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2007.12.30

疲労する自意識がたどり着くところ

コミュニケーションが可視化する強度の話。 コンテンツ購入に付属する「自閉するコミュニケーション」の販売。 疲労した人たちに「多様な平等視点」を提供するサービスについて。来年はやりそうなものの続き。

コミュニケーションは強度をあらわにする

「プロフェッショナル仕事の流儀」をよく見てる。 司会者である茂木健一郎が、相当残念。

昔は、茂木のことを神だと思ってた。

本もろくに読んでなかったけれど、言葉一つで新しい世界を切り開いた凄い人。 もじゃもじゃ髪のアイコンと、すばらしい経歴と。 「きっとこの人の言葉はありがたいんだ」。信仰してた。

テレビ番組での露出が増えるほどに、神様の「普通の人」っぷりが際立って、 最近はなんだか無残な気分。テレビメディアでは準備もできないんだろうけれど、 やっぱり神様には神様でいてほしかった。

今は番組をハードディスクに録画する。司会者が発言はじめると、 「○木引っ込めよ」なんて、その部分を飛ばす。 あの番組は、すごい人からいかがわしい人まで、 出てくるおっさんの「語り」がすべてだと思うから。

テレビメディアに「ニコニコ動画」みたいなコメント機能が実装されたなら、 きっと面白いことがおきる。視聴するポイントが真逆になる。

「語り」が終わって司会者がコメントすると、画面はきっと「茂木引っ込め」の弾幕で埋まる。 録画してても、きっとその弾幕見るのが楽しくて、早送りしないで司会者を見る。 今まで本質だと思ってた「語り」部分は、恐らくそんなにコメントつかなくて、 むしろその人の「強度の不足」が際立つ。画面を埋め尽くす叩きコメントは、 叩きとは逆に、「茂木健一郎の交換不可能性」を強力に支持する。

「ニコ動」化したテレビ放送は、きっとコマーシャルにも視聴する意味を与える。

便利そうな商品出てくれば、「この製品最悪」なんてコメントが踊るだろうし、 美人のタレントが微笑めば、たぶん画面のあちこちに矢印がついて、「ここ2年前に整形済み」 なんて突っ込みが入るはず。それを見るのが楽しいから、視聴者はきっと、 CM の時にもテレビの前に座る。

「広告効果」それ自体は、きっと落ちない。

CMで突っ込まれるタレントも、広告を作った広告屋さんも、 厳しい業界を生き延びてきたプロ中のプロ。そんな人達は、ある種の「強度」を 持っているからこそ、画面は突っ込みのコメントで埋まって、みんなはテレビの前から動けない。

コミュニケーションの場に集まる無数の目線は、その人が持つ情報量、「強度」を可視化する。

鋭いこと。頭がいいこと。面白いこと。陳腐なこと、つまらないこと、いかがわしいことみたいな ネガティブ要素。方向こそ違え、みんな「強度」というパラメーターを持っている。

無難であることは、無数の目線が集まる空間では、何の価値も無い。 「いい」とか「悪い」みたいな方向要素は、コミュニティから切り離された 個人を前にしないかぎり、意味を失う。

他人との距離を縮める技術が生み出したコミュニケーション空間は、 言葉の「方向」要素を消して、善であろうが悪であろうが、「強度」だけを抽出する。

研究者として鋭い頭脳や発想を持っていることと、全身に刺青を彫っているとか、 髪型が独特であるといったこととは、「強度」の前には等価になる。

「学会」という、社会とは切り離された単一視点から眺めれば、 学者の「見た目」というパラメーターは無力だけれど、 あらゆる価値観を持った人達がコミュニケーションを行う場においては、 すべての強度に意味付けが為される。

物理学者のアインシュタインが、たとえばスキンヘッドに全身刺青の大男であったなら、 きっと歴史は変わっていたのだと思う。

「承認の証券化」と強度

コミュニケーションの場が大きくなると、誰かが発した「一言」は、 状況に応じて、その価値や強度の保有者が変化する。

ローカルな場所で盛り上がった話題は、今ではすぐに別の誰かに補足されて、 もっと強度の高い言葉として、全国区で盛り上がる。

作者が本来想定していた結論は、場よって全く逆の解釈を与えられたり、 笑いどころでも何でもない、些細な言い回しに「強度」を認められて、 想定していなかった盛り上がりかたをされてしまう。

「一言」はたしかにコミュニティの評価を受けるかもしれないけれど、そんな 作者の手を離れた言葉は、その人に何の対価ももたらしてくれない。

野坂昭如の娘だか孫だかが、国語の試験で野坂の文章を出題された。 「このときの作者の心境を述べよ」。 作者本人の正解は「締め切り寸前で大変だった」。 そのまま書いたら、教師は×をくれたらしい。(うろ覚え。。)

文章の解釈は、読者の権利。作者ですら、無数の読者の一人にしかすぎない。 作者であることそれ自体は、解釈の真実性を何ら担保しない。

解釈の問題は、作者である野坂昭如と、問題文を作った国語の先生との、 お互いの「強度」を賭けた勝負。

小説家が持つ強度は凄い。だからこそ、こんな話が笑い話として流通するけれど、 野坂ほどの強度を持てない人が生み出した一言は、もっと強度の高い誰かによって、 ばしば作者の手から奪われる。自意識もろとも。

地域貨幣としての「販売されるコミュニケーション」

地方の商店街は不興で潰れて、残っているのはコンビニばかり。

みんな東京資本。コンビニは便利だけれど、そこに支払った貨幣はきっと、 すべて東京に集まって、地元には戻らない。東京という強度の高い場所は、 地方の都市からお金を吸い込んで、自らの価値をますます高める。 そのお金を支払ったのは、東京とは縁もゆかりも無い誰かなのに。

流動性が高すぎて、強度の高い場所に吸い寄せられる貨幣に対する理不尽さは、 「地域通貨」という考えかたを生む。貨幣から政治機能を取り去って、 貨幣が本来担っていた、便利な交換手段としての力を取り戻そうという運動。

自意識通貨の奪いあいに疲れた人は、きっと「神様」と話がしたくなる。 強度の高い意見が「正解」として一人歩きするのではなくて、 その言葉を創った本人に、「本当のところ、どう思ってたんですか」なんて。

作者自らが神様となって君臨する、小さな世界。

フラット化しすぎた世界で勝負するのに疲れ果てた人達は、たぶんそんな小さな世界の 門をくぐって、神様に対価を支払って、神様に「正解」を尋ねる。

小説とかDVDとか、あらゆるコンテンツのコピーが簡単になった昨今、 コンテンツそれ自体の価値が低下する流れはきっと止められない。 恐らくその代わり、コンテンツを所有した人同士のコミュニケーション、 「コンテンツの購入という現象」は、これから大切な価値を作り出すような気がする。

たぶん、本やDVDの販売特典として、「作者とのコミュニケーション」を 付属させるところが出てくる。本を買うとか、アニメの DVDを購入したら、 そこから特定のページに入れて、一定期間、「中の人」達と会話できるような。

巨大掲示板でのフラットなコミュニケーションとは違って、そこは「強度」じゃなくて、 作者という「神様」が実体化している世界。そこでの会話はもしかしたらヌルいし、 あまつさえコミュニティの規模も小さいけれど、作者との会話というのは、 きっとその人に承認をもたらしてくれる。

その承認証券は、もちろんコンテンツを購入した人達でしか通用しないものだけれど、 それが全国区での「目線の査定」を拒むものであるからこそ、中の空気は穏やかなものになるはず。

数百万部を売り上げるベストセラー作家には無理な話だけれど、せいぜい数万部オーダーの 作家であったり、それぐらい売れれば十分成功といえるDVDとかゲームであれば、 「もう一万部」を上乗せする手段としてのコミュニケーションは、付加価値として 意味を持つと思う。

「神様との空間」は、一定期間で消滅しなくてはならない。 「消え去ること」で初めて、強度は固定して、価値が永続するから。

その空間でのおしゃべりを記録するのは自由だけれど、その場所のログは消されて、 すべては再び「なかったこと」にされる。もちろんコピーは出回るだろうけれど、 オリジナルはもう存在しない。後から何をいわれても、その場に参加した人達には、 「その時そこにいた」という、誰にも搾取不可能な体験が残るはず。

地域貨幣は、全国区から引きこもることで、中央の搾取に対抗する手段。 「場」が消失するから、その通貨は運用不可能だけれど、その代わり、価値は変わらない。

平等の疲れと癒し

「平等」という考えかたは、視点の置き所により、その様相を大きく変える。

コミュニティの外から見れば、「平等」なルールで運営されるコミュニティというのは、 格差社会の弱肉強食ルール。対戦格闘ゲームなんかでは、初心者はコインをいれた瞬間に 瞬殺されるし、ベテランはきっと、それを見て「公平」だと感じてる。「誰もが通ってきた道だ」なんて。

もちろん初心者にとっては、そんなルールは「不公平」極まりない。 同じ対価を支払っているのに、初心者が購入できる自意識は、ベテランに比べると、 比較にならないぐらいわずかな量しか与えられない。

努力が報われない大多数にとって、「平等」というのは、センスあること それ自体が不利になる世界

ロールプレイングゲームみたいな、ほとんど努力が全ての場所は、 恐らくは「センスある人を打ち負かす」要素が欠けていて、癒しを得るには もう少し何かが足りない。

弱い人たちが「公平な」戦いができる場所というのは、たぶん「強いこと」それ自体が 足かせになるようなルールで作られた世界。一部の自動車競技なんかでは、 勝てば勝つほどウェイトを積む決まりになっていて、速い車はシーズン後半になると 重たくなって、不利になる。

これから流行るサービスは、きっと「多様な平等視点」を提供する機能が実装される。

たとえば「はてなブックマーク」の注目エントリー部分は、今まで獲得した 総ブックマーク数が多い人は、それだけ取り上げられにくくなるような重み付けを 行うと、面白いことになる気がする。

今までの「数が全て」ルールでは、もはやいつもの面々以外、あのページの上位を飾れない。 恐らくはそれを理不尽に感じる多数の人たちがいて、その人たちが上位陣を「打ち負かせる」 場所を作れたなら、きっと今まで以上に熱心になる人が出てくるはず。 「やっと公平な評価になった」なんて。

「人気ブックマーク」部分は逆に、従来どおりの数字がすべてを支配する空間。そこにはきっと、 いつもの面々が並ぶけれど、平等視点を増やした分だけ、理不尽な思いをする人は 少なくなる。

まとめ

「来年はこれが流行する」なんて予測は無理だけれど、流行したものを振り返った時、 「ほら云ったとおりの構造が入ってるでしょう?」なんて偉そうに解説加えるだけならば、 自分なんかにもどうにかなりそう。

コミュニケーションが活発になる流れはたぶん、来年以降もますます盛んになって、 その帰結として、こんな構造を持ったサービスが作られるか、従来から流行ってる サービス見直すと、どこかにこんな構造が見え隠れするようになる、はず。

来年もよろしくお願いします

2007.12.28

たぶん来年流行するもの

流行るのはたぶん、かわいさ原理主義。承認証券による自意識の相場経済。 コミュニケーションの販売。 センスに対する累進課税ルールが敷かれた「平等な」場所。とりあえず前半2 つ。

フラット化しすぎた世界と、価値軸の多様化がもたらすだろう「何か」のお話。

平等の疲弊

それは政府予算であったり、健康保険であったり。 「みんな」から集めた予算を、立ち場に応じて「平等に」分配するのが、 昔ながらのルール。今いろんなところで制度疲労して、不満続出。

正義を担保していたのは、「みんな平等」という考えかた。 世の中に「平均値」なんて値を仮想して、予算配分を受ける権利は、 そこからの隔たりに応じて上下する。

平均は対立軸を生む。

富んだ人と、そうでない人。高齢世代と、若年世代。世の中をある平均値で2つに割って、 「上位グループ」から予算を集めて、「下位グループ」に移動する。 あらゆる価値観が多様化していく中で、もはやどんな対立軸でも世の中割るなんてできなくなって、 「平均値の欺瞞」が暴かれつつあるのが最近の流れ。

「弱くあることの強さ」が目立ってきたり、弱者であることを運用して、上手に富を集める人がでてきたり。

「あいつらうまいことやってやがる」

平等の恩恵から少し外れた、「平均値」のそばに集まる大多数は、きっとこんな思い。

「平均値からの隔たり」という価値軸が力を失って、これから代わりに出てくるのが、 目線圧力との親和性の高さ。「かわいらしさ」という価値軸。

「かわいい」が正義

「うまいこと」をした人には、必ず嫉妬が付きまとう。

ネットワークの発達は、人と人との距離を小さくして、コミュニティをより大きく成長させる。

集団の中で、ちょっと「ずる」をして得した人は、今では一瞬で知れ渡る。 昔だったら友達一人失う程度で済んでいた「嫉妬の力」は、 今ではコミュニティ全体を敵に回す危険をはらむ。

価値観が多様化して、「弱さ」がもつ力が低下していく一方で、 目線の抑圧はますます強くなる。恐らくはそれこそが、 次の価値軸を担うんだと思う。

目線圧力との親和性の高さ。「かわいらしさ」という価値軸。

「目線の抑圧」という神様が支配する世の中がもうすぐ来る。これからきっと、 みんなが「かわいさ」を競いあいながら、公共財に群がる構図が展開される。

寝たきりの超超高齢者に対する輸血の是非が話題になっていた。「平等」はもはや、 こうした問題に対する答えは出せない。

「かわいらしさ」という価値軸は、こんな問題に対する解答が容易。

「そんな人はかわいくないから医療資源分けられません」

もちろんそんなこと口に出したらおしまいだけれど、そんな思いを裏に透かした意見は、 これからきっと支持を集めるはず。

  • 寝たきりの、意識のない超高齢者は「かわいくない」。ところがそんな人に、 ものすごく熱心な、何年も前からその人を自宅で介護していたようなご家族が くっついたら、その患者さんは途端に「かわいく」なる
  • 子供さんは、子供であると言うだけで、無条件に「かわいい」。もちろんかわいい対象に対しては、 医療資源を無尽蔵に投じても、たぶんどこからも文句が出ない。ところがそのこのお父さんが 飲んだくれの乱暴者で、投じられた資本を「当然だろ」なんてうそぶいたりしたら、 その子は途端に「かわいくなくなる」

技術は進む。嫉妬目線の可視化手段は、これからどんどん進歩する。

すでにマスコミの論調であったり、政治や司法の現場においてすら、 多数意見が作り出す「空気」の力は侮れなくなっている。 「目線の神様」は実体化して、目線に対する無害さ、 「かわいらしさ」という価値軸に収斂する振る舞いが、ますます力を持っていく。

神様はたぶん、かわいいものが好き。そのあたりきっと、 昔話の神様が、ただの正直者ではなくて、「バカ正直」を愛したのと同じ。

自意識経済圏の実体化

多くの人が譲れないのは、自意識であったりプライドであったり。

blog なんてつけてると、 ただの記号でしかないハンドルネームがだんだん重たくなってきて、下手な振舞いできないなとか、 ありもしない他人様の目線を感じて、自意識過剰気味。

「かわいらしく」あることは、世の中に引っ掛かりを作らない振舞いかたをすること。 たいていの場合そんな振舞いは、どこかで自意識を曲げないと、実現できない。

「かわいい」振舞いに対しては、公共財から実体貨幣が支払われる。「かわいい」人はその代わり、 自ら持っていた「自意識通貨」を手放して、「かわいく」振舞いつづけなければいけない。

実体経済と、自意識の通貨を交換しあう自意識経済圏は、恐らく「かわいらしさ」の価値軸を 通じてリンクする。

自意識を手放したくないのなら、「かわいく」あることでもらえる何かを 手放さなくてはならない。自意識通貨を失いたくないのなら、その人はたぶん、 「かわいい」人達の目線圧力に対して、実体貨幣での対価を支払う義務を負う。

「かわいくない人」は、かわいらしさの時代においては、たぶんステイタスになる。 かわいくなさは、きっと実体貨幣で購入可能なものとして流通をはじめる。

自意識通貨と実体貨幣は重なって、相互に両替可能なものとして、一つの経済圏を作り出す。

自意識の「証券」としての承認

自意識通貨を実体貨幣に「両替」してしまうと、その人はきっと、 何かすがるものがほしくなる。

自意識を購入するためには、同じだけの実体貨幣が要る。それでは意味がないから、 恐らくは同じ額面を持っていて、より少ない実体貨幣で購入可能な「証券」が大量に出回るはず。

自意識証券としての「承認」ビジネスが流行する。

市中銀行はお金を預かって、それを元手に「信用創造」を行って、 実体貨幣の10倍近くの証券を作り出す。世の中に流通している実体通貨は少なくて、 実際の経済を回しているのは、ほとんどが「証券」。実体としての価値をもたないけれど、 お互いの信用で回せるお金。

「かわいさ」価値軸が強くなると、「自意識経済圏」の通貨は実体貨幣に両替されて払底するから、 そこにはきっと、通貨に対する需要が生まれる。

自意識経済圏の「銀行家」に相当するのは、今だとねずみ講とかマルチ商法とか、 多くの信仰宗教団体だとか。恐らくこれから、もう少し「信用」に足る証券を販売する人たちが現れるはず。

流通する自意識の量を、信用創造を通じることで仮想的に増加して、 実体通貨の対価として「承認」を販売するビジネス。元手要らないから、これからきっと流行る。

銀行家は、「タンス預金」からもお金を抜き取る。

実体通貨の価値は、運用しなくてもどんどん変わる。銀行は、 信用創造を通じて経済を動かしてしまうから、 たとえ銀行と関係のないタンス預金ですら、その影響を受けてしまう。 タンス預金を100年もため込んだなら、たぶん100年後、その価値はただの紙くずになってしまう。

自意識経済圏も、こうした「銀行家」の搾取から逃れられない。膨張する承認証券は、 そんな経済とは無縁でいたい、多くの人達の自意識をも蝕んでいく。

自意識経済に疲れた人達は集まって、恐らくは地域貨幣を生むような気がする。

コミュニティは分断されて小さくなって、あるいはたぶん、「平等の復権」が来るのかもしれない。

2007.12.26

「センスを伴わない努力」を担保する神話

それが宗教であってもゲームであっても、結果につながらない、 センスを伴わない「努力それ自体」の価値を担保してくれる「何か」が作れたら、 恐らくそれは、効率のいい集金装置として機能する。

序列の可視化がもたらしたもの

ゲームセンターには昔から、ごく少数のエキスパートと、 その人達を引き立てる、残り多数の初心者と。

昔はみんなバラバラ。「お互い」なんて意識しないで、ゲームに向かって結果を出した。

ゲームセンターに「社会」が入ってきたのは、たぶん雑誌に全国ランキングなんてものが 掲載されて、お店にもハイスコアランキングが張り出されるようになってから。

対戦格闘ゲームの時代。

「どちらが強いのか」なんて疑問は、対戦すればすぐに答えが出てしまう。 ゲームセンターの社会化はますます進んで、少数のエキスパートはお金を落としてゲームを極め、 それ以外の大多数は、たぶん絶対追いつけないその人達に断絶を感じた。

序列の可視化は、たぶんごく一部のエキスパートを除いた多くの人を、 ゲームセンターから遠ざけた。

努力から得られる成果

「センス」というものは、状況ごとにどうしようもなく存在する。

残念ながら、センスを伴わない努力が成果に結びつくことは少なくて、 努力を投じて得られる対価は、すぐに頭打ちになってしまう。

同じ努力を投じて得られる対価の大きさは、センスを持った人間のほうが、 センスを持たない人間よりも圧倒的に大きいし、センスを持った人の努力は、 その人の能力を天井知らずに高めていく。

実世界ではだからこそ、状況に応じたセンスを持たない人は、 センスを持った人に徹底的に敗北するし、「努力で勝つ」なんてことは不可能に近い。

物語世界では、センスを持ったライバルは、努力した主人公に、しばしば敗北する。 主人公は努力を投じて、莫大な対価を得る。「努力に応じた成果が天井知らず」という 時点で、この主人公のセンスは、ライバルをはるかに追い越しているんだけれど、 物語では、そこの部分は語られない。

「センスを伴わない努力」の担保

いろんな序列が簡単に可視化されるようになって、恐らくは「センス」というものが 一人歩きして大きくなって、「努力」の価値が、相対的に小さくなったのだと思う。

昔ならたぶん、町一番のゲーム名手は、努力に対する十分な見返りがあった。 今の時代、インターネットを見れば、全国ランキングの参照なんて簡単。 自分の努力を「町一番」で担保していた人達も、 今でははるかな頂上を見て落ち込むばかり。

社会の進歩がもたらした「序列の可視化」は、少数のエキスパートが持っているセンスには 報いたけれど、センスを持たない大多数には、断絶をもたらした。 その場所にたくさんのお金をもたらすのは、たいていの場合エキスパートだけれど、 人数ではもちろん、そうでない人のほうが圧倒的に多い。

努力を可視化して、それに何らかの「成果」で報いてくれるようなシステム、 努力をしない、センスを持った人たちが壁にぶつかって苦悩する横で、 努力を通じてそんな人達を追い抜けるルールを持った場所が、これから流行するのだと思う。

それは要するに、一種の「避難所」でしか無いんだけれど、 「努力がセンスを打ち負かす」虚構なしには、 誰も努力なんて続けられない。

「センスを伴わない努力の価値」を販売するシステムは、多くの業界が注目しているし、 これからはそんな商売が流行するんだと思う。新興宗教とか。マルチ商法とか。 恐らくはそこに、「ゲームセンター」が喰い込める気がする。

企画案:AI の教育が必要なシューティングゲーム

必要な虚構は、努力しない天才が壁にぶつかって苦悩しているのを横目に、 凡才が、努力を経由することで天才を追い抜く「権利」を持った世界。

実世界では、センスある人の努力は、投じた資本に応じて報われるけれど、 センスを伴わない人の努力は報われないし、すぐ頭打ちになってしまう。

虚構世界では、努力は公平でなくてはいけない。天才も凡才も、 努力をすれば努力をしたぶん、同じだけの見返りを受けないといけない。 それだとやっぱり天才にはかなわないのだけれど、そこはルールで罠を仕掛けて、 天才には壁にぶつかってもらうようなデザインを作らないといけない。

ロールプレイングゲームはそのあたり、「壁にぶつかる天才」の実装が足りない気がする。 RPGの世界観はあまりにも公平すぎて、今度はそこで長い時間を過ごした人には、 新参者は絶対に勝てないシステム。そこにもたぶん、序列の可視化がもたらす弊害。

デザインは大雑把に、昔ながらのシューティングゲーム。8方向レバーに3ボタン。 操作も従来どおりだけれど、唯一違うのが、AI と人間とが共同して戦うような世界観。 スターウォーズの戦闘機に「R2D2」が一緒に乗って戦うようなイメージ。

人間側のプレイヤーは、従来どおりのレバー操作で自機を操作できるけれど、 自機の半径数ドット以内に敵弾が入ってきた場合、AI はそれを勝手によける。 最初のうちは、敵弾がきたら反対側に避けることしかできないけれど、そんなAI に 「教育」を行うことで、人間のレバー操作に応じた最適な避けかたを学習させることができる。

敵側の戦略は大きく変わる。ドット単位の弾避けなんて機械には簡単だから、 従来型の「弾幕」には、事実上意味は無くなる。自機を殺すやりかたは、 レーザーを幅寄せして、地形で「詰み」にする戦略が主になる。 人間側は地形を読んで、敵側の意図を察して、「詰み」を回避できる場所を探す。 「弾幕」の中は、むしろ安全地帯だから、AIの働きを信じて、 死中に活を求めて弾幕に突っ込んでいくのが基本スタイルになっていく。

「教育」ギミック

プレイヤーは3ボタン。ショットと、「良し」と「ダメ」の3つ。イヌのしつけと同じ。

初期のAIは、空気を読まない。人間は右に行きたいのにAI が弾幕怖がって、 ドット単位で左に寄せられて「詰み」になったりする。

いい動き、悪い動きは、2つのボタンを通じて人間が教える必要がある。 自機のレバー操作と、そのときのAIの反応とが「良し」「ダメ」を通じて重み付けされて、 AIはだんだんと人間の意図を読むようになる。

上手な人は、前半面のこのあたりを力技で通過してしまう。ところがここで「努力」を 放棄してしまうと、後半面、優れたAIの助けがないと絶対に通過できないあたりにくると、 「頭打ち」を体験する。

レバー操作が上手でない人は、初期ステージで苦労する。ここで苦労しておくと、 AIの「しつけ」が行き届いて、後半すごく楽になる。前半を安直に進めすぎると、 後半ステージになって、構ってもらえなかったAIにしっぺ返しを食うことになる。

ゲームバランスうまく設定できれば、「努力しなかった天才を、 努力した凡才が追い越す」ことが実現できる気がする。

「しつけかた」にもセンスがでる。イヌのしつけと同じで、たぶん「ほめてしつける」動きと、 「しかってしつける」動きが作れるはず。 あえて「教育的に」弾幕に突っ込むプレイスタイルだってありだし、 最初から大局観持って、最小限のしつけでいくやりかたもいいのかもしれない。

このあたりだってもちろんセンスが問われてくるけれど、対戦格闘ゲームに比べれば、 イヌのしつけはセンスに対してずっと寛容。

「ダメな子」はかわいい

AIのデータは、もちろんプレイヤーごとに引き継げるようにする。最初はきっと失敗ばかりだろうけれど、 しつけが行き届いてくると、たぶん教育ボタンの「良し」を押す頻度がだんだんと増えてきて、 プレイヤーはより楽に進めるようになっていく。

犬飼ってると、「ダメな子がかわいい」をよく実感する。もちろん最初から賢い犬飼うと、 また違った感想持つのかもしれないけれど、仔犬の時点でアホな子だったのが、 だんだんと落ち着いてきて、しつけられていく過程は本当に楽しい。 もちろん最初の頃は大変なんだけれど。

ダメな子を何とか育てて、そのうち頑張って後半面、 グラディウスⅡの高速スクロール迷路を弾幕だらけの4 倍速ぐらいにしたステージを、 賢く育て上げたAIと力をあわせて突破できたら、きっと楽しいと思う。

たぶんどこかの過程で、プレイヤーはAIに「感情」を見出す気がする。

感情はたぶん、相手の振る舞いを観察した自己が、対象に対して投影するもの。 AIの振舞いは基本的にランダムだけれど、プレイヤーとは同じ状況を共有している。 「教育」を通じて思い入れを感じたプレイヤーは、たぶんAIが喜んでるとか落ち込んでるとか 頑張ってるとか、そこに感情を見出して、ますますゲームにのめりこんでいく。

飼い犬が「心配そう」にしたり「笑った」りするのと、このへん同じ。

ゲームの冒頭、プレイヤーをアシストしてくれるAI に、プレイヤー自らが 「名前」を与えるところから関係が始まる。

名前をもらったアシスタントは、そのうち主人公のパートナーとなって、 ゲームセンターで主人の帰還を待つ。

それはもちろん虚構なんだけれど、「努力は必ず報われる」なんて神話を紡ぐ虚構は、 恐らくはいろんな人からお金を引っ張れる。

2007.12.25

文章の空力特性

強度の高い文章発信に必要なダウンフォースの話。 空を飛ぶ小説のお話。 文章発信の力学とデザイン、あとは「かっこよさ」の感覚について。

「離陸」との戦い

「強度」を持たない文章は届かない。ところが配慮なしに強度ばっかり増した文章には、 必ずといっていいほど「上から目線」の匂いがついて、読者の共感を失ってしまう。

「強度」と「共感」とは、しばしばトレードオフの関係にある。

「上から目線」は、言葉に強度を持たせたときの宿命みたいなもので、 みんなたぶん、言葉の強度を高めながら、何とかして言葉が「離陸」しないよう、 文章構成とか言い回しとか、必死になって考える。

「離陸」との戦い。自動車競技で古くからある考えかた。

速度を競う自動車競技は、それが飛行機ならば、とっくに離陸するような速度を要求される。 自動車はそれでも地上を走らないといけない。F1 グランプリなんかでは、昔から 車が空を飛んでしまう事故が何回かおきていて、時には空飛んだ車が観客席に 着陸して、大惨事を引き起こす。

離陸はあってはならないけれど、遅い車は勝てない。低い抵抗と、大きな「ダウンフォース」。 様々な空力部品に要求されるお仕事。

空力パーツは、速度をダウンフォースに変えて、車を地面に貼り付ける。 今のF1 なんかだと、時速300km も出した競技車は、 理論上は天井を走れるらしい。速度が生み出すダウンフォースはあまりにも 強大で、その力はもはや、車体重量を越えているから。

強度の高い文章を書く人達もまた、自分の文章に様々な「空力部品」を付加することで、 文章の強度を高めつつ、自ら書いた文章を、何とかして読者の高さに「貼り付け」る。

言葉が「離陸」してしまうと、コントロールを失って飛び出した言葉は、blog 炎上みたいな 大惨事を引き起こす。

文章を書く人達は、みんな立ち位置が違うから、自動車競技みたいにお互いの比較は できないけれど、みんな自ら科したルールの中で、いろんな空力パーツを自社開発している。

強度と共感とを両立させて、文章にダウンフォースを付加する空力部品。 空力甘くて強度ばっかり高い文章は「離陸」するし、空力パーツ付けすぎた文章は、 今度は抵抗が高すぎて、強度を失ってしまう。

他人様の文章を、そんな目線で見るとけっこう面白い。

「飛ぶ小説」のお話

いい小説は、きっと空を飛ぶ。

読んでいてなんだか想像が広がったり、本筋と関係ないおしゃべりを、 登場人物が勝手にはじめてみたり。読者の現実認識が揺らいだり、 物語世界に取り込まれてしまったり。飛ぶ感じ。

小説文章にもまた、空気と同じような力学があるんだと思う。

力学的な裏づけの無い小説は、それが「飛びそう」であっても、飛ぶことはない。

文章の見た目とか、設定の派手さなんかと、実際に読んでいった時の驚きの深さとは、 しばしば異なる。あれこれ複雑な設定詰め込んで、期待して読んだその実、 読み終わったときには肩透かしを喰ったような感想しか残らない本もあれば、 状況設定それ自体は地味なのに、読み込めば読み込むほどにいろんな裏設定が透けてきて、 作者がどこまで深く考えているのか、自分の理解の浅さにくやしさを覚えるような本もあったり。

どんなにすごいデザインが行われている飛行機であっても、それを実際に飛ばしてみると 案外たいした性能が出せなかったり、「似たようなデザインだ」なんて先入観で侮ってたら、 実はすごい性能で驚いたりするように、小説もまた、「早そうな」デザインが行われた小説と、 本当に「速い」デザインが行われた小説とがあって、それは恐らく、実際に読者に読まれるまでは、 本当のところは分からない。

飛べない小説は、やっぱりなんだかつまらない。それを無理やり飛ばそうとして、 壮大な設定をあと付けしたり、登場人物にとっぴな振る舞いをさせたりすると、 今度は気流の剥離を生じて、失速したその小説は墜落してしまう。

翼型の最適解はわずかしか存在しなくて、おまけにちょっとでも寸法間違えると、 その効率は落ちてしまう。「飛ぶ」小説の世界設定はしばしばありがちで、 同じような世界観を共有する「飛べない」小説との差異は、 感覚できないぐらいにわずかなのだと思う。

アイルトン=セナ が亡くなってから10余年、F1 のデザインは、 当時から今までほとんど変化が無いとも言えるし、全く別物になったとも言える。 車輪 4 つでミッドシップ、サイドラジエターにフラットボトムはみんな同じだけど、 ほとんどすべてのメーカーが本格的な 風洞実験設備を導入するようになって、車には無数の細かな改良。

マクロには、その差はやっぱりごくわずか。細かいところは、恐らく全く別物と言っても いいぐらいの変化。見えずらいけれど「 効く」デザインが随所に盛り込まれた結果、 F1 のデザインは、何となく生き物みたいな、機械離れした印象の変化を生じた。

力学はデザインを行わない

最初から「正解」をデザインするのは難しいのだと思う。

1999 年のルマン、優勝候補なんて言われた Mercedes CLR-GT1 は、 競技開始早々に「離陸」事故をおこしてリタイアした。

名門メーカーの肝いりで作った車。だからこそ事前の準備は万全で、 風洞実験も、テスト走行も十分に行った上で競技に参加したはず。それでも飛んだ。

見る人が見ると、そのデザインが「効く」のかどうかは、ある程度まで分かるらしい。 その年の競技開始前、デザイナーの由良卓也は、「あの車はなんだか危険だ」なんてコメントしていて、 危険と言われたメルセデスは、本当に空を飛んだ。

たぶん、最初はやっぱり「デザイン」であって、流体力学は、デザインされた結果を 検証する役には立っても、力学それ自体が正解をデザインすることは難しい。

すべてはきっと試行錯誤。

決められたルールの中で、センスを持った人が「速そうな」車を考える。 空力部品とか翼型とか、たぶんいろんなアイデアが出るのだろうけれど、 それが実際役に立つのかどうかは、実際に走り出すまで、本当のところは分からない。

デザイナーが描く「かっこよさ」と、力学的な裏づけとは車輪の両輪なんだと思う。 デザイナーが突っ走ってアイデア出して、それを空気力学が検証したり、 競技それ自体が検証したり。力学それ自体からは、早い車は生まれてこない。 そのあたり、作家が文章書かない限り、物語が生まれないのと、きっと同じ。

高性能が伝わるルール

文章にも恐らく、「レイノルズ数」みたいな概念があって、小さな物語であればあるほど、 空気の粘度を無視できなくて、流れの制御は難しくなる。わずかな空力パーツの不整合は、 簡単に気流の剥離を生じてしまい、失速した文章は力を失う。

最近読んだ小説「人類は衰退しました」は、ごく小さな物語だけれど、 文章の末端に至るまで、「気流の剥離」が微塵もないような安定感。 恐らくは例によって深い設定が隠れてて、文章をちゃんと読んだら「飛べる」のだろうけれど、 そのあたり作者の美意識なのか、凄さが巧妙に隠蔽されているような印象。

美学はしばしば、性能の受容を阻む。

10 年ぐらい前、パリ=ダカールラリーでシトロエンと三菱とが争ってた頃、 プロトタイプカーを使ったワークスチーム同士の争いは、最終的にシトロエンが勝利した。

シトロエンが作ってきたのは、胴長幅広、巨大車輪の化け物みたいな車。三菱の人たちは、 それを見て「自分たちの美学では、あれを凄いとは認めても、どうしても美しいとは思えなかった」 なんて告白していた。

たぶんすごく勇気のいる告白。三菱ワークスの人達は、 相手の速さを認めたうえで、明らかに速度で優れたそのデザインに、 自らの美学では測れないものを見てしまったわけだから。

ルールもまた、速さが伝える凄さを隠蔽する。

本当に速い自動車競技、時速400km が当たり前だった頃のルマン24時間は、 なんだか「時速400kmまでだせる普通乗用車」の競技。グループC カーは の速さはたしかに圧倒的なんだけれど、デザインはどのメーカーも似たような形をしてて、 F1 なんかに比べると華が無かった。

F1 は、とりあえずかっこよさが分かりやすくて、その上早い。 でもたぶん、空力的には相当無理してて、デザイン上の制約がないなら、 最適解は他にあるはず。

絶対的な速度域と、分かりやすさとを両立させるのは難しくて、 分かりやすさを目指すなら、「凄さが伝わる」ルール設定が大切なんだと思う。 文章の場合、「ルール」に相当するものは、恐らくは作者の立ち位置であったり、 小説のジャンルであったり、想定する読者層であったり。

「人類は…」は、そのへん絶対的な速度を追求して、ルールから自由になって、 分かりやすさはたぶん、あえて放棄したような印象。 ざっと読みして、たぶん「飛べる」なんて感想持ったけれど、解析的に読み込んでいくと、 きっと相当面白いことが詰め込まれてるんだと思う。

2007.12.22

弱さを運用する文化

今に始まったことじゃないけれど、弱い人が強く振舞うことが増えた。

この流れを生んだ原因が、未だによく分からない。どうすればいいのかだけは分かってる。 もともと「強い」側に立ってた人達が、本当に強くなればいいだけの話。

でもそれやると血の海だから、できればそんなことしたくない。 穏やかに時計の針を戻すやりかた考えるんだけど、分からない。

妥協の結果として行き着いた正しさが、いつのまにか目標として目指すべき何かとして 一人歩きをはじめて、世の中がだんだん「正しさ」に支配される、そんなお話。

大学のこと

父親もそうだったけれど、大学の教官というものは、 みんな個室を持っていて、学生を個室に呼び出しては説教したり、 夜通し酒飲みながらおしゃべりしたり。あるいはまた、 自分みたいな子供はときどき、そんな部屋で遊んでた。

今ではもう、役職付きの先生がたは、絶対に一人になれないらしい。

学生と教授とが、同じ部屋に 2人きりになる。中は見えないけれど、「2人」には証言者がいる。

こんな状況を作られてしまうと、もうその時点で言い訳できなくて、 あとは「試験通して下さい」とか、「来年の単位よろしく」だとか、事実上やり放題なのだという。

もちろん、そんな事例は全国で数えるほどしかないけれど、「強い人達を取り巻く空気」 というものは、もう昔みたいな曖昧さを許してくれない。

飲み会に呼ばれるのも恐怖なのだという。

教授なんかが飲み屋に入った時点で、その飲み屋さんで飲むすべての学生について、 教授に管理責任が発生する。誰か学生が一気飲みして倒れたら、 間違いなく「その場にいた偉い人」に係累が及ぶ。体育会の顧問をしている先生がたも、 今では飲み会は原則不参加。参加するときは本当におっかないのだとか。

昔話

今50台の先生がたが学生だった頃は、単位なんか無茶苦茶だった。

試験落とされた学生が教授室に呼び出されると、バケツとぞうきんを渡される。 教授室の清掃だとか、あるいは教授の車を洗車するだとか、そんな「奉仕作業」と 引き換えに、試験が通ったりしたそうだ。

我々の頃。今から15年ぐらい前は、さすがにそこまで適当ではなかったけれど、 教授は良くも悪くも強い存在で、学生は弱かった。 学生はやっぱり落とされて、野郎4人ばかり集まっては、エレベーターの中に教授を軟禁して、 「先生が通すと言ってくださるまで、我々はここを動きません」なんて。 それで何とかなった時代も、昔はあった。

あいまいさを許さない空気がだんだんと出来上がってきたのは、もう少しあと。

「大学は資格試験だから、みんな60点取れば、みんな合格するんだよ」

受験競争終わって、先輩からこんなこと言われて感激したのも今は昔。

試験前になると、みんなでノート交換して、試験対策プリント作って共有。それ読めば、 満点には程遠いけれど、それでも何とか合格できる。「それ以上」を目指すなら、 それはその人の度量次第。こんなルールが代々続いて、 それなりにうまく廻っていたのが「試験対策委員会」。

学生にとって便利なはずの、こんな「委員会活動」に、当の学生からクレームが入ったのは、 自分が卒業してすぐぐらいのこと。

「試験対策プリントを配られると、実力どおりの序列がつかないからおかしい」

こんなクレームが「勉強が好きな」学生から大学当局にねじ込まれた。もちろん 学生の本分は勉強だから、大学当局がこんなクレームを無視するわけには行かなくて、 試験の形式を変えることになったらしい。

落ちる学生が増えて、「実力どおりに」留年する学生が出てくるようになって、 今度は学生を落とした教室に、強力なクレームを入れる人達が出てきた。

当局はまた対応して、試験は今ではマークシート方式。 どの問題を、どの教室が作ったのかは公表されなくて、 試験の結果は合否判定だけ。落第した人も、自分のどこが悪くて落ちたのか、 原則公開されなくなったらしい。恐らくは全国どこも、大雑把にこんな流れがあるはず。

弱さの運用が生み出したもの

やっぱり鍵になるのは「弱者」。

最初はみんなであいまいに。「奉仕作業」に従事する学生であったり、 あるいはエレベーターで教授を軟禁する学生なんかは、それでもきっと、 ある人達から見れば、「強者」の側だった。

この頃の「弱者」というのは、たぶんまじめに勉強して、コツコツ試験に通った学生。 この人達の誰かがきっと、「まじめさが報われない」なんて思ったのが最初なんだと思う。

「まじめさが報われる時代」が来て、今度はたぶん、まじめさはさておき、 結果を出せなかった人が弱者になった。弱者は弱さを運用して、 そのつど断絶は深まって、過程がみんなから隠蔽される流れができた。

何となく悪い方向。多様性減らして、みんなが同じベクトルに収斂するような、 不吉な流れ。何が悪いと断定はできないし、その流れはたしかに いろんなものを「正しく」していくんだけれど、いやな予感。

集団の中で一番割り喰ってる人が正論吐くと、どこにも大体こんな流れができる。

目的が手段になるとき

最近、患者さんの家族から病棟に当てて、いきなりのクレーム電話をいただいた。

あんまり納得いかないからご家族に来ていただいて、何がいけなかったのか尋ねたら、 「クレームつければ入院期間延ばせるから」なんて返事。あんまり悪びれてなかったのが、 逆にすごく怖かった。

仕事柄、クレームはやっぱり多いし、みんな理不尽で、面罵されて落ち込むことなんてしょっちゅう。

それでもクレームは、その「理不尽さ」が救いになっている部分が少しだけあって、 みんなクレームをつけることそれ自体が目的になっているから、やり過ごせばそれでおしまい。

クレームを通じて何かを得たい人というのは、今まではやくざみたいな「プロ」ばっかり。 この人達のクレームというのは、クレームというよりも交渉言語だから、それも一応、どうにかなる範囲。

クレームというのは要するに、今まではものすごく感情的か、あるいはものすごく冷静な人達、 どちらにしても標準偏差から外れた人達の道具だったはずなんだけれど、 それがいよいよ「カジュアルに使える道具」として病院に登場してきたかんじ。

うちの地域は田舎の小さなコミュニティだから、こんな人達はまだまだ例外だけれど、 都市部ではきっと、こんな「カジュアルなクレーム」が増えてきて、みんな困ってるんだと思う。

標準偏差のとりかたで閾値は異なるけれど、たぶんどこかのタイミングで、 今までは「例外処理」でこなしてたプロセスが増えすぎて、 システム全体に修正を加えないといけないときがくる。

それがたとえば、試験制度の変化であったり、結果通知の匿名化といった流れ。

医療の場合は何となく先読めて、複数主治医化だとか、お話するときには 弁護士立会いだとか、入院したとき「何を治せて、何を治せないのか」を はっきり定めた契約書だとか。

もしかしたらそんなやりかたをこそ望んでいる人がいるのかもしれないけれど、 やっぱり多くの人は、そうなったら不自由なんだと思う。

人々の官僚化だとか、マスコミがすべてを悪くしたとか、 それは状況記述であったり思考停止であったり、何となく、 もっと奥のほうに何かがある。「個人が属するコミュニティが、 単純に大きくなりすぎた」というのは、たぶん一部正解なんだと思っているけれど、 じゃあ封建主義時代万歳かと言えば、それもちょっと違う。

システムが腐る前に、時計の針を戻せたらいいのだけれど。

2007.12.19

拳を用いた異文化コミュニケーションについて

医:「○○のガイドラインはおかしくありませんか?」
弁:「おかしさの言語定義を行ってください」
医:「こことここ、矛盾していませんか?」
弁:「それは立法の問題です」
医:「この判決は不合理ではありませんか?」
弁:「それは立法の問題です」
医:「なんだか話してて腹立ってきました」
弁:「ではそういう立法を行ってください」

法律畑の人達と話が噛み合わない。お互いもっと話しあいを 持つべき業界なんだろうけれど、うまくいかない。

背負った立場が違うというよりは、会話を転がすためのルールに 不備があって、最初から「ゲーム」にならないイメージ。でも何が悪いのかよく分からない。

以下、「対戦格闘ゲームを通じてコミュニケーション語った文章読みたいな」、というお話。 自分はその頃、もうゲームセンターから離れていたから、感覚が分からない。

言葉は本質を隠蔽する

人間社会は言葉なしには成立しないけれど、言葉を持たない生き物だって「社会」を作る。

サルは手足で、ゾウは鼻で、犬猫は尻尾で、それぞれコミュニケーションを行って、 人間社会に負けないぐらい、複雑なルールを回す。

社会を作る道具は、たぶん何だっていい。

「道具」となるのは、たいていの場合、その動物が特徴的にそなえている器官。 ゾウなら鼻。鼻は有用で、独特のものだったから、ゾウは「鼻の社会」を作った。

「言葉」は、人間が生得的に持つ器官。

言葉というのは、社会が要請したとか、集団生活を円滑に進めるために開発されたとか、 何かの目的が作り出したものなんかではなくて、 人間独特の、生得的に備わっていたもの。

人間の社会は、言葉が作った。

社会が言葉を要請したのではなくて、言葉が社会を作り、常識を作り、 文化を作った。だからこそ人間社会は言葉と不可分で、 言葉が通じる社会は、生得的に言葉を備えた人間にしか作れない。

社会という現象は、状況が生み出した「収斂」なのだと思う。

イヌもサルも社会を作る。そこには裏切りとか駆け引きとか不倫とか、 社会を記述するための記号セットはほとんど揃っていて、 「言語」があるべき場所には、腕とか尻尾みたいなシグナルが鎮座している。

人間は、言葉を使って社会を作り出したけれど、「言葉社会」が持つ 特徴というものは、言葉をもたない動物社会にも共通して見られる。

社会にはたぶん、共通骨格に相当するものがある。ところが「言葉」が 社会とあまりにも深く結びついていて、言葉はしばしば、 そんな骨格を隠蔽してしまう。

「拳で語る」コミュニケーション

サル学であったり、動物行動学なんかを通じて人間社会を解説する試みは、 言葉が隠蔽してしまっている「社会的な何か」を探すとき、しばしば役に立つ。

人間同士のコミュニケーションは、もちろん言葉なしには成立しないけれど、 言葉はまた、コミュニケーションを考える上で大切な何かを隠蔽してしまう。

言葉がない状況に発生したコミュニケーションを論じることは、 だからこそ「コミュニケーションを真に生成せしめている何か」を観察するとき、 言葉が隠蔽していた何かを見出せる。

コミュニケーションを行うときには、「間」を読みあったり、蹴飛ばしてみたり。 相手の弱さを気にかけたり、あるいは逆に、 強さを信じて、和やかな空気に割り込みをかけてみたり。

突っ込みとか、強制割り込みなんて言葉は、何となく格闘技の空気。 格闘ゲームが大流行してた頃、ゲームセンターの日常会話でよく使われた単語。

法律畑の人達とは、未だに会話が成立しなくて、どんなやりかたしてもうまくいかない。 説明されても納得できなかったり、恐らく法律の人達も「俺様最強 w」なんて思っていなくて、 なんでうまくいかないのか、きっと首をかしげている、はず。

対戦格闘ゲームというコミュニケーション

対戦格闘ゲームをヒットさせようと思ったならば、ルールの設定が非常に大切なんだと思う。

特定のキャラクターが強すぎてしまったり、あるキャラクター同士の組み合わせで戦うと、 どちらか一方が絶対に勝てなかったりすると、恐らくそのゲームは盛り上がらない。

ルールはまた、プレイヤーの進化に応じて変化を要請される。

「ストリートファイターⅡ」が発売されたすぐの頃、ロシアの鉄人「ザンギエフ」は 飛び道具もなければ動きも遅くて、使い物にならい、弱キャラクターの扱いを受けていた。

ところがゲームが普及して、各キャラクターに戦術が確立してくると、 ザンギエフには「立ちスクリュー」なんて必勝に近い戦略が見つかって、 使いこなせる人が使ったら、ほとんど無敵に近い強さを発揮した。

特定のキャラクターが強くなりすぎると、ゲームのバランスが崩れて、お客さんが寄り付かなくなる。 「待ちガイルは卑怯!」とか、「ダブニーハメ禁止!」とか、道徳に訴える ローカルルールも有効なんだろうけれど、それはやっぱり制度疲労を引き起こして、 プレイヤーは他のゲームに移ってしまう。

「ルールの不備」は、ゲームセンターの売上げ低下として可視化される。メーカーはすぐに反応して、 ストリートファイター2のルールは何回か改訂を受け、そのつどバランスは是正され、 たぶん売上げも回復したはず。

ゲームセンターにあって「会話」にないもの

実世界での言葉を使ったコミュニケーションというのはきっと、「やりこみ」を極めた プレイヤーしかいないゲームセンターのようなもの。バランス崩れて、ルールを調整 しないといけないのに、どうやればいいのかなかなか見えない。

対戦格闘ゲームのルールは微妙。どのキャラクターにも特徴があって、 強い部分と弱い部分、ちょっと見た目には区別がつかない。 プレイヤーが習熟してくると、お互い1 ドットの間合いを削りあう勝負。 わずかなルール変更が、時に大幅な戦略変更を引き起こす。

「医師-弁護士の言葉の壁」なんて問題も、恐らくは「1ドット」のバランス調整問題。 初期には問題にならなかったルールの瑕疵が、みんながゲームをやりこんで、 今では致命的な断絶となってきた。

法律畑の人達は、「訴訟」なんて飛び道具使えて、ガードをしても体力削られるし、 ジャンプしてやり過ごそうとしたら、今度は「言語定義」の無敵対空兵器を喰らう。 こっちが「倫理」とか「合理性」とか、起き上がりに下手な蹴り技出すと、 今度は「立法の問題」なんてコンボ入れられて、全然勝てない。

会話にも、たとえば「立法の問題禁止」とか、「言語定義は卑怯」みたいな ローカルルール作ってもいいのだろうけれど、お互いの戦略がよく分からないから、 どんなルールが面白いのか、全く分からない。

必要なのは、「売上げによる査定」なんだと思う。

どちらが正しいとか、こうするのが道徳的とかではなくて、会話の「売上げ」という パラメーターを何か設定して、それが最大になるよう、業界ごとの言語ルールを決めないといけない。 勝てないゲームはつまらない。つまらないからやらない。ローカルルールで 「法律の人が立法って言ったら回線切断」なんて作っても、それでは「売上げ」につながらない。

ルールの不備と、個人の資質の問題とは、恐らくは別個に考えられる。

世界大会で優勝したような、強いプレイヤーが常駐するゲームセンターは、 恐らくはその対戦台で勝てる人なんて出ないけれど、そのゲームセンター自体の 売上げは落ちないはず。 ルールの不備で負けるのと、すごい人に負けるのとは、全く別の問題だから。

お願い:誰か語って下さい

「拳で語る」という言葉には、恐らくは相当な真実が入っている。

対戦格闘ゲームが歩んできたルールの問題、 あるいはシューティングゲームに没入しているときに感じる、 作者とプレイヤーとの、「弾幕介したコミュニケーション」などには、 実世界でのコミュニケーションを論じるだけでは見えてこない何かがある。

言葉とか拳とかは、要するに道具なんだと思う。

コミュニケーションに本来必要なのは、同じ場所に複数の人が集まって、 一定のルールの元に、お互い意思疎通を図ることであって、 言葉それ自体は、コミュニケーションするのに便利な道具で、 しかも「人間同士のコミュニケーション」を作り出した立役者でもあるんだけれど、 必ずしもそれは、コミュニケーションそれ自体を作るのに必須なものではないはず。

ただの道具でしかない言葉が、コミュニケーションの世界では、あたかも王様のようにあがめられ、 バックグラウンドでコミュニケーションを駆動しているルールの問題は、言葉によって隠蔽される。

言葉の要らないコミュニケーションを論じることは、きっと言葉を使ったコミュニケーションの 問題点を、分かりやすい形で教えてくれるはず。

自分には残念ながら資質がなくて、ストリートファイターは2 ボタン時代の初代しか 知らないから、そのあたり全然分からない。

誰か全盛期を知っている人、コミュニケーション語りたい人、まとめていただければ幸いです。。。

たとえばそれは、ネットで文章発信している人達のやりかたを、 ストⅡのキャラクターごとに確立した戦術にたとえて分類したり、 ゲームセンターで、初対面した人に、挨拶もそこそこに「待ちガイル」されたときの哀しさだったり。 きっと楽しいと思います。

コミュニケーションから「言葉」を外して、もしかしたら技術畑と法律畑とを 隔てている「絶望的な1ドット」が見つかるなら、それはすばらしいことだと思います。

とりあえず、dankogai さんはザンギエフで。

2007.12.17

勤勉という悪徳

整形外科の手術リストに、「野球肘」のお子さんが載っている。まだ中学生。 少年野球の元エース。

中学校に進級してすぐに肘を壊して、30度以上延びない。手術はできるけれど、 整形外科的には、もう野球は勧められないらしい。

たぶん子供なりに好きを貫いて、恐らくは賞賛の声を惜しまないコーチに恵まれて、 一生懸命頑張ったんだろう。残念ながら、そのコーチは勤勉ではあっても能力がなくて、 子供の肘は壊れてしまった。

善なる無能は邪悪に通じる

「好きを貫く」ことは難しい。好きであること、賞賛という強化因子があるだけでは まだ片手落ちで、「好き」に応した十分な才能に恵まれて、 さらにもう一つ、「能力」のある導き手につかないと、惨めなことになる。

無能で勤勉な人というのは、しばしば災厄をもたらす。

「厳しいだけの無能なコーチ」なら、たぶん子供の肘は壊れない。 子供は野球嫌いになったかもしれないけれど、少なくともその子の肘には、 回復不能なダメージが残ったりはしなかった。

小学生の子供をして、外から見ても関節の変形が明らかになるまで、 肘が全く伸びなくなるまで自分の体を痛めるのは難しい。裏返せばそれは、 そのコーチにはよっぽど人望があって、その子はコーチに嫌われたくなかったんだろう。

コーチは恐らくは、人間として「善」であって、しかも極めて勤勉ではあったけれど、 コーチとしての能力が欠落していたから、その存在は邪悪になった。

能力を伴わない勤勉さを賞賛してはいけない。

能力ある怠け者は将軍になれるし、能力のない怠け者だって兵士になれる。 ところが無能で勤勉な人というのは、戦争になると、まず真っ先に味方を殺してしまう。

能力は勤勉さで計測できない

勤勉さというパラメーターを用いて能力を測ろうとする態度は、 どこか致命的に間違っている。

勤勉さは分かりやすくて、恐らく定量的な評価すら可能だけれど、 「勤勉であること」それ自体は、能力があることを全く担保しない。

失敗プロジェクトを救済した立役者なんて取り上げられる人というのは、 メディアが華々しく取り上げる一方で、同僚の陰口レベルでは、 必ずしも評価が高くないことがある。そんな乖離の原因となっているのが、 たぶん「能力を勤勉さで測ろうとする態度」なのだと思う。

「プロジェクトX 」みたいな成功物語でも、もしかしたら本当に状況を救済したのは 「能力の高い怠け者」であって、その人の本当のすごさというのは、 外から見た「勤勉さ」パラメーターで測定できない。

状況打開の立役者だなんて、勤勉さを売りにして取り上げられた人の中には、 案外ただ単に「足を引っ張らなかった」という以上の貢献が無い人だっているのかもしれない。

勤勉さを目指した先には、必ずしも能力は発生しない。

学校に入った子供達に最初に教えるべきことは、 「世の中には能力に欠けた人が、能力が必要な場所にいることがあって、 その人の勤勉さと、状況ごとに必要な能力を持っていることは、 必ずしもイコールでないんだよ」ということなんだと思う。

背が高い男は有罪か ?

裁判官が、「男の背が高い」というだけで、ある事件を有罪にすることは正当だろうか ?

医療過誤裁判なんかでは、医者の世界と法律の世界、 そもそも「能力」という言葉に投影されるイメージが、 全く異なっている気がする。

同業者から見て、能力の足りない医師が事故を起こしても、そもそも裁判どころか トラブルにすらならないのに、能力的には十分な、少なくともその人よりも優秀でない人なんて いくらでもいる人が、しばしば裁判にかけられている。

裁判所で評価対象になるのは、「過失の有無」とか、「努力したのか」とか、 要するにそれは、外部から計測可能な、「勤勉さ」の延長線上にある何か。勤勉さの有無と、 能力の有無とは、やっぱり関係ないはずなのだけれど、裁判で争われるのは勤勉さ。 それは勤勉さでしかないはずなのに、いつのまにかそれが「能力」として争われる。

本来査定すべきは、主治医であったその医師に、その状況を任せられるだけの 能力が備わっていたかどうかなのだけれど、それは実際難しいから、 「勤勉さ」パラメーターで近似をかけているのだとは思う。

その近似はあまりにもいい加減で、勤勉さは、能力を査定するものさし としては役立たずで、極論すればそれは、「その男は背が高い。だから有罪」と、 何ら違いは見えない。

能力は関係の中においてのみ観測される

状態変化の特異点におかれた人は、誰かからその能力を要請された人というのは、 要するに触媒なんだと思う。

反応させる物質であったり、反応温度みたいな環境を抜きにした、 「触媒それ自体」の優劣を論じることに意味がないように、人の能力それ自体を、 その能力を要請した状況から切り離して論じることは、本来できない。

特定の反応物質に対する触媒の能力は、 一定時間に生成した反応物の量として観測するしかない。 「能力」という考えかたは、だからその人に与えられた仕事が終わって、 その成果を測ることでしか評価できない。

たとえば「教員の能力」なんてものを測ろうとしたら、それはやっぱり、 その子がいい大学に入ったかどうかになるんだと思う。結果がすべて。

999人の子供を東大に叩きこんだ教員は、999人目までは「有能」と判断されるかもしれないけれど、 1000人目の子供が試験前日に入院したら、その子にとっては、 やはりその教員を「無能」と判断するしかない。

あるいはまた、東大にいった999人は、まるで人形みたいな性格に書きかえられていて、 「暖かい子供に育ってほしい」なんて思いで「有能な教師」を要請した親御さんは、 やっぱりその教員に無能判定を下すかもしれない。

能力というパラメーターは、それを評価するコミュニティとの相互作用を通じてでしか決定できないし、 観測者もまた、能力を持った人を取り巻く系から自由ではいられない。

状況定義と能力と

その人に何をしてほしいのか。

能力を要請された人は、自分にできること、自分がやるべきと信じたことを行うことしかできないし、 最終的に「出来上がり具合」を判断される何かと、その人が産出した何かとは、 状況定義が甘い場合、一致することが少ない。

何かの仕事を任された個人の能力は、状況定義を行う人の優秀さと切り離して考えられない。

たとえば洗濯をする機械がほしい なんて状況定義。

こんな状況定義を行った人は、どんな技術者に頼んでも、もしかしたら満足する洗濯機 には出会えない。自らの頭に「洗濯」のイメージが作れない人は、 何を持って成功といえるのか、それを判断するすべを持たないから。

「洗濯をする機械」という状況定義を、たとえば「水を均一に攪拌する機械がほしい」と 記述する優秀さを持った人なら、かなり高い確率で優秀な機械に出会えるし、 恐らくは「洗濯する機械がほしい」なんて状況定義を行った人よりも、より低いコストで 「洗濯機」を手にすることができるはず。

状況定義を行う人の優秀さこそが、触媒の優秀さを引き出すのだと思う。

医療保険のこと

医療保険制度は、なんだか大声コンテストの様相。

保険制度は本来、「勤勉さ」みたいに測定可能なパラメーターである「重症度」に応じて、 患者さんの負担金額を補助したり、医療サービスを分配したりする制度。定量的な システムだから、うまく廻れば、トラブルは発生しないはずだった。

人類平等だとか、勤勉さ最強だとか、おかしな価値観が一人歩きしたおかげで、 今の保険制度は、なんだか「無能がお得」な制度として動いてる。

「優秀な」人、医療の現状に理解があって、病気の重症度に理解がある人は割りを食う。 そんな思考を放棄した、「全部やってくださいあと知りません訴えます」なんて捨て台詞残して、 あとは病院お任せで見舞いにも来ない人たちなんかが得してばっかり。

「能力」を査定することは困難だとしても、せめて状況定義が上手な人が、 それだけ得するルールにはなってほしいなと思う。

状況定義に優れた人が、優秀な「触媒」みつけていい結果を招き寄せたり、あるいは状況定義力に 欠けた人なら、株式投資の分散戦略よろしく、「触媒」を複数用意することでリスク回避を図ったり。

リスクテイクは本来、状況を定義する人達の仕事だし、保険制度というものは、 やはりそうした人達の「優秀さ」を哄笑するようなシステムになってはいけない。

医師が結果責任問われちゃうのは、ある意味しかたがない部分があるけれど、 せめて状況定義した人の責任、「触媒」の優秀さを引き出す状況定義を行い得なかった 責任というものだって、叩かれたっていいはずなんだけれど。

2007.12.13

twitter を中心にした文章生成作法

この数ヶ月間のやりかた。そこそこうまくいく。 アイデア出しと、それを文章にするまで。あと必要な「量」のお話。

アイデアは一瞬で腐る

アイデア出しは twitter 。twit という専用ツールを常時起動しておくと、 クリックから書き込み可能になるまで0.5 秒ぐらい。

「コンマ秒」を追求するのは、アイデアを出すときにはとても大切。

アイデアが浮かんでから、それを文章に定着させるまでの時間というのは、短ければ短いほどいい。 「1 時間を10分に」なんてスケールではなくて、1 分では遅すぎて、最低でも1 秒以内、 「コンマ秒」を縮められるなら、ツールを総とっかえしてもいいぐらいに大切。

アイデアは、生まれた瞬間から腐りはじめて、すぐに蒸発する。

「覚えているから大丈夫」とか、「忘れるアイデアというのは最初からその程度のもの」という 考えかたは間違っているし、それはたぶん、すごくもったいない。

神様は細部に宿る。面白い概念浮かんで、それをすぐ文章に定着すると、 少なくとも書いたその瞬間は、文章としてすごく面白そうに見える。 ところが頭で「暖めた」発想からは、最初に浮かんだ瑣末な枝葉がなくなってしまって、 なんだかつるんとした、アイデアの「本質」みたいなものしか残らない。

「本質」なんかには何の価値もない。

半日も暖めたその「本質」というのは、「相手を敬おう」とか、「言葉は大切」とか、 なんだか陳腐な、誰にでも思いつけそうな、間違ってはいないんだけれど、そこからはどうやっても 面白い文章なんて生まれないような、そんなろくでもないものになってしまう。

偉い人の人生訓というのは、時々どうしようもなく陳腐でつまらなくて、 これだけ面白い「生」を駈け抜けた人が、どうしてこれほどにつまらない言葉しか持てないのか、 理解に苦しむことがある。それと同じ理屈なんだと思う。

アイデアプロセッサとか、少し前ならwema とかマインドマップとか、 高機能で便利そうで、実際使ってみるととても便利に使えるツールはたくさんあるけれど、 そんなツールの致命的な欠点というのは、つまるところ「コンマ秒」レベルの遅さ。

twit でtwitter に書き込むのと、ブラウザ立ち上げてwema に書き込むのと、時間にすると2秒も違わない。

残念ながら、アイデアにとっては、2秒というのは妥協不可能な、 どうしようもない遅延であって、もったいなくて高機能なツールは選べない。

質より量

アイデアというのは、ゆで卵みたいにつるんとした「本質」から、 無数の細かい枝葉が伸びて、ウニだとか、神経細胞みたいな形をしている。

同じ「本質」から生える枝葉の形が変化すると、アイデアというのは、しばしば 全く違った形に見えるし、同じ「本質」が、運用のやりかたひとつで真逆の論理を 補強するための材料として使えたりもする。

本質を伴わないアイデアというものは存在できないけれど、 「本質」に相当する部分というのは、「ある」という以上の価値を持たない。 本質の面白さ、つまらなさというものは、アイデアの価値それ自体には何の影響も与えられない。

残念ながら、本質と切り離された枝は、価値を評価することができない。

ある文脈では、その枝葉を持ったアイデアには大きな価値が生まれるけれど、 文脈がわずかでも変化すると、そのアイデアが力を失ったり、あまつさえ邪魔になったりする。

文脈と切り離された「アイデアそれ自体」に価値を見出してしまうと、ろくなことがおきない。

当初はいいアイデアだと思った何かは、文脈が変わってもそこに居座り続けて、 文章の流れを乱してしまう。邪魔ならどかせばいいだけの話なんだけど、 アイデアのストックが少ないと、つい「もったいない」をやってしまって、 文章全体が腐ってしまう。

特定の文脈で価値を持つアイデアだけを発想することなんてできない。 アイデアに質を求める立場は、しばしば量を制限してしまうし、 量を伴わない質からは、結局のところ「いい流れ」を持った文章は生まれない。

全てはテキストエディタに集約する

大雑把に3日分ぐらいのおしゃべりがたまったら、そのログをおこして切り貼って、 何となく形を作ったら今度は削って、一つのエントリーに仕上げてアップする。大体2時間。

ログおこすのは twitter 検索から。全て自分の言葉。他人様の言葉とか、 ネットで見つけた面白い考えかたなんかは、別途テキストエディタにコピーしておく。

ネット文章をスクラップしておくツールにtumblr というのがあって、 今これも試しているんだけれど、自分にとっては高機能すぎる印象を持っている。 面白そうな考えかたに出会ったら、単純にテキストをコピーして、 パクりにならないようにリンク先だけメモできればそれで十分だから。

これだけをやるのに ZakuCopy というツールが 公開されていて、コピーした文章と、そのアドレスとを一緒に保存してくれる。単機能ツールなんだけれど、 実際これで十分で、もちろん動作は圧倒的に速いから、ずっとこれを使っている。

「はてなブックマーク」みたいなソーシャルメディアは、おしゃべりのために使うことはあっても、 ソーシャルブックマークの機能それ自体を、何か情報を集めるために使うことはほとんどない。 それも要するに、自分にとっては高機能にすぎるから。

おしゃべりのログは、時系列に並べなおして、テキストエディタにコピーする。3日分とか、 複数のテーマで適当に喋り倒した言葉の断片を、何となくいくつかのテーマに分類してコピーする。 この時点ではまだ、何を書くのか、どんな結論になるのか決まらない。

真ん中にくる一言を決める

訴えたいことなんてない。要するに自分の文章というのは、 「何かかっこよさげな一言」にリアリティを持たせたいがための、 厨房設定みたいなものだから。

文章の中心となるのは、そんな「何かありそうな一言」。

何も考えないで、勢いで喋り倒していると、論理には必ず無理がくる。いろんな人との反応があって、 論が迷走すればするほど、自分の思いと、実際しゃべられている「論」との間に解離ができて、 「歪み力」みたいな応力がたまっていく。

歪みを許容すると、なんだか負けを認めたみたいで嫌だから、たいていどこかで、 「無理筋飲み込んだ一言」、なんだか偉そうな、思わせぶりな「一言」が出てくる。 何となく分かったような、分からないような、 あるいはもしかしたら、おしゃべりしていた相手の方があきれるような言葉。これが文章の真ん中部分。

そんな一言は、そもそも無理な何かを勢いで断言している。 自分はいつも、そんな一言を文章の中心に置いて、それに説得力を出すために、 前後の文章を切り貼っている。

「自分の中に湧きあがってきた、言いたいことを書きましょう」なんて、 そんな模範的な文章作法には違和感がある。「言いたいこと」なんてそもそもないから、 いつも結論を作るのが一番大変。真ん中の「一言」越えたら急速にモチベーションが 下がってくるから、時々最後の最後で力尽きて、陳腐な結論で終わったりする。

削りかた

文章は切り貼り。エディタにコピーした言葉の断片を眺めながら、たいていの場合、 もう一度最初からうち直して文章にしていく。

エディタに「材料」になる言葉の断片コピーして、実際文章が出来上がって、使うのは6割ぐらい。

とりあえず書きあがった後、エディタの下半分には、使わなかったアイデアとか、一部だけコピーして、 虫食いになって意味が通らなくなった文章の断片なんかがゴミの山になる。

やりかたは原始的で面倒だけれど、1 万字いかないぐらいの文章書くなら、 わざわざアウトラインプロセッサを持ち出すまでもないような気がしている。

できた文章は削る。

「というのは」、「しちゃったりする」、「ものすごく」、「~になっている」、 「するようなきがする」、「そんなわけで」、「言うまでもなく」みたいな言い回しは、 まず削る。なくても意味は通る。

削るだけ削っても、たいていまだ5000字ぐらい。今度は段落ごと削る。 意味が通らなくなっても、前後の流れ、あるいは今までのエントリー読んでる人なら 推測できるぐらいの欠落なら、それも削る。3000字台におさめたら、blog にアップする。

アップロードして、版面が重そうな場所とか、改行がおかしいところなんかをさらに直して完成。

この文章なんかだと、書き始めは10000字越えていて、文末削って7942字。最終4700字。

言葉の育てかた

「神の数は3だった」とか、「良心は行動から事後的に決定される」とか、何でもいいんだけれど、 実体としては何も記述していないのに、言い切っちゃうと何となくかっこよさげな、そんな一言。

これを見つけて育てるのが、文章のはじまり。

ただの言葉は、実体としての力を持たない。それではちょっと寂しいから、 まずは「その言葉が力を持つ世界」を設定して、もうひとつ、 その言葉が読者に「発見される」状況を設定しないといけない。

それはたとえば、3を信仰する宇宙人が作った構造物が飛んできて、 それを人類が探索する話であったり、最初から異世界を設定して、 その中で「3」を受け入れた人達の日常を描くやりかたであったり。SF 小説の書きかた。

リアルな世界と状況とを作り出して、作家ははじめて登場人物のことを思い描いて、 その人達を喋らせる。これで小説が書ける。

残念ながら小説が書けるほどの豊かな想像力を持った人は少なくて、 自分にもまた、そんな能力なくて。

本当は、俺様設定のSF小説が読みたい。自分で設定した世界観の中で、 何となくいわくありげな登場人物が何か喋ってるの読めたら、 きっとすごく面白いだろうなと思う。

まだまだ能力足りないけれど、自分の文章はいつも、基本的に「SF」だと思って書いている。 「小説」になる前段階、世界観の設定ノートみたいなもの。

量が質に転化する

リアルさは、見えない部分の記述量に逆比例するのだと思う。

書きたいのは小説。無理だからblog 。

「いい小説」の代表選手に、「奈須きのこ」と「京極堂」なんかを挙げたら厨房だと笑われるだろうけれど、 あの人達はきっと、「○○ページで書かれてた戸棚開いたら何が入ってるの?」とか、 「京極堂書店の本棚、上から3番目、右から12冊目の本は何 ?」なんて質問にも、 たぶん間髪入れずに答えを出せる。

発想しただけの世界設定は、まだまだ単なる風景画、「書き割り」にしかすぎない。

絵の中では、登場人物は動けない。それを「世界」にしていくためには、 絵の角度からは見えない、多くのことを想像して、どこかでそれを記述しないといけない。 記述したところで、見えないそれは、読者の目に入ることはないのだけれど。

見えないものを書いた文章、 いっぱい書いてから削り込んだ文章というのは、 「見える」部分だけを記述した文章よりも力を持つし、 ソーシャルブックマークみたいな「集合知」を実体化した何かというのは、 そんな「見えない部分」をも「見て」「査定して」、それを序列化することに成功しているのだと思う。

リアルを背負った世界観は、別の世界観を引き寄せる。

それはもっと面白い世界記述を行っている人であったり、 あるいは実世界で面白いことをしている人であったり。記述を続けた世界観は、 やがて自身を語る名刺として一人歩きをはじめて、いろんな人と知りあいになれる。

それをやるには量が必要で、「質」というのは、 量が担保されてはじめて問われる、むしろ副次的なもの。

自分の経験では、ある種のリアルさを持った文章を、できれば200本。40万字。 それには1年かかるし、リアルだからこそ「一発逆転」は望めなくて、 どんなに才能あふれた人であっても、 やっぱり「下積み期間」に相当するものはスキップできない。

もっと面白い人に出会いたい。

もちろん見つけられないのは自分の怠慢なんだけれど、 その人の「顔」を認識するためには、あるいは文章が顔を持つためには、 やっぱり「量」は欠かせないのだと思う。

2007.12.11

「好き」は誰のものか

善良さを担保するコスト

NHK の番組で「わらじ医者」を名乗る医師の特集が組まれていた。

いくつかの施設の院長を歴任した老医師が、そのうちコミュニケーションの重要さに 気がついて、高齢者の電話相談をはじめたり、場合によっては自らで向いて、 その患者さんの話を聞きにいったり。

医師に必要なのは良心だとか、大切なのはコミュニケーションだとか。 その医師の「善良さ」こそがわらじ医者を駆動していた。

善良であるためにはコストがかかる。その先生が現在「善良」でいられるのは、 いくつかの病院を成功させてきて、「安全圏」に身をおけたからこそなのだけれど、 そんな部分はスルーされていた。

「わらじ医者」の先生は、きっと若い頃に頑張った。成功した。今は半ば引退して時間がある。 ボランティア同然の、絶対に対価につながらない診療を続けて、今は充実している。 このあたりは客観的な事実。

問題なのは、こんな振る舞いをつないでいる心のありかた。

振る舞いと振る舞いとをつないでいるのは、果たして良心であったり道徳心であったり、 そんな美しい何かなのか、それともそれは営業用の詭弁であって、 単純な経済的適応を続けてきた結果、「良心」という言葉で説明可能な、 一連の行動につながったにすぎないのか。

動作の解釈は、誰かの一連の動作を観測した、観察者の心の中に発生する。 観察する人の数だけ、説明は存在するけれど、 誰にでも通用する真実というものは、そこに存在しない。

行動を行った本人ですら、他の観察者同様、自らの行動を観測した、観察者の一人にしかすぎない。 本人であることそれ自体は、その動作説明の真実性を、何ら担保してくれない。

みんな良心が大好き

「プロジェクトX」みたいな思考停止肯定番組を見るのが好き。

技術者がどうしようもない状況に追い込まれて、超人的な力を発揮して、 問題を強引に解決する物語。

本来問題にしなくてはいけないのは、技術者が超人的な力を発揮せざるを得なかった状況のこと。 それはたいてい、偉い人達の舵取りミスであったり、マーケットの変化が読めないことであったり、 もしかしたら単純に、絶望的な人員不足にしかすぎなかったり。

「何故そうなったのか」よりも、どういうわけだか「どうやって乗り越えたのか」のほうが面白い。 「どうやって」の部分には、たいていの場合、情熱だとか、技術者の誇りだとか、思考停止ワードが並ぶ。

情熱だとかプライドといった言葉には、みんな異様に親和性が高い。自分もプライド大好き。

医師もまた、しばしば情熱文脈で語られるお仕事。

実際問題、自らの振る舞いを良心で説明する医師は多いし、良心を語らなくても、 あるいは良心に敵意を表明していても、良心という言葉の範疇で振舞う医師はものすごく多い。

医師が持つ、たぶん共通して持つある種の「善良さ」というものは、 我々がたぶん、医療の業界に対して、長年独占体制を敷いてきたからこそ生まれたものなんだと思う。

見た目の善良さというものは、必ずしも中身の善良さを担保しない。 「中の人」自ら「自分は善良だよ」と表明したところで、その善良さを担保するシステムが邪悪なら、 やはりその人は邪悪さから逃れられない。

医療業界は、全国民から毎月 5 万円、半ば強制的に徴収しているからこそ、 15 兆円なんて莫大な市場を独占できている。善良さを担保するには、 やっぱりお金がかかる。医師はたぶん、NHKの欺瞞を笑えない。

「好き」を貫くこと

これからの時代は、「好き」を貫くことがとても大切になって来るのだそうだ。

恐らくは残念ながら、「好き」を貫いた先に必ずしも成功はないだろうし、 そもそも自分は本当にそれが「好き」なのか、恐らくはほとんどの人が決められない。

「好き」の所有権はもちろん自分自身にあるはずなのに、他者からの承認抜きには自分の「好き」を 信用できなかったり、自らの「好き」の強度に自信が持てなかったり。

結果を伴わない「好き」には意味がない。

「好き」という感情もまた、ある行動と、その行動から導かれた結果とをつなぐ動作説明。 成果につながらない過程には意味がないし、だからこそ、 まだ結果につながらない何かに対して「好き」を 表明する行為には、恐らくは意味がない。

好きを貫いて成功した人達は、ある振る舞いを行って、それが結果として 「成功」と定義される成果を生んで、観測された2つの行動を結ぶキーワードとして、 「好き」を選択した。

観測者が変われば、動作説明もまた変わる。「好きを貫いたからこそ成功した」という説もまた、 本来は観測者の数だけ発生する多様な仮説の、ひとつの可能性にしかすぎない。

真実は動作の中に発生する

心カテを習った師匠の口癖は、「いやならすぐ辞めるよ」だった。

いつも「辞めるよ」と言いながら、いつも病院にいて、夜中まで仕事をして、 カテ室では常に、誰よりも頼りにされていた。 いつも楽しそうだったし、だからこそみんなついていった。

「楽しいよ」とはいわれなかった気がする。

言葉の真実性というものはたぶん、言葉でなくて行動をおこすか、 少なくとも行動を宣言しないと、その強度を担保できない。

「私は幸せだ」とか、「私はこれが好きだ」という言葉は、停止した言葉。 停止という状態は不安定で、それはしばしば他人の定義を受け入れて、 「好き」の運用を許してしまう。

大昔僻地に飛ばされたとき、給与が当初の 6 割ぐらいしかもらえなかったことがある。 文句いったら、「先生の仕事は、ボランティアで、好きでやってるんでしょう ? 」なんて。

「好き」を他人に定義されるのは不愉快だけれど、「好きの運用」というのはしばしば、 もっと分かりにくい形で行われているような気がする。

生存戦略としての「ほめること」

「好きを貫く生きかた」というのは、欺瞞なくそれを全うしようと思ったならば、 本来ものすごく厳しい生きかた。そもそもがよほどの資本を持っていなければ好きを全うすることなんて できないし、貫いた「好き」が予定した成果に到達できなかったとき、 それでもなお、その人がそれを「好きだ」と言えるのか、そのときになってみないと絶対分からない。

「みんなもっといろんな人をほめようよ」なんて言葉に多くの賛同が集まった。 好きを貫く環境を作るには、「好き」を強化する因子としての賞賛は欠かせない。

ところが「すごい誰かをほめること」、その行為自体もまた、動作である以上、 必ず何らかの成果に結びついて、誰かの観測を受ける。

賞賛の純粋性というものは、たぶん案外疑わしい。

「エンタの神様」みたいな若手芸人を使い捨てる番組見てると、 面白い芸人が「成功する」ことは、要するに芸を見せるの止めて、 バラエティー番組の方向に「卒業」して行くことなのだな、と思う。

人を笑わせることが「芸」ならば、芸それ自体を目標とする芸人は、 恐らく番組の中で観客を笑わせつづけて、そのうち飽きられて、使い捨てられる。 その人達はきっと、好きを貫いたけれど、それは成果に結びつかない。

バラエティー番組で成功した芸人の中には、もしかしたら「芸」を目標でなくて手段にする人達がいる。 その人達は、最初は「芸」で売り出して、そのうちお笑い番組を卒業して、 バラエティ番組でレポーターをしていたり、ひな壇の後ろで笑っていたり。

どんなに優れたお笑い芸人であっても、「飽き」からは逃れられないし、 才能は有限で、アイデアは枯渇する。ロケットが大気圏脱出を試みるようなイメージ。 重力圏越えて「衛星」になれる人と、大気圏で炎を見せつづけて、 そのうち燃料尽きて落ちていく人と。

恐らくは生存戦略として、他人をほめるという構図が作れる気がする。

たとえば才能がそれほどない芸人がいたとして、もっと才能豊かな競合者を 「お前面白いよ、才能あるよ、かなわないよ」なんて賞賛することで、その人達を 「芸」に止める一方、自分自身はその先、バラエティー番組を目指す。

競合者を賞賛した芸人が、「芸」のほうが上等で、バラエティーは 下等だと相手を信じさせることができたなら、 「好きの運用」は成功する。その人よりも才能豊かな芸人は、もしかしたら好きを貫いて、 才能が枯渇して落ちていくかもしれない。

この人はもしかしたら、本心から才能のある同僚のことを賞賛していて、 後日バラエティ番組で成功して、「みんなすごい人にはすごいと言おうよ。オープンマインドだよ」なんて 成功哲学を語るかもしれないし、あるいはその人は本心から邪悪な人で、競合者を 賞賛することで蹴落としたけれど、やっぱり自伝には「オープンマインドだよ」なんて書くかもしれない。

いずれにしても観測されるのは、その芸人が競合者を賞賛して、 賞賛した当の本人が成功したという事実だけ。 本人がどう思っていようが、その解釈は無数だし、真実は観測者の数だけ存在する。

勤務医医師会のこと

物語の主人公がどう考えようが、読者が観測する事実は変わらない。

中の人が語る「本当の話」というのは、実は観測可能な事実から導かれる、 多様な解釈仮説のひとつにしかすぎない。

振る舞いはいかようにでも解釈できるし、事実と結果が観測可能なものである以上、 「本当にそんなことは思っていない」という本人の弁明もまた、 観測不可能であるがゆえに、説得力を持つことはない。

勤務医医師会を立ち上げようとしている先生がたは、 みんなベテランで、第一線に立ちつづけて、「好き」を貫いて、 あるいは「好き」という言葉に代表される何かを貫いて、成功してきた人達。

成功したベテランの口からしばしば漏れる思考停止ワード、 人情とか道徳とか情熱とかボランティア精神とか、 腐りかけた方法論。

好きを貫いて成功して来た人は、その成功体験を語ることで、好きを運用する側に廻ろうとする。

大志を抱いて、好きを貫いて成功した人達は、だからこそ「こうしようよ」を表明するし、 まだ成功に縁のない若手はたぶん、ベテランに自らの「好き」を運用されてしまう。

そのベテランが自らの「好き」を貫いて成功したこと、それ自体は間違いのない事実。 事実は真実だけれど、その解釈についてはたぶん、観測者が違えば真実は異なってくる。

「自分がこう思って行動したから成功した」というベテランの言葉は、医師会みたいな組織の中では、 恐らくは誰も逆らえないけれど、その言葉それ自体もまた、本当は欺瞞から自由になれない。

事実を解釈する権利というのは、恐らくはそれを観測した全ての人間が持つ、平等な権利であって 「中の人」ですらもまた、平等な誰かと同様の権利しか持ち得ないのだと思う。

昔のお医者は良心を持っていた。良心を発揮できる環境にいた。自らおかれた 「良かった昔」の検証もしないで、「俺様とっても良心的」で思考停止したからこそ、今こうなった。

「みんなまとまろうよ。お金ちょうだい、政府の偉い人」という声を表明するだけでは、 たぶんまだまだ思考が足りなくて、時計の針は戻らない。

何の声もかからなかった外野のやっかみなんだけど。

2007.12.08

見えなかったものと見えてきたもの

サイトをはじめたのは2000年ごろ。Windows98 の時代。

動機は不純。

下級生にかわいい女の子がいたからだとか、同級生に対する自己顕示欲だとか。 はっきり「これ」というきっかけはなかったけれど、 少なくとも「みんなを啓蒙したい」だとか、「社会に何かを訴えたい」とか、 そんな高尚なものじゃなかった。

反響なんて全然来なくて、アクセスカウンターが回っていくのだけが楽しみだった始まりの頃。

アプリケーションはプラットフォームになる

2 ちゃんねる閉鎖騒動の頃、UNIX 板の人たちが大活躍して、プログラマの人たちが とてもかっこよく見えた。プログラムなんて全然分からなかったけれど、 プログラマの人たちが使う言葉とか、彼らが集う掲示板の雰囲気とか、とても魅力的に見えた。

昔から、漠然と「理系」的なものに無意味なプライドを持っていた。

ただ単純に「理系っぽい」。ずっと LaTeX を使いつづけている理由は これだけなんだけれど、どんなにくだらない理由でも、 その立ち位置を通しつづけると、そこからいろいろ見えてくる。

LaTeX は、親切さとは無縁のソフト。最初は「パスを通す」の意味が分からなくて、 検索エンジンと対話すること数ヶ月。結局ネットからは必要な情報引っ張れなくて、 参考書をたくさん買いこんで、やっと文章作れるようになった頃には、Win98に無駄に詳しくなっていた。

サイトはまだ、PDFを配布するだけ。HTMLが全然分からなくて、LaTeX2HTMLという ソフトの存在は知っていても、その使いかたがまた恐ろしく難解だった。

LaTeX 界隈の総本山、奥村先生のサイトで教えてもらった。perl を入れないと そもそも始まらないとか、日本語使うなら、それとは別に Jcode.pm 取ってこないと 動かないとか。

掲示板では、単語ひとつについていくのが必死。ワード使えば30分で済んだであろう、 そんなことをLaTeX でやるのに数ヶ月かかった。

アプリケーションは、時としてその人の考えかたを書き換える。

意地になってLaTeX を使っているうち、とにかく「掲示板のむこう側」の人達にお世話になった。 ものの見かたとか、考えかたとか、恐らくは少なからず影響された。

いろんなものの裏側ばっかり覗きたがる、そんな思考のプラットフォームは、 たぶんLaTeX というアプリケーションが作ってくれた。

自己顕示欲と立ち位置と

サイトをHTML 化してから、検索エンジンに拾われるようになって、アクセス数はだんだんと増えた。 「研修医を傷つける簡単な 50 の方法」なんて怪文書が話題になって、 アクセス激増して逃げ出したのもこの頃。

「コミュニケーション」を意識するようになったのは、ずっとあとのこと。 当時は自分の立ち位置もあやふやで、誰かに対する興味を持つ余裕がなかった。

この頃のコミュニケーションは、アクセス解析。 アクセス解析に引っかかったリンク先をこっそり除くのが楽しみ。暗かった。

あるときメーリングリストからの大量アクセスがあった。 同業者からの反響は初めてだったけれど、メーリングリストは、外野から覗けない。 覗きたい。「コミュニティ」というものにはじめて加入した。

中にいたのは、何だか「正しい医療を普及させる会」みたいな人達。 「わぁすばらしい考えかたですねぇ○○先生」なんて、お互い賞賛の嵐。 なじめなかった。

うちのサイトはぶっ叩かれてた。「あんな匿名サイトダメですね」なんて 意見が投稿されて、「そうですよねぇ○○先生」なんて反響。

同じ頃、メーリングリストでよく発言していた「中の人」からメールが来た。 医療経済学を学ぶ人。医療を経済学的な視点から分析して、人気があった。 何故だか hotmail の捨てアドレスで、返事を書いたらからかうような返事がきて、それっきり。

その人はしばらくして、メーリングリストで「あんなサイト、 私は興味もないしアクション起こす気力も湧きませんね」なんて。 また「わぁそうですよねぇ○○先生」。大反響だった。

医療経済を学ぶ人達と、医療経済という思想、学問。それ自体が大嫌いになった。 うちのサイトの立ち位置が決まったきっかけ。負けた気分になって、またサイトを移した。

引越し重ねてアクセス減って、その頃はみんな、blog はじめて楽しそうだった。

自己顕示欲と復讐心と、あと少しだけ、みんなの役に立てればなんて偽善の心。 動機は不純なほうが、目標は個人的なほうが、結局それが、いい成果につながる。 十分不純な動機が溜まって、もう少し何かやりたくなった。

bolg をはじめることにした。

偽春奈の頃

デスクトップにはたぶんその頃、偽春奈が立っていた気がする。

プログラマの人達の会話とか、考えかたが面白くて、せめて彼らの振る舞い だけでも真似したかったから。

「プログラマが当然使うべきソフト」なんかが掲示板で特集されると、 トップ3には必ず「偽春奈」の文字。エディタとか言語とか、みんなバラバラなのに、 これだけは共通。

「プログラマというのは、こういうのが好きな人たちなんだ」

何か理解できた気がした。ちょっとばかり世界は歪んだけれど、広がったように思う。 毒を吐く女の子と、相方の変な生き物が、パソコンに常駐するようになった。

自分の興味とは全然違う世界の話なのに、すさまじく面白かった。 偽春奈のヘッドラインセンサーは、界隈のいろんな話題を 取って来ては教えてくれた。ヲタ界隈の話題。技術畑の話題。 みんなが寄ってたかって進化させる、偽春奈界隈それ自体。

はじめて見る世界は面白くて、できたばかりのblog にたくさん文章を書いた。

偽春奈を通じて世間を読んで、面白そうな内容引っ張っては、自分の文章を更新した。 歪んでたけれど、はじめてコミュニケーションが成立しはじめた。

もともとが自閉的なサイト。blog をはじめて、昔からきてくださった人達からは コメントをいただけるようになったけれど、他のサイトからの反響はさっぱり。

うちだって一応医療系サイト。周囲では「エキブロメディカル」とか、 医学生も医師も楽しそうなコミュニケーション。みんなキャッキャウフフしてるのに、 うちには誰も来なかった。

何度か医療系のサイトリングみたいなところにすり寄ったけれど、スルーされた。 「どうですか ?」なんて勇気出して聞たら、「……」とか、「難しすぎて…」とか。また離れた。

偽春奈界隈はそのうち荒れて、ソフトの開発自体も停止されてしまったけれど、 「技術系は面白い」という感覚だけは、たしかに自分のものになった。

広すぎる世間は「見えない」

UNIX の根底にある思想とか、システムインテグレーションの考えかたとか。 医療の業界には欠けていて、技術系の人達が共有している何か。 なんだかすごく役に立ちそうな気がした。

blog をはじめて半年ぐらい、医療の話題はだんだんと減って、システムとか、複雑系とか、 なんだか今みたいな内容ばっかりになった。

いくつかの技術系サイトに取り上げられて、そのつどアクセス数がちょっとづつ増えた。 コメントをくれる技術系の人達は、実は昔からその人のページを覗いたことがあったり、 偽春奈の巡回ルートに乗っかっていたり、今思えば最初から知っている人ばっかりだったのだけれど、 当時はまだ名前なんか意識していなかった。

プログラマのdankogai さんが取り上げてくれたのも、たしかこの頃。 好意的に取り上げられて、アクセスも増えたんだけれど、当時はまだ、 その人がどんな人なのか、全然知らなかった。

それはJcode.pm をダウンロードしたときであったり、 まだオンザエッヂだった頃のライブドアが、自分が当時サイトを持っていた鯖屋さんを 買収したときであったり。接点は大昔からあったのに、その「人」が目に入ったのは、 もっとずっと後のこと。

ネットに浸かって、この頃 5 年目ぐらい。それでも世界は広すぎ、フラットすぎた。

実はすごい人が真横に立ってても、それが全く目に入らない、そんな現象が、 当時は当たり前のように起きていた気がする。

「まなめはうす」とか、「rinrin 王国」みたいなニュースサイトもまた、 昔からうちのサイトを紹介して下さっていたけれど、それがどんな意味を持つことなのか、 当時は全然ピンとこなかった。

見えてしかるべきものが全く見えなかったのは、今にして思えば、 それを投影すべきコミュニティを持っていなかったからなんだと思う。

コミュニティに属することで見えてくる何か

「属すべき何か」を持たない人間にとっては、たぶんネットはあまりにも広大すぎ、 広大ゆえにフラットにすぎ、どこに進んでいいのか見当もつかないものなんだと思う。

コミュニティはたぶん、価値を投影するスクリーンのように機能する。

コミュニティに属することで、世界は間違いなく狭まるけれど、 無限に広い世界というのは、たぶん人が認識するには広すぎて、 何も見えなくなってしまう気がする。

自分もたぶん「はてな」界隈に属する人間なんだろうな、と自覚したのは、 やはり「はてなブックマーク」のサービスが始まった頃。

文章がすぐに数字で評価されて、そこではじめて、「点数をくれた誰か」であったり、 「自分よりいい点を取った誰か」の顔が見たくなった。

逆リンクたどっているうちに、結局その人達は、昔から見ていたサイトの管理人だったり、 昔から反応をいただいていた人であったり。

たぶんけっこう昔から、自分の視界の中にはいつも同じ人がいたはずなのに、見えてなかった。 コミュニティを外から覗く立場でなくて、コミュニティを形作る側に回って、 そこではじめて、昔からそこにいた誰かが「見えた」気がした。

結局自分はずいぶん長い間、「見る」ことから取り残されていた気がする。

世界は実は、今も昔もそんなに大きく変わっていないのに、 当時は何も見えていなかったし、あるいは今も、多くのものを見落としてるのだと思う。

コミュニティは変化する。属するコミュニティが変わることで、 今まで同じに見えていたものが、ある日全く違って見える時も来るのだろうなと思う。

これからもきっと、いろんなものが見えてくる。見ていこうと思う。

ご挨拶

アルファブロガーに選ばれました。

ずいぶん長い間サイトを運営してきて、いろんなところとトラブルおこしたり、 いろんな方にお世話になったり、助けてもらったりしながら、 ずいぶん遠いところまで来てしまった気がします。

よくよく見返せば、今twitter で当たり前のようにおしゃべりしている人達が、 ちょっと前なら怖くて近寄ることさえ考えないような人であったり、 最近知りあったような会話をしている人達が、実は昔から読者として 支えてくださった方であったり。目に入るものは変わらないのに、 認識される世界は今も変化を続けています。

何度も止めたり放り出したこともあったサイトでしたが、それでもここまで続けてこれたのは、 月並みですが自分の周りで「界隈」を作ってくださった多くの皆様、 コメント欄であったりブクマ欄であったり、あるいは自サイトでいろんな言及を下さった、 多くの方々の支えあってのことと感謝しています。

今回推薦を下さった小飼 弾 さん、投票をいただいた多くの皆様、 本当にありがとうございました。

きっとまた、これからもいろんなものが見えてくるのだと思います。

見えたものを伝えられれば、それをまた共有し、新しい見かたを 一緒に作って行ければ、きっとこれほど面白いことはありません。

今後ともよろしくお願いします。

2007.12.05

メディアの正しさについて

電子カルテ話の続き。紙であったり写真であったり、 情報を記録するメディアが進化する方向の正しさについて。

チープメディアの正しさ

チープメディアの復権が来る気がする。ラジオとか本とか、あるいは壁の落書きみたいな。

そのメディアに接することはごく簡単で、メディアが持つ情報量は少なくて、 可搬性に劣っていて、拡張性なんて無いに等しいメディア。

帯域を広く取りすぎたアンプが、しばしばノイズを拾って発振するように、 ハイパーリンクを張りすぎたWeb 文章が、しばしば読むに耐えないように、 「やりすぎ」は必ず害悪をもたらして、一方で「正しさ」を求める倫理は、 なぜか「やること」を支持したりする。

掃除ロボット「ルンバ」が進化した先には、「掃除のいらない床」を 想像すべきであって、ホウキとチリトリを抱えた「アシモ」を 発想してはいけない。不便なだけだから。そんな「正しさ」はありえないのに、 メディアについてはなぜか、同じような錯誤がそのまま進む。

紙カルテで十分回っていた職場は、あと10年もすれば、否応なく電子化される。

正しいやりかたとチープなやりかた

近くの公立病院の投資予算が8 億円。これでも多分やすいほう。

電子化されることで、医師は座りながらにしてカルテを読めるし、 その場でいろんなオーダーを出せる。医療行為と事務仕事とは、 途切れることなく、同時に進行させることもできる。

「電子すごい」なんて人達が語るのは、こんなメリット。

総電子化なんて「正しい」やりかたしなくても、たぶん同じ機能はもっと安価に実現できる。

現行の現行の紙カルテをベースにして、みんなが携帯電話を持って、i モードの回線借りて、 あとは掲示板システムとか、google カレンダーみたいな無料サービス駆使する。 セキュリティなんて無いに等しいけれど、少なくとも8億円はかからない。

やりかたは安っぽいけれど、メリットはそれなりに多い。

いいかげんなオーダーでも、人を介する機会が多いから何とかなるし、 携帯電話は型落ちの無料携帯もらってくれば、回線のアップデートも安価。 システムの「本体」に相当するのは、 要するに携帯電話の使いかたと、無料サービスの使いかたとをまとめた手引きだから、 コピー本作って配れば、すぐにでも立ち上げられるはず。上手くいかなければ、 その「手引き」をゴミ箱に捨てるだけで、システムを元に戻せる。

「病院の門をくぐってカルテがでるまでの時間」というのは、「正しい」電子カルテの ほうがが早いんだけれど、それは案外意味がない。

小さな病院だと、受付済ませてカルテが出るまでの時間は、 紙カルテで 10分。電子カルテだと数秒。

ところが外来の机はすでにカルテの山だから、待ち時間は結局 1時間。診察数分。何も変わらない。 電子化は、たしかにシステムのある部分を最適化するけれど、 システム全体の速度には、ほとんど影響を与えられない。

初診の患者さんは最悪。ID 作って情報打ち込んで、カルテが上がるまで 15分ぐらい。 ID番号が決まるまでは何もできないから、医師はその間、何もせずに待つしかない。 救急外来で患者さん受けて、点滴すら出来なくて、ひたすら待つだけ。

先に点滴しちゃうとタイムスタンプずれて、コストが取れなくなってしまうから。

正しさの代償として失われるもの

紙カルテだと、とりあえず紙さえあれば、何でもできる。 たとえトイレットペーパーしかなかったとしても、ボールペンでオーダー書いて、 あとから出来上がってきたカルテに貼り付ければ何とかなる。融通が効く。

最適化の代償として失われるのは、しばしば「融通」で、 これが失われた「正しいシステム」は、緊急の時にとんでもないことをやらかす。

チープメディアが持っていた自由さ、とりあえず紙と書くものさえあれば仕事ができるという信頼性は、 たぶんあんまり「ありがたい」なんて思われていない。しょせんただの紙。

最適な現状が上手に回っている理由の多くは、「ズルができる」という部分なのだと思う。 規則違反を受容するだけの余裕みたいなもの。それはたいていの場合「正しく」は 見えなくて、むしろ誰かの目には改良すべき対象として写る。

「間に合っている」場所を最適化するのは、いずれにしてもよほど慎重にやらないといけない。

正しいデバイスは隠蔽される

「書く」という行為において、紙は永遠に受動態の存在である。 紙は自ら何かを「書く」ことはない。紙は「書かれる」存在である。 「書かれる」という行為において、紙はおのれを紙たらしめる。

「ユーザーの振舞いによって、はじめてその存在を規定される非存在」というのが、 メディアが目指すべき進化の、一つの方向性なのだと思う。

存在を主張するデバイスは、たいていの場合、そのメディアの発展を妨げてきた。 壁掛けテレビにしても、小型化を追求したWii にしても、みんな隠れたがって、 隠れることで成功した。

紙一枚で済んでいた記録媒体が、気がついたら厚ぼったい「本」になって、 さらにそれが、病棟に鎮座するパソコンに。狭いナースルームには、 パソコンはまだまだ大きすぎる。

機能は分割・外部化する

今遊び場にしている twitter は、非常に貧弱なサービス。できることといえば、 短い文章書いて、投稿するだけ。改行すらできない。

どこか「改良」を加えたくなるサービスだけれど、twitter にフォント指定機能をつけたり、 画像を貼れるように「便利」にしたら、たぶんユーザーが減るような気がする。

機能の外部化というのは、あるいは最適化のやりかたとして正しいのだと思う。

データベースソフトを止めて、書類の整理に google を使うとか、 twitter では文字によるコミュニケーションに徹して、「表現部分」はリンクをはって、 他のサービスに外部化するとか。検索が死んでも原本はローカルに残るし、 「表現」を担保していたサーバーが落ちたところで、基本のコミュニケーションは、 何事も無かったように続く。

ただの診療記録にしかすぎなかったカルテが電子化されて、 オーダー伝票の役割、契約書の役割、証明書の役割、会計ソフトの役割を、 一つのシステムにインクルードしていく。リンクのどのレベルでのトラブルも、 システムを通じて診療そのものが不可能になるトラブルに発展しうる。

こんな「進歩」はどうみても間違っている。

「紙一枚」への回帰

カルテはたぶん、一枚の紙に回帰する方向が正しいのだと思う。

何か書く必要が生じたら、とりあえず紙を引っ張り出して、何でも書く。 診療記録でも検査オーダーでも紹介状でも、とりあえず書く。 他の病院から来た紹介状なんかは、そのまま紙として使う。

書いたものは、片っ端から画像情報として取り込んで、書いたユーザーは、 原本をどこか箱みたいなものに放り込んで、それ以降のことは忘れる。

「CT」と書いたらコピーされたカルテが CT 室に電送されて予約が組まれるし、 「血液検査」と書いたら、カルテは検査室に電送される。

何するにも一枚の紙。フォーマットなんかは自由。そこから意味を読み取ったり、 それをデータとして保管したりは、全部バックグラウンドの仕事。

どうやってこれを実現するのか、想像もつかないけれど、 そのへんはプログラマの人たちが魔法使って頑張れば、そのうち何とかなるんだろう。

記録すること。オーダーすること。保証すること。同一性を担保すること。 そんな様々な機能は分割されて、それぞれ別のスレッドで走る。統合されないやりかた。

「書く」こと一つから、いろんな機能が走り出すけれど、ユーザーから見えるのは、あくまでも紙一枚。 電子カルテはこんなシステムになってほしい。

今の電子カルテシステムが志向する未来図、ユーザーに正しい振る舞いを強要する やりかたは、やっぱり何かずれていると思う。

2007.12.04

「暴走する正しさ」を止める論理

妥協の産物と思われたやりかたが、実は最適解だったりすることは、 実世界ではたぶん、けっこう多い。

場当たり的なやりかたは、たいていの場合うまくいく。うまい具合に廻っていたのに、 誰か偉い人が「もっと正しいやりかた」を提案すると、 そのやりかたは軽快さを失って、効率が悪くなってしまう。正しいはずなのに。

「正しいやりかた」は、まずいやりかた。現場はたいてい、そのことをよく理解しているのに、 「今が一番いいんだ」ということをうまく説明できない。

「正しさ」を掲げて、最適目指して走りだした原理主義者を止めるのは、本当に難しい。

妥協の産物と真正品と

  • ログの記録が可能なリアルタイムチャット「Linger」は、 疑似リアルタイムの「twitter」よりも少ないユーザーしか獲得できなかった
  • F1が自然吸気エンジンに移行した初期、ホンダは V10 エンジンで成功した。彼らにとって、V10 はV12 エンジン登場までの過渡的なものだったけれど、V12 になってからのホンダは調子を崩した。 最初から V10 のまま開発を進めたルノーは、その後勝利を重ねた
  • 疑似マルチタスクOS の Win98 は、よほどの高信頼性が求められるような環境でなければ、 今でも普通に使えたりする。圧倒的に貧弱な環境であっても、真正マルチタスクOS のWinXP に 比べても、むしろ快適に動作する

「疑似」にはときどき、「真正品」に無い良さがあって、それはもしかしたら、 真正品になると失われてしまう。

「疑似」の状況で、何か「いいな」と思えたときは、 「真正品ならもっといいんだろうな」という考えを持つのは危険かもしれない。

「妥協の産物だけれどとりあえずうまく廻っている状況」というのは、たぶんそれこそが 最適か、少なくとも最適に近い状況を作り出している。妥協とか、擬似的なやりかたとか、 工学的にベストを尽くしていないような、そんな状況をもっと「正しく」しようと試みたとき、 恐らくその先に最適は存在しない。

「状況をうまく回している何か」は見えない

感覚された正しさは、しばしば状況を説明しない。

四角いパッケージで売れなかったアイスクリームを丸いパッケージにしたら売れ出して、 ユーザーに理由を聞くと、みんな「おいしくなったから」なんて返答。中身は替えていないのに

ユーザーが感覚していることと、実際の振る舞いとの解離の問題は、 広告業界が抱える古くからのテーマ。アンケートに誠実に答えるユーザーを いくらたくさん捕まえても、その人達の「誠実さ」と、状況を説明する真の理由とは、 しばしば全く相関しない。

たいていの場合、本当の理由は目に見えないし、感覚できない。

うまくいっている状況というのは、本当はそれ自体が「正しさ」を担保していて、 目に付く妥協とか、あるいは欠点みたいなものでさえ、状況をうまく回すのに 欠かせなかったりすることがある。

状況もまた、一種の生態系。たいていの外乱に対して、生態系はほとんど影響を受けない 強さを見せるけれど、生態系を維持する「要石」、しばしばただの虫であったり、 雑草にしか見えない草が失われた瞬間、生態系はあっけなく崩壊してしまう。

うまくいっているものを改良するのは、だから本当は非常に難しくて、 「正しさ」原理主義者が力で進めて、それが本当の改良につながったケースは少ないはず。

電子カルテのこと

うちの業界で問題になっているのは、何といっても電子カルテ。

紙カルテと伝票システムで何の問題もなくまわっていたところに、 電子オーダーシステムが入って、さらに電子カルテシステムを入れましょう、なんて話。

みんな嫌がっているんだけれど、これがないと国の認定病院になれないから、 今のところ導入は規定路線。

電子化すると、データを一瞬でアメリカに送れるとか、 患者数が 100 万人になっても大丈夫とか、夢の多い話。

残念ながら、今の病院 20年の歴史で、そんな機会は一度もない。

隣の公立病院が、最近電子カルテを入れた。8 億円かかったらしい。 みんなキーボードが打てなくて、端末の数も制限されて、病棟回せなくて大変らしい。 外来も滞って、手術が回らなくなって、うちの施設に紹介される患者さんがやたらと増えた。 病院の「格」で言ったら、むこうのほうが圧倒的に上なのに。

公立、私立を問わず、電子化というのはもう避けられない流れ。いろんなところで悲劇が起きて、 「あれ入ったら終わるよ」なんて、同業者どうしでは常識以前で語られてるのに、 流れを止められない。

「電子情報のほうが正しい」なんて、原理主義的な政府の方針。

「正しさ」でいったら、たしかに手書きの伝票よりも電子情報のほうが正しそうなんだけれど、 それを「正しく」することが、状況全体を「正しく」するのかどうかは、やってみないと分からない。 現実問題、開業の先生みたいな施設はともかく、中規模病院で電子カルテ導入して、 「売上げ増えてウハウハです」なんて話はでてこない。

電子化すると、どう考えても効率が落ちる。医者の顔が暗くなる。ナースも事務も、みんな暗くなる。 病院も患者さんも、全国的にみんなが不幸になっているのに、 紙カルテ派は電子派の「正しさ」を覆せない。

多分本当の最適は、伝票システムと電子オーダーのハイブリッドなんだと信じているんだけれど、 そもそも紙カルテの何が良かったのか、紙と一緒に失われてしまうのはなんなのか、 自分にもうまく説明できない。

「暴走する正しさ」を止める論理

正しさを進めようとする原理主義者に対して、伝統派はしばしば言葉を返せない。

正しい戦略は議論じゃなくて、たぶん「売上げ落ちたよね ?」の一言なんだと思う。結果中心主義。

工学的な正しさはさておいて、大切なのはその正しさがどう評価されたのか、 実際のところ正しくなって、売上げとか、生産効率だとか、状況が廻った成果に相当するものは 果たして増えたのかどうか。

結果中心主義を唱えだすと、「対価につながらない学問には、じゃあ意味は無いのか?」なんて反論。

どちらが正しいのか、未だによく分からないんだけれど、 局所最適を全体最適につなげるやりかたが見つかるまでは、 結果につながらない思考とか、学問には、 やっぱり「意味がない」という立場のほうが、より「正しい」のだと思う。

じゃあ法律はどうなのか

最適解は「賠償金 (or 和解金)こんだけとれたよね?」の一言なんだと思う。結果中心主義。 医学的な正しさはさておいて、大切なのはその正しさがどう評価されたのか、を全てにする考えかたでOK ?

。。。。twitter でこんなことを呟いていたら、上記のようなツッコミをいただいた。

技術分野の結果中心主義を裁判に置き換えたなら、たしかにこんなやりかた。 個人的には、これは「正しくない」し、心情的に許せない。

技術者の正義とか、工学的な正しさなんかの欺瞞をあげつらって喜んでる一方で、 「法律の正義」は無批判に信じて、正義を運用しようとする人達に憤る。 これはダブルスタンダード。

まだ修行が足りない。

2007.12.03

もの言う国民が集まる国

たとえば「産科医が幸せに微笑む社会」はもう来ないだろうけれど、 「産科医が笑顔を作らざるを得ない状況」を作り出すことはできる。

医者から笑顔が消えて、僻地医療の現場には人がいなくなってしまったけれど、 今さら医者を笑わせる制度を作っても、たぶん現場は戻らない。

「あるべき状況」の定義と、それを実現する構造設計のお話。

構造変化を拒否する何か

産科とか小児科、あるいは僻地医療。折れた心は修復できないけれど、 「問題を強引に解決する構造」は作れる。

僻地の病院にはいつも元気いっぱいの産科医があふれかえって、 夜中であっても、医師は笑顔で患者を迎える。もちろん予算は現状のまま

たとえば「あるべき医療」をこんなふうに定義するなら、必要なのは「人数配分」と、 「元気」と「笑顔」。

人数配分の問題は簡単。首都圏で働く医師であったり、 あるいは生き死ににかかわらない科で診療に従事する医師には 極めて重い税を課せばいいだけの話。

生き残った眼科とか皮膚科の施設はものすごく混雑するし、 開業医の先生がたは全員潰れちゃうだろうけれど、そんな人達は僻地を目指す。 そこでしか生き残れない状況を作れば、従うしかない。

「医者の元気」は、受診抑制で担保する。受診料を単純に値上げして、 値上げぶんは国の総取りにすれば、予算の問題も多少解決。

「笑顔」もまた構造の問題。笑えなくても「笑わざるを得ない状況」は、十分作れる。

診療報酬の支払い先をどこにするのか、その決定権を患者側に持ってくるなら、 患者さんを不機嫌にした医師は、診療報酬をもらい損ねる。 営業用だけど、みんな笑顔になるはず。

極論だけれど、いずれにしてもこれは、良心とか道徳の問題ではなくて、構造の問題。 こんな素朴で乱暴なやりかたではなくて、もっとエレガントで衝撃の少ないやりかた、 きっといくらでも考えられる。

今の政府や行政組織がハンドリングできる範囲の変革で、 そんな「構造」を作ることは不可能ではないし、 世論もたぶん、それを支持する。

医師はもちろん猛反発。自分だって嫌。

こんな「改革」のあおりを喰えば、開業医の先生がたはみんな潰れちゃうだろうし、 厳しい現場に必要な「経験あふれるベテラン」は、要するにそんな人達を想定するわけで。

それでもしょせんは多数決。医療従事者が何叫んだところで、世論は変わらない。

「こんな状況にしたい」なんて民意があって、 もしかしたら大マスコミ様もそんな民意を後押ししていて、 政府の人達にはたぶん、それを実現するだけの能力が十分にあるのに、 今はなぜか状況が動かない。

誰も舵を切れない。構造変化を止めている「何か」というのはきっと、 ただ単純に「正しくないから」とか、「道徳に反する」なんて、 そんな漠然とした空気の共有なんだと思う。

制度が先か道徳が先か

たぶん生得的な道徳なんて存在しなくて、社会制度が最適な振舞いを定義して、 その振舞いかたに慣れた多数派が、あとからそれを道徳と定義した。

ものすごく強引な医療制度改革。もし実行されたとしたら大混乱だけれど、 そんな状況が何十年も続くと、僻地に出向いたり、笑顔を振りまいたりといった医師の振る舞いが、 医師自身にとってもまた、たぶん「道徳心から出た、心から」のものへと変化する。

喧嘩は疲れる。きっと制度に従わされていると考えるより、 自らそう振舞っていると考えたほうが楽。道徳とか正義はきっと、あと付けで生まれる。

制度が生み出した結果でしかない道徳は、そのうち「信じるべき目標」へと 一人歩きをはじめて、今度は恐らく、「道徳を信じる人」と、 「道徳を運用する人」とが生まれる。

同じ制度で損をする人と、得をする人。

制度が決定した振舞いかた、道徳とか良心、あるいは常識みたいなものは、 偏差と幅を持った概念。ちょうど検査の正常値みたいに上限と下限とがあって、 状況に応じて、上限狙ったほうがお得だったり、 下限狙ったほうがお得だったり。

そんな道徳を目標と定めてしまった人達は、たぶん偏差の範囲内で損失を最大にするよう、 自らの振る舞いを設定してしまう。それが「道徳的に正しい」ことだから。

道徳を運用する人達は、制度が設定した「幅」の中で、自らの利益を最大にするよう動くし、 制度そのものに働きかけて、「幅」をなるべく広くするよう、規制をより少なくするよう努力する。

道徳とか良心は、善悪がせめぎあい、変化を続ける考えかた。

「善」と「悪」との争いというのは、要するに制度が許す振る舞いの 幅をどこまで認めるのか、それを決定するための議論。

道徳を信じたい人、みんなが道徳的に振舞う社会が好きな人は、 「道徳的な振る舞いが最適であった制度」を検証して、 要請される振る舞いの幅をより少なくするよう調整するし、 道徳を運用したい人は逆に、自らの行動範囲をなるべく広くするよう、 自由度をより大きくするよう、制度に働きかける。

どちらの側に立つにしても、道徳とか良心が駆動する社会を バックグラウンドで維持している構造をみんなが理解していないと、 そもそも議論は始まらない。

今の状況は何となく、議論の一方の側が、最初から思考を放棄して、 議論することを止めてしまっているように見える。

陰謀は無い

いつまで経っても議論が同じところを回りつづけて、制度の根本が腐って来てるのに、 場当たり的な対策ばっかり。

いろんな陰謀論。それは外資生命保険会社の陰謀だとか、 医療を海外資本に売り渡すのが政府の基本ラインなんだとか。

たぶん陰謀は存在しなくて、あるのは誰かの願望だけなんだと思う。

これもたぶん構造の問題。

みんなが「人権」とか「やさしさ」を訴えて、問題の解決を迫る。でも問題を構造的に解決するのは 大混乱招くし、そんなやりかたは「やさしくない」から、支持を失ってしまう。問題解決を迫られた側も、 だから「やさしさ」を語って、構造には手をつけないのが最善手になる。

新聞みたいなメディアもまた、消費者の意志からは自由になれない。

医者はあくまでも悪役でないと受けないし、犯罪を犯した宗教団体は、 あくまでも邪悪な人達の組織として報道しないと、読者は新聞を買わない。

メディアは消費者が望んだものしか提供できないし、 上から目線で「これが正しい」なんて、そんなメディアは誰も見ない。

正しい報道とか、公正な報道とか、みんな口では望んでも、 朝日フィルターとか毎日フィルターのかからない「事実」なんて、 きっと味気なくてつまらない。そこには悪役もいなければ、 陰謀論語る論説委員もいないから。

恐らくは同じようなことが、政府の中とか、社会のあちこちでおきてるんだと思う。

みんなが集まって、一つの流れを作り出す。たいていの場合、 その流れは一人一人が意図した ものとは違ってしまうんだけれど、なんで流れがずれたのか、誰にも指摘できない。

「犯人はいなかった」は気持ちが悪い。

「犯人を見たい」なんてみんなの願望が陰謀を生んで、 陰謀の引き受け手として、たまたまそこに居合わせたのが、 医師会であったりマスコミであったり、 外資系生命保険会社とか、はてはユダヤ12人委員会とか。

思考停止の先にあるもの

法律畑の人達と議論になると、結局「我々は法律に従って判断するだけ」なんて 答えになったり、結局「立法の問題です」で議論が打ち切られたり。

医者が世間に叩かれて、叩かれた原因を、行き場のない怒りの持って行き場を 法曹の人達に求めて、彼らの答えはつまるところ「国民がそう望んだから」に行きつく。

原因が見つからなくて、味気ない意見。「つまらない」し「腹が立つ」、このこと自体が、 たぶん「国民が望んだ」論理の真実性を担保している。

「そう望んだ国民」で話が終わってしまうと、もうそこから先は「選挙にいきましょう」なんて 無力な結論。あきらめるのはまだ早くて、きっとこれも思考停止ワード。

「もの言わぬ国民」がこの状況を作ったのは本当にせよ、 「全国民がものを言わざるを得ない状況」を作り出すことは、 技術的に十分可能なはずだから。

思考停止の先にある、もの言う国民が集まる国の作りかた。そのあたりはきっと、 文系方面のどこかの学問ではきっと議論が為されているんだろうけれど、 どうなっているんだろう ?