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2007.07.31

倒れにくいマグカップについて

デザイナーが暴走した製品が大好き。

鉄板を切れる性能を目指して、文房具の範疇を明らかにはみ出したハサミとか。 高精度を追求しすぎて、デザインが異様にごつくなったホチキスとか。

性能が良い、使いやすいものが作りたい。

そんなデザイナーの思いはしばしば過剰になって、思い入れを強調しすぎた デザインはバランスを崩してしまい、使いにくくて売れない商品が出来上がる。 自分が飛びつくのはそんなものばっかり。

昔から愛用しているのは、横浜の雑貨屋で買ったマグカップ。

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底が広がっていて、安定感抜群。10年使って、中身がこぼれたことは一度もない。 その代わり、使い勝手は最悪。重くて持ちにくいし、末広がりの形をしているから、 中身の熱さが直接指に来る。飲むためには、頭を天井近くまで反らせないといけない。

欠点だらけ。その欠点すべてが気に入っていて、普段使っているのはずっとこのカップ。

落としたり、踏みつけられたりして部屋のコップが世代交代をしていく中で、 この10年間生き延びているのは、このマグカップと、あとは実験用のビーカー。 食器棚はちょっとすごいことになっている。

10年目。さすがにくたびれてきて、新しい物を買おうと思ったら、もう手に入らなかった。

ネットで「wide bottom mug」「broad bottom mug」なんてキーワードで検索したのが以下のまとめ。

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Coffee Travel Mug, Wide Base

どこかで「一番最初にデザインされた」なんて但し書きがついていた、陶器製の倒れにくい マグカップ。いろんなところでよく見かける製品。プラスチックの蓋と、取り外し可能な シリコンゴムの土台が付属しているらしい。

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WIDE BASE MUG

「Low Rider mug」という商品名で、いろんなところで販売されている。プラスチック製で、 ゴムの足がついていて滑らない。これは日本のサイトでも販売しているところがあって、 Sunの日本支社で売っているのは、 たぶんこの製品の色違い。

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Double-Walled Stainless Steel Wide Base Mug

ステンレス製。アマゾンで買えるのが最大の魅力だけれど、「過剰なかんじ」が今一つ…。

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Stainless Steel Wide Bottom 16oz Mug

同じステンレス製なら、こちらのほうが使いにくそうで好み。これだけ末広がりだと、 中身を全部飲むのは相当大変。首折れそう。

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Trombly邃「 Office Mug

これは形よりも重さで安定感を出している製品。プラスチック製。Microsoft のメーカーマグが このデザインだった。デザインと機能との妥協という点では、 末広がりデザインよりもよっぽど正解に近いけれど、やっぱり個人的には今一つ…。

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16 oz. Wide Base Travel Mug

これもいろんなところで見かけたデザイン。アクリル製で、蓋つき。

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Broad Base Mug

これもステンレス製。ZippoとかShellとか、有名なメーカーが自社ブランドとして 製品化していた。デザインが「まとも」に見えてしまうのが、個人的には減点対象。

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Independent Living Eating and Drinking Aids Page

これは身体障害者用(?)の製品。紹介ページだけで、販売ページがなかった。

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Charleston’s Kosher Bed & Breakfast

「手作り」をうたっていた。陶器製 ?

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Rebel Kidsware Mug

National Design Museum のミュージアムショップ。子供用のマグカップとして紹介されていた。 これは相当心が動くんだけれど、容量が分からなくて、「子供用」なのが気にかかる。

日本でも売っていた。やっぱり小さい。

「no-spill mug」で検索するともう少し引っかかった。

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No-Spill Mug

渋くて良い雰囲気。

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Spill safe mug

これも結構好み。

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石英ガラス製 ハイテク マグカップ

ガラスという点で目的が違うけれど、これ欲しい。 シリカ100%、耐熱温度1700度。圧倒的な技術の無駄使いっぷりが素敵。

Microsoft とか、Sun といったIT企業のメーカーマグは、 なぜか末広がりの製品。やはりキーボードには絶対にコーヒーを こぼせないとか、なにか理由があるのだろう。

どなたか日本から購入可能で、陶器かステンレスでできていて、 どこか「過剰」なマグカップ、紹介していただければ幸いです…。

2007.07.30

社会の失明とネットワークによる信頼の担保

最初の頃に信頼を担保していたのは「もの」それ自体。

社会が大きくなって、「良いものを見る目」を多くの人が失って、 信頼を担保するのは「人」の役割に。

社会がもっと大きくなって、「良い人を見分ける目」を持った人が少なくなったこの頃。 次に信頼を担保するのは、たぶん「もの」が作り出すネットワークなんだと思う。

ヤギを潰す日

研修医の頃まわった南の島では、最近まで「ヤギを潰す日」と「豚を潰す日」が 村ごとに決まっていたのだそうだ。

潰されて、肉にされるのは村の動物。さっきまで元気に歩いていた生き物。 鮮度保証つき。村で飼った動物を、村の人が食べる。

小さな社会では、「もの」の信頼性は、「もの」それ自体が保証してくれる。 美辞麗句で飾った広告なんて必要ないし、JAS マークみたいな制度の出番も、もう少し先。

料理という帯域制限

動物を潰して「肉」にして、流通を経由して調理を受けて、食卓へ。

動物が食卓に上がる工程で、動物からは情報が失われていく。

自分はもう、スーパーで売っている肉や魚の良し悪しは分からない。 昔母親から習った記憶はあるけれど、身につかなかった。

「肉」になる前、生きている動物ならば、少なくとも「元気だ」ということだけは分かるし、 解剖実習の経験はあるから、解体させてもらえるならば、病気の有無ぐらいなら分かるかもしれない。 解体されて、パッケージされた状態になってしまうと、もう無理。

分からないものの信頼性は、誰か専門家に担保してもらう。小売を専門にする業者が 販売するのは、「もの」ではなくて、情報の補間と信頼の担保というサービス。

人と人との距離が近い小さなコミュニティの時代なら、肉屋さんの主人は、 それなりに必死になったはず。不良品を売った肉屋さんは信頼を失い、 小さな町では生きていけない。信頼を維持する動機があって、みんなはその動機にお金を払う。

コミュニティがだんだんと大きくなって、今うちの近くにあるのは、大きなスーパーマーケットだけ。 スーパーマーケットで信頼を担保しているのは、その店の食肉担当者。今の地域に1 年住んで、 その人の顔なんて見たことがない。

顔が見えないコミュニティでは、自らの行動を通じてでしか信頼を担保できない。 高そうだから良い肉なんだろうとか。国産と書いてあるから大丈夫とか。情けない話。

土用の丑の日。スーパーでは鹿児島産の鰻が山盛り。どれも肉が厚くて皮もブ厚くて、 どこから見ても、隣の中国産と区別がつかなくて。自分みたいな素人にとっては、 中国産と国産とを分けているのは、ラベルの印字だけ。

市場はどんどん大きくなっていくけれど、良いものを見分ける「目」を持った 人の数は、たぶんそんなに増えていないか、むしろ減っている。「目」が薄まってしまうから、 市場の「視力」はどんどん落ちて、盲目的な信頼だけが横行する昨今。

大手サイト管理人の言葉はなぜ「重い」のか

人間を検証することなんて不可能で、顔と顔とが離れていけば、 モラルを維持することも困難で。

「人」が信頼を担保する社会には上限があって、 大きくなりすぎたコミュニティでは、結局モラルが崩壊してしまう。

人はウソをつく。広告も、マスメディアもみんなウソをつく。 何が正しいのか分からないのに、某巨大掲示板の意見とか、 大手サイトの管理人の意見というのは、なぜだか信用してしまう。

顔が見えないネットワークが持つ不思議な信頼感というのは、たぶん 「大きなコミュニティを維持しながら発現を続けていくと、 ウソをつくコストが、ウソから得られる利益を上回ってしまう」ということを みんなが理解しているからなんだと思う。

大手サイトには多くの読者がいて、その中には特定分野の専門家とか、 管理人より圧倒的に知力が優れた人達とかがいっぱい。 管理人は全方向的に突っ込まれる言葉に応酬しながら、 それでも沈黙すれば読者を失ってしまう。

立場が異なる様々なツッコミに対応しながらウソをつきとおすのには、 ものすごいエネルギーが要る。すべての読者を欺きとおすなんて不可能だし、 よっぽど面白いことを書き続けられないならば、ウソが崩されれば読者は去る。 ネット世界ではすべての「ウソ」は記録されるから、一度崩れた信頼は取り戻せない。

そういう意味では、創刊してから120年、ウソしかついていない 朝日新聞の人達というのは、本当のプロフェッショナルの集まり。

大きなコミュニティを長いこと維持している人というのは、 だからこそ「少なくともその人から見える範囲では、ウソをつかない」というスタンスに収束して、 各々の立場から「本当のこと」を発信し続ける。

情報の量が信頼性を担保する

一番すばらしいのは「確実に効く薬」で、次にすばらしいのは「確実に効かない薬」。 一番ダメなのは、効くのか効かないのかはっきりしない薬。

「人」の時代から「情報」の時代へ。「効く」とか「効かない」という情報がたくさんある薬というのは、 効くなりに、効かないなりにいろいろ使いでがあるけれど、よく分からない薬というのは、 これはもうどうしようもない。

「よさ」の時代から「量」の時代へ。価値が多様化して、 「人」が信頼を担保できなくなった時代で大切なのは、「もの」が持つ情報そのもの。

それは産地であったり、JASマークみたいな法律で決められた情報なんかではなくて、 むしろ巨大掲示板での言及数とか、ネットワークでの話題を通じて、 「もの」が生み出した情報の総量みたいなもの。

「情報」というのは、定量化するのが難しい。

たとえばある製品に「この商品はすばらしい」なんてコメントが1000 以上もついたところで、 それを信じるネットワーカーはほとんどいない。「どうせやらせだろ」とか、 「これだから朝日は…」なんて反応を引っ張るのがせいぜい。

賛成とか、反対とか、たぶんこれからは「向き」の持つ意味はどんどん弱くなるはず。 くり返しの多い、同じような情報というのは、圧縮すると極めて小さくなってしまうけれど、 多様性に富んだ意見というのは圧縮が難しくて、多数の賛成意見よりもサイズが大きい。

たぶん「圧縮処理を行った後の情報量」というのが信頼性を担保する社会というのが これからやってきて、そんな漠然とした情報をどうやって可視化するのか、 たぶんいろんな人がそれを考えているはず。

情報可視化手段としての生命

スーパーに並ぶ肉の「生データ」にあたるのは、生きている牛や豚。

生き物が加工され、スーパーに並ぶまでには相当な量の情報が捨てられている。 裏を返せば、生きている牛や豚が持つ情報量というのは莫大なのに、 情報の質を評価するのは案外簡単だったりする。

「生きている」とか、「元気だ」といったやりかた。

牛が草を食べているところとか、牧場で歩いているところ、糞をするところなんかを ながめていれば、その牛が元気なのかどうか、3 日もあれば子供にだって分かる。

生物は、莫大な情報を視覚化する上で、「生きている」という 極めて分かりやすい手段を提供している。

人が亡くなる様子を眺める機会がものすごく多い。

生きているというのは「動いている」ことなんだなと思う。 で、「動く」というのは、たぶんあらゆる刺激に対して「停止を返さない」状態。

90歳の方が老衰で亡くなる時なんかは、眠るようになっても呼吸だけは止まらなくて、 そのうち呼吸は止まるけれど心臓だけは動いている状態になる。そんな状態になっても、 案外とその人は「動いて」いて、わずかな刺激で筋肉が微妙に収縮したり、 体がまだ温かだったり。

実際問題「生」と「死」の境界というのは、老衰の場合は極めてあやふやでは あるけれど、その人が「動かなくなった」という感覚で、みんな「亡くなった」ということを 理解している。これが部屋の中に心電図モニターを持ち込んでしまうと、 みんな本人そっちのけでモニター睨んでしまうから、そのあたり分からなくなってしまうのだけれど。

情報の「活き」を決めるもの

情報が「生きている」というのは、論理が停止しないで、 あらゆるツッコミに対して反応しながら、新しい情報を生み出しつづけるような状態。

「活きの良い」情報というのは、残念ながら科学よりも疑似科学に多くて、 たとえば「水は答えを知っている」理論であったり、「ゲーム脳」の一連の議論であったり。

ほとんどの似非科学理論が無視されていく中で、ああいった議論がやたらと盛り上がるのは、 たぶん論理の中心に循環論法的な円環構造をもっていて、どの方向から突っ込まれても、 自分の論理体系を破綻させない反論ができるから。

彼らは立ち位置がしっかりしているし、彼らの論理の範囲内では、きっとウソなんてついていない。

科学畑の人達が本気で攻撃する似非科学理論を信じる人達というのは、 たぶん科学畑からのツッコミに「防戦している」なんて感じていなくて、 むしろ「論破している」していて、それが楽しくてしかたがないはず。 楽しさは伝染するから、論争が過熱すればするほどにコミュニティは盛り上がっていく。

ああいった似非科学が「よい」のかどうかはさておき、 ネットワークにこれだけの賛成意見、反対意見が出尽くした論理なら、 それを理解して、自分の立ち位置を決めるのことは十分にできるはず。 そういう意味で、盛り上がった似非化学というのは、十分に「信頼できる」理論にはなっている。

情報の量が信頼を担保する近未来、ただ漠然と「良い」ものになんか誰も興味を示さなく なる。「もの」を取り巻くコミュニティを盛り上げるためには、 「もの」のとるスタンスがはっきりしているさせる必要があって、 そこには当然、反対意見もたくさん出てくるはず。

たとえば「安くておいしい良い野菜」なんて立ち位置には誰も食いついてこなくても、 「寄生虫無保証だけど化学肥料一切なし」とか、「化学肥料の本当の力を見せてやる」 みたいなスタンスをとる人達には、きっと大きなコミュニティが作られて、 その言葉の真実性が、いろんなところで検証されるはず。

情報本位制社会では、八方美人が許されるのはトップランナーだけで、 2 番手以降はたぶん、プロレスみたいに何らかのギミックを背負っていかないと生き残れない。

それが本当に「良い」ことなのかは分からないけれど、 きっと今より「面白い」、それだけは確かなはず。

2007.07.26

「釣り」の返しかた

いない「誰か」を見せるやりかた

たとえば外界から隔絶した部屋の中で2人、カウンセラーと被験者とが6時間ぐらい。

被験者から話を聞いたカウンセラーは、常に隣の「誰か」と相談してから返答を返す。

被験者は、見えない「誰か」をいぶかしみながら、治療者たるカウンセラーに変な突っ込みも できなくて、5 時間目までそんなやりとり。

被験者と治療者。密室の中で、そんな歪んだ関係を5 時間も続けた頃には、 被験者の現実認識はカウンセラーに依存するようになっている。 カウンセラーが「力の勾配」を意図的に利用したならば、 被験者にはその意図に対して防衛するすべがない。

話も煮詰まった5 時間目。「……ですよね~」なんて、見えない 誰かと何百回目かの「相談」を行ったあと、被験者の目の前で、 カウンセラーが「見えない誰か」の肩を抱く

上手にやれば、被験者にはきっと「見える」はず。

「今、見えたよね?」

カウンセラーが自らの意図を告白したとき、 世界の認識は再び被験者の手にゆだねられ、 被験者とカウンセラーとの関係は終了して、「見えない誰か」は舞台から消える。

それはカウンセラーみたいな資格であったり、「古参」みたいな権威であったり、 社会的な地位であったり。 どんなものであれ、力の勾配を利用できる立場の人が「釣り」を仕掛けたとき、 それは極めて高い確率で成功するはず。

力の差がなくなる瞬間

被験者の立場というのは、カウンセラーの「釣り」に対して基本的に無力だけれど、 立場の強いカウンセラーが「釣り」を仕掛けたまさにこの瞬間だけは、 被験者とカウンセラーとの立場は対等になって、 カウンセラーを「釣り返す」可能性が見えてくる。

カウンセラーの意図というのは、「この部屋には自分と被験者以外にもう一人いる」 という物語を被験者に信じさせること。カウンセラーが「見えたよね」と勝利宣言を 発した瞬間は、部屋の中にはたしかに3人の人がいて、みんながその物語を共有している。

ここから先は、「物語を駆動する力」の勝負。被験者が地団駄踏んでくやしがれば、 物語はそこで消失して、カウンセラーの勝利が確定する。消滅するはずの物語を 被験者が捕まえて、カウンセラーをその物語に引きずり込めれば、 あとは物語に対する想像力の勝負。

返しかた

たとえばカウンセラーが「見えたよね」なんて勝利宣言を発したその瞬間、 被験者は想像力を駆使して、その「見えない誰か」の体格や性別、 その後の行動なんかをなるべくリアルに思い描いて、物語を再起動する。

「見えない誰か」というのは、被験者に対して殺意を抱いた男で、カウンセラーの勝利宣言直後、 被験者の首を締めようとして、机を飛び越え、被験者に襲いかかる。被験者は悲鳴を上げながら 机の下に隠れ、そこで「見えない誰か」と喧嘩が始まる。

5 時間もかけて作ってきた「見えない誰か」。それをリアルに実体化すればするほど、 カウンセラーも「見えない誰か」の物語に近づいていき、巻き込まれやすくなる。

「見えない誰か」と争う被験者を見て、慌てたカウンセラーが 「喧嘩の仲裁」に入ろうとしたならば、カウンセラーもその時、「見えない誰か」が 見えてしまったはず。

誰かと会話をしたり。誰かの意見にコメントをしたり。あるいは、「壮大な釣り」を計画したり。

どんなものであっても、関係というのは相手を巻き込んだ一つの物語を作って、 お互いにそれに対して近づいていく行為。そこには安全地帯なんか存在しなくて、 操作しようと近づけば、それを返されるリスクだって、近づいただけ増えていく。 立場が弱い側からは、それが見えにくいだけ。

どんなに立場の強い人でも、どんなに防御が硬い相手であっても、 「釣り」が成立したその瞬間だけは無防備。 釣られた側が、ここから物語を暴走させれば、 お互いの関係が一変して、きっとすごいことになる。

ネット世界では「釣りでした」で話が終わって、「その先」を仕掛ける人、あんまり多くない。

「ネタにマジレス」の下克上世界というのは、それはそれでとても面白そうなんだけれど…。

2007.07.25

市場の崩壊と品質の帰還

業界が大きくなると、競争のルールが「品質」から「価格」に代わる。

「そこそこ」のものを大量に発売することで利益をあげようとした業界からは、 製品の質に満足できないユーザーが離れてしまう。

一度下げた品質を戻そうにも、品質の悪い物が支配的になった業界には、 もはや品質を論じられるユーザーがいなくなってしまい、 「品質が高いこと」にユーザーを引きつける力がなくなってしまう。

企業は価格を下げて、もっと質の低いものを出さざるを得なくなって、 結果として市場全体を失ってしまう。

「品質の時代」を再び始めるためには、たぶん流通システムを再起動する必要がある。

作る人と増やす人

世の中には「0 から1を作り出す人」と「1 を10に増やす人」とがいて、 市場というのは主に、「1 を10にする」人達の都合で大きくなる。

市場が求めているのは「1」という製品。 最初はきっと、「1を作って1を売る」ところから始まったはず。

「1を10にする」技術を持った人が加わる。

製品を増やす人。広告をする人。流通を作る人。スーツを着た人。 人と人とをつなぐ仕事。 こんな人達がわずかに増えるだけで、生産性は一気に10倍に跳ね上がる。

市場が生まれる。会社が大きくなる。スーツを着た人達の発言力が高まっていく。

作る人の発言力は、相対的に低くなっていく。 製品を届ける手段であったはずの「メディア」や「流通」は、 そのうち目的となって一人歩きをはじめ、 市場からは「より良いものを作る」動機が失われてしまう。

イノベーションのジレンマ

熱狂的なユーザーの声を聞きすぎた企業は、より高品質、高性能な商品を作る方向に 突っ走りすぎてしまって、「そこそこ」で満足していた多くのユーザーを見失ってしまう。 企業の努力は決して間違っていないのに、努力した企業は努力の果てに市場を失い、 後発メーカーにとって代わられる。

これが本来の「イノベーションのジレンマ」。品質を追求するばかりが大切ではないという教訓。

このお話には先があって、品質競争から価格破壊の時代が来たあと、 運が悪いと市場それ自体が滅んで無くなってしまうかもしれない。

大きくなってしまった業界には多くの人が集まるけれど、 「0から1を作り出す」能力を持った人は、 もともと少数。少数だし、もはや発言力も小さいけれど、 市場の大きさを決めるのは、やっぱり「増やす人」ではなくて「作る人」。

市場が大きくなれば、それだけ多くの人が食べられる。 「1を10にする」人達が働くと、「1」から「10」の利益が生まれるけれど、 それ以上を目指そうと思ったら、どこかから別の「0から1」を見つけてこないといけない。

「1」を作れる人なんてそんなにいないけれど、「0.7」みたいな中途半端なものを作れる人は、 きっともう少し多い。中途半端なものであっても、それを鍛えて「1」にする技術はあって、 たとえばそれは、編集者。出版業界のプロが担ってきた仕事。

業界が飽和して、コストダウンの要求が強くなって、 真っ先に切られたのもまた、たぶんこうした人たち。

ひどい本が増えた気がする。内容は面白そうなのに、やたらと読みにくかったり、 重要なところに線を引こうとしたら、文章がページをまたいで、肝心なところに集中できなかったり。

出版の業界でおきているのは、「1」を探しに本屋に行っても、 「0.7」がたくさん置いてあるだけで、満足がいく「1」がどこにもない状態。

見えない「編集の仕事」

「出版のプロ」の仕事は減っているそうだ。 作者の原稿が、ほとんど無編集で出版されてみたり、大手の出版社でも、 組織の改変に伴って、校正部門が整理されてしまったり。

編集の仕事というのは、生原稿を本にすること。

誤字脱字を訂正したり、送りがなを統一したり。 本を書きなれていない人の原稿は漢字だらけで、本に印刷すると、ページが真っ黒。 漢字を「割って」、ひらがなの割合を増やしたり、本の章立てを考えながら、 小見出しがページの右端に来るように字数を調整したりするのも、編集者の仕事。

「いい内容の本」と、「いい編集がなされた本」というのがあって、編集者の人達というのは、 お互いの「仕事ぶり」は良く分かるのだそうだ。

最近のベストセラーは、編集作業がお粗末なものが多いらしい。たまに「いい仕事」が されている本を見つけても、小さな出版社の本で、今度は全然売れていなかったり。

編集がいいかげんな本というのは、「消費されるデータ」ではあっても、 もはや「本」の延長にはなくて、ネット上で読めるなら、それで十分に代用できるもの。

プロの編集者が見ると、ちゃんと編集された本とそうでない本とはすぐ分かるらしいのだけれど、 たとえば自分なんかだと、もうはっきりとは分からない。

「不満足」というのは簡単に感覚できるけれど、 「快適な状態」というのは、訓練を積まないと感覚できない。

「いい編集」が当たり前だった昔なら、きっと悪いものは誰かが指摘したんだろうけれど、 もしかしたら市場からは、そんな「目利き」が減っているのかもしれない。

コストダウンの先にあるもの

満足な編集がなされていない本というのは、ただのデータ。 それは消費されるものではあっても、 伝えられるものにはならないから、寿命が短い。

消費のスピードはどんどん速くなっていくから、市場を維持していくためには、 企業はもっとたくさんの製品を投入せざるを得ない。 読者が本当に欲しいのは「1」つの完全な製品なのに、メディアはそれを10に拡大して、 膨らました9の部分で多くの人が食べている。今さら業界を「1」になんて戻せない。

残念ながら、「1」を作れる人の数は限られていて、中途半端な原稿に手を加えるだけのコストも 乗せられないから、出回るものは、山ほどの中途半端な製品。

半端物ばかりの業界からは、もはや「いい製品」の価値が薄れてしまう。

良いものの「よさ」というのは分かりにくくて、たぶん目の効く人が見つけて宣伝しないと、 多くの人にそれが伝わらない。昔も今も、良いものの数はそんなに変わらないのに、 製品の総数が増えて、目利きの数は減っているから、「良さ」はますます伝わりにくくて。

読者は結局離れていって、市場はそのうち、腐って崩れる。

目利きの人が「市場の世代交代」の明暗を決する

3巻が今度出る某小説があって、これは出版の流通経路を取っていない。

同人誌というには製本もちゃんとしていて、書いている人達もプロの作家で、 販売されている冊数も、たぶん普通の本と同じか、それ以上。 もちろん普通の本屋さんには置いていなくて、 即売会まで足を運ぶしかないけれど、寒い中晴海で徹夜したのも今は昔。 今は同人誌だってネット通販で簡単に購入できる。

同人誌業界というのは、作る人達の発言力が一番強くて、 だからこそ「良い物を作る」動機がとても強くて、良い物が広く読まれる可能性が高い世界。

出版業界が完全同人化することなんてまだまだ先なんだろうけれど、 「人と人とをつなぐ」コストが無限に安価になったネット時代、 本来真っ先に淘汰されないとおかしいのは、メディアや流通を 担う人達であるはずで、彼らがそれを広めてしまうと、 彼らの既得権が失われてしまうから、メディアは絶対に、 こんな動きを報じたりはしないはず。

市場の世代交代というのは、いろんな業界で、 たぶん報道されている以上に進んでいて、 これからきっと、もっと変わって来るはず。

ネットワークが市場を変えた先にあるのは、要するに自由競争経済だけれど、 これが上手く運用されれば「品質の時代」が再来するし、失敗すれば、 そこから先にあるのは「騙されたほうが悪い」ルールの弱肉強食世界。

未来を決めるのは、きっと「目利き」の役割。

「品質の時代」を知っていて、良いものを「いい」と見分けたり、 あるいは中途半端なものを完成品へと磨く技術を持った人達が、 新しい市場で「目利き」となって、いい物を見つけられれば、 きっと作る人達にとって幸せな時代が来るはず。

世代交代が遅れて、「目利き」がみんなリタイアした業界では、 こんな良循環はおこらない。もう品質が分かる人なんてこの世にいないから、 あとは騙したほうの勝ち。詐欺師が跋扈する時代。

出版業界なんかだと、「品質」の全盛期を知っている人達は、いまたぶん60台半ば。 まだリタイアするには少し早くて、次の市場に「目」をもたらしてほしいのだけれど。

2007.07.21

ニコニコ動画と歌舞伎

当直あけの休日。

朝から日本酒引っ掛けて、銀座ぶらつきながら歌舞伎座へ。 全身大江戸モードになって舞台見物した後、近くの茶屋で「三代目みたいな艶っぽい弁天小僧を 演れる役者はもういねぇ…」なんて味わい深い爺のつぶやき聞きながらまた飲んで、 松屋冷やかしてから歩いて宿舎に帰る。

国立がんセンターは歌舞伎座のすぐそば。こんな贅沢な休日過ごしている人、1人ぐらいいるはず。

田舎に引っ込んでから、歌舞伎座なんて すっかり足が遠のいてしまって、もう何年も行っていない。

ニコニコの「コメント弾幕」というのは、要するに歌舞伎でいうところの「大向こうからの掛け声」みたいなものなんだと思った。

歌舞伎座の中には「大向こう」という舞台正面、天井に近い安席があって、そこはたいてい常連さんが陣取っていて、舞台のいい場面になると「中村屋!」とか「待ってました!」といった声をかけて、場を盛り上げる。

舞台をみる人は、誰が声を出してもかまわないけれど、掛け声のタイミングなんかはかなり厳密に決まっていて、外した掛け声というのは野暮と言われたり、女性が掛け声を出すのは禁じられていて、声をかけたかったら近くの男性を捕まえないといけない(声が高すぎて、舞台が壊れるかららしい)。

江戸のある時期というのは、技術が停滞気味であったわりには生活に少しだけゆとりがあって、限られた娯楽を何とか工夫して、より面白くしようと人々が努力した時期でもあって。

演劇という、ある意味「単に演じられるものをみるだけ」の娯楽は工夫されて、役者の演技に「ツケ」が入ったり、大向こうからの掛け声が場を盛り上げたり、舞台には「花道」が作られて、観客と役者との距離を大いに縮めてみたり。

ニコニコというサービスも、動画の配信という、ある程度技術的に固定されたものに工夫を加えて、それをもっと楽しもうとしたアイデアだけれど、案外昔の人々の努力に重なる部分がある気がする。

歌舞伎文脈で言うところの「ツケ」であったり、「花道」であったりといった工夫は、動画配信のサービスで何かを付加することはできないだろうか?

2007.07.20

「意識の骨格」というもの

  • 糖尿病のコントロールが悪い患者さんは、しばしば手足の痛覚を失ってしまう。 麻痺が出るとか、振るえてしまうとか、機能的なダメージはほとんどでないのに、 痛覚を失った患者さんは、手足に対する「関心」を失ってしまう。 糖尿病患者さんの手足はしばしば感染する。関心がないから放置する。 「足が膨らんで、靴が履けなくなっちゃったよ」なんて訴えて、 完全に腐敗してしまって、真っ黒になった足を引きずりながら外来に来たりする
  • 子供の頃に住んでいたアパートの近くに、坂道があった。 一番幼い頃の記憶は「小さいけれどすごく急な下り坂」。 そこを下るのが怖かった。 小学校に上がる前になると、「巨大な滑り台」のイメージ。とても長くて大きな坂道で、 自転車でノーブレーキで突っ込むのが好きだった。 20歳になって、昔の家に帰る機会があって、件の坂をのぞいてみた。そこには「急な坂」 なんて存在しなくて、ごくささやかな下り道があるだけだった
  • ライトノベル作家のはしり、氷室冴子は電話魔だった。半日ぐらいしゃべりっぱなしなのは 珍しくなかったらしい。エッセイの中でこんなことを書いている。 「将来は誰もが電話魔になって、自分の見た風景なんかを、常に誰かと会話しながら歩く。 「誰もが電話でつながり続けるようになると、自分の目の前で起きた事件も、 会話の相手に確認してもらわないと現実だとは思えなくなる。 「今、私の目の前で人が死んだみたいだよ」「嘘だよ、テレビではそんなことやっていないよ」 こんな会話が日本中で交わされるだろう」。 読んだ当時は信じられなかった。80年代の中盤。まだNTTが電電公社だった頃の話

動的平衡状態としての意識

意識を取り囲む環境の変化は、意識それ自体をも変化させる。

意識というのも生物本体と同じく、いろんなコンポーネントが生成、 破壊されていく中での動的な平衡状態として存在するものだから、 その形は環境に応じて自在に変化する。

意識のありようは、環境に応じて変化していくにもかかわらず、 それはやっぱり「自分」だし、そう認識される。

意識の内部には、たぶんその形を規定している「骨格」に相当するものがあって、 環境が「肉付き」を変化させても、人間の意識は人間の形のまま。

人によって、意識のありかたはみんな違うけれど、その中にはきっと、 人であるための共通する何かがあるはず。共通する「骨格」さえ見つかれば、 そこには「関節」に相当するものが絶対にあるから、応用はいろいろ。こんなことがしたい。

  • 格闘技みたいな、人類共通の意識操作体系
  • 環境の変化に対して、あらかじめ発生しうる意識変化を予想すること
  • その人に生じた意識の変化から、周囲に生じつつある環境の変化を推定すること

医療過誤の問題。

過誤というのは、その失敗が意識に上らないから事故になるまで見つからないのだけれど、 事故に至るまでの間、周囲の環境は微妙に変化したり、「失敗をした」という事実それ自体が、 その人の意識に微妙な変化を加えていたり。

「意識の骨格」というのは、もしかしたらこんな状況で役に立つかもしれない。

異常の中から「骨格」を探す

「共通する何か」を見つけるやりかたには、正常を重ねて共通項を見つけるやりかたと、 異常を重ねて、残された正常部分を探すやりかたと。

普通に生活している人の写真を何万枚も重ねていくと、 たぶんそこには「平均的な人」の姿が見えてくる。

これは筋肉と皮膚をまとった人体のイメージ。人としての姿はよく分かるけれど、 機能的な理解は難しい。

たとえば戦争や交通事故なんかで手足を失ったり、 身体に様々な変形が加わって亡くなった人の姿を加算平均し続けていくと、 最後にはたぶん、「人間の共通項」だけが残される。

それはきっと、ぼんやりとした人間の骨格模型みたいなものになるはず。 人間の機能を理解するためには、きっと「平均的な人」よりも役に立つ。

「意識の骨格」を探すためには、異常な状況におかれたり、 異常な機能を持った人の思考を観察するのが早道で、 それをやっているのは結局、SF 小説とか、伝奇小説とか。

実世界には超能力で空飛んだりする人そんなに多くはいないから、作家の想像力が頼り。

心理学はこのあたり、案外役に立たなかったり、 精神医学というのは「平均への回帰」が目的だから、 そもそも目指すところが全然違ったり、 何よりお客さん相手にそういうことするの、やっぱり不謹慎だし。

いろんな作家の意見が知りたくて、異常な状況が頻出していて、量が読めるものといったら、 行きつくのはやっぱりライトノベル。

この頃いろいろ買い漁ってはいるのだけれど、正直どれも今一つ。

異常な状況設定の中、異常な能力を持った精神的に健全そのものの少年少女が 主人公の小説ばっかり。ドタバタ戦って恋愛模様があって…というのは それ自体は楽しめても、求めているのとは少し違う。

海外のSF 作家も、人間意識の不変性を心から信じているところがあって、 30世紀ぐらいの未来になって、想像を絶する技術が当たり前になっている世界であっても、 正義とか、倫理なんかは案外現代人そのまんまだったり。

「変化する人」を書いた物語、どこかにリストみたいなもの作ってる人いないものだろうか?

最近読んだものだと、円城塔の「Self-Reference ENGINE」という小説と、 リチャード・パワーズの「ガラテイア2.2」という小説がそれっぽかった…。

2007.07.19

正しい学の衒いかた

上級生 : 先生、デコンペッてる? 研修医 : 枕2 つ分ぐらい

「デコンペる」というのは、decompensation 。代償不可能な心不全という意味。 心臓の悪い患者さんは、横になるとかえって苦しいから、 欧米では、ソファの下に枕を入れて、頭を高くして寝る習慣があるらしい。 息苦しさの指標として、「three pillows of …」なんて表現をする。

要するに「最近疲れてる?」「少しだけ…」と言っているだけなんだけれど、 たぶんこんな会話は、業界の数だけ無数にあって。

会話の目的というのは2 つ。情報の交換と、居場所を確保するためと。

仲間内にしか通じないスラングというのは、要するに「我々は同じ仲間だよね」という 確認行為だから、医師みたいに群れを作る生き物には欠かせない。

業界特有の専門用語、あるいは内輪言葉というのは、狭い業界であればあるほど、 その言葉が屈折していて、外側から見ると、何を言っているのか理解できない。

学術用語満載、俺様天才、ついてこれる奴だけ読んでみろみたいな文章というのは、 作者の気合に逆比例して魅力が乏しくて、たいていの場合、 苦労して読んだところで、何一つ役に立たなくて。

「分かりやすく書きましょう」

小学生だってこう習うのに、目指すところはやっぱり衒学的な、「内輪感」満載の文章。

言葉の魅力は背負う世界の広さに反比例する

言語には「屈折語」と「膠着語」、「孤立語」という大きな分類があって、 世界の言葉はこのうちのどれかに属していたり、あるいはそれぞれの要素を少しずつ含んでいたりする。

  • 「屈折語」はヨーロッパの言語。状況に応じて、語尾が不規則に変化する
  • 「膠着語」の代表格は日本語。言葉が複数の部品からなっていて、「○○する」が過去形になると 「○○した」に変化するように、意味部分にくっつく言葉が変化することで、状況を表現する。
  • 「孤立語」は中国語、ベトナム語など。語が完全に独立していて、語形変化という概念がない

英語というのは、屈折語と膠着語の両方を持っている。例えば考える「think」という言葉は、 英語では「thought」だけれど、これは「think-ed」なんて表現しても、一応意味が通じる。

英語は世界語。いろんな国で教えられていく中で、暗記することが多い屈折要素は減らされて、 「think-ed」みたいな中間言語が混じった「方言」がいくつもあるらしい。

こうした「簡易英語」というのは、伝統的な英語を話す人達が聞くと、どこか垢抜けない、 魅力に乏しい会話に聞こえるらしい。

言葉というのは、最初は「孤立語」から始まって、それが中途半端に規則化されて「屈折語」 となり、いろんな言葉が混合していく中で文法が整備され、「膠着語」へと行きつく。

中国語という例外がある時点で仮説が崩れるけれど、言葉の最初は小さな部族。

家族的な集まりの中でなら、お互いに共有している分化要素は大きいから、 孤立語での会話が十分可能で。部族がだんだんまとまっていく中で、 共有している文化がだんだんと減っていくと、孤立語での会話が成り立たない。 よく似た単語が整理されて、状況に応じて「屈折」して。

部族がもっと大きくなって、みんなが共有している「文化」なんてものが姿を消してしまうと、 言葉は単なる情報伝達のツールとなって、文法が整備された膠着語へと進化する。

実用的には、その進化は意味があるものだけれど、元の言葉を知っている人から見ると、 進化した「新言語」はなんだか味気ない、文化の香りがしない、魅力に乏しいものに見えるのかもしれない。

日本語なんかだと、例えば地方ごと、職業ごと、身分ごとに使う言葉が微妙に違っていて、 そういった「内輪言葉」を知っている人が共通語を聞くと、やっぱり味気なく聞こえるらしい。

孤立語の最大派閥、中国語は、もともと4つぐらいの言語圏に分かれていたけれど、 テレビの力を使って、一つの「共通語」に強力にまとめられつつある。伝統的な北京語とか、 四川語みたいな言葉を使ってきた人達は、共通語を聞いてどう感じるのだろう?

文章の構造要素と情動要素

建築で例えると、屋根や壁、柱みたいな「構造要素」と、家の塗装や壁に飾る絵、 部屋に置く家具の選択みたいな「情動要素」と。

ネット世界に流通している様々な話題を収集して、それを自分なりに考察・加工して発信する。

ネット世界で何かを調べて発信することは、このくり返し。

情報は増えて、技術は進んで。興味の方向性、あるいは情報加工の「くせ」みたいなものが その人の個性となって文章に出るけれど、このあたり、たぶん将来的には機械化可能。

個別対応したgoogle ニュースとか、Amazon の「お勧め本」とか。

まだまだ精度は今一つだけれど、 Web サービスに自分の個性を外部化する手段というのは、すでに実装されていて。 すべてを外部化していって、情報の収集、あるいは加工に至るまでが自動化されてしまったとき、 発信される文章の「構造要素」には意味がなくなって、情動要素だけが残るはず。

「同じ言葉をしゃべる我々は、きっと同じ文化を共有できるよね?」

ネット文化が行きつく先は、きっと情動要素の時代。「情報それ自体」というのは 単なるきっかけにしかすぎなくなって、大切なのは「単純につながること」。 つながって何かを得るとか、一緒に何かを生み出すとかじゃなくて。

なんだか分からないけどすごそうな

「内輪」が作るのは「境界」。

境界の役割は、「中に入った人どうしが親しくする」ことと、「外からの進入を拒む」こと。 内輪言葉を情動要素に使うと前者が、構造要素に用いると、後者が強調される。

「よく分からないけどすごそうだ」という印象をもつ文章、専門用語使われまくりなのに、 なんだか読んでみたくなる文章というのがあって、それはたいてい、文章中の「どうでもいいところ」に 呪文みたいな専門用語が散りばめられていて、そのわりには文章全体が言いたいことはしっかり伝わる。

ところが、「これだけは言っておきたい」みたいな大切な部分、文章の構造要素に 専門用語を使った文章というのは、分かりにくさが前面に押し出されてしまう。

たとえば「ダマジオ的な情動こそが、社会倫理を形作っている」みたいな文章。

文章中、「○○こそ」なんて強調されている内容は、文章の構造要素。 ダマジオは脳科学者。「情動」という言葉を、ちょっと特殊な意味で使う人。

残念ながら、ダマジオ知らない人は、こんな文章読んでも意味が分からないし、 「ダマジオすげぇ」なんて思えない。構造要素に専門用語を入れた文章は、 作者とダマジオ、その両方を不幸にしてしまう。

内輪言葉の面白さというのは、会話の情動要素にこそ生きてくる。

作者と読者と専門家

大昔。言葉が乱されて、バベルの塔が崩れた。

言葉を乱したのは「神様」ということになっているけれど、 あるいはそれは、大きすぎる世界を前にした人間自身が望んだことなんだと思う。

大きなコミュニティからは「つながる感覚」が失われて、コミュニケーションを続ける意味が 失われてしまうし、小さなコミュニティが煮詰まると、今度は外部とのつながりが断たれてしまって、 それもまた息苦しいし。

作者がいて、助言をしたり、方向を決めたりする内輪の親しい専門家が何人かいて、 コミュニティ全体を盛り上げたり、新しい話題を提供してくれる、多くの読者がそれを囲んで。

そんな幸せなコミュニティを維持していくのは大変だけれど、コミュニティを外と隔てる 境界を操作するのは、たぶん「内輪言葉」の持つ力。

上手く使えばきっと大切な道具になるはず。

2007.07.16

「変な社会」のつくり方

昔挫折した犯罪小説のプロット。見たことがあるような人が出てくるのは、たぶん気のせい。

きっかけはたぶん、疲労感から。

大きな夢と、志を持った技術者と。 毎日の徹夜。繰り返される学園祭前夜。 生み出される新しい技術。拡大していくコミュニティ。

目新しいベータリリースが賞賛されたのも今は昔。

新規技術は発表と同時に既知のものとして消費され、 技術進化の対価は、賞賛から罵詈雑言へと変貌した。

「コードどんだけ書いたの ?」という声を聞いた。 「あの人は、会社というコードを書いているんだよ」という声も。

社会のコードを書こうと思った。

舞台立て

「犯人」役が主人公。某IT 企業の取締役で、ものすごく忙しい人。 事件が起きた時点でも世界中を飛び回っていて、誰も所在をつかめない。

夏休み。東京からシリコンバレーに進出した某企業が、 50人の学生をシリコンバレーに招待する。

ID 認証代わりの腕輪を渡される。それを着けているかぎり、 企業内のどこにでも、自由に立ち入ることができる。

コンピューター使いたい放題。ネットワークはつなぎ放題。合宿体制で 何かを作り出しましょう…なんて主旨で。

合宿半ば、お互い親しくなって、メンバーに一体感が芽生えた頃を見計らって、 「犯人」からのメール。

会社で使っている腕輪の中に、爆弾を入れました。

これは相互不信の爆弾。腕輪を外したり、会社から逃げ出す素振りを見せたりすると、 自分のではなくて、他の誰かの腕輪が爆発する。

犯人は目的を言わない。

人質に求められたのは、今までどおり、合宿作業をこなすこと。 会社内の出来事を発信したり、デリバリーの食品を購入したり、 あるいはメディアや警察に訴えるのは、みんなの自由。 ただし、会社の中には他の人が立ち入ることは禁止。

50 人の発信者。すぐに大騒ぎになる。ネットに出回る役員の名簿や、腕輪の写真。 あちこちで推理スレッドが立ったり、あるいはメディアからの取材要請が入ったり。 応援する人。犯人探し。すべては狂言だと人質を叩く人。いろんな立場を取る人達。

多様なネット世論。奇妙に一致しているのは、警察とメディアとを敵視する態度。

会社の周りをメディアが囲み、警察が囲む。

主人公が決めた「ルール」はすでに世界中の人が知っていて、 警察は全方向から取材され、録音されながらの作業を強いられる。

このルールは、相当高い確率で、単なるブラフ。誰かが突入して、 人質を独り連れ出せば、ウソなんてすぐにばれるはず。

警察はそれを確信しているけれど、アメリカにもきっと、 毎日新聞と社民党を混ぜて腐らせたような人達が大勢いる。

「ジンケン」のためなら殺人だって厭わない人たち。ネット世論やメディアの視線、 実働部隊としての人権活動家。みんなの思惑が一致して、警察は動けない。

要求

舞台が煮詰まった頃、主人公から政府へメッセージ。

ネットの「クリック」に対して課金する議案を通して下さい。

1 クリックあたり、だいたい1 円ぐらい。ユーザーがリンクを踏むたびに、ごくわずかな課金。 プロバイダーがそれを徴収して、国庫に納入。国家はそれから税金を引いて、 アクセス数に応じて、各コンテンツ企業、たとえばニフティやG○○gle、 あるいはレンタルサーバーを運営している企業みたいなところへ収益を分配する。

国家の仕事は企業への収益分配まで。そこから先は企業任せ。現金化して配布する企業もあれば、 何かを購入可能な「電子クーポン」の形で個人に収益を変換する企業も出てくる。 収益の分配割合は、市場経済任せ。不誠実なコンテンツ企業からはユーザーが離れるし、 誠実なところには多くのユーザーが集まって、各々のコンテンツを提供したり、 アクセス数を通じた収益を提供したり。

政府へのメッセージもまた、ネットを通じて全世界に公表される。

クリックが現金になる法案。実現するならたぶん、莫大なお金がネット企業に転がり込んで、 割りを食うのが、広告業界や従来メディア。

市場ではIT バブルが再発する気配。株主から当該企業へ、微妙な圧力。

メディアは自己矛盾に陥る。

  • 自分達が喧伝してきた「人権」を訴えれば、法案が通って自分達の首が締まる
  • イラク戦の大失敗があるから、「テロとの戦い」を訴えると、世論を敵に回すリスクが生じる

ネット世論はもちろん猛反発。陰謀論があちこちで囁かれるけれど、50人の人質だけは真実。 彼らの声もまた、事実上力を発揮できない。コンテンツ企業は沈黙を守る。 コンテンツを提供する側と、それを消費する側と。ネット世界も分断される。

議会は混乱。その裏では広告代理店と、IT 企業とが熾烈なロビー合戦。

ある意味これは世代間の抗争。

  • 「ルールを隠す」ことで力を得ていた旧世代は、マスメディアや広告代理店、 あるいは昔ながらの利権政治家の人たち、あるいは人権団体なんかも
  • 公開されている無数のルールの中から、一番正しいルールを見つけ出す力を鍛えた新世代。 主人公をはじめとしたコンテンツ企業の人達やエンジニア、あるいは無数の「ネット厨房」の人達

「課金ルール」というのは、旧世代の人達を葬ると同時に、 新世代の人達にも対立軸を持ち込むやりかた。

主人公がやりたかったこと

黒幕たる某企業の取締役が実現したかったことというのは、一企業の繁栄なんかじゃなくて、 国家という概念の解体。

「クリック課金」が実現して生じることは、税金を集めて出来上がった「国家」という存在が、 コンテンツ企業に雇われた、単なる徴税請負人になってしまう世界。

大きくなった企業は、議会にロビー活動を行えるだけの力を持つし、 「収益の配分」という活動を通じて、ユーザーを「国民」として囲い込むことだってできる。

自分が発信するコンテンツをどこにたくすのか。その選択というのもまた、 単なる契約ではなくて、自分が帰属する「コミュニティ = 国家」を定める行為に等しい。

企業収益を重んじる、メッセージ性の高い企業と、コミュニティに対して透化的な、 「小さな政府」的な立場を取る企業。ユーザーは、政党に投票する感覚で、 自分がコンテンツを託す相手を自由に決められる。

アクセス数の高いコンテンツを持つユーザーは、 それだけ大きな「声」を持つことになるし、 新規性の高い技術を持った企業、多くのユーザーを集めたコンテンツ企業もまた、 強力なメタ国家として、国政を動かす力を持つ。

広告モデルが支配する従来の国家概念と、コンテンツ課金モデルが提案する、 新しい国家概念。コンテンツ課金が成立して、Web が実体としての力を持つとき、 きっと面白いことが始まる。

もともと「ない」ものを、さも「ある」ように振舞う人達が力を持っていた世界から、 無数に「ある」ところから、特別な何かを見つけられる人達が力を持った世界へ。

残念ながら、受信するだけで発信することをしない人達は、新しいルールでは割りを食うはず。

自由の力を信じる人達

主人公が提案した「きれいなテロ」で議会が揺れて、 司法もメディアも自らの立ち位置を決めかねている中、 東京の某ビル最上階では、伝説背負ったプログラマが集まって会議。

「理念は分かる。でもネットから自由が失われるのはよくないこと」 「コンテンツ課金が成立したとして、それをバイパスするコード書いたら、 今度はIT バブルが吹き飛ぶよ? そんなことしていいの?」

いろんな意見が出る中、コードは書かれる。

「やっぱりそのほうが、楽しそうだから」

考えかたとしては、全世界規模のP2P キャッシュサーバー。 従来のネットワークに対して、ほとんど透化的に働くため、 ユーザーはそれを意識しないで済む。

技術的な実現可能性なんかは分からないけれど、「伝説」背負った魔法使いがいっぱい集まれば、 きっと何だってできるはず。

彼らにもまた行動矛盾がある。

  • コンテンツ課金という制度自体は、コードを書く人にとってはメリットであっても、本来デメリットにはならない
  • 無償で利用可能なネットは理想だけれど、「無償」を享受する人達は、コードを書く人達から奪うばかりで、 何一つ与えることをしてこなかった

専門家は逡巡する。自分達のやろうとしているのは正義なのか、それとも既得権に乗っかった人達を 助けるだけの、悪の片棒を担がされているだけなのか。

某巨大掲示板の片隅。スレッドの47番目に、ネット課金制度をバイパスするソフトの開発が宣言される。

「祭り」が始まり、株式市場には動揺が走ったけれど、実物の登場はまだまだ先。バブルは続く。

結末

2通り考えられる。

アメリカで課金制度が成立するなら、たぶん世界がそれに追従する。理論上、全アメリカ国民が 別の国のプロバイダーと契約すれば、課金制度は潰れるけれど、たぶんそうならない。面倒だから。

国家とネット企業とに大量の資金が流入するのをみて、他の国もまた、その動きに追従するはず。 たとえば日本が「無料」を宣言したところで、今度はアメリカ企業から、山のような請求書。 政府がそれを突っぱねることはありえないから、たぶん日本も課金が始まる。

課金制度がスタートするのとほとんど同時に、P2P キャッシュサーバーが世界中に配布される。

ネット企業各社の株主は、それを止めさせようとするけれど、ほとんどの企業は動かない。 「don’t be evil 」の理想は、たぶんこの時代にも生きているから。

キャッシュサーバーにより、情報には「タイムスタンプ」の概念が導入される。

  • 同時性が大切な情報は、1 クリック支払って、情報元から入手
  • 参照さえできればいいものは、キャッシュを探す

ネット世界は、「クリック」世界と「キャッシュ」世界とに2 分される。 従来的な「炎上」は生じにくくなった代わりに、 ネットワークは実体としての力を持つようになり、読者を多く集めたネット論説とか、 あるいは巨大掲示板でのネット世論が政治に影響を与えるようになる。

政府がこの制度を突っぱねたなら、計画はそこでおしまい。

爆弾なんて最初から存在していなかったから、企業は元の生活サイクルを取り戻す。 市場では株価が急落して、たぶん政府の行動を知らない人達だけが損をして、 既得権に乗っかった人達は、上手に株を売りぬける。

無償のネット世界はそのまま続く。みんなそれに安堵する一方で、 おなじみの顔ぶれだけが得をする世の中を見て、何となく嫌な気分を味わうはず。

話がどちらに転んでも、主人公はこの時点で物語から姿を消す。

しばらくしたら、メタ国家と化したどこかの企業がその人を幹部に迎えるかもしれないし、 結果として何もおきなかったわけだから、主人公の「その後」なんかに興味を持つ人、きっと少ないだろうし。

問題点

「相互不信の爆弾」なんてものが、果たして本当に機能するのかどうか。 50人ぐらいの親しい人同士の集団ならば、「自己責任」ルールよりも、 「裏切ると別の誰かに迷惑がかかる」ルールのほうが、行動を縛れると思うのだけれど、 何人ぐらいから裏切り行為が始まるのか、ちょっと分からない。

企業の取締役にまでなるような人物は、そもそもこんな回りくどいことするんだろうか? 学生50人の命なんて、名刺代わりに吹き飛ばして、それから本当の計画をはじめるほうが、 企業家としての行動原理に近いかも。

メディアや広告屋さん、あるいは司法の人達が、どうやっても「何もできない馬鹿」 になってしまう。インセンティブだけで詰めていくと、彼らはやっぱり動けないはずなんだけれど、 彼らだって、座して死を待つような真似はしないはず。

実際こんなことがおきたとして、ネットユーザーの人達がどんな行動をするのか、全く分からない。

  • 「課金ルール」成立前のネット世界は、選挙を通じてでしか実体としての力を持てない
  • 文章を発信する側の人と、コンテンツを消費するだけの人との間に断絶が生じてまとまれなくなる

こんなことがあるから、彼らもまた「見てるだけ」しかできない設定。でも何かやる人、きっとでてくるはず。

専門家集団の技術力と、数を頼んだ「厨房」との争いというのは、ルール設定によっては すごく面白そうなんだけれど。

参考にした本

  • 梅田 望夫 シリコンバレーは私をどう変えたか
  • 梅田 望夫 ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる
  • 梅田 望夫 ウェブ人間論
  • 梅田 望夫 シリコンバレー精神 -グーグルを生むビジネス風土

2007.07.12

ネット時代のランチェスター戦略

ネットワークの法則

  1. コミュニティが分割されておらず、十分に大きいこと
  2. 個人同士が、各々同程度の弱い関係で結び付けられていること
  3. コミュニティを形成する個人に同一性が認められること

ネットワーク化が進んだコミュニティは、小さな刺激で全体が動く。

その振舞いは雪崩や台風の進路と同じで、初期条件のわずかな変化が 結果を大きく左右するため、未来は確率論的にしか予想できない。

ネットワーク化が進んだコミュニティでは、少数側、弱者の側にも強い力をもたらす可能性があるが、 その力は弱者の側を滅ぼしてしまうこともある。

利己的個人の法則

ネットワークが分断されたコミュニティでは、各個人は利己的に、より合理的に振舞うようになる。

コミュニティを動かすためには大きな力が必要になるが、適切なインセンティブを設定することで、 その振舞いをかなり正確に規定できる。

利己的個人の集団を相手にする場合、力の強い側が適切なインセンティブを設定する 用意があるならば、それだけ優位に物事を進めることができる。

強者の戦略

安定多数を占めている政府であるとか、既得権的な立場を維持している側は、 コミュニティを分断する戦略を取ったほうが、確実な勝利を得られる。

具体的には「敵」の外部化を避け、自己責任を訴え、 コミュニティの横のつながりを断ち、各個人に格差を導入することで、 コミュニティを利己的個人の集団へとコントロールしていく。

利己的個人の集団をコントロールするコストは高いけれど、 資本を投入し続けるかぎり、強者側が安定した勝利を手にすることができる。

弱者の戦略

保有している資本が少なかったり、多数決の論理で敗北してしまうような側が逆転を狙うためには、 コミュニティを強力にまとめる必要がある。

具体的には責任者を名指しで指名したり、 政府省庁を悪役認定するような「敵の外部化」を強力に行うことで、 コミュニティの各ノードは問題に対して「均一」な立場を取るようになり、同調圧力が高まっていく。

同調圧力の高いコミュニティは、小さなきっかけを与えるだけで、大きな力を生み出す。

同調したコミュニティの生み出す力は膨大だけれど、その向きをコントロールすることは、 たいていの場合不可能で、場合によっては仕掛けた側がその力によって打撃を受けてしまい、 コミュニティからはじき出される可能性も高い。

「流れ」は確率論的に決まる。勝利戦略は「成功するまで何度でもやる」こと。 失うものが大きな強者側は、「何度でもやる」ができないから、 根性以外に失うものが無い弱者が有利になる。

ネットに翻弄された大学医局

大学医局の欺瞞がばれたとか、「やりがい」なんかの地位が下がって、 収入であったり、休暇であったり、「名より実を取る」選択が主流になったとか。

地方国公立病院の人気が落ちて、産科や小児科、内科や外科みたいな「メジャー」 科から研修医がいなくなった。

そこまでは予測の範囲。選択の幅が増えれば、厳しいところからは人が減る。 みんなある程度まで覚悟をしていたけれど、蓋をあければ想像以上。

メジャー科の入局人数は、例年少なくとも10人以上。科によってはそれが「ゼロ」になってみたり、 せめて7人ぐらいを見込んでいて、結局確保できたのは2人だったり。

当てが外れて愕然とする医局が出る一方で、つらさや厳しさ、 あるいは歓迎会の規模なんかはそんなに変わらないはずなのに、 あるメジャー科は、例年以上に人を集めたり。

あれから2 年ぐらい経って、「どんなマジック使ったんですか?」なんて尋ねてみても、 やっぱりタネなんて無いらしい。勧誘も例年どおりで、なんで「一人勝ち」がおきたのか、 勝ち組み医局の先生がたにも分からないのだという。

未来予測とネットワーク

古典経済学は未来を予測する学問。

人間がみんな利己的で、合理的に振舞う個人であるならば、 占い師はみんな、経済学を学んでいるはず。

実世界での予想は外れることが結構あって、技術的には不利である側が大勝利をおさめてみたり、 いくつかの競合者が共存していくはずの医局市場は、特定科の「一人勝ち」状態になってしまったり。

インセンティブの問題だけでは説明できない、経済学者の予想を狂わせる原因は、 たぶんコミュニティのネットワーク化。

「女の子はそこまで無理しなくてもいいよ」

ある医局が「入局ゼロ」を計上した原因は、先輩医師のこんな一言だったらしい。

今のローテータ―は男女比がほぼ半々。女医さんの割合がすごく高い。 女性は増えたけれど、仕事の内容は同じ。 忙しい科は、徹夜になるときは徹夜になるし、忙しい時はソファーでザコ寝。

慣れないうちは誰だって体力的に厳しいはず。「その日は野郎だけ残して、 女医さんには仮眠に帰ってもらおう」、その程度の言葉だったのだそうだ。

当の女医さんはそう取らなくて、上級生の言葉に少しだけ、差別的な意味を汲んだ。

その場はそれで流れて、何かのおりに携帯メールでそんな話が流れて、話は膨らむ。

「あの科は女医を差別する」

そんな空気が学年に共有されたのは、ローテーション研修が始まって間もない頃。 その科だって新人勧誘を頑張ったけれど、最初から勝負は決まっていた。

当局は今もそんな理由を知らない。もしかしたら、当の女医さんすらも、 自分がきっかけを作ったことを知らないのかもしれない。

遍在するネットワーク

ネットワークはもはや当たり前すぎてしまって、自覚的な人は少ない。

学年でWiki 作るとか、掲示板作るとか。 情報共有を何か考えるよう、研修医に檄を飛ばしたことがある。

情報の共有はなされるべきだし、何といってもそれを知らない振りして上から覗くの、 ものすごく楽しそう。研修医にID 配って匿名掲示板に書き込んでもらって、 上級生でAdmin 権限共有して、みんなで楽しむ。そんなことを考えて。

「サーバーの空いたスペース貸すよ?」とか水向けたけれど、 結局彼らは自分達で掲示板を作って、で、案の定、 書きこむ人は数人で、全然盛り上がらなかったらしい。

明示的なネットワークは動作しなかったけれど、研修医のネットワークは、 上級生から見えないところで、とっくの昔に作られていた。

携帯メールと、全員で共有する着替え部屋。

ローテータ―は、医局に属していないから、大学はロッカールームを用意した。 噂話のネットワーク。会話のログは、携帯メールの些細なおしゃべりとして、 全員で共有。

中央サーバーを置く発想自体がもう古かった。

どこかのサーバーに情報をアップロードするとか、そんな面倒なことしなくても、 研修医はP2P で情報をやり取りする。リーダーのいない、中心を持たない、 その存在が当たり前すぎて、もはや意識されることもないネットワーク。

今の若い人達はパソコン持っているくせに活用しない、情報を共有しない。 そんなことを勝手に歯がゆく思っていたけれど、何のことはない、自分が取り残されていただけだった。

卒業したばかりの彼らはみんな同じような年格好で、頭の中身だって似たようなもの。 それぞれが同じような弱い力でつながって、学年100人、それなりの数が集まって。

ネットワークの相転移。本当に些細なきっかけが、 時として想像もつかない大きな変異を生んでしまう。

国公立病院に希望を出す研修医がいなくなった。大学に入局する医師が激減した。 たぶん、きっかけはささやかなものだけれど、その動きをコントロールすることは、 たぶん当の研修医達にもできなかったはず。

時計の針を戻すには

バズマーケティングとか、炎上をコントロールする技術とか、たぶんウソ。

いろんな人が試行錯誤を繰り返して、膨大な失敗事例を積み重ねていく中で、 たまたまいくつかが成功したり、あるいは外れた予想がいい方向に転んだり。

ネットワーク科学は、おきた事を説明するためには使えるけれど、これからおきることを 予想する役には立たない。

それを認めると経営コンサルタントの仕事がなくなってしまうから、上手くいったような事例を集めて、 さも自分達でコントロールしたように見せかける。

ネットワーク化したコミュニティの振舞いは、変動幅ばかりが大きくて、予想をするのは困難で。

コミュニティをコントロールする技術に可能性があるとするならば、それは炎上コントロールの 技術ではなくて、コミュニティからネットワークを外す技術、予測不可能を 予測可能な問題へと帰着させるようなものになるはず。

今の研修医を相手に、昔の医局制度を復活させても、元には戻らない。 それをやることで何か大きな「変動」はおきるだろうけれど、結果が読めないから、 上手くいかない可能性だって高いはず。

コミュニティからネットワークを外すやりかた

正しい結果を得るためには、インセンティブを設定するだけでは片手落ちで、 研修医のネットワークを破壊するやりかたを考えないといけない。

「関係を断ち切る」のは有効だけれど、実行は難しい。

  • 研修医は携帯電話禁止
  • ネットとか、2ちゃんねるとかもちろん禁止。自宅にパソコン置くのも禁止

これが実現できるなら、きっと古典的な医局制度は復活できるだろうけれど、 そんな施設に入る研修医、たぶんものすごく少ない。

比較的簡単にできて有効なのが、「ハブになっている医師を潰す」ことと、 「振動子の同一性」を壊すこと。

医療崩壊の話題。盛り上がりを支えているのは、強固なネットワーク。

ネットワークは全国規模だけれど、話題を集める「ハブ」を作って維持しているのは、 ごく少数の先生がた。上から10人、少し調べれば、それが実世界で誰のことなのか、 比較的簡単に特定できる。

名誉毀損とか、風説の流布とか、言いがかりをつけるのはたぶん簡単。 みんな実世界での仕事があって、面倒ごとは嫌だから、 「ハブ」はすぐに消滅するはず。

中心を持たないネットワーク。次の「ハブ」は簡単に出現する……なんてことにはならなくて、 みんな面倒だから、ネットワークは腐って死んで、たぶんそのまんまになるはず。

同一性の破壊は、もう少し確実。

  1. 2年間のローテーション後、上位3 割の「良くできた研修医」と下位7 割の「そうでない研修医」とを 区別して、それ以後の待遇にも差をつける
  2. 地域基幹病院の部長級に任命権を割り振って、例えば青森県の産婦人科には5人とか、 部長が任命できる「できる研修医」の数は厚生省が決める
  3. 研修医が一極集中した東京では競争が激しくなって、 地方では「できる研修医」認定の競争倍率が下がるように人数を配分する
  4. 「できる」認定を持った者と持たない者。同一性を維持できないネットワークは 同調現象を生じないから、みんな「利己的な個人」として振舞い始める
  5. 利己的に振舞う個人の集団は、適切なインセンティブを設定することでコントロールが可能

そんな制度を今の研修医が受け入れるとは思えないけれど、 大切なのはルールを受け入れることではなくて、ルールが提出されること。

絶対出会った研修医の同一性が破壊されて、グループには裏切りとか、猜疑心とか、 同調するネットワークを邪魔する雑音が大きくなって、たぶん今みたいな相転移は生じにくくなるはず。

どんな方法論であれ、ネットワークを腐らすことができたなら、あとは経済学の問題。 いい条件を用意した医局には人が集まるし、精神論ぶつだけの所からは人が去る。 問題の予測可能性が少しだけ高まるから、政治家の人とか、役所の人とか、 もうすこしコントロールしている実感が出ると思う。

ネット時代のランチェスター戦略

「劇場型政治」なんて言われた小泉内閣というのは、たぶんネットワークの力を利用したのではなくて、 むしろネットの力を上手に阻害して、「力の論理」を押し通した政府だった。

「自己責任」を強調したこと。国民を「がんばっている人」と「既得権に乗った人」とに分断して、 格差を強調したこと。郵政省問題は例外。

あの頃の政策は、たぶんネットワークの力を利用したというよりは、 力よりもコントロール性を重要視して、あくまでも自民党の地力で勝負したやりかた。

社会保険庁や日教組みたいな「明確な敵」を設定したり、格差が行きすぎて、 少数の勝者と、圧倒的多数の敗者を作ったり。今の政府がやっていることは、 コミュニティを一つにまとめる方向に作用していて、その結果はたぶん、 相当ろくでもないことになりそう。

個人的には、こんな「ネットワーク潰し」の政策、どんどんやってほしいと思う。

自分の想像力では「潰すやりかた」までしか発想できなくて、こんなやりかたをどうかわすのか、 潰されたネットワークをどうやって再生するのか、 あるいは炎上するネットワークは、本当にコントロールできるのか。 そんな問題の答えを知るには、もっと頭のいい人達が必要。

医師のコミュニティというのは本来、超絶に頭がいい人達がゴロゴロいる集団で、 医療はそんなに頭使わないから、莫大なCPU パワーが使われずに放置されてる状態。

「コントロール」に昔から興味があった。いろいろ調べたり、考えたり。あれこれ試行錯誤して、 能力の限界が見えて、それでもやっぱり、「次」が見たくて。

ネットワーク時代。序列の可視化が容易になって、自分の能力不足もよく見えて、 ネット世界にはもっと大勢の「上」がいて。

個人での解決が不可能な問題であっても、適切な問題設定さえ行えば、 もっと能力を持った人達が問題解決にあたってくれるのが、ネットワークの最大の収穫。

残念ながら、その問題提示すら、自分では役不足なんだけれど、今の厚生省には幸い、 その能力も、その動機もあるはず。

ここで提案していることというのは、自分では解けない数学の問題を目の前にして、 それを誰かに解いてもらうために自分の首を締める、そんな滅茶苦茶なやりかた。

ネットワーク化した社会の中で、確率論的に振舞う強大な力を援用するというのは、 たぶんそういうことなんだと思う。何といっても、能力無い奴には、 失うものなんて何も無いんだから。

誰かやってみませんか? 中の人。

2007.07.10

メッセージの担い手としての代替医療

「生き死に」にかかわる医療はなぜだか叩かれてばっかり。 上手くいって当然。失敗したら訴訟。

高リスクの診療と、高付加価値の診療とは必ずしもイコールでなくて、 忙しい大学病院でやっていることというのは、高リスクの高度医療ではあっても、 それが必ずしも高付加価値につながらなくて。

大学では、外科系の各科が大変らしい。

忙しい科。高リスクの治療を行う科。生き死ににかかわる治療というのは、 どうしても合併症が避けられなくて、忙しくなって数が増えてくると、 どうしても不幸な転帰をたどるケースが増えてきて。

大学だって世論から自由ではいられない。 最近はリスクマネージメント委員会大活躍。

今まで1枚でよかった同意書が4枚になってみたり、 カルテに記載を求められる事項が加速度的に増えていったり。

安全対策に要求されることがどんどん増えて、委員会が行き着いた結論は、 「医師が治療行為をしなければ、合併症は減る」。

成功によって得られるものと、失敗によって失うもの。両者がだんだんと拮抗してきて、 それがある閾値を越えたとき、方針は劇的に変わる。外科治療を要する患者さんは 年々確実に増えているのに、大学では、治療件数を減らす方向に調整がなされつつある。

安全のために。

代替医療という宝の山

カテーテルを使った、癌の塞栓療法をする先生がいる。

横浜のホテルをワンフロア改造してクリニックを開いて、先生一人で朝から晩まで診療に忙しいらしい。

対象にするのは末期ガンの患者さん。どんな癌でも受け入れて、 どんな場所にもカテーテルを挿入して、塞栓物質を注入したり、化学療法を行ったり。

テレビで「癌に単身で戦いを挑む医師」として、好意的に取り上げられていた。

問題なのは、それに治療効果が期待できないこと。

塞栓療法は、肝臓なんかの特定の癌を除いて、延命効果が証明できなかったから、 もう廃れてしまった治療。保険も効かないし、やる人はほとんどいない。

番組では、誰もウソは言っていなかった。

  • その先生は「癌が小さくなる」とは言ったけれど、「直る」とは言っていなかった
  • 患者さんは「先生の治療は効果がすぐに実感できるんです」とインタビューに答えていた。 塞栓物質を注入した血管はその場で潰れるから、たしかに効果は目に見えた
  • 「治療途中で亡くなる方いらっしゃいます」。相手にするのは末期の患者さん。 5年先にどうなるのかは誰も興味が無さそうだった
  • 治療がうまくいった人は癌が小さくなって、そのときは元気になる。 「先生に救っていただきました」。インタビューではこう答えていた

延命優先の、今の西洋医学の範疇では、進行癌の患者さんにできることはほとんどない。

この先生がやっているのは、ある意味代替医療。

負担の少ない方法で、患者さんに 「腫瘍が小さくなった」という満足感を販売すること。病気の治癒を目的にしているわけではなくて。

いまものすごい人気らしい。

共産主義は信じないけど共産党は信じてる

次の選挙は共産党にしようと思う。

政治はよく分からないから、昔から自民党支持。このあたり思考放棄。

  • 自民党には「もう少しまじめにやってくれ」みたいなメッセージを送りたいけれど、 民主党は社会保険庁の味方。自分の振り上げた拳で誰かが笑う構図は嫌だから、民主党は無し
  • 公明党とか社民党とか、立ち位置が今一つあいまいだから、 中途半端に議席が伸びたら自民党とくっつきそうで、 それはそれで全然支持できない
  • 棄権は論外。「棄権」で送れるメッセージというのは、「与党に全面的にお任せします」という 思い。これでは意味がない

自民は支持するけれど、「怒っているぞ」というメッセージは伝えたい。 引き算で考えていくと、たぶん正しい選択は共産党。

共産党大躍進の先に待っているのは、ロシアと化した日本。

家は焼かれ、畑はコルホーズ。成人男子はみんなシベリア送り。

誰だってそんな国にはしたくないから、共産党の議席が伸びても、 誰もそれを「共産主義者が増えた」とは 取らなくて、「冗談を理解する自民党支持者が怒ってる」と受け取ってくれるはず。

何かの間違いで、共産党が議席の49% を占めたとしても、残り51% はきっと、 何が何でも団結して、必死になっていい政府を作るだろう。だから今回は共産党。

共産党は体制に「反対」を表明する人達。その立ち位置は極端で、 昔から変化を拒んで。共産主義なんて、昔からの支持者以外は、誰からの支持も受けなくて。

共産主義を信じる人達はこれ以上増えないだろうけれど、共産党の「立ち位置」を支持する人たちは、 もしかしたらこれから増える気がする。

メッセージの担い手としての代替医療

  • 主流に批判的な立場
  • 立ち位置が極端で、変化を拒む
  • 考えかたよりも、立場に対する支持者が多い

自民党時代の政府とか、あるいは西洋医学とか。 主流派が長期間変わらない世界というのは、 たぶんこんな立場の人達に広大なニッチを提供している。

自然分娩とか、あるいは整体やら漢方やら、 とにかく西洋医学の文脈に乗っからない人達は大活躍。

西洋医学に否定的であったり、あるいは西洋医学が「見捨てた」患者さんをターゲットにしたり。 伝統的な西洋医学を批判する一方で、自分達の考えかたに対する批判は絶対に受けなくて。 独自の考えかたを展開するけれど、西洋医学全体を乗っ取る野心は持っていなくて。

西洋医学をそれなりに信じる「普通の」人達も、「もっとサービスしようよ」とか、 「待ち時間をもっと短く」とか、きっと西洋医学に言いたいことは、山ほどあるはず。

カテーテルによるがん治療をするクリニックとか、あるいは代替医療とか。 今マスコミの人達が好意的に報道する医療の実践者というのは、 たぶんこんなメッセージの引き受け手として支持を集めて、繁盛している。

西洋医学は今でも主流派。それは間違いないはずで、主流である以上、 批判を受けるのもまた主流の務めなんだろうけれど、最近はずいぶん厳しい。

大きな病院が手術を減らして、漢方外来とかリラクセーション外来なんかをはじめてみたり、 あるいは高額な健康診断コースを作ってみたり。 大学にも経営が求められる時代。実際問題、こんな試みは相当上手くいっていて。

「与党」たる本道の西洋医学はますます叩かれて、 叩く「拳」のエネルギーをもらった代替医療は、 そろそろ本当に西洋医学の息の根を止めそう。

先週から1日に救急車20台とか、なんだかとんでもないことになっていて、 重症の人がたくさん来るのに、大きな病院はどこも一杯。救急取ってくれない。

大動脈瘤破裂とか、くも膜下出血みたいな病気は、今はどこの病院も敬遠する。受けたら負け。 何か手を出さないと死んでしまうけれど、何か手を出したら絶対に合併症がおきて、 そもそもそれを避けることが原理的にできないから、トラブル必発。公式ルートでは絶対に 転送断られてしまうから、部活の先輩後輩とか、同門会の名簿大活躍。

大病院が「議席」を減らして、代替医療がその分伸びて。 「政府」がひっくり返ったとき、ハーブや漢方の人達、 大動脈瘤破裂の治療とかちゃんとやってくれるんだろうか…。

2007.07.03

組織の維持に必要なもの

コミュニティを互助的なルールだけで維持していくには 「最低限これだけ」という大きさがあって、それは恐らく数千人規模。 それより小さな組織を維持していくためには、 「理不尽さの引き受け手」になる誰かの介入が欠かせない。

糖尿病患者会のこと

糖尿病の患者さんは数が多くて、その多くは無症状だから、 みんなで集まって、治療のモチベーションを保つ。

患者会。いろんな病院にこんな組織があって、 多くは患者さんたちが自主的に運営している。

HbA1c は血糖コントロールの指標。過去3ヶ月ぐらいの血糖値を反映する。 見かけの血糖値を良くしようとして、外来当日に食事を抜いて来るような人がいても、 この価だけはしっかり高いから大丈夫。

  • 6以下は大体正常、あるいは、相当にコントロールがいい、模範的な糖尿病患者
  • 7台の人は、まだまだ内服薬だけで大丈夫。節制すれば、あるいは薬なしも射程内
  • 8台の人は、コントロール今一つ
  • これが9を越えてくると内服だけでは厳しくなって、医者はインスリン治療を考える

実際には数字だけではなくて、病気の発症様式とか患者さんの体格とか、 治療方針はいろんな要素が決めるのだけれど、数字は何より分かりやすくて、 患者さんはみんな、お互いの数字を比較する。

どちらのコントロールが上なのか。どちらがより「良い」患者なのか。

数字は公平。いいわけ無用で、小数点以下まで点数をつける。

みんなで「頑張って」、血糖コントロールを維持していきましょう

みんながどれだけ頑張ったのか。数字がそれを反映するとは限らないんだけれど、 分かりやすい指標は一人歩きする。

患者会のリーダーをやっている方というのは、たいていの場合数字が悪くて、 それを「頑張って」克服した人たち。みんな一生懸命いい数字を維持していて、模範を示す。

糖尿病の原因は様々。人によっては食事制限だけで良くなるけれど、 日本人はどちらかというと、最終的にインスリン注射が必要になる人が多い。

みんな頑張ってる。でもコントロールのいい人はもっと頑張っていて、そうでない人は あんまり頑張っていないように見えてしまう。誰かが非難されるわけではないけれど、 数字というのは、見えない序列を「見える」化してしまう。

相互信頼通貨の「銀行」としての医師

外来での医者の仕事は、相互信頼通貨の再分配と、自尊心の担保。

  • コントロールのいい患者さんに対しては「とてもいいコントロールですね」 「頑張ってくれたおかげで、こんなに良くなりました」
  • コントロールがつかない患者さんに対しては「みんなこんなものですよ」 「さじ加減が悪くてすいません。もう少し薬増やします」

客商売。「血糖値が悪くなりました。死ぬのはご自由に。自己責任でどうぞ」なんてやった日には 患者さんから刺されるし、なによりも、コントロールの悪い患者さんと喧嘩して、 その人の状態が悪くなったら、それはやっぱり医師のせい。

実際問題どうしようもない人だって多いけれど、 できる範囲で頑張ってる。

「弱肉強食ルール」が理想的に機能するには、それこそアフリカのサバンナぐらいの面積と、 そこで生活する動物と同じぐらいの人数が「最低ライン」で、それ以下のコミュニティを 維持するためには、たぶん銀行とか政府の役割をする人が欠かせない。

患者会の人数なんて、せいぜい多くて100人規模。この人達の「頑張り」の序列は、 その気になれば客観的な数字ですぐにソートできるし、皆さんこれに近いことを実際に行っている。

残念ながら、会のリーダーに相当する人というのは、往々にして医師に親和性が高い人だから、 血糖コントロールの悪い人達は、その責任を医者に求めることができない。

医者のせいにするならその会にはいられないし、自分のせいにするならば、 会の頑張りについていけないダメな奴として、 やっぱりその会を続けられない。

学生の頃に小児科医局が主催していたのは、小児白血病の子供達のキャンプ。

模範的な子供達が主治医と仲良く遊ぶ一方で、テントの中では「あのハゲむかつくよな」とか、 「デブ死ねよ」とか。仲の悪い子供達は、黒い会話で盛り上がる。ボランティアの学生はもちろん、 主治医を罵倒する側に混じって、座を盛り上げる。

仲のいい子供と遊ぶこと。そうでない子供から罵声を浴びせられること。

医師の役割はこの両方。どちらが欠けても序列が生まれて、 コミュニティの空気についていけない子供は、そこを去るしかなくなって。

キャンプはきっと、つらい思い出になってしまう。

山を登り始めたばかりの人は頂上じゃなくて仲間が欲しい

山の頂上に立った人は、その高さにやりがいを見出すけれど、 これから山を上る人達はきっと、「みんな平等」という世界暗示に安息を見出す。

最初は誰でも初心者とか、そのうちきっと良くなるよとか。病気になったばかりの人や、 病気があんまり良くならない人が孤独になると、しばしばそれは最悪の結果を招いてしまう。

どうやったって、病気が落ち着くにはある程度の期間が必要だし、 血糖コントロールに「序列」なんてものが 本当にあったとしたら、いつまでたっても上には上がいる世界。

糖尿病を診断されて、右も左も分からなくって、とりあえず患者会に入って。

リーダーは、血のにじむような苦労の果てにすばらしい血糖値を手にした「理想の体現者」。

その人が、初心者のだらしなさを晒しあげたなら、たぶんそのコミュニティは、 リーダー以外だれも幸せになれないはず。

初心者が最初に欲しいのは仲間であって、目標はそのあと。

「遊び」が車を走らせた

トヨタのハイブリッドカー「プリウス」は、最初のうちは10m も走れなかったのだそうだ。

ハイブリッドカーの構造はネットワーク。

電池、発電機、モーター、遊星歯車、そしてエンジンと、 車を走らせるために関与してくるコンポーネントはたくさんあって、 それぞれの部品に制御系が実装されて、 お互いに通信しながら車を走らせる。

お互いの制御が干渉すると、車は止まる。最初のうち、プリウスはすぐに止まってしまい、 止まる原因が分からなかったり、部品を「改良」したはずなのに、 その改良が他の部品に影響を及ぼして、 やっぱり車が止まってしまったり。

ようやく車が走り出して、試作品を実用化する段階に 入ったとき、真っ先に行われたのが、コンポーネントどうしに「遊び」を持たせることだった。

プリウスの制御はすごくて、本当はモーターとエンジン、すべてを「直結」にしたままで、 速度制御ができるのだそうだ。ところがそれは理想的すぎて、条件がわずかに狂うと振動するし、 最悪止まる。

部品の間にクラッチを入れてみたり、トルク差を吸収するダンパーを入れたり。 すべては本当は不必要な、余計な部品。

余分な部品が追加されて、ネットワークの効率が落ちて。組織に「遊び」が生まれて、 組木細工のような車に柔軟性が実装されて、ハイブリッドカーはようやく公道を走った。

コミュニティを維持していくのはある種の遊び、非効率さで、それは競争原理の外にいる人にしか 付加できないもの。

それを与えられない人、非効率さを惜しむ人というのは、 やっぱり組織を束ねるべきじゃないと思う。