2009.02.18
内科におけるローブの法則
- 今していることが有効なときにはそのまま継続する
- 今していることが有効でないときには中止する
- 何をすべきか分からないときには何もしない
- 治療方針の決定を外科医に任せない
「内科診療シークレット」という本の第一章冒頭に書いてある。
作者の人は、間違いなく4番を言いたかったのだと思う。
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2009.02.18
「内科診療シークレット」という本の第一章冒頭に書いてある。
作者の人は、間違いなく4番を言いたかったのだと思う。
2009.02.10
“Cooking For Engineer” - BluePillの別宅 で紹介されていた、 料理の手順をチャート表示するやりかたが面白すぎる。
「NSチャート由来だろう」なんてコメントがついていたけれど、たしかによく似ている。
クッキングチャートは、フローチャートみたいな条件分岐を捨てた代わりに、縦軸に料理の材料、 横軸に時間をそれぞれ展開することに成功していて、料理の手順は、 材料と、時間と、それぞれの意味を併せ持った場所に展開することが出来て、 料理の手順を一望できる。
おおもとのサイト には、様々な料理の手順が公開されていて、 この表示方法にも、一種の文法みたいなものが設定されている。
2008-12-01 - BluePillの別宅 には、 このチャートの描きかたが記述されている。この方はエクセルか何かで書いているみたいだけれど、 大本のサイトは、HTML のテーブル環境で書いているみたい。LaTeX で同じことが出来そう。
で、材料を、特定のタイミングで、特定の手順で処理していくと、料理が出来上がる。
患者さんの治療というものは、本来まずは症状があって、怪しそうな場所から順番に調査して、 どこかのタイミングで、「病名」という正解を「発見」するものだから、そもそも料理みたいな 手順が出来たらおかしいんだけれど、実際問題、病名も、症状も、患者さんの体が取り得る状態も有限だから、 手順をまとめることは、不可能ではないはず。
具体的には、正しい病名の決定をあきらめて、「分からないけれど、当面死なない」状態を目指す。
ある程度現実的に、総合医というものを考えるなら、こういう定義しないと厳しいと思う。
以下文法。
これが基本的な書きかた。「材料名」と「分量」に、それぞれ「致命的な病名」と「特徴」が入る。
一番上の行、「オーブンを温める」みたいな記述は、「点滴をとる」だとか、「心電図モニターをする」だとか、 あるいは「挿管の準備をしてもらう」「救急カートを用意する」みたいな手順が入る。鑑別診断をかける前に、 全ての患者さんに対してやっておくべきこと。
ある程度複雑な表。「横書き」と、「縦にした横書き」を組み合わせたほうが見やすい気がする。「縦書き」は、 読むリズムがなんか違う気がする。LaTeX なら、rotatebox 環境で何とかなりそう。
罫線の「欠け」は、「塩を振る」みたいな、このタイミングで、ちょっと考慮すべき、みたいな 感覚で使えばいいのかもしれない。
わかりやすいレシピ帖 - so what?@hatenaで紹介されていた、 古い料理の教科書のレイアウトは参考になる。。こういうの作りたい。
2009.02.07
こんな条件がそろっている場所には、ビジネスチャンスが転がっている。
父親が亡くなった夜、大学出入りの葬儀社の人たちが駆けつけてくれた。
いい人たちだった。父親のことを悼んでくれて、「全部任せてください」なんて。
800万円のコースを指定された。
どう考えたって、うちにそんな金額払えるわけがなかったんだけれど、 大学出入りの業者の人が、「このぐらい」なんて断言したところで、 それを拒否する根拠は、自分たちは持ってなかった。
みんな茫然自失していて、葬式の日はもちろん、目の前に迫っていたから、 「とりあえずちょっと、考えさせてください」なんて答えるのがやっとだった。
一晩考えた。
「やっぱり申しわけないのですが、うちでは800万円なんて払えません」なんて、 情けない思いで頭を下げたら、コースの内容は変えないで、 その場で150万円割引してくれた。
たくさんの人が来てくださって、親戚からも援助をいただいて、 収支がやっとぎりぎりになって胸をなでおろしたのは、もうずいぶん昔。
大黒柱がいなくなって、これから先の生活だって見えないときに、何でだか人生始まって以来の出費。 香典袋を集計する手が汗まみれになったのをよく覚えてる。
葬儀にだって「相場」があるのだろうけれど、当時も今も、相場なんて分からない。 「先生ならこれぐらいです」なんて、800万円という金額を示されたけれど、 これは果たして「ボられた」のか、それとももしかしたらいい業者さんに巡り会えて、 ボランティア同然の値段で、葬儀を仕切っていただけたのか。
癌の塞栓療法をする先生がいて、ホテルをワンフロアぶち抜いたクリニックで、 先生一人で朝から晩まで、診療に忙しいらしい。
テレビで「癌に単身で戦いを挑む医師」として、好意的に取り上げられていた。
癌が成長するには必ず栄養血管が必要になるから、塞栓療法を行って、 それを潰せば、癌は「小さく」なる。どんな癌でも小さくなるし、転移癌でも効果がある。
一時期いろんな施設で試みられたのだけれど、小さくはなっても、特定の癌をのぞいて、 延命効果が証明されなかったから、今では廃れてしまったやりかた。 保険も効かない。
番組では、誰もウソは言っていなかった。
延命優先の、今の西洋医学の範疇では、進行癌の患者さんにできることはほとんどない。 この先生が販売しているのは、「治癒」ではなくて、「腫瘍が小さくなった」という満足感 だから、そういう意味で、正しいビジネスだし、誰も損はしていないはず。
ものすごくまれな出来事で、当事者が動転している場所には、ビジネスチャンスが転がっている。
そもそもが「まれ」な出来事を集めるコストが馬鹿にならないから、 こんな商売ができる場所なんて実世界にはほとんどないんだけれど、 医療の業界には、たぶんこんな場所がたくさんある。
今の病院はどこも赤字だけれど、「延命させる」というルールを無視していいのなら、 大学だとか、地域の基幹病院だとか、黒字を生み出すやりかたは、たぶんいくつも考えられる。
宝の山はあちこちに転がっているのだけれど、今はルールがあるから、そこを掘れない。 宝の山を狙っている企業はたくさんあるから、業界が自由化したら、医療はたぶん、 別の何かに変貌するんだろう。
医療が自由になると、業界は間違いなく面白くなる。
多様な需要と、それに応えるいろんなサービス。自由化した医療はメリットばっかり。
伝統的な、つまらないルールに縛られた医療は終わり。これからはもっと面白い場所で、 優秀な人たちが自由なビジネスを展開するようになる。
「健康な病人」なんて揶揄される、今の医療に不満を持っているような人たちには、 たぶん多様な選択枝が約束される。
ところが病気が悪くなって、期待がしぼんで「延命」に収斂すると、 患者さんはとたんに「つまらなく」なる。自由世界では、売るほうだって買い手を選ぶ。 つまらない人たちは、伝統的な、つまらない医療現場へと放り出されて、 自由な医療は、きっともっと面白い患者さんを探しはじめる。
魅力的になりたくて、美容形成外科医の門を叩く患者さんがいる。 美容形成外科医は「鼻が高くなる」ことは保証するだろうけれど、 その人が魅力的になるとか、その人が「いい顔」になるとか、そんな結果は保証できない。
自由世界では、価値が多様化する。
安かったものが「改良」されて高価になったり、「治る」「延びる」を期待して購入してみれば、 それは「小さくなる」とか、「下がる」だったり。
老人ビジネスとか健康ビジネス、自由診療とかアンチエイジングが栄える近未来、 医療というのはもはや、奇跡でも何でもなくて、単なるインフラ。
土台を維持する技術はもう十分成熟したから。今は次のステージ、目鼻の利く人が、 土台の上にどんなビルを建てるのか、あれこれ思案している段階。
他人様の商売をくさすつもりはないんだけれど、それでもやっぱり、 商売始めた以上、「つまらなくなったら放り出す」のだけは勘弁してほしいなと思う。
ビルの上にいると見えにくいかもしれないけれど、みんながビル建てようと殺到して、もうインフラはガタガタなんだから。
2009.02.06
誰かを説得するときには、「こうするのが正しい」をやってもうまくいかないけれど、 「僕は自分がかわいいからこうしているよ」みたいな言いかたをすると、伝わる印象を持っている。
同業者にも、愛想いい人と、愛想の対極みたいな外来対応をする人がいる。
愛想の対極に走る人も、別に患者さんが憎くてしょうがないとかじゃなくて、やっぱり「いい医者」 になりたいと願ってる。そういう人たちは、患者さんというものを、「教育」すべきものだと思っているから、 みんなその人たちなりのポリシーもって、厳しい外来をやっているみたい。
自分たちだって客商売だし、主治医に怒られるのが大好きな患者さんなんて、たぶん少ない。 愛想はないよりあったほうがよくて、少なくとも研修医のうちは、 「僕は将来厳しい外来をやる医者になるんだ」なんて考えてる奴は、たぶんいない。
研修期間を終えて、病院中から「先生」なんて呼ばれるのが当たり前になってくると、 人によっては、「教育」意識が芽生えてくる。こういうのを放置しておくと、 たいてい厳しい外来をやるようになって、「腕」がそれについてくればいいんだけれど、 そうでない医師は、たぶんどこかで地雷を踏んで、患者さんもろとも、人生を棒に振る。
身を守るためには、愛想はやっぱり大切だから、最初はたぶん、どこの病院も「愛想のいいサービスを」みたいな 教えかたをするはずなんだけれど、「それが正しい」みたいな価値は伝わりにくくて、 相も変わらず、愛想の対極みたいな外来対応する医師が、毎年一定数生産される。
こういうのは、厳しい外来をやる本人も、その頃には信念もって固まってるから、 「教育してあげるのが正しい医療」なんて思い込んでる若い人に、サービス業を説いても、 「こいつは汚れた欺瞞野郎だ」みたいなレッテル貼られて、無視される。
一番簡単なのは、フォーマットかけてから価値観上書きすることなんだろうけれど、 今の時代、クリーンインストールは怒られる。
「丁寧な応対した方がいいよ」なんて教えるときには、個人的にはだから、 すごく利己的な理由で、自分はこうしているよ、なんて言いかたをする。
「サービス」は、「患者さんのため」などではなくて、自分の身が世界で一番かわいいから、 かわいい自分の身を守りたいから、自分なりの結論として、こういう対応をして、 今のところ生き残っているよ、なんてやりかた。
「患者さんは大切」という価値は、そう思う人と、もしかしたらそう思わない人がいる。
「これが患者さんのため」なんて価値は、もっと意見が割れる。
自分がかわいくない人は、たぶんうちの業界には、そもそも入ってこない。 だからこそ、「かわいい自分」という価値から話を始めると、研修医に「刺さる」気がする。
もしかしたらそんな態度は、密かに「こんな奴にだけはなりたくない」と思われてるのかもしれないけれど、 「教育」という営為は、受けたほうからのフィードバックが来ないから、どんなやりかたが正しいのか、全然見えない。
だからこういう考えかたもまた、あくまでも仮定でしかないのだけれど、 「自分はこういう立場で、こう考えて、こう振る舞っている」という言葉は、 その人の中で真実だけれど、「こうするのが正しい」を誰かに強要するのは、 なんというか、言葉のどこにも真実がない。
内的な真実が、ほかの誰かにとって再現可能であるかどうかは分からないけれど、 可能性としての真実が宿ってるぶん、「こうあるべき」を強要するよりも、 説得可能性が高いと思う。
初めて離島に飛ばされた昔。何でもできる気分でいたのに、「普通の肺炎」で 外来に来た患者さんと対峙して、薬を処方できなくなった。
「それができる」ことと、「それを決められる」こととの断絶について。
当時たしか3年目ぐらいだったから、その頃にはもちろん、 肺炎の人なんて100人以上診療していたはずなんだけれど、本土にはいつも上司がいた。
研修の後半は、基本的には自分で指示を出していたのに、島に一人で放り出されて、手が固まった。 今までは要するに、「上司が黙ってみてる」というのが、強力な承認装置として働いていて、 それがなくなって島に飛ばされて、目の前にいる、一見典型的な肺炎の患者さんが、 本当に「典型」と認識してもいいのかどうか、確信できなくなった。
研修医はたぶん、「正しさ」を、「上司に怒られない」ということを通じて理解する。
だからいきなり一人で放り出されたそのときは、たぶん「正しいこと」がなんなのか、 いくら教科書に「正しい」と書いてあっても、確信が持てなくなってしまう。
一人ぼっちで決断して、後ろ盾なしで経過を見て、やっぱり大丈夫と納得する、 これを繰り返さない限り、「ほどほど」だとか、「いつもの」みたいな、 自らを安心させるような感覚は、身につかない。
外科医はそういうものを、「場を作る」なんて表現する。
患者さん見て、病気想像して、切開線決めて、進入ルートを決める。全部考えて決める。 研修医の頃は、それが「当たり前」と思ってるから、「場を作れる」ことがどれだけすごいことなのか、想像が及ばない。
虫垂炎を切るだけなら、上司の指示があれば、1年目の研修医でもできる。 上司が黙ってみててくれるなら、3年ぐらいの経験を積めば、診断から治療まで、 一応一人でこなせるようになる。
ところが新しい病院に一人で飛ばされて、じゃあ虫垂炎の患者さんが来て、 その人を治癒に導くためには、やっぱり10年たってもまだ、経験が足りない。
「今自分が遭遇しているこの状況は、典型的なやりかたで対処可能である」と認識するためには、 本当は、あらゆる例外ケースを体験しないといけない。
それはもちろん無理だから、やるべきは、「これは典型だろう」という先入観を形成して、 結果として大丈夫たった、という、不完全な成功体験を積むことなんだけれど、 それにしたって時間がかかる。
「虫垂炎は素人でも切れる」だなんて、たぶん3年目ぐらいまで、研修医はそんなことを考える。
「最低でも回盲部切除ができるようになっておかないと、虫垂炎が切れるとは言えない」だなんて、 7年目ぐらいになって、いくつかの病院で経験を積んだ外科医は、ある日いきなりハードルを上げる。
今の研修制度は、恐らくはあらゆる決断機会を奪われたままに進められて、 一定年次を超えたとたん、「君もう一人前だから」なんて、ほかの病院に放り出される。 昔はそれでも5年ぐらいあった研修期間は、来年からはもしかしたら、1年間に短縮される。
研修医はたぶん、「黙っている上司」の存在に気付かないまま、いきなり独り立ちを強いられる。 もちろん体は動かないだろうし、だから臨床続けられなくて、内科外科から人がいなくなってるんだろう。
「それができる」ことと、「それを決断できる」こととの間には、たぶん7年目ぐらいを境に、 必要な経験年次の断絶がある。「できる」ための経験はそんなにいらないけれど、 「決める」ための必要経験は莫大で、量を積まないと、決断なんてできない。
「技術の継承」が断絶するもっと早いタイミングで、たぶん「決断の継承」が断絶して、 内科外科は、実質死に体になると思う。
あと7年ぐらい先の話。