を過ごして、 友達と狩りを楽しんだり、町を歩くパレードを盛り上げたりできたら、 それはきっと、とても素敵なことだと思う。

2008.03.05

改良の誤謬

デザインは記号との勝負

デザインとは、橋の形を考えることではなく、向こう岸への渡り方を考えることなのだという。

デザイナーが「橋」という使い古された記号にとらわれる限り、新しい発想は生まれないし、 橋が記号として再発明されるなら、デザイナーの出番はない。

デザインとは記号との戦い。デザイナーは記号に挑んで、 そもそもの「記号」が要請された需要を探って、 記号をデザインした人が、かつて成し遂げた成果を越えようとする。

橋という記号に負けたデザイナーは、うなだれて記号を受け入れて、その場を去る。 記号に打ち勝ったデザイナーは、新しいアイデアで顧客を驚かせて、 それでようやく、記号は再びデザインされる。

橋という記号を受け入れたデザイナーが、それでもそこに居座って、 橋を「改良」しようなんて考えたとき、たぶんすごく不幸なことがおきる。

顧客を驚かせるやりかた

ファミリーコンピューターがテレビゲームを支配してた頃、 ソニーの技術者は、「ゲームセンターでしか見ることができない、3D のゲームが家庭で楽しめる」 という驚きを提供することを目標にして、プレイステーションを作った。

驚きは受け入れられて、PS 1 はテレビゲームの新しい「記号」となって、大成功した。

次世代のPS 2もまた、「書き割りだった背景を、全て計算で作り出す」とか、 「高価なDVDプレイヤーを安価に提供する」だとか、まだまだ分かりやすい驚きを提供できたから、 やっぱり顧客は驚いて、PS 2 はよく売れた。

PS3 の時代になって、デザイナーは今度は、自らが築き上げてきた驚きを、 記号として受け入れてしまった。

新しいゲーム機は改良を受けて、今まで以上にきれいな画面で、処理速度も速かったけれど、 それは記号の延長だったから、顧客はそんなに驚かなかった。

ソニーの技術者は、新しい素子をものにしようとして、今まで以上に努力をしたのだという。 ところが技術にとって、驚きを伴わない「努力」というのはしばしば悪手となって、 技術それ自体を衰退させてしまう。

今まであるものが、記号として受け入れられたとき、それを「改良」しようとしたり、 目標を伴わない努力それ自体を重ねるやりかたは、不幸な結果をもたらす。

驚きを買いに来た顧客は、努力に支払う対価を持たない。 努力は報われなくて、あまつさえ「分からないユーザーが悪い」だなんて、 顧客を「改良」しようとする意志が透ける。改良されたはずのプロダクトは、 顧客から見放されてしまう。

正しい技術変化の方向

記号であることを受け入れた技術には、正しく変化すべき方向がある。

「一般化」と、「微細化」、「不可視化」。変化はこの方向へ為されなくてはならない。

技術の世界にも、たぶん「赤の女王仮説」が通用する。 走りつづけることで、初めて技術は、そこに止まれる。 走ることを止めたり、努力する方向を間違えた技術は、飽きられたり捨てられたり、 あるいは既得権益者扱いされて叩かれて、悲惨な結末を迎えてしまう。

テレビゲーム、医療や教育は、変化が要請されない、記号化した技術。 こんな分野が、何となく衰退したり、叩かれたりしている理由というのは、 たぶん「止まった」ことによる自壊であって、マスメディアや訴訟みたいな外的要因は、 技術が正しく「走って」さえいれば、問題にはならなかったのだと思う。

「戦艦」という考えかたを記号として受け入れたなら、技術者はその延長線上に、 安価な航空機の群れであったり、空母すら必要ない巡航ミサイルみたいなものを 想像すべきで、大きな大砲積むとか、絶対沈まない戦艦とか、そんな「改良」された 何かを見てはいけない。

あるいは記号との戦いを挑むのなら、戦艦が要請された状況、「戦いに勝つ」やりかたを デザインし直して、外交技術とか、世論誘導といったやりかたを考案するのが、 記号化を拒否する、顧客を驚かせるやりかた。

当時の軍人が、そんな意見に納得したとは思えないけれど。

医療のこと

医療や教育は、たぶん「生きていくのに不可欠である」ということに安住しすぎて、 正しい変化を志向できなかった。顧客を驚かせる体験も提供できなかったし、 一般化、不可視化といった、「正しい」変化もなされずに、 無目的な「改良」という努力目標を選択した結果、 顧客にそっぽを向かれてしまった。

救急医療が進歩した先に、技術者は、ドクターヘリなんかを想定してはいけない。

救急車は、正しく進化したら不可視化していく。タクシーに救急機能を持たせるとか、 軽症の患者さん限定で、電話と薬箱使った遠隔医療を許可するようなやりかた。 救急医療が進歩したなら、町を走る救急車の数は、むしろ減っていかないとおかしい。

基幹技術は、必ずコストダウンして、コンパクト化して、不可視化していく。 利権にしがみつく人達は、だから抵抗勢力となって邪魔をして、 技術を「改良」、重装化して、自らの立場を保とうとする。

戦艦という利権にしがみついた人達は、航空機の登場を読めなくて、 大艦巨砲主義に走った。救急車が進歩した先に、 ドクターカーとかヘリコプターとか夢見る人達は、やっぱりたぶん、利権にとらわれている。 努力という言葉のまじめさに隠蔽されて、気がついていないかもしれないけれど。

掃除機という技術を記号として受け入れたなら、その先に、掃除機も掃除ロボットもいらない、 「掃除のいらない床」を想像しないといけない。改良の誤謬にとり憑かれた人達は、 ここで「ほうきとチリトリ持ったメイドロボット」を想像して、努力に走ってしまう。

誰かが「掃除のいらない床」を発明したところで、メイドロボットの開発者は、 たぶんそれを「下らない技術」なんてこき下ろしたり、 「人類の幸せのためには、それでもメイドロボが必要なんです」なんて力説したり。

それは間抜けで、無残な光景だけれど、今の救急外来守ってる人達とか、 医療の「改良」に取り組んでる人達とか、同じ誤謬に陥っている気がする。

進化はやっぱりアメリカから。

医師以外の人がやるコンビニ診療とか、病院の枠を越えたデータの共有とか、 症状入れたら、全米の医師が検索されて、最も安い医者探すサービスとか、 google みたいな巨大企業がもう始めてて、たぶんそれなりに成功すると思う。 例によって「無料サービス」で提供されるから、普及するはず。

どこかで日本に入ってくる。自分も含めた日本中の医師は、 それを「医学の敗北だ」とか、「生命はコストじゃない」とか、 「医師以外の人に身体を預けるなんてありえない」とか、きっと猛反発する。 それが成功しちゃうと、一部の専門家以外、もう今までみたいに利権で 食べられないから。

記号となった技術には、進化の段階というものがある。技術者は、自ら乗っかっている 技術が今どの段階にあるのか、自覚的でないといけない。「正しく」進化したはてに消え去るか、 消えるのがいやなら、記号に戦いを挑まないといけない。

いつか「そのとき」が来た時は、せめて見苦しい真似したくないなと思う。

2008.02.29

透過的ルールと能力

うちの地域でも今度から、小児科医療が無料化するらしい。 県知事が会見開いて、「予算の問題はあるけれど、各地域協力してほしい」なんてやってた。

大学にも少しづつ小児科が増えて、うちの県限定で、 せっかく小児科が復活しかけてたけれど、これで「終わったな」と思う。

無料化は意思表示の機会を奪う

小児科を無料化すると、夜間の救急は、間違いなく子供が増える。 診るほうからすれば、子供さんはリスクの固まりだから、 子供が来たら、みんな小児科医に振る。小児科は潰される。

「軽い」症状の子供は、医師にとって一番怖い。

軽い子供は、極めて高い確率で何ともない。親御さんはだから、 「絶対大丈夫」という承認を買いに、夜中にやってくる。

子供は症状訴えないし、夜中に検査も回せない。 医療者側はどうやったところで「大丈夫」なんて言えない。 夜中に「わざわざ」やってきた親御さんは、満足感が得られないから トラブルになって、明け方に小児科医が叩き起こされる。

「無料」ルールは、「悪徳」医師を増やしてしまう。

最大の利益を上げようと思ったら、医療者側は検査を乱発することになる。 子供さん来たら、頭からつま先までCT 刻んで、ありえないぐらいたくさんの採血検査をだすことで、 収益は上がる。誰かがそれやれば、その地域では、それが当たり前になる。 同じサービスを提供できない「良心的な」医師は、今度は不誠実な医者と叩かれる。

無料ルールは、だから制度を悪用した人が一方的に得をして、 それ以外の「良心的な」医師は、自慢の良心を発揮できない。

患者さん側からは、そんな流れに対して、一切の介入ができなくなる。

成果に対して対価を支払う、従来のやりかたならば、患者さんは、 お金の流れをコントロールすることで、医療者側に自分の意思を伝えることができる。 無料ルールは、何をやっても「無料」。患者さん側は、判断の機会を一方的に奪われてしまう。

無料という、成果に対する判断を顧客から奪うルールは、だから必ず利権を生む。 ルールで得する人と、ルールで一方的に損する人が出て、個人の努力が無意味化する。 長期的に見て、間違いなく現場が疲れて、回らなくなる。

顧客に判断をゆだねるやりかた

患者さんに医療現場を「育てて」もらおうと思ったならば、病院の外来に、 タクシーメーターみたいなものを取り付けるといいんだと思う。

外来で世間話して、「一応採血見ときましょうかねー」なんて医師が呟いたら、 外来のメーターが 10000 円ぐらい、いきなり跳ね上がって、患者さんがびっくりするような仕組み。

タクシーメーターは、それが動くことで、患者さんにそのつど、自ら受けるサービスの 価値判断を強要する。自らの体調とか、常識と照らし合わせて、医師の「一応…」には 果たして10000 円もの価値があるのかどうか。

価値があると思えば話を流せばいいし、価値が無いと思ったならば、検査を断るか、 医師に説明を求めればいい。医師だって説明するの面倒だから、そんな行為のくり返しは、 やがて「分かりやすい外来をやる医者」を育てることにつながる。

ルールを改訂して、サービスを充実させようと思ったのなら、 サービスを提供する医療者サイドは「無脳化」する流れ、 サービスを受けるお客さん側は、頭を使うことが自らの利益になるような構造を 作る流れにしないと、そのサービスは良くならない。

提供されるサービスのコストが均一になれば、市場の見通しはよくなって、 査定がしっかりできる患者さんなら、もちろん不必要な検査を減らして、 経済的に得をすることができる。

判断を放棄する人は、その代償として高コストを受容しないといけないし、 リスク覚悟で低コストを選択する人は、今度は医師から「同意書にサインして下さい」なんて、 契約書の山を渡される。

受けるサービスは人により異なってくるけれど、本来は、 こんなやりかたのほうが「公平」なんだと思う。

議会制度のこと

サービスの現場を回すルールは、だから「透過的」になる方向を目指すべきなのであって、 「平等」とか「無料」みたいな、ルール自体がその存在を主張する方向に行ってはいけない。

問題なのは「議会制度」という、ルールを決めた人の「功績」が、有権者から見えること、 有権者の目に付くところに、いつまでも残ることに強い動機が発生する制度それ自体なんだと思う。

「無料」ルールはいくつもの自治体で行われて、現場無茶苦茶になっているのは みんな十分分かってるのに、それでも「無料」を強行するのは、要するにハコモノ作ったり、 道路敷いたりといった「功績」残さないと、次の選挙に勝てないからなんだろう。

立場が生得的な王制とか、賞賛やら功績やらがすべて個人に帰着する独裁者なんかは、 功績を「可視化」する動機が発生しない。センスのいい独裁者が、しばしば上手に国を盛り上げるのは、 たぶんこのあたり、理性優先でやれるからなんだと思う。

ルールを票につなげたいなら、表向きは「タクシーメーター」みたいな透過的ルール を提案して、その裏側で、医療費補助みたいな大盤振る舞いやればいいんだと思う。 患者さんが一度会計を済ませたあと、行政に喜んで尻尾を振るような、 「かわいい」人達限定で、お金をばらまけばいい。不公平だけれど、 「無料」ルールよりもよっぽど安価に、支持票を購入できる。

能力のこと

「公平な」ルールの元で得をするのは、「ものの価値を判断する能力」が高い人。

最初から収入のいい人は、価値判断なんて面倒事も含めて、医師から「購入」することができるし、 収入が低い人でも、ちゃんと価値判断を行ったり、利用可能な行政サービスに 自覚的になることで、コストと質の両立を目指すことができる。

物事を透過的なルールの元で運用すると、ちゃんと考える、 あるいは価値判断を行う能力が高い人は得をして、能力の低い、 今まで「声の大きさ」に安住して、利権貪ってた人達は損をする。

サービスを提供する側から見ると、これはすごく「公平」なことだと思うんだけれど、 こんな論理もまた、「価値判断を行う能力と、その人の収入とは、ほとんどの場合比例する」 という事実に目をつぶっている。

「ものの価値を判断する能力」というものは、しばしば収入に直結している。

能力高いのに、まじめなのに損してる人がたくさんいるのが今問題になっているんだけれど、 能力には無数の種類。収入につながる能力もあれば、たぶんそうでないのもある。

ルールの裏をかくとか、お得な抜け道探すとか、 そんな能力を持ってれば、収入が低くても「公平」ルールから質の高いサービスを引っ張ることは できるんだろうけれど、「公平」ルールで割り喰う人達は、 そもそもそんな能力に欠けているから、収入も低いし、いいサービスとも縁遠くなってしまう。

公平で透過的なルールを志向して、「お徳度」は能力に比例するやりかたは、 そこから割りを喰う人から言わせれば、やっぱり「平等じゃない」んだとは思う。

透過的ルールで得する人達は、きっと「ルールが平等なんだから、 能力ないのは自己責任」なんて言い切る。そんな論理に反駁するのは大変だし、 もう一つおまけに、弁が立つ人は、たいていの場合、 透過的ルールで得する側に回るから、相手を議論でひっくり返すのはますます難しい。

「公平なルール」というものを、自分は心から望んでるんだけれど、 このへんどう考えればいいのか、まだよく分からない。

2008.02.28

技術の先に見えてくるもの

技術は極限まで磨かれ無意識的に行われるまでにならなければ、 目的を達することは不完全になる。 自動車の運転はすべての操作が無意識的に行われてこそ、 景色を楽むことができる。技術者は技術の先にある成果を目標とすべき コメント欄から抜粋

コメント欄を読ませていただいて、 こういう考えかたもあるんだな、と正直驚いた。「技術の先に見えてくる世界」というものは、 自分にとってはしばしば、「技術を商売に結びつけること」だったから。

注) 以降「エンジニア」「技術者」という言葉を、設計や製作を行う人たち以外に、 広告を考えたり、プレゼンテーションを行う人達にまで、しばしば拡張して用いています。 うちでは昔からそうだったので。

武芸的な、技術的な

「技術を極める」という言葉から、武芸的な何かを想像する人は多いのだろうか?

「武士の魂」日本刀は、極める道具。それを極めてしまえば、もしかしたら 「斬ろう」なんて思った瞬間、相手の胴が落ちている域にまで極め尽くせるけれど、 武器としての日本刀は無力。鉄砲には勝てない。

技術を極めていないのに技術のことを語る、自分みたいな輩は、「手段を目的として混同している」 なんて、たぶんベテランに叱られる。技術語ってる暇あったなら、もっと技術極めろなんて。

自分が想定していた「技術」というのは、それが日本刀なら、目標を「殺すこと」におく考えかた。

「日本刀」という技術を極めていった先には、もっと扱いが簡単な「槍」が来て、 さらにそれを延長していくと、鉄砲に行きあたる。

日本刀の技術を極めて、たとえば名刀持った宮本武蔵を10人作れば、その集団は 接近戦では無敵だろうけれど、現代のライフル銃を持った素人が100人集まって、 宮本武蔵の集団と戦ったなら、たぶん勝ててしまう。

名刀の値段はものすごく高いけれど、 AK47 あたりのライフルならば、安いところで買うと5万円もしない。

「技術を極める」という言葉から自分が想像していたのは、「コストダウン」と「大衆化」 であって、何かを深く極めていくようなやりかたは、武芸に近い感覚。

工学で使う「技術」とは別に、武芸的なやりかたには、何か別の言葉が要る。

技術者にとって誠意とは何か

「品質向上」なんかですら、あるいは技術の本質から外れた「無駄」な目標なのだと思う。

本当に誠意を持った、あるいは技術に対してストイックな技術者は、 プロダクトの精度を公差範囲に納めることができたなら、 今度は「どこから手を抜けるのか」を考えないといけない。

要求された仕様以上の精度を出すための努力というのは、 技術者のありかたとしては、むしろ「怠慢」だと面罵されるべきであって、 それを美談にしちゃいけない。

日本のエンジニアは、どこかでこんな誤謬に捕らえられて、技術を評論する人達もまた、 「もの作りは日本のお家芸」なんて、問題を悪化させる方向に煽ったけれど、 エンジニアの人達は、やっぱり舵の切りかたを間違えた。

技術者は、本当に品質向上を「売り」にしたかったのならば、 それをブランドイメージにつなげる努力を、 もっとあざとくやるべきだった。

ツーリングカー選手権のこと

1996年の日本ツーリングカー選手権では、ホンダアコードと、トヨタエクシブが、 優勝を争った。

ツーリングカー選手権の新しいルールが告知されて、一番最初に車を仕上げたのは、 マツダランティス。わざわざV6 2L のエンジン開発して、市販車にロールケージを 張り巡らせて、「プロトタイプカーと同じだけのボディ剛性を達成しました」なんて、 モーターショーで発表してた。

最初不振だったホンダは、見た目は市販車、中身は別物の化け物を投入して、 96年シーズンを勝ちつづけた。マツダみたいにまじめにルールを守ったチームは、 この頃もう勝てなかった。

「ホンダは汚い」なんて、いろんなメーカーがホンダを非難したけれど、 ルール解釈の議論はグダグダになって、そんな中でも ホンダは速くて、レースを勝ちつづけた。

シーズン終盤、「やっぱりホンダのポイント無くそうよ」なんて落しどころが見えた頃、 トヨタは新聞広告を出して、「トヨタ優勝」なんて大見出しをつけた。

同じ戦略も、視点の置きかたによって「汚い」と思う人もいるし、「すごい」と思う人もいる。

「勝つこと」を目標にして、ルール解釈を含めた「技術」を極めたホンダも、 「優勝」の文字を広告に入れることを目標にして、競技それ自体の破壊まで 視野にいれて頑張ったトヨタ自動車も、戦略に対する解釈は様々だろうけれど、 技術者として、みんな「頑張った」んだと思う。

「まじめに努力した」マツダの人達は、もしかしたらもっとも「頑張らなかった」のかもしれない。

マツダの技術者はルールを守って、結果はたしかに負けだったけれど、 その「負けっぷり」を武器にして、「どんな逆境でもルールを守る技術者集団」なんて イメージを作ることだってできた。

「まじめな技術者」というイメージは、もしかしたら「優勝」なんてものよりも ずっと高い価値を持っていたのに、技術者はそれでもイメージの運用をしないで、 ひたすらまじめに「ルール違反」したチームを叩いてた。

その態度はまじめだし、時には美談として語られるけれど、 本当は怠慢なんだと思う。あのときのマツダは、本当はトヨタ以上の大勝利だってできたのに。

日本一の乗用車は何か ?

初心者が運転するのにもっとも安全な車は何か ?

免許とってすぐの頃、いろんな自動車メーカーの人達が、わざわざこんなこと考えてくれた。

結論はすぐにでて、「やっぱりカローラが日本一」なんて結論。 ほとんど全員一致で決まったらしい。

カローラには、「国内では数km ごとに代理店があって、 日本国内では事実上、どこで故障が発生しても、歩いていける距離に修理工場がある」 という強みがあって、こればっかりは他のメーカーでは、絶対にかなわない。

車の絶対的な性能だけを論じれば、きっとどのメーカーの人にも「技術屋のプライド」が あるんだろうけれど、初心者がはじめて乗る車という限定をかけると、 車と、車を取り巻くサポート施設という、「系」としての信頼性は、 当時カローラにかなう車はなかった。

あの頃から、自動車を作る人達は、性能というものを「車単体」で考えてなくて、 代理店とか修理工場とか、車を取り巻くシステムを通じて、性能を論じていた。

技術者が、技術を極めた先に見るべきなのは、「極めて来た技術それ自体が不必要な世界」であって、 技術それ自体を極めるべき対象にする考えかたは、もしかしたらしばしば、 「改良」を拒んでしまって、進化を志向する人達の足を引っ張ってしまう。

問題を「系」として考えて、解決すべき目標を運用、改良しつつ、 要素の技術を大衆化、一般化していくことが、技術者が目指すべき「努力」。

それはきっと、同じ「工学」である自動車工学も、医療もまた、変わらないのだと思う。

2008.02.21

公立病院民営化について

国内にいる全ての医師を国家で召し上げて、政府の人達が、地域の需要に応じて 医師の配置を決めればいいんだと、今でも思ってる。毛沢東国家主席がかつて行った、 「文化大革命」の時みたいに。

世の中から「開業医」という仕事はなくなって、地域の基幹病院には、 医師があふれかえる。ベッドも医療費も限られてるから、 外来の待ち時間は倍ぐらいになって、医師の給与は半分以下になる。

その代わり、人手が増えるから、当直明けには家に帰れるし、 勤務する日はものすごく忙しいけれど、週の半分ぐらいは、 もしかしたら仕事しなくても大丈夫。

国家管理と自由化と

全体主義とか大好物なんだけれど、インフラ事業を国家で管理すると、たいてい大失敗する。 たとえば農業ならば、ソビエト連邦のコルホーズであったり、中国共産党の人民公社であったり。 いずれも国家が旗振って、生産が激減した。

仕事をしても、それが個人の報酬に跳ね返らない、国家管理のやりかたは、 現場の士気が低下する。いくら人をつぎ込んでも、効率が落ちてしまう。

コルホーズや人民公社を復活させたのは、「自由化」という処方箋。 市場経済が始まって、国が自由生産を認めるようになって、 生産高がそのまま農家の収入になったコルホーズの生産効率は、数年で倍以上になった。

全てを自由化して、報酬を「市場」が決定するアメリカ方式は、 理論的にはすごく効率のいいやりかた。

医師はみんな頑張る。頑張るから医療の供給量が増えて、 国民に安価で安全な医療を提供できる、はずだった。

アメリカの医療は今のところ、ちょっと割高で、あんまり上手に回っていない。

市場設計は難しいのだそうだ。アメリカ医療の失敗は、市場設計の失敗であって、 自由化とか、市場化とか、そんな方法論それ自体の失敗ではないのだと思う。 農業だったり工業製品だったり、市場化というやりかたは、いろんなものを豊かにしているのだから。

医療を自由化すると、アメリカみたいな地獄だよ」という言いかたには、 欺瞞が混じっている。アメリカ医療を論じるときは、むしろ「アメリカは医療の自由化を 果したのに、なんで効率のいい市場を創れなかったのか?」という、 市場の失敗を論じないといけない。

自由化というやりかたそれ自体を否定する論拠に、 アメリカ医療を引き合いに出すのは、何か間違っている。

市場は本来の価値を明らかにする

アメリカ政府は、携帯電話のサービスを民営化するとき、 オークションによる入札制度を採用した。企業の人達は、 政府が想像もしていなかったような高値をつけて、 政府に莫大な収入が発生したのだそうだ。

自由化に反対する人達は、要するに「不自由な現在」から利益を得ている人達。

自由化以前、企業の人達は、政府が用意した携帯電話の権利を不当に安く利用していて、 そこから莫大な利ざやを稼いでた。市場を通じて、その権利本来の価値が明らかになって、 その利益はインフラを提供していた政府に還元された。

医療を自由化しちゃいけない

自由化に反対している人達は、要するにそのへんよく分かってて、 自分達が利用しているサービスが「自由に」なって、本当の価値が公開されては困るから、 「アメリカみたいな医療にしちゃいけない」なんて反対論をぶち上げる。

患者さんが困るなんて言いながら、その実自分達が一番困るから。

インフラ維持のコスト

いろんな人達が乗っかっていて、実質「無償」で利用されている インフラの代表が、公立の基幹病院が提供している医療サービス。

インフラの維持にはコストがかかる。そのコストは本来、 インフラから利益を得ている人たちから、市場を通じて支払ってもらわないといけない。

大赤字出してる基幹病院抱えてる地方自治体は、 その「守備範囲」で開業している先生がたから、 インフラ利用料として、たとえば一施設あたり 年間1000万円程度の料金を徴収すればいいのだと思う。

「いざ」というときの入院先がなかったら、無床で開業している施設は回らない。

もちろん生命は大切で、今は施設間の患者移動には料金が発生しないのだけれど、 無床で開業しているクリニックは、「そこに基幹病院がある」という事実 を基盤にビジネスを行っていて、今はまだ、そのインフラに、 いわばただ乗りしている状態。行政はたぶん、対価を求める大義を持っている。

ベッドの市場化がもたらすもの

「ベッド」の料金は、大体1000万円前後。開業した先生がたが、 「もしも自分がベッド持ち要員の医師を雇ったら、年間いくらまで払ってもいいだろうか?」なんて 自問したら、大体これぐらいになるはず。

たいていの大きな都市には、基幹病院に相当する施設が複数ある。 それぞれの施設が「ベッド料金」を提示して、近隣の開業クリニックの人達が、 たとえばフォローしている患者さん300人あたり「一床」を 購入するルールで市場を創ればいいと思う。

ベッドが少ない地域なら、「ベッド料金」は高騰する。 無床診療所にもベッドを作る動機が発生するだろうし、行政の収益は上がるから、 基幹病院の運営はわずかでも楽になる。ベッドがたくさんある地域は、 逆に多くのクリニックに、ある程度安価にベッドを販売できる。 今度は患者さんの紹介率が向上したり、市場を通じてベッドを多く持っているメリットを生かせたりする。

地域ごとで違うだろうけれど、基幹病院一つの「守備範囲」には、大体40ぐらいのクリニックがあって、 その人達から「ベッド料金」を徴収すれば、年間4億円程度の収益が生まれる。 基幹病院の運営にはお金かかって、4億円程度のお金では状況全然変わらないけれど、 それでもたぶん、お金があって困ることはないと思う。

一度開業したクリニックを移転するのには、莫大なコストがかかる。「お金払ってよ」なんて 言われて、「嫌だから出ていくよ」なんて答えられるクリニックは、決して多くないはず。

対抗論理と今後

「インフラただ乗り論」に拮抗するのは、「コンテンツただ乗り論」。

回線を提供している電話会社が、「インフラにただ乗りしている」なんて、 帯域独占してた業者の人からお金を徴収しようとしたとき、 業者は逆に、「自分達がいいコンテンツを提供したからこそ、 回線の需要が増して、電話会社に利益が入ったはずだ」なんて、 「電話会社はコンテンツにただ乗りしている」なんて切り返した。

患者を「生む」のは誰なのか。地域医療を本当の意味で支えてるのは誰なのか。

このへんの議論は、たぶん今まであまりされていなくて、 「コンテンツただ乗り論」を唱える開業医の人達と、 今までクリアでなかった部分を明るくしていく議論を行えたら、きっとすごく楽しい。

宮崎県の東国原知事あたりが、「タレント知事のサプライズ」みたいな形で 議会に提案するのが最善手かもしれない。

タレント知事の人達は、存在それ自体が メディアであって、立場じゃなくて人間それ自体に支持基盤を持っているから、 こんな理屈の「面白さ」とは相性がいい。

「明日からお金とろうよ」なんて無茶な提案も、 「そのまんま東だから」でそのまんま通じそうだし、 なによりも「知事がこう言った」なんてニュースは、間違いなくメディアが取り上げる。 医師会はもちろん反発するだろうけれど、もしも対応が後手に回れば、 きっと議論が盛り上がる。

医療を「よく」するという言葉には欺瞞があって、「よさ」というのは視点と方向とを 持ったパラメーターだから、何かを「よく」すれば、必ず誰かが割りを喰う。

「面白さ」は、方向性を持たない概念。「市場化」は、医療を「よく」する保証はないけれど、 地域医療はきっと、間違いなく「面白く」なる。

2008.02.19

医療のない都市のこと

隣接する市の救急体制が完全に吹き飛んだ。

10 万人以上住んでるところなのに、夜になるともう、どの施設も救急取らない。

そこにはたしかに救急輪番制もあって、「救急指定」うたってる病院は いくつかあるけれど、実質機能していない。専門家がいないだとか、 能力的に受けられないだとか。

夜中に厄介な人が病気になると、その市ではみんな白旗揚げて、 救急車は1時間ぐらいかけて、うちであったりもっと大きな病院であったり、 どこか別の街まで救急車を走らせる。

こんな状態は、せめて議会で問題にはなってるんだろうけれど、 書類上はたぶん、その市の救急体制は「足りてる」ことにされていて、 行政は、今以上の行動をおこせないはず。お金かかるから。

「だろう」が全てを悪くする

必要な能力を定義しないで、状況を定量的に評価しない、 「あるだろう」、いざとなったら「できるだろう」で思考停止する構図は、 なんだか昔の日本軍に似てる。

旧軍では、部下は「忘れました」以外の発言は許されなかったらしい。

上司が判断を間違える。伝えるべき言葉を伝え忘れる。これはもちろん、明らかに 上司の責任なのに、上司の不実は、すべて部下の「忘れました」という謝罪に帰着させられた。 「聞いていません」は許されなかったらしい。

前線では、武器も兵士も足りなくて、それでも現場は、 上層部に状況を伝え「忘れる」ことを余儀なくされて、 現場の装備は足りてることになって、その戦争は勝てることになった。

最高意志決定の段階では、現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けている時は特に。 戦力は「足りてる」こと、戦争は「勝てる」ことにされて、事態はどんどん悪くなる。

現場から遠い場所ではたぶん、楽観主義が現実に取ってかわる。 それは行政の人達も、あるいは「頑張ってください」なんて、 安全地帯から応援を、ついでにめんどくさい患者さん投げてよこす開業医の人達も。

インフラにただ乗りして、そこから利権を得ている人達。足下はもう崩れかかってるのに、 それを見ようとしない人達。彼らにこそ、現場の状況届けないといけない。

能力定義と救急の市場化

問題は要するに「できるだろう」で流されてしまう、今の救急体制。 救急外来を回す能力を、現場レベルで定義してないから、 上の人達に「だろう」で流されて、現場はいいように振り回される。

やっぱり必要なのはマニュアル化。

救急業務をマニュアル化できれば、そのマニュアルを回すのに必要な 人数であったり、必要な設備や病棟体制が決まる。「根性」とか 入る余地ないから、できないものはできない。

必要な設備と人数が決まったならば、今度はその施設が持つ設備から、 そこで一晩に診察可能な「患者処理能力」を定量できる。

能力を定量できれば、そこに市場が発生する。

少なくとも日本では、医療の能力を欠いた状態で、「都市」は存在し得ない。 その都市が持つ能力が、都市の人口に足りていないのなら、それは行政の責任として、 政治問題になる。「現場は頑張ってくれるはず」なんて逃げはうてない。

自前で医療機能を持てない都市は、本来「市」の名前を返上して、 能力を持った都市と合併するか、どこかから救急能力を調達して来ないといけない。

施設ごとの処理能力を定量して、都市ごとに持っている「救急取引枠」を市場化して、 お互いにそれを販売しあえばいいのだと思う。

救急能力が市場化されれば、たとえば大企業の誘致に成功して、多額の税収を得られることと、 医師をたくさん確保して、救急施設を潰さずに回せていることとは、両方とも「数字」として 行政の業績として、評価される。「救急取引枠」がいくらで販売可能なのかは分からないけれど、 行政側には、今まで以上に医師確保の動機が発生するはず。

ベッドなき医療は存在し得るのか ?

電話が極めて高価だった時代、「便りがないのは元気な証拠」をお互い徹底することで、 電話代を支払わないで、お互いが元気なことを知る人達が多かったのだそうだ。

彼らはたしかに電話線を使っていなかったけれど、「電話というインフラ」 それ自体を、やはり暗黙のうちに利用していたのだと思う。電話線にはもちろん、 「私は元気」という情報は流れなかったけれど、電話線がそこにあるという事実それ自体が、 「便りがないから元気なんだろう」という推測の、確実性を担保していた。

インフラというものは、だから「ある」ということから恩恵を受ける人も、 たとえそれを利用しなくても、コストを負担する義務が発生する。

開業してる人達にも、自分達「受ける側」の能力を購入してほしいなと思う。

助産院も、開業している先生がたもそうだけれど、あの人達は、 「後方に受け入れ可能な病院がある」という事実をインフラとして 利用していて、そこから自らの施設に安心感を付与している。

ベッドを持たないクリニックにだって、もちろん一定の確率で、入院が必要な、 具合の悪い患者さんが発生する。ベッドを持たない先生がたも、助産師の人達も、 だから本来、「緊急対応能力」を自前で備える必要があって、 それを「持たない」と公言したクリニックには、お客さんなんて集まらない。

医療の能力を持たない都市が存在しないように、緊急対処の能力を持たないクリニック というものもまた、本来は存在し得ない。

「能力の市場化」を行えば、開業医の先生がたは、 「救急の現場をもっと評価せよ」なんて行政に大声出すよりも、もっとずっと効果的に、 現場にお金を落とせるはず。それこそ、自分達が必要とする、あるいは、「評価」した能力に応じて。

労働の割りに対価が少ない、公立施設の救急回してる先生がたも、 市場を通じた評価が得られるならば、状況はずいぶん変わる。 公立施設が擁する医療資源は、莫大な市場価値をもつはずだから。

「声」届けることなんかよりも、よっぽど効果高いと思うんだけれど。

2008.02.15

医療サービス「紳士の薬箱」

これから先、専門技能とは無縁の一般内科が報われることなんて絶対ないから、 将来のことはいろいろ考えてる。

能力ないし、今さら転職とか、他の業界に移ったところでやっていけるわけがない。

開業医というありかたは、基幹病院が提供しているインフラにただ乗りしているところに どうしても欺瞞を見てしまって、やっぱりあれはやりたくない。

将来疲れたとき、健康保険制度に迷惑かけることなく自分が食べてける、そんな構想。

個人輸入薬のこと

一時期、5 日分で4 万円なんて報じられてたタミフルも、ブームが落ち着いたのか値段が下がって、 今アメリカから輸入して、15000円ぐらい。日本で処方するのに比べれば割高だけれど、 それなりに現実的な値段にはなってきた。

「幸福追求権」とかいう権利のおかげで、日本の規制は何故だか甘くて、 個人での使用に限ると、医師の処方箋なしでたいていの薬は輸入できる。

アメリカの業者をちょっと覗くだけで、抗生物質からタミフル、鎮痛剤や胃薬、 降圧薬、糖尿病の薬、果ては抗癌剤とか、血栓溶解薬の静注剤まで普通に販売されている。 本当に税関を通るのかは分からないけれど、少なくとも普通に買えるようにはなっている。

やっぱり興味を持っているのが、西洋薬で作った薬箱。

無診察診療はルール違反。健康保険を使わないで、 なおかつ医師と顧客とが「紳士協定」を結べるのなら、 ぎりぎりグレーゾーンでいけそうな気がする。

具体案

個人を対象にした、1年ごとに契約するサービス。富山の置き薬みたいなイメージ。

「薬箱」を企画して、必要な薬を「リンク集」の形で配布して、 契約した人には、各々薬を個人輸入してもらう。 契約者に自分の携帯電話番号を通知して、何か具合が悪くなったら電話で相談を受けて、 あくまでも「友人のアドバイス」として、輸入して手元にある薬を服用してもらう。

用意するのは、抗生物質3種類、各1週間分、タミフル5日分。 抗ヒスタミン剤2種類、吐き気止めと抗コリン薬、ちゃんと効く胃薬各10錠ぐらい、 咳止めと痰を切る薬各10錠、気管支拡張薬の吸入薬1本、 ステロイドの軟膏1本、抗生剤の軟膏1本、あと鎮痛薬2種類を各10錠、 プレドニンを20錠ぐらい。かゆみ止めと抗生剤の点眼薬。

個人輸入のサイトで検索して、全部個人輸入で計算したら、89000円。 国内で処方するのに比べて圧倒的に 高価だけれど、ギリギリ現実的な価格だと思う。

夜中の救急外来で、「明日また来て下さい」なんて薬を渡すときは、 たいていこんな薬を使う。あとは眠剤と整腸剤ぐらい。

眠剤は輸入できないけれど、国内の病院に入って「眠剤下さい」と 一言いえば、すぐ出してもらえる。整腸剤と経口補水塩は、 日本のドラッグストアで買ったほうが圧倒的に安価。

全部で9万円。高価だけれど、どの薬も100錠単位とか、量がすごく多い。 個人のサービスなんだから、薬なんてどれも10錠もあれば十分なんだけれど、 個人輸入はバラ売りしてない。 薬を「共同購入」してもいいなら、薬箱の値段は半分以下になる。

「薬箱」が対象にしているのは、夜間の救急外来に歩いてきて、薬をもらって歩いて帰るような症状。

風症状とか頭痛、胃痛みたいな症状に対してなら、リストに並べた薬で大体足りるはず。 手元に薬があって、なおかつ電話で医師のアドバイスが援用できるなら、その人はたぶん、 わざわざ夜中に病院に行く手間を減らせる。

購入してもらう薬のリスト、それぞれの薬に関する説明書、 症状を説明するための、体のいろんな場所に番号を印刷した抱き枕(このへんも紳士)、 自分の携帯電話番号をセットにして、1 年契約分、20万円程度で販売して商売にする。

契約した人は1年間、医師の携帯電話にかけ放題。薬のことから症状のこと、 単なるおしゃべりまで、そのあたりは自由に医者を使ってもらう。

問題点

輸入した薬の品質が保証できない。

一般的に使われている薬剤だから、たぶん日本の業者さんに見せれば本物かどうかの 区別はつくのだろうけれど、国内で作っているわけではないから完璧にはならない。 薬が効かなかったときは自己責任。バイアグラみたいな高価な薬は入っていないから、 向こうの業者が「偽造」を行うメリットも少ないはずだけれど。

法律の問題は、どこまでもついてまわるはず。

理屈の上では、健康保険診療を行っているわけではないけれど、叩かれない保証はどこにもない。 個人輸入した薬は、すべて個人消費が原則。契約した人が、誰か他の人に 薬を分けたら、それは罪になるはず。その罪が自分に及ぶことは無いはずだけれど、 「リスト」を提供した責任が問われそう。

薬を全て一括輸入して、業者さんに「本物」認定をかけてもらって、 必要な分だけ小分けすれば、圧倒的に安価に、たぶん3万円ぐらいで「薬箱」が作れるんだけれど、 今の法律では無理っぽい。

「大義名分」が存在しないのも厳しい。薬を個人輸入して診療に役立ててる人は、 癌診療とか保険外使用の薬とか、「命のため」みたいな大義名分のために グレーゾーンに踏み込んでいて、法律を違反したところで、道徳違反になりにくい。 「薬箱」による電話診療は、単純に便利で安直な診療形態にしかすぎないから、 グレーゾーンをとがめられたとき、後ろ盾になる大義名分が作れない。

「医師のアドバイス」というものを、「友人として助言しました」なんて強弁して、 法律の人達が怒らないのかどうか。こればっかりはやってみないと分からない。

信頼担保にかかるコスト

「薬箱」みたいな通信医療は、お互いの信頼が極めて重要になる。

医師はたとえば、50人程度の契約者と「1 年間電話かけ放題」で契約を結ぶ。 50人の契約者は、医師一人を1年間、共同で雇用する。

「医師の1 年」というものが、一種の共有地になる。 誰か一人でも「使い放題」をやってしまうと、その医者は潰れて、残りの契約者が迷惑をこうむる。

法律違反も全員に被害が及ぶ。契約を行った50人、全てがグレーゾーンを共有する共犯関係だから、 誰か一人でも薬を誰か別の人に使ってみたり、医師の携帯電話番号を教えたり、 何かトラブルを起こしたその時点で、サービスは崩壊してしまう。

こんなサービスはだからこそ、医師も契約者も、「私は裏切りません」という 信頼を担保できる人でないと始められない。

従来「誠実さ」は、お金で購入するものだった。

基幹病院も開業医も、みんな立派な建物を作る。あれはもちろん自慢要素だってあるけれど、 「立派な建物を作ったこと」それ自体が、自分は裏切らないでここで仕事をしますという 意思表示になっている。「開業しました」なんて広告を見て、行ってみたら倉庫みたいな プレハブひとつでは、怖くてだれも受診できない。

地位が高い人、収入が多い人というのもまた、そのこと自体がある種の「誠実さ」を担保している。 そんな人はたいてい忙しいし、収入が多ければ、契約料に対する負担感も少ないはずだから、 その人が医師のリソースを独占してしまうリスクは低くなる。

信頼を保証するにはコストがかかる。開業するにはだからこそお金がかかるし、 高い地位とか収入とは無縁の「いい人」は、高い信頼コストの割りを喰って、 その「よさ」を生かせない。

信頼担保ツールとしてのインターネット

「薬箱」システムは、だから大きなクリニックを経営している医師が、 社会的な地位が高い人達に限定してサービスを展開すれば、 かなり高い確率で上手く行く。「薬箱」までやらなくても、 山中湖クリニックとか、似たようなサービスはすでに始まって、 たぶん成功しているはず。

その代わり、収入が多くて地位が高い人なんて、 そんなにたくさんはいないから、サービスを広げるのは難しいし、 自らも信頼を「購入」しないと、そもそもサービスを始められない。

このあたり、あるいはインターネットでの発信行為が、信頼を担保する道具として 使えるのではないかと期待している。

ネットでどんなに偉そうなこと書いてても、それが本当かどうかを証明する術がない以上、 その人のピーク性能は測れない。その代わり、ネットで長く発信を続けて、 それでも今もなお生き残っていることそれ自体は、「とりあえず裏切らない」 ということを、ある程度保証してくれる気はする。

「薬箱」サービスは、電話で自信がなければ「本物の医者にかかってください」という 逃げが打てるサービスだからこそ、「裏切らない」という最低ラインの保証ができれば、 それで十分なのだと思う。

救急外来に来る患者さんの 90% は、その日に来なくても大丈夫で、歩いて病院にきて、 薬もらって歩いて帰る。こんな人達は、だからみんな「救急箱」の顧客なんだけど、 この人達に「救急箱」を提供したら、間違いなく医師が潰れる。

中途半端に便利だし、対価を支払った人達は、誰もがきっと、 「お得」な思いをしようと電話をたくさんかけるだろうから。

「いい人」が得をする構造を作りたいなと思う。保険診療みたいな 平等ルールは、今もこれからも、どう変わったところで「声が大きな人」が得をして、 「いい人」はいつまでも割りを喰う構造は変わらない。

自分もそのうち「平等」声高に叫ぶ人達に疲れるだろうし、今実際問題、 現場は平等ルールに疲れてる。現場の医師が、自らの「よさ」を発信して、 インターネットの存在が、どこかで割り喰ってる「いい人」を低コストで 発見する役に立つなら、その場所はきっと、平等に疲れた人達が憩える場所になる。

あと何年かして、もしも現場が嫌になったら。

とりあえずは無償のクローズドβ版から。。

2008.02.13

マニュアル診療の楽しさ

ガチガチの行動規範に縛られた医療現場は、それでもやっぱり楽しい、はず。

「楽しさ」というパラメーターは、要するに「特別さ」の度合い。 振る舞いが自由であることそれ自体は、「特別である」ことを保証しないし、 振る舞いが「量産型」に規定されても、 特別な人は、やっぱり特別な存在であり続けるから。

量産品を使うヒーローのこと

主人公が特別に作られた道具を武器に活躍する物語には、どうも共感できない。

読者の共感と、物語の盛り上がりを両立することは難しくて、 主人公が最初から超人だったら、読者の共感なんて得られないし、 主人公が最初から最後までダメ人間なら、物語が盛り上がらない。

超人的な努力をする主人公は暑苦しくて共感できない。かといって、 ちょっとした努力で超人化する「普通の人」になんて、誰もリアルを感じない。

普通の人間だった主人公が、何か特別な機械とか、その人にしか扱えない生物との出会いを通じて、 「特別な人間」となって活躍する物語は、だからこそ、妥協点として物語の定番になったのだろうけれど、 「特別さ」というパラメーターを、機械の性能であったり、相棒となった生き物の能力として 表現するやりかたは、やっぱり安直にすぎると思う。

大人が読むSF 、読者の共感なんて最初から想定しない「サイバーパンク」の世界では、 主人公は「量産品」を使う。

「ニューロマンサー」、「攻殻機動隊」、あるいはイーガンの遠未来SF にしても、 物語で描写される機械はみんな量産品。主人公みたいな特別な人達は、 自らの身体を機械化したり、脳内にソフトウェアを組み込んだりするけれど、 それはみんな量産品で、お金さえ払えば、その世界では誰にでも手に入るもの。

サイバーパンク世界では、主人公の「特別さ」は、 状況に応じた汎用品の選択だったり、 その人の行動とか、考えかたそれ自体として表現される。

「攻殻機動隊」の主人公なんかは、物語の終盤では脳髄だけになって、 最後には身体を手放して、単なるプログラムになってしまったけれど、 主人公を特別な存在にしていたのは、その人の思考であったから、 全てを失ってしまってもなお、主人公は主人公として特別な存在でありつづけた。

「特別さ」というパラメーターは、たぶん平均からの隔たりとして表現しないと、 説得力をもたない。何かのパラメーターを先鋭化させるほどに、 その人の能力はバランスを欠いていくし、何か飛び抜けた能力を得る代償は、 その人の弱点として、どこかで贖われないといけない。

「特別さ」を、何か特別な機械の能力として表現するやりかたは、 主人公が失うものが何もないから、説得力を持ち得ない。

それでもやっぱりプロトタイプが好き

削り出し。冷間鍛造。実験室グレード。 物語世界限定ならば、プロトタイプ大好き。

自動車の量産試作品なんて、あらゆる部品が削り出しの一品物。 天文学的なコストをかけて、技術者の愛情を一身に受けて誕生した、特別な存在。

特別だけれど、あくまで試作品。壊して限界を探るために作られたもの。 海の中とか砂漠とか、連れて行かれるのは苛酷な場所ばかり。 これから生まれる兄弟の中で、もっとも可愛がられて、もっとも苛酷な生を全うして、 最後は完全に分解される。プロトタイプは、そんな哀しさを背負ってる。

プロトタイプはお金かかってるくせにアンバランスで、信頼性が低くて、 「試作品を壊した成果」を取り入れた量産品にはかなわない。

アンバランスな、総合性能では量産品にかなわない試作品が、 そのアンバランスさを武器として活用できるだけの能力を持った伴侶を得て、 性能の高い量産品に互角の戦いを演じるような物語があったなら、 きっと強く共感できるんだろうなと思う。

もちろんそんな試作品は、性能的には不十分で、結局は量産品にはかなわないんだけれど、 そこは強度だけやたらと高い鍛造部品とか、自分を作ってくれた技術者の愛情なんかを糧に 根性見せて、最後はやっぱり、バランス取れた量産品に打ち勝つ。

「ターミネーター2」 みたいな、「根性を得た機械」の物語はどうしてこんなに面白いのか、 いつも不思議に思う。プロトタイプという存在を、そんな弱くて根性背負った存在として 描く物語があったら、きっと面白いと思う。

マニュアル医療のこと

診療行為の全てが「手順書」に記述されたところで、医療の楽しさみたいなものはなくならない。

何もないところから、診療手順をスクラッチする楽しさはなくなるかもしれないけれど、 今度は逆に、自分の「すごさ」をみんなと比較して、共有できる楽しさが始まるはず。

検査だらけの手順書を誰かが記述して、とりあえずそれを共有しても、意見は医者の数だけ存在する。

学会紛糾して、そのうちプロジェクトは「フォーク」して、たとえば東大版と京大版とか、 いくつものプロジェクトに分岐した手順書は、今度は統計的な結果を通じて、お互いのすごさを 比べあうことになる。

勤務医と開業医の争いというものもまた、手順の共有が、 能力が収入に直結する、公平なルールを作り出す。

マニュアル医療は、主訴と治療との中間部分に思考が発生しないから、 自分の施設だけでは「治療」に帰着できない患者さんは、より重装備の施設に紹介せざるを得ない。 もちろんこの時代、治療の対価は治療を行った施設が総取りすることになる。

能力が無い医師は、「深追い」しすぎて自施設では患者さんを診療できなくなって、 それまでにかかったコストもろとも、患者さんを大規模施設へと手放すことになる。 開業医にだってチャンスはある。診断能力が高いクリニックは、患者さんを見た瞬間に 「その先」が読めるから、コストが生まれない患者さんはさっさと大病院に紹介して、 軽装備のまま「おいしいとこ取り」ができるはず。

記述された診療手順が、たとえばフィリピンとか中国とか、日本ほどには医療設備が整っていない国で アレンジされると、もっと面白いことになる。

検査手順から「機械」をどこまで外しても大丈夫なのか、 コストを減らすことによって、安全率がどこまで下がるのか。「人の命が安い国」だからこそ、 その結果はとても役に立つはず。おそらく結果はフィードバックされて、 逆輸入された「軽量版」の診療手順書は、今度はきっと、軽装備のクリニックに支持されて、 手順書はまた進化する。

このへんはきっと、UNIXを進化させてきた人達と同じ物語。 あれを作り出した人とか、様々な改良を加えてきた人達は、 いろんな制限がある中で、それでもきっと楽しかったはず。

日本人はトランジスタを作れなかったけれど、トランジスタラジオを作った。 部品を作るのは苦手だけれど、コンポーネントを作るのは、世界の誰よりも得意。

日本の医師なんて、どうせ西洋人の書いた論文以外は信じないんだから、 日本発の臨床研究とか無駄なことやめて、さっさとコンポーネントを作るほうに 力を注いでほしいなと思う。

きっとすごく面白いことがおきるはず。

2008.02.08

真実の論理脆弱性

痛みの定量問題

「痛み」「苦しみ」みたいな、定量不可能症状は、評価をするのが難しい。

医療主義は、患者さんの訴えというものは全てが真実であって、 痛みや苦しみの原因は、もちろん患者さんの体内から発生すると考える。 ここを外すと、この商売は根本から成り立たなくなってしまう。

医療主義の通用しないケースはたくさんある。 痛みを訴えることで麻薬を手に入れようとする人たちであったり、 あるいは本人の自覚症状それ自体が、家族に心配してもらうとか、 何かの利益につながっているケースであったり。

家族がおろおろすると、あるいは主治医が近づいてくると、痛みが落ち着く人がいる。 家族が無視したり、医師が立ち去ろうとすると、痛みが強くなる。 こんなケースでも、本人の脳は「本当に」痛がっていて、 主治医がもしも「ウソでしょう?」なんてもらしたら、大変なことになる。

機能 MRIみたいな機械の発達や、あるいは痛み伝達物質の濃度を簡単に測定することが できるようになっても、「痛み」問題は解決しない気がする。 機械が表示しているのは、あくまでも脳血流とか、物質の血中濃度であって、 痛みそれ自体は測定できない。機械が仮に「痛くない」表示を出したところで、 本人が痛みを訴えたなら、たぶん誰にも、それを覆せない。

行動主義の考えかた

医療主義から自由な人達は、痛みや苦しみの原因を、患者さん以外の場所に求める。

行動主義の人達は、「患者さんが痛みを訴えるために要した仕事量」と、 その訴えを通じて患者さんが手に入れた、「周囲の人達の仕事量」との差分として、 痛みの定量を試みるかもしれない。

痛み収支が黒字、訴えによって得られる利益が大きいならば、その患者さんは訴えほどには 「痛くない」かもしれないし、収支が赤字、利益なしの訴えならば、 その患者さんはきっと、本当に痛い思いをしているはず。

こんな考えかたは、患者さんの人格とか、重症度を無視しているし、 何よりも実体としての「痛みそれ自体」をまったく見ていないけれど、 その代わり、「痛みを測定する」という目標には、案外近い気がする。

中国の餃子騒動のこと

いろんなところで話題になっている毒餃子のニュース。 「人間としての犯人」を想定して、報道されるいろんな事実をつないでいって、 餃子に毒を混ぜられる状況考えている人と、日本と中国の政治的な立場だけを考えて、 「日中両国に最もダメージの少ない落しどころ」を考えている人とがいる。

もちろん、中毒を生じて入院した人がいるのは間違いのない事実だけれど、 「事実」に影響を受ける人が圧倒的に多い、今回の事件みたいなケースだと、 たとえ犯人が自首してきたとしても、「それが真実だった」なんて納得は得られない。

冷凍餃子のパッケージに傷がついていたとか、工場の中は少なくとも清潔に管理されていたとか、 「事実」をつなぎ合わせた先は、「誰か日本に反感を持った個人の犯行だ」なんて結論だけれど、 「ルールに従わない個人の犯行」というのはまた、政治的に、最もダメージが少ない落しどころでもある。

今回の事件なんかは、たとえば「原因は小麦に入った農薬で、出所は不明で、犯人も不明」なんて 結論になったら、たぶん中国が受けるダメージは計りしれない。「倉庫に忍び込んだ犯人が原因で、 その人を逮捕しました」なんて結論ならば、少なくとも日中両国で交わした「ルール」は傷つかない。

「ある」はずのものをひたすら探すやりかたと、 「ない」ものを片端から除外していって、状況が取りうるあらゆる可能性の中から、 彫刻みたいに「ある」を削りだすやりかたと。

事実はもちろん「ある」ものだから、 後者のやりかたは邪道だけれど、状況を定量するやりかたが難しいほど、 状況にかかわる人の数が増えるほどに、「ある」を探すのは難しくなって、 「ない」を除外するやりかたが、しばしば役に立つ気がする。

真実の論理脆弱性

たぶんどんな真実にも「論理脆弱性」というパラメーターがあって、 真実をドライブする人達は、自ら運用している真実の脆弱性に、 常に自覚的でないといけないんだと思う。

たとえば道路の舗装に使うアスファルトなんかは、たとえばそれが癌の原因となったり、 あるいは特定の小児疾患の原因であると名指しされる脆弱性を抱えている。

アスファルトは、ローマ時代から使われている舗装の定番。日本中の道路が 舗装されて、今はもう、「新しい道路は無駄」なんて考えかたが正義になって、 道路で食べてた会社とか、利権貪ってた議員の人達とか、たぶん相当困ってる。

「道路を作る人達に残された仕事は、これから先は修理だけ」なんて状況になれば、 業界全体は本当に困る、はず。「道路のレガシー化」を食い止めようと思ったならば、 「道路は必要なんだ」と力説することもできるけれど、たとえば 「アスファルト道路は実は身体に悪かった」なんて、全く別の正義概念を打ち立てて、 正義の考えかたそれ自体を流動化させるやりかただってできるかもしれない。

「道路舗装が癌を生む」仮説なんて、たぶんまだないはずだけれど、 どこかの学者がこんなこといい出して、それが「科学的に証明」されたなら、 日本中の土建業界に、すごい量の仕事が発生する。日本再舗装計画みたいな。 新しい道路を作ることは正義に反するけれど、道路議員の人達が「子供の未来のために」 なんて涙ながらに訴えたら、それはきっと、「これ以上の道路予算は無駄」なんて正義を 運用する人達に、相当なダメージとなって効いてくるはず。

少なくともこの数千年、アスファルト舗装された道路のそばに住んでる人が、 癌でバタバタ亡くなったなんて話はないんだけれど、 そんな「事実」を要請する土壌だけは、もう十二分に整ってる。

「道路は癌を作らない」なんて事実を守る責任は、むしろ「道路は無駄」という正義を 運用する人達にこそあるのだと思う。

市場が事実を査定する

「事実」というのは、観察と仮説から発生する、はず。

でももしかしたら、「こんな話があったらいいな」というみんなの思いが極めて強力に働いたとき、 何もないところから「事実」が発生することだってあるのかもしれない。

「事実の真実性」というのも痛みと同じく、しばしば定量不可能な概念で、 そんなものを測ろうと思ったとき、「科学的な方法論」というのは案外無力だったりもする。

統計学は本来、こんなグレーゾーンにメスを入れる学問だけれど、あの人達の「それは違うんじゃない?」 なんて指摘は、たいていの場合、現場の強い反発で報われる。「統計好きな医者は、 学生時代に友達作れなかった暗い奴が多い」とか、 「いじめられっ子がエクセル君と涙の特攻ですかwww」とか。

陰謀論と紙一重ではあるけれど、こんなとき、「事実の発見に要した仕事量」と、 「その事実が生み出した利権の量」とを比較してみると、きっと何か面白いことが分かる。

事実が状況を駆動したのか、それともまた、状況を駆動したい人達が事実を要請して、 誰かがそれに乗せられたのか。

それを決めるのもまた、結局のところ「市場」なのかもしれない。

2008.02.07

自走式大腸内視鏡

  1. 「傘袋」みたいな細長いビニール袋を、入り口側から裏返す。ちょうど「ちくわ」みたいな物体ができる
  2. 袋の入り口側から空気を入れると、「ちくわ」は内側から伸びていって、元の形、棒状の風船に戻ろうとする。このとき、傘袋の「底」にあたる部分は、空気圧で前に進む
  3. 「ちくわ」が膨らんでいく先進部は、内側から外側へと、放射状にビニールが膨らむ。屈曲の強いところを進むとき、この動きがあるから、袋は屈曲に追従して、大腸を逆走しながら膨らんでいく

こんなことができるなら、その動きを利用して大腸カメラが簡単にできるようになる

  1. 「傘袋」を大腸カメラにかぶせて、袋の底にあたる部分を、カメラの先端に接着する
  2. 袋を途中まで裏返して、出来上がった「ちくわ」状の袋を直腸内に挿入、空気、あるいは温水を入れて、袋を膨らませる
  3. 袋は元の形を目指して大腸を逆走して、それと同時に大腸カメラは風船の中を空気圧で牽引される
  4. 袋が膨らみきったとき、大腸カメラは袋の長さ分だけ奥に入っているはずだから、肛門側から袋を破れば、後は通常どおり、大腸の観察が可能になる

ド素人でも簡単な大腸カメラの提案。無理 ?

大昔に流行った、野村トーイの玩具、「うなぎ小僧 つるべえ」というのがこんな仕組みだったはず。

空気圧とか使わないで、単純に少し肉厚のゴムの筒裏返して、 直腸側からそのまま押し込んでくだけでもいけるかも。

2008.02.06

「地域医療請負会社」の可能性

外科医が減ってるらしい。

この2年間ぐらい、全国どこの医局にしても、外科内科にはまともに人が入らない。 大学だけの問題ではなくて、県内で一番多くの人を集めた市中病院もまた、 残ったレジデントは、みんな忙しい科を避けたらしい。

「入局者ゼロ」が2 年も続いた医局には、もうだれも怖がって入らない。 そこに入局したら、2年分の雑用が押し寄せるのは見えてるから。

近くにある公立の基幹病院は、3月になったら内科がいなくなる。 医局の嫌がらせとかじゃなくて、もう出せる人がいないから。 うちの施設近隣、人口40万人圏内で、夜間にまともに機能している分娩施設はあと1つ。 内科外科系の施設は3つあるけれど、それが今度から2つになる。

一昨日の当直で、8 件断られたとかで、県境またいで、1 時間半かかって患者さんが来た。 うちなんか地図にも載ってない小規模施設だから、救急隊も場所分かんなくて、 電話で道を問い合わせながらやってきた。外傷なのに。受け入れるったって、 内科の自分しかいないのに。

大学医局は、眼科や皮膚科が大盛況。公立病院の外科ベッドが空になって、 赤字が累積していく中で、あるいは今度は、「白内障センター」とか、 「アトピーセンター」なんかが作られるんじゃないかなんて話してた。

コミットメントの力

「産科医が産科医らしく仕事をするためには、当直明けに休養を取る必要がある」

教室のトップがこんな宣言出して、医局が派遣をだしてる病院に、「当直の翌日は休み」の ルールを徹底するようお願いして、それを守らない病院からは人を撤退させた医局があるらしい。

宣言を行って、それを履行できない施設を本当に排除したから、その医局には信頼が集まって、 産科医冬の時代であるこの御時世にもかかわらず、 たくさんの研修医が入局したらしい。

たぶん、「ネットワークの緊密度」と、「そこに投じられる情報の量」には最適な割合があって、 今はたぶん、研修医同士の横のつながりが密になったのに、 投じられる情報量が圧倒的に不足している状況なのだと思う。

インターネットにつながれば、今はどの病院をみても、 「充実した研修」とか「やりがいのある仕事」みたいな、美辞麗句。

クリック一つで引っ張れる文字数は、自分達が研修してた頃に比べれは、 比較にならないぐらいに多くなったけれど、「情報」として役立つものはほとんどない。 複雑さを伴わない、単純にコピーしただけの情報は、いくら増えても「情報量」として効いてこない。

美辞麗句に食傷した、みんなが知りたいのは、たとえば医師の勤務時間のお話。 医局、あるいは病院として用意している訴訟対策のお話。 あるいはまた、仕事に見合っただけの対価、給料とか、生活場所とか、お金の話。

「いい研修」なんて漠然としたパラメーターとは別の切り口を前に出した情報は、 空疎な美辞麗句に対する解毒剤として作用して、きっと多くの人に届いたのだと思う。

今はみんなが情報を欲していて、そのくせ「耳に届く」情報を発信している施設が、 世の中にほとんど無い状態。冬の時代ではあるけれど、ある意味チャンスともいえるはず。

信頼の空白にビジネスが生まれる

公立組織は、昔も今も投げっぱなし。

医師が何をしたって自由だけれど、何をしたって患者さんは押し寄せるし、 近隣の開業医は、厄介な患者さんを時間外にブン投げる。それを診察しても、 あるいは断ってトラブル起こしても、すべては医師の自己責任。

もっと人増やしてくれとか、これ以上救急診れないとか、現場が悲鳴あげても、 自治体はやっぱりその人任せ。人増えないし、断ったら 「怠惰な悪徳医師がたらいまわし」とか叩かれるし、 頑張ったって給料増えない。組織は個人を守ってくれない。

赤字抱える公立病院は、どこも人件費率6 割越えで、そのくせ医師の給与割合が極端に少ない。 医師は大体3年ぐらいでやめちゃうのに、あとの人たちずっといるから。

医局がバックについてくれても、みんな忙しい。法律の話だとか、お金の話だとか、 どうにも苦手だし面倒で、個人と自治体、ぶつかりあっても答えは出なくて、 信頼関係だけがすさんでいく。

信頼の空白地帯には、新しい商売の可能性。

法律得意な人達とか、現在医師派遣の会社やってる人達とか、 自治体相手に交渉を代行する仕事が、これから流行るかもしれない。

給料のお話も大事だけれど、大切なのは、勤務時間とか、勤務を「定義」するお話。 このへんを詰めた労働契約書は、詳しい人じゃないと作れない。

  • 外科医が不在の、内科しかいない病院で外傷を受けるよう命ぜられたとき、責任の所在はどこにあるのか
  • 当直翌日、寝ぼけた頭で働いて、トラブル起こしたときに、自治体側のサポートは得られるのか

今はこのあたり、「お互いの信頼」なんて美辞麗句で隠蔽されて、実際問題「いざ」というときには 自治体側は何にもしてくれないのは見えてるんだけれど、個人ではなかなか交渉できないし、 言質取るにしてもどんな文章書けばいいのか分からない。

「交渉業者」なんて人達が出てきたら、「条件呑めないなら引き上げますが?」とか、 「○○病院はこんな条件で絶賛医師募集中ですが?」とか、個人で交渉するときよりも、 はるかにたくさんの交渉カードを切れるはず。

言質取る医者というのは、自治体側から見たら「悪い」やつらだけれど、 対価と引き換えに悪意を引き受けてくる、そんなビジネスをやる人達が、 法律畑からこれからきっと出てくる。

「医療請負会社」の可能性

「戦争の民営化」を成し遂げた、戦争請負会社みたいな存在が、 地域医療の現場に出てきたら面白いなと思う。

誰か公立病院の部長だった人とか、大学を退官した教授先生あたりが 代表者になって、法律の専門家と、交渉ごとの専門家とをパートナーにして、 社会のためでなく、株主の利益のために医療を運用する会社。今でも医師を紹介する 会社はあるけれど、もう一歩踏み込んだ会社組織。

医局の機能が変わらないかぎり、これから先、どう頑張っても僻地からは人が いなくなる。公立の施設とか、救急を受ける基幹病院なんかは、その傾向がもっと強くなる。

そんな施設に「個人」として勤務する人は、待遇に不満があったり、 「人命のためですから」みたいな美辞麗句につけこまれたり、 身の危険を感じたときには辞職という選択肢しかとれないけれど、 その人が会社組織に属しているなら、自治体と厳密な雇用契約が結べるかもしれないし、 不利な契約押し付けられそうになったとき、「本社と相談します」という手段が使えるようになる。

医師だけで作った団体は、たぶんあんまり上手に機能しない。

労働組合のやりかたは、みんなが同じ立場だからこそ、分断されたら無力だし、 医局や医師会は、構造上、違う立場を「同じ」なんて定義している時点で、内紛から逃れられない。 同じ医師同士、たぶん当直とか重症患者の管理とか、 厄介な仕事が誰かに押し付けられる機会は少なくない。 そのとき「仲間の集まり」は、共有のインフラにフリーライドする同業者を排除できない。

田舎に新しくできた総合病院が、同じ「内科」でも複数の会社から派遣された人達で、 一人一人、雇用条件がみんな違ってたり、医師の給与で議会がもめて、 契約の破棄がなされた瞬間、翌日行ったら医局が空っぽになってみたり。

「やりがい」とか「情熱」、使い古されて、あまつさえそんな感情とは最も遠い人達が、 稚拙なやりかたで勝手に運用する、こんな考えかたに振りまわされるのに疲れた現場に、 民間の会社組織が、信頼性の高いメッセージを届けることができたならば、 けっこう面白いことがおきそうな気がする。

それは医局が権益団体化へと変化するのを目の当たりにすること かもしれないし、従来の医局機能を営利組織が 肩代わりする構造かもしれない。どちらにしても、内科や外科を増やそうと思ったら、 情熱文脈以外のやりかたを導入しないと無理だと思う。

2008.01.25

幸福の複雑性

社会の「成功」を、富の大きさで判断することは正しいんだろうか?

たとえば「文字数」は、本を表現するパラメーターのひとつではあるけれど、 文字数それ自体は、「本の面白さ」を保証できない。白紙はつまらないけれど、 文字が膨大だからといって、その本が面白いとは限らない。

面白さというものは、「白紙」と「膨大な文字数」との間にあって、 文字数という測定可能な数字では表現できない、「複雑」な何か。

「幸福感」みたいな社会の空気もまた、そんな「複雑さ」に属するパラメーターなんだと思う。

漁礁を作る人

漁獲量を増やしたい漁師は、そのへんの岩とかスクラップを 海に投げ込んで、「漁礁」を作る。漁礁は藻が生える場所を作ったり、 魚が逃げ込める空間を提供したりして、生態系を複雑にする。

「自由経済最高、格差上等」なんてやりかたを進める経済畑の人達は、 「海底埋め立ててフラットにしたら、漁獲量増えて最高だよ」なんて主張。

そんなやりかたは、あるいは海が生み出すたんぱく質の総量を増やすけれど、 もちろんそんなことしたら、生態系壊れて地球が滅ぶ。

海の生産性、純粋な「肉の量」なんかじゃなくて、漁師の人達が海から引っ張るお金を増やすために 昔からやられているのは、やっぱり漁礁。海底の見通しを悪くして、環境の複雑性を増すようなやりかた。

フラット化が進んだ、今の格差社会はたぶん間違ってる。

間違ってるからこそ、「間違ってる」と主張する側は、 それに対抗する社会プランを提出する義務を負う。 恐らくそんな社会プランは、ばらまき上等のズブズブ福祉国家なんかじゃなくて、 社会の複雑性を増すような、「社会に漁礁を作る」ような政策。

個人的には、そんな「漁礁」を、地域貨幣の導入で作れるように思う。

「自由円」と「地域円」

生活保護のお金とか、あるいは道路工事で業者に支払うお金なんかを、 その地域でしか使えない「地域貨幣」で支払うところから始めればいいんだと思う。

全国区のお金が持つ問題点は、なんといってもその流動性の高さ。道路代とか「箱」代とか、 地元業者にお金が流れても、その人がコンビニエンスストアで弁当を買えば、そのお金は 東京にある本社のもの。地元救済のためにばらまかれたお金の多くは東京に集まって、 地域に「根付いた」富なんて、コンクリートの固まりばっかり。すごくもったいない。

額面は「自由円」と同じだけれど、その地域でしか流通できない「地域円」を県が発行すれば、 お金をお金のまま、その地域に残すことができる。

県が無制限に「地域円」を発行すると大変なことになるから、実際には県庁の金庫に「自由円」を ため込んで、それと同額の「地域円」を発行することになる。地域円は、不自由なぶんだけ 価値が下がる。県は地域ごとの「両替レート」を設定して、たとえば「1 円は1.4 長崎円」みたいな 告示を議会で決定する。

「両替レート」というのは、生態系で言うところの「地形」、山であったり海であったり、 暖かいところとか寒いところとか、そんな環境を複雑にするための道具として機能する。 地形効果を高める意味で、企業には、「労働の対価」を「自由円」で支払う義務を負ってもらう。

  • 地域円の両替レートが高い、地域円が「弱い」地域は、たぶん生活コストが安くなる。 同じ給料を得ても、地域円が弱いぶんだけ、「みかけの収入」が上がるから、その地域で生きていくのは楽になる。 その代わり、他の地域から何かを買うために必要な「自由円」を調達するのは難しい
  • 元々充足している便利な地域は、地域円を弱くする理由がない。 地域円が「強い」地域は、全国展開する流通業者にとって商売をやりやすい地域になるけれど、 地域通貨の収入増加効果が期待できないから、収入が低い人は住みにくい

議会はたぶん、「両替レート」を上下させる行為を通じて、自らの地域に特色を出すことができる。 対価が少ない、労働集約型の産業を誘致しようと思ったら、両替レートを高くすることで人口増加を狙ったり、 「オラが村はあくまでも東京目指す」みたいな考えかたの地方自治体は、たぶん両替レートを低くして、 全国展開する業者を引っ張ろうとする。

全国区のメーカーにしてみれば、たとえば車を 1台売ったとしても、 地域通貨を「自由円」にして東京に送るときに、両替のコストが発生してしまう。 地域円が「弱い」場所での商売は不利だけれど、代理店を全国展開しなければ、売上げは上がらない。

アニメーションスタジオみたいなコンテンツ産業であったり、コンピューターソフトをネット販売するような 企業になると、流通のことを考えなくていいから、今度は通貨が弱い地域のメリットを活かせる。

両替レートは市場に任せないで、「議会」で決める。ここを自由市場に任せてしまうと、 せっかくできた「山」や「海」は削られ埋め立てられて、結局元のフラットな土地に戻ってしまう。 個人レベル、非公式なルートでは、きっといろんな取引が生まれるんだろうけれど、 それもまた、環境を複雑にする方向に働くはず。

「一つの貨幣」で得をする人

「世の中に貨幣は一つ」なんて考えかたを常識認定することで利権を得てきたのは、 何といっても銀行家の人達。

石油の量も、小麦の収穫も、自分達の財布の中身も、何一つ変わらないのに、 気がついたら価格が上がって、財布の中身が相対的に減る。「減った」中身は要するに、 貨幣を運用する銀行家のポケットに集まってしまう。

それがどんなものであれ、利権を得ている人達は、やっぱり何だかずるい。 だからこそ「貨幣の多様化」を求める行動は、銀行家の利権に対する反対意志を表明することにつながる。

通貨の統合とか、「一つの世界」みたいな理想論は、何だかどこかいかがわしい。

生態系で「一つの世界」をやろうとしたら、川床はジャンボタニシで埋め尽くされて、 カブトムシやらモンシロチョウやら、昆虫類はアメリカゴキブリに食い尽くされる。 「勝者が全てを得る」グローバル社会は、たしかにその土地が生産するたんぱく質の 総量を増やすけれど、ジャンボタニシとゴキブリしかいない森を見て、 「豊かな自然でしょう?」なんて胸張れるのは、オリックスの宮内会長ぐらいだと思う。

自由通貨の政治機能

地域通貨制度は、たぶん生活に対するいろんな考えかたを許容する。 何か好きなことをやりたくて、生活はそこそこでかまわないなんて考えかたの人ならば、 たぶん「通貨の強い」地域に住む理由は少ないから、もっと住みやすい場所を探すだろうし、 全国区で何かやりたい、「便利」に対価を惜しまないような人ならば、東京をはじめとした 都市部に住む理由ができる。

地域通貨が流動性を放棄したのと対になる形で、「自由円」はもっと流動性を高める方向に 進化すると面白いなと思う。

今はまだ、現場を回してる特定の誰かに対価を支払いたいと思っても、 そこには「何とか委員会」とか、何のためにそこにいるんだかよく分からない爺さんが濡れ手で粟して、 ウハウハ喜ぶのばっかりよく見えて、何だか楽しくない。通貨の流動性は、まだまだ全然足りてない。

完全電子化、クリックひとつでどこにでも行ける、流動性が行きつくところまで行った通貨は、 消費すること、投資することそれ自体が、 その人の意思を表明する手段になりうる。自由な通貨を持っていることそれ自体が政治参加になるから、 政治という機能はたぶん、自由な通貨を持っていることと等価になっていく。

そんな流れは要するに、「お金持ち以外は政治参加できない」社会を作ることに他ならないから、 自ら生活する地域を特徴付ける「両替レート」だけは、だからこそ地域の議会が決定する。

ちゃんと回せれば政府いらなくなると思う。

分からないこと

「ヨーロッパは通貨統合して豊かになったよね?」と突っ込まれたけれど、 たしかにそのとおりで、反論できなかった。社会の「複雑さ」に相当するパラメーターは 測定不可能だから、そのへん議論ができない。パリの人達がマクドナルドをぱくつく社会は、 果して「豊か」といえるのか。それとも収入大切で、余計なお世話なのか。

「銀行のATM 打ち壊して、おっさん座らせたら複雑だよね?」なんて突っ込みも、反論できなかった。 それをやるとたしかに社会は複雑になって、おっさん一人ぶん、確実に世の中不幸になる気がした。

とりあえず公共事業費と生活補助費を「地域貨幣支払い」にするルールから始めると、 昔ながらの利権とバッティングしないで、「そこに金が落ちる」構造作れると思う。

何年かして、お金がある程度まわり始めて、全国区の「自由円」への両替欲求が高まったら、 今度は議会で「両替レート」を設定して、自分達の地域に「地形」を作る。

たぶん、もう少しだけ地方に住む理由ができて、日本全体での生産性はわずかだけ下がって、 その代わり、社会が生み出す「複雑性」は、今よりもう少し高まる気がする。

きっと面白いと思う。

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