社会の表現型としての道徳
道徳というものは、環境の変化に対して社会がとる表現型であって、 道徳をいくら叫んだところで、環境を変化させない限り、 社会が道徳に追従することはないのだと思う。
医者が良識を失った。マスコミが露悪的になって、国民は怒り、政治家は迷い、 弁護士だけがますます元気。
昔はよかった。技術者はがんばって、マスコミはそれを賞賛した。 みんな道徳持っていたから、「名声よりもお金ちょうだい」なんて品のないこと、 誰も口にしなかった。
「道徳」なんて言葉で括られる考えかた。医者の良識。マスコミの慎み。 国民の忍耐力。政治家の清貧。いろんな立場の人たちが、なぜだかいろんな理由でそれを失って、 ただ一人道徳を守りつづけてきた司法の人達は、今では上から目線で高笑い。
適応結果としての道徳
道徳というのは達成すべき目標として「あった」のではなくて、 社会が環境に適応していく中で、最もエネルギーを使わない表現型として、 道徳というありかたに行き着いたのだと思う。
たとえば環境に対するありかたが同じであれば、 系統の違う生き物が、同じ形に収斂する。
魚類であるサメと、爬虫類であったイクチオサウルスと、哺乳類であるイルカやシャチは、 生まれた年代も、その出自も全く異なるのに、似たような形をしている。
彼らに「魚っぽい形はかっこいいよね」なんて思いを共有できるわけがなくて、 彼らが共有していたのは、「海の肉食動物」という環境に対する立ち位置だけ。 同じ表現型への収斂という現象は、達成すべき目標に行き着いたのではなくて、 そのときおかれた環境の中で、生き延びるのに一番ふさわしい形がたまたま 同じであったのにすぎない。
表現型はまた、環境のわずかな変化によって、劇的に変化する。
大昔、うんと小さなトカゲにしかすぎなかった爬虫類は、気候の変化に適応して、 巨大な恐竜へと進化した。しばらくして地球が冷えると、彼らは一気に姿を消して、 それ以降は哺乳類の時代へ。生物相の変化は劇的であったけれど、つまるところは 温度の変化であったり、地球が受けるエネルギーの変化であったり。 大元の変化は、ごく微妙なものであったはず。
道徳を作っていたもの
「よかった昔」が持っていた道徳という考えかたは、おそらくは村社会の嫌な部分、 見たくなくても見えてしまう隣近所のプライバシーであったり、何をするにも ご近所の迷惑を考えないと自由に振舞えない社会であったり、そんな「強すぎる絆」 という環境に社会が適応した結果として出来上がった表現型。
みんなが比較的自由に振舞っている現代と、ある種の人たちが「よかった昔」として懐かしむ 昭和40年代と。人同士を結ぶ絆というのは、時代と共に浅く広く変化していったけれど、 その変化はおそらく、そんなに劇的なものではなかったはず。
それはごくわずかな気温の低下が恐竜を滅ぼしたのに似た歩み。 道路が良くなって、選択の余地がなかった村の病院が、 車で行ける範囲なら4つぐらいから選べたり。通信が良くなって、新聞読まなくても ラジオやテレビで代用できるようになったり。
選択の幅が広がると、刺激の強いニュース以外は注目されなくなってみたり、 技術にはサービスという負荷価値つけないと怒られるようになって。 社会のいろんな場所で、こんな微妙な変化がゆっくり進んで、 そのうち誰かの変化は、別の誰かの変化を加速するようになって、 変化の積み重ねがある閾値を越えたのが、おそらくは誰かが「昔はよかった」なんて ぼやきはじめた頃。
道徳は進化する
時代が進んで、「道徳」なんて考えかたは本当になくなったのかもしれないけれど、 今から良識だとか道徳だとか叫んだところで、環境の変化に対してもはやそれが 最適解にならない以上、叫んでも道徳は戻ってこない。
道徳が本当に良かったものだとして、それを今の世の中に再度取り込もうなんて考えるなら、 やるべきことは「絆」の強化。
たとえばみんなが救急車をタクシーがわりに乗りつぶすのが問題になっているけれど、 全ての家が年に何回救急車を利用したのか、あるいはどんな理由で 救急車を呼んだのか、そんな記録を公開して、ご近所の病気事情を誰もが 簡単に把握できるようにするだけで、たぶん町には「道徳」が戻って、 本当に必要な人達だけが救急車を利用するようになる。
もちろんプライバシーが丸見えになる社会なんて誰も望まないのだろうけれど、 道徳を失う代わりに今の社会が得たものというのは、たぶんそんなことなんだと思う。
時計の針を巻き戻したところで、結果は保証できない。
社会を取り巻く環境のごくわずかな変化が道徳の破壊をもたらすし、 たとえそれを戻したところで、もしかしたらその時の社会が表現する道徳は、 誰かの思惑とは全く違うものになるかもしれない。
たとえば「暖かく乾燥した草原」という環境に対する回答は、 アフリカ大陸ではガゼルやシマウマであったのに、 オーストラリアでは、なぜだかそれがカンガルーになってしまったし。
環境は変化していく。昔は良かったなんて総括を誰かが出した時点で、 その人にとっての「良かった昔」はもうとっくに終わっているはず。
そこで現状最適化の戦略を打ち出せない人というのは、 あるいは良かった昔を夢見ながら、すでに生きながらにして お墓に入っているのかもしれない。

コメント
>研修医を傷つける簡単な50の方法
ぶっちゃけ「今読んでももう面白くないから」公開しないのが本音だったりします。。
2007年版書いて、別のURLで匿名公開しようと思ったこともあったのですが、
要するに内容がつまらなすぎて、面白く書きなおすこともできないような代物
なので。申しわけありません。。
>「公共性」「良識」
いつも心がけているのは、立ち位置を極力変えないことと、「自分の立ち位置からは物事が
こう理解されて、それに対してこんなことを提案する」という書きかたを守ることでしょうか。
「一般に…と考えられている」をやってしまうと、それこそ同業者全員に迷惑かけますし。
あとは「俺様は読者よりも賢いからこんなことが見える」という書きかたでなくて、
「みんな分かってるんだけれど、自分は他所様より下品だからあえて指摘してみる」
というスタンスで文章を書くこと。賢い、知識が多い、専門家の肩書きみたいな
ベクトルで論を進めると、これは優越感ゲームになってしまうので。
Posted by medtoolz at 2007年9月23日 11:53
X人の政治家が汚職し、Y人の官僚が不祥事をおこす。
主文の後「政治への(行政への)信頼を失墜させた責任は重い」との判決を下す司法。
一部の不潔が全体の清潔への担保を喪わせる。
だとしたら、
立法と行政への(第四権力も笑)不信があるのに、なぜひとり司法への不信を免れ得ることができようか。
司法に携わる人がどれだけ意識しているかはわからないが確実に司法不信の時代は始まっている。
まあ法匪という言葉は昔からありましたが。
>ただ一人道徳を に
Posted by Anonymous at 2007年9月23日 09:23
あちこちで指摘されていることですが、BlogにしろWEBサイトにしろ閲覧者が増えてくると要求される「公共性」「良識」のレベルが上がってきますね。
非難されやすさ。
「○○はしょうがない」「○○はダメ」「○○儲かる」発言でも公職にあるか床屋で民間人が言うかで大きな違いが。
確率的に十分なリテラシ(何の?)をあてにできない状況で、読者が増えた結果、絶対量として確実にある程度の量、存在するようになった今、リスクを負っていただくのは難しい、という判断も…
その辺を軽々と越えるロジックの発想をお持ちかもしれませんが。
Posted by Anonymous at 2007年9月23日 09:12
このエントリとは直接関係ないのですが失礼致します。
このサイトを発見してはや2ヶ月、ようやく全てのエントリを読了致しました。自分が知らなかった考え方・視点を大きく強化することができ、感謝しています。
また自分に役に立つだけでなく、エンターテイメントとしても確立しているので非常に楽しく読むことができました。いちヘルシングファンとして。
ただ一つ心残りがあるとすれば、「研修医を傷つける簡単な50の方法」を拝見できなかったことでしょうか。 当方医学生でして、この方法を知ることによって将来役に立つことも多いでしょうし、エンターテイメントとしてもクォリティの高いものだったと聞いております。もしよろしければ再度公開、もしくはダウンロードできるようにして頂け無いでしょうか。。
Posted by tetsukawa at 2007年9月22日 21:47
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