2008年4月 3日
2008年3月21日
夢は描いた瞬間から陳腐化する
ニュース番組で、岐阜大学の救急医療情報共有支援システム「GEMSIS」が特集されていた。
「サンダーバード」に発想を得たプロジェクトで、数年がかりで取り組んでいて、 これが完成した暁には、救急医療の問題解決に役立つらしい。
開発するのに数千万円かかってて、完成にこぎつけるまであと5000万円、 数年後の普及を目指してて、各病院に設備を入れるのに、30億円かかるんだという。
報道されてたのと同じことやればいいなら、今すぐにでも無料でできるなと思った。
報道されてた機能
GEMSIS のネット情報は少なくて、全容はどうなっているのか分からない。 単なる情報共有のシステムなのか、それとも救急医のモチベーションを維持するための、 政治タームのお話まで含んでるのか。
GEMSIS の機能はこんなかんじ。報道されてたぶんと、ネットで検索した部分。
- その日に救急業務が可能な医師は、IC カードを通じて、システムに自分を登録する
- すべての医師について、得意分野が記入されていて、救急隊はそれを検索できる
- マップ情報とも連動していて、救急車からマップを検索して、一番近い施設を探せる
- どうも音声認識機能も搭載しているらしい
- 人工知能でな何かやることも想定しているらしい
GEMSIS が目指しているのは、要するに救急隊が現場に到着したその時点で、 近隣施設の空きベッド、そこに今いる医師の専門領域が一覧できて、 搬送先を決定できるようなシステム。音声認識とかAI で何をしたいのかが 今一つ謎なんだけれど、大筋は外してないと思う。
これだけの機能を統合するのに要するお金が5000万円。 ソフトと端末を近隣施設に配布するのに 要するお金が、30億円。
今あるネットサービス組み合わせれば、同じ機能を無料で作れる。
つくりかた
たぶん「はてなダイアリー」を使うだけで実現できる。
- 県内のすべての病院に「はてなダイアリー」の無料ユーザーになってもらう
- 各病院は毎日、その日に勤務する医師と、その人の専門領域を日記に書く
- 「狭心症」とか「胃癌」とか、医学用語は県内で共通のものを使用するよう、取り決めておく
- 「日記」の題名は、「○○県 ○○病院 GEMSIS」として、日付のあとには「内科○○医師 胃癌、異潰瘍…」なんて文字が並ぶ
- はてなダイアリーにはキーワード機能がある。患者さんの病名を「GEMSIS」という単語と一緒にキーワード検索すると、その日にその病名を記載した病院が、検索ワードリストに並ぶ
- 「はてな」はマップ機能とも連動している。救急車が今居る場所を住所で打ち込めば、近隣施設の検索は簡単
検索機能とマップ機能は、だいたいどこのサービスも、似たようなものを提供してるから、 たぶん「はてな」にこだわらなくても大丈夫。
すべて自前でやるなら、各病院がWeblog を同じ型式で書いて、 あとはそれを「Google blog 検索」で日付指定検索すればいい。今のGoogle は、 新しいエントリーを上げて15秒もすれば登録されるから、それで十分なはず。 GEMSIS なんて言葉は珍しい。たとえば「GEMESIS 岐阜県 胃潰瘍」なんて言葉で、 日付を指定して検索をかければ、その日に胃潰瘍を受け入れ可能な病院を リストアップすることができる。
スケールを全国区にしても、題名に「○○県」を入れておけば、 地域限定で検索をかけるのは簡単。Google マップに病院を登録するには 広告料がかかるだろうけれど、毎年それを支払っても、 たぶん30億円には届かない。
何を利用するにしても、ごく簡単な書きかたを取り決めるだけで、システムそれ自体は 今からでも稼働できる。お金はたぶんかからないし、 かけたとしても、たぶん年間数百万円オーダーでいける。 国内の日記サービスは、それでもときどき落ちるけれど、 google 先生は「全人類」相手にするサービスだから丈夫。 国内の救急施設2000ぐらい、いきなり増えても誤差範囲。
音声認識とAI 機能が、何をするものなのかがよく分からないけれど、 「救急医療情報共有支援システム」に相当する機能は、いずれにしても安価に作れる。 Web サービスは無料な分、「落ちた」ときに文句は言えないけれど、無料なんだから、 冗長性はいくらだって重ねられる。はてなはよく止まったけれど、はてなとgoogle が 同時に止まったことはないはず。
偉い人たちは、何か新しいことやるときに、 システム全部スクラッチする考えかたやめたほうがいいと思う。
「良心回避」の仕組み
妄想の域を出ないけれど、あのシステムはたぶん、 当直医が嘘を書きはじめた時点で、システムごと腐って終わる。
あのシステムで行くと、得意分野を「なし」と書いたり、 「末梢肺野病変診断における細径気管支鏡」とか、ものすごく狭い専門領域を書いてしまうと、 その医師はシステムから認識されなくなる。
救急輪番制は、「その日に空きベッドを確保する」ことにお金が発生するシステムだから、 死ぬほど働いても、寝当直しても、病院が受け取るお金は変わらない。
あのシステムはだから、「参加する医師全てが良心的で正直」であることを 前提にしてる時点で、なんだか無理あるなと思う。
道徳と良心を説いて、医師を正直にすることは難しいけれど、 「医師が正直に振舞わざるを得ない」システムなら、たぶん実装できる。
「医師には正直者がいない」ということを前提にシステム組むなら、 「得意分野」を入力するのは患者さんであるべき。
おなかが痛いときによく診てくれたとか、頭痛の原因突き止めてくれたとか、 「いい医師」を演じた医師の振舞いは、患者さんからシステム側に「密告」されて、 「いい医師」の専門分野が勝手に広がっていくようなシステム。 それを防ぐためには、その医師が「悪い医師」を演じる必要があるけれど、 それをやると今度は人気が落ちて、収入が減ってしまう。
GEMSIS の先生がたがどこまで想定しているのかは分からないけれど、 「医師から良心を引きずり出す」うまい構造を考えているのなら、 ぜひとも実現してほしいなと思う。
夢は描いた瞬間から陳腐化する
大学にいた頃、病院にLAN の回線が整備されて、インターネット接続が当たり前になった。
下級生に、掲示板とか Wikiなんかを利用して、みんなで情報共有を行うように勧めた。 もちろん自分は、スーパーユーザー権限で上から覗いて遊ぶつもりだったから、 「システム作るし、サーバースペースも貸すよ?」とか水向けたんだけれど、 彼らは結局、何も作らなかった。
「存在しない」と言ってたわりには、その学年のネットワークはよく動いてて、 誰か上級生の失言は、翌日にはすべての下級生が共有してたし、他科の笑い話とか、 みんな本当によく把握してて、大分振り回された。
2年ぐらい経って落ち着いて、結局「ない」はずのネットワークの正体は、 中心を持たない、携帯メールの伝言ネットの形をとって実装されていることが分かった。
本当に優れたものをインフラとして利用している人達は、 もはや「自分達がすごいものを使っている」という意識すら持たない。
自分なんかはその当時、ネットワークには中枢になるインフラが欠かせないと信じてたし、 中心を持たない、自己創発ネットワークなんて夢のまた夢だと信じてたけれど、 実のところ「夢」はとっくに実現していて、自分の真横でそれは普通に動いていて、 それを使っている当人達は、それがすごいことすら思ってなかった。
GEMSIS のシステムは、「サンダーバード」から発想したのだという。
サンダーバードのシステムは、 情報にノイズが乗ったり、システムが落ちたりすることなんて想定されてない、 誰もが良心的で正直で、仕事に対して宗教的な熱意を持ってた60年代の夢。
時代は進む。情報の純粋性を追求するやりかたは、 ノイズだらけの情報から欲しいシグナルを選択するやりかたへ。 システムの硬さを極めるやりかたは、不安定なシステムを複数重ねて、 冗長性で確保する考えかたへ。
今はもう、「落ちる」ことを想定しないシステムはありえないし、構造的に失敗する可能性のある、 良心みたいなあやふやなものに依存したシステムは、間違いなく腐って失敗する。
大学の救急教室の人達は、もちろん何年も前から試行錯誤を繰り返してきたんだから、 たぶん何か、「安いやりかたができない理由」を見つけたんだろうけれど、 できればその経過を教えてほしいなと思う。
「お金かからなくて、2年後じゃなくて明日から始められる代わり、 30 億円かけられないやりかたありますけれど、いかがなもんでしょう ?」なんて、 だれかが提案したとき、上の人達はどんな振舞いをしたんだろう ?
2008年3月 1日
道路のお金
今いる施設の敷地内には10mぐらいの道路があって、公道扱い。
ここを舗装するのに、だいたい 7000万円かかったらしい。
道路を100m あきらめれば、診療所1つ、医師ごと買える。
道路を1km あきらめれば、300床ぐらいの病院が建つ。
国道を1km あきらめれば、たぶん基幹病院も建てられる。
土建屋さんてすごいなって思った。
2008年2月18日
社会の情報構造
ジャンプしたり、走ったり。「筋肉が収縮する」という、ごく単純な動作の集積は、 骨格という構造により複雑な動作へと変換される。脳は身体を制御するけれど、 身体には、その構造それ自体に織り込まれている情報や「知性」を持っていて、 動作というものは、脳と身体との相互作用を通じて「創発」される。
身体の情報構造@デブサミDAY2より改変引用。
社会が持つ情報行動と、社会という系のなかで現場が陥ったかもしれない誤謬について。
社会記述の精度と不気味の谷
歩いていた人が、石につまづいて転ぶ。それまでは一定のリズムで収縮していた筋肉や関節は、 人が転んだ瞬間、今まで続けてきた動作を継続できなくなって、ダメージを受ける。
筋肉は目を持たない。お互いに、近くにいる筋肉が発生している「収縮力」 しか感覚できない。筋肉は収縮することしかできないし、自らつながっている関節の 働きであったり、「収縮」という行為それ自体が、人体をどう駆動することに結びついているのか、 たぶん分からない。
状況記述を行うときには、自らも「系」の一部でしかありえないということに留意しないと、 間違った結論を導いてしまう。人が転んだとき、たとえば「大腿四頭筋」は、 「梨状筋」のだらしなさを叩くかもしれないけれど、筋肉からは、道に転がっていた石は見えない。
状況を考えるときにはだからこそ、自分が観測した周囲の振舞いをそのままに 記載しようとする態度は誤りで、自らも含めた系が持つ情報構造、単純な筋収縮から 「歩行」や「ジャンプ」を生み出す身体のような、そんな社会の構造を意識しないと、 転んだ原因には行きあたらない。
マスコミが全て悪い、裁判官が、検察が、左翼市民がすべて悪いという考えは、 自分が昔から慣れ親しんできた世界記述「全てはユダヤ 12人委員会の陰謀だ」 なんてやりかたと、何ら変わるところが無い。思考停止は気持ちいいけれど、たぶん間違ってる。
実像はきっと、もっと不快で不気味で、やりきれない。
ロボットが人間に近づくと、近づくほどに親近感が増していくけれど、 ある一定以上に近づいたところで、親近感は急速に薄れていって、 「人間に近いこと」それ自体の精度を増していくほどに、 それが薄気味悪いものに感じられる。不気味の谷という。
国家黒幕論、マスコミ黒幕論は、誰にでも受け入れやすくて 気持ちがいいというその意味で、まだ「不気味の谷」の手前にも達していない。
局所最適と社会の誤診
自ら望んだ他者の行動を、社会にそのまんま発信するやりかたは何も生まない。 対立する他者をも含む系を介して、社会自身が自らの情報構造を通じて「診断」を下し、 「治癒」に必要な何かを創発的に獲得していくようなやりかたを考えないといけない。
団結しましょう、抗議しましょう、「敵」を倒しましょうみたいな行動は、 人体という系の中にいる「筋肉」が、自らおかれた状況を間違って判断して、 局所最適に走ったあげくに、全体を危機に晒しているように見える。
何となく具合が悪い。普段どおりに収縮したくても、対立する筋肉が勝手に収縮して、 自ら思うように収縮できない。「じゃあみんなで団結してフルパワー発揮しましょう」 なんてみんなが声上げる状況は、要するにてんかん大発作の重積状態。 みんなで団結して、全身の筋肉が収縮した挙句、放置された人体は、 呼吸ができなくなってしまう。
痙攣重積を放置するぐらいなら、気道確保した上で全身に筋弛緩かけたほうが、 まだ助かる目がある。「戦いましょう団結しましょう」は、 痙攣をもっとひどくするやりかたであって、人体に起きた障害の原因を、 当の医師自身が見誤っている。誤診して、治療戦略を間違ってる気がする。
声上げるのは大切なんだろうけれど、やっぱりなんだか違和感。
メディアは本当に「悪」なのか
厚生省も、マスコミも、あの人達は医師側から見て本当に「迷惑」ではあるんだけれど、 「悪」なのかどうか、よく分からない。彼らだってまた、社会身体を構成する「筋肉」にすぎなくて、 全体なんて見てないし、 自ら観測した危機に対して、最適と思う行動をとってるだけなのだと思う。
歩いたり走ったりするときには、筋肉は、動作の全体像を考えたりはしない。 転んだときもまた、「大腿四頭筋の悪意で転んだ」なんて反省は出ないはずだし、 転ぶのは石につまづいた人体であって、筋肉単体が「転ぶ」ことなどありえない。
今はたしかに、いろんな分野が「転び」つつある。医療は崩壊して、 新聞みたいなオールドメディアも、昔に比べれば読者数が減っている。 官僚だって叩かれて、企業の人達が喜んで人材を迎えた「天下り」は、 今では悪い意味にしか使われなくなった。
医療という分野は、系の「頭」ではありえないし、マスコミも、厚生省も、 みんな転びつつある社会を構成する部品ではあるかもしれないけれど、 社会を転ばせたくて、何か嫌な行動をおこしている人はいないんだと思う。
社会のどの分野を取っても、それはしょせん「筋肉」、「収縮する」という 単純な動作を行うだけの、単なる部品。「収縮」は、医療にとっては騒ぐことで、 メディアにとっては叩くとで、官僚にとっては止まることかもしれないけれど、 系の外から見れば、そんな動作はたぶん、みんな同じようにしか見えない。
転ぶときの人体は緊張する。筋肉がみんないっせいに収縮する。 現場が崩壊した医療。医師を叩き続けるマスコミ。悪くなる制度に対策しない官僚。 そんな動きは全て、転んで緊張した社会に対する各筋肉の反応であって、 何か特定の意志を持って、他の筋肉に影響を与えているわけではないのだと思う。
変わらない状況から利権を得る人
脳は動作を決定しない。身体に意志を伝えて、脳と身体との相互作用から、 必要な動作が創発される。
筋骨格系、人体が持つ情報構造に相当するものは、恐らくは社会にも備わっていて、 「歩く」とき、「転びそう」になったとき、社会の各分野が取るべき振る舞いもまた、 本来は、状況により創発的に決定される。
正常に機能している人体には、転びそうなとき、中枢の意思決定を経由しない、 ローカルな反射弓が実装されていて、転びそうになっても転ばないよう、防衛機制を働かせる。
今はなんだか、そんなローカルネットが遮断されていて、社会身体が円滑に機能しないイメージ。
「変わらない社会」から利益を得る人達が増えたのだと思う。社会は本来、 人体みたいに「歩いた」り、「転んだ」りして、動きつづけることが自然なはずなのに。
社会を構成する「筋肉」相互の通信を阻害する、お互いの不振を煽って、 緊張でガチガチに固まった社会構造の上にあぐらをかいて、 「変わらない世界」から利益を貪っている人がいるんだと思う。
「変わらなさ」というインフラにフリーライドした人達が、 変化しないこと、流れが変わらないことに投資しながら、 なおも「団結しましょう」なんてスローガン叫んで、 「系」としての社会から外れたところで、転びつつある社会を指差して嘲笑う。 そんな人達を探し出して、変化する世界を受容してもらわないといけない。
なんでこうなったのか、それでもずっと考えてる。誰が悪いのか。どうすればいいのか。 考えれば考えるほどに状況は見えなくなって、敵だと思ってた人達が敵に見えなくなってきたり、 味方だったり、英雄だと思ってた人達が、案外そうでもなかったり。
もっといろんな人達と、どうすればいいのか、いろんな「系」をまたいだ おしゃべりをしたいなと思う。
「脳」はどこにいるのか。原因は何なのか。どうやったら「創発」が発生するのか。
人数増えれば、きっと誰か正解に行きあたると信じてる。
2008年2月 4日
正義論理の市場開放
「どんな正義のもとに、その行為を行ったのですか?」という質問に 答えられない人には、経済活動を行う資格がない。
単純に商売を行うにしても、立場を主張して利権を獲得するにしても、 誰かの「損」を通じて利益を得る人達は、「その行動こそが正義である」という、 そんな大義を持っている。
実利方面、経済方面のお話だけでは、どんな商売も成り立たない。
誰もが権利を主張する。大義を持っていない人たちは、「我々にだって生きる権利がある」みたいな、 ごく初歩的な権利主張に対してすら、それに抗する術が無い。誰かから対価をもらう際には、 「売り物」を提供するだけでは片手落ちで、対価を正当化するための「正義論理」が欠かせない。
正義論理なしに経済活動を行う人は、誰かから「私の持つ正義のほうが圧倒的に大切だから、 あなた滅んでくださいよ」なんて言われたところで、反論できない。反論できないならば、 その人は黙ってそこから立ち去るか、相手から言われるまま、滅ぶしかない。
医者叩きの各論化
医者叩きの論調が、最近少し変わった。
朝日新聞は勤務医をほめて、開業医を叩く。どこかのニュース番組でも、 「疲弊する医療現場」みたいな特集組んでて、勤務医の現場「は」大変みたいですなんて、 暗黙に「それに比べて開業医は…」なんて匂わせた。
「分断して統治せよ」というのは、植民地政策とか、労働組合潰しとか、 集まる人達を「経営」する時の、基本中の基本。
「分断」に対抗するやりかたは「団結」。
業界が団結して何かに拮抗するときは、槍の扱いに長けた人、弓の扱いに長けた人、 それぞれに正義の得意分野を持ち寄って、方陣組んで相手にぶつかる。
集団で戦うときには、グループの中の一番「弱い」人達が、 集団全体の防御力を決定する。 政治レイヤで「正義」を争う場面では、その「正義論理」が分かりにくい、 開業医の人達が真っ先にターゲットになって、団結した医療従事者の「防御力」を 落としてしまう。
勤務医は、「ベッド」という正義のよりどころを持っていて、生き死ににかかわる場所守る 大義があるから、正義論理が見えやすい。「好きでやってるんだから文句いうな」とか、 やられっぱなしではあるけれど、「いなくなったら困る」という一線は、みんな想像してくれるはず。
開業した先生がたの正義論理は、やっぱり見えにくい。
マスメディアが開業医を叩く。開業している先生がたは、それ読んで「盗人猛々しい」なんて 反論する。「既得権に乗っかって適当なこと言う連中が、適当なこと言うな」なんて。
「相殺主義」は、歴史修正主義の人達がよく使う、古典的な議論手法。 「ホロコースト無かった」なんていう人達は、アメリカ人の歴史学者に批判されると、 「原爆落としたお前が言うな」なんて反論する。これをやると議論が流動化して、 真実をドライブするのが容易になる。
事実を相対化するこんなやりかたは、個人的には大好きなんだけれど、 マスメディアの開業医叩きに対して、現場守ってる先生がたがこんな論理で対抗してるのは、 ちょっと残念に思った。
正義論理の開放系と閉鎖系
「お前が言うな」のマスメディアとか、あるいは医療現場を締め上げる経団連の人達は、 「市場」に正義を開放することで、その真実性を担保している。
株式会社の正義は、株主の利益を最大にすること。
彼らの正義は、全ての人に対して貫かれているわけではないけれど、 十分量の株式を調達することができるなら、誰だって仲間に加われる。 彼らは株主の意見しか聞かないし、あまつさえ株主でない人の利益を奪いさえするけれど、 正義論理が全ての人に開放されていて、天文学的な金額さえ用意することができるなら、 誰でも今すぐにでも、その会社の方針に介入することができる。
医療や消防、あるいは軍隊の正義は、閉鎖している。
公的な性格を持ったサービスは、基本的に全ての国民を対象としている代わりに、 どんなにお金を積んだところで、たいていの人は、そのサービスが持つ正義にアクセスできない。 公的なサービスは、だからこそ揺らがないけれど、 「アクセスできないことそれ自体が既得権ではないのか ?」という 意見に対しては、閉鎖しているがゆえに反論できない。
公的なサービスは、それが病院であっても軍隊であっても、「それが明日から無くなったらすごく困る」 ということが想像できて、その分かりやすさが、自らの正義論理を守っている。
消防署や警察、軍隊がなくなった社会は、すごく困る。たぶんこれは分かりやすい。
入院可能なベッドを持った病院が無くなったなら、 救急車を受け入れる病院が明日から消滅したなら、 やっぱりそれは、多くの人が困る。「滅んだら他に行けばいいんだよ」なんて、 代替手段の無い業種は、このへん強い、はず。
公的なサービス、自閉した正義をよりどころに経済活動を行う人達は、 「自らの正義」を分かりやすくしないと滅んでしまうし、滅びたくないのなら、 「正義の開放」を行うべきなんだと思う。
医師会の市場開放
権利意識が高まった現在社会では、たぶん株式会社という型式それ自体が、 会社に株主限定的な正義論理を付加するための、一種の免罪符として機能している。
たぶんこれから先しばらくの間は、「開業医は存在自体が既得権益だ」なんてバッシングが 始まって、その反動で、勤務医はどちらかというと、持ち上げられる。 医師会はきっとゴタゴタするし、今年できたばかりの新医師会もまた、 そんな論調に対してどうカウンター当てていくのか、すっきりとは決まらないはず。
開業しているのは、みんなベテランの先生がたばっかりだから、 そんなにあからさまな議論にはならないだろうけれど、 依って立つ正義論理が違う人達と一緒に何かするのは、やっぱり難しい。
開業医の営為を「正義」として正当化するための組織として、 医師会は株式会社になって、医師会員の開業医の先生とか、 あるいは医師会に賛同する勤務医の人達を、「社員」として雇用して、 その上で「正義の市場化」をはかるといいんだと思う。
「医師会の正義」は、株主に対してのみ特化する代わり、その運営方針は、 企業でも市民団体でも、株券を購入した人なら誰でも介入できるようなやりかた。
運営方針は、株主の力関係で、利益優先にも、福祉優先にも揺れるだろうけれど、 「どれが正しいのか?」という解答は、きっと市場が明らかにする。 たとえば「無償の医療を全ての人に」なんて理想論的な方針が株主総会で提案されて、 翌日の株価が暴落したなら、要するにそれは、「商売にならない医療」なんて、 市場は誰も望んでいないという答えになる。
マスコミはやっぱり、株式会社化した医師会を叩くのかもしれないけれど、 本気で何かを変えたいのなら、今度はちゃんと道が用意されている。 みのもんたあたりが100億円ぐらい、ポンと払えば、「医師会株式会社」の 運営方針を決定することだってできるはず。
正義をハンドリングできない医師会がグダグダの迷走続けるぐらいなら、 そのへん「市場化」したほうが、よほどすっきりすると思う。
2008年1月30日
医療も「人間」から卒業していいと思う
患者さんは症状を抱えて、それを解決したくて病院に来る。 症状と治癒、両者の間には、当たり前のように「診断」が鎮座するけど、 「診断は不明で何となく治る」ことなんてよくあるし、 診断がついたところで、治らない人はやっぱり治らない。
診断という床屋の満足
床屋の満足 というのは、「本来顧客の満足を最優先すべき商売もしくはもの作りをしている人が、 自分の満足を優先して行動してしまうこと」を指す言葉。
床屋さんは髪を切る。切り始めて30分もすると、大雑把な形は出来上がるのだけど、 昔気質の床屋さんは、「そろそろ終わりかな?」なんて思ってからが長い。 少しラフだけど、何となくいい感じだった髪型は、ミリ単位の修正を繰り返されて、 1時間もする頃には、いかにも「床屋に行ってきました」なんて髪型になる。
患者さんは、「症状」を抱えてやってきて、対価を支払って「治癒」を購入する。 「治癒」につながらない、診断という行為は、床屋の満足。 髪切って、最後の最後で床屋さんがこだわっている、 投入されたリソースのわりに、見返りが少ない努力。
広域抗生物質が当たり前のように出回る現在、たとえば「発熱」という問題を抱えて 来院した人は、どんな診断がついても、治療はほとんど変わらない。高齢者であれば、 発熱はやっぱり細菌感染。何となく点滴して、強力な抗生物質投入すれば、 治る人は大体治る。
熱源調べても、行う治療は結局同じ。裏を返せば、血液検査とか画像診断、 あるいは問診やら理学所見やら、診断を確定するいろんな努力は、 治療がそれほど変わらないのなら、「治癒」にはつながらない、省略可能なものなんだと思う。
熱が出る。高齢者であれば、とりあえず入院させて、抗生剤を点滴する。
お腹押して痛がったら絶食にして、意識あったら食事を出す。
熱下がったら食事を出して、4日たったら経口の抗生物質に変更して、 何もなければ7日間ぐらいしたら帰ってもらう。
こんなやりかたすると、もちろん原因は分からないし、見逃したら命取りになる「穴」なんて いくらでも指摘できるけれど、条件分枝は簡単に増やせる。ごくごく大雑把に、 救急外来に来るたいていの症状に対して、「診断できないけれど、とりあえず治癒につなげる」 やりかたを組むことは、決して不可能ではないはず。
機械の修理なんかと違って、人間の身体はあいまいさを許容する。部品足りなかったり、 多少の隙間ができたところで、余った組織を詰め込んでおけば、傷は何となく塞がって、 そのうち治る。
あいまいさだからこそ、「診断」を行うことは極めて難しいし、 診断を迂回しながら治癒にたどり着く手順を探すやりかたは、 そのあいまいさに乗っかる形で、案外うまく行くと思う。
技術の印刷可能性
「人間要素の排除」こそが、プロトコルを考える上での鍵になる。
「一目見れば」誰でも分かることであっても、複雑な検査を3つ重ねれば、それを 機械的に証明できるなら、機械を優先するやりかた。
たとえば「見る」なんていう行為もまた、手順をばらすことで、「機械化」できる。 腹部外傷でCTを撮る場合、「出血のないことを確認する」なんて書きかたは論外で、 「肝臓の周囲が1本の線で追える」とか、「脾臓がひと固まりに見える」とか、 分かる人なら一行で済ませる部分を、ことごとくチェックリストに記述しないといけない。
コストは結局安くなる。「ちょっと診て、ちょっと治す」なんてやりかたは、 バックグラウンドでものすごいコストがかかってる。 「ちょっと治す」を担保するための維持コストは、請求書からは見えてこない。
機械は疲れない。たくさん使えば、たくさん作れば、いくらだって安くなる。 どんなに高コストの検査を組もうが、人間要素さえ入らなければ、 技術は「印刷」することが可能になって、劇的なコストダウンが可能になる。
診療という一連の動作を、検査機械の数字、あるいは「機械化した医師」の振る舞いとして 記述できれば、そこに「診断名」は存在しなくなる。診断という行いこそは、 医療行為の中で、唯一絶対に「人間」を外せないコンポーネントだから。
たぶん、医療から「診断」を外すことができたとき、医療はもはや技術ではなく、 いくらでも大量生産可能な印刷物となる。医師の調達コストは下がるだろうし、 そもそもそこに、医師がいなくなる可能性だって見えてくる。
訴訟抑止力としての機械化医療
都立病院で、また救急の先生が書類送検された。
ベテランの救急医だし、都内の病院だからこそ、恐らく例によって、 医療者側は「正しい」ことを行ったにもかかわらず、法律的にはそれが「正しくない」 認定を受けたんだと思う。
事故とか過誤とか、「医者が悪い」と現場が叩かれるのは、やっぱりそこに人間要素が存在するから。
医療という行為の定義から、「診断」という人間コンポーネントを外すことができるなら、 それは訴訟圧力に対する強力な対抗手段になりうる。
「全てのトラブルは医師のせい」なんて論調は、 「医師は診断して、患者さんを安心させるお仕事」なんて文脈から発生する。
「医師というのは、頭が痛い人にCTスキャンを提供して、 脳実質周囲に白い部分がないことを確認する仕事です」 なんて俺様定義を全国の救急医が共有したなら、「頭痛」という症状に対しては文脈上、 医師の責任が発生しない。
そんなことは世論が許すわけないんだけれど、今はまだ、現場が何をわめいたところで、 交渉の相手は、議論のテーブルにも座ってくれない状態。こんなやりかたは、少なくとも 状況を動かすための武器にはなるはず。
「症状」と、「治癒までの道のり」とを直結させる手順書を記述して、 学会の偉い人達がそれに承認を与えれば、訴訟が怖い現場の医師は、 たぶんみんなそれに乗っかる。
診断という人間要素、大事そうなくせに治癒に寄与しない、 厄介なコンポーネントが医療から追い出せるなら、 仕事はずいぶん楽になる。
診断を放棄した医師を、マスメディアはぶっ叩く。もしかしたら、学会認定の「頭空っぽの」医師と、 そんな手順書を是としない「正しい」医師とが対立するかもしれない。 患者さんはたぶん、頭が空っぽの医者が常駐する救急病院と、夜間救急数時間待ちの「正しい」 病院と、自ら支持する病院を選択することになる。
そもそもが、人間の判断がないとまわらないシステム作った時点で、 医療は相当に筋の悪い決定を下したんだと思う。
技術はプラットフォームに転化する
医療現場から、あるいは現場の医師から「脳」を外す、そんなやりかたは、 間違いなく医師の地位を低下させるけれど、今度はたぶん、 医療技術がプラットフォームとなって、 今までから考えられなかった場所に、医師の居場所が生まれる。
低コスト化という流れのどこかで、技術はその立場を大きく変える。
インド人もびっくりの 20 万円乗用車とか、最近話題の 5 万円 PC だとか。 価格破壊が極限まで進んだ製品は、もはや単なる車、ノートPC の用途からはありえない、 何か新しいものを作るための「部品」であったり、 特定の機能のためだけに汎用品を使うようなやりかただったり、 今まで想像もされなかったような使われかたをされるようになる。 「高価格だけれど高性能」を追求する流れは、その時点ではもはや、主流ではいられない。
コストダウンを進めていくと、技術はプラットフォームに転化する。 「その使いかたを極める」ための製品から、「それを使って何かやる」、 ネジ一本、歯車一つみたいな部品としての使われかた。
訴訟圧力とコストダウンの要求は、いつかはきっと、医療の「脱人間化」を要請する。 医療はたぶん、そんな流れを拒めないし、それでも人間でありつづけようとする人は、 「既得権者」として叩かれたり、 「人間らしく」裁判所に呼び出されて、人生台無しにされたりするんだと思う。
コスト圧力と訴訟圧力が弱まるわけないんだから、偉い人の誰かが腹括って、 さっさとステージ移したっていい頃。
今ならきっと、手順書発表した人が天下取れるはず。
2008年1月29日
経済活動を正当化する物語
技術には、漠然と「実力レイヤ」と「政治レイヤ」というものがあって、 技術が成熟してくるに従って、政治レイヤでの発言力が、業界の流れを左右する。
技術的にいくら「正しい」ことをやっていようと、政治的に自らの正当性を主張できない人達は、 その技術を安価に買い叩かれたり、別の誰かに、その仕事を奪われてしまう可能性がある。
開業する若手のこと
来年は、自分よりも圧倒的に若い人達が、何人か開業する。
まじめに仕事をしてきた人たちだけれど、今の時代、「この人にしかできない治療」なんてものは 事実上存在しないし、その技術だけで食べていける状態、「手に職がついた」状態にまで 技量を高めていくためには、大きな病院にいても12年ぐらいかかる。彼らはもっと若い。
武器として通用する「何か」を持たずに、医院の建物と単純写真の機械、 あとオーダーリングシステム入れて、たぶん1 億円ぐらいの借金。
彼らがどんな成功方程式を呑んだのかは分からないけれど、すごい度胸だなと思う。
今の状況でこの仕事してて、10年後がどうなっているのか、正直全く分からない。 技術は進歩するだろうけれど、この10年、業界ひっくり返すような画期的な何かは 生まれていないし、同じ仕事に対する対価は、これから先、安くなることはあっても、 良くなることなんてありえない。
技術の成熟と正義の実体化
近くの開業医からは、また時間外の入院依頼。発熱のお年より。 4 時に来て、時間いっぱいまで点滴突っ込みながら検査して、 あまつさえ 7 種類、 28 日分の処方。
紹介状一通。「患者様は衰弱しており、入院が必要と思われます」なんて。
受けるこっちも時間外だから、技師さんとか検査の人とか、 みんな呼び出し。準夜勤のナースはベッド移動でパニック状態。 紹介状書いたその先生は、7 時もすぎれば電話もつながらない。
うちなんか田舎の小規模病院だけど、それでも開業医のクリニックに比べれば、 設備も人も、遅れをとることはないはず。充実した設備とか、人的資源というのは 本来「力」なんだけれど、7 時も回ったこの時間、「正義」握ってるのは患者さん ぶん投げた開業医の先生。正義が「入院」指示した以上、 「力」持ってる側は、受ける以外の選択がとれない。
設備や人が少ないこと、患者さんを診る能力を持っていないこと、 それ自体が武器となり、正義を生み、うちみたいな施設を使役する。
技術が成熟してくると、「技術を持っていること」それ自体の持つ力が低下する。 技術は政治によって運用可能なものとなって、今度は政治的な正当性が、 実体を持った力となって、業界を左右する。
やっぱり何か間違ってるし、どこかで限界越えて、何かひっくり返ると思う。
既得権益ゲームのこと
昔はみんな、プライド高かった。お金に汚くなかったし、患者さんのためにつくした。
そんな「昔のお医者の高貴な精神」支えてたのは、黙って口空けてれば無尽蔵に お金をくれた、「よかった昔」の医療行政だったんだろうけれど、今はそのへん厳しくなって、 みんなプライドどころじゃなくなった。
医療機器買ったからには、使わないとお金を生まない。患者さんを投げてよこすクリニックは、 何はなくてもまずレントゲン写真。無駄だけど、無駄やらなければ収入ないから、 先方だって必死。
今みたいな独立開業、医師一人に一つの建物、その人専用の医療機器なんて、 どんなに言い繕ったところで、間違いなく無駄。道路工事とそのへん同じ。 無駄だけれど、そこからお金を得る人が生まれてしまった以上、 道路は作らなきゃいけないし、レントゲン写真は撮らないといけない。
無駄はできないし、誰かに「無駄」認定される危険があるからこそ、 「開業医」という業務形態にこだわりつづけるのはすごく怖い。
誰か改革派の国会議員が、正義運用して得した誰かに 「既得権益」のラベルを貼り付けたその時点で、 開業の先生がたを取り巻く状況は、たぶん今以上に厳しくなっていく。
若い人達は、たぶん自らを「売り抜ける」こと狙ってるんだろうけれど、 個人的には、そんな余裕はないような気がする。
世の中に余裕がなくなると、たぶんいろんな人が、別の誰かを叩きたくなる。 キーワードは既得権益。「あいつらは既得権益に群がっている社会の荷物だ」みたいな叩きかた。 医療全体に対する叩きは少しだけ落ち着いたけれど、総論編終わって、 各論叩き始まるまで、もう時間の問題だと思う。
政治レイヤでの振舞いかた
「自分は正しいことやってるんだから大丈夫」は、これから先、説得力を持たなくなる。
実体経済レベルでの職業倫理と、政治道徳レイヤでの「自らの正当性」を裏付ける 物語とは、別個に用意する必要がある。
ネット世間の発達は、人と人の距離を縮めた。誰もが簡単に「万」に届く人に意見を広めて、 国会議員みたいな立場の人と、ちょっと有名な普通の人との距離は、 10 年前に比べたら、 ありえないぐらいに縮まった。
物語を持たない人達を「既得権」として攻撃して支持を勝ち取るやりかたが、 政治手段として一般的になっていく中で、「自分の経済活動」を正当化する物語の価値は、 ますます大切になっていく。
誰かの呟き一つが社会を大きく揺さぶる昨今だからこそ、自分の「商売の基本に立ち返る」ことは、 たぶんすごく大切なんだと思う。
2008年1月23日
ベッドから始まる経済
寒くなったからなのか、また病棟がまわらない。病棟中探しても、 空きベッドあと3つで当直入りとか、ひどい状況。
このあたりの病院が閉まる18時前後になると、「入院が必要と思われます」なんて 紹介状を持った患者さんが増える。たいてい元気で、症状は5 日も前からで、 「入院が必要」なんて、本人は全く思っていないような患者さん。
「入院が必要」というのは戦略ワード。最初に見た医師が「必要」と判断したら、 それを否定するためには、後の医師は患者さんに責任を負わないといけない。 「入院が必要と思われます」というのは要するに、「もううちの病院閉めるから、 面倒くさいから後はそっちの責任でお願い」なんてぶん投げの依頼。
夜の診察は面倒だし、そこで「明日いらっしゃい」なんてやって、トラブルになったら 自分のせいになるのは分かるんだけれど、これもまた医療資源の無駄遣い。
救急外来開いている病院は、今本当に減っていて、うちみたいな田舎でも、 断り5 件目で再度搬送依頼とか、当たり前になってきた。みんな面倒な仕事から撤退して、 来年以降、当院の休日当番医は4 回増える。
「万が一」に対応するための医療資源は、毎年のように細くなる。 そんな状況を一番よく理解している、現場を知ってる開業医その人が、 まず真っ先に、残りわずかな医療資源を食いにくる。
病気は「床」から始まった
小石川療養所レベルの大昔、たぶん病気というのは、具合が悪くて「床」につくところから始まった。
予防医学なんてない時代。症状のない人、普通に歩ける人というのは、病気と 認定されなかっただろうし、労咳で喀血するような人だって、普通に街を歩いてた。 だからこそ悲惨なことになったんだろうけれど、そもそもの病気というのは、 「人が床につく」状態だった。
もう少し最近、昭和40年代頃に、昔ながらの開業医師に対抗してたのは、「スクーター医者」 なんて呼ばれた人達。スクーターに乗って往診して、訪問診療という武器を使って、 昔ながらの医院から患者さんをさらう。この時代の開業医は、みんな自分のベッドを持っていて、 「スクーター医者」もまた、床についた患者さんから対価を受け取る。 経済の基本はあくまでも「ベッド」であって、ベッドに責任を負うことが対価を生んだ。
「無床」が成り立つようになったのは、まだまだごく最近のような気がする。
自分達が研修医だったほんの10年前、心不全は悪性腫瘍並に予後の悪い病気だったし、 当時の抗腫瘍化学療法は、副作用が強くて外来治療なんてありえなかった。 喘息をコントロールする吸入ステロイドだって出始めたばかり。いろんな病気を 「外来でコントロールする」なんて考えかたそれ自体、 たぶん昭和60年代以降にならないと、それを成り立たせる技術が揃わない。
名付ければそれは病気
病気が「床につく」ことを意味した時代は、 入院診療を行うためのベッドを提供できない人は、たぶん医師としての仕事が成り立たなかった。
医学は進歩する。血糖値が高い人。コレステロールが高い人。 高血圧とか、果ては腹囲が大きい人までみんな「病人」認定されて、 「歩く人」が生み出すお金は増えた。
パイを膨らませたのは、昔ながらの臨床医というよりは、むしろ疫学畑の人達。 当時、どんなパワーゲームがあったのかは分からないけれど、 「歩く病人」というパイは、医療でなくて保健行政とか、もっと別の分野が 持っていってもよかったはず。パイはますます大きくなって、 今では健康診断とか、たしか600億円近い規模のお仕事もまた、医療の取りぶん。
「ベッドが生む利益」と、「ベッド以外が生む利益」とは、たぶん どこかで逆転して、医師の仕事が大きく変質したのだと思う。
病床本位制と診療相場制
医療というのは、とりあえず苦しんでる人に「ベッド」を提供する行為
痛かったり、苦しかったりする人に、休むためのベッドを提供する行為は、 最低限、その人を少しだけ幸せにするけれど、普通に歩いてる人捕まえて、 「お前は病気だ。俺は権威だ。俺に従え」なんて命令するお仕事は、 誰かを幸福にするんだろうか ?
大昔はたぶん、医師という生き物は、自分が責任を持つ「ベッド」の存在と不可分だった。 外来だけの診療所というのは、だからこそ、進化の過程で消化管を捨ててしまったみたいな、 生き物として歪なありかたに思える。
実体としてのベッドが生んだ経済は、今では紹介状という「ベッドの為替」が出回って、 無床の診療所というありかたを許容した。為替は便利だったけれど、 みんなが乱発を続けたもんだから、その信用はだんだん落ちて、現場は息切れ寸前。
無床の診療所を開業している先生がたには、現状についてどう思うのか、 ぜひとも聞いてみたいなと思う。 なんで「ベッド」を捨てる気になったのか。「面倒」とか「疲れた」とか、 そんなぶっちゃけたお話ではなくて、もう少し公的な、前向きな論理をどう作っているのか。
「患者さんくるしんでまーす」とか、「この人がにゅういんしたいっていってまーす」みたいな、 馬鹿のふりした紹介状は本当に勘弁してほしい。能力的にも経験的にも、 自分なんかよりも圧倒的に上の人が瀬戸際外交をしかけてくるのは、 仕事してて何だか哀しい。ベテランはベテランらしく、 「俺は偉い。俺は面倒い。お前診ろ。今度奢ってやる」のほうが、 よほど気持ちよく仕事ができる。
まとめ
診療報酬が減額方向に改訂されたり、検診業務が医療機関から外されて、 民間の営利団体に移管されたり。
ネット世間で開業している先生がたは、行政側のそんなやりかたを「馬鹿なやりかただ」 なんて嘲笑ってるけれど、ベッド持ちやってると、逆に「もっとやれば?」なんて感想。
診療報酬を「ゼロ」にして、基幹病院に重税かけて、入院費用を今の3倍ぐらいにしてくれれば、 急性期病院から在宅医療までの流れは、もっとずっとスムーズになる。きっと巨大な税収が 発生して、あまつさえそのお金は、ノーパンシャブシャブ屋さんのお姉ちゃんの股ぐらに 吸収されちゃうんだろうけれど、それでもいいと思う。なんといってもそんな流れは、 本物のベテランを、ベッドサイドに戻す可能性があるはずだから。
もちろんそれは、そのまんま自分の収入が減ることにつながるんだけれど、 「利益はベッドから発生する」、昔ながらの医師のありかたにつながる流れは、 個人的には歓迎している。
開業している先生方の文章読んでると、勤務医の苦悩はよく分かるとか、 我々も現場を理解しているとか、温かい、でも何だか空虚な言葉。 みんな昔はベッド持ってて、自分なんかよりもはるかに多くの能力と経験を有してて、 なのにどうしてだか、それを生かすことを止めてしまった人達。
「分かる」なんて言われなくても分かってるし、世代が違うんだからこそ、 本当は「分かる」わけがないんだとも思う。言葉じゃなくて、ただ黙って1 床、 その日の最後の患者さんにベッドを提供してもらえたならば、 若手はみんな、滂沱の涙流して開業の先生がたに従うと思うんだけれど。
2008年1月14日
NHKのインフルエンザ番組
発症率と弱毒化
ウィルス感染症みたいな疫病のお話をするときには、体内に入ったウィルス粒子が 実際に病気を引き起こす「発症率」と、ウィルスや細菌が進化する方向としての 「弱毒化」の問題とがあって、危険度の見積もりかたで、温度がずいぶん異なる。
大腸菌O-157 であったり、ノロウィルスの感染症なんかは、本来が比較的珍しい病気。 だからこそたぶん、発病率をある程度論じることができて、 数十個オーダーの粒子が体内に入った時点で、 かなり高い確率で発症するなんて言いかたができる。 実際問題、集団感染が容易におきるし、入院しても、患者さんからよくうつる。
インフルエンザみたいな大規模感染症になると、そのあたりがよく分からない。 シーズンになると、たくさんの人が発熱を生じるけれど、40度を越える人もいれば、 単なる風邪みたいな症状で済んでしまう人もいる。「粒子がいくつ入ったら感染します」 を調べることはできるんだろうけれど、人の振舞いかたは様々だから、 どういう振る舞いをすれば、入るのは「いくつ」ぐらいなのか、調べられない。
「ウィルスはいるけれど発症しない」状態、不顕性感染は、インフルエンザとか、単なる上気道炎 みたいな感染症ではたぶん多くて、それがどれぐらいの割合で、実際問題、 一定数のウィルス粒子が体内に入ったとき、何割の人が感染を起こして、 何割の人が何もおきないのか、厳密なデータは無いんだと思う。
インフルエンザで、もう分からない。鳥インフルエンザになると、もちろんもっと分からない。 今見てるのが、ごく一部の例外ケースで、実は不顕性感染がたくさん生じているのか、 それとも素直に、人類破滅の兆候を見てるのか。
方向性としての弱毒化
鳥インフルエンザは今のところ、発症したときの死亡率が6 割前後とものすごく高い。 「毒性」の高さというのは、ウィルスが持つべき性能としてはむしろ「弱点」となる。
ウィルスが変異を繰り返して、鳥から人へ、人から人への感染性を獲得するとき、 ウィルスはたぶん、同じぐらいの割合で「弱毒化」する。たとえ渡り鳥に乗っかって 鳥インフルエンザが海を越えるようなことが起きても、鳥を殺してしまうような強毒のウィルスは、 「渡り」を行うことができない。
感染が成立したら、その人が即死するようなウィルスは恐ろしいけれど、 患者さんがすぐに亡くなってしまうなら、そんなウィルスはそもそも広まらない。
発症確率と弱毒化。期待値を大きく見積もるならば、鳥フルが全人類に拡大する リスクはごくわずかだし、その頃にはもう弱毒してるから大丈夫なんて議論になる。 期待値を最悪に見積もるならば、 NHK の番組みたいに、ウィルス感染症で人類壊滅なんて可能性を論じないといけない。
鳥インフルエンザは、まだまだ症例が少なすぎて、研究者によって「期待値」が 大きく異なっているからこそ、意見が分かれているのだと思う。
自分達医療従事者はのお仕事は、ワーストケースを想定することだから、 今回のNHK番組は「そうだよな」、という感想。
隔離のお話
ドラマ編でも実戦編でもスルーされていたけれど、対処法がない疫病の治療戦略は、まず隔離。
インフルエンザもウィルスである以上、高湿度環境とか、紫外線で失活する。 飛沫感染だけれど、「射程」はせいぜい5m。理論上、すべての人が5m 以上離れて 一定期間何もしなければ、ウィルスはそれ以上に感染を広げられない。
人権を無視していいのなら、どこかの病院で取りインフルエンザ感染が報告された瞬間、 その病院を中心に半径2km ぐらいを隔離するのが最善手なのだと思う。
道路を封鎖して橋を落として、その地域を「陸の孤島」にした上でミニ戒厳令を発動して、 すべての住人に引きこもってもらう。 その上で、隔離地域を取り囲むようにタミフルを配ったり、ワクチン接種を行ったりして 「免疫の輪」を作って、ウィルスの封じ込めを図る。政府とか警察のお仕事は、感染者が「輪」を 破らないように全力を尽くすことと、地域を隔離したことによる経済損失を計算して、 その住民への補償案を作ること。
ウィルスがどう変化しようが、やるべきことはたぶん一緒。 たとえ薬やワクチンに効果が期待できなかったとしても、「隔離」は確実な効果が期待できるはず。 これはもちろん、感染症をやっている人たちなんかには常識以前のお話だけれど、 ドラマ編では隔離政策が俎上にあがることはなかったし、実戦編でもまた、 隔離政策にあんまり言及なかったのは、何故なんだかよく分からない。
「やさしさ」が病気を広げる
潜伏期間が短いこと、高い致命率を持つことそれ自体は、ウィルスにとっては「弱点」として作用する。 発症した人が動けなくなるぐらいの重症感染症は、「その人」までで感染が止まる。 拡大できない。
ウィルスや細菌の立場でもっとも「進んだ」連中は、たとえば腸内の常在菌。 彼らにしてみれば、人間が住居を提供してくれて、あまつさえ「餌」まで供給してくれる。 もちろん時々水に流されてしまうけれど。
強毒性のウィルスは、だから放置してしまえば勝手に収束するはずなんだけれど、 人の「やさしさ」であったり、困った人は助けないといけないなんて「道徳」の考えかたが、 こうした強毒性ウィルスの増殖を助けてしまう。
毒性の高いウィルスは、症状が派手だから、人を集める。集まった人の中には「手当て」を する人が必ずいて、その人はたぶん、見た目健康な状態を維持しながら他の集団に溶け込んで、 そこでまた「発病者」になって、感染症を広める。「やさしい人」とか「道徳的な人」は、 本来淘汰されるべきウィルスにまで「やさしさ」を発揮して、彼らの増殖を助けていく。
鳥インフルエンザの大流行が生じたとき、医療従事者のお仕事は、 こうした「やさしさ」との戦いに半分ぐらい持っていかれる気がする。
ドラマ編では、主人公の周りに集まる熱心な医師と、理解のいい患者さん。 実世界ではたぶん、「やさしい人」が輪を破る。
たとえば死体袋の問題。鳥インフルエンザで患者さん亡くなるときは、もちろん家族は付き添えないし、 たくさんの人が亡くなるから、いちいち「荼毘に付す」なんてできない。なくなった患者さんは、 ご家族に「亡くなりました」と電話を入れたら、後は患者さんを死体袋にくるみこんで、 近くの穴に埋めることになる。
子供のお父さんとか、本当にそれで納得してくれるとは思えない。 健康な人は自宅待機が必要なのに、たぶんお父さんは「主治医を一発ブン殴る」、それだけのために 検問突破して、病人だらけの病院に、マスクもしないで突っ込んでくる。 それは道徳的に正しい行動なんだろうけれど、そのお父さんもまた、ウィルスの味方。
実世界ではたぶん、いいところ見せたい社民党の議員とか、絶対に風が吹いてほしくない、 受診を待ってる長蛇の列にダウンバースト叩きつける毎日新聞のヘリコプターとか、 「やさしさ」「正しさ」振りかざしたウィルスの味方が、人類を苦しめる。
パンデミックゲーム
対策案とか、隔離案はきっと「ある」と信じてるけれど、それを検証するのに「ゲーム」型式で 討論会開くと、きっといろいろ見えてくる。
こんなルール。
- 人類滅亡を図るウィルス側と、対抗する人類側、「現実」を提示するための審判を用意する
- ウィルス側は、日本地図の任意の場所に「発症」を宣言できて、気候とか風向きを自由に設定して、 ウィルス感染を最大にする戦いを挑む
- 人類側は、一定の確率で効く「タミフル」を配ったり、道路や橋を封鎖して、ウィルスの拡大を阻む
- 「現実」提示する人は、「それ予算的に無理です」とか「その場所には自衛隊入れません」とか、 「その季節にはさすがに台風は発生しません」とか、机上の空論に実世界から突込みを入れる
このゲームは、「人災」要素がなければ100% 人類側が勝利する。どんな天変地異が生じても、 戒厳令出して、すべての住民がそれを守れば、そもそも感染は広まらない。
ウィルス側についた人は、だからこそ任意の「裏切り」を設定して、人類側のブロックラインを 突破しようとする。「下水道使って隔離地域から逃げ出した住人が感染を広げた」とか、 「人権派議員が警察脅して、隔離ラインから人を連れ出した」とか、「宅配便のダンボールに 患者さんが思いっきり咳をして、田舎の息子に荷物送った」とか。
人類側は、それに対して「下水道も当然見張る」とか対案出したり、「現実」サイドからは 「うちの党に限ってそんな馬鹿いませんから」とか訂正いれたり。 あるいは人類側から「日本戒厳令」なんて 提案出されたら「現実見て下さい」とか。これが「議事録」として残る。
感染症学者とか、マスコミの人、国会議員や、 たとえばゲームデザイナーの人とかネットワーク技術者とか、 いろんな分野の人達が攻守を交代しながら、「机上の空論」を戦わせると面白いと思う。
ウィルスを「知能化」することには、きっと意味がある。 状況が上手くまわっていないとき、何をやっても裏目、裏目に出ているときは、 「神様の悪意」を目の前に感じるなんてしょっちゅうだから。
とりあえず「人類側」をプレイするなら、「東大病院のホットゾーンに 厚生省の事務次官が常駐する」ルールを徹底したいなと思う。
一番偉い人が命張れないなら、どんな提案も机上の空論の域を出ないし、 「足りない」物資は「足りてる」事にされて、日本が滅びるまで、 何かが「足りる」日なんて来ない。
これやるだけで、厚生省の「本気度」は、無茶苦茶に上がって、 人類は、どんな感染症にも手ごわい相手になれる気がするんだけれど。
2007年12月22日
弱さを運用する文化
今に始まったことじゃないけれど、弱い人が強く振舞うことが増えた。
この流れを生んだ原因が、未だによく分からない。どうすればいいのかだけは分かってる。 もともと「強い」側に立ってた人達が、本当に強くなればいいだけの話。
でもそれやると血の海だから、できればそんなことしたくない。 穏やかに時計の針を戻すやりかた考えるんだけど、分からない。
妥協の結果として行き着いた正しさが、いつのまにか目標として目指すべき何かとして 一人歩きをはじめて、世の中がだんだん「正しさ」に支配される、そんなお話。
大学のこと
父親もそうだったけれど、大学の教官というものは、 みんな個室を持っていて、学生を個室に呼び出しては説教したり、 夜通し酒飲みながらおしゃべりしたり。あるいはまた、 自分みたいな子供はときどき、そんな部屋で遊んでた。
今ではもう、役職付きの先生がたは、絶対に一人になれないらしい。
学生と教授とが、同じ部屋に 2人きりになる。中は見えないけれど、「2人」には証言者がいる。
こんな状況を作られてしまうと、もうその時点で言い訳できなくて、 あとは「試験通して下さい」とか、「来年の単位よろしく」だとか、事実上やり放題なのだという。
もちろん、そんな事例は全国で数えるほどしかないけれど、「強い人達を取り巻く空気」 というものは、もう昔みたいな曖昧さを許してくれない。
飲み会に呼ばれるのも恐怖なのだという。
教授なんかが飲み屋に入った時点で、その飲み屋さんで飲むすべての学生について、 教授に管理責任が発生する。誰か学生が一気飲みして倒れたら、 間違いなく「その場にいた偉い人」に係累が及ぶ。体育会の顧問をしている先生がたも、 今では飲み会は原則不参加。参加するときは本当におっかないのだとか。
昔話
今50台の先生がたが学生だった頃は、単位なんか無茶苦茶だった。
試験落とされた学生が教授室に呼び出されると、バケツとぞうきんを渡される。 教授室の清掃だとか、あるいは教授の車を洗車するだとか、そんな「奉仕作業」と 引き換えに、試験が通ったりしたそうだ。
我々の頃。今から15年ぐらい前は、さすがにそこまで適当ではなかったけれど、 教授は良くも悪くも強い存在で、学生は弱かった。 学生はやっぱり落とされて、野郎4人ばかり集まっては、エレベーターの中に教授を軟禁して、 「先生が通すと言ってくださるまで、我々はここを動きません」なんて。 それで何とかなった時代も、昔はあった。
あいまいさを許さない空気がだんだんと出来上がってきたのは、もう少しあと。
「大学は資格試験だから、みんな60点取れば、みんな合格するんだよ」
受験競争終わって、先輩からこんなこと言われて感激したのも今は昔。
試験前になると、みんなでノート交換して、試験対策プリント作って共有。それ読めば、 満点には程遠いけれど、それでも何とか合格できる。「それ以上」を目指すなら、 それはその人の度量次第。こんなルールが代々続いて、 それなりにうまく廻っていたのが「試験対策委員会」。
学生にとって便利なはずの、こんな「委員会活動」に、当の学生からクレームが入ったのは、 自分が卒業してすぐぐらいのこと。
「試験対策プリントを配られると、実力どおりの序列がつかないからおかしい」
こんなクレームが「勉強が好きな」学生から大学当局にねじ込まれた。もちろん 学生の本分は勉強だから、大学当局がこんなクレームを無視するわけには行かなくて、 試験の形式を変えることになったらしい。
落ちる学生が増えて、「実力どおりに」留年する学生が出てくるようになって、 今度は学生を落とした教室に、強力なクレームを入れる人達が出てきた。
当局はまた対応して、試験は今ではマークシート方式。 どの問題を、どの教室が作ったのかは公表されなくて、 試験の結果は合否判定だけ。落第した人も、自分のどこが悪くて落ちたのか、 原則公開されなくなったらしい。恐らくは全国どこも、大雑把にこんな流れがあるはず。
弱さの運用が生み出したもの
やっぱり鍵になるのは「弱者」。
最初はみんなであいまいに。「奉仕作業」に従事する学生であったり、 あるいはエレベーターで教授を軟禁する学生なんかは、それでもきっと、 ある人達から見れば、「強者」の側だった。
この頃の「弱者」というのは、たぶんまじめに勉強して、コツコツ試験に通った学生。 この人達の誰かがきっと、「まじめさが報われない」なんて思ったのが最初なんだと思う。
「まじめさが報われる時代」が来て、今度はたぶん、まじめさはさておき、 結果を出せなかった人が弱者になった。弱者は弱さを運用して、 そのつど断絶は深まって、過程がみんなから隠蔽される流れができた。
何となく悪い方向。多様性減らして、みんなが同じベクトルに収斂するような、 不吉な流れ。何が悪いと断定はできないし、その流れはたしかに いろんなものを「正しく」していくんだけれど、いやな予感。
集団の中で一番割り喰ってる人が正論吐くと、どこにも大体こんな流れができる。
目的が手段になるとき
最近、患者さんの家族から病棟に当てて、いきなりのクレーム電話をいただいた。
あんまり納得いかないからご家族に来ていただいて、何がいけなかったのか尋ねたら、 「クレームつければ入院期間延ばせるから」なんて返事。あんまり悪びれてなかったのが、 逆にすごく怖かった。
仕事柄、クレームはやっぱり多いし、みんな理不尽で、面罵されて落ち込むことなんてしょっちゅう。
それでもクレームは、その「理不尽さ」が救いになっている部分が少しだけあって、 みんなクレームをつけることそれ自体が目的になっているから、やり過ごせばそれでおしまい。
クレームを通じて何かを得たい人というのは、今まではやくざみたいな「プロ」ばっかり。 この人達のクレームというのは、クレームというよりも交渉言語だから、それも一応、どうにかなる範囲。
クレームというのは要するに、今まではものすごく感情的か、あるいはものすごく冷静な人達、 どちらにしても標準偏差から外れた人達の道具だったはずなんだけれど、 それがいよいよ「カジュアルに使える道具」として病院に登場してきたかんじ。
うちの地域は田舎の小さなコミュニティだから、こんな人達はまだまだ例外だけれど、 都市部ではきっと、こんな「カジュアルなクレーム」が増えてきて、みんな困ってるんだと思う。
標準偏差のとりかたで閾値は異なるけれど、たぶんどこかのタイミングで、 今までは「例外処理」でこなしてたプロセスが増えすぎて、 システム全体に修正を加えないといけないときがくる。
それがたとえば、試験制度の変化であったり、結果通知の匿名化といった流れ。
医療の場合は何となく先読めて、複数主治医化だとか、お話するときには 弁護士立会いだとか、入院したとき「何を治せて、何を治せないのか」を はっきり定めた契約書だとか。
もしかしたらそんなやりかたをこそ望んでいる人がいるのかもしれないけれど、 やっぱり多くの人は、そうなったら不自由なんだと思う。
人々の官僚化だとか、マスコミがすべてを悪くしたとか、 それは状況記述であったり思考停止であったり、何となく、 もっと奥のほうに何かがある。「個人が属するコミュニティが、 単純に大きくなりすぎた」というのは、たぶん一部正解なんだと思っているけれど、 じゃあ封建主義時代万歳かと言えば、それもちょっと違う。
システムが腐る前に、時計の針を戻せたらいいのだけれど。
2007年12月11日
「好き」は誰のものか
善良さを担保するコスト
NHK の番組で「わらじ医者」を名乗る医師の特集が組まれていた。
いくつかの施設の院長を歴任した老医師が、そのうちコミュニケーションの重要さに 気がついて、高齢者の電話相談をはじめたり、場合によっては自らで向いて、 その患者さんの話を聞きにいったり。
医師に必要なのは良心だとか、大切なのはコミュニケーションだとか。 その医師の「善良さ」こそがわらじ医者を駆動していた。
善良であるためにはコストがかかる。その先生が現在「善良」でいられるのは、 いくつかの病院を成功させてきて、「安全圏」に身をおけたからこそなのだけれど、 そんな部分はスルーされていた。
「わらじ医者」の先生は、きっと若い頃に頑張った。成功した。今は半ば引退して時間がある。 ボランティア同然の、絶対に対価につながらない診療を続けて、今は充実している。 このあたりは客観的な事実。
問題なのは、こんな振る舞いをつないでいる心のありかた。
振る舞いと振る舞いとをつないでいるのは、果たして良心であったり道徳心であったり、 そんな美しい何かなのか、それともそれは営業用の詭弁であって、 単純な経済的適応を続けてきた結果、「良心」という言葉で説明可能な、 一連の行動につながったにすぎないのか。
動作の解釈は、誰かの一連の動作を観測した、観察者の心の中に発生する。 観察する人の数だけ、説明は存在するけれど、 誰にでも通用する真実というものは、そこに存在しない。
行動を行った本人ですら、他の観察者同様、自らの行動を観測した、観察者の一人にしかすぎない。 本人であることそれ自体は、その動作説明の真実性を、何ら担保してくれない。
みんな良心が大好き
「プロジェクトX」みたいな思考停止肯定番組を見るのが好き。
技術者がどうしようもない状況に追い込まれて、超人的な力を発揮して、 問題を強引に解決する物語。
本来問題にしなくてはいけないのは、技術者が超人的な力を発揮せざるを得なかった状況のこと。 それはたいてい、偉い人達の舵取りミスであったり、マーケットの変化が読めないことであったり、 もしかしたら単純に、絶望的な人員不足にしかすぎなかったり。
「何故そうなったのか」よりも、どういうわけだか「どうやって乗り越えたのか」のほうが面白い。 「どうやって」の部分には、たいていの場合、情熱だとか、技術者の誇りだとか、思考停止ワードが並ぶ。
情熱だとかプライドといった言葉には、みんな異様に親和性が高い。自分もプライド大好き。
医師もまた、しばしば情熱文脈で語られるお仕事。
実際問題、自らの振る舞いを良心で説明する医師は多いし、良心を語らなくても、 あるいは良心に敵意を表明していても、良心という言葉の範疇で振舞う医師はものすごく多い。
医師が持つ、たぶん共通して持つある種の「善良さ」というものは、 我々がたぶん、医療の業界に対して、長年独占体制を敷いてきたからこそ生まれたものなんだと思う。
見た目の善良さというものは、必ずしも中身の善良さを担保しない。 「中の人」自ら「自分は善良だよ」と表明したところで、その善良さを担保するシステムが邪悪なら、 やはりその人は邪悪さから逃れられない。
医療業界は、全国民から毎月 5 万円、半ば強制的に徴収しているからこそ、 15 兆円なんて莫大な市場を独占できている。善良さを担保するには、 やっぱりお金がかかる。医師はたぶん、NHKの欺瞞を笑えない。
「好き」を貫くこと
これからの時代は、「好き」を貫くことがとても大切になって来るのだそうだ。
恐らくは残念ながら、「好き」を貫いた先に必ずしも成功はないだろうし、 そもそも自分は本当にそれが「好き」なのか、恐らくはほとんどの人が決められない。
「好き」の所有権はもちろん自分自身にあるはずなのに、他者からの承認抜きには自分の「好き」を 信用できなかったり、自らの「好き」の強度に自信が持てなかったり。
結果を伴わない「好き」には意味がない。
「好き」という感情もまた、ある行動と、その行動から導かれた結果とをつなぐ動作説明。 成果につながらない過程には意味がないし、だからこそ、 まだ結果につながらない何かに対して「好き」を 表明する行為には、恐らくは意味がない。
好きを貫いて成功した人達は、ある振る舞いを行って、それが結果として 「成功」と定義される成果を生んで、観測された2つの行動を結ぶキーワードとして、 「好き」を選択した。
観測者が変われば、動作説明もまた変わる。「好きを貫いたからこそ成功した」という説もまた、 本来は観測者の数だけ発生する多様な仮説の、ひとつの可能性にしかすぎない。
真実は動作の中に発生する
心カテを習った師匠の口癖は、「いやならすぐ辞めるよ」だった。
いつも「辞めるよ」と言いながら、いつも病院にいて、夜中まで仕事をして、 カテ室では常に、誰よりも頼りにされていた。 いつも楽しそうだったし、だからこそみんなついていった。
「楽しいよ」とはいわれなかった気がする。
言葉の真実性というものはたぶん、言葉でなくて行動をおこすか、 少なくとも行動を宣言しないと、その強度を担保できない。
「私は幸せだ」とか、「私はこれが好きだ」という言葉は、停止した言葉。 停止という状態は不安定で、それはしばしば他人の定義を受け入れて、 「好き」の運用を許してしまう。
大昔僻地に飛ばされたとき、給与が当初の 6 割ぐらいしかもらえなかったことがある。 文句いったら、「先生の仕事は、ボランティアで、好きでやってるんでしょう ? 」なんて。
「好き」を他人に定義されるのは不愉快だけれど、「好きの運用」というのはしばしば、 もっと分かりにくい形で行われているような気がする。
生存戦略としての「ほめること」
「好きを貫く生きかた」というのは、欺瞞なくそれを全うしようと思ったならば、 本来ものすごく厳しい生きかた。そもそもがよほどの資本を持っていなければ好きを全うすることなんて できないし、貫いた「好き」が予定した成果に到達できなかったとき、 それでもなお、その人がそれを「好きだ」と言えるのか、そのときになってみないと絶対分からない。
「みんなもっといろんな人をほめようよ」なんて言葉に多くの賛同が集まった。 好きを貫く環境を作るには、「好き」を強化する因子としての賞賛は欠かせない。
ところが「すごい誰かをほめること」、その行為自体もまた、動作である以上、 必ず何らかの成果に結びついて、誰かの観測を受ける。
賞賛の純粋性というものは、たぶん案外疑わしい。
「エンタの神様」みたいな若手芸人を使い捨てる番組見てると、 面白い芸人が「成功する」ことは、要するに芸を見せるの止めて、 バラエティー番組の方向に「卒業」して行くことなのだな、と思う。
人を笑わせることが「芸」ならば、芸それ自体を目標とする芸人は、 恐らく番組の中で観客を笑わせつづけて、そのうち飽きられて、使い捨てられる。 その人達はきっと、好きを貫いたけれど、それは成果に結びつかない。
バラエティー番組で成功した芸人の中には、もしかしたら「芸」を目標でなくて手段にする人達がいる。 その人達は、最初は「芸」で売り出して、そのうちお笑い番組を卒業して、 バラエティ番組でレポーターをしていたり、ひな壇の後ろで笑っていたり。
どんなに優れたお笑い芸人であっても、「飽き」からは逃れられないし、 才能は有限で、アイデアは枯渇する。ロケットが大気圏脱出を試みるようなイメージ。 重力圏越えて「衛星」になれる人と、大気圏で炎を見せつづけて、 そのうち燃料尽きて落ちていく人と。
恐らくは生存戦略として、他人をほめるという構図が作れる気がする。
たとえば才能がそれほどない芸人がいたとして、もっと才能豊かな競合者を 「お前面白いよ、才能あるよ、かなわないよ」なんて賞賛することで、その人達を 「芸」に止める一方、自分自身はその先、バラエティー番組を目指す。
競合者を賞賛した芸人が、「芸」のほうが上等で、バラエティーは 下等だと相手を信じさせることができたなら、 「好きの運用」は成功する。その人よりも才能豊かな芸人は、もしかしたら好きを貫いて、 才能が枯渇して落ちていくかもしれない。
この人はもしかしたら、本心から才能のある同僚のことを賞賛していて、 後日バラエティ番組で成功して、「みんなすごい人にはすごいと言おうよ。オープンマインドだよ」なんて 成功哲学を語るかもしれないし、あるいはその人は本心から邪悪な人で、競合者を 賞賛することで蹴落としたけれど、やっぱり自伝には「オープンマインドだよ」なんて書くかもしれない。
いずれにしても観測されるのは、その芸人が競合者を賞賛して、 賞賛した当の本人が成功したという事実だけ。 本人がどう思っていようが、その解釈は無数だし、真実は観測者の数だけ存在する。
勤務医医師会のこと
物語の主人公がどう考えようが、読者が観測する事実は変わらない。
中の人が語る「本当の話」というのは、実は観測可能な事実から導かれる、 多様な解釈仮説のひとつにしかすぎない。
振る舞いはいかようにでも解釈できるし、事実と結果が観測可能なものである以上、 「本当にそんなことは思っていない」という本人の弁明もまた、 観測不可能であるがゆえに、説得力を持つことはない。
勤務医医師会を立ち上げようとしている先生がたは、 みんなベテランで、第一線に立ちつづけて、「好き」を貫いて、 あるいは「好き」という言葉に代表される何かを貫いて、成功してきた人達。
成功したベテランの口からしばしば漏れる思考停止ワード、 人情とか道徳とか情熱とかボランティア精神とか、 腐りかけた方法論。
好きを貫いて成功して来た人は、その成功体験を語ることで、好きを運用する側に廻ろうとする。
大志を抱いて、好きを貫いて成功した人達は、だからこそ「こうしようよ」を表明するし、 まだ成功に縁のない若手はたぶん、ベテランに自らの「好き」を運用されてしまう。
そのベテランが自らの「好き」を貫いて成功したこと、それ自体は間違いのない事実。 事実は真実だけれど、その解釈についてはたぶん、観測者が違えば真実は異なってくる。
「自分がこう思って行動したから成功した」というベテランの言葉は、医師会みたいな組織の中では、 恐らくは誰も逆らえないけれど、その言葉それ自体もまた、本当は欺瞞から自由になれない。
事実を解釈する権利というのは、恐らくはそれを観測した全ての人間が持つ、平等な権利であって 「中の人」ですらもまた、平等な誰かと同様の権利しか持ち得ないのだと思う。
昔のお医者は良心を持っていた。良心を発揮できる環境にいた。自らおかれた 「良かった昔」の検証もしないで、「俺様とっても良心的」で思考停止したからこそ、今こうなった。
「みんなまとまろうよ。お金ちょうだい、政府の偉い人」という声を表明するだけでは、 たぶんまだまだ思考が足りなくて、時計の針は戻らない。
何の声もかからなかった外野のやっかみなんだけど。
2007年11月15日
魔界への手引書
あらゆる交渉には、交渉によって得られるものと失うもの、 「賭け金」に相当する概念があって、交渉ごとをトラブルなく進めようと思ったら、 この賭け金をなるべく安く抑えないといけない。
交渉の賭け金がつり上がっていくと、つまらない利害の対立が、 いつのまにかお互いの全存在を賭けた対決に発展してしまう。
ネット世間では、問題解決に向けた建設的な議論は、しばしば人格否定の泥仕合になり、 泥沼化した議論はたくさんのギャラリーを呼んで、戦いの「落しどころ」は、ますます見えにくくなっていく。
交渉の魔界。
ごくつまらない、些細なきっかけがどんどん膨らんで、 気がついたらお互い冷静さを失っていて、潰すか潰されるか、 鉄風雷火の限りを尽くした、情け容赦のない、三千世界の鴉を殺す、 終わりの見えない泥仕合。誰もそんなこと望まないのに。
本当に「望まない」なんてことあるんだろうか ?
交渉の目的は問題の解決で、交渉や議論というのは、あくまでもそのための手段。 そんなつまらない建前外せば、この「手段」それ自体がとてつもなく面白くて、 手段を楽しみ尽くすためならば、正直目的なんて何だっていいなんて人、きっと多いはず。
魔界への憧憬を口にしたとき、そこにはすでに魔界への扉が開いている。
皆様。魔界の扉を開いて中を覗く欲求にかられたことはありませんか?
私はいつもです。
そんな扉の開きかた。
「私」でなく「あなた」
「私はこう思う」「私からは、あなたはこんなふうに見える」という表現は、責任の所在を 発言者の側に持ってきてしまう。人格否定合戦を回避するための常套手段だけれど、 「あなたはこんな人間だ」という断定論理を持ち込むと、交渉の温度が一段階上がる。
「あなたは○○だ」を繰り返していくと、最終的には「議論に負けたあなたは地上最低の屑野郎ですね」 というところまで、議論のオッズをつり上げることができる。こんなやりかた。
- 「あなたみたいな素朴な理解で満足する人を久しぶりに見た気がします。 幸せで何よりですね^^;」
「あなたは○○だ」というやりかたはまた、相手に望まないアイコンを付加して、 相手の振舞いを縛る効果も期待できる。
「博士持ちは実戦知らないから…」とか、「これだから文系は…」みたいなアイコンは、 相手の行動全てをアイコンで抽象化して、人格をまとめて哄笑する余地を与えてくれる。
「私」は無碍。しばしば「我々」や「みんな」に変化したり、 あるいは「私」は、いきなりその場からいなくなったりすることも出来る。
- 「○○さんのくだらない発言には、我々みんなが迷惑しています」
- 「文系は話が胡乱になりやすいから、「はい」か「いいえ」だけで答えて下さい」
- 「私は大人だから、そんな低次元の争いには参加したくないですね^^;」
言葉は冷静に
その代わり、行動は情熱的に。
言葉尻はすごく大切。どんなに激しい内容を語っていようが、 整然とした論理で相手を圧倒しようが、言葉尻を乱したら、もうそれでお終い。 賭け金がそれ以上に上がることはない。
大切なのは、感情を隠して冷静さを取り繕いながら、 自らに間違いや行き違いがあっても、それが見えないかのように振舞い続けること。
自分が冷静であることを宣言するのは上手なやりかた。
- 「あなたが感情的になりすぎているから、議論が進まないんですよ」
- 「ずっと前から思っていたけれど、あなたの議論はたわごとにしか思えない」
- 「間違いを指摘されて、それを脅迫であると理解する理解する○○さんは、 私に何か抑圧的なものでも感じてらっしゃるのでしょうか?」
問題点ではなく人格を議論する
症状よりも病名が、問題点よりもその問題を提出した「人格」こそが上位にくるから、 上位概念を交渉の場に引っ張り出せば、賭け金はそれだけ上がる。
- 「あなたは○○関係の文献をお読みのようですから、あえて誤読してらっしゃるのでしょうが、 批判のための批判は困ります。小さい人ですね」
- 「議論になる」とは、あなたが議論になったと「感じている」だけでは? 私は単純に、 あなたの境遇に手を差し伸べたかっただけなのですが…。会話って面白いですね^^」
「安い交渉」は、相手の提出した問題点をなるべく細かく分割して、正しいものは受容し、 間違っているものだけを交渉して、相手の人格には絶対に手を出さない。
賭け金をつり上げようと思ったならば、相手の提出した問題よりも、むしろ 「そんな問題を提出した相手」の人格そのものを議論の場に引っ張り出す必要がある。 問題の正しい部分は人格という上位概念によって隠蔽され、 問題解決の場は、お互いの立場と面子とをかけた決闘の場へと生まれ変わる。
立場を大切にする
問題を大きくまとめて、選択肢を絞る。妥協点を探るのではなく温度を高めて、 全肯定か、全否定か、選択肢を二者択一に持っていく。
問題評価の尺度は隠蔽されなくてはならない。たとえそれが「どちらが先にトイレに行くか」 みたいな些細な問題であっても、「人間として…」「地球環境が…」といった極論に訴える。
相手の言葉は真摯に聞かれなくてはならない。最高のタイミングで話をさえぎるために。 攻撃材料を収集するために。
神は細部に宿る。話の内容に感心するのではなく、滑舌の細かな瑕疵を哄笑する。
相手の意見に、もしも自分の立場を強化する要素があったのならば、その時点で速やかな 勝利宣言を行わなくてはならない。提出された意見を勝手に「解決」されたことにされれば、 相手もまた、賭け金をつり上げざるを得ない。
トレードオフの要素に注意する必要がある。最速の解を示されたなら最善解でないことをなじり、 最善解を示されたなら、結果の遅さをなじることができる。結果が正しければ過程を非難し、 結果が悪ければ、もちろん全人格を否定する。
ネット世間に戦いを取り戻すために
自分のためだけの戦いなど存在しない。
お互いの全存在を賭けた戦いというものは、実はネットワークにつながった万人のために、 自らが攻撃し、忌み嫌い、罵倒した相手側の人々のためにさえ、役に立っている。
戦場で踊ったもの同士がそれを自覚しているのかどうかは、ここでは問題にならない。 それでもきっと、お互い流した血と意思は、どこかでそのことを理解している。
ネット世界は、うわべだけ取り繕った「馴れあい」という病気のために、死に瀕している。 情け容赦のない決闘は、きっと全ての人に暴力と剣の信仰を教えてくれる。
失われた信仰を取り戻すためには多くのものが破壊されなければならない。
膨れ上がった自意識の鉄塊がぶつかりあう音は、世界に鎮められない 怨讐をはらんだ空気を呼び戻す。 それは戦いに参加した者全員が鍛え上げたものだ。 すでにその犠牲となっているこの我々こそが。
戦いの勝利者が鉄槌であり、我々が鉄床であるとしても、それは問題ではない。
大切なのは、世界に君臨するのが暴力であって、 奴隷的な小心翼々たる馴れあいではないということ。
たとえ戦い敗れた者の居場所が地獄であろうとも、我々の戦いこそが、天国を存在せしめた。
諸君はさらなる戦いを望むか。容赦ない総力戦を望むか ?
もし必要とあらば、今日想像できる以上の全面的かつ徹底的なる戦いを諸君は望むか ?
――よろしい、ならば嵐だ。
我々は勝利の日まで、あるいは滅亡の日まで、この忠誠を捧げるつもりである。
2007年11月 9日
無邪気な人とのつきあいかた
無邪気さというものが敵に回ると、展開は最悪になる。
邪気のない人。いい患者でありさえすれば、いい家族でありさえすれば、 いつの間にやら医者には良心が芽生えて、患者さんは「すっかりよくなる」なんて、 心のそこから信じている人。あるいは本当はそんなことあるわけないんだけれど、 「ない」という事実から目線をそらして、思考を止めてしまった人達。
無邪気な人にとっては「邪でないこと」は大切だから、良くも悪くも損得勘定では動かない。 そんな人達が味方でいる分には、みんないい患者さんであり、いいご家族でもあり。
損得勘定で動かない人が敵にまわると本当に恐ろしい。損得を越えた戦いを仕掛けてくるから、 誤ろうが、土下座しようが、こちらの存在が全否定されるまで、もはや攻撃が止むことはない。 戦いは、取引ではなくて「悪事の報い」だから、もちろん交渉の余地なんてない。
「健全な相互不信」と「留保のない信頼」と
「いいご家族」と面談するときには、たいていの医者は心から緊張している。怖いから。
「いい関係」というのは、支えなしで地面に棒を立てるのに似て、本来ものすごく不安定な状態。 その状態を長く維持しようと思ったら、患者側と医者側、両方から棒にロープをかけて引っ張って、 安定した状態を保たないといけない。
引っ張りあいというのは、要するに健全な相互不信を維持した関係。 お互い信じていないけれど、それでも棒がまっすぐ立った状態というのは、 お互いの引っ張る力が最小で済むから、遠くからそれを見た人は、恐らくは 「いい関係」に見えるはず。
無邪気な患者さんというのは、棒が自然に立つことを信じきっていて、 ロープがそもそも見えないか、ロープを引っ張ることを放棄している。
棒はたしかに立っているけれど、医者側から見たその状態は、極めて不安定で、 しかもこちら側からできることがほとんどない。引っ張ったら倒れちゃうから、 こちらも手を緩めるしかないんだけれど、不安定な状態で立ち続ける棒は、 もはやいつ倒れるのか誰にも分からない。
「ロープが見えてる人」、医師を信じていない人とか、あるいは何かの取引を 持ちかけようとしている人は、あるいは棒を倒すかもしれないけれど、 その原因はロープの力加減だと分かってくれる。 最低限、交渉の席にはついてくれるし、トラブったところで、話は案外穏やかに進む。
無邪気な人とのトラブルになったとき、相手はそもそもロープを持っていないから、 棒は間違いなく医師側に倒れてしまう。
ロープが見えない、こんな人達にとっては、棒を立たせてきた原動力は、自分達の「邪気の無さ」。 棒が倒れた原因は、医者側の邪気だと認識されるから、そこから先の交渉は大変。
過程を無視する無邪気な人
最終的にどんな経過になったところで、ロープが見える人というのは、 そのロープの手応えを覚えているから大丈夫。ロープを介したコミュニケーションは、 力の入り具合がお互いよく分かる。
厄介なのは、倒れるその瞬間までは、棒はロープ無しでも立っていること。
無邪気な人と医師との関係は、相手が何かを不興に感じるその寸前までは、 「いい患者といい医者」との関係そのもの。医者一人が内心ドキドキなんだけれど、 「お願いだからロープ持ってください」なんて水を向けても、 無邪気な人達はやっぱりロープを見てくれない。
無邪気な人にとっては、入院経過がどうであれ、棒を立たせていたのは「邪気のなさ」 なんて見えない力のおかげだから、最終的に棒が倒れたとき、そこから先の振舞いは、 その瞬間の医師の態度で全てが決まる。どんな顔をすればいいのか、どこまで謝り倒せばいいのか、 そのあたりの基準は全て無邪気な人の心にあるから、こちら側からは全く分からない。
過程を評価してくれないこと、しばしばその思いが天井知らずで、 最悪自分達の人生がもっていかれそうになること。無邪気な人達というのは、 見た目どんなにいい人達でも、一発が怖くて油断できない。
無邪気を交渉の場に引っ張り出すために
「どこまでやるのか?」という問題は、本来予算と価値観との天秤。
ロープの引っ張りあいができる人なら、お互いのバランス感覚は読めるから、 「このへんまで」なんてサバ読みはかなり正確。
ロープが見えてない人にとっては、天秤の患者側に乗っける価値は、自らの邪気のなさ。 それがどれぐらい重いのか、反対側にいる医者には分からない。 価値は見えなくて、人によっては天井知らずで、 笑顔の裏で、天秤に国家予算がぶら下がることを信じて疑わない人がいたりして。
ロープを可視化してくれるのは、要するに「天井」なのだと思う。
無限に予算をかけても無限に健康になれるなんてことはありえなくて、 予算には本来上限があって、どんなに邪気無く振舞ったところで、 保険から引っ張れる予算には限りがあって。
「天井を見せる」という部分に限っていえば、 混合診療の導入は、個人的には大賛成だったりする。
これが始まれば、間違いなく医療費上がって、保険の範囲でできることなんて限られていく。
医師の収入も削られて、高収入目指そうと思ったならば、 診療の傍らで癌に効くキノコ売ったり、外来に「私は毎日こんなサプリメント摂ってます」なんて、 笑顔のポスター貼ってみたり。
それはあんまり嬉しい未来図ではないけれど、天井知らずに無邪気な人は、 最近になってまだまだ増えてきて、実際問題困って