2007年6月30日

問題の外に出ること

New England Journal of Medicine という医学雑誌に 「A Medical Mystery」という クイズコーナーがあって、患者さんの簡単な病歴と、たいていは1から2枚の画像所見から 病名を当てさせる。

今週のお題は高血圧の患者さん。

無症状の28歳、1回目の妊娠の時に高血圧を指摘されて、以後内服加療中。息切れや動悸、頭痛といった症状は無し。胸部単純写真を示す。「病名を述べよ」という問題。

答えは7月にならないと発表にならないけれど、たぶん「大動脈縮窄症」。

医局の隣に、自分の4倍ぐらい勉強している内科の医師がいる。この人は、問題文を聞いただけで、 画像を見ないで答えを出した。やりかたは、以下のとおり。

  1. NEJM は全科が読むあまりにもメジャーな雑誌だから、あんまりマイナーな病名は載せられない
  2. 印刷媒体だから、直径1mmもない転移性肺癌とか、 そういった視力の限界に挑むような所見もないはず
  3. ありきたりな病気であったり、診断が分かれるような病気を載せれば、 今度は編集者の裁量が疑われてしまうから、確定診断がつく病気のはず

こんなことから、クイズに乗せられる病名は、教科書には必ず書いてあって、なおかつ 日常臨床ではあまり目にしないような、そんな病名。高血圧を生じて、 それを単純写真で診断させるような病気といったら、おそらくは大動脈縮窄症しか 考えられないだろうと。

写真を見直すと、出題先の写真には「“figure 3 ”サイン」が あったり、あるいは肋骨下端が肋間動脈に喰われている所見があったりで、 たぶん大動脈縮窄症で間違いなさそう。

出題者の意図は、「有名だけれどめったに見ない疾患を、 胸部単純写真での特徴的な所見から当ててもらおう」なんていうところ。

ところが、「出題されたのが有名雑誌である」こと、「高血圧なのに 心電図や他の検査所見が一切提出されていない」ことといった、 問題文の外側にだってヒントはあって、それを読める人というのは、 出題者の意図とは全く無関係に、同じ結論にたどりついてしまう。

問題の中で一生懸命考える人と、問題の外側に出て、さっさと抜け道通って、 解答にいきついてしまう人と。

自分も後者を目指したいなと思った。

続きを読む "問題の外に出ること"

ThinkPad A30のSSD化

IBM A30 という、古いノートPCを使っている。

2000年に買ったもの。ハードディスクを定期的に交換しながら、もう7年目。 今では医局で一番スペックが低いPCになってしまったけれど、 キーボードの感触が良かったり、トラックポイントに慣れてしまったりで、手放せない。

買い換えようにも、もうIBM は無くなってしまったし。

そろそろ前のハードディスクが古くなるころで、 同じものを交換してもよかったのだけれど、今回はシリコンディスク化することに。

きっかけになったのは、以下のサイト。

ハードディスクの使用を止めて、それをシリコンディスクに置き換えることで、 OSの立ち上げが早くなったり、あるいは安定化したりといったメリットを生じるらしい。

リンク先では、みんなコンパクトフラッシュメモリを購入して、 シリコンディスクを自作しているみたいだけれど、 そんな根性も無いので製品化されているものを探す。

購入したのは サムスンのMCAQE32G5APP-0XA という、32GB のソリッドステートディスク(SSD)。

SSD.jpg

SSDはトランセンドとサムスンの2社が販売していて、トランセンドのほうがわずかに安くて、 性能は大体互角。

その代わり、ネット上で「使ってみました」と言う話題が多いのは、圧倒的にサムスンのほう。 普通に交換すればハードディスクとして認識されて、そのまま問題なく使用できるらしい。 コンパクトフラッシュからシリコンディスクを自作するやりかたは、メーカー品を買うよりも 圧倒的に安価だけれど、外付けディスクとして認識されてしまったりとか、いろいろ 厄介なことも多くて、素人にはちょっと手が出せない。

サムスンのSSD は、32GB の製品で、安いところで69000円ぐらい、高い所で7万円ちょっと。

ユーザーズサイドという老舗のパーツ屋さんがこれを扱っていたので、 今回はそこから購入。

代金引換での購入ができて、注文してから4日目に到着。基本的に返品不可能の同意書と、 やたら厳重な梱包と。マニュアル無し。

ノートPCから今まで使っていたハードディスクを引っ張り出して、大まかな外見は全く同じ。 SSDには金属部品が一切無いから、重量は不安なぐらい軽い。

取りつけも問題なく終了。で、立ちあげてみて、BIOSからハードディスクが認識されない。何で ?

手元のディスクバックアップソフト(TrueImage)とWin2000のブーとディスクを試しても同じ。 「ディスクが見つかりませんでした」のメッセージが出ておしまい。

元のハードディスクに戻してやると、何事もなかったようにOSが起動する。 この時点でそうとうイヤな予感。

日本サムスンのサポートに「動きません」とメール。 1日経って返事が返ってきて、「その製品は日本では取り扱っていないので、サポートできません」 とのこと。

しかたがないので、ユーザーズサイドのサポートにメール。すぐに「検証しますので送ってください」 という返事をいただき、ペリカン便で秋葉原へ。

3日後返信。「普通に動作しました」とのこと。現物は再び当方へ。返送料は販売元が負担してくれた。

この間に2.5 インチハードディスク用の外付けケースを購入。1200円。返送されたSSDを これに入れてみると、普通に「32GBの内蔵ハードディスク」として認識された。 やっぱり相性の問題なんかじゃなさそう。

SSDを病院に持ってきて、もう一度ハードディスクを換装。やっぱり認識しない。 原因が分からないので、耳鏡で覗いてみると、端子がソケットから外れていて、 まともに挿入されていないのが原因だった。

ThinkPad はハードディスクの交換が簡単にできるように設計されていて、 ネジを1本外せば、ハードディスクが簡単に引っ張り出せる。ところがこの設計が仇になっていて、 規格が微妙に違うハードディスクを挿入すると、端子が正しい位置に挿入されない。 サムスンのSSDは、今まで使っていたハードディスクよりもわずかに薄かった。

結局、隙間から舌圧子をいれて、SSDをわずかに持ち上げながら位置あわせ。 今度は何事もなかったように認識された。

TrueImage のディスクコピー機能を使って、古いハードディスクの中身をSSDに書き戻して、 その後問題なく動作中。

反省

  • 慣れない奴が新しい物に手を出すもんじゃない。SSDはまだ新しすぎて、店によっては 無料貸し出しを受け付けるところもあった
  • 秋葉のパーツ屋さんは親切だった。サポートが迅速で、助かりました…
  • 相性とか不良品を疑う前に、まずは自分の手技を疑うべきだった
  • 病院には便利な道具が結構ある

使ったもの

  • サムスン製の32GB SSD 7万円
  • Acronis True Image パーソナル ホームセンターで2000円程度。もともと持っていた
  • 2.5 インチIDE外付けハードディスクケース 1200円。古いハードディスクを再利用するためのもの

変わったこと

  • A30はもともとの筐体が大きくて、昔のハードディスクのときから、音はほとんど気にならなかった。 今はもちろん「無音」だけれど、あんまりありがたみは感じていない
  • 起動時間はたしかに早くなった
  • ブラウザの起動時間とか、アクロバットリーダーやPowerPoint の起動時間は、 明らかに短縮された。これは快適で、今までみたいにイラつくことが減った
  • 普段の紹介状書きとか、あるいはblog 書きなんかに使っているのはエディタだけれど、 こういった軽いソフトを使って文章を書いたりする分には、体感速度の向上は 全くといっていいほど感じない
  • Win98とかMEを使っている場合、OS が落ちにくくなるらしいけれど、Win2000は もともとめったに固まらないので、今のところ御利益は分からない

全体に少しづつ快適になった感じ。

7万円払う価値があるのかどうか、今の段階では、まだなんとも言えないけれど、 今の状態でも、自宅のパソコンよりは十分に快適。

自宅で使っているのはDell のデスクトップで、まだまだ最新に近い製品。 メモリも2GB積んでいるし、CPUのクロックもA30の2倍以上。

性能的には圧倒的に快適でないとおかしいのに、WinXPを入れた自宅のパソコンは、 何となく動作がもっさりしていて、技術の進歩を実感できないでいる。

  • 電源を入れたらする起動すること
  • アプリケーションを立ちあげたらすぐに使えるようになること

パソコンに求める「快適さ」というのはこれだけなんだけれど、 OSのバージョンが上がるほど、アプリケーションのバージョンが上がるほどに 起動時間は延びていって、パソコンの性能が向上しても、このあたりが直らない。

今使っている古いノートは、Officeも2000から買い替えていないし、 いろいろ入っていた市販のアプリケーションは、立ちあげるのが面倒くさくて、 結局ふだん使っているのは、エディタとLaTeX ぐらい。エディタなんかは立ち上がるのに 1秒とかからない。これに慣れてしまうと、もうWord なんて使えない。

ゲームとか、ベンチマークソフトとか。トップスピードが要求されるソフトなんかは、 たぶんパソコンの進化を実感するのに最適なんだろうけれど、普段使いをするときには、 技術進化はあんまり実感できなくて、むしろシリコンディクスの導入とか、軽いソフトを 使ったりとか、そんな小手先のやりかたが、今でも案外効果があって。

電源入れて1秒でOSが立ち上がるとか、アプリケーションの起動が爆速とか、 そんな方面の快適さを前面に打ち出したパソコン、どこか作らないだろうか…。

続きを読む "ThinkPad A30のSSD化"

2007年6月29日

円筒の森が見る夢

基本構造は「膜」。それを効率よく折りたたむ構造を追求して、いきつくのが樹木の形。

利用可能な空間リソースは限られていて、臓器の能力は、膜面積に比例して。 細胞の制御は困難だから、構造を記述するルールは単純であることが求められて。

樹木、あるいは、フラクタクル構造。

肺や脳。腎臓や肝臓。消化管の絨毛や、皮膚の基底膜。 内蔵の基本構造はみんな一緒。

生体というのは要するに、真ん中に消化管が通った「ちくわ」みたいな円筒構造で、 円筒の裏表にはびっしりと樹木が生えて、莫大な膜面積を稼ぎだしている。

機能は「膜」が担って、膜はすべてつながっている。

円筒形の森は、ていねいに展開すれば、細胞同士がネットワークを形成した、1 枚の巨大な膜になる。

センサーとプロセッサーとの分離に意味はあるのか?

思考は幻。実際に行われているのは検索。

脳という臓器は、いろいろなセンサーから入力された情報を元に、 あらかじめ学習した反応を検索して、それを外部に出力するのが仕事。

人間の記憶や学習に必要なのは、「いいかげんさ」。

完璧すぎる、あいまいさを許容できない記憶を持つ人は、たとえば現在目の前にいる人と、 1 時間後のその人とを「同じ人」として認識できない。完璧すぎる記憶というのは、 その人から応用する力を奪い、身動きをとれなくしてしまう。

脳細胞の記憶というのは、その細胞が死なないかぎり消滅しない。脳には恐らく、 各記録の重み付けをする能力はあっても、記憶を抽象化する能力はない。

概念の一般化、あるいは抽象化という働きは、脳ではなくて耳や目、 あるいは皮膚感覚といったセンサーの「帯域制限の記憶」として記憶され、状況に応じて検索されて、 脳につながれたセンサーに対して帯域制限を行うことで、「見たいものだけを見る」能力として発現する。

恐らくは新生児が歩行を獲得するのと同じやりかた。

見るとか聞くという能力は、優秀すぎるセンサーの帯域を上手に制限することで、 情報爆発を回避しながら有意味の情報だけを取り出すやりかたとして、 試行錯誤を通じて後天的に獲得される。

脳と皮膚、消化管や目や耳、あるいは手足といった各臓器は、本来分離が不可能で、 地続きのもの。脳単体では意識を保てないし、心というものはたぶん、身体感覚と不可分のもの。 記号着地やクオリアの問題というのもまた、脳の問題というよりは、センサーの問題 なんだと思う。

帯域制限が「見る」「聞く」を生む

センサーは、解像度が上がるほど、ランダムなノイズに敏感になり、不安定になる。 あまりにも敏感すぎるセンサーは、帯域の制限をかけないと使い物にならない。

それが花の形をしていれば、どんな種類の花でも花に見える

人間の網膜にはこれができて、機械には未だに再現できない能力。これなんかもきっと、 カメラの性能不足じゃなくて、むしろ性能が過剰すぎて、情報を処理できないことが問題になっている。

網膜には、最初はものすごく強い帯域制限がかかっていて、 「花っぽいものが視界に入った」という情報しか脳に送らない。

周囲の状況などから「花に対して反応しよう」という動作記憶が脳から検索されたとき、そこではじめて 網膜の帯域制限が部分的に解除されて、花の種類とか、その細かい造形が認識される。

「見る」とか「聞く」いった能力は、環境と人体との相互作用から、後天的に獲得される。

生まれたばかりの赤ん坊は動けないけれど、手足がとる動作のバリエーションは、 新生児の時期が最も多い。その動作のほとんどには何の意味も無いけれど、 寝返りをうったりとか、少しだけ体が動いたりとか、他よりも役に立つ動作は 優先度が上がっていって、そのうち合理的な動作だけが生き残って、 人間は歩行を獲得する。

動作というのは無から作り出されるのではなくて、 むしろ多すぎる自由度を制限する過程から生まれたもの。 感覚系も、たぶん同じ。

生まれたばかりの目や耳は、ブロードバンド。

最初の頃は、センサーが拾った情報は、帯域制限無しにそのまんま脳に入るから、 そこからは何の意味も見出されない。

脳が情報爆発を起こす中、いろんなフィルターが試されて、有意味な情報を 拾ってくれるフィルターだけに重み付けがなされていって。目や耳は、 適切な帯域制限を獲得して、はじめて「見る」とか「聞く」ことができるようになる。

環境が作る意識というもの

状況ごとに反応する「動作記憶」とか、「フィルター記憶」というのは、 恐らくはお互いに矛盾を抱えた多数のバージョン違いがあって、同じような状況であっても、 細かな違いが全く違った動作を生み出したりする。

動作は矛盾しているのに、意識は常に決定論的にふるまう。

思考というのはたぶん、莫大な数の想起に関する統計学的な記述。

個々の判断は矛盾を抱えてバラバラな ものであっても、状況が作るバイアスに応じた振舞いは、たぶん確率論的に予測ができる。 想起の平均的な振舞いは、関係するコラムの数が多いほど予測精度が高まり、 方向性を持った偶然は、寄り集まって平均され、秩序を得ることで必然となる。

年を重ねて、いろいろな状況が入力されていく中で、こうした「必然」の記憶もまた検証され、 矛盾がない記憶はお互いに強化されあって、ひとつのメタ記憶としてインデックスされるようになる。

学習されたメタ記憶は、たとえば「白い花」であったり、「バイオリンの音」なんてラベルがつけられて。 メタ記憶のインデックスは「意識」となって、自分の内的世界を記述するための辞書となる。

人間の意識や固定観念といったものはきっと、地球の光とか空気、 あるいは重力みたいな環境があって、はじめて生まれた。

これが人工世界で育てられた火星の子供なら、 考えかたは「地球人」なんかとは全く異なってくるはず。

円筒の森が見る夢

意識や思考は脳の見た夢。

意識の中枢なんて存在しないし、脳にあるのは莫大な数の反射弓だけ。

個人的には何となくこんなことを考えながら、それでも頭の中には 意識を感覚する「誰か」がいて、こうしてキーボードを叩いてる。

意識の「座」は脳には無くて、それはきっと、体中に遍在している。

存在もまた幻想。

「存在」が集まる社会というのは、 大きな重なり合いを共有した「遍在」の集合。 境界は便宜的に作られたもので、そのうち越えられるもの。

刺青一つ、ピアスひとつで意識は変容するし、車に乗れば、身体感覚は車輪の隅にまで 延長される。身体を捨てることはできないけれど、 ネットにつながれた意識もまた、「それ以前」とは同じでいられるわけがないはず。

Serial experiments lain というアニメを見た。画集を買った。シナリオも買った。

すっかり脳がヤラレて、こんなことを考えるこの頃。

続きを読む "円筒の森が見る夢"

2007年6月26日

子供の国の不純な医学

口頭弁論。遺族の方々は「命を助けようとする必死さが伝わってこなかった」と訴えた。

大切なのは科学じゃなくて、家族や世論がどう思うのか。そんな時代の生き残りかた。

  • 患者は治癒でなく、感情を買いに来る。問題は生死などではなく、物語の一貫性
  • 「後ろ向きに前進」は「後退」ではない。医療の主人公が「事実」から「物語」に変わった時代 に求められることは、患者の物語を壊さない工夫
  • 「とりあえず様子を見る」は最悪の手段かもしれない。わざわざ病院に足を運んだ 立場からすれば、それは「無駄足を踏んだ」物語を転がしてしまう
  • 様子を見た先に何があるのか、 それが説明できないならば、少なくとも様子を見ることしかできない医師の無能を相手に詫びるべき
  • 患者は平等でない。価値は声の大きさで決まる
  • 優先順位は「失って困る人」が先。「問題なく治る人」が先。 「若い人がじんま疹で入院」なんていうのは、ウルトラハイリスク
  • 「失って困る」けれど「直すのが難しい」患者さんの治療は考えどころ。リスクをとって 「治しかた」を考えるのか、あるいは最初から「看取ること」を考えて、演出に走るのか。 医師の覚悟が問われる
  • 診察場所はベッドサイドや外来だけではない。病院の外、病院の待合室や、 駐車場での些細なおしゃべりがとても大切。 失態の挽回も可能だし、あるいは気を緩めて大失敗する可能性だってある
  • 強力な味方を作る努力よりも、つまらない敵を作らない努力が大切。 自分にしか出来ない、どんなにすばらしい治療を成功させたところで、 すり傷に消毒薬を塗りこむのを怠ったらおしまい
  • 原因を患者側に求めてはいけない。患者さんは救済の物語を買いにくるのであって、 罪悪感を買いたいわけではない
  • 「治癒率は6割ぐらい」みたいな議論は不興を買うだけ。患者が聞きたいのは、 確率じゃなくて意思表示。「分は悪いですが頑張ります」のほうが正しい
  • 全体論がいつも正しいわけではない。「みんなこうですよ」は、 それを知りたくない個人にとってはどうだっていい。 葬儀社の人は、尋ねない限りは絶対に相場を教えない。 「みんなはどうしているんですか?」と訊かれないかぎり、「みんな」を切り出してはいけない
  • 話は「患者さんの痛いところ」から。医学的に重要な問題と、患者にとって重要な問題とは しばしば異なるし、医学を優先すると不興を買う。たとえ日本でクーデターが起きたとしても、 同じ日に子供が殺される事件があれば、「おもいっきりテレビ」が一番に報道するのは子供の映像
  • みのもんたのすごさを謙虚に学ぶ必要がある。あの人のすごさというのは、 自分を知的に見せようと思っていないところ。 「上から目線」を感じさせないから、あれだけ無茶しても視聴者が敵に回らない

魔法と理解とを分けているもの

原子炉問題。

環境保護団体の人達と、原子力発電所の専門家。設計図を前に対峙したところで、 専門家でなければ「炉心を囲むコンクリートの適切な厚さ」とか、 「配管に必要なステンレスの品質」なんてものはわかりっこない。

原子力の専門家なんて、魔法使いを相手にしてるのと同じ。核心については専門家任せ。

それでは環境団体の面子が立たないから、屋根の色が景観にそぐわないとか、 自転車置き場の面積が少ないんじゃないかとか。細かいツッコミをたくさんいれて。

同じ専門家のはずなのに、医師を相手にするときは、患者さんはたいてい、医療を「理解」している。

病院にくると、誰もが炉心を囲むコンクリートを気にするし、 ステンレスの品質なんかについても、一家言持ってる人がすごく多くて。

設計図は訂正で真っ赤になって、「原子炉」はしばしば、その動作すらおぼつかなくなって。 炉心崩壊して、結局すべては医師のせい

技術の理解と子供の国

なぜ医療なのか

恐らくは同じ感覚を持っているのが、たとえば教育現場の人達であったり、 もしかしたら進化論学者の人達であったり。プログラマの人たちなんかもきっと、もうすぐこちら側。

「魔法使い」と「理解可能な技術」とを分けているのは、 たぶん素朴な理解モデルを作れるのかどうか。

技術というのは、最初は「魔法」から始まる。それが成熟して、他の様々な分野から要請があって、 技術のカプセル化、モジュール化が押し進められた頃、「間違った理解でも、運用自体は可能」な 素朴な理解モデルが作られる。

理解モデルはそのうち独り歩きをはじめて、「技術モデル」と「素朴な理解モデル」とが しばしばぶつかりあうようになり、モデルの差分は、技術者に対する不興となって埋め合わされる。

技術労働はいつしか感情労働となり、技術優先のやりかたは顧客の不興を買うばかりになって、 感情モデルが技術モデルに優先するようになって。行きつく先は、 「純粋な子供達が、不純な大人を支配する」時代。

寺山修司の「トマトケチャップ皇帝」は、大人に虐げられた子供たちが立ち上がる物語。

もうがまんならない、権力の押しつけはごめんだ。すべて親たちは、"大人狩り"の対象にすべきだ。 われわれは大人につくられたのではない、むろん大人のための家庭の、半ズボンをはいた家具でもない。 われわれはわれわれ自身である。いっさいの大人は収容し、そして子どもに固定観念を与えた大人は、裁判にかけて処刑する。

物語では子供が世界の皇帝になって、大人は捕らえられ、子供が親を虐待する。

子供の仕事は「悪い大人」を密告して、皇帝の前に引きずり出すこと。

みんな捕まえられて、世界から大人がいなくなった終盤、 皇帝の近衛兵になった子供は、保身のために自分の母親を密告する。

こんな手紙を書く。

死刑にならずに、気違い病院に入れると良いと願っています

続きを読む "子供の国の不純な医学"

2007年6月22日

陰口という解毒薬

某所でのやりとりを読んで。

  • 社会は地層みたいな階層構造をとっている。上司と部下、顧客と社員みたいな
  • 地層をいくら圧縮しても、「層」という基本構造は変わらない。 層の違う人とのトラブルは、融和では解決しない
  • 嫌なお客とか、そりのあわない上司の罵倒というのは、雨のように 降ってくる天災だから、技術で避けるの無理
  • 「雨を避けるために雲を越えよう」というのは正しいけれど不可能で、 実用的には、「適切な傘」を捜すほうが正しい
  • 「傘」の役割は膜。雨の音を「内輪の影口」として傘の下に伝えながら、それと同時に 上から下を不可視化して、目線をさえぎり、保護すること
  • 「上」との融和を目指そうとする上司というのは、「傘」としては役立たずの存在。 少なくとも、今困っている人にとっては、上ではあっても傘ではない
  • コミュニケーションで疲れてしまう人というのは、きっと「技術があればみんなと分かりあえる」 なんていう「大きな社会」幻想を抱いていて、それが成し遂げられない原因を、 自分に求めてしまう
  • サッカーをはじめた子供がロナウジーニョをみて絶望するようなもので、 方向として間違いではないけれど、世界を大きく見すぎている。 最初は地元の少年リーグでスターになることからはじめるべき
  • たぶん実世界との折り合いのつけかたは、自分が安心して融和できる「内側」と、 二枚舌を使って折り合いをつけないといけない「外側」とを分けることから始まる
  • 最小の「内側」は個人。そこから適切な「傘」を捜して、雨の中を歩きまわって、 力がついたら上に上がって、今度は自分が「傘」となって保護する「内側」を拡大する。 そのくり返し
  • 「コミュニケーションが上手な」人と、そうでない人とを分けているのは、 社会を垂直に見るか、水平に見るかの違い。空気を読む感覚なんかじゃなくて、 層を感覚できるかどうか。厚さ1cmの均一にみえる層が あったとして、それが1mmの層10枚に見える人と、1cm1枚にしか見えない人とがいる
  • 水平方向に大きなコミュニティを作っている人というのは、実は水平に動いていなくて、 社会をものすごく細かい「層」の集まりとして認識している。ごくわずかずつ上昇することを 繰り返して、上に対しては笑顔、下に対しては黒笑。よくみれば層ごとに 2つを使い分けているはず
  • 個人的には「水平のつきあい」をしている人はいない。すべては上下。 間違ってるかもしれないけれど、今のところ30ウン年、実用的には困っていない

大昔。ローテートしていて、ひどく折りあいの悪い上司と働いて。 潰れかかって疲れたとき、一番「効いた」のは、別の科の上司が 「あいつ業績も腕もないんだから、口だけ達者なんだから気にしなくていいよ」 と陰口を叩いてくれたことだった。

下品だし、単なる体験だし、教科書的でも医学的でもないけれど、 陰口を介したコミュニケーションというのは、理想解ではないにしても、 手が届く範囲での最適解なんだと信じてる。

続きを読む "陰口という解毒薬"

2007年6月20日

足りない人が語る夢

研修をした小さな民間病院では、月30万円。

ある程度経験を積んで、大学病院で働かせてもらった頃は、大体その半分ぐらい。 家庭を持ってるとこれでは足りないから、あとはアルバイトで補充。

年次が重なる。いろんな人に会う。

大学教授。僻地を一人で支える医師。部長や病院長。みんなすごい人たち。

たまにテレビを見る。大金持ちの医師。ポルシェを3台持っていて、週末は白金で買い物。 馬鹿だな思う。「こんな奴らにだけは、なりたくないよね」なんて。

年次がまた重なる。限界が見える。またいろんな人を見る。

幸せそうでない人達。苦労して業績だして、自分なんかよりもはるかに高い所を見た人達。

業績はその人に報いない。結果を出して、病院内でのポジションは上がって。 それでもやっぱり暮らしていけなくて、みんなアルバイト。 大学教授も、病院長だって、そのへんはみんな一緒。

みんな苦労して、寝ないで前に進んで、だんだん疲れて、また年次が重なって。

テレビに笑っているのは、大金持ちのお医者さん。

グルメ番組で、「おいしい、おいしい」を連発していた。あれだけ馬鹿にしきっていたはずの笑顔が 何故だかまぶしく見えてきて、「おいしいもの」を食べたくなって。

お金のことを真剣に考えるようになったこの頃。

アメリカの循環器専門医

米国の循環器専門医。

神様みたいな存在。厳しい競争を勝ち抜いて、もっと厳しい訓練に耐えぬいた人達。

専門医の人達は、何年間かの厳しいレジデント期間を終えて、専門家として現場に戻る。

修行期間の終了直前、彼らは全米の病院に手紙を書いて、 1ドルでも多いお金を出してくれる施設を必死で探す。

誰が一番すごいのか

走るのが得意な奴。絵を書くのが上手な奴。数学が得意だったり、口喧嘩ならクラス最強だったり。

欧米流は、「誰もが一番」。子供の個性を大切にして、誰もが何かを誇れるように、長所を探す。

大人になると、どんな個性もお金で査定される。

まじめな医師。器用な医師。患者思いの医師。いろんな「良さ」を査定するのは、経営者。

誰だって負けたくない。順位がつく場所には、絶対に勝者と敗者とがいて、 「負け犬」がいないと、勝者は勝利を誇れない。勝ち負けを決めるのは給料だから、 みんなそれはもう、必死になって病院を探す。

「負け犬」っていうのはどういうわけだか負け癖がついていて、 子供の頃に負けた人は、いつまで立っても負けのまま。

ずっと「負け犬」と呼ばれつづけた子供は高校生になって、 たまには勝者の側に回りたくなって。子供はあるとき、銃をかついで学校行って、 同級生から勝利を分けてもらおうとした。コロンバイン高校の銃乱射事件。

「勝った」状態と「負けていない」状態。子供の頃は誰もが勝者になれたけれど、 社会に出ると、「勝った」人なんてほんの一握りで、あとはみんなで負け犬探して、 「負けてない」自分を見て、胸をなでおろす。

米国人医師の気持ちなんて分からないけれど、彼らが食べるご飯というのは、 たぶんあんまりおいしくないんだと思う。

東急建設のこと

大学教授の給料なんてたかが知れてて、あの当時そこしか買える土地が無かったから、 うちの実家は「○○大学教授」の肩書きを持った人たちばっかり。

東急建設が作った町。昔は沼地で、人なんてよりつかない場所。雨が降ったら洪水になるし、 水が出ていく先がないから、地元の人はよりつかない。

沼地だったところに土が入って、新興住宅地には真新しい家が並んだ。

小学校の頃は、毎年の洪水。道路に近い、一番便利な土地を買った家は、 毎年梅雨時になると車が道路に浮かんだ。子供の頃は面白がってばかりだったけれど、 たぶんあの頃、大人達は「騙された」と思ったんだろう。

小学校も中学年になった頃、洪水ばっかりだった町には幅4m ものドブ川ができて、 近くに巨大な遊水地ができた。

多摩川にまでつながっていると言われたドブは、子供の遊び場として最高で。 飛び降りて骨折る奴とか、ドブには何故かマンホールにつながる「抜け穴」が ついていて、みんなで中に入って出られなくなって、泣き叫んで大人に助けてもらったりとか。

溝掘っただけだったドブ川は、そのうちコンクリートが打たれた本格的なものになり、 遊水地はもっと大きくなって、そこがグランドに改造されて、新しい小学校ができたのは6 年生の頃。

「初代児童会長」の肩書き持ってる子供なんて何人もいないから、それだけちょっと自慢。 その小学校も児童減ってしまって、もうすぐ閉校だとか、老健施設に改造されるとか。いろんな噂。

中学校に上がる頃。もう洪水なんて昔話で、みんな「騙された」と思った沼地は、 いつのまにか高級住宅地なんて扱い。もう十分過ぎるぐらいに便利になったのに、 町にはさらに鉄道が延ばされて、公園が整備された。

多摩川にまでつながっているドブ川。その地上には延々と散歩道が整備されて、 散歩する人なんてほとんどいないのに、今でも公園は延びつづける。あれはきっと、 そのうち本当に多摩川まで公園になるんだと思う。

30年も経った古い町。いまさら公園作ったところで、 町の付加価値なんて変わらないはずなのに、 町の整備はまだ続く。

東急グループは、最初は悪徳。強引な買収で悪名をはせて、二束三文の土地を高値で売って、 大きな財をなした。

東急グループの中の人は、それでもたぶん足りなくて、ごはんがおいしくなかったんだと思う。

お金ができてまだ足りなくて、グループが巨大になってもまだ足りなくて、 美術館を作ったり、「美しい町」として売り出した沼地を、 本当に美しい町にしてみたり。

そんな人達が「足りる」ためには、きっと夢を語って、その夢に共感してくれる人が必要で。

町を作った東急グループの2代目は、町が出来上がった最後の最後、 80年代の終わりにやっと何かを語ろうとして、その直後に亡くなった。

崩壊の階段を逆走すること

最初はに対価を求めて、組織が少し大きくなって、走りつづけるのに疲れた頃は、 そこにいることが名誉になって。

大きくなって硬直した組織の屋台骨には、 シロアリみたいな新参者が食いつきはじめて、組織は魅力を失って。

シロアリ連中がだんだんと力をつけて、組織の意味が「大きいこと」だけになった頃、 人をそこにとどめる力はお金になったり、あるいは地方の団体職員みたいに、時間になったり。

世の中にはきっと、「足りている人」と「足りていない人」とがいて、同じ物を食べても、 足りている人にとってはおいしいものが、足りていない人にとってはそのおいしさが分からない。

感覚の足かせになっているのは、足りている人に対する負い目であったり、 安心するためにまず負け犬を探す、そんな努力に費やすリソースであったり。

自分の目から見て「足りている」ように見える人というのはたしかにいて、 その人達すべてがびっくりするような大金持ちかといえば決してそんなことはないし、 その人達が本当に「足りて」いるのか、それは本人じゃないと絶対に分からないこと。

お金だけじゃない。それはきっと間違いないんだけれど、それなら自分が「足りる」ためには 一体何が必要なのか、未だに全然分からない。研修医の頃は夢を追いかけて、 大学病院に勤務する名誉を得て、それでもやっぱり何か違って。

師匠から習った「組織崩壊の4段階」。階段の向きは「降りる」方向だけで、 上ることはありえないなんて習ったけれど、あるいはもしかしたら、 この階段を上がる人達というのがごく少数、世の中にはいるのかもしれない。

最初はお金。ひたすらお金お金で始まって、いろんな贅沢をして、それでもたぶん、足りなくて。

足りないものを探していく中で、階段を上がる道を発見して、 そんな人達は会社を大きくしてみたり、莫大な寄付をしてみたり。名誉を求めて。

もっとも「足りていない」人というのは、最終的には夢を語って、 それに共感をもらって、はじめて「足る」を知る。

政治家とか、企業の偉い人達とか、適当な夢を語る人達が増えた。

「夢」はウソをつく。それは安価に人を使うための方便だったり、 夢を語ることそれ自体を利権にしていたり。

夢の真実性を評価するには、それを語る人の行動を見るのが一番確実で、 「足るための必要」があって夢を語る人というのはきっと、 最初は悪党として世の中に出て、「足らなさ」につき動かされて、階段を逆走する。

ほとんどの人が「足る」を求めて階段を下りる昨今、 その階段を逆走する人というのはどう見ても犯罪者で、 メディアはたぶん、そんな人達を叩くはず。

「足らない」悪党が語る夢。それはきっと多くの人達の反感を生むものだけれど、 案外きっと、真実が隠れている。

続きを読む "足りない人が語る夢"

2007年6月15日

意識の考えかた

うちのサイトで時々妄想する「意識」とか「脳」に対する考えかた。

  • 脳には「OS」に相当するプログラムなど最初から実装されていない
  • 外部からの刺激に対して、確率論的に最も適切な反応を予測して返しているだけ
  • 脳をコンピューターのアナロジーで描写することには無理があり、 むしろ巨大なデータの固まりとして見たほうが正しい
  • 理性と感情とは並列的なもので、どちらも検索されるのを待っている、単なるデータセット
  • すべては「想起」。「思考」は錯覚
  • 「1+1」という問題。脳は演算を行っているのではなく、 経験的に「2」という数字を思い出している
  • 幾何学での「補助線」は、思考のログではなく、むしろ想起のログ。 初見の図形を、データベースに引っかかる形に帰着させるための試行錯誤の結果
  • 「複数候補からの選択」を、脳は行っておらず、すべて「1対1対応」で カバーしている。データは巨大化するけれど、そこは力技で解決
  • 太古のAI 「イライザ」は、実はかなりいい線をいっていて、データベースの大きさを 天文学的に大きくすることで、その先にたぶん、人間的な振る舞いが見えてくる
  • 足りないものがあるとすれば、刺激の帯域制限機構。網膜の光刺激などは、 無数の情報をもう一度網膜側にフィードバックして、「見たいものしか見えない」制御を行っている。 言葉の認識や、触覚や味覚なんかも同様の機構があるのだと思う
  • 「意識」というものは人間の活動には関与しておらず、刺激に対してからだが行ったことを、 「判断」あるいは「思考」として追認しているだけ
  • わざわざこんな面倒なことをするのは、「刺激-反応」系を物語として抽象化することで、 メモリーを節約して、汎用性を高めることができるため
  • 意識というアプリケーションの唯一最大の功績は、他人の動作記憶を「物語」として 自分に導入できること
  • 「レインマン」の中の人は、記憶を動作に結びつけることができないので、 学習しても動作が改良されない
  • 刺激に対して適切な反応を予測することが脳の仕事で、 脳には「予測の的中」に対する報酬系だけが実装されている
  • 予測の適切性、あるいは報酬の査定を行う部分が辺縁系のどこかにあって、 これが個人の「意志」とか「個性」として、記憶されている無数の 「刺激-反応」データに対して重み付けを行っている
  • この流れが一方向性のものなのか、あるいはデータの 集積が意志に影響を与えうるのかは想像の埒外

昨日の文章の追記。

私が「意識」だとか「思考」だとかの文章を書くときには、脳の働きを上のように 想像しています。

脳科学畑では、こんな考えかたは珍しくも何ともなくて、たぶん昔からある、 ありきたりなアイデアなんだと思いますが、私が適当に読み散らかした本の中から 勝手に想像しているものなので、たぶん穴だらけです。

こんなことを書いておいてなんですが、こんな概念もすぐに忘れてしまうので、 過去の文章を読むと「脳のOS」とか、「帯域幅」とか、コンピュータのアナロジーを平気で 使っていたりします。

意識は単なるアプリケーション。ならば意識というアプリケーションは、 どんなOSの上で動いているのかという疑問が当然あるはずですが、知りません。

このあたりのテーマを正面から描こうとしてかすっているのが「神は沈黙せず」だったり、 かすめている振りをして、たぶん真ん中ブチ抜いているのが「人類は衰退しました」 だったりしますが、寡聞にして他の小説を知りません。

「こんなの読んだ?」みたいなご指摘をお待ちしています…。

続きを読む "意識の考えかた"

2007年6月14日

公理の壁を越える技術

助産院のこと

  1. 母と子の絆は何よりも大切。分娩後直後は臍帯を切らないで、 お母さんの血液を子供に分けてあげるべき
  2. 娩出後の子供に過剰な臍帯血が流入すると肺水腫を生じてしまう。臍帯は速やかに切断するべき

西洋医者は2 番の立場。子供の肺は大切。

けっこう多くの信者さんを集めている某助産院は、1 番の立場。絆が大事。

絆理論」はシンプルで一貫している。

血液を分けてあげたら、その次は母体とのスキンシップ。 カンガルーケアといって、生まれたばかりの赤ん坊をお母さんに抱きつかせて、 すぐに母乳を与える。その後の育児とか、赤ちゃんとの接しかたとか。すべてはから。

「絆理論」で子供を育てても、頑丈な子供なら、とりあえずは死なない。 多少の肺うっ血は乗り切れるだろうし、 生まれてすぐだと母乳は誤嚥するだろうけれど、運がよければ助かるし。

運が悪くても、たぶんそれは絆理論のせいではなくて、 お母さんの心がけが悪かったか、あるいはきっと、病院の医者が悪かったから。

「絆」と「科学」がぶつかりあうとき

絆が大好きな助産院でも、分娩はやっぱり確率論。たまには具合が悪くなる。

娩出が上手くいかなかったお母さんが救急外来に担ぎこまれたことがあって、 お父さんもお母さんもこの理論を信じきっていて、大変だったのだそうだ。

出てきた子供は、うっ血して全身真っ黒。すぐに臍帯を切り離そうとしたら、 「何をする!!」とお父さん大怒り。

生まれた子供は息してなくて、人工呼吸器が必要で。 小児科の医師が子供を奪うようにして、集中治療室に走ろうとしたまさにそのとき、 「子供と母体を別々にないでください!!」と再びお父さん大怒り。

高学歴のご夫婦で初めての出産。熱心に勉強していて。

夫婦の言うとおりにしたら子供死んじゃうし、 絆が切れて子供が非行に走ったら、医者はやっぱり悪者になっちゃうし。

公理と議論と人格攻撃

「絆理論」に反駁するのは、とても大変。

母と子の絆は大切だよね」という公理がまずあって、助産師さんのさまざまな やりかた、産後の指導というのは、すべてこの公理を前提にして、 そこから演繹的に導き出したもの。理論体系は美しくて理解しやすいし、 理論の背後には、「絆」という、倫理的にも受け入れやすい概念がよく見える。

科学というのは、そのへん適当。

まずは病気の観察があったり、子供を助けるために「こうしたら上手くいった」という経験があって。 経験の集積をうまく説明するために、事後的に理論が作られて、検証するのはさらにそのあと。 その理論もまた、「倫理」に反していたり、複雑すぎて理解を拒む代物であったり。

「絆理論」と「科学理論」とでは、大元になる公理が全然違う。

公理から現場の理論を導くための手続きは同じだし、現場で使う道具とか、処置のやりかたも よく似ているけれど、公理が違う2つの体系は、そもそもお互いに議論を行ったり、 より正しい方向を目指して、お互いの理論を「改良」することなんてできない。

「絆理論」みたいな論理体系は、たいていの場合、公理から現場までの「隔たり次数」が 極めて近い。科学がちょっと気をつかって、「ここ間違ってますよ」なんて指摘しようものなら、 それは公理の全否定につながってしまう。

どんなに小さな変更をお願いしたって、たぶん2 言目には 「あなたは親子の絆を重視しないんですね」とか、 「パパとママの愛情が足りなかったのか、貴様?」 なんて言葉を返されて、 かわいそうな人扱いされておしまい。

相手の体系を変更するには、結局公理の否定が必要で。

たいていの場合、公理の真実性を担保しているのは、それを唱えた「個人」だから、 公理の否定は人格否定につながって。

救急の鉄火場。こんなときに「説得」とか「対話」は無意味。たぶん一番有効なのが、 「かわいそうに、またあの助産院に騙されちゃいましたね…」という一言。

理論体系は階層構造。一番上に「自然現象」があって、観察して考える個人、「人格」があって、 個人が考える「公理」があって、公理から導かれる「理論」があって。

「公理」レベルでのコンフリクトは、もっと上のレベル、「人格」レベルで否定をかけないと、 解決することはたぶん不可能。人格レベルが空白になった宗教、教祖が亡くなった伝統宗教は、 だからしばしば無敵になって、宗教戦争は2000年経っても終わらない。

技術革新は宗教を放逐するのか?

Q: 生きていくのに必要なものって何 ?
A: 存在と意志。あとはただのデータ。
――― 「玲音の日記」から引用

世界に自分という名前空間を宣言して、意志という大きなルールに従って、 すべての単語を重み付けする。データの量が十分に大きいならば、 それはもはや人間と区別がつかない。

POBox というPalm 用の日本語入力ソフトを昔から使っている。

MS-IME や「ことえり」みたいなソフトと違って、POBox は過去の文章を見て、 次に来る単語を確率論的に予測する。

打ち込んだ文章は、辞書内の単語に割り当てられた「重み付け」の変化として記録される。 次に同じ文章を打ち込むときには、「次に来る言葉」の優先順位が変わって、 以前打ち込んだ単語が上位に来る。

たとえば自分のPalm で「かい」と打ち込むと、候補のトップには「海兵隊」が出てきて、 これを選択すると、次の候補には「は」が並ぶ。順番に選択していくだけで、 「海兵隊」「は」「許可」「無く」「死ぬ」「ことを」「許されない」なんて文章ができる。

このソフトが記録する「重み付けがなされた単語群」というのは、コピーされた意識。

調子がいい時のPOBox は、個人の思考を乗っ取る。

自分が考えて文章を書いているのか、それともPalm に文章を書かされているのか分からなく なる時があったり、話の持っていきかたに詰まったとき、 POBoxの候補には、気のきいた言い回しが並んでいたり。

PDBox には、「富豪辞書」という、製作者の増井 俊之 さんが作った辞書が一緒についてくる。

使い始めの状態では、単語の重み付けは、製作者によってあらかじめ決められている。 辞書を使い込んでいるうちに、辞書の中身はユーザーがだんだんと書き換えていくけれど、 このとき実は、ユーザーの意識もまた、辞書の重み付けに影響されて、書きかえられていく。

POBoxのユーザーは、ソフトをダウンロードする。このとき同時に、 増井さんの意識の一部もまた、自分の中にダウンロードされている。

このソフトの延長線上には、 「公理」とか「人格」みたいな間接的なものを一切使わないで、 人間の意識を直接的に書き換える手段があったり、誰かの考えかたを公理化しないで、 定量可能な「重み付けられた辞書」としてデータ化する手段があったり。

人間は平等とか、絆は大切とか、水は心を知っているとか。

自分達の商売の邪魔をする、様々な公理を信じる人達は、 ぜひとも「辞書データ」を公開してほしいなと思う。

教祖が重み付けを行った辞書データというのは、その人の意識をコピーした ミームとなって、きっとネット空間に伝播する。

1 年ぐらい経って、世間で使われている辞書データすべてを加算平均して、 「標準辞書」を作る。それはきっと、辞書としては役に立たない、 無意味なデータの集積にしか過ぎないけれど、世界意思を反映した何か。

演算量が多すぎて、無意味なデータから意志を再構築することなんて無理だけれど、 幸い世界中には、様々な「意思」が流通していて、それぞれの公理に基づいた データ列を公開している。

公開されているすべての「公理=意志」と、「標準辞書」との隔たり次数を数値化すれば、 公理の序列をつけることが可能になる。

その順位は「美しさ」とか、「正しさ」とか、そんな分かりやすい何かを反映するものには ならないけれど、「世界を最も上手に説明する公理」が何なのか、それをきっと、 力技で見つけ出すことができる。

あとは遺伝子アルゴリズム。世代を重ねていけばきっと、神様の言葉、 「オリジナル・ランゲージ」に近づいていけるはず。

科学は案外、「絆」に大敗したりして…。

続きを読む "公理の壁を越える技術"

2007年6月12日

社会の豊かさと不実の谷

宣教師にぶどう酒を贈る話

村に長年尽くしてきた宣教師が、あるとき村を去ることになった。
村人は、ぶどう酒を一人1杯ずつ持ち寄って樽に入れ、宣教師に贈ることにした。
海に出た宣教師が喉を潤そうと樽の栓を抜いてみると、中身はすべて水だった。
日想より改変引用

誠実な村人と、不実な村人。正規分布に従うのなら、樽の中身は、 せめて薄まったぶどう酒ぐらいになったはず。

本当に貧乏な村は「水」。

たとえ水しか贈れなかったとしても、それは幸い。 「あなたがたの水はぶどう酒より尊い」ぐらいのこと、 聖職者ならば表明する義務あると思うし。

村が豊かになってきて、樽の中身は一気にワインへ。

ワインの濃度は最初から結構高くて、村が豊かになるにつれて、 その濃度はどんどん「正規品」に近づいていくけれど、ある時点で再び劇的に薄くなって、 ついには「ただの水」になってしまう。

村の豊かさがもっと上がってくると、樽の中身は再び急速に濃くなって、 宣教師はようやく、本物のワインを楽しめるようになる。

貧困と富裕。その中間のどこかに「不実の谷」がある。

一人ぐらい水を混ぜてもバレないだろう

中途半端な豊かさは、村人のこんな不実を自己組織化して、 宣教師との信頼関係を台無しにしてしまう。

村の人口と不実の谷

人口があまりにも少ない村では、たぶん「不実の谷」が発生しない。

コミュニティの人口が多くなるほど、「谷」は発生しやすくて。 大きなコミュニティを相手にする宣教師は、例えば村人が10人しかいない コミュニティを相手にするよりも、「水の入った樽」をつかまされるリスクが高くなる。

谷の発生を回避しているのは、コミュニティが持つ同調圧力。

道徳にはスケール限界がある。大きな社会で不実の谷を埋めて、 従来の道徳ルールのままで誠実な理想郷を維持するためには、 有り余る富を突っ込まないと難しい。

大きな村でおいしいワインを贈ろうと思ったならば、ルールを変えるのが一番速い。

樽の代わりに透明な瓶を使うとか。村人一人一人に小さな樽を配って、 誰がどの樽を満たしたのかが分かるようにするとか。 道徳ほど美しくはないけれど、工夫はいろいろ。

小さなコミュニティでうまくいっているものをスケールアップするためには、 技術革新が欠かせない。

月ロケットの飛ばしかた

小さなロケットが成功した後、アメリカとソビエトは、その技術で月を目指した。

  • アメリカ人は、もっと大きなロケットを設計し直した
  • ロシア人は、小さなロケットを束ねることで、大きなロケットを作ろうとした

性能的にはたぶん、アメリカのサターンロケットの方が上。ところがサターンロケットは、 従来の小型ロケットとは全く別物で、最初のうちはトラブルばっかり。

ロシアはロシアで、確実に飛ぶロケットを束ねていって、最初から順調な滑り出し。 ところが束ねる本数を増やしていくと、それに伴って重量の問題とか、 振動の問題とか、「飛ばない要素」がどんどん増えていって、月まで人間を送り込めるような、 本当の巨大ロケットまでは結局たどりつけなくて。

従来の理論がそのまま通用するのか、大失敗して、 経験工学的なノウハウでの補正を余儀なくされるのか。

明暗を分けるのは、スケールアップが理論どおりに行くのかどうか。ロケットの場合、 大気圏を越えるぐらいまではスケールアップは理論どおりで、そこから月に向かうまでの どこかで、理論の飛躍が不可欠になる壁ができてくる。

解決策は2通り。「束ねる」やりかたをあきらめるのか、あるいは「月」をあきらめるのか。

「平等ルール」のスケール限界

当直あけ。朝の4時。

「昨日眠れなかったらしくて、頭痛がするからCT撮ってください」

のどなか地域には珍しく、こんなハイカラな訴えの患者さんがやってきた。

元気に歩いてきた人だし、もう4時間だけ待ってくださいなんて、頭を下げて。 患者さん怒りまくり。でもここ田舎だから、朝の4時にCT撮れる病院、 今いるところから1 時間以上離れてて。

俺は眠いんだ。救急車呼べばCT 撮れる技師だって
呼びだすのに、まじめに正規で来てみてこの対応か?

正しく使っていただいてるのにすいませんなんて謝って。それでも納得いかなくて。

平等という概念は、相当筋の悪いアイデアなんじゃないのか?」なんて、この仕事続けてきて、 いつも結局同じ結論。

まだ自分が中学生だった頃。

「たらいまわし」なんて言葉が問題になってきて、日本医大の救急教室がテレビで特集組まれて、 ものすごくカッコいい人達に見えて。

そのうち同じ仕事について、研修医の頃は、もう救急患者奪いあい。

地域の公立病院とか、どの施設も救急外来開いて、「いい患者」は公立病院、 筋の悪い患者はうちの病院みたいに振り分けられて憤ったのも今は昔。

あの頃日本中で救急やってた先生がたはいつのまにか姿を消して、 有名病院にもっていかれた「いい患者」も、いつのまにかえり好みなんてできなくて。

バブルも乗り越えて、社会は間違いなく豊かになってきたはずなのに、 医療の現場は不実の谷の底の底。

「不実の谷」の先には豊かなワインが待っていて、もう少しだけ資本突っ込んでくれれば、 きっとそこには桃源郷が待ってるんだけれど、たぶん無理。

みんな疲れて、医療にかけられるお金がこれからもっと減らされて。

ものすごく後ろ向きなんだけれど、これもまた、「谷」を抜けるやりかた。

医療資本が圧倒的に足りなくなって、 たぶん信頼関係は少しばかり回復して。

豊かさが減って、社会が谷の手前まで後退したとき、 宣教師はせめて、薄いワインを飲めるようになるんだろうか…。

続きを読む "社会の豊かさと不実の谷"

2007年6月11日

自分の判断を疑う方法

「解体屋」のやりかた

座っている人に「椅子」という言葉を伝えたとき、 意識は「椅子のイメージ」を拒否できない。

無意識は常に何かを感覚しつづけ、意識はそれを言葉へと変換することで、 臨場感を作り出す。

誰もが行っている「世界の記述」。その行為に先回りして、 相手の興味空間を任意の言葉で記述できるなら、 それは強力な暗示として機能する。

硬い椅子。冷たい机。部屋の寒さ。乾いた空気。

「硬い、冷たい、寒い、乾いた」は「否定」の言語セット。 「肯定」や「信頼」、「疑念」といった様々な言語セットを使い分けることで、 オペレーターは相手の意識を任意の方向へプライミングする。

人間の感覚は、数学的、統計的に記述可能な構造を持つ。

相手が次に感覚しようとする対象は、頸椎や眼窩の解剖、 記憶の想起方法などに制約を受け、それゆえに確率論的な予測が可能。

相手が感覚しようとする興味空間を予測し、それをオペレーターが用意した言語セットで 上書きすることが技術の基本となる。

お互いの幾何学的な位置関係を固定できるのならば、その動きは過去の統計に縛られる。 相手の「疑念の射線」は、データから位置と確率を予測し、回避することができる。

疑念を回避し、同時に最も効果的な攻撃位置に立ち続けることで、 相手の認識辞書を書き変えることが可能となる。

予測は行動を規定する

人間が行う思考や判断というものは、「未来予測」の延長で説明される。

予測とは、入力された情報と、保持している記憶との照合作業。

記憶はただのデータ。認識辞書の書き変えは、 このデータ部分に介入するものだから、操作を受けた人間は、 自身の力だけではそのことに気が付けない。

その判断は、本当に自分が下したものなのか?
それとも自分は誰かに操作されていて、判断したと思っているだけなのか?

判断の真実性は、判断の結果に求めるしかない。

  • その判断を下すことで、特定の誰かが得をする立場になかったか
  • 自分が判断材料にしたデータの中で、無視したり、必要以上に重視したものはなかったか
  • 過去の判断パターンに照らし合わせて、うまくいかなかったり、 あるいは不自然にうまくいった部分はなかったか

相手の記述した物語にはまり込んだら負け。

危機を予感して、現状認識の外に出る術を考えないといけない。

暗示が現実を支配する

暗示の外に出ろ。俺達には未来がある。

いとうせいこうの小説「解体屋外伝」は、一睨みしただけで相手を洗脳する、 そんな技術が当たり前になった近未来の物語。

SF 小説には、人間の不変性を信じる立場と、人間の変化を信じる立場とがあって、 「解体屋外伝」は圧倒的に後者の立場。

SF の多くは、不自由で変化できない人間を主人公にして、 目の前の問題を技術の変化によって解決しようとする。技術の物語。

人間の変化を信じる物語は、技術を記号化して、 技術が人をどう変えるのかを論じようとする。

記号化した技術の中には、ファンタジー小説の「魔法」を代入したっていいし、 「異星の客」みたいに火星で普通に暮らす人々を代入したり、 あるいは洗脳の技術を代入したり。

物語の中では、「洗脳の技術」は記号化していて、詳しい記述は一切出てこない。

そういうものが「ある」という前提で物語が始まって、それを使いこなす主人公「解体屋」や、 それをとりまく人達が何を考え、どう行動し、最終的にどんな結論に至るのかが描かれる。

もうずいぶん前に出版された小説(手元の奴は89年)だけれど、 洗脳とか暗示なんて言葉が一般的になって、 「自分を疑うこと」はますます大切になってきた。

人と人とがつながるとき、そこには必ず、何らかの暗示が生まれる。

ネット社会。たとえば自分で文章を書いていて、ブックマークを下さる特定の誰かとか、 ニュースサイトを運営する特定の誰かを「操作」することは技術的に可能だし、その逆も然り。

「取り上げてもらおう」なんて意図して文章を書いている自分というのは、 果たして自分の意志で文章を作っているのか、それとも相手の興味に従って、 操作されて文章を書いているのか。

ネットワークは巨大な世界暗示。卑近な例では、外来診療なんかも同じ。 医師と患者、お互い毎日が暗示だらけで、先入観から逃れるの、本当に大変。

暗示の外に出るために

小説中では全く触れられなかった「解体屋」の技術というのは、 この20年ぐらいで大分洗練されてきて、実用化した技術もいくつか。

メディアの役割も、「伝えること」から「操作すること」へと変化してきて、 速さや正確さよりも、情報を伝えた「結果」のほうが重視されるようになってきて。

操作手段がいよいよ現実味を増す昨今、昔から探しているのが、 「暗示の外に出る」方法。

疑うことはもちろん大切なんだけれど、商売柄そうもいっていられないし、 とりあえず相手とのつながりを作り上げて、その上で自分の判断というものを続ける技術、 もしもあるならすごく大切。

「洗いかた」についてはいろいろ妄想できて、あるいはもう実現していて。 防衛のしかた、抜け出しかたについてはさっぱり。

心理学畑の本とか、もっといかがわしい本はたいてい持っているんだけれど、 「脱洗脳」をやろうにも、まずは「自分が洗脳された」という自覚が無いと、 話が始まらないものばかり。

「無い技術」を見つけるためには作家の想像力が必要で、それを探すには、やっぱり SF 小説とか、今ならきっと、ライトノベルとか。

「解体屋外伝」は未来を伝えた小説だったけれど、防衛手段については、 あんまり多くを教えてくれなくて。いとうせいこうの小説はどれも面白かったのに、 最近は仏像の本とか園芸の本とか、未来とは縁の無いものばかり。

そんなわけで最近はライトノベルを探してる。

新しい分野にはきっと新しい考えかたが集まるはずだし、 技術の説明をうるさくいう人少ないだろうからこそ、「人間の変化」に リソースを割く余裕も出てくるだろうし。

他人様に頼ってばかりなんだけれど、誰かいい本を推薦していただけると幸いです…。

続きを読む "自分の判断を疑う方法"

2007年6月 6日

診断画像の読みかたについて

今の就職先での身分は「一般内科」だから、心臓だけというわけにもいかなくて。

悪性腫瘍の患者さんは外科の先生が診てくださるけれど、あとは脳梗塞とか肺炎とか、 腹痛精査とか、不明熱やら体重減少の精査やら。

CT スキャンとか自分で読まなくなって久しくて、今勉強やり直し中。

時間もないので日本語の教科書を10冊ぐらい適当に買いこんで。 片端から読んでいるのに、やっぱり実力なんてつかない。

脳の「帯域」が広い人

残念ながら、教科書を書いているのは専門の先生がた。

画像診断の専門家と、今さら画像を勉強し始めた10年目とでは、たぶん見えているものが全く違う。

教科書はどれも、病名ごとに画像が提示されていて、 添えられた写真には、「最初からそこに病変があったかのように」、矢印が添えられて。

虫垂炎の画像診断。

典型的な画像診断の教科書では、骨盤のCT 断面画像が提示されていて、 「こんなふうに変化を生じていたら虫垂炎と診断する」というコメントが書かれていたり、 虫垂炎の治療方針なんかが書かれていたり。

ところが一般内科が知りたいのはそんなことじゃなくて、 「莫大なCT画像の中から、そもそもどうやって病気を発見したのか?」という方法論。

当院のCT フィルムには、1枚あたり、断面画像が20枚。腹部CTなんかでは、 フィルムは4枚組みで出力されるから、読まなくてはならない画像は80枚近く。 どの断面一つとっても、単純写真以上の情報量があるから、処理するのはとても大変。

将棋の羽生名人は、盤面を暗記するのに4秒ぐらいしかかからないのだそうだ。

  • 名人は、一目で盤面を全部暗記して、それから戦略を考える
  • アマチュアの人達は、「一目」あたりの情報量がもっと少なくて、 盤面全体を把握するのに数分かかるし、そもそも「全てを把握する」ことが難しい

プロ棋士の人達はブロードバンド。盤面を「画像」としてダウンロードして、 あとは頭の中で戦略を練る。試行錯誤の速度が圧倒的に速いから、 アマチュアはやっぱり、プロには勝てない。

今売られている画像診断の教科書は、みんな「帯域幅が広い人」が書いていて、 ナローバンドの人間にはちょっと荷が重い。

帯域が狭い人達のやりかた

普通の人は、盤面を文章として把握する。 「盤面に残っている歩が○枚、一番左に飛車があって、 その下にまだ桂馬が残っていて…」みたいなやりかた。

これは面の情報を線として読むやりかた。幾何学の問題を解くとき、補助線を引くのと同じ。

数学オリンピックに出る子供とか、数学者になるような人達が幾何の問題を解くときは、 問題用紙が「きれい」なのだそうだ。彼らは補助線を引かない。

「補助線を引く」というのは、広すぎて把握できない幾何の問題を、 理解できる大きさに切り分ける行為。

数学が得意な人達は、イメージできる画像の量が莫大で、補助線無しで答えが出せたり、 あるいは頭の中で補助線を引いてしまうから、問題用紙を汚す必要がないのだという。

研修医の頃習ったのが、「国立がんセンター方式」の胸部単純写真の読みかた。 がんセンターの先生が本当にこんなことをやってるのかは知らない。

  1. 胸膜と縦隔の輪郭を指でなぞる
  2. 肋骨を1本ずつ指で押さえて、末梢まで追っていく
  3. 横隔膜のラインを追って、胸水の有無を検討する
  4. 肺門部から肺動脈を追って、縦隔リンパ節を見る
  5. ここまでやってから、はじめて肺野を検討する

まじめにやるとものすごく時間がかかる。これなんかもたぶん、 「ブロードバンドな人達」はワンアクションで済ませてしまうんだろう。

ナローバンドな医師にとって、「画像の読みかた」というのは、 帯域を上手に制限するやりかた。放射線診断の専門家が書いた教科書には、 こんなやりかたは、あんまり出てこない。

少ない帯域から多くを取り出す

交響楽団の人達は、音楽を聞くのにラジカセで十分なのだそうだ。

「オーディオ」という新興宗教に狂ってた頃、オーケストラに入っていた先輩がたは、 みんなラジカセ。楽譜を片手に「悪い音」を聞いて、頭の中でそれを補間する。

楽器の音が日常になっている人達にとっては、楽器の揃いかたとか音の強弱、 指揮の振りかたさえ分かれば、あとは楽譜を見れば、音を作れるらしい。

プロの演奏家でも、絶対音感を持っている人は、案外少ない。

絶対音感を持っている人は、そうでない人に比べて「帯域が広い」のだろうけれど、 プロは帯域の狭さを経験で補間する。

無圧縮の動画をネット配信するのは重いけれど、flash アニメなんかは、 驚くほど少ない容量で、多くの情報を送信できる。発信側と受信側、 知識として共有できる情報量が十分に多いなら、 あるいは帯域の狭さを克服できるのかもしれない。

自分達の業界でいくならば、患者さんの症状とか、解剖学の知識とか。

外科の先生なんかは、腹腔内を「膜の集合」として本能で理解していて、 炎症が波及する向きとか、ヘルニアの入り方とか、画像を読むというよりは、 手術の知識で確率論的に予測しているときがある。

誤り訂正符号で帯域を生かす

ナイキスト・レートのいっぱいまで頑張ったところで、 しょせんは雑音だらけのナローバンド脳。

速く読んだらミスも増えるし、「全部」が一度に見えるわけじゃないから、 読影の真実性を保証できないし。

クロード・シャノンはノイズ脳の味方。誤り訂正の概念を作った数学者。

ノイズが乗っかった通信で正しい情報を送るには、 情報と一緒に「誤り訂正符号」を送ることで、情報の真実性を担保できる。 画像の読影も同じ。

やっぱり研修医の頃に習ったのが、「聖路加国際病院方式」の胸部側面画像の読みかた。 自分のいた病院は、こんなのばっかり。

  1. まず何となく読む
  2. 心臓の上方に「黒い扇型」を確認する。ここには何もない
  3. 脊髄を上からたどって、それが白=>黒のグラデーションになっていることを確認する。上の脊椎は、 下の脊椎に比べると絶対に「白い」
  4. 心臓の背中側に、「黒い三角形」を確認する。ここにも何もない
  5. 全てが正しければ、この胸部側面写真は「正常」と読んでよい
  6. どこかに異常があれば、その領域に病変がある

聖路加方式は、「読む」という概念もなければ、解剖の知識も必要ない。 その代わり、比較的シンプルなやりかたで「正しい」を定義していて、 読みかたについては規則を作らない。

とてもいいやりかただと思うんだけれど、習ったのは胸部側面写真だけ。 聖路加本拠地には、きっと頭部単純写真編とか、腹部正面写真編とか、いろいろあるんだろう。

ナローな脳でCT を読む

単純写真ならまだ何とかなった読影も、CT とかMRI とか、「ブロードバンド」の時代になって、 自分の脳なんてもう限界。

今までの棲家だった循環器内科は、心電図とか血管造影とか。 シングルタスクのナローバンド世界。

久しぶりに一般内科に戻ってみれば、時代はもうブロードバンド。今さら頭の帯域広げようったって無理。

CT の本でも、例えばありがたいのはこんなやりかた。

  • 上行結腸を骨盤側にたどれば必ず虫垂が見つかる
  • 鼠径靭帯のスライスを見れば、動脈と静脈が絶対並んで走行しているから、血管はそこからたどる
  • 腹部CT で、腸管膜脂肪が白黒入り混じっている像があったら、その近くに炎症がある

1 万円近くする本買って、「当たり」を1 行引ける本が、2冊に1冊。もう涙目。

誰か「馬鹿でも分かるCTスキャン」書いてくれませんか…?

続きを読む "診断画像の読みかたについて"

2007年6月 3日

「人類は衰退しました」感想

  • ライフゲームを小説化したものなんだと思う
  • 旧人類はセルの初期パターンに介入できるが、ルールを知らないから結果が予測できない
  • 「妖精さん」は万能だが、その振る舞いは初期パターンに縛られる
  • 「妖精さん」の集合は万能チューリングマシンであり、 人類が「正しいコード」を入力してくれるのを待っている

以降読んだ人限定、ネタバレ全開で…。

「妖精さん」とは何なのか

物語前半、主人公に捕まえられた3 人の妖精さんは、何もしていないのに4人に増える。

これはたぶん、ライフゲームの誕生ルール、「周囲に生きているセルが3つある空間には、 次の世代に新しいセルが誕生する」から引っ張っている。

物語中、妖精の数は急激に増えたり、あるいはいなくなってしまったり。

妖精さんは、どこかに隠れているんじゃなくて、周囲セルの環境に応じて 誕生維持死亡の 3つのパターンをとっているんだと思う。

ライフゲームのセルと決定的に違うのが、主人公が妖精さんに与えた「名前」。

物語中、名前をもらったのは4人の妖精さんだけ。主人公をはじめ、 人類側の登場人物全て、名前をもった登場人物は他に出てこない。

名前をもらった妖精さんは、もはやセル・オートマトンとしての自由な振舞いから 逸脱してしまい、識別可能な記号を持った存在として、ライフゲームの盤から 弾かれてしまうはず。

このあたり、名前をつけられた4人の妖精さん達が続編でどう絡んでくるのか、ちょっと気になる。

4人という数字で遺伝子暗号を作る4つの塩基を想像したり、消え去ることができない4つの点を持つ ライフゲームというあたりから、自己組織化を誘導するカウフマンネットワークを想像したり する必要があるのかも。

祖父の「胡乱な言葉」

  • 何事も経験値だ
  • あとは、場の楽しい度だな

引退した科学者、寡黙な賢人としての役割を果たす「祖父」は、 たぶん世界のルールを相当詳しく知っているけれど、 主人公の振る舞いにほとんど介入しない。

「胡乱な言葉」として語られる祖父の助言というのは、決定論的カオスを支配する2 つの性質、 予測不可能性初期値敏感性を、それぞれ祖父の言葉で言い換えたもの。

科学者というのは神と出会って絶望する人達。

ある科学者の所に神様が現れた
「神を信じていないそうだが、現実に私はここにいる。望みをかなえてやるが何を望む?」
科学者は即答した
「決まってる。この記憶を消してくれ」

神様が全てを決定する世界には真理が存在しない。 物事を間違えて「分かった」と認識したところで、 神様が「それでいい」と思うなら、物理法則はたぶん、その間違った理解に従ってしまう。

人類は、それが本当に理解できたのか、あるいは理解できていないのに 「分かった」と思ってしまったのか、それを確かめることができない。

「妖精さん達」を見てしまった科学者は、自分達の世界が決定論的なものであった 可能性を目の当たりにしてしまう。選択は2つ。あきらめるのか、それともカオスに賭けるのか。

自分の孫に対して不介入を貫く祖父の態度というのは、 長年「神様」の存在を目の当たりにした科学者の諦めなのか、 あるいは「ランダムな変異」がもたらすブレイクスルーを信じ続ける信念なのか。

「神の部品」として世界に溶け込むことを志向した人物と、心中に「神殺し」へ の思いを持ち続ける人物。祖父の中には2 人が同居している。

久しぶりに再会した祖父は、昔と違って優しくなっていた。 物語の文脈では、厳しかった男が優しくなるときは、 その人は何かを「覚悟」したということ。

「狩りが趣味」だという祖父の銃は、一体何を狙っているのか。

そんなことを考えながら読み直すと面白いかも。

人類は何故衰退したのか

ライフゲームのルールでは、世代を経ることで最終的に死滅するパターンが多い。

物語中では「ビフテキ<=>酒」と表現されている「振動」パターンとか、 無限に続くパターンはたいてい単調で、多様性を生み出せない。

ライフゲームのパターンはチューリング完全であり、 ライフゲームはチューリングマシンと同等の計算能力を持つことが示されている。

かつてライフゲーム世界に「人類」というパターンが入力されて、 人類世界が作られた。残念ながらこのパターンにも寿命があって、 人類を駆動していたライフゲームは、物語中では終わってしまっている。

停止問題を解くチューリング機械は存在しえない。 チューリングマシンは万能であるにもかかわらず、 「自らが停止したこと」を認識することができない。

人類というプログラムはもう終わっているにもかかわらず、 それを生み出した本体が「終わったこと」を認識できていないから、 何とか死なずに生き延びている。

これが単なる偶然なのか、物語上の必然なのかは、続刊で明らかになるんだろう。

せかいはもしかするとじぶんひとりのまぼろしかもです

世界が決定論的である場合、そのことが神の存在の反証になりうるのだろうか?

たとえばテニスの試合前、選手の身体測定を極めて厳密に行って、 当日のコートの具合や天気、風向きとか気温とか、あらゆるデータを採取できれば、 あるいは試合の結果を決定論的に予測できて、「勝利の女神」の欺瞞が暴かれるのかもしれない。

今の技術では、計算的複雑さが莫大すぎて、とても無理な話。

モンテカルロ法とか、遺伝アルゴリズムみたいなランダムさを取り入れて、 不完全なデータから結果を確率論的に予測する手法というのは、 時間の節約にはなるけれど、今度は計算結果の真実性を証明できない。

結果として、現時点ではまだ、計算機の力が足りなくて、神の存在は否定できない。

  • 何でも作れる万能チューリングマシンの部品でしかない妖精さん
  • その機械を操作する力を持ちながら、操作のやりかたを全く知らない人類

物語世界では、この「妖精=人類」のコンポーネントが、神様として君臨していて、 ランダムさを内包した万能存在としての神が描かれている。

「サイコロを振る万能存在」としての神様と、究極的には「はじまりの点」にしか過ぎなくて、 スタートしてしまえば不必要な存在としての神様と。両者は階層関係にあって、 サイコロを振る「下層」の神は、その目を決定する上位存在を認識できない。

「妖精さん」たちに自分達の存在を「まぼろしかも」なんて考させてるのは、 「自分達の存在証明に頭を悩ませる神様」を描くという、作者の遊びなんだろう。

まとめ

この物語は、汎用可能なセル・オートマトンである「Mathematica」を小説世界に移植しようとする 試みなんだと思う。

同じ物語の枠組みを利用して、「妖精さん」の初期配列を変えてやることで、 物語は無限の多様性を生む。主人公が試行錯誤を重ねていく中で、 読者はきっと、この物語を駆動する「ライフゲーム」のルールを知って、 何巻かの物語を重ねたあとで、きっと「正解」にたどり着くんだろう。

作者が想定する「正解」が、ライフゲームの停止コードなのか、 新人類を誕生させることなのか、それとも誰かが 「終わった人類」を再起動させる何かを見つけ出すことなのか。

物語の先が是非とも知りたいと思った。

追記:言葉の解説を、Wikipedia へリンクしました。

この文章の前半部分は「複雑系」関係の入門書がたいてい扱っている話題です。

文章後半、神様の存在証明云々のくだりは、クヌースの講義録「コンピューター科学者が めったに語らないこと」を読んでいただくか、「ゲーデルの哲学―不完全性定理と神の存在論 」の 後半部分、ゲーデルの晩年、神の存在論的証明あたりのくだりを読んでいただくと、 この本をより面白く読めるのではないかと思います。

続きを読む "「人類は衰退しました」感想"

2007年6月 1日

不恰好な力技が作る未来

ギャングネイルがトラスを広めた

鉄橋や塔を作る三角形、「トラス構造」を木材で再現するのは難しい。

少ない材料で高強度が出せるやりかた。合理的で、見た目もきれいだけれど、 構造材は全て斜め組み。木材でこれをやるときは、材料の両端を複雑に削れないといけない。

トラスを作れる人は少数で、技術者は高価。建築物に「トラス構造」を持ち込むときは、 それを建物の「売り」にしたいときとか、よっぽど象徴的な建築物に使うとか。

市場にはたぶん、「芸術的なトラスを作れる職人」が求められて、 大工さん達はそれに応えて。

木造トラス構造を採用したホールとか、有名な建物はいくつかあるけれど、 「軽くて丈夫」というトラス構造本来の機能からは少し遠くて、ほとんど芸術品。

状況を変えたのは、「ギャングネイル」という製品。

gang.jpg

実物は「剣山」みたい。これでトラスを作るときは、無加工の柱材を「トラス」の形に組んで、 木が斜めに接合される場所にギャングネイルを置いて、油圧プレスの力を使って、 力技で打ち込む。

今まで木造トラスを作ってきた人から見れば、たぶん相当に「頭の悪い」やりかた。

仕上がりも汚くて、子供がセロテープでベタベタ貼ったプラモデルみたい。 それでも十分に強度があって、トラス構造本来の「軽くて丈夫」は達成できるのだという。

ギャングネイルができて、木造トラスは劇的に安価になった。

見た目は悪いから、このトラスは建物の象徴にはならないけれど、 トラスを使うことで柱が不必要になって、屋根の下には広大な空間。

トラスの長所は芸術性から機能性へと変化して、巨大な部屋を持った住宅とか、 牛や豚の厩舎に使うと広くて便利とか、いろんな使いかたがされるようになった。

英語力無しに英文論文を書く方法

「今度からは、退院サマリーを英語で書くようにしましょう」

ずいぶん前、教授がこんな方針を発表したとき、研修医はちょっとしたパニックになった。

みんな英語は読めるけれど、書くのは相当苦手。 医学部には帰国子女枠があるから、学年に何人かは英語が異様に得意な連中がいて、 みんな彼らを拝み倒して添削してもらったりするんだけれど、それでも追いつかない。

優秀な連中は、「自力で書く」という選択肢を捨てた。

  1. 自分の受け持った患者さんの病名をネットで引いて、英語の症例報告を探す
  2. 経過は大体同じなので、患者さんの名前や性別、使った薬を変えれば大丈夫

何もないところから文章を書くより、誰かが書いた文章を「改良」するほうが、よっぽど簡単。

まじめで要領の悪い連中が四苦八苦する横で、ずるい人達が期日どおりにサマリーを提出して。

教授が「うまく書けている」と賞賛したのは、もちろんずるい連中のほうだった。

翻訳ソフトと翻訳メモリ

「翻訳」というのはプロの仕事。

プロの仕事を何とか機械で再現しようとして、 いろんなソフトが発売されているけれど、どれも今一つ。

「特に医師向けにチューニングしました」なんてバージョンは20万円近くして、 使ってみると、やっぱり今一つ。

翻訳のプロは、「翻訳メモリ」というソフトを使う。

翻訳メモリには「翻訳する」という機能は入っていなくて、原文と翻訳文をペアにして 記憶する機能だけ。翻訳していて、以前訳した文章と同じ文章が出てきたら、 翻訳する前に訳文を提示する。

Wordfast という代表的な翻訳メモリがあって、それを作っているのが「ロゼッタストーン」を 解読したシャンポリオンの孫だったりするのが感慨深い。

普通の人には全く意味のないソフトだけれど、たとえば同じ本の「第一版」と「第二版」を 同じ翻訳家が訳すときなんかは、仕事量を劇的に少なくできる。

ところがこのソフトが普通に使われるようになって、プロの翻訳家が「食えなくなった」そうだ。

「第一版」と「第二版」の2 回の仕事があったとして、昔だったら2冊分の技術料がもらえたところが、 翻訳メモリ時代は、2冊目は「差分」に対してしかお金が出なくなった。

翻訳という技術は1 回きりの物だったけれど、 翻訳メモリの登場で、それが再利用可能なものになった。もちろん、過去の仕事と「継はぎ」した 文章なんて美しくはないけれど、技術翻訳ならばそれで十分。

大きな企業は、いろんな本の翻訳を発注して、 翻訳家の仕事はますます減って。今 google が全世界規模でこれをやろうとしていて、 翻訳家の仕事は、これから結構厳しくなるのかもしれない。

青空文庫が滅ぶかも

本の電子化という仕事は「正確であること」が大切で、OCR した文章データを 修正するのに莫大なお金がかかるんだそうだ。

少し前まで、1 冊の本を電子化するには数百ドル単位のお金がかかったのだけれど、 Amazon がそれを1 ドルでやってしまい、業界が大打撃を受けたらしい。

それまでの電子化業界では、「OCRの誤変換はちゃんと修正しないと 売り物にならない」という常識がありました。 ところが、Amazon社は、「OCRかけっぱ」で十分OKな利用方法を思いついたのです。 Innodata社提供の資料によると、Amazon社はこの「OCRかけっぱ」を利用して、 本の売上を9%伸ばしたんだそうです。
bookscanner記 - 証人喚問後半より引用

技術革新があったわけじゃなくて、考えかたの問題。 Amazon もGoogle も、今ある「電子化文書」は画像として取り込んでいて、 それに不完全なOCRデータが透明テキストで貼り付けてあるだけなんだけれど、 何かの単語から本を検索して読む分には、もうこれで十分。

テキストデータと違って、画像データだから重いけれど、 インターネットで当たり前のように動画をやりとりする時代になって、 もはや「画像が重い」なんて文句をつける人はどこにもいない。

今はまだほとんどが英語の本だけれど、版権が切れたものは、ネット上にどんどん出てきていて、 そのうち「青空文庫」のプロジェクト自体も飲み込まれてしまうのかもしれない。

芸術から機能を取り出す

  • 芸術的な技量を要するけれど高機能な技術
  • 芸術的じゃなくて機能に需要がある

この2つの要素が揃っている場所には、「芸術から機能要素だけ取り出して、 それを無様な技術を使って力づくで再現する」パラダイムシフトがおきる可能性がある。

思いついてしまえば誰もが笑うような「無様な技術」、 芸術家肌の技術者が眉をひそめるような「力づく」のやりかたというのは、 技術の再現から芸術要素を排除して、大量生産によるコストダウンを実現するやりかた。

それはたいてい美しくないし、芸術品に比べれば明らかな欠点さえあるんだろうけれど、 コントロールが可能な欠点というのは、実は欠点でも何でもなくて、 使いどころの判断さえ間違えなければ、「完璧でない」ということは問題にならない。

臨床現場で「芸術品」といえばやっぱり「問診、聴診、理学所見」で、 それをオーダーすると馬鹿扱いされたりする「無様な技術」の代表が、 血液検査やCT スキャン。

例えば学生時代からCT の読みかたを徹底的に訓練して、 卒業した時点では「CT 診断はできるけれど聴診ひとつできない」研修医として外世界に送り出す。

彼らはCT が撮れるところでしか活動できないし、 もしかしたら患者さんとまともに会話すらできないかもしれないけれど、 「CTに写る病気」であれば正しく診断できて、治療方針も暗記している。

伝統的な医師から見れば、こんな人達は無様で、正しくなんかないけれど、 きっと即戦力として役に立つはず。ベテランがCT 撮ったけど読めなくて、 夜中にこっそり研修医呼んで、代わりに診断つけてもらったりして。

「力技」が当たり前になると、「CT無い所にいったら、君どうするの?」なんて質問は無意味になる。

CT スキャンが医師を作るコンポーネントとして当たり前になるならば、 「CTのない場所に医師を置かない、患者をそんな状況に置かない」ことは、 病院管理者の大切な仕事。「CT読むことしかできない医師」には 欠点があるけれど、コントロール可能な欠点は、それがコントロールされているかぎり、 何ら欠点にはならないのだから。

「それがあるのが当たり前になった世代」がどんな行動をとるのか、 旧世代の人にはもう予測できない。

トラスを使った木造住宅は当たり前。英作文や読書感想文は、検索して改変するのが当たり前。 ネットを探せば、名作文学全集が当たり前のように全文検索可能になっていて、 病院に行けば挨拶代わりに全身をスキャンされるのが当たり前になった近未来。

その技術が普及する前の「芸術時代」を知らなくて、苦労してコストダウンかけて、 やっと普及した技術の機能性や利便性、そんな物語すらも「当たり前」のものとして意識しない、 そんな人たちが世の中を、病院を、医療を変えていく。

聴診器ひとつで病名を当てていく。そんなベテランの技術を見る若手の視線が、 「熟練した医師を見る若手」から、「日光江戸村の猿回しを見て驚嘆する外人」の視線 に変貌したとき、世界はもう後戻りできなくなって、きっと次の世代に移行する。

続きを読む "不恰好な力技が作る未来"