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2007.08.28

安心を記述すること

ドッグフード、添加物の入っていない、安心して使えるようなものを いろいろ探しているんだけれど、なかなかいいものが見つからない。

子犬だし、そんなに量食べないからコストは度外視でいくにしても、 ドッグフードには安心に対する需要がそんなに無いからなのか、 どれも今一つ。

「安心」をうたいながら添加物たっぷりだったり、「安全」うたって人気集めて、 その実何がどう安全なのかの説明無かったり。

「無添加」を売りにしている国産のフードが あって、そこが最近高級品を出した。

購入してみると、それはやたらときれいな色のフードで、 「無添加」を売りにしていたパッケージは一新されて、 「安心」「信頼」の文字は躍っても、「無添加」の文字は消えていた。

メーカーに問い合わせて見ると、添加を止めたはずの防腐剤は復活していて、 高級感を出すためなのか、発色剤も新たに採用されていて。

「今までのグレードには添加物は使っていません」なんて返事をいただいたけれど、 漠然とそのフードに抱いていた安心は霧散して、どうしていいのやら。

可能性と公算と

例えば「北○鮮が今度こそミサイルを発射するらしい」なんて情報があったとして。

  • あの国にはそれだけの技術があるとか、最近某国から有名な技術者を招聘したとか、 技術的な側面というのは「可能性」
  • 今は外交的に安定しているから発射する動機が無いとか、アメリカに援助打ち切る動きがあるから、 たしかに今発射する意味が出てくるとか、社会的な側面をも加味したものが「公算」

安全と安心。

安全というのは技術的に達成すべきもので、可能性で論じる概念。安心というのは公算。 技術が達成した「安全」を、今度は社会的な立場、あるいは心理的な立場から 査定して得られるた結果が「安心」。

安全を達成する技術ができて、それが正当な評価を受けて安心ができるというのは 理想だけれど、安全というのは、上を見はじめたら際限がなくて。

妥協できる安心というのは、「これなら安心」という公算と予算とがまずあって、 その中で安心を担保しうる妥当な安全率が決まり、それに必要な技術目標が決まる、 そんな流れで作られるはず。

予算の限られた実世界で安心を担保するには、結局のところ「安心とはなんなのか」を ユーザーが決定しないといけない。

論理は安心を記述できるのか

安心というのは、「論理が及ぶ範囲ではこれ以上は何もしないで大丈夫」みたいな、 論理の上位に位置する概念。

だから、「これで安心」というものを論理で考えようとすると無理がある。 論理で記述される対象が、その論理を超越することになってしまい、 安心の定義に矛盾を生じる。

安心というのは、こんな天井知らずの概念だからこそ、どこかで思考停止するポイントを作らないと、 論理が破綻する。

定義無しに「安心」を実現することはできない。

「安心なドッグフード」を定義無しに実現しようと思ったら、 工場に運び込まれる全ての材料をチェックしないといけないし、 製造者が違反をしないよう、誰かがつきっきりで見張らないといけない。 「安全です」なんて報告をもらったところで、今度はその監督者が不正をする 可能性だって考えられるから、つき詰めればつき詰めるほどに安心は遠のいて、 コストばかりが高まっていく。

ドッグフードの安心を考えるときに、たとえば「色が悪くて3日で腐るようなフードは安心」 のような安全の定義を無批判に受け入れられるならば、話は相当簡単になる。

こんな定義を受け入れる人が一定数出てくるならば、その人達相手に商売を行う分には、 業者には添加物を入れる動機がなくなる。その定義が本当に安心を記述しているのか どうかはともかく、こんな定義をとりあえず無批判に共有できるならば、 その人たちが添加物のないフードを手に入れられる公算は相当高くなる。

安心記述の考えかた

それは例えば柱やボルトの太さであったり、その原子炉を設計した技術者に まつわる伝説であったり、あるいはブランドに支払ったお金であったり。

いろんな業界、いろんな考えかたをする人達ごとに「安心を記述するために思考停止した何か」 というものがあって、みんなどこかで思考停止を行っているからこそ、 不安だらけの世の中でも何とか回る。

論理の範囲でいくら考え抜いたところで、安心は絶対に手に入らない。 ところが論理を逸脱した何か、たとえば「山崎パンを食べて死んだ奴はいない」 なんて前提を受け入れることさえできるなら、そこには食品添加物を使った食品という、 安心を伴った広大な世界を手に入れることができる。

建築とか原子力とか、あるいは証券やら信用取引やら、そんな「安心」が 強く求められる業界に住んでいる人たちが前提として受け入れている 「安心記述」を教えてほしいなと思う。

自分達が提供している安全を担保する技術、それを社会的、心理学的にも 受け入れてもらえる「安心」へと転換するための前提条件が安心記述というもの。

医療の業界にはこれが実装されていないか、あるいは医学が進歩を続けてきた 過程の中で失われてしまって、病院業界の中の人、あるいはそれを監督する人、 どちらも安心の定義が分からないから、予算をいくらかけても安心は得られない。

突っ込める予算が限られている以上、安心を得ようと思ったら、 何かの前提を受け入れることを避けて通れない。

世界に無数の宗教があるように、世の中のいろんな立場の人たちが、 自分達の安心記述を相互参照すれば、ある程度の人が納得できる安心記述というものが いくつか出来上がるはず。

それぞれの安心記述ごとに、その定義の中で実装できる安全を模索できれば、 病院の安全というものに多様性が生まれ、選択の範囲が広がる。

「前提の受容」と「安全の選択」。こんなプロセスを患者さんサイドに発生させられれば、 それだけで今みたいな訴訟の泥沼が、いくぶんかでもましになると思うんだけれど。

2007.08.25

科学は真実を記述するのが苦手

犬に発情が来た。

犬を飼うときは避妊手術をするのが常識になっているのだそうで、 今は出来るだけ早期の手術を行うやりかたが主流になっているらしい。

  • 発情前に手術を行うと、将来的に乳腺腫瘍のリスクが減る
  • 避妊手術を行ったほうが、わずかであるが寿命も延びる傾向がある
  • 生後数週間で手術を行っても、とくに大きな問題は生じない
  • 卵巣と子宮を切除することで、卵巣腫瘍とか、子宮癌といった病気は発生しなくなる
  • 避妊手術を行うことで、犬はおとなしくなり、飼いやすくなる

ネットで引けるのはこんな事実。獣医さんに聞いてもこんなお話で、 どれも論文になっていて、嘘はついていない。嘘ではないけれど、 これだけで「だから早期に手術しましょう」には結びつかない。

「生まれてすぐにエストロゲン枯らして、本当に大丈夫なんだろうか?」

飼い主が知りたかったのは、こんな問題。 科学的な事実の積み重ねというのは、 「安心」とか「大丈夫」とかいった漠然とした疑問に対して 答えを出すのが大変だったり、そもそも答えを出せなかったり。

レニン-アンギオテンシン系の話

「レニン-アンギオテンシン系は、人間にはもはや不必要なのではないか?」

医師がこんなことを口にして、心臓の悪い人達のレニン-アンギオテンシン系を よってたかって潰しにかかるようになったのは、まだまだ最近のこと。

このホルモン系は、塩分を体内に留めておくために必要なもの。 魚が陸に上がったとき、体内に「海」を維持するためには欠かせない「系」。

動物にももちろんこれがあって、野生動物が食べるものの中には塩分なんてごくわずかしか 含まれていないから、もちろんレニン-アンギオテンシン系は大切。ところが人間だけは 例外で、塩分なんてどこでも手に入るから、今はむしろ塩分の過剰が大問題。

80年代後半、心不全の患者さんに血管拡張薬を投与すると効果があることが分かって、 血管拡張作用を持ついろんな薬剤が試される中、レニン-アンギオテンシン系を抑える薬、 ACE 阻害薬に顕著な延命作用が見つかった。

このとき証明されたのは、「心臓の悪い人には、ACE阻害薬が延命作用をもつ」ということだけ。 心臓に傷のない人、他の病気の人にはどうなのかは分からない。

誠意のある科学者は、自分の発見した事実を拡張しない。 問題を拡張して、それを再び証明する。

ACE 阻害薬が普及していく中で、「なんでこの薬が?」という疑問が生まれ、 この薬が腎臓の悪い人に試されたり、動脈硬化の進んだ人に試されたり、 高血圧の人に試されたり。

いろんな論文が出す結論は、あくまでも事実の断片。 腎不全患者さんには、腎臓の働きがより長く保たれるとか、 血管の堅さをある方法で評価したときには、そのパラメーターが良くなるとか。

レニン-アンギオテンシン系は、人体にとって不必要であるか、 少なくとも抑えたほうが「よい」ようだ

「よい」とか「正しい」、こんな大きな物語を科学で記述するのは本当に大変で、 レニン-アンギオテンシン系については話題が出てから20年、やっと「よいようだ」と みんなが口にできるところまできて、断定までいけるのはまだまだ先の話。

エストロゲンはどうなのか

エストロゲンは成長のあらゆる段階で影響するステロイドホルモンで、 「それを無くすとどうなるのか?」なんて恐怖は、レニン-アンギオテンシン系の比じゃなくて。

医療の分野だと、閉経後女性のホルモン補充療法だとか、エストロゲン様作用を持つ、 大豆類やブドウを常食する地域の人達の平均余命が長いなんて疫学調査とか。 昔流行した「環境ホルモン」なんかも、エストロゲン様作用を持つ物質の話題。

犬の去勢手術に関する話題は、どれも「早期手術は問題をおこさなかった」という結果を 示してはいるけれど、「犬の成長にエストロゲンは必要ない」なんて言い切るためには いかにも証拠が不足。

科学というのは、その立場に誠実であろうとする限り、論文から断言できること以外のことには 言及できないし、その結論を拡張することはできない。

「条件つきの事実」をいくら積み重ねても一般解には届かないし、 そういう意味では科学者は、真実を記述できるひとなんて誰もいなくて、 だからこそ「これが真実」と断言する人達との論争は、 いつも科学者側が勢いで押されてしまう。

「早期手術は安全です」とか「早期手術は犬を幸せにします」なんて物言いは、 やっぱり本職の獣医さんには少なくて、相談した獣医さんもまた「いろんな意見があって まとまっていないんですよね」なんて。うちは結局、最初の発情を待ってから手術することにした。

その事実を求めているのは誰なのか?

犬が最初の発情を迎えるのは生後8 ヶ月ぐらい。

邪推だけれど、「生後6週間でも手術して大丈夫」なんて無茶な事実を証明した論文というのは、 何かを疑問に思った人が書いた論文というよりは、その事実が必要な人達が、 結論を要請した論文なんだと思う。

脳梗塞の治療にはNINDS というトライアルがあって、これは脳梗塞に血栓溶解療法を 行うことで、患者さんの予後がよくなるという結論を出した有名な論文。

脳梗塞の患者さんに血栓溶解薬を投与した報告はこれまでにもいくつもあって、 全ての結論は、「良くなる人もいるけれど、死亡者は確実に増える」、 あるいは「手足の動きの改善にはほとんど効果がなくて死亡者だけ増える」なんて 否定的な結論。

  • 従来の脳梗塞治療は、回復の幅は少ない代わり、死ぬ人も少ない
  • 血栓溶解薬は、死亡者を増やす代わり、「一発逆転」が望める

NINDS のグループがやったことというのは、評価のやりかたを変えたこと。 「寝たきり」と「死亡」とを分けて評価していた従来の論文を改めて、 「寝たきりになった人は、死亡した者と同じ」という評価ランクを作って、 患者さんの統計をとった。要するに、寝たきりになった人の価値というのは、 死体と同じとする立場。

NINDS の出した結論は、 「血栓溶解薬は合併症を増やさずに機能予後を改善する」。 その代わり但し書きがついていて、「こんな結論を出すような社会の要請があったのだ」 みたいな文章が、前文についていたはず。

犬の避妊手術の話題。たぶん「動物園の動物は全て殺すべし」みたいな 過激な自然主義者と、「人間あっての自然」みたいな考えかたをする人との 根深い対立が底のほうにあって、早期手術をすすめる立場の人達というのは、 早期に手術することで、その飼い主を自分達の陣営に引きずり込もうとするような、 そんな同調圧力を感じてしまって、ちょっと嫌。

科学は多様性を担保する道具

科学というツールは、それを使う人が科学的であろうとする限りにおいて、 意見の多様性を増やす役には立っても、 いろんな意見を一つの解答へと集積させる働きは持っていない。

科学的である限り、どんな結論にも反証の余地を残すし、 どんな立場でも、よほど迷惑であったり他人に迷惑をかけなければ、 その存在に根拠を与えてくれるのが科学というもの。

科学的な立場を深めていくと、確実に断言できる範囲と、 その結論を応用するには無理がある範囲との境界は、より明瞭になっていく。 科学者は、原理に忠実であればあるほどに自らの専門領域に引き篭もらざるを えなくなって、みんなが引き篭もった後に残った広大なニッチには、 真実を騙る人達の楽園だけが残る。

だれかに同調圧力を強要する振舞いをした時点で、それは科学ではなくなるという ルールを共有しないといけないと思う。

犬の避妊問題とか、環境問題なんかはだからこそ科学ではなくて、 科学を使った広告合戦であると読むのが正しい。

「早期の避妊は正しいのか?」とか、果ては「人を殺すのは本当にいけないの?」とか。

世の中のそんな問題を説明するのには科学は無力で、 「科学的なやりかた」なんてものがあるんだとしたら、きっと 「興味を持ちましたか?一緒に考えましょう」というやりかたこそが 科学的なんだと思う。

2007.08.23

圧力ゲームの遊びかた

「感情や力に訴える」「論理で詰める」「第三者の力を利用する」。 この3つのやりかたは、それぞれじゃんけんのような 相補的な関係を持っていて、世の中は「圧力のじゃんけん」 を繰り返しながら廻っている。

  • 強弁とか恫喝、あるいは弱さを強調するようなやりかたに対しては、 警察力や訴訟の話、あるいは行政機関の紹介といった第三者の力で対抗する
  • 訴訟をちらつかせたり、あるいは市民団体みたいな人達の圧力に対峙するには、 専門的な、理を尽くした話を展開したり、「1000冊読んでない人がSFを語るなんて」 みたいな専門家の壁を利用したりするのが正解
  • 自分の知らない専門的な話題、あるいは持っている知識量の差で負けが確定する ような状況に追い込まれたときは、「逆ギレ」してみたり、机をひっくり返して 退場したりといった方法が最良の対抗手段

圧力ゲームというのは、要するに物理的な喧嘩を回避するための手段。 相手から圧力をかけられて、それに対して勝利する戦略をぶつければ、 正面からのぶつかりあいを避けられるし、「あいこ」を選べば喧嘩が 始まる。

守る側の「勝利」というのは問題の先送り。どこかで喧嘩をしないと決着はつかない。

多くの人は喧嘩が嫌い。世の中には本当に白黒をつけないといけない問題なんて、 そんなに多くは存在しないから、今日もどこかで圧力ゲームが行われて、 守る側はたいてい「勝って」、利害対立はまた先送りされる。

攻撃側の勝利戦略

相手が出してくる手があらかじめ分かっているなら、じゃんけんに勝つのは簡単。

圧力ゲームというのは、だから圧力を受ける側には必勝法があって、 普通にやると攻撃する側には勝ち目がほとんどない。

攻める側にチャンスが生まれるのは、相手に手駒をそろえられないようなケース。

フィジカルが弱くて強弁できないとか、何かの理由があって、警察やら司法やら、 第三者の力を借りることができなかったり。実世界で3つの駒をバランスよくそろえられる人なんて、 実際のところそんなに多くないはず。

攻撃側は、相手のそんな弱点を読んで、相手が選択でできない方向に勝利条件を 設定して、負けを呑むか、あいこを選択して直接勝負するかの選択を迫る。

大昔受け持たせていただいた政治家の秘書だった方は、 反対意見を述べた人の家にダンプカーを突っ込ませたり、 無言電話をかけつづけて追い込んだりといった仕事を専門にしていたのだそうだ。

政治の世界はもちろん奇麗事だけではすまなくて、支持者からの支持を集める政治センス、 選挙とか、警察力とか、そんな第三者の力を援用するための一貫性に加えて、 やはりどうしても物理的な力を持つ必要があって、長く支持されている 政治家であれば、多かれ少なかれ、「物理専門」の秘書というのがいるのだそうだ。

喧嘩を避けるための「圧力ゲーム」だけれど、喧嘩するだけの「力」を持っていないと、 攻撃者にそこを突かれてゲームは負け。だからこその物理力。

「墓場まで持っていかないといけない話が山程ある」。そんなことを言っておられた。

勝利の代償として失われるもの

準備さえ出来るなら、それでもこのゲームは守備側が圧倒的有利。

努力するだけで、勝つことを必然にできるゲームにはもちろん勝つことで失われるものが つきもので、圧力ゲームの場合には、守備側の勝利で失われるのが「流動性」というもの。

圧力ゲームで守備側が勝利戦略を選択すると、その結果として守備側の流動性が 低下して、その振舞いを予測することが簡単になってしまう。

予測可能性の増大は、しばしば目先の勝利以上に大きな利益をもたらしてくれる。

医療バッシング華やかなりし今日この頃。マスコミとか市民団体が医療ブッ叩いて大喜び。 彼らの立場は「第三者」。ゲームには攻撃と守備とがいて、守っているのは医療従事者で、 見えない誰かが「第三者」という力を使って圧力かけて、医師が論理でそれに対抗して。

圧力に対して「勝利」を選択した医師は、みんな当然のように論理にすがる。

「1%も予後が良くなりました」なんて論文がぶら下がった、値段が10倍する薬。

以前ならば見向きもしなかったり、あるいは大きな施設が10年ぐらい使って、 「人体実験」済んでから採用しようなんて思ったり。果ては 「そこの電柱でミンミンゼミの鳴き真似やったら、その薬採用してあげるよ」 なんてうそぶいた医師がいた、なんて都市伝説を聞いたのも今は昔。

圧力喰って論理に殺到して、医師の取るべき選択肢からは多様性が消失して。 「証拠」さえぶら下げられれば、医師がその薬を採用する確率は、今では必然にまで 高められた。

勝負を捨てて予測可能性を高める戦略

いくら何でも「製薬メーカーが市民団体炊きつけた」なんて陰謀論だけれど、 圧力かかって、医師は誠意を示す代わりに論理に「逃げて」、 みんなが不幸せになった隣で唯一得したように見えるのは、製薬メーカーの人達。

創薬はギャンブル同然、いい薬を作ったところで、医者の気まぐれで売上げが激変する、 そんなヤクザな業界は、証拠さえ揃えれば、投資に見合った利益が確実に望める「堅い」業界へと 変化した。

ゲームの地平上にもう一枚、「上位レイヤ」とメタルールを設定してやると、 下位レイヤでの圧力ゲームの敗北が、上位レイヤでは、対象の予測可能性の増大として カウントされる。

今まではその振る舞いがカオス的で、有効な利用が不可能であった守備側プレイヤーは、 勝利の代償として秩序を付加され、上位レイヤのエネルギーとして利用されてしまう。

こんな「マルチレイヤゲーム」を企画している人、世の中にはたぶん それなりの数がいて、こんな人達を前にすると、たとえば守備側が お互い協調することが不利になったり、 ゲームの勝ちを捨てる選択が実は最善手であったり、いろいろ 不思議なことがおきてくる。

「マルチレイヤゲーム」を企画する人が増えてくると、今度は 確率論的な動きかた、論理によらない、その場その場のランダムな 動きというのが、きっと戦略として生きてくる。

ゲームに参加していない人から見ると、みんなあまりにも「馬鹿な」振舞いをしているように見えて、 その実みんな真剣にゲームをプレイしている、そんな混沌とした情景を見てみたい。

2007.08.22

藤枝市立病院が不正受給 保険医療機関取り消し

静岡県の藤枝市立総合病院の歯科口腔(こうくう)外科で、五年間に約一億二千二百万円の診療報酬の不正受給があったとして、厚生労働省と静岡社会保険事務局は二十一日までに、健康保険法に基づく同病院の保険医療機関の指定を取り消す方針を固めた。静岡地方社会保険医療協議会に諮問、答申を受けて二十八日にも正式決定する。 地域の医療拠点となる公立の総合病院が保険医療機関の指定を取り消されるのは異例。 中日新聞:藤枝市立病院が不正受給

みんなもっと大騒ぎしてもいいと思うんだけれど、あんまり話題になっていないようなので。

歯科業界のこと

医療保険では混合診療が認められていなくて、医科では自費診療の機会は まだ少ないけれど、歯科は「歯科医師として良心的な治療をしようと思ったら、 保険診療はできない」なんて言われるぐらいに歯科の保険診療に制限が あって、自費診療の割合が高い。

いわゆる「金歯」、歯の治療を自費で行うときには、治療前のレントゲン撮影とか、 消毒やら歯牙の切削やらといった手技料も、すべて保険が効かない。

そのあたりは今まであいまいにされていて、保険で写真撮影してから 金歯を入れるといった行為は、慣習的になされていたらしい。

大昔から黙認されてきたそんな習慣がいきなり覆されて、 「今まで保険で請求して来た分を、全て自費扱いとして国庫へ返納せよ」 なんて命令が下ったのが数年前。

大学病院級の施設だと、返還額が数億円単位になって、歯科の大学病院というのは そもそも赤字がすごくて、学費でそれを埋めるような構造になっていたから、 この支払請求はすごく痛かったらしい。

歯科医は供給過剰。全国的に歯学部の定員を減らさないといけないなんて、みんな 分かっているのだけれど、赤字を埋めるためには学生を減らすわけに行かなくて、 学生減らさないから卒業生が苦労して、今泥沼らしい。

この事件

恐らくは、歯科口腔外科で顎の形成術を行った際、咬合を再建するために、 一緒に歯牙のインプラントを行ったのだと思う。

顎形成術は歯科口腔外科の保険診療だけれど、 インプラントは保険が効かない自費診療。

顎の形成を行えば噛み合わせがずれるし、1度の麻酔で 手技を同時に行ってしまえるなら、恐らくそれは合理的。

今回保険医療機関取り消しを喰った藤枝市立病院は公立病院。

公立病院には、基本的に「お金儲け」のモチベーションは存在しなくて、 みんないい意味でやる気がない。混合診療になってしまった 今回の事例というのは、確信犯的な不正請求なんかじゃなくて、 むしろ医学的な合理性に基づいた判断。

顎形成術にインプラントを併用すること自体は、恐らくはそんなに 珍しいやりかたではないはず。この事件というのは、 不正請求が今になって見つかったのではなくて、 今までは黙認されていたことが、何かのきっかけで「正論」 が引っ張り出されて、病院全体が潰された可能性が高いと思う。

病院潰して得をする人

よく分からないのが、「保健医療期間取り消し」というメッセージの受取人。

歯科医師に対して「ズルしないでね」なんてメッセージを出せばいいなら、 歯科口腔外科だけに問題を絞ればいいし、保険医取り消しまでいかなくても、 以前のように保険分の返納を要求すれば十分だったはず。

「もうすぐ医科も地獄だよ」なんてメッセージを送りたかったのだとしても、 「厚生省が公立病院に監査をかけた」というだけで、全国の病院は 十分に震えあがる。

厚生労働省の監査というのはそれは苛酷なもので、その病院で働いている 医師は全員、一人あたり半日近く拘束されて、カルテの山と「Drug in Japan」 とを往復しながら、厚生省の尋問官から徹底的な人格否定を 受けるのだとか。

世間を敵に回さずに、医師だけにプレッシャーをかけたかったのならば、 これで十分であったはず。

地域の基幹病院であるはずの公立病院を保険医療機関取り消したら、 その地域の救急は回らなくなるし、600床以上ある病院に現在入院している人たちは、 明日以降の行き場を失ってしまう。

これだけの数の人が迷惑を受けるなら、厚生省だって、ノーダメージとは行かないはず。

「男の嫉妬」問題

以下は根拠のない邪推。

「外務省のラスプーチン」佐藤 優 氏の本には「男の嫉妬」という言葉が頻出する。

外務省というところは、本気で国の事を考えて動こうとしたならば、 いいワインだって買わないといけないし、海外の閣僚に袖の下だって通す。

表の予算では遅すぎたり、そもそも表の予算に名前を載せられないような お金の使いかたなんてしょっちゅうだから、「できる」外交官ほどルールを破るし、 法律を犯す。

外務省の中ではそのあたりをみんな心得ていて、みんながルールを守るふりして、 その実みんながルール違反を続けて、日本の国益を守ってきたのだという。

こんな環境で、誰かが「身も蓋もない正しさ」を持ち出せば、外交は一気に機能しなくなる。

「正しさ」と「国益」とが対立する環境で、国益を捨ててまで「正しさ」を通す、この場合は 佐藤氏がやってきた不正に対する内部告発を行う動機となるのが、 「男の嫉妬」なのだという。

自分よりも早く出世したとか、飲み会で上座に座ったとか、きっかけは本当に 些細なもの。それでも違反は違反だから、動機はともかく、 「正しさ」が出てきてしまえば、それは法律で裁くしかなくて。

今まで「黙認ルール」で回っていた歯科のレントゲン撮影が、 いきなり「正論ルール」が駆動して、保険請求禁止になったのは、 歯科医師会で厚生労働省に発言力があった人が、 何かのきっかけで失脚してからなのだという。

保険行政を行ってきた人達は、今までの歯科医師が行ってきた「不正」を分かっていながら 黙認してきて、それがいきなり覆って、業界全体が沈没しかかる状況を作り出した。

どう考えてもそれが最善手とは思えない、もっと経済的に合理性が高いやりかたをを 放り出してまで、相手のダメージが最大になるようなやりかたを選ばせたのは、 案外「男の嫉妬」、失脚した歯科医師会の大立者に対する個人的な恨みとか、 その人に昔暴言を吐かれた人が、今になって行政の上役に立ったとか、 そんなことなんだと思う。

これからどうなるのか

今回「不正請求」なんて叩かれたのは歯科だけれど、医科でも例えば 偽膜性腸炎をメトロニダゾールで治療するだとか、がん患者さんに 適応症例外の化学療法薬を使ったりとか、今は黙認されていても、 「正論ルール」が出てきたら明らかに違反なことはいくらでもあって、 教科書と保険とのギャップを埋めて、医学的に最適なことをやろうと思ったら、 ある種の不正は避けて通れない。

今はそのあたり、保険行政を行う人達も「黙認」の立場を通してくれているけれど、 これがある日「正論ルール」に覆ったら、それこそ病院という病院が億単位の 追徴金を請求されたり、保険医療機関取り消しなんてことになりかねない。

力を持った人達の振舞いが、経済的、あるいは医学的な合理性なんかではなくて、 「男の嫉妬」に代表される個人的な思いで左右されるなら、自分達には 対抗する術なんて残っていない。

「嫉妬心」なんて、相手から「そんなものはない」なんて一言いわれたら、それでお終い。

黙認されている不正を自分達で調べ上げて、 「今あなたはこの状態を黙認してますよね」なんて、相手から黙認の言質をもらおうものなら、 たぶん明日から全ては「正論ルール」になって、医科もお終い。

可能性があるとすれば、それは「嫉妬の可視化」。

  • 病院長があのとき、役人様の上座に座ってしまったのが原因です。反省しています
  • あの時素直に研修医が「一芸」を披露していれば、こんなことにはならなかったのに…

何か「事件」がおきたとき、病院側がこんなことを白状して、 「男の嫉妬」をさっさと可視化して、世の中はこんなにもつまらないことで 動いてるんですよなんて、人格攻撃の泥沼に足を突っ込む覚悟を見せれば、 あるいは少しは抑止力になるのだろうか? それとも、マスコミが喜ぶだけなんだろうか?

2007.08.19

ドクターハックのやりかた

誰かを操作するための一般解というものは存在する。

操作したい誰かが持っている技能や社会的な立場、おかれている状況、 使用可能なリソースなどに応じて、人の振る舞いには必ず最適なやりかた というものが生じる。

自由意志の介入は、確率論的な行動選択を通じて、最適な選択を積み重ねた 決定論的な未来予測に対して、予測不可能なノイズとして働く。

相手がおかれている環境を理解して、相手の性質に応じて、適切な方向から 圧力をかけることができるなら、自由意志の力は制限される。 「確率論の回廊」は狭くなり、行き先の予想が可能になってくる。

「自由意志に基づいた行動が、環境との相互作用で事後的に決定される」

こんな状況を作り出すことができるなら、環境に介入できる第三者は、 対象から意思決定の主体を奪うことができる。

行動は環境とともに変化する

たとえば当直中の医師というのは、みんな訴訟や過誤の恐怖におびえながら、 同時に体力の配分を考える。

みんな翌日も仕事。来る患者さん全てを一生懸命診察したら体を壊すし、 夜来る人というのは、ものすごく重症な人を除いて、基本的には 翌日の朝まで持たせられれば、それが当直帯の仕事。

この人は翌日に「流して」いいものなのか。それともここでちゃんとやらないと、 足下をすくわれてしまうのか。

夜間帯の行動というのは、この両極端に絞られてくる。患者さんの雰囲気みて、 お話を半分聞いた時点で、医師がこのあと取る道筋は、「流す」ルートと 「調べる」ルート、どちらか両極端に決まる。

「3日前から熱が出て…」なんて病歴は、流すときには「じゃぁ4日様子見ても大丈夫でしょう」 なんて解釈するし、調べるときには「いよいよ大変ですね」としか思えない。 最初に決めた行動指針は、その後の情報にバイアスをかけてしまう。

医師がとりうる行動ルートもまた、患者さんが20時に来たのか、夜の2時に来たのか、 朝5時に来たのかで、やっぱり異なってくる。

「診察してほしい」だけなら、当直中の医師の心境なんてどうでもいいけれど、 「検査してほしい」とか、「とりあえず抗生物質ほしい」なんて、ある程度 目的意識を持った人なら、このあたりの理解が大事。

最初のルート選択に介入できないと、後から挽回するのは無理だし、 最初に適切な介入を行えれば、その人の行動を支配できてしまう。

圧力で意志を制限する

人に圧力をかける方法は、大きく3とおり。

  • 要求を強弁する
  • 訴訟とか、市民圧力みたいな他者の力を使う
  • その人の専門性に訴える

職業ごと、あるいは社会的な立場ごとに最適な圧力のかけかたというのがあって、 正しい種類の圧力を加えられれば、その人の行動をより決定論的なもの することができる。

医師という職業は、病気の見逃しが怖くて、常に訴訟の圧力におびえていて、 おまけにもう一つ、ものすごくプライドが高い。

見逃したら訴えるとか、患者の権利みたいなものを振りかざされるのは 怖いけれど、この種のプレッシャーにはみんな常に晒されているから、 みんな多様な対処の仕方を編み出している。

ていねいになる人もいるけれど、最初からその患者さんを放り出して、 「自信がないので他当たって下さい」みたいなやりかたになる人もいれば、 検査フルコース出してデータ渡して、「後はあなたの責任です」みたいな 対応する人もいて。

嫌がらせには十分効果的であっても、どういう結果になるか読めないから、 コントロールの役には立たない。

強弁も同じ。みんなプライド高いけれど体力ないから、強弁で迫ると行動が歪む。 結果の不確定要素が増すだけで、相手をコントロールする用途には使えない。

行動コントロール目的で医師にプレッシャーをかけるなら、たぶん一番正しいのは 「症状」という専門性に訴えるやりかた。

  • 突然発症して増悪している
  • 少しもよくならない
  • 今まで生きてきて最悪の症状

たとえばそれはくも膜下出血であったり、解離性大動脈瘤の発症であったり。 「見逃すと絶対死ぬよ」なんて教育受けてきたいくつかの病気を引っ掛けるのは、 いつもこんな言葉。

どんなに元気そうな患者さんであっても、こんな言葉を聞いただけで、 たいていの医師は震えあがって、どんなに些細な所見も重たい病気に結び付けるし、 詳しい検査をオーダーする閾値は下がる。逆をやれば、振舞いは逆。 いずれにしても、コントロールは容易。

荒事に慣れていない人なんかは強弁で不安定になるから、 退院の話切り出すときにはやさしい言葉のほうが有効だったり、 警察の人なんかは「喧嘩になれば100% 自分が勝つ」というバックボーンがあるから、 強弁が実質無効。だからこそ、強弁は効果があって、結果の予測可能性が高まるから、 ヤクザの人達はやっぱりすごむ。

コントロール回避のやりかた

救急外来でいつも問題になるのは、麻薬系鎮痛薬の中毒になった患者さん。

本当の病気を経由して中毒になった人と、本物の麻薬を経由して、 お手軽に入手できる病院の麻薬を利用したくなった人と。

こんな人達にとって、「医師をコントロールする」というやりかたには とても切実な需要があって、みんな知恵を絞る。

こんな人達にとって重要なのは、なるべく低いコストで注射を手に入れること。 検査とか、ましてや入院なんかは望んでいないし、目の前の医師に頭を使われては困るから、 来院するのはいつも夜。

「慢性膵炎」と言われていて、今日はこちらに遊びにきていて、突然痛くなりました

ほとんどの人がこんな訴えで、そのわりには紹介状もなかったり、 「すぐ検査を手配しますから」とか、「点滴しましょう」なんて切り出しても、 やんわりと断られたり。

当直帯に入った医師がとる行動というのは、「流し」か「調べ」かどちらか。 実際のところそれで全然困らない。その人が医師の行動回廊に乗っからないという時点で、 その人には相当な違和感を抱く。

最近はいろんな病名を騙るようになってきたり、一人じゃなくて付き添いの人が来たり、 「友達の医師」を自称する人がついてきたり。バリエーションいろいろ。

こんな人を疑ったときは、謝り倒して注射を断るのだけれど、 プロの人達は、医者には「強弁」とか「訴訟」みたいなやりかたはコントロールしにくいことを 知っているから、たいていすぐ帰る。そうでない人達は、外来で激昂したり、 最悪殴られたりして、本当に困る。

まとめ

高い信頼性が要求される仕事であったり、その人の行動が、誰かにとって大きな利益を生む 立場の人であったり。どんな方向であれ、それがプレッシャーである限り、 それに晒された人の行動はより決定論的になり、その人に情報を入れるほかの誰かの意思が、 その人の行動を操作する、そんな状況が簡単に作り出せてしまう。

医師にはたとえば「死にたいです。お金ありません。身内いません。入院させて下さい」なんて 訴える患者さんの入院を断ることができないし、痛いとか苦しいとか、 それが患者さんの言葉である限り、基本的に100% 正しいというスタンスを崩せない。

言葉を疑えないから文脈を読むしかなくて、それはある程度は有効なのだけれど、 体力が残り少なかったり、相手の目的に応じた「適切な圧力」なんて 使われた日には、それに対して抗う術なんてない。

その気になればサインひとつで麻薬を処方できる仕事のわりには、 医師の振る舞いには「セキュリティホール」が多くて、それを埋めるのには 気合とか注意なんかじゃ不可能で、医師の行動を決める「コード」、 医師法に手を加えてもらわないと無理。やれば間違いなくコストがかかるし。

「医者からもらった薬が分かる本」ならぬ、「医者から好きな薬をもらう本」 なんて作って配ったら、あるいは厚生省に対する適切な圧力になるんだろうか…。

2007.08.17

安全工学と技術の癌化

技術が成熟していくと、技術それ自体が生み出す富よりも、 その技術に対する間違った期待感とか、技術者の名声に対する 盲目的な信頼なんかを利用した商売のほうが、圧倒的に大きな利益を生むようになる。

ノイズがシグナルを駆逐する

「たらいまわし」なんて言葉が生まれた大昔。夜間に救急外来を開いている病院なんて ほんの一部で、救急当直は戦場のような騒ぎ。一晩たって朝日拝んで、 気がついたら白衣血まみれだったりして。

就職したのは10年ぐらい前。この頃には病院も大きくなっていたけれど、 救急の現場にはまだまだ人が足りなくて、夜中になっても患者さんが列を作った。

救急に来る患者さん達は全てが「本物」。みんな具合の悪い人ばかりで、 待合室で人が亡くなったり、診察している最中に、 真っ青な顔した別の患者さんが倒れこんできたり。

様子がおかしくなったのは、仕事を始めて3 年目ぐらいのこと。

大きな公立病院が夜間救急を始めるようになって、 「救急外来」というものが、いろんな人に認知されるようになって、 患者さんの質が変化した。

「主訴:入院希望」 「主訴:飲みすぎ」

緊張しながら救急受けて、救急車のドアが開いたら、元気そうに歩いてくる人達。

最初のうちこそ笑って流せたけれど、そのうちだんだんとこんな人達が増えてきて、 救急外来のお仕事は、「診察」から「選別」へ。

「元気な救急患者」の人達はサービスにもうるさくて、こんな人達の影に隠れて、「本物」 がやってきて、病院で急変する。「本物」見逃してトラブルになって、 元気な人にたまたま病気見つけて、入院の話を切り出したら、 「お前は薬だけ出してればいいんだ」なんて、またトラブって。

12年目。

  • アメリカで成功した消火器内科の先生は、日本に凱旋帰国して、サプリメントを売りはじめた
  • がん患者さんの塞栓治療を専門にやっていた先生は、 治療効果が期待できない末期がんの患者さんだけに商売を絞った
  • 消火器外科の華、高難度だけれど成功すれば治癒が見えてくる「膵頭十二指腸切除術」は、 何度が高いわりには患者さんの満足度が得られなくって、やる人がほとんどいなくなった

技術の「シグナル」、技術が恩恵をもたらすはずの受益者は、今では文句やリスクばっかり。 「ノイズ」であったはずの人々、その技術が対象としていなかったり、 技術者の持つ技術じゃなくて、その肩書きとか、その名声なんかに興味を持つ人たちが、 シグナルに代わって利益をもたらした。

昔鍛えた「ノイズの中からシグナルを見出す」技術は、今では診療リスクの高い 「シグナル」を除外するために大活躍。

病院では、小児とか、若い人の急病は歓迎されない。大きな病院でもなかなか受けてくれない。 羽振りのいい近くの病院は、「元気な寝たきり老人」なんかを大量に入院させて、病棟をブン回す。 その人達が具合悪くなって、「ノイズ」が「シグナル」を発するようになったなら、 間髪入れずにうちみたいな施設に転送依頼。

技術者の楽園だった業界に、技術を理解していない人達が土足で踏み込んで、 その技術を本当に必要としている人達を「楽園」から放逐してしまう。

ノイズがシグナルを駆逐する。技術が成熟していく過程の中で、 技術 - ユーザー間の関係が変化して、目標を見失って迷走した技術は、 その技術が本来想定していなかった人たちに、何の意味もない成果物を 売りつけるようになる。

技術の癌化。こんな現象はたぶん、 大体同じ時期に、いろんな業界でみられているはず。

技術の癌化を生じた「安全」

  • それが誰かの役に立つこと
  • 「パズル生産性」が高いこと
  • 外界から隔絶されていること

医療を含めた様々な技術業界は、たいていこんな条件を満たしていて、 それぞれの業界が外界から隔離された「細胞」として、お互い弱いところを補間しあって、 「理系」という一つの生態系を維持してきた。

生体組織を作っている細胞のどれかが癌化すると、周囲の細胞もその影響を受けて、 そのうち生体を維持することができなくなってしまう。

技術系の業界を迷走させる原動力になっているもの、漠然と「市民」的なとしか 表現できない得体のしれない力を生じたのは、たぶん「安全という技術」の癌化なのだと思う。

「安全」は役に立つし、実世界を見渡すだけで問題山積み。学者が食べていくための「パズル」の 量には不足がなくて、いいことづくめ。

「安全の癌化」の原因となったのは、恐らくは言葉の問題。「安全」を記述するための言葉は 耳にやさしすぎて、安全工学にかかわる技術者と、そうでない人達とを隔てるのに 十分な力を持てなくて、非専門家の進入を容易にしてしまった。

十分丈夫な細胞膜を持てなかった安全工学は、それゆえに感染を生じて癌化してしまい、 安全と責任というキーワードはすべての技術者にとっての抵抗できない弱点となって、 いま「理系という生物」全体が揺らぎつつある。

  • アメリカの麻酔科医は、手術前に患者さんの胸部単純写真や心電図を見ないで、 それを読影した専門家のサインだけを確認する。実物を一目見た時点で、 それに対して責任を生じてしまうから
  • ワクチン接種を広めようにも、学校は「ワクチンのお知らせ」を配ってくれない。 これもまた責任問題。お知らせ配ろうと思ったら、医療者が学校にいって、自分で配布するしかない

安全問題が難しいのは、「間違わないようにする」なんて本質を把握するのが 一見簡単で、そのくせ絶対避けられないヒューマンエラーとか、未来予測が 確率論的にしかできない人体であるとか、コストの問題であるとか、 実体としての安全を実装するのに要する技術が恐ろしく複雑であること。

本質と実体との乖離が激しすぎて、技術者が本来の技術の受益者を見放してしまう構図が 癌化という現象。

たぶん医療だけではないはず。

「癌化した安全」を治療するには

癌細胞の治療手段というのは、大雑把に外科的に切除するか、 内科的に何とかするか、どちらかのやりかた。

切除した組織が持っていたニッチは、周囲組織が代替手段を提供したり、 あるいは医師が薬で何とかしたり。

外科的なやりかたを行うなら、それは市民団体の言うがままに制度を作って 大事故をおこしてみせるとか、マスコミ様が病院叩いて、気がついたら救急医者は 一人も残っていませんでしたなんて、ひどい結末ばっかり。

もしも「化学療法」を実践するなら、それは要するに分裂毒の注入。 「シミン」の活躍で誰が利益を得ているのかを明らかにしてみたり、 市民団体を支援する人達の人格攻撃を行ってみたり。 何をやるにしても、あんまり楽しくないやりかた。

内科にはもう一つ、「癌細胞と共存する」という考えかたがあって、 これは癌細胞に流入する微小血管を ターゲットにする治療方法。

癌細胞が成長するにも血流が必要で、 癌は周囲血管組織から微小血管を誘導して、自分が増殖する血流を得るのだけれど、 血管新生を阻害する薬を用いることで、癌の増殖だけを止めるやりかた。

作用は限定的で、効果のある腫瘍とそうでないものとがあるけれど、 副作用が少なくできそうで、いろいろ試みられている分野。

「癌化した安全」の成長を止めようと思ったならば、 いろんな技術畑の人達が、自分達の言葉で 安全というものを記述して、それを発信すべきなんだと思う。

立場が違っても、そこにはきっと共通する何かがあって、 それは決定論よりも確率論に重きをおく立場であったり、 安全確保とコストとの天秤を頭に思い描くセンスであったり、 多様性を拒むやりかたよりも、冗長性を美しいと思う感覚であったり。

対話の力なんてもうほとんど残っていないのだけれど、 狂信者じみた議論をぶち上げる市民団体を笑うだけでは、 やっぱり癌の進行は止まらない。

精神論とか、人間ドラマとか、安全とか責任といったものを面白おかしく 報道する人達と、工学としての安全を育ててきた人達と。最後は結局物語の勝負。

実世界を記述する言語としての科学の力は、ちゃんと使えば、 マスコミが描く人間ドラマなんかよりも、よっぽど面白いはずなんだけれど。

2007.08.14

ネットワーク依存性と老化の関係

高齢の患者さんというのは自立が難しくて、 行政であったり医療者であったり、もちろん患者さんを取り巻く家族であったり、 様々な人を結ぶネットワークの「ノード」として、その存在を保っている。

「死に筋」と「生き筋」

たとえば昨日まで元気だった90歳の高齢者が、転んで上腕骨を骨折したときなんかは、 その患者さんはすでに「死に筋」に乗っかっている。

入院する。かなり高い確率で痴呆が進行して、点滴もままならなくなる。 トイレも自分で行けなくなるし、筋力の低下は一気に進む。食事もとれなくなる。 骨折で患者さん亡くすわけにいかないから経管栄養始めて、たいていむせこんで、 肺炎をおこす。ドロドロになって、最悪亡くなるし、かなり高い確率で寝たきりになる。

「家族」であった患者さんは、退院が見える頃には親族同士で押し付け合いになる「荷物」 となって、「悪くなったのは病院のせい」とばかりに親族が団結して、 今度は病院と過程での押し付けあい。

いずれにしても、その患者さんの「生」というものは、骨折を生じた時点で 事実上終わってしまうことがあって、最初の時点で「死に筋」を視覚化しておかないと、 あとから大変。

ずっと悪い経過の人、自宅で何年も寝たきりで、家族の方ががんばって介護しているような 人というのは、「生き筋」に依存することで生きている。

親族だからとか、家族だからとか。それが常識になっている人にとっては大切であっても、 そうでない人、あるいは「気がついた」人にとっては、 いつ捨ててもいいようなものが「生き筋」を保つ。

入院したとき、「この人はまず助かりません」なんて厳しすぎる話をしてしまうと、 生き筋を維持していた人の心を折ってしまう。

入院期間が長引いて、それが2 週間を越えた頃には、自宅の空気が変わる。 それは汗がしみたシーツのにおいであったり、あるいは糞尿がついたオムツのにおいであったり。 患者さんが病院に入院してしばらくして、家族の方が「空気の変化」に気がついてしまうと、 その人を再び引き取る気力が消失する。

「なるべく長い間入院させて下さい」

ご家族がこんな話を切り出してきたときには、もうその患者さんの生き筋は切れていて、 あとは病院が落ち着き先を探すしかなくて、次に悪くなって入院するときは、 一生入院させようとする家族と、何とかして入院をブロックしようとする医者と、押し付けあい。

こんな患者さんに病状説明するときも、その人の生き筋を切らないように、 それを維持している家族の気力を何とかつなぎ止めるように、結構苦労する。

「筋」の視覚化、病状説明という行為は、患者さんを取り巻く家族を 「医者が演じる神様ごっこ」の共犯者に引きずり込もうとする試み。

昔はこんなことは隠しておいて、「やれるだけやります」の一言で済んだのだけど。

ネットワークに依存しない人

若い患者さんは、若いというだけで価値。「筋」なんてものは関係なく、 神様を演じる必要もなく、ひたすら全力。

どんなに重症であっても、見ただけで「これは助からないよね」なんて患者さんであっても、 ご家族には「厳しいけれど頑張ります」以外のコメントは許されないし、実際問題頑張るしかなくて。

「奇跡は起きないから奇跡って言うんですよ」なんて、冷静な他科の意見はとりあえず無視して、 人工呼吸器、人工心肺、もう体中管だらけにして、それでも最後は「やっぱり神様なんていなかったね」 なんて結末になることしばしば。

ネットワークを無視していいなら、やるべきことは物量の投入と、マンパワーの確保とが全て。 自分の頭に自信がないなら、頭がいい上司を引っ張ってくればいいだけのこと。大変だけれど、 全力出せばいいだけだから、ある意味簡単。

ネットワークと老化の関係

老化というのは、その人のアーキテクトを、ネットワークに開示していく過程に似ている。

ゴルゴ13は漫画だけれど、主人公であるゴルゴは絶対に失敗しない。 ゴルゴ13は、ゴルゴを主人公とした物語というよりは、「ゴルゴ13というルール」を 取り巻く人々の物語。

誰かが追い詰められたり、どうしても復讐を考えざるを得ない状況に追い込まれて、 「ゴルゴ13」というルールを発動する。射殺される側は何とかして ルールを出し抜こうとしてあがくけれど、ゴルゴ13は失敗しない、 あるいは文脈上失敗を許されていないから、最後は射殺されておしまい。

主人公は完璧すぎて、また物語の舞台である社会の裏ではその存在が知られすぎていて、 もはや射殺を失敗することでしか、自分の存在を表現できなくて。主人公に失敗は 許されないし、失敗すれば物語が終わってしまう。ゴルゴは人物として完璧でありながら、 物語の中ではすでに主人公としての自由を失っている。

blog みたいな日記メディアでは、そのサイトが大手になっていくに従って、 個人の日記がニュースのフィルタみたいな存在に変化する。

大手になって、読者が増えると、管理人は読者を裏切れない。 大手なりのリアクションが求められて、たぶん読者も「いつもの切り口」を求めるから、 サイト管理人の振舞いは固定化していく。

管理人の考えかたや立ち位置はネットワークに遍在するインフラとなって、 サイト管理人の言動には、いつのまにか「責任」みたいな制限が課せられる。

サイトが大きくなって、ネット社会での発言力がだんだんと大きくなるに従って、 その人の自由度は減っていき、その人のアーキテクトや、作り出したニッチというものは、 他の人によって置換可能なものへと変貌してしまう。

オープンソースは人を幸せにするのか?

若い患者さんが持っているマンパワーの吸引力、「若さという価値」みたいなものというのは、 要するに可能性の力。隠すことで得た力。

若い人達は、高齢者に比べていろんなものを隠しているから、 それだけ多くの力を引っ張れる。

その人が致命的な病気を脱出したからといって、そのひとが大きな仕事を成し遂げたり、 あるいは治ることそれ自体がその人を幸福にするのかどうかすら分からない。 それでも誰にも分からないからこそ、その可能性が価値を生んで、 そこに大量の資本を突っ込むことを誰もとがめない。

オープンソース化。

その人が持っている資産をどんどん公開、共有して、みんなでもっと大きな「何か」を作りましょう なんてやりかたは面白くて、実際すばらしい成果をあげているけれど、 あのやりかたというのは同時に、オープンソースにかかわった人の「老成」を早めてしまう ことはないのだろうか?

物理世界と電脳世界との境界はだんだんと薄くなってきて、実際問題、 自己の資産のほとんどを、ネットに遍在させて、本人がそこにいなくても、 「あの人ならこんなとき、こう返すよね」なんて、人格が一人歩きしている人だって多いはず。

ネット社会で先端を突っ走る人達は、たぶん今40代半ば。 そんな人達がいろんなものをオープンにしていく中で、 自分達のアーキテクトが既知のものとして共有されてしまったとき、 第一世代の人達は、そこから自己を再起動することはできるのだろうか?

「全てをオープンにした先にある幸福」を提示することは、ある意味 オープンソースにかかわる人達の義務だと思う。

それはきっと、今までの幸福論文脈の延長線上にはない価値観で、 その人がどれだけ「俺は幸福だよ」なんて発信を続けたところで、 「幸福だと叫ぶこと」がまたその人の機能として既知のものになってしまって、 上手くいかない気がする。

今すでに高齢者になっていて、有名なblog を書いている人達というのは、 恐らくは「隠すこと」の力に自覚的で、みんな自分達の実体を あまり表に出していない。

そろそろ中年にさしかかるような人達、ネット世界と実世界との 境界を限りなく薄くする方向で働いて、オープンソース運動なんかを 駆動した原動力になったような人達が自らの存在を結晶化した先、 その人達がどんな幸福感を提案できるのか、相当興味があったりする。

  • 人がアウトプットできるものには限りがあるのか、それとも十分なインプットさえあれば、 その人は無限に何かを作り出せるものなのか
  • ネットワークに遍在する自己と向きあったとき、その人はネット自己を捨てることを選ぶのか、 それとも実世界での自己を「消して」しまうのか

「終わらない自己」が価値を失う近未来、サイバーパンクの問題提起に 実世界が追いついたとき、第一世代の人達は、どんな解答を出すのだろう?

2007.08.13

動物を動かすスクリプトと意識

犬の訓練士を養成する学校では、「動作をどうやって分解するのか」 を学ぶのだそうだ。

犬に「遠くにあるダンベルをくわえて持ってくる」という動作を教えるときには、 たとえば以下のように動作を分解して、これを順番に教え、統合していく。

  1. ダンベルのほうに注意を向ける
  2. ダンベルのほうに歩く
  3. ダンベルに口をつける
  4. 咥えて持ち上げる
  5. 咥えたものを持ってくる
  6. すべてを統合して、もってきたダンベルを飼い主に渡す

「教える」やりかたは2種類。

犬に自由に振るわませて、ランダムな動作の中で、たまたま飼い主の 想定していた動作をしたときにだけほめるやりかたと、ごほうびで誘導したり、 壁や障害物などを用いて、飼い主が想定した動作をせざるを得ない状況を作り出して、 その障害をクリアした後でほめるやりかたと。

「伏せ」を教えるときなんかだと、犬が伏せるのをじっと待っていて、伏せたらほめる方法と、 座布団とか、あるいは飼い主の膝を使ってトンネルを作って、 トンネルの先にある「おやつ」を食べるには 伏せた姿勢をとらざるを得なくして、伏せたらほめるやりかたと。

命令を聞いて、それに対応した動作を自分で発見させるやりかたは、時間がかかるけれど定着がいい。 「ほめられざるを得ない状況」に犬を追い込むやりかたは、動作を覚えるのは早いけれど、 それを忘れるのも速いらしい。

犬を動かすスクリプト

「ほめる教えかた」を実践している人達は、犬は報酬に忠実な動作を行うだけの 生き物で、飼い主が好きだとか、忠誠心が高いとか、そんな「犬の意識」みたいなものは、 飼い主が、自分の思いを犬に投影しているだけなのだと考える。

今習っている訓練士の方も、犬には恐らく道徳とか、意識なんてものは存在していなくて、 だからこそ「叱る」という動作には何の意味もないと考えているらしい。

意識とか、道徳に訴えるようなやりかたをしなくても、 人間が「こうしてほしい」という動作を犬に分かるように分解して、 それを教えるやりかたさえ提案できるなら、 「ほめる」を重ねるだけで、相当に複雑な行動が教え込めるらしい。

訓練士の学校では、たとえば「ダンベルを持ってくる」とか「トイレを学習させる」とかの 課題を出されて、その動作を実現するための「スクリプト」を書かされるのだそうだ。

教官はそれを採点して、「この部分が飛躍しすぎ」とか、「これでは動作を統合できない」とか、 提出されたスクリプトが本当に「動く」ものなのかどうかを採点する。 プログラムみたいだけれど、訓練士の学校でも、そのまんまスクリプトとか プロンプトとか呼ばれているらしい。

この「ほめるスクリプト」というのは、だいたいどんな動物でも適用可能なやりかたで、 裏を返せばこれを使わないのは人間ぐらいなのだとか。

犬に意識はあるのか?

獣医さんに聞いてみた。 少なくとも種族ごとの「生まれつきの個性」みたいなものはあるらしい。

  • 「ものをくわえる」という動作は洋犬特有のもので、むこうの犬なら教えなくても 「くわえて持ってくる」ができるらしいけれど、和犬だと教えないと無理だとか
  • ゴールデンレトリバーは「水に飛び込む」性質が最初から備わっていて、 台風で増水した川に飛び込んだレトリバーが動物病院に担ぎ込まれること、結構多いらしい

人懐っこさとか、暴れん坊とか、そんな性質もまた、育った環境が決める要因以外に、 その犬がもともと持っている性質というのがあって、「DNA が決める性格」みたいな 要因があるらしい。

人間の言葉を「犬の動作スクリプト」に翻訳する訓練士の人は、「犬の意識」なんてものは 存在しないか、少なくとも必要ないものと考えていて、 犬を「報酬-動作系」で動作する一種の機械のようなとらえかたをすることで、 結果として「ほめて教える」という、理想的な教えかたを編み出している。

獣医さんの視点から見ると、やはり犬にももともとの性質というものがあって、 それを意識というのかどうかは別として、生まれた後に教育を受けた要因以外に、 もともと犬に備わっている「何か」があるらしい。

犬に教える立場と、犬を診察する立場。

意識というものを、人の言葉を動作に翻訳するための部品として考える 立場と、心の実体として動作する何かとして考える立場と。

立ち位置が違うから、議論にはならないのだけれど、 「人の言葉」という、犬の存在とは無関係なものがかかわることで、 意識に対する考えかたが異なってくる。

午後の動物病院。内科の医者と、訓練士の方と、獣医師さんとで、うちの犬の教育。

立場が異なる人間同士、犬をはさんで会話するのは面白い。

自然発生した言語

人間が持つ「言語」という機能は、基本部分は生まれつき備わっていて、 他者とのコミュニケーションを通じて自然発生することができるらしい。

1979 年のニカラグアでは、学校に集められた聾唖の子供達の間に「ニカラグア手話」と呼ばれる 言語が自然発生したのだという。

当時の学校には、聾唖の子供を教育できる教師がいなくて、 「言葉というものがある」ことを教えることが不可能だったにもかかわらず、 子供達はお互いに身振り手振りを交換し合うことで「言語」を作り出し、 意思疎通を図ることに成功した。

ニカラグア手話を学んだ子供達は、お互いにコミュニケーションを取ることで、 生まれてはじめて「言葉で考える」ことを覚えた。

ニカラグア手話には、無から言語を作った第一世代と、最初から学習可能な言語があって、 それを学んだ子供達が洗練した第二世代とがある。統一された文法が作られて、 豊かな表現が可能になって、物語を伝えるだけの能力を持つのは第二世代のほうで、 第一世代の人達は、新世代の言葉を理解するのに苦労するのだともいう。

言葉が発達した社会に生きても、コミュニケーションが不足すると、意識は暗くなってしまう。

以下うろ覚え(昔家庭医学の雑誌のコラムで読んだ話だけれど、 ネットを調べても何も引っかかりませんでした。 もしかしたら100%妄想かもしれません)。

大昔、農家の大家族では、末のほうの子供には名前が与えられなかったのだという。 そんな子供達は「オイ」とだけ呼ばれて、「オイ、起きろ」で目を覚まして、 一日中畑で働いて、「オイ、そろそろ寝るぞ」と声をかけられたらみんなと眠る。

いじめられているとか、疎外されているとかではなくて、そもそも娯楽とか刺激が ほとんどない時代で、おしゃべりをする必要があるのは、跡取の問題が絡む 上の方だけだったから、1 年を通してほとんど話しかけられない家族というのが普通にいたらしい。

名前がないからみんな「オイ」とだけ呼ばれて、ロボットみたいな暮らしをしていた そんな人達に「オイ」という病名がつけられた。

「オイ」の人達は、会話自体は可能であったにもかかわらず、何かやりたいことがあるとか、 楽しいこととか、つらいことは何か? といった疑問にはほとんど答えられなかったのだという。

「テレビを見た。人が動いていた」なんて「オイ」の人の発言を読んだ記憶があるから、 テレビが出現した直後ぐらいまで、日本にもこんな人が存在していたはず。

言葉と意識

意識というのはきっと、言語の発達と不可分で、少なくとも人間が感覚する意識というのは、 コミュニティから自然発生して進化した、言語-動作の巨大なライブラリに他ならないのだと思う。

言語という機能は、単独で学習することも可能だけれど、それを洗練するための コミュニケーションが存在しないと、そもそも意識が発達しないか、 あるいは生活に必要ないものになってしまう。

犬という動物を、人間-犬という異種族の関係から見ていくと、意識は存在しないか、 少なくともなくても困らないものになるけれど、犬族という同族同士の関係から 見ていくと、たぶん意識の問題は避けて通れない。

人の振舞いを記述する、言語のスーパーセットたる何かを持つ存在がいたとして、 そこから見おろせば、あるいは人も犬も同じようなもので、 人間にだって意識を持つ必然性が見当たらないのかもしれない。

飼い主たる自分達が取るべき立場はといえば、もちろん犬の意識は「ある」と考える。

うちに来てから半年、もうすべての生活が犬中心に回っていて、 家の中に犬がいるというよりも、犬小屋の中に人が住まわせてもらっている状態。

すっかり親馬鹿をしているけれど、本当に見ていて飽きない生き物。

2007.08.08

「生きてきた私」を言祝ぐ技術

  • 極端に幸福な、あるいは不幸な人生を送った人には「系の中で、あなたのニッチはユニークでした。 あなたが自分の人生をどう感じたのかは、私の知ったことではありませんが」
  • ほどほどの人生を送った人には「あなたの代わりはいくらでもいますから、世の中何も変わりません。 安心して下さい。そんな絶望は、周囲のみんなに共有されているものですから」

神様が科学的な存在ならば、亡くなる人に神様が語る言葉は、たぶんこんなかんじ。

科学技術は、人がより楽になるために発達してきた。

より長く生きるため。苦痛を感じないため。 いろんな技術が発達したけれど、楽になるはずの技術が実際にやってきたのは、 「解決」でなくて「先送り」。

帳尻合わせは最後の最後でやってきて、亡くなる時にはもう滅茶苦茶。

その2 週間をあきらめられますか?

97歳、寝たきり10年目。家族が最後に声を聞いたのは、いまからもう5年も前の話。

こんな方が肺炎になっても、家族がそう望むのであれば、病院は呼吸器をつけるし、 透析だって人工心肺だって、言わないだけで、要請があればやらざるを得ない。 「年寄りは透析受けて死ぬもんだ」なんて認識が共有されている地域というのも まだまだあって、そんなところで「医療経済的に正しい医療」なんてやったら大変。

科学というのは「死んだらどうなる?」という疑問には答えてくれなくて、 みんな知らないし、知らないことは怖いから、科学の力で先送り。

先送りするにもお金が要って、それは後になるほどかさむから、 終末期医療の最後の2週間というのは、それはもう相当なお金がかかる。

たぶん若い人の高度医療のお金が入っているから高齢者医療が全てではないけれど、 「最後の2週間」に費やされる医療費というのは、総医療費の10%近くになるらしい。

人生70年、2週間という期間は誤差範囲で、終末期の2週間に意識を保てる人なんて 多くないから、この時間というのは、そのほとんどが本人のためではなくて、残される人のための2週間。

実行したら問題山積みだろうけれど、 「2週間をあきらめる」合意ができるなら、医療費の問題というのは、そうとう楽になる。

「しんだらそこはてんごくだよ」

何かをあきらめなければいけないときの理不尽な思いというのは、 科学では解消できない。

「構造」は人格を持たないから、理不尽な思いを受け止めてくれない。 科学的な思考を詰めて、出てきた答えが「構造」であるうちは誰も納得してくれなくて、 科学の力で犯人探しが行われ、誰か「人」が腹を切って、結局誰も幸せになれない。

「物事全てには原因があって、勉強すれば、気合入れればそれはいつか解決できるよ」 という科学の考えかたというのは、亡くなった人と、その周囲にいた人達全てを巻き込んで、 「努力不足の落伍者」というレッテルを貼る。

理不尽さの引き受け手としては、科学という実装は、相当にセンスが悪い。

宗教というのは、そのへん優秀。

「死んだらそこは天国だよ。人生失敗しても、天国にいく途中で挽回できるよ」

大雑把にこんな考えかたを無批判に受け入れることができるなら、 それを信じる人達は、とりあえず幸せになれる。

「生きてきたその人を言祝ぐ道具」としての宗教の優秀性と、科学の使えなさ加減。 科学と宗教というのは、恐らくは対立する考えかたなんかではなくて、 そもそも存在するレイヤが異なるんだと思う。

「私」というBIOS 「OS 」としての宗教

脳というのは巨大なメモリデバイスにしかすぎないし、「私」とか「意識」なんていうものは、 それがあると錯覚されているだけの、実体を持たない考えかたのはずなんだけれど、 それでもやっぱり「私」ぬきには思考するのは難しい。

それが仮想であれ実体であれ、「思考する主体」がないと認識ができないし、 体験の記述ができない。

意識なんて幻想、そんな考えかたが「科学的に」証明されたのだとしても、 科学もまた、記述を通じた思考技法である以上、解釈の主観性から自由ではいられない。

以下妄想。

この世に生まれて脳が目覚めて、たぶん最初にロードされるのが、「私」という考えかた。 人間なんかでも、犬なんかでもそのあたり一緒。

少しだけ大きくなって、「思考する主体」を通じて世界を認識していく中で、 「私」はたぶん、何らかの宗教を受け入れる。

「痛い思いをした」であるとか、 あるいは「ほめられた」みたいな、生まれてすぐには理解できない体験。乏しい経験の中で、 そうした理不尽さを理解したり、あるいは思いをぶつける対象として出来上がってくる「何か」 というのは、たぶん群れや集団といった仲間どうしでは同じような成り立ちかたをして、 群れ全体の分化として共有される。

自然発生的に共有された文化こそが宗教のはじまり。 宗教は、「悪いことをしても神様が見ているよ」とか、 何かの考えかたを無批判に受け入れることと引き換えに、 世の中の理不尽さのほとんどを、矛盾なく説明可能なものにしてくれる。

科学というのは、世界に起きた現象を理解するための言語。 「無批判に受け入れる前提」なんてものが必要ない代わり、 分からない問題に関しては、先送りする以外の力を持たない。

「理系」の人達というのは宗教を信じていないと言う人が多くて、 「亡くなる方の家族」として接した時は、たいていの場合、とても物分りがいい。

なくなる患者さんに対する彼らの態度というのは、それでもやはり「科学的」な ものからは遠くて、「レントゲンが大丈夫なんだから、痛くなんかないはずだ」なんて、 痛がる患者さんをしかりつけたりして。こんな人達はたぶん、 宗教を信じていないのではなくて、「理系はこんなとき、物分りがいいものだ」みたいな 教義を持った何かに縛られていて、無理して自分を抑えこんでいるように見える。

脳の上には、認識の基本となる「私」という考えかたがまずあって、 分からないものをとりあえず分かるものにする「宗教」というレイヤがその上にあって、 宗教というOS上、「科学」というアプリケーションが走っている。

宗教を信じていない人というのは、たぶん無理やりに宗教レイヤを不可視化していて、 その「無理」がいろんなところに出てきている。

極めて厳しい状態の患者さんに「どこまでやるか」を問うたところで、 ほとんどの人は「できるだけのことをして下さい」とか、「いいと思うことをして下さい」とか、 問題丸投げ。本当は、こんな「分からない問題」を解くレイヤとして、誰もが 宗教を持っているはずなのに。

宗教にはもっと頑張ってほしい

たとえばイスラム教の偉い人達は、全員一度はディズニーランドの門をくぐる必要があるし、 仏教の高僧の人たちなんかも、もはやびっくり人間ショーみたいになっている最近のアダルトビデオに 目を通す必要があるのだと思う。

死んだらどうなるのか?

「天国だよ」とか、「輪廻転生するよ」とか、「何十人もの処女がお出迎えだよ」とか。 宗教世界が提案している「天国による救済モデル」というのは、科学がこれだけ発達した現在、 明らかにプランとしての魅力を喪失していて、だれもが伝統宗教を信じられなくなってしまって、 本来あるはずの「宗教レイヤ」が不可視化してしまって、 分からない問題に対して対応できない人が増えている。

宗教の人というのは、やっぱり現在に通じる新しい「天国モデル」を提案できないと嘘だと思う。

夢を現実化するのが科学者の仕事なら、その上をいく夢をみるのは宗教家の仕事。 宗教は、とりあえず飲み込んでもらった概念を利用して、そこから先に生じることを 矛盾無しに演算できる学問。科学が答えを出せない領域に対しては、未来を夢見る義務があるはず。

2007.08.06

「みんな」に対する考えかた

「みんな」を商売の取引相手として考えるのか、 それとも既成事実を構成するための、単なる部品として考えるのか。

CTを買った

今度入ったCTスキャンは、定価の 9割引 で購入できたのだそうだ。

田舎の小さな民間病院。徳洲会とか、大きな病院グループじゃあるまいし、 価格の交渉力なんてそんなに無いはず。この値引率というのは、 たぶん民間病院の平均値。

うちに入った機械が、定価で5億円ちょっと。このとき競合相手に上がっていた 別のCTは、定価で12億円ぐらい。普通に考えれば、倍以上の価格差なんて、 最初から競合のうちに入らない。相手メーカーの提示価格は 分からないけれど、値引率で見るならば、たぶん今回買ったメーカー以上だったはず。

近くの公立病院では、最近オーダーリングシステム総入れ替え。 ほとんど定価で購入して、10億円以上かかったらしい。

医療機器の「定価」には何の意味もない。

それでも、国公立病院は、定価が分からないと予算が組めないから、定価が大切。 値引き交渉もするみたいだけれど、たぶんほとんど定価で購入しているはず。

開発した商品に、原価の10倍以上の利潤を乗っけて、それを定価を1割以下で販売する。

商売のやりかたとしては相当に乱暴だけれど、医療機器メーカーというのは どこも安定していて、「堅い」業界。

「みんな」をダシにお金を引っ張る

  • 安価で優秀な商品を、多くのユーザーに提供して、広く薄く利潤を稼ぐ
  • ごく一部の富裕層だけを対象に、高い利潤を乗せた商品を少数販売して利潤を得る

医療機器メーカー、特に国内のメーカーの人達というのはたぶん、民間病院とか 開業医なんかから利益を取ろうなんて考えていなくて、 利益はあくまで「国」や「公」から得ようとしているんだと思う。

民間病院には、とんでもなく安い値段で納入される医療機器。 民間病院との取引を通じてメーカーが得ているものというのは、 「みんなが支持して使っていますよ」という既成事実。

「みんなが使っている」「みんながそう望んでいる」という既成事実を積み重ねて、 国という巨大な財布をこじ開けて、高利潤の商品を買ってもらう。

医療機器メーカーとか、公共事業に乗っかる土建業界、あるいは、 防衛とか警察みたいなインフラ産業は、たぶんこんな考えかたで利益を得ている商売。

斜陽化したとか、崩壊しかかっているとか、モラルが低下したとか さんざん叩かれながら、それでも業界規模でいったら、 こんな業界はまだまだ圧倒的に社会の上位。 「公」に寄生するりかたは泥臭いけれど、国があるうちは絶対に無くならなくて、 まだまだ強力。

ネットサービスは世の中を変えない

ネット世界では、無料に近い対価で提供される、様々なネットサービス。 いままではノイズとして埋もれていた「ロングテール」を商売の対象として、 そこから巨大なビジネスを生んでいく…なんて宣伝されていたけれど、 今のところ成功したのは、広告モデルだけ。

たぶん、IT 企業が国家という集金装置を乗っ取れない限り、 Web 2.0 的なサービスというのはまともな商売にはなれない。

「みんな」というのは、既成事実を製造するための単なるインフラで、 既成事実が要請した「何か」をごく一部の上位層だけに販売するモデルが これからでてきて、そういう会社だけが生き残って、ネット社会を 商売の場所に変えていくのだと思う。

Web はまだ、そういう意味では世の中を何も変えていないし、 様々なネットサービスを提供している会社というのもまた、 既得権益に乗っかった企業、マスメディアとか、昔からある大企業の 「プラグイン」みたいな形でしか生き残れない。

手段のためには目的を問わないやりかた

結局のところ、政治の問題を避けては通れないのだと思う。

右とか左とか、特定の思想や宗教みたいな切り口ではなくて、 従来の既成事実モデルと対立する、「取引相手としてのみんなのありかた」 みたいな手段の違いを切り口にして人の意志を集めることができるなら、 それは結構大きな力になるような気がする。

多様性が致命的な欠点となる間接民主制。世代ごとに多様性が増していく中、 社会の方法論が変わらないのなら、高齢者層の発言力というのは増しこそすれ、 それが減ることは絶対に無くて、「変化したい」という若い世代の思いは大きくなるはず。

思想の違いを対立軸にするんじゃなくて、社会の方法論を対立軸にするような、 「思想や宗教の違いは横に置いておいて、それを社会に表現する手段 それ自体を変えようよ」みたいな、そんなやりかたを提示する政治家や 政党が出てくると、きっと面白いのだけれど。

2007.08.02

新技術におけるピーターの法則

新しい技術は、最初「マニアックな技術者の玩具」として世の中に登場する。

登場したばかりの頃、新しい技術は「遊び」によって牽引される。 遊びを通じて多様性を獲得したその技術は、それを面白がるユーザーを増やしていく。

技術の使いこなしであったり、応用のしかたであったりといったものは、 この時期にほとんどが提案され、検証されてしまう。

ユーザーが増えていくと、技術を引っ張る原動力が「自慢力」へと変化する。 「自慢」はルールを要請する。多様な応用例は、あとから来た技術者の「委員会」 によって整理され、「委員会」が承認するやりかた以外は意味がないものとして無視される。

生まれたばかりの赤ん坊は、あらゆる動作の試行錯誤を通じて、 重力環境に適応した「歩行」という動作を獲得する。「委員会」によるルールの限定は、 こんなやりかたを思い出すけれど、ルールの限定を要請しているのは現場じゃなくて、 むしろ現場なんかに興味のない、委員会の面々。

自慢力が駆動するのは、「少しでも厳密に」「少しでも多く」といった、 漸進的な極端化の競争。

競争の果て、新しい考えかたは、それが現場にとって有害になるまで極端化されて、 そのうち現場から見捨てられてしまう。

現場から一度見捨てられて、新技術ははじめて「実用品」として認知され、 現場にニッチを獲得する。

最初はみんな「マニアの玩具」

マスクを使った人工呼吸器にのめりこんだのは、もう10年も前。

気管内挿管を嫌がる肺炎の患者さんがいて、しかたがないので酸素マスクに 人工呼吸器をくくりつけて、それで急場をしのいだのがはじまり。

とても珍しいやりかただったから、病院新聞の 「メディカル・トリビューン」から取材が来たりした。

研修医3年目。BiPAP というマスク用の人工呼吸器が4台あって、 誰も使いかたが分からないから、倉庫で埃をかぶったまま。 休みになると、それを自宅に持ち帰って、自分に呼吸器をつけて遊んでいたのも今は昔。

マスクを使った人工呼吸器は、その頃は単なる遊び道具。 それがどれだけ役に立つのかなんて、たぶん誰も分かっていなくて、 それにのめりこんだのは、ただ単純に「面白かったから」。

心不全の患者さん。喘息の患者さん。肺炎の患者さん。 次々登場する新しいマスクや、呼吸器の使いこなしかた。

技術進化の方向性なんて見えなくて、「こんなふうに使ってみた!」なんて 多様な報告がメーリングリストを廻る日々。

しばらくして、偉い先生がたが研究会を立ち上げた。

ガイドラインが整備されて、技術は広まって、いろんな論文が 発表されはじめたけれど、その頃にはもう、 最初の頃の熱狂は冷めていた。

ガンマ単位のこと

「昇圧薬は、時間あたりの量ではなくて、体重あたりの量で使いましょう」

うちの研修病院で「ガンマ単位」が使われるようになったのは、 大学の先生が就職してくれるようになってから。

それまでは、昇圧薬の使いかたはみんな共通で、血圧が上がるまで量を調節して、 それっきり。体重が大きな人も、そうでない人も、血圧だけで調整していた。

大学にいった同級生に話を聞くと、馬鹿扱いされた。

当時の大学では「ガンマ単位」が当たり前。昇圧薬は、 患者さん一人一人の体重にあわせて濃度を調整されて、 「1時間あたり5ml」なんて荒っぽい指示ではなくて、小数点以下まで指定していた。

指示の細かさとか、薬の濃度なんかは、なぜだか施設同士で競争するかのように 細かくなって、薬もどんどん濃くなった。今思うと合理的な理由なんてないのだけれど、 何となく、そのほうが精密そうだったから。

医療事故の報道が盛んになって、細かい指示とか、濃い薬なんていうのは実際問題 トラブルが多かったから、そのうち「ガンマ単位」での指示は廃止され、 昇圧薬の濃度はみんな同じになった。

今でも頭の中では「ガンマ」を計算するけれど、それが指示書に記載されることはなくなった。

技術が「自慢競争」のダシにされるとき

  • 何らかの「極め要素」を持っていて、勉強すると「わずかだけ」差がつく
  • 手元にある道具でその技術を再現することが可能

こんな要素を持った新技術というのは、それが拡張、最適化されていく過程で、 技術者同士の「自慢競争」のダシにされ、それが現場にとって有害になるまで極端化されて、 その流れは「使えない技術」として現場が見捨てるまで止まらない。

勉強して得られる利益が「わずか」であるというのが結構大切で、 これが莫大であると、そこに競争は発生しないから、技術はすぐに現場に広まる。

科学者というのは、論文を書かないと食べていけない。

たとえば何かを「10m だけ進歩させる」必要があったとき、 10m を一気にジャンプできる技術というのは 画期的だけれど、科学者が食べていく役には立たない。

同じ「10m の技術」であっても、少しづつ改良を重ねて、「1cm の論文」が1000本書ける技術というのは、 科学者に莫大な仕事を生んでくれる。10m の論文だろうと、1cm の論文だろうと、1 本は1 本。 みんながそこに殺到して、たくさんの1cm が積み重なる。

技術が成熟して、10m を達成する寸前になると、事態はチキンレースの様相を呈する。

「やりすぎた技術」というのは、現場にとって有害になってしまう。 ところが、進化を重ねて「9m 」を越えた頃、その技術に乗っかる科学者の数というのは、 もう引き返せないぐらいにすごいことになっているから、誰もが「あと1cm」を乗せたがる。

最後の数センチに、数百人の科学者が「あと1cm」を積む。

技術は必ず暴走して、役に立たなくなるまで極端化してしまう。

昔だとそれはガンマ単位であったり、人工呼吸器の使いこなしかたであったり。

最近だと、抗生物質の最適な使いかたを目指す「PK/PD」理論あたりは、 まず間違いなくこの流れに乗っかりそう。

「この患者さんには、メロペネム1.0gを2時間47分かけて投与して下さい」なんて、 指示を「最適化する」医師が出てくるはず。

面白い技術はガラクタ箱の中に

たとえばそれは、大昔の「集中治療メーリングリスト」の過去ログ。

90年代初頭、まだ自分が下っ端で駆けずり回っていた頃。 集中治療室の「マニアの玩具」といえば、人工呼吸器と人工心肺。

制御技術が進歩して、高性能な呼吸器が登場するのは10年後だけれど、 呼吸器の「使いこなし」であったり、様々な工夫であったりといったことは、 この頃すでに、ほとんどが試されていた。

人工呼吸器が進歩して、その使いこなしかたを「委員会」の人が決定するようになった頃、 メーリングリストを盛り上げた先生がたは、呼吸リハビリに走ったり、 非侵襲的人工呼吸器に走ったり。

自分が人工呼吸器を面白がりはじめた頃には、教科書はすでに、「エビデンス」とか 「ガイドライン」とか、きれいで無意味な知識で飾られて、判子で押したみたいに同じ内容。

どの教科書も「こんな人はもう治らない」なんて、自信にあふれた記載。 「こんな人は、たまたまこんな工夫をしたらよくなった」なんて、 いいかげんで邪悪な記載はどこにもなくて。

何とかしたくて、いろいろ探して、結局たどり着いたのは、 10年も前の、メーリングリストの過去ログ。そこはエビデンスもない、 「委員会」に名前を連ねる偉い先生なんて一人もいない、ジャンクな記録の山。 自分にとっては求めていた宝の山だった。

研修病院から大学病院に移って、「呼吸器に詳しい奴」として自分が身を立てる役に立ったのは、 この過去ログを知っていて、その記載をいろんな雑誌で確かめたことがすべて。

検証もされていない、教科書にはもちろん書いていない、 でもその技術を世界で一番面白がって、未熟だった当時の技術を使いこなした 技術者の、「遊び」の記録。

たぶんいろんな分野にこんな「ガラクタ箱」が放置されているはず。 それは時代を経た今となっては宝箱となって、きっとどこかで再び空けられるのを待っている。

2007.08.01

「笑い声」が聞こえる頃

最近ちょっと思うのは、ブランドというものを作ろうとするにあたっては、 顧客に対するスタンスを明確にしなければならないなということだ。 (中略)明確にした上では、当然ながら、お客さんを「断る」こともありうる。 むしろ明確になればなるほど、それと異なるお客さんを断らなくてはならない。 (中略)「誰なら断ってもいいか」ということを 先にはっきりと決めておくことが、ブランドの観点からも重要だと思う。 その手の明確な「諦め力」「割り切り力」は、車輪の片輪だ。 広告β:ブランドを作るために割り切るということより引用

家庭医学のこと

アメリカで家庭医学を学んだ先生と働かせていただいたことがある。

家庭医学は一般内科のプロ中のプロ。何でも診るし、どんな病気の人でも受ける。

研修病院。総合的な判断力がつく家庭医学は研修医にも大人気で、 その先生も教えるのが上手な方だったから、最初のうちは順調。

日本の医療は、基本的には専門家ばかり。専門家集団の中に「何でもできる」 医師が入ってきた結果、周囲の専門家は大喜び。

「総合的な診療をお願いします」

いろんな病院から紹介されて来た患者さんは、食べられない年寄りとか、 動けない年寄りとか、寝たきりの年寄りとか、身寄りがなくて、行き場を失った年寄りとか。

原因がよく分からない症状を持った患者さんとか、総合的な技量が要求される 患者さんがきたのは最初のうちだけ。総合的な知識が必要で、勉強が要求された 家庭医学の研修コースは、そのうち朝から晩まで電話をかけ続けるだけの体力だとか、 転院を承知させるための交渉力だとか、医学にあんまり関係ない技量が要求されるようになって、 研修医は離れていった。

断らない病院のこと

「依頼があったら何が何でも受けろ。絶対に断るな」

研修させてもらった病院のポリシーは、この一言がすべて。どんなに忙しかろうと、 どんなに不十分な医療しか提供できなくても、患者さんを断るよりは、 患者さんを受けたほうが、相手の迷惑は少ないはず。そんな信念。

最初の年は必死。疲れてきて、少しだけ余裕が出てきて、周囲が見えた。

  • 近くの小洒落た個人病院は、毎日7 時をすぎると救急依頼が入る。日中は問題を先送りして、 帰宅時間が近づいて、面倒になったらうちの病院に患者を「投げる」
  • 大学の先生がバイトに行く老健には、「困ったらここに電話して下さい」という張り紙がしてある。 「ここ」にはうちの病院の電話番号が書いてあって、「面倒が起きたら、 ここに患者送ればいいから」なんて申し送りがされていた

「当院では技術的に限界なので、ぜひそちらでとってください」なんて、大学病院から転院依頼を いただいたことがある。うちの部長すごいんだな、なんて喜んで受けたら、 入院費用を何軒も踏み倒していたとんでもない家族が一緒についてきた。

大学が評価してくれた当院の「技術」というのは、家族の罵倒に耐える根性のことだった。

選択の多様さと社会の階層

24時間、何でも受ける病院の近くには、気管支喘息の患者さんが引っ越してくる。

いろんな人がいる。おとなしい「上流」の人とか、柄の悪い「下流」の人とか。

具合が悪くなったときの振舞いは、みんな一緒。 うちの救急外来に来て、吸入を受けたり、点滴をしたり。場合によっては入院したり。

「上」と「下」とを分けていたのは、選択肢の多様性。

  • 「上」の人達は、多様な選択肢を好む。普段通院するのに「良さそう」な施設を探すから、 普段は大学病院とか、地元の公立病院、もっときれいな病院にかかる。そんな「お高い」病院は、 夜中なんかは営業していないから、そんなときだけうちに来る
  • 「下」の人達は、いろんな選択肢を探すのなんて面倒だから、いいときも、悪いときもうちに来る

同じ系統の人達は、同じ系統同士で群れる傾向を持つ。「上」は上同士、「下」は下同士。 集まる病院が決まってくると、病院全体もそんな目で見られるようになる。

「断る病院」というのは、「上」の病院。「上流」の人に多様な選択肢を提供することで、 「上級病院」というお墨つきをもらって、「上」を自分の外来に集める。

悪くなる人、「上」のやりかたについて来れない人は、「下」に投げられる。

断らない病院の努力はおいしく利用されて、 その頑張りにただ乗りする「上」の病院はもっと元気になる。 患者は分断されて、断らない病院はもっと「下」になって。

研修医の頃、喘息をこじらせた若い女性を診察したことがある。かんじのいい人で、 救急外来の常連さんだったから、「うちの呼吸器外来を受診してみませんか?」なんて水を向けてみた。

「私はそういう人じゃないので、朝になったら、大学病院に行きますから」

笑顔だった。

「笑い声」が聞こえる頃

「断らせて下さい」

病院長と何度も喧嘩になった。

断らないからなめられる。断らないから馬鹿にされて、他の病院から笑われる。 断りさえすれば、断ることさえできれば、自分達だって周囲から尊敬されて、 患者さんからも「いい病院」という評価をいただける。

「笑い声」を聞いてしまうと、あとは価値観むちゃくちゃ。周囲はすべて敵に見えてくる。

状況は今もそんなに変わっていない。 「断らない病院」からは人が抜ける。救急を頑張っていた 周囲の公立病院も、救急業務から撤退するところが増えてきた。

救急を頑張って燃え尽きた先生がたは、きっとそのとき誰かの「笑い声」を聞いてしまって、 そこから先は、加速度的に疲労が進んでしまったはず。

自分が今いる施設も「断らない」病院。

今年になって人が増えて、人が増えたことを告知したわけでもないのに、 人が増える以前よりも、最近はもっと忙しくなった。

「笑い声」はまだ聞こえない。しばらくは大丈夫…。