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2007.11.30

法律の人達は神様でも裁いてればいいんだと思う

制御解決と構造解決

昔聞いた話。どこかの老人保健施設は、病棟の廊下がすべて斜めに交差していて、 上から見ると、ちょうど「魚の骨」のような作りになっているのだという。

病室から廊下を歩いて、「背骨」に相当する中央廊下に出た老人は、 道なりに「頭」のほうにむかって歩く。

病棟の廊下は薄暗くて、壁紙の色は全て同じ。中央廊下には「交差点」がいくつもあるけれど、 頭方向に向かうぶんには、よほど注意を向けないと、中央廊下は一本道にしか見えない。

「魚の頭」に当たる部分は、ちょうど粒子加速器のような、円環になった廊下がある。 中央廊下を歩いてきた老人は、円環の接線方向に「頭」に入る。 「頭」もまた、壁の色が他の場所と変わらないから、一度円環を歩き出した老人には、 出口が見えなくなってしまう。

自分のベッドからおき出して、病棟内を徘徊してしまうお年よりは、 結局みんな「頭」に集められて、あとは日当たりのいい円環廊下を歩きつづける。 みんな疲れるまで歩きつづけて、疲れたらそこで眠る。

行くところは一緒だから監視する必要もなくて、病棟からいなくなってしまったお年寄りを 探すのも簡単で、動作線が想定できるから、転倒対策も立てやすいらしい。

問題を解決するやりかたには、問題が起きないように監視を続ける「制御」によるやりかたと、 そもそも問題がおきない、あるいは問題が大きくならない「構造」を作ってしまうやりかたとがあって、 上手な構造が作れる問題ならば、たぶん構造による解決のほうが維持管理しやすいし、 見逃しであったり、手抜きや虚偽みたいなモラルの問題がおきにくい。

倫理の限界と構造解決

主訴「診られない」、あるいは主訴「入院希望」なんて高齢者が、今日も何人か入院になった。

年齢なりに、たしかに具合は悪いんだけれど、悪くなってもう3ヶ月目だとか、 見た目全く元気で、救急車から歩いて降りてきて、冬近くなって自信持てないから 入院させてくれだとか。

うちの地域はまだ少しだけ余力があって、こんな人でも入院先は見つかるけれど、 都市部はもう無理。こういう人が入院すると、もう退院の目処が立たなくて、 病棟が廻らなくなってしまう。

今の施設は、今月に入って病棟利用率98%とか、もうギリギリ。 それでも周囲に老健施設がたくさんあるから、何とかまわる。 都市部にいくと、地面代高くて老健施設は食べていけない。入院させたら返せない。 施設に返そうにも、退院したら支払い4倍とか当たり前だから、 みんなもう当たり前のように帰ろうとしない。

実際当たり前なんだと思う。病院にしがみつくのが一番安価で、 一番いいサービスを受けられるんだから。

寒くなると、行政は浮浪者の人達に小銭渡して、 「これで大宮あたりに行って下さい」なんて、年中行事。

たしかその地域の浮浪者を生存させるのは、その自治体の義務みたいになっていて、 冬を迎えた浮浪者の人には、自治体に保護責任が生じてしまう。

どの自治体にもお金なんて残ってないから、お互い押し付け合い。 浮浪者の人達もそのへん分かってて、2つの都市を3往復ぐらいして、越冬するためのお金を貯める。 倫理で「何とかする」限界。たぶん今も構造は変わっていないと思う。

今いる地域には、こんな浮浪者の問題が全くない。寒いから。

僻地の冬は寒くて、そもそも構造的に「浮浪」すること自体が不可能。だから問題が発生しない。

一般内科みたいな、介護とか福祉の泥沼に浸かる仕事も、 老健施設がたくさんあって、気候が厳しい田舎にいるぶんにはまだ何とかなる。 同じことを都市部でやれといわれたら絶対逃げる。

法律家がルールを手放す日

患者さんが「居つく」ことを防ぐのは簡単で、急性期の大病院を一番高価にして、 老健施設、在宅介護サービスの順番に、経済的な負担を少なくすればいいだけの話。 高速道路に料金取るのと一緒。医者の懐潤すのが嫌なら、昔の道路公団みたいに 国の収入にしたっていい。

「上から下へ」の構造さえ作れたならば、あとは細かい矛盾に最小限の制御だけでいけるはず。

政治の人達が大好きなのは、道徳による制御。「老親は、家で診るのが一番幸せです」なんて。

政府が主張する道徳は、要するに「一番お金がかかって、 一番サービスが悪いところに親放り込むのが道徳的に正しい」なんて、 無茶な主張。個人の道徳と、政府の道徳と対立していて、誰も従うわけがない。

対立しあういろんな道徳と、構造の不在。 決まりごとを山程作って、未定義の道徳振り回して物事を進める今の制度は、無理がある。

問題なのは、「道徳のありかた」を議論する場所がどこにもなくて、 構造を決定する機関と、道徳を定義する機関とが分割されていないこと。 道徳が未定義だから、絶対に不満が出るし、分かれてあるべき場所が 分かれていないから、いつまでたっても不正が無くならない。これもまた構造の問題。

たぶん法律家の人達は「あるべき日本の道徳」とか、正義といったものを、 議論して定義するところまでを仕事の範囲にして、実装は経済学者に任せればいいんだと思う。

ほとんどどんな条件のもとでも、一意的な均衡に誘導するメカニズムは存在するし、 経済学者はたぶん、それをデザインすることができる。

  1. 法律家は「国民はこうあるべき」という仕様書を作って、経済学者に渡す
  2. 経済学者は仕様書をもとにして、それを実装するための構造を考え出す
  3. そのデザインには誰も口出しできない代わり、経済学者は、「仕様書」には口を出せない

道義最適と、経済最適とは、たぶんしばしばぶつかりあう。 「どちらがより最適なのか?」を議論する場所は、あくまでも仕様書を作る議会。 法律家のお仕事。

構造的に、汚職の発生する余地なくなると思うんだけれど。

社会を不幸にする「法律家の正しさ」

科学の基礎分野、触媒が働く理由とか、麻酔が効果を出す理由とか、 そんな根源的な「何故」に答えようとする科学者がいなくなった。

ゲノムの分野なんかは、もはや「何故」を考える人は少数で、とりあえず遺伝子見つけて、 誰かが将来「何故」を解明したときには、サブマリン特許で大儲けなんて。

科学者の世界は「オセロゲーム」であるべきなのだと思う。

根源に近い疑問、「角」に当たる領域を確保することこそが、 最大の利益につながるルール。盤の真ん中でいくら自分の駒を増やしても、 誰かが角を発見したら、自分の駒は裏返されて、利益を相手に返還するルール。

たぶん「オセロルールが通用する」社会というのは、 経済とか技術系の人達が志向する「正しい」社会だけれど、 それはもしかしたら、法律の人達が守ってきた「正しさ」とぶつかりあう。

法律の人達にとっての「道徳的に正しい科学者」は、何か宗教的な情熱につき動かされて、 対価など目もくれずに、むしろ対価の少なさにこそ喜びを覚えて、 基礎の基礎へと潜っていく、そんな生き物。前提からして歪んでいる。

角を取られたら裏返る。挟まれたら裏がえる。そんな当たり前のことが、 法律が制御する実世界では極めて難しい。誰かが一生懸命基礎技術を発見しても、 それが発表された頃にはなぜか、その技術は法律的に「既知のもの」になっていて、 科学者は報われない。報われないから手が出せない。

「正しさからの自由」の先にあるもの

「正しさ」に基礎を置いた学問は、もはや人の振舞いを規定できない。

正しかろうがそうでなかろうが、経済学者はインセンティブを使って 人の振舞いをデザインできるし、優れたプログラマは、優れたソフトウェアを開発して、 人の振舞いを強引に最適化してしまう。

それが正しかろうがそうでなかろうが、世の中は正しさとは無関係に、勝手に進む。

変わらない「正しさ」を提供してきた人達は、今ではいろんな分野で律速段階になっていたり、 「国家のためにその才能を使いませんか? 」なんて、失笑するしかない発言をしてみたり。

国家のために何か優秀な人達の力を援用したいのならば、 道徳を説くんじゃなくて、その人たちが国のために力を発揮することが、 その人達の利益になるような仕組みを考えるのが筋。それはもはや法律家にはできないこと。

「学」というものもまた、一種の生態系なのだと思う。

法律家や政治家が支配していたニッチは、今はどうみても経済学の領域。 論理と度胸の経済学者が支配していた「お金」の世界は、 今は物理学者や数学者が大活躍。様々な学問は、そのニッチを奪いあいながら、社会は進む。

もはや下々に正しさを説く法律家という存在は、消え去るべき既得権益者にしか見えない。 彼らもまた、滅びたくないのなら、別のニッチを奪わないといけない。

法律の人達は、いろんな「正義」がぶつかりあう状況をずっと見てきて、 正義をゆがめたり、正義を運用したりといった仕事なら、きっと誰にも負けない。

最大多数が納得する正義、「神様」を定義する仕事、従来だったら倫理の人とか、 宗教の人たちなんかが占めていたニッチは、「膨大な症例数」を 武器にした法律家が奪えるような気がする。

経済学者がお金から自由になろうとしているように、 法律家はそろそろ、法律から自由になってもいいのだと思う。

2007.11.29

「見える」を容易にする技術

たぶん「状況を作り出す技術」と「状況に適応する技術」とがあって、 ニュースに乗っかる新技術というのは、たいていの場合後者のほう。

状況を作り出す技術というのは、地味だったり、 あるいは技術的にはそんなにすごいことをしているわけではないけれど、 その技術が出現したあと、ユーザーの心理とか、振る舞いなんかが大きく変わる。

それが出現したとき、「そんなのいらない」とか「現場をバカにするな」みたいな意見が ベテランから提出される技術というのは、たぶん技術全体を大きく動かす。

血液検査のこと

検査データの報告書にHigh とかLow の文字が添えられるようになったのは、 大体10年ぐらい前のこと。

それまでの報告書というのは、GOT とかLDH とか、検査項目の横に検査データが並んでいるだけ。 その数字が病的なのかどうかは、医師が自分で数字を読んで判断した。

それは「革新」というにはあまりにも稚拙な技術。機械が新しくなって、 検査データは正常値と一緒に印刷されるようになって、正常範囲を越えたデータには、 「H」「L」の文字が印字されるようになった。

現場からはブーイング。「こんな余計なものいらない」だとか、「かえって分かりにくくなった」とか。

当時学生として病棟廻ってた自分達は大喜び。正常値をいちいち覚える必要なくなったし、 その数字が「悪い」のか「そうでもない」のか、とりあえずアルファベット追っかければ、 実用上は何の問題もなかったし。

同じころから、検査データに対する医師の態度が変わったのだと思う。

大昔、検査というのは「読む」ものであって、異常を探すために提出するものだった。 異常値の印字がなされるようになって以後、検査データは「見る」ものとなった。

確認のための検査。とりあえず採血出して、印字が真っ白ならば「あなたは大丈夫」なんて、 安直な検査の使いかた。ベテランはみんな眉をひそめたけれど、みんながそれをやるようになって、 今では日本中で「とりあえず採血」。

この10年、「症状のない高脂血症をどうするべきか」とか、新しい展開がいくつかでてきたのは、 たぶん日本中で「とりあえず検査」が当たり前になった影響が大きい。

淘汰圧と技術の沈滞

「ICUブック」という集中治療の教科書があって、大体7 年ごとに改版して、今第3 版。

これ読むと、集中治療分野の大雑把な知識は網羅できるのだけれど、 この内容がここ10余年、全くといっていいほど変わっていない。

もともとの初版が時代を先取りした本で、当時はキワモノ的に取り上げられていた内容が、 後になって検証されてきたのが集中治療の歴史。 裏を返せば、この業界には「キワモノ」が生まれる余地が減ってきていて、劇的な進歩が生まれていない。

西洋医学はたぶん、いろんな分野で技術が沈滞している。

循環器治療の分野は、10年ぐらい前の時点でほとんどの技術が生まれている。 もしかしたら再生医療がまた新しい進歩を生むけれど、何か画期的な薬が登場して、 世界が一変したなんてイベントは起きていない。

進歩が著しい分野、抗腫瘍化学療法なんかでは、たとえば再発大腸癌の 平均余命は、 20 ヶ月に達しなかったものが、いま 30 ヶ月の壁にようやく届きそうなぐらい。 これはもちろん画期的なことなんだけれど、それでも世界中の学者が10 年頑張って、8 ヶ月。 分子標的治療とか、手術方針の変化とか、画期的な成果はたくさん出ているけれど、まだ先は遠い。

何かが足りないとか、見えていない何かがどこかにあるとか。多かれ少なかれ、 たぶんいろんな人がそう思っている。

淘汰圧としての「状況を作る技術」

医療分野で今後激変が起きるとすれば、CT の自動診断システムの登場なんだと思う。

病気の診断は無理かもしれないけれど、「ここが異常に見えます」なんて 指摘してくれるようなシステム。技術的には不完全であったとしても、 たとえばその機械の「異常なし」を公的な機関が認めてくれれば、 きっとその技術は、医療に対する淘汰圧として作用する。

CT はまだ、みんな「読み」に自信が持てなかったりするから、 症状の無い人にはなかなかオーダーできない。

CT の読影が半自動でいけるようになったら、翌日からきっと、全国のCT がフル可動状態になる。 訴えられたらかなわないし、「大丈夫」を機械が担保してくれるなら、 きっとみんな聴診器代わりに使う。被爆とか、医療経済の問題は全く解決しないけれど、 今のご時勢、こんな流れを止めることはできないはず。

みんなが当たり前のようにCTをオーダーし出すと、たぶん腫瘍の統計が変化する。 ごく早期の膵臓癌が見つかったり、今まで少ないと思われていた腫瘍が、 案外多く見つかったり。

「もっと早く見つかっていれば、きっと…」なんて言い回しが通用した治療学は、 早期の患者さんが大量に見つかる世の中になって、はじめてその言葉の真実性を試される。

たぶん、ごくごく早期の腫瘍が見つかった人に手術をしたり、化学療法を行ったとしても、 いずれは再発する転帰を変えることは出来ないような気がする。

治療もまた、系全体に淘汰圧として作用するやりかたと、 局所に生じた変化に対応するやりかたとがあって、 抗腫瘍治療は、どちらかというと後者の立ち位置だから。

見えないものを可視化する

カンブリア時代。生き物が「目」をもって、生存競争のルールに「光」が加わった。 光という新しい淘汰圧に適応するため、生き物はいろんな試行錯誤を行って、 カンブリア爆発と呼ばれる多様な生物化石が生まれた。

70 年代、トランジスタが普及した。心電図モニターを電波で飛ばせるようになったことが、 結果として心筋梗塞の死亡率を劇的に下げた。

心臓治療を画期的に変えたのは、血栓溶解薬でもなければカテーテル治療なんかでもなくて、 もちろんバイパス手術も、心臓外科医が誇るほどには、予後に対する寄与率は高くないはず。

心疾患の患者予後を大幅に向上させたのは、患者さんを専門の部屋に隔離して、 心電図モニターを行ったこと。 これによって不整脈が誰の目にも「見えて」、医師はそれに対抗できるようになって、死亡率が劇的に下がった。

学問の世界というのも、見かたによっては一種の生態系。状況が変われば変化を起こすし、 淘汰圧に変化がないなら、学会には「流れ」が出来て、それに逆らう発想は淘汰されてしまう。

状況が変化して、恐らくは「流れ」を見直す機運が高まって、西洋医学はきっと、何か新しい舵を切る。

「見える」と現場はバカになる

聴診器の発明。レントゲン検査。自動血圧計。心電図モニター装置。血液の自動診断装置。 そして恐らくは、CT スキャンの自動診断装置。

見えなかったものが見えるようになったり、 「見ること」それ自体を簡単にした技術というのは、恐らくは状況に対する新しい淘汰圧を生み出して、 適応するための画期的な技術革新をもたらす原動力になる。

「見える」というのは記号への着地。それまで単なる風景として見過ごしていた何かに、 新しい意味を認識する行為。

脳は対象を「見て」しまうと、それを言語化して、それ以上考えることをやめてしまう。 それは一見すると、まるで頭を使っていないように見える。

「見える」技術というのはだからこそ、それに頼る人がまるで頭を使っていないように思えて、 現場がまるでバカの集まりみたいに見えてしまう。 誰だってバカに見られるのは嫌だから、「バカにするな」なんて反発。

現場の反発は成功の証。「見える」を容易にする技術、そんな「現場をバカにする技術」こそが、 パラダイムシフトを生むんだと思う。

2007.11.28

言葉の強度について

たとえば病理学者に患者さんの怪しい組織を見せて、「癌でしょうか ? 」なんて。

  • 「癌です」あるいは「違います、大丈夫です」。これが強度のある言葉
  • 「核に中等度の異型があり、細胞配列がわずかに乱れています」。この言葉に強度が不足

たぶん「強度」というパラメーターがあって、強度を持たない言葉は伝わらない。 どんなに激しく何かを訴えたところで、強度を持たない言葉は、 実体としての力を持つことができない。

未知の判断を行うと強度が発生する

Web 世界で何かを発信しはじめた人のページというのは、激しい言葉。

何かのニュースを引っ張ってきて、どこかで聞いたような罵詈雑言。 発信をはじめて日の浅い人の言葉は激しくて、どういうわけだか そのわりに、強度を感じることは少なくて。

発信を行うときに欠かせないのは、「立ち位置」と「価値判断」。

何か文章を書く人は、自分の考えかたを記述するための言葉を用意する。 やりかたは3 とおり。全て自分で用意するか、既製品を借りてくるのか、 それとも言葉を実世界に依存してしまうのか。

ある種の強度を持った文章を書く人達は、自分の立ち位置とか、 価値判断の基準なんかを全て自前で用意する。

要するにそれは、蓄積された過去記事と、背負って育ててきた自分の名前。 そこに長く居ること、ぶれない立ち位置を保ちつづけていることは、 それ自体が「強度」を担保してくれる。

価値記述を実世界に依存するやりかたというのは、要するにその人の経験であったり、 その人しか知らないニュースであったり。

たとえその人の文章が流暢でなかったり、あるいは読みにくいものであったとしても、 その人が体験した出来事とか、実世界で蓄積した経験が他に得がたいものであるなら、 その人の言葉は否応なく力を持つし、きっと多くの人に届く。

言葉は激しいのに力を持たない、文章は怒りに満ちて、罵詈雑言の限りを尽くして 何かを叩いているのに、それを読んでもこちらの感情が動かない、 そんな文章はたいていの場合、既製の立ち位置。

どこかで見たような立ち位置の人が、既知の価値判断に基づいて、何かを叩く。

強度というのは、未知の判断を行う場所に発生する。

「借り物」から強度を生むのは難しくて、それにはどうしても、自分ならではの判断とか、 その人独自の立ち位置なんかが欠かせない。ネット世間では時々、 「文章をコピーして広めましょう」なんて運動が起きるけれど、文章は、コピーが行われ、 それを書いた人の立ち位置から離れた時点で強度を失う。コピーされた文章は、だから たとえ目に入ったところで伝わらない。

強度には責任が付随する

社会的な地位が高かったり、あるいはお金持ちの人が書いた文章には、 そうでない人が書いた文章よりも多くのブックマークが集まったり、 賛同のコメントが増える傾向にあるらしい。

お金で強度が購入できるわけもないから、こんな現象というのは要するに、 強度を維持している人、責任をとる立場にあったりとか、 あるいは経済的な体力を持った人の言葉しか、 やはり人の心には響かないと言うことなんだろう。

言葉を届かせるためには「強度」が必要で、強度というのは、 それを得る代償として、ある種の責任を担保しないと生まれない。

責任を取る覚悟、自分の言葉が「力を持ってしまうこと」に対する恐怖をもちつつ、 それを克服するすることが、まず何よりも 言葉に強度を付加するために欠かせないのだと思う。

強度を持った言葉を書くときというのは、何となく自分がものすごく偉そうな、 「他の誰もが知らなくて、それを書くのがこの世で自分しかいないからこそ書いてやる」みたいな、 そんな傲慢な気分、カラオケで真っ先に下手な歌をがなるときみたいな、 そんな気恥ずかしさが常につきまとう。

みんなと同じ流れで言葉をつなぐのは簡単なんだけれど、簡単に書いた言葉というのは、 やっぱり簡単に読まれてしまって、伝わらない。

データベースは価値判断を行わない

専門知識とか、詳細なデータというものは、強度を担保してくれない。

どんなに詳細なデータを記述しても、「データに語らせる」ためにはどうしても 作者の意志、価値判断が必要で、それを伴わないデータというのは、 残念ながら単なる数字でしかありえなくて、意志をもたない数字が強度を持つことはありえない。

強度を表明する意思を持たない人が増えている気がする。あるいはそれを面倒に思って、 知ってる数字を並べたり、「流れ」に乗っかればいいや、なんて。 恐らくはそれは、学問の世界なんかでも。

真理を探索するためのメディアであった、論文雑誌や学会。科学史ものの一般書なんかを読むと、 1900年代初頭の学会というのは、諸説ぶつかりあう決闘の場であって、どの学者も強度全開、 今の和やかな学会ムードからは想像できない。

「和やかさ」とは要するに、多くの人が強度を手放したこと。

もちろんそれには、論文を発表する人の数が飛躍的に増えたとか、専門分化が進みすぎてしまって、 お互いの価値判断を評価することが難しくなったとか、理由はいろいろあるのだろうけれど。

業績は、恐らくは強度じゃなくて、むしろ数字、論文数とか、 治験に参加した患者数とか、研究グループの大きさで評価されることが増えた。

論文雑誌の巻頭を飾るメガトライアルは、今では製薬メーカーの後援を受けたものばかり。

大きな規模の研究は、発表された時点で「真実」として一人歩きして、今では誰も叩かないし、 戦わない。もはや論文は広告手段で、医師は誰も逆らえない。

強度のない人が群れると既得権益者に見える

それは学会であったり役所であったり、話題になっているところだと、 著作権の保護を叫ぶ人たちであったり。

強度を惜しんで変化を拒む、既得権益者の集団。 その人たちが示す未来は見えなくて、このまま行くと、明らかに世の中悪くなりそうなのに。 その人達が、せめて強度を持った言葉を語ってくれるなら、あるいは 対話をする余地もあるのだろうけれど。

病院なんかもあるいは、外から見れば、変革を拒む既得権益者に 見えてしまうのかもしれないと思った。

我々の言葉には強度が決定的に不足しているし、口を開けば「昔は良かった」、 変革には基本的に、常に反対する立場だし。著作権ゴロなんかとは 一緒にされたくはないけれど、「じゃぁ何が違うの?」なんて聞かれれば、 案外答えられなかったりして。

病院に求められる「強度のある言葉」とは要するに、「あなたは大丈夫」の一言。 こんな言葉こそがきっと、患者さんの心に響いて、医師-患者同士の信頼を作るのだろうけれど、 今の時代、専門家であるからこそ、その一言を言うのがますます難しい。

「強度」だけでものをいうなら、たとえば癌治療の現場では、西洋医学のスペシャリストなんかより、 新興宗教の教祖とか、怪しいキノコ売りなんかのほうが、よっぽど強度の高い言葉を提供できる。 実際問題人は強度に流されて、西洋医学はしばしば見話されて、キノコ商売は大流行する。

「ムラ」が強度を取り戻す

たぶん専門家は、自らの言葉に強度を担保する構造を、自分で作らないといけないのだと思う。

それはたとえば、ちょっと前のやくざ社会。

法律とか、司法とか、あるいは世論とか、自分達を外から見る、自分達とは違った立ち位置、 違った価値判断をする人達に対抗して、「我々はこう考える」という強度を担保する組織。 やくざの振舞いは、世間的には「悪いこと」だけれど、内部的にはそれが正しい振る舞いで、 あまつさえ司法の「罰」というものが、やくざ社会では「名誉」に転化されるから、 彼らは常に、強度の高い言葉で人を脅せる。

司法から、あるいはマスコミ世論からの自由を勝ち取るために医師が団結する。 内部的な決まりで動いて、叩かれたり、罰せられたりは、むしろ名誉として その振舞いを担保する。

ムラ社会への回帰。社会のフラット化に逆行して、「ムラ」を作って自閉する。

やりかたは時代錯誤的だし、それは間違いなく 衝突を生む、言い換えれば「強度」を持った行動だけれど、 結局そんな行動が、言葉に強度を取り戻して、 失われた信頼関係を再構築してくれる気がする。

2007.11.24

学習の道具としてblog はあんまり役に立たない

大昔。そんなに忙しくはないけれど人間は圧倒的に足りてない、そんな病院に一人飛ばされて、 世界と自分をつないでくれるのはダイヤルアップの電話回線一本きり。

馬鹿だったけれど若かったから、せめて電話回線の向こう側の人たちに、 「自分がここにいる」ということに気がついてほしかった。Webを立ち上げたきっかけ。

大学に戻って、自分のページにも人が来てくれるようになって、 「自分がもう少しだけましな人間になるための道具」としてのネットに期待を寄せたのが、 ちょうどblog をはじめた頃。

時間はたって、来てくれるお客さんの数は増えた。 ネットというのは、コミュニケーションの道具としてはたしかに優秀なんだけれど、 学習の役にはまだあんまり立たない気がしている。

建設的批判がほしい

最初に書いていたのはマニュアル類。

大昔、研修していた病院には医局が一つしかなくて、教科書はまだまだ不十分だった。 ベテランの先生がたが論文や洋書を訳して、プリント作って下々に配って、 医局の片隅で勉強会。

病院は大きくなって、医局は世代ごとに分けられて、商業出版されたレジデント向けの教科書が増えた。 昔のプリントは捨てられて、コピーの裏紙となって山積み。

「自分に気がついてほしい」なんて焦った昔。いきなり人が集まる文章書けるわけないから、 最初にアップしたのはこんなプリント類。

最初はHTML 文章とPDF ファイルだけ。メールアドレスと、掲示板一つ。

たしか1ヶ月ぐらい何の反響もなくて、その頃ぽつぽつ2ちゃんねる界隈で 医療崩壊の話題が出てきて、うちのページにも反響をいただけるようになった。

病院の中には自分しかいないから、もちろんほめてもらえることはすごい励みになって、 あの頃は低スペックな機械使って、猿みたいにキーボードを叩いていた。

定期的に書き込みをいただけるようになると、欲が出る。 ほしかったのは、内容に対する批判的であったり、 「こう考えればもっと良くなる」みたいな改良の提案であったり。

Wiki みたいな動的なページをはじめて、そのうちblog が便利だなんて話が聞こえて、 同じ頃、どういうわけだかFTPの調子が悪くて更新がうまくできなくなって、 結局全面的にblog 移行することに。

blog を導入して、はてなブックマークに参加して、 コミュニケーションはますます簡単になっていったけれど、 それでもやっぱり、建設的な批判はごく少数。

予定では今ごろ、自分が書いたマニュアル類は、いろんなベテラン勢からよってたかってツッコミを受けて、 病棟デビューする研修医には欠かせないぐらい、優れたものになっていたはずだったし、 自分の頭はその頃、ネット世間から知恵をもらって、 今よりもう少しましな思考回路になってるはずだったのだけれど。

賞賛のコストと批判のコスト

ネットという場所は、遊び場としては本当に面白い。何か興味があることを調べるのにも すごく役立つし、日常診療にも欠かせない。

ところが自分の思考経路に問題を指摘してもらいたくて、 それに対してネットの叡智を援用しようと思った場合、 今までのコミュニケーションチャンネルだけではまだまだ不足。ネットを通じた自己改良というのは、 今のところ自分個人に対しては、あんまり役に立っていない。

恐らくは、「ほめること」よりも「建設的に批判すること」のほうがもっと大変で、 ほめ言葉の対価は無償でいいのかもしれないけれど、 誰かから建設的な批判をもらおうと思った場合、それにはやはり、何らかの 金銭的な対価が必要なのかなと思う。もしかしたら、直接会って話すぐらいの距離感も。

「建設的な」批判、何かの意見を通じて、その人の思考回路をよりよく回せるような批判を 行うのは難しい。批判を行う相手の思考経路とか、学習内容の穴を探さないといけないし、 意見を通じて変化を促そうと思ったならば、自分の意見を相手の文脈に翻訳しないといけない。

知識は個人化しないと伝わらない。

個人化のプロセスを経ない批判というのは、要するに「君のレベルはまだまだだから、もっと勉強してね」 という意見以上のものにはなり得ない。文脈を共有していない人からの批判的な意見というのは、 しばしばたんなる単なる優越感ゲームになってしまって、自己改良にはつながらない。

文脈には恐らく「強度」みたいなパラメーターがある。 社会的な地位が自分なんかより圧倒的に高い人、あるいはネット世間で知恵があると周りから認知されている人 の持つ「文脈」というものは、少々のずれなど吸収してしまい、近づいてきた誰かを感化してしまう。

強力な文脈を持った人が面白い文章を発信すると、その文脈はすぐにネット世間に共有されて、 いろんな人がその文脈に影響を受ける。そんな影響はたいていの場合有益で、 自分もまた、何人もの思考に影響を受けつづけているけれど、 それは自分が意図した「改良」とはちょっと違う。

属性と内的思考

「属性」というのは、外から見たその人の印象であったり、ネット世間での立ち位置であったり。 内的思考というのは、もっと個人的な思考回路。俺様定義。

ネット世間でいうこところの「ほめる」「批判する」は、たいていの場合その人の 属性に対する好みで語られることが多くて、意見を発信している当の本人は、 それを内的思考に対する賞賛、批判と受け止めてしまう。

属性というのは、いわば「こう見られたい自分」。ネット世界で「傷ついた私」を 発信している人に、「医者行け」の一言が何の意味も持たないように、 発信者はしばしば、内的思考に対する批判を求めつつ、 属性に対しては不可侵であることを要求する。

blog というメディアは、ある程度まとまった文章を発信するためツール。

意見を発信する人の内的思考は、その人自身の編集を受けて、「属性」を背負った ひとまとまりの思考として発信せざるを得ない。まとまりのない文章は伝わらないし、 編集を受けない「生の思考」なんてものは、たいていの場合冗長すぎて、そもそも読んでもらえない。

twitter による編集の外部化

twitter という道具は、そんな「編集機能の外部化」が可能になりそうな点で、とても興味がある。

1 度に書き込める文章はたかだか140字だから、その内容はどうしても断片化せざるを得ない。 文章の長さとか体裁に関係なく、follow をもらえた人は、半分強制的に自分の文章を読まされる。 内的思考そのまんまの独り言に特化したツール。

ちょっとでも思いついたことをとにかく書き散らして、反響とか、意見の応酬なんかには あんまり重きをおかないで、とにかく量を書く。何日かして検索をかけて、 他人様のfavorites に入っている自分の文章を振り返るのがすごく面白い。

「自分の中に面白く無い部分がある」ということが可視化されることが、何といっても 面白い。反響をもらうこと、反響をもらえないこと、そのどちらもが楽しい。 自分の意見をあとから検索すると、びっくりすることしばしば。自分が力をいれた部分は 誰もがスルーしている反面、何も考えないで書いていたり、文脈つなげるために でっち上げたような一言が、何人ものfavorites に入っていたり。

twitter を書くようになってから、質よりも量に重きをおくようになった。 賞賛をいただくことよりも、「反響がないこと」を通じて、自分を査定してもらう ことに面白さを感じるようになった。「ないこと」を通じた反響は、 もちろん自分の属性には何の影響も与えないから、それは何となく、気分的にすごく楽。

商業出版物には、編集者の力量というのはたしかにあって、 いくら面白い考えかたをする作家でも、編集者が手を入れないと 読める文章がまともに書けない人とか、 その人にしか経験できないものをたくさん持っているのに、 それをアウトプットする能力に欠けている人とか、 「面白いんだけれど、編集しないと使い物にならない」思考というのは、世の中にたくさんあるらしい。

作家の機能をネットワークが置換する日は来ないのだろうけれど、 編集者の機能というのは、あるいは編集という仕事が「マス」を志向する限りにおいては、 もしかしたら集合知による置換が可能になるのかもしれない。

twitter の持つ「編集機能」はまだまだ未熟ではあるけれど、今までのblog の延長線上にない、 twitter の不思議な魅力というのは、たぶんこのあたりにあるんだと思う。

思考のバックヤードを覗くこと

ネットで文章を公開している人同士、蔵書を公開して、それを交換できるサービスがあったなら 面白いだろうなと思う。

古本屋さんで「汚い」本を買うのが好き。ページが折ってあったり、線が引いてある本というのは、 自分の興味とは明らかに違う部分に別の人の興味を見つけられたりして、その人の内的思考を 覗きこんでいる気分になれる。

残念ながら、古本屋さんの本というのは、元の持ち主の属性が見えてこない。 その人がどんな属性を持っていて、その本に引いた線からどんなアウトプットを生み出したのか、 それが分からないのが片手落ち。

線をひいたりページを折ったりといった工程は、本という製品を個人化していく行為。

それは要するに、自動車レースに参加する人達が、市販車をレース仕様に改造するようなもので、 車としての価値は下がるけれど、「早い車がほしい」なんて思いを共有する人達にとっては、 そのノウハウにはとてつもない価値があるもの。

たとえその人が匿名の立場であっても、その人が読んだ本、本から見出した面白さ、書き込みや線、 ページの折り目を通じて表現された何かが、ネット上で別の文章としてアウトプットされる過程を 共有できるならば、それはきっと、その人に直接会って教えを乞うことで得られる何かを 補間し得ると思う。

内的な思考をアップデートして、「もう少しましな人間になる」道具としてのネットワークは、 こんなサービスができてくれると、もうすこし実現に近づく気がする。

まとめ~属性を越えた先にあるもの

内的思考を可視化することはできないし、編集を受けない、生の思考は学べない。

blog というツールはもう限界なのだそうだ。確かに限界なんだと思う。 個人が隠れる属性を越えたその先、その人の内的な思考を覗きこんで、 それを改良するツールとしては。

それでもblog から分岐した新しいツールというものは、そんな属性の壁を乗り越える 手段を提供しつつあって、そんな努力はたぶん、だんだんと成功しつつあるように見える。

内的思考の書き換えを迫る、そんなやりかたの延長には、もしかしたら怖い世界が まっていたり、あるいはたぶん、次世代の広告業界は、そんなやりかたにこそ 目をつけるのだろうけれど、属性を介さないコミュニケーション手段というのはきっと、 今まで以上に「人を賢くする道具」としてのネットの働きを強化してくれるのだと思う。

2007.11.22

将器というもの

身内に医師がいる患者さんを診察するときは、そうでない人以上に気を使う。

実際のところ、頭フル回転させてまじめにやろうが、反射神経だけでいい加減にやろうが、 患者さんの予後はほとんど変わらない、はず。たぶん。

治る人は誰が見たって治るし、そうでない人は、やはり誰が見ても治らない。

ネットワーク時代。仮に主治医の能力が不足していても、 少なくとも「自分には能力が不足している」と感覚できるだけの頭が 主治医にあれば、どんな医師に当たっても、たぶん同じような治療が受けられる。

身内に医師がいる人と、そうでない人。外から見ればもちろん、受けられるサービスは 全く変わらないはずなんだけれど、診る側の気分は、それでも大分異なっている。

「お任せします」と「良きに計らえ」の違い

異なるのはたぶんこの一点、身内に医療従事者がいる患者さんは、 治療の方針を「主治医の良きに計らえ」と言い切ってしまって大丈夫、ということ。

「お任せします」と「良きに計らえ」。どちらも要するに、決定権を主治医にゆだねる という意味あいでは一緒。何というか、頑張る範囲が微妙に異なる。

無数にある選択肢の中から、最善解を探す。探すためには探索範囲を設定する必要があって、 範囲の広さがすなわち「頑張り」。

「お任せします」が指定する探索範囲は、あくまでも商売の範囲。 重症度に応じて、あるいは対価に応じた範囲で頭を使って、解答を探す。 「良きに計らえ」の探索範囲は、主治医の能力とか、プライドなんかが決める。

結局のところは保険診療だから、どちらにしてもできることは同じ。 同じだけれど、かかってくるものが主治医個人にとっては大きいものだから、 医療従事者の身内を診るのはとても疲れる。できることは一緒でも、疲れた分頑張ってる。

頑張りが数字に現れるとき

医療の制度はそれなりに良く出来ていて、病名が決まって入院したあとは、 「頑張り」の有無は隠蔽されて、同じ対価を支払えば、 誰もが等しいサービスを受けられる。

「頑張り」で差が出てくるのは、病名が付く以前の部分。病名がつかない限り、 その人はまだ「患者さん」ではないわけだから、病院の守備範囲外。 どこまでを自分の守備範囲と定めて、どこから先を無理と判断するのか。 そのあたりにこそ、頑張りの差が現れてくる。

医師一人、たとえば産婦人科医ならば、頑張れば年間300人のお産が取れるし、 毎日100人外来をこなしている内科医だってたくさんいる。

安全確保に自信が持てなくなる。自分の能力を見切る。要因はいろいろだけれど、 こんな人たちが頑張れなくなると、お産可能数は100人以下落ち込むし、 内科外来は閉じられてしまう。

医師の数は増えている。日本中の救急医が奮起すれば、 まだまだ救急外来は戦えるし、全国の産科医が、明日からいっせいに「300人体制」で 頑張れば、それだけで僻地の産科問題は解決する。たぶん。

「良きに計らえ」を担保するもの

やれることは一緒であっても、身内に医師がいる患者さんに対しては、基本的に主治医は頑張る。

この「頑張り」の原動力になっているのは要するに、相手医師の「君には無理そうだから、 あとは自分の施設で診ます」という一言が怖いから。

「君が無理だというなら、あとは僕が全部やるけれど、それでいい?」

研修医の頃、上司から言われて一番きつかったのがこんな一言。たぶん全国区。 それどころかたぶん、徒弟制文化を引っ張る技術屋界隈では、恐らくどの分野であっても一緒。

みんなすごい上司にあこがれて、そんな人達から「失望」を引っ張りたくなくて、 自分の限界まで、あるいはその限界を越えて頑張って、少しづつ成長する。

「同業者の失望」というのは、きっと全ての技術者が背負う原罪。

だからこんな人を目の前にすれば頑張るし、 たとえ「身内の医師」が研修医であったとしても、その人と対峙するときは、 いつも講座の教授と面談するときみたいな気分で、緊張して臨む。

医師が同業者を診るときのルールはけっこう厳密で、「良きに計らえ」で100% 相手に決定を委ねるか、 最初から全て自分で診るか、基本どちらか。

同業者の身内に対しては臣下のごとくにへりくだる義務があって、その代わり、相手はこちらの方針に 口を挟んじゃいけない。もしも方針に意義があるときは、そのときは一言「あとは、うちの施設で診ます」とだけ告げる。

「うちで診ます」と言われた主治医は、自らの実力不足にうなだれて、 患者家族はふがいない主治医に嘆息しながら、自分の病院へ患者を引き取る。

このルール無しに、主治医の方針に意義を挟むことは許されないし、これがあるからこそ、 同業者同士は「よきに計らえ」の紳士協定を今でも守る。

相手が大学教授だろうが開業の先生だろうが研修医だろうが、その人が医師である限り、 みんなこんなルールで行動しているはず。

「将器」というもの

福島県では、「今後は救急車を絶対断らない」という決定を下したのだそうだ。

うちの施設は、今すでにそうなっている。昔研修していた某病院も、 そのあと飛ばされた某病院も、どこも同じルール。絶対断らない。今に始まったことじゃない。

「絶対…」をやっていて、それがちゃんと守られている病院に共通するのはたぶん同じこと。

それは医師の人数であったり、病院が持つ設備の規模なんかではなくて、 「できないのなら、俺が全部やるよ」が病院長の口癖になっていること。

「絶対断らない」ルールを続けている施設の病院長は、たいてい無茶苦茶な人で、 いつも一番働いているのに、いつまでたっても疲れない。その患者さんが専門外だろうが、 院長の手先が少々怪しかろうが、「断らない」と決めたら手を動かすし、 自分なんかが「診れません」なんて泣きを入れると、院長のほうがもっと専門外なのに 「じゃあ俺が見るよ」なんて。それは危ないから、結局自分が診るんだけれど。

カリスマ性とか、宗教的情熱とか、マスコミ受けするそんな要素については良く分からない。 いろんな印象の人がいるし、中の人として働いている分には、たぶんそんなのはあまり関係ない。

プログラマーの手だけではなく心まで動かせるのは、プログラマーでしかないそうだ。どの業界もきっと、 このあたり共通なんだろうなと思う。

病棟いっぱいだろうが、専門とはかけ離れていようが、治療が必要な患者さんが現れたときに、 自らのリスクで「やれないなら俺がやるよ」と手を動かせること。

「将器」というものを医師に求めるとすれば、たぶんこの一点に尽きるのだろうし、 福島県で「断らない」という決定を下した先生方に将器が備わっているならば、 きっと「断らない」ルールは上手くいく。みんな頑張るはずだから。

失敗したなら、それは要するに、そういうことなんだと思う。

2007.11.21

断絶の影で穏やかに変化する何か

激変している状況のすぐ側で、穏やかで連続的な変化を続けている何かがあれば、 それはもしかしたら、大きく変化した状況の原因になっている可能性がある。

激変の原因に、別の激変をつなげる理解のやりかたは、 分かりやすいけれど、もしかしたらしばしば、何の解決ももたらさないかもしれない。

療養病棟のルール変更

保健医療を取り巻く状況がまた少し変わって、以前認められていた、 あるいは暗黙の了解で何とかなっていた、 病棟をまたいでの薬の持ち越しが認められなくなった。

急性期病棟と療養病棟。お金の勘定が少し違って、急性期病棟ならば、高い薬をバンバン使うと 儲けにつながって、療養病棟は、なるべく薬を使わないほうが儲けにつながる。

このルール自体は合理的。若い人なら。高齢の患者さんだとそんなに治りが早くないから、 まだまだ「病気」の範囲にいても、療養型病棟にベッドを移さざるを得ない。

今年に入ってから、当院の病棟利用率はずっと90% 越え。うちがはじけると、 次の病院まで1 時間だから、何とか回す。回すためには薬が必要で、 でも高い薬を療養病棟で使うには、今度は病院の損失が多すぎる。

実際のところ、古い薬でもほとんどのことはできるし、若い人たちなんかにはむしろ、 信頼性重視で古い薬を好む医師は今でも多い。新しい薬、高価な薬が得意なのは、 症状があいまいで、抵抗力が少ない高齢の患者さんを、何となく治すこと。 影響を受けるのはこんな人達。

「何となく、何とかする」やりかたには 2 種類あって、何とかするか、ごまかすか。

今までは何とかしてきたのだけれど、たぶんこれから、このあたりの判断が劇的に変わる。

連続的な変化が激変を生む

今まで「おみやげ」なんて暗黙のルールがあって、急性期病棟で使った薬を、 そのまま療養病棟に持ち込んでいた。いくつかの病院またいで、 全国どこでも同じようなことしてたけれど、うちではこの間、「やめましょう」なんてお達しがあった。

病棟運営の方針は大幅に変わった。

今まではなるべく早くに急性期を乗り切って、残りの「詰め」は療養棟で、なんてやりかた。 もはやそれは通用しないし、療養棟で実質できる治療なんて知れているから、 今はもう、できることは急性期病棟でできる限り行って、後は一刻も早く、もと居た施設へ。

施設は施設で、薬をたくさん出せば出すほど赤字になるルールでやられているから、 処方箋の押し付け合いは、今まで以上にシビア。今けっこう大変。 恐らくこれから、どこの施設もこんな流れになって、世の中世知辛くなっていくはず。

上でおきているのは穏やかな変化。

何か指導が入ったとか、保険点数を大幅に削られたとかではなくて、 お上のかもし出す「空気」みたいなものが年々厳しくなる中で、 それが現場の対応となって発現すると、今回みたいな混乱となってしまうという話。

激変は隠蔽される

現場は混乱しているけれど、混乱を消費者に見せるわけにはいかないから、 患者さんサイドから見た現場はたぶん、今までどおりに穏やかなはず。

穏やかさは穏やかなりに、それでも処方が少しづつ少なくなったり、 今まで使っていた薬が、知らない薬に変わったり。もっとシビアなところでは、 今までなら「頑張りましょう」なんてお話だった患者さんが、 もしかしたら「そろそろ限界かと…」なんてお話に変わっていたり。

恐らくピラミッドの上から下、上は政府の偉い人達から、官僚の組織を下って 病院越えて、下は患者さん一人に至るまで、連続と断絶というものは、 恐らくは交互に現れる。

誰かが上のほうで、何となくゆっくり変化したことが、下に伝わると大混乱となって現れて、 その層での「現場」を守る人達は、その混乱を何とか隠蔽して、再び穏やかな変化として下に伝える。

切り取る層ごとに、状況は穏やかにも、激変しているようにも見えるけれど、 激変している状況のそばで穏やかに変化しているように見える何かというのは、 一見状況に無関係なようでいて、きっと変化した状況を生んだ原因となっている。

世の中を斜めに見るために

「分かる」というのはたぶん、答えを見つけることなんかではなくて、 止められない思考をきりのいいところで停止して、落しどころを発見することなのだと思う。

記号化、言語化は情報の欠落を避けられない。

分かるためには、分かったことを伝えるためには、それを言語化しないといけなくて、 言語化が為された時点で、その人が感覚、思考していた状況というものは、 もはやありのままの写実ではいられなくなってしまう。

「賞賛駆動型のネットワーク」なんてものを想定していた。

みんなが医者ほめて、医者はほめられて慎み学んで、お互い賞賛通貨をやりとりしながら現場回して、 マスコミがそれを全部ブチ壊した…なんて理解。

必然的に起きてしまったことを説明するのにはネットワークの考えかたがすごく便利で、 ネットワークを駆動するには、何が燃料になるエネルギーが必要で、昔はそれを、 賞賛と名誉に求めた。

ネットワークの考えかたは、まだそれなりに新しかったのだと思う。 書いた文章はそれなりに同意をいただけたし、うちのサイトはその昔、 そんな医療のお話をたくさん書いて、アクセス数も多かった。

いろいろ考えたり、あるいはそれでも現場を回していく中で、やっぱり何となく違う気がしてきた。

某巨大掲示板では、今もやっぱりマスゴミが、司法が、なんて怨嗟の声。 目に入るものは昔も今も変わらないのに、やっぱり世の中変わらない。 マスコミが滅んで裁判官がいなくなっても、たぶん救急が元どおりに廻るとは思えないし、 今さらシミンの人達にべた褒めされても、やっぱり全然嬉しくないし。

分かりやすい理解はたぶん、本来見えていなくてはいけない何かを隠蔽してしまう。

賞賛はなくなったし、医者はやっぱり叩かれる。それは間違いなく自分達が体験している 事実なのだけれど、賞賛されなくなったり、叩かれることそれ自体、恐らくは何かの結果にしか すぎなくて、それを元に戻しても、時計の針は戻らない。

戻るはずのものは、多分戻らない。それはつまり、今見えているものが原因ではないか、 そもそもの「原因があって、結果を生じる」という理解が間違えなのか、たぶん両方。

真の原因はたぶん、ただ関係性の中に存在する。

いろんな状況が激変していく中で、それでも変わらない何か、あるいは 穏やかにしか変化しない何かというものがあって、それはきっと、 激変を受けた状況同士のつながりを変化させて、 系に対してある種の淘汰圧として作用する。

何をすれば見つかるのか、そもそも見つけることに意味があるのか、 そのあたりの方法論全然見通し立たないんだけれど、 世の中斜めに見つづけていけばたぶん、そのうち何か見えてくるんじゃないかと思う。

2007.11.15

魔界への手引書

あらゆる交渉には、交渉によって得られるものと失うもの、 「賭け金」に相当する概念があって、交渉ごとをトラブルなく進めようと思ったら、 この賭け金をなるべく安く抑えないといけない。

交渉の賭け金がつり上がっていくと、つまらない利害の対立が、 いつのまにかお互いの全存在を賭けた対決に発展してしまう。

ネット世間では、問題解決に向けた建設的な議論は、しばしば人格否定の泥仕合になり、 泥沼化した議論はたくさんのギャラリーを呼んで、戦いの「落しどころ」は、ますます見えにくくなっていく。

交渉の魔界。

ごくつまらない、些細なきっかけがどんどん膨らんで、 気がついたらお互い冷静さを失っていて、潰すか潰されるか、 鉄風雷火の限りを尽くした、情け容赦のない、三千世界の鴉を殺す、 終わりの見えない泥仕合。誰もそんなこと望まないのに。

本当に「望まない」なんてことあるんだろうか ?

交渉の目的は問題の解決で、交渉や議論というのは、あくまでもそのための手段。 そんなつまらない建前外せば、この「手段」それ自体がとてつもなく面白くて、 手段を楽しみ尽くすためならば、正直目的なんて何だっていいなんて人、きっと多いはず。

魔界への憧憬を口にしたとき、そこにはすでに魔界への扉が開いている。

皆様。魔界の扉を開いて中を覗く欲求にかられたことはありませんか? 私はいつもです

そんな扉の開きかた。

「私」でなく「あなた」

「私はこう思う」「私からは、あなたはこんなふうに見える」という表現は、責任の所在を 発言者の側に持ってきてしまう。人格否定合戦を回避するための常套手段だけれど、 「あなたはこんな人間だ」という断定論理を持ち込むと、交渉の温度が一段階上がる。

「あなたは○○だ」を繰り返していくと、最終的には「議論に負けたあなたは地上最低の屑野郎ですね」 というところまで、議論のオッズをつり上げることができる。こんなやりかた。

  • 「あなたみたいな素朴な理解で満足する人を久しぶりに見た気がします。 幸せで何よりですね^^;」

「あなたは○○だ」というやりかたはまた、相手に望まないアイコンを付加して、 相手の振舞いを縛る効果も期待できる。

「博士持ちは実戦知らないから…」とか、「これだから文系は…」みたいなアイコンは、 相手の行動全てをアイコンで抽象化して、人格をまとめて哄笑する余地を与えてくれる。

「私」は無碍。しばしば「我々」や「みんな」に変化したり、 あるいは「私」は、いきなりその場からいなくなったりすることも出来る。

  • 「○○さんのくだらない発言には、我々みんなが迷惑しています」
  • 「文系は話が胡乱になりやすいから、「はい」か「いいえ」だけで答えて下さい」
  • 「私は大人だから、そんな低次元の争いには参加したくないですね^^;」

言葉は冷静に

その代わり、行動は情熱的に。

言葉尻はすごく大切。どんなに激しい内容を語っていようが、 整然とした論理で相手を圧倒しようが、言葉尻を乱したら、もうそれでお終い。 賭け金がそれ以上に上がることはない。

大切なのは、感情を隠して冷静さを取り繕いながら、 自らに間違いや行き違いがあっても、それが見えないかのように振舞い続けること。

自分が冷静であることを宣言するのは上手なやりかた。

  • 「あなたが感情的になりすぎているから、議論が進まないんですよ」
  • 「ずっと前から思っていたけれど、あなたの議論はたわごとにしか思えない」
  • 「間違いを指摘されて、それを脅迫であると理解する理解する○○さんは、 私に何か抑圧的なものでも感じてらっしゃるのでしょうか?」

問題点ではなく人格を議論する

症状よりも病名が、問題点よりもその問題を提出した「人格」こそが上位にくるから、 上位概念を交渉の場に引っ張り出せば、賭け金はそれだけ上がる。

  • 「あなたは○○関係の文献をお読みのようですから、あえて誤読してらっしゃるのでしょうが、 批判のための批判は困ります。小さい人ですね」
  • 「議論になる」とは、あなたが議論になったと「感じている」だけでは? 私は単純に、 あなたの境遇に手を差し伸べたかっただけなのですが…。会話って面白いですね^^」

「安い交渉」は、相手の提出した問題点をなるべく細かく分割して、正しいものは受容し、 間違っているものだけを交渉して、相手の人格には絶対に手を出さない。

賭け金をつり上げようと思ったならば、相手の提出した問題よりも、むしろ 「そんな問題を提出した相手」の人格そのものを議論の場に引っ張り出す必要がある。 問題の正しい部分は人格という上位概念によって隠蔽され、 問題解決の場は、お互いの立場と面子とをかけた決闘の場へと生まれ変わる。

立場を大切にする

問題を大きくまとめて、選択肢を絞る。妥協点を探るのではなく温度を高めて、 全肯定か、全否定か、選択肢を二者択一に持っていく。

問題評価の尺度は隠蔽されなくてはならない。たとえそれが「どちらが先にトイレに行くか」 みたいな些細な問題であっても、「人間として…」「地球環境が…」といった極論に訴える。

相手の言葉は真摯に聞かれなくてはならない。最高のタイミングで話をさえぎるために。 攻撃材料を収集するために。

神は細部に宿る。話の内容に感心するのではなく、滑舌の細かな瑕疵を哄笑する。

相手の意見に、もしも自分の立場を強化する要素があったのならば、その時点で速やかな 勝利宣言を行わなくてはならない。提出された意見を勝手に「解決」されたことにされれば、 相手もまた、賭け金をつり上げざるを得ない。

トレードオフの要素に注意する必要がある。最速の解を示されたなら最善解でないことをなじり、 最善解を示されたなら、結果の遅さをなじることができる。結果が正しければ過程を非難し、 結果が悪ければ、もちろん全人格を否定する。

ネット世間に戦いを取り戻すために

自分のためだけの戦いなど存在しない。

お互いの全存在を賭けた戦いというものは、実はネットワークにつながった万人のために、 自らが攻撃し、忌み嫌い、罵倒した相手側の人々のためにさえ、役に立っている。

戦場で踊ったもの同士がそれを自覚しているのかどうかは、ここでは問題にならない。 それでもきっと、お互い流した血と意思は、どこかでそのことを理解している。

ネット世界は、うわべだけ取り繕った「馴れあい」という病気のために、死に瀕している。 情け容赦のない決闘は、きっと全ての人に暴力と剣の信仰を教えてくれる。

失われた信仰を取り戻すためには多くのものが破壊されなければならない。

膨れ上がった自意識の鉄塊がぶつかりあう音は、世界に鎮められない 怨讐をはらんだ空気を呼び戻す。 それは戦いに参加した者全員が鍛え上げたものだ。 すでにその犠牲となっているこの我々こそが。

戦いの勝利者が鉄槌であり、我々が鉄床であるとしても、それは問題ではない。

大切なのは、世界に君臨するのが暴力であって、 奴隷的な小心翼々たる馴れあいではないということ。

たとえ戦い敗れた者の居場所が地獄であろうとも、我々の戦いこそが、天国を存在せしめた。

諸君はさらなる戦いを望むか。容赦ない総力戦を望むか ? もし必要とあらば、今日想像できる以上の全面的かつ徹底的なる戦いを諸君は望むか ? ――よろしい、ならば嵐だ。

我々は勝利の日まで、あるいは滅亡の日まで、この忠誠を捧げるつもりである。

2007.11.13

病名を避ける退院交渉

最近は、病名を使って話をすることを極力避けるようにしている。

「肺炎が治ったから退院しましょう」ではなくて、 「抗生物質を中止しても発熱が再燃しないようなので、あとは外来で…」みたいな。

それが正しいのかどうかは分からないけれど、 そのほうが患者さんの状況受け入れが円滑に進む気がしている。

病名は医師の状況解釈

超高齢の患者さんが入院。夜寝ない。点滴を引き抜く。徘徊して転ぶ。 叫んで手がつけられない。

どうしようもないからご家族呼んで、「痴呆ひどくて診られません」なんてやったら、 間違いなくトラブルになる。「母は混乱しているだけで、 痴呆なんかじゃありません。ちゃんと診て下さい」なんて。

寝ないとか、点滴出来ないといったことは事実。でも事実の集積を抽象化して、「痴呆」なんて 病名に導いたのは医師。事実は受け入れるしかないけれど、 事実の集積を解釈するのは誰もが持っている権利。

「病名をつけられた」患者さんの退院に同意するということは、要するに 事実の集積に対する医師の考えかた全てを、無批判に受け入れることに等しい。

医師と患者、いくつかの事実を挟んで対峙して、 それをどうくっつけて、抽象化したものから何を見出すのか。 同じ解釈にいたる可能性は極めて低いのに、病名という道具はしばしば、 医師と全く同じ解釈を相手に強要する。

自分達は一方的に病名を告げる側だけれど、そんな行為はあるいは、 それを受け入れる相手側に、かなり大きな負担を強いている気がする。

分かりやすさには主観が入る

事実の集積に意図を加えて、分かりやすい物語として流布するやりかたは マスコミの得意分野だけれど、「分かりやすくする」という工程は、 そもそも歪みから自由になれない。

地球儀を地図として平面化する、事実の集積を分かりやすく解釈して言語化するというのは、 要するにこんなこと。病名も一緒。球を平面にするときには、どんなやりかたをしても ゆがみを生じる。平面化の技法にはいろんなやりかたがあるけれど、 やりかたを選ぶというその行為自体、そこには医師の主観が混入する。

そんな主観は、あるいは患者さんの御家族にそれを見透かされていて、 病名の欺まん性は、しばしばご家族の反発となって表面化している気がする。

属性を付加する病名

分かりやすさはまた、単なる事実に属性を付加してしまう。球面が平面に展開されるだけで、 そこには「上」や「下」、あるいは球面には存在しなかった 「辺境」や「中心」なんて属性がついてくる。

属性というものはたぶん、思っている以上にその人を不自由にする。

何もない平面に、一本の線を引く。こんな行為一つとっても、 平面上での自由な振舞いは、線が出現したあとは、「右に行った」だとか「線をまたいだ」だとか、 それまではありえなかった言語化を受ける。平面の上で、人は自由に振舞っているのに、 それでも線という属性は、その人の行動を縛ってしまう。

事実も病名も単なる言葉にしかすぎないけれど、病名という「属性を背負った言葉」は、 恐らくは病名をつける側が想像している以上に相手を縛るし、 相手にとって重荷になっている可能性がある。

スケールが変わると正確さも変わる

あれだけ精密に見える田宮模型のプラモデルなんかも、 実際には「精密に見せる」ために歪みを加えているのだそうだ。

あれだけ有名な会社になると、たとえば自動車会社なんかは、門外不出の設計図面そのものを 貸してくれたりするらしい。図面どおりに金型をおこせば、実物と寸分たがわないプラモデルが 作れるのだけれど、そうして作ったプラモデルというのは、何となく迫力の足りない、 なんだかペシャっとした形になってしまうのだという。

自動車はたぶん、実物大で見るからかっこよく見えるようにデザインされていて、 そのかっこ良さというのは、模型サイズに縮めたときには伝わらなくなってしまう。

模型会社のデザイナーは、正確な図面を元にして、そこにあえて歪みを加えて、 模型としてかっこよく見える、あるいは模型として精密に見えるよう、 金型の図面を引きなおすのだという。

医師と患者とは、恐らくは物事をみるスケールが違うし、生活している時間軸が全く違う。

事実をなるべく歪めないで、分かりやすく提供する。そんな努力を医師側が行ったところで、 視点のスケールが違う患者さん側には、恐らくそれは、「正確だ」という印象として伝わらない。

正確だ、歪みが少ないという印象をもってもらうためには事実を歪めることが必要で、 ところが相手の視点は一人一人違うから、把握した事実をどう歪めれば「正しく」なるのか、 恐らくはそれを見越すのはすごく難しい。

むしろ事実は事実だけ、ありのままにそれを伝えて、相手の印象を尋ねるやりかたのほうが、 結果として「正しい医師の印象」を伝えることができる気がする。

まとめ

  • 病名という道具は、いくつかの事実をまとめて、相手に医師の考えを簡単に伝える役には立つけれど、 それを交渉の道具に使うと、上手く行かないケースがある
  • 事実をまとめるという行為は、分かりやすくなる反面、相手がとれる選択肢を 「それを丸々受け入れるか、拒否するか」に絞ってしまい、 提案を受け入れる閾値を必要以上に高めてしまう
  • 事実の抽象度を高める作業は、まずはそれを相手にゆだねないと失敗する
  • 印象で抽象化しない事実をそのまんま伝えて、こちらが抱えている問題を相手に伝えて、 その上で「この問題を解決するのに、どうすればいいとお考えですか?」みたいな尋ねかたをすると、 上手くいくひとは上手くいく
  • 「もっと頑張れ」みたいな返事しか返さないご家族相手だと、もう何をやっても上手くいかない

2007.11.12

技術の接木可能性

技術は過去に蓄積してきたものの延長線上にしか発達しえないし、 そうではない、本当に画期的な提案というのは、たいていの場合過去によって潰されてしまう。

それが優秀であろうが無かろうが、今までみんなが使ってきた技術というものは、 「みんなが使った」そのこと自体が価値をもって、もっと優秀な技術が出てきても消えない。 たとえそれが虫垂みたいに事実上不必要なものになっても、消え去ることはない。

未来に可能性のある技術が生き残るとは限らない。技術の行く末を左右するのは、 むしろ過去の蓄積に対する「接木」の行い易さであって、接木可能性を持たない、 蓄積してきた過去の書き換えを要求するような技術は、それがどんなに画期的なものであっても、 それが発展する可能性は少ない。

革新的で、しかも発展を遂げるような技術というものは、古いルールを置き換えるような やりかたではなくて、古いものを巧妙に隠蔽するようなやりかたを行って、 過去を包み込むことで、見た目の世界を書き換えようとする。

よく探せばきっと、過去の技術はその中心部に隠されて、しっかりと残っている……はず。

遺伝子治療のこと

あと5年もすれば、君達内科医の仕事は無くなって、 我々が作った遺伝子を注射するだけで万事解決する時代がきます

遺伝子治療の(自称)大家が講演したのは研修医の頃。

「わぁすげえな」とか「どんなことになってもあいつの遺伝子だけは絶対使わねぇ」とか、いろんな感想。

あれからもう何年も経って、遺伝子治療もだんだんと実現に近づいてはきたけれど、 未だに足踏み。

もちろん「注射一発で糖尿病完治」の世界はまだまだ遠いけれど、 もっと小さな進歩はいくつもあって、「遺伝子注射すれば血行回復」あたりなら、 実験室出てそろそろ実用。それでも足踏み。

遺伝子治療の未来はすごくて、技術が進歩するならば、事実上どんな病気でも治せるし、 その可能性は無限大。この「無限」がネックになって、治験が進まない。

遺伝子治療と再生医療

「未来の治療」の両横綱は、遺伝子治療と再生治療。

未来はまだまだ先。「注射一発…」も、肝臓とか腎臓を生やすのも無理だけれど、 遺伝子治療のある側面と、骨髄幹細胞を使った再生医療の守備範囲とは 一部で重なっていて、同じ病気を、微妙に違った角度から治療する試みが始まっている。

閉塞性動脈硬化症という疾患があって、血管が動脈硬化で細くなりすぎて、 今までの医療技術では、十分な効果が期待できない人がいる。血管を遺伝子で誘導したり、 あるいは新しい血管を生やしたりする技術には期待が持てて、この分野はいま臨床治験が始まっている。

治験を行っている施設も違えば科も違うから、一概に比較は出来ないけれど、 2つの「未来の治療」はこの分野に同時期に乗り出してきて、予算はたぶん、 遺伝子治療のほうが潤沢に持っているけれど、治験そのものは再生医療の人達が 圧倒的にリードしているように見える。

素朴な安心モデル

技術進歩のネックになっているのは、研究室レベルのお話ではなくて、臨床治験の部分。

技術はどこかで研究室を出て、人間にそれを試さないといけないのだけれど、 遺伝子治療は可能性が広い分、人間で試すのが極めて難しい。

遺伝子は何だって出来るし、注射した遺伝子がどこに飛んで、そこで何を行うのか、 予期した反応以外のことは、何も予測できない。

何があるのか分からないけれど、患者さんには安心を保証しないといけない。

病気の場所以外、その人の身体に瑕疵があったとき、遺伝子は何をするのか誰にも分からない。 遺伝子治療の治験を行うときには、だから「今までの治療では解決不可能なぐらいに重症で、 なおかつ病気の場所以外は心身ともに健康そのもの」の人を探さないといけない。

そんな人いない。

再生医療は、そのあたりもう少し分かりやすい。

今やっているのは、患者さんから骨髄液を採取して、それを血液の循環が悪い部分に注射すること。

患者さんの体から取り出した液体を、患者さんの身体に注射するだけだから、 「何もおきない」ことはあっても、「何かとんでもないことがおきる」可能性は、恐らく低い。

「臓器を何もないところから生やす」段階になれば分からないけれど、再生医療の文法は、 遺伝子治療に比べると素朴な安心モデルを描きやすくて、だからこそ治験が進んで、 応用範囲がゆっくりと拡大しつつある。

技術の接木可能性について

今まで登場してきた画期的な技術とか、あるいは新しい考えかたが、 古い技術や考えかたを世界から完全に駆逐したケースは存在しないか、たぶん極めて少ない。

新しい技術の分かりやすさとか、素朴な安心モデルというのは、 要するに過去に蓄積してきた技術との親和性や、接木可能性の高さ。

技術もまた、コミュニケーションの問題からは自由になれない。 どんなに未来の可能性が豊かな技術であっても、過去の蓄積を否定する、 あるいは過去への接木が不可能な技術というのはたぶん、結局上手くいかないか、 過去の蓄積によって滅ぼされてしまう。

「世の中を変えた新技術」というものは、たぶん過去を書き換えたわけではなくて、 過去を巧妙に隠蔽することで、その新しさを出している。

たぶん未来が約束されつつある再生医療なんかも、人体を一から作り直す方向なんかには行かなくて、 せいぜい進んで、臓器ごとの再生にとどまるはず。それを人体に移植するのは外科医の仕事。 どんなに医療が進歩しても、たぶん昔ながらの外科医の仕事はなくならない。

たとえば音声認識なんかは「文字を書く」という技術からは逃れられないし、 動作指示は「ボタンを押す」とか、「スイッチを入れる」なんて行為からは自由になれない。 スタートレックみたいな音声だけで全ての指示を行う未来は、だからこそ来ることはないし、 自分達はきっと、30世紀ぐらいになってもキーボードを使いつづける。

接木を重ねた技術やルールは不恰好だけれど、未来というのはたぶん、 過去の延長線上にしか存在しないし、過去を否定する未来技術というのはきっと かっこよく見えても根付かないのだと思う。

2007.11.09

無邪気な人とのつきあいかた

無邪気さというものが敵に回ると、展開は最悪になる。

邪気のない人。いい患者でありさえすれば、いい家族でありさえすれば、 いつの間にやら医者には良心が芽生えて、患者さんは「すっかりよくなる」なんて、 心のそこから信じている人。あるいは本当はそんなことあるわけないんだけれど、 「ない」という事実から目線をそらして、思考を止めてしまった人達。

無邪気な人にとっては「邪でないこと」は大切だから、良くも悪くも損得勘定では動かない。 そんな人達が味方でいる分には、みんないい患者さんであり、いいご家族でもあり。

損得勘定で動かない人が敵にまわると本当に恐ろしい。損得を越えた戦いを仕掛けてくるから、 誤ろうが、土下座しようが、こちらの存在が全否定されるまで、もはや攻撃が止むことはない。 戦いは、取引ではなくて「悪事の報い」だから、もちろん交渉の余地なんてない。

「健全な相互不信」と「留保のない信頼」と

「いいご家族」と面談するときには、たいていの医者は心から緊張している。怖いから。

「いい関係」というのは、支えなしで地面に棒を立てるのに似て、本来ものすごく不安定な状態。 その状態を長く維持しようと思ったら、患者側と医者側、両方から棒にロープをかけて引っ張って、 安定した状態を保たないといけない。

引っ張りあいというのは、要するに健全な相互不信を維持した関係。 お互い信じていないけれど、それでも棒がまっすぐ立った状態というのは、 お互いの引っ張る力が最小で済むから、遠くからそれを見た人は、恐らくは 「いい関係」に見えるはず。

無邪気な患者さんというのは、棒が自然に立つことを信じきっていて、 ロープがそもそも見えないか、ロープを引っ張ることを放棄している。

棒はたしかに立っているけれど、医者側から見たその状態は、極めて不安定で、 しかもこちら側からできることがほとんどない。引っ張ったら倒れちゃうから、 こちらも手を緩めるしかないんだけれど、不安定な状態で立ち続ける棒は、 もはやいつ倒れるのか誰にも分からない。

「ロープが見えてる人」、医師を信じていない人とか、あるいは何かの取引を 持ちかけようとしている人は、あるいは棒を倒すかもしれないけれど、 その原因はロープの力加減だと分かってくれる。 最低限、交渉の席にはついてくれるし、トラブったところで、話は案外穏やかに進む。

無邪気な人とのトラブルになったとき、相手はそもそもロープを持っていないから、 棒は間違いなく医師側に倒れてしまう。

ロープが見えない、こんな人達にとっては、棒を立たせてきた原動力は、自分達の「邪気の無さ」。 棒が倒れた原因は、医者側の邪気だと認識されるから、そこから先の交渉は大変。

過程を無視する無邪気な人

最終的にどんな経過になったところで、ロープが見える人というのは、 そのロープの手応えを覚えているから大丈夫。ロープを介したコミュニケーションは、 力の入り具合がお互いよく分かる。

厄介なのは、倒れるその瞬間までは、棒はロープ無しでも立っていること。

無邪気な人と医師との関係は、相手が何かを不興に感じるその寸前までは、 「いい患者といい医者」との関係そのもの。医者一人が内心ドキドキなんだけれど、 「お願いだからロープ持ってください」なんて水を向けても、 無邪気な人達はやっぱりロープを見てくれない。

無邪気な人にとっては、入院経過がどうであれ、棒を立たせていたのは「邪気のなさ」 なんて見えない力のおかげだから、最終的に棒が倒れたとき、そこから先の振舞いは、 その瞬間の医師の態度で全てが決まる。どんな顔をすればいいのか、どこまで謝り倒せばいいのか、 そのあたりの基準は全て無邪気な人の心にあるから、こちら側からは全く分からない。

過程を評価してくれないこと、しばしばその思いが天井知らずで、 最悪自分達の人生がもっていかれそうになること。無邪気な人達というのは、 見た目どんなにいい人達でも、一発が怖くて油断できない。

無邪気を交渉の場に引っ張り出すために

「どこまでやるのか?」という問題は、本来予算と価値観との天秤。

ロープの引っ張りあいができる人なら、お互いのバランス感覚は読めるから、 「このへんまで」なんてサバ読みはかなり正確。

ロープが見えてない人にとっては、天秤の患者側に乗っける価値は、自らの邪気のなさ。 それがどれぐらい重いのか、反対側にいる医者には分からない。 価値は見えなくて、人によっては天井知らずで、 笑顔の裏で、天秤に国家予算がぶら下がることを信じて疑わない人がいたりして。

ロープを可視化してくれるのは、要するに「天井」なのだと思う。

無限に予算をかけても無限に健康になれるなんてことはありえなくて、 予算には本来上限があって、どんなに邪気無く振舞ったところで、 保険から引っ張れる予算には限りがあって。

「天井を見せる」という部分に限っていえば、 混合診療の導入は、個人的には大賛成だったりする。

これが始まれば、間違いなく医療費上がって、保険の範囲でできることなんて限られていく。

医師の収入も削られて、高収入目指そうと思ったならば、 診療の傍らで癌に効くキノコ売ったり、外来に「私は毎日こんなサプリメント摂ってます」なんて、 笑顔のポスター貼ってみたり。

それはあんまり嬉しい未来図ではないけれど、天井知らずに無邪気な人は、 最近になってまだまだ増えてきて、実際問題困ってる。

「保険の範囲ではここまで」なんて天井が見えて、無邪気な人は、 ここではじめてロープが見えて、きっと交渉の席に座ってくれる。

いろんな価値観を持つ人があふれる世の中、お金というのは、 自分が見える範囲では唯一、まだ共通言語として通用する価値。

「話すこと」がどうして加速度的に無意味化したのか。 どうしてお金は生き残っているのか。 本当にお金以外に使える共通言語は存在しないのか。

上手くやっている人がいるのなら、あるいは自分の無能さが原因の全てなら、 まだまだ希望も持てるんだけれど、上手く行かない人、無邪気さと交渉することは やっぱり上手くいかなくて、今のところはお金以外の選択肢を思いつけない。

保険崩壊ルールの導入は、この業界に「最後の共通言語」を導入して、 コミュニケーションの問題が相当程度解決する可能性があって、 アメリカの惨状はもちろん知っているけれど、それでもなお、 無邪気さと相対したあとの疲労感は、お金の持つ可能性に期待を抱かせる。

どちらがいいのだろう?

2007.11.06

ネットからお金を引っ張る方法

ネット世界では、欲求を満足させるための手段は常に複数提供されて、 たいていの場合、その中にほとんど無償に近いやりかたが隠れている。

何を販売しても「無料」ルートが存在する、そんな世界でお金を引っ張ろうと思ったならば、 対価を支払うことそれ自体が、自分の満足ではなく、 他者からの賞賛につながる仕組みを作らないといけない。

「機能の価値」と「目線の価値」

ものの価値には機能的な側面と、自意識的な側面とがある。

それが物体であれサービスであれ、対価を支払って何かを購入する行為は、 その人が持つ機能を変化させるとともに、その人に注がれる視線の質をも変化させてしまう。

目線からの自由がありえないネット世界では、自意識は常に他者からの査定を受ける。

ごく単純に「いい物」がほしい。それに対して対価を支払う。それだけの行為一つを取っても、 その「よさ」はネットでつながる誰かの査定を受けて、 対価を支払ったことが賢かったのかそうでないのか、 お金を支払った人の振舞いもまた、誰かの査定から逃れられない。

ほしい物が目の前にある。買えるだけのお金を持っている。目線が支配する現代社会では、 これだけではまだ不十分で、「購入」という動作は始まらない。

ネットワークでつながった誰かから「あいつ馬鹿じゃないの?」なんて言われる恐怖。 化学反応の「活性化エネルギー」に相当するこんな恐怖は、品物とお金との結びつきを妨げる。

広告の役割は触媒。購入にまつわる視線の恐怖を隠蔽したり、 あるいは「それを購入するあなたはかっこいい」なんて、購入という行為によい意味を持たせたり。

広告それ自体に否定的な目線が集まる現在、何かを販売することで対価を得る、 そんなやりかたを通じた集金は上手くいかない。

視線の価値はお金で変えない

承認欲求をお金で満たすことはできない。

金メダリストに何千万円だかの対価を支払って金メダルを購入しても、 残念ながらパレードは始まらないし、そんな行為をほめてくれる人なんて誰もいない。

メダルの持つ「視線の価値」は、あくまでも競技に勝った個人に付随する。

お金さえ払えるならば、事実上なんでも買える現在、「お金を出しても買えないもの」は、 極めて高い価値をもつ。

それはもちろん、買えないからこその価値なんだけれど、 もしも自意識を通貨で購入することができるなら、 そんな状況は、きっと効率のいい集金装置として機能する。

両替装置としての「公共」

視線の価値を決定するもの、優越感通貨を実世界の通貨で置き換えるのは不可能だけれど、 視線世界と機能世界との境界に、虚構としての「公共」を仲立ちさせることによって、 営利行為を正義として正当化することが可能となる。

金メダルを首からぶら下げて、市民の賞賛を浴びながら町中をパレードする、 そんな一連の行為それ自体、通貨を支払うことで購入可能だけれど、 正当化を伴わない「他者からの賞賛」には意味がない。

裏を返せば、賞賛の購入を正当化してくれる何かがあれば、自意識の貨幣というものは、 実世界の通貨で購入することができる。

「公共」とは、消費の意味を仮託できる上位存在。

「みんなのため」ではまだまだ漠然としすぎてて、 それはたとえば国家であったり、神様であったり、あるいはもう少し身近に、アイドルなんかでも。

公共を実装し得たコミュニティは、巨大な集金装置として働きはじめる。

具体案

たとえば次世代の「アイドルマスター」は、 各アイドルに国家元首になってもらって、 オンラインで戦争シミュレーションを行う設定があったりすると、面白いと思う。

プレイヤーは、兵士として各アイドルの国家に加入する。武器は現金で購入できて、 いい武器を持っていると、戦いはそれだけ有利になる。

ゲームの目標は、自分の名を上げるなんて個人的なものではなくて、 自分が支持したアイドルが元首を務める「国家」を勝たせること。 戦いの勝敗は、個人が支払ったお金の量と、 そのアイドルに入れ込んだユーザー、「国民」の数が決する。

国家は公共物。対価を多く支払って、味方を勝利に導いたプレイヤーは 「勇者」として称えられるし、ニコニコ動画で「参加兵士募集」の広告動画を作る職人とか、 大陸間弾道弾みたいな超高額兵器を購入するための募金活動などもまた、 コミュニティからの賞賛を受けることになる。

コミュニティ内での「勇者」の行動、職人の行動というのは、 つまるところ全ては会社の利益につながる消費活動なのだけけれど、 コミュニティの内部にとどまる限り、全ての消費活動は他者からの賞賛として正当化されるから、 利益は上がるし、ユーザーは消費を止めないし、 自ら広告を作ったり、参加者を増やす努力をしてくれるはず。

行動の対価は、査定不可能なものでなくてはならない。実世界のお金で買える「階級」や 「称号」などには意味がなく、特定のアイドル国家に対して消費を行うこと、それ自体が価値をもつ。

「こうすれば元首=アイドルが喜ぶ」、「これを買って戦いに勝てば、きっとみんなが喜ぶ」、 こんな公共幻想こそが、消費を維持する原動力となる。

コミュニティ創造による囲い込みと、その中で認められる「公共」の実装とが大切なのだと思う。

コミュニティに参加するときには、そこには昔ながらの反応エネルギー、 「購入の恐怖」があって、触媒としての広告の役割はやっぱり残るはずなんだけれど、 ネットワークの匿名性というものは、あるいはそんな触媒の助けなんかなくても、 ユーザーの興味を引っ張るインフラの存在だけで、案外上手くいくような気がする。

企画運営を行う「中の人」を利するユーザーのあらゆる振る舞いが、 「神」だとか「勇者」だとか、「信心深い」だなんて周りから賞賛される、 昔ながらの宗教組織が実装、運営してきたそんな仕組みが、これからきっと成功する。

2007.11.02

終了判定の問題を考えている人がいた

IHARA Note というblog の紹介記事。 以下は全て、リンク先blog 記事の抜書きと、自分の感想。

指摘されてしまえば当たり前のことなんだけれど、 終了条件が提示されていない問題は解くことができないし、 解決を求められる世の中の問題の多くは、「解決」の定義であったり、 解決の程度を評価するための「ものさし」なんかも、回答者が自ら 用意することを求められる。

「全部自分で用意して下さい」なんて教えてくれる人は少なくて、 たいていの場合は「何とかしろ」とか、もっと意地悪に「頑張れば何とかなる」だとか。

そんな「問題の終わらせかた」について、ずっと考察おられる研究者がいた。

IHARA Note

研究とは「未知を既知にする仕事」

研究という仕事は、「未知のものごとを既知にする手段」 についての具体的な方法と定義されている。

研究の始まりは、まず「未知のものごと」を見つける作業である。 次に、「どうやったら既知となったことになるか」を考える。 この定義をしっかりしておかないと、どこに突き進んでいけばいいのかが分からなくなる。 IHARA Note そもそも研究って何?

「問題が解けるのかどうかを判別する能力」というのは、 小学校の算数でいえば、得体の知れない形の図形が与えられたときに、 その面積が求まるのかどうかを判定する能力に相当する。 つまり、ほとんどの人は研究ができない。(原文改変) 研究室にほしい人材

工学畑の研究は、技術の受け手とのコミュニケーションが欠かせない。

コミュニケーションを行うためには、興味を持って、それを分析した上で評価して、 さらに「未知が既知になった」条件を自ら見つけて、問題をそこに帰着させる能力、 すなわち研究者としての資質そのものが問われることになる。

「あなたの大好きなものごとについてその魅力を大いに語ってください」 この質問によって見ようと思っているのは以下のような能力である。 もしも教員になったらこんな面接をする

  • 好きなものがあるかどうか。何に対しても興味を持ったことのない人は、 研究に対しても興味を持てない
  • 魅力を語ることができるかどうか。魅力を語るためには、 その対象を多かれ少なかれ分析しなければならない
  • 何かを語って伝えることができるかどうか。コミュニケーションが 成り立たなければ研究手法を教えることができない

未知問題の物差しは自分で作る

評価を行うためには、評価の手段と、それを数値化する手段を持たないといけない。

役に立つ教育を受けた人が本当に幸せになれているのか、誰か測ってくれませんか?

いい学校を出た人が本当に幸せになれるのか。どうやったら幸せになれるのか。

「幸せ」みたいな測定不可能なものを目標にした問題は解答することができないし、 「幸せ」を、何か別のパラメーター、文中では学校ごとの自殺率みたいな数字で評価しないと、 それを問題化して論じられない。

「勝つ」とか「いい手」なんかも、本来は測定不可能な問題。 測定不可能なものを測定可能なものへと帰着させるために、 将棋プログラムのボナンザは、六万局の棋譜から「学習」を行ったのだそうだ。

「ボナンザは六万局を全く暗記していない」と書いたらかなりの人が驚くことだろうと思う。 (中略)読んだだけでは将棋は指せない。読んだ結果が「善くなるのか」「悪くなるのか」が 分かって初めて指し手を決めることができる。そして、この「採点表」を作るためだけに 「六万局」を使用している。「六万局」は「採点表」に化けたのである。 「ボナンザVS勝負脳」を読む

ボナンザのすごさ、あるいは将棋プログラムの強さというのは、 「いい手」を打ち続けるという問題の「いい手」というパラメーターを、 実際に数値化して評価することに成功した部分にあるのだという。

終了条件の設定について

実力は水準に達していないのに、周囲のノートを写したり、コミュニケーションやら、 人間関係やらを駆使して卒業していった学生のことを回想して、中の人はこんな評価をしている。

周りを見ると、体裁だけをとり繕ってほとんど実利をとらない人が多い気がする。 むしろ、全力で「私は馬鹿です」と宣言して実利をとりにいってくれた方が好感が持てる。 ときと場合によるとは思うが、だいたいの場面で私はそう感じる。 卒業式の日に言われた言葉

これは終了条件の設定問題なのだと思う。

「ただひたすらに勉強すれば、きっといい結果が返ってくる」。こんなことを考えて ひたすらに努力する行為は、果たして本当に「努力」なんだろうか?

そもそも「問題が解決された」と言える条件とは何なのか。

手持ちの道具、自分の実力を使用した範囲で、その問題を解くためには何をすればいいのか、 まじめ一本やりで勉強した「実力のある人」と、足りない実力を人間関係で乗り切った人と、 果たしてどちらがまじめに「問題を解いた」と言えるのか。

中の人自らもまた、博士号を取るときには、最初に「問題終了の定義」を探したらしい。

博士号を取るためにまずやるべきことなのは、自分の専門領域の中で、「よくあるテーマ」かつ 「査読者受けのよいパターン」を満たしている「海外の論文」を探すことなのだという。

よくある「博士の学生が論文を通せなくなるパターン」は、 学会誌に偉い人が書いているような「自分の信じた道をひたすら進め」と いう感じの言葉を真に受けて学会の空気を読まなくなるというものである。 これをすると、独創的な研究はできたとしても論文は一切通らなくなる。 博士号の取り方

「博士号を取る」という問題は、要するに「海外の論文雑誌に一定数の論文を掲載してもらう」 ということなのだという。この条件に達するために、今度は海外の雑誌に載せるやりかたを探す。 それが分かれば今度は…という流れ。

未知問題でまずやらなくてはならないことは、終了条件を定義すること。 終了条件が決定できて、そこではじめてその問題を解決する道筋が見えてくる。

終了条件が示されない研究には「時間がかかる」

多くの学生にとって、研究は「つまらない」。 何故つまらないのかを問うた答えの一つが、「ぱっと終わらせられない」 という返事であったのだという。

なぜ、ぱっと終わらせることができないのか。それは、終了判定のレベルが高いからである。 例えば、現在の常識ではあり得ない話ではあるが、一週間頑張れば結果がどうであれ 卒業させると言えば、頑張るのではないだろうか。 鍵は「結果がどうであれ」という部分である。 ほとんどの研究室には、「終わらないかもしれないからやる気になれない」 という学生への対処法が存在しない。それどころか、そういった学生を サボっているだけと見なす傾向にある。 学問の閉鎖性と「ポップリサーチ」

ごく一部の、あるいはたぶん「優秀な」研究者の人達は、そんな研究を面白いと感じてしまう。

塾長は、(レポーターの)太田光に「疑うことは大事です」と何度も言っておきながら、 学問の面白さについては疑っていないようだった。 少数の人たちが、無根拠に学問を面白いものと決めつけている。 そして、研究室では学生たちに「面白いのだからもっと頑張れ」と苦行を強いている。 その上、頑張れない学生に対し、なぜ頑張れないのだろうと首をひねりつつも、 そこで思考を停止させている。 学問の閉鎖性と「ポップリサーチ」

  • 終了条件が見えない問題に対して本能的にためらう学生
  • 終了条件が未定義である問題に対して苦痛を感覚することができない研究者

「未知の問題に答えを出す」研究者としての立ち位置は、 果たしてどちらが正しいのだろう?

結局、時間の問題というのは、終了判定の問題である。 研究の典型例は、 未知の問題を探し未知の問題を解くというものであり、この研究の方法論が覆らない限り、 おそらく「研究には時間がかかる」。

作者の人は音声認識畑の工学研究者で、医療とは縁もゆかりも無い人だけれど、 「未知の問題を解決するやりかた」というのは、分野を越えて参考になる考えかただと思う。

ためになる話がたくさん書いてあった。

2007.11.01

時を止める人

100年以上生きている人がいる。

寝たきりになって、濃厚流動食を流し込まれてやっと「100」に到達したのではなくて、 100 年という時間ですら、単なる通過点にしかすぎないような人。

どこの病院にも、たいてい1 人ぐらいはそんな方がいて、例外なく異様に元気で、 ちょっと見た目は80歳ぐらいにしか見えない。頭もしっかりしていて、普通に会話するし、 杖も使わず歩いて外来に来る。

代謝速度と長寿

自分が受け持っているそんな超高齢の人は、 今年の3 月に転んでぶつけた頭の怪我が、まだ治らない。

傷はもちろん塞がっているし、痛くも何ともないんだけれど、皮下にできた出血が吸収されない。 もう8ヶ月以上たっている傷なのに、見た目はちょうど、治って1ヶ月位に見える。

大学の消化器内科でフォローしている超高齢の患者さんは、4 年前に胃癌が見つかったのだそうだ。

高齢だから、手術や化学療法は行わないでフォローしているのだけれど、 癌はごくごくゆっくりと成長するだけで、転移もしないし、もちろん何の症状もない。

同業者でのおしゃべりでは、こんな「時を平気で越える人」の話題が時々あがる。

結論はそのときによりまちまちなのだけれど、このあいだの結論は、 超高齢者というのは、細胞のターンオーバーが極端に遅いんじゃないかなんてところに落ち着いた。

たかだか2 例の経験にしかすぎないし、細胞の交代速度なんて、一体何をもって測定すればいいのか、 部分に関する経験だけで、それで全体を代表させていいものなのか、 そんなものはもちろん分からないんだけれど、何となく腑に落ちた。

生体の「回転数」

生命は動的平衡なのだという。

生命の見た目は常に同じだけれど、それはあくまでも平衡状態を保っているだけであって、 個々の細胞は古いものから脱落して、新しい細胞がそこを置き換える。 生命は常に入れ替わりを続けているけれど、 離れて見れば、そこにはいつも同じ形。

部分は常に入れ替わるけれど、全体を構成する形はいつも一緒。こんな性質というのは要するに、 生命を取り巻く苛酷な環境で生き延びていくために、動物が身につけた適応の手段。

「動的」であることは、恐らくは柔軟性を生み、外乱に対する抵抗力を増す。犬みたいな 哺乳類でも夏冬で毛皮が生え換わるし、トカゲなんかは、手足が欠損するような怪我を負っても、 しばらくすると元に戻ったりする。

細胞の入れ替わりの激しさ、「回転数」に相当するものには、恐らくは生物ごとの最適値が存在する。

小さな生きもの、苛酷な環境で生き延びる生命は、トカゲみたいな「高回転」を維持しないと 環境の変化に対応できない。環境が穏やかだったり、 あるいはメタセコイアみたいに巨大化することで、 局所の環境変化を相対的に無視できる程度に小さくしてしまえるのなら、 細胞を「ブン回す」メリットというのは小さくなっていく。

環境の変化は、本来なら10万年単位のイベント。ところがこの1000年ぐらいの間、 恐らくは人間を取り巻く環境だけは劇的に穏やかになってしまって、 人間が持っていた環境変化に追随するための能力、 細胞の「回転数」は、もしかしたら環境に対してオーバースペックになった気がする。

人間はもはや、寒くても毛皮を生やす必要はないし、皮膚が破れた程度の怪我ならば、 バンドエイド1 枚貼れば、当面は何とかなる。アフリカのジャングルではあるまいし、 野生動物ほどの治癒能力は、少なくとも文明国で暮らす人間には必要ない。

恐らくは、回転数が高いことには欠点もある。

半ば都市伝説だけれど、哺乳類が一生のうちに打てる心拍は、種族を問わずに一定で、 大きな動物の心拍はゆっくりで、ネズミなんかは極めて早い。寿命はそれに逆比例して、 大型動物は長命だし、小さな動物の寿命は短い。

「動的」であることを維持するには、おそらくは莫大なエネルギーが必要で、 情報を転写して、細胞を分裂させる過程には、常に一定の割合でエラーが混じる。 転写に失敗した細胞は癌化してしまったり、あるいは古い細胞が欠落した穴を埋め切れなくて、 脳であったり心臓であったり、様々な臓器の機能低下を招いてしまうかもしれない。

時を止めた人

ごく漠然とした印象として、元気な超高齢者の人というのは、 80才頃のどこかの時点で、「動物としての時」を止めてしまって、 以後は「植物の時」を生きているイメージを持っている。

もちろんみんな、動くし喋るし考えるんだけれど、その人達の構造は動的ではなくて、 むしろ極めて静か。その代わり外乱には極めて弱くて、骨折ひとつで何故だか亡くなってしまったり、 感染拾っても本当にぎりぎりになるまで症状出ないから、入院した途端に「眠るように亡くなって」しまったり。

みんなの興味は再生医療にむかっていて、 研究者はトカゲの再生力から何かを学ぼうとしている。 細胞のターンオーバーを極端に早めて、人間の常識を越えた治癒を得るやりかた。

何となく、逆のやりかたもあるような気がする。 ある年齢を越えたなら、あるいは何か特定の機能をあきらめられるなら。

千年以上の時を越えた木は、たとえば折れた枝の一部が腐食していたり、 ヤドリギが山程くっついて、正常組織を食い荒らしたりするけれど、全体の木としてのありようは、 案外そのまま何年も変わらない。

感染であったり、腫瘍であったり、病気という外乱は、外乱それ自体が悪さをする要素とは別に、 生体がどこかの時点で「全面戦争」に舵を切って、一気に具合が悪くなる。

生体が、あるいは医療従事者が、それを「正常化しよう」なんて余計なことをしなければ、 あるいはもう何年間か、時間を作るようなやりかたもできる気がする。

もうずいぶん昔、意識障害のまま何年も経過している患者さんがいて、いつも喀痰からは 物騒な細菌が生えつづけているのに、抗生剤も何も使わないで、何年も安定した経過をたどっていた。

「あの人は何で肺炎にならないんだろう?」なんて、当時の仲間同士、首を傾げたものだけれど、 あるいはその人を支配する時間軸というものは、その理由を説明してくれるのかもしれない。