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2008.02.29

設計者の「運の良さ」

アポロの番組を見た。

あまりにも多くの運が、あのミッション支えてるの見て感激した。

アポロ8号は、月着陸船のコンピューターが着陸寸前に故障したのに、 気合で何とかなった。

アポロ12号は、大気圏突破する時に雷に打たれて、電気系統 全部吹っ飛ばされたのに、復活して月まで行った。

アポロ13号の不運は映画にまでなった。月着陸船に詰め込まれた、 様々な余剰物資が、あの生還を支えてくれた。 アポロ13が爆発した時、爆発の方向がもしも内側だったなら、 乗組員は瞬殺されてた。運がよかった。

アポロにしても、サターンロケットにしても、あるいはソユーズ宇宙船にしても、 結局成功したプロジェクトというのはこれぐらいしかなくて、 スペースシャトルですら、どちらかというと失敗プロジェクト。 サターンロケットは、20年たって、これからリバイバルかかる雰囲気。

「運がいい設計」ができる技術者というのがいるんだと思う。

何がいいのか、どんな人なのか、全然知らないけれど、 成功したプロジェクトの設計者、アポロ計画のあらゆる幸運、不幸を乗り切る 舞台を提供した、アポロの設計に関与した人たちには、 みんな神様がついてたんだと思う。

あれだけのドラマを抱えて、それでもほとんどの人たちを死なせずに、 地球に返した劇場となったアポロ宇宙船というのは、 やっぱりドラマを見たい神様が、人間に手を貸したとしか思えないぐらいの 神がかった設計なんだと思う。

どうすれば運を味方につけられるのか、見当もつかない。

同業者もまた、運のいい人と、引きの悪い人は厳然といて、 みんな「運」には無自覚だし、運を記述できる人なんていないけれど、 それでも厳然と「運」はそこに存在する。

それは神様が与えてくださるものなんかじゃなくて、あくまでも人が、 自覚的にであれ無自覚にであれ、どこかから、 自らの力で引き寄せるものなんだと思う。

第二次世界大戦中、「運が悪い」将軍は、米軍だと更迭されて、 日本軍だと、「間違ってはいなかった。運が悪かっただけだ」とか、許された。

米軍は勝って、日本軍は負けた。

何かこう、今の科学では認識不可能なものに対する敬意みたいなものが、大事なんだと思う。

透過的ルールと能力

うちの地域でも今度から、小児科医療が無料化するらしい。 県知事が会見開いて、「予算の問題はあるけれど、各地域協力してほしい」なんてやってた。

大学にも少しづつ小児科が増えて、うちの県限定で、 せっかく小児科が復活しかけてたけれど、これで「終わったな」と思う。

無料化は意思表示の機会を奪う

小児科を無料化すると、夜間の救急は、間違いなく子供が増える。 診るほうからすれば、子供さんはリスクの固まりだから、 子供が来たら、みんな小児科医に振る。小児科は潰される。

「軽い」症状の子供は、医師にとって一番怖い。

軽い子供は、極めて高い確率で何ともない。親御さんはだから、 「絶対大丈夫」という承認を買いに、夜中にやってくる。

子供は症状訴えないし、夜中に検査も回せない。 医療者側はどうやったところで「大丈夫」なんて言えない。 夜中に「わざわざ」やってきた親御さんは、満足感が得られないから トラブルになって、明け方に小児科医が叩き起こされる。

「無料」ルールは、「悪徳」医師を増やしてしまう。

最大の利益を上げようと思ったら、医療者側は検査を乱発することになる。 子供さん来たら、頭からつま先までCT 刻んで、ありえないぐらいたくさんの採血検査をだすことで、 収益は上がる。誰かがそれやれば、その地域では、それが当たり前になる。 同じサービスを提供できない「良心的な」医師は、今度は不誠実な医者と叩かれる。

無料ルールは、だから制度を悪用した人が一方的に得をして、 それ以外の「良心的な」医師は、自慢の良心を発揮できない。

患者さん側からは、そんな流れに対して、一切の介入ができなくなる。

成果に対して対価を支払う、従来のやりかたならば、患者さんは、 お金の流れをコントロールすることで、医療者側に自分の意思を伝えることができる。 無料ルールは、何をやっても「無料」。患者さん側は、判断の機会を一方的に奪われてしまう。

無料という、成果に対する判断を顧客から奪うルールは、だから必ず利権を生む。 ルールで得する人と、ルールで一方的に損する人が出て、個人の努力が無意味化する。 長期的に見て、間違いなく現場が疲れて、回らなくなる。

顧客に判断をゆだねるやりかた

患者さんに医療現場を「育てて」もらおうと思ったならば、病院の外来に、 タクシーメーターみたいなものを取り付けるといいんだと思う。

外来で世間話して、「一応採血見ときましょうかねー」なんて医師が呟いたら、 外来のメーターが 10000 円ぐらい、いきなり跳ね上がって、患者さんがびっくりするような仕組み。

タクシーメーターは、それが動くことで、患者さんにそのつど、自ら受けるサービスの 価値判断を強要する。自らの体調とか、常識と照らし合わせて、医師の「一応…」には 果たして10000 円もの価値があるのかどうか。

価値があると思えば話を流せばいいし、価値が無いと思ったならば、検査を断るか、 医師に説明を求めればいい。医師だって説明するの面倒だから、そんな行為のくり返しは、 やがて「分かりやすい外来をやる医者」を育てることにつながる。

ルールを改訂して、サービスを充実させようと思ったのなら、 サービスを提供する医療者サイドは「無脳化」する流れ、 サービスを受けるお客さん側は、頭を使うことが自らの利益になるような構造を 作る流れにしないと、そのサービスは良くならない。

提供されるサービスのコストが均一になれば、市場の見通しはよくなって、 査定がしっかりできる患者さんなら、もちろん不必要な検査を減らして、 経済的に得をすることができる。

判断を放棄する人は、その代償として高コストを受容しないといけないし、 リスク覚悟で低コストを選択する人は、今度は医師から「同意書にサインして下さい」なんて、 契約書の山を渡される。

受けるサービスは人により異なってくるけれど、本来は、 こんなやりかたのほうが「公平」なんだと思う。

議会制度のこと

サービスの現場を回すルールは、だから「透過的」になる方向を目指すべきなのであって、 「平等」とか「無料」みたいな、ルール自体がその存在を主張する方向に行ってはいけない。

問題なのは「議会制度」という、ルールを決めた人の「功績」が、有権者から見えること、 有権者の目に付くところに、いつまでも残ることに強い動機が発生する制度それ自体なんだと思う。

「無料」ルールはいくつもの自治体で行われて、現場無茶苦茶になっているのは みんな十分分かってるのに、それでも「無料」を強行するのは、要するにハコモノ作ったり、 道路敷いたりといった「功績」残さないと、次の選挙に勝てないからなんだろう。

立場が生得的な王制とか、賞賛やら功績やらがすべて個人に帰着する独裁者なんかは、 功績を「可視化」する動機が発生しない。センスのいい独裁者が、しばしば上手に国を盛り上げるのは、 たぶんこのあたり、理性優先でやれるからなんだと思う。

ルールを票につなげたいなら、表向きは「タクシーメーター」みたいな透過的ルール を提案して、その裏側で、医療費補助みたいな大盤振る舞いやればいいんだと思う。 患者さんが一度会計を済ませたあと、行政に喜んで尻尾を振るような、 「かわいい」人達限定で、お金をばらまけばいい。不公平だけれど、 「無料」ルールよりもよっぽど安価に、支持票を購入できる。

能力のこと

「公平な」ルールの元で得をするのは、「ものの価値を判断する能力」が高い人。

最初から収入のいい人は、価値判断なんて面倒事も含めて、医師から「購入」することができるし、 収入が低い人でも、ちゃんと価値判断を行ったり、利用可能な行政サービスに 自覚的になることで、コストと質の両立を目指すことができる。

物事を透過的なルールの元で運用すると、ちゃんと考える、 あるいは価値判断を行う能力が高い人は得をして、能力の低い、 今まで「声の大きさ」に安住して、利権貪ってた人達は損をする。

サービスを提供する側から見ると、これはすごく「公平」なことだと思うんだけれど、 こんな論理もまた、「価値判断を行う能力と、その人の収入とは、ほとんどの場合比例する」 という事実に目をつぶっている。

「ものの価値を判断する能力」というものは、しばしば収入に直結している。

能力高いのに、まじめなのに損してる人がたくさんいるのが今問題になっているんだけれど、 能力には無数の種類。収入につながる能力もあれば、たぶんそうでないのもある。

ルールの裏をかくとか、お得な抜け道探すとか、 そんな能力を持ってれば、収入が低くても「公平」ルールから質の高いサービスを引っ張ることは できるんだろうけれど、「公平」ルールで割り喰う人達は、 そもそもそんな能力に欠けているから、収入も低いし、いいサービスとも縁遠くなってしまう。

公平で透過的なルールを志向して、「お徳度」は能力に比例するやりかたは、 そこから割りを喰う人から言わせれば、やっぱり「平等じゃない」んだとは思う。

透過的ルールで得する人達は、きっと「ルールが平等なんだから、 能力ないのは自己責任」なんて言い切る。そんな論理に反駁するのは大変だし、 もう一つおまけに、弁が立つ人は、たいていの場合、 透過的ルールで得する側に回るから、相手を議論でひっくり返すのはますます難しい。

「公平なルール」というものを、自分は心から望んでるんだけれど、 このへんどう考えればいいのか、まだよく分からない。

2008.02.28

技術の先に見えてくるもの

技術は極限まで磨かれ無意識的に行われるまでにならなければ、 目的を達することは不完全になる。 自動車の運転はすべての操作が無意識的に行われてこそ、 景色を楽むことができる。技術者は技術の先にある成果を目標とすべき コメント欄から抜粋

コメント欄を読ませていただいて、 こういう考えかたもあるんだな、と正直驚いた。「技術の先に見えてくる世界」というものは、 自分にとってはしばしば、「技術を商売に結びつけること」だったから。

注) 以降「エンジニア」「技術者」という言葉を、設計や製作を行う人たち以外に、 広告を考えたり、プレゼンテーションを行う人達にまで、しばしば拡張して用いています。 うちでは昔からそうだったので。

武芸的な、技術的な

「技術を極める」という言葉から、武芸的な何かを想像する人は多いのだろうか?

「武士の魂」日本刀は、極める道具。それを極めてしまえば、もしかしたら 「斬ろう」なんて思った瞬間、相手の胴が落ちている域にまで極め尽くせるけれど、 武器としての日本刀は無力。鉄砲には勝てない。

技術を極めていないのに技術のことを語る、自分みたいな輩は、「手段を目的として混同している」 なんて、たぶんベテランに叱られる。技術語ってる暇あったなら、もっと技術極めろなんて。

自分が想定していた「技術」というのは、それが日本刀なら、目標を「殺すこと」におく考えかた。

「日本刀」という技術を極めていった先には、もっと扱いが簡単な「槍」が来て、 さらにそれを延長していくと、鉄砲に行きあたる。

日本刀の技術を極めて、たとえば名刀持った宮本武蔵を10人作れば、その集団は 接近戦では無敵だろうけれど、現代のライフル銃を持った素人が100人集まって、 宮本武蔵の集団と戦ったなら、たぶん勝ててしまう。

名刀の値段はものすごく高いけれど、 AK47 あたりのライフルならば、安いところで買うと5万円もしない。

「技術を極める」という言葉から自分が想像していたのは、「コストダウン」と「大衆化」 であって、何かを深く極めていくようなやりかたは、武芸に近い感覚。

工学で使う「技術」とは別に、武芸的なやりかたには、何か別の言葉が要る。

技術者にとって誠意とは何か

「品質向上」なんかですら、あるいは技術の本質から外れた「無駄」な目標なのだと思う。

本当に誠意を持った、あるいは技術に対してストイックな技術者は、 プロダクトの精度を公差範囲に納めることができたなら、 今度は「どこから手を抜けるのか」を考えないといけない。

要求された仕様以上の精度を出すための努力というのは、 技術者のありかたとしては、むしろ「怠慢」だと面罵されるべきであって、 それを美談にしちゃいけない。

日本のエンジニアは、どこかでこんな誤謬に捕らえられて、技術を評論する人達もまた、 「もの作りは日本のお家芸」なんて、問題を悪化させる方向に煽ったけれど、 エンジニアの人達は、やっぱり舵の切りかたを間違えた。

技術者は、本当に品質向上を「売り」にしたかったのならば、 それをブランドイメージにつなげる努力を、 もっとあざとくやるべきだった。

ツーリングカー選手権のこと

1996年の日本ツーリングカー選手権では、ホンダアコードと、トヨタエクシブが、 優勝を争った。

ツーリングカー選手権の新しいルールが告知されて、一番最初に車を仕上げたのは、 マツダランティス。わざわざV6 2L のエンジン開発して、市販車にロールケージを 張り巡らせて、「プロトタイプカーと同じだけのボディ剛性を達成しました」なんて、 モーターショーで発表してた。

最初不振だったホンダは、見た目は市販車、中身は別物の化け物を投入して、 96年シーズンを勝ちつづけた。マツダみたいにまじめにルールを守ったチームは、 この頃もう勝てなかった。

「ホンダは汚い」なんて、いろんなメーカーがホンダを非難したけれど、 ルール解釈の議論はグダグダになって、そんな中でも ホンダは速くて、レースを勝ちつづけた。

シーズン終盤、「やっぱりホンダのポイント無くそうよ」なんて落しどころが見えた頃、 トヨタは新聞広告を出して、「トヨタ優勝」なんて大見出しをつけた。

同じ戦略も、視点の置きかたによって「汚い」と思う人もいるし、「すごい」と思う人もいる。

「勝つこと」を目標にして、ルール解釈を含めた「技術」を極めたホンダも、 「優勝」の文字を広告に入れることを目標にして、競技それ自体の破壊まで 視野にいれて頑張ったトヨタ自動車も、戦略に対する解釈は様々だろうけれど、 技術者として、みんな「頑張った」んだと思う。

「まじめに努力した」マツダの人達は、もしかしたらもっとも「頑張らなかった」のかもしれない。

マツダの技術者はルールを守って、結果はたしかに負けだったけれど、 その「負けっぷり」を武器にして、「どんな逆境でもルールを守る技術者集団」なんて イメージを作ることだってできた。

「まじめな技術者」というイメージは、もしかしたら「優勝」なんてものよりも ずっと高い価値を持っていたのに、技術者はそれでもイメージの運用をしないで、 ひたすらまじめに「ルール違反」したチームを叩いてた。

その態度はまじめだし、時には美談として語られるけれど、 本当は怠慢なんだと思う。あのときのマツダは、本当はトヨタ以上の大勝利だってできたのに。

日本一の乗用車は何か ?

初心者が運転するのにもっとも安全な車は何か ?

免許とってすぐの頃、いろんな自動車メーカーの人達が、わざわざこんなこと考えてくれた。

結論はすぐにでて、「やっぱりカローラが日本一」なんて結論。 ほとんど全員一致で決まったらしい。

カローラには、「国内では数km ごとに代理店があって、 日本国内では事実上、どこで故障が発生しても、歩いていける距離に修理工場がある」 という強みがあって、こればっかりは他のメーカーでは、絶対にかなわない。

車の絶対的な性能だけを論じれば、きっとどのメーカーの人にも「技術屋のプライド」が あるんだろうけれど、初心者がはじめて乗る車という限定をかけると、 車と、車を取り巻くサポート施設という、「系」としての信頼性は、 当時カローラにかなう車はなかった。

あの頃から、自動車を作る人達は、性能というものを「車単体」で考えてなくて、 代理店とか修理工場とか、車を取り巻くシステムを通じて、性能を論じていた。

技術者が、技術を極めた先に見るべきなのは、「極めて来た技術それ自体が不必要な世界」であって、 技術それ自体を極めるべき対象にする考えかたは、もしかしたらしばしば、 「改良」を拒んでしまって、進化を志向する人達の足を引っ張ってしまう。

問題を「系」として考えて、解決すべき目標を運用、改良しつつ、 要素の技術を大衆化、一般化していくことが、技術者が目指すべき「努力」。

それはきっと、同じ「工学」である自動車工学も、医療もまた、変わらないのだと思う。

2008.02.26

技術追求の誤謬があるのかも

「技術を極めることが優れたプロダクトにつながる」と信じて、 ひたすらに腕を磨くような技術者のありかたは、 たぶん間違っている。

製品単独として優れていることは、必ずしも「優れたプロダクト」であると 認知されることにつながらない。 「優れている」という評価はたぶん、要素としての製品と、ユーザーと、 それが使われる環境との相互作用を通じて、システムとして創発される。

「何か優れたものを作りたい」なんて思ったら、要素として「よい」ものを作るだけでは片手落ちで、 ユーザーがそれを使ったとき、そのありかたが最善になるような環境をもデザインして作り出さないと、 作り出したものの「よさ」というのは、想定どおりに現れない。

MacBook Air のこと

今度発売される新しいノートパソコン「MacBook Air」は、技術的には案外たいしたことがない なんて記事が話題になっていた。日本ならもちろん同じものが作れるし、 おそらくはMacBook Air よりも、 もっと技術的に優れたものが作れるだろうなんて。

「たいしたことはない」なんて評価を下した人達は、あれを設計したアメリカの技術者よりも 優れているのだろうけれど、「優れた」人でなくても、MacBook Air が 作れてしまったことに対して、技術者はもっと脅威を感じるべきなんだと思う。

優れた製品を作るために、その技術者が自らに投じたコストというものは、 はたしてその人が作り出したプロダクトに見合うものになっているのだろうか ?

技術者の技量は、投じたリソースの平方根でしか、パフォーマンスとして返ってこない。 日本人の技術者は、もしかしたら米国人よりも2 倍優れていたかもしれないけれど、 「2倍」を達成するためには、たぶん4 倍のリソースを投じないといけない。

MacBook Air の筐体はネジだらけで、技量を持った人が設計すれば、 もっとネジを少なくできるらしい。たとえば2倍優れた技術者を投じ たならば、技術に4倍のリソースを振り分けないといけない。 それで得られた成果が「ねじ数本」というのは、もしかしたら すごく無駄なことなのかもしれない。

顧客の目線と同業者の目線

少し前に話題になって、あんまり売れなかったのは、ソニーの極薄ノート。

あれはたぶん、日本流に「極まった技術者」が設計した芸術品だったけれど、 MacBook Air があのノート以上に話題になって、あまつさえ売上げがよかったりしたら、 「極まった技術というものは優れたプロダクトの本質にはなり得ない」 なんてお話する専門家とか、きっと出てくる。

「技術力」と「ブランドイメージ」は、たぶん車輪の両輪みたいなもので、 技術者の人達は、自ら持っているリソースを、どちらにどれだけ割くべきなのか、 もっと真剣に考えるべきなんだと思う。

技術が先鋭化していく中で、結果志向はどこかで、 方法論志向に取って代わられてしまう。

技術を極める人達が気にするのは、たぶん仲間からの目線。 「すごさ」はお客に伝わらない。伝わらないから、分からないからそこに専門の技術者がいる。 「技術者のプライド」というのは要するに、「仲間から馬鹿にされたくない」なんて、 同業者の目線に対するプライドであって、そこに顧客の目線は存在しない。

「顧客から見たいいプロダクト」を作るのに何が必要なのかを考えて、 必要なリソース配分を行ったアメリカの技術者と、技術を極めた先にこそ いいプロダクトが現れると信じて、ひたすらに腕を磨いた日本の技術者と。

「腕」の延長線上に現れるのは、同業者の目線でみたすごい製品なのだろうけれど、 そのすごさはもしかしたら、顧客の目線には届かない。

「系」としてのプロダクト

スティーブジョブスは、製品のプレゼンテーションを準備するのに数週間かけるらしい。

MacBook Air はもしかしたら、その「数週間」を技術的な改良に振り分けたら、 あるいは日本の技術者をうならせるような設計ができたのかもしれないけれど、 ジョブスはプレゼンテーションにリソースを割り振った。

わずかな技術の改良を積み重ねても、もしかしたら優れたプロダクトには届かない。

「プロダクト」というものを、製品単体として、極めるべき対象として見てはいけないのだと思う。 それはむしろ「系」として、製品を使うユーザーとか、その製品が使われる状況なんかを含めた システムを「プロダクト」として認知して、ユーザーであったり、環境であったりといった部分まで含めて デザインして、あるいは「開発」しないといけない。

プレゼンテーションの準備に莫大なリソースを割り振るやりかたは、 たぶんプロダクトを「系」としてとらえている。 その製品を使う人の顔とか、製品を買った人が、それを使う風景なんかは、 優れたプレゼンテーションを通じて「デザイン」されて、「開発」される。

プレゼンテーションの準備というものもまた、恐らくは見た目をごまかすことなんかじゃなくて、 優れたプロダクトを開発する行為そのものなのだと思う。

「いい医師になりたい」なんて、みんな医学博士とって留学して、学会発表して専門医とって、 若くして開業する。

努力の成果物である肩書きは、確かにその人を経済的に助けてくれるのだろうけれど、 せっかく磨いた専門技能は、もはや患者さんの役には立たない。専門技術は 高価な設備やリスクと不可分で、個人で開業する先生がたは、 それを負担するだけの体力は持ってないから。

腕を磨くことそれ自体は正しいのだろうけれど、やっぱりもったいない。 医師だって技術者だけれど、どこかでたぶん、技術追求の誤謬に陥って、 自ら磨いた「腕」それ自体をお金に替えることを怠ったツケが、 開業して、技術を放り出さないとお金にならない、今の歪な構図を 作ってしまった。

今さら医師がおかれた状況を「開発」しなおすことなんて無理なんだろうけれど、 チャンスがあるのだとしたら、それは技術の改良なんかじゃなくて、 むしろプレゼンテーションの延長線上にある何かなんだと思う。

2008.02.22

不自由な安心社会

輸血のこと

手術中の出血がひどくて、妊婦さんが亡くなった。 メディアの人達は、術前に用意した輸血の量が少なかったなんて叩いてた。

同じ頃、輸血製剤の合併症も叩かれてて、 「安心できる輸血製剤」の登場が求められてた。

法律が変わって、全ての輸血製剤には放射線の照射が義務付けられた。 それでも「安心」は足りなくて、日赤から出荷される段階で、 全ての輸血製剤に放射線がかけられるようになった。

放射線照射を受けた血液は、保存できない。返品可能だった輸血製剤は 「買いきり」ルールになって、今度は病院が、「万が一」に備えた輸血を用意できなくなった。

自分達が研修医だった頃は、輸血というのは「たくさん取っておいて、 あとから返品するもの」という感覚。

10単位請求して、経過がよくて3単位しか使わなかったら、血液製剤は返品できた。 慢性的に輸血は足りないし、「もったいない」ルールで回ってた。

今は「買いきり」制度。

「不安だから輸血取っておく」とかできなくて、たくさん確保して使わなかったら、 すべて病院側の持ち出し。患者さんに請求しようにも、体の中に入らないから、 さすがに「安心だったんだからお金下さい」なんて言えない。

使う側にも、売る側にも「安心」が求められて、現場はますますやりにくい。

輸血製剤は、今では万が一の合併症がおきたときにも、 説明責任は「医師」の側。「規約」とやらで、そう決まってるらしい。 血液売る側の人達は、売りっぱなしで来てくれない。彼らもきっと怖いんだろうけれど。

「確実」が心不全を増やす

検死が 2 件あった。両方とも「心不全」。

病院の外で亡くなった患者さんは、基本的には警察官による検死を受けて、 初めて死亡診断書が書かれる。検死の現場は、確実なことしか断言したくない医師側と、 とにかく「病名」に帰着させたい警察側との交渉が大変。

医師が「確実」を譲らなかったら、全ての死因は「心不全」になる。

心肺蘇生しながら病院に運ばれて亡くなった人は、亡くなったその時点では、 「心臓が止まった人がいる」ということ以外、何一つ確かなことが分からない。

外傷があろうが、吐血していようが、その人は、病院にきた時点ですでに心臓止まってたわけだから、 因果関係を証明できない。

「事件性がある」と判断したら、警察は本気で動く。

あの人達は、一度本気を出すと、ものすごい人数で動かないといけない。 マンパワー全然足りてないみたいだし、本音のところではたぶん、 彼らは医師に「病名」を見つけてもらって、その人が「事件性なく」亡くなったことに、 医師のお墨付きが欲しい。

最近は、だからほとんどの患者さんに、亡くなったあとにCTを撮らせてもらう。

CT 切って、大きなくも膜下出血とか脳出血とか、あるいは胸部大動脈瘤の破裂なんかが 見つかれば、その人はたぶん、かなり高い確率で、それが原因で患者さんは亡くなったと推定できる。 そんなときは、警察の人と相談して、診断書にそう書く。

ところが、高齢の患者さんにCT 撮って、たとえば巨大な肺炎の影を発見しても、医師は診断できない。 「心臓が止まった人に肺炎があった」ところまでは確かだけれど、 「その人が肺炎で亡くなった」のかどうかは、断言できないから。 亡くなる瞬間に立ちあえない場合、だから確実な診断をつけることなんて無理。

若い力士の「心不全」報道

ニュースで話題になっていた、若い力士が亡くなって、病院で「心不全」と診断された 事例なんかも、たぶんこんなやりとりがあったのだと思う。

「全身アザだらけの健康そうな若い男性」が、心臓が止まった状態で病院に担ぎこまれた。

若い人の心肺停止は大事件だから、たぶん病院中の医者が駆り出されて大騒ぎして、 心肺蘇生したけれど戻らなくて、CT 撮ったはず。このときすでに、 骨折ぐらいは見つかったかもしれない。

この患者さんは、CTを撮ったその時点では、「全身に外傷を負った、心臓が停止した若者」であって、 「外傷のため亡くなった人」にはなり得ない。

事実をいくら重ねたところで、真理には到達できない。

「確実」重ねたそこから先は、医師が因果関係に踏み込むか、警察が「事件性あり」と判断すれば、 その人は「外傷のため亡くなった」人と判断されるけれど、 みんなが「断言可能な真実」の範囲にとどまる限り、 医師側からは、「心停止」という診断しか下せない。

警察の人はたぶん、「診断して下さい」なんて医師に要請したはず。 外傷と心停止との因果関係なんて、証明するのはほとんど無理だから、 医師側はたぶん、「心臓が止まったということ以上のことは言えない」なんて突っぱねた。

検死の場合、診断書の雛型を作るのは、警察署にいる上の人だから、 医師がこんな言いかたをすれば、 警察の人もまた、「心不全」なんて病名しか記載できない。

素人の邪推だけれど、あの一件はたぶん、誰かが悪意で事実を隠蔽したのではなくて、 アナログな伝言ゲームに不備があって、現場のニュアンスが伝わらなかったのだと思う。

誰も「踏み込み」を行わなかったという部分は責められるべきかもしれないけれど、 「確実さ」を極めて厳密に求められる昨今、「踏み込む」勇気は誰にもなくて、 「心不全」ばっかりが増えていく。

信頼性を放棄したコミュニティを作りたい

何するのにも確実さが求められていく流れの中では、 自分みたいな何でも中途半端にしかできない一般医には、そのうち居場所が無くなってしまう。

「確実さ」を武器にできる専門領域を持たない一般医が、「中途半端だけれどいろいろできる」 なんて立ち位置を生かすためには、サービスを提供する対象を絞り込まないといけない。

一般医が「広く一般の人」を対象に仕事をした場合、その立場は「専門医の劣化コピー」にしか なり得ない。一般医はだから、自らの「中途半端」を許容して、 「いろいろ」に価値を見出してくれるコミュニティを自分で作るか見つけるかして、 初めて自分の居場所を見出せる。

専門家は、広く一般の人を対象に、自らの「特別さ」を販売して対価を得る。 一般医は逆に、一般の人から「特別な誰か」を切り出して、その人達に「平凡な自分」を販売して 対価を得るやりかたを考えないと、間違いなく不幸になる。

もういないだろうけれど、今から一般医を目指す人達は、だから講演活動とか 作家活動とか、あるいは自分を受け入れてくれるネットコミュニティを自ら創るとか、 何か一般から「特別」切り取るチャンネル持ってないと、成立しないと思う。 「一般」を名乗るということは、自分を特別にする武器を、あえて放棄することだから。

具体例はいろいろ。生きかた上手の日野原重明先生なんかもそうだろうし、 「地元の生き神様」目指して、閉鎖的な僻地に立てこもることなんかも、 「一般」から「特別」を切り出すやりかた。

安心に息が詰まって、過剰な確実さに不便を感じてる人達は、まだたぶん、どこかにいるはず。 そんな人達を対象に、「中途半端な一般医療」を安価に販売する、 そんなやりかたを見つけられたら、一般医は今よりもう少しだけ、幸せに仕事ができるかもしれない。

2008.02.21

公立病院民営化について

国内にいる全ての医師を国家で召し上げて、政府の人達が、地域の需要に応じて 医師の配置を決めればいいんだと、今でも思ってる。毛沢東国家主席がかつて行った、 「文化大革命」の時みたいに。

世の中から「開業医」という仕事はなくなって、地域の基幹病院には、 医師があふれかえる。ベッドも医療費も限られてるから、 外来の待ち時間は倍ぐらいになって、医師の給与は半分以下になる。

その代わり、人手が増えるから、当直明けには家に帰れるし、 勤務する日はものすごく忙しいけれど、週の半分ぐらいは、 もしかしたら仕事しなくても大丈夫。

国家管理と自由化と

全体主義とか大好物なんだけれど、インフラ事業を国家で管理すると、たいてい大失敗する。 たとえば農業ならば、ソビエト連邦のコルホーズであったり、中国共産党の人民公社であったり。 いずれも国家が旗振って、生産が激減した。

仕事をしても、それが個人の報酬に跳ね返らない、国家管理のやりかたは、 現場の士気が低下する。いくら人をつぎ込んでも、効率が落ちてしまう。

コルホーズや人民公社を復活させたのは、「自由化」という処方箋。 市場経済が始まって、国が自由生産を認めるようになって、 生産高がそのまま農家の収入になったコルホーズの生産効率は、数年で倍以上になった。

全てを自由化して、報酬を「市場」が決定するアメリカ方式は、 理論的にはすごく効率のいいやりかた。

医師はみんな頑張る。頑張るから医療の供給量が増えて、 国民に安価で安全な医療を提供できる、はずだった。

アメリカの医療は今のところ、ちょっと割高で、あんまり上手に回っていない。

市場設計は難しいのだそうだ。アメリカ医療の失敗は、市場設計の失敗であって、 自由化とか、市場化とか、そんな方法論それ自体の失敗ではないのだと思う。 農業だったり工業製品だったり、市場化というやりかたは、いろんなものを豊かにしているのだから。

医療を自由化すると、アメリカみたいな地獄だよ」という言いかたには、 欺瞞が混じっている。アメリカ医療を論じるときは、むしろ「アメリカは医療の自由化を 果したのに、なんで効率のいい市場を創れなかったのか?」という、 市場の失敗を論じないといけない。

自由化というやりかたそれ自体を否定する論拠に、 アメリカ医療を引き合いに出すのは、何か間違っている。

市場は本来の価値を明らかにする

アメリカ政府は、携帯電話のサービスを民営化するとき、 オークションによる入札制度を採用した。企業の人達は、 政府が想像もしていなかったような高値をつけて、 政府に莫大な収入が発生したのだそうだ。

自由化に反対する人達は、要するに「不自由な現在」から利益を得ている人達。

自由化以前、企業の人達は、政府が用意した携帯電話の権利を不当に安く利用していて、 そこから莫大な利ざやを稼いでた。市場を通じて、その権利本来の価値が明らかになって、 その利益はインフラを提供していた政府に還元された。

医療を自由化しちゃいけない

自由化に反対している人達は、要するにそのへんよく分かってて、 自分達が利用しているサービスが「自由に」なって、本当の価値が公開されては困るから、 「アメリカみたいな医療にしちゃいけない」なんて反対論をぶち上げる。

患者さんが困るなんて言いながら、その実自分達が一番困るから。

インフラ維持のコスト

いろんな人達が乗っかっていて、実質「無償」で利用されている インフラの代表が、公立の基幹病院が提供している医療サービス。

インフラの維持にはコストがかかる。そのコストは本来、 インフラから利益を得ている人たちから、市場を通じて支払ってもらわないといけない。

大赤字出してる基幹病院抱えてる地方自治体は、 その「守備範囲」で開業している先生がたから、 インフラ利用料として、たとえば一施設あたり 年間1000万円程度の料金を徴収すればいいのだと思う。

「いざ」というときの入院先がなかったら、無床で開業している施設は回らない。

もちろん生命は大切で、今は施設間の患者移動には料金が発生しないのだけれど、 無床で開業しているクリニックは、「そこに基幹病院がある」という事実 を基盤にビジネスを行っていて、今はまだ、そのインフラに、 いわばただ乗りしている状態。行政はたぶん、対価を求める大義を持っている。

ベッドの市場化がもたらすもの

「ベッド」の料金は、大体1000万円前後。開業した先生がたが、 「もしも自分がベッド持ち要員の医師を雇ったら、年間いくらまで払ってもいいだろうか?」なんて 自問したら、大体これぐらいになるはず。

たいていの大きな都市には、基幹病院に相当する施設が複数ある。 それぞれの施設が「ベッド料金」を提示して、近隣の開業クリニックの人達が、 たとえばフォローしている患者さん300人あたり「一床」を 購入するルールで市場を創ればいいと思う。

ベッドが少ない地域なら、「ベッド料金」は高騰する。 無床診療所にもベッドを作る動機が発生するだろうし、行政の収益は上がるから、 基幹病院の運営はわずかでも楽になる。ベッドがたくさんある地域は、 逆に多くのクリニックに、ある程度安価にベッドを販売できる。 今度は患者さんの紹介率が向上したり、市場を通じてベッドを多く持っているメリットを生かせたりする。

地域ごとで違うだろうけれど、基幹病院一つの「守備範囲」には、大体40ぐらいのクリニックがあって、 その人達から「ベッド料金」を徴収すれば、年間4億円程度の収益が生まれる。 基幹病院の運営にはお金かかって、4億円程度のお金では状況全然変わらないけれど、 それでもたぶん、お金があって困ることはないと思う。

一度開業したクリニックを移転するのには、莫大なコストがかかる。「お金払ってよ」なんて 言われて、「嫌だから出ていくよ」なんて答えられるクリニックは、決して多くないはず。

対抗論理と今後

「インフラただ乗り論」に拮抗するのは、「コンテンツただ乗り論」。

回線を提供している電話会社が、「インフラにただ乗りしている」なんて、 帯域独占してた業者の人からお金を徴収しようとしたとき、 業者は逆に、「自分達がいいコンテンツを提供したからこそ、 回線の需要が増して、電話会社に利益が入ったはずだ」なんて、 「電話会社はコンテンツにただ乗りしている」なんて切り返した。

患者を「生む」のは誰なのか。地域医療を本当の意味で支えてるのは誰なのか。

このへんの議論は、たぶん今まであまりされていなくて、 「コンテンツただ乗り論」を唱える開業医の人達と、 今までクリアでなかった部分を明るくしていく議論を行えたら、きっとすごく楽しい。

宮崎県の東国原知事あたりが、「タレント知事のサプライズ」みたいな形で 議会に提案するのが最善手かもしれない。

タレント知事の人達は、存在それ自体が メディアであって、立場じゃなくて人間それ自体に支持基盤を持っているから、 こんな理屈の「面白さ」とは相性がいい。

「明日からお金とろうよ」なんて無茶な提案も、 「そのまんま東だから」でそのまんま通じそうだし、 なによりも「知事がこう言った」なんてニュースは、間違いなくメディアが取り上げる。 医師会はもちろん反発するだろうけれど、もしも対応が後手に回れば、 きっと議論が盛り上がる。

医療を「よく」するという言葉には欺瞞があって、「よさ」というのは視点と方向とを 持ったパラメーターだから、何かを「よく」すれば、必ず誰かが割りを喰う。

「面白さ」は、方向性を持たない概念。「市場化」は、医療を「よく」する保証はないけれど、 地域医療はきっと、間違いなく「面白く」なる。

2008.02.20

標準偏差の復権が来るのかも

道路特定財源のお話が、ニュースで流れてた。

夜にやってたのは、都内で開かれた道路討論会。民主党の国会議員と、 宮崎県の東国原「そのまんま東」知事と、あと何人か。寝る前に見たニュースで流れてたのは、 和歌山県を視察しにきた民主党議員と、それを迎え撃つ地元県会議員の人達。

「ながら」見しながら考えてたこと。

タレント議員のこと

討論会。東国原知事は、自分の役どころをよく分かってるように振舞ってた。

知事は、地元では眼鏡をかけずに、ジャンパー羽織って宮崎県の宣伝に 駆けまわってるイメージ。まじめだけれど下世話な立ち位置。

昨日の討論会では、きちんとスーツを着こなして、フレームの薄い眼鏡をかけて、 自分の立場を訴えるときも、声の抑揚を大分抑えていた。

「無駄な道路の廃絶を訴える民主党に、地元利権の手先になった知事が群がる」。 道路特定財源問題に関しては、マスコミの人達は民主党の立ち位置を支持していて、 そんな構図を撮ろうとしていた印象。

マスコミは、だから東国原知事の一番醜い姿を捉えようと、長時間の討論会を通じて、 ずっとカメラを回しっぱなしにしていたはず。知事はたぶん、それをよく分かってて、 声を荒げる場面も作らなかったし、オーバーアクションの「下世話な」やりかたも、 普段以上に抑えてた。

和歌山県議の人達

視察に訪れた民主党議員を迎えた和歌山県議の人達は、醜かった。

テレビカメラは、国会議員を迎え撃とうと待ち構える県会議員の中で、 一番「下衆な顔つき」を探して、その人の、一番下品な瞬間を狙ってカメラを回してた。

和歌山県議の人達だって、きっとそれなりの大義を持っていて、 「道路が必要」を訴えるために国会議員を迎えたはず。

カメラには、「合理主義の国会議員に群がる乞食の群れ」が映ってた。

「下品な」顔立ちであったり、大きな声であったりという記号は、正しく使えば武器になる。 鈴木宗男議員なんかそうだけれど、「下品さ」というパラメーターは、 見せかたによっては「頼りがい」とか、「力強さ」とか、ポジティブなアイコンとして機能する。

和歌山県議の人達は、自らのアイコンをメディアに運用されてしまって、 無残なことになっていた。

ピーク性能と標準偏差

「顔」にはたぶん、「ピーク性能」と「標準偏差」に相当する評価軸がある。

普段「ピーク性能」出せるときに、頼りがいのある、「タフな男」的イメージを 使えても、状況ごとのイメージのばらつき、 「標準偏差」が大きな人は、意図を持ったメディアを前にしたとき、 自ら持っている武器を生かせない。

「そのまんま東」であったり、あるいは福田総理なんかも、 「ピーク性能」は必ずしも優れていない。見た目に魅力があったり、 頼りがいのありそうな雰囲気なんかは薄いんだけれど、 どんな状況であっても、どんな「意図」を前にしても、イメージがぶれない。

すごいときの「すごさ」はそれほどでもないけれど、最悪の瞬間を狙った「編集」に対して強いから、 ああいった人達は、議員で居続けることそれ自体が、ブレのなさ、信頼につながっている。

「ブレのなさ」という価値のこと

信頼というものは、その人が持っているコンテンツを担保に発生するのだと思う。

信頼というのは理論ではなくて、「人」から生まれる。

どんなにすごい経歴の持ち主であっても、 どんなにすごい製品が誕生しても、コミュニケーションという「市場」の検証を受けない 「すごさ」は、信頼を生まない。

たぶん芸能人は、立ち位置の信頼性が強く求められるお仕事。 ドラマの主役を張るような「ピーク性能」要素は、 もちろん持って生まれた何かが大切なんだろうけれど、主役だけではドラマが作れない。

悪役は悪くないといけないし、切られ役の人は、視聴者の印象を引きずってはいけない。 みんな与えられた役どころがあって、番組の状況が変わっても、 役どころを崩さないよう、注意しないといけない。

求められた立ち位置を演じきれない人は、その人がどんなに面白くても、 番組には使えないから、そのうち声がかからなくなる。

芸能界を生き残ってきた人は、だからこそ生き残っていることそれ自体が信頼になって、 自らの立ち位置を守ること、 「標準偏差」を少なくすることに自覚的になれるのだと思う。

編集の時代と標準偏差の力

編集からは誰も自由になれない。

メディアの敷居が低くなって、流通する情報量が莫大になって、 「編集」という行為それ自体の力は、拡散することで目立たなくなったけれど、 総体としてはたぶん、ますます強力なものになった。

編集が状況を支配するとき、弱点が少ないことは、 長所が多いことに拮抗するか、もしかしたら勝る可能性がある。

能力は、スペックシート上の「ピーク性能」と、 いろんな状況ごとにその性能を保証できるだけの「標準偏差」と、 両面で評価しないといけない。

ピーク性能を測定したり、評価したりするのは「実験室」レベルで可能だけれど、 状況ごとのばらつき「標準偏差」というものは、ある種の「市場」に晒されないと、 評価ができない。

ピーク性能の差をひっくり返すのは難しい。どんなに努力を重ねたところで、 持って生まれたものの差は厳然としてそこにあるし、「努力できること」それ自体もまた、 持って生まれた「ピーク性能」の評価軸で評価されるものだから。

「偏差の小ささ」というものは、たぶんある種のコミュニケーションを通じて鍛えることができる。 くり返しが密であること、評価する人数が多いことが、そのパラメーターの信頼度をきめる。

芸能界や国会は、日本で一番厳しいコミュニケーションが行われる場なのだろうし、 ネットワークというものもまた、個人の信頼が醸成される場なのだと思う。

ネット世間でおしゃべりしながら、たとえば何かの商売を考える。

「この人がやれば、絶対成功するだろうな」なんて想像する人達は、 炎上回避しながら長く発信してる人であったり、立ち位置崩れなくて、 自分が何か見るときの基準にしている人であったり。 そんな人達がやってるサイトはもちろん、 アクセス数なんかも、自分の何倍もあるんだけれど。

あらゆる価値が相対化するネット時代、ネットワークを通じた「ブレの少なさ」という価値軸は、 鍛えておいて損はないと思う。

2008.02.19

医療のない都市のこと

隣接する市の救急体制が完全に吹き飛んだ。

10 万人以上住んでるところなのに、夜になるともう、どの施設も救急取らない。

そこにはたしかに救急輪番制もあって、「救急指定」うたってる病院は いくつかあるけれど、実質機能していない。専門家がいないだとか、 能力的に受けられないだとか。

夜中に厄介な人が病気になると、その市ではみんな白旗揚げて、 救急車は1時間ぐらいかけて、うちであったりもっと大きな病院であったり、 どこか別の街まで救急車を走らせる。

こんな状態は、せめて議会で問題にはなってるんだろうけれど、 書類上はたぶん、その市の救急体制は「足りてる」ことにされていて、 行政は、今以上の行動をおこせないはず。お金かかるから。

「だろう」が全てを悪くする

必要な能力を定義しないで、状況を定量的に評価しない、 「あるだろう」、いざとなったら「できるだろう」で思考停止する構図は、 なんだか昔の日本軍に似てる。

旧軍では、部下は「忘れました」以外の発言は許されなかったらしい。

上司が判断を間違える。伝えるべき言葉を伝え忘れる。これはもちろん、明らかに 上司の責任なのに、上司の不実は、すべて部下の「忘れました」という謝罪に帰着させられた。 「聞いていません」は許されなかったらしい。

前線では、武器も兵士も足りなくて、それでも現場は、 上層部に状況を伝え「忘れる」ことを余儀なくされて、 現場の装備は足りてることになって、その戦争は勝てることになった。

最高意志決定の段階では、現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けている時は特に。 戦力は「足りてる」こと、戦争は「勝てる」ことにされて、事態はどんどん悪くなる。

現場から遠い場所ではたぶん、楽観主義が現実に取ってかわる。 それは行政の人達も、あるいは「頑張ってください」なんて、 安全地帯から応援を、ついでにめんどくさい患者さん投げてよこす開業医の人達も。

インフラにただ乗りして、そこから利権を得ている人達。足下はもう崩れかかってるのに、 それを見ようとしない人達。彼らにこそ、現場の状況届けないといけない。

能力定義と救急の市場化

問題は要するに「できるだろう」で流されてしまう、今の救急体制。 救急外来を回す能力を、現場レベルで定義してないから、 上の人達に「だろう」で流されて、現場はいいように振り回される。

やっぱり必要なのはマニュアル化。

救急業務をマニュアル化できれば、そのマニュアルを回すのに必要な 人数であったり、必要な設備や病棟体制が決まる。「根性」とか 入る余地ないから、できないものはできない。

必要な設備と人数が決まったならば、今度はその施設が持つ設備から、 そこで一晩に診察可能な「患者処理能力」を定量できる。

能力を定量できれば、そこに市場が発生する。

少なくとも日本では、医療の能力を欠いた状態で、「都市」は存在し得ない。 その都市が持つ能力が、都市の人口に足りていないのなら、それは行政の責任として、 政治問題になる。「現場は頑張ってくれるはず」なんて逃げはうてない。

自前で医療機能を持てない都市は、本来「市」の名前を返上して、 能力を持った都市と合併するか、どこかから救急能力を調達して来ないといけない。

施設ごとの処理能力を定量して、都市ごとに持っている「救急取引枠」を市場化して、 お互いにそれを販売しあえばいいのだと思う。

救急能力が市場化されれば、たとえば大企業の誘致に成功して、多額の税収を得られることと、 医師をたくさん確保して、救急施設を潰さずに回せていることとは、両方とも「数字」として 行政の業績として、評価される。「救急取引枠」がいくらで販売可能なのかは分からないけれど、 行政側には、今まで以上に医師確保の動機が発生するはず。

ベッドなき医療は存在し得るのか ?

電話が極めて高価だった時代、「便りがないのは元気な証拠」をお互い徹底することで、 電話代を支払わないで、お互いが元気なことを知る人達が多かったのだそうだ。

彼らはたしかに電話線を使っていなかったけれど、「電話というインフラ」 それ自体を、やはり暗黙のうちに利用していたのだと思う。電話線にはもちろん、 「私は元気」という情報は流れなかったけれど、電話線がそこにあるという事実それ自体が、 「便りがないから元気なんだろう」という推測の、確実性を担保していた。

インフラというものは、だから「ある」ということから恩恵を受ける人も、 たとえそれを利用しなくても、コストを負担する義務が発生する。

開業してる人達にも、自分達「受ける側」の能力を購入してほしいなと思う。

助産院も、開業している先生がたもそうだけれど、あの人達は、 「後方に受け入れ可能な病院がある」という事実をインフラとして 利用していて、そこから自らの施設に安心感を付与している。

ベッドを持たないクリニックにだって、もちろん一定の確率で、入院が必要な、 具合の悪い患者さんが発生する。ベッドを持たない先生がたも、助産師の人達も、 だから本来、「緊急対応能力」を自前で備える必要があって、 それを「持たない」と公言したクリニックには、お客さんなんて集まらない。

医療の能力を持たない都市が存在しないように、緊急対処の能力を持たないクリニック というものもまた、本来は存在し得ない。

「能力の市場化」を行えば、開業医の先生がたは、 「救急の現場をもっと評価せよ」なんて行政に大声出すよりも、もっとずっと効果的に、 現場にお金を落とせるはず。それこそ、自分達が必要とする、あるいは、「評価」した能力に応じて。

労働の割りに対価が少ない、公立施設の救急回してる先生がたも、 市場を通じた評価が得られるならば、状況はずいぶん変わる。 公立施設が擁する医療資源は、莫大な市場価値をもつはずだから。

「声」届けることなんかよりも、よっぽど効果高いと思うんだけれど。

2008.02.18

社会の情報構造

ジャンプしたり、走ったり。「筋肉が収縮する」という、ごく単純な動作の集積は、 骨格という構造により複雑な動作へと変換される。脳は身体を制御するけれど、 身体には、その構造それ自体に織り込まれている情報や「知性」を持っていて、 動作というものは、脳と身体との相互作用を通じて「創発」される。 身体の情報構造@デブサミDAY2より改変引用。

社会が持つ情報行動と、社会という系のなかで現場が陥ったかもしれない誤謬について。

社会記述の精度と不気味の谷

歩いていた人が、石につまづいて転ぶ。それまでは一定のリズムで収縮していた筋肉や関節は、 人が転んだ瞬間、今まで続けてきた動作を継続できなくなって、ダメージを受ける。

筋肉は目を持たない。お互いに、近くにいる筋肉が発生している「収縮力」 しか感覚できない。筋肉は収縮することしかできないし、自らつながっている関節の 働きであったり、「収縮」という行為それ自体が、人体をどう駆動することに結びついているのか、 たぶん分からない。

状況記述を行うときには、自らも「系」の一部でしかありえないということに留意しないと、 間違った結論を導いてしまう。人が転んだとき、たとえば「大腿四頭筋」は、 「梨状筋」のだらしなさを叩くかもしれないけれど、筋肉からは、道に転がっていた石は見えない。

状況を考えるときにはだからこそ、自分が観測した周囲の振舞いをそのままに 記載しようとする態度は誤りで、自らも含めた系が持つ情報構造、単純な筋収縮から 「歩行」や「ジャンプ」を生み出す身体のような、そんな社会の構造を意識しないと、 転んだ原因には行きあたらない。

マスコミが全て悪い、裁判官が、検察が、左翼市民がすべて悪いという考えは、 自分が昔から慣れ親しんできた世界記述「全てはユダヤ 12人委員会の陰謀だ」 なんてやりかたと、何ら変わるところが無い。思考停止は気持ちいいけれど、たぶん間違ってる。

実像はきっと、もっと不快で不気味で、やりきれない。

ロボットが人間に近づくと、近づくほどに親近感が増していくけれど、 ある一定以上に近づいたところで、親近感は急速に薄れていって、 「人間に近いこと」それ自体の精度を増していくほどに、 それが薄気味悪いものに感じられる。不気味の谷という。

国家黒幕論、マスコミ黒幕論は、誰にでも受け入れやすくて 気持ちがいいというその意味で、まだ「不気味の谷」の手前にも達していない。

局所最適と社会の誤診

自ら望んだ他者の行動を、社会にそのまんま発信するやりかたは何も生まない。 対立する他者をも含む系を介して、社会自身が自らの情報構造を通じて「診断」を下し、 「治癒」に必要な何かを創発的に獲得していくようなやりかたを考えないといけない。

団結しましょう、抗議しましょう、「敵」を倒しましょうみたいな行動は、 人体という系の中にいる「筋肉」が、自らおかれた状況を間違って判断して、 局所最適に走ったあげくに、全体を危機に晒しているように見える。

何となく具合が悪い。普段どおりに収縮したくても、対立する筋肉が勝手に収縮して、 自ら思うように収縮できない。「じゃあみんなで団結してフルパワー発揮しましょう」 なんてみんなが声上げる状況は、要するにてんかん大発作の重積状態。 みんなで団結して、全身の筋肉が収縮した挙句、放置された人体は、 呼吸ができなくなってしまう。

痙攣重積を放置するぐらいなら、気道確保した上で全身に筋弛緩かけたほうが、 まだ助かる目がある。「戦いましょう団結しましょう」は、 痙攣をもっとひどくするやりかたであって、人体に起きた障害の原因を、 当の医師自身が見誤っている。誤診して、治療戦略を間違ってる気がする。

声上げるのは大切なんだろうけれど、やっぱりなんだか違和感。

メディアは本当に「悪」なのか

厚生省も、マスコミも、あの人達は医師側から見て本当に「迷惑」ではあるんだけれど、 「悪」なのかどうか、よく分からない。彼らだってまた、社会身体を構成する「筋肉」にすぎなくて、 全体なんて見てないし、 自ら観測した危機に対して、最適と思う行動をとってるだけなのだと思う。

歩いたり走ったりするときには、筋肉は、動作の全体像を考えたりはしない。 転んだときもまた、「大腿四頭筋の悪意で転んだ」なんて反省は出ないはずだし、 転ぶのは石につまづいた人体であって、筋肉単体が「転ぶ」ことなどありえない。

今はたしかに、いろんな分野が「転び」つつある。医療は崩壊して、 新聞みたいなオールドメディアも、昔に比べれば読者数が減っている。 官僚だって叩かれて、企業の人達が喜んで人材を迎えた「天下り」は、 今では悪い意味にしか使われなくなった。

医療という分野は、系の「頭」ではありえないし、マスコミも、厚生省も、 みんな転びつつある社会を構成する部品ではあるかもしれないけれど、 社会を転ばせたくて、何か嫌な行動をおこしている人はいないんだと思う。

社会のどの分野を取っても、それはしょせん「筋肉」、「収縮する」という 単純な動作を行うだけの、単なる部品。「収縮」は、医療にとっては騒ぐことで、 メディアにとっては叩くとで、官僚にとっては止まることかもしれないけれど、 系の外から見れば、そんな動作はたぶん、みんな同じようにしか見えない。

転ぶときの人体は緊張する。筋肉がみんないっせいに収縮する。 現場が崩壊した医療。医師を叩き続けるマスコミ。悪くなる制度に対策しない官僚。 そんな動きは全て、転んで緊張した社会に対する各筋肉の反応であって、 何か特定の意志を持って、他の筋肉に影響を与えているわけではないのだと思う。

変わらない状況から利権を得る人

脳は動作を決定しない。身体に意志を伝えて、脳と身体との相互作用から、 必要な動作が創発される。

筋骨格系、人体が持つ情報構造に相当するものは、恐らくは社会にも備わっていて、 「歩く」とき、「転びそう」になったとき、社会の各分野が取るべき振る舞いもまた、 本来は、状況により創発的に決定される。

正常に機能している人体には、転びそうなとき、中枢の意思決定を経由しない、 ローカルな反射弓が実装されていて、転びそうになっても転ばないよう、防衛機制を働かせる。

今はなんだか、そんなローカルネットが遮断されていて、社会身体が円滑に機能しないイメージ。

「変わらない社会」から利益を得る人達が増えたのだと思う。社会は本来、 人体みたいに「歩いた」り、「転んだ」りして、動きつづけることが自然なはずなのに。

社会を構成する「筋肉」相互の通信を阻害する、お互いの不振を煽って、 緊張でガチガチに固まった社会構造の上にあぐらをかいて、 「変わらない世界」から利益を貪っている人がいるんだと思う。

「変わらなさ」というインフラにフリーライドした人達が、 変化しないこと、流れが変わらないことに投資しながら、 なおも「団結しましょう」なんてスローガン叫んで、 「系」としての社会から外れたところで、転びつつある社会を指差して嘲笑う。 そんな人達を探し出して、変化する世界を受容してもらわないといけない。

なんでこうなったのか、それでもずっと考えてる。誰が悪いのか。どうすればいいのか。 考えれば考えるほどに状況は見えなくなって、敵だと思ってた人達が敵に見えなくなってきたり、 味方だったり、英雄だと思ってた人達が、案外そうでもなかったり。

もっといろんな人達と、どうすればいいのか、いろんな「系」をまたいだ おしゃべりをしたいなと思う。

「脳」はどこにいるのか。原因は何なのか。どうやったら「創発」が発生するのか。

人数増えれば、きっと誰か正解に行きあたると信じてる。

2008.02.15

医療サービス「紳士の薬箱」

これから先、専門技能とは無縁の一般内科が報われることなんて絶対ないから、 将来のことはいろいろ考えてる。

能力ないし、今さら転職とか、他の業界に移ったところでやっていけるわけがない。

開業医というありかたは、基幹病院が提供しているインフラにただ乗りしているところに どうしても欺瞞を見てしまって、やっぱりあれはやりたくない。

将来疲れたとき、健康保険制度に迷惑かけることなく自分が食べてける、そんな構想。

個人輸入薬のこと

一時期、5 日分で4 万円なんて報じられてたタミフルも、ブームが落ち着いたのか値段が下がって、 今アメリカから輸入して、15000円ぐらい。日本で処方するのに比べれば割高だけれど、 それなりに現実的な値段にはなってきた。

「幸福追求権」とかいう権利のおかげで、日本の規制は何故だか甘くて、 個人での使用に限ると、医師の処方箋なしでたいていの薬は輸入できる。

アメリカの業者をちょっと覗くだけで、抗生物質からタミフル、鎮痛剤や胃薬、 降圧薬、糖尿病の薬、果ては抗癌剤とか、血栓溶解薬の静注剤まで普通に販売されている。 本当に税関を通るのかは分からないけれど、少なくとも普通に買えるようにはなっている。

やっぱり興味を持っているのが、西洋薬で作った薬箱。

無診察診療はルール違反。健康保険を使わないで、 なおかつ医師と顧客とが「紳士協定」を結べるのなら、 ぎりぎりグレーゾーンでいけそうな気がする。

具体案

個人を対象にした、1年ごとに契約するサービス。富山の置き薬みたいなイメージ。

「薬箱」を企画して、必要な薬を「リンク集」の形で配布して、 契約した人には、各々薬を個人輸入してもらう。 契約者に自分の携帯電話番号を通知して、何か具合が悪くなったら電話で相談を受けて、 あくまでも「友人のアドバイス」として、輸入して手元にある薬を服用してもらう。

用意するのは、抗生物質3種類、各1週間分、タミフル5日分。 抗ヒスタミン剤2種類、吐き気止めと抗コリン薬、ちゃんと効く胃薬各10錠ぐらい、 咳止めと痰を切る薬各10錠、気管支拡張薬の吸入薬1本、 ステロイドの軟膏1本、抗生剤の軟膏1本、あと鎮痛薬2種類を各10錠、 プレドニンを20錠ぐらい。かゆみ止めと抗生剤の点眼薬。

個人輸入のサイトで検索して、全部個人輸入で計算したら、89000円。 国内で処方するのに比べて圧倒的に 高価だけれど、ギリギリ現実的な価格だと思う。

夜中の救急外来で、「明日また来て下さい」なんて薬を渡すときは、 たいていこんな薬を使う。あとは眠剤と整腸剤ぐらい。

眠剤は輸入できないけれど、国内の病院に入って「眠剤下さい」と 一言いえば、すぐ出してもらえる。整腸剤と経口補水塩は、 日本のドラッグストアで買ったほうが圧倒的に安価。

全部で9万円。高価だけれど、どの薬も100錠単位とか、量がすごく多い。 個人のサービスなんだから、薬なんてどれも10錠もあれば十分なんだけれど、 個人輸入はバラ売りしてない。 薬を「共同購入」してもいいなら、薬箱の値段は半分以下になる。

「薬箱」が対象にしているのは、夜間の救急外来に歩いてきて、薬をもらって歩いて帰るような症状。

風症状とか頭痛、胃痛みたいな症状に対してなら、リストに並べた薬で大体足りるはず。 手元に薬があって、なおかつ電話で医師のアドバイスが援用できるなら、その人はたぶん、 わざわざ夜中に病院に行く手間を減らせる。

購入してもらう薬のリスト、それぞれの薬に関する説明書、 症状を説明するための、体のいろんな場所に番号を印刷した抱き枕(このへんも紳士)、 自分の携帯電話番号をセットにして、1 年契約分、20万円程度で販売して商売にする。

契約した人は1年間、医師の携帯電話にかけ放題。薬のことから症状のこと、 単なるおしゃべりまで、そのあたりは自由に医者を使ってもらう。

問題点

輸入した薬の品質が保証できない。

一般的に使われている薬剤だから、たぶん日本の業者さんに見せれば本物かどうかの 区別はつくのだろうけれど、国内で作っているわけではないから完璧にはならない。 薬が効かなかったときは自己責任。バイアグラみたいな高価な薬は入っていないから、 向こうの業者が「偽造」を行うメリットも少ないはずだけれど。

法律の問題は、どこまでもついてまわるはず。

理屈の上では、健康保険診療を行っているわけではないけれど、叩かれない保証はどこにもない。 個人輸入した薬は、すべて個人消費が原則。契約した人が、誰か他の人に 薬を分けたら、それは罪になるはず。その罪が自分に及ぶことは無いはずだけれど、 「リスト」を提供した責任が問われそう。

薬を全て一括輸入して、業者さんに「本物」認定をかけてもらって、 必要な分だけ小分けすれば、圧倒的に安価に、たぶん3万円ぐらいで「薬箱」が作れるんだけれど、 今の法律では無理っぽい。

「大義名分」が存在しないのも厳しい。薬を個人輸入して診療に役立ててる人は、 癌診療とか保険外使用の薬とか、「命のため」みたいな大義名分のために グレーゾーンに踏み込んでいて、法律を違反したところで、道徳違反になりにくい。 「薬箱」による電話診療は、単純に便利で安直な診療形態にしかすぎないから、 グレーゾーンをとがめられたとき、後ろ盾になる大義名分が作れない。

「医師のアドバイス」というものを、「友人として助言しました」なんて強弁して、 法律の人達が怒らないのかどうか。こればっかりはやってみないと分からない。

信頼担保にかかるコスト

「薬箱」みたいな通信医療は、お互いの信頼が極めて重要になる。

医師はたとえば、50人程度の契約者と「1 年間電話かけ放題」で契約を結ぶ。 50人の契約者は、医師一人を1年間、共同で雇用する。

「医師の1 年」というものが、一種の共有地になる。 誰か一人でも「使い放題」をやってしまうと、その医者は潰れて、残りの契約者が迷惑をこうむる。

法律違反も全員に被害が及ぶ。契約を行った50人、全てがグレーゾーンを共有する共犯関係だから、 誰か一人でも薬を誰か別の人に使ってみたり、医師の携帯電話番号を教えたり、 何かトラブルを起こしたその時点で、サービスは崩壊してしまう。

こんなサービスはだからこそ、医師も契約者も、「私は裏切りません」という 信頼を担保できる人でないと始められない。

従来「誠実さ」は、お金で購入するものだった。

基幹病院も開業医も、みんな立派な建物を作る。あれはもちろん自慢要素だってあるけれど、 「立派な建物を作ったこと」それ自体が、自分は裏切らないでここで仕事をしますという 意思表示になっている。「開業しました」なんて広告を見て、行ってみたら倉庫みたいな プレハブひとつでは、怖くてだれも受診できない。

地位が高い人、収入が多い人というのもまた、そのこと自体がある種の「誠実さ」を担保している。 そんな人はたいてい忙しいし、収入が多ければ、契約料に対する負担感も少ないはずだから、 その人が医師のリソースを独占してしまうリスクは低くなる。

信頼を保証するにはコストがかかる。開業するにはだからこそお金がかかるし、 高い地位とか収入とは無縁の「いい人」は、高い信頼コストの割りを喰って、 その「よさ」を生かせない。

信頼担保ツールとしてのインターネット

「薬箱」システムは、だから大きなクリニックを経営している医師が、 社会的な地位が高い人達に限定してサービスを展開すれば、 かなり高い確率で上手く行く。「薬箱」までやらなくても、 山中湖クリニックとか、似たようなサービスはすでに始まって、 たぶん成功しているはず。

その代わり、収入が多くて地位が高い人なんて、 そんなにたくさんはいないから、サービスを広げるのは難しいし、 自らも信頼を「購入」しないと、そもそもサービスを始められない。

このあたり、あるいはインターネットでの発信行為が、信頼を担保する道具として 使えるのではないかと期待している。

ネットでどんなに偉そうなこと書いてても、それが本当かどうかを証明する術がない以上、 その人のピーク性能は測れない。その代わり、ネットで長く発信を続けて、 それでも今もなお生き残っていることそれ自体は、「とりあえず裏切らない」 ということを、ある程度保証してくれる気はする。

「薬箱」サービスは、電話で自信がなければ「本物の医者にかかってください」という 逃げが打てるサービスだからこそ、「裏切らない」という最低ラインの保証ができれば、 それで十分なのだと思う。

救急外来に来る患者さんの 90% は、その日に来なくても大丈夫で、歩いて病院にきて、 薬もらって歩いて帰る。こんな人達は、だからみんな「救急箱」の顧客なんだけど、 この人達に「救急箱」を提供したら、間違いなく医師が潰れる。

中途半端に便利だし、対価を支払った人達は、誰もがきっと、 「お得」な思いをしようと電話をたくさんかけるだろうから。

「いい人」が得をする構造を作りたいなと思う。保険診療みたいな 平等ルールは、今もこれからも、どう変わったところで「声が大きな人」が得をして、 「いい人」はいつまでも割りを喰う構造は変わらない。

自分もそのうち「平等」声高に叫ぶ人達に疲れるだろうし、今実際問題、 現場は平等ルールに疲れてる。現場の医師が、自らの「よさ」を発信して、 インターネットの存在が、どこかで割り喰ってる「いい人」を低コストで 発見する役に立つなら、その場所はきっと、平等に疲れた人達が憩える場所になる。

あと何年かして、もしも現場が嫌になったら。

とりあえずは無償のクローズドβ版から。。

2008.02.13

マニュアル診療の楽しさ

ガチガチの行動規範に縛られた医療現場は、それでもやっぱり楽しい、はず。

「楽しさ」というパラメーターは、要するに「特別さ」の度合い。 振る舞いが自由であることそれ自体は、「特別である」ことを保証しないし、 振る舞いが「量産型」に規定されても、 特別な人は、やっぱり特別な存在であり続けるから。

量産品を使うヒーローのこと

主人公が特別に作られた道具を武器に活躍する物語には、どうも共感できない。

読者の共感と、物語の盛り上がりを両立することは難しくて、 主人公が最初から超人だったら、読者の共感なんて得られないし、 主人公が最初から最後までダメ人間なら、物語が盛り上がらない。

超人的な努力をする主人公は暑苦しくて共感できない。かといって、 ちょっとした努力で超人化する「普通の人」になんて、誰もリアルを感じない。

普通の人間だった主人公が、何か特別な機械とか、その人にしか扱えない生物との出会いを通じて、 「特別な人間」となって活躍する物語は、だからこそ、妥協点として物語の定番になったのだろうけれど、 「特別さ」というパラメーターを、機械の性能であったり、相棒となった生き物の能力として 表現するやりかたは、やっぱり安直にすぎると思う。

大人が読むSF 、読者の共感なんて最初から想定しない「サイバーパンク」の世界では、 主人公は「量産品」を使う。

「ニューロマンサー」、「攻殻機動隊」、あるいはイーガンの遠未来SF にしても、 物語で描写される機械はみんな量産品。主人公みたいな特別な人達は、 自らの身体を機械化したり、脳内にソフトウェアを組み込んだりするけれど、 それはみんな量産品で、お金さえ払えば、その世界では誰にでも手に入るもの。

サイバーパンク世界では、主人公の「特別さ」は、 状況に応じた汎用品の選択だったり、 その人の行動とか、考えかたそれ自体として表現される。

「攻殻機動隊」の主人公なんかは、物語の終盤では脳髄だけになって、 最後には身体を手放して、単なるプログラムになってしまったけれど、 主人公を特別な存在にしていたのは、その人の思考であったから、 全てを失ってしまってもなお、主人公は主人公として特別な存在でありつづけた。

「特別さ」というパラメーターは、たぶん平均からの隔たりとして表現しないと、 説得力をもたない。何かのパラメーターを先鋭化させるほどに、 その人の能力はバランスを欠いていくし、何か飛び抜けた能力を得る代償は、 その人の弱点として、どこかで贖われないといけない。

「特別さ」を、何か特別な機械の能力として表現するやりかたは、 主人公が失うものが何もないから、説得力を持ち得ない。

それでもやっぱりプロトタイプが好き

削り出し。冷間鍛造。実験室グレード。 物語世界限定ならば、プロトタイプ大好き。

自動車の量産試作品なんて、あらゆる部品が削り出しの一品物。 天文学的なコストをかけて、技術者の愛情を一身に受けて誕生した、特別な存在。

特別だけれど、あくまで試作品。壊して限界を探るために作られたもの。 海の中とか砂漠とか、連れて行かれるのは苛酷な場所ばかり。 これから生まれる兄弟の中で、もっとも可愛がられて、もっとも苛酷な生を全うして、 最後は完全に分解される。プロトタイプは、そんな哀しさを背負ってる。

プロトタイプはお金かかってるくせにアンバランスで、信頼性が低くて、 「試作品を壊した成果」を取り入れた量産品にはかなわない。

アンバランスな、総合性能では量産品にかなわない試作品が、 そのアンバランスさを武器として活用できるだけの能力を持った伴侶を得て、 性能の高い量産品に互角の戦いを演じるような物語があったなら、 きっと強く共感できるんだろうなと思う。

もちろんそんな試作品は、性能的には不十分で、結局は量産品にはかなわないんだけれど、 そこは強度だけやたらと高い鍛造部品とか、自分を作ってくれた技術者の愛情なんかを糧に 根性見せて、最後はやっぱり、バランス取れた量産品に打ち勝つ。

「ターミネーター2」 みたいな、「根性を得た機械」の物語はどうしてこんなに面白いのか、 いつも不思議に思う。プロトタイプという存在を、そんな弱くて根性背負った存在として 描く物語があったら、きっと面白いと思う。

マニュアル医療のこと

診療行為の全てが「手順書」に記述されたところで、医療の楽しさみたいなものはなくならない。

何もないところから、診療手順をスクラッチする楽しさはなくなるかもしれないけれど、 今度は逆に、自分の「すごさ」をみんなと比較して、共有できる楽しさが始まるはず。

検査だらけの手順書を誰かが記述して、とりあえずそれを共有しても、意見は医者の数だけ存在する。

学会紛糾して、そのうちプロジェクトは「フォーク」して、たとえば東大版と京大版とか、 いくつものプロジェクトに分岐した手順書は、今度は統計的な結果を通じて、お互いのすごさを 比べあうことになる。

勤務医と開業医の争いというものもまた、手順の共有が、 能力が収入に直結する、公平なルールを作り出す。

マニュアル医療は、主訴と治療との中間部分に思考が発生しないから、 自分の施設だけでは「治療」に帰着できない患者さんは、より重装備の施設に紹介せざるを得ない。 もちろんこの時代、治療の対価は治療を行った施設が総取りすることになる。

能力が無い医師は、「深追い」しすぎて自施設では患者さんを診療できなくなって、 それまでにかかったコストもろとも、患者さんを大規模施設へと手放すことになる。 開業医にだってチャンスはある。診断能力が高いクリニックは、患者さんを見た瞬間に 「その先」が読めるから、コストが生まれない患者さんはさっさと大病院に紹介して、 軽装備のまま「おいしいとこ取り」ができるはず。

記述された診療手順が、たとえばフィリピンとか中国とか、日本ほどには医療設備が整っていない国で アレンジされると、もっと面白いことになる。

検査手順から「機械」をどこまで外しても大丈夫なのか、 コストを減らすことによって、安全率がどこまで下がるのか。「人の命が安い国」だからこそ、 その結果はとても役に立つはず。おそらく結果はフィードバックされて、 逆輸入された「軽量版」の診療手順書は、今度はきっと、軽装備のクリニックに支持されて、 手順書はまた進化する。

このへんはきっと、UNIXを進化させてきた人達と同じ物語。 あれを作り出した人とか、様々な改良を加えてきた人達は、 いろんな制限がある中で、それでもきっと楽しかったはず。

日本人はトランジスタを作れなかったけれど、トランジスタラジオを作った。 部品を作るのは苦手だけれど、コンポーネントを作るのは、世界の誰よりも得意。

日本の医師なんて、どうせ西洋人の書いた論文以外は信じないんだから、 日本発の臨床研究とか無駄なことやめて、さっさとコンポーネントを作るほうに 力を注いでほしいなと思う。

きっとすごく面白いことがおきるはず。

2008.02.12

量産型はダテじゃない

昔から救急外来という場所が好き。怖いし疲れるし、 最近は、いろんな人から文句言われたり訴えられたり、 ろくなことが起きない場所なんだけれど、それでもやっぱり救急が好き。

リスク回避の手段を前から考えてる。リスク管理の問題さえ解決できれば、 この場所にはまだまだ、昔みたいな賑わいが戻ってくるだけの楽しさがあるはずだから。

最初の頃は、技術の向上それ自体がゴールだと思っていた。

自分なんかよりもはるかに高い技術を持った人達が、次々と刺されて現場を去っていくのを見て、 大事なのは技術じゃなくて、むしろ交渉能力なんだと思った。

交渉のやりかたとか、人質交渉人のマニュアルとか、ちょっと外れて新興宗教の洗脳手法とか、 とにかく「交渉」に関係することをあれこれ調べた。

それは多少の役に立ったけれど、本当に怖い人達は、交渉というルールの枠外にいた。

「刺す」行為はそもそも引き合わない。何かの目的があって交渉を持ちかける人達は、 それをよく知っていて、その人達を相手に交渉の技術を磨いたところで、 自分が刺されて倒れる確率は、あんまり変わらない。どんなに交渉が上手であっても、 医師が救急外来に立ち続ける以上、いつかは刺される。

医師が現場に立っていて、何かの判断を行ってる部分こそが問題なんだと、何となく気がついた。

判断のマニュアル化。医療の現場から医師の裁量を減らすやりかたは、 たぶん現場を様々な患者さんから守るための、強力な盾として作用する。

防衛手段としての接客マニュアル

「スマイルゼロ円」なんて、現場の人間に頭を使わせない、 マクドナルドの接客マニュアル。あれはたぶん、お客さんに均一な笑顔を提供する役割と、 「笑顔が嫌いなお客さん」みたいに特殊な顧客から、現場を保護する役割とをあわせもつ。

マクドナルドに入れば、スタッフはみんな笑顔。このへんはたぶんマニュアル化されていて、 おまけにもう一つ、「スマイルゼロ円」は、ほとんど公知のものとして公開されている。

仮に、笑顔を向けられるとものすごく不愉快になるお客さんがいたとしても、 そんな人は本来、最初からマクドナルドには入らない。「マニュアルに強制された笑顔」 が公知のものならば、「マクドナルドに入ると笑われる」ことを知って入った客さんだって、 責任が発生するはず。

あらゆる種類のお客さんに対して開いている職場は、様々なクレームに翻弄された 帰結として、きっとマクドナルドの接客マニュアルみたいな、 現場を「無脳化」するやりかたにたどり着く。

万能の防衛手段は作れない。

どんなにきちんと接客しても、その行為自体を「不愉快」と定義されれば反論できないし、 スタッフが訴訟に巻き込まれたら、現場の士気は下がってしまう。 接客なんて行為に正解は存在しないからこそ、会社側が唯一取れる防衛手段は、 「会社としての正解」を作ってしまって、それを誰の目にも止まる場所に公開しておくことなんだと思う。

プロトタイプ幻想のこと

量産品に対する生理的嫌悪感というのは、何となく技術系に共通する思い。

凡庸な量産品の群れを、すばらしい性能を持ったプロトタイプが打ち破っていく物語はみんな 大好きだったり、長年かけて改良されてきた欠点だらけの量産品を見せられると、 何となく一から作り直したい欲求にかられたり。

「量産品」は、伊達じゃない。

限界性能を目指した実験室グレードの試作品は、発注段階では全てを理想条件で設計するから、 当たり前のように初期性能を発揮できない。部品が特殊だから交換きかないし、 信頼性なんて考えられない。

限界目指してること。不安定であること。信頼性が低いこと。 どこから壊れるのか分からない予測不可能性は、物語世界ではプロトタイプの魅力として 語られるけれど、実世界ではもちろん通用しない。

量産されて、市場の検証を十分に受けた製品は、安定していて、挙動が読める。 何がおきても、それは予想の範囲だから、信頼できるからこそ「つまらない」。

「ガンダム」とか「宇宙戦艦ヤマト」みたいなプロトタイプには、本当は勝たせちゃいけないんだと思う。 全人類の期待を一身に背負ったプロトタイプは、性能が劣った敵側の量産品に 囲まれて、そのうち故障が頻発して、部品が足りなくなって、結局人類滅亡するのが正しいはず。

部分の最適化は、必ずしも全体最適につながらない。

プロトタイプは、いい部品の寄せ集めで作られていて、 状況ごとのピーク性能はたしかに高いけれど、個々の「よさ」をいくら集めたところで、 それは全体としての「高性能」にはつながらない。

「安心できる医療」みたいな高性能を目指すとき、個々の医師が「いい医師」目指す今のやりかたは、 「プロトタイプの幻想」に縛られてる気がして、間違っているように思う。

マスメディアが絶賛するような「いい医師」像をいくら追求しても、あの延長線上にはたぶん、 「安心」は現れない。定食屋的な、量産品的なやりかたは、「いい医師」とは異なるけれど、 「安心」にはよほど近い気がする。

みんなが判子で押したようなやりかたをする医療は、つまらない。つまらないからこそ、 医師の判断は見通しがよくなって、見通しのいい構造は、結局信頼につながっていく。

みんなが同じことを繰り返せば、どこで間違うのか、どこで悪くなるのか、そんなデータを共有できて、 技術を「枯らす」ことができる。今みたいに、みんながカスタムメイドの医療目指して、 一人一人がピーク性能目指すやりかたやってると、信頼性はいつまで経っても上がらない。

マニュアルに縛られたやりかたは、最初のうちは無様で信頼性も低いだろうけれど、 間違いが生じても、それを改良して前に進めるやりかたを示せるのなら、そこから 「信頼」を生み出せるはず。

行為の定義化が開く未来

防衛手段としてのマニュアル医療を、やっぱり現場の偉い人達は、 もっと真剣に考えるべきなんだと思う。

「証拠に基づいた医療」に基づいた診療ガイドラインとか、学会が作った外傷のガイドラインなんかは、 患者さんを守ることに特化しているぶん、まだまだ踏み込みが甘いし、 あれでは受け入れられない。

医学的には正しいけれど、現場を守る視点がないやりかたでは、 結局現場は回らない。

アメリカの警察マニュアルなんかでは、自らの身を守る手段を確保してからでないと、 犯人には近づけない。一番危険な鉄火場では、防御を確保してからでないと、 現場の理性を担保できないから。

現場が100%スペックどおりに動くことを想定する、名人芸を「当然のもの」として要求する、 「患者さんのための」ガイドラインというのは、医師の生存可能性を考慮しないぶん、 結局それは、患者さんの不利益につながっている気がする。

「エコーを用いて腹腔内出血を診断する」なんてサラッと書いてあるようなマニュアルは、 あれは偉い先生が「俺はこんなことまでできる男なんだぜ」みたいな、 その人の実力を誇示する道具ではあっても、現場を守る役には立たない。

それをもらった現場が、あまりの馬鹿さに絶句するぐらい、 「馬鹿向け」に作った診療マニュアルを学会が出して、 それを広く一般の人達に公開するのが、結局正解なんだと思う。

症状から検査のセットを呼び出して、診断をパスして治療が始まる、 そんな手順書が一般公開できれば、 たとえば「あなたの訴えを持って病院に行くと、こんなことをされて、○万円請求されますが、 いいですか ?」みたいな情報提供だってできるはずだし、患者さんの主訴それ自体が、 診療の「要件定義」として医療機関を駆動するようになる。

患者さんが「とにかく調子が悪い」みたいな主訴を選択すれば、 それによって莫大な検査コストが発生するし、 その患者さんが「治療」にたどり着くまでの時間も余計にかかる。 その患者さんがもっと詳しい経過を 説明すれば、それだけ検査は減って、より安価に、短時間で治療までたどりつける。

無脳化した、現場の判断を放棄した医療というのは、 だから自分の身体に対して自覚的な人が得をして、 無自覚な人が損をする構造が実装できる。今は全く逆。 身体に無自覚で、声が大きな人が、 現場の限られたりソースを総取りしてしまう。

診療手順を全て公開すれば、たとえば医療機関を意のままに動かしてみたり、 あまつさえ「医療機関に自殺の手伝いをさせる」なんてことすら可能になるんだろうけれど、 それでいいんだと思う。我々はしょせん道具であって、お金を払うのは 病院に来る患者さんなのだから。

医学的には、そんなことは正しくないんだけれど、 無脳化した現場、「患者さんの声」駆動型の組織というのは、あらゆる人に対して 門戸を開いた組織が最後にたどり着く先として、必然なのだと思う。

2008.02.08

真実の論理脆弱性

痛みの定量問題

「痛み」「苦しみ」みたいな、定量不可能症状は、評価をするのが難しい。

医療主義は、患者さんの訴えというものは全てが真実であって、 痛みや苦しみの原因は、もちろん患者さんの体内から発生すると考える。 ここを外すと、この商売は根本から成り立たなくなってしまう。

医療主義の通用しないケースはたくさんある。 痛みを訴えることで麻薬を手に入れようとする人たちであったり、 あるいは本人の自覚症状それ自体が、家族に心配してもらうとか、 何かの利益につながっているケースであったり。

家族がおろおろすると、あるいは主治医が近づいてくると、痛みが落ち着く人がいる。 家族が無視したり、医師が立ち去ろうとすると、痛みが強くなる。 こんなケースでも、本人の脳は「本当に」痛がっていて、 主治医がもしも「ウソでしょう?」なんてもらしたら、大変なことになる。

機能 MRIみたいな機械の発達や、あるいは痛み伝達物質の濃度を簡単に測定することが できるようになっても、「痛み」問題は解決しない気がする。 機械が表示しているのは、あくまでも脳血流とか、物質の血中濃度であって、 痛みそれ自体は測定できない。機械が仮に「痛くない」表示を出したところで、 本人が痛みを訴えたなら、たぶん誰にも、それを覆せない。

行動主義の考えかた

医療主義から自由な人達は、痛みや苦しみの原因を、患者さん以外の場所に求める。

行動主義の人達は、「患者さんが痛みを訴えるために要した仕事量」と、 その訴えを通じて患者さんが手に入れた、「周囲の人達の仕事量」との差分として、 痛みの定量を試みるかもしれない。

痛み収支が黒字、訴えによって得られる利益が大きいならば、その患者さんは訴えほどには 「痛くない」かもしれないし、収支が赤字、利益なしの訴えならば、 その患者さんはきっと、本当に痛い思いをしているはず。

こんな考えかたは、患者さんの人格とか、重症度を無視しているし、 何よりも実体としての「痛みそれ自体」をまったく見ていないけれど、 その代わり、「痛みを測定する」という目標には、案外近い気がする。

中国の餃子騒動のこと

いろんなところで話題になっている毒餃子のニュース。 「人間としての犯人」を想定して、報道されるいろんな事実をつないでいって、 餃子に毒を混ぜられる状況考えている人と、日本と中国の政治的な立場だけを考えて、 「日中両国に最もダメージの少ない落しどころ」を考えている人とがいる。

もちろん、中毒を生じて入院した人がいるのは間違いのない事実だけれど、 「事実」に影響を受ける人が圧倒的に多い、今回の事件みたいなケースだと、 たとえ犯人が自首してきたとしても、「それが真実だった」なんて納得は得られない。

冷凍餃子のパッケージに傷がついていたとか、工場の中は少なくとも清潔に管理されていたとか、 「事実」をつなぎ合わせた先は、「誰か日本に反感を持った個人の犯行だ」なんて結論だけれど、 「ルールに従わない個人の犯行」というのはまた、政治的に、最もダメージが少ない落しどころでもある。

今回の事件なんかは、たとえば「原因は小麦に入った農薬で、出所は不明で、犯人も不明」なんて 結論になったら、たぶん中国が受けるダメージは計りしれない。「倉庫に忍び込んだ犯人が原因で、 その人を逮捕しました」なんて結論ならば、少なくとも日中両国で交わした「ルール」は傷つかない。

「ある」はずのものをひたすら探すやりかたと、 「ない」ものを片端から除外していって、状況が取りうるあらゆる可能性の中から、 彫刻みたいに「ある」を削りだすやりかたと。

事実はもちろん「ある」ものだから、 後者のやりかたは邪道だけれど、状況を定量するやりかたが難しいほど、 状況にかかわる人の数が増えるほどに、「ある」を探すのは難しくなって、 「ない」を除外するやりかたが、しばしば役に立つ気がする。

真実の論理脆弱性

たぶんどんな真実にも「論理脆弱性」というパラメーターがあって、 真実をドライブする人達は、自ら運用している真実の脆弱性に、 常に自覚的でないといけないんだと思う。

たとえば道路の舗装に使うアスファルトなんかは、たとえばそれが癌の原因となったり、 あるいは特定の小児疾患の原因であると名指しされる脆弱性を抱えている。

アスファルトは、ローマ時代から使われている舗装の定番。日本中の道路が 舗装されて、今はもう、「新しい道路は無駄」なんて考えかたが正義になって、 道路で食べてた会社とか、利権貪ってた議員の人達とか、たぶん相当困ってる。

「道路を作る人達に残された仕事は、これから先は修理だけ」なんて状況になれば、 業界全体は本当に困る、はず。「道路のレガシー化」を食い止めようと思ったならば、 「道路は必要なんだ」と力説することもできるけれど、たとえば 「アスファルト道路は実は身体に悪かった」なんて、全く別の正義概念を打ち立てて、 正義の考えかたそれ自体を流動化させるやりかただってできるかもしれない。

「道路舗装が癌を生む」仮説なんて、たぶんまだないはずだけれど、 どこかの学者がこんなこといい出して、それが「科学的に証明」されたなら、 日本中の土建業界に、すごい量の仕事が発生する。日本再舗装計画みたいな。 新しい道路を作ることは正義に反するけれど、道路議員の人達が「子供の未来のために」 なんて涙ながらに訴えたら、それはきっと、「これ以上の道路予算は無駄」なんて正義を 運用する人達に、相当なダメージとなって効いてくるはず。

少なくともこの数千年、アスファルト舗装された道路のそばに住んでる人が、 癌でバタバタ亡くなったなんて話はないんだけれど、 そんな「事実」を要請する土壌だけは、もう十二分に整ってる。

「道路は癌を作らない」なんて事実を守る責任は、むしろ「道路は無駄」という正義を 運用する人達にこそあるのだと思う。

市場が事実を査定する

「事実」というのは、観察と仮説から発生する、はず。

でももしかしたら、「こんな話があったらいいな」というみんなの思いが極めて強力に働いたとき、 何もないところから「事実」が発生することだってあるのかもしれない。

「事実の真実性」というのも痛みと同じく、しばしば定量不可能な概念で、 そんなものを測ろうと思ったとき、「科学的な方法論」というのは案外無力だったりもする。

統計学は本来、こんなグレーゾーンにメスを入れる学問だけれど、あの人達の「それは違うんじゃない?」 なんて指摘は、たいていの場合、現場の強い反発で報われる。「統計好きな医者は、 学生時代に友達作れなかった暗い奴が多い」とか、 「いじめられっ子がエクセル君と涙の特攻ですかwww」とか。

陰謀論と紙一重ではあるけれど、こんなとき、「事実の発見に要した仕事量」と、 「その事実が生み出した利権の量」とを比較してみると、きっと何か面白いことが分かる。

事実が状況を駆動したのか、それともまた、状況を駆動したい人達が事実を要請して、 誰かがそれに乗せられたのか。

それを決めるのもまた、結局のところ「市場」なのかもしれない。

2008.02.07

自走式大腸内視鏡

  1. 「傘袋」みたいな細長いビニール袋を、入り口側から裏返す。ちょうど「ちくわ」みたいな物体ができる
  2. 袋の入り口側から空気を入れると、「ちくわ」は内側から伸びていって、元の形、棒状の風船に戻ろうとする。このとき、傘袋の「底」にあたる部分は、空気圧で前に進む
  3. 「ちくわ」が膨らんでいく先進部は、内側から外側へと、放射状にビニールが膨らむ。屈曲の強いところを進むとき、この動きがあるから、袋は屈曲に追従して、大腸を逆走しながら膨らんでいく

こんなことができるなら、その動きを利用して大腸カメラが簡単にできるようになる

  1. 「傘袋」を大腸カメラにかぶせて、袋の底にあたる部分を、カメラの先端に接着する
  2. 袋を途中まで裏返して、出来上がった「ちくわ」状の袋を直腸内に挿入、空気、あるいは温水を入れて、袋を膨らませる
  3. 袋は元の形を目指して大腸を逆走して、それと同時に大腸カメラは風船の中を空気圧で牽引される
  4. 袋が膨らみきったとき、大腸カメラは袋の長さ分だけ奥に入っているはずだから、肛門側から袋を破れば、後は通常どおり、大腸の観察が可能になる

ド素人でも簡単な大腸カメラの提案。無理 ?

大昔に流行った、野村トーイの玩具、「うなぎ小僧 つるべえ」というのがこんな仕組みだったはず。

空気圧とか使わないで、単純に少し肉厚のゴムの筒裏返して、 直腸側からそのまま押し込んでくだけでもいけるかも。

2008.02.06

「地域医療請負会社」の可能性

外科医が減ってるらしい。

この2年間ぐらい、全国どこの医局にしても、外科内科にはまともに人が入らない。 大学だけの問題ではなくて、県内で一番多くの人を集めた市中病院もまた、 残ったレジデントは、みんな忙しい科を避けたらしい。

「入局者ゼロ」が2 年も続いた医局には、もうだれも怖がって入らない。 そこに入局したら、2年分の雑用が押し寄せるのは見えてるから。

近くにある公立の基幹病院は、3月になったら内科がいなくなる。 医局の嫌がらせとかじゃなくて、もう出せる人がいないから。 うちの施設近隣、人口40万人圏内で、夜間にまともに機能している分娩施設はあと1つ。 内科外科系の施設は3つあるけれど、それが今度から2つになる。

一昨日の当直で、8 件断られたとかで、県境またいで、1 時間半かかって患者さんが来た。 うちなんか地図にも載ってない小規模施設だから、救急隊も場所分かんなくて、 電話で道を問い合わせながらやってきた。外傷なのに。受け入れるったって、 内科の自分しかいないのに。

大学医局は、眼科や皮膚科が大盛況。公立病院の外科ベッドが空になって、 赤字が累積していく中で、あるいは今度は、「白内障センター」とか、 「アトピーセンター」なんかが作られるんじゃないかなんて話してた。

コミットメントの力

「産科医が産科医らしく仕事をするためには、当直明けに休養を取る必要がある」

教室のトップがこんな宣言出して、医局が派遣をだしてる病院に、「当直の翌日は休み」の ルールを徹底するようお願いして、それを守らない病院からは人を撤退させた医局があるらしい。

宣言を行って、それを履行できない施設を本当に排除したから、その医局には信頼が集まって、 産科医冬の時代であるこの御時世にもかかわらず、 たくさんの研修医が入局したらしい。

たぶん、「ネットワークの緊密度」と、「そこに投じられる情報の量」には最適な割合があって、 今はたぶん、研修医同士の横のつながりが密になったのに、 投じられる情報量が圧倒的に不足している状況なのだと思う。

インターネットにつながれば、今はどの病院をみても、 「充実した研修」とか「やりがいのある仕事」みたいな、美辞麗句。

クリック一つで引っ張れる文字数は、自分達が研修してた頃に比べれは、 比較にならないぐらいに多くなったけれど、「情報」として役立つものはほとんどない。 複雑さを伴わない、単純にコピーしただけの情報は、いくら増えても「情報量」として効いてこない。

美辞麗句に食傷した、みんなが知りたいのは、たとえば医師の勤務時間のお話。 医局、あるいは病院として用意している訴訟対策のお話。 あるいはまた、仕事に見合っただけの対価、給料とか、生活場所とか、お金の話。

「いい研修」なんて漠然としたパラメーターとは別の切り口を前に出した情報は、 空疎な美辞麗句に対する解毒剤として作用して、きっと多くの人に届いたのだと思う。

今はみんなが情報を欲していて、そのくせ「耳に届く」情報を発信している施設が、 世の中にほとんど無い状態。冬の時代ではあるけれど、ある意味チャンスともいえるはず。

信頼の空白にビジネスが生まれる

公立組織は、昔も今も投げっぱなし。

医師が何をしたって自由だけれど、何をしたって患者さんは押し寄せるし、 近隣の開業医は、厄介な患者さんを時間外にブン投げる。それを診察しても、 あるいは断ってトラブル起こしても、すべては医師の自己責任。

もっと人増やしてくれとか、これ以上救急診れないとか、現場が悲鳴あげても、 自治体はやっぱりその人任せ。人増えないし、断ったら 「怠惰な悪徳医師がたらいまわし」とか叩かれるし、 頑張ったって給料増えない。組織は個人を守ってくれない。

赤字抱える公立病院は、どこも人件費率6 割越えで、そのくせ医師の給与割合が極端に少ない。 医師は大体3年ぐらいでやめちゃうのに、あとの人たちずっといるから。

医局がバックについてくれても、みんな忙しい。法律の話だとか、お金の話だとか、 どうにも苦手だし面倒で、個人と自治体、ぶつかりあっても答えは出なくて、 信頼関係だけがすさんでいく。

信頼の空白地帯には、新しい商売の可能性。

法律得意な人達とか、現在医師派遣の会社やってる人達とか、 自治体相手に交渉を代行する仕事が、これから流行るかもしれない。

給料のお話も大事だけれど、大切なのは、勤務時間とか、勤務を「定義」するお話。 このへんを詰めた労働契約書は、詳しい人じゃないと作れない。

  • 外科医が不在の、内科しかいない病院で外傷を受けるよう命ぜられたとき、責任の所在はどこにあるのか
  • 当直翌日、寝ぼけた頭で働いて、トラブル起こしたときに、自治体側のサポートは得られるのか

今はこのあたり、「お互いの信頼」なんて美辞麗句で隠蔽されて、実際問題「いざ」というときには 自治体側は何にもしてくれないのは見えてるんだけれど、個人ではなかなか交渉できないし、 言質取るにしてもどんな文章書けばいいのか分からない。

「交渉業者」なんて人達が出てきたら、「条件呑めないなら引き上げますが?」とか、 「○○病院はこんな条件で絶賛医師募集中ですが?」とか、個人で交渉するときよりも、 はるかにたくさんの交渉カードを切れるはず。

言質取る医者というのは、自治体側から見たら「悪い」やつらだけれど、 対価と引き換えに悪意を引き受けてくる、そんなビジネスをやる人達が、 法律畑からこれからきっと出てくる。

「医療請負会社」の可能性

「戦争の民営化」を成し遂げた、戦争請負会社みたいな存在が、 地域医療の現場に出てきたら面白いなと思う。

誰か公立病院の部長だった人とか、大学を退官した教授先生あたりが 代表者になって、法律の専門家と、交渉ごとの専門家とをパートナーにして、 社会のためでなく、株主の利益のために医療を運用する会社。今でも医師を紹介する 会社はあるけれど、もう一歩踏み込んだ会社組織。

医局の機能が変わらないかぎり、これから先、どう頑張っても僻地からは人が いなくなる。公立の施設とか、救急を受ける基幹病院なんかは、その傾向がもっと強くなる。

そんな施設に「個人」として勤務する人は、待遇に不満があったり、 「人命のためですから」みたいな美辞麗句につけこまれたり、 身の危険を感じたときには辞職という選択肢しかとれないけれど、 その人が会社組織に属しているなら、自治体と厳密な雇用契約が結べるかもしれないし、 不利な契約押し付けられそうになったとき、「本社と相談します」という手段が使えるようになる。

医師だけで作った団体は、たぶんあんまり上手に機能しない。

労働組合のやりかたは、みんなが同じ立場だからこそ、分断されたら無力だし、 医局や医師会は、構造上、違う立場を「同じ」なんて定義している時点で、内紛から逃れられない。 同じ医師同士、たぶん当直とか重症患者の管理とか、 厄介な仕事が誰かに押し付けられる機会は少なくない。 そのとき「仲間の集まり」は、共有のインフラにフリーライドする同業者を排除できない。

田舎に新しくできた総合病院が、同じ「内科」でも複数の会社から派遣された人達で、 一人一人、雇用条件がみんな違ってたり、医師の給与で議会がもめて、 契約の破棄がなされた瞬間、翌日行ったら医局が空っぽになってみたり。

「やりがい」とか「情熱」、使い古されて、あまつさえそんな感情とは最も遠い人達が、 稚拙なやりかたで勝手に運用する、こんな考えかたに振りまわされるのに疲れた現場に、 民間の会社組織が、信頼性の高いメッセージを届けることができたならば、 けっこう面白いことがおきそうな気がする。

それは医局が権益団体化へと変化するのを目の当たりにすること かもしれないし、従来の医局機能を営利組織が 肩代わりする構造かもしれない。どちらにしても、内科や外科を増やそうと思ったら、 情熱文脈以外のやりかたを導入しないと無理だと思う。

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