2007年9月29日

ルールで道徳を実装するやりかた

たとえば「2 つ以上の医療機関を受診した場合、それぞれの医療機関への 診療報酬の分配は、患者さん自身が決定できる」なんてルールを現行法に 付け加えてしまえばいいのだと思う。

対価の行為随伴性

患者さんを投げてよこす近所の先生がいる。

昼過ぎにきた患者さんに、いろんな検査を全部出して、 下手すると2週間分の処方もつけて、その上で「今一つ自信ないんで、 問題ないことを証明してあげて下さい」なんて、夕方時間外になってブン投げてよこす。

責任丸投げ。診療報酬総取り。自分たちが請求できるのは、せいぜい初診料ぐらい。

多かれ少なかれ、ある程度の規模がある病院に勤めている医師は、たぶん こんな理不尽さに涙したことがあるはず。もちろん開業の先生がたには 相応の理由があるんだろうし、彼らは彼らで開業のリスクを背負っていると 反論するんだろうけれど、それは「患者さんのために負うリスク」とは違うはず。

対価というものは本来、その人が、お客さんのためにとったリスクに応じて支払われるもの。 今の時代、リスクをとっても支払われるのは対価じゃなくて大過。

患者さんによる報酬配分

たとえば患者さんが、「この行為のおかげで私はよくなった」なんて自覚して、 そこではじめて支払い責任が発生するなんてルールにしたら、面白いことがおきる。 もちろん「私は自然治癒しました」なんて踏み倒す人続出するから、実際には 現状の保険制度に乗っかる形で、社会保険事務所から支払われる報酬について、 その分配先を患者さんにハンドリングしてもらう形になる。

  • 開業の先生は、中途半端な抱え込みは出来なくなる。検査をいくら出しても、 大きな病院に紹介をした途端、最悪それは持ち出しになってしまう。 リスクをとって最後まで自分で診るか、最初から大病院に紹介するか、二者択一を迫られる
  • たぶん若者相手にリスク取れるガッツのある先生は少ないから、開業医は 高齢者医療に進出することを強いられる。それにしても、「面倒になって老健丸投げ」は できなくなるから、必然的に往診が増え、自宅での看取りが増える動機が発生する
  • 外科なんかは手術があるから、このあたり相当有利になる。外科や産科、 あるいは小児科の医師は、たぶん対価が支払われる機会が増えて、 患者さんを直接診察しない科は不利になる
  • 「最初から最後まで一人で診る」なら、分配の問題が発生しない。基本的に、医療機関は 「身の丈にあった範囲で全力を尽くす」形に収斂していく。開業医なら在宅診療と軽症患者、 大きな病院は外来減るから、たぶんもう一度救急に取り組むようになるはず

こんなルールを運用すると、医師の振る舞いとか「地の利」なんかが、診療報酬に直結してくる。 たとえば住民が一致団結して「村で一つしかない診療所」を守ろうと思ったら、 そこから大病院に紹介されても、診療報酬を診療所側に多く配分してみたり、 あるいはまた、セカンドオピニオンを依頼されたクリニックが、笑顔一発で診療報酬総取りしてみたり。

もちろん全てが上手く行くわけではないし、たとえば月末の支払い寸前になって 大量の紹介患者が発生するとか、抜け道はいろいろ考えられるんだろうけれど。

美しい国の作りかた

理念先行で、政策がその後というのはそもそもおかしい。

最初にこうします、という政策を挙げて、その結果として立ち上がってくると予想されるのが、 こんな理念に基づいた世界だと考えますなんてやりかたでないと、言葉には本来、説得力が出ない。

家族が自宅で老人を診る。医者が往診して、そんな人を最後まで患者を診とる。 必要な検査は最小限。何時に受診しても、どの病院に行っても医者は笑顔で、 いろんな立場の医師が、みんな患者さんの利益最優先で働く。

そんな「美しい国」作ろうと思ったならば、やるべきことは道徳叫ぶことではなくて、 ルールの実装。

「患者判断ルール」のもとでは、医師は誰も道徳になんて目覚めていないし、 あくまでもみんな、自分の利益を最大化するためだけに行動するだけ。

社会に「道徳」なんて概念を導入しなくても、全ての医師が「道徳に目覚めた」時と 同じ振舞いをルールで再現することは、たぶん十分に可能なはず。

問題はシンプル。一つの症状にかかわる医療機関なんて、せいぜい3つぐらいなものだし、 月一回診療報酬を締めるとしたら、医師一人は大体、年間4000回、「分配」の審判を 受けることになる。

多様な意見が集められて、各メンバーには同じ情報が与えられて、その判断が独立しているとき、 そのには「集合知」が発生する。シンプルな問題、多様な患者さん、 病気はそもそも個人的な経験だから、 集合知が発生する素地は整っている。

むちゃくちゃな提案ではあるけれど、こんなルールで「患者さんによる医師の査定」を 行ったなら、その結果は案外当てになる気がする。

現行法にほんの一行付け加えるだけで、結構面白いことになると思うんだけれど。

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2007年9月28日

診療における価値動作

動脈穿刺の秘訣

  1. とりあえず動脈を触れる
  2. 触れた指の力を徐々に抜いていく
  3. 動脈は丸いので、最後まで触れている場所の真下に中心がある
  4. そこを狙って穿刺する

心カテをするには、動脈を穿刺できないと話にならない。肘の動脈なんかは結構深いところにあって、 慣れない人はまずこれができなくて、時間がかかる。 心カテの手技時間そのものは10分もかからないのに、 穿刺に時間取られてもう10分かかったりして。

昔から穿刺が下手だった。刺しかたを工夫してみたり、 狙いを定めて、皮膚の下にある動脈を、心の目で見て…なんて。

部下のダメ加減を見かねた上司から教えていただいたのが、上のやりかた。

教えられてしまえば当たり前のことなんだけれど、「動脈の真ん中に針が刺さる」 という結果にたどり着くためには、必ず通らなくてはいけない工程というものがあって、 見える人にはそれが見えるけれど、見えない人には、どうやってもゴールしか見えない。

ゴールにたどりつくための道が見えない人がゴールを目指しても、 地図なしで山の頂上を目指すようなもので、上手く行かない。

上司から「地図」をいただいて、それでもやっぱり穿刺は下手だったけれど、 見えていなかった何かが、少しだけ見えた気がした。

工程ばらしが得意な人は教えるのが上手

一つの成果が出るまでの工程を、たとえば 10 のシンプルな動作に分けて記述することができる人は、 黙ってその成果にたどり着いてしまう人よりも、誰かに「成果の出しかた」を教えるのが上手。

本能で成果を出してしまう人、成果が出るまでの過程を記述できない人というのは、 たぶん「成果が出ないことを叱る」ことでしか人を教えられない。

中間工程を分割して記述できる人は、その人に見えるいくつかの工程のうち、 正しくできた部分をほめながら、間違った部分を矯正し、成果へと導いていくことができる。

そもそも人に教える必要がないのなら、工程を記述する必要もないのかもしれないけれど、 成果に再現性を求められたり、成果をより改良する必要があるときは、 やっぱり記述は大切。

価値動作の考えかた

どの工程に意味があるのか ?

工程ばらしが行われると、記述された工程それぞれの価値を査定することができる。

「価値動作」というのは、その動作が成果に直結していて、絶対に外すことができない動作。 裏を返せば、それ以外の工程は省略できるし、省略すればそれだけコストも下がるし、 場合によってはそのほうが、コスト以外のメリットを生むかもしれない。

手技を行う側にとっての意味ある動作と、対価を払う側にとって意味のある動作とは、 しばしば異なる。

慣れない術者は、見えない動脈を前にして、しばしば考え込んでしまう。 慣れていない人にとっては、この工程は大切なものだけれど省略可能なものだし、 患者さんにとってのこんな工程は、「自信無さそうな医者が黙ってる」 としか写らない。

行為の評価というのは、本来その効果を受ける側からしか評価できない。

教官の授業を評価するなら、それは教官でなく学生に意見を聞くべきだし、 ある行為が良いことか悪いことかを決定するには、その行為を行った人の言葉ではなく、 その行為を受けた人の意見を聞かないといけない。「よかれと思ってやった」とか、 「自分としては最善を尽くした」という行為者の内面は、 行為を受けた側からは見えないし、意味をなさない。

医療にとっての価値動作

問診して所見とって考えて、考えてから検査を出して、検査を見てからまた考えて。 考えに考え抜いて、やっと一つの病名にたどり着いて、それから薬を処方して。

医師は考える。原因やら、病因やら、病理やら薬の作用機序やら、一生懸命考える。 考えに考え抜いて、教科書どおりの薬を出す。

最初から教科書の正解読んで処方出した医者と、考え抜いた医者と。 いいかげんな思考回路を持った医師と、「誠意ある思考」を行った医師と。

治療を受ける患者さんの側から「診療という行為」を論じたとき、 果たしてこの「誠意ある医師の思考」というものには、意味を見出せるのだろうか?

工程ばらしは、価値動作を洗い出す。診療という行為の成果を「治療法の選択」に おいた場合、問診、検査あたりはかろうじて価値動作の範疇。検査を提出して以降、 実際に処方箋が切られるまでの思考過程は、あるいは全て「無価値」として査定されるかもしれない。

行為の評価は、行為の受け手目線で行わなくてはならない。

患者さんの視点から医師の価値を査定すると、反射神経だけで診療して、 余った時間をリップサービスに回す医者というのは価値が高い。 まじめに考えて診療する医師、寡黙だけれどよく考えて、 正しいやりかたで結論にたどり着く医師というのは、 患者さんにはたぶん、その「よさ」というものは伝わらない。

用材性のこと

たとえば打つための釘や木がない、ただそこにある道具としての金槌には価値がない。

椅子やタンスを作ったり、あるいは人を傷つけるための凶器としてであれ、 金槌というのは、それが役に立つ相手との関係が成立して、初めてその意味を持つ。

ただそこにあるだけの道具、何かの効果につながらない思考というものには、 だからこそ意味がなくて、それは本来、省略可能、あるいは有害なものとして考えないといけない。

要請されてもいないのに、内面的な思考を表に出すと、たいていろくなことがおきない。

痴呆がひどくて点滴ができない。糖尿病の管理が悪いから、薬が効きにくい。

患者さんの目線から見て、「点滴ができない」、「薬が効きにくい」は客観的事実。 痴呆やら糖尿病やらは、それは医師側の事実としてあるのかもしれないけれど、 患者側の事実との因果関係を証明できないから、患者側からは医師の内面的思考にしかうつらない。

治療が上手く行かないいいわけをこんな言い回しで行うと、だからこそ トラブルになって、医師-患者のいらない対立を生んでしまう。

こんなときは、単純に点滴ができないこと、教科書的な治療を行っても反応が乏しいこと だけをまず伝える。自分の理解とは異なった事実を伝えられた患者さんは、 そこで初めて疑問を持つ。患者さんが疑問を持って、医師の見解、あるいは内面的な思考 というものは、そこで初めて患者さんにとっての存在意義を獲得する。

内面的な思考というものは、 患者さんが疑問を持って、自ら問うまで答えないほうが、だからトラブルになりにくい。

もちろん「全ては目の前の医者が悪いんだ」なんて理屈で 認知的な不協和を解決されちゃうと、今度は自分達の首が危ない。そのへん ニュアンスで。

結論めいたもの

なんとなく、医師が頭を使う方向で進歩するのは、やっぱり間違っているような気がする。

抗生物質の使いかたとか、あるいは腹痛の診断であったりとか。

いろんな理論が発表されて、正しいやりかた、正しい診断、いろんな「正しさ」が 医師の頭に突っ込まれて、バックグラウンドでの作業は増える一方。

いろんな意見を飲み込んで、医師はますます「正しく」なるんだけれど、 その正しさは残念ながら患者さんには全く伝わらなくて、目の前の医者は経験積んで、 患者側からはますます鈍重に、無能な存在に見えてきたりして。

たとえば発熱で来た患者さんに、挨拶代わりに広域抗生物質落とせば、 問診以下の検査は全て省略できるし、腹痛で来た患者さんに問答無用でCT撮れば、 たいていの場合はそれで終わる。もちろんこんなやりかたの問題点なんて 挙げればきりがないけれど、それを解決するのもまた、技術的な進歩。

「病院の門くぐったら、その場で診断が出て、治療が始まる」

そんなSFめいたやりかた、医療が進歩して、機械が進歩して、 医師の存在が無意味化していくような、そんなやりかたこそが、 本来医療が目指すべき目標なんだと思う。

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2007年9月25日

ネット時代の煽動技法

ジャーナリストの 有田 芳生 氏が、北村弁護士の演説を、コラムで批判的に紹介していた。

「声が裏返り、口汚く語っている。どこの議員だろうかと冷ややかに見ていたらキタムラとかいうタレント弁護士だった」

有田 氏の言論は、一見見たままの事実を語ったようでいて、「口汚く」であったり、 「キタムラとかいうタレント弁護士」であったり、事実と事実とをつなぐ言葉に 自らの意思を忍び込ませる、伝統的な言論技法。

冷ややかに見たのは誰なのか。キタムラをしょせんタレントだと見下したのは誰なのか。 もちろんそれは文章を書いた有田氏自身なんだけれど、文章が上手な人は、 それを「読者一般」の視点から見たように描く。

「ジャーナリストである有田氏個人はこう思った」という立ち位置は、文章からは隠蔽される。 昔はこんな書きかたこそが平等な視点を演出して、執筆者に対する信頼を生んだけれど、 今の読者目線は変化して、たぶんプロパガンダの伝統的なやりかたは、 昔ほどの力を持てないように思う。

伝統芸能としての扇動手法

大衆の無知を信じること。良いことをを声高に喧伝して、悪いことは最初から 無かったように振舞うこと。論理より感情に訴えること。思想を単純化し、断定し、反復すること。 レッテルを張り、複雑な問題を一つのラベルに単純化して、世の中を敵と味方とに2 分すること。

レーニン発祥、ナチスドイツが発展させた扇動手法はもちろん今でも現役で、 マスコミはもちろん、ほとんどの政治家は、当たり前のようにこんなやりかた。

大衆の無知を信じる。これを信じきれないで対話に走った民主党の岡田代表は、 「自民党を信じるか、郵便局の利権を増長させるか」の小泉首相のやりかたに敗北した。 最近は、与党、野党を問わず、美しいスローガンの応酬。

みんないいかげん飽きていて、伝統芸能も大分空虚に見えてきた。

マイクグラベル翁のやりかた

アメリカ民主党にマイク・グラベルという大統領候補がいて、この人の演説がめっぽう面白い。

アラスカから来た76歳、単なる泡沫候補だとみなされていたこの候補者は、 民主党の他の候補との討論会の中で、正直で、率直で、過激な意見を連発して、 ネットを通じて一気に有名になった。

北村弁護士の演説も、マイク・グラベル翁のやりかたもそうなんだけれど、 やっていることはあくまでも伝統の踏襲。

きれいごとを並べて、自分の立場に悪いことはあまり語らないで、 正しいけれど極端なやりかたをぶち上げる、 都知事選に立候補した外山恒一氏なんかが戯画化して演じてみせたような、 そんなやりかた。

基本はみんな一緒。それなのに、北村弁護士の扇動は面白かったし、 そうでない人の扇動は、退屈どころか不快ですらある。

実際問題、現実がそんなに上手くいくわけがないし、演者がどんなに頭がよくても、 世の中全てが見えるわけが無くて。北村弁護士の演説にしても、 マイク・グラベル翁の演説にしても、あるいはそこから説得力を感じた人は そんなに多くなかったのかもしれないけれど、そこから「熱さ」を感じた人は、 きっとたくさんいたはず。

優れた煽動者にあって、凡百の、技術だけ真似た政治家には無い「熱さ」、 これが何から来ているのか、目端の効く政治家の人達は、きっと彼らの言葉、 彼らが使った技術を検証し始めているのだろうし、 たとえばあの場所に立ったのが北村弁護士でなくて、ジャニーズのタレントだったなら、 あるいはそこに同じ熱狂が生じたのかどうか、技術の属人性に関する検討 なんかも、きっとどこかでやられているのだと思う。

伝わりやすさと分かりやすさ

説得だとか交渉だとか、コミュニケーターを志向する人達は、 みんな少なからず「煽動」に対する憧れを抱いている。

政治がやりたいとか、利権に乗っかりたいとかそんなじゃなくて、 自分達が追求して来た技術の先には1 対多のコミュニケーション、「煽動」があって、 それこそが自分の技術を表現する場に見えるから。

煽動というのは、説得力の足りないところ、あるいは自陣営の論理の欠陥を、勢いで押し流すやりかた。

昔の煽動者は、たぶん世論の7 割、「大衆」なんて呼ばれた人達を 押さえられれば、勝利が約束されていた。残りの3割の声なんて小さなものだし、 そこに何か光る意見があったとしても、大衆の同調圧力は、それを潰してくれた。

今の煽動者は、世論の9 割を取っても安心できない。

残り1割の中には、たいていの場合、煽動者以上に頭がいい専門家が混じっていて、 専門知識に「後だしじゃんけん」の地の利を混ぜて反論してくるから、 議論になったら確実に負け。今は誰もが発信する時代。9 割取れてても、 分かりやすい、説得力のある意見を出されれば、それからひっくり返る目だって十分にあって。

北村弁護士とマイク・グラベル候補。2人の優れた煽動者が、歴代と異なっているのは以下の部分。

  • 負けるのが前提の議論を展開していること
  • 自らの立ち位置を明らかにすること
  • 自らの履歴を矛盾なく説明できること
  • 伝わりやすい議論でなく、分かりやすい議論を行ったこと

従来、煽動というのは勝利を確実にするために仕掛けるやりかた。彼らはむしろ「敗者」の側、 従来ならば論理で持って煽動に対抗する側の人間だったのに、逆に煽動の手法で持って、 勝者が掲げる論理の薄っぺらさを晒そうとする。

自らの立ち位置を明らかにして、言論の責任を自分自身に持ってくるやりかた。ある意味彼らは 確定した敗者だから、「我々は…」とか、「市民は…」をやると、被害が回りに及ぶ。 責任は自分が引き受ける。それをやられると、対抗する側は、もちろん「自らの責任」で発言しないと、 その言葉には説得力がなくなってしまう。そしてたぶん、「優勢」側には、自分でハンコを押したくない人が たくさんいるから、こんな勝負を仕掛けられると馬脚を現す。

恐らくは、「伝わりやすさ」ではなく「分かりやすさ」を選んだことというのが、「熱さ」を生み出した最大の要因。

伝わりやすい話というのは、単純で、きれいで、イメージを優先したやりかた。 もちろん問題点は隠蔽されるし、相手は一方的に悪くなる。自陣営の戦略が実現すれば 未来は薔薇色だし、「伝わった」人は、無条件で演者に従うことが要請される。

分かりやすい話というのは、聴衆に思考を強制するやりかた。 戦略にはもちろん目的があって、それを提示する理由や、それを提示しなくてはいけない現状認識があって。 もちろん予算も必要だし、それが行われたときに聴衆が甘受しなくてはいけない不利益だって指摘しなくちゃいけない。 自らがこうむる不利益が可視化されるからこそ、聴衆は「大衆」を止めることを余儀なくされて、 自分の耳で、煽動者と、それから相手陣営の話を聞いて、判断することを強制される。

優勢側が予定通りの勝利をおさめるならば、待っているのはお上品な密室談義。

本来議論なんてそんな上品に行くわけなくて、利害の対立した者同士、 議論を全て可視化したなら、そこにあるのは殴り合いの喧嘩。

ネット時代の煽動者は、「極端で下品な正論」で持って、 お上品な密室談義を、下品で分かりやすい「喧嘩」へと、議論の可視化をはかろうとする。

無知で騙されやすく、流されやすくて忘れやすい、そんな「大衆」を作る原動力が、 自由への恐怖。 自分で考えて判断するのは本来怖いことだから、みんなまわりの意見を聞いて、人の集まりは 大衆へと姿を変える。

たぶんこれからの煽動者は、煽動の先に大衆の解体を夢見る。人を煽動して、 自由への恐怖よりももっと恐ろしい何か、衆愚への恐怖を可視化して、 人を思考に引きずり込もうとする。

煽動の技術というものが、あるいはこんなふうに使えるのなら、 「熱く語る人々」という存在は、これからもっと歓迎されてもいいように思う。

追記:福田総理が就任記者会見の中で、「政治不信の払拭をまず考え、政策を練る」ということを 言っておられた。

マイク・グラベル候補なら、きっとこんな発言するんだろうな、と思った。

「所信表明じゃなくて、法律を制定すべきだよ。 クリーンじゃなきゃ重罪になるという法律を作るんだ。その条文は私が用意する
野党の妨害が心配なら、戦術をさずけよう。 衆議院は通過できるだろうな。すでに多数派だから。 参議院では、牛歩をやらせればいいさ。それで、参議院議長は毎日12時に 討論終結動議を出すんだ。
そして国民に、誰が議論を長引かせているのかハッキリと見せてやれ!

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2007年9月24日

北村弁護士の演説のこと

北村弁護士の応援演説が 熱くて面白い。

結局麻生総理は実現しなかったけれど、 「おっさんが熱く語るのは、本当はかっこいい」ことを示し得たこと、 「個人の言葉はまだまだ力を持っている」ことを示したことは、大きな成果だったと思う。

言論の担保を自分に持ってくるやりかた

こんにちはー! 私は自民党員でもなければ政治家でもありません。 だから、この自民党がどうなろうが私は関係ない(聴衆笑い)。

私から見て、この民主党の政策というのは私から見ればですよ、 素人の私から見れば、この自民党政権がかつておかした過ちをそのままやろうとしている。

マスメディアとか、あるいは論文なんかは、「一般にこう言われている」という書きかた。

言論の担保を「一般」とか「伝統的に…」とか、実体のない何かに託しているから、 喧嘩にはならないけれど、あと一歩踏み込めない。

言葉の責任は、本来それを語った人自身にある。でもそれを認めるのは 非常に怖いことだし、あとから間違いが見つかったとき、その責任を償わないといけない。

自分の立ち位置を明らかにして、その視点から見えるものを語るやりかたというのは、 だからこそ勇気がいるし、その勇気が説得力を生む。

「品の悪い私」という立ち位置

麻生太郎本人は、非常に品のいい男だ。だから品の悪い私が言ってるんだよ。わかるかね!!

「よさ」で引っ張るやりかたは、「私は最高だ。それに気がついて私を支持するあなたたちも最高だ」 という論理。正義を背負う、最近のマスメディアの立ち位置がこんなやりかた。

「よい」とか「賢い」、「知識がある」というパラメーターは、本当は解答すべき問題を 定義されないと、比較可能な数字として機能できない。

「この高度計を使って、大学にあるタワーの高さを計算しなさい」
こんな問題を出された大学生は、高度計と長い紐を持ってタワーに上り、 高度計を紐につるしてタワーから下ろし、紐の長さを測定した。
教授はそれを「間違えだ」として、大学生にもう一度タワーの高さを 測るように命じた。
大学生は、今度は高度計の高さを使って三角測量を行い、タワーの高さを計算した。
この学生は、結局高度計を使ってタワーの高さを測定する方法を6つ考案したけれど、 高度計の機能そのものを使った計算方法は提案しなかったので、教授はついに、 彼を合格にしなかった。

この大学生の知識量というのは、タワーに上がって高度計の目盛りを読んだ学生よりも 明らかに多いのに、教授の示した問題という視点から見ると、 この学生の持つ知識は不十分なものと判断された。

「知識があるかないか」という評価は、こんなふうに問題を定義されないと 決定できなくて、観測する人の立ち位置はみんな異なるから、知識の量というのは本来、 相対的にしか決定できない。

「私はあなたよりも勉強していて知識が豊富です。私の言葉を信じなさい」なんてやりかた、 マスコミの人達とか、市民団体の人達とか、全方向的に善であり、正義であることを前提に 議論を展開する、こんな人達に共通の胡散臭さというのは、 たぶん知識量、勉強量というパラメーターを、問題定義を無視した 絶対的な量として主張するところから生まれているのだと思う。

水が流れるためには重力が必要なように、言葉を流すには、演者にあって聴衆にない「何か」の 存在が欠かせない。従来それは「よさ」であったり「賢さ」であったのだけれど、 北村弁護士が使ったのは「下品さ」というパラメーター。

「よさ」が胡散臭いからといって、ならば「私は馬鹿です。支持して下さい」なんてやったところで、 言葉は伝わらない。これをやると、「ならばどうして馬鹿である演者に物事がよく見えて、もっと賢いはずの 聴衆にはそれが見えなかったのか?」という自己矛盾に陥ってしまう。

下品であるという立場は、「私は下品だからこそ、上品さを持った人が目をそむけていることを指摘できるんだ」 という力を持っていて、もしかすると聴衆と演者との目線の高さを上手に揃えて、 優越感ゲームを回避するのにとても上手いやりかたに思える。

頭がいい人というのは、プライドが高い。北村弁護士もまた、演説中に「プライドの高い人」という言葉を 批判的に使用している。裏を返すと、本当は頭のいい人がプライドを捨てたとき、 「留保のない善」を立ち位置にした言論は、もはや抗う術がなくなってしまう。

だまされていたけど真実に目覚めた私

一般の人ももしかしてわかってないんじゃないかと思ったの。だからここに来たんですよ。 でも先ほどネットの情報を聞いてみると、実は国民はわかってるらしい。

「あなた達は、本当は分かっている」。これは言論に「上から目線」の臭いがつくのを回避するための 伝統的なやりかただけれど、普通は「私はそれを見抜いている」と続く。 北村弁護士は「みんな分かっているけれど、マスコミがそれを報道しないから分かっていないことにされている」 と続ける。

共通の敵を作るやりかたは、演説をする人と、聴衆との一体感を高める効果的な方法だけれど、 「敵が敵として機能しないと、言論そのものが崩壊する」という弱点を併せ持つ。

北村弁護士は、マスコミが、絶対悪として振舞うのに欠かせない「不自由さ」を持っている ことを見切って、あえて共通の敵を作りにいったのだと思う。

悪役としてのマスコミの不自由さ

扇動を効率よく行うためには「闘争のための敵」が必要になる。

北村弁護士の論理というのは、マスコミが絶対悪としてその立ち位置を崩さないことが 前提になっていて、たとえばどこかのメディアが麻生支持を打ち出した報道を行っていたり、 福田総理擁立に対して批判的な言論を展開していたりしたら、最初から成り立たない。

少し前まで、マスコミというのは善でもあり、悪でもあり、とにかく面白ければ 何でも飲み込んで放映してしまう、もっと混沌としたものであったはず。

今回の北村弁護士演説は、支持するしないを問わず、少なくとも「面白い」。

マスメディアに余裕があった頃なら、あれだけ面白い「絵」が撮れる機会があれば、 絶対に放置しなかったはず。

その日の夜には特番組まれて、福田派の代議士と北村弁護士、ビート武とかテリー伊藤とか、 火に油を注ぐ芸風の人達を司会に混ぜて、荒れに荒れた討論の末に 「テレビ局なんて潰れちまえ」なんて結論で、全員一致して幕下ろしたり、 そんな流れでも「面白いんだから」で正当化されてしまったはず。

マスコミを共通の敵として認識するやりかたは、ほんの少し前のテレビメディア、 河原乞食を自認して、新聞みたいな高級なペーパーメディアに対抗して、 下らなさとか、娯楽の王様としての存在感なんかに命賭けてた頃のマスコミには 無意味であったと思う。

メディア自体が変わったのか、それともメディアを取り巻く視聴者が変わったのかは 分からないけれど、テレビはいつのまにか「下品さ」を受容できなくなって、 みんなの「共通の敵」としての存在感と、不自由さとを併せ持つようになってしまった。

仮面ライダーみたいな勧善懲悪もののドラマの悪役、悪の組織の帝王みたいな立場の人は、 自らの利益を最優先するにもかかわらず、どんな時にも「悪である」という立ち位置から逃れられない、 ものすごい不自由さを背負わされている。

「悪の定義」というのは本来、立場からの自由。悪の組織は、たとえば仮面ライダーが破壊した 自然環境を宣伝するとか、「胡散臭い正義の下に一方的に叩かれるかわいそうな我々」を訴えたりとか、 自らの利益を最優先して、自らの立場をコロコロ変える。

一方で誰かを叩きながら、別の番組では味方をしたり、世間がそれを指摘したなら、 今度はそのエネルギーをも視聴率稼ぎに利用してみたり。こんな節操のなさこそが、 昔のテレビだったように思うのだけれど、今のマスメディアは、 もしかしたら自らの「良さ」を自己言及的に強調していったあまり、 こうした立場からの自由を失ってしまったのかもしれない。

混沌が秩序を滅ぼす

手段が目的に転化するときは、一つの組織が滅びる兆候でもある。

正義の立ち位置は本来、マスメディアが視聴者を釣るための単なる方便であったはずで、 メディア本来の目的というのは、あくまでも「マス」、多くの人を引っ張り込むことであったはず。

ネットでこれだけ盛り上がった北村演説が、もしも本当に報道されなくて、 このままネットメディアだけでその面白さを共有するものになるのなら、 マスメディアはあるいは、目的を捨てて、手段に舵を切る覚悟を決めたのかもしれない。

自分の親を殺してでも笑いをとれ。

萩本欣一的な、テリー伊藤的な、土屋敏男的な、「元気が出るテレビ」的な、 自分がある面ですごく信用してきた、あらゆるものを「面白い」のひと言で飲み込んで放映する、 面白さのためなら自分の頭を撃つことだって厭わないような、少し前のマスメディアが持っていた混沌。

マスメディアが正義に秩序化されて死ぬのが規定路線なら、 オールドメディアが築いた秩序を壊してきたことこそが、 メディアが進化してきた道筋であるのなら。

北村演説を見て、なんだかすごく面白い瞬間に立ちあっている気分になった。

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2007年9月22日

美的感覚が逆転するとき

「相転移」という現象が面白い。環境を決定するパラメーターの変化は常に連続的で、 ゆっくりとしたものなのに、表面に現れてくる変化は劇的。昨日まで何も変わらなかった 日常の連続が、ある日を境に全くの別世界になるような。

技術が成熟して、同じ事をやるのに要するコストはだんだんと安価になって。 成功が重なり、それが成果でなく当たり前のことになり、失敗したときのコストばかりが 加速していく昨今。

たぶん、技術が成熟してくるどこかのタイミングで、「その問題に誰が取り組むのが最善なのか」 を論じるコストが、「その場で使える全員に、同じ問題に取り組ませる」コストを上回る 時が来るのだと思う。

問題の取り組みかたは真逆になる。それまでは、問題を慎重に吟味して、 「最善の誰か」を選んで、その人が問題に取り組む。技術が成熟して安価になると、 「そのへんにいる技術者全員に同じ問題を放り投げて、出来上がった成果の中から、 一番よさそうなものを採用する」やりかたを行っても、そんなにコストが変わらなかったり、 もしかしたらかえって安上がりになる。

発注する人が何も考えなくていい分、後者のやりかたのほうが、 結果が出るのは圧倒的に早い。その技術領域に「競争」が保たれているのであれば、 変化は劇的なものになるかもしれない。

プロセッサーのこと

以下しばらく、適当な理解の上にうろ覚え。間違いのご指摘をいただければ幸いです…。

コンピューター神の一人、D.クヌースがプロセッサーを設計する仕事をしていたとき、 一つの計算に対して、CPU 内の全ての計算機を動作させたときのほうが、 必要な計算機だけを動作させたときよりも、動作が圧倒的に速かったことに気がついたのだという。

CPU 内には、乗算器であったり、加算器であったり、無数の計算ユニットがあって、 2つの数を足したいときには もちろん加算器だけを動作されればいい。ところがこのやりかたには問題があって、加算器だけ 動かして、乗算器に「お前は休め」という命令をくっつけるコストが莫大になってしまって、 速度が上がらない。

「計算機的に正しいやりかた」は、2つの数が入力されたら、とりあえずCPU内の全ての計算機が 計算プロセスを走らせる。出力には加算を行った結果、乗算を行った結果など、 いろんなデータが出てくるけれど、もちろん必要な結果以外は全て破棄される。 一つの刺激でものすごい数の脳細胞が働く、人間の脳にどこか似ている。

こんなやりかたをすると、必要な計算を行った以外の計算機は全て無駄足を踏むのだけれど、 計算のスピードは圧倒的に速くなって、結局プロセッサーを停止させる命令は 組み込まなかったのだという。

道徳的な美しさと計算的な美しさ

門外漢から見ると、こんなやりかたは無駄が多くて、何となく「美しくない」。

どんな正しさが美しいと感じられるのか?。

たぶんこれには一般解がある。

技術の黎明期には、もちろん発想の正しさ。技術がまだまだコスト高で、 その技術を遣っていること自体が売りになっていた時代には、たぶん美しく見えたのは、 プロセスの正しさ。 技術がもっと進化して、それがあって当たり前になってしまうと、 たぶんプロセスの正しさなんか評価されなくなってしまって、「結果の正しさ」こそが美しいと 評価されるようになる。

プロセッサーを設計する人達、あるいはプログラムを組む人達にもきっと美的な感覚というものが あるのだろうけれど、自分達の成果物に対して、「道徳的な美しさ」と「経済的な美しさ」とが コンフリクトおこすことはないんだろうか?

医療の分野なんかだと、たとえば抗生物質の選択。

自分達が研修医だった頃は、「正しく診断して、正しい抗生物質を使いましょう」なんて教わった。

熱が出ている。状態も悪そう。とりあえず、何でもいいから抗生剤使いたい。 こんなときに「とりあえず」なんてやったらむちゃくちゃ怒られて、 まずは話を聞いて診察をして、それから検査やら、培養やら、グラム染色やらを一通り行って、 それからはじめて適切な抗生物質を考えて、点滴をする。大体2 時間。

時は流れて、「細菌は待ってくれない」なんて当たり前の結果が論文に乗っかって、 今ではなるべく早くに抗生剤を使いましょうなんてガイドラインに書かれるように なったけれど、「正しいやりかた」の手順は昔のまま。

自分だって「正しいやりかた」のほうを美しいと感じるセンスが残っていて、 挨拶もそこそこに抗生剤落として、それから考える自分のやりかたは、 やっぱり「汚いやりかた」なんだと思ってしまう。いつかこれが主流になると信じてるけど。

あいまいなものをあいまいに処理するやりかた

物事を前に進める「科学」と、科学者が作った成果物を実世界に応用した「技術」と。

技術はきっと、「扱う問題の複雑さ」と、「問題を解決するのに必要な理解の深さ」で いくつかに分類できる。

医療なんかはたぶん、問題は常にあいまいで、問題の解決には、もしかしたら 医学に関する深い理解は必ずし必要としない。

あいまいなものをあいまいに処理する場合、それを確実な結果につなげるためには、 早さを重視しないといけない。あいまいな問題は、時間と共にその形を変えてしまうから、 時間をかけて「本当に正しい答え」を見つけたところで、それを適用する頃には、 問題の形が変わってしまう。

「深く正しく考えて、正しいことを行う」やりかたは、道徳的には正しく、美しいけれど、 結果の確実さだけを評価する立場からは、そのやりかたは正しくもなければ美しくもない。

「正しいやりかた」を疑い続けること

プロセスに価値を見出さず、結果に価値を見出す立場。 医療なんかだと、診察も、診断も、それどころか病気をおこした原因にすらも価値はなくて、 意味を持つのは治療手段のみ。

  • 同じ治療で治癒する病気は、そもそも疾患名を分ける意味はないし、 診断をつける意味がないのなら、たぶん何となく抗生物質の使用を決断した時点で、 それ以降の診察やら検査やらはすべて無駄なものとして評価される
  • 同じ疾患名であっても、ある治療に効果があるものと、そうでないものとが あるのなら、それは本来違った疾患として扱われるべき何か。どんなにコストが高くても、 そんな検査があるなら真っ先になされるべきだし、今度はその検査技術をコストダウン する手段を考えないといけない
  • 「治療のスケール」という考えかたが必要になる。極端な話、「熱が出ない、喘鳴を伴った呼吸不全」 の治療というのは、喘息の治療と心不全の治療を同時に行えばいいだけの話。 それぞれの診断名ごとに最適な治療を行うならば、両者の治療は一部かちあってくるけれど、 治療を「甘く」していいのなら、2つの治療手段を同時に走らせて、一切の検査を省略しましょう、なんて 話が出てくるはず
  • 治療スケールごとに「同じ治療」が許される病気であるなら、その中では鑑別診断は不必要だし、 たとえば胸部の聴診であったり、レントゲン写真やら、血液検査やらといった評価も不必要になる。 逆に、スケールをまたぐ疾患を見分けるために、たとえばCTを頭から腹まで撮る必要があるのなら、 技術を投入すべきはCTを安く施行することであって、より確実な診断をつける技術は必要なくなる

技術にはいろんな「正しさ」があって、技術に対する考えかたの違いによって、 一番ふさわしい正しさが変わってくる。

医療はたぶん、まだまだプロセスの正しさが一番重要視されていて、 今でもよく論文になるのは、「時間がかかるけれど、より正確な診断ができる」検査手段であったり、 今まで同じやりかたで治療していた病気を2つに分けて、 特定の人にもう少しだけ良く効く治療手段であったり。 技術は微細化、タコツボ化しているけれど、あいまいにいってもいいところを厳密にやろうとしていて、 何となく回り道。

「正しい診察、正しい診療の先に正しい結果が出現する」みたいな確信を疑うのが大切なんだと思う。

システムをどんなに理解したところで、システムの生む結果をコントロールするのは不可能だけれど、 システムの撹乱に気がつくのは案外容易だし、撹乱した先の結果を確率論的に読むこともまた、 システムをそんなに理解していなくても可能。

望ましい結果を生むのに大切なのは、たぶん対処の早さと大雑把なものの見かた。

訴訟のプレッシャーと包括支払い制度の導入は、 診断学、あるいは診療そのものを書き換えるかもしれない。

医療を取り巻く環境が変化するならば、医療もまた、 その環境変化に最適化していかないと生きていけない。

世界はそう、美しくあらねばならない。最適化した果ての美しさがその人の美学を響かせないのなら、 もはやその人の居場所というのは、その世界にはもう存在しない。

あいまいなものをあいまいなまま処理するやりかた。1日待って、成功率9割の治療を走らせるなら、 その場ですぐに成功率7割の治療を2つ走らせるようなやりかた。非効率で、不恰好で、 頭を使わない、むしろ「医師が頭を使うこと」それ自体を害悪とみなすような、そんなやりかたをこそ 「美しい」と感覚する医師がこれから出てくるのなら、医療もきっと、そろそろ相転移の時期。

こんな流れになったら、もちろん医師の地位なんて地に落ちて、 医療を前に進めるのは、医師よりもむしろ理学部の人達のお仕事になって。

自分もきっと、間違いなく置いてけぼりにされる側なんだけれど。

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2007年9月21日

社会の表現型としての道徳

道徳というものは、環境の変化に対して社会がとる表現型であって、 道徳をいくら叫んだところで、環境を変化させない限り、 社会が道徳に追従することはないのだと思う。

医者が良識を失った。マスコミが露悪的になって、国民は怒り、政治家は迷い、 弁護士だけがますます元気。

昔はよかった。技術者はがんばって、マスコミはそれを賞賛した。 みんな道徳持っていたから、「名声よりもお金ちょうだい」なんて品のないこと、 誰も口にしなかった。

「道徳」なんて言葉で括られる考えかた。医者の良識。マスコミの慎み。 国民の忍耐力。政治家の清貧。いろんな立場の人たちが、なぜだかいろんな理由でそれを失って、 ただ一人道徳を守りつづけてきた司法の人達は、今では上から目線で高笑い。

適応結果としての道徳

道徳というのは達成すべき目標として「あった」のではなくて、 社会が環境に適応していく中で、最もエネルギーを使わない表現型として、 道徳というありかたに行き着いたのだと思う。

たとえば環境に対するありかたが同じであれば、 系統の違う生き物が、同じ形に収斂する。

魚類であるサメと、爬虫類であったイクチオサウルスと、哺乳類であるイルカやシャチは、 生まれた年代も、その出自も全く異なるのに、似たような形をしている。

彼らに「魚っぽい形はかっこいいよね」なんて思いを共有できるわけがなくて、 彼らが共有していたのは、「海の肉食動物」という環境に対する立ち位置だけ。 同じ表現型への収斂という現象は、達成すべき目標に行き着いたのではなくて、 そのときおかれた環境の中で、生き延びるのに一番ふさわしい形がたまたま 同じであったのにすぎない。

表現型はまた、環境のわずかな変化によって、劇的に変化する。

大昔、うんと小さなトカゲにしかすぎなかった爬虫類は、気候の変化に適応して、 巨大な恐竜へと進化した。しばらくして地球が冷えると、彼らは一気に姿を消して、 それ以降は哺乳類の時代へ。生物相の変化は劇的であったけれど、つまるところは 温度の変化であったり、地球が受けるエネルギーの変化であったり。 大元の変化は、ごく微妙なものであったはず。

道徳を作っていたもの

「よかった昔」が持っていた道徳という考えかたは、おそらくは村社会の嫌な部分、 見たくなくても見えてしまう隣近所のプライバシーであったり、何をするにも ご近所の迷惑を考えないと自由に振舞えない社会であったり、そんな「強すぎる絆」 という環境に社会が適応した結果として出来上がった表現型。

みんなが比較的自由に振舞っている現代と、ある種の人たちが「よかった昔」として懐かしむ 昭和40年代と。人同士を結ぶ絆というのは、時代と共に浅く広く変化していったけれど、 その変化はおそらく、そんなに劇的なものではなかったはず。

それはごくわずかな気温の低下が恐竜を滅ぼしたのに似た歩み。 道路が良くなって、選択の余地がなかった村の病院が、 車で行ける範囲なら4つぐらいから選べたり。通信が良くなって、新聞読まなくても ラジオやテレビで代用できるようになったり。

選択の幅が広がると、刺激の強いニュース以外は注目されなくなってみたり、 技術にはサービスという負荷価値つけないと怒られるようになって。 社会のいろんな場所で、こんな微妙な変化がゆっくり進んで、 そのうち誰かの変化は、別の誰かの変化を加速するようになって、 変化の積み重ねがある閾値を越えたのが、おそらくは誰かが「昔はよかった」なんて ぼやきはじめた頃。

道徳は進化する

時代が進んで、「道徳」なんて考えかたは本当になくなったのかもしれないけれど、 今から良識だとか道徳だとか叫んだところで、環境の変化に対してもはやそれが 最適解にならない以上、叫んでも道徳は戻ってこない。

道徳が本当に良かったものだとして、それを今の世の中に再度取り込もうなんて考えるなら、 やるべきことは「絆」の強化。

たとえばみんなが救急車をタクシーがわりに乗りつぶすのが問題になっているけれど、 全ての家が年に何回救急車を利用したのか、あるいはどんな理由で 救急車を呼んだのか、そんな記録を公開して、ご近所の病気事情を誰もが 簡単に把握できるようにするだけで、たぶん町には「道徳」が戻って、 本当に必要な人達だけが救急車を利用するようになる。

もちろんプライバシーが丸見えになる社会なんて誰も望まないのだろうけれど、 道徳を失う代わりに今の社会が得たものというのは、たぶんそんなことなんだと思う。

時計の針を巻き戻したところで、結果は保証できない。

社会を取り巻く環境のごくわずかな変化が道徳の破壊をもたらすし、 たとえそれを戻したところで、もしかしたらその時の社会が表現する道徳は、 誰かの思惑とは全く違うものになるかもしれない。

たとえば「暖かく乾燥した草原」という環境に対する回答は、 アフリカ大陸ではガゼルやシマウマであったのに、 オーストラリアでは、なぜだかそれがカンガルーになってしまったし。

環境は変化していく。昔は良かったなんて総括を誰かが出した時点で、 その人にとっての「良かった昔」はもうとっくに終わっているはず。

そこで現状最適化の戦略を打ち出せない人というのは、 あるいは良かった昔を夢見ながら、すでに生きながらにして お墓に入っているのかもしれない。

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2007年9月16日

対立の先に生態系を見出す

対立関係にある状況というのは、視点を変えてみると、 お互いに何らかの生態系を構成していることが多い。

いくつかの条件を満たすなら、対立という「お互いがお互いを滅ぼしあう関係」よりも、 むしろ「お互い複雑に依存しあう」という生態系の考えかたのほうが、 実世界の振舞いをより上手く説明しうる。

対立の構造にまきこまれた中の人達は、たぶんその裏にある生態系が見えないし、 外野がそれを「生態系だ」と指摘したところで、その声はたぶん、中の人には 伝わらないし、外野が生態系に影響を与えようとした時点で、その人もまた 系にとり込まれてしまい、生態系はそのありようを変えてしまう。

「中の人」自身が競合関係を一度離れて、自分達を取り巻く生態系を見渡すことができたならば、 生態系を通じた生き残りの手段とか、あるいは生態系を利用した攻撃手段とか、 いろんなやりかたが見えてくるかもしれない。

ペプシチャレンジのこと

「目隠しして飲み比べれば、ペプシコーラはコカコーラよりもおいしく感じる」。

80年代に行われた比較広告「ペプシチャレンジ」は、ペプシコーラの売上げを 大きく伸ばした。

コカコーラは、それでも圧倒的に強かったのに、 「ペプシに勝てる味」を作り出すことを決断して、1985年、今までのコカコーラの 販売を中止して、よりおいしい「ニューコーク」の発売を開始した。

発売直後、「俺達のコークを返せ」という抗議の電話が殺到して、 コカコーラの売上げは大幅に落ちて。コカコーラはすぐに昔の味「コカコーラクラシック」 を再発売して、やっとシェアを回復したのだという。

顧客が本当にほしかったもの

「なんでコーラを勝ったんですか?」なんてアンケートを取れば、まずは10人が10人、 「これがおいしかったから」なんて答えが返ってくるはず。

大切なのはブランドであって、中身はどうだっていいだとか、 好きなのは「コーラを飲んでいる自分」であって、コーラそれ自体じゃないだとか。 そんな答えかたは不道徳だし、何よりもユーザーの直感に反している。

「ペプシチャレンジ」が試みられた80年代、おそらくはペプシの人も、コカコーラの中の人も、 そしてもちろん消費者の人達も、「ユーザーはよりおいしいものに手を伸ばすはず」なんてことを信じていた。 ペプシはペプシで「ペプシのおいしさ」を信じていたし、 コカコーラは「新しいコーク」の開発に乗り出して、見事においしいコーラを作り出して、商業的には大失敗した。

顧客が本当にほしかったのは「おいしさ」なんかじゃなくて「コーラ」。コカコーラを飲んでいる人にとっては、 それは「いつものあれ」だったし、ペプシを飲んでいる人は、「コーラじゃない奴」だったのだと思う。

ペプシジェネレーション

「ペプシチャレンジ」のもっと前、コカコーラの売上げが、ペプシの5倍もあった頃、 ペプシは「ペプシ世代」という言葉を作って、ペプシの売上げを大きく伸ばした。

消費者は「コカコーラ」がほしいのだから、これに逆らっても無駄。 たぶんこの頃のペプシは1番になることなんて考えていなかったから、 「コーラ」というブランドを割る戦略に出た。

「ペプシ世代」の若者は、ちょっと反社会的で、でも流行の先端を行く、そんなイメージ。 ワルっぽいイメージのタレントがペプシを美味しそうに飲む広告。 おじいちゃんとお子ちゃまはコカコーラ。彼らは「ペプシ世代」から取り残された人達と定義された。

悪い人と、悪ぶりたい人と、おじいちゃんにもお子様にもなりたくない人は、 たぶん自らの表現手段としてペプシを選んだ。

「ペプシジェネレーション」の世界観では、あくまでも王様はコカコーラであって、 コーラとペプシとは「おいしさ」なんかで対立していない。ペプシは、 「コーラというありかた」を認めた上で、「ペプシを選ぶという生きかた」を提案した。

ペプシは1番手になる可能性を放棄した代わり、 「ペプシジェネレーションが選択する飲み物」という、安定したニッチを得た。

生態系内での生存戦略

お互いが対立している状況で生き残りを賭けるなら、とるべき手段は簡単。 自らの長所を最大限に宣伝して、相手の欠点をあげつらうだけ。

このやりかたはシンプルで分かりやすくて、その効果が読みやすいにもかかわらず、 実際これをやってみると、かえって自分のイメージを悪くしてしまったり、 相手に塩を送る結果になってしまったり。

おそらく世の中は、「対立」でとらえたほうがいい状況と、「生態系」で捉えたほうが いい状況とがあって、「対立」状況ならば、ためらいなく、一刻も早く打てる手を打ったほうが勝てるだろうし、 それがうまく行かないならば、それは状況の捉えかたが間違っている可能性がある。

  • 外界に対して「閉じた」系を想定できる
  • 生態系内でのプレイヤーは、お互い穏やかなつながりを保っている
  • 各プレイヤーは生態系の設計図を意識することなく、自らのルールに従って行動している

こんな条件が揃っている対立状況ならば、おそらくそこには「生態系」が出現している。

ただの競合関係から、お互いの存在に意義を認めあう、生態系の関係へ。

ルールはそれだけ複雑になる。一方的に相手を攻めれば、生態系はバランスを崩すし、 たとえば相手をほめ続けることが、相手に対するダメージになったり。こんなやりかたが考えられる。

  • 欠点を付加する:ペプシがある日、合成保存料の危険性に目覚めて、 全製品を「保存料の入っていない、3日で腐るコーラ」に切り替える。コカコーラはたぶん、 「120年商売してきて、コーラ飲んで死んだ奴いませんが何か?」なんて反論するのだろうけれど、 これをやるならクラシックコーク以外の全製品を一度取り下げないと、その言葉に説得力がなくなってしまう
  • 公開する:ペプシコーラのレシピの公開や、製造原価の公開。ユーザーはきっと、「自分達はこんなつまらないものを おいしいといって飲んできたのか」と驚くだろうけれど、つまらないものを「すばらしいもの」として売ってきたのは、 たぶんペプシもコカコーラも同じことに気づくはず
  • とりあえず謝る:「この味を作るのに欠かせない某物質が健康に悪いことがわかりました」なんて、 自発的に自分の落ち度を認めてしまう。どうせ化学物質の固まりなんだから、身体に悪い物質の一つや二つ、 必ず入っているはず。もちろん、「欠かせない某物質」はコカコーラにも入ってるんだろうから、 先に謝ったほうが「正直」というポイントを稼げる

このやりかたは、あくまでもペプシ側が勝手に行うことで、コカコーラの名前なんて、 かけらほども口に出してはいけない。

「競合」ルールでは、こんなやりかたというのはたぶん、自らの首を締めるだけ。 自分たちがおかれている状況が「生態系」だと信じることができたならば、要するに ユーザーの賢さに信用をおけるなら、たぶんこんなやりかたは有効なはず。

「中の人」からは生体系が見えない

生態系は、スケールのとりかたによって、いろんな姿をとる。

ペプシとコカコーラの関係。一昔前の掲示板荒らし合戦。 blog の炎上。いじめが発生する学校の教室。医師-患者、あるいは医療-法曹の対立。

たぶん対立ルールで考えたほうが分かりやすいケースと、もしかしたら対立ではなくて、 生態系ルールで何かを考えたほうがいいケースとがあるのだろうけれど、「中の人」たちは、 たぶん自分達が今生態系にいるなんて気がつかないし、「生態系戦略」なんかを 提案されたところで、それは「敵を信じろ」なんて言われてるのに等しいことだから、 それを受け入れるのは難しい。

たとえば潜水艦を外から見ると、乗組員が海の地形を判断しながら潜水艦を操縦している ように見えるけれど、潜水艦の中の人達は、メーターの目盛りを読んで、それが正しい値になるよう、 舵を調整しているだけだったりする。海を見たことがない船乗りなんていないけれど、 もしも潜水艦の中で生まれた子供がいたりしたら、その子供と外の人とでは、 「潜水艦の操縦」なんて概念を共有するのは不可能なはず。

生態系というのは、いろんな関係が重なって、それが系として閉じることで、 はじめてその姿を現すものだから、系にとりこまれた人が、その系に気がつくのは難しい。 頼りになるのはたぶん、潜水艦の乗組員なら「海を見た経験」だったり、 他の潜水艦が戦っているのを外から眺めた経験であったり。

掲示板戦争時代、お互いひたすら叩いて罵るだけだったWeb 上の喧嘩のやりかたは、 「ブログスフィア」なんて言葉が生まれて、生態系の考えかたが実装された今では、 ほとんど通用しなくなってしまった。

今のWeb というのは、いろんな「気候」に適応した、多様な文化を持った人達の集まり。

罵られ、叩かれることで元気が出て、アクセスを伸ばすページもあれば、 逆に「さすが○○さん、いつも鋭い意見勉強になります」 「もっと過激に斬っちゃって下さいね。期待してます」なんて、 穏やかな空気を作る書き込みをもらうことでダメージを受けてしまうページがあったり。 熱帯雨林や砂漠気候なら「恵みの雨」になるこんな書き込みも、 北極に雨が降ったら氷が溶けて、生きものが全滅してしまうような。

「系」を意識した振る舞いが増えてくると、もはやその系は、生態系としての 振る舞いから外れてしまうから、たぶんもうすぐ「ブログスフィア」の考えかたも 通用しなくなくなる。

今度こそ、もう一回り大きな系、実世界とWeb との融合、 実社会での肩書きとか、振る舞いが、Web にも影響してくる時代がくるような気がする。

病院はどうするべきなのか

倫理的な是非は横に置くと、「いじめられっ子」を設定する学校のやりかたというのは、 ものすごく低いコストで、利害が対立する人達をまとめる手段になっている。

いろんな出自、いろんな価値観の子供、あるいはことごとく利害が対立するはずの学校の先生までも 巻き込んで、ひとつの「系」を作り上げる原動力になっているのは、「仲間外れにされたくない」という 強力な同調圧力。その力を維持しているのは、いじめられっ子の存在。

たとえば病院にたくさんいる理不尽なクレームをつけてくる家族であったり、 患者さんであったりのうち、本物のヤクザとか、地元の有力者とか、 そんな力を持っていない誰かを選んで、病院を出入り禁止にしてしまう。

「こんなクレームをいただきました。病院という立場としては、はなはだ不本意ではありますが、 その人に労力を取られてしまうと、他の患者さんの安全な診療を保証できなくなってしまったため、 このたび○○病院を出入り禁止にさせていただきました。ご了承ください」

実際不可能ではあるのだけれど、こんな張り紙一枚、外来に張っておくだけで、 翌日からクレームは激減するはず。

クレームつけてくる人というのは、裏を返せば「病院は、何を要求しても大丈夫な場所」だと心から信じている人だから、 クレームをつけない人以上に、実は病院に対する信頼が厚い。本人もきっと気づいていないだろうけれど。 だからこそ、こんな張り紙出されれば、病院に文句ねじ込めなくなって、もっと穏やかになってくるはず。

上手く行かない要因があるのだとすれば、病院-患者という系は、社会に対して閉じていないこと。 病院は悪い奴らの集まりだと信じてて、自分は病気になんかならないと信じてて、 その上なぜか、自分が病気になったら、医者は手のひら返して自分の治療に全力を尽くしてくれると 信じてる人たち。人権団体とか、市民団体とか。本当は、この人達をも含んだ大きな系を想定しないと、 流れを読むことなんてできないんだろうけれど、そこまでくると想像の埒外。

生態系の理解には、フレーム設定とモデル化が不可欠で、教室のアナロジーまでは 何とかなっても、これを社会全体にまで拡張すると、もうモデル化不可能。

マスコミだとか、司法だとか、市民団体だとか、いろんな対立軸を含んだ大きな系を モデル化できるなら、きっと考えもしなかったような手段が有効な一手になることもあるのだろうけれど。

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2007年9月13日

帯域制限のこと

帯域制限という言葉にずっと引っかかっている。

  • 視覚や触覚は、センサーの情報全てを脳に伝えるわけではなくて、 脳からの指令で「見たいものだけを感覚する」制御を受けて、センサーの段階で情報制限をかける
  • 生まれてばかりの子供の手足は、大人以上に自由に動くけれど、歩けない。重力に適応して、 動作に制限をかけることで「歩行」を獲得して、人は歩くようになる
  • 味覚に形を感じたり、言葉や数に色を感じる「共感覚」の人というのは、その性質を役立てている。 「より尖った味付け」を工夫できたり、文字に色を乗せられるから、多言語を習得できたり
  • もちろんメリットばかりではなくて、数万桁の円周率を暗記できたり、暗算能力がずば抜けて いるサヴァン症候群の人は、数や規則へのこだわりがものすごくて、日常生活能力は低いらしい
  • 共感覚というのは、脳に入力される情報の帯域制限が取り払われて生じる。こんな人達は、大脳辺縁系の 機能が低下していたり、辺縁系の働きを取り払う「亜硝酸アミル」なんかを吸入してもらうと、 共感覚能力がますます激しくなるらしい
  • 思考もまた帯域制限。まじめに考えると計算的爆発を起こしてしまって判断ができない問題、 「隣の部屋にある爆弾を解体しろ」みたいな定義ぬきの問題は、人間は感情の力を借りて、 半ば強引に思考停止をかけて、解決してしまうらしい

外界を観察するセンサー部分にも、外界に影響を与える手足にも、あるいは 制御を行う思考部分にも、常に「帯域制限」という考えかたが顔を出す。

電話回線よりも光ファイバーのほうが圧倒的に快適なように、帯域というのは 広ければ広いほど「いい」ものであって、それが狭いことによるメリットなんて、 日常生活ではあんまり感じない。

人間を作っているいろんな部品は、そのどれもが「ブロードバンド対応品」ばっかりで、 神経回路ですら、共感覚の人なんかをみる限りでは、辺縁系に入る以前の神経からは もっと豊かな情報が送られて来ているのに、脳にはいる段階でそれは帯域制限を受けて、 頭にはつまらない日常の風景しか感覚されない。

慣れるとか、上手とか、学習するとか、プロになるとか、人間にとって「いい」方向への 変化というのは、どういうわけだか、どれも帯域を制限する方向への変化。 職人の動作は機械そのものだし、一流スポーツ選手の動作なんかも、 よく「精密機械」なんて表現されて。

写実画にしても抽象画にしても、同じ構図でとったデジカメ写真の情報量に比べて しまえば、絵画が持つ情報量というのは圧倒的に少ない。芸術というのは要するに、 画家の「帯域制限の手法」を鑑賞する娯楽。

ド素人の下手絵と、有名画家が描いた抽象画。「本物」がしばしば人を感動させるのに、 そうでない絵は単なる落書き。落書きと芸術とが、仮に情報量としては同じ程度、 使っている色の数とか、使った絵の具の量なんかが同じであったとしても、 やはり芸術は芸術で、落書きは落書き。

おそらくは、落書きが行っているのは情報量の削減で、芸術家が行ったのは、 情報量の「圧縮」。それは可逆的に展開可能なものだから、鑑賞する人の 視覚を通じて脳に達した圧縮ファイルは、そこで展開され、鑑賞者の脳を「ハック」して、 そこに感動を呼ぶ。同じ構図のデジカメ写真は、情報量としては 圧倒的に多いのだけれど、今度は鑑賞者自身の感覚で帯域制限がかけられてしまうから、 脳に達する情報量は少ないのかも。

試食のプロフェッショナルは、たとえばクッキーの味わいを90ものパラメーターで表現して、 プロどうしで味についてのディスカッションができる。このお話の驚きどころは パラメーターの「多さ」ではなくて、むしろ「少なさ」。プロフェッショナルの人は、 「おいしさ」という漠然とした概念を、高々90の単語を用いるだけで抽象化して、 情報を落とさないで言語化して、それを仲間と共有する。素人が概念の言語化を行う際には、 必ず情報の欠落が生じる。

欠落するからこそ、素人の人は、自分がほしいものを 自分の言葉で表現することは絶対できないし、言語化の過程を通じて、 自分が本当にほしかったものがなんなのかを思い出せなくなってしまう。

人間を作るいろんなモジュールのどこかには、たぶん「帯域が狭いことで利益がある」 何かがあって、それがこうも執拗に、身体に帯域制限を迫っているんだと 思うのだけれど、それが今一つ、何なのかわかならい。

狭いからこその意識とか、人間なのか。それとも並列化とか、パイプラインの実装なんかで、 帯域の壁を越えた先に何かが生まれるのか。

昨日の続き。そんなわけで、概念としてはもっとおもしろかったはずなんだけれど、 上手に言語化できない…。

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2007年9月12日

生き延びられる場所について

商売をする場所には大きな人の流れというものが必ずあって、 みんなその「流れ」の中に身を置いたり、傍らにたたずんだりしてお金を稼ぐ。

流れは年々厳しくなって、お金を稼ぐやりかたは、これから減りこそすれ、 増えることはあんまり期待できなくて。

生き残るやりかたを考えた。

流れの傍流に立つ人は、濡れないけれど、流れが細れば自分も枯れる。 流れの真ん中に立つ人もまた、流れに身を任せているうちに、そのうち 立場を失ってしまう。

たぶん、流れの下流側、専門家としての立ち位置には最後まで需要があって、 たぶんほとんどの人はそこで生前競争を繰り広げる。

流れの源流側というのは、厳しくなると真っ先に枯れてしまう場所なのかもしれないけれど、 もしかしたらそこには、わずかばかりニッチが残るような気がする。

流れに身を晒す意味

外来は面倒で、入院患者の急変も面倒で、救急外来なんかはもっと面倒で。

病院というのは、たくさんの人が流れていく場所。そんな流れの「傍流」で 商売をするやりかたは、リスクが少なくて利益が大きい。

フリーランスの麻酔科医師がだんだんと増えている。 週3日勤務、年収は内科の2倍なんて、素敵な話。

もうものすごくうらやましいからやっかみ8 割なんだけれど、 出張麻酔科医というお仕事は、「源流」たる患者を押さえていないという部分で、 ものすごいリスクがある。偉い人達だけではなくて、末端の、もしかしたら匿名の誰かの つまらない振る舞いが、業界全体を激震させてしまうかもしれない。

それは臨床工学技師であったり、看護師による麻酔であったり。 以前から医師でない人に麻酔を任せようなんてアイデアはあって、 そのつど「安全な手術が保証できない」なんて、猛反発で潰されて。

実際のところ、たとえば人工透析の機械とか、人工心肺なんかは臨床工学技師の管理下で、 ずいぶん前から問題なく使われてきて。単純に機械としてみたときの麻酔器は、 その構造は案外簡単で。もちろん、簡単な機械であるほど、裏を返せば使いこなしが難しいのだけれど。

麻酔科医が現場で不足していて、その価格が高騰していて。その一方で、医療費を削減したくて、 もしかしたら病院を経営する人達も、麻酔科のコストを削減したくて。

今はたぶん、麻酔科学科の偉い人達と、厚生労働省の偉い人達とが それなりにうまくやっていて、危ういバランスを保っている状態。安全優先。

バランスは、つまらないことで狂ってしまう。

麻酔科の医師で、Web日記を書いている誰か、 あるいは麻酔科を騙る匿名の誰かが厚生労働省の悪口を書く。 自分の生活を面白おかしく誇張して、「自堕落で贅沢な麻酔科医師」の印象を流布させる。 こんなつまらないことがきっかけで、案外世論は大きく動いて。

制度一つが変化するだけで、全てがひっくり返る可能性がある。

「臨床麻酔師」の制度が導入されて、ごく一部の麻酔専門医が多くの麻酔師を監督して手術を回す。 それ以外の麻酔科医は路頭に迷うから、安く買い叩かれるか、患者さんのいる場所を探さざるを得ない。 麻酔科医は、他に救急と集中治療の現場を回す能力を持っていて、 現状この部分の人手は全く足りていないから、もしかしたら今度は救急が充実するはず。 こんな流れは、ある思惑を持った人達にとっては、すごく都合がいい展開。

こんな流れが生じる確率は、コミュニティの中で「最低の」人間が決定する。 それ以外の人がどんなに努力したところで、その確率には介入できない。

患者さんを持たない医師、源流を押さえられない立場というのはこのあたりが非常に弱くて、 自分を取り巻くすべてのものがリスクとなってはねかえる可能性があるから、油断できない。

自らをハードワイア化していくリスク

NHKでは、総務一筋20年のおじさんが解雇される番組を放送していた。

総務とか、経理とか。ある意味会社の中枢部分。解雇を宣告された人だって努力して 来たのだろうし、もしかしたら「会社に貢献してきたのになぜ?」なんて思っているはず。

書類の山を整理して、読みやすい形に整えてから別の部署へ。

総務や経理、中国にアウトソースされて、日本人の居場所がなくなってしまった こんな仕事というのは、最適化が不十分だった昔なら、きっと会社で最も大切な 部署だったはず。

たぶんみんな努力して、いろんな仕事を最適化して、いちいち考えて処理していた 非効率な部分を廃して、仕事を少しづつ「ハードワイア」化して。

こんな努力は実を結んで、仕事はもはや、日本人がやらなくてもいいぐらいに定型化して、 総務一筋20年の人は、会社に居場所がなくなった。それはひどい話だけれど、 最適化のやりかたというのは、時として自分の首を締める方向に働いてしまう。

「流れ」の傍流で仕事をするのも不安定だけれど、流れの真ん中で 仕事をしつづけている人もまた、早晩自分の場所が奪われる可能性から逃れられない。

病院内での欠かせない部品として、一般医がいくらがんばっても、そのがんばりは、 あるいはその人の首を締めてしまうのかもしれない。

非専門家が生き残れる場所

優秀な専門家というのは、たぶんこれからも引っ張りだこ。医療の分野でも優秀な人達は、 みんな専門家を目指していて、専門分化は加速する一方。

で、自分みたいに優秀でない人間は、お祈りしながらガタガタ震えているわけにも行かないから、 流れの中から「前」にでることを考える。

ドリルがほしいお客さんは、本当はドリルがほしいのではなくて、「穴」を開けたい。

たとえば、32ワットの蛍光灯を買いに来たお客さんに、電球でなくて「明るい部屋」とか、 「幸せな生活」を売る能力を持った人というのは、スーパーマーケットで中国製の 100円蛍光灯が簡単に買えるようになったとしても、たぶん生き残っていけるような気がする。

ユーザーが本当にほしいものというのは、たぶんユーザーと専門家とを結んだ直線上には存在しなくて、 それは「流れ」に乗っかる前、ユーザーの背後、言葉として「これがほしい」と考える前の段階に存在する。

それは言語化した「商品」なんかよりも、もっと漠然とした概念。

概念を言語化する工程というのは帯域幅が狭くて、 概念が持っていた情報は、それが言語化される過程で大半が失われてしまう。

欠落した情報からは、どんなに優秀な専門家が集まったとしても、不完全な成果物しか生み出せない。

「明るい部屋」とか「幸せな生活」を売れる人というのは、 たぶんユーザーの頭の中、概念の段階で情報に圧縮をかけて、 それを言語化して外に取り出す。狭帯域の部分を通過させてもなお、 ユーザーはほしい「何か」を再現することができるから、満足度はきっと高いはず。

難しい仕事を達成する専門家と、ユーザーの概念を再現できる能力と。

やっていることはどちらも同じで、要するにこれからの時代、「脳がかいた汗」にしか 対価が支払われない時代が来るのだということ。

立場を維持し続けることとか、流れの真ん中で情報を変換する仕事なんかは、 身体は大変だけれど、もしかしたらCPUパワーは喰わなくて。

維持や変換に比べれば、圧縮や再展開、あるいは発想という行為は、 はるかにCPUパワーを喰うお仕事。

たぶん、生き延びられる場所というのは「頭が汗をかける場所」であって、 立場上汗をかかざるを得ない人というのは、 たぶんどんな状況になっても、その汗に対価を払う人に恵まれるんだと思う。

たとえば高齢者を連れてきた家族の思いをあれこれ聞いて、 その頭の奥にある「しあわせな生活」の概念を見出せる医者というのは、 生き延びる可能性はそれだけ高いはず。

「しあわせな生活」の圧縮ファイルを汗かきながら解凍してみたら、 その中心には当の高齢者はいなかった…なんて結果は、 頭使う前から見えてはいるんだけど。

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2007年9月10日

ギルドとしての医師会に足りないもの

おそらくは「業界」というものは、 「勝つ戦略と負けない戦略」、「ピーク性能と信頼性」という、 両立不可能な2つの対立軸でマトリックス平面上に展開できて、 業界同士の平面上での隔たりは、そのまんま業界ごとの仲の悪さとか、 話の通じにくさを説明するものになる。

勝利-敗北の損得バランス

勝敗を判断するための「ゼロ点」というのは、たぶん業界ごとに異なっていて、 それがあまりにもかけ離れた業界どうしは、たぶんコミュニケーションが成立しない。

医療者というのは「勝利」に対する欲求が極めて低くて、「敗北」に対する恐怖がすごく高い。 基本は「負けない」戦略を重ねて何とか勝利を拾う。そのあたり、 「特オチ」を一番の恥として恐れるマスコミとは正反対。

たとえば法律家なんかは、弁護とか、判決といった行為を 一種の自己表現だと考えている節があって、勝ちにいくことが多くて、負けることを恐れない。 医師-弁護士が集う掲示板なんかでも、法律サイドから 「法律家だって間違いを犯す。だからこその3審制」なんて言葉が出たりして。

それは「負けない」に重きを置く外野から見ると、非常に違和感があって、実際問題 掲示板でも議論が紛糾してた。

裁判所というのは、利害が対立する2つの勢力が、おのおの最適戦略をぶつけ合う場所だから、 その論理はどうしても投機性を帯びるし、彼らもまた、リスクをとることをためらわない。

そこに行くと医師なんかは、基本的には「一発逆転」は 絶対に狙えない商売だし、リスクをふんずけて失敗することを 何よりも恐れる。

医療の技術とか、理論なんかはどこまでいってもあやふやさが残って、 論文上は「効く」はずの薬が効かないなんていつものこと。 ユーザーが妖しい漢方飲みたいと言っても止められないし、 せいぜい不可知論ぶつか、「自己責任で」なんて捨て台詞吐くのがせいぜい。

医師と法律家、あるいはマスコミは、勝利戦略の選択軸では 全く逆の立場をとっていて、だからこそ こんなにも対立が深まって、両者が仲良くなる日なんて、 きっと一生来ないんだと思う。

自動車業界なんかは高信頼性産業で、 ユーザーにそっぽ向かれたら会社が傾く。機械と人間、隔たりが大きな ようでいて、お互いの業界がおかれた距離感というのは、案外近い。

アメリカとアルカイダよりも仲が悪そうな医師と教師、本来はお互いの立ち位置は 案外近くて、地球割れるぐらいの奇跡でも起きれば、案外仲良くなれるのかもしれない。

ベンチャー企業を率いる人たちのスタンスというのはよくわからない。 あの業界の人達が書く文章というのはとても面白いものが多いし、 医師が読んでも違和感なくて、なんとなく親近感持ったりして。

あの業界ももしかしたら、案外敗北に対して恐怖を持つ人が多くて、 冒険をすることにためらいを持つのが普通だったり、文章発信できるぐらいになった人というのは、 すでに冒険をしてもいい頃を通り過ぎてきた人達だからなのかもしれない。

ピーク性能と信頼性

信頼性はすごく大切。それに異を唱える人はいないと思うんだけれど、 「ピーク性能を削って、仕方なく信頼性を出す」という立場の人と、 「技術を高めていった先の目標に信頼性を置く」という立場の人とがいて、 この両者もまた、折り合いが全くつかない。

ピーク性能というのは、お金で購入できる要素が多い。

たとえば「大人の助っ人2 人までOK」なんてルールのリトルリーグでどうしても勝ちたかったとして、 大リーグの松井とイチローを引っ張ってくれば、たぶんその試合は、 もう圧倒的な勝利をおさめる可能性が高くなる。

ところがそれだけのお金を突っ込んでも、信頼性は上がらないかもしれない。

イチローと松井を投入できるのが1試合しかなかったとして、 華々しい大勝利を1試合だけおさめられたとしても、 残りの試合がグダグダになってしまえば、年間を通じた勝利確率は上がらない。勝利して、なおかつ 確立を高めようと思ったならば、2人に大リーグを引退して、少年野球のチームに常駐してもらわないと、 信頼性は高まらない。

天下にとどろくものすごい名医を一人連れて来たところで、都市の平均死亡率なんて変わらない。

10万都市で、たとえば小児救急外来で亡くなる子供の数を2割減らそうなんて思ったら、 たぶんもう1つ総合病院を建てないといけない。たぶんそのお金は松井とイチローの 生涯年収を上回るだろうし、そこまでお金をかけても、その結果は 統計のわずかな差、助かる子供が2人ぐらい増えた形でしか効いてこなくて、 その結果すら、交通事故死亡者数で相殺されてしまったり。 すごい資本を投じたわりに、市民の満足度は上がらない。

医師に問題解決を求めると、2 言目には金金言ってるように聞こえるのはたぶんこのへん が原因。医師にとっては、「結果を出す」というのがどうしても信頼性を金で買う話になるから、 わずかな向上幅を求めただけで、ものすごい見積もりが返される。

同じ業界の中であっても、信頼性に対する立ち位置というのは、人によって大きく異なることがある。

同じ自動車エンジンを作る技術者であっても、レースエンジンを作る人と、 乗用車のエンジンを作る人とでは、恐らく考えかたは正反対。 レースエンジンは、ゴールした瞬間に壊れるのが理想だし、壊れなかったら 「もっと信頼性を削る余地がある」なんて考える。乗用車エンジンは、 もちろん信頼性大切で、たぶん性能削ってでも、削った分を信頼性に回す。

このあたりのスタンスは、同じ医師の中でも大いに異なる。

医師会の偉い人たちというのは、西洋医学を引っ張ってきた世代。 どちらかというと、信頼性よりもピーク性能を愛する人たちだから、 この人たちが旗振ると、信頼性重視の教育受けた世代からは 無茶な精神論ぶってるようにしか見えないし、そんな施設からは、 やっぱり人がいなくなる。

市民感情的な、国全体の漠然とした意志は、たぶん高信頼性を求めていて、 その目標というのは、医師を科学者の延長と考える人達、 ピーク性能を愛好する人達から見ると地味すぎて、魅力あるものには映らない。

医師が「信頼性」という言葉を口にする時も、たぶん同じ業界で2種類の考え方があって、 このへん言葉の統一ができていない業界は、だからこそ今ひとつまとまらなくて、 ギルドとしての力を発揮できない。

ギルドとしての医師会の役割

もしかしたら「対話の果ての融和」というイメージ自体が、 マスコミ様やら法曹様やらが作り出して、我々を躍らせてる幻惑なんじゃないかと思ったり。

法律というものは本来、「国全体を包む雰囲気」、国民感情みたいなスーパーセットの 一部にしかすぎない。それは家でたとえると「門」を記述する言語ではありえても、 屋根とか壁とか、家を構成するのに欠かせない、他のサブセットを記述する役には立たない。

たとえば道から家を見て、「門がない家」というのは道路の延長であって、 独立した家とは見なされない。「家」を作るためには、だからこそ門を記述する 法律は欠かせないけれど、門だけで家は建たない。

壁には壁、屋根には屋根を記述するための言葉や決まりごとというのが必要で、 それがおそらくは様々な業界が作るギルドや、業界内のルールみたいなもの。

家全体を記述するための漠然とした言葉、国民感情というものは、 全体を記述するゆえに本来的に不完全だから、 サブセット全ての振る舞いに対して不満を持つし、 家を構成するお互いのサブセット同士は、本来お互いを裁くことなんでできはしない。

法律が犯罪者を裁くのは、あくまでも対外的なポーズとして、 「この家には門があります」と宣言するために行うもの。

それは不完全なものにしかならないし、その裁きもまた、裁かれたサブセットからも、 国民感情からも不満を持たれるものにしかならないけれど、おそらくは国を作る各サブセットは、 そもそも法律のことなんて、そんなに気にしなくてもいいのかもしれない。

法という一つの体系で支配された世の中では、ダブルスタンダードは叩かれるけれど、 社会に「二枚舌」を実装してしまえば、それはありなんじゃないかとも思う。

たとえば医師のギルドができたとして、何か医師にトラブルが発生したとして。 法律がある以上、法的に、あるいは市民感情的に間違いを犯した医師は、 法で裁かれ有罪に。法律上は有罪であっても、その人がギルド内での内規に 反していないなら、ギルドの中ではその人の名誉が損なわれることはないような。

問題なのはきっと、サブセット内の言葉の対立。それは勝利-敗北の利得配分であったり、 信頼とか、義理と利益と、どちらに重きを置くかであったり。

今の医療業界は、みんな立ち位置がみんなばらばらだから1つになれないし、 「法を無力化するギルド」の結成なんて、先のまた先。

そのあたりの対立がない社会、それは法律家の業界とヤクザ社会、あとは マスコミ業界がそうだけれど、それぞれのサブセットは国民感情から自由だし、 法律からも実質自由を勝ち得ている。

医師会も「家を記述するサブセット」として固まろうと思ったならば、 恐らくはこんな言葉の統一は避けて通れないし、それができないならば、 学者肌の医師と実務肌の医師、医師の団体もまた、 それぞれの立ち位置で2つに分裂すべきだと思う。

同じ立ち位置を共有する技術者のギルドが実現できるなら、 そもそも訴訟恐怖の問題とか、マスコミバッシングの問題とか、 実質解決できると思うんだけれど…。

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2007年9月 9日

機械親和的な問題定義言語

正しい問いは答えを含んでいる

たとえば「このだるい身体を何とかして下さい」という問いには誰も 答えを用意できないけれど、「40代やせ型女性。半年前からの動悸、体重減少、 発汗。診断は?」なんて問われれば、国家試験前の学生ならば 10人が10人、「甲状腺機能亢進症」なんて答えを返す。

google 先生なんかはこのあたりもう少し優秀で、同じ単語を打ち込んで検索すると、 糖尿病とか、過敏性腸症候群とか、拒食症、癌なんか、他の鑑別診断も引っ張れたりする。

たぶん、世の中で「技術者」と呼ばれる人がやっていることの半分は、 問題を定義することで、残りの半分は問題を解決すること。 問題をより深く追求したり、あるいは技術をもっと先に進めるのは、 どちらかというと科学者の仕事。

原始的な言葉と流暢な言葉

大昔の植民地時代、いろんな国から白人の植民地に釣れてこられた人達は、 お互い言葉が通じなかった。

話せないのは結構つらいし、共通の言語セットになりうるのは、白人が 喋っている英語しかなかったから、彼らは何とか英語を学んで、 最初は単語と単語をつなぎ合わせて、そのうち原始的な文法が そこに生まれて、「ピジン英語」という、原始的な英語を作った。

ピジン言語は流暢さには欠けていて、その言葉は決して美しくは 聞こえなかったけれど、文法はシンプルで、学びやすかったのだという。

言葉というのは恐らく、違った分化が衝突したときに新しい「ピジン言語」 が生まれて、それが新しい集団の中で使われるようになると、 今度はより流暢な方向へと変化する。

いろんな業界で使われる専門用語、あるいはジャーゴンといったものは、 オリジナルな日本語に比べると、なんだか内輪感が強くて、 技術者同士はお互い打ち解けて話しているんだけれど、 その内容が外に伝わりにくい。

こんな変化は、たぶん言葉の進化としては正常なんだけれど、技術のタコツボ化を 生んでしまったり、あるいはその言葉があるおかげで、 解釈の混乱を招いてしまったり。

翻訳エンジンを駆使する子供

梅田望夫氏が以前、韓国の子供から英語の手紙をもらった経緯を文章にしていた。

英語もろくに話せないはずのその子供は、それでもインターネットの翻訳エンジンを 駆使して英語を書いていく中で、翻訳エンジンに乗っかりやすい韓国語というのを 独自にアレンジして、比較的流暢な英文手紙を書いたのだそうだ。

素直に英語学べよ、なんて思うけれど、こんな言葉の進化というのは、 たぶん今までの言語発達の方向とは逆に向かっていて、ちょっと面白い。

あえて自分の言語を崩して、機械により親和的な中間言語を作り出すというのは、 要するに、人間が機械というものを「衝突するに価する文化を持った相手」として いよいよ認識しはじめた、そんな意味あい。

翻訳エンジン、検索エンジンが相当程度に発達した現在、 専門分野を全て学ぶより、専門家でない人達の言葉を 専門領域の問題定義言語に変換できれば、 あとはそれを機械処理にかけてしまうだけで、答えを導く部分は機械任せにできてしまう、 もうそんな時代はとっくに来ていて、あとは言語定義の問題だけが残ってる。

具体案

たとえば年齢は10年ごとに10段階。「締めつけるような痛み」なんかは不可表現で、 「痛み。胸。締め付ける。」みたいな書きかたを医学部のある時期に強制してもらう。

症状を定義する言葉というのはそんなに多くなくて、病名につながる単語はせいぜい数百。

皮膚の色とか手触り、音やら触ったときの硬さやらを定義したって、必要な単語は、 いいところ3000ぐらいで済むような気がする。携帯電話なんかに入っている 「予測変換」の辞書単語数がたぶん2万ぐらいだから、それに比べても圧倒的に 少ない語彙でいけるはず。

それを実際に発音すると、たぶん原始人がしゃべっているような、 お世辞にも頭良さそうには聞こえない、そんな言語セットが作れる。

面倒なのは、普通「専門用語」といえば、今までの言葉からさらに語彙を 増やしていく作業になるはずなのが、 それとは逆に、極めて限定された語彙で、今までの日常会話を表現する訓練を する必要がある部分。それは恐らくは今までの語学の授業みたいには 行かなくて、医療なら「医療用問題定義言語」を学んだ人達と1週間ぐらい合宿生活をして、 その間に自分の語彙を減らしていくような、そんなやりかたをしないと覚えられないと思う。

人間側さえこんな言葉を覚えてしまえば、機械側の準備はある意味楽。

予測変換のやり方で、「次に来る単語」を確率論的に予測していくだけで、 たぶんそれなりの精度で病名にまでたどりつけるだろうし、ベイズフィルタみたいな ものを使って、打ちこまれた病歴から予想される病名を羅列しても行けそう。 いずれにしても、言語認識の部分を実装しなくてもいいならば、 そんなに大げさな話にはならないはず。

何ができるのか

医師のお仕事、「問診、触診を経て検査を出して診断を決めて、そこから治療プランを立てて…」 という流れの7割ぐらいが機械化できる可能性がある。

言葉の問題定義言語化というのは、恐らくは純粋に語学のお話で、 生理学とか、解剖学の知識は無くてもいいか、少なくとも今までよりも少なくて済むはず。

理学所見は?なんて疑問は当然でるけれど、たとえば鍼灸師の人達は、 医学なんかじゃなくて、気とか経絡とか、西洋医学とは違った立場から 身体を診るけれど、彼らは医師よりも短い養成期間で、医師よりも多くの語彙を駆使して 身体を表現できる。

それは医学とは全然違うものだけれど、「身体所見を機械に理解可能な形に翻訳する」 という工程には、少なくとも医学知識の出番はそんなに無いはず。

機械仕掛けの神様のこと

問題定義のための言語セットがその分野に実装されて、思考の全てか、 あるいはその一部を機械が手助けしてくれるようになって来ると、 今度は「専門家」というものの定義が変わってくる。

今までは、知っている人、語彙の多さが専門性を定義してきたけれど、 「何でも知っているけれど何もできない機械」が実体化するようになると、 今度は語彙をどう削り込むか、より少ない語彙でその問題を定義できることこそが 専門性を定義するようになる。

知の高速道路化。

「語彙の増やしかた」を学ぶよりは、恐らくは「語彙の削りかた」を習得するのはより簡単で、 たとえば医学なら、医学部6年を卒業するよりははるかに短い時間で、医師の真似事が できるようになる。そうなると今度は、たとえば理学部でネズミ相手に試験管振ってた人とか、 スパコン叩いて天体シミュレーション走らせてた人なんかがある日気が向いて、 ちょっと内科になってみました、なんてことが決して夢で無くなる。

いろんな専門分野に、いろんな言語セットが実装されて、専門分野を基礎から学ぶのではなくて、 自分が今知っている語彙から、機械にとって不必要な語彙の「捨てかた」を学ぶことで専門分野を 学ぶことに代えられる時代というのは、あらゆる分野の専門領域に「高速道路」が実装されて、 最先端分野の少し手前までは、ほとんど労力無く進むことができる。

高速道路が作られても、「その道を今まで歩いて来た」という経験やら、能力といったものは、 たぶんやはり必要になってくるはず。高速道路を降りた先では、やはり足で歩かないといけないから。

機械仕掛けの神様が君臨する近未来、高速道路を降りた原野には、 同じ道を歩いてきた均一な集団があるんじゃなくて、 山で足を鍛えてきた人、トラックスポーツ一筋だった人、本業は走りじゃなくて泳ぎだったり、 格闘技だったり、いろんな「鍛えた足」がそこに集まって、いろんな方向に向かって 多様性を競う時代が来る。

自分達が職を失うリスクはもちろんあるのだろうけれど、それはきっと、 すごく面白いことなんだと思う。

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