2008年1月30日

医療も「人間」から卒業していいと思う

患者さんは症状を抱えて、それを解決したくて病院に来る。 症状と治癒、両者の間には、当たり前のように「診断」が鎮座するけど、 「診断は不明で何となく治る」ことなんてよくあるし、 診断がついたところで、治らない人はやっぱり治らない。

診断という床屋の満足

床屋の満足 というのは、「本来顧客の満足を最優先すべき商売もしくはもの作りをしている人が、 自分の満足を優先して行動してしまうこと」を指す言葉。

床屋さんは髪を切る。切り始めて30分もすると、大雑把な形は出来上がるのだけど、 昔気質の床屋さんは、「そろそろ終わりかな?」なんて思ってからが長い。 少しラフだけど、何となくいい感じだった髪型は、ミリ単位の修正を繰り返されて、 1時間もする頃には、いかにも「床屋に行ってきました」なんて髪型になる。

患者さんは、「症状」を抱えてやってきて、対価を支払って「治癒」を購入する。 「治癒」につながらない、診断という行為は、床屋の満足。 髪切って、最後の最後で床屋さんがこだわっている、 投入されたリソースのわりに、見返りが少ない努力。

広域抗生物質が当たり前のように出回る現在、たとえば「発熱」という問題を抱えて 来院した人は、どんな診断がついても、治療はほとんど変わらない。高齢者であれば、 発熱はやっぱり細菌感染。何となく点滴して、強力な抗生物質投入すれば、 治る人は大体治る。

熱源調べても、行う治療は結局同じ。裏を返せば、血液検査とか画像診断、 あるいは問診やら理学所見やら、診断を確定するいろんな努力は、 治療がそれほど変わらないのなら、「治癒」にはつながらない、省略可能なものなんだと思う。

熱が出る。高齢者であれば、とりあえず入院させて、抗生剤を点滴する。
お腹押して痛がったら絶食にして、意識あったら食事を出す。
熱下がったら食事を出して、4日たったら経口の抗生物質に変更して、 何もなければ7日間ぐらいしたら帰ってもらう。

こんなやりかたすると、もちろん原因は分からないし、見逃したら命取りになる「穴」なんて いくらでも指摘できるけれど、条件分枝は簡単に増やせる。ごくごく大雑把に、 救急外来に来るたいていの症状に対して、「診断できないけれど、とりあえず治癒につなげる」 やりかたを組むことは、決して不可能ではないはず。

機械の修理なんかと違って、人間の身体はあいまいさを許容する。部品足りなかったり、 多少の隙間ができたところで、余った組織を詰め込んでおけば、傷は何となく塞がって、 そのうち治る。

あいまいさだからこそ、「診断」を行うことは極めて難しいし、 診断を迂回しながら治癒にたどり着く手順を探すやりかたは、 そのあいまいさに乗っかる形で、案外うまく行くと思う。

技術の印刷可能性

「人間要素の排除」こそが、プロトコルを考える上での鍵になる。

「一目見れば」誰でも分かることであっても、複雑な検査を3つ重ねれば、それを 機械的に証明できるなら、機械を優先するやりかた。

たとえば「見る」なんていう行為もまた、手順をばらすことで、「機械化」できる。 腹部外傷でCTを撮る場合、「出血のないことを確認する」なんて書きかたは論外で、 「肝臓の周囲が1本の線で追える」とか、「脾臓がひと固まりに見える」とか、 分かる人なら一行で済ませる部分を、ことごとくチェックリストに記述しないといけない。

コストは結局安くなる。「ちょっと診て、ちょっと治す」なんてやりかたは、 バックグラウンドでものすごいコストがかかってる。 「ちょっと治す」を担保するための維持コストは、請求書からは見えてこない。

機械は疲れない。たくさん使えば、たくさん作れば、いくらだって安くなる。 どんなに高コストの検査を組もうが、人間要素さえ入らなければ、 技術は「印刷」することが可能になって、劇的なコストダウンが可能になる。

診療という一連の動作を、検査機械の数字、あるいは「機械化した医師」の振る舞いとして 記述できれば、そこに「診断名」は存在しなくなる。診断という行いこそは、 医療行為の中で、唯一絶対に「人間」を外せないコンポーネントだから。

たぶん、医療から「診断」を外すことができたとき、医療はもはや技術ではなく、 いくらでも大量生産可能な印刷物となる。医師の調達コストは下がるだろうし、 そもそもそこに、医師がいなくなる可能性だって見えてくる。

訴訟抑止力としての機械化医療

都立病院で、また救急の先生が書類送検された。

ベテランの救急医だし、都内の病院だからこそ、恐らく例によって、 医療者側は「正しい」ことを行ったにもかかわらず、法律的にはそれが「正しくない」 認定を受けたんだと思う。

事故とか過誤とか、「医者が悪い」と現場が叩かれるのは、やっぱりそこに人間要素が存在するから。

医療という行為の定義から、「診断」という人間コンポーネントを外すことができるなら、 それは訴訟圧力に対する強力な対抗手段になりうる。

「全てのトラブルは医師のせい」なんて論調は、 「医師は診断して、患者さんを安心させるお仕事」なんて文脈から発生する。

「医師というのは、頭が痛い人にCTスキャンを提供して、 脳実質周囲に白い部分がないことを確認する仕事です」 なんて俺様定義を全国の救急医が共有したなら、「頭痛」という症状に対しては文脈上、 医師の責任が発生しない。

そんなことは世論が許すわけないんだけれど、今はまだ、現場が何をわめいたところで、 交渉の相手は、議論のテーブルにも座ってくれない状態。こんなやりかたは、少なくとも 状況を動かすための武器にはなるはず。

「症状」と、「治癒までの道のり」とを直結させる手順書を記述して、 学会の偉い人達がそれに承認を与えれば、訴訟が怖い現場の医師は、 たぶんみんなそれに乗っかる。

診断という人間要素、大事そうなくせに治癒に寄与しない、 厄介なコンポーネントが医療から追い出せるなら、 仕事はずいぶん楽になる。

診断を放棄した医師を、マスメディアはぶっ叩く。もしかしたら、学会認定の「頭空っぽの」医師と、 そんな手順書を是としない「正しい」医師とが対立するかもしれない。 患者さんはたぶん、頭が空っぽの医者が常駐する救急病院と、夜間救急数時間待ちの「正しい」 病院と、自ら支持する病院を選択することになる。

そもそもが、人間の判断がないとまわらないシステム作った時点で、 医療は相当に筋の悪い決定を下したんだと思う。

技術はプラットフォームに転化する

医療現場から、あるいは現場の医師から「脳」を外す、そんなやりかたは、 間違いなく医師の地位を低下させるけれど、今度はたぶん、 医療技術がプラットフォームとなって、 今までから考えられなかった場所に、医師の居場所が生まれる。

低コスト化という流れのどこかで、技術はその立場を大きく変える。

インド人もびっくりの 20 万円乗用車とか、最近話題の 5 万円 PC だとか。 価格破壊が極限まで進んだ製品は、もはや単なる車、ノートPC の用途からはありえない、 何か新しいものを作るための「部品」であったり、 特定の機能のためだけに汎用品を使うようなやりかただったり、 今まで想像もされなかったような使われかたをされるようになる。 「高価格だけれど高性能」を追求する流れは、その時点ではもはや、主流ではいられない。

コストダウンを進めていくと、技術はプラットフォームに転化する。 「その使いかたを極める」ための製品から、「それを使って何かやる」、 ネジ一本、歯車一つみたいな部品としての使われかた。

訴訟圧力とコストダウンの要求は、いつかはきっと、医療の「脱人間化」を要請する。 医療はたぶん、そんな流れを拒めないし、それでも人間でありつづけようとする人は、 「既得権者」として叩かれたり、 「人間らしく」裁判所に呼び出されて、人生台無しにされたりするんだと思う。

コスト圧力と訴訟圧力が弱まるわけないんだから、偉い人の誰かが腹括って、 さっさとステージ移したっていい頃。

今ならきっと、手順書発表した人が天下取れるはず。

続きを読む "医療も「人間」から卒業していいと思う"

2008年1月29日

経済活動を正当化する物語

技術には、漠然と「実力レイヤ」と「政治レイヤ」というものがあって、 技術が成熟してくるに従って、政治レイヤでの発言力が、業界の流れを左右する。

技術的にいくら「正しい」ことをやっていようと、政治的に自らの正当性を主張できない人達は、 その技術を安価に買い叩かれたり、別の誰かに、その仕事を奪われてしまう可能性がある。

開業する若手のこと

来年は、自分よりも圧倒的に若い人達が、何人か開業する。

まじめに仕事をしてきた人たちだけれど、今の時代、「この人にしかできない治療」なんてものは 事実上存在しないし、その技術だけで食べていける状態、「手に職がついた」状態にまで 技量を高めていくためには、大きな病院にいても12年ぐらいかかる。彼らはもっと若い。

武器として通用する「何か」を持たずに、医院の建物と単純写真の機械、 あとオーダーリングシステム入れて、たぶん1 億円ぐらいの借金。

彼らがどんな成功方程式を呑んだのかは分からないけれど、すごい度胸だなと思う。

今の状況でこの仕事してて、10年後がどうなっているのか、正直全く分からない。 技術は進歩するだろうけれど、この10年、業界ひっくり返すような画期的な何かは 生まれていないし、同じ仕事に対する対価は、これから先、安くなることはあっても、 良くなることなんてありえない。

技術の成熟と正義の実体化

近くの開業医からは、また時間外の入院依頼。発熱のお年より。 4 時に来て、時間いっぱいまで点滴突っ込みながら検査して、 あまつさえ 7 種類、 28 日分の処方。

紹介状一通。「患者様は衰弱しており、入院が必要と思われます」なんて。

受けるこっちも時間外だから、技師さんとか検査の人とか、 みんな呼び出し。準夜勤のナースはベッド移動でパニック状態。 紹介状書いたその先生は、7 時もすぎれば電話もつながらない。

うちなんか田舎の小規模病院だけど、それでも開業医のクリニックに比べれば、 設備も人も、遅れをとることはないはず。充実した設備とか、人的資源というのは 本来「力」なんだけれど、7 時も回ったこの時間、「正義」握ってるのは患者さん ぶん投げた開業医の先生。正義が「入院」指示した以上、 「力」持ってる側は、受ける以外の選択がとれない。

設備や人が少ないこと、患者さんを診る能力を持っていないこと、 それ自体が武器となり、正義を生み、うちみたいな施設を使役する。

技術が成熟してくると、「技術を持っていること」それ自体の持つ力が低下する。 技術は政治によって運用可能なものとなって、今度は政治的な正当性が、 実体を持った力となって、業界を左右する。

やっぱり何か間違ってるし、どこかで限界越えて、何かひっくり返ると思う。

既得権益ゲームのこと

昔はみんな、プライド高かった。お金に汚くなかったし、患者さんのためにつくした。

そんな「昔のお医者の高貴な精神」支えてたのは、黙って口空けてれば無尽蔵に お金をくれた、「よかった昔」の医療行政だったんだろうけれど、今はそのへん厳しくなって、 みんなプライドどころじゃなくなった。

医療機器買ったからには、使わないとお金を生まない。患者さんを投げてよこすクリニックは、 何はなくてもまずレントゲン写真。無駄だけど、無駄やらなければ収入ないから、 先方だって必死。

今みたいな独立開業、医師一人に一つの建物、その人専用の医療機器なんて、 どんなに言い繕ったところで、間違いなく無駄。道路工事とそのへん同じ。 無駄だけれど、そこからお金を得る人が生まれてしまった以上、 道路は作らなきゃいけないし、レントゲン写真は撮らないといけない。

無駄はできないし、誰かに「無駄」認定される危険があるからこそ、 「開業医」という業務形態にこだわりつづけるのはすごく怖い。

誰か改革派の国会議員が、正義運用して得した誰かに 「既得権益」のラベルを貼り付けたその時点で、 開業の先生がたを取り巻く状況は、たぶん今以上に厳しくなっていく。

若い人達は、たぶん自らを「売り抜ける」こと狙ってるんだろうけれど、 個人的には、そんな余裕はないような気がする。

世の中に余裕がなくなると、たぶんいろんな人が、別の誰かを叩きたくなる。 キーワードは既得権益。「あいつらは既得権益に群がっている社会の荷物だ」みたいな叩きかた。 医療全体に対する叩きは少しだけ落ち着いたけれど、総論編終わって、 各論叩き始まるまで、もう時間の問題だと思う。

政治レイヤでの振舞いかた

「自分は正しいことやってるんだから大丈夫」は、これから先、説得力を持たなくなる。

実体経済レベルでの職業倫理と、政治道徳レイヤでの「自らの正当性」を裏付ける 物語とは、別個に用意する必要がある。

ネット世間の発達は、人と人の距離を縮めた。誰もが簡単に「万」に届く人に意見を広めて、 国会議員みたいな立場の人と、ちょっと有名な普通の人との距離は、 10 年前に比べたら、 ありえないぐらいに縮まった。

物語を持たない人達を「既得権」として攻撃して支持を勝ち取るやりかたが、 政治手段として一般的になっていく中で、「自分の経済活動」を正当化する物語の価値は、 ますます大切になっていく。

誰かの呟き一つが社会を大きく揺さぶる昨今だからこそ、自分の「商売の基本に立ち返る」ことは、 たぶんすごく大切なんだと思う。

続きを読む "経済活動を正当化する物語"

2008年1月25日

幸福の複雑性

社会の「成功」を、富の大きさで判断することは正しいんだろうか?

たとえば「文字数」は、本を表現するパラメーターのひとつではあるけれど、 文字数それ自体は、「本の面白さ」を保証できない。白紙はつまらないけれど、 文字が膨大だからといって、その本が面白いとは限らない。

面白さというものは、「白紙」と「膨大な文字数」との間にあって、 文字数という測定可能な数字では表現できない、「複雑」な何か。

「幸福感」みたいな社会の空気もまた、そんな「複雑さ」に属するパラメーターなんだと思う。

漁礁を作る人

漁獲量を増やしたい漁師は、そのへんの岩とかスクラップを 海に投げ込んで、「漁礁」を作る。漁礁は藻が生える場所を作ったり、 魚が逃げ込める空間を提供したりして、生態系を複雑にする。

「自由経済最高、格差上等」なんてやりかたを進める経済畑の人達は、 「海底埋め立ててフラットにしたら、漁獲量増えて最高だよ」なんて主張。

そんなやりかたは、あるいは海が生み出すたんぱく質の総量を増やすけれど、 もちろんそんなことしたら、生態系壊れて地球が滅ぶ。

海の生産性、純粋な「肉の量」なんかじゃなくて、漁師の人達が海から引っ張るお金を増やすために 昔からやられているのは、やっぱり漁礁。海底の見通しを悪くして、環境の複雑性を増すようなやりかた。

フラット化が進んだ、今の格差社会はたぶん間違ってる。

間違ってるからこそ、「間違ってる」と主張する側は、 それに対抗する社会プランを提出する義務を負う。 恐らくそんな社会プランは、ばらまき上等のズブズブ福祉国家なんかじゃなくて、 社会の複雑性を増すような、「社会に漁礁を作る」ような政策。

個人的には、そんな「漁礁」を、地域貨幣の導入で作れるように思う。

「自由円」と「地域円」

生活保護のお金とか、あるいは道路工事で業者に支払うお金なんかを、 その地域でしか使えない「地域貨幣」で支払うところから始めればいいんだと思う。

全国区のお金が持つ問題点は、なんといってもその流動性の高さ。道路代とか「箱」代とか、 地元業者にお金が流れても、その人がコンビニエンスストアで弁当を買えば、そのお金は 東京にある本社のもの。地元救済のためにばらまかれたお金の多くは東京に集まって、 地域に「根付いた」富なんて、コンクリートの固まりばっかり。すごくもったいない。

額面は「自由円」と同じだけれど、その地域でしか流通できない「地域円」を県が発行すれば、 お金をお金のまま、その地域に残すことができる。

県が無制限に「地域円」を発行すると大変なことになるから、実際には県庁の金庫に「自由円」を ため込んで、それと同額の「地域円」を発行することになる。地域円は、不自由なぶんだけ 価値が下がる。県は地域ごとの「両替レート」を設定して、たとえば「1 円は1.4 長崎円」みたいな 告示を議会で決定する。

「両替レート」というのは、生態系で言うところの「地形」、山であったり海であったり、 暖かいところとか寒いところとか、そんな環境を複雑にするための道具として機能する。 地形効果を高める意味で、企業には、「労働の対価」を「自由円」で支払う義務を負ってもらう。

  • 地域円の両替レートが高い、地域円が「弱い」地域は、たぶん生活コストが安くなる。 同じ給料を得ても、地域円が弱いぶんだけ、「みかけの収入」が上がるから、その地域で生きていくのは楽になる。 その代わり、他の地域から何かを買うために必要な「自由円」を調達するのは難しい
  • 元々充足している便利な地域は、地域円を弱くする理由がない。 地域円が「強い」地域は、全国展開する流通業者にとって商売をやりやすい地域になるけれど、 地域通貨の収入増加効果が期待できないから、収入が低い人は住みにくい

議会はたぶん、「両替レート」を上下させる行為を通じて、自らの地域に特色を出すことができる。 対価が少ない、労働集約型の産業を誘致しようと思ったら、両替レートを高くすることで人口増加を狙ったり、 「オラが村はあくまでも東京目指す」みたいな考えかたの地方自治体は、たぶん両替レートを低くして、 全国展開する業者を引っ張ろうとする。

全国区のメーカーにしてみれば、たとえば車を 1台売ったとしても、 地域通貨を「自由円」にして東京に送るときに、両替のコストが発生してしまう。 地域円が「弱い」場所での商売は不利だけれど、代理店を全国展開しなければ、売上げは上がらない。

アニメーションスタジオみたいなコンテンツ産業であったり、コンピューターソフトをネット販売するような 企業になると、流通のことを考えなくていいから、今度は通貨が弱い地域のメリットを活かせる。

両替レートは市場に任せないで、「議会」で決める。ここを自由市場に任せてしまうと、 せっかくできた「山」や「海」は削られ埋め立てられて、結局元のフラットな土地に戻ってしまう。 個人レベル、非公式なルートでは、きっといろんな取引が生まれるんだろうけれど、 それもまた、環境を複雑にする方向に働くはず。

「一つの貨幣」で得をする人

「世の中に貨幣は一つ」なんて考えかたを常識認定することで利権を得てきたのは、 何といっても銀行家の人達。

石油の量も、小麦の収穫も、自分達の財布の中身も、何一つ変わらないのに、 気がついたら価格が上がって、財布の中身が相対的に減る。「減った」中身は要するに、 貨幣を運用する銀行家のポケットに集まってしまう。

それがどんなものであれ、利権を得ている人達は、やっぱり何だかずるい。 だからこそ「貨幣の多様化」を求める行動は、銀行家の利権に対する反対意志を表明することにつながる。

通貨の統合とか、「一つの世界」みたいな理想論は、何だかどこかいかがわしい。

生態系で「一つの世界」をやろうとしたら、川床はジャンボタニシで埋め尽くされて、 カブトムシやらモンシロチョウやら、昆虫類はアメリカゴキブリに食い尽くされる。 「勝者が全てを得る」グローバル社会は、たしかにその土地が生産するたんぱく質の 総量を増やすけれど、ジャンボタニシとゴキブリしかいない森を見て、 「豊かな自然でしょう?」なんて胸張れるのは、オリックスの宮内会長ぐらいだと思う。

自由通貨の政治機能

地域通貨制度は、たぶん生活に対するいろんな考えかたを許容する。 何か好きなことをやりたくて、生活はそこそこでかまわないなんて考えかたの人ならば、 たぶん「通貨の強い」地域に住む理由は少ないから、もっと住みやすい場所を探すだろうし、 全国区で何かやりたい、「便利」に対価を惜しまないような人ならば、東京をはじめとした 都市部に住む理由ができる。

地域通貨が流動性を放棄したのと対になる形で、「自由円」はもっと流動性を高める方向に 進化すると面白いなと思う。

今はまだ、現場を回してる特定の誰かに対価を支払いたいと思っても、 そこには「何とか委員会」とか、何のためにそこにいるんだかよく分からない爺さんが濡れ手で粟して、 ウハウハ喜ぶのばっかりよく見えて、何だか楽しくない。通貨の流動性は、まだまだ全然足りてない。

完全電子化、クリックひとつでどこにでも行ける、流動性が行きつくところまで行った通貨は、 消費すること、投資することそれ自体が、 その人の意思を表明する手段になりうる。自由な通貨を持っていることそれ自体が政治参加になるから、 政治という機能はたぶん、自由な通貨を持っていることと等価になっていく。

そんな流れは要するに、「お金持ち以外は政治参加できない」社会を作ることに他ならないから、 自ら生活する地域を特徴付ける「両替レート」だけは、だからこそ地域の議会が決定する。

ちゃんと回せれば政府いらなくなると思う。

分からないこと

「ヨーロッパは通貨統合して豊かになったよね?」と突っ込まれたけれど、 たしかにそのとおりで、反論できなかった。社会の「複雑さ」に相当するパラメーターは 測定不可能だから、そのへん議論ができない。パリの人達がマクドナルドをぱくつく社会は、 果して「豊か」といえるのか。それとも収入大切で、余計なお世話なのか。

「銀行のATM 打ち壊して、おっさん座らせたら複雑だよね?」なんて突っ込みも、反論できなかった。 それをやるとたしかに社会は複雑になって、おっさん一人ぶん、確実に世の中不幸になる気がした。

とりあえず公共事業費と生活補助費を「地域貨幣支払い」にするルールから始めると、 昔ながらの利権とバッティングしないで、「そこに金が落ちる」構造作れると思う。

何年かして、お金がある程度まわり始めて、全国区の「自由円」への両替欲求が高まったら、 今度は議会で「両替レート」を設定して、自分達の地域に「地形」を作る。

たぶん、もう少しだけ地方に住む理由ができて、日本全体での生産性はわずかだけ下がって、 その代わり、社会が生み出す「複雑性」は、今よりもう少し高まる気がする。

きっと面白いと思う。

続きを読む "幸福の複雑性"

2008年1月24日

機会の均等とオークション制度

「青信号」オークション

「青信号」をオークションで購入できると、きっと面白い。

ある程度の対価を支払ってでも急ぎたい人は、自分の車にETC みたいな機械を積んで、 信号機に近づいた時点で「入札」を行って、「青信号」の競売に参加する。

信号機の切り替えが60秒ごとだとしたら、その時間の半分、前後15秒間づつがオークションの時間。

信号機が「赤」ならば、一刻も早く「青」にする権利に入札するし、信号機が「青」ならば、 自分が渡りきるまでの時間まで「青」でありつづけるよう、信号機周辺50m ぐらいの車は、 すべてオークションに参加する理由が発生する。

オークションは、ビックレー方式で行う。このやりかたは、もっとも高い金額を入札した人に 権利が発生するけれど、支払いは「2番手」の金額。オークションの主催者が信頼できる 限りにおいて、「青信号の本当の価値」をすばやく決定できるやりかた。

信号が空いていて、「入札」を行う人が誰もいなかったのなら、 信号機は今までどおり、一定時間ごとの動作を行う。あるいはそれでも急ぎたいなら、 「1円」入札を行うだけで、信号機を合法的に無視できる。東京あたりなら、 たぶん「15秒間」に価値を見出す人多そうだから、毎回の信号ごとに、 都内のどこかで「オークション」が発生して、全て都の収入になる。

けっこう面白いことがおきると思う。

高額入札をする人が2人いた場合、信号機は最大で90秒間「青」になって、 交差点の反対側は、30秒間しか渡れなくなる。

「青」を勝ち取った車の周囲には、もちろん他の車が大量にいて、その人達もまた、 オークションに競り勝った人の恩恵にあずかることができる。たとえば毎日「ノンストップ」 を信条にしているお金持ちがいたならば、その人の生活サイクルに通勤時間を合わせれば、 その人もまた、無償で「ノンストップ」が手に入る。このやりかたは、 急ぎたい人の流れを止めないシステムになる。

普段から混雑している道路には、そうでない道路に比べて、「急ぐ人」が たくさん存在している可能性がより高い。 「オークション信号機」を上手に設置すれば、渋滞を減らすことができるかもしれない。

「時間は平等」という立場からは、 オークションは不公平なルールだけれど、時間を「忙しさ」に応じて配分してほしい 人達にとっては、このルールこそが公平に見えるはず。

院内PHSのこと

今の病院は、携帯電話社会。

医師をはじめとするスタッフは、みんなPHSを持っていて、何かあったらすぐに呼ばれる。

携帯電話みたいなリアルタイムメディアは、「割り込み」という致命的な問題を抱えている。

大事な話をしているときとか、手元狂うと危ない手技をしているときに限ってPHSが鳴り響いて、 電話に出てみれば「伝票にサインがありません」みたいな、正直どうでもいい問題だったり。 院内の連絡手段が携帯電話になって、まとまった時間を取るのが難しくなった。

これもまた、「平等」が生み出す不平等。

電話をかける側も、受ける側も、自分が今過ごしている「時間」の価値は、刻一刻と変化する。 大事なことしている間の時間というのはすごい価値を持つし、ヒマな時には、時間の価値は地に落ちる。 明日でもいい伝票のサインは急がないけれど、患者さんの急変コールは、 主治医が何をしていようが、「その場」で伝わらなければ意味がない。

相手がどんな状態なのか、相手の時間価値は今どれぐらいなのか、それを知るすべがないから、 全ての電話は「割り込み」から逃れられない。

病院用のPHS には、本体に「忙しさ」を示すギミックをつけてほしいなと思う。 何年も前から要望出してるのに、どのメーカーもまともに取りあってくれないけれど。

具体的には、PHS の本体にスライドバーをつけて、自らの忙しさを5 段階、 「すごくヒマ」「ヒマ」「普通」「仕事中」「発狂寸前」を、相手の電話に 表示する機能。

その表示は、ナースルームからリアルタイムに参照できるようにしてもいいし、 医師の内線を押した瞬間、相手の「忙しさ」が表示されて、そこで連絡を中止すれば、 相手の電話が鳴らないような機能にしてもいい。

これも一種のオークション制度。 相手の重要度と自分の重要度とをそれぞれ比較することで、もっとも正しそうな結果に 落とし込むやりかた。

こんなインフラを実装できると、電話には「外情報」が発生する。

スライドバーを「発狂」にしてもなおかかってくる連絡ならば、 それは電話機をとる前の段階で「何か重要なことが起きた」ということが伝わる。 主治医は誰でも、「思い当たること」の一つや二つ抱えているから、 電話機を取る前の段階で、心の準備をすることができる。ほんの数秒間のことだけれど、 これは案外大切だと思う。

このやりかたは、ヒマにしてても「忙しい」表示をする裏切り者の発生を防げないけれど、 病院でPHSを持っているのは、せいぜい60人ぐらい。ルールなしでも、コミュニティの小ささが、 たぶん裏切り物排除の機能を自然に実装するはず。

病院のネット予約

病院のネット予約が当たり前になる時代が来れば、「病院の忙しさ」みたいなパラメーターを リアルタイムで公開できるようになるかもしれない。

患者さんが自宅の住所を検索すると、周辺の病院一覧がマップに表示されて、 忙しい病院は赤い、患者さんが少ない病院は青いカラーを与えられて、 「色温度」を利用した混雑度を検索することができる。

患者さんは、「どうしてもこの病院」という思い入れがないのなら、 一番空いている病院を予約すればいいし、「ここ」という希望があって、 なおかつ「今かかりたい」のなら、忙しい病院の予約枠を購入することもできる。

こんなサービスが実装されたら、きっと反対意見が殺到するのだろうけれど、 今の時点で「平等」から割りを喰っている人達のほとんどは、 時間単価が極めて高い、忙しい人たち。こんな人達にしてみれば、 「時間をお金で購入する」機会が奪われている平等ルールそれ自体、 たぶんものすごく不平等なものと考えているはず。

機会の均等とオークション制度

信号機にしても、PHSにしても、何かの機会を公平にするやりかたは、 同時にその「公平さ」に割りを喰う人を生んでしまう。 そんな人達はしばしば、系の中で最も生産性が高かったりするから、 これは本来不幸なことだと思う。

機会の均等化は本来、「オークション」みたいな制度の実装と一緒に進めないと、 その利点を最大化できない。

機会が不平等だった時代、「機会」と「自由度」とは全く同じもので、機会にアクセスできない人には、 そもそも「自由度」なんて発生しなかった。

「平等」ルールができて、機会はみんなのものになったけれど、自由度の総量は 限られていたから、今度は「自由」というものが、声の大きな人に独占されてしまった。

機会が平等になったなら、「自由」というものは、 本来は対価を支払って購入するものになるべきなんだと思う。 規則に従う代わりに、安価に機会を得る人と、対価を支払うことで「自由度」を購入する人達とが 共存する社会。

今の平等ルールは、今度は対価を支払う機会を奪ってしまう。自由が欲しい人達は、 「声の大きさ」以外の方法で自由を取得することができない。 これもまた、機会の不平等。公平なルールが、新しい不平等を生んでしまっている。

機会は平等になるべきだけれど、平等という考えかたもまた、「あらゆる機会を平等にしていく」 方向へと、もっと進化していくべきなんだと思う。

続きを読む "機会の均等とオークション制度"

2008年1月23日

ベッドから始まる経済

寒くなったからなのか、また病棟がまわらない。病棟中探しても、 空きベッドあと3つで当直入りとか、ひどい状況。

このあたりの病院が閉まる18時前後になると、「入院が必要と思われます」なんて 紹介状を持った患者さんが増える。たいてい元気で、症状は5 日も前からで、 「入院が必要」なんて、本人は全く思っていないような患者さん。

「入院が必要」というのは戦略ワード。最初に見た医師が「必要」と判断したら、 それを否定するためには、後の医師は患者さんに責任を負わないといけない。 「入院が必要と思われます」というのは要するに、「もううちの病院閉めるから、 面倒くさいから後はそっちの責任でお願い」なんてぶん投げの依頼。

夜の診察は面倒だし、そこで「明日いらっしゃい」なんてやって、トラブルになったら 自分のせいになるのは分かるんだけれど、これもまた医療資源の無駄遣い。

救急外来開いている病院は、今本当に減っていて、うちみたいな田舎でも、 断り5 件目で再度搬送依頼とか、当たり前になってきた。みんな面倒な仕事から撤退して、 来年以降、当院の休日当番医は4 回増える。

「万が一」に対応するための医療資源は、毎年のように細くなる。 そんな状況を一番よく理解している、現場を知ってる開業医その人が、 まず真っ先に、残りわずかな医療資源を食いにくる。

病気は「床」から始まった

小石川療養所レベルの大昔、たぶん病気というのは、具合が悪くて「床」につくところから始まった。

予防医学なんてない時代。症状のない人、普通に歩ける人というのは、病気と 認定されなかっただろうし、労咳で喀血するような人だって、普通に街を歩いてた。 だからこそ悲惨なことになったんだろうけれど、そもそもの病気というのは、 「人が床につく」状態だった。

もう少し最近、昭和40年代頃に、昔ながらの開業医師に対抗してたのは、「スクーター医者」 なんて呼ばれた人達。スクーターに乗って往診して、訪問診療という武器を使って、 昔ながらの医院から患者さんをさらう。この時代の開業医は、みんな自分のベッドを持っていて、 「スクーター医者」もまた、床についた患者さんから対価を受け取る。 経済の基本はあくまでも「ベッド」であって、ベッドに責任を負うことが対価を生んだ。

「無床」が成り立つようになったのは、まだまだごく最近のような気がする。

自分達が研修医だったほんの10年前、心不全は悪性腫瘍並に予後の悪い病気だったし、 当時の抗腫瘍化学療法は、副作用が強くて外来治療なんてありえなかった。 喘息をコントロールする吸入ステロイドだって出始めたばかり。いろんな病気を 「外来でコントロールする」なんて考えかたそれ自体、 たぶん昭和60年代以降にならないと、それを成り立たせる技術が揃わない。

名付ければそれは病気

病気が「床につく」ことを意味した時代は、 入院診療を行うためのベッドを提供できない人は、たぶん医師としての仕事が成り立たなかった。

医学は進歩する。血糖値が高い人。コレステロールが高い人。 高血圧とか、果ては腹囲が大きい人までみんな「病人」認定されて、 「歩く人」が生み出すお金は増えた。

パイを膨らませたのは、昔ながらの臨床医というよりは、むしろ疫学畑の人達。 当時、どんなパワーゲームがあったのかは分からないけれど、 「歩く病人」というパイは、医療でなくて保健行政とか、もっと別の分野が 持っていってもよかったはず。パイはますます大きくなって、 今では健康診断とか、たしか600億円近い規模のお仕事もまた、医療の取りぶん。

「ベッドが生む利益」と、「ベッド以外が生む利益」とは、たぶん どこかで逆転して、医師の仕事が大きく変質したのだと思う。

病床本位制と診療相場制

医療というのは、とりあえず苦しんでる人に「ベッド」を提供する行為

痛かったり、苦しかったりする人に、休むためのベッドを提供する行為は、 最低限、その人を少しだけ幸せにするけれど、普通に歩いてる人捕まえて、 「お前は病気だ。俺は権威だ。俺に従え」なんて命令するお仕事は、 誰かを幸福にするんだろうか ?

大昔はたぶん、医師という生き物は、自分が責任を持つ「ベッド」の存在と不可分だった。 外来だけの診療所というのは、だからこそ、進化の過程で消化管を捨ててしまったみたいな、 生き物として歪なありかたに思える。

実体としてのベッドが生んだ経済は、今では紹介状という「ベッドの為替」が出回って、 無床の診療所というありかたを許容した。為替は便利だったけれど、 みんなが乱発を続けたもんだから、その信用はだんだん落ちて、現場は息切れ寸前。

無床の診療所を開業している先生がたには、現状についてどう思うのか、 ぜひとも聞いてみたいなと思う。 なんで「ベッド」を捨てる気になったのか。「面倒」とか「疲れた」とか、 そんなぶっちゃけたお話ではなくて、もう少し公的な、前向きな論理をどう作っているのか。

「患者さんくるしんでまーす」とか、「この人がにゅういんしたいっていってまーす」みたいな、 馬鹿のふりした紹介状は本当に勘弁してほしい。能力的にも経験的にも、 自分なんかよりも圧倒的に上の人が瀬戸際外交をしかけてくるのは、 仕事してて何だか哀しい。ベテランはベテランらしく、 「俺は偉い。俺は面倒い。お前診ろ。今度奢ってやる」のほうが、 よほど気持ちよく仕事ができる。

まとめ

診療報酬が減額方向に改訂されたり、検診業務が医療機関から外されて、 民間の営利団体に移管されたり。

ネット世間で開業している先生がたは、行政側のそんなやりかたを「馬鹿なやりかただ」 なんて嘲笑ってるけれど、ベッド持ちやってると、逆に「もっとやれば?」なんて感想。

診療報酬を「ゼロ」にして、基幹病院に重税かけて、入院費用を今の3倍ぐらいにしてくれれば、 急性期病院から在宅医療までの流れは、もっとずっとスムーズになる。きっと巨大な税収が 発生して、あまつさえそのお金は、ノーパンシャブシャブ屋さんのお姉ちゃんの股ぐらに 吸収されちゃうんだろうけれど、それでもいいと思う。なんといってもそんな流れは、 本物のベテランを、ベッドサイドに戻す可能性があるはずだから。

もちろんそれは、そのまんま自分の収入が減ることにつながるんだけれど、 「利益はベッドから発生する」、昔ながらの医師のありかたにつながる流れは、 個人的には歓迎している。

開業している先生方の文章読んでると、勤務医の苦悩はよく分かるとか、 我々も現場を理解しているとか、温かい、でも何だか空虚な言葉。 みんな昔はベッド持ってて、自分なんかよりもはるかに多くの能力と経験を有してて、 なのにどうしてだか、それを生かすことを止めてしまった人達。

「分かる」なんて言われなくても分かってるし、世代が違うんだからこそ、 本当は「分かる」わけがないんだとも思う。言葉じゃなくて、ただ黙って1 床、 その日の最後の患者さんにベッドを提供してもらえたならば、 若手はみんな、滂沱の涙流して開業の先生がたに従うと思うんだけれど。

続きを読む "ベッドから始まる経済"

2008年1月16日

自閉する道具としてのインターネット

今はまだ法律の問題があるから不可能だけれど、「西洋薬箱」のサービスをやってみたい。

契約結んだ人の自宅に、日曜日の救急外来に置いてある程度の薬、 体温計と、電話回線で飛ばせる聴診器、人体に番号を振った地図、 あとは体のあちこちを押して、圧力を測定する「触診器」を詰め合わせにして置いてもらう。

1年間、24時間、携帯電話で、医師に電話をかけ放題。 調子よかったら、薬箱を引き継いで、もう1年契約を伸ばすルール。

遠隔診療はいいかげんになってしまうけれど、「さっきからお腹が痛いんですが?」という 問い合わせが来たら、「7番の場所を、250gぐらいで押してみて下さい。痛いですか?」なんて やりとりをした上で、薬箱から特定の薬を使ってもらう。きっと便利。

鳥インフルエンザみたいな疫病が問題になってきたら、 タミフル求めて患者さんが病院に殺到して、そこで感染するのは避けられない。 不完全だけれど、「病院にいかないで医師にかかる」手段というのは、あってもいいと思う。

日曜日の救急外来は、天気が良いと150人ぐらいの患者さん。実際問題、それだけの人を診て、 入院が必要だったのは6人。残り144人の人達は、「薬箱」があれば、電話で十分なはず。

問題点

救急外来に来る人の症状とか診断手法、それに対する対処方法は、 大体がパターン化していて、もうこの10年、使う薬も変わらない。 「良くならないなら病院にかかってください」で逃げていいなら、 遠隔診療はそんなに難しくはない。

問題になってくるのは、何といっても相互信頼。

電話の先にいる医師は、すべての問い合わせに「大丈夫ですよ」なんて答える阿呆かもしれないし、 契約結んでしまったら、あとはしらばっくれて「病院にいったらどうですか?」なんて返事しか よこさないかもしれない。顔が見られないから、医師の「質」を保証するすべがない。

医者側もまた、リスクを背負い込む。プリペイド方式で「問い合わせは年間20回まで」なんて 上限設けたら、たぶん年末は一睡もできない。「問い合わせ一回○円」をやったなら、 今度は返答の質を保証する責任が発生するし、料金回収の問題を避けて通れない。

結局大切になるのは、裏切り者排除のシステム。患者側も、医者側も、 お互い「自分は信頼できる」ことを保証できないと、「薬箱」は動かない。

「電話かけ放題」の持つメリット

お互い信頼できるなら、「電話かけ放題」のやりかたは、たぶん一番効率がいい。

患者さん側は、納得いくまで電話かければいいのだし、医者側がいいかげんな対応したら、 また電話がかかってくるのは明らかだから、ルールが自然に努力目標を決定する。

締め切り効果が出現しないから、サービスに満足感を得た人は、たぶん年末になっても 電話の頻度を変えないはず。

たとえばこんなサービスで、年間1000万円を集めようと思ったならば、 一人あたり20万円、50人の契約者を確保することになる。みんなが週に1 回程度電話するとして、 医師は1日に7回程度、電話で「診療」を行えば済む。恐らくこの数はもう少し増やせて、 「契約料」はもう少し抑えられるはず。

同じようなサービスを、セコムみたいな大手が一般向けに展開したら、 たぶんこの程度の金額ではすまないし、莫大な責任が発生するから、 契約書も厚くなる。

「信頼できる閉鎖系」で行う商売は、「開放系」で仕事をする企業には絶対に追いつけないし、 特に「かけ放題」を実現するのは不可能に近い。 契約には、付帯事項が山ほどつくから、ユーザーの満足感は高くならない。

「かけ放題」ルールはその代わり、ただ一人でも「裏切り者」が入り込んだ時点で医師が潰れて、 システム全体が動作不能になってしまう。

相互信頼と「信頼系」の大きさ

サービス業は、たぶん一人が相手にできる「系」の大きさが決まっている。 サイズのミスマッチを起こすと、その人は食べていけないか、燃え尽きてしまう。 医療を含めたあらゆるサービス業で同じなんだと思う。

研修医だった10年前、「虎ノ門病院」とか、「聖路加国際病院」といった有名病院は、 みんな名前だけは知っていても、そこがどんなところで、どんな医療をやっているのか、 何の情報もなかったし、話題にもならなかった。患者さんもきっと、 よほどの目鼻が聞く人でもなければ、状況は同じ。

こんな「小さな世間」こそが、「一般医」なんて無茶な職業を成り立たせていた。 ネットが普及して、みんな病院を比較して、医師を取り巻く「世間」の 大きさは、何倍にも大きくなって、どこかで限界を越えた。

専門医志向が強まったり、眼科や皮膚科みたいな「全身を診られない」科に進む人が 増えたのは、要するに目が効く人達が、大きくなりすぎて破綻した信頼系を 目の当たりにした結果なんだと思う。

インターネットは世界の距離を縮めた。患者さん側からはいろんな医師が見えるように なったけれど、医師の側からもまた、いろんな人が見えるようになった。 きっとこれから、いろんな分野で「信頼の閉鎖系」だけを対象にしたサービスが出てくる。 サービスを提供する人達は、たぶんみんな、知らない相手を信頼するのに疲れてる。

「閉鎖系」に加わった人達は、その中で安価なサービスを享受できて、そこに加われない、 自らの信頼性を担保できない人達は、山のような契約書にサインしないといけない。 アメリカなんかでも、富裕層向けの健康保険は安価でいいサービスを提供できるのに、 貧困層向けの保険商品は、掛け金のわりにサービスが悪いらしい。 それもたぶん信頼の問題。

信頼の輪の中に入るには、「私にはその資格がある」ことを証明しないといけない。 昔はそのために財力を誇示するしかなかったけれど、 今はその人が持つ面白さとか、信頼なんかがそのまんま通用する 「輪」がどこかにあって、それを検索することもできる。

これからはたぶん、様々な信頼系に乗り入れるための「パスポート」として、 Weblog での発信みたいな行為に、実用的な意味が出てくる。

信頼貨幣としての「複雑さ」

単純に面白い文章を書くやりかたと、「名刺」を意識した文章の書きかたは 異なるのだと思う。それを両立させている人は少なからずいるけれど、 面白いのにそこから「力」を生み出せない人も、また多い。

「信頼」が通貨として流通可能になるネットワーク時代、 実際持っているお金の量と、その人の社会での立場、あるいはその人が書く文章の面白さとか、 「名刺力」みたいなパラメーターは、相互に「両替」可能なものとして通用するようになる。

「面白い」人は、たぶんいろんな信頼系を横断できるから、同じものを手に入れるのに 安価で済んだり、自らの信頼を証明するコストが低い。それは結局、富を持っていることと 等価になる。

「富としての価値」に繋がる文章と、面白い文章をたくさん書いても、 それが信頼に結びつかない人との違いというのは、たぶん文章の「複雑さ」の演じかた、 「欺瞞のスタイル」を意識することの有無なんだと思う。

面白いエピソードをただ並べたり、思ったことを素直に見せるだけのやりかたは、 それがどれほど豊富な内容であっても、その人の「顔」が見えてこない。 作者の顔がはっきり見える文章書いてる人達は、みんなそれぞれに工夫した 欺瞞のスタイルを作っていて、それを意識しながら文章を書いている。

方向性の定まらない、乱雑な断片は、 「無秩序」であっても「複雑さ」を生み出せない。複雑さというのは、秩序と無秩序との 間にあって、秩序の量=エントロピーの考えかたでは表現不可能な何か。

ネット時代、「お金」と「立場」と「面白さ」と、とにかく何かの手段で 「複雑さ」を生み出せる人は、それを通貨として、自らのために利用できるようになる。

その状態は裏を返せば、富をもっていない人、ネットで発信を行っていない人、 「検索」不可能な人というのは、そもそも世の中にいないのに等しい状態。 探す道具としての、見つけてもらう道具としての、ネット世間での発信は、 きっとこれから、もう少しだけ切実になるような気がする。

続きを読む "自閉する道具としてのインターネット"

2008年1月14日

NHKのインフルエンザ番組

発症率と弱毒化

ウィルス感染症みたいな疫病のお話をするときには、体内に入ったウィルス粒子が 実際に病気を引き起こす「発症率」と、ウィルスや細菌が進化する方向としての 「弱毒化」の問題とがあって、危険度の見積もりかたで、温度がずいぶん異なる。

大腸菌O-157 であったり、ノロウィルスの感染症なんかは、本来が比較的珍しい病気。 だからこそたぶん、発病率をある程度論じることができて、 数十個オーダーの粒子が体内に入った時点で、 かなり高い確率で発症するなんて言いかたができる。 実際問題、集団感染が容易におきるし、入院しても、患者さんからよくうつる。

インフルエンザみたいな大規模感染症になると、そのあたりがよく分からない。 シーズンになると、たくさんの人が発熱を生じるけれど、40度を越える人もいれば、 単なる風邪みたいな症状で済んでしまう人もいる。「粒子がいくつ入ったら感染します」 を調べることはできるんだろうけれど、人の振舞いかたは様々だから、 どういう振る舞いをすれば、入るのは「いくつ」ぐらいなのか、調べられない。

「ウィルスはいるけれど発症しない」状態、不顕性感染は、インフルエンザとか、単なる上気道炎 みたいな感染症ではたぶん多くて、それがどれぐらいの割合で、実際問題、 一定数のウィルス粒子が体内に入ったとき、何割の人が感染を起こして、 何割の人が何もおきないのか、厳密なデータは無いんだと思う。

インフルエンザで、もう分からない。鳥インフルエンザになると、もちろんもっと分からない。 今見てるのが、ごく一部の例外ケースで、実は不顕性感染がたくさん生じているのか、 それとも素直に、人類破滅の兆候を見てるのか。

方向性としての弱毒化

鳥インフルエンザは今のところ、発症したときの死亡率が6 割前後とものすごく高い。 「毒性」の高さというのは、ウィルスが持つべき性能としてはむしろ「弱点」となる。

ウィルスが変異を繰り返して、鳥から人へ、人から人への感染性を獲得するとき、 ウィルスはたぶん、同じぐらいの割合で「弱毒化」する。たとえ渡り鳥に乗っかって 鳥インフルエンザが海を越えるようなことが起きても、鳥を殺してしまうような強毒のウィルスは、 「渡り」を行うことができない。

感染が成立したら、その人が即死するようなウィルスは恐ろしいけれど、 患者さんがすぐに亡くなってしまうなら、そんなウィルスはそもそも広まらない。

発症確率と弱毒化。期待値を大きく見積もるならば、鳥フルが全人類に拡大する リスクはごくわずかだし、その頃にはもう弱毒してるから大丈夫なんて議論になる。 期待値を最悪に見積もるならば、 NHK の番組みたいに、ウィルス感染症で人類壊滅なんて可能性を論じないといけない。

鳥インフルエンザは、まだまだ症例が少なすぎて、研究者によって「期待値」が 大きく異なっているからこそ、意見が分かれているのだと思う。

自分達医療従事者はのお仕事は、ワーストケースを想定することだから、 今回のNHK番組は「そうだよな」、という感想。

隔離のお話

ドラマ編でも実戦編でもスルーされていたけれど、対処法がない疫病の治療戦略は、まず隔離

インフルエンザもウィルスである以上、高湿度環境とか、紫外線で失活する。 飛沫感染だけれど、「射程」はせいぜい5m。理論上、すべての人が5m 以上離れて 一定期間何もしなければ、ウィルスはそれ以上に感染を広げられない。

人権を無視していいのなら、どこかの病院で取りインフルエンザ感染が報告された瞬間、 その病院を中心に半径2km ぐらいを隔離するのが最善手なのだと思う。

道路を封鎖して橋を落として、その地域を「陸の孤島」にした上でミニ戒厳令を発動して、 すべての住人に引きこもってもらう。 その上で、隔離地域を取り囲むようにタミフルを配ったり、ワクチン接種を行ったりして 「免疫の輪」を作って、ウィルスの封じ込めを図る。政府とか警察のお仕事は、感染者が「輪」を 破らないように全力を尽くすことと、地域を隔離したことによる経済損失を計算して、 その住民への補償案を作ること。

ウィルスがどう変化しようが、やるべきことはたぶん一緒。 たとえ薬やワクチンに効果が期待できなかったとしても、「隔離」は確実な効果が期待できるはず。 これはもちろん、感染症をやっている人たちなんかには常識以前のお話だけれど、 ドラマ編では隔離政策が俎上にあがることはなかったし、実戦編でもまた、 隔離政策にあんまり言及なかったのは、何故なんだかよく分からない。

「やさしさ」が病気を広げる

潜伏期間が短いこと、高い致命率を持つことそれ自体は、ウィルスにとっては「弱点」として作用する。 発症した人が動けなくなるぐらいの重症感染症は、「その人」までで感染が止まる。 拡大できない。

ウィルスや細菌の立場でもっとも「進んだ」連中は、たとえば腸内の常在菌。 彼らにしてみれば、人間が住居を提供してくれて、あまつさえ「餌」まで供給してくれる。 もちろん時々水に流されてしまうけれど。

強毒性のウィルスは、だから放置してしまえば勝手に収束するはずなんだけれど、 人の「やさしさ」であったり、困った人は助けないといけないなんて「道徳」の考えかたが、 こうした強毒性ウィルスの増殖を助けてしまう。

毒性の高いウィルスは、症状が派手だから、人を集める。集まった人の中には「手当て」を する人が必ずいて、その人はたぶん、見た目健康な状態を維持しながら他の集団に溶け込んで、 そこでまた「発病者」になって、感染症を広める。「やさしい人」とか「道徳的な人」は、 本来淘汰されるべきウィルスにまで「やさしさ」を発揮して、彼らの増殖を助けていく。

鳥インフルエンザの大流行が生じたとき、医療従事者のお仕事は、 こうした「やさしさ」との戦いに半分ぐらい持っていかれる気がする。

ドラマ編では、主人公の周りに集まる熱心な医師と、理解のいい患者さん。 実世界ではたぶん、「やさしい人」が輪を破る。

たとえば死体袋の問題。鳥インフルエンザで患者さん亡くなるときは、もちろん家族は付き添えないし、 たくさんの人が亡くなるから、いちいち「荼毘に付す」なんてできない。なくなった患者さんは、 ご家族に「亡くなりました」と電話を入れたら、後は患者さんを死体袋にくるみこんで、 近くの穴に埋めることになる。

子供のお父さんとか、本当にそれで納得してくれるとは思えない。 健康な人は自宅待機が必要なのに、たぶんお父さんは「主治医を一発ブン殴る」、それだけのために 検問突破して、病人だらけの病院に、マスクもしないで突っ込んでくる。 それは道徳的に正しい行動なんだろうけれど、そのお父さんもまた、ウィルスの味方。

実世界ではたぶん、いいところ見せたい社民党の議員とか、絶対に風が吹いてほしくない、 受診を待ってる長蛇の列にダウンバースト叩きつける毎日新聞のヘリコプターとか、 「やさしさ」「正しさ」振りかざしたウィルスの味方が、人類を苦しめる。

パンデミックゲーム

対策案とか、隔離案はきっと「ある」と信じてるけれど、それを検証するのに「ゲーム」型式で 討論会開くと、きっといろいろ見えてくる。

こんなルール。

  1. 人類滅亡を図るウィルス側と、対抗する人類側、「現実」を提示するための審判を用意する
  2. ウィルス側は、日本地図の任意の場所に「発症」を宣言できて、気候とか風向きを自由に設定して、 ウィルス感染を最大にする戦いを挑む
  3. 人類側は、一定の確率で効く「タミフル」を配ったり、道路や橋を封鎖して、ウィルスの拡大を阻む
  4. 「現実」提示する人は、「それ予算的に無理です」とか「その場所には自衛隊入れません」とか、 「その季節にはさすがに台風は発生しません」とか、机上の空論に実世界から突込みを入れる

このゲームは、「人災」要素がなければ100% 人類側が勝利する。どんな天変地異が生じても、 戒厳令出して、すべての住民がそれを守れば、そもそも感染は広まらない。

ウィルス側についた人は、だからこそ任意の「裏切り」を設定して、人類側のブロックラインを 突破しようとする。「下水道使って隔離地域から逃げ出した住人が感染を広げた」とか、 「人権派議員が警察脅して、隔離ラインから人を連れ出した」とか、「宅配便のダンボールに 患者さんが思いっきり咳をして、田舎の息子に荷物送った」とか。

人類側は、それに対して「下水道も当然見張る」とか対案出したり、「現実」サイドからは 「うちの党に限ってそんな馬鹿いませんから」とか訂正いれたり。 あるいは人類側から「日本戒厳令」なんて 提案出されたら「現実見て下さい」とか。これが「議事録」として残る。

感染症学者とか、マスコミの人、国会議員や、 たとえばゲームデザイナーの人とかネットワーク技術者とか、 いろんな分野の人達が攻守を交代しながら、「机上の空論」を戦わせると面白いと思う。

ウィルスを「知能化」することには、きっと意味がある。 状況が上手くまわっていないとき、何をやっても裏目、裏目に出ているときは、 「神様の悪意」を目の前に感じるなんてしょっちゅうだから。

とりあえず「人類側」をプレイするなら、「東大病院のホットゾーンに 厚生省の事務次官が常駐する」ルールを徹底したいなと思う。

一番偉い人が命張れないなら、どんな提案も机上の空論の域を出ないし、 「足りない」物資は「足りてる」事にされて、日本が滅びるまで、 何かが「足りる」日なんて来ない。

これやるだけで、厚生省の「本気度」は、無茶苦茶に上がって、 人類は、どんな感染症にも手ごわい相手になれる気がするんだけれど。

続きを読む "NHKのインフルエンザ番組"

2008年1月12日

病院がソーシャルネットに自閉するとき

「100人村」の料理店

人口100 人の村にある、ただ 1軒の料理店は、 裏切りがばれた瞬間に村を追放されるから、村人を裏切れない。

村人は安心だけれど、その代わり、その料理店が本当に「おいしい」ものを出しているのか、 比較できないから分からない。

1000人村にある 10件の料理店なら、村人はきっと、「最高」がどの店なのかを投票で決められる。 「おいしい」料理を食べた幸福度は高まるだろうけれど、下位グループの料理店は、経営が難しくなる。 村人が増えれば、それだけ裏切りがばれるリスクは減少するから、「業界」全体に対する村人の信用は、 100人村より低下する。

料理店全体が生産できる「幸福度」というのは、各料理店が生み出す幸福の総和と、 業界に対する村人の猜疑心の総和との差分が決定する。

コミュニティが大きくなると、「最高の料理店」が生み出す幸福度はそれだけ増大するけれど、 業界全体の信頼度は低下していく。たぶんどこかで「臨界」が来て、コミュニティがそれ以上に 大きくなると、料理店全体が生み出す人口あたりの幸福度は、むしろ低下してしまう。

裏切り者検知のコスト

まだまだ欠陥だらけだけれど、「はてなブックマーク」みたいな投票サービスは、 「その日に書かれた最高の文章」を抽出する機能を実現している。Web コミュニティは 日々大きくなっているけれど、集団の上位を抽出する機能は、コミュニティの大きさに比例して、 ますます上手に機能しているように見える。

ところが逆に、「その日に書かれた文章で最低のものを見つける」という問題は、 解決するのが難しい。「最低」を喜んで読む人は少ないし、 「俺の文章は最低だ」なんて自薦する人もいない。 インターネットにつないだ初日、誰かが初めて書いたエントリーなんて、そもそも見つけられない。

世間が顔見知りの10人しかいないなら、「最低」はすぐに見つかる。100人ぐらいまでなら、 それでもあるいは何とかなる。数がもっと増えて、1000人とか10000人あたりになると、 「最低」を見つけるコストは莫大になって、もう誰にも不可能になる。

恐らく「最低」を抽出するためには、前提として大きさが不変である集団を定義しないと不可能で、 「投票」方式は、それでも「最低」を決定することができない。

匿名掲示板なんかでは、「あの病院最悪」なんて名指しされることが時々あるけれど、 そんな病院は「悪評という評判」が高い病院であって、たいていの場合、 同業者から見ても「最低」でないし、地元の評判は良いことが多い。

業界の信用は「最低」が決定する

「最高の医師」を特集する番組は簡単に作れるけれど、テレビ局の力を持ってしても、 「最低の医師」を探すことは難しいのだと思う。

本当に「良くない」病院は、そもそも患者が少ないから話題にならないし、 患者さん自身、自分が「最低」にかかってるなんて思わないから、見つからない。 医師に「最高」を自薦してもらうのは簡単だろうけれど、「最低」は無理。

「最低」は隠れているけれど、何かトラブルがあって、「やっぱり医者は…」なんて みのもんたが眉ひそめるのは、そんな施設。

世の中にはたぶん、絶対にかかってはいけない病院であったり、 絶対に入ってはいけない料理店が存在しているけれど、 コミュニティが大きくなるほど、「裏切り者検知」を行うコストは莫大になる。 今ではもう、住人も同業者も、「最低」がどこにいて、それをどうやって探していいのか分からない。

「最高」の最高度をいくら高めても、業界全体に対する信頼度は上がらない。 「最高」にはお客が殺到するだろうけれど、たぶんそれ以上に、 「お客にならない人」が持つ、業界全体に対する不信は高まってしまう。

それが小さなコミュニティなら、「無能排除」機能を実装するのは容易だっただろうけれど、 コミュニティの規模拡大と共に、どこかでスケールアウトの限界が来る。 恐らくはその限界が、業界が受け持てるコミュニティ規模の「臨界」を決定する。

業界側の準備コスト

「最高」と名指しされた料理店にしても、幸せではいられない。

コミュニティが大きくなれば、店に来るお客さんの顔ぶれだって多彩になる。 村が100人しかいない頃なら、「100人村一番の乱暴者」にだけ注意すればよかったけれど、 村が大きくなるにつれて、文句を言ったり、店を荒らしたりする人もまた増える。

店には「準備コスト」が発生する。小さなコミュニティでは不必要だった ガードマンを雇ったり、「当店ではフランス料理のフルコースは出せません」なんて、 店に入るときに同意書求めたり。

人気店になれば、あるいはお店は価格を2倍にできるかもしれないけれど、 「2倍」は準備コストに吸収されて、サービスを2倍にすることは難しい。 コミュニティが大きくなれば、「最高」の店はますます最高になるけれど、 支払った対価あたりで生産可能な幸福度は、昔ほどの効率が上げられない。

「お客さん」もまた、一つの業界。裏切りもの検知が不可能なのは、 料理店と同じ。料理店は、たとえ自らが「最高」であったとしても、 無能抽出の問題から自由になれない。

声の大きな人が病院に来ると、たまにとんでもないコストがかかる。

「訴えるぞ」の一言で、こちらはもう何もいい返せない。あの病院の医師と話がしたい、 ここに紹介しろ、車を手配しろ、前の主治医に文句が言いたい、あれこれ要求して、 いろんな施設の、あらゆる科の医師に頭を下げて、様々な職種のスタッフを拘束して、 午前中の2 時間あまり、人件費にすればたぶん数百万円分、もちろん本人には 一円も請求できない。その人は満足して、結局最初の方針どおり。

「声が大きい」、ただそれだけのことが、その患者さんに余計なコストを発生させて、 治療が遅れて、その遅れがまた、治療のコストを増大させる。

こういうのは瞬間最大風速だけれど、その「風速」に耐えられない施設は潰されるから、 みんな準備する。普段使わない、こんな能力を施設が維持するためのコストは莫大で、 これを減らせるならば、病院の装備はもっと軽くて済む。

病院のソーシャルネット化

病院に長く勤務してると「村社会最高」とか、知らない昔をうらやましく思う。

コミュニティの規模が「臨界」に近づいたとき、 たぶん最初にしわ寄せがくるのが、病院だったり学校だったりするからなんだと思う。

誰か頭のいい人が、「無能排除」のコストを劇的に低下させるアルゴリズムでも見つければ、 業界に対する信頼コストはまた下がって、コミュニティはもっと大きくできるのだろうけれど、 今のところまだ、そんな流れは見えてこなくて、「業界」はみんな、大きすぎるコミュニティに疲れてる。

たぶん「病院のソーシャルネット化」という動きが出てくる。

みんな「昔馴染み」の人にはコストをかけられないのに、声の大きな、特定の誰かに リソースのほとんどを持っていかれて、そのしわ寄せが「いい人」に行く。 ますます疲れて、準備コストはまた上がる。

老人医療なんかは特にそうで、お互い顔見知りの人で、医者に「お任せ」が通用するなら、 診療にかかるコストは相当に安くなる。安全率をコンマ数パーセントあきらめるだけで、 コスト上のメリットは相当に大きくなるんだけれど、「1000人に1人」が怖くて、それができない。

見知った人しか診療したくない、もうそんなに大々成功したいわけじゃない、 疲れた医師が、「友人」限定で30人ぐらいを対象に医療を提供するサービス。

全く健康な人は病気にならないから無理だけれど、高齢の人なんかは常に病人みたいなものだから、 「友達の両親」の介護を肩がわりしながら、ついでに医療を提供するようなサービスなら、 少人数限定をかけても、何とかなりそうな気がする。

あと10 年したら、団塊世代の人達がみんな介護が必要になって、老健施設とか、 ホームとか、奪いあいになる。病院はその頃、国からもっと締め上げられてるから、長くは入院できない。

「団塊世代」需要を見込んで施設を作ると、そのあと高齢者人口の激減が来る。 長期計画で資金回収もくろんだら破綻するのは目に見えてるから、大きな企業はこのあたり、 参入するのが難しい。

施設が見つかったところで、状況はひどい。どこの施設も、人もお金も圧倒的に足りなくて、 その上「平等」に縛られてるから、ちょっと余計にお金を出すからいいサービスとか、 すごくやりにくい。

お金を出したところで、大きな施設は数万人規模の人たちを対象にしてるから、 「万が一」に備えた準備コストが莫大。「いい」施設はものすごく高い入所料を取るけれど、 払った対価ほどには、いいケアは受けられない。首都圏なんかだと、老人病院は月50万円ぐらい かかるけれど、それでも笑いが止まらない位にウハウハ儲かってる施設は、たぶん少ない。

「数万人に一人」規模の最悪に備える部分をスルーして、最初から 20 人とか、 友人限定サービスに徹すれば、準備コストを大幅に節約できる。 許容安全率については別途相談だろうけれど、「払っただけの」サービスを提供できる可能性は、 大規模な施設より高くなる。

「友達」を探すやりかたが問題になってきて、ここを「契約」にしてしまうと、 きっと元の木阿弥。インターネットは人と人との距離を縮めるから、きっと役に立つ。

40も後半回って疲れた医者が、あと10年で自分を「売り抜ける」戦略で、 富裕層の友達を20人程度集めて、介護とわずかな医療とを提供するやりかた。

その頃にはみんな、「信頼」に疲れ果ててるだろうから、きっとちょっとだけ流行ると思うんだけれど。

続きを読む "病院がソーシャルネットに自閉するとき"

2008年1月10日

マニュアルを読むだけの簡単な仕事です

統計学が世界を変える

「その数学が戦略を決める」という本を読んだ。統計学の一般書。

ワインの質とか裁判の結末だとか、「専門家」の予測よりも、 統計ベースの簡単な予測式で作った予測のほうがよっぽど正確だとか、 「専門家の欺瞞」を統計学が暴くお話。

教育、医療、映画の脚本みたいな芸術要素が高い業界では、 専門家が「芸術性」を発揮することそれ自体が成果を悪くして、 統計が決めた「シナリオ」どおりに物事を進めたほうが、よっぽどいい成果に結びつくなんて、 統計による検証を拒んだ「芸術」の無意味さを、やっぱり統計学が検証するお話。

医療とか教育の分野で勧められていたのが、定食メニュー的なやりかた。

  • 教師の人達は、最初から最後まで、厳密に決められた「シナリオ」を読むだけの授業に徹したほうが、 あれこれ「工夫」を凝らした授業をするよりも、生徒の質はよっぽど高くなる
  • 病院では、医師が「良かれ」と思って下した判断は、たいていの場合裏目に出るから、 統計に検証されたシナリオどおり、あたかも操り人形のように働いたほうが、 患者さんの予後が良くなる

こういう本読むときは、自分達以外の業界が叩かれてると、「そうだそうだ」と思う。 偉そうな専門家の欺瞞を暴く統計学者はすばらしいだなんて。

自分達の分野、医療の分野だけは例外。医師の工夫こそが治療の質を悪くするとか、 ふざけんなと思う。患者さんよりも「エクセル」の画面眺めてる時間のほうが 長い連中に、現場のこと分かってたまるかなんて。

たぶん、本に取り上げられてたほかの業界、ワイン評論家も、教育者も、脚本家も、 みんな「ふざけるな」と思いながら、医療については「そのとおり」と思っているはず。

たぶん統計学者の言っていることは正しくて、統計学者が「成果」を定義できる限り、 統計学的なやりかたは、たいていの場合「現場の直感」を越える気がする。

現場はそれが難しいから、自分達にももう少しだけ、生き残る目があるんだけれど。

変革を拒む現場の哲学

最近読んだ経済学の入門書「市場を創る」の中に、 二硫化硫黄を排出権取引の市場に乗っけることで、 環境保護にとてもいい効果をもたらしたエピソードが書かれてた。

最近流行している「空気商売」のお話。やっぱり今でも「詐欺だろ」と思うけれど、 環境に価値をくっつけるやりかたは、それでもすべての人に環境保護への動機を生んで、 「いい環境」を確実に実現する。

環境保護に市場原理を持ち込むやりかたは上手くいく。 それなのに、経済学の人達がこんなアイデアを持ち込んだとき、そのアイデアに抵抗して、 「環境を良くする」のを拒んだのは、企業ではなくて、むしろ環境保護の人達だったらしい。

同じ環境保護なのに、彼らはむしろ「抵抗勢力」として働いて、そのうち このやりかたの「成果」が目に見えるようになって、ようやく彼らは「市場」に参入して、 募金を集めて排出権を買い取る行動をはじめたりして、 自らの行動をも「市場化」するようになったのだという。

たぶん環境の人達は、市場原理で環境保護を進めるやりかたをみて、 なんだか良心的でない、汚らしい印象をもったのだと思う。

統計にしても、市場原理にしても、「成果」を目標にした実用一点張りのやりかたというのは、 「信念」とか「アート」、「情熱」みたいな、シンプルな行動規範で駆動されてきた分野 の人達にとっては、それを受け入れるのにすごいエネルギーが要る。

「目標」にたどりつけない、不完全な「手段」というものは、しばしば 本来の目標を隠蔽して、手段それ自体を目標にしてしまう。

変わらないものは、そこから利権を得る人達を生む。 情熱とか工夫、「現場の直感」みたいな変わらない行動規範から 利益を得てきた人達は、たぶん本来の「目標」を達成するための強力なツールが提示されても、 目標を達成できるメリットと、自らの手段を奪われるデメリットを秤にかけて、 なかなかそれを肯定できない。

医療や福祉、教育なんかの「専門家」が 活躍するほとんどの分野で、きっと同じ光景が繰り返されているはず。

患者さんの変質とアートの疲弊

医療にはたしかに「シナリオ」めいたものが使えるときがあって、そのときはたいていの場合、 へんな工夫なんか考えないでシナリオどおりに物事進めると、けっこう上手くいく。

肺炎の患者さんなんか、たとえばその人のために2 時間ぐらい戦略練るより、 何も考えないで抗生剤の投与を行ったほうが、たぶん「2 時間」ぶんだけ 患者さんはいい治療を受けられる。治療の遅延はそのまんま、 予後の悪化につながってしまうから。

医師の一部、特に内科方面が、「統計に裏打ちされた操り人形」になったときには、 医師に必要な能力は、知識の量よりも反射神経になる。外来に来た患者さんを、 一刻も早く「シナリオ」に帰着させるために、つまらない「思考」なんて行わないで、 反射の気合で判断を行う能力。

現場はもちろん抵抗するはずだし、抵抗しなければ、医師の地位とか給料は下がる一方だけれど、 「高齢化」という現象は、アートとしての医療の考えかたそれ自体に制度疲労を招きつつある。

腹膜炎の寝たきり認知症の人なんか、そもそも「問診」できないし、 腹筋がないから、炎症起こしてるのにお腹が柔らかい。 痛くないときでも叫んでるから、押して痛いのかどうかすら分からない。

患者さんのお話を丁寧に聞いて、理学所見をとるところまでが 8 割、 あとの検査はその確認にしか使えないから、頼っちゃいけないなんて教わったのは昔の話。

最近は、たとえば「○○苑」から送られた患者さんには厄介な誤嚥性肺炎が多いとか、 「○○医院」の紹介は、本物の重症多いから、歩いてても危ないとか、病院以前の情報を重視したり、 患者さんとの挨拶代わりにまず CT撮って、それを見ながら痛そうななところを 押してみたりとか、昔ながらの方法論を使わない場面が増えた。

伝統的な西洋医学のやりかたは、「これじゃない」を言うのは容易だけれど、 「これだ」という診断名に飛びつくためには、最後のジャンプが案外大変。今は昔以上に大変。 シナリオ使ったり、確率論的に病名を予測するやりかたはのろまだけれど、 状況が変わっても、「歩み」のペースが常に一定の印象。

歩き出しは遅いけれど、診断名にたどり着くまでの確率は 結局同じか、状況によってはむしろ早くて、「ジャンプ」が必要ないぶん確実だったりする。 もちろんまだまだ不完全だけれど、方法論として「正解」に近いのは、 やっぱり確率論的な予測手段なんだと思う。

変化は外からやってくる

統計学とか経済学が提案する、実用的で芸術的じゃないやりかたは、 それでもたぶん、「内なる改革」が要請することはなくて、 外圧により実現される。

それは病院経営とか、コスト感覚の問題であったり、あるいは患者さんのクレーム対策とか、 訴訟圧力の問題であったり。

「絶対」とは無縁だったはずの病院業界も、今では当然のように「絶対」を求められる。 医療者側にとれる対策は、「みんなで同じことやろうよ」なんて、医療のマニュアル化。

それはもちろん、統計学者の意見を積極的に取り入れましょうなんて前向きなものではなくて、 むしろ本当は「アート」を見せつけたいんだけれど、それやると必ず叩かれるから、 みんなでとりあえず我慢できる範囲で「同じこと」探しましょうなんて、すごく後ろむきな動機。

偉い人達はたぶん、苦渋の選択として「こうせよ」を決めるのだろうけれど、 若手はきっと、そんなマニュアルを嬉しく思う。自分達の業界では、 マニュアルこそが、自らの身を守る唯一実用的なツールになるから。

良心や道徳もまた、状況に対する適応が事後的に決定する。

医療のいろんな場所にマニュアルが浸透したとき、その頃にはたぶん、 「現場の直感」それ自体が「悪徳」となって、道徳的に振舞う医師は、 みんなマニュアルを墨守する。

それは決して、そんなに遠い未来ではないんだと思う。

続きを読む "マニュアルを読むだけの簡単な仕事です"

2008年1月 9日

「変わらない前提」を維持するワクチンのこと

「事実が事実として通用する」世の中は、恐らくは不自然な状態。

もちろんそんなありかたが心地いいと感じる人が多数派だからこそ、 たいていの場合、事実は事実として通用するけれど、 「事実がそのまま通用すること」と、「その事実が運用不可能であること」とは、 やはり同じではありえない。

不変の価値が共有されても、世の中にはやはり、それを変えたい人がいる。

問題を相対化して撹乱するやりかたは、相対化を狙う側からは、やっぱり有効な手段に思えて、 そんなやりかたを否定する人たちが盛り上がっていたけれど、 やっぱり「個別に潰す」やりかた以外の解決策が見えてこない。

議論相対化の回避手段と、「変わらない前提」を信じる人達に課せられた義務について。

状況を維持する予防医療

問題を相対化するやりかたが、とりあえず「邪悪」なものであったとしても、 邪悪なやりかたは広まりやすくて、一度広まった相対主義は、根絶するのが難しい。

価値の絶対性を信じる人達は、その価値を運用しようとする人達を叩く。 叩かれた人は、もしかしたら価値の運用を止めるけれど、「運用」という病気は 感染症みたいに広まる。「感染した」誰かを叩いても、世間に「予防」を 行わないなら、相対化のやりかたは、必ず再発する。

恐らくは、ウィルス感染症のイメージが近いのだと思う。

インフルエンザや麻疹みたいなウィルス感染症は、もちろんそれが無い世の中のほうが 望ましいけれど、それは本来「不自然」な状態。みんながそれを望んでも、 ウィルスはやっぱり世の中にいるし、一度感染した人は、ウィルスを回りにばらまく。

自然界では、たぶん一定数の人が「感染」して、その人達はしばしば自然治癒したり、 不幸な転帰をたどったりする。

医師という人種は、「病気は世の中に無いほうがいい」という価値の絶対性を信じてる。 自分達の価値を世の中に蔓延させるために、「ワクチン接種」という行動を通じて、 「感染症の無い世の中」という、不自然な状態を目指す。

変わらない価値を信じることが「正しいこと」なのだとしても、 それ自体はきっと、ある種不自然な経過で出来上がった状態。 価値の絶対性を信じる人達は、もしもその状態を維持したいと思うのならば、 まだ「感染」を生じていない人に「免疫」をつける義務が 発生するのだと思う。

ワクチンのやりかた

「事実が事実として通用する」という時点で、その絶対性を信じる人達には、 やっぱり何らかの利権が発生する。利権に対する代償、あるいは絶対性を 維持するためのコストとして、その人たちにはきっと、 絶対的な事実が通用する社会を維持する義務が発生する。

インフルエンザのワクチンはまだ不完全だけれど、インフルエンザ感染症のない社会が 「良いもの」と考える人達は、みんなにワクチン接種を行って、感染が拡大するのを防ぐ。

あるいは「ウィルスにだって生存権を」なんて主張するナチュラリストがいたら、 生態系とか、多様性を主張して、ウィルス広めようとするかもしれない。 それは個人の権利だし、そもそもウィルスは勝手に広まるものだから、 その人を説得したところで、感染症はなくならない。

ウィルスを接種する人達は、たとえば「感染者」を免疫のついた人で 包囲してしまったり、ワクチン接種が完全でない国、たとえば麻疹の接種が遅れている 日本人の渡航者を「危険である」とラベリングするやりかたを通じて、 感染が広まるのを防ぐ。

「ウィルスナチュラリスト」を説得するのは難しいのかもしれないけれど、 説得が失敗に終わっても、ワクチン接種の戦略を間違えなければ、感染は広まらない。 その人は、あるいは包囲網を突破しようとするかもしれないけれど、 それはもはや主義主張なんかじゃなくて、単なるバイオテロ。警察のお仕事。

「ワクチン接種」戦略に必要なツールは2 つ。相対主義に「感染した」人を診断するための 診断ガイドラインと、まだ「感染していない」人に免疫をつけるための「ワクチン」の作成。

恐らくはそれは、価値の絶対性を信じる人達が用意すべきもので、 それを準備できない人達は、そもそも価値を運用しようとする「感染者」の広がりに対して、 有効な手を打てない。

個別撃破の戦略というのは、病気になった人を治すやりかた。

最近の騒動に対して、「いちいち潰してくのも大変だ…」なんて呟きがあったけれど、 「いちいち潰す」以外の方法論考え出すのも、たぶん「正当」を主張する人達に課せられた役割。 「いちいち潰して」も、たぶん感染症が広まっていくことそれ自体は阻止できないし、 実際問題、今回自分も含めて何人かの人たちが「感染」を表明したけれど、 今のところまだ、誰も「治癒」していなければ、「潰された」人もまたいない。

議論を通じて誰かを治療することというのは、不可能であるか、少なくとも相当に困難だからこそ、 感染者は放置して、まだ感染していない人に免疫つける戦略が有効なはず。

恐らくはいろんな分野、それこそ医療も含めて、「正義」とか「道徳」、 「事実」みたいな揺るがないものから利権を得ていた人たちが、 今になって足下揺らいで大騒ぎしている原因は、価値の絶対性を維持するための、 「ワクチン」を用いた戦略を怠ったためなんだと思う。

ワクチンがワクチンであるために

ワクチンがワクチンとして成立する条件は、なんといっても簡便なことと、 早く効くこと。接種するために1 週間の入院が必要で、効果発現まで1 年かかるワクチンなんて、 たとえ完璧な効果を発揮したところで、残念ながら普及しない。

ワクチンの効果は、たぶん厳密である必要はない。「感染者」を治癒させる効果なんて もちろん必要ないし、「感染していない」人を対象に「感染しにくくする」 効果が発揮できれば、それでも十分な効果が得られる。 ワクチンには、簡便さと確実性とのトレードオフが発生する。 「注射一回で済む」やりかたは、たぶんとても大切。

「効果が高い」ワクチンはまた、免疫がつく人と一緒に、感染者それ自体を増やしてしまう 危険がある。インフルエンザワクチンなんかは、安全だけれど効果が弱い 「不活化ワクチン」と、効果が高いけれど感染可能性がゼロではない「生ワクチン」とがあって、 生ワクチンはもしかしたら、ワクチン接種を行うことで、感染者を作ってしまう。 どんな分野であっても、「ワクチン」を作る際には、きっと同じようなジレンマに直面するはず。

ワクチン接種の効果的な戦略は、たぶんネットワーク科学畑の人達が、いろいろ考えてくれる。 それは免疫を持った人で感染者を取り囲む戦略であったりとか、ネットワークで「ハブ」になる 人から優先的にワクチンを接種する戦略であったりとか。

インターネットは、「感染」が爆発的に広まってしまうリスクがある代わり、 「ハブ」の特定が容易な世界。もちろんこの構造は、感染を広めたいとたくらむ人にだって 有利なんだけれど、価値の絶対性を信じる人達にとっても、条件は一緒。

医療のこと

たとえば医療の業界は、「病気の治療は不確実なものである」という変わらない前提が 社会に共有されていて、そこから利権を得ていたのだと思う。

「全力を尽くしてみますが、駄目かもしれません」なんて、一昔前の医療ドラマの決まり文句。 今の世の中、こんな台詞をカジュアルに口にすると、相手が悪ければぶん殴られる。 昔はたぶん、この「不確実」がある程度共有されていて、だからこそ頑張れた。 いつのまにか「絶対」が当たり前に求められる昨今、「頑張る」か、 それとも最初から撤退するか、ものすごく悩んで、すごく疲れる。

この10年ぐらい、「不確実な医療というのは、医者が頑張れば確実になるんじゃないの?」 なんて問題提起をする人たちが、主にマスコミ方面、司法方面からたくさん出てきて、 医療者側はしばしば、それに対して有効な反論をしてこなかった。

今も昔も、医療というのはやっぱり不確実で、時々すごく上手くいくことだってあるけれど、 上手くいくはずだった何かが急変することだって、やっぱり多い。そのあたり大昔なら、 「残念です」で済んでいたけれど、今は大問題。

これなんかもきっと、医療者側から見れば、前提の相対化が招いた悲劇。 残念ながら、問題の相対化が行われて、とりあえず困るのは医療従事者だけだから、 相対化はどんどん進んで、「医療は不確実」なんて前提は、ほとんど滅びかけてるこの頃。

確実な結果を求められたって無理なんだけれど、 そもそもはきっと、「確実さ」を相対化された時点で、医療側の敗北が決定していたのだと思う。

歴史の人達に聞いてみたいこと

たぶん、歴史畑の人達は「価値の相対化」との戦いがとても長いはず。

相対論者との戦いに慣れている人達なんかは、相対化を図る人達が出てきたら、 「ああまたか」みたいな反論テンプレートを持っていたりとか、 相対化それ自体の論拠を空虚にするような対抗論理をすでに発見してあったりとか、 「このフレーズは相対化ワード」みたいなリストがあって、それが出た時点で、 真っ当な学者は相手にしちゃいけないみたいな「診断基準」を用意してあるとか、 そんな戦略は、何か開発していないんだろうか?

あるいは「正しさ」を維持するためのワクチン。それこそ「健康な」素人が3分で読めて、 「ああやっぱりそうなんだ」みたいなとりあえずの理解が得られて、 相対論唱える「感染者」に対する免疫がつくような説明のやりかた。

そんなやりかたがあるのなら、きっといろんな業界で役に立つと思うし、 それを教えてもらえるならば、うちが「叩かれ」たって、 全然かまわないんだけれど。

続きを読む "「変わらない前提」を維持するワクチンのこと"

2008年1月 5日

喧嘩作法としての相対化

定説に抗いたい、あるいは定説が「真実」として動かない状態からは利権を引っ張れない人たちが、 定説を「運用」可能なものへと変換することで、状況を大きく動かす。

まだまだ不完全だけれど、一般化して応用できそうな喧嘩のやりかた。

飴では変わらない

救急に補助金出せだとか、現場をもっと保護すべきとか、 「何でもいいから飴よこせ」なんて自分が叫んでたのは、たぶん1 年ぐらい前まで。

何がきっかけなのか分からないけれど、 なんとなく「それではたぶんダメなんだ」と思うようになったのは、まだ最近のこと。

原体験は今から10年ぐらい前。

救急の現場には人があふれてて、産婦人科にローテートする研修医は、 「お前ら楽できてうらやましいな」なんて言われてた。自分達はまだ研修医。 どう考えても人数は増えて、医療だって10年分進歩したのに、現場回してる感覚は、 やっぱり前より悪くなった。マスコミが悪いとか、患者増長しすぎとか、 あるいは厚生省黒幕仮説とか。みんなでいろんな仮説を考えたけれど、 「ここを直せば時計の針が逆転する」何かというものは、やっぱりみつからない。

イヌのしつけなんかでは、「ほめる」やりかたと「しかる」やりかたとがあって、 効果はどちらも同じ。「ほめる」やりかたは時間がかかるけれど長持ちして、 「しかる」やりかたには即効性が期待できるけれど、しつけを忘れるのも速い。

どちらでもいいのなら、「ほめる」やりかたでいいはずだけれど、やっぱりそれでは変わらない。

困っている現場がいくら「飴ちょうだい」を大合唱したところで、 世の中にはもっと大勢の、飴なんてなくても困らない、変革を望まない人達、 それは医師会の中の人であったり、政府の中の人達であったり様々だけれど、 そんな人達が現状維持を望む限りは、政府には変革を行う動機も、 もちろん「飴」を放り投げる動機も発生しない。

だから変わらない。

「問題の相対化」という方法

  • 「ホロコーストはなかった」とか、「南京大虐殺はなかった」とか、歴史修正主義の人達
  • 「水は何でも知っている」とか、「アガリスク最強」とか、似非科学の人達
  • 「地球温暖化」とか、「クジラを殺すな」みたいな、エコロジーの人達

常識だけで運用されていた場所に、無理筋の仮説を突っ込んで、 従来通用していた「事実」を信じてた人達を巻き込んで、 大きな譲歩を引き出すことに成功した人達。

彼らがやったことは相対化。元々通用していた「常識」とか「真実」を相対化して、 自分達を利する既成事実を運用して、常識にあぐらかいてた人達を、 議論のテーブルに引きずり出すやりかた。

不完全な一般化を行うなら、たぶんこんなかんじ。

  1. 何か「きれいごと」に満ちた理念をぶち上げる
  2. 交渉に引きずり込みたい相手と自分達に共通する「失って困るもの」を探す
  3. 「きれいごと」を実現するために、「失って困るもの」を奪ってくださいと国家に提案する
  4. それを奪われると本当に困る人達は、こんな意見を無視できなくて議論のテーブルに出てくる
  5. 相手が「テーブルについた」その時点で、従来通用していた事実は絶対性を失う
  6. 相手が「事実」にしがみついている隙に、既成事実を拡大、運用して、相対化を進めていく

「きれいな理念」と「失って困るもの」

空気というものは、「押される」のではなく、「吸引」を受けることで、 はじめて風として動き出す。空気みたいな人間の集団もまた、「得ること」では 動かなくて、「失うこと」を通じてはじめて、問題を自分のものとして認識する。

「変わらない事実」を信じてた人達、そこから有形無形の利権を引っ張っていた 大多数の人達を交渉のテーブルに座らせて、状況を動かそうと思ったならば、 彼らが何か失って困るものを見つけ出して、それを「我々もろとも平等に奪ってください」と、 偉い人達に提案すればいい。

提案は平等で無ければならない。相手方が一方的に「失う」ルールを提案しても、 それは政府に響かないけれど、自らを含めて「 平等に奪ってください 」を行うと、 たぶん政府は動かざるを得ない。それは利権誘導でなくて、「国民の声」だから。

最近大成功したのは、二酸化炭素排出取引を考えた人達。

エコロジーはたしかに大切だけれど、エコ企業を誉めたたえるのに自動車使ったり、 二酸化炭素たくさん出してる企業をつかまえて叩いたりしても、やっぱり効果は限定的。

彼らは最初に「環境守ろうよ」なんて理念を作って、「空気はタダ」という真実に対する相対化を試みた。

空気というのは、今も昔ももちろんタダだったはずなんだけれど、 彼らはこれに価値を見出して、あまつさえ「我々を含めて、空気使っている人全員に税金かけて下さい」 なんてやりかたで、政府に提案を行った。

政府は税金大好き。増税できるなら、きっとどんなヨタ話だって信じる人達。

このお話も、「工場にだけ税金をかけよ」なんて提案だったら、恐らくは反対意見が続出してうまく行かない。 二酸化炭素ビジネスの人達は、「我々も含めて全員に」をやったから、 政府は「環境のためにこう望んでいる国民がいる」という論理が使えて、話は動いた。

話が動き出せば、今まで「空気はタダ」だと信じてた人達も、動かざるを得ない。 空気は今も昔もタダ。何も変わらないのに、もはや「有料だよ」という意見を笑い飛ばすだけでは 済まされなくて、「無料」を通そうと思ったならば、彼らもまた、 「環境守るの大切だよ」という理念を挟んで、空気で商売試みる人達と対決することを避けられない。

「失って困るもの」を「平等に奪ってください」と政府に提案すると、 こんなわけで多数派は、議論のテーブルにつかざるを得なくなる。議論の席に多数派が座った時点で、 すでに「相対化」はほとんど成功している。

真実の市場化と事実の運用

多数派が議論の席に座った時点で、すでに「事実の相対化」は成功している。

「水はすべてを知っている」であれ、「ホロコーストは無かった」であれ、 従来「そんなことは無い」という真実で安心していた多数の人達は、 それを笑い飛ばすだけでは済まなくなって、はじめ