2007年4月12日

人生に必要なことはすべてゲームセンターが教えてくれた

始まりは駄菓子屋の裏

ゲームセンターに入り浸るようになったのは、インベーダーブームの後期。

町のゲーセンは真っ暗で、大人の溜まり場。 小学生には敷居が高くて、みんなが集まるのはいつも駄菓子屋の裏。

日曜日の朝なら監視が薄くて、電源コンセントを抜き差ししたり、 誰かが電子ライターを持ち込んでみたり。

子供のいたずらがうまくいくことなんて滅多になかったけれど、 みんなで楽しく悪だくみ。

1ボタンに2方向レバーの時代。ここから始まった。

体験をみんなで分け合うこと

当時から1 ゲーム50円。お小遣いで遊べるのはせいぜい3回。

みんな下手だったから、ゲームをする時間よりも、 友達のプレイ画面を見る時間のほうがよっぽど長くて。

「きっと、こうしたほうがもっと上手くいくよ」

みんなで楽しくアドバイス。子供の知恵なんてたいてい間違っていて、お金出してる子供も そんなアドバイスなんて気にもしていなかったけれど、そのときの一体感だけは、きっと本物。

失敗した時は「我々の失敗」。成功だってみんなのもの。

成果を競いあうとか、相手を蹴落とすとか、そんな発想をするにはゲームは手強すぎ、 小学生のお小遣いはあまりにも少なすぎた。

お小遣いが増えて、ゲームは上手になったけれど、どこかで何かを失った。

極めるべき技術をよく考える

中学生の頃。ハイパーオリンピックは、ボタン連打の楽しさを教えてくれた最初のゲーム。

基盤の性能も上がって、自機が連射できる弾数が飛躍的に上昇したのも同じ頃から。

避けてじっくりいくべきか? 連射して火力で押し切るべきか?

「避け」派と「連射」派。左手と右手。鍛えるならどちらが先なのか。

器用な連中は左を鍛えて、気合で押し切るのが好きな連中は、 右手を鍛えてひたすらに連射性能を高めていった。

振動撃ち。こすり撃ち。ピアノ撃ち。スクラッチング。高橋名人は毎秒16連射できる。

いろんな流派。いろんな伝説。ボタンを速く押す。ただそれだけのことなのに、 連射の道は奥が深くて、極めるべきことはたくさんあって。

連射が好きだった。それを自分の武器と決めれば、どんなボタンでも連打の対象。 待ってる間、エレベーターのボタンを連打する人、きっと今でも多いはず。

存在は意識を規定する。連射が上手になると、どんな弾幕ゲームでも、 連射で押し切る戦略以外は見えなくなる。

避けないで近づいて、堅いボスに重なるようにして、ひたすら連打。
至近距離からの弾幕喰って討ち死に。

グラディウス以降は頭の時代。もはや体力だけでは勝てなくて、 上手に避けて、パターンを見出して攻略する、 そんなゲーマーでないと先に進めない。そのうちどこのゲームセンターも 連射装置を「サービス」するようになって、 シューターの「連射の芸術」は、その役割を終えた。

避けかたは一つじゃない

弾が来る。大きく避ける。追い詰められる。やられる。ずっとそのくり返し。

上手い人はほとんど動かない。弾筋を見切って、最小限に避ける。 あれがたんなる強がりなんかじゃなくて、 ちゃんとした意味があるのに気がついたのは、大分時間がたってから。

怖さだけでやたらに動き回らないで、自信を持って弾幕を読んで。 当たり判定から1ミリだけ離れていても、10ミリ離れていても、当たらないのだったら同じ。

  • 必要最小限の回避をすること
  • あえて大きく動いて弾幕を誘導して、反対側に弾幕の切れ間を作ること
  • 時には怖がらずに止まって、自分を狙ってこない弾に対して反応しないこと

「避ける」ための技術は、生き残ってもっと楽しむための技術。

「器用じゃないから避けられない」という理解では正解の半分で、 「怖がらないで楽しむことで、初めて見えてくるものがある」ということをやっと理解できた頃には、 もう受験生。

状況を楽しむ余裕があれば、きっと答えが見えてくるはず。

それでもやっぱり、最後は気合が全て。

ボムを使い切る

ボム逃げかっこ悪い。往生際悪くボムで逃げるぐらいなら、最初からやり直そうか?

そんなこと考えたり、あるいは頭に血が上りすぎて、ボム使うだけの知恵が回らなかった頃は、 やっぱり上達は遅かった。

自機を1 つ失うより、ボムを1 つ失うほうがよっぽど有意義。上手な人達だって、新しいゲームのときは、 誰でも初心者。新しい基盤が入って、筐体の周囲にコインの山積んで、上手な人達は画面をボムだらけにしながら、 とりあえずエンディングまで進んで、それから攻略を考える。

お金なかったし、「あれ卑怯だよな」なんて同級生同士おしゃべりしながら、 結局エンディングを拝めたのは、上手な人たちが無様な姿を晒して、道を作ってくれたから。

目的をもって無様なやりかたを貫く人というのは、本当はものすごくかっこいい。

ボムの抱え死にには恥。そんな当たり前の感覚が身についたのは、 一人暮らしを始めて、お金の重さがとても切実になってからだった。

近くに寄る 遠くから見る

堅い相手から逃げないで近づいて、目線を遠くして画面全体を見る。

自機の主装備は、パワーアップすると広範囲に撃てる。その威力に頼ってしまうと 心が怠けて、自機は画面の下半分に沈んで、そのうち逃げ場がなくなってしまう。

本当に大切なことは目に見えない。「広がること」は目立つけれど、 それはパワーアップの本質なんかじゃなくて、むしろパワーと引き換えに失った要素。

パワーが上がって面が進めば、おのずと敵も堅くなる。拡散した弾の威力は、 パワーアップする前と同じ。敵が堅くなれば、それだけ威力は落ちるから、 弾を集中できなければ撃ち負けてしまう。

広範囲に撃てるようになった武器の威力を本当に活かすためには、 敵にぎりぎりまで近づいて、威力を集中しないといけない。

堅い敵の近くに寄って、それでも目線は、あくまでも画面全体を見渡して。

上手な人達は画面を広く使う。

画面の下端に張り付いて、自機を左右に振っているだけならば、 スペースインベーダー時代と同じ。8方向レバーの意味がない。

シューティングは自機と敵との陣取り合戦。 自由に動くことは、自由に動けることを必ずしも保証してくれない。 弾幕をくぐって、それでも前に出て、動く空間は自分で作らないと動けない。

撃てる範囲が広がったこと。自機の移動範囲が広がったこと。

広がりの威力を活かすためには、 前に出て集中する努力が欠かせなくて、広がった自由を維持するためには、 前に出る勇気が必要で。

ベテランから最初に学んだこと。

何よりも大切な意味を持つ言葉。

……「前に出て、縦に避けるんだよ

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2007年3月28日

エキスパートシステムのこと

エキスパートシステムのこと

  • エキスパート自身は、自分が何でエキスパートでいられるのかを説明できない
  • エキスパートの人が、自身の行動原理を本気で文章化しようと試みると、 その人はもはやエキスパートではいられなくなってしまう

プロの選手とプロのコーチと

有名なスキーのコーチは、選手としてはそれほど成功しなかったのだそうだ。

そのコーチがスキーをはじめたのは、大学を卒業してから。スキーの選手のほとんどは、 子供の頃からスキーに親しんでいる人だから、競技では勝負にならなかった。

そのコーチは、自分よりも上手ないろんな選手の動作を観察して学習して、そのうち 「誰が教わってもタイムが伸びる」コーチとして注目を集め、日本中から選手が 教えを乞いにくるようになったのだという。

ゴルフの帝王ジャックニクラウスは、かつてゴルフの指南書を書いたことがあった。 それは本人も満足のいく完璧な仕上がりだったけれど、それを書き上げた後の一年間、 帝王は極度のスランプに苦しんだのだという(山に生きるより引用)。

言語化すると失われるもの

技術というものは、それを持っているエキスパート本人には説明不可能なもので、 それを無理やり言語化しようとすると、何か大切なものが失われてしまう。

言語化という行為は単なるアウトプットだけれど、 それはまた、エキスパート本人をも変質させる。

「エキスパートシステム」というのは、技術を言語化する試み。 ところが、「系」の中にいるエキスパートが、自分自身を観測しようと試みると、 観測という行為自体が測定結果に影響を与えてしまい、真の値を測定できない。

エキスパートの技術、あるいは才能というのは、確率論的なもの。

エキスパートの人達はたぶん、行動を選択する過程のどこかでサイコロを振っていて、 仮に全く同じ状況に遭遇したとしても、そのとき全く同じ行動をとるとは限らない。

一番大事なところを「適当」にやれるからこそ、エキスパートはエキスパートでいられるのだけれど、 「適当」を言語化する過程の中で、確率論は決定論におきかえられる。 無理やり作られた論理的な思考過程は、たぶんその技術者の行動を上手く説明するけれど、 情報が入力されてから決定が下るまでの工程に時間がかかりすぎてしまって、 現場では役に立たないものになってしまう。

エキスパートをエキスパートにしている要因の多くは、論理の緻密さではなくて、たぶん対応の早さ。 ベテランは、外から入ってきた情報を元にして、その先にある「確率の高い現実」を予想して、 それにあわせて行動する。実世界では、未来は確率論的に予測することしかできないから、 情報の入力と、実際の行動とのタイムラグが少なければ少ないほど、 正しい行動をとれる確率が高くなる。ベテランは早い。だから正しい。

教えるのが上手なプロのコーチにとっては、選手というのはブラックボックス。 コーチがイメージしている「あるべき姿」というのは、上手な選手を観察した蓄積であって、 コーチが作り出した論理の先に生まれたものではないはず。 こんなコーチは、選手の動きと、本来「こうあるべき」という理想的な動きとの誤差を指摘するだけで、 選手の行動ロジックには介入しないで、適当なところは適当なまんま放置するからこそ、 選手のタイムが向上するんじゃないかと思う。

違うことだけは分かってる

NHK が宮崎駿監督の特番を組んだ。番組中、新しい映画のイメージが固まらなくて、 監督が何度もつぶやくのが「違うことだけは分かってるんだ…」という言葉。 今までの経験の蓄積で、このまま進むと失敗することだけは分かるんだけれど、 どうやったら成功するのか、未だに全然分からないらしい。

失敗には原因があるけれど、成功を生むのは偶然の積み重ね。

サーベルタイガーが絶滅したのは、牙が長すぎて環境変化に適応できなくなったからだけれど、 「草原を速く走る生き物」という問題の正解は、ウマであったりカンガルーであったり、何だってあり。 進化論世界では、状況が全く異なるのに、結論が同じことだってある。 タコの目と人の目。生き物としての共通点なんて ほとんどないのに、目の構造は大体一緒。

成功事例というのは、成功したあとの結果を観察することはできるけれど、 その過程で何があったのか、当時者がそれを語るのは難しい。

医学的に「正しい」診療ガイドラインが毎日のように発行されている昨今だけれど、 それを作った先生方の生産性が劇的に低下したとか、 そのガイドラインを発行後、その人がベテランでなくなったなんて話は聞かない。

エキスパートが自分の行動原理を記述したにもかかわらず、 その人がまだエキスパートでいられるということは、 その人が最初からまじめに本を書く気がなかったか、 あるいはその人はそもそもエキスパートでなかったか、たぶん どちらか。

エキスパートを観察するプロ

技術を伝えていく中で、演じるプロとは別に、観察して伝達するプロを育てていかないと、 もしかしたら技術は伝わらないのかもしれない。

役に立つのは、きっと観察を中心とした方法論。ベテランが遭遇するいろんな状況と、 それに対する本人の振舞いとを蓄積して、「こんなときにはこう動くとうまく行く可能性が高い」、 あるいは「このベテランの振る舞いと最も相関しているのは、こんなデータの変化」 という行動原則を作っていくような。

父親がまだ生きていた頃、トンネルをまっすぐに掘る技術者の思考過程を 機械化する試みがあったのだそうだ。

ベテランのトンネル技術者は、見えない土の先にある「向こう側」を正確に読んで、 わずかな情報を頼りにまっすぐにトンネルをつなげる。その人自身にも、 なんでそれができるのか、上手く説明できない。そのやりかたを突き止めるために、 その人周囲のありとあらゆる情報を採取して、同時にその技術者がそのときどう振舞うのか、 それをひたすら記録したのだという。

その結果がどうなったのかは聞けなかったし、もうずいぶん昔の話だけれど、 そのトンネル技術者は何か特別なサインを利用していたのではなくて、 ごくありふれた、誰もが当たり前としか思わないような、そんな情報を複数、何となくまとめて、 一つの決断を下していたんじゃないかと思う。

病院にいるベテランも、たとえば誰も知らない所見を知っているとか、 ものすごく敏感な感覚を持っているとか そんなことはなくて、部分部分は普通の人。ところが「普通の部分」が合わさると、 特別な存在になってしまう。

昔みたいに「殺して育てる」なんてことができなくなった昨今、優れた臨床医を育てるためには、 現場にはすぐれたコーチが欠かせなくなる。総合臨床の先生方とか、 何か目指すならこんな役割をやってくれるとありがたいのだけれど。

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2007年3月23日

不幸を呼びこむ人

  • 病院ごとの実力を、何かにつけて比較する
  • 改善策の提案よりも、欠点の指摘が好き
  • 同業者をほめることより、けなすことが先
  • 属人的な説明を好む

こんな人が近くにいるならば、研修医の人達は、可能な限り距離をおいたほうがいい。

不幸は伝染する

不幸を呼びこむ人というのがいる。

実力はあるのにまわりの人が離れていったり、立場も名声も得ているはずなのに、 なんだか楽しそうでなかったり。

有名な研修施設がいきなり崩壊してみたり、医師がまとまって離脱してみたり、 いろんなところでありえない事態が進行している昨今。きっといろんな理由が あるのだろうけれど、あえて医療者側だけに原因を求めるとしたら、 事態の中心には、たいていこんな人が隠れている。

不幸を呼びこむタイプの人というのは、現状を楽しむことができなくて、 いつまで経っても「自分は不幸だ」と思い込んでいる人たち。

それはうまい方向に転がると、「向上心」となってその人を駆動する 原動力になったりもするんだけれど、そうでない人もまた、ものすごく多い。 行き場のない不幸な感覚は、不満となってその人の体内にたまっていく。

不幸や不満は伝染する。

不満を抱えている人というのは、人間を「敵か味方か」で判断しようとする。 敵対したくなければ、味方になるか、味方のふりをするしかない。

2枚舌を使いつづけるのは大変だから、一緒に過ごす時間が長い相手の気分や感情、 考えかたというのは、どうしたって自分の中に共有されてしまう。 不満を抱えた人の陰口や、足の引っ張り合いゲームに恒常的に参加していると、 その人とつきあっている人の考えかたも、自然にそれに影響されていく。

ゲームはだんだんと大規模になって、チームはますます固まるけれど、病棟の雰囲気は悪くなる。 そのうち誰もが不満を口にするようになって、それがある臨界を越えたとき、チームは内側から破裂する。

不幸の伝染というのは、疫病のそれと同じ。保菌者自身を治療することがかなわないならば、 その人を隔離するしかない。早期発見が大切。感染が広がってからでは、たいてい遅すぎる。

見分けかた

初対面の人間に自分の不平不満をぶつけてみたり、 挨拶もそこそこに誰かの陰口をはじめる人なんていない。 最初は誰だっていい人。詐欺師とか、大量殺人の犯人だって、 ちょっと見た目は感じのいい人物だからこそ、 あれだけの仕事ができるのだから。

何気ない会話からそんな人を見分ける方法というのは、その人が周囲の環境とか、 あるいは同業者をどんなやりかたで紹介するのかを観察すること。

  • 自分の施設を紹介するときに、「○○病院では年間何例切っている」とか、「○○病院の部長は今度学会の座長をやる」とか、 そんな話を付け加える人というのは、裏を返せば「この病院はそんなことすらできないところだ」と不満をもっている
  • この病院は事務が最悪でね…とか、ろくでもない救急患者ばっかりで…とか、対案の無い問題点の指摘が多くでる人は危ない。 対案が無いというのは、「この施設の奴らは言うだけ無駄だ」というあきらめの裏返し
  • 誰かを話題にするときに、その人のいいところからでなくて、欠点から紹介する人はやっぱり不満を抱えていることが多い
  • 「あの病気は、○○先生が一例目を手がけて、○○大学の先生が症例を発表して、学会の座長が○○先生のときに ガイドラインに載って…」みたいな属人的な歴史の説明を好む人は、 自分がそのラインに乗れなかったことを不満に思っている可能性が高い

その人が「自分自身をどう紹介するのか」を観察しても、役に立たない。

不満を抱えている人というのは、少し話した印象だけでは、自分に厳しい、まじめな人物として 写ることが多い。特にそれが年次が上の医師のときは、不満の裏返しと、無害な熱心さとの区別はつかない。

先輩がたの話もまた、しばしば役に立たない。誰だって自分の上司を悪く言いたくないし、 その人達もまた、もしかしたら感染者になっているかもしれないし。

相性の問題とか、施設の実力なんかはもちろん大切だけれど、 自分が入った施設がいつ吹き飛ぶのか分からない昨今、 誰がその組織を束ねていて、その人がどんな人なのかを見ておくのも、相当大事。

間違った団結をした組織

たぶん、世の中には不満や不幸を使って、間違って固まった組織と、 本来のやりかたで正しく固まった組織とがあって、 外から少しそれを見ただけでは、案外区別がつかない気がする。

自分は幸い、正しい成り立ちをした組織に恵まれてここまで来て、 今から振り返るとたぶん保菌者として陰口ばっかり叩いてきたけれど、 幸いなんだか不幸なんだか、社会的にはあんまり成功しなかったから、 影響を受けた人は最小限のはず。

「崩壊した」とされる多くの施設は激務のところが多くて、たぶん眠る時間すら無いような ありさま。現場の士気落ちまくり。

現場の問題は大きいけれど、たぶん全てではない。吹っ飛んでいる施設がある一方で、 忙しい中持ちこたえている病院だってまだまだ多いし、 このご時世になってもなお、人を増やして組織が大きくなる救急病院だってあるわけで。 トップの実力は、たぶんすごく大切。

医療を取り巻く状況はどんどん厳しくなっているけれど、現場の崩壊という現象は、 組織崩壊の閾値が下がっていく中で、本来上に立ってはいけない人が上に立っていて、 足の引っ張り合いゲームで無理やりまとめていたところから潰れているんじゃないかとも思う。

本当に厳しい状況が続くけれど、単純に救急をとらないとか、給料がいいとか、 そんな理由だけでは人は集まらないはず。 今のこの状況が、本来上に立つべき人を正しい場所に押し上げる原動力になるのなら、 悪いことばっかりではないのかもしれない。

正しさは発信しないと伝わらない

若い人達がいろんな情報を共有して、正しくまとまった施設に人が多く集まるようになるのなら、 それはきっとすばらしいことだと思うんだけれど、今の下級生に話を聞いても、 情報の共有をやっている人達は驚くほど少ない。

ネット時代。大きな病院を束ねる部長級の先生がたとか、あるいは医局を率いる各大学の教授 なんかがWeblog みたいな個人メディアを運営すると、きっといろんなことが見えてくる。

公的な立場の人が、炎上を引き起こさないで双方向メディアを維持するためには、 自分の考えかたをしっかり持っていて、立ち位置を変えない、言ったことと行動との間の 矛盾が無い態度を貫かないといけない。そこを外すと、絶対に誰かに突っ込まれてしまう。 「正しくない」トップの人は、だからこんなメディアは絶対に運営できない。

正しい人にだって、グダグダになって炎上して、日本中から笑いものになってしまうリスクだって もちろんあるけれど、その人が自分の仕事を本当に面白いものだと感覚していて、 それを行動との矛盾なく発信できるなら、その施設にはきっと、 意気に感じた人たちが集まってくるはず。

忙しくて人が集まらないところ、産科や小児科、内科や外科みたいな科だからこそ、 正しくがんばっている人達は、その「正しさ」を発信する意味はきっとあると思う。

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2007年3月13日

院長室の秘儀

昔研修していた400床の民間病院では、一晩に当直する医師の数が12人。

救急外来4人。内科2人、外科2人、産婦人科、小児科が各2人。

病院の隣に「夜明かし」という飲み屋さんがあって、そこの奥座敷が整形外科の第2医局。 朝の5時ぐらいまでだったら、そこには必ず誰か常駐していたから、分からない骨折の人がきたときは、 電話一本で飛んできてくれた。

救急外来はいつもお祭り。ダブルCPRなんかになると病院中の当直医が集まってきて、 昼間以上のにぎわい。3日に1回は当直だったし、仕事は忙しかったけれど、 今はいい思い出。

救急車奪いあい。症例奪いあい。 救急医療の崩壊なんて、考えもしなかった、ほんの6年前のこと。

責任者を出せ

フロントラインに立つのは研修医の仕事。

当時は自分も研修医。裏でどんなドラマがあったのかは知らないけれど、 実際のところ、クレームやトラブル、ものすごく多かったらしい。

ある程度年次が上になって、何かの折りに病院長と話をすることがあったとき、そんな話題になった。

まだ分からないだろうけれど、病院長っていうのは、本当に大変なんだよ…

病院長は、そんなことを述懐していた。

当院のローカルルールでは、研修医が起こしたトラブルは、全て病院長が責任を取るルール。

ルールは徹底していて、研修医が万引きしてつかまったとか、キレた研修医が患者さんを殴ったとか、 そんなことだって院長の責任。問題をおこした研修医は、基本的には翌日から普通に仕事を続けて、 患者さんとのトラブルについては、忘れてかまわない。

患者さんの家族と面談したり、警察とのやりとりといった仕事は、全部病院長の仕事。

そのルールは明文化はされていなかったし、うちで研修した全ての研修医がそれを知っていたとも思えないけれど、 うちの病院にはそういう掟があって、歴代の院長はみんなそれを守っていた。

責任と行為の分離

医師が行使できる力というのは大きすぎて、経験のない研修医が使うには相当危ない。

西洋医学というのは、うまくいけばすごい結果を生むけれど、 失敗してもまた、すごいことになる。それでも、失敗しないで上手くやる方法を学んでいくためには、 正しく失敗する経験は欠かせない。

研修医は、無茶をやることで失敗を覚え、だんだんと一人前になる。 手を後ろに回してばかりでは、いつまで経っても手技なんて覚えられない。

「トラブルを起こしたら上を呼べ」というのが、研修医に教えられた唯一の回避手段。 呼ばれた「上」は無条件で出てきて、その時点で研修医はそのトラブルを忘れて、次の仕事へ。 みんなどんどん問題を作ってはスルーして、その問題は最終的に院長室に持ち込まれて、 いつのまにかどうにかなっていた。

当時の病院では、「行為に伴うリスク」が研修医の目からは巧妙に隠されていたから、 今から思うと本当に無茶をしたものだった。

視野の狭さと世界の道理と

研修医の頃は、自分のことばっかり。忙しければ不機嫌になるし、 余裕が出れば仕事をほしがる。全体なんて見えないから、個人の気分と病棟の空気とは いつもどこかずれていて、トラブルばっかり。

自分が忙しいときには、たぶんどこの病院だって忙しいんだけれど、 救急車はやっぱり救急病院に集まってくる。 「なんでうちばっかり救急車が来るんですか!!」なんて、夜中に病院長と電話で喧嘩してみたり、 赤面もののエピソードいっぱい。

年次が上がって、下級生の面倒を見るようになって、 行為に伴うリスクというものが少しは分かった頃、 病院長から「種あかし」をしてもらって、そのあとさらにいろいろあって、今の病院へ。

患者さんも同じ。いい患者さんはいろんな「良さ」を見せてくれるけれど、悪い患者さんはいつも一緒。

重症診てても「いつまで待たせるんだ!!」と怒鳴り込んでくる風邪の人とか、 真夜中になってから3日前の風邪引きの子供を連れてきて、 「もう心配で心配で…」なんて涙目になるお母さんとか。

みんな自分ばっかり。視野狭い。

視野というのは、最初のうちは本当に狭くて、研修医も患者さんも、自分だけ。

みんな「大人」と話して、視野の広さを獲得して、世界を見直して、道理を覚える。

15少年漂流記の暗黒版、「蝿の王」では、無垢な子供たちが孤島に流されて、 お互い助け合い、そのうちだんだんと堕落して、最後は殺しあいになってしまう様が描かれる。

「ぼくらはみんな押し流されているんだ。何もかも腐りかけているんだ。 家にいたころはいつも大人がいたっけ。これどうしたらいいですか、 先生……それですぐに答えてもらったもんだった。こんなときこそほんとうに!」

院長室の秘儀

「院長室の秘儀」というものは、病院長級の先生方だけに継承されている、究極の交渉術。 若手はそんなものがあることすら知らなくて、自分ももちろん知らない。それはたぶん、 部長級の先生方が院長になる時に伝授されるもので、 院長の看板背負ってる人ならば、本来は誰だってこれが使える。

あの頃の病院長は、視野の狭い研修医と、視野の狭い患者さんとを同時に相手して、 道理を諭してトラブルを消す達人だった。研修医の頃から喧嘩しながら、 同時にいろんな事を教えていただいたけれど、あの「院長室の秘儀」だけは、 未だにどうやってあれだけのトラブルをさばいていたのだか、想像もつかない。

いろんな病院を転々として驚いたのが、「医者は自己責任で仕事をする」というルールが 当たり前だったこと。

当たり前だろ、馬鹿じゃねぇの?と思うかもしれないけれど、 研修した病院では、手を動かす人と、責任を取る人とは全く別だったから、 「手を動かすやつが責任を取らなきゃいけない」というルールは初めて体験する恐怖だった。

今いろんな病院から医師が立ち去って、組織が維持できない病院が増えている。 そんな病院はたいてい、上の人たちが現場をかばわなかったり、下手するとえらい人が 後ろから医師の背中を撃ってみたりして、リスクの高い科から人がいなくなる。

これが単なるルールの違いなんかじゃなくて、もしも「院長室の秘儀」と言うべきものが そんな施設のえらい人達に継承されていないのだとすれば、 それはそうとう深刻なことなんじゃないかと思う。

トラブルをおこすのが怖くて、人間関係を保つ姑息なノウハウはいろいろ覚えたけれど、 当時の「大人」達のレベルには全然追いつけない。時代が変わって、ノウハウ消える前に 誰か継承してくれないと、この業界は本当に終わる。

どこかでちゃんと伝わっていると、信じたいけれど…。

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2007年3月12日

モデルが現実を駆動する

心不全というのは、最初は「ポンプが作動しなくなる」病気だと理解されていた。

いくつかの発見があって、「ポンプ不全モデル」で説明できない事実が出てきて、今度は 「血管抵抗モデル」という新しい概念が提出されて、心不全という病気は、 今では「内分泌の異常」と理解されるようになった。

ポンプ不全の時代

70年代ぐらいまで、心不全というのは「心臓というポンプが駄目になる病気」と理解されていた。

「心不全の患者さんに水が貯まって苦しくなるのは、心臓が弱ってしまったから」

このモデルに従うならば、用いるべき薬は利尿薬と強心薬。

この頃の代表的な治療手段は、強心薬であるジギタリス急速飽和療法。 「さじ加減」の言葉は、 ここから生まれた。

この頃すでに、ACE 阻害薬とかβ遮断薬とか、ニトログリセリンみたいな、現代でも 用いる心不全治療薬はすべて発売されていた。ところが、こういった薬は、 「心不全はポンプ不全」というモデルには乗っからない薬だったから、出番がなかったり、 あるいは禁忌とされたりしていた。

血管抵抗モデルの登場

血圧を下げる薬というのは、「ポンプ不全」モデルでは心臓に対する作用が期待できなくて、 不必要に血圧を下げてしまう可能性があったから、当時は禁忌とされていた。

ところが、心不全の患者さんというのは、しばしば狭心症を合併して救急外来に担ぎ込まれる。 患者さんは息が苦しくて、さらに胸を痛がる。

狭心症にはニトログリセリンを使う。これはダイナマイト発明前からの常識。 患者さんにニトログリセリンを舌下してもらうと、胸痛は落ち着いて、どういうわけだか 呼吸困難感も落ち着いてしまう。

こんなケースが何例も報告されて、「ポンプ不全」モデルでは全ての事例が説明できなくなった。

心不全というのは、血管抵抗の増加に対して心機能が追いつけなくなって生じる。ニトログリセリンは血管抵抗を下げることで、心拍出量を増加させる。

ニトログリセリンの効果は、こんなふうに、電流と電圧、抵抗の関係で説明がなされるようになった。

新しいモデルは古い薬を追い出す

血管抵抗モデルが普及してくると、今度は昔からの心不全治療薬、強心薬の居場所がなくなった。

しばらくの間は、急性期は血管拡張薬、慢性期はジギタリスみたいな治療が行われたけれど、 そのうち「血管拡張薬とジギタリス、予後を良くするのはどちらなのか?」という検証が行われて、 ジギタリスは主役を降りた。

いろいろあって生き残ったのがACE 阻害薬。これが主役になってから、心不全患者さんは 本当に死ななくなった。ほんの10年前まで、心不全の5年生存率というのは 悪性腫瘍並に悪かったけれど、 今はよっぽど悪い人でない限り、心不全だけで亡くなる人というのはまれになった。

モデルがないと、普通の人間はたぶん、目の前の事実を認識できない。

ACE 阻害薬自体は、古くから用いられてきた血圧の薬。血管抵抗モデル登場以前、 高血圧と心不全のある患者さんで、この薬を飲んでいる人だってたくさんいたはずだけれど、 「これ効くよ!」なんて声は聞こえなかった。

研修医の頃、ACE 阻害薬とβ遮断薬とを開業の先生からもらっていた患者さんが、 心不全をおこして入院したことがあった。当時のサマリーを見ると、その薬は全部 中止されて、ジギタリスを出して退院、と書いてある。

今の感覚で行くと、 これは犯罪行為だし、当時だってこれをやったら患者さんが悪くなる ということを実感できたはずなんだけれど、患者さんは「良くなって」、また外来に戻っていった。

血管拡張がいいのか、ACE 阻害薬がいいのか

「血管抵抗を下げて、血圧を削って心拍出量を増やして、全身の循環を正常に戻す」という 血管抵抗モデルの考えかたは分かりやすくて、80年代始め、 今度はいろんな血管拡張薬の治験が行われるようになった。

血管拡張薬には明らかな優劣があった。

  • ある薬は心不全を良くするのに、別の薬は明らかに死亡率が上がる
  • 2種類の血管拡張薬を比較すると、「患者さんが元気になる薬」と「寿命が延びる薬」とがあって、 この違いは単純な「血管抵抗モデル」では説明できない

患者さんを長生きさせたのは、ACE 阻害薬。ところが、 血行動態改善の指標である「患者さんを元気にする」 競争では、この薬は必ずしも1番ではなかった。

血管抵抗モデルが正しいのか、それともACE 阻害薬が正しいのか。

血管拡張薬のある種のものは、レニン-アンギオテンシン系を刺激してしまったり、あるいは 交感神経の緊張を招いてしまったりする。血行動態が改善しても、こうした内分泌環境を 改善できない薬は、結果として心機能を悪くしてしまう。ACE 阻害薬は、血管を拡張するとともに、 こうした内分泌環境をも改善する。

事実を説明しきれない血管抵抗モデルは主役を降ろされ、 今度は「レニン-アンギオテンシン系や交感神経の活動自体が 心臓にダメージを与える」という、内分泌モデルが広まるようになった。

新しいモデルは過去の薬をリバイバルする

新しいモデル、内分泌モデルで主役になるのは、 レニン-アンギオテンシン系や交感神経の活動を抑える薬。

良くできたモデルは、しばしば次に来る薬を予見する。

「内分泌モデル」が正しいならば、 ACE 阻害薬以外にも効く可能性がある薬が2種類。β遮断薬と、アルドステロン拮抗薬と。

非常に古い降圧薬と、利尿薬。前者は心不全禁忌とされていた薬で、 後者は肝硬変の人なんかに使う、特殊な利尿薬というイメージだった。 モデルが変わって、古い薬にライトが当たって、どちらの薬も患者さんの予後を改善した。 いまでは当たり前のように最初から使う。

顕微鏡が実世界の観察を殺す

β遮断薬は、昔は心不全治療の標準的な薬だったのだそうだ。

「ポンプ不全モデル」が広まるもっと昔、心不全で亡くなる人は脈が早くなるという観察があって、 脈拍を下げる薬であるβ遮断薬は、治療薬として使われて、実際効果があったらしい。

ところがしばらくして、「心不全はポンプ不全だ」という考えかたが広まって、 同じ頃、基礎系の人たちが、β遮断薬は心筋の収縮力を落とすという事実を発見した。

β遮断薬は薬理畑の人達から禁忌とされるようになって、 それから20年近く、この薬が心不全に使われることはなかった。

病気理解のモデルがそれから3回変わって、本来の観察がリバイバルされて、 β遮断薬はやっと正当な評価を受けるようになった。

そして電子顕微鏡の時代へ

ブラックボックスを理解するのには2つのやりかたがある。

  • ブラックボックスを説明するモデルを作って、その動作を検証する
  • ブラックボックスをひたすら分解して、細かい部分を調べていく

心不全治療の世界というのは、5年周期ぐらいで新しい病気理解のモデルが 提案されて、それに応じて新しい薬が選択されて…なんていう進歩のしかたを してきたのだけれど、90年代以降、この流れが止まって、「内分泌モデル」を 限りなく細かく調べていく、顕微鏡屋さんが活躍する分野になりつつある。

顕微鏡屋さんの仕事はどんどん細かくなっていって、今ではレセプターの構造を 解析して、分子をデザインして新薬を作るなんていう時代になった。

で、そんな薬が良く効くかというとあんまりそんなことはなくて、 ARB とかハンプとか、大成功したケースももちろんあるのだけれど、 「効くはず」の薬があんまり上手く行かなかったり、副作用強すぎて 駄目になったりするケースとか、けっこう多い。

過去30年近く発売されている薬を「再発見」するのと、時代の検証を経ていない薬とを 同列に論じている時点で全然フェアでないのだけれど、 薬には「モデルが要請した薬」と「電子顕微鏡が作った薬」との2種類があって、 モデル上は無くても何とかなる薬を今さら作って舞台に上げても、 人間はあんまり幸せになれない気がする。

計算的深さと決定論的カオス

最近は、電子顕微鏡が作った薬が多い。

他の分野でも、疾患理解のモデル自体はもう何年も変わっていなくて、 その細部を顕微鏡屋さんがすごい勢いで埋めて行く。

新しく発見された「細部」は、今度はそれがどう効くのかが論じられた後、 そこから生まれる市場に応じて「そこに効く薬」がデザインされて、 「効く薬」として発売される。

行き当たりばったりで効く薬を探していた昔と違って、 電子顕微鏡が薬を作る過程は決定論的。 細部の新発見から分子デザイン、製品化まで、サイコロを振る人は誰もいない。

困るのが、人体での検証もまた、「サイコロを振ることが最初から許されていない」こと。

「効く薬」として作っちゃったから、「検証したらダメでした」は許されない。 もう売るしかなくて、メーカー協賛の「エビデンス」をゴロゴロ背負った効かない新薬、けっこうある。

モデル駆動の開発というのはたぶん時間がかかって、毎年のように「新発見」を 要求される研究者の人達にとっては、ギャンブルもいいところ。

今はコストダウンの要求も激しくて、メーカーも苦しいんだそうだ。 昔みたいに800種類の物質を同時に試して、 生き残った物質を「製品」として発売するような呑気なこと、やっている余裕も無いらしい。

発見というのは、細かくなればなるほど、その物質が病気に与える影響が複雑になって、 予測できない因子が増えていく。発見の「次数」が1段下がれば、それが実世界の薬に 反映されるまでのステップもまた、1段増える。

そのステップが増えすぎて、計算的深さが深くなりすぎると、 初期値の観察誤差に対する影響が制御できなくなって、 もはやマーケットに薬が出た時に訂正が効かなくなってしまう。

分子生物のことが理解できないやつの僻みだけれど、 頭いい人達、たまには病棟回ってサイコロ振るのも悪くないんじゃないかと思う。

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2007年3月 7日

クレーム対策試案

クレームの内容には無数のバリエーションがあるけれど、 クレームを通じて得られるものには限りがある。

クレームの内容とか、ましてや「正しさ」なんて、いくら議論したところで喧嘩にしかならない。 「とりあえず謝っとけ」というのが最近主流になりつつあるけれど、 ただ頭を下げるだけでは役に立たない。

とりあえず謝っておいて、その間に情報を収集して、 「相手は何を求めている人なのか」を探ることができると、 以後の交渉戦略が立てやすくなる。

「クレームをつける」という行為を通じて得られるものによって、クレームをつける人は、 大きく3 種類に分類できる。

  • 対価型:クレームによって何らかの「対価」を得たい人
  • 正義型:クレームによって病院に「正義」を実現したい人
  • 無秩序型:何も考えていない人

その人が求めるものに応じて、最適な対応は異なってくる。以下妄想。

対価が欲しい人との交渉

得たいものは単なる謝罪であったり、入院期間の延長であったり、あるいはもっと実際的なもの、 診察料を割り引くとか、金銭による報酬を要求するとか。

たぶん重要なのは、相手の意見を否定しないで、まずは聞くこと。

相手の求める対価がはっきりしないうちから「それは違います」 なんて反論すると、要求がエスカレートして収拾がつかなくなる。 意見をとにかく聞いて、その間に「結局この人が欲しいものは何なのか」を探り出す。

交渉を通じて何か対価を求める人にとっては、その「何か」こそが、 相手が失って一番困るものであることが多い。

たとえば、対価が「入院延長」であるような人というのは、家の中にはもう患者さんの帰る場所が なくて、病院から謝罪されて退院したところで、今さら引き取れない。こんな人達に 対しては、とにかく謝り倒して、「一度退院して他の施設探しましょう」なんて切り出すと、 その後の話が異様にスムーズに進む。

お金を求める人に対する交渉というのは、他の業界からのノウハウが使える数少ない分野。

基本戦略は「まず頭を下げて、ひたすらに忍従して、お金が絡んだ時点で警察呼ぶ」これだけ。

ベストセラーになった「社長を出せ」とか、クレーム対処本の最終手段というのは、 結局警察に頼るだけ。交渉ノウハウとか、クレームから貴重な助言を引き出せとか いろいろ書いていられるのも、メーカーの交渉窓口のバックには、 「警察力」という巨大な後ろ立てが援用できるから。

ディベートの技術は役に立たない。

やはりベストセラーになった「ヤクザに学ぶ…」系の交渉本には、レトリックの面白さがあるけれど、 そんなことで交渉を有利に進められるのは、何といっても彼らが武力を持っているから。

  • ヤクザの「面白い論理」に乗っかれば、武力なしで理不尽な契約
  • その面白い論理を「つまらない」と蹴飛ばせば、武力行使がくる

ヤクザの交渉というのは、相手に対して「笑ってお金を払う」か、「殴られてお金を払う」かの 2者択一を迫るだけ。武力を持たない病院には参考にできない。

正義が好きな人達

自分のことはどうだっていい、それどころか、そもそも自分の身内に病人なんていないんだけれど、 病院の中に「正義」を打ち立てたい。

マスコミの人達とか、市民団体の人達、妊婦さんやがん患者さんの団体というのは 正義が大好き。

正義は相対的な概念。これもまた、相手がしゃべっているときに 「それは違うと思います」と突っ込むと、大喧嘩になる。

正義が好きな人達は、基本的に交渉相手を「正義の分からない愚か者」だと思っているから、 「違う」と反論されると、「もっと大きな声で分からせる」という戦略をとる。 とりあえず黙って聞く。

この人達に対する対処は2つ。 相手が満足して立ち去るまで黙っているか、泥沼に足を踏み入れる覚悟をするか。

正義が好きな人達は、基本的に忙しい。正義を広める対象は日本中、世界中だから、 田舎の病院ひとつにかかわっている余裕はない。反論しないで黙って首をすくめていると、 たいていは飽きて、どこかにいってしまう。

「正義」をやり過ごすときに大切なのは、相手の考える手続きを大事にすること。 正義が好きな人達は、なぜか内容よりも形にこだわる。 「どうやっても、結果は一緒ですから」という態度は、しばしば致命的な災厄を招く。

相手の正義に対してまじめに反論しようと思ったならば、 まず相手の「正義」が主張するロジックを理解する必要がある。論理を認めた上で、 「その論理でいくと、病院にはこんな問題が生じますがどうしますか?」と相手に尋ね返すことになる。

相手の論理が正しくて、こちらが指摘する問題に対してエレガントな解答を示せるならば、 病院だってその「正義」の信者になればいいだけ。残念ながらそんな上手い話はなくて、 たいていはどこかで論理の破綻を生じたり、相手の「正義」によって、今度はべつな誰かの正義が 不利益をこうむる結果になる。

「その論理に従いたいのは山々なのですが、現時点では残念ながら無理そうです…」

ただしこれをやるには、未来予測をかけるための「病院側の行動ロジック」というものを 実装しなくてはいけなくて、これがないと「あんたがたは、結局その場の利益で動いてるだけだろ」と 正義の人達に突っ込まれて負ける。

「正義の正しさ」は競争のものさしには乗っからないけれど、 「どちらのロジックがより綿密か」は客観的な評価が可能。産経新聞とか、日本共産党とか、 極端な人たちが時々妙に説得力もってるように見えるのは、たぶんこのため。

相手が強い場合、相手に指揮権をゆだねて、仲間になってもらうのもひとつの方法かもしれない。

道路公団批判をしていた作家が、改革の委員に任命された瞬間から政府の広告塔に なってみたり、体制を笑うはずの芸人が、国会議員になったとたんに体制派になってみたり。

医師会も、久米宏とか、みのもんたとか、あのへんを医師会の顧問に据えたり、 あるいは医療改革案を起草する委員になってもらったりとか、考えてもいいと思う。

一番困る「何も考えていない人」

最近、当直中のスタッフが酔っ払いから殴られた。

理由なんて何にもなくて、飲んだ先でボコにされてむかついていたところで、 ちょっと目が覚めたら目の前に自分の手を縫う医者がいた。で、怒りが込み上げて殴ったんだと。

都市部では珍しくもないことだけれど、 うちの病院が始まって20年、こんなケースは初めて。 今まではノーガード同然で、それでもとてもうまくいっていたのだけれど。

これは人災というよりは天災。 言ってみれば「20年に1 度級の大馬鹿」が病院にたまたまやってきたわけだけれど、 病院の救急体制は全面的に見直しを迫られることになった。

「何も考えていない人」は、確率論に従って行動する。そして、こんな人達の「大馬鹿度」というのは、 その人が属するコミュニティの大きさに比例する。

誰もが自由に移動できるようになった昨今、病院ひとつあたりの医療圏は 大きくなって、コミュニティ一つあたりの大きさも巨大になった。

無秩序型のクレーマーが病院に来る可能性はだんだん高くなって、 その「馬鹿度」も10年に1 度級が20年に1 度級になり、 そのうち100年に1 度級の大馬鹿野郎が病院にやってきて、 その施設の救急外来を破壊するんだろう。

コミュニティを小さくする工夫、住民に「かかりつけ医」を登録する制度にして、 その病院以外を受診をするにはそこからの紹介状必須にするとか、 社会制度を変えればこんな人を減らせるだろうけれど、 国会議員10人がかりぐらいでやらないと無理。

今のところは震えながら命乞いするしかない。

患者さんの服装や髪型、住んでいる場所、筆跡や、乗っている車、 飲酒の有無などからプロファイリングを行って、リスクを評価することは可能になるかも。

医療の一分野としての交渉技術

異常な状態を目の前にして、原因を探って、医学のロジックでそれを何とかする。

医療の基本はこんな流れで、それは病院の中でも外でも変わらない。

救急現場からの医療、プレホスピタルケアが医学の一分野として成立するならば、 病院に入ってきたのに冷静な話し合いができない人を「病的な状態」と定義して、 それを「治療する」、冷静に話し合いを持てる状態に持っていく技術、 メディカルネゴシエーションも、また医学の一分野として思考可能なテーマ。

「それは政治の話」とか、「クレーマー病院来るな」で思考停止しちゃうのはやっぱり正しくなくて、 それはよく分からない症状で来た人に「少なくともあなたは外科じゃない」なんて突っぱねるのと同じ。 問題を抱えた人がいて、医学のロジックを回す段階でそれが邪魔になっているならば、 やっぱり医師としてそれを取り除く努力をしないといけない。

医療の世界には資金力もあって、現場に飛んでいく救急隊みたいな人達からの話も聞けて、 「心」とか「関係」とかを専門にする精神科の医者は今大人気で、医局には人があふれる状態。

人質交渉の世界で「Negotiation Journal」なんていう専門雑誌があるんだから、 医療にだってこんな学問、あったっていいはずなんだけど。

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2007年2月14日

爺医の人達は引退前に治療教義を語り残すべき

医者ならこう考える

ネット世界でのおしゃべりが盛り上がると、 いろんな業界の人たちがひとつの話題に集まってくる。 それぞれの立場や考えかたから意見を発信して、議論は延々と続く。

企業家ならこう考える。プログラマならこれが正解。経済畑ではこんな意見が主流。

同じ問題を扱っていても、あるいは個人の価値観は同じ人たちであっても、 立場が違うと意見も変わる。価値観の相違というのは時に泥仕合になるけれど、 立場の違う人達がお互いに意見を戦わせるのは意外なところで勉強になったりして、目が離せない。

意見には、個人要素と属性要素の2つのパラメーターがあって、どちらが弱くても議論は負ける。

個人の考えがあやふやな人はそこを突かれるし、自分が属する立場に忠実に振舞えない人は、 今までの言動の矛盾を突かれてやり込められてしまう。

君の個人的な意見は分かった。じゃあ、その意見というのは医者としてどうよ?

ネットでいろんな意見を発信して、それなりにいろんな反応をいただいて。 議論になるのは避けてきて、盛り上がっている話題からはコソコソ逃げてきたけれど、 「個人の意見」単独で勝負するにはこれが限界。

今まで「医者として」意見を発信したことがほとんどない。 たぶん、ネット上の同業者の人達も同じはず。

「この場合、医者なら必ずこう考える」

そんな業界全体に共通する「職業教義」に相当するものが、医療の業界には存在しない。

ネット上で医師として意見を発信しても、医師には属性という概念が存在しないから、 しょせんは個人の集まり。その意見は極めて弱い。

医師の属性は議論の相手が勝手に作っちゃうし、 それに対して「本当はこうなんだよ」と示せるものもこちらにないから、やられっぱなし。

時々勇敢@無謀な同業者の人達が「医師の立場としてはこう考えます」なんてやってるけれど、 この業界に共通する「立場」なんて無いんだから、もう矛盾だらけ。

誰かが作らなくちゃいけない。

軍隊の戦闘教義

軍事理論には「戦闘教義」、戦いかたの基本概念がある。

これは格闘技の基本技みたいなもので、平和なときに考えておいて、 これに即して軍隊を整備しておく。 中途半端な軍隊は実践で負ける。 兵士の訓練や、武器の改良や調達はこの「教義」にそって行われ、 軍の編成も、戦闘教義に則して組織される。

戦争は、お互いの戦闘教義のぶつかり合い。 軍隊の作戦は、その国の戦闘教義に従って立てられるし、 これがなければ、軍隊はただの烏合の衆。戦場で何を準備していいのか 分からなくなってしまう。

戦闘教義というのは、非合理的に行動する人間が作る先の見えない戦場で、 最小のリスクで最大の戦果をあげるための基本戦略。

教義 => 軍の編成 => 実戦 => それを見てまた教義を変更

軍隊という組織は、こんなことを紀元前からずっとやってきた集団だから、侮れない。 「軍人だったらこう考える」という発言も、教義がしっかりしている軍人ならでは。説得力が段違い。

軍人だった人が経営コンサルタントになってみたり、危機管理の専門家になったりするのは、 軍隊という「属性」が、それだけしっかりした教義に支えられているから。

歴史に学ぶ

戦闘教義は人間の経験に基礎をおいているし、なんといっても軍隊の命運がかかっているから、 机上の空論なんか通用しない。何か疑問が出てきても実験できないから、戦史の研究がとても大切。

戦史というのは単なる歴史じゃなくて、「こういう考えかたの元に軍隊を戦わせたら、 こんな結果になった」という膨大なデータの積み重ね。

タイムスケールが全然違うけれど、行われているのは研究室での実験と同じ。 仮説があって、実証実験があって、 それをもとにまた仮説が生まれる。戦争の歴史というのは、この繰り返し。

医学にだって「医学史」という分野があるけれど、あれは博物館の学問。 歴史には技術、運用、教義の3つの側面があるけれど、医学史は技術の歴史。

  • 新薬の開発や、新しい治療デバイスの普及というのは技術の歴史
  • 医師を取り巻く社会情勢の変化や、マスコミ報道が医療を歪めた経緯は、運用の歴史

この2つの影に隠れて見えにくいのが、教義の歴史。

たとえば心筋梗塞という病気は、血管が詰まって心筋が壊死するのか、筋肉が壊死することで 血管が閉塞するのか、疾患概念がはっきりしなかった。
血栓溶解薬に治療効果があるという発表は、技術の技術であると同時に、 治療の戦略を「心筋梗塞の治療は血管を再開通させることである」という考えかたに一変させた。

治療教義の変遷は、建物の構造も変える。

たとえば古い循環器系の病院は、 救急外来の隣に集中治療室があって、 カテ室は別棟にあったりする。これは「筋肉が先」戦略に従った考えかたで、 急性期には安静を優先して、 血管は後回しだったから。「血管が先」戦略ができた後の新しい病院は、 どこも救急外来の近くにカテ室があって、治療後に集中治療室に入るように作られている。

今までの考えかたでは「禁忌」だったはずの薬が、ある年を境に「治療薬」として 教科書に載るようになったりするのは、技術の進歩というよりは、治療戦略の変化。

こんな話題は、部長級の先生方の昔話に時々出てくるだけで、なぜか体系化されて語られない。

一番弱いところから攻められる

議論の3要素、「技術と運用と教義」というのは、そのどれが欠けても、そこを突かれて議論に負ける。

医師というのは一応技術を持っていて、社会的な力とか、組織力みたいなものだって それなりに持っているけれど、教義の体系化が全くなされていない職業。

  • マスコミは医療の教義に勝手な妄想を代入して、「矛盾してるじゃないか」と医師の技術を批判する
  • 医療経済屋さんはもっと悪質。「医師は教義を持たない烏合の衆である」と勝手に決め付けて、 医療の運用面を経済の立場からブッ叩く。同業者のくせに

「僕は病気を治せるんだぞ」なんて強がりは、業界の壁を越えたネット議論の世界では、 何の役にも立ちはしない。

他の業界同士の交流をやるときには、議論の粒度を合わせて、現場の知識を抽象化して提供 するのは常識。医者にはこれができないから、 「あなたの立場は、この問題をどう考えますか?」と尋ねられても、「個人的には…」みたいな 応答しか返せない。本当にかっこ悪い。

教義作りませんか? >>えらい人

医療という業界に、たとえば「不完全な道具と、病気に関する不十分な知識しかない中で、 どうやって信頼性の高い治療戦略を提供するかを考えるための学問である」とか、 適当な基本教義を作って、それに従って治療戦略の変遷を編集し直す。 現場を知りぬいたベテランの先生方なら、簡単にできるはず。

戦上手として知られたナポレオンは、自分自身では新しい戦略を作らなかったのだそうだ。 ナポレオンがやったのは、戦闘教義の基本に潜む戦史の教訓を学びなおしたこと。

  • 砲兵の効果とは何か
  • 機動の意味は
  • 相手を騙す効果とは
  • そもそも戦場での勝利とは何なのか

こんな考えかたを一から編集し直して、自分の軍隊に役立てた。

皇帝は何の本も残さなかったけれど、そのナポレオンに破れて、その経験を本にしたのが クラウゼヴィッツの「戦争論」。

「戦争論」。「UNIX の考えかた」。「実際の設計」。どの業界にもこんな「考えかた」のまとめがあって、 どの本もほんの一部しか理解できなかったりするのだけれど、それでも非常に面白い。 うちの業界にもこんな本があったらいいな、といろいろ探しているのだけれど、やっぱりみつからない。

ネットワーク時代。教義の無い業界は、結局異業種との交流の中で淘汰され、 存在意義を発揮できない。医師なんて最古の職業のひとつなのに、これはいかにももったいない。

ベテランの先生方は、引退前に今すぐ「治療教義」の編纂をはじめるべきだと思う。

自分達の時代は「治る」というものをこう考えていたから、こんな治療をした。 新しい発見があって、戦略がこう変わって、それに従って病棟運営がこんなふうに変わった。

どんな決断にもきっとこんな経緯があって、臨床の前線に立ちつづけたベテランの先生方は、 きっといろんな知恵を持っているはず。

異業種に通用する教義ができれば、それは他の業界と議論する時にだって役に立つし、 医師が他の業界に移った時、「実戦経験を伴った教義」の伝達者として、 存在感を保つことができるようになる。

「なんでこの薬を?」なんて新人の問いに、「薬屋さんが勧めたから」という答えしか返せない ベテランには「考えかた」なんてどうでもいいのかもしれないけれど、そんな人はたぶん、 この業界どこを探したって一人もいない。

そう信じてる。

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2007年2月10日

印象診断と臨床診断

尿路結石=「痛くて苦しんでるのに元気」

尿路結石というのは本当に痛くて、都市伝説では解離性大動脈瘤の次に痛いとか、 「痛い病気」トップ5には必ず入るとか。

強い痛みが突然来るから、救急車を呼ぶ人が多い。痛いから、みんなストレッチャーの上で苦しむ。

尿路結石の人というのは、痛いわりにはなぜか元気そうに見える。

冷や汗もかいているし、痛いだけに血圧も高い。

痛くて冷や汗をかく病気なんていくらでもあるけれど、たとえば潰瘍の穿孔とか、大動脈瘤の切迫破裂 みたいな病気とは違って「ヤバい」印象が何でだか薄い。

第一印象だけで診断するのはいかにも無茶だけれど、外れたケースはほとんど無いし、 医師が代わっても「印象の再現性」というのはかなり高い。これは特殊な能力でも何でもなくで、 医者なら誰でもできること。

ところが、印象を言語化すると、この感覚が伝わらない。

「突然発症した腰背部から下腹部にかけての鋭い痛みで、血圧は○○、呼吸数○○、
体温○℃。腹部は平坦軟ですが、グル音は減弱しています。」

模範的な救急外来の研修医が、上級生に患者さんの話をするならば、たぶんこんなかんじ。

ところが、これだけでは印象が伝わらない。すぐに診たほうがいい人なのか、 それとも待てる人なのか。

致命的な病気の人は、発症直後から何だか「いやな予感」を全身から出していることが 多いのだけれど、それを文章化すると、「いや」が抜けてしまう。

「診断名じゃなくて、客観的なデータを伝えなさい」。研修医のころはこんな教育を受けた。

それなのに、実際自分が報告を受ける立場になると、模範的な伝えかたはあんまりうれしくなくて、 「ヤバそうなんですぐ見てもらえませんか?」とか、「潰瘍穿孔みたいな人が来ました」とか、 模範的で無い言いかたのほうが対応が早いし、決断しやすくてありがたかった。

模範的な報告をさえぎって、「どうなの?ヤバイの?待てるの?」と返答してばっかりいたら、 俺様ルールが通るようになったけれど、下の人達は迷惑だったかも。

患者さんは「症状」を持って来院して、医療者側は「治療」を販売して対価をもらう。 その過程には「診断」なんて必要ないし、ましてや「病名」なんて誰も欲しがっていない。

医療行為がチャート化して、ブラックボックス化がきちんと行われれば、 チャート表の中には「この症状があったらこの検査を行う」「検査の数字が○○以下ならこの薬を出す」 みたいな言葉が並んで、病名を間にはさむ必要はなくなってしまう。

「病名」があって良かったな、と思えるのは、診療中ではなくて、医師同士が話をするとき。

  • 胃潰瘍みたいな症状を訴える人なんですが、なんだか皮膚黄色いんですよね…
  • 症状だけ見るとまるで膵炎なんですけど、もう2ヶ月状態変わんない人がいるんです

いろんな病気を診た人どうしだと、病名というのは印象折込済みのキーワードとして便利に機能する。

細かい症状描写とか、あるいは血圧や脈拍みたいな、その人の症状を描写するための数字は、 印象を伝えるためには何の役にも立たない。

まず印象が近い「病名」を伝えて、お互いに患者さんの印象を 共有してから数字の話をすると、その病名が全く見当はずれなものであったとしても、 けっこう有益な会話が成り立つ。

「症状 => 診断 => 病名 => 治療」という一連の流れには昔から違和感を持っていて、 むしろこれは「症状=>治療」という実用ラインと、「病名」という医師どうしのコミュニケーションツール という2本立てで考えないといけないんじゃないかと思うのだけれど、 あんまり賛同してもらったことがない。本当は、大学病院なんかは臓器別で教室分けたりしないで、 「胸痛科」「全身倦怠科」「発熱科」みたいな分けかたしないとずるいんじゃないかとも思う。

第一印象をそのまんま伝える言語セットが医療にも実装されれば、そもそも こんなこと考える必要もないんだけれど。

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2007年2月 8日

改革は外からやってくる

医療の自由化に欠けているもの

公平配分政策から、傾斜配分政策へ。

資本を公平に分配することを止めて、富を生み出す力が強い人達に集中して分配すると、 社会全体が活性化してみんなが豊かになる。

貧富の差は当然激しくなるけれど、社会全体が豊かになれば、 贅沢で新しい技術はすぐ安価になって、やがて社会全体に行き渡る。
テレビやクーラー。昔はごく限られた人々だけの贅沢品だったこうした製品も、 今では一人暮らしの学生だって持っている。

新自由主義がよりどころにしているのは、こんな考えかた。

医療の自由化も進む。

医師は地方から引き上げて、目先の効く研修医はみんな都会へ。 もうすぐ混合診療が解禁されて、自費にはなるけれど、海外の薬も使えるようになって、 医師の収入はもう少し良くなって……。

自由化すれば、保険の制約がなくなる。できる人達の対価は、きっとアメリカみたいに天井知らずに なるけれど、できない人は地べたを這うことになる。

傾斜配分社会が健全に成り立つ前提は、大量生産とコストダウン

自由化が進むことで、医師の地位は上がる一方にも見えるけれど、 その先にあるのは技術の一般化。医療の技術が貴重なものではなくて、「当然のもの」と 査定される時代がくれば、現状維持ができる人なんて本当に少数になる。

始まりは海外から

医師の技術が高価になりすぎてしまったアメリカでは、 診療資格を持った看護師による「ミニクリニック」という試みが始まっているそうだ。

アメリカで最近誕生しているのが、異業種の医療サービス参入による「ミニクリニック」だ。 ウォルマート、ターゲットといった大手小売チェーンや、ウォルグリーンなどのドラッグストアチェーンが、 次々に店内に簡易クリニックを設置するトライアルを始めている。
従来型の病院では一回あたり110ドルかかった診療を、40-60ドル程度とほぼ半額で提供。 行うのはちょっとした怪我や風邪、予防接種といった簡単な医療行為のみで、 少しでも問題がある患者は一般病院に行くように指示する。予約は必要なく、 待ち時間があっても、併設店舗内の買い物で時間をつぶすこともできる。
トンデモない米国医療システムからイノベーションが生まれるのか

あるいは、最近のフィリピン。医師の海外流出が激しくて、医師のいない地域があちこちにできている この国では、医師の仕事を看護婦さん達が引き継がざるを得ない。

この2ヶ所で始まっているのは、「医師なしで医療を行う」という社会的な試み。

まだまだ実験なんていうレベルではないだろうけれど、社会的な要請があったり、他の選択肢が ありえない地域では、医師以外の人が医療行為を行う機会というのは増えるはず。

現場で必要になるのは、以下の3つのツール。

  • 「病名別」ではなくて、「症状別」の診断/治療のチャート
  • 「こうなったら医療機関を紹介する」というガイドライン
  • 医師以外の人でも安全に処方可能な薬のリスト

フィリピンの保険行政の人が作るのか、あるいは支援に入ったWHO 系の人達が作るのか、 たぶん誰かがこんなガイドラインを配布して、他に選択肢のない政府がそれを承認する。

何年かして、今度は医療経済畑の人が入ってきて、 「本当に医者なしで大丈夫なのか?」という検証を行うことになる。

「大丈夫だった」という結論は最初から決まってる。自由主義社会がそれを要請しているから。

はじまりの終わり

「1+1 」はいくつか?

  • 数学者 「2ですが、そうならない公理体系構築することは不可能ではないと思います」
  • 工学屋「ちょっと足して実験します」
  • 経済学者 「あなたはその結果をいくつにしたいのですか?」

統計の結論というのは、事実が決めるんじゃなくて社会が決める。

リスクの低い状態ならば、医師以外にも医療ができて、それは危険でも何でもない

「医療技術の進歩の結果、医療のコストが下がって、誰のもとにも行き渡るようになる」というのは、 自由主義的な考えかたにとっては「当然」の結果であって、そもそも検証にすら値しないもの。

医療技術の進歩は、いつも植民地だった国から始まる。 人「権」費が安い国で十分な検証を積んだあとは、アングロサクソンがそれを利用する。

たぶん、欧米諸国にも同じような診療チャートが導入されて、個人が負担する医療費は安くなる。 本当にリスクの高い患者さん、あるいは相応の負担を厭わない患者さんは、今までどおり病院へ。

社会科学系の仕事では、アメリカという国は何をやっても「うまくいった」という結論しか出さない。 こんな制度はそのうち日本へ。どうせそのころには地方の医療なんて滅んでるだろうから、 他に選択肢はないはず。

終わりのはじまり

  • リスクの低い患者さんは、チャートに従って投薬
  • 危なそうな人は、その時点で病院へ

助産院と病院との危険な関係は、たぶん全科に適応される。

免許持ってるだけで食べられた時代は終わり。風邪薬だけ出して、笑顔振りまいてればお金になった 時代は終わり。そんな仕事はもっと人件費の安い人達が全部奪ってしまうから、 病院に回ってくるのは重篤な人、トラブルになりそうな人、何が原因なのかさっぱり分からない人、 そんな人たちばっかりになる。

医師の対価は、その人が背負えるリスクに比例するようになる。

法律の改正は最小限で行ける。「応召義務の強化」一点のみ。

訴訟社会への流れが逆転することはないだろうから、ここから先は本当の自由競争。 低リスク低対価をとるか、高リスク高対価をとるか、二者択一。

助産院から「どうみたって手遅れだろ…」みたいな人が送られてくる。
生まれてくる子供の顔は真っ青。産科医の顔はもっと真っ青。

そんな光景は、もう少ししたら日本中の総合病院で見られるようになるだろう。

安売り競争の時代を越えるには

公平ルールか、傾斜配分か。今いろんな業界でおきているのは、2つの分配ルールをめぐる衝突。

医療の世界に自由競争を望む声は大きいけれど、それは当然、医療技術の低価格化を生むし、 たぶんそれなりの割合の医師は、その波に飲まれてしまう。

医師会はきっと反発してくれると思うけれど、 こうなった時代を乗り越えるやりかたを考えておいても、 損にはならないと思う。

本当の万能選手は滅多にいない。診療はできても、外来から入院のマネージメント、 保険行政から病棟掃除のコツまで分かる人はいない。

スペシャリストになる。レントゲン写真が読める人はたくさんいるけれど、写真を自分で撮れたり、 放射線設備室の設計を自分でできる人はほとんどいない。その分野のスペシャリストというのは、 全部知っている人。

昔診させていただいたエンジニアは、製品を各国の電力法規に合わせて 調節する技術で身を立てておられた。
「調整」ができるためには電気回路を理解していて、 各国の法律や、製品検査のやりかたを熟知していて、 さらに製品を「調整」したらどんな問題がおきて、それを回避するにはどうすればいいのか、 そんなことを全部知っていないといけない。

万能選手でスペシャリストになるというのは、たぶんこんなことだと思う。

常にチームの最下位でいる。自分よりも上手な人達と仕事をし続けないと置いていかれる。 研修医の人で、もしも自分が同級生で一番優れていると感じている人がいるならば、 そこはもはやあなたのいる場所ではないかもしれない。

魚の釣りかたを学ぶ。魚釣りの技術をマスターすれば、毎日魚が釣れるけれど、 多くの人は魚を一匹もらったら満足してしまう。 誰かに助けてもらったら「どうやったのか」を自分のものにする。

まじめにやる。どうせいなくなるからとか考えて、下働きで不十分な力しか出せない人は、 本当に全力を出す機会そのものが来なくなってしまう。

失敗を学ぶ。間違いを問題にすることを恐れないで、 できれば解決策を提示できるようになるか、誰かに聞いて、問題の解決にかかわれるよう努力する。

作文する/友達を作る。雇用が流動的になったとき、頼れるのは「どんなことをしてきたのか」という証と、 友達の数。書類仕事をサボらないで紹介状をやりとりしたり、症例を発表したり。

ここに挙げたのは「勝つ」ための方法じゃなくて、「負けない」ための方法論 (「My Job Went To India オフショア時代のソフトウェア開発者サバイバルガイド」という本の改変)。

本当のトップを目指す人達はこんなこと考える必要なんかなくて、ひたすらに自分の腕を磨けば いいのだけれど、才能なんか無い奴にとっては「自由になった世界」なんて地獄そのもの。

そんなふうには絶対になってほしくないし、またそうならないと信じてはいるのだけれど。

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2007年1月30日

デスマーチなんだろうか?

久しぶりに喧嘩を売ってみる。

♪デスマーチったらチッタカタァ行進だ  
 デスマーチったらチッタカタァ行進だ  
 新人くん派遣くん かわりばんこ かわりばんこ  
 吐いて寝込んで チッタカタッタッタァ  
 病院へ連れて行け チッタカタッタタァ  

♪デスマーチったらチッタカタァ行進だ  
 デスマーチったらチッタカタァ行進だ  
 上司くんシスアドくん ザックザックボッコボッコ
 ザックザックボッコボッコ  

 いい音鳴らして チッタカタッタッタァ  
 病院へ連れて行け チッタカタッタタァ  

 か か 変わる 仕様書  
 み み 未曾有の 修羅場  
 あるのか ないのか なくても あっても おしまいだ  

♪デスマーチったらチッタカタァ行進だ  
 デスマーチったらチッタカタァ行進だ  
 マウスくん 端末くん ひだり みぎ ひだり みぎ  
 0 1 10 11  
 ぼくも倒れて チッタカタッタッタァ  
 病院へ連れて行け チッタカタッタタァ
 

……デスマーチのうた。

IT 業界と医療業界

新小児科医のつぶやき - デスマーチ・プロジェクト がずいぶん盛り上がっていて、コメント欄がなぜか富士通叩きでお祭り騒ぎ。

IT業界のお話というのは本当に参考になることばかりで、このblog でもいつも引用させてもらってばかり だけれど、プログラマの人達と、我々医療者とはやっぱり別世界。

  • 仕様書は変わらない:糖尿病の人が「やっぱり腕もう1本増やしてよ」なんていわないし、 基本的にはみんな「よくなって、歩いて帰る」のが要求仕様の全て
  • カットオーバーがない:プログラムは、動いてみるまで動くかどうか分からない。人体はいつも動きつづけるから、 よくなれば「よくなって」見えるし、進捗状況は一目瞭然。プログラマの業界では「動かないこと」が問題だけれど、 我々の業界は「動くのに帰るところがない」こと
  • プロジェクトが複数:1つの大規模プロジェクトでドツボにはまるのがデスマなら、 我々の業界は小規模プロジェクトを複数同時進行するようなもの

Yosyan 先生の引用先 では、「医療全体」をひとつのプロジェクトにたとえていて、これはたしかにデスマーチなのだけれど、 現場で実感しているのはもっとローカルで、切実な問題。

顧客の要求水準は上がってきたけれど、それはまだ十分に予測の範囲だし、 医療者側の技術水準だって、この10年ぐらいでそれなりに向上した。 デスマーチプロジェクトの顧客というのは もっとうんとわがままだから、医療が現状を「顧客」のせいにするのは、まだちょっと甘いと思う。

デスマというよりサーバー負荷の問題

問題が増えてきたのは、単純にお客さんの数が増えたから。

顧客一件一件が医師に要求する処理というのは、決してそんなに大きくなってはいない。 ところがアクセスがよくなって、病院に殺到するお客さんの数が増えてしまったから、 それをこなす「サーバー」たる医師がパンクした。

IT のたとえでいうなら、これはデスマーチではなくて、「C10K問題」。

個々のクライアントがサーバに要求する処理量は小さなもので、 ハードウェアの性能上は問題がないにもかかわらず、 あまりにもクライアントの数が多くなるとサーバがパンクする。

これが最近Web開発者の間で話題となっている「C10K問題」(クライアント1万台問題)。

手続き型医療の限界

今までの医療というのは、手続き型のやりかた。

人間は、一つの仕事を処理するときには、それを小さな仕事に分割して、順番に処理する。 「話を聞いて、診察をして、検査をして薬を決めたら伝票を書いて、 あとは3日待ったら検査を再検して」みたいなやりかた。

それぞれのプロジェクト―病名―ごとに手続きはある程度決まっていて、 医師は複数の手続きを頭の中で 同時進行させながら、日常業務をこなしていく。

手続きは日々改良されているけれど、それでもひとつの「流れ」であるという部分は一緒。 人間の頭を駆動するOS はバージョンアップされていないから、 複数のプロジェクトを同時進行で流すと、必ずどこかに無理がくる。

仕事は忙しくなる。それを何とか乗り越えようとして、ガイドラインや新しい教科書が作られて、 医師の負担を減らそうとしてきたけれど、 そうした努力は「手続き駆動型」の枠を出るものではなかったように思う。

人間の脳がこなせるスレッド数には限界がある。手続き駆動型のままで 多すぎるスレッドを同時にこなそうと思ったら、 入力を絞るか、寝ないでがんばるか、どちらか。

医療をデスマーチにたとえる行為は、 たぶんこんな考えかたの延長なんだと思う。

優秀な主婦はイベント・ドリブン方式でパンを焼く

多重処理の問題を解決するひとつの方法が、イベント駆動型のやりかた。

Life is beautiful: 優秀な主婦はイベント・ドリブン(event-driven)方式でパンを焼くに書かれていることが全てだけれど、そのまま引用する。

(パンを焼きながら洗濯をしたり、掃除をしたり…という複数の仕事をこなす主婦の話)
複数の仕事を同時にこなしている彼女たちにしてみると、自分がそれぞれの仕事のどのステップにいるか (つまりcontext)を常に完>璧に把握しておくことは不可能に近い。
手続き型のレシピのままで作業をしようとすると、それぞれの仕事において自分が何をして おくのかを把握しておくだけで頭がパンパンになってしまうし(memory overflow)、 頭の切り替え(context switch)にやたらと時間>がかかって作業効率が落ちてしまうからだ。

解決策として文中で示されているのが、タイマーを使って手続きを分割するやりかた。

そこで、パンの発酵中にはタイマーをしかけておき、タイマーが鳴ったところで 「あ、キッチンでタイマーが鳴ってる。えっと、何のタイマーだっけ。 そうだ、そうだ、パンの二次発酵中だったんだ。じゃ、次はオーブンの温度を上げてと…」 というイベント・ドリブンな仕事のしかたをしているのだ。

言い換えれば、彼女たちの頭の中では、上の「手続き駆動型のレシピ」が、 以下のような「イベントに応じた作業(event handler)」の集まりである 「イベント・ドリブン型のレシピ」に変換されて実行されているのだ。

手続き型の問題解決手法は、スレッド数が増えれば増えるほど切り替えの オーバーヘッドが増えてしまって、どこかで破綻するのが避けられない。

イベント・ドリブン型は、 それぞれの「イベントに応じた作業」が規格化・単純化されてているため、 仕事の量に応じて人を増やすだけで、 スケーラビリティーの問題が発生しないのが最大の利点。

作業の単純化、規格化がなされるならば、次にくるのは分業の可能性。 業務の一部を看護師に委譲するとか、準医師みたいな資格が将来的に できることになっても、規格化さえなされていれば、対応は可能。

医療者側の反省点はひとつ。ベテランの先生がたは、 みんな手続きを洗練することに淫して いただけで、手続き型のプロセスをイベントごとに ブレークダウンする行為を放棄してしまったこと。

忙しい病院の現場では、イベントドリブンで仕事をすることはよくあって、 それは「汚いやりかた」として敬遠されるけれど、案外うまくいく。

ところがベテランの先生方が集まる世界では、汚い物よりきれいなものが好まれるから、 イベントごとに細分化されたやりかたが広まらない。

病院の現場は、ここに来て忙しさが切迫している。多重処理のスケールが大きくなりすぎて、 従来の手続き型のプロセスではいよいよ追いつけなくなったから。

病院の集約化は、たぶん破滅的な結果を招く。

医師が集約すればするほど、どこかにボトルネックを生じる可能性が高くなるし、 手続きの実行待ち時間、検査の予約とか、書類仕事なんかが膨大になって、 集約化に逆比例して仕事の効率が落ちてしまう。

2人集まれば2倍の仕事ができる医師でも、5人集まれば3人分、 10人集まったって5人分の仕事をこなすのがやっと。

手続き型のプロセスの限界から目をそむけて、 集約化に伴う非効率を何とか根性で誤魔化そうとしているのが 今の流れみたいだけれど、手続き型からイベント駆動型へのプロコルの書き換えをやらないで、 集約化なんてできるはずがない。

大学にいた頃、イベント駆動型の内科マニュアルを作って公開したことがあった。

こういう大きなものを作るときは一種の「ハイ」の状態。それこそ、デスマーチの真っ最中みたいな。 「これがウケなきゃウソだ」とか、「俺って天才?」とか思いながら勇躍公開したけれど、 反響はさっぱり。

某FMJ の某氏からは「あんな匿名のマニュアルには何の意味もないですね」なんて メールをもらったりして、「じゃああんたもっといいもの作れよ」とか思ったけれど、結局それっきり。 こういう作業こそは、やっぱりベテラン勢がきっちりやらないと無理。

受診抑制とか、患者教育とかいろんな「解決策」が提案されているみたいだけれど、 あんなの技術者の解答じゃない。医療者側にもまだまだ技術屋として やっていないことがたくさんあって、 それをやらないでIT に学ぶとかいっても、 たぶんデスマってるプログラマの人達は笑うと思う。

臨床の知恵を我々「下々」にブレークダウンして、 診療スタイルを手続き駆動型からイベント駆動型へと変更できるのは、 現場を生き延びてきたベテランの先生方だけ。

JBM とかやってる時間があるなら、 ぜひともベテランの「守りの知恵」と「攻めの技術」を次の世代に伝えて欲しい。

現場はきっと、何よりもそれを望んでいる。

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2007年1月 8日

天秤の反対側に企業が乗る日

今年は皮膚科大人気。某大学の皮膚科医局には30人以上の入局希望が殺到して、 半分近くを断ったとか。景気のいい話。

内科は悲惨。外科はもっと悲惨。

大学院生とか、定期的な収入のない医師は、当直のアルバイトをして収入を得る。 割りのいいアルバイトは取りあいになったりしたものだけれど、今は逆。

大学に人がいなくなってしまって、それでもOBが作った病院とか、断るわけにはいかない 「アルバイト」だけが残って、みんな「お金はいらないから寝かせて下さい…」と 悲鳴をあげる毎日。

医局サイドもいろいろ考えてはいるみたいだけれど、名案なんかない。

忙しいこと、リスクが高いこと、 眠れないことそれ自体がメジャー科の「売り」だったんだから、 いまさらそれに人気がなくなったからといって、捨てるわけにはいかない。

新卒の医学生は、自分の進路を天秤にかける。

  • 臨床と研究
  • やりがいと自分の時間
  • 大学病院と市中病院

いろんな選択。「大学の内科」がぶら下がる天秤の、反対側にぶら下がる相手もいろいろ。

今のところ、天秤は反対側に傾きっぱなし。内科や外科は、天秤からずり落ちる寸前。 産科や小児科は、もはや天秤に乗っかる以前の問題。

いろんな相手。まだまだ少ないけれど、天秤棒をへし折るぐらいに 破壊的な力を持っているのが、「白衣を着ない医者」という選択肢。

白衣を着ない医者

昔は厚生労働省の医系技官。

基礎だろうが臨床だろうが、どの科に進んでも「白衣を着る」という言いかたをしたものだけれど、 唯一の例外が官僚になる道だった。

この方向に進むのは、本当に数年に一人。臨床はやらないで、医療行政にかかわる仕事。 病院に進む進路と、厚生省に入るのと、 両方を経験した人なんていないから、その分野が果たして「いい」のかなんて、誰にも分からない。

最近話題になっているのが、民間企業やマスコミ方面への就職。

いわゆる「大手企業」の中のいくつかは「医師枠」というのを設定していて、 医学部を出た新卒が、他の学部の新卒と一緒に就職するらしい。医師免許を持っていると、 他の学部に比べて就職が有利だったり、一般企業の中でもいろいろ便利なときがあるのだとか。

医学部を出たのに病院に就職しないで、一般企業に就職する

自分達の世代の感覚ではありえないし、今の世代の人達に聞いても「都市伝説では?」というぐらいに 少数派らしいけれど、こういう人がわずかずつ出てきているらしい。で、この分野に進む人が これから増えて、医学部の中でも優秀どころがこちらに動くと、たぶんすごいことになる。

そもそも研究は趣味

もともとが、研究職なんて趣味人の遊びみたいなものだった。

寺田寅彦あたりが現役だったときの「教授」なんて、自宅に弟子を何人も住ませていたり、 ポケットマネーで誰かを留学させてみたり、もともとが大金持ちの人ばかり。

林望のエッセイにも出てきたけれど、大学教授がスーツを作るときは、銀座の「英国屋」が定番。 一着30万円近く。こんなのを年に何着か新調するのが昔は当たり前だったとか。

自分が小学生だった頃の年始回りもそんなかんじ。

当時はまだ、父親みたいな「普通の人」が研究方面に進むのは例外中の例外。

うちは2間のアパートだったけれど、年始回り先は、どこも東京の真ん中、 「屋敷」といったほうがいいぐらいの大きな家ばかり。 やたらと毛足の長い絨毯とか、ジャングルみたいに大きな木の生えた庭の真ん中に、 巨大な池があったりとか、そんな断片を覚えている。

最近のオーバードクターの問題とか、ポスドクの問題とか、本当に深刻だけれど、 日本ではそもそも「研究で食べていく」ことなんて想定されていなかったんじゃないかとも思う。

優秀な人は実業を目指す

アカデミックポストの暮しむきは相当に悪い。

うちの実家は、その地区半分ぐらいが「元○○大学教授」の地域で、 地域のの平均学歴みたいな統計を取ったらすごいことになるんじゃないかと思うけれど、 これも土地が安くて、みんなそこしか買えなかったから。今はよくなったけれど、 昔は台風がくるたびに地域が水没したりして、大変だった。

研究職についても経済的には幸福になれないのは、洋の東西を通じて同じ。 数学とか、物理の研究者の人も、3年ごとにポスドクの仕事を転々として、 成果を出せなければ「次」がない世界。

貧すれば貪す。論文データを捏造してみたり、基礎系の成果の「産学共同プロジェクト」の産物が、 「○大の先生ご推薦の健康ドリンク」だったり、なんだかグダグダ。

アカデミズムの世界が苦しい一方で、「実業」の世界は華やか。 優秀な人達は、最近は金融方面に進出したり、google みたいな新興企業に応募してみたり、 流れが変わってきているらしい。

医学部だって一応理系の端っこだし、 東大や慶應、京都大学あたりの医学部生は超絶に頭いい人ばっかりだから、 こんな流れがきたっておかしくないはず。

「外」を伝える大人の存在

自分達の学年にも10人ぐらいいた、「大人」の人達。

外の企業を出てきたり、薬学部を卒業してから医学部に入りなおしたり。

学部卒の人達というのは経験があって、時間の大切さを知っていて、 新卒の連中が馬鹿をやるのを生暖かく見守る、そんな存在。

高校を出て医学部経由で病院に入ってしまうと、他の人達がどんな働きかたをしているのかとか、 「外」の話なんか全く聞こえない。大人達からいろんな話を聞いたり、彼らが「やっぱり臨床をしたくて」 みたいなことを言うのを聞いて、「やっぱり俺ら、正しいんだ」なんて安心したり。

自分達の世代の「大人」というのは、白衣を着て病院に就職する流れを補強する存在だった。

でも、もっといろんな大人がいてもいいはず。

たとえば一般企業に就職して、 「ここで医師免許があれば、わざわざ医者に頭下げたりしなくても簡単なんだけど」 なんていう場面が何回かあったとして。

海外留学してMBA を取る企業人が増えているけれど、あんなのを受験するぐらいの実力があれば、 同じ4年間で医師免許を取るのだって不可能ではないはず。

企業側にそうした需要があって、「医師免許を取る」のがゴールではなくて、 それを単なる通過点としか思っていない「大人」がどこかの医学部にいて、 その人が新卒に対して「外」を語ったら、我々の世代とは相当異なった印象を受けるだろう。

  • 厳しいけれど華やかそうな、外の世界。同級生にそれを体験してきた人がいる
  • 厳しい上に危なそうな、病院世界。ネットの情報は悲惨だし、上級生はみんな疲労困憊

こんな「天秤」を想定している医学生がどこかにいて、そのうち優秀どころが研究職じゃなくて、 企業への就職を考えるようになったりしたら、相当おもしろいことになる。

レッドオーシャンに残されるもの

優秀な人たちがタコツボ化した業界内での苛酷な競争を放り投げて、競争相手のいない 「ブルーオーシャン」に乗り出していった後は悲惨だ。

ブルーオーシャン戦略のひどいところは、成功した「ブルー」側がもてはやされる影で、 苦労しまくっていた「レッド」側が笑いものになってしまうところ。 最近だと、任天堂にこれを仕掛けられたソニーとか、ソニーとか、ソニーとか。

進路の天秤に乗っかる相手に「外の企業」という選択肢が当たり前になる日がくると、 今まで大学でがんばってきた人達の立場が無くなる。

  • 優秀な人は、企業で全然違う仕事についたり、「マネージャー」として現場に戻ってきたり
  • 「医療界で競争する」というのは、しょせんはトップになれなかった人達の小さな世界での競争

医師を取り巻く世界観がこんなふうに変化すると、たぶん現場の医師の心は折れる。

医師免許というのは、企業から見れば「30兆円市場に参入するためのパスポート」みたいな ものだから、たぶんそれなりに使いようはあって、「使いこなし」の競争を仕掛けられたら、 しょせんは中小企業の集まりにしか過ぎない病院なんて、絶対勝てない。田舎の商店街が、 ダイエーやジャスコと競争するようなもの。

「ブルーオーシャン戦略」の怖いところは、旧来の「レッド」側にできることがほとんど無いこと。

「企業に就職する医師」というのが選択肢として考えられるようになって、 いろんな企業が本格的にこの業界に参入するようになって、伝統的な病院は「グループ」として 企業に買い上げられて、「社員」となった医師が、企業主導で地域に再配置される。

こんな未来図を考えている個人とか、大企業が世界のどこかにあったとして、 それに対して自分達の世代ができることはほとんどない。

今の医療界はそれはそれで、お互いの競争に必死。法律に追いつかないと 病院潰れるし、勉強しないと取り残される。

「医者らしく生きたい」とか「白衣を着る夢を実現したい」とか、そういう感覚が当然なんじゃなくて、 それを「馬鹿じゃないの?」と言い切る感覚。それは自分達の世代からみると 明らかにずるくて不都合で悪いことだけれど、今はそんな感覚の方が「古い」といわれる。

「企業に就職する医師」の夢は、若い人達の独壇場。

あとは「向こう側」に移るために必要な資質と、「パイの大きさ」の査定。

未知の大陸が測量されて地図ができて、そこで生きていくための知恵が蓄積されてしまえば、 そこはもはや新大陸なんかじゃなくて単