対立関係にある状況というのは、視点を変えてみると、
お互いに何らかの生態系を構成していることが多い。
いくつかの条件を満たすなら、対立という「お互いがお互いを滅ぼしあう関係」よりも、
むしろ「お互い複雑に依存しあう」という生態系の考えかたのほうが、
実世界の振舞いをより上手く説明しうる。
対立の構造にまきこまれた中の人達は、たぶんその裏にある生態系が見えないし、
外野がそれを「生態系だ」と指摘したところで、その声はたぶん、中の人には
伝わらないし、外野が生態系に影響を与えようとした時点で、その人もまた
系にとり込まれてしまい、生態系はそのありようを変えてしまう。
「中の人」自身が競合関係を一度離れて、自分達を取り巻く生態系を見渡すことができたならば、
生態系を通じた生き残りの手段とか、あるいは生態系を利用した攻撃手段とか、
いろんなやりかたが見えてくるかもしれない。
ペプシチャレンジのこと
「目隠しして飲み比べれば、ペプシコーラはコカコーラよりもおいしく感じる」。
80年代に行われた比較広告「ペプシチャレンジ」は、ペプシコーラの売上げを
大きく伸ばした。
コカコーラは、それでも圧倒的に強かったのに、
「ペプシに勝てる味」を作り出すことを決断して、1985年、今までのコカコーラの
販売を中止して、よりおいしい「ニューコーク」の発売を開始した。
発売直後、「俺達のコークを返せ」という抗議の電話が殺到して、
コカコーラの売上げは大幅に落ちて。コカコーラはすぐに昔の味「コカコーラクラシック」
を再発売して、やっとシェアを回復したのだという。
顧客が本当にほしかったもの
「なんでコーラを勝ったんですか?」なんてアンケートを取れば、まずは10人が10人、
「これがおいしかったから」なんて答えが返ってくるはず。
大切なのはブランドであって、中身はどうだっていいだとか、
好きなのは「コーラを飲んでいる自分」であって、コーラそれ自体じゃないだとか。
そんな答えかたは不道徳だし、何よりもユーザーの直感に反している。
「ペプシチャレンジ」が試みられた80年代、おそらくはペプシの人も、コカコーラの中の人も、
そしてもちろん消費者の人達も、「ユーザーはよりおいしいものに手を伸ばすはず」なんてことを信じていた。
ペプシはペプシで「ペプシのおいしさ」を信じていたし、
コカコーラは「新しいコーク」の開発に乗り出して、見事においしいコーラを作り出して、商業的には大失敗した。
顧客が本当にほしかったのは「おいしさ」なんかじゃなくて「コーラ」。コカコーラを飲んでいる人にとっては、
それは「いつものあれ」だったし、ペプシを飲んでいる人は、「コーラじゃない奴」だったのだと思う。
ペプシジェネレーション
「ペプシチャレンジ」のもっと前、コカコーラの売上げが、ペプシの5倍もあった頃、
ペプシは「ペプシ世代」という言葉を作って、ペプシの売上げを大きく伸ばした。
消費者は「コカコーラ」がほしいのだから、これに逆らっても無駄。
たぶんこの頃のペプシは1番になることなんて考えていなかったから、
「コーラ」というブランドを割る戦略に出た。
「ペプシ世代」の若者は、ちょっと反社会的で、でも流行の先端を行く、そんなイメージ。
ワルっぽいイメージのタレントがペプシを美味しそうに飲む広告。
おじいちゃんとお子ちゃまはコカコーラ。彼らは「ペプシ世代」から取り残された人達と定義された。
悪い人と、悪ぶりたい人と、おじいちゃんにもお子様にもなりたくない人は、
たぶん自らの表現手段としてペプシを選んだ。
「ペプシジェネレーション」の世界観では、あくまでも王様はコカコーラであって、
コーラとペプシとは「おいしさ」なんかで対立していない。ペプシは、
「コーラというありかた」を認めた上で、「ペプシを選ぶという生きかた」を提案した。
ペプシは1番手になる可能性を放棄した代わり、
「ペプシジェネレーションが選択する飲み物」という、安定したニッチを得た。
生態系内での生存戦略
お互いが対立している状況で生き残りを賭けるなら、とるべき手段は簡単。
自らの長所を最大限に宣伝して、相手の欠点をあげつらうだけ。
このやりかたはシンプルで分かりやすくて、その効果が読みやすいにもかかわらず、
実際これをやってみると、かえって自分のイメージを悪くしてしまったり、
相手に塩を送る結果になってしまったり。
おそらく世の中は、「対立」でとらえたほうがいい状況と、「生態系」で捉えたほうが
いい状況とがあって、「対立」状況ならば、ためらいなく、一刻も早く打てる手を打ったほうが勝てるだろうし、
それがうまく行かないならば、それは状況の捉えかたが間違っている可能性がある。
- 外界に対して「閉じた」系を想定できる
- 生態系内でのプレイヤーは、お互い穏やかなつながりを保っている
- 各プレイヤーは生態系の設計図を意識することなく、自らのルールに従って行動している
こんな条件が揃っている対立状況ならば、おそらくそこには「生態系」が出現している。
ただの競合関係から、お互いの存在に意義を認めあう、生態系の関係へ。
ルールはそれだけ複雑になる。一方的に相手を攻めれば、生態系はバランスを崩すし、
たとえば相手をほめ続けることが、相手に対するダメージになったり。こんなやりかたが考えられる。
- 欠点を付加する:ペプシがある日、合成保存料の危険性に目覚めて、
全製品を「保存料の入っていない、3日で腐るコーラ」に切り替える。コカコーラはたぶん、
「120年商売してきて、コーラ飲んで死んだ奴いませんが何か?」なんて反論するのだろうけれど、
これをやるならクラシックコーク以外の全製品を一度取り下げないと、その言葉に説得力がなくなってしまう
- 公開する:ペプシコーラのレシピの公開や、製造原価の公開。ユーザーはきっと、「自分達はこんなつまらないものを
おいしいといって飲んできたのか」と驚くだろうけれど、つまらないものを「すばらしいもの」として売ってきたのは、
たぶんペプシもコカコーラも同じことに気づくはず
- とりあえず謝る:「この味を作るのに欠かせない某物質が健康に悪いことがわかりました」なんて、
自発的に自分の落ち度を認めてしまう。どうせ化学物質の固まりなんだから、身体に悪い物質の一つや二つ、
必ず入っているはず。もちろん、「欠かせない某物質」はコカコーラにも入ってるんだろうから、
先に謝ったほうが「正直」というポイントを稼げる
このやりかたは、あくまでもペプシ側が勝手に行うことで、コカコーラの名前なんて、
かけらほども口に出してはいけない。
「競合」ルールでは、こんなやりかたというのはたぶん、自らの首を締めるだけ。
自分たちがおかれている状況が「生態系」だと信じることができたならば、要するに
ユーザーの賢さに信用をおけるなら、たぶんこんなやりかたは有効なはず。
「中の人」からは生体系が見えない
生態系は、スケールのとりかたによって、いろんな姿をとる。
ペプシとコカコーラの関係。一昔前の掲示板荒らし合戦。
blog の炎上。いじめが発生する学校の教室。医師-患者、あるいは医療-法曹の対立。
たぶん対立ルールで考えたほうが分かりやすいケースと、もしかしたら対立ではなくて、
生態系ルールで何かを考えたほうがいいケースとがあるのだろうけれど、「中の人」たちは、
たぶん自分達が今生態系にいるなんて気がつかないし、「生態系戦略」なんかを
提案されたところで、それは「敵を信じろ」なんて言われてるのに等しいことだから、
それを受け入れるのは難しい。
たとえば潜水艦を外から見ると、乗組員が海の地形を判断しながら潜水艦を操縦している
ように見えるけれど、潜水艦の中の人達は、メーターの目盛りを読んで、それが正しい値になるよう、
舵を調整しているだけだったりする。海を見たことがない船乗りなんていないけれど、
もしも潜水艦の中で生まれた子供がいたりしたら、その子供と外の人とでは、
「潜水艦の操縦」なんて概念を共有するのは不可能なはず。
生態系というのは、いろんな関係が重なって、それが系として閉じることで、
はじめてその姿を現すものだから、系にとりこまれた人が、その系に気がつくのは難しい。
頼りになるのはたぶん、潜水艦の乗組員なら「海を見た経験」だったり、
他の潜水艦が戦っているのを外から眺めた経験であったり。
掲示板戦争時代、お互いひたすら叩いて罵るだけだったWeb 上の喧嘩のやりかたは、
「ブログスフィア」なんて言葉が生まれて、生態系の考えかたが実装された今では、
ほとんど通用しなくなってしまった。
今のWeb というのは、いろんな「気候」に適応した、多様な文化を持った人達の集まり。
罵られ、叩かれることで元気が出て、アクセスを伸ばすページもあれば、
逆に「さすが○○さん、いつも鋭い意見勉強になります」
「もっと過激に斬っちゃって下さいね。期待してます」なんて、
穏やかな空気を作る書き込みをもらうことでダメージを受けてしまうページがあったり。
熱帯雨林や砂漠気候なら「恵みの雨」になるこんな書き込みも、
北極に雨が降ったら氷が溶けて、生きものが全滅してしまうような。
「系」を意識した振る舞いが増えてくると、もはやその系は、生態系としての
振る舞いから外れてしまうから、たぶんもうすぐ「ブログスフィア」の考えかたも
通用しなくなくなる。
今度こそ、もう一回り大きな系、実世界とWeb との融合、
実社会での肩書きとか、振る舞いが、Web にも影響してくる時代がくるような気がする。
病院はどうするべきなのか
倫理的な是非は横に置くと、「いじめられっ子」を設定する学校のやりかたというのは、
ものすごく低いコストで、利害が対立する人達をまとめる手段になっている。
いろんな出自、いろんな価値観の子供、あるいはことごとく利害が対立するはずの学校の先生までも
巻き込んで、ひとつの「系」を作り上げる原動力になっているのは、「仲間外れにされたくない」という
強力な同調圧力。その力を維持しているのは、いじめられっ子の存在。
たとえば病院にたくさんいる理不尽なクレームをつけてくる家族であったり、
患者さんであったりのうち、本物のヤクザとか、地元の有力者とか、
そんな力を持っていない誰かを選んで、病院を出入り禁止にしてしまう。
「こんなクレームをいただきました。病院という立場としては、はなはだ不本意ではありますが、
その人に労力を取られてしまうと、他の患者さんの安全な診療を保証できなくなってしまったため、
このたび○○病院を出入り禁止にさせていただきました。ご了承ください」
実際不可能ではあるのだけれど、こんな張り紙一枚、外来に張っておくだけで、
翌日からクレームは激減するはず。
クレームつけてくる人というのは、裏を返せば「病院は、何を要求しても大丈夫な場所」だと心から信じている人だから、
クレームをつけない人以上に、実は病院に対する信頼が厚い。本人もきっと気づいていないだろうけれど。
だからこそ、こんな張り紙出されれば、病院に文句ねじ込めなくなって、もっと穏やかになってくるはず。
上手く行かない要因があるのだとすれば、病院-患者という系は、社会に対して閉じていないこと。
病院は悪い奴らの集まりだと信じてて、自分は病気になんかならないと信じてて、
その上なぜか、自分が病気になったら、医者は手のひら返して自分の治療に全力を尽くしてくれると
信じてる人たち。人権団体とか、市民団体とか。本当は、この人達をも含んだ大きな系を想定しないと、
流れを読むことなんてできないんだろうけれど、そこまでくると想像の埒外。
生態系の理解には、フレーム設定とモデル化が不可欠で、教室のアナロジーまでは
何とかなっても、これを社会全体にまで拡張すると、もうモデル化不可能。
マスコミだとか、司法だとか、市民団体だとか、いろんな対立軸を含んだ大きな系を
モデル化できるなら、きっと考えもしなかったような手段が有効な一手になることもあるのだろうけれど。
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