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2007.10.28

見られる自分となりたい自分

目線が人を作るのだと思う。

「こんな人間になりたい」なんて人物像はそもそもありえず、「こうなりたい自分」というのは 「こう見られる自分」の形でしか存在し得ない。

自己というものは本来、他者との関係を通じて記述される何かであって、 それ自体単独では存在したり、議論の対象とすべきではないし、 ましてやそれを目標にしてはいけない。

「あなたはこんなふうに見える」という一言に対して、人はだからこそ抵抗することが難しいし、 他人から否定的な自己イメージを記述されて、そこにすかさず「こうすればもっと良くなる」 という考えかたに割り込まれると、もはやそれに抵抗できない。

オカルトに走った親方のこと

一時代を築いた横綱、貴乃花親方が、現役の時にタレントの宮沢りえと結婚していたのなら、 あるいは今みたいなオカルトじみた言動を繰り返すことにはならなかった。

全盛期、横綱はなんだか神聖なイメージを持った存在で、否定的な報道をしよう ものなら確実に報道した側が責められる、そんなイメージ。変なイメージのついていない女優と あのまま結婚していたのなら、たぶん横綱は、あたかもロイヤルファミリーのような 目線を浴びつづけて、いまでももてはやされていたような気がする。

向かうところ敵無しだったあの頃、たぶん本人の自己イメージと、マスコミが横綱に抱く目線は 一致していて、ある種の自己肯定感は、きっと本人の行動をも規定して、模範的な、 スキャンダルとか、間違ってもオカルトなんかとは無縁の存在に横綱をつなぎとめていたはず。

おかしくなったのは、女優と分かれた後の頃から。

アナウンサーと結婚して、横綱には何となく薄汚いイメージがまとわりついて。 「あの人はああいう人なんだ」という目線が報道内容を決定して、 大成功しまくっていた当の本人は、きっと自己イメージと報道との解離に苦しんだ。

認知の不協和は、合理的な説明を要請する。

そこに「合理的な説明」を割り込ませたのがオカルト畑の人達。 周囲の目線が敵に回って、オカルトの人達だけが味方について。

目線はますます本人を「ある形」へと削りこんでしまった。

マスコミ的な権威というもの

スポーツ選手とか、あるいは企業経営者とか。

社会的にも経済的にも大成功して、その周囲にも○○大学教授とか、賞を取った作家だとか、 肩書きに不自由しない人達がゴロゴロしているのに、怪しげな方向に走る人が時々いる。

やっぱりきっかけは、目線の解離。自分はこうなりたいのに、 伝統的な「世間」、マスコミが代表となるそんな人達は、自分の思いとは違った目線。

「敵」はきっと、マスコミから始まって、西洋医学や大学教授はもちろん、賞を取る作家とか、 「普通の」商売をして成功した経営者とか、そのうち全て一まとまり。

マスコミに叩かれた有名人というのは、あるいはそんな「世間」や「体制」を構成する人達を、 一つにまとまった敵、「真理を僭称する怪物」とみなしてしまって、 しばしばそんな体制に反発する人達を味方として頼る。

霊能者とか整体、医学に対する心理学の立場、ある種の東洋医学者、伝統的でない宗教家、 そんな「反体制」の人達は、あるいは「世間」的な価値観に対抗するものとして、 目線の解離に悩む人達、報道に叩かれた芸能人とか、 スポーツの有名人なんかを引き寄せるのかもしれない。

「絶対の一」を目指す弊害

「救う」なんて言葉を未定義に使ってはいけないのだけれど、オカルトに走った芸能人とか親方とか、 世間的な価値観から見ると、どう考えても幸せにはなっていなくて、その人達の不幸せの真横で、 利権を享受してぶくぶく太る金髪のカウンセラーは、その膨らんだ腹を隠そうともしていない昨今。

世間的な、伝統的な価値観を作ってきた業界の人達は、 たぶん「まとめて一つ」に括られる恐怖に対して、 もっと自覚的になるべきなのだと思う。

大規模臨床試験を繰り返して、ただ一つの正解へと収斂してきた この10年ぐらいの西洋医学の進歩は、 福音であったと同時に、ある種の呪いを生んだ。

患者さんと喧嘩になったり、あるいは治療のやりかたが不満足であったとき、 患者さんが「こいつらダメだから他に行く」決断を下そうとしても、西洋医学の領域には、 もはや「他に行く」場所が見つからない。誰かが喧嘩になると、もはやすべての医者は敵。

そんな人達の引き受け手になっているのが、アガリスクみたいなキノコ商売だったり、 いきなりカルトに走ってみたり。この分野に投じた時間も資本も桁外れなんだから、 そんな人たちが病院に対抗できる治療手段を提供できるはずも無い。

たとえばプログラマの業界なんかは、面白い解決手段を提供している。

プログラム言語にはたくさんの種類があって、同じ行為を行うにしても、 異なる言語で記述する手段が常に複数用意されている。

ある人が、どこかの言語に裏切られたと感じても、同じ機能を補完する別の言語が控えていて、 プログラムは常にプログラムであって、まとめて敵対する何か、 真理を僭称する怪物には決してならない。

失敗した相手に「これは完全にエンジニアが無知で無能でクズ。アホでバカ。低脳でワーキングプア。」 なんて気持ちのいい罵声を浴びせても、お互い笑いながら手を取って、それでも前に進んでいく。 言語ごとに違う哲学、違う思考回路を持ちながら、お互い喧嘩しながら共存する、そんな文化がとても うらやましく思える。

たとえばテレビに代表されるマスメディアは、NHKからテレビ東京まで、 複数のチャンネルが最初から実装されているのに、喋る内容はほとんど同じで、 バックグラウンドの哲学も、素人目には区別ができない。

「完璧な一」に収斂する圧力の正体を考える必要があるのだと思う。

喧嘩を繰り返しながら、 それでも違った文化が共存しながら前に進んでいく業界がある横で、一つの完璧な解答を 目指しながら、歩みがどんどん遅れていく業界というのがたしかにあって、 そんな業界はたぶん、もはや「目線のずれ」に悩む人を受け止められない。

幻想としての「こうあるべき自分」

恐らくは「自分はこうあるべき」という目標を設定してはいけないのだと思う。

それはマスメディアが提案する理想の家族像であったり、医師が提案する健康であったり。

大学に進学した直後、いろんな分化や価値観が衝突して、 「こうなりたい自分」と「こう見られている自分」とのギャップが 可視化される場所というのは、伝統的にカルトの草刈り場となっている。

実在するのはきっと、スタイルとしての「こう見られている自分」だけなのであって、 「こうあるべき自分」を仮定して、それを目標にしてしまうと、恐らくはそこが セキュリティホールになって、そこを通じて、他人に自意識を操作されてしまう。

オカルト畑の長い人達というのは、たいていの場合、 オカルトそれ自体にはあんまり興味の無さそうな人が多い。

美輪明宏御大なんかは、恐らくはオカルトが好きなのではなくて、 「オカルトが好きそうに見える私」をスタイルとして 演じているだけで、「こうなりたい私」なんてものは持っていないか、あるいはそれすらも、 スタイルとして「私を持った私」を演じているのだと思う。

ネット文化というのは、「あなたはこう見える」をどこからでも突っ込める、 カルト宗教を主催する人にとっては、ある意味極めて都合がいい場所。

昔からの罵倒合戦に慣れている人達は何とも感じないのだろうけれど、 ネット初心者、あるいは若い人達が集まる場所で、意図を持った人達が複数でチームを組んで、 「あなたはこんなふうに見える」を否定的に突っ込んだ上で、 リーダーが「こうすればもっと良くなる」を実行したら、カルトへの取り込みはかなり 容易に実現するような気がする。

目線に自覚的になるべきなのだと思う。

どうなりたいのかではなく。 誰から見られたいのか。 どう見られたいのか。 どう見られているのか。

2007.10.26

ルールの実装とソートの実行

ルールを実装して、それを遵守させるコストは、たぶんどこかの瞬間で、 ソートを実行することで、自発的にルールが立ち上がるコストを上回る時が来る。

人がルールを作り、それにより序列が決まるのではなく、ソートを行い、 出来上がった序列がルールを作る、そんな時代が来るような気がする。

医療訴訟の問題

病院でおきるトラブルのほとんどは、たぶん医者側が全面的に悪い。

Harvard Medical Practice Study という、医療訴訟は本当に患者救済に役立っているのかどうかを 論じた研究がある。本当に過誤があったケースでは、訴訟に至ったり、賠償金の支払いに 至ったケースは少なくて、むしろ過誤が無いケース、医療者側から見てミスが無い、 そんな事例のほうが訴訟になって、賠償金の支払いに至っているケースが多かった。

一見矛盾したこんな結果を説明するのは、医療者側が「言わなくてもいい一言」を言ってしまったとか、 単純に主治医の印象が悪かったとか。訴訟を起こすきっかけになるのは医師に対する印象であって、 治療の結果そのものではないという結論。

裏を返せばたぶん、医師がサービス業的な立場を徹底しさえすれば、 ほとんどの場合、過誤の有無にかかわらず、訴訟のことなど気にしなくてもいい。 訴訟を怖がって、みんなハイリスクの科を避けてみたり、防衛医療に走ったり。 笑顔を絶やさず、清潔な白衣を着て、間違ったときには素直に謝れば、 訴訟なんてきっと怖くない、はず。。。

問題なのは、挨拶を送れば罵倒を返して、頭を下げれば土下座を要求するような人たち。 要求に際限なくて、何をやってもトラブル必発。この人達相手に「素直に謝った」りしたら、 その後大変なことになる。

「間違ったら謝る」。こんな単純なルール一つとっても、 ルールによって能力以上の利権を得る人がいて、 その人達に対策しようとルールを変えると、 今度はそれ以外の人たちが不自由極まりないことになる。

みんなが不満を持つ、不完全なルール。たいていの場合、 問題なのはルールそれ自体ではなくて、むしろルールにより不可視化された序列のほうにある。

序列を隠蔽するルール

ポーカーみたいなトランプゲームで、カードの一部を開示しながら勝負をすると、 能力の差がもろに出てしまう。

能力が高い連中は、開示するカードで相手にブラフを仕掛けたり、相手が開示したカードから、 相手以上に多くの情報を読んでしまったり。高校生の頃、こんな「オープンルール」が 流行ったことがあったのだけれど、ある種の頭のよさを持った人、 東大あたりに余裕で現役合格するような連中は、こんなルールになると無敵だった。

要するに、受験勉強で有利な能力と、ある種のトランプゲームで有利な能力とが 一致していて、ルールをよりオープンにすることで、個人の能力差が勝敗として 可視化されただけなのだけれど、それがあまりにも極端で、 ゲームとしてはほとんど成立しなかった。「頭が悪い」側は、もう何やっても勝てないから。

人が作ったルールというのは、たいていの場合、 もともとそこにあった序列を隠蔽するために作られる。

ポーカーゲームは、相手の手札が見えないからこそ、多少の能力差がある相手とでも、 一緒にゲームを楽しめる、そんなバランスになっている。

ルールというのは本来、能力序列の両極端の人が得するやりかた。 極めて高い能力を持った人と、そのルールの正当性を主張することで、 能力以上の利益を得られる人と。

序列の中間層、そこそこの能力はあるけれど、最強を自称できる程には強くない、 そんな人達は、ルールが施行されることで、たいていの場合割りを喰う側に回される。

「透明な政治」の先にあるもの

いろんな物事をオープンに進めていくと、ある種の頭のよさが決定的な差になっていく。

ポーカーみたいな単純なトランプゲーム一つを取っても、カードを半分ぐらい見せてしまうと、 もう根本的な技量差がひっくり返せない。「見せ札」を場に晒して、あとは理詰め、理詰めの 力技をやられると、能力の低い側にはできることがなくなってしまう。

ルールの透明化、密室談義の廃止は結構なことだけれど、たぶんそれが実現したら、 たとえば国会議員の人たちなんかの明示的な序列、「政治能力」みたいなパラメーターで のソートを行った名簿の作成が可能になって、「能力が低い」側の人は、能力の高い人には 絶対に勝てなくなる。

密室で何かやること、隠すこと、談合することというのは、 もちろん倫理的には「悪」とされているけれど、たいていの場合、 それはむしろ弱者救済に働いていることが多い。

本当に「強い」人にとっては、むしろオープンルールになってくれたほうが、 確実に勝てるぶんだけ、見返りが大きかったりする。談合廃止とか、1 円領収書とか、 ルールの見通しを良くする改革というのは、ルールの利権を享受してきた人達が、 今度は一番割りを喰う側に回るやりかた。

みんなが反論できないソートの結果は、あるいはルールを不必要にして、 議論は政治から放逐される。正しいパラメーターによる評価が生んだ序列には、 だれも反論できないはずだから。

ルールのコストとソートのコスト

社会が大きくなっていくと、ルールを遵守させるためのコストは高くなる。

ルールの利権を要求する人は増えるし、ルールを破ることによって失うものは、 社会の大きさに逆比例して減っていく。ルールはますます複雑になって、 ルールに不満を感じる人の数も増えていく。

ルールに対する不満は、ルールのオープン化、序列の可視化を必然的に要求する。

ルールが隠蔽していたものが公開されて、「ルールの利権を不当に得ていた人」が明示されると、 そんな人達はゲームの場から放逐されて、ルールはシンプルになり、中間層は相対的に得をする。

社会が大きくなって、人と人とをつなぐコストが減れば、あるいはどこかでルールが時代遅れになって、 序列の可視化を介した自発的ルールというものが主流になるかもしれない。

たとえば病気の重症度と、その人が病院から受けたサービスとの比を取って、 その序列を誰からも見える形で明示できるなら、たぶん「欲張りすぎない」なんてルールを いちいち作らなくても、場には勝手にルールができる。

たとえば「医師が患者のために取ったリスク」と、「その医師が患者から受け取る対価」との 比をとって、すべての医師を序列化すれば、恐らくは地域医療の崩壊とか、医療費大赤字とか、 産科崩壊の問題なんかは自然に解決する。誰がずるして楽してるのか、たぶんすぐに分かっちゃうから。

「人は公平」。社会を維持する最も基本的なルール。

こんなルールもまた、それがルールである以上、 何かを隠蔽する機能を持って、そのルールから利権を得る人を生む。

公平を疑うところから始まるんだと思う。

2007.10.19

正しい道と広い道

たぶんこれからは、自分に出来ることを分かりやすい一言で表現する能力が 問われるようになるし、「分かりやすい一言」を自ら提示できない技術や個人、あるいは集団は、 たちの悪い第3者からのレッテル貼りを避けることができないのだと思う。

2兆度の火の玉の話

2兆度の火の玉が作れたら、何に使う?

小学生集めて、こんなことを聞いてみれば、素直な子なら、「学校燃す」とか「何か暖める」とか。

「もちろんクォーク・グルーオン・プラズマの生成を試みます」とか、 「あぁ、格子ゲージ理論の話ですね」なんて答えを返す小学生がいたら、 その子はきっと、将来歪む。

超高温を実現するための技術というのは、宇宙の起源を解明する人達から要請された ものなのだそうだ。

技術が生まれた正しい道筋は、宇宙の起源に関する議論があって、 ビッグバン仮説が生まれて、誕生直後の宇宙の状態に関する議論が生じて。

どんな仮説が正しいのか。ビッグバン直後の宇宙を再現する需要が生じて、 結果として超高温、粒子加速器を用いた実験手法や、それを実現するための技術が要請されたのだという。

技術の最先端、現場で働く人達からすれば、宇宙論やクォークの話なんて当たり前以前、 そのあたりの知識がない人間が、そもそも加速器に近づくなんてありえない話なんだろうけれど、 こんな「正しい道」はもしかしたら、小学生に興味を持たせて、 将来の物理学者を増やすには難しすぎるような気がする。

宇宙の話に興味を持てなかったそんな子供は、たとえば将来マスメディアに入って、 理解不可能なそんな技術を「有害無益な代物である」と総力挙げてブッ叩く側に回るかもしれない。

「広い道」としての「暖める」

「正しい道」を、たとえば「宇宙論語れない奴は、そもそも高温語っちゃいけないね」なんて やりかたとするならば、「広い道」というのは、「ものを2兆度まで暖めるにはどうする?」なんて 問いかけをする。

まずはやかんでお湯を沸かす。100度を越えると水が蒸発するから、何か蒸発しにくい物質を探す。 「蒸発とはどういう現象なのか?」という疑問が出たら、それを解説しながら、蒸発しにくい 物質と水、何が違うのか、どうやって探すのかを話す。

やかんが1500度を越えてくると、今度は鉄が溶けはじめる。今度は「溶けないやかん」を 探す必要が生じてくる。ガイド役の物理学者は、「溶解とは何か?」を解説しながら、 溶けにくい物質を一緒にさがしたり、それがどうして溶けにくいのか、 真っ赤になったそんな物質を見せながら、また解説する。

温度が2000度を越えたあたりで、今度はガスレンジの限界が来る。酸素バーナーを使ってみたり、 あらゆる高温グッズを投入しても、たぶん4000度ぐらいに「燃焼の限界」があって、 今度は「もっと熱く燃える物質」を探す必要が出てくる。燃焼とは何か、「熱い」とは そもそも何なのか、そんなことを喋りながら、そろそろ電磁力の話題が混じってくる。

1万度までの話。1兆度までの話。2兆度に達するために必要な技術。

宇宙論を越えて2兆度に到達するのは難しいけれど、たとえば小学生相手に「どんどん温度を上げる話」を はじめて、温度が上がるたびに生じる壁を一緒に越えながら2兆度まで引っ張れるなら、 たぶんそこまでついてくる子供の数は、宇宙論の壁を越える子供の数より多くなる。

たぶん、単純に「暖めたい」から物理をはじめた学者なんていない。こんな道のりは正しくもなんともないし、 燃焼とは何か、溶解とは何か、熱を閉じ込めるにはどんなやりかたが考えられて、 なぜ今は電磁力を使うのか、そんな「なぜ」に答えるための知識なんて、「正しい道」から見れば 不必要なもの。

学者が歩んで、やっと到達した山の頂点。そこに至る「正しい道」を説くことに比べれば、 頂上につながる「広い道」をさがしたり、そんな道を案内することは面倒で、 それは「正しさ」からは遠い行いかもしれないけれど、いろんな方向から来た登山客に対して、 その人にとっての「広い道」を示せるガイドは、きっとその山に関する本当の専門家なのだとも思う。

「広い道」の見通しの良さ

技術の山頂、「それで何ができるのか」を表現する一言は、 山を頂上まで上った人が自ら定義しなければならない。

山を地上から眺めたところで、もしかしたら頂上は雲に隠れて見えないかもしれないし、 頂上から見た風景のすばらしさというのは、頂上に立たないと絶対に説明できない。

山登りの道は険しいし、あるいはその道は、今地上にいる人達の反対側に入り口があって、 山に登るには、まずは山の裾野をぐるっと半周、長い道のりが待っているかもしれない。

頂上にいる人達が、たとえば下界の住人にむかって「残念だけどその場所全然違うから。 反対側に回らないと案内できないよ」なんて声をかけたら、下界にいる人はたぶん、 そもそも山に登ることをあきらめるだろうし、「あんな山、下らないよ」なんて感想を、 「山から帰ってきた者」の声としてみんなに伝えるだろう。

山の頂点に立った人というのは、自分にできること、自分達が達成したことを一言で、 それも見通しのいい言葉で表現できないと、「山の高さ」やすばらしさといったものは、 誤解を受けて伝わってしまう。

粒子加速器に関する技術の正しい表現は、「宇宙の起源を解明できる」。 これは正しい一言であったとしても、それだけではたぶん、山のすばらしさは伝わらない。

大きすぎるものは測定できない。「宇宙の起源」という正しさは、 たぶん初心者の想像力には大きすぎて、山を上ろうとする人にとって絶壁として立ちふさがる。 宇宙論を越えた先、その起源を解明する面白さとか、 加速器に投入された技術のすばらしさを体験する前に、 多くの人が「宇宙ヤバイ」であきらめてしまう。

「2兆度の火の玉」という表現は、正しくもなければ技術の全貌を表現しているわけでも ないけれど、たぶん頂上までの目線をさえぎるものが少なくて、いろんな人の興味を保ったまま、 その人達を頂上まで引っ張れるような気がする。

「広い一言」が持つ力

売春と犯罪告白に特化したソーシャルネットワーク、「mixi」がここまで急成長した原因は、 「友達が作れる」という一言の分かりやすさに尽きる、と看破した意見を読んで、 なるほどなぁと思った。

mixiの魅力は「友達」なんかじゃなくて、人間の最も面白いところ、弱者差別とか嫉妬とか、 同調圧力の強制であったり、建前使った足の引っ張りあいであったり、そんなドラマを お腹いっぱいになるまで見せてくれること。「醜い人間の草刈場」という正しい一言では、 残念ながらmixi を見通しよく表現するには弱いかもしれない。

世の中が多様化していく流れの中で、たぶん技術者に許される表現はますます短くなって、 ちょっと前まで論文一本、せめてレジュメ一枚の分量が許された説明も、今では「一言」。

たぶん一行ではもう長すぎて、技術を知らない誰かがもっと「分かりやすい」一言説明を貼り付けて、 世間の評価はそのラベルによって決められてしまう。

自分に出来ることを一言で表す能力、 頂上までの見通しがいい、いろんな人の想像を刺激する一言で表現する能力が、 これからは全ての技術職に問われるのだと思う。

「2兆度の火の玉作れるよ」とか。「友達ができるよ」とか。「テレビより面白い物が見せられるよ」とか。

医師にできることは? 自分にできることは?

田舎の一般内科医に「これができるよ」といい切れる一言は、何なのだろう?

2007.10.17

歪む時空のこと

「腕組みしたお父さん」問題

都市部では昔から、うちみたいな田舎でも、この数年増えてきた若いお父さん。

朝お父さんが出社して、お昼に子供が熱を出す。夕方遅く、お母さんが風邪ひきの子供を 近所の病院に連れて行って、夕方すぎて、まだ熱が下がらないから、夜10時ごろに外来へ。

「午前中から熱があって、近くの医者に行ってもろくに診察してくれなくて…」なんて。

前医を罵倒するのは何かの免罪符になっているところがあって、 夜中に子供さんを連れてくるお母さんの人称代名詞は、必ずといっていいほど「医者」であって、 間違っても「病院」とか、「先生」なんて言葉は夢のまた夢。

本職の小児科医がみて様子をみた子供さんに、その4時間後に診た内科医が できることなんてあんまりなくて、 返事はいつも「もう少し様子をみましょう」。

夜11時。働いて、少し酔っ払ったお父さんが帰ってみれば、朝元気だった子供がぐったりしている。

認知の不協和は、合理的な説明を要請する。お父さんは、 「医者がサボっていい薬を出し惜しんだから うちの子供が苦しんでいる」なんて合理的な説明考え出して、真っ赤になって病院にくる。

夜の12時。救急外来が一段落して、4時ぐらいから来る眠れないお年寄りの相手する前、 少しだけ休もうかななんて、当直医が考える頃。

お父さん達は、しっかり見張る。真っ赤な顔で腕組んで、眠い目の医者を上から見下ろす。

雰囲気的に「外でお待ちください」なんて言ったら殴られそうで、もう涙目になりながら 診察して、「やっぱりもう少し様子をみませんか…?」なんて、不祥事ばれた官僚答弁の気分。

「東京の家族」問題

うちは地方都市。東京はそこそこ遠いけれど、列車を使えば休みを利用して 見舞うことができるぐらいの距離。

わざわざ東京から見舞いにきました」

どういうわけだか、外来中とか、検査中とか。もちろん帰りの電車は待ってくれないから、 遠くから来た人達は、「今のこの場で」医者の説明を求める。

重たい話。チューブ栄養が必要だとか。自宅で引き取るか、施設探すか考えて下さいだとか。

東京の人達はびっくり。「去年はこんなじゃなかった」だとか、 「親族が交代で診ることになっていたのに…」なんて、その「親族」は自分達だけ 安全地帯だったりして。

やっぱり出て来るのは認知の不協和。

東京の人は理解が良くて、目の前の医者責めてもいいことないのはよく分かってるから、 叩く相手は自分の身内。

実家に寄って、東京に帰るその間際、「もっとちゃんとやれよ」だなんて、余計な一言。

これをやられると、その後で地獄をみるのは、やっぱり主治医だったりする。

歪む時空のこと

ずっと一緒にいる人と、毎日みる人と、年に2回ぐらいしか顔をあわせない人とでは、 もはや時空間が共有できない。

時間軸のずれを言葉で解決するのは難しくて、いくら説明したところで、 相手はもはや「あいつが悪い」で固まってるから、何を言っても屁理屈にしか聞こえない。

残念ながら、最も高いサンプリング周波数を持った人が、 必ずしも最も強い発言力を持てるとは限らない。

社会が忙しくなったのか、時間軸のずれはひどくなるばかり。

新興住宅地が近くにできて、子供を持ったご家族がたくさん増えてきた。 それはもちろんすばらしいことなんだけれど、どのうちもせいぜい4人家族で、 下手すると共働きで。

お父さんも、お母さんも、もちろん子供達も保育園も病院も、同じ時間軸を 共有している人達が誰もいなくて、ずれは大きくなるばかり。

「雄」としての強さを発揮する場所が、今の社会には病院ぐらいしかないのかなとも思う。

誰もが強さを表現したくて、でもそれには大義と安全とが必要で。

子供の健康、親の健康なんて正義。罵倒する相手にもまた、罵倒するに足る権威があって。 医者だとか、身内なんて無力なもんだから、叩いて噛まれて、 自分が怪我する危険も、まずありえなくて。

去勢が進んだ社会の中で、それでも強さを表現したい、「雄」になりたい、 家族に「雄である自分」を見せてやりたいなんて思いを誰かが持ったのだとしたら、 あるいはそれを表現するメディアとして、病院という場所が選ばれてしまったのかもしれない。

50もすぎた部長級の医師が当直していても、最近は「腕組みした自分より若いお父さん」に にらまれる機会が増えてきた。

みんな自分の仕事がしたいだけなんだけれど。

2007.10.16

流す会話と切る会話

おしゃべりには「流れ」というものがあって、流れている間、しゃべっている人どうしは、 お互いの立ち位置を歩み寄らせようと、お互いを探りあう。

流れが止まると、今度はお互いの査定が始まる。どちらの側がより論理的なのか。 どちらの知識がより正しいのか。

正しさゲームはお互いを不幸にする。 流れはできれば止めたくなくて、バックグラウンドではいろんなことを考える。

流したい時のやりかたとか。

上下の関係をはっきりさせる

お互いが「対等」という前提で会話を始めると、どこかで絶対に流れが切れる。

おしゃべりの流れも、水の流れと同じく、上から下への勾配に従って流れを作る。

たとえ社会的な立場が等しい相手であっても、たとえば年齢が上だとか、 その病気については相手のほうが専門だとか、何かしら理由をつけて「主」と「従」とに 立場を分けることを意識すると、会話がつながりやすい気がする。

相手から「上」を宣言されるのは不愉快なことだから、主従関係をこちらから宣言するときは、 たいていの場合「自分が従」を宣言する形になる。

おしゃべりを「切る」のが好きな人と、「流す」のが好きな人とははっきり分かれていて、 流す人というのは、おしゃべりを始めるときには相手の下に潜り込もうとする。

人工衛星のスイングバイにちょっと似ている。「主」に回ったほうは、 「従」の意見を聞いて、自らの重みで、その意見に勢いを加える役割。「従」の側は、 「主」の重さに勢いで対抗する。

会話をするとき、だからたくさんしゃべっているのは「従」の側であって、聞き役は「主」。

自分もまた、いろんな場所で、いろんな会話をするけれど、いつも喋る側。 どう思われているのかは分からないけれど、自己規定は常に「従」であって、 「主」に回ったことはほとんどない。

絶対に否定しない

相手の主題であったり、論理の流れや考えかたを否定してはいけない。 即興演劇の方法論に必ずでてくるやりかた。

たとえば遠くにいる猫を見て、「あれは犬だね」なんて相手が宣言したときに、 「いやあれは猫ですよ」なんて否定で返すと、会話が止まる。

即興劇で会話が止まると白けてしまうから、こんなときには「やあ、あの犬はニャーニャーうるさいですね」 なんて返しかたをすると、主題が膨らんで、会話が続く。

もちろん猫は猫だから、それを犬だと指摘した相手は絶対に間違っているのだけれど、 「猫ですよね。間違いを認めますよね。」なんて「。」を重ねると、最後には そのおしゃべり自体が「。」になってしまう。

猫に対して「犬」と定義されたら、今度は「ニャーニャー鳴く犬」に膨らませて、 相手が「間違った」と返したら、今度は「その誤謬を生んだ、あの猫の中にある犬要素」 について話題を振る。

「否定しない」を守るだけで、おしゃべりはそれなりに面白い方向に進む。

ねじれの位置を保つ

定義には原則論で返し、原則論に対しては自分の経験で返す。

相手の経験が例外的であることを指摘しようと思ったならば、 自ら信じるところの原則論を述べた上で、 その経験の特殊さを面白がってみせる。

議論は常に「ねじれの位置」を保たないと、流れが切れる。 相手が何か原則論をしゃべったとき、 自分がそれに反対する立場の原則論を展開すると、議論は止まる。

止まった議論から生まれるのは、結局のところ正しさゲームとか、 優越感ゲームとか。ゲームに勝ったところで、得られるものは「勝った」という事実だけ。 おしゃべりを通じて得られたはずの何かには、絶対に届かない。

チープデザインな歩行ロボットのこと

歩行する人間型のロボットといえば、本田技研の「アシモ」。 アシモは制御技術の固まりで、あらゆる関節にセンサーがついていて、 遊びのない、精密な部品で関節を作って、全てを制御することで、歩行を得ている。

人間の歩行というのはいいかげんにできていて、たいした制御を行っていないらしい。 関節の柔らかさとか、足の柔らかさ、あるいは地面の平坦さとか、重力という条件、そんな 「ゆるさ」を利用して、アシモに比べてはるかに低コストで、歩行を実現しているらしい。

デルフト大学の研究者は、ロボットにもそんな「ゆるさ」を 導入することで、アシモの歩行を低コストで実現した。

厳密な部品と制御の固まりであるアシモに比べれば、デルフト大学の歩行ロボットは 安っぽくて、なんだか玩具みたいな仕上がりだけれど、そんないい加減さ、 「チープさ」というのは、ものすごく魅力的に見える。

ゆるい会話の目的というのは、「アシモが歩く」という厳密な事実を相手に 認めさせることではなくて、むしろこんなゆるいロボットが歩けるような「路面」を、 お互いに共有することであったりする。

お互いが別の人間である以上、立ち位置の違いを埋めることはできないけれど、 路面の粗さであったり、傾きであったり、そんな感覚をある程度揃えることで、 恐らくはコミュニケーションに要するコストは劇的に低下する。 同じコストを使って、おしゃべりを通じてはるかに多くの成果を生み出すことができるはず。

デルフト大学のロボットも、あるいは人間も、たとえば水の中とか、 宇宙のような無重力空間に放り出されたら、 たぶんまともに歩けない。ゆるい制御というのは、制御系の一部を環境に依存することで、 自分の制御コストを減らすやりかただから、想定していない環境に放り出された時点で、 そのやりかたは通用しなくなってしまう。

全てを厳密にして制御するやりかたと、構造や環境自体に制御の機能を持たせるやりかたと。 厳密な定義と「切る会話」を好む立場と、ゆるい制御で「流す会話」を志向する立場。

アシモはたぶん、防水さえしっかりすれば水の中だって歩けるし、人間みたいな生きものが、 あるいは汎宇宙に向けた究極生物を目指そうと思ったならば、 たぶんどこかで「遊び」を捨てないといけない。

それでも生き物は、どちらかというと「ゆるい」制御を好む種族が多くて、 そのゆるさはたぶん、地球上なんていう限定された空間では、 結果として十分に通用しているように見える。

それで十分なのだと思う。

2007.10.12

夕張の医療特番を見た

破綻した自治体の、破綻した市立病院。それを立て直そうとして独り奮闘する医師のお話。

夕張の状況は最悪。

もう何年も入院している、行き場の無い患者さん。大量の病院職員。医師だけがいない。 予算は市の財政におんぶに抱っこ。56億円もの赤字。病院を潰すわけにはいかないけれど、 こんな状態になった組織をどうやって立て直せばいいのか。

病院長になった村上医師のとった方法は、手堅いやりかた。

病院組織を整理して、病院は診療所へ。病院組織はスリム化して、やる気を持った職員だけが残された。 もちろんその裏では、大量に解雇された病院職員。破綻した自治体だし、そんな人達にはたぶん、 市の職員としての仕事は残っていないはず。「どこかにいった」そんな人達がどこにいったのか、 そのへんはカメラに写らなかった。

病院の残ったベッドを利用して、介護センターが作られた。 内服薬を削って、リハビリテーションを中心に行うそんな施設は、 同じ高齢の患者さんを診察しても、収益を多く上げることができる。

訪問看護も始めた。これもまた利益率の高いやりかた。

どちらのやりかたも、いろんな地域で実践されて成果を上げている、手堅い手段。 残った職員は訪問看護に力をいれて、リハビリテーションに積極的に取り組んで、 病院の収益は上がり、寝たきりだったお年よりは、手厚いリハビリテーションの末、 自力で立ち上がるようになった。

部分の最適と全体の不利益

番組では順調な成果。それはきっと間違い無いのだろうけれど、 病院の収益が上がった分、きっと夕張市の財政支出はそれだけ増えている。

夕張は高齢者の町。65歳以上のお年寄りが4 割。大きな産業も絶えて久しいはずだから、 物語の主役、市立病院に長い間入院していた高齢の患者さん達というのは、 たぶんそのほとんどが、市の補助を受けて生活する人。

夕張市が実質つかえるお金は、年間 80億円ぐらい。

病院を運営するのにはものすごいお金がかかって、公立病院はどこも赤字。 県立病院級だと年間20億円、大学病院クラスになると、年間50億円ぐらいの補助金を 入れないと、病院組織は回らない。

院長は頑張る。リハの人も頑張る。患者も頑張る。収益は上がって、 病院の赤字は減って、請求書は市に回って、タダでさえ苦しい財政はますます圧迫されて、 他のサービス、学校の整備であったり、若い人の福利厚生であったりは、たぶん削られる。

たとえば村上先生の活動を意気に感じて、新しい医師が2人ぐらい、 今の病院に赴任することになったとすると、 その人達の給料とか、その人達が作る「売上げ」を支払うために、市の財政はたぶん、 さらに1 億円ぐらい飛んでいく。

今夕張の財政を支えている若い人達、普段は病院を利用しないそんな人達は、 負担した税のほとんどを、高齢者に吸い取られてしまう。

「医師が増えました」なんてニュースを見た翌月、どこかの小学校で給食が無くなってみたり、 毎日来ていたごみ収集者が週3 回に減らされてみたり。 若い人が高齢の人達を支えるのはどこの地域だって同じ構造だけれど、夕張みたいに 「閉じた系」の中では、たぶんそうした不利益は嫌でも目に付くような気がする。

税を負担する若い人達は、きっと余力のある人から外に出ることを考える。

村上先生達は、そのへん全部分かってて動いているんだろうけれど、職員の努力は結局、 市の年齢構造をもっと歪にしていく。

みんな正しいことを目指していて、病院だってもちろん、 医学的にも経営的にも正しい努力を行っているのに、 経済系が閉じてしまっている夕張市では、努力がすべて裏目に出てしまう。

可視化された世代間抗争のこと

集めた税金を誰のために使うのか ?

政治の機能というのは要するに、世代間の予算分配競争。子供は生産力と勢いで、 大人は老獪さと道徳で、各々正当性を主張して、自陣営により多くの予算を奪いあう。

普通の都市では、予算規模が大きすぎて見えにくかったり、「若者は年配のものを敬うべき」なんて 建前をみんなが飲み込んでたから、今まであんまり問題にもならなかったけれど。

年寄りは敬われなくてはいけない。人は元気にならないといけない。

当たり前すぎて、疑うこともしなかったこんな「常識」も、もちろん誰か考えた人がいて、 その人にとってはこんな「常識」が、その人を利する武器になったり、あるいはその言葉が生む 利権が案外大きかったから、いろんな人がそれに乗ったり。

少し前まで、高齢者の知恵は実際役に立っていて、たぶん年寄りを敬うことには ものすごいメリットがあった。

高齢者は頼りにされたし、敬われたけれど、それは人生が60 年だった頃の話。

80も後半回した、チューブ栄養で叫ぶだけの高齢者。そんな人にものすごく手厚いリハビリを行って、 請求書見たら軽く失神するようなお金をかけて、その人「敬って」得られたものは、 「自力で寝返り」であったり、足をばたつかせることができるようになったことであったり。

今は「この先」の話を積極的にするようになった。お金の話もする。 「よくなってもせいぜいこれぐらい」なんて話もする。 それでもほとんどのご家族はチューブ栄養を望むし、文句もいわずに対価を支払ってくれる。

それは道徳的にはとてもいいことなのかもしれないし、自分たちは神様じゃなくて、 なによりもそれで対価を得ている商売人だから、そんな決断に対して口を挟む 権利なんてない。

やはり「こんなはずではなかった」と思う家族もいるのだとは思う。

常識とか、道徳に従って、目の前の医者に対価を支払って。毎月のように馬鹿高い請求書回されて、 在宅介護に24時間、3年ぐらい費やして。得られたものは、痛めた腰と、 排泄物の臭いがしみついた部屋一つとか。

道徳守って与えられるはずの「何か」なんてそこにはなくて、認知的不協和の黒幕探して、 結局これは、「医者が騙した」なんて潜在的な思いにつながる。

ピンピンコロリ運動なんかが流行っているけれど、提唱する人達の興味は「ピン」にあっても、 行政とか、お金を出す側は「コロリ」させることしか考えない。

腹囲測定ひとつで診断できるメタボリックシンドロームなんて 怪しげな定義が作られて、それが既成事実化して、今度は健康診断の検査項目が 削られるらしい。血液検査なんかが大幅に減らされて、要するに医者は、メジャー片手に 胴回り測ってればいいなんて。

行政の補助は減る一方で、医師にできることもまた、減らされる一方。「道徳」と「対価」との 乖離は、これから先広がっていくことはあっても、道徳を見直さない限り、縮まることはありえない。

番組終盤、それでもリハビリテーションのかいあって、長い間寝たきりでしゃべれなかったお年よりは、 自分の力で歩き出して、歌をうたえるまでに回復した。

元気になった父親に久しぶりに再会したご家族は、その人の引取りを拒否した。

2007.10.11

立場から物語る力

いろんな技術が進化して専門分化していく中で、支払いを済ませる機会はますます後に回されて、 貨幣の価値が多様化して政治性を帯びていく。

技術者の成果に対する価値の見出されかたは、 時に技術者の想像を越えた角度からなされるようになって、 多様な査定を受けるようになる。

ごく大雑把にこんな流れがあるのだとして、技術者には技術を進歩させる以外の戦略がとれない中で、 最後に大切になってくるのは、きっと「立場から物語る力」なのだと思う。

専門分化が進むほどに支払いが遅れていく件

交換の概念すらなかった大昔、野菜を食べようと思ったら土地を探して、 肉食べようと思ったならば山に入るか、子牛を育てて。

みんなが消費者であると同時に、生産者であり、専門家。すべては自己責任だから、 専門家の説明責任なんて存在しないし、「支払い」の機会は、ものが口に入るはるか手前、 まだ肉や野菜が出来上がっていないタイミングで為された。

物々交換の時代。野菜ひと山と、牛一頭とを交換する時代。支払いと「口」との距離はまだまだ 遠くて、野菜は洗わないといけないし、牛は捌かないといけないし。

貨幣ができて、流通ができて、保存の技術が進化して。収穫物に対価を支払えばよくなったのは、 まだまだ案外最近のこと。

技術進歩の歴史というのは、「支払い」と「口」とが距離を縮めてきた歴史。

この流れが「ゼロ」になって終わるのか、それともそこから先があるのかは議論が分かれるだろうけれど、 個人的には、こんな流れはもっと進んでいくのだと考えている。

  • 食事をしたら、それが消化、吸収を受けて、トラブル無く排泄されて、はじめて対価を支払う。
  • 家を建てたら、車を買ったら、とりあえず10年ぐらい使ってみて、満足したらはじめて対価を支払う

こんなシステムをそのまま実装するのはもちろん無理なんだけれど、 「支払い」と「口」とが近づくにつれて問題になっているのが、専門家の説明責任。

技術者と消費者、お互いの距離は離れて、相互理解がほとんど不可能になるなかで、 「過程」を共有することはもはやほとんど不可能。 情報を与えられない消費者には「過程の正しさ」を評価することは難しくて、 結果に満足を示すこと以外の振舞いは許されない。「結果につながらない過程」の価値は、 技術の進化と共に、こうして失われてしまう。

専門家が説明する、こんな高コストのお仕事が価値を落としてきた現在、 「不満ならいつでも返品可能」のスーパーマーケットがそこそこ成功してきたりして、 支払いと口との距離は、たぶんそろそろゼロ点を通過するはず。

政治化する貨幣の話

王様独りが世界を支配して、世の中にお金が1 種類しかないのなら、 そもそもこんな問題はおきなかったのだと思う。

消費者に許されるのは「満足を示すこと」だけだから、 それができない消費者は排除すればいいだけの話。

貨幣の種類が増加して、お互いの価値が変動するようになってから、 その国の信用が貨幣の価値を左右するようになって、貨幣には政治性が付加されていった。

たとえば「円」という貨幣は、日本の信用力を信じる人が集めるお金。 日本を信じていない人が増えるなら、 円の価値は下がるだろうし、他の国が不安定になったなら、 相対的に円の価値を信じる人も、また増える。

ネット世界には「ポイント通貨」なんて新しい貨幣が登場して、いろんな企業とか、あるいは政治団体 なんかが様々なポイント通貨を発行するようになるのだとしたら、 貨幣の持つ政治力は、たぶんますます高まっていく。

それはたとえばアマゾンポイントであったり、楽天ポイントであったり。たとえば自民党が「自民円」を 発行したり、公明党が「ダイサクポイント」を発行して、政治資金の調達をはかってみたり。

全ての団体が「1ポイント1円」でこんなポイントを発行しても、信用力の高いポイントは、市場では もっと大きな価値を持つことができるから、その差額は企業の収入。為替と同じく、 信用力の高さというものが、そのまんま企業の価値、団体の価値に跳ね返ってくるだろうし、 ネットで発信を続けている個人の信用力というものも、もしかしたらこうしたポイントに 微妙な影響力を持つようになるかもしれない。

税金の問題であったり、ポイント通貨にはまだまだ難問山積みなのだろうけれど、 企業にはポイントを発行するメリットがあって、消費者には逆に、その企業が「悪」を為したら、 そのポイントを手放すことで、企業の価値を下げることができるから、ネット世論とリアル世間との距離は ほとんどゼロに近くなって、世の中絶対面白い方向に進むはず。

個人的に見てみたいのは、選挙直前。

選挙資金を集めるのに、公明党が大々的にポイント発行を準備する。 それを待ち構えてた2 ちゃんねるの株板では、そんな動きをウォッチしていて、発行と同時に持っていた ダイサクポイントを売り浴びせる「神」が多数出現、ポイント暴落して大損する公明党

そんな「祭り」をみんなで大笑いするような。

こんな流れはきっと、投票とか、政策を通じた政治活動とか、少数の専門家が決めてきた 「正しいやりかた」の無意味化につながっていく。

消費者が専門家を査定する時代

消費者権力の増大。過程の無力化。貨幣の政治化。そして価値の多様化。

成果につながらない良さや正しさ、一部の専門家にしか分からない価値といったものは、 こんな時代の流れの中で、これから確実に価値を失っていく。

「情報の非対称性」を理由に、専門領域の市場開放は不可能だという論理には、 実は結構反対だったりする。

要は「前払い」がもう時代遅れなだけであって、「結果に満足できて、 そこではじめてお金を払います」という ルールをどうにかして実装しないといけない時期が来ているだけなんだと思う。

顧客満足を最大化するルールは、たぶん安直なポピュリズムに陥らないで実装する 術もあるような気がする。

たとえば対価は対価として受け取る代わりに、それをサービスの提供者に支払うか、 あるいはその業界の「ギルド」に支払うのかを選択できたりするやりかた。

消費者は、そのサービスに満足できたなら、その「ピーク性能」に対して対価を支払うし、 不満であればギルドへの投資を選択することで、「平均値の底上げ」に期待をつなぐことができる。

お金は支払わないといけないけれど、そこに消費者の意志を加えることができるはずだし、 貨幣が政治化していく中で、「ギルド」もまた自らの信用を増していく必然性が生じるから、 「悪い奴ら」というレッテルをはられたギルドは、自然にその価値を下げていくはず。

面白がる力と物語る力

価値は間違いなく多様化する。

宇宙論の最先端、何億円もかけた加速器で実験する人達の成果というのは、あるいは一般の人には 何の役にも立たないけれど、SFじみた機械を日常的に使う科学者達の生態を面白く伝える 物語であったり、 「宇宙のはじまり」を見てしまった人達のものの考えかたとか、世の出来事に対する次元の異なった 視点であったり、そんな夾雑物は、あるいは誰かにものすごい価値を見出されるかもしれない。

正当なる専門技術、ごく一部の専門家から高く評価される論文を書く能力と、 同じ機械や環境を使って、あるいはすばらしく面白い娯楽諸説を書く能力とは、 顧客の前では対等になる。

それはどちらが正しいではなくて、本来サービスを受ける顧客こそが その専門家の価値を判断するなら、当然生じてくる流れ。

業界の古株、ごく一部の権威によって「正しさ」とか「よさ」が定義されて、 正しい過程が重視されて、正しい工程を経た、正しい結果だけが 少数の専門家によって価値を付加される時代から、 世界中の「素人」が、よってたかって価値を査定する時代へ。

この流れは、結果だけが評価されて、過程の正しさに意味がなくなるのでは決して無くて、 結果は結果として、過程の面白さは面白さとして、様々な立場の人によって、 それが等しく判断される流れなのだと思う。

専門家の人達にとって、時代を越えた武器になるのは、 「立場を語る力」と、「立場を面白がる力」。

それは本来、技術者にとって今も昔も変わらない大切な価値。決して悪い未来ではないと思う。

2007.10.07

アイコンとしての道徳のこと

道徳とか良心といった概念は、ちょうどパソコンのデスクトップ画面に並ぶ「ゴミ箱」とか「ファイル」、 あるいはIE のアイコンみたいなものなんだと思う。

パソコンのデスクトップ画面でアイコンをクリックすると、Word が立ち上がって文章を打てる

こんな操作は、アイコンとか、Word なんて概念を持ち込まなくても、 本来はすべて2 進数だけで記述できるけれど、それを理解できる人はたぶん、ものすごく少ない。

「理解のシンプルさ」と、「概念のシンプルさ」とは、しばしば相反する。

2 進数の概念は極めて単純だけれど、それを使って複雑な動作を記述するのは極めて難しい。 コンピューターの動作には本来関係ない、「ファイル」であったり、「Word 」みたいな概念を 導入してやると、概念は複雑になる代わり、一連の動作を容易に記述したり、 あるいは理解できるようになる。

アイコンを信じる人

アイコンの考えかたは便利だけれど、それはあくまでも理解のために作られた概念。 本来の動作とは異なっているし、少なくともそれは、真実として語られるものであったり、 アイコンの操作にいくら習熟しても、パソコンの機能は、アイコンが定義している以上には 広がらない。

アイコンを使った説明は、便利で分かりやすい。日常生活でパソコンを使う分には、それで全く困らない。

アイコンを通じてパソコンを理解している人から見ると、デスクトップ画面のバックグラウンドで おきていること、アイコンの概念を回避した動作説明は、たぶん冗長な屁理屈にしか聞こえない。

理解の深さは、必ずしも生産性の高さを意味しない。

たとえば生産性を「日本語で文章を書く」ことと 定義するならば、プロの作家のほうが、プログラマの人よりも、同じ時間で多くの文章を書けるはず。 その作家があるいはアイコンしか知らなかったとしても、「パソコンを使って仕事をすること」は、 その人のほうが得意かもしれない。

みんなパソコンを使って、インターネットで遊ぶ。アイコンしか知らなくたって、 クリックさえできれば何だってできるし、blog 時代、パソコンを誰よりも理解しているであろう、 本職のプログラマよりも面白い発言をしたり、人気を集めている人だってたくさんいるはず。

アイコンが破綻するのは、パソコンを取り巻く状況が変化したとき。

たとえば何かの理由でLAN ケーブルが外れてしまうと、そのパソコンはネットにつなげなくなる。

アイコンしか知らない人は、IE のアイコンを連打する。 どんなにすばやくアイコンをクリックしても、アイコンはインターネットにつないでくれないし、 外れたケーブルが自然に繋がることもない。

クリックさえすれば、インターネットにつながる

こんな「御利益」を通じてパソコンを理解していた人は、状況が変わって御利益を得られなくなっても、 もしかしたらクリックする以外の動作が想定できない。腕が折れるほどにマウスクリックを繰り返した そんな人は、もはや自分に御利益を与えてくれないパソコンを嫌いになったり、パソコンを通じて つながっていた世界全てを憎んでしまう。

アプリケーションとしての神様のこと

伝統宗教というのは、ご利益回避の理論付けの歴史。

何か上手くいったことがあって、それを神様のせいにすれば人が集まるけれど、 御利益を得られなくなった神様からは、人が離れてしまう。

「御利益を与える存在」という神様の定義は、それが与えられなくなった瞬間に無効化してしまう。

伝統的な宗教家は、神様の役割が発揮される状況を限定することで、 「神様の実在」と「御利益の不在」という矛盾の解決を図った。

たとえば仏教は、人の死に意味付けを与えてくれるけれど、馬券を外してしまった人とか、 パチンコで大損した人に対しては、たぶん「自業自得」としか応えてくれない。

イエスが生きていた頃にも、ワイン飲みすぎて二日酔いになった人だっていただろうけれど、 そんな人がイエスにすがりついたところで、たぶん「医者行け」としかいわなかったはず。

「神の実在」を信じない宗教家はいない。神の言葉を語る宗教家の下には、 それなのに「神様に裏切られた」としか思えない、世の中の理不尽が世界中から 集まって、それに対する解説を求められてしまう。

宗教とはつまり、神様が登場しても矛盾を生じない状況を考えるための学問。

伝統宗教が生み出した神様は、だからこそ出現状況が限られる代わりに、 その概念にはアプリケーションとしての実体があって、神様の管轄範囲で 困ったことがおきたとき、その概念は役に立つ。

世の中に偏在する神様概念は、アイコンとしての神様。

アイコンは、それが上手くいっているときには役に立つけれど、 物事が上手く行かなくなったときには、それはただの画像にしかすぎないから、 実体としての力を持ち得ない。

もう一度道徳の話

全体最適と、状況最適との間にギャップを感じたとき、 おそらく人間には、それを合理化する欲求が生じる。

そんなとき、たとえば俺様はモラリストだからとか、 あの人には勇気があった、良心があったとか、 そんな話が出てくる。

残念ながら、抽象化のプロセスには正しいやりかたと間違ったやりかたとがあって、 間違った抽象化が行われたときのほうが、しばしばその応用範囲は広くなって、 そうして作られたアイコンは、「信仰される対象」としての変な力を持ってしまう。

「道徳的になりましょう」「良心に目覚めましょう」なんて、 たとえば自分たちが受けた、昔ながらの道徳教育。

「水になったぶどう酒」 フランスのとある村で、えらい先生が別の街に引っ越すということで 街の皆でぶどう酒を各自一杯ずつプレゼントすることになり、 街の広場に大きなカラの樽が用意された。町人はそれぞれ用意した 一杯のぶどう酒を、順番に樽の中に入れた。 先生は町人達にお礼を言い、プレゼントの樽を持って引っ越す。 新居に移って数日後、先生が樽のぶどう酒を飲もうと樽についている蛇口を ひねると、中から出て来たのはぶどう酒ではなく、ただの水だった。 町の人は先生にひどいことしたよね(´・ω・`).

自分達の頃は、たとえば「傷ついた先生の気持ち」に共感させられたり、 村人がそのことを知ったら、どんな後味の悪さを味わうか、なんて想像させられたり。

みんなが良心持てば、不正もなくなるし、世界は平和なんて考えかたは、 「インターネットにつなげなくなったら、IEのアイコンを毎秒16連射すれば、 きっと再びつながるようになります」なんてパソコン教室で教え込んで、 生徒さんに腕立て伏せを強要するようなもの。

もちろんそんな行為は正しくも何ともないけれど、自分も含めて、道徳とか、良心の存在を 一度信じてしまった人は、恐らくはこれと同じような考えかたに陥っているのだと思う。

道徳を信じて、それを信じて裏切られることに疲れた人は、もしかしたらたぶん、 技術的な解決とか、構造的な解決というものを、モラルに反した 邪悪なものとしてとらえるのかもしれない。

IE のアイコンを連打しつづけて、インターネットにつなごうとしない パソコンを睨みつけている人の側に立って、 「LANケーブル抜けてますよ」なんて指摘をしたところで、素直に感謝される人は、案外少ない。

腕が疲れたその人は、あるいはもう一度アイコンをクリックするかもしれないけれど、 たぶんその人はパソコンが嫌いになるだろうし、棒のように疲労した腕を抱えて、 「もっとパソコンのことを深く知りたい」なんて欲求は、たぶんおきない。

学校の道徳教育では、ぜひとも「社会のバックグラウンドでおきていること」の説明を してほしいなと思う。

道徳とか良心とか、あるいは「運のよさ」を担保してくれる神様とか、 そんなアイコンはたぶん、日常生活の中に自然発生する。 実際におきているのは利己的振る舞いの相互作用であったり、あるいは単なる偶然であったりする、 そうした積み重ねが、どうやったら道徳概念に帰着するのかを解説してほしい。

複雑な概念でシンプルな理解を行う、アイコンを通じた世界把握を強化された人達は、 バックグラウンドでのトラブルに対して、もはや有効な介入ができない。

サービス業の現場では、たぶんこんな問題があちこちでおきていて、 構造的に、状況的に、もはや良心だとか道徳の出番なんかなくなっているのに、 良心や道徳を通じて社会を理解している人には、それが「現場のモラル低下」にしか見えないし、 アイコン信じる人達から出されたアイデアは、しばしば何の役にも立たないし、 あるいは現場にもっと悲惨な結果をもたらしたりしてしまう。

御利益を返さないアイコンを連打することに疲れた人達は、その無力さのぶつけ先を失って、 たぶん世界そのものを憎み始める。

憎しみとか疲労感が蔓延する昨今、道徳の教科書とか、道徳教育というものは、 それだからこそ、今でも意味があるのだと思う。

「水になったぶどう酒」の話から、たとえば先生が確実にワインを飲むには どんなルールを実装すればよかったのか、押し付けがましくならない、 相手の面子を潰さないようなルールの提案は、どうやって行えばいいのかなんて。

パソコンの授業で、小学生にOS をスクラッチしてもらうのは難しいけれど、 こんな問題から、たとえば「私はみんなの顔を思い出しながらワインをいただきたいので、 一人一人名前を書いた袋でワインを下さい」なんてお願いしてみるだとか、 広場に用意するのは樽ではなくてガラス瓶にしてみるだとか。

道徳や良心を否定することは、「悪く」振舞うことを肯定したりはしない。 良心がアイコンならば、悪徳もまた、ただのアイコンに過ぎないはずだから。

アイコンとしてを信じる練習ではなくて、アイコンを疑う練習、状況を解決する アプリケーションとしての力を持ったルールを記述するための勉強なら、 道徳の授業もまた、ずいぶん面白くなるような気がする。

2007.10.04

良心なんて最初から無かった

昔のお医者はやる気があったとか。内からほとばしらんばかりの良心にあふれてたとか。 爺医の人達のお茶のみ話。

よかった昔。医師は良心と奉仕、患者は慎みと公共心持ちよって、お互い美しい日々。

時代が代わって、医師は良心失って、患者は慎み無くして下品になって。 お互い大切な何かを失って、だからこそ医療はこれだけ殺伐としたなんて。 問題は全部現場のせいになって、司法とマスコミだけが高笑い。

最初は誰でも獣

良心とか道徳とかいう概念は、状況を説明するために事後的に付加された 考えかたであって、生得的に実装されている性質なんかではないのだと思う。

たとえば本能は弱肉強食ルールを叫んでいる状況で、実際には協調しながらの 行動のほうが都合がよかったり、目先の利益を抑えこんで考えたほうが、 後々のメリットが大きかったり。

直感が叫ぶ「獣の正解」と、状況から選択された、「人間の正解」と。

道徳とか良心なんて言葉が引っ張り出されるのは、獣レベルでは「不正解」のシグナルを 出しているのに、目先の不利益を飲み込んで、誰か他の人との協調を選ばざるを得ない状況。

獣層と人間層で生じた認知的不協和を解消するために、 みんな頭の中で合理的な説明を考える。

理論上、山登りのルートは無数に考えられるけど、 実際には何本かの登山道に収斂してしまうように、 認知の不協和を解消するための説明もまた、本来は無数に考えられても、 それらはやがていくつかの代表的なやりかたに収斂してしまう。

収斂したそんな説明が、道徳であったり、良心であったり、 あるいは理性であったり。

どれも合理的ではあるけれど、科学的な事実とは異なった何か。

「良心を持った医師」が消えたわけ

要するに昔は、社会の中で「良心を持った医師」として 振舞うことに、何らかの利益があった。

恐らくは患者さん側も、そんな医師の振舞いを強化することで何らかの利益が得られたから、 医師は良心的に振舞って、患者さん側はそれを賞賛して、 社会には自意識の通貨が循環して、経済圏を作っていた。

お互いの行動がお互いを強化しあう、こんな共依存関係が崩れたきっかけは、 権利意識だとか、生意気な医者だとか、マスコミの陰謀なんかではなくて、 単純に医学が発達したことなのだと思う。

たとえば冷蔵庫のなかった大昔。食材の保管をどんなにていねいに行ったところで、 傷みの早い部分は必ずあるし、それらを捨てていたら、たぶん料理屋さんは採算がとれない。 昔の料理屋さんでご飯を食べれば、運がよければ新鮮な食材にありつけるけれど、 運が悪ければ、痛んだ食材を出されたかもしれない。

冷蔵庫が無かった昔と、技術が発達して、食材の全てを冷蔵可能になった現在と。

お互いがそれぞれ10人のお客さんに料理を出して勝負をすると、 「一番おいしい料理」については、昔も今もいい勝負。現代技術は、もしかしたら 昔の職人に勝てないかもしれない。

ところが「一番ダメな皿」で勝負をすると、これは間違いなく現代の料理人のほうが いい料理を作るはず。技術の進歩は、あるいはピーク性能を変えないけれど、 「皿ごと」の偏差は少なくなって、平均性能は間違いなく向上させる。

医療の進歩もまた、もちろん「ピーク」も向上したけれど、何よりも平均値の進歩。 技術の進歩は、医師の振る舞いが、医療行為の結果に寄与する割合を減らした。

主治医自ら試験管振ってた血液検査も、今ではマウスクリックひとつ。 いろんな技術が進化して、上手な医師も、そうでない医師も、 今ではできることはみんな同じ。おだてても、罵倒しても、受けられるサービスはそんなに変わらない。

患者さんには、医師の振舞いを賞賛しなくても同じ結果が得られるようになって、 医師の側もまた、他の医師以上に頑張らなくても、同じ結果が出せるようになった。

技術の進歩は良心を消した。

「良心があった昔」たぶん、本来は不必要な賞賛、本来不必要だった頑張りというものを、 それぞれ「公共心」、「良心」なんて名前を付けて合理化してきた状況。 今ではそんな物語を作らなくても、無理しないで同じ結果が得られるようになっただけのこと。

医師が良心を失ったわけでも、患者さんが公共心を失ったわけでもなくて、 そもそもそんなものは最初から存在しなくて。

あくまでも生じたことは、技術の進歩。

極限値に収斂する業界の未来

無限の発展が期待できるような業界と違って、医療みたいにある目標を極限値にして、 そこに限りなく収斂していくような発展のしかたをする業界は、 技術が進むほどに進化の速度が遅く見えて、ユーザーと技術者との疑心暗鬼が深まっていく。

たとえば医療以上に進んでいるのが、警察業界。

警察機能が完璧になって、検挙率がほとんど100%になったところで、 殺す人は殺すし、騙す人は騙す。最後に残るのは閾値の問題だから、 警察の捜査力がどんなに神がかるようになったところで、「境界ギリギリ」を目指す人は減らない。

完璧を目指せば目指すほど、その集団が動くときのコストは大きくなる。

警察組織は、個人として接するときには結構いいかげんなやりかたが通用するけれど、 一度公式に動き始めると、ものすごい数の人が投入される。

病院外で亡くなった患者さんは、基本的に警察の検死を受ける。 「病死の疑いが強い」のならば、警察の人も個人。みんなご家族に一礼して、 手続きどおりの検死を行って、案外簡単に事務処理が進む。

ところが死亡診断書に「外因死の疑い」なんて書いた日には、その日一日潰れてしまう。 警察官は倍増するし、いきなり目が怖くなる。 言葉の全てに言質がとられて、さっきまでの世間話が、いつのまにか「調書」になって。

確実さが求められる業界の確実さを担保しているのは、莫大な手続きと、書類の山。 それを人海戦術でこなすから、巻き込まれる人の数も莫大だし、こっちも大変。

警察当局に「事件性あり」で行動してもらうのは、すごく大変なのだそうだ。

素人に警察を動かすなんて到底無理で、刑事立件に慣れている弁護士の人が警察に日参して、 あまつさえいろんなルートの圧力駆使して、4回目か5回目のお願いで、やっと「刑事事件」 として公式に動き出すのだという。

極限値に収斂していく業界は、たぶんその進歩が究極に近づくにつれて、 外から見るとどんどん「怠惰」になっていく。

警察を公式に動かすためには、たぶん莫大な予算であったり、マンパワーをつぎ込む必要があって、 それをやり始めると止められないし、たぶん日常業務が回らなくなる。

ストーカー殺人なんかで 警察の怠惰が叩かれていたけれど、恐らくそれは、 「刑事」に舵を切るコストがあまりにも高くなってしまって、 もはや現場の判断では、それを決断できなくなっているんだと思う。

良心無くした医者は、今は金目当てで怠惰になった。これもまたきっと、技術的必然。

まとめ

たぶん最初から、良心とか奉仕の心、感謝の心も存在しなかった。

それを仮定したほうが社会コストが少ない状況があって、 技術が進歩して、今はそれがなくても大丈夫になって、良心は姿を消した。

良心ルールがあった昔、それにすがって社会回してきた人達にとっては、 後に続く世代も同じ概念共有してくれたほうが、たぶん低コストで品質の高い労働力を得られた。

手段がいつしか目的にとって変わって、本当は存在しない、 不合理を納得させるための物語でしかなかった道徳とか公共心が、 いつしか利権を隠した真実として、教育されるようになった。

今の社会にはそんなもの必要なくて、むしろそれにすがっている人は割り喰ってばかり。

無いもの信じて失敗した人達が、最初からなかったものを今さら探そうとするから、 犯人さがしが始まって。そんな認知的不協和を解決するための新しい物語、 技術が進んだ現在の道徳というのが、あるいは「すべて医者が悪い」とか、 「警察は全員腐ってる」とか。

安全率とコストとの見直しをするべきなのだと思う。確実さをわずかに上げるのにも 莫大なコストがかかる昨今だけれど、進歩した技術は、安全率のわずかな 低下さえ容認できるなら、本来莫大なコスト削減も実現できるし、 「安全はお金で買うもの」なんて考えかたも広まるはず。

「道徳はマスコミと日教組の陰謀」なんて、新しい道徳をみんなが受け入れられるなら、 世の中ずいぶん変わると思うんだけれど。

2007.10.02

存在の渦をつなぎ止める小石のこと

偏差と復元力の話をもう少しだけ。

たとえば川底に小石が一つ転がっていたとして。小石の形と、川の流れとがうまい具合に調和すると、 その石を中心にして、川面には渦が作られる。

渦はある程度の恒常性を持っていて、流れの具合が少々変わったぐらいでは消えることなく、 渦はずっとそこにありつづける。

川の水は常に入れ替わるけれど、川面にはいつも渦があって、その中身は常に変わっても、 そのありようはいつも同じ。

渦には2つの構成要素がある。

  • 川の水のように、動的平衡状態としての「ありかた」を形作るもの
  • 川底の小石のように、平衡状態を保つ「きっかけ」になっているもの

気候の激変がなければ、川面の渦は何百年経ってもそこにある。川底の小石は、 それでもごくわずかな歩みで削られていく。

渦の消失と小石の不変

何百年も経って、小石はわずかずつ丸くなる。小石はある日恒常性を保てなくなって、 川面からは渦が消える。

川面で起きたことは「激変」なのに、小石の変化は連続的で、ごくわずかなもの。

渦を作っていた昨日までと、渦が無くなった今日の小石と。 何がいけなかったのか。何が変わって渦が消えたのか。 小石をいくら調べても、たぶん原因は分からない。

医学のこと

人が老いる。指摘できる病気も無いのに寿命で亡くなる。あるいは、同じ程度の重症感なのに、 ある人は何事も無く回復して、ある人はなぜだか治療に反応せず、無くなってしまう。

医療は常に正常値を目指して、崩れた恒常性を回復させようと努めるけれど、 いくら栄養を入れたところで、抗生物質やら強心薬やらを投与したところで、 「恒常性を維持していた何か」が欠けた人というのは戻ってこないし、 それが保たれている人は、少々治療がラフでも元気になる。

その人が「元気な状態」に復帰するのか、それとも亡くなってしまうのか を決定しているのは、「復元力」みたいな何か。

「生体という渦」の存在を担保している小石みたいなもの、あるいは概念が どこかにあって、それが削れてしまった人と、それが保たれている人との違いというのは、 恐らくは感覚できないぐらいにわずかな差なんだと考えている。

西洋医学は小石を観測できない

ところで「小石」を観察することは、恐らくはすごく難しい。

渦の発生はたぶん、川底に散らばる岩の分布であったり、水温であったり水の濁り具合であったり、 流れが小石と反応する以前の段階で、すでに様々なものに影響される。渦の発生は、 だからこそそれが発生したことを通じてでしか観測されず、特定の形状をした小石を見つけたところで、 その発見が渦の発生を決定しない。

一度発生した「渦 - 小石系」は、観測ができない。

水面に渦を見つけて、水中にある小石と渦との関係を観測しようと系に介入した瞬間、 渦は元の形を崩してしまう。川底から小石を取り出して、それを観察することは たぶん可能なのだけれど、石の大きさや重さ、峰の形やへこみ具合など、 小石を表現する様々な要素のうち、何が渦の発生に貢献しているのか、 石だけを取り出していくらながめても、恐らくは答えが出ない。

渦というのは動的な現象。解剖学とか生理学とか、渦を作らない「石それ自体」を 相手にする学問からは、恐らくは渦という現象についての全てを見ることはできない。

小石という、科学の川面からは見えないファンタジーな何かを仮定した時点で、 何かすごく負けた気分なんだけれど、今の西洋医学では説明できない、 もちろん東洋医学とか記憶する水とかマイナスイオンなんかでも説明できない、 同じ治療に対して同じ結果を担保できない違和感というのは常にあって、 認知的不協和いっぱい。

考えたところで結論出ないから、とりあえずは今と同じ事を続けるしかないんだけれど。

2007.10.01

問題の定義可能性について

「計算」という問題のこと

たとえば暗算に対して天才的な能力を持ったサヴァンならば、計算は想起。 頭に数を思い浮かべた次の瞬間、頭の中には、計算の答えが出現する。その過程は 常人の理解を越えるけれど、とにかく答えは出る。

紙と鉛筆で筆算するなら、計算というのは書く行為。正しく書けば、正しい答え。 そろばん使いは珠を弾く。google 先生を使っていいのなら、計算というのは検索すること。 それがどんな問題であれ、それを数式にできるのならば、google 先生は何でも答える。

計算をはじめとした問題の多くは、自分自身と、その人が使う道具との相互作用を通じて成立する。

問題一つを定義するにしても、その時どんな道具を使っていいのか、「答え」を表現するのに どんな方法を使わなくてはいけないのかを定義しないと、正しいプロセスを一つに固定できない。 定義を伴わない、問題のための問題、思考のための思考というのは、存在を必要としないか、 あるいはその存在を仮定しなくても、世界を記述するのには困らない。

たとえ同じ答えにたどりついても、そこに至るプロセスが違ってくるなら、 鍛えるべき能力もまた変わってくる。

たとえばサヴァンなら、計算で一番難しいのは、言語の数式化。円周率20万桁 を暗証できる天才であっても、そういう人達は案外、「リンゴ3つとみかん5つとを足す」という ことが理解できなくて、「8」という答えにたどりつけない。

紙と鉛筆を使うなら、計算の勘所は「きれいに書くこと」であったり、「小数点そろえること」だったり。 計算機使うならボタンの押し間違えに注意することだし、 google 先生なら、全角スペース挟まないように気をつけるとか、「×とXとを間違えない」ことだとか。

「計算を上手に行う」なんて問題は、こんなわけで定義が不十分で、問題を出されたところで、 何から手をつけていいのか、何が達成できれば正解なのか、誰にも分からない。

定義の定量性と正解

「前に進む」は定義不可能問題だけれど、「競争者よりも前に進む」なら、目標が決まる。

それが絶対的なものであれ、相対的なものであれ、目標に対して参照可能な座標が定義されるなら、 問題には定量性が生まれて、「正解」を探すことが可能になる。

定量的な定義がなされない問題は、正解を定義することがしばしば不可能になる。

たとえば「相互理解する」なんて問題。漠然とした「正解」なら、 たぶん誰の頭にも浮かぶだろうけれど、その概念を言語化するのは難しい。

  • 「理解」に対して、大の男が滂沱の涙流しながら抱き合うイメージを想像するなら、 男2人並べて、そこに催涙ガス弾でも投げ込めばいい
  • 得心の行った表情でうなずく顔を想像するなら、銃を突きつけて「笑え」と命じれば、たぶん「理解」を見ることができる

正解定義のしかたは無数。その定義にたどり着くやりかたも、また無数。

頭の中には誰でも「正解」を持っているこんな問題は、定義の定量性を欠いているがゆえに、 誰にも「正解」が分からない。

治療という問題の定量性

「治す」だとか「良くなる」なんかも、たぶん定義不可能問題。

医師が「良くなりました」なんて言っても、家族からは全然そう見えなくて、 退院日が決まらない人なんていっぱいいるし、美容外科医は鼻を高くすることはできても、 その人をイケメンにすることまでは保証できない。 何といっても、生きて歩いて帰ることを例外なく実現するには、 医療はまだまだあまりにも無力だし。

定量可能な言葉を使って、「医療者に有利なように」医療を定義するならば、 医療というのは「標準偏差への回帰」。人体で定量可能なあらゆるパラメーターを、 標準偏差の範囲内に戻す営み。

それが症状であれ検査データであれ、測定した何かが悪い方向に外れれば、それは病気。 過剰になったり、「良すぎたり」しても、それが行きすぎたなら病気の範囲。

測定した数字をある範囲に戻すことができたなら、その人は「治る」。

自動車だとか吊り橋だとか、精密な工学技術で作られたものというのは、ネジ一本、溶接一つ 外れれば、時として大惨事になる。人体というのは、手術が終わって何か隙間が見つかったなら、 そこに適当な組織を何となく押し込んでおけば、そのうち勝手に「治癒」にまでたどり着く。

もしかしたら「正常範囲」というのは、その人にとっては 正常でも何でもないかもしれないんだけれど、ある人が、標準偏差の範囲に一定期間置かれると、 戻した先では、その人自身が何となくその環境に適応して、自らの力で「治る」にたどり着く。 そういうことになっている。

医療というのは、だからこそその進歩には「限りなくいい方向に行く」 みたいな考えは入っていなくて、結構高い確信度で、「今の医療にこれ以上の進歩を期待するのは難しい」、 なんて言い切れる気がする。

歴史上、こんな断言した人達は、もちろん全員間違っていたのだけれど。

「自動車修理工」モデルの間違い

偏差を少なくする仕事。

医師の仕事をこんな定義で考えると、ふさわしいアナロジーは自動車修理工なんかじゃなくて、 むしろ酔っ払いを介抱する人に近い。

何か壊れたところを見つけて「直す」やりかたではなくて、 左右両方にドブ川のある道を、フラフラ歩く酔っ払いを左右に押しながら、 ドブにはまらないよう、酔いが覚めるまで歩かせるような考えかた。

医療はたぶん、左右に「押す」やりかたはいろいろ進歩させてきたけれど、 酔った本人の復元力、「まっすぐ歩く力を強くする」やりかたは、 医学はまだ手をつけていないか、もしかしたらそれは手が出せない

修理とは違うから、その仕事には本来、酔っ払いの生理学に関する知識なんていらない。 必要なのは、酔っ払いの左右への「振れ」を正しく知覚して、 それに対して適切な力で押し返すことと、近くをしてから押すまでの時間、 フィードバックの時定数を、限りなく小さくしていくことと。

医師の内的思考というのは、やはり無意味化していくのだと思う。

遺伝子治療の進歩が、あるいはブレイクスルーを産むかもしれないけれど、 あの発想は「注射一発で病気が治る未来の医療」だから、 注射打つ側には思考はいらない。医師の思考が複雑化する方向には行かないはず。

早さはたぶん、力になる。

問題に対する深い理解は一定以上の力を持ち得ない代わり、 問題を発見してから対処するまでの時間を短くできれば、治療の効果はより高くなる可能性がある。

早さとか、タイミングが勝負になる世界では、それが成熟していくと、 「プレイヤー」と「コーチ」とが分かれていく。 スポーツ全般はそういうものだし、あるいは自動車競技なんかも同じ。

シューマッハとかプロストまでは、F1 ドライバーはセッティングのプロでもあったけれど、 今のF1 競技は、ドライバーは走行専門、セッティングはメカニックの専門領域で、 車が走っているときに要求されるのは、ドライバーとしての技能だけ。

医療の専門分化というのは、一つの車の中に、エンジンの専門家とタイヤの専門家、 ボディーの専門家とサスペンションの専門家とがみんな一緒に乗り込んで、 ガヤガヤ議論しながら車を走らせているイメージ。

これでは車は速くならないし、もしかしたらまっすぐ走ることもおぼつかない。

改良へのモチベーションが現状を変えることはありえないけれど、 医療を取り巻く現状、頭打ちになる予算とか、現場のマンパワー激減とか、 そんな「外乱」が、何か新しい変革を生むかもしれない。