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2008.03.30

技術の欺瞞 広告の欺瞞

技術や企画、営業や広告、それぞれの職種には、たぶんそれぞれ持つべき 欺瞞のスタイルというものがある。 欺瞞を捨てた、全方向的な「よさ」を追求した先には、魅力的なプロダクトは生まれない。

「いい」製品と、魅力的な製品というものは異なっていて、商品の魅力というのは、 たぶん技術職と営業職の、欺瞞ベクトルの「ずれ」が作り出す。

Thinkpad を買った

新しいThinkPad を買った。自分みたいな素人には「速い」ということしか分からないし、 今使ってるぶんには何の不満も無いけれど、キーボードの印象がずいぶん変わった。

前使ってたA30 というモデルは、IBM 時代の製品。IBM が中国に買収されて、 「ThinkPad はもう終わりだ」とか言われる前、ThinkPad といえば質感の高い高級品という ブランドイメージがまだ残ってた頃。ノートパソコンはまだまだ高級品で、当時30万円近くした。

A30 は重くて固くて、キーボードを押した感覚も、しっかりしていながら粘るような、 たしかに自分は高級な製品使ってるんだな、と実感できるような感触。気に入ってたけれど、 打ち続けると結構疲れた。

今度買ったT61 は、もう4 世代ぐらい先に進んだ製品で、 薄いし軽いし、なんとなく「ありがたみ」に欠ける印象。

筐体の造りなんかはしっかりしているし、キーボードのしっかり感なんかは むしろ向上しているのだけれど、 キーを押した感触が何だかパシャパシャしていて、安いというか、ありがたみが薄いというか。

昔のThinkPad のほうが、キーを押したときの感触が滑らかで、わずかに重たい感覚。 今のキーボードはカサカサした、乾いた感触で、キーを押し下げる圧力が軽い。

「打っていて疲れない」という、キーボード本来の性能は、たぶん新型のほうが優れている気がする。 新しいThinkPad のキーボードは、軽く打てるししっかりしているし、メーカーの人達が 「改良しました」なんて言うとおり、道具としての使いやすさは、こちらのほうが上なんだろう。

新型は打ちやすくなったその代わり、何となく、自慢できる方向とは 乖離してしまった印象。道具として使いやすい、打ちやすいキーボードと、 誰か別の人に自慢して、その人から「これいいね」と言われるキーボードとは、 たぶん違うんだと思う。

新しいThinkPad は、だから道具としては十分満足して使っているんだけれど、 誰かに自慢したいとか、ものすごくいい物を買った充実感とか、そんなものは案外薄い。

スカイラインGTR のこと

日産が作ったスーパーカー「スカイラインGTR」を販売する人達は、あれを「いい車でしょう?」なんて 紹介してはいけないんだと思う。

今度のGTR は、開発した人のインタビューを読んでも「最高の車を目指しました」みたいなコメントが 並んで、それを売る人達もまた「いい車でしょう?」なんて。たしかにすごい性能の車なんだろうけれど、 何のゆがみも内包しない「よさ」という価値には、何だか魅力を感じない。

R32 型GTR が販売された頃の本を読むと、GTR を開発した人達は、 とにかく「レースに勝つ車」を作ろうとしていた印象。 誰も「よさ」なんか目指してなくて、当時のグループA 規約の範囲内で、 ほとんど反則に近いやりかたで、「勝つ」ことだけを想定していた。

あれを販売する人達も、想定外の化け物を送られて、 案外困ったのだと思う。「いい車でしょう?」なんて無批判に言い切るには、 当時のスカイラインは何だか不気味な印象。「うちの技術屋がとんでもない怪物作ってしまいまして…」 なんて売りかたするしかないような。

結果として、R32 は大成功したけれど、あとに続いたスカイラインは、 R32 よりも性能はよかったにもかかわらず、先代を越える魅力で語られらなった。 技術職と営業職の「ずれ」というものが、R32の魅力を生み出していたのだと思う。

欺瞞が魅力を作り出す

魅力というのはたぶん、製品の「よさ」が事後的に作り出すのではなくて、 製品を開発した人と、それを販売する人とが持つ欺瞞のベクトルがずれた場所に発生する。

思ったこと素直に伝える、欺瞞のないメッセージには力が無い。 訴える力が強い人達は、たぶんそれぞれ独自に作り出した欺瞞のスタイルを持っていて、 ある程度意識的に、それを運用している。

そもそも欺瞞が無かったり、技術者と営業との欺瞞ベクトルが一致してしまうと、 そのプロダクトは「つまらなく」なる。 それがたとえ「いい製品」であったとしても、つまらない製品は、自慢できない。

技術者と営業職と、大雑把にお仕事を分けると、 それぞれの職種に要求される「欺瞞の使いこなしかた」は 異なっていて、その異なりかたも、メーカーとか、人種で共有され、 引き継がれるべき文化なんだと思う。

日本人なら、技術者は常に「完成度はまだ中途で、まだ改良の余地がある」と言わなきゃいけないし、 それを販売する人達は、「うちの技術馬鹿どもが暴走しまして…」と顧客に謝らないといけない。 たとえどんなにいい製品でも、日本人は「いい製品でしょう? 」なんて言っちゃいけない。

アメリカの技術者なんかは、むしろ何作っても「これが自分の考える最高の製品だ」なんて 胸張るし、それを売る人達は、額に青筋浮かべながら、 苦虫噛み潰した笑顔で「いい車でしょう ? 」と言わなきゃいけない。

シェルビー・マスタングとか、ダッジ・チャージャーとか、 何だかもう、乗るだけで頭悪くなりそうで、ものすごく魅力的。技術者が全方向的な馬鹿車作って、 営業の人が、それを何の衒いもなく「すばらしい車ができました」と言い切るのは、 アメリカ車にだけ許された欺瞞のスタイル。

性能は、もちろんスカイラインGTR のほうが上なんだろうけれど、 こんなアメリカンスポーツが好きな人達にとっては、馬鹿みたいな排気量であったり、 燃費の悪さとか、音のうるささとかそんなものこそが魅力。たぶん10年たっても同じ車を乗り回して、 やっぱり「これ馬鹿でしょう?」なんて、みんなに自慢してそう。 限定生産品だから手が出ないけれど、乗れるものならものすごく欲しい。

トヨタのレクサスなんかは、やっぱりこのへん間違ってるんだと思う。

トヨタの技術者が全力注ぎ込んでるのは、やっぱりベースになった乗用車のほうであって、 レクサスで売ってるのは、それをきれいに仕上げて値段を上げた車。

「限られた予算に機能を詰め込む」のはまさに技術で、それは日本のお家芸だけれど、 「浮かせたお金で「きれい」を乗っける」のは、何となく技術屋としてかっこよく見えなくて、 中の人達もたぶん、「暴走する技術者」としてでなく、 「企画の人に言われるがままに仕事しました」というイメージ。

レクサスの販売店は、たしかに丁寧。非の打ち所の無いいい車を並べて、「いい車でしょう ?」なんて。 「いい」物を「いい」と表現することは、もちろん全然間違いではないんだけれど、 欺瞞の無い言葉は響かない。予定通りに作った「いい」車というのは、 「既製品を薄めて膨らませて、200 万円上乗せしてみました」なんて思惑が透けて、 なんだかつまらない。

トヨタ自動車には、電気レクサスのエンジンをヴィッツのボディに押し込んだ 「リアルチョロ Q」開発してほしい。そんな動く危険物を力ずくで販売して、 「いい車でしょう?」 なんてやってくれたら、もう一生ついていくから。

2008.03.29

正しい技術は驚きを生まない

ウルルン滞在記だったか、レポーターが未開の地を訪れるテレビ番組で、 ジャングルで昔ながらの狩猟生活をする人たちが取材されてた。 族長の住居には電話線が引かれていて、族長は電子メールで「注文」を受けていた。

おそらく「通信」というのは、かなり昔から人類が共通に持っていた発想であって、 それが文字や狼煙みたいなものであっても、インターネットみたいな ものであっても、それが「通信」という考えかたの延長線上に乗っている限り、 適応するのは案外簡単なのかもしれない。

番組の中では、族長は電子メールを使っていたけれど、 その人がたとえばAmazon の通信販売を利用できたりするのかどうか、 ぜひとも見てみたかった。

電子メールによる情報交換と、ネット世界での買い物。それを支える技術は、 どちらも同じような発達を遂げたものだけれど、発想は別物。 メールは通信の延長上にあるけれど、ネット取引は「顔を見たことがない相手を信用する」という、 たぶん未開民族の人たちが経験したことがない振る舞いを前提にしていて、 族長は戸惑うような気がする。

便利な技術と驚く政治

士郎正宗が描く未来世界は、ところどころで的を外しているにもかかわらず、 それでもなお、すごくリアルに見える。

あれはたぶん、登場人物がみんな、そこにある未来技術を「当たり前」のものとして生活している世界を 描写しているからなんだと思う。小説で未来世界が描かれるときに、発達した技術の「すごさ」が 強調されると、なんだか昔のSF 映画みたいな、陳腐な印象になってしまう。

すごい技術のすごさというのは、その世界にいない、読者の目線からみたすごさなのであって 未来世界に住む人が、そんな技術を見てすごいと感じたり、「すごい技術」なんて表現するのは、 どこかおかしい。

youtube とかustream みたいな動画配信技術は、 ちょっと前までは夢だった。手塚治虫の未来漫画では、テレビ電話が欠かせないインフラとして 登場してたし、まだ光回線がそれほど普及していなかった頃、NTT が光のデモを行うときには、 「インターネットで動画が見られます」をやるのがお約束だった。

技術は進歩して、動画を簡単に配信できる youtube が登場したけれど、 夢だったはずの未来技術は、すぐに当たり前のものになった。 たぶん誰もが「便利だな」とは思ったけれど、 「すごい時代になったものだ」とか、「未来はここにある」とか、 そんな感想はもてなかった気がする。

あれを見て感激した人というのは、むしろインターネットの技術を相当に深く理解している人であって、 ただのユーザーである自分達は、そのすごさが想像の延長線上にあった時点で、 それ以上驚くことができなかった。

これから先、インターネットがもっと進歩して、スタートレックみたいな 等身大 3D 画像を送れるようになってもなお、 一般ユーザーは、「ああそうか」としか思えない気がする。 そこにあるのは「便利な超技術」ではあるけれど、人々に驚きをもたらして、 生活を一変させるような、そんなものとはどこか違う。

驚きはむしろ、社会制度が作り出す。

「明日から銃の所持を解禁します」なんて宣言を政府が出したら、 世界は一変すると思うし、日本中の「普通の人」が、「すごい時代になったものだ」と驚く。 銃なんて、もう100年も昔から変わらない技術なのに。

新しい技術なんかを作らなくても、決まりごとを変更すれば驚きが生まれるし、 今あるものの見かたを少し変えるだけで、社会は簡単にひっくり返る。

救急ネットワークのこと

現場に着いた救急車が、その場所から最適な施設を探せる病院検索システム。

システムを回すために大切なのは、「すべての病院がネットワークに前向きに参加すること」であって、 ネットワークの信頼性とか匿名性とか、技術的な側面は、システムの成否を左右しないし、 技術の進歩それ自体は、成功を生む力にはなり得ない。

秘匿性とか信頼性が問題になっているその時点で、そのシステムの運用には、 社会制度上の問題が内包されている。制度の問題を技術で解決するのは困難で、 莫大なコストがかかる。

病院を検索するだけならば、ネットワークには、公開情報を流すだけでも 十分にシステムを回せるはず。

その日に当直する医師の名前とか、その人の専門領域なんかは、 病院に行けば公開されているものだし、患者さんの氏名とか住所、 現在の病状みたいな個人情報は、「現場の救急隊を信用する」という 考えかたがみんなに共有されれば、それをネットワークに流す必要が 発生しない。

病院が首尾よく見つかったところで、実際に搬送するときには、 お互い必ず電話で確認するから、たとえネットワークが腐ったところで、 実はあんまり困らない。これもまた、「腐ったら昔ながらのやりかたをする」 という振る舞いを、みんなで共有すればいいだけだから。

情報は自由になりたがるし、弱いところを持ったネットワークは、 必ずそこから壊れてしまう。そんな本能みたいなものを押さえつけるにはお金がかかるし、 一生懸命技術を開発しても、やっぱりうまく行かない。

完璧に隠すやりかたを考えるよりも、隠さないですむ方法論考えるとか、 信頼性を高めるよりも、信頼性を必要としないやりかた、技術を進歩させるやりかたよりも、 政治的な解決目指したほうが正解に近いケースというのは、たぶん多い。

技術を極めて、今までの習慣を変えないやりかたするよりも、技術が成し遂げてきたことを 放棄するような振舞いかたを考え出して、それをみんなで共有するやりかたをしたほうが、 少なくとも安価にすむし、技術が守ろうとしてきた何かが突破される危険も減る。

政治力を振るえる立場にいる人達こそは、やっぱり政治的な解決のエレガントさ、 強力さを、もっと信じるべきなんだと思う。

2008.03.27

Thinkpad 覚え書き

Thinkpad A30 という、7年来使ってきたノートパソコンを買い換えた。 T61 という新型。

初期設定のメモ書き。

Windows XP の設定

Windows XP は、買ったままで使うとなんだか軽快感に乏しいので、余計な機能を止めた。

WindowsXPの設定方法を公開しているサイトを参考にして、 余計な機能をOFF にしたり、「マイドキュメント」のフォルダを、ディレクトリ直下に移動したり。

代表的な設定ツール窓の手、 もう少し細かい設定を行ってくれるtuneapp をダウンロードして、それぞれなんとなく軽くなるように設定した。

クリックひとつでできる設定ばかりで、レジストリを編集するとか、 怖いことは一切やっていないけれど、ずいぶん軽快に動くようになる。

日本語入力の設定

標準で入ってくるのはIME 2002。巷ではATOK 2008の評判がすごくいいみたいだけれど、 昔からMS-IME を使っているので、しばらくこのまま。

標準のままだと医学用語が全滅する。幸いにして、さまざまな医学辞書を公開している方がいるので、 それを使わせてもらう。どれがいいのかは分からないけれど、 たとえばIME 医学辞書なんかは、 辞書のインストールまですべて行ってくれるので便利。

これで「気管内挿管」とか「胸膜癒着術」みたいな単語が一発変換できるようになる。

Word を使わなければ関係ないんだけれど、XP になってからのIME には、 「ナチュラルインプット」というよく分からない機能がついてくる。挙動が不審なのと、 IME 同士で変換を引き継いでくれないのか、意図した入力ができないことがあったので、 この機能は使えないほうがありがたい。

IME 日本語入力システムの使い方、を参考に、 IME の[詳細なテキストサービスを使用しない]オプションをOnにする。 (追記:これをやったらtwit で日本語入力ができなくなった。理由がわからないけれど、今は元に戻している。)

これで大体、Windows2000の頃と同じような感覚で入力ができる。

キーボード配列

初めてパソコンを買った頃、どうしてもブラインドタッチができなくて、キーボードを見ながら キーを打つ癖が抜けなかった。いつまでもこれではしょうがないので、 キーボードを OEA 配列に変更して、 キーを見たって何を打ってるのかわからない状態を2 週間も続けたら、やっとブラインドタッチを覚えられた。

その反動で、いまだに通常のQWERTY キーボードが打てなかったりする。

キーマップを変更するソフトはたくさん発表されているけれど、やっぱり 窓使いの憂鬱 が一番使いやすい。 設定が難しいソフトだけれど、ユーザーが多くて、いろんなユーザーが 独自のキーマップを発表していて、他人様の成果物をもらいやすいのが最大のメリット。

自分でキーマップを書かなくても、「窓使いの憂鬱」「OEA 配列」で検索をかければ、 公開されている設定が見つかる。テキストファイル形式だから、導入するのは簡単で、 事実上あらゆるキーに役割を割り振れるので、慣れるととても便利。

LaTeX の導入

理系のワープロ「LaTeX」も、今ではインストーラーが公開されて、導入するのが本当に楽になった。

「TeX インストーラ3 」セットアップマニュアルに やり方が公開されているので、このとおりに従えば大丈夫。

その代わり、無数のソフトがダウンロードされて、 インストールが完了するまで3 時間近くかかかるので注意。 途中で「導入に失敗しました」という表示が出て止まっても、インストーラーをもう一度起動しなおすと、 足りないファイルだけ再度取りに行ってくれる。

LaTeX 一式、ゴーストスクリプト、DVIOUT を各々入れて、あとは入力ソフト。

昔はAkasha を使っていたけれど、いい機会だから何か別のもの探してみる。

別途LaTeX2HTML を導入しないといけないんだけれど、まだやっていない。

以前の環境では、l2hのとおりにやってうまく行ったけれど、 まともに動かせるようになるまですごく大変。

その他ソフト

  • Sleipnir:ブラウザ。インターネットエクスプローラーの 代わり。たくさんの窓を開かなくてすむので便利
  • JTrim:画像変換ソフト。色を補正したり、切り取ったりサイズ変えたり。 とにかく動作が速いので、昔からこればっかり。学会発表に使う資料作るぐらいなら、PhotoShop とか必要ない
  • Lhaplus:解凍ソフト。DLL ダウンロードする手間要らないので便利。.rar の ファイルを解凍するときだけ、時々うまく行かなくなる
  • Open Office:新しいOffice をまだ買っていないので、しばらくこのまま。 Office 2000 を高機能にしたイメージ。普通に使えそうなら、買わないでこのまま使うかも
  • Twit:Twitter 用の日本語クライアント。 これを「スタートアップ」フォルダに入れておいて、一日中立ち上げっぱなしにしている
  • サクラエディタ:エディタ。人によって好みはさまざまだろうけれど、自分は昔からこればっかり
  • ZakuCopy:クリップボード拡張。この文章みたいなリンク集が一瞬で作れるから本当に便利
  • avast! 4 Home Edition:無償で使えるアンチウィルスソフト。 今まで使っていたのはAntiVirという、やはり無償公開されているアンチウィルスソフトだったけれど、 こちらのほうがなんとなく軽快そうな印象

速いパソコンのこと

そもそものきっかけはニコニコ動画。最近になって高画質化して、 それと同時にパソコンの負荷が大きくなって、今まで使っていたノートでは、 まともな再生ができなくなってしまった。

速いノートパソコンに買い換えて、ニコ動は快適になったし、 今までなら立ち上げることすらできなかった、重たいメガデモなんかがヌルヌル動く。

普段ゲームをすることはないから、パソコンの速さがもたらす恩恵は、 せいぜい動画再生ぐらいだと思っていたけれど、単にインターネットを覗いてるだけでも、 パソコンの性能は地味に利いてくる。

普段使っているのはタブブラウザ。「お気に入り」をフォルダごとに分けておいて、 一度に20ぐらいの窓をいっぺんに開いて、片端から見ていくやりかた。 今まで使ってたパソコンだと、これをやった後の待ち時間がかかったり、 タブを切り替えた後、ページが表示されるまでに、ずいぶん時間がかかったり。

今のページはどこも重たくて、それでも一つ一つのページを順番に見ているぶんには、 古いパソコンでも困らないけれど、たくさんのページを一度に開くときには、 回線の速さよりも、むしろパソコン自体の性能が律速段階になる印象。

発表の準備に Power Point 使ってたときには全然不自由してなかったのだけれど、 遊びの文章、たくさん読んで、ちょっと調べて書き飛ばす、こんな文章を書くときには、 コンピューターパワーは、あればあるだけ快適だった。

これでもっとたくさんの文章を読めるはず。

2008.03.21

夢は描いた瞬間から陳腐化する

ニュース番組で、岐阜大学の救急医療情報共有支援システム「GEMSIS」が特集されていた。

「サンダーバード」に発想を得たプロジェクトで、数年がかりで取り組んでいて、 これが完成した暁には、救急医療の問題解決に役立つらしい。

開発するのに数千万円かかってて、完成にこぎつけるまであと5000万円、 数年後の普及を目指してて、各病院に設備を入れるのに、30億円かかるんだという。

報道されてたのと同じことやればいいなら、今すぐにでも無料でできるなと思った。

報道されてた機能

GEMSIS のネット情報は少なくて、全容はどうなっているのか分からない。 単なる情報共有のシステムなのか、それとも救急医のモチベーションを維持するための、 政治タームのお話まで含んでるのか。

GEMSIS の機能はこんなかんじ。報道されてたぶんと、ネットで検索した部分。

  • その日に救急業務が可能な医師は、IC カードを通じて、システムに自分を登録する
  • すべての医師について、得意分野が記入されていて、救急隊はそれを検索できる
  • マップ情報とも連動していて、救急車からマップを検索して、一番近い施設を探せる
  • どうも音声認識機能も搭載しているらしい
  • 人工知能でな何かやることも想定しているらしい

GEMSIS が目指しているのは、要するに救急隊が現場に到着したその時点で、 近隣施設の空きベッド、そこに今いる医師の専門領域が一覧できて、 搬送先を決定できるようなシステム。音声認識とかAI で何をしたいのかが 今一つ謎なんだけれど、大筋は外してないと思う。

これだけの機能を統合するのに要するお金が5000万円。 ソフトと端末を近隣施設に配布するのに 要するお金が、30億円。

今あるネットサービス組み合わせれば、同じ機能を無料で作れる。

つくりかた

たぶん「はてなダイアリー」を使うだけで実現できる。

  1. 県内のすべての病院に「はてなダイアリー」の無料ユーザーになってもらう
  2. 各病院は毎日、その日に勤務する医師と、その人の専門領域を日記に書く
  3. 「狭心症」とか「胃癌」とか、医学用語は県内で共通のものを使用するよう、取り決めておく
  4. 「日記」の題名は、「○○県 ○○病院 GEMSIS」として、日付のあとには「内科○○医師 胃癌、異潰瘍…」なんて文字が並ぶ
  5. はてなダイアリーにはキーワード機能がある。患者さんの病名を「GEMSIS」という単語と一緒にキーワード検索すると、その日にその病名を記載した病院が、検索ワードリストに並ぶ
  6. 「はてな」はマップ機能とも連動している。救急車が今居る場所を住所で打ち込めば、近隣施設の検索は簡単

検索機能とマップ機能は、だいたいどこのサービスも、似たようなものを提供してるから、 たぶん「はてな」にこだわらなくても大丈夫。

すべて自前でやるなら、各病院がWeblog を同じ型式で書いて、 あとはそれを「Google blog 検索」で日付指定検索すればいい。今のGoogle は、 新しいエントリーを上げて15秒もすれば登録されるから、それで十分なはず。 GEMSIS なんて言葉は珍しい。たとえば「GEMESIS 岐阜県 胃潰瘍」なんて言葉で、 日付を指定して検索をかければ、その日に胃潰瘍を受け入れ可能な病院を リストアップすることができる。

スケールを全国区にしても、題名に「○○県」を入れておけば、 地域限定で検索をかけるのは簡単。Google マップに病院を登録するには 広告料がかかるだろうけれど、毎年それを支払っても、 たぶん30億円には届かない。

何を利用するにしても、ごく簡単な書きかたを取り決めるだけで、システムそれ自体は 今からでも稼働できる。お金はたぶんかからないし、 かけたとしても、たぶん年間数百万円オーダーでいける。 国内の日記サービスは、それでもときどき落ちるけれど、 google 先生は「全人類」相手にするサービスだから丈夫。 国内の救急施設2000ぐらい、いきなり増えても誤差範囲。

音声認識とAI 機能が、何をするものなのかがよく分からないけれど、 「救急医療情報共有支援システム」に相当する機能は、いずれにしても安価に作れる。 Web サービスは無料な分、「落ちた」ときに文句は言えないけれど、無料なんだから、 冗長性はいくらだって重ねられる。はてなはよく止まったけれど、はてなとgoogle が 同時に止まったことはないはず。

偉い人たちは、何か新しいことやるときに、 システム全部スクラッチする考えかたやめたほうがいいと思う。

「良心回避」の仕組み

妄想の域を出ないけれど、あのシステムはたぶん、 当直医が嘘を書きはじめた時点で、システムごと腐って終わる。

あのシステムで行くと、得意分野を「なし」と書いたり、 「末梢肺野病変診断における細径気管支鏡」とか、ものすごく狭い専門領域を書いてしまうと、 その医師はシステムから認識されなくなる。

救急輪番制は、「その日に空きベッドを確保する」ことにお金が発生するシステムだから、 死ぬほど働いても、寝当直しても、病院が受け取るお金は変わらない。

あのシステムはだから、「参加する医師全てが良心的で正直」であることを 前提にしてる時点で、なんだか無理あるなと思う。

道徳と良心を説いて、医師を正直にすることは難しいけれど、 「医師が正直に振舞わざるを得ない」システムなら、たぶん実装できる。

「医師には正直者がいない」ということを前提にシステム組むなら、 「得意分野」を入力するのは患者さんであるべき。

おなかが痛いときによく診てくれたとか、頭痛の原因突き止めてくれたとか、 「いい医師」を演じた医師の振舞いは、患者さんからシステム側に「密告」されて、 「いい医師」の専門分野が勝手に広がっていくようなシステム。 それを防ぐためには、その医師が「悪い医師」を演じる必要があるけれど、 それをやると今度は人気が落ちて、収入が減ってしまう。

GEMSIS の先生がたがどこまで想定しているのかは分からないけれど、 「医師から良心を引きずり出す」うまい構造を考えているのなら、 ぜひとも実現してほしいなと思う。

夢は描いた瞬間から陳腐化する

大学にいた頃、病院にLAN の回線が整備されて、インターネット接続が当たり前になった。

下級生に、掲示板とか Wikiなんかを利用して、みんなで情報共有を行うように勧めた。 もちろん自分は、スーパーユーザー権限で上から覗いて遊ぶつもりだったから、 「システム作るし、サーバースペースも貸すよ?」とか水向けたんだけれど、 彼らは結局、何も作らなかった。

「存在しない」と言ってたわりには、その学年のネットワークはよく動いてて、 誰か上級生の失言は、翌日にはすべての下級生が共有してたし、他科の笑い話とか、 みんな本当によく把握してて、大分振り回された。

2年ぐらい経って落ち着いて、結局「ない」はずのネットワークの正体は、 中心を持たない、携帯メールの伝言ネットの形をとって実装されていることが分かった。

本当に優れたものをインフラとして利用している人達は、 もはや「自分達がすごいものを使っている」という意識すら持たない。

自分なんかはその当時、ネットワークには中枢になるインフラが欠かせないと信じてたし、 中心を持たない、自己創発ネットワークなんて夢のまた夢だと信じてたけれど、 実のところ「夢」はとっくに実現していて、自分の真横でそれは普通に動いていて、 それを使っている当人達は、それがすごいことすら思ってなかった。

GEMSIS のシステムは、「サンダーバード」から発想したのだという。

サンダーバードのシステムは、 情報にノイズが乗ったり、システムが落ちたりすることなんて想定されてない、 誰もが良心的で正直で、仕事に対して宗教的な熱意を持ってた60年代の夢。

時代は進む。情報の純粋性を追求するやりかたは、 ノイズだらけの情報から欲しいシグナルを選択するやりかたへ。 システムの硬さを極めるやりかたは、不安定なシステムを複数重ねて、 冗長性で確保する考えかたへ。

今はもう、「落ちる」ことを想定しないシステムはありえないし、構造的に失敗する可能性のある、 良心みたいなあやふやなものに依存したシステムは、間違いなく腐って失敗する。

大学の救急教室の人達は、もちろん何年も前から試行錯誤を繰り返してきたんだから、 たぶん何か、「安いやりかたができない理由」を見つけたんだろうけれど、 できればその経過を教えてほしいなと思う。

「お金かからなくて、2年後じゃなくて明日から始められる代わり、 30 億円かけられないやりかたありますけれど、いかがなもんでしょう ?」なんて、 だれかが提案したとき、上の人達はどんな振舞いをしたんだろう ?

2008.03.19

インターフェースの身体性

「有限性、適応性、自律性を持った構造化インターフェース」としての、身体の面白さについて。

身体が生む小さく浅い世界

人工知能は計算的に「深い」アルゴリズムを使うから、外乱に対して弱い。

入力のわずかな変動が、出力においては大きな、予測不可能な変動を生んでしまう。 計算的に深いプログラムは、ノイズの少ない、シミュレーション世界では上手に 機能するけれど、実世界では役に立たない。

大きすぎる問題は、解くことができない。実世界という、あいまいで変動幅の大きな問題は、 AI にとっては要求される計算量が莫大になりすぎてしまう。

対象とする問題を強引に「小さく」できるなら、計算量をそれだけ減らすことができる。

「脳単体」としては存在し得ない人間の脳は、「身体」というインターフェースを介して世界と接する。 身体は、知性と世界との界面に介在して、脳からみた見かけ上の世界を、 小さくすることに成功している。

身体は物理的な制約を持っている。

水晶体を通じて網膜に入ってくる情報量は莫大だけれど、 網膜は情報の削減を行っている。網膜には「見たいものしか見えない」制御が かかっているし、眼球に対して全く動かないものは、認識され難い。

関節の自由度や軟らかさ、手足の長さのようなパラメーターは、 身体を、「こう歩くしかない」ありかたでしか効率的に歩けないよう束縛している。 スライムみたいな構造に比べれば、人体というのは圧倒的に不自由だけれど、 動作の制御に要する計算量は、それだけ少なく済んでいる。

脳から見た世界は、AI とは異なっている。身体を持たない、莫大な情報量を持った 実世界と、直接対峙することを強制されるAI と違って、身体を通じて脳から見える世界というのは、 少ない情報量と、少ない制御で介入可能な、「小さくて浅い」構造になっている。

人工知能研究者が志向する「実世界で動く AI」は、 本物の脳に比べて、最初から不利な条件を背負わされている。

差分抽出器としての身体

身体という構造は、世界から与えられる「外乱」によって変形して、 それまでの形と、外乱を加えられた後の形とを比較した「差分」を抽出する。

身体が行う「動作」は、たぶん関節の差分情報として記録されている。

何か動作を行う際には、中枢は、その差分情報を身体に入力する。 身体は、今ある環境に対して自らを安定させようと適応するから、 身体がおかれているた環境と、中枢から送られた差分情報とは、身体を通じて統合され、 新たな状況に適応した結果が、「動作」として出力される。

最も簡単な「身体系」として、筋肉と健、関節を仮定する。

  1. 筋肉の役割を持ったモーターに、腱の代わりにバネをつないで、 関節にそれらを固定しただけ。関節には角度センサーがついていて、 モーターは、関節の角度を一定に保つよう、センサーからフィードバックを受ける
  2. 外から関節を曲げると、バネが引き伸ばされて、関節は曲る。センサーは角度の変化を出力する。 モーターに差分情報が入力されて、関節は元の形に戻ろうとする
  3. 中枢は、「角度の差分情報」として、動作を指示することになる。モーターは動いて、 関節に加わる力と、バネの張力とが安定した時点で、関節の角度が決まる
  4. バネを持った、モーターの力に上限がある「関節」は、バネに加わる張力が最小になるよう、 状況に応じて自らの形態を変化させる

いくつかの関節を統合して、これらに周期的に「差分情報」を 加えていくと、歩行が発生する。足に入力される歩行情報は、環境が変化しても変わらないのに、 関節は状況に適応するから、外からそれを見ると、 あたかも複雑な制御を行っているかのように見える。

「学習」もまた、身体という差分抽出器を通じて行うことができる。 動作を「差分情報の集積」として直接記述するのは困難だけれど、 リハビリテーションのように、身体を外部から動かせば、 身体はそこから差分情報を抽出して、中枢に記録する。

外乱から差分を抽出して、差分から動作を創造する。 身体というものは、こんな双方向性を持っている。

身体は、実世界から与えられる外乱と、中枢からの指示とを区別できないし、 またその必要もないのだと思う。

知性にとって身体とは何か

恐らくは知性を表現する、あるいは感じるためには、 身体というものが欠かせない。「ソラリス」みたいな、 「身体を伴わない知性」を作るのは難しいし、 そんな存在が本当にいたところで、人にはそれを認識できない。

身体を持たない、純粋な人工知能は、世界を記述可能なものとして規定して、 実世界に存在するすべての情報を「見える」ものとして取り込もうとしする。 AI の振舞いを細かく制御するほどに、情報の粒度を上げるほどに情報は増えて、 計算量はますます多くなる。

身体を持つロボットにとって、制御装置から見える「世界」とは「身体」。 ロボットは、身体を上手に動かすことだけを目的にすればいいから、 制御の対象は記述可能で、しかも十分に小さい。

視覚や触覚も、「身体的な何か」を通じて知覚される。

眼球は画像を認識するために、常に細かく振動していて、画像は動作を通じて 知覚されるし、触覚もまた、「なぞり動作」を通じて、はじめて知覚され、出力される。

外界とのインターフェースに「身体的な構造」を記述することが、きっと役に立つのだと思う。

何かのサービスを提供するときなども、外乱に対して安定な状態を志向する、 自律的な、適応的な、そんな構造を仲介させることで、ユーザー側からも、 こちら側からも、「身体インターフェース」を介して同じ立場でやりとりができる。

そんなサービスは、ユーザー側からは、恐らく「知的に」見えるはずだし、 サービスを提供する側からは、顧客がどんな振舞いをしようとも、 予期せぬ出来事が原理的に発生しない。

身体に相当する構造を持たない組織とか、職業は、たぶんインターフェース部分でのトラブルを 避けられない。医療とか、教育とか、あるいは「役所仕事」に代表される業界にはこの構造が 欠けていて、ユーザー側からそれを見ると、すごく頭が悪く見えるし、こちら側もまた、 ユーザーの振舞いを予想できないから、トラブルを回避できない。

ロボット工学の人達がいくら頑張ろうとも、身体は本来、医療が独占している分野。 新しい考えかたとかサービスのありかたなんかは、あるいはこれから、 きっと整形外科医あたりから出てくるのだと思う。

2008.03.15

錯覚が知性を感覚させる

フランスのテレビ番組「シューティングゲームの歴史」の中で、 プレイヤーの人が「弾幕を介して、開発者の人とコミュニケーションしている」なんて喋ってた。

チェス専用のコンピューター「ディープブルー」と対戦したロシアのチェスチャンピオンは、 「相手は機械なのに、まるで異質な知性と対決しているようだった」と感想を漏らした。

知性について。

知的であること知性を感覚すること

自閉症の人は、しばしば十分な知性を持っているにもかかわらず、 「空気を読む」とか「相手の感情を読む」とか、相手に心理を観測するのが苦手なんだという。

自閉症の動物行動学者がいて、人間の感情は分からないのに、 動物がどうしてそんな行動をするのかはよく分かるんだという。 実際に動物を安心させる道具を設計したりして、自分の観察を実証している。 その人はたしかに知的であって、たぶん嘘もついていないんだけれど、 やっぱり人間の感情のことは、よく分からないらしい。

知性とか、感情は、それ自体として「ある」のではなくて、 それを観察した当人の、頭の中に「発生する」。

「本物の」知性は存在しない。知性というものはたぶん、「錯覚という感覚」を経由して、 初めて観測される概念だから。

「チューリングテスト」の勝利戦略

「ある機械が知的かどうか」を判断する試験、「チューリングテスト」をパスした機械は、 まだ存在しない。人工知能を研究する人達の目標。

コンピューターの能力どれだけ向上しても、それだけではたぶん、 テストにパスすることはできない。

「知性」というものは、観測者の中に発生する。 観測を必要としない、「知性それ自体」 はそもそも存在しない。

知性を感じさせる、チューリングテストに合格する機械を作る戦略には、 「機械の性能を上げる」やりかたと、「知性を感覚する閾値を下げる」やりかたとがあって、 後者抜きの戦略をいくら追求しても、その延長線上に「勝利」はない。

どれだけすごい機械を作っても、すごさが観測者にとって既知になった時点で、 知性の感覚閾値は極めて高くなる。「コンピューター」という概念が人類にとって 既知になった現在、性能向上戦略は、勝利にほとんど貢献できなくなっている。

表情の役割

ソニーが作った音楽ロボット「Rolly」には、「顔」に相当するパーツがない。 イラストレーターの安倍吉俊氏が、「Rolly には顔か、顔を連想させる何かを 設定すべきだった」なんて書いておられた。

目や口は、目や口は、コミュニケーションの本質ではないけれど、 人間は恐らく、そんな記号を発見することで、 「これはコミュニケーションを行うものなんだ」という思考をはじめる。

機械が発信するシグナルは、単なるノイズにしかすぎないけれど、 それが「機械がコミュニケーションを求めている」と認識されたとき、 その人はきっと、機械の中に知性を見出す。

機械にとって、「顔」というものは必要ないけれど、それを観察する人間側にとっては大切。 「顔を持っている」存在を前にすると、恐らく知性を認識する閾値が下がる。

知性は「ある」のではなく、「錯覚」される。 機械の絶対性能は、知性の有無には関係ない。

対話は日常をフックする

「シーマン」とか「アイドルマスター」みたいな、対話要素が入ったゲームから 知性を感覚するのは不可能だと思う。 形態素解析が完璧になって、プレイヤーが自分の言葉で喋れるようになってもなお、 プレイヤーはたぶん、「よくできた機械と喋った」という認識を越えることはできない。

対話みたいに高度な技術を作らなくても、シューティングゲームとか、 コンピューターを相手にしたチェスみたいな、単純なメディアから知性を見出す人はすでにいる。 コンピューターチェスに知性を見出したのは、グランドマスターただ一人だけれど、 弾幕のむこうに「必死さ」とか「殺意」とか、「何か」を感覚した人は、たぶんけっこう多い。

状況設定が大切なんだと思う。

スタンフォードの監獄実験みたいに、適切な環境と、その状況における役割さえ 与えられれば、人間はいくらだって卑屈になれるし、残忍になれる。

最強のコンピューター「ディープブルー」を前にしても、ほとんどの人は、 そこから知性を見出せない。チェスが相当に上手な人であっても、 やっぱりたぶん、「強いコンピューターですね」という感想しか出て来ない。

ディープブルーに知性を見出したグランドマスターと、それ以外の多くの人とを分けたのは、 「人類代表」という状況設定。ディープブルーと対戦したグランドマスターは、 たとえ本人がそう望んでいなくても、みんなから勝手に「人類代表」の状況を押し付けられて、 文字どおり人類の希望を背負って戦ってた。

それは日常生活ではありえないから、たぶん「錯覚」の閾値は大きく下がっていたはず。 ディープブルーはたしかにすごかったのだろうけれど、恐らくそれだけでは知性は感覚されない。 知性に大きく貢献したのは、ディープブルーそれ自体よりも、「人類対コンピューター」という状況だった。

対話は日常をフックする。対話メディアを用いたコミュニケーションは、 だから観測者を日常から引き離せないから、「コンピューターに知性はない」という 常識が観測者を縛って、知性の感覚閾値を引き上げてしまう。

日常を取り払って、「本気」に引きずり込まれる状況設定をちゃんと作れれば、 知性を感覚する閾値は大きく下がる。シューティングゲームみたいに、 絶望的な役割をプレイヤーに割り振ったり、ドーム没入型ディスプレイみたいに、 プレイヤーの周辺視野に至るまで「乗っ取る」ことができたなら、 ごく単純なシグナル交換は「コミュニケーション」と認識されて、 誰もがそこに知性を見つけるはず。

「錯覚閾値」の考えかた

知性は要するに、実体を持った「アルゴリズム」としてのみ存在する。

アルゴリズムは動作しないと観測できない。アルゴリズムに状況が 入力されて、下された判断が、状況に投影された影絵として観測される。

観測されたアルゴリズムの投影は、さらに観測者により「錯覚」を受けて、 そこで初めて、知性の有無が査定される。

人工知能に取り組む人達は、アルゴリズムの改良に邁進する。知性にとっては、 それはもちろんもっとも大切なものだけれど、他にもやるべきことはある。

アルゴリズムが投影される「状況」を記述して、観測者の「錯覚閾値」を下げるやりかた。

知能が高い自閉症の人は、錯覚閾値が高すぎるから感情が読めない。 その代わり、状況を正確に読めるから、「動物の感情」は分からなくても、 動物を正しく行動させることはできる。

ディープブルーと対峙したグランドマスターは、相手が統計を利用したコンピューターだと 分かっていてもなお、人類代表という状況設定が錯覚閾値を下げて、そこに知性を見出した。

「認識」と「錯覚」とは、たぶん区別ができない。

音は本来「耳」が知覚するものであって、「それが鳴っている」という知覚はすでに錯覚。 視覚も同じ。「見ている」場所は網膜であって、「そこ」という考えかた自体、 頭の中に描いた世界に、網膜からの入力を無理やり当てはめて、錯覚を行っている。

人類の運命背負ったセカイ系の状況設定とか、周辺視野まで乗っ取った没入ディスプレイとか、 会話や顔グラフィックを介さないシグナル交換というものは、 全て「錯覚を誘発する」ベクトルに乗っかる何かであって、 恐らくそんなやりかたの延長線上に、「知性の認識」があるんだと思う。

2008.03.13

「恋愛シューティング」実装案

カトゆー家断絶の中の人が、twitter で「恋愛SLG 」 という言葉を使っていた。「恋愛STG」はないのかな、と思って検索したら、案外なかった。考えた。

状況設定

AI とプレイヤーとが共同して、コミュニケーションしながら敵のボスを破壊する。

パイロットをプレイヤーに設定するのは難しい。 それは伝統的なシューティングの文法だけれど、それをやってしまうと、 「機械に任せるぐらいなら自分で避ける」というプレイヤーの声を無視できなくて、 AIを導入する必然性がなくなってしまう。

「AIとの共同戦闘」という状況にある程度の必然性が出てくるのは、 人工衛星のオペレーション。

地球に近いとき、人工衛星は、 ある程度のマニュアル操作が可能だけれど、火星探査機のプロジェクトになると、 地表から信号送って、探査機が応答するのに8分近くかかる。リアルタイムの操縦なんて 望めないから、人工衛星は周囲の状況を読んで、ある程度自分で行動しないといけない。

シューティングゲームのお約束で、「敵」は地球外から攻めてくる。 地球守ってた軍隊は、とりあえずなす術もなく破壊されてしまう。

自機になるのは、人類の最後の希望託した無人戦闘機。プレイヤーは開発担当の科学者となって 地球に残り、自機の操縦と、搭載されたAIの教育とを担当する。

ゲーム開始の段階では、敵兵器に関するデータとか、 敵の思考回路みたいなものは何一つ明らかになっていない。 AI は、最初はほとんど白紙の状態で、敵との戦いを通じて「教育」する必要がある。

ゲーム開始直後、自機が地球軌道近くにいるときには、プレイヤーは普通に自機を操縦できる。 軌道上で、敵の最前線部隊と戦いながら、プレイヤーは自機を操作して、同時にAI を教育する。

敵の本拠地と目される場所は、火星軌道の先。自機が地球を離れていくと、 操作にはだんだんと遅延が生じて、敵弾を避けたり、適切なタイミングで武器を使ったりといった ことが難しくなる。プレイヤーはだから、後半面になると大雑把な操作しかできなくて、 最後はひたすらに、AIに応援メッセージを送ることになる。

プレイヤー設定

8方向レバー3ボタン。自動連射のショットボタンと、「良し」、「ダメ」のメッセージをAIに送るためのボタン。

ボムはAIの判断。プレー開始前にAIを選択可能で、臆病なAIを選ぶと、ちょっと危険な状況になると ボムを消費されて、大変だったりする。

前半面では、プレイヤーは自機を操作しながら、AI の教育を行う。AI は自動的に弾避けを 行うけれど、それが戦略的に正しければ「良し」を、間違っていれば「ダメ」のメッセージを送って、 犬に芸仕込むときみたいに、AI に正しい避けかたを教えこむ。

AI には「機嫌」パラメーターがある。「良し」を連発すると元気になって ショットのパワーが上がるけれど、「ダメ」を連発すると拗ねたり落ち込んだりして、 ショットのパワーが激減したり、機体制御を放棄したりする。

後半面でAIが拗ねるとゲームがつらくなるし、ほめちゃいけないところでAI の御機嫌を 取りすぎると、AI はどんどん馬鹿になる。

機嫌がよくなりすぎたAIは、どうでもいい場所で勝手にボム消費したり、 ボスを目の前にした頃になって息切れしたりする。 教育も大切だけれど、テンション管理はもっと大切。

AI の設定

AI のオート避け機能は、たとえば自機の周囲 10 ドットに「縄張り」を設定して、 その中に弾が入ったら発生する。一定の待ち時間のあと、進入方向の反対側、 あるいは直行する方向に、一定距離だけ、自機が勝手に移動するイメージ。

ゲーム開始時点で、AI は複数の候補から選択可能で、それぞれのAI には「性格」が設定されている。

「臆病な」AI は、「縄張り」が大きく設定されていて、敵弾が近づいたらすぐ逃げ出す。 プレイヤーは教育を通じて、AI に勇気を持たせると、縄張りはだんだんと小さくなって、 「ドット避け」ができるようになる。

「おっとりした」AI は、敵弾が縄張りに入ってから、自機が動作するまでの時間が遅い。 動きが緩やかだから、こんなAI には、人間側プレイヤーの意志を伝えやすいけれど、 後半面になるとつらくなる。反応時間が早くなるように鍛えないといけない。

「方向音痴」の AI は、敵弾が近づいてきたとき、正しい方向に避けられない。 正しさは、周囲の弾幕密度と、プレイヤーがレバーを倒した方向を利用して、 ベイズ予測みたいなやりかたで決定されるけれど、実際の自機の動作は、 ここにランダムな偏差が加えられる。鍛えると、だんだんと偏差が減って、 正しい動きができるようになる。

「がさつな」AI は、敵弾を避けるときの動作量が大きい。 ちょっと避ければ十分なところでも大きく動いてしまうから、地形に追い込まれやすいし、 プレイヤーの意図を伝えにくい。鍛えると動作は必要最小限に、「おしとやかな」AIに成長する。

AI には他に「切れやすさ」と「テンションの高さ」というパラメーターがあって、 それぞれ「駄目」を連打されたときの拗ねやすさと、「良し」を連打されたときの テンションの上がりやすさに相関する。両方高いと、キレやすくてハイになりやすい、 すごく扱いにくいAI になるし、両方低いと、素直な性格になるけれど、 いざというときに「良し」を連射しないと、ショットパワーが上がらなかったりする。

こんなパラメーターを AI に実装すると、「おっとりして方向音痴」、 「気が回るけれど落ち込みやすい」、「臆病な小動物」、 「無個性」みたいな、AIの性格設定が作れる。

共感要素

作戦機体の生還は考慮されていない。

自機には片道分の燃料しか積んでいないし、ラスボスは固くて、 最後は自爆しないと倒せない。

プレイヤーは、AI とコミュニケーションしつつ、AI を成長させつつ、 事態をAI にとって最悪の状態へと追い込んでいくことになる。

AI の「個性」は、戦いの状況と、プレイヤーのボタン操作により創発され、 変化する。データは常に地球側に送信されているから、 ゲーム開始直後に自機が撃墜されたときには、 AI は地球でよみがえり、事実上不死になっている。

ゲームには、いくつもの「帰還不可能ポイント」が設定されている。

面が進むほどに電波は遠くなって、データにはエラーが生じてしまう。 帰還不可能ポイント越えるごとに、「五体満足で帰れる」状態は「首から下を捨てれば帰れる」になり、 そのうちデータを満足に送ることもできなくなって、最終面に入った頃には、 撃墜されるとAI の個性は全て失われ、「死んで」しまう。

プレイヤーが熟達するほどに、自機AI の生還可能性は落ちていくけれど、 AI はもちろんそんなこと知らないから、叱られれば落ち込んで、 ほめられれば機嫌を直したり、喜んだりはしゃいだりする。

最後は「2010 年」風味。

硬すぎるラスボスを前に、「博士」であるプレイヤーは、AI に「特別な攻撃」を指示する。

直前になって、AI からは最後の通信が入る。

「博士。私は死ぬのですか ?

プレイヤーが「そのとおりだ」と答えれば、 AI は「本当の事を教えてくれてありがとう」というメッセージを 残して、笑顔で自爆する。

プレイヤーが「そんなことはない。データは回収できる」と嘘をつくと、 AI は「博士を信じています」なんて、泣き笑いの顔を見せながら、やっぱり自爆する。

言葉を介さないコミュニケーションのこと

言葉や台詞などなくても、感情の交換は十分にできると思う。

機械とのコミュニケーションを物語の核にするやりかたとして、人型ロボットを 登場させるとか、喋る戦闘機を設定するのは分かりやすいけれど、つまらない。

感情は本来、相手から伝えられるものではなくて、自らが対象に「投影」して、「発見」される。

状況設定さえ上手にできれば、メーターの数字やボディのきしみ、動きの切れ、 ショットのパワーみたいな要素を変化させるだけで、プレイヤーはそこに「感情」とか「根性」 みたいな表情を読み取って、機械とコミュニケーションをはじめる。

火星探査プロジェクト「マーズポーラーランダー」は、探査機が着陸寸前まで行ったのに、 火星上空で故障して、墜落した。NASA の人達は、必死になってポーラーランダーの信号拾おうとして、 どこかの天文台が、ありえないタイミングでポーラーランダーの「声」を受信した。

結局それは間違いだったんだけれど、あのときの NASA の技術者は、 絶対にポーラーランダーを擬人化して考えてた。墜落して、 半身不随になりながらも火星の地表から地球を探して、 必死の思いで「自分は生きてここにいる」というメッセージを送信する ポーラーランダーを想像して、泣きそうな思いで通信ログ読んだと思う。

このゲームは終盤、最後の帰還不可能ポイントを越えるところで撃墜されれば、 プレイヤーはもう一度、AIと最初からやりなおせるし、自爆命令なんて出さずに済む。 全人類の運命と、AI の運命との選択を、プレイヤーがわずかでも悩んだら、 きっと面白い体験ができるはず。

2008.03.12

アートとクラフト

「クラフト」というのはまず素材があって、そこから何が作れるのかを考える立場。

「アート」というのは、まず作りたいものがあって、その表現手段として、 素材が選択されるやりかた。

技術はたぶん、「アート」から始まって「クラフト」へと移行する。 成熟して、確立した技術が、今度は「素材」となって使われるようになる、 そんな流れがあるんだと思う。

ボブの絵画教室

アメリカの画家ボブ・ロスは、「アーティスト」ではないんだそうだ。

人気番組だった「ボブの絵画教室」の中で、ボブは「簡単でしょう?」を くり返しながら、すごいスピードで風景画を仕上げていく。 30分ほどの番組なのに、出来上がった風景画はたしかにすばらしくて、 何よりも筆を動かすボブの手に迷いがなくて、あの番組それ自体が芸術なんだと思ってた。

ボブ・ロスの絵画はきれいで、絵を描く行為それ自体にも娯楽としてのおもしろさが 備わっているのに、伝統的な芸術家は批判するらしい。

ボブの絵画は、あくまでも表層的な手法できれいな絵を描くやりかたであって、 画家の内面に、何か描きたい物があって、それを表現しているわけではないから、 あれは「クラフト」ではあっても、アートではありえないのだと。

「そんな立場を取らないと食べていけない人がいる」というのは、何となく理解できるけれど、 そんな芸術なら、とりあえず自分はいらないかなとも思う。

中国には、芸術家の贋作で生計を立てている村がある。

村一番の「ゴッホ名人」が取材を受けて、カメラの前で「ひまわり」を描いていた。 もう何百枚も同じ絵を描いているからなのか、筆には迷いがなくて、 素人目にはいかにも「ゴッホっぽい」、スタジオの専門家も「いい絵ですね」なんて コメントしてた。

「ゴッホはいいですね。描きやすくて

工芸作品としてのゴッホは、「ゴッホ名人」のこの言葉がすべてなんだと思う。

芸術作品としてのゴッホの付加価値は、あの時代だったとか、奇行が目立ったとか、 自殺したとか、あとはもうひとつ、あんな作風を初めて作ったとか。

芸術を評論する人達は、バックグラウンドの付加価値にはあんまり言及しないけれど、 作家としてのゴッホを理解してるのは、ゴッホに何億円もの値札をぶら下げて大儲けする評論家なのか、 何百枚もの「ひまわり」を描きつづけている「ゴッホ名人」の中国人なのか。

ゴッホが今生きてたら、やっぱり中国人と握手する気がする。

頭を使うと予後が悪くなる

近所で開業している先生から、心臓悪くした人がよく紹介される。

みんな同じように血圧高くて、同じようにちょっとだけ血糖高くて、 たいてい腰痛持ち。みんなまるで、判で押したように同じような患者さんなのに、 処方される薬はみんな違う。

入院依頼があって入院してもらって、たいていの場合、薬を全部止めると治る。

心臓治療に使う薬は、この10年ぐらいでほとんど確立している。原疾患が 心筋梗塞だろうが弁膜症だろうが、拡張型心筋症だろうが、使う薬は全く同じ。 薬もよくなって、適当に出しても何となく効いてくれるから、量を調整する必要もない。

自分が普段心不全の患者さんに出している薬は、9割までが全く同じ処方で、 量も同じ。調整する人もほとんどいない。頭使って頑張ると、 病棟が混乱するので、最近はかなり意識的に、頭を使うことを放棄するようにしているけれど、 結局それで問題は生じない。

自分が診察している患者さんは、だから点滴も一緒で、飲んでいる薬も全く同じだから、 原理的にはトラブルが発生しない。患者さん間違えても、同じ薬が行くはずだから。

それでも他人様が作ったクリニカルパスを受け入れるのにはものすごい抵抗があって、 ちょこちょこ書き替えては顰蹙買ったりしているのだけれど。

アートとクラフトのこと

技術は発見されて成熟して、確立したあと、今度は「素材」となって、 次世代の技術者に立ちはだかる。

素材化した技術を前にした技術者は、「アーティスト」として、素材を制圧する道を選ぶのか、 それともクラフトマンとなって、素材を受け入れ、素材に使われる道を選ぶのか、 そのとき自らを試される。

クラフトを志向する技術者は、素材に敬意を払う。確立した、「つまらない」技術を組み合わせて、 信頼性の高いプロダクトを作ろうと努力する。クラフトを極めていくと、 出来上がる製品は「ばらつき」が少なくなって、より「つまらなく」、 より「ありきたりな」、あたかも機械で作ったような方向へと進化する。

アートを志向する技術者は、何よりも「内なる情熱」を持ちつづけないといけない。 アーティストには、まず作りたいものがあって、その情熱に動かされる形で 素材を「制圧」して、素材上の何かを作らないといけない。大切なのは 「未踏」であって「未知」であることだから、もちろん信頼性なんてないけれど、 新しさが受け入れられれば、その技術者もゴッホになれる。

恐らくはもっとも無残な状態が、芸術引き受けるだけの才覚ない人が、 工芸品で十二分に間にあっている場所で、「芸術家」を気取ることなんだと思う。

それが素人絵画なら、ただのかわいそうな人で済むけれど、 医療みたいな現場では、「芸術家」はしばしばとんでもない失敗をしでかす。

ベテランはベテランなんだからこそ、「医療は本来ものすごくつまらない事のくり返しなんだ」 ということを、自ら認めるべきだと思う。

2008.03.11

技術文化と官僚主義

技術にはたぶん様々な立ち位置を持った文化があって、 属する文化圏が異なる技術者同士は、もしかしたら会話が成立しない。

文化の壁を乗り越えるには、「市場主義」と「官僚主義」、両極端のやりかたがある。 それぞれ欠点が指摘されるけれど、恐らくはたぶん、人情とか、チームワークみたいな 欺瞞ワードで文化を越えるやりかたよりも上手くいく。

「NASA を築いた人と技術」という本の感想文。

マーシャル宇宙飛行センター

大戦後、ドイツからアメリカに渡ったフォン・ブラウンをはじめとする ドイツの技術者は、マーシャル宇宙センターでロケットの開発を続けた。

ロケット黎明期。まだ科学的に検証されていない、科学者が解答不可能な状況は たくさんあって、ドイツ人技術者は、そんな中でも「技術的推量」を行って、 即興的な判断を積み重ねて、新しい技術を作り出していったのだという。

月探査の計画が持ち上がって、今までに無い巨大なロケット「サターンⅤ型」の 計画がゴダード宇宙センターに持ちこまれたとき、プロジェクトを立ちあげた 空軍将校は、技術者が即興的に開発を続けるやりかたに批判的で、 科学的な、統計的な手法に基づいたリスクコントロールを主張した。

マーシャル宇宙センターの技術者は、「叩きあげ」の人が多くて、 技術屋同士の信頼とか、プライドみたいなものを積み重ねることで 機械の信頼性を保つやりかたを好んだ。テストにしても、まずは 「部分」が機能することを確かめて、「全体」を組むのは最後の最後。 統計学者がそんなやりかたを止めるよう進言しても、聞かなかったらしい。

実際問題、サターンロケットの開発現場では、統計学者が保証したやりかたが 失敗したり、統計学者が推奨したやりかたをフォン・ブラウンがひっくり返して、 結局そちらのほうが正しかったり。

技術というのは、まずは経験工学的なやりかたが先行して、それに科学が追いついて、 それで初めて、統計学者が成功可能性を論じることができるようになる。

技術黎明期、フォン・ブラウン達生粋の技術者のやりかたは、 もしかしたら統計学者のはるか先を行っていたけれど、 後年、アポロ計画が始まって、解決すべき問題が数を増していく中で、 組織にはだんだんと文書が増えて、今みたいな官僚的なやりかたが主流になった。

ジェット推進研究所

今でも火星を動き回っている「マーズエクスプローラー」を作ったジェット推進研究所は、 カリフォルニア工科大学直属の技術者集団。

大学技術者は複雑な技術、独創的な技術を好んで、信頼性に対しては、けっこういい加減だったらしい。 信頼性を確認するためのテストにしても、他の研究所はコンポーネントごとの試験を重ねて、 最後に全体を組んで動作確認を行うのに、ジェット推進研究所は、最初から全体を組んで、 それで動作すれば「それで良し」という方針。

ジェット推進研究所が請け負った月探査のプロジェクトが何回か失敗した頃、 技術の未踏性を追い求めて、信頼性を重視しないジェット推進研究所のやりかたは批判されて、 NASA 本拠地から、システム工学畑の人達が乗り込んできた。

ジェット推進研究所が作り出したプロダクトは不必要に複雑で、 「故障シナリオ」が多いといった問題を抱えていた。 生存確率を上げるために複数の装置を積んでいても、お互いが電気的につながっていて、 片方が故障すると「共倒れ」を引き起こすといった問題も指摘されて、 信頼性をあげるための、もっと「つまらない」やりかたを求められた。

マーズエクスプローラーを指揮した人の本を読むと、最近のジェット推進研究所の技術者は、 信頼性を追い求める、極めて官僚的なやりかたをする人たちみたいな描写が出てくる。 宇宙空間みたいな取り返しのつかない場所で信頼性を確保するために、技術者が長年研鑚を 積んできた結果が、今のようなやりかたなのだとも。

ゴダード宇宙センター

ゴダード宇宙センターは、科学者の集まり。NASAが管轄している他の研究所では、 研究所に一生を捧げる技術者が多いのに対して、ゴダード宇宙センターの科学者は、 ゴダードのことを通過点ととらえる人達が多かったのだという。

ゴダード宇宙センターは、「エクスプローラー」というごく小さな衛星をいくつも打ち上げて、 天文学に関する堅実なデータを取っていた。

ロケット技術がある程度進んで、NASA本拠地は、もっと大規模な「展望台」衛星プロジェクトを 提案したけれど、ゴダードの人達は、それに難色を示した。

科学者は本来保守的で、わが道を行く文化。大型で複雑なプロダクトよりも、 むしろ既製品を活用して、安価に、かつ個人的に物事を進めることを好んでいたらしい。 NASAが提案した大型衛星は、たしかにメリットも多いけれど、複雑で、失敗の可能性もあって、 何よりもお互い「相乗り」を必要とする部分が、科学者の振る舞いと相容れなかったのだという。

大型衛星の開発が難航する中、現場からは「もっとちっぽけな衛星を使わせてほしい」とか、 そもそも人工衛星は必要なくて、成層圏まで届くロケットだけで十分だとか。地味な意見。

衛星を打ち上げると、年の単位でデータを取らないと論文にならないから、 大学院生集まらなくて大変なんだとか。

文化の壁を乗り越えるやりかた

確実さ極める人達と、技術に芸術性を求める人達と、技術を単なる道具と考える人達と。 NASA というのはいろんな文化を内包する巨大な組織で、それをまとめるNASA 本拠地が、 ものすごく官僚的な組織として描写されるのは、何となく分かる気がする。

いろんな文化を取りまとめる共通言語というのは、結局のところ「お金」という市場文化でなければ、 杓子定規な、「よさ」とか「正しさ」も自ら定義する、規格化、官僚化したやりかた。

自分なんかが志向している「規格化された医療」で救急を回すやりかたは、 いろんな文化圏に属する患者さん達に対して、 官僚的な、マニュアルで作った態度をインターフェースとして押し出すことで、 文化の壁を越える試み。

恐らく対極にあるやりかたは、自由経済ルール。アメリカ流に、いつも笑顔で、 その代わり、笑顔で10万円請求するやりかた。お金を払える人には必ず親切を提供するけれど、 お金を支払わない人は、そもそも笑顔までたどりつけない。

この本の中ではもうひとつ、日本のロケット開発黎明期のことを取り上げている。

日本の技術者は、みんなチームワークで価値観を共有できたから、 ものすごく小さな組織であったにもかかわらず、極めて大きな成果をあげたなんて 賞賛してた。ロケット落ちてるのに。

「みんな同じ価値観」という村社会ルールは、やっぱりどこかで限界に突きあたるのだと思う。 上手に回ってた村社会というのは、本来どこかに「異物」を排除する装置が 実装されていて、「ムラ」の文化に乗っかれない人は排除される。排除機構のおかげで、 ムラの中では信頼コストを低くできたから、低いコストで大きな成果。

社会が大きく、あるいは、「きれいに」なっていく中で、たぶんそうした排除装置は 機能できなくなった。

ムラ社会ルールの中で、「チームワーク」とか「平等」なんて状態を 維持してきたのは、異物の排除機構。異物を排除した「結果」を 描写する言葉であったこんな欺瞞ワードは、今ではもちろん、それを維持できなくなって、 欺瞞は達成すべき目標になって、現場には変な利権が跋扈して、もはや回らない。

今さら「村八分」再開するのは無理なんだから、暖かさとか平等とかチームワークとか、 欺瞞ワードで思考停止するの止めないと、社会のインフラ維持するの無理だと思った。

2008.03.06

ドーム型の没入ディスプレイがほしい

ドームの内面全てに映像が出力されるような、没入型ディスプレイが 家庭に普及したら、きっと面白い。

今のテレビとか、パソコンは平面ディスプレイ。もう何十年も前から 当たり前のようにそこにあって、薄くなったり大きくなったり。改良は続けられてきたけれど、 平面は「窓」にしかなれなくて、「向こう側」に行くためのドアにはまだ遠い。

未来世界のこと

もちろん未来になっても、川を渡るときには橋を使うし、 車はやっぱりタイヤで走ってるんだろうけれど、 SF はそれではつまらない。

SF 世界のディスプレイは、空中投影される画面だったり、あるいは立体映像だったり。 それは正しい未来予知だけど、相手を「向こう側」に知覚するデバイスは当たり前すぎて、 平面ディスプレイの考えかたから自由になっていない。

社会の窓として、平面ディスプレイは未来でも受け入れられるのだろうけれど、 SF はやっぱり、そんな既成概念に負けちゃいけない。

平面ディスプレイは実用上十分で、それが無い光景なんて想像もつかないぐらい、 それがある風景は日常になっていて、もはやそこから「驚愕」を生み出せない。

ドームディスプレイは邪魔なことこの上なくて、「ながら見」を徹底的に拒む。 映像を体験するという、ごくつまらないことだけのために、 その人の全リソースを要求する、欠点だらけのデバイス。

平面に比べて全てが劣る、その代わり、ドームディスプレイは、 今までの平面ディスプレイでは絶対実現できない、 「没入」という機能を当たり前のように実現できる。

ドーム映像の没入感はすごく分かりやすくて、みんなびっくりする。 「驚愕」にはきっと、新しい何かが隠れている。「そんなものには意味がない」だとか、 「昔ながらのやりかたのほうが優れている」とか、たいていそんな考えかたは、 最初は批判で迎えられるんだけれど。

こんなことができる

直径3m ぐらいのドームを、極低圧の空気で膨らませて、液晶プロジェクターを周囲に4台、 それを制御する本体と、サラウンド音声だすスピーカーとをセットにして、 ゲーム機としてとりあえず3000万台。大量生産前提で、 思い切りコストが下げられれば、それはきっと、新しい映像インフラになる。

こんなふうに見える。

  • ドームディスプレイを挟んだテレビ電話は、今までとは全然違う体験ができる。 たとえば 4 方向向いたカメラを使って、ドームに入ってオンラインになると、 次の瞬間、自分は相手の部屋に居る。2人ともドームに入ると、人間以外何も映らないから、 バーチャル世界みたいな「壁紙」を、わざわざ映す必要が出てくる
  • ドームディスプレイに対応したアダルトビデオなんかがあったら、すごく奇妙なことがおこる。 自分がどこか知らない部屋に居て、そこには自分以外に 2 人、裸になった男女がいて、 自分のことなどおかまいなしに、いかがわしいことをはじめる。すごい疎外感が味わえる
  • 一人称視点のゲームは、もちろんすごく面白くなる。後ろから敵に襲われたり、 天井からモンスターが降って来たりという表現が、ドームだと当たり前だから
  • 没入ディスプレイで、ゲームをずっと続けていたら、今以上に現実との境目が曖昧になる。 セカンドライフみたいな架空世界は息を吹き返す。あれは空を飛べるから、 とんでもないことがおきるかも

やっぱりゲームをしたい

全周に映像が出るドームスクリーンの中で、空中戦を楽しんだりしたい。 ホラーゲームなんか、「音が聞こえて隣を見たら、そこにジェイソンが座ってた…」なんて映像が 簡単に作れる。「血の雨」とか本当に上から降ってくるから、 きっと今までとは比べものにならないぐらい怖い体験ができるはず。

ただ単純に、海の中にカメラ沈めた映像見るだけでも、 「そこにいる」体験できて、すごく面白いと思う。 カメラを4方向に向けて並べれば、「世界」それ自体を切り取れる。 そんなカメラを積んだ車を世界のあちこちに走らせたり、 飛行機とか潜水艦とか、ライブ中継する番組あったら、 それを漫然と眺めるだけで、一日潰れる。

ドームディスプレイでゲームが発売されるようになったら、 どこか架空の町に「住んで」、郵便局員をやってみたい。

スーパーに牛乳を買いに行ったり、銀行でお金を下ろしたり。架空の町で日常を過ごして、 友達と狩りを楽しんだり、町を歩くパレードを盛り上げたりできたら、 それはきっと、とても素敵なことだと思う。

2008.03.05

改良の誤謬

デザインは記号との勝負

デザインとは、橋の形を考えることではなく、向こう岸への渡り方を考えることなのだという。

デザイナーが「橋」という使い古された記号にとらわれる限り、新しい発想は生まれないし、 橋が記号として再発明されるなら、デザイナーの出番はない。

デザインとは記号との戦い。デザイナーは記号に挑んで、 そもそもの「記号」が要請された需要を探って、 記号をデザインした人が、かつて成し遂げた成果を越えようとする。

橋という記号に負けたデザイナーは、うなだれて記号を受け入れて、その場を去る。 記号に打ち勝ったデザイナーは、新しいアイデアで顧客を驚かせて、 それでようやく、記号は再びデザインされる。

橋という記号を受け入れたデザイナーが、それでもそこに居座って、 橋を「改良」しようなんて考えたとき、たぶんすごく不幸なことがおきる。

顧客を驚かせるやりかた

ファミリーコンピューターがテレビゲームを支配してた頃、 ソニーの技術者は、「ゲームセンターでしか見ることができない、3D のゲームが家庭で楽しめる」 という驚きを提供することを目標にして、プレイステーションを作った。

驚きは受け入れられて、PS 1 はテレビゲームの新しい「記号」となって、大成功した。

次世代のPS 2もまた、「書き割りだった背景を、全て計算で作り出す」とか、 「高価なDVDプレイヤーを安価に提供する」だとか、まだまだ分かりやすい驚きを提供できたから、 やっぱり顧客は驚いて、PS 2 はよく売れた。

PS3 の時代になって、デザイナーは今度は、自らが築き上げてきた驚きを、 記号として受け入れてしまった。

新しいゲーム機は改良を受けて、今まで以上にきれいな画面で、処理速度も速かったけれど、 それは記号の延長だったから、顧客はそんなに驚かなかった。

ソニーの技術者は、新しい素子をものにしようとして、今まで以上に努力をしたのだという。 ところが技術にとって、驚きを伴わない「努力」というのはしばしば悪手となって、 技術それ自体を衰退させてしまう。

今まであるものが、記号として受け入れられたとき、それを「改良」しようとしたり、 目標を伴わない努力それ自体を重ねるやりかたは、不幸な結果をもたらす。

驚きを買いに来た顧客は、努力に支払う対価を持たない。 努力は報われなくて、あまつさえ「分からないユーザーが悪い」だなんて、 顧客を「改良」しようとする意志が透ける。改良されたはずのプロダクトは、 顧客から見放されてしまう。

正しい技術変化の方向

記号であることを受け入れた技術には、正しく変化すべき方向がある。

「一般化」と、「微細化」、「不可視化」。変化はこの方向へ為されなくてはならない。

技術の世界にも、たぶん「赤の女王仮説」が通用する。 走りつづけることで、初めて技術は、そこに止まれる。 走ることを止めたり、努力する方向を間違えた技術は、飽きられたり捨てられたり、 あるいは既得権益者扱いされて叩かれて、悲惨な結末を迎えてしまう。

テレビゲーム、医療や教育は、変化が要請されない、記号化した技術。 こんな分野が、何となく衰退したり、叩かれたりしている理由というのは、 たぶん「止まった」ことによる自壊であって、マスメディアや訴訟みたいな外的要因は、 技術が正しく「走って」さえいれば、問題にはならなかったのだと思う。

「戦艦」という考えかたを記号として受け入れたなら、技術者はその延長線上に、 安価な航空機の群れであったり、空母すら必要ない巡航ミサイルみたいなものを 想像すべきで、大きな大砲積むとか、絶対沈まない戦艦とか、そんな「改良」された 何かを見てはいけない。

あるいは記号との戦いを挑むのなら、戦艦が要請された状況、「戦いに勝つ」やりかたを デザインし直して、外交技術とか、世論誘導といったやりかたを考案するのが、 記号化を拒否する、顧客を驚かせるやりかた。

当時の軍人が、そんな意見に納得したとは思えないけれど。

医療のこと

医療や教育は、たぶん「生きていくのに不可欠である」ということに安住しすぎて、 正しい変化を志向できなかった。顧客を驚かせる体験も提供できなかったし、 一般化、不可視化といった、「正しい」変化もなされずに、 無目的な「改良」という努力目標を選択した結果、 顧客にそっぽを向かれてしまった。

救急医療が進歩した先に、技術者は、ドクターヘリなんかを想定してはいけない。

救急車は、正しく進化したら不可視化していく。タクシーに救急機能を持たせるとか、 軽症の患者さん限定で、電話と薬箱使った遠隔医療を許可するようなやりかた。 救急医療が進歩したなら、町を走る救急車の数は、むしろ減っていかないとおかしい。

基幹技術は、必ずコストダウンして、コンパクト化して、不可視化していく。 利権にしがみつく人達は、だから抵抗勢力となって邪魔をして、 技術を「改良」、重装化して、自らの立場を保とうとする。

戦艦という利権にしがみついた人達は、航空機の登場を読めなくて、 大艦巨砲主義に走った。救急車が進歩した先に、 ドクターカーとかヘリコプターとか夢見る人達は、やっぱりたぶん、利権にとらわれている。 努力という言葉のまじめさに隠蔽されて、気がついていないかもしれないけれど。

掃除機という技術を記号として受け入れたなら、その先に、掃除機も掃除ロボットもいらない、 「掃除のいらない床」を想像しないといけない。改良の誤謬にとり憑かれた人達は、 ここで「ほうきとチリトリ持ったメイドロボット」を想像して、努力に走ってしまう。

誰かが「掃除のいらない床」を発明したところで、メイドロボットの開発者は、 たぶんそれを「下らない技術」なんてこき下ろしたり、 「人類の幸せのためには、それでもメイドロボが必要なんです」なんて力説したり。

それは間抜けで、無残な光景だけれど、今の救急外来守ってる人達とか、 医療の「改良」に取り組んでる人達とか、同じ誤謬に陥っている気がする。

進化はやっぱりアメリカから。

医師以外の人がやるコンビニ診療とか、病院の枠を越えたデータの共有とか、 症状入れたら、全米の医師が検索されて、最も安い医者探すサービスとか、 google みたいな巨大企業がもう始めてて、たぶんそれなりに成功すると思う。 例によって「無料サービス」で提供されるから、普及するはず。

どこかで日本に入ってくる。自分も含めた日本中の医師は、 それを「医学の敗北だ」とか、「生命はコストじゃない」とか、 「医師以外の人に身体を預けるなんてありえない」とか、きっと猛反発する。 それが成功しちゃうと、一部の専門家以外、もう今までみたいに利権で 食べられないから。

記号となった技術には、進化の段階というものがある。技術者は、自ら乗っかっている 技術が今どの段階にあるのか、自覚的でないといけない。「正しく」進化したはてに消え去るか、 消えるのがいやなら、記号に戦いを挑まないといけない。

いつか「そのとき」が来た時は、せめて見苦しい真似したくないなと思う。

2008.03.03

空気は構造が決定する

「その場所の雰囲気」というものは、そこにいる人よりも、むしろ その場所を作っている環境とか、構造みたいなものが決定する要素が案外大きい。

「こんな雰囲気にしたい」なんて思ったら、ルールを作るよりも、 むしろそうならざるを得ない構造をどう実装するのか、それを考えたほうが正解に近い気がする。

炎上するコメント欄

コメント欄で異なった意見の応酬が行われると、たいてい最後に行きつくのは、 大声コンテスト。

お互い口先だけ丁寧語使い回して、その場の空気は箸が立ちそうなぐらいに こってりドロドロ。対立が長引くほどに、まわりが引くほどに、 喧嘩している当人の声は大きくなって、収拾つかなくなる。 たくさんの人が書き込むページは、管理大変だろうなと思う。

こんなときに、「道徳」叫ぶやりかたは無力。

「紳士的に振舞いましょう」とか、「罵詈雑言止めましょう」なんて管理人が叫んだところで、 「相手はともかく私は紳士」だとか、自分の正義主張してみたり、 「罵詈雑言の定義を行ってください」なんて、 言語定義ゲームが始まる頃には、空気はいっそう重くなる。 お互いの言葉遣いは、こんなときに限って馬鹿丁寧なんだけど。

ネット世間での意見の応酬は、雑踏の中で口喧嘩するのに似ている。

人はたくさんいるけれど、誰も喧嘩に無関心。誰も止めないから、 喧嘩の規模は膨らんで、結局お互い殴りあいになって、 疲れてどちらかがいなくなるまで、喧嘩が続く。喧嘩の当事者も、管理人も、ダメージ大きい。

コメント欄は、Web を動かす目線の圧力から、 管理人が盾になって「無風地帯」を作っている場所。 みんなの目線が介在しない場所は、要するに無法地帯で、 どんなに下品なことしても、それをとがめる構造が存在しない。

無風地帯では、管理人は中立が建前。 「私はルールを守っているんだから、何してもいいんですよね」なんて 主張する人達を止められない。

コメント欄は炎上する。それはたいていの場合、管理人が何かを失敗したのではなくて、 blog のコメント欄というのが、そもそもが炎上するしかない構造を持っているからなんだと思う。

炎上が発生しない twitter

最近遊び場にしている twitter には、「炎上」が発生しない。 激しい意見書く人多いし、中心が存在しないコミュニティで、 同じ意見持ってる人なんて一人もいないのに。

twitter 界隈での議論というのは、酔っ払ったフーリガンが集まる酒場の真ん中で、 口喧嘩をしているようなイメージ。誰もが闘争に飢えていて、 喧嘩をしている当人よりもよっぽど怖い人達が、まわり見渡すとゴロゴロいる。

そんな場所では、ちょっと騒いだらみんなこっち見るし、 大きな声を出したら、思いもよらないところからいきなり殴られたり、 あるいは知らない誰かからビールを奢ってもらえたり。喧嘩に夢中でそれ断ったら、 今度は酒場全員敵に回して、大変なことになってしまったり。

議論をやるときは、だからお互いの言動にすごく気を使うし、 言葉遣いとか、言い回しなんかも、自然と丁寧になる。ルールなんてないし、 「掲示板の道徳」を壁に書いて貼る人もいないけれど、お互い自由に議論して、 それでもやっぱり、議論は荒れない。

意見が割れたときの「決闘の場」として、twitter を使ったら、すごく和やかになると思う。

twitter では、みんなID が必要だから、発言者のあらゆる立ち居振舞いは、 その人の過去に遡って検証される。あの場所を徘徊している人達の多くは公平で、 酷薄で、自分の発信メディアを持っていて、喧嘩の最中、何か面白い失言すれば、 全世界に発信されてしまう。

喧嘩をはじめたところで、その話題がどこまで広がっていくのか、 当事者にすら把握不可能で、全然知らない人から横槍突っ込まれたりする。 そんな場所ではだから、お互いエキサイトしないよう、 冷静に意見を交換するよう、言われなくても気をつけるし、 丁寧な言葉で罵倒するとか、言い回しで事実を運用するとか、 そんな飛び道具使うこともなくなって、議論が建設的になる。

twitter はだから、「和やかな意見の応酬」をやる場所としては、 すごく完成度が高い構造を持っている。

制御主義と構造主義

コメント欄への書き込みが、自動的に twitter での @ コメントになるような プラグインがあったら便利だと思う。ID 持ってないと書きこみできないから 難しいかもしれないけれど、それが実装できれば、原理的にコメント欄の炎上はなくなるだろうし、 知らない人がとんでもない炎上ワード落としても、界隈に笑われて、恥かいて終わる。

掲示板とかコメント欄みたいな、構造的に炎上しやすいメディアを紳士協定で縛るやりかたには、 やっぱり無理がある。ルールや道徳で縛ったり、ルールが目立っていくような進化の方向は 誤りで、「そう振舞わざるを得ない構造」を記述して、ルールや道徳が不可視化されていく 方向が正しいんだと思う。

罵詈雑言を楽しく応酬して、炎上それ自体を楽しみたいのならば匿名掲示板に行けばいいし、 和やかな空気を望むなら、twitter みたいな目線圧力が高い構造を作り出して、 そこで議論するのが正しい。

ほとんどどんな条件のもとであっても、望ましいルールが創発する構造は、きっと存在する。

ルールというのは本来、みんなの身勝手な振る舞いから生じた均衡状態を、 ルールと名付けたもの。「ルールを守れば何やってもいいんだ」なんて、 そんな言い訳のために生まれた道具なんかではないはずだから。

2008.03.01

道路のお金

今いる施設の敷地内には10mぐらいの道路があって、公道扱い。 ここを舗装するのに、だいたい 7000万円かかったらしい。

道路を100m あきらめれば、診療所1つ、医師ごと買える。 道路を1km あきらめれば、300床ぐらいの病院が建つ。 国道を1km あきらめれば、たぶん基幹病院も建てられる。

土建屋さんてすごいなって思った。