2008年3月29日

正しい技術は驚きを生まない

ウルルン滞在記だったか、レポーターが未開の地を訪れるテレビ番組で、 ジャングルで昔ながらの狩猟生活をする人たちが取材されてた。 族長の住居には電話線が引かれていて、族長は電子メールで「注文」を受けていた。

おそらく「通信」というのは、かなり昔から人類が共通に持っていた発想であって、 それが文字や狼煙みたいなものであっても、インターネットみたいな ものであっても、それが「通信」という考えかたの延長線上に乗っている限り、 適応するのは案外簡単なのかもしれない。

番組の中では、族長は電子メールを使っていたけれど、 その人がたとえばAmazon の通信販売を利用できたりするのかどうか、 ぜひとも見てみたかった。

電子メールによる情報交換と、ネット世界での買い物。それを支える技術は、 どちらも同じような発達を遂げたものだけれど、発想は別物。 メールは通信の延長上にあるけれど、ネット取引は「顔を見たことがない相手を信用する」という、 たぶん未開民族の人たちが経験したことがない振る舞いを前提にしていて、 族長は戸惑うような気がする。

便利な技術と驚く政治

士郎正宗が描く未来世界は、ところどころで的を外しているにもかかわらず、 それでもなお、すごくリアルに見える。

あれはたぶん、登場人物がみんな、そこにある未来技術を「当たり前」のものとして生活している世界を 描写しているからなんだと思う。小説で未来世界が描かれるときに、発達した技術の「すごさ」が 強調されると、なんだか昔のSF 映画みたいな、陳腐な印象になってしまう。

すごい技術のすごさというのは、その世界にいない、読者の目線からみたすごさなのであって 未来世界に住む人が、そんな技術を見てすごいと感じたり、「すごい技術」なんて表現するのは、 どこかおかしい。

youtube とかustream みたいな動画配信技術は、 ちょっと前までは夢だった。手塚治虫の未来漫画では、テレビ電話が欠かせないインフラとして 登場してたし、まだ光回線がそれほど普及していなかった頃、NTT が光のデモを行うときには、 「インターネットで動画が見られます」をやるのがお約束だった。

技術は進歩して、動画を簡単に配信できる youtube が登場したけれど、 夢だったはずの未来技術は、すぐに当たり前のものになった。 たぶん誰もが「便利だな」とは思ったけれど、 「すごい時代になったものだ」とか、「未来はここにある」とか、 そんな感想はもてなかった気がする。

あれを見て感激した人というのは、むしろインターネットの技術を相当に深く理解している人であって、 ただのユーザーである自分達は、そのすごさが想像の延長線上にあった時点で、 それ以上驚くことができなかった。

これから先、インターネットがもっと進歩して、スタートレックみたいな 等身大 3D 画像を送れるようになってもなお、 一般ユーザーは、「ああそうか」としか思えない気がする。 そこにあるのは「便利な超技術」ではあるけれど、人々に驚きをもたらして、 生活を一変させるような、そんなものとはどこか違う。

驚きはむしろ、社会制度が作り出す。

「明日から銃の所持を解禁します」なんて宣言を政府が出したら、 世界は一変すると思うし、日本中の「普通の人」が、「すごい時代になったものだ」と驚く。 銃なんて、もう100年も昔から変わらない技術なのに。

新しい技術なんかを作らなくても、決まりごとを変更すれば驚きが生まれるし、 今あるものの見かたを少し変えるだけで、社会は簡単にひっくり返る。

救急ネットワークのこと

現場に着いた救急車が、その場所から最適な施設を探せる病院検索システム。

システムを回すために大切なのは、「すべての病院がネットワークに前向きに参加すること」であって、 ネットワークの信頼性とか匿名性とか、技術的な側面は、システムの成否を左右しないし、 技術の進歩それ自体は、成功を生む力にはなり得ない。

秘匿性とか信頼性が問題になっているその時点で、そのシステムの運用には、 社会制度上の問題が内包されている。制度の問題を技術で解決するのは困難で、 莫大なコストがかかる。

病院を検索するだけならば、ネットワークには、公開情報を流すだけでも 十分にシステムを回せるはず。

その日に当直する医師の名前とか、その人の専門領域なんかは、 病院に行けば公開されているものだし、患者さんの氏名とか住所、 現在の病状みたいな個人情報は、「現場の救急隊を信用する」という 考えかたがみんなに共有されれば、それをネットワークに流す必要が 発生しない。

病院が首尾よく見つかったところで、実際に搬送するときには、 お互い必ず電話で確認するから、たとえネットワークが腐ったところで、 実はあんまり困らない。これもまた、「腐ったら昔ながらのやりかたをする」 という振る舞いを、みんなで共有すればいいだけだから。

情報は自由になりたがるし、弱いところを持ったネットワークは、 必ずそこから壊れてしまう。そんな本能みたいなものを押さえつけるにはお金がかかるし、 一生懸命技術を開発しても、やっぱりうまく行かない。

完璧に隠すやりかたを考えるよりも、隠さないですむ方法論考えるとか、 信頼性を高めるよりも、信頼性を必要としないやりかた、技術を進歩させるやりかたよりも、 政治的な解決目指したほうが正解に近いケースというのは、たぶん多い。

技術を極めて、今までの習慣を変えないやりかたするよりも、技術が成し遂げてきたことを 放棄するような振舞いかたを考え出して、それをみんなで共有するやりかたをしたほうが、 少なくとも安価にすむし、技術が守ろうとしてきた何かが突破される危険も減る。

政治力を振るえる立場にいる人達こそは、やっぱり政治的な解決のエレガントさ、 強力さを、もっと信じるべきなんだと思う。

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2008年3月19日

インターフェースの身体性

「有限性、適応性、自律性を持った構造化インターフェース」としての、身体の面白さについて。

身体が生む小さく浅い世界

人工知能は計算的に「深い」アルゴリズムを使うから、外乱に対して弱い。

入力のわずかな変動が、出力においては大きな、予測不可能な変動を生んでしまう。 計算的に深いプログラムは、ノイズの少ない、シミュレーション世界では上手に 機能するけれど、実世界では役に立たない。

大きすぎる問題は、解くことができない。実世界という、あいまいで変動幅の大きな問題は、 AI にとっては要求される計算量が莫大になりすぎてしまう。

対象とする問題を強引に「小さく」できるなら、計算量をそれだけ減らすことができる。

「脳単体」としては存在し得ない人間の脳は、「身体」というインターフェースを介して世界と接する。 身体は、知性と世界との界面に介在して、脳からみた見かけ上の世界を、 小さくすることに成功している。

身体は物理的な制約を持っている。

水晶体を通じて網膜に入ってくる情報量は莫大だけれど、 網膜は情報の削減を行っている。網膜には「見たいものしか見えない」制御が かかっているし、眼球に対して全く動かないものは、認識され難い。

関節の自由度や軟らかさ、手足の長さのようなパラメーターは、 身体を、「こう歩くしかない」ありかたでしか効率的に歩けないよう束縛している。 スライムみたいな構造に比べれば、人体というのは圧倒的に不自由だけれど、 動作の制御に要する計算量は、それだけ少なく済んでいる。

脳から見た世界は、AI とは異なっている。身体を持たない、莫大な情報量を持った 実世界と、直接対峙することを強制されるAI と違って、身体を通じて脳から見える世界というのは、 少ない情報量と、少ない制御で介入可能な、「小さくて浅い」構造になっている。

人工知能研究者が志向する「実世界で動く AI」は、 本物の脳に比べて、最初から不利な条件を背負わされている。

差分抽出器としての身体

身体という構造は、世界から与えられる「外乱」によって変形して、 それまでの形と、外乱を加えられた後の形とを比較した「差分」を抽出する。

身体が行う「動作」は、たぶん関節の差分情報として記録されている。

何か動作を行う際には、中枢は、その差分情報を身体に入力する。 身体は、今ある環境に対して自らを安定させようと適応するから、 身体がおかれているた環境と、中枢から送られた差分情報とは、身体を通じて統合され、 新たな状況に適応した結果が、「動作」として出力される。

最も簡単な「身体系」として、筋肉と健、関節を仮定する。

  1. 筋肉の役割を持ったモーターに、腱の代わりにバネをつないで、 関節にそれらを固定しただけ。関節には角度センサーがついていて、 モーターは、関節の角度を一定に保つよう、センサーからフィードバックを受ける
  2. 外から関節を曲げると、バネが引き伸ばされて、関節は曲る。センサーは角度の変化を出力する。 モーターに差分情報が入力されて、関節は元の形に戻ろうとする
  3. 中枢は、「角度の差分情報」として、動作を指示することになる。モーターは動いて、 関節に加わる力と、バネの張力とが安定した時点で、関節の角度が決まる
  4. バネを持った、モーターの力に上限がある「関節」は、バネに加わる張力が最小になるよう、 状況に応じて自らの形態を変化させる

いくつかの関節を統合して、これらに周期的に「差分情報」を 加えていくと、歩行が発生する。足に入力される歩行情報は、環境が変化しても変わらないのに、 関節は状況に適応するから、外からそれを見ると、 あたかも複雑な制御を行っているかのように見える。

「学習」もまた、身体という差分抽出器を通じて行うことができる。 動作を「差分情報の集積」として直接記述するのは困難だけれど、 リハビリテーションのように、身体を外部から動かせば、 身体はそこから差分情報を抽出して、中枢に記録する。

外乱から差分を抽出して、差分から動作を創造する。 身体というものは、こんな双方向性を持っている。

身体は、実世界から与えられる外乱と、中枢からの指示とを区別できないし、 またその必要もないのだと思う。

知性にとって身体とは何か

恐らくは知性を表現する、あるいは感じるためには、 身体というものが欠かせない。「ソラリス」みたいな、 「身体を伴わない知性」を作るのは難しいし、 そんな存在が本当にいたところで、人にはそれを認識できない。

身体を持たない、純粋な人工知能は、世界を記述可能なものとして規定して、 実世界に存在するすべての情報を「見える」ものとして取り込もうとしする。 AI の振舞いを細かく制御するほどに、情報の粒度を上げるほどに情報は増えて、 計算量はますます多くなる。

身体を持つロボットにとって、制御装置から見える「世界」とは「身体」。 ロボットは、身体を上手に動かすことだけを目的にすればいいから、 制御の対象は記述可能で、しかも十分に小さい。

視覚や触覚も、「身体的な何か」を通じて知覚される。

眼球は画像を認識するために、常に細かく振動していて、画像は動作を通じて 知覚されるし、触覚もまた、「なぞり動作」を通じて、はじめて知覚され、出力される。

外界とのインターフェースに「身体的な構造」を記述することが、きっと役に立つのだと思う。

何かのサービスを提供するときなども、外乱に対して安定な状態を志向する、 自律的な、適応的な、そんな構造を仲介させることで、ユーザー側からも、 こちら側からも、「身体インターフェース」を介して同じ立場でやりとりができる。

そんなサービスは、ユーザー側からは、恐らく「知的に」見えるはずだし、 サービスを提供する側からは、顧客がどんな振舞いをしようとも、 予期せぬ出来事が原理的に発生しない。

身体に相当する構造を持たない組織とか、職業は、たぶんインターフェース部分でのトラブルを 避けられない。医療とか、教育とか、あるいは「役所仕事」に代表される業界にはこの構造が 欠けていて、ユーザー側からそれを見ると、すごく頭が悪く見えるし、こちら側もまた、 ユーザーの振舞いを予想できないから、トラブルを回避できない。

ロボット工学の人達がいくら頑張ろうとも、身体は本来、医療が独占している分野。 新しい考えかたとかサービスのありかたなんかは、あるいはこれから、 きっと整形外科医あたりから出てくるのだと思う。

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2008年3月15日

錯覚が知性を感覚させる

フランスのテレビ番組「シューティングゲームの歴史」の中で、 プレイヤーの人が「弾幕を介して、開発者の人とコミュニケーションしている」なんて喋ってた。

チェス専用のコンピューター「ディープブルー」と対戦したロシアのチェスチャンピオンは、 「相手は機械なのに、まるで異質な知性と対決しているようだった」と感想を漏らした。

知性について。

知的であること知性を感覚すること

自閉症の人は、しばしば十分な知性を持っているにもかかわらず、 「空気を読む」とか「相手の感情を読む」とか、相手に心理を観測するのが苦手なんだという。

自閉症の動物行動学者がいて、人間の感情は分からないのに、 動物がどうしてそんな行動をするのかはよく分かるんだという。 実際に動物を安心させる道具を設計したりして、自分の観察を実証している。 その人はたしかに知的であって、たぶん嘘もついていないんだけれど、 やっぱり人間の感情のことは、よく分からないらしい。

知性とか、感情は、それ自体として「ある」のではなくて、 それを観察した当人の、頭の中に「発生する」。

「本物の」知性は存在しない。知性というものはたぶん、「錯覚という感覚」を経由して、 初めて観測される概念だから。

「チューリングテスト」の勝利戦略

「ある機械が知的かどうか」を判断する試験、「チューリングテスト」をパスした機械は、 まだ存在しない。人工知能を研究する人達の目標。

コンピューターの能力どれだけ向上しても、それだけではたぶん、 テストにパスすることはできない。

「知性」というものは、観測者の中に発生する。 観測を必要としない、「知性それ自体」 はそもそも存在しない。

知性を感じさせる、チューリングテストに合格する機械を作る戦略には、 「機械の性能を上げる」やりかたと、「知性を感覚する閾値を下げる」やりかたとがあって、 後者抜きの戦略をいくら追求しても、その延長線上に「勝利」はない。

どれだけすごい機械を作っても、すごさが観測者にとって既知になった時点で、 知性の感覚閾値は極めて高くなる。「コンピューター」という概念が人類にとって 既知になった現在、性能向上戦略は、勝利にほとんど貢献できなくなっている。

表情の役割

ソニーが作った音楽ロボット「Rolly」には、「顔」に相当するパーツがない。 イラストレーターの安倍吉俊氏が、「Rolly には顔か、顔を連想させる何かを 設定すべきだった」なんて書いておられた。

目や口は、目や口は、コミュニケーションの本質ではないけれど、 人間は恐らく、そんな記号を発見することで、 「これはコミュニケーションを行うものなんだ」という思考をはじめる。

機械が発信するシグナルは、単なるノイズにしかすぎないけれど、 それが「機械がコミュニケーションを求めている」と認識されたとき、 その人はきっと、機械の中に知性を見出す。

機械にとって、「顔」というものは必要ないけれど、それを観察する人間側にとっては大切。 「顔を持っている」存在を前にすると、恐らく知性を認識する閾値が下がる。

知性は「ある」のではなく、「錯覚」される。 機械の絶対性能は、知性の有無には関係ない。

対話は日常をフックする

「シーマン」とか「アイドルマスター」みたいな、対話要素が入ったゲームから 知性を感覚するのは不可能だと思う。 形態素解析が完璧になって、プレイヤーが自分の言葉で喋れるようになってもなお、 プレイヤーはたぶん、「よくできた機械と喋った」という認識を越えることはできない。

対話みたいに高度な技術を作らなくても、シューティングゲームとか、 コンピューターを相手にしたチェスみたいな、単純なメディアから知性を見出す人はすでにいる。 コンピューターチェスに知性を見出したのは、グランドマスターただ一人だけれど、 弾幕のむこうに「必死さ」とか「殺意」とか、「何か」を感覚した人は、たぶんけっこう多い。

状況設定が大切なんだと思う。

スタンフォードの監獄実験みたいに、適切な環境と、その状況における役割さえ 与えられれば、人間はいくらだって卑屈になれるし、残忍になれる。

最強のコンピューター「ディープブルー」を前にしても、ほとんどの人は、 そこから知性を見出せない。チェスが相当に上手な人であっても、 やっぱりたぶん、「強いコンピューターですね」という感想しか出て来ない。

ディープブルーに知性を見出したグランドマスターと、それ以外の多くの人とを分けたのは、 「人類代表」という状況設定。ディープブルーと対戦したグランドマスターは、 たとえ本人がそう望んでいなくても、みんなから勝手に「人類代表」の状況を押し付けられて、 文字どおり人類の希望を背負って戦ってた。

それは日常生活ではありえないから、たぶん「錯覚」の閾値は大きく下がっていたはず。 ディープブルーはたしかにすごかったのだろうけれど、恐らくそれだけでは知性は感覚されない。 知性に大きく貢献したのは、ディープブルーそれ自体よりも、「人類対コンピューター」という状況だった。

対話は日常をフックする。対話メディアを用いたコミュニケーションは、 だから観測者を日常から引き離せないから、「コンピューターに知性はない」という 常識が観測者を縛って、知性の感覚閾値を引き上げてしまう。

日常を取り払って、「本気」に引きずり込まれる状況設定をちゃんと作れれば、 知性を感覚する閾値は大きく下がる。シューティングゲームみたいに、 絶望的な役割をプレイヤーに割り振ったり、ドーム没入型ディスプレイみたいに、 プレイヤーの周辺視野に至るまで「乗っ取る」ことができたなら、 ごく単純なシグナル交換は「コミュニケーション」と認識されて、 誰もがそこに知性を見つけるはず。

「錯覚閾値」の考えかた

知性は要するに、実体を持った「アルゴリズム」としてのみ存在する。

アルゴリズムは動作しないと観測できない。アルゴリズムに状況が 入力されて、下された判断が、状況に投影された影絵として観測される。

観測されたアルゴリズムの投影は、さらに観測者により「錯覚」を受けて、 そこで初めて、知性の有無が査定される。

人工知能に取り組む人達は、アルゴリズムの改良に邁進する。知性にとっては、 それはもちろんもっとも大切なものだけれど、他にもやるべきことはある。

アルゴリズムが投影される「状況」を記述して、観測者の「錯覚閾値」を下げるやりかた。

知能が高い自閉症の人は、錯覚閾値が高すぎるから感情が読めない。 その代わり、状況を正確に読めるから、「動物の感情」は分からなくても、 動物を正しく行動させることはできる。

ディープブルーと対峙したグランドマスターは、相手が統計を利用したコンピューターだと 分かっていてもなお、人類代表という状況設定が錯覚閾値を下げて、そこに知性を見出した。

「認識」と「錯覚」とは、たぶん区別ができない。

音は本来「耳」が知覚するものであって、「それが鳴っている」という知覚はすでに錯覚。 視覚も同じ。「見ている」場所は網膜であって、「そこ」という考えかた自体、 頭の中に描いた世界に、網膜からの入力を無理やり当てはめて、錯覚を行っている。

人類の運命背負ったセカイ系の状況設定とか、周辺視野まで乗っ取った没入ディスプレイとか、 会話や顔グラフィックを介さないシグナル交換というものは、 全て「錯覚を誘発する」ベクトルに乗っかる何かであって、 恐らくそんなやりかたの延長線上に、「知性の認識」があるんだと思う。

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2008年3月13日

「恋愛シューティング」実装案

カトゆー家断絶の中の人が、twitter で「恋愛SLG 」 という言葉を使っていた。「恋愛STG」はないのかな、と思って検索したら、案外なかった。考えた。

状況設定

AI とプレイヤーとが共同して、コミュニケーションしながら敵のボスを破壊する。

パイロットをプレイヤーに設定するのは難しい。 それは伝統的なシューティングの文法だけれど、それをやってしまうと、 「機械に任せるぐらいなら自分で避ける」というプレイヤーの声を無視できなくて、 AIを導入する必然性がなくなってしまう。

「AIとの共同戦闘」という状況にある程度の必然性が出てくるのは、 人工衛星のオペレーション。

地球に近いとき、人工衛星は、 ある程度のマニュアル操作が可能だけれど、火星探査機のプロジェクトになると、 地表から信号送って、探査機が応答するのに8分近くかかる。リアルタイムの操縦なんて 望めないから、人工衛星は周囲の状況を読んで、ある程度自分で行動しないといけない。

シューティングゲームのお約束で、「敵」は地球外から攻めてくる。 地球守ってた軍隊は、とりあえずなす術もなく破壊されてしまう。

自機になるのは、人類の最後の希望託した無人戦闘機。プレイヤーは開発担当の科学者となって 地球に残り、自機の操縦と、搭載されたAIの教育とを担当する。

ゲーム開始の段階では、敵兵器に関するデータとか、 敵の思考回路みたいなものは何一つ明らかになっていない。 AI は、最初はほとんど白紙の状態で、敵との戦いを通じて「教育」する必要がある。

ゲーム開始直後、自機が地球軌道近くにいるときには、プレイヤーは普通に自機を操縦できる。 軌道上で、敵の最前線部隊と戦いながら、プレイヤーは自機を操作して、同時にAI を教育する。

敵の本拠地と目される場所は、火星軌道の先。自機が地球を離れていくと、 操作にはだんだんと遅延が生じて、敵弾を避けたり、適切なタイミングで武器を使ったりといった ことが難しくなる。プレイヤーはだから、後半面になると大雑把な操作しかできなくて、 最後はひたすらに、AIに応援メッセージを送ることになる。

プレイヤー設定

8方向レバー3ボタン。自動連射のショットボタンと、「良し」、「ダメ」のメッセージをAIに送るためのボタン。

ボムはAIの判断。プレー開始前にAIを選択可能で、臆病なAIを選ぶと、ちょっと危険な状況になると ボムを消費されて、大変だったりする。

前半面では、プレイヤーは自機を操作しながら、AI の教育を行う。AI は自動的に弾避けを 行うけれど、それが戦略的に正しければ「良し」を、間違っていれば「ダメ」のメッセージを送って、 犬に芸仕込むときみたいに、AI に正しい避けかたを教えこむ。

AI には「機嫌」パラメーターがある。「良し」を連発すると元気になって ショットのパワーが上がるけれど、「ダメ」を連発すると拗ねたり落ち込んだりして、 ショットのパワーが激減したり、機体制御を放棄したりする。

後半面でAIが拗ねるとゲームがつらくなるし、ほめちゃいけないところでAI の御機嫌を 取りすぎると、AI はどんどん馬鹿になる。

機嫌がよくなりすぎたAIは、どうでもいい場所で勝手にボム消費したり、 ボスを目の前にした頃になって息切れしたりする。 教育も大切だけれど、テンション管理はもっと大切。

AI の設定

AI のオート避け機能は、たとえば自機の周囲 10 ドットに「縄張り」を設定して、 その中に弾が入ったら発生する。一定の待ち時間のあと、進入方向の反対側、 あるいは直行する方向に、一定距離だけ、自機が勝手に移動するイメージ。

ゲーム開始時点で、AI は複数の候補から選択可能で、それぞれのAI には「性格」が設定されている。

「臆病な」AI は、「縄張り」が大きく設定されていて、敵弾が近づいたらすぐ逃げ出す。 プレイヤーは教育を通じて、AI に勇気を持たせると、縄張りはだんだんと小さくなって、 「ドット避け」ができるようになる。

「おっとりした」AI は、敵弾が縄張りに入ってから、自機が動作するまでの時間が遅い。 動きが緩やかだから、こんなAI には、人間側プレイヤーの意志を伝えやすいけれど、 後半面になるとつらくなる。反応時間が早くなるように鍛えないといけない。

「方向音痴」の AI は、敵弾が近づいてきたとき、正しい方向に避けられない。 正しさは、周囲の弾幕密度と、プレイヤーがレバーを倒した方向を利用して、 ベイズ予測みたいなやりかたで決定されるけれど、実際の自機の動作は、 ここにランダムな偏差が加えられる。鍛えると、だんだんと偏差が減って、 正しい動きができるようになる。

「がさつな」AI は、敵弾を避けるときの動作量が大きい。 ちょっと避ければ十分なところでも大きく動いてしまうから、地形に追い込まれやすいし、 プレイヤーの意図を伝えにくい。鍛えると動作は必要最小限に、「おしとやかな」AIに成長する。

AI には他に「切れやすさ」と「テンションの高さ」というパラメーターがあって、 それぞれ「駄目」を連打されたときの拗ねやすさと、「良し」を連打されたときの テンションの上がりやすさに相関する。両方高いと、キレやすくてハイになりやすい、 すごく扱いにくいAI になるし、両方低いと、素直な性格になるけれど、 いざというときに「良し」を連射しないと、ショットパワーが上がらなかったりする。

こんなパラメーターを AI に実装すると、「おっとりして方向音痴」、 「気が回るけれど落ち込みやすい」、「臆病な小動物」、 「無個性」みたいな、AIの性格設定が作れる。

共感要素

作戦機体の生還は考慮されていない。

自機には片道分の燃料しか積んでいないし、ラスボスは固くて、 最後は自爆しないと倒せない。

プレイヤーは、AI とコミュニケーションしつつ、AI を成長させつつ、 事態をAI にとって最悪の状態へと追い込んでいくことになる。

AI の「個性」は、戦いの状況と、プレイヤーのボタン操作により創発され、 変化する。データは常に地球側に送信されているから、 ゲーム開始直後に自機が撃墜されたときには、 AI は地球でよみがえり、事実上不死になっている。

ゲームには、いくつもの「帰還不可能ポイント」が設定されている。

面が進むほどに電波は遠くなって、データにはエラーが生じてしまう。 帰還不可能ポイント越えるごとに、「五体満足で帰れる」状態は「首から下を捨てれば帰れる」になり、 そのうちデータを満足に送ることもできなくなって、最終面に入った頃には、 撃墜されるとAI の個性は全て失われ、「死んで」しまう。

プレイヤーが熟達するほどに、自機AI の生還可能性は落ちていくけれど、 AI はもちろんそんなこと知らないから、叱られれば落ち込んで、 ほめられれば機嫌を直したり、喜んだりはしゃいだりする。

最後は「2010 年」風味。

硬すぎるラスボスを前に、「博士」であるプレイヤーは、AI に「特別な攻撃」を指示する。

直前になって、AI からは最後の通信が入る。

「博士。私は死ぬのですか ?

プレイヤーが「そのとおりだ」と答えれば、 AI は「本当の事を教えてくれてありがとう」というメッセージを 残して、笑顔で自爆する。

プレイヤーが「そんなことはない。データは回収できる」と嘘をつくと、 AI は「博士を信じています」なんて、泣き笑いの顔を見せながら、やっぱり自爆する。

言葉を介さないコミュニケーションのこと

言葉や台詞などなくても、感情の交換は十分にできると思う。

機械とのコミュニケーションを物語の核にするやりかたとして、人型ロボットを 登場させるとか、喋る戦闘機を設定するのは分かりやすいけれど、つまらない。

感情は本来、相手から伝えられるものではなくて、自らが対象に「投影」して、「発見」される。

状況設定さえ上手にできれば、メーターの数字やボディのきしみ、動きの切れ、 ショットのパワーみたいな要素を変化させるだけで、プレイヤーはそこに「感情」とか「根性」 みたいな表情を読み取って、機械とコミュニケーションをはじめる。

火星探査プロジェクト「マーズポーラーランダー」は、探査機が着陸寸前まで行ったのに、 火星上空で故障して、墜落した。NASA の人達は、必死になってポーラーランダーの信号拾おうとして、 どこかの天文台が、ありえないタイミングでポーラーランダーの「声」を受信した。

結局それは間違いだったんだけれど、あのときの NASA の技術者は、 絶対にポーラーランダーを擬人化して考えてた。墜落して、 半身不随になりながらも火星の地表から地球を探して、 必死の思いで「自分は生きてここにいる」というメッセージを送信する ポーラーランダーを想像して、泣きそうな思いで通信ログ読んだと思う。

このゲームは終盤、最後の帰還不可能ポイントを越えるところで撃墜されれば、 プレイヤーはもう一度、AIと最初からやりなおせるし、自爆命令なんて出さずに済む。 全人類の運命と、AI の運命との選択を、プレイヤーがわずかでも悩んだら、 きっと面白い体験ができるはず。

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2008年3月11日

技術文化と官僚主義

技術にはたぶん様々な立ち位置を持った文化があって、 属する文化圏が異なる技術者同士は、もしかしたら会話が成立しない。

文化の壁を乗り越えるには、「市場主義」と「官僚主義」、両極端のやりかたがある。 それぞれ欠点が指摘されるけれど、恐らくはたぶん、人情とか、チームワークみたいな 欺瞞ワードで文化を越えるやりかたよりも上手くいく。

「NASA を築いた人と技術」という本の感想文。

マーシャル宇宙飛行センター

大戦後、ドイツからアメリカに渡ったフォン・ブラウンをはじめとする ドイツの技術者は、マーシャル宇宙センターでロケットの開発を続けた。

ロケット黎明期。まだ科学的に検証されていない、科学者が解答不可能な状況は たくさんあって、ドイツ人技術者は、そんな中でも「技術的推量」を行って、 即興的な判断を積み重ねて、新しい技術を作り出していったのだという。

月探査の計画が持ち上がって、今までに無い巨大なロケット「サターンⅤ型」の 計画がゴダード宇宙センターに持ちこまれたとき、プロジェクトを立ちあげた 空軍将校は、技術者が即興的に開発を続けるやりかたに批判的で、 科学的な、統計的な手法に基づいたリスクコントロールを主張した。

マーシャル宇宙センターの技術者は、「叩きあげ」の人が多くて、 技術屋同士の信頼とか、プライドみたいなものを積み重ねることで 機械の信頼性を保つやりかたを好んだ。テストにしても、まずは 「部分」が機能することを確かめて、「全体」を組むのは最後の最後。 統計学者がそんなやりかたを止めるよう進言しても、聞かなかったらしい。

実際問題、サターンロケットの開発現場では、統計学者が保証したやりかたが 失敗したり、統計学者が推奨したやりかたをフォン・ブラウンがひっくり返して、 結局そちらのほうが正しかったり。

技術というのは、まずは経験工学的なやりかたが先行して、それに科学が追いついて、 それで初めて、統計学者が成功可能性を論じることができるようになる。

技術黎明期、フォン・ブラウン達生粋の技術者のやりかたは、 もしかしたら統計学者のはるか先を行っていたけれど、 後年、アポロ計画が始まって、解決すべき問題が数を増していく中で、 組織にはだんだんと文書が増えて、今みたいな官僚的なやりかたが主流になった。

ジェット推進研究所

今でも火星を動き回っている「マーズエクスプローラー」を作ったジェット推進研究所は、 カリフォルニア工科大学直属の技術者集団。

大学技術者は複雑な技術、独創的な技術を好んで、信頼性に対しては、けっこういい加減だったらしい。 信頼性を確認するためのテストにしても、他の研究所はコンポーネントごとの試験を重ねて、 最後に全体を組んで動作確認を行うのに、ジェット推進研究所は、最初から全体を組んで、 それで動作すれば「それで良し」という方針。

ジェット推進研究所が請け負った月探査のプロジェクトが何回か失敗した頃、 技術の未踏性を追い求めて、信頼性を重視しないジェット推進研究所のやりかたは批判されて、 NASA 本拠地から、システム工学畑の人達が乗り込んできた。

ジェット推進研究所が作り出したプロダクトは不必要に複雑で、 「故障シナリオ」が多いといった問題を抱えていた。 生存確率を上げるために複数の装置を積んでいても、お互いが電気的につながっていて、 片方が故障すると「共倒れ」を引き起こすといった問題も指摘されて、 信頼性をあげるための、もっと「つまらない」やりかたを求められた。

マーズエクスプローラーを指揮した人の本を読むと、最近のジェット推進研究所の技術者は、 信頼性を追い求める、極めて官僚的なやりかたをする人たちみたいな描写が出てくる。 宇宙空間みたいな取り返しのつかない場所で信頼性を確保するために、技術者が長年研鑚を 積んできた結果が、今のようなやりかたなのだとも。

ゴダード宇宙センター

ゴダード宇宙センターは、科学者の集まり。NASAが管轄している他の研究所では、 研究所に一生を捧げる技術者が多いのに対して、ゴダード宇宙センターの科学者は、 ゴダードのことを通過点ととらえる人達が多かったのだという。

ゴダード宇宙センターは、「エクスプローラー」というごく小さな衛星をいくつも打ち上げて、 天文学に関する堅実なデータを取っていた。

ロケット技術がある程度進んで、NASA本拠地は、もっと大規模な「展望台」衛星プロジェクトを 提案したけれど、ゴダードの人達は、それに難色を示した。

科学者は本来保守的で、わが道を行く文化。大型で複雑なプロダクトよりも、 むしろ既製品を活用して、安価に、かつ個人的に物事を進めることを好んでいたらしい。 NASAが提案した大型衛星は、たしかにメリットも多いけれど、複雑で、失敗の可能性もあって、 何よりもお互い「相乗り」を必要とする部分が、科学者の振る舞いと相容れなかったのだという。

大型衛星の開発が難航する中、現場からは「もっとちっぽけな衛星を使わせてほしい」とか、 そもそも人工衛星は必要なくて、成層圏まで届くロケットだけで十分だとか。地味な意見。

衛星を打ち上げると、年の単位でデータを取らないと論文にならないから、 大学院生集まらなくて大変なんだとか。

文化の壁を乗り越えるやりかた

確実さ極める人達と、技術に芸術性を求める人達と、技術を単なる道具と考える人達と。 NASA というのはいろんな文化を内包する巨大な組織で、それをまとめるNASA 本拠地が、 ものすごく官僚的な組織として描写されるのは、何となく分かる気がする。

いろんな文化を取りまとめる共通言語というのは、結局のところ「お金」という市場文化でなければ、 杓子定規な、「よさ」とか「正しさ」も自ら定義する、規格化、官僚化したやりかた。

自分なんかが志向している「規格化された医療」で救急を回すやりかたは、 いろんな文化圏に属する患者さん達に対して、 官僚的な、マニュアルで作った態度をインターフェースとして押し出すことで、 文化の壁を越える試み。

恐らく対極にあるやりかたは、自由経済ルール。アメリカ流に、いつも笑顔で、 その代わり、笑顔で10万円請求するやりかた。お金を払える人には必ず親切を提供するけれど、 お金を支払わない人は、そもそも笑顔までたどりつけない。

この本の中ではもうひとつ、日本のロケット開発黎明期のことを取り上げている。

日本の技術者は、みんなチームワークで価値観を共有できたから、 ものすごく小さな組織であったにもかかわらず、極めて大きな成果をあげたなんて 賞賛してた。ロケット落ちてるのに。

「みんな同じ価値観」という村社会ルールは、やっぱりどこかで限界に突きあたるのだと思う。 上手に回ってた村社会というのは、本来どこかに「異物」を排除する装置が 実装されていて、「ムラ」の文化に乗っかれない人は排除される。排除機構のおかげで、 ムラの中では信頼コストを低くできたから、低いコストで大きな成果。

社会が大きく、あるいは、「きれいに」なっていく中で、たぶんそうした排除装置は 機能できなくなった。

ムラ社会ルールの中で、「チームワーク」とか「平等」なんて状態を 維持してきたのは、異物の排除機構。異物を排除した「結果」を 描写する言葉であったこんな欺瞞ワードは、今ではもちろん、それを維持できなくなって、 欺瞞は達成すべき目標になって、現場には変な利権が跋扈して、もはや回らない。

今さら「村八分」再開するのは無理なんだから、暖かさとか平等とかチームワークとか、 欺瞞ワードで思考停止するの止めないと、社会のインフラ維持するの無理だと思った。

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2008年3月 3日

空気は構造が決定する

「その場所の雰囲気」というものは、そこにいる人よりも、むしろ その場所を作っている環境とか、構造みたいなものが決定する要素が案外大きい。

「こんな雰囲気にしたい」なんて思ったら、ルールを作るよりも、 むしろそうならざるを得ない構造をどう実装するのか、それを考えたほうが正解に近い気がする。

炎上するコメント欄

コメント欄で異なった意見の応酬が行われると、たいてい最後に行きつくのは、 大声コンテスト。

お互い口先だけ丁寧語使い回して、その場の空気は箸が立ちそうなぐらいに こってりドロドロ。対立が長引くほどに、まわりが引くほどに、 喧嘩している当人の声は大きくなって、収拾つかなくなる。 たくさんの人が書き込むページは、管理大変だろうなと思う。

こんなときに、「道徳」叫ぶやりかたは無力。

「紳士的に振舞いましょう」とか、「罵詈雑言止めましょう」なんて管理人が叫んだところで、 「相手はともかく私は紳士」だとか、自分の正義主張してみたり、 「罵詈雑言の定義を行ってください」なんて、 言語定義ゲームが始まる頃には、空気はいっそう重くなる。 お互いの言葉遣いは、こんなときに限って馬鹿丁寧なんだけど。

ネット世間での意見の応酬は、雑踏の中で口喧嘩するのに似ている。

人はたくさんいるけれど、誰も喧嘩に無関心。誰も止めないから、 喧嘩の規模は膨らんで、結局お互い殴りあいになって、 疲れてどちらかがいなくなるまで、喧嘩が続く。喧嘩の当事者も、管理人も、ダメージ大きい。

コメント欄は、Web を動かす目線の圧力から、 管理人が盾になって「無風地帯」を作っている場所。 みんなの目線が介在しない場所は、要するに無法地帯で、 どんなに下品なことしても、それをとがめる構造が存在しない。

無風地帯では、管理人は中立が建前。 「私はルールを守っているんだから、何してもいいんですよね」なんて 主張する人達を止められない。

コメント欄は炎上する。それはたいていの場合、管理人が何かを失敗したのではなくて、 blog のコメント欄というのが、そもそもが炎上するしかない構造を持っているからなんだと思う。

炎上が発生しない twitter

最近遊び場にしている twitter には、「炎上」が発生しない。 激しい意見書く人多いし、中心が存在しないコミュニティで、 同じ意見持ってる人なんて一人もいないのに。

twitter 界隈での議論というのは、酔っ払ったフーリガンが集まる酒場の真ん中で、 口喧嘩をしているようなイメージ。誰もが闘争に飢えていて、 喧嘩をしている当人よりもよっぽど怖い人達が、まわり見渡すとゴロゴロいる。

そんな場所では、ちょっと騒いだらみんなこっち見るし、 大きな声を出したら、思いもよらないところからいきなり殴られたり、 あるいは知らない誰かからビールを奢ってもらえたり。喧嘩に夢中でそれ断ったら、 今度は酒場全員敵に回して、大変なことになってしまったり。

議論をやるときは、だからお互いの言動にすごく気を使うし、 言葉遣いとか、言い回しなんかも、自然と丁寧になる。ルールなんてないし、 「掲示板の道徳」を壁に書いて貼る人もいないけれど、お互い自由に議論して、 それでもやっぱり、議論は荒れない。

意見が割れたときの「決闘の場」として、twitter を使ったら、すごく和やかになると思う。

twitter では、みんなID が必要だから、発言者のあらゆる立ち居振舞いは、 その人の過去に遡って検証される。あの場所を徘徊している人達の多くは公平で、 酷薄で、自分の発信メディアを持っていて、喧嘩の最中、何か面白い失言すれば、 全世界に発信されてしまう。

喧嘩をはじめたところで、その話題がどこまで広がっていくのか、 当事者にすら把握不可能で、全然知らない人から横槍突っ込まれたりする。 そんな場所ではだから、お互いエキサイトしないよう、 冷静に意見を交換するよう、言われなくても気をつけるし、 丁寧な言葉で罵倒するとか、言い回しで事実を運用するとか、 そんな飛び道具使うこともなくなって、議論が建設的になる。

twitter はだから、「和やかな意見の応酬」をやる場所としては、 すごく完成度が高い構造を持っている。

制御主義と構造主義

コメント欄への書き込みが、自動的に twitter での @ コメントになるような プラグインがあったら便利だと思う。ID 持ってないと書きこみできないから 難しいかもしれないけれど、それが実装できれば、原理的にコメント欄の炎上はなくなるだろうし、 知らない人がとんでもない炎上ワード落としても、界隈に笑われて、恥かいて終わる。

掲示板とかコメント欄みたいな、構造的に炎上しやすいメディアを紳士協定で縛るやりかたには、 やっぱり無理がある。ルールや道徳で縛ったり、ルールが目立っていくような進化の方向は 誤りで、「そう振舞わざるを得ない構造」を記述して、ルールや道徳が不可視化されていく 方向が正しいんだと思う。

罵詈雑言を楽しく応酬して、炎上それ自体を楽しみたいのならば匿名掲示板に行けばいいし、 和やかな空気を望むなら、twitter みたいな目線圧力が高い構造を作り出して、 そこで議論するのが正しい。

ほとんどどんな条件のもとであっても、望ましいルールが創発する構造は、きっと存在する。

ルールというのは本来、みんなの身勝手な振る舞いから生じた均衡状態を、 ルールと名付けたもの。「ルールを守れば何やってもいいんだ」なんて、 そんな言い訳のために生まれた道具なんかではないはずだから。

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2008年2月26日

技術追求の誤謬があるのかも

「技術を極めることが優れたプロダクトにつながる」と信じて、 ひたすらに腕を磨くような技術者のありかたは、 たぶん間違っている。

製品単独として優れていることは、必ずしも「優れたプロダクト」であると 認知されることにつながらない。 「優れている」という評価はたぶん、要素としての製品と、ユーザーと、 それが使われる環境との相互作用を通じて、システムとして創発される。

「何か優れたものを作りたい」なんて思ったら、要素として「よい」ものを作るだけでは片手落ちで、 ユーザーがそれを使ったとき、そのありかたが最善になるような環境をもデザインして作り出さないと、 作り出したものの「よさ」というのは、想定どおりに現れない。

MacBook Air のこと

今度発売される新しいノートパソコン「MacBook Air」は、技術的には案外たいしたことがない なんて記事が話題になっていた。日本ならもちろん同じものが作れるし、 おそらくはMacBook Air よりも、 もっと技術的に優れたものが作れるだろうなんて。

「たいしたことはない」なんて評価を下した人達は、あれを設計したアメリカの技術者よりも 優れているのだろうけれど、「優れた」人でなくても、MacBook Air が 作れてしまったことに対して、技術者はもっと脅威を感じるべきなんだと思う。

優れた製品を作るために、その技術者が自らに投じたコストというものは、 はたしてその人が作り出したプロダクトに見合うものになっているのだろうか ?

技術者の技量は、投じたリソースの平方根でしか、パフォーマンスとして返ってこない。 日本人の技術者は、もしかしたら米国人よりも2 倍優れていたかもしれないけれど、 「2倍」を達成するためには、たぶん4 倍のリソースを投じないといけない。

MacBook Air の筐体はネジだらけで、技量を持った人が設計すれば、 もっとネジを少なくできるらしい。たとえば2倍優れた技術者を投じ たならば、技術に4倍のリソースを振り分けないといけない。 それで得られた成果が「ねじ数本」というのは、もしかしたら すごく無駄なことなのかもしれない。

顧客の目線と同業者の目線

少し前に話題になって、あんまり売れなかったのは、ソニーの極薄ノート。

あれはたぶん、日本流に「極まった技術者」が設計した芸術品だったけれど、 MacBook Air があのノート以上に話題になって、あまつさえ売上げがよかったりしたら、 「極まった技術というものは優れたプロダクトの本質にはなり得ない」 なんてお話する専門家とか、きっと出てくる。

「技術力」と「ブランドイメージ」は、たぶん車輪の両輪みたいなもので、 技術者の人達は、自ら持っているリソースを、どちらにどれだけ割くべきなのか、 もっと真剣に考えるべきなんだと思う。

技術が先鋭化していく中で、結果志向はどこかで、 方法論志向に取って代わられてしまう。

技術を極める人達が気にするのは、たぶん仲間からの目線。 「すごさ」はお客に伝わらない。伝わらないから、分からないからそこに専門の技術者がいる。 「技術者のプライド」というのは要するに、「仲間から馬鹿にされたくない」なんて、 同業者の目線に対するプライドであって、そこに顧客の目線は存在しない。

「顧客から見たいいプロダクト」を作るのに何が必要なのかを考えて、 必要なリソース配分を行ったアメリカの技術者と、技術を極めた先にこそ いいプロダクトが現れると信じて、ひたすらに腕を磨いた日本の技術者と。

「腕」の延長線上に現れるのは、同業者の目線でみたすごい製品なのだろうけれど、 そのすごさはもしかしたら、顧客の目線には届かない。

「系」としてのプロダクト

スティーブジョブスは、製品のプレゼンテーションを準備するのに数週間かけるらしい。

MacBook Air はもしかしたら、その「数週間」を技術的な改良に振り分けたら、 あるいは日本の技術者をうならせるような設計ができたのかもしれないけれど、 ジョブスはプレゼンテーションにリソースを割り振った。

わずかな技術の改良を積み重ねても、もしかしたら優れたプロダクトには届かない。

「プロダクト」というものを、製品単体として、極めるべき対象として見てはいけないのだと思う。 それはむしろ「系」として、製品を使うユーザーとか、その製品が使われる状況なんかを含めた システムを「プロダクト」として認知して、ユーザーであったり、環境であったりといった部分まで含めて デザインして、あるいは「開発」しないといけない。

プレゼンテーションの準備に莫大なリソースを割り振るやりかたは、 たぶんプロダクトを「系」としてとらえている。 その製品を使う人の顔とか、製品を買った人が、それを使う風景なんかは、 優れたプレゼンテーションを通じて「デザイン」されて、「開発」される。

プレゼンテーションの準備というものもまた、恐らくは見た目をごまかすことなんかじゃなくて、 優れたプロダクトを開発する行為そのものなのだと思う。

「いい医師になりたい」なんて、みんな医学博士とって留学して、学会発表して専門医とって、 若くして開業する。

努力の成果物である肩書きは、確かにその人を経済的に助けてくれるのだろうけれど、 せっかく磨いた専門技能は、もはや患者さんの役には立たない。専門技術は 高価な設備やリスクと不可分で、個人で開業する先生がたは、 それを負担するだけの体力は持ってないから。

腕を磨くことそれ自体は正しいのだろうけれど、やっぱりもったいない。 医師だって技術者だけれど、どこかでたぶん、技術追求の誤謬に陥って、 自ら磨いた「腕」それ自体をお金に替えることを怠ったツケが、 開業して、技術を放り出さないとお金にならない、今の歪な構図を 作ってしまった。

今さら医師がおかれた状況を「開発」しなおすことなんて無理なんだろうけれど、 チャンスがあるのだとしたら、それは技術の改良なんかじゃなくて、 むしろプレゼンテーションの延長線上にある何かなんだと思う。

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2008年2月22日

不自由な安心社会

輸血のこと

手術中の出血がひどくて、妊婦さんが亡くなった。 メディアの人達は、術前に用意した輸血の量が少なかったなんて叩いてた。

同じ頃、輸血製剤の合併症も叩かれてて、 「安心できる輸血製剤」の登場が求められてた。

法律が変わって、全ての輸血製剤には放射線の照射が義務付けられた。 それでも「安心」は足りなくて、日赤から出荷される段階で、 全ての輸血製剤に放射線がかけられるようになった。

放射線照射を受けた血液は、保存できない。返品可能だった輸血製剤は 「買いきり」ルールになって、今度は病院が、「万が一」に備えた輸血を用意できなくなった。

自分達が研修医だった頃は、輸血というのは「たくさん取っておいて、 あとから返品するもの」という感覚。

10単位請求して、経過がよくて3単位しか使わなかったら、血液製剤は返品できた。 慢性的に輸血は足りないし、「もったいない」ルールで回ってた。

今は「買いきり」制度。

「不安だから輸血取っておく」とかできなくて、たくさん確保して使わなかったら、 すべて病院側の持ち出し。患者さんに請求しようにも、体の中に入らないから、 さすがに「安心だったんだからお金下さい」なんて言えない。

使う側にも、売る側にも「安心」が求められて、現場はますますやりにくい。

輸血製剤は、今では万が一の合併症がおきたときにも、 説明責任は「医師」の側。「規約」とやらで、そう決まってるらしい。 血液売る側の人達は、売りっぱなしで来てくれない。彼らもきっと怖いんだろうけれど。

「確実」が心不全を増やす

検死が 2 件あった。両方とも「心不全」。

病院の外で亡くなった患者さんは、基本的には警察官による検死を受けて、 初めて死亡診断書が書かれる。検死の現場は、確実なことしか断言したくない医師側と、 とにかく「病名」に帰着させたい警察側との交渉が大変。

医師が「確実」を譲らなかったら、全ての死因は「心不全」になる。

心肺蘇生しながら病院に運ばれて亡くなった人は、亡くなったその時点では、 「心臓が止まった人がいる」ということ以外、何一つ確かなことが分からない。

外傷があろうが、吐血していようが、その人は、病院にきた時点ですでに心臓止まってたわけだから、 因果関係を証明できない。

「事件性がある」と判断したら、警察は本気で動く。

あの人達は、一度本気を出すと、ものすごい人数で動かないといけない。 マンパワー全然足りてないみたいだし、本音のところではたぶん、 彼らは医師に「病名」を見つけてもらって、その人が「事件性なく」亡くなったことに、 医師のお墨付きが欲しい。

最近は、だからほとんどの患者さんに、亡くなったあとにCTを撮らせてもらう。

CT 切って、大きなくも膜下出血とか脳出血とか、あるいは胸部大動脈瘤の破裂なんかが 見つかれば、その人はたぶん、かなり高い確率で、それが原因で患者さんは亡くなったと推定できる。 そんなときは、警察の人と相談して、診断書にそう書く。

ところが、高齢の患者さんにCT 撮って、たとえば巨大な肺炎の影を発見しても、医師は診断できない。 「心臓が止まった人に肺炎があった」ところまでは確かだけれど、 「その人が肺炎で亡くなった」のかどうかは、断言できないから。 亡くなる瞬間に立ちあえない場合、だから確実な診断をつけることなんて無理。

若い力士の「心不全」報道

ニュースで話題になっていた、若い力士が亡くなって、病院で「心不全」と診断された 事例なんかも、たぶんこんなやりとりがあったのだと思う。

「全身アザだらけの健康そうな若い男性」が、心臓が止まった状態で病院に担ぎこまれた。

若い人の心肺停止は大事件だから、たぶん病院中の医者が駆り出されて大騒ぎして、 心肺蘇生したけれど戻らなくて、CT 撮ったはず。このときすでに、 骨折ぐらいは見つかったかもしれない。

この患者さんは、CTを撮ったその時点では、「全身に外傷を負った、心臓が停止した若者」であって、 「外傷のため亡くなった人」にはなり得ない。

事実をいくら重ねたところで、真理には到達できない。

「確実」重ねたそこから先は、医師が因果関係に踏み込むか、警察が「事件性あり」と判断すれば、 その人は「外傷のため亡くなった」人と判断されるけれど、 みんなが「断言可能な真実」の範囲にとどまる限り、 医師側からは、「心停止」という診断しか下せない。

警察の人はたぶん、「診断して下さい」なんて医師に要請したはず。 外傷と心停止との因果関係なんて、証明するのはほとんど無理だから、 医師側はたぶん、「心臓が止まったということ以上のことは言えない」なんて突っぱねた。

検死の場合、診断書の雛型を作るのは、警察署にいる上の人だから、 医師がこんな言いかたをすれば、 警察の人もまた、「心不全」なんて病名しか記載できない。

素人の邪推だけれど、あの一件はたぶん、誰かが悪意で事実を隠蔽したのではなくて、 アナログな伝言ゲームに不備があって、現場のニュアンスが伝わらなかったのだと思う。

誰も「踏み込み」を行わなかったという部分は責められるべきかもしれないけれど、 「確実さ」を極めて厳密に求められる昨今、「踏み込む」勇気は誰にもなくて、 「心不全」ばっかりが増えていく。

信頼性を放棄したコミュニティを作りたい

何するのにも確実さが求められていく流れの中では、 自分みたいな何でも中途半端にしかできない一般医には、そのうち居場所が無くなってしまう。

「確実さ」を武器にできる専門領域を持たない一般医が、「中途半端だけれどいろいろできる」 なんて立ち位置を生かすためには、サービスを提供する対象を絞り込まないといけない。

一般医が「広く一般の人」を対象に仕事をした場合、その立場は「専門医の劣化コピー」にしか なり得ない。一般医はだから、自らの「中途半端」を許容して、 「いろいろ」に価値を見出してくれるコミュニティを自分で作るか見つけるかして、 初めて自分の居場所を見出せる。

専門家は、広く一般の人を対象に、自らの「特別さ」を販売して対価を得る。 一般医は逆に、一般の人から「特別な誰か」を切り出して、その人達に「平凡な自分」を販売して 対価を得るやりかたを考えないと、間違いなく不幸になる。

もういないだろうけれど、今から一般医を目指す人達は、だから講演活動とか 作家活動とか、あるいは自分を受け入れてくれるネットコミュニティを自ら創るとか、 何か一般から「特別」切り取るチャンネル持ってないと、成立しないと思う。 「一般」を名乗るということは、自分を特別にする武器を、あえて放棄することだから。

具体例はいろいろ。生きかた上手の日野原重明先生なんかもそうだろうし、 「地元の生き神様」目指して、閉鎖的な僻地に立てこもることなんかも、 「一般」から「特別」を切り出すやりかた。

安心に息が詰まって、過剰な確実さに不便を感じてる人達は、まだたぶん、どこかにいるはず。 そんな人達を対象に、「中途半端な一般医療」を安価に販売する、 そんなやりかたを見つけられたら、一般医は今よりもう少しだけ、幸せに仕事ができるかもしれない。

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2008年2月20日

標準偏差の復権が来るのかも

道路特定財源のお話が、ニュースで流れてた。

夜にやってたのは、都内で開かれた道路討論会。民主党の国会議員と、 宮崎県の東国原「そのまんま東」知事と、あと何人か。寝る前に見たニュースで流れてたのは、 和歌山県を視察しにきた民主党議員と、それを迎え撃つ地元県会議員の人達。

「ながら」見しながら考えてたこと。

タレント議員のこと

討論会。東国原知事は、自分の役どころをよく分かってるように振舞ってた。

知事は、地元では眼鏡をかけずに、ジャンパー羽織って宮崎県の宣伝に 駆けまわってるイメージ。まじめだけれど下世話な立ち位置。

昨日の討論会では、きちんとスーツを着こなして、フレームの薄い眼鏡をかけて、 自分の立場を訴えるときも、声の抑揚を大分抑えていた。

「無駄な道路の廃絶を訴える民主党に、地元利権の手先になった知事が群がる」。 道路特定財源問題に関しては、マスコミの人達は民主党の立ち位置を支持していて、 そんな構図を撮ろうとしていた印象。

マスコミは、だから東国原知事の一番醜い姿を捉えようと、長時間の討論会を通じて、 ずっとカメラを回しっぱなしにしていたはず。知事はたぶん、それをよく分かってて、 声を荒げる場面も作らなかったし、オーバーアクションの「下世話な」やりかたも、 普段以上に抑えてた。

和歌山県議の人達

視察に訪れた民主党議員を迎えた和歌山県議の人達は、醜かった。

テレビカメラは、国会議員を迎え撃とうと待ち構える県会議員の中で、 一番「下衆な顔つき」を探して、その人の、一番下品な瞬間を狙ってカメラを回してた。

和歌山県議の人達だって、きっとそれなりの大義を持っていて、 「道路が必要」を訴えるために国会議員を迎えたはず。

カメラには、「合理主義の国会議員に群がる乞食の群れ」が映ってた。

「下品な」顔立ちであったり、大きな声であったりという記号は、正しく使えば武器になる。 鈴木宗男議員なんかそうだけれど、「下品さ」というパラメーターは、 見せかたによっては「頼りがい」とか、「力強さ」とか、ポジティブなアイコンとして機能する。

和歌山県議の人達は、自らのアイコンをメディアに運用されてしまって、 無残なことになっていた。

ピーク性能と標準偏差

「顔」にはたぶん、「ピーク性能」と「標準偏差」に相当する評価軸がある。

普段「ピーク性能」出せるときに、頼りがいのある、「タフな男」的イメージを 使えても、状況ごとのイメージのばらつき、 「標準偏差」が大きな人は、意図を持ったメディアを前にしたとき、 自ら持っている武器を生かせない。

「そのまんま東」であったり、あるいは福田総理なんかも、 「ピーク性能」は必ずしも優れていない。見た目に魅力があったり、 頼りがいのありそうな雰囲気なんかは薄いんだけれど、 どんな状況であっても、どんな「意図」を前にしても、イメージがぶれない。

すごいときの「すごさ」はそれほどでもないけれど、最悪の瞬間を狙った「編集」に対して強いから、 ああいった人達は、議員で居続けることそれ自体が、ブレのなさ、信頼につながっている。

「ブレのなさ」という価値のこと

信頼というものは、その人が持っているコンテンツを担保に発生するのだと思う。

信頼というのは理論ではなくて、「人」から生まれる。

どんなにすごい経歴の持ち主であっても、 どんなにすごい製品が誕生しても、コミュニケーションという「市場」の検証を受けない 「すごさ」は、信頼を生まない。

たぶん芸能人は、立ち位置の信頼性が強く求められるお仕事。 ドラマの主役を張るような「ピーク性能」要素は、 もちろん持って生まれた何かが大切なんだろうけれど、主役だけではドラマが作れない。

悪役は悪くないといけないし、切られ役の人は、視聴者の印象を引きずってはいけない。 みんな与えられた役どころがあって、番組の状況が変わっても、 役どころを崩さないよう、注意しないといけない。

求められた立ち位置を演じきれない人は、その人がどんなに面白くても、 番組には使えないから、そのうち声がかからなくなる。

芸能界を生き残ってきた人は、だからこそ生き残っていることそれ自体が信頼になって、 自らの立ち位置を守ること、 「標準偏差」を少なくすることに自覚的になれるのだと思う。

編集の時代と標準偏差の力

編集からは誰も自由になれない。

メディアの敷居が低くなって、流通する情報量が莫大になって、 「編集」という行為それ自体の力は、拡散することで目立たなくなったけれど、 総体としてはたぶん、ますます強力なものになった。

編集が状況を支配するとき、弱点が少ないことは、 長所が多いことに拮抗するか、もしかしたら勝る可能性がある。

能力は、スペックシート上の「ピーク性能」と、 いろんな状況ごとにその性能を保証できるだけの「標準偏差」と、 両面で評価しないといけない。

ピーク性能を測定したり、評価したりするのは「実験室」レベルで可能だけれど、 状況ごとのばらつき「標準偏差」というものは、ある種の「市場」に晒されないと、 評価ができない。

ピーク性能の差をひっくり返すのは難しい。どんなに努力を重ねたところで、 持って生まれたものの差は厳然としてそこにあるし、「努力できること」それ自体もまた、 持って生まれた「ピーク性能」の評価軸で評価されるものだから。

「偏差の小ささ」というものは、たぶんある種のコミュニケーションを通じて鍛えることができる。 くり返しが密であること、評価する人数が多いことが、そのパラメーターの信頼度をきめる。

芸能界や国会は、日本で一番厳しいコミュニケーションが行われる場なのだろうし、 ネットワークというものもまた、個人の信頼が醸成される場なのだと思う。

ネット世間でおしゃべりしながら、たとえば何かの商売を考える。

「この人がやれば、絶対成功するだろうな」なんて想像する人達は、 炎上回避しながら長く発信してる人であったり、立ち位置崩れなくて、 自分が何か見るときの基準にしている人であったり。 そんな人達がやってるサイトはもちろん、 アクセス数なんかも、自分の何倍もあるんだけれど。

あらゆる価値が相対化するネット時代、ネットワークを通じた「ブレの少なさ」という価値軸は、 鍛えておいて損はないと思う。

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2008年1月16日

自閉する道具としてのインターネット

今はまだ法律の問題があるから不可能だけれど、「西洋薬箱」のサービスをやってみたい。

契約結んだ人の自宅に、日曜日の救急外来に置いてある程度の薬、 体温計と、電話回線で飛ばせる聴診器、人体に番号を振った地図、 あとは体のあちこちを押して、圧力を測定する「触診器」を詰め合わせにして置いてもらう。

1年間、24時間、携帯電話で、医師に電話をかけ放題。 調子よかったら、薬箱を引き継いで、もう1年契約を伸ばすルール。

遠隔診療はいいかげんになってしまうけれど、「さっきからお腹が痛いんですが?」という 問い合わせが来たら、「7番の場所を、250gぐらいで押してみて下さい。痛いですか?」なんて やりとりをした上で、薬箱から特定の薬を使ってもらう。きっと便利。

鳥インフルエンザみたいな疫病が問題になってきたら、 タミフル求めて患者さんが病院に殺到して、そこで感染するのは避けられない。 不完全だけれど、「病院にいかないで医師にかかる」手段というのは、あってもいいと思う。

日曜日の救急外来は、天気が良いと150人ぐらいの患者さん。実際問題、それだけの人を診て、 入院が必要だったのは6人。残り144人の人達は、「薬箱」があれば、電話で十分なはず。

問題点

救急外来に来る人の症状とか診断手法、それに対する対処方法は、 大体がパターン化していて、もうこの10年、使う薬も変わらない。 「良くならないなら病院にかかってください」で逃げていいなら、 遠隔診療はそんなに難しくはない。

問題になってくるのは、何といっても相互信頼。

電話の先にいる医師は、すべての問い合わせに「大丈夫ですよ」なんて答える阿呆かもしれないし、 契約結んでしまったら、あとはしらばっくれて「病院にいったらどうですか?」なんて返事しか よこさないかもしれない。顔が見られないから、医師の「質」を保証するすべがない。

医者側もまた、リスクを背負い込む。プリペイド方式で「問い合わせは年間20回まで」なんて 上限設けたら、たぶん年末は一睡もできない。「問い合わせ一回○円」をやったなら、 今度は返答の質を保証する責任が発生するし、料金回収の問題を避けて通れない。

結局大切になるのは、裏切り者排除のシステム。患者側も、医者側も、 お互い「自分は信頼できる」ことを保証できないと、「薬箱」は動かない。

「電話かけ放題」の持つメリット

お互い信頼できるなら、「電話かけ放題」のやりかたは、たぶん一番効率がいい。

患者さん側は、納得いくまで電話かければいいのだし、医者側がいいかげんな対応したら、 また電話がかかってくるのは明らかだから、ルールが自然に努力目標を決定する。

締め切り効果が出現しないから、サービスに満足感を得た人は、たぶん年末になっても 電話の頻度を変えないはず。

たとえばこんなサービスで、年間1000万円を集めようと思ったならば、 一人あたり20万円、50人の契約者を確保することになる。みんなが週に1 回程度電話するとして、 医師は1日に7回程度、電話で「診療」を行えば済む。恐らくこの数はもう少し増やせて、 「契約料」はもう少し抑えられるはず。

同じようなサービスを、セコムみたいな大手が一般向けに展開したら、 たぶんこの程度の金額ではすまないし、莫大な責任が発生するから、 契約書も厚くなる。

「信頼できる閉鎖系」で行う商売は、「開放系」で仕事をする企業には絶対に追いつけないし、 特に「かけ放題」を実現するのは不可能に近い。 契約には、付帯事項が山ほどつくから、ユーザーの満足感は高くならない。

「かけ放題」ルールはその代わり、ただ一人でも「裏切り者」が入り込んだ時点で医師が潰れて、 システム全体が動作不能になってしまう。

相互信頼と「信頼系」の大きさ

サービス業は、たぶん一人が相手にできる「系」の大きさが決まっている。 サイズのミスマッチを起こすと、その人は食べていけないか、燃え尽きてしまう。 医療を含めたあらゆるサービス業で同じなんだと思う。

研修医だった10年前、「虎ノ門病院」とか、「聖路加国際病院」といった有名病院は、 みんな名前だけは知っていても、そこがどんなところで、どんな医療をやっているのか、 何の情報もなかったし、話題にもならなかった。患者さんもきっと、 よほどの目鼻が聞く人でもなければ、状況は同じ。

こんな「小さな世間」こそが、「一般医」なんて無茶な職業を成り立たせていた。 ネットが普及して、みんな病院を比較して、医師を取り巻く「世間」の 大きさは、何倍にも大きくなって、どこかで限界を越えた。

専門医志向が強まったり、眼科や皮膚科みたいな「全身を診られない」科に進む人が 増えたのは、要するに目が効く人達が、大きくなりすぎて破綻した信頼系を 目の当たりにした結果なんだと思う。

インターネットは世界の距離を縮めた。患者さん側からはいろんな医師が見えるように なったけれど、医師の側からもまた、いろんな人が見えるようになった。 きっとこれから、いろんな分野で「信頼の閉鎖系」だけを対象にしたサービスが出てくる。 サービスを提供する人達は、たぶんみんな、知らない相手を信頼するのに疲れてる。

「閉鎖系」に加わった人達は、その中で安価なサービスを享受できて、そこに加われない、 自らの信頼性を担保できない人達は、山のような契約書にサインしないといけない。 アメリカなんかでも、富裕層向けの健康保険は安価でいいサービスを提供できるのに、 貧困層向けの保険商品は、掛け金のわりにサービスが悪いらしい。 それもたぶん信頼の問題。

信頼の輪の中に入るには、「私にはその資格がある」ことを証明しないといけない。 昔はそのために財力を誇示するしかなかったけれど、 今はその人が持つ面白さとか、信頼なんかがそのまんま通用する 「輪」がどこかにあって、それを検索することもできる。

これからはたぶん、様々な信頼系に乗り入れるための「パスポート」として、 Weblog での発信みたいな行為に、実用的な意味が出てくる。

信頼貨幣としての「複雑さ」

単純に面白い文章を書くやりかたと、「名刺」を意識した文章の書きかたは 異なるのだと思う。それを両立させている人は少なからずいるけれど、 面白いのにそこから「力」を生み出せない人も、また多い。

「信頼」が通貨として流通可能になるネットワーク時代、 実際持っているお金の量と、その人の社会での立場、あるいはその人が書く文章の面白さとか、 「名刺力」みたいなパラメーターは、相互に「両替」可能なものとして通用するようになる。

「面白い」人は、たぶんいろんな信頼系を横断できるから、同じものを手に入れるのに 安価で済んだり、自らの信頼を証明するコストが低い。それは結局、富を持っていることと 等価になる。

「富としての価値」に繋がる文章と、面白い文章をたくさん書いても、 それが信頼に結びつかない人との違いというのは、たぶん文章の「複雑さ」の演じかた、 「欺瞞のスタイル」を意識することの有無なんだと思う。

面白いエピソードをただ並べたり、思ったことを素直に見せるだけのやりかたは、 それがどれほど豊富な内容であっても、その人の「顔」が見えてこない。 作者の顔がはっきり見える文章書いてる人達は、みんなそれぞれに工夫した 欺瞞のスタイルを作っていて、それを意識しながら文章を書いている。

方向性の定まらない、乱雑な断片は、 「無秩序」であっても「複雑さ」を生み出せない。複雑さというのは、秩序と無秩序との 間にあって、秩序の量=エントロピーの考えかたでは表現不可能な何か。

ネット時代、「お金」と「立場」と「面白さ」と、とにかく何かの手段で 「複雑さ」を生み出せる人は、それを通貨として、自らのために利用できるようになる。

その状態は裏を返せば、富をもっていない人、ネットで発信を行っていない人、 「検索」不可能な人というのは、そもそも世の中にいないのに等しい状態。 探す道具としての、見つけてもらう道具としての、ネット世間での発信は、 きっとこれから、もう少しだけ切実になるような気がする。

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2008年1月12日

病院がソーシャルネットに自閉するとき

「100人村」の料理店

人口100 人の村にある、ただ 1軒の料理店は、 裏切りがばれた瞬間に村を追放されるから、村人を裏切れない。

村人は安心だけれど、その代わり、その料理店が本当に「おいしい」ものを出しているのか、 比較できないから分からない。

1000人村にある 10件の料理店なら、村人はきっと、「最高」がどの店なのかを投票で決められる。 「おいしい」料理を食べた幸福度は高まるだろうけれど、下位グループの料理店は、経営が難しくなる。 村人が増えれば、それだけ裏切りがばれるリスクは減少するから、「業界」全体に対する村人の信用は、 100人村より低下する。

料理店全体が生産できる「幸福度」というのは、各料理店が生み出す幸福の総和と、 業界に対する村人の猜疑心の総和との差分が決定する。

コミュニティが大きくなると、「最高の料理店」が生み出す幸福度はそれだけ増大するけれど、 業界全体の信頼度は低下していく。たぶんどこかで「臨界」が来て、コミュニティがそれ以上に 大きくなると、料理店全体が生み出す人口あたりの幸福度は、むしろ低下してしまう。

裏切り者検知のコスト

まだまだ欠陥だらけだけれど、「はてなブックマーク」みたいな投票サービスは、 「その日に書かれた最高の文章」を抽出する機能を実現している。Web コミュニティは 日々大きくなっているけれど、集団の上位を抽出する機能は、コミュニティの大きさに比例して、 ますます上手に機能しているように見える。

ところが逆に、「その日に書かれた文章で最低のものを見つける」という問題は、 解決するのが難しい。「最低」を喜んで読む人は少ないし、 「俺の文章は最低だ」なんて自薦する人もいない。 インターネットにつないだ初日、誰かが初めて書いたエントリーなんて、そもそも見つけられない。

世間が顔見知りの10人しかいないなら、「最低」はすぐに見つかる。100人ぐらいまでなら、 それでもあるいは何とかなる。数がもっと増えて、1000人とか10000人あたりになると、 「最低」を見つけるコストは莫大になって、もう誰にも不可能になる。

恐らく「最低」を抽出するためには、前提として大きさが不変である集団を定義しないと不可能で、 「投票」方式は、それでも「最低」を決定することができない。

匿名掲示板なんかでは、「あの病院最悪」なんて名指しされることが時々あるけれど、 そんな病院は「悪評という評判」が高い病院であって、たいていの場合、 同業者から見ても「最低」でないし、地元の評判は良いことが多い。

業界の信用は「最低」が決定する

「最高の医師」を特集する番組は簡単に作れるけれど、テレビ局の力を持ってしても、 「最低の医師」を探すことは難しいのだと思う。

本当に「良くない」病院は、そもそも患者が少ないから話題にならないし、 患者さん自身、自分が「最低」にかかってるなんて思わないから、見つからない。 医師に「最高」を自薦してもらうのは簡単だろうけれど、「最低」は無理。

「最低」は隠れているけれど、何かトラブルがあって、「やっぱり医者は…」なんて みのもんたが眉ひそめるのは、そんな施設。

世の中にはたぶん、絶対にかかってはいけない病院であったり、 絶対に入ってはいけない料理店が存在しているけれど、 コミュニティが大きくなるほど、「裏切り者検知」を行うコストは莫大になる。 今ではもう、住人も同業者も、「最低」がどこにいて、それをどうやって探していいのか分からない。

「最高」の最高度をいくら高めても、業界全体に対する信頼度は上がらない。 「最高」にはお客が殺到するだろうけれど、たぶんそれ以上に、 「お客にならない人」が持つ、業界全体に対する不信は高まってしまう。

それが小さなコミュニティなら、「無能排除」機能を実装するのは容易だっただろうけれど、 コミュニティの規模拡大と共に、どこかでスケールアウトの限界が来る。 恐らくはその限界が、業界が受け持てるコミュニティ規模の「臨界」を決定する。

業界側の準備コスト

「最高」と名指しされた料理店にしても、幸せではいられない。

コミュニティが大きくなれば、店に来るお客さんの顔ぶれだって多彩になる。 村が100人しかいない頃なら、「100人村一番の乱暴者」にだけ注意すればよかったけれど、 村が大きくなるにつれて、文句を言ったり、店を荒らしたりする人もまた増える。

店には「準備コスト」が発生する。小さなコミュニティでは不必要だった ガードマンを雇ったり、「当店ではフランス料理のフルコースは出せません」なんて、 店に入るときに同意書求めたり。

人気店になれば、あるいはお店は価格を2倍にできるかもしれないけれど、 「2倍」は準備コストに吸収されて、サービスを2倍にすることは難しい。 コミュニティが大きくなれば、「最高」の店はますます最高になるけれど、 支払った対価あたりで生産可能な幸福度は、昔ほどの効率が上げられない。

「お客さん」もまた、一つの業界。裏切りもの検知が不可能なのは、 料理店と同じ。料理店は、たとえ自らが「最高」であったとしても、 無能抽出の問題から自由になれない。

声の大きな人が病院に来ると、たまにとんでもないコストがかかる。

「訴えるぞ」の一言で、こちらはもう何もいい返せない。あの病院の医師と話がしたい、 ここに紹介しろ、車を手配しろ、前の主治医に文句が言いたい、あれこれ要求して、 いろんな施設の、あらゆる科の医師に頭を下げて、様々な職種のスタッフを拘束して、 午前中の2 時間あまり、人件費にすればたぶん数百万円分、もちろん本人には 一円も請求できない。その人は満足して、結局最初の方針どおり。

「声が大きい」、ただそれだけのことが、その患者さんに余計なコストを発生させて、 治療が遅れて、その遅れがまた、治療のコストを増大させる。

こういうのは瞬間最大風速だけれど、その「風速」に耐えられない施設は潰されるから、 みんな準備する。普段使わない、こんな能力を施設が維持するためのコストは莫大で、 これを減らせるならば、病院の装備はもっと軽くて済む。

病院のソーシャルネット化

病院に長く勤務してると「村社会最高」とか、知らない昔をうらやましく思う。

コミュニティの規模が「臨界」に近づいたとき、 たぶん最初にしわ寄せがくるのが、病院だったり学校だったりするからなんだと思う。

誰か頭のいい人が、「無能排除」のコストを劇的に低下させるアルゴリズムでも見つければ、 業界に対する信頼コストはまた下がって、コミュニティはもっと大きくできるのだろうけれど、 今のところまだ、そんな流れは見えてこなくて、「業界」はみんな、大きすぎるコミュニティに疲れてる。

たぶん「病院のソーシャルネット化」という動きが出てくる。

みんな「昔馴染み」の人にはコストをかけられないのに、声の大きな、特定の誰かに リソースのほとんどを持っていかれて、そのしわ寄せが「いい人」に行く。 ますます疲れて、準備コストはまた上がる。

老人医療なんかは特にそうで、お互い顔見知りの人で、医者に「お任せ」が通用するなら、 診療にかかるコストは相当に安くなる。安全率をコンマ数パーセントあきらめるだけで、 コスト上のメリットは相当に大きくなるんだけれど、「1000人に1人」が怖くて、それができない。

見知った人しか診療したくない、もうそんなに大々成功したいわけじゃない、 疲れた医師が、「友人」限定で30人ぐらいを対象に医療を提供するサービス。

全く健康な人は病気にならないから無理だけれど、高齢の人なんかは常に病人みたいなものだから、 「友達の両親」の介護を肩がわりしながら、ついでに医療を提供するようなサービスなら、 少人数限定をかけても、何とかなりそうな気がする。

あと10 年したら、団塊世代の人達がみんな介護が必要になって、老健施設とか、 ホームとか、奪いあいになる。病院はその頃、国からもっと締め上げられてるから、長くは入院できない。

「団塊世代」需要を見込んで施設を作ると、そのあと高齢者人口の激減が来る。 長期計画で資金回収もくろんだら破綻するのは目に見えてるから、大きな企業はこのあたり、 参入するのが難しい。

施設が見つかったところで、状況はひどい。どこの施設も、人もお金も圧倒的に足りなくて、 その上「平等」に縛られてるから、ちょっと余計にお金を出すからいいサービスとか、 すごくやりにくい。

お金を出したところで、大きな施設は数万人規模の人たちを対象にしてるから、 「万が一」に備えた準備コストが莫大。「いい」施設はものすごく高い入所料を取るけれど、 払った対価ほどには、いいケアは受けられない。首都圏なんかだと、老人病院は月50万円ぐらい かかるけれど、それでも笑いが止まらない位にウハウハ儲かってる施設は、たぶん少ない。

「数万人に一人」規模の最悪に備える部分をスルーして、最初から 20 人とか、 友人限定サービスに徹すれば、準備コストを大幅に節約できる。 許容安全率については別途相談だろうけれど、「払っただけの」サービスを提供できる可能性は、 大規模な施設より高くなる。

「友達」を探すやりかたが問題になってきて、ここを「契約」にしてしまうと、 きっと元の木阿弥。インターネットは人と人との距離を縮めるから、きっと役に立つ。

40も後半回って疲れた医者が、あと10年で自分を「売り抜ける」戦略で、 富裕層の友達を20人程度集めて、介護とわずかな医療とを提供するやりかた。

その頃にはみんな、「信頼」に疲れ果ててるだろうから、きっとちょっとだけ流行ると思うんだけれど。

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2008年1月 9日

「変わらない前提」を維持するワクチンのこと

「事実が事実として通用する」世の中は、恐らくは不自然な状態。

もちろんそんなありかたが心地いいと感じる人が多数派だからこそ、 たいていの場合、事実は事実として通用するけれど、 「事実がそのまま通用すること」と、「その事実が運用不可能であること」とは、 やはり同じではありえない。

不変の価値が共有されても、世の中にはやはり、それを変えたい人がいる。

問題を相対化して撹乱するやりかたは、相対化を狙う側からは、やっぱり有効な手段に思えて、 そんなやりかたを否定する人たちが盛り上がっていたけれど、 やっぱり「個別に潰す」やりかた以外の解決策が見えてこない。

議論相対化の回避手段と、「変わらない前提」を信じる人達に課せられた義務について。

状況を維持する予防医療

問題を相対化するやりかたが、とりあえず「邪悪」なものであったとしても、 邪悪なやりかたは広まりやすくて、一度広まった相対主義は、根絶するのが難しい。

価値の絶対性を信じる人達は、その価値を運用しようとする人達を叩く。 叩かれた人は、もしかしたら価値の運用を止めるけれど、「運用」という病気は 感染症みたいに広まる。「感染した」誰かを叩いても、世間に「予防」を 行わないなら、相対化のやりかたは、必ず再発する。

恐らくは、ウィルス感染症のイメージが近いのだと思う。

インフルエンザや麻疹みたいなウィルス感染症は、もちろんそれが無い世の中のほうが 望ましいけれど、それは本来「不自然」な状態。みんながそれを望んでも、 ウィルスはやっぱり世の中にいるし、一度感染した人は、ウィルスを回りにばらまく。

自然界では、たぶん一定数の人が「感染」して、その人達はしばしば自然治癒したり、 不幸な転帰をたどったりする。

医師という人種は、「病気は世の中に無いほうがいい」という価値の絶対性を信じてる。 自分達の価値を世の中に蔓延させるために、「ワクチン接種」という行動を通じて、 「感染症の無い世の中」という、不自然な状態を目指す。

変わらない価値を信じることが「正しいこと」なのだとしても、 それ自体はきっと、ある種不自然な経過で出来上がった状態。 価値の絶対性を信じる人達は、もしもその状態を維持したいと思うのならば、 まだ「感染」を生じていない人に「免疫」をつける義務が 発生するのだと思う。

ワクチンのやりかた

「事実が事実として通用する」という時点で、その絶対性を信じる人達には、 やっぱり何らかの利権が発生する。利権に対する代償、あるいは絶対性を 維持するためのコストとして、その人たちにはきっと、 絶対的な事実が通用する社会を維持する義務が発生する。

インフルエンザのワクチンはまだ不完全だけれど、インフルエンザ感染症のない社会が 「良いもの」と考える人達は、みんなにワクチン接種を行って、感染が拡大するのを防ぐ。

あるいは「ウィルスにだって生存権を」なんて主張するナチュラリストがいたら、 生態系とか、多様性を主張して、ウィルス広めようとするかもしれない。 それは個人の権利だし、そもそもウィルスは勝手に広まるものだから、 その人を説得したところで、感染症はなくならない。

ウィルスを接種する人達は、たとえば「感染者」を免疫のついた人で 包囲してしまったり、ワクチン接種が完全でない国、たとえば麻疹の接種が遅れている 日本人の渡航者を「危険である」とラベリングするやりかたを通じて、 感染が広まるのを防ぐ。

「ウィルスナチュラリスト」を説得するのは難しいのかもしれないけれど、 説得が失敗に終わっても、ワクチン接種の戦略を間違えなければ、感染は広まらない。 その人は、あるいは包囲網を突破しようとするかもしれないけれど、 それはもはや主義主張なんかじゃなくて、単なるバイオテロ。警察のお仕事。

「ワクチン接種」戦略に必要なツールは2 つ。相対主義に「感染した」人を診断するための 診断ガイドラインと、まだ「感染していない」人に免疫をつけるための「ワクチン」の作成。

恐らくはそれは、価値の絶対性を信じる人達が用意すべきもので、 それを準備できない人達は、そもそも価値を運用しようとする「感染者」の広がりに対して、 有効な手を打てない。

個別撃破の戦略というのは、病気になった人を治すやりかた。

最近の騒動に対して、「いちいち潰してくのも大変だ…」なんて呟きがあったけれど、 「いちいち潰す」以外の方法論考え出すのも、たぶん「正当」を主張する人達に課せられた役割。 「いちいち潰して」も、たぶん感染症が広まっていくことそれ自体は阻止できないし、 実際問題、今回自分も含めて何人かの人たちが「感染」を表明したけれど、 今のところまだ、誰も「治癒」していなければ、「潰された」人もまたいない。

議論を通じて誰かを治療することというのは、不可能であるか、少なくとも相当に困難だからこそ、 感染者は放置して、まだ感染していない人に免疫つける戦略が有効なはず。

恐らくはいろんな分野、それこそ医療も含めて、「正義」とか「道徳」、 「事実」みたいな揺るがないものから利権を得ていた人たちが、 今になって足下揺らいで大騒ぎしている原因は、価値の絶対性を維持するための、 「ワクチン」を用いた戦略を怠ったためなんだと思う。

ワクチンがワクチンであるために

ワクチンがワクチンとして成立する条件は、なんといっても簡便なことと、 早く効くこと。接種するために1 週間の入院が必要で、効果発現まで1 年かかるワクチンなんて、 たとえ完璧な効果を発揮したところで、残念ながら普及しない。

ワクチンの効果は、たぶん厳密である必要はない。「感染者」を治癒させる効果なんて もちろん必要ないし、「感染していない」人を対象に「感染しにくくする」 効果が発揮できれば、それでも十分な効果が得られる。 ワクチンには、簡便さと確実性とのトレードオフが発生する。 「注射一回で済む」やりかたは、たぶんとても大切。

「効果が高い」ワクチンはまた、免疫がつく人と一緒に、感染者それ自体を増やしてしまう 危険がある。インフルエンザワクチンなんかは、安全だけれど効果が弱い 「不活化ワクチン」と、効果が高いけれど感染可能性がゼロではない「生ワクチン」とがあって、 生ワクチンはもしかしたら、ワクチン接種を行うことで、感染者を作ってしまう。 どんな分野であっても、「ワクチン」を作る際には、きっと同じようなジレンマに直面するはず。

ワクチン接種の効果的な戦略は、たぶんネットワーク科学畑の人達が、いろいろ考えてくれる。 それは免疫を持った人で感染者を取り囲む戦略であったりとか、ネットワークで「ハブ」になる 人から優先的にワクチンを接種する戦略であったりとか。

インターネットは、「感染」が爆発的に広まってしまうリスクがある代わり、 「ハブ」の特定が容易な世界。もちろんこの構造は、感染を広めたいとたくらむ人にだって 有利なんだけれど、価値の絶対性を信じる人達にとっても、条件は一緒。

医療のこと

たとえば医療の業界は、「病気の治療は不確実なものである」という変わらない前提が 社会に共有されていて、そこから利権を得ていたのだと思う。

「全力を尽くしてみますが、駄目かもしれません」なんて、一昔前の医療ドラマの決まり文句。 今の世の中、こんな台詞をカジュアルに口にすると、相手が悪ければぶん殴られる。 昔はたぶん、この「不確実」がある程度共有されていて、だからこそ頑張れた。 いつのまにか「絶対」が当たり前に求められる昨今、「頑張る