2007年5月30日

全ての医師は企業を目指す

1994年にマンデラ氏が大統領になって、アパルトヘイトが撤廃されて、 アパルトヘイトを維持してきた軍隊は、今度は「国家の敵」として叩かれるようになった。

軍人の多くは仕事を失って、国内に居場所がなくなって。

行き場がなくて、戦争を請け負う民間企業「戦争株式会社」に就職した兵士達は、 今度はかつて敵対した国のために働くことになり、 そこで大歓迎を受けたのだそうだ。

自国民から叩かれて。敵だった人達から何年かぶりに「ありがとう」と言われて。 南アフリカの軍人は、「強い感情を持った」のだという。

形は行動を規定する

軍服を着ている人は戦うことを求められるし、白衣を着ている同業者は、 やっぱり医療行為を求められる。

軍人の仕事は、戦うこと。戦うための国家機関なのに、国家はしばしば、 戦うことを「悪いこと」と定義する。

いろんな思惑を持った人達が暮らしている以上、争いは不可避。

平和なんてありえなくて、それは単純に、まだ戦争になっていない状態。 これは本当は「そのうち戦争になる状態」なんだけれど、 しばしば「平和」という言葉に置換されてしまう。

政治家の人達は「平和」を叫んで支持を訴え、同じ口で「正義」を叫んで相手を叩く。

不正義な平和と、正義の戦争。矛盾する言葉の間に挟まれた軍隊は、目的を見失っていく。

「負けていない」を維持する難しさ

「勝つ」ことよりも「負けない」状態を維持するほうが難しい。

軍隊を抑止力として機能させるには、相手に戦意を失ってもらわないといけないから、 「勝つ」ときの何倍もの戦力がいる。

抑止力で維持できるのは、安定な「平和」なんかじゃなくて、不安定な「戦争でない」状態。

戦争を知らない人達、あるいは知ろうとしない人達にとっては、「戦争でない」状態と、 「平和な」状態との区別はつかない。

軍人にとってはたぶん、「戦争でない」という状態はまだまだ不安定で、 安定した状態に達するまでの過程にしかすぎない。ここで止めてしまうといつか戦争になる、 そんな状態は、それでも外から見ると落ち着いていて、そのうち「もう十分だろう」なんて世論がおきて。

抑止をかけている軍人は、仕事中はすごい緊張を強いられるくせに、 外から見ると何もしていないようにしか見えないから、世間の不満はたまっていく。

維持していれば「税金の無駄遣い」と叩かれ、少し動けば「人殺し」と叩かれ。 何をやっても叩かれる状況は、軍隊から目的意識を失わせていく。

「何もしないこと」以外の振舞いを許されなくなった軍隊は、 そのうち「有事」になることを自ら望むようになる。

病院にとって「有事」とは何か

病気が相手。「平和」はすなわち不老不死だし、微生物相手に「勝った」ら地球滅んじゃうから、 仕事の全ては現状維持。

病院にとっての「有事」とは、現状の維持ができなくなること。 軍隊にとっては「戦争に負ける」こと。それが発生するまでは「平和」であって、 誰もがそれを望まないくせに、そうならないよう維持している人を誰もが叩く、そんな状態。

戦力は足りなくて、戦線は今でも拡大していって。

現場は手一杯なんだけれど、それでも病院は建ってるし、中では医者が働いてる。 現場は危機感いっぱいなんだけれど、「みんな」にはなかなか伝わらない。

ギリシャのポリスがお互いに戦争をしていた頃は、 民主主義体制が戦争を泥沼化させたのだそうだ。

前線で敗戦しても、国民は、屈辱的な和平よりは、 戦争継続による事態の打開を希望した。 長い戦争で負けが見えてきた頃、国内では一発逆転を主張する民衆政治家たちが人気を集め、 権力を握った。負け戦がひどくなると、国内ではもっと勇ましい民衆政治家が人気を集め、 国がぼろぼろになって崩壊するまで、戦争をやめることができなかったのだという。

現場の危機が伝わって。みんなが政府に「何とかしろ」と声をあげて。 「医療に理解のある」政府の人達が、いろいろ「画期的な」提案を出して、現場はますます疲弊して。

現場の誰もが「有事」を望む、そんな時が来るまで、もうわずか。

民間企業は契約する

アフリカとか、東欧の紛争地域みたいなところでは、 安全は、権利なんかじゃなくて、お金を払って購入するもの。

民間企業にとっては、契約書が正義。お金を払ってくれる人が正義。

「戦争株式会社」に就職した人達は、もちろん収入が上がることに満足するのだけれど、 それ以上に「目的が持てる」ということにやりがいを見出すのだそうだ。

「今度は勝ってもいいんですか?」

映画「ランボー2」で、ベトナムに潜入する主人公は、上官にこう尋ねる。 ベトナム戦争ではいろんな思惑が乱れて、「勝つこと」は許されなかった。アメリカ軍の人達は、 正義の味方としてベトナムに出撃して、帰ってきたら殺人者として国民から叩かれた。

「民衆の代表者」なんて連中がかかわらない、達成すべき目標が契約で決められて、 最後までそれがぶれない状況というのは、振り回されるのに疲れた人達にとっては、 もしかしたら報酬以上に魅力があるのかもしれない。

医師派遣会社みたいな制度が誕生したり、あるいは従来型の医局や、地域の巨大病院が、 そのまんま人材派遣会社として活動をはじめたり。出来ることと出来ないこととは、 住民の需要が決めるんじゃなくて、病院当局と派遣会社とが契約して決める。 そんな未来はすぐそこ。

医者は「いない」んじゃなくて、偏在しているらしい。

「未来」だってそうだ。まだ来ていないんじゃなくて、もうすでにここにある。 まだ偏在していて、それがまだ見えてこないだけ。

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2007年5月29日

Power Point 力業

「今度の地方会、君の患者さん出すから準備しといてね」

こんなことを上司に宣言される地方会直前。

グラフ作成ソフトに数字打ち込んでる余裕なんてない時は、 Power Point で図版を全部手打ちする。そんなやりかた。

「分かりやすい経過表」の考えかた

地方会のスライドは10枚。表紙に1 枚、現病歴と検査所見、画像の紹介に1 枚づつ。 まとめや考察、結語にそれぞれ1 枚使って、残るのは真ん中3 枚ぐらい。

ここまでは比較的簡単。カルテを丸写しすれば現病歴は作れるし、検査の数字を写したり、 画像を取り込んで切り貼ったりするのも、単なる作業。考察を考えるのは、さすがに上級生の仕事。

問題なのは真ん中3 枚。これを使って患者さんの診療経過を表現するんだけれど、 カルテから代表的なデータを拾ってきて、それを視覚化して上手にまとめるのは難しい。

本来ならば、情報の視覚化こそが、スライド作成の腕の見せどころ。 締め切りが近いときにはそんなこと言ってられないから、他人様の発想を借りてくる。

具体的にはこんなことをする。

  • PubMed を使う:「Limits」を選択して、「links to free full text」「Case Reports」にそれぞれ チェックを入れてから病名を検索すると、PDF がダウンロード可能な症例報告だけが残る。症例報告には、 たいていの場合経過表がついてくるから、それを見ながら考える
  • Google を使う:Google のイメージ検索で「clinical course」という言葉を検索すると、 いろんな病気の臨床経過表が引っ張れる。それを参考にして経過をまとめる
  • PowerPoint 検索:病名を検索するとき、「.ppt」という文字列を一緒に検索すると、 パワーポイントプレゼンテーションだけが検索できる。運がよければ、「そのものずばり」のスライドが ダウロードできる

たとえばPubMed からこんな表を引っ張ってきて、それをPowerPoint で作ることにする。

keika.jpg

Internal Medicine 35: 315-318, 1996 より引用。

これを作るのに必要なものは3つ。

  • 治療経過を書くための横棒グラフ
  • 日程や単位を記載するための目盛り軸
  • データを視覚化するための折れ線グラフ

これさえ描ければ、見た目は同じスライドが作れる。

横棒グラフ

治療薬や酸素投与量を書くときに使う横棒グラフは、ただの四角形。

PowerPoint のメニューから四角形を選んで、適当に大きさを調整すれば大丈夫。

「線の色」と「塗りつぶしの色」を同じに指定すれば、輪郭線を消すことができる。

目盛りのついた縦軸、横軸

最初に必要なのが、目盛りのついた軸。

PowerPoint の線描画機能だけでこれを作ると、 後から「もう少し伸ばしたい」なんて思ったときにドツボにはまる。

伸び縮み可能な目盛り軸は、以下のように作る。横目盛りの場合。

  1. まずは小さな縦棒をひいて、それを必要な数だけコピーする。これが目盛りになる
  2. 全ての縦棒を選択=> 図形の調整=> 配置/整列=> 上揃え で一列に並べる
  3. もう一度全ての縦棒を選択=> 図形の調整=> 配置/整列=> 左右に整列 で等間隔にする
  4. 等間隔に並んだ目盛りにくっつける形で横棒をひく。これが軸になる
  5. 最後に全てを選択=> 図形の調整=> グループ化 で一つの固まりにする

これで、長さ、幅とも自由に調整可能な目盛りが作れる。縦軸も同じ。

折れ線を作る

経過表に必要なのは、目盛りのついた軸と、あとは折れ線グラフ。

たとえば温度板をスライドにするときとか、検査結果を図表にする時なんかは、 全部折れ線グラフのお世話になる。

時間がないとき、エクセルは役に立たない。まめにデータを打ち込んでる人は いいんだろうけれど、発表直前になって資料引っ掻き回すようなときには、 数字を打ち込む余裕なんてない。結局手書き。

やりかたは、PowerPoint 上に適当に折れ線を作って、 後から目盛りに合わせて、あるいは感覚に従って、 折れ線の「関節」をいじって、思う形に近づけていく。

  1. オートシェイプ=> 線=> フリーフォーム を選択
  2. Shift キーを押しながらクリックしていくと折れ線がかけるので必要なだけ折れ線をひく
  3. 折れ線を右クリックすると「頂点の編集」という項目があるので、これを選択する
  4. 折れ線のすべての「関節」が移動可能になるので、あとは適当に形を作って、全体の帳尻をあわせる
  5. 折れ線の下側を塗りつぶすときには、形を作ってから折れ線を右クリック=>閉じた曲線でOK

最後に、前に作った目盛り軸と折れ線とを全て選択して、図形の調整=> グループ化 を行っておく。

こうすると、最後に全体のバランス見ながら微調整するのが簡単になる。

作例

引用した図を実際に作ると、こんなふうになる。

ppt.jpg

データは全ていいかげんなものだし、グラフも正確でないけれど、雰囲気は伝わると思う。

実際問題、google でいろんなプレゼンテーションをダウンロードして見て、 「上手な図表だな」と思ったものは、たいていが「力業」で手書きしていて、 エクセルなんて使っていない。洋の東西を問わず、医師は案外ズボラだったり。

「手書き」は下品なやりかたなんだけれど、結構役に立つ。

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2007年5月25日

犬三態

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寝てばっかリのわりによく動く。

冬毛が抜け替わる時期で、家中毛だらけ。

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2007年5月24日

ゲームのルールと面白さ

ゲームの難度は複雑さに逆比例する

サッカーとラグビー。同じ集団球技だけれど、性格はずいぶん違う。

選手の振舞いは、ラグビーのほうが圧倒的に複雑。ボールは蹴ることも持つこともできるし、 相手がボールを持ってさえいれば、タックルして潰すことだってできる。 サッカーでは、こうした行為は全て反則。

ラグビー選手の自由度は高い。その反面、ゲームの「番狂わせ」はラグビーのほうが少ない。

コンタクトスポーツなので、強い選手を数人がかりで潰しにいけるとか、 取りうる戦略が限られているスポーツなので、特定の選手が大活躍する状況が作られにくいとか、 理由はいろいろあるらしい。

戦略の多様性は、選手の自由度に逆比例する。

足しか使えないサッカー選手に比べて、ラグビー選手は圧倒的に自由な動きが可能だけれど、 状況ごとに最適な動作というのは、恐らく一つしかない。じゃんけんと同じ。選択は出来るけれど、工夫ができない。 相手も自分も「蹴る」以外の選択しかないサッカーは、たぶん動作の選択が出来ない代わり、 「蹴りかた」を工夫する余地を持っている。

ルールを取り巻くメタルール

一番分かりやすいルールは「殺しあい」。 相手が死んでしまうなら、1 回だけ勝ちさえすれば、どんな戦略だってあり。

相手が死なない、再戦の可能性があるゲームは、 ルールを取り巻くメタルールから逃れることはできない。

勝敗はいろんなパラメーターで査定されるようになる。「チームの伝統」みたいな 関係ないドラマで盛り上がる人が出てきたり、「○○らしさ」みたいな数値化不可能なものを 論じる人が出てきたり。勝敗には全然関係しないのに、選手は「外野の声」というメタルールに縛られる。

ルールは増えて、勝利戦略はあいまいになって。選手の振舞いは制限されていく。

勝つ戦略と負けない戦略

ゲームは「勝者つ戦略」で始まり、選手の習熟と共に「負けない戦略」が支配的になる。

最初に考えることは、勝つための戦略。長所を伸ばして、攻めることを考えて。

戦略が研究されて、お互いの手の内が分かってくると、 ひとつのミスが命取りになる。自らの力でポイントを奪いにいく戦略よりも、 ミスを減らして、相手のミスを拾う戦略が有利になってくる。

評論家は番狂わせを嫌う。彼らは、「チームが何故勝ったのか」を得意げに解説したり、 勝ったチームを材料にして様々なドラマを作り出すけれど、 ひいきのチームが負けたときには面子を失う。

負けたチームの評論家は選手を罵倒する。「気合が足りない」とか、「監督が無能」とか。

チームの振舞いは、「負けない戦略」に収束していき、戦略は多様性を失う。

下位レイヤの戦いかた

評論する側は、基本的には無敵。ルールに縛られる選手にできることなんてほとんどない。

逆転の機会があるのだとすれば、上位の人達がドラマを作れなくなったとき。

選手の振る舞いをメタルールで縛りながら、評論家は多様なドラマを作り上げる。 選手の振舞いは「負けない」戦略に限定されて、 ゲームは筋書きにそった人形劇みたいなものになっていく。

人形劇が十分に面白くて、みんなの興味が続いている間は、評論家の優位は続く。 決定論的なゲームが主流になって、おもしろいドラマが生まれなくなったとき、 均衡は破綻して、評論家はその役割を失う。

常連校が出場しなくなった甲子園は、面白いだろうか?

高校野球の上位レイヤとして君臨してきた高校野球連盟は、 「高校生らしさ」とか、「甲子園のドラマ」みたいな 多様なメタルールを追加して、選手の振舞いを縛りつけてきた。

選手たちが「正しい高校生」へと収束していく一方で、高校野球連盟の人たちが今まで以上に 面白いドラマを作り出せなくなったとき、階層構造は破綻して、野球連盟はその役割を失うだろう。

「正しい」高校生による伝統ある野球大会と、「正しくない」高校生による超人野球大会と、 ゲームとして面白いのはどちらだろうか?

有名高校の監督には、こんなメッセージを出してほしかったなと思う。

伝統ある「正しい」甲子園。同じ日程で、東京ドームで「超人草野球大会」が行われたりしたら、 正しいのがどちら側なのかはっきりするはず。

神殺しを実現するために

情報というエネルギーは、「量」と「速さ」と「面白さ」という、3 つのパラメーターを持っている。

ドラマというのは、情報のもつ「面白さ」を最大にするための道具。 ネット時代。情報の量も、伝わる早さもほとんど公平になって、 「面白さ」の生む力だけが莫大になった。

もっと「面白さ」を大切にするべきだと思う。

大事なのは真実だ。どちらの言い分が正しいのか、世界はきっと分かってくれる

こんなことを信念にしていたのは、セルビアのミロシェビッチ大統領。

残念ながら、「正しさ」に興味があったのは、ユーゴスラビアの一部の人達だけで、 世界のほとんどが注目したのは、「どちらを悪役にすると面白いのか」だった。

地域医療の崩壊と、武見敬三大臣の太鼓腹。

「面白さ」のパラメーターは、この両者を同じように「重要な」ものとして査定する。

正しさが切実なのは、医療の現場であったり、普段から病院を使う人達であったり。 残念ながら、こんな人達は健康な人から見ればごく少数で、大部分の人たちが 興味を持つのは、やっぱり正しさなんかじゃなくて面白さ。

医療崩壊の現場、法曹やマスコミ報道の不当性。

病院が悲惨な現状を訴えたところで、それが面白さに欠けたやりかたならば伝わらない。

選手を取り巻くゲームのルールは、選手から面白さを奪って、ドラマを書く人たちが 面白い話を書きやすくなる方向に進化する。

その流れは選手を不利にする一方なんだけれど、 必ずどこかで揺り戻しがきて、ドラマの書き手がそれ以上の「面白さ」を提案できなくなる 限界につきあたる。

「面白いドラマ」を求めて、マスコミや法曹の人達が病院に殺到して。医療の現場に いろんなメタルールが持ち込まれて、医療のやりかたが「負けない」戦略へと収束して。

医療という仕事がそれでも「面白さ」を発信できるなら、きっと未来はあるはずなんだけれど。

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2007年5月22日

壁抜け男の憂鬱

他者とつながりたいという欲求抜きには、社会的生物としての人間は語れない。

しかしその「つながりたい」という欲求を成り立たせるためには、まず最初に、 「自分は他者と切り離されている」という感覚がなければならない。

事物がつながりを持つためには、まずもって隔てられなければならない。 孤独を自覚できるからこそ、人はつながりたいと考える。

自意識の壁は、外界との絶対的遮断を意味しない。 むしろそれは、他者とのインターフェースとして、 自意識を投影するためのスクリーンとして機能する。

劇団四季のフレンチミュージカル「壁抜け男」は、そんな自意識の大切さを謳った物語。

ミュージカル「壁抜け男」

郵政省の苦情処理係デュティユルは、平凡な独身男で、切手集めとバラの手入れだけが趣味。 要領のいい同僚たちは、きまじめに仕事をする彼を馬鹿にしていた。

仕事を終えたデュティユルが、モンマルトルのアパルトマンに帰りつくと、いきなりの停電。 毎晩のことに彼はうんざりするが、ドアを開けてもいないのに、電気がつくと彼は部屋の中に入っている。 そして再び電気が消えた時、まるで壁がなくなったかのように、彼は外の廊下に立っていた。

突然“壁抜け男”になったデュティユルはとまどう。普通の人間に戻りたい、平凡な役人のままでいたいと嘆く。 そんな思いとは裏腹に、職場で新任の上司に罵倒され、腹を立てたデュティユルは、 上司の前で壁を抜けてみせることで、その上司を錯乱させてしまう。

自信を深めたデュティユルは、だんだんとその能力を大胆に使うようになり、 いつしか壁抜け義賊“ガルー・ガルー”として、町の人気者となっていく。

壁を自由に抜けられる能力を得た主人公は、英雄になった。

英雄はその代償として、「個」として認められる権利を失った。

個人を取り巻く自意識の壁

物語の中盤、主人公は同じ町の人妻に恋をする。壁抜けができるから、 相手の部屋に忍び込む事だって簡単。義賊“ガルー・ガルー”としての彼は、町の人気者。 恋は成就するけれど、壁抜け男の「仕事」は完璧すぎて、本当に彼がその義賊だったのか、 誰にも証明できない。

壁を抜ける力を手に入れた男は、自分を囲んでいた壁それ自体が、自分という 存在を作っていたものだと気がつく。

壁を自由に抜けられる能力を身につけた主人公が、恋人に自分の存在を認めてもらおうとして とった行動とは、逮捕されて刑務所に入ること。

壁抜け男は、刑務所という「壁の中」に回帰することで個を取り戻し、 やっと世間からその存在を認めてもらえた。

「箱」の中に自分はあるのか

自分を取り囲む「自己欺瞞の箱」から出れば目の前が開けてくるとか、 本当の自分をさらけ出せれば人間関係全部解決みたいな考えかたというのは、 基本的に全部嘘なんだと思う。

「属性」や「関係」が回す実世界で必要なのは、「あるがままの姿」なんかじゃなくて、 自意識の壁に投影された、自己イメージの影絵。

わずかな時間で「あるがままの本当の姿」なんて把握できないし、「関係」というのは、 そうした「あるがままの姿」同士のつきあいを断念することから始まるもの。

属性は「あるがままの姿」をゆがめるけれど、帯域を圧縮するための大切な道具。 属性抜きにして、「本当の私」を生かしてくれる場所が 実体としてどこかにあるなんて考えは間違いで、 むしろこんな「居場所のなさ」こそが、社会を回して新しい関係を増やす原動力になっている。

「こんなはずじゃなかった」なんて相談を時々受ける。

残念ながら「こうなるべき」場所なんて世の中のどこにもなくて、分かってくれる人はどこにもいなくて。

いろんな他者との関係を作っていく中で、他人から見た自分の投影像を意識しながら、 「あるべき自分の姿」を見せやすい属性を身につける以外ないんだと思う。

パリを騒がせた壁抜け男だって、最後はまた壁の中に帰っていったのだから。

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2007年5月21日

「負けない」医療の作りかた

問診と理学所見を中心にした、必要最小限の医療資源を駆使した医療というのは、 「勝つけれど負ける」戦略の延長。勝ちかたはとてもエレガントだけれど、 負ける確率が結構高い。

勝ち点で負けを挽回できる「勝者のゲーム」なら、「勝つ」戦略はとても有効なんだけれど、 ひとつのミスが命取りになる「敗者のゲーム」では、「負けない」戦略が重要になってくる。

医学というルールにも、マスコミの人達とか、法曹の人たちなんかがいろんなメタルールを追加して、 以前みたいな「勝つ」戦略は不利になった。

「負けない」医療、ミスを許容しないルールで生き残りをはかろうと思ったら、考えかたを変えないといけない。

  • ベテラン医師が軽症患者を診察する
  • 機械によるスクリーニング検査を徹底する

フロントラインは優秀な人

リスクに対する考えかたを改める必要がある。重症外傷の患者さんとか、 術中死の可能性が高い患者さんなんかは、最悪の事態になったところで、 それがとがめられるリスクは低い。

簡単な症例、単なる切り傷とか、風邪みたいな一番軽症の人達こそ、 「万が一」が生じたときのリスクが極めて高い。

診療という一連の行為の中で、リスクが一番高いのは、治療ではなく患者さんの振り分け。 診療の中で最もリスクの高い行為は、最も能力の高い人が行わなくてはならない。

たとえば産科医療の現場に必要なのは、産婆じゃなくて乳母。

助産師が前に立って、ベテラン医師を温存するんじゃなくて、 ベテラン医師がフロントラインを作って、 あとの人達は後方支援に徹しないと、どこかで「負け」てしまう。

「負けてない」状況を作るスクリーニング

勝利条件を決めるのは審判だけれど、「負けていない」状況は、選手でも作り出せる。

何が勝ちなのか見えない状況で「負けない」ためには、 スクリーニングの考えかたを徹底して、 「負けてない」条件を医師側が作ってしまうことが大切。

診断学の領域で、この10年間で生じた最も大きな進歩というのは、 検査データに「ハイ」とか「ロー」が表示されるようになったことだと思う。

大昔、検査データというのは、「読む」ものだった。 医師は数字の流れを読みながら、患者さんの体の中に想像をめぐらせた。

検査の異常値が「ハイ/ロー」で表示されるようになって、 検査所見は「読む」ものから「見る」ものへと変貌した。

検査データに異常値のない人は正常

これは間違いで、そもそも検査データには正常値なんてないんだけれど、 検査に「異常、正常」という概念が導入されて、トラブルは格段に減った。

「検査所見は正常な人」と、「健康な人」とは全然違う。

ところが、「調子は悪いけれど検査は正常」という考えかたは「負けてない」。 「原因は分かりません」という医師の言い回しは「負け」。両方とも勝ちではないけれど、 違いは大きい。実際問題、「検査正常」という勝利条件をうまく使うと、トラブルは格段に減る。

来院した患者さん全員にCTを撮ったり、あるいは血液検査を施行したりすることで、 「CTは正常な人」「検査は正常な人」という、負けないための手段が手に入る。

医療費の無駄遣いなんだけれど、大量消費前提ならば、これらはまだまだコストダウンも可能だろうし。

スクリーニング検査のありがたいところは、技術者の育成が簡単なこと。

研修医が採血するだけで患者さんからクレームが殺到する昨今、検査データや 画像診断をベテランと一緒に読む行為は、安全な研修ができる数少ない分野。

患者さん全員に同じスクリーニング検査を行って、まずは「検査所見上正常な患者かどうか」 を見分ける目を持つ医師を育てる。ここまでならば、医師が「負ける」ことなく可能なはず。

これからしばらくの間、ローテートした人たちが「何でもできる」認定されて無茶な思いを させられて。リスクの高い現場からはますます人がいなくなった頃、たぶん「負けない」医療が 模索されるはず。

血液検査とCT読影を最初に学んで、そのあとでICU の重症患者の受け持ちを実習してから一般病棟デビュー、 2年間の研修の最後は外来診療みたいな流れなら、「安全な医者」作れると思うんだけれど。

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2007年5月19日

外来の待ち時間を減らす方法

病院に対する考えかたを変えることで、あるいは効率を上げることが可能かも。

  • 病院というのは病気を治すところであって、医師は病院機能を指揮する存在
  • 病院というのは一種のテーマパークであって、医師もまたその「アトラクション」の一つ

前者は伝統的な考えかた。自分はどちらかというと、後者の考えかたをしている。

忙しい外来のさばきかた

  1. 外来に来る人数は大体決まっていて、午前中3 時間でせいぜい60人程度
  2. そのうちの半分は「なじみ」の患者さんだから、この人達は時間がかからないし、 待たされても「ごめんなさい」で済む
  3. 時間がかかったり、クレームの原因になってくるのは、初診で来た残り30人の患者さん

この30人の待ち時間を減らして、医師に対する好印象を持ってもらえれば、 外来待ち時間に関するクレームは相当減らせる。

具体的には、こんなことをする。

  1. 最初の10人は、挨拶したらすぐ血液検査、次の10人はレントゲン室へ、 最後の10人だけは一生懸命話を聞く
  2. 「何か薬を…」という人には逆らわないで何か出す
  3. カルテには、症状に関する記載以外に、患者さんのおしゃべりをメモしておく

遊園地のゲートの役割

遊園地のゲート周辺には、いろんなショップが並んでいたり、派手なパレードが行われていたり。

ゲートは遊園地全体の印象を決めるから、その場所は極めて重要ではあるけれど、 ゲートもまた、遊園地が持つアトラクションのひとつにしかすぎない。

遊園地の開園直後、ゲートのスタッフは、お客さんを遊園地の奥へと誘導する。

ゲートの役割というのは、お客さんを遊園地全体へと分散させること。 お客さんが集まらないアトラクションは無駄になるし、 お客さんが集まりすぎたアトラクションもまた、不満を生んでしまう。

分配はとても大切。

病院の「顔」を作るのは、やっぱり医師の仕事。外来ブースがどんなにきれいでも、 事務の接客がどれだけすばらしくても、彼らがいる場所は「門の前」であって、 患者さんはテーマパークの門をくぐっていない。

外来直後、血液検査室やエコー検査室、放射線診断室といった「アトラクション」には、 まだ一人のお客さんもやってこない。

これは、遊園地のゲートにばっかりお客さんが集中して、 他のアトラクションが遊んでいる状態。 ゲートが混雑したら、並んでいるお客さんは帰ってしまうし、 遊んでいるアトラクションにはお金が落ちない。 こんな遊園地は、遠からず潰れてしまうだろう。

患者さんは「こうしてほしい」イメージを持ってくる

病院に来る患者さんは3種類。

  • 検査をしてほしい人
  • 何か薬がほしい人
  • 話を聞いてほしい人

もちろん、すべての人が「症状を何とかしてほしい」と思うからこそ病院の門をくぐるんだけれど、 それぞれの患者さんは「こうすれば、私の症状がとれる」というイメージを持っている。

これに逆らって道理を説いても、満足感は得られない。 時間ばっかりかかって、結局クレームが増えるだけ。

一番困るのが「話を聞いてほしい」人。こればっかりは覚悟を決めて話を聞くか、 「嫌な医者」になって首をすくめて、患者さんがあきれて他の病院に行くのを待つか。

検査をしてほしい人、あるいは薬がほしい人に対して「必要ありません」と言い切ってしまうのは、 その人の人格を全否定するのに等しい行為。

その人の「こうしてほしい」というイメージを操作できれば、 あるいは「正しい」医療行為ができるんだろうけれど、 今はまだそんなやりかた知らないし、忙しい外来の中では、やっぱり難しそう。

「あなたの医者」というマーケティング技法

大切にしないといけないのは、他覚的な所見なんかじゃなくて、 患者さんの疾患イメージ。

腹痛を訴える人が「娘が入院したから、私に疲労がたまった」という 考えかたを持っているならば、それを必ずメモしておかないといけない。

疲労は腹痛に関係ないし、娘の入院なんてもっと関係ないけれど、 次回の外来の時、あるいは検査が終わって患者さんがもう一度外来ブースに入ってくるとき、 何気ない会話の中で、こんな小さな知識がものすごく効いてくる。

トラブルを回避しようと思ったならば、「この医師は、私のことを考えてくれている」という 患者さんの感覚はすごく大切。

どんなに一生懸命患者さんのことを考えて、医学的に正しい医療を行う努力をしたところで、 その「正しさ」を伝える努力を怠れば、その医師は単なる「嫌なやつ」としか思われない。

鳴き声の小さな子供は、ミルクがもらえず飢えてしまう。「正しい」だけでは片手落ち。

印刷可能な技術を生かす

血液検査室と、レントゲン室にも「ゲート」を作ってほしいなと思う。

検査をしてほしい人は、最初から検査室に並んでもらって、結果が出てから外来へ。

これをやると、人によっては1日に10回ぐらい採血室に並んだりするかもしれないけれど、 そんな人たちだって、血液を1リットルぐらい抜かれた時点で、 「そんなに検査は必要ない」と納得するはず。

医療費の無駄遣い。それはそのとおりなんだけれど、採血検査とか、放射線検査というのは、 「印刷」によるコストダウンが可能な技術。

生産プロセスを「印刷」にできた技術は、時として劇的なコストダウンが可能になる。

  • 印刷技術がない大昔、本というのは貴重品であったものが、今では誰でも手に入るものになった。
  • ロウ管蓄音機は、円盤レコードになってから「印刷」が可能になって、一気に普及した
  • 電子製品も、小型化への進化の過程で「配線」が「印刷」へと置き換わり、劇的なコストダウンを遂げた

今の携帯電話なんかも、製造というよりは、印刷に近い工程で作られるもの。

採血検査とか、画像検査といったものは、大量消費を前提にするならば、 まだまだコストダウンの余地はいくらでもあって、消費を抑制することを考えるぐらいなら、 大量生産のやりかたを考えたほうが、結局は安上がりなんだと思う。

コストダウンのボトルネックになるのは、機械でなく人間。

人間を「印刷」で作りだせるようになるのはまだまだ先だろうけれど、 それ以外の要素を「印刷物」に置き換えるのは、技術的には十分に可能なはず。

問診以外の医療行為が貴重品でなくなって、読み捨ての印刷物のように配給可能になったならば、 もはや技術者としての医師の役割は減少して、外来医師に求められる機能は、 演劇的な体験だけ。ネズミーランドの着ぐるみみたいな存在になるはず。

きっとそんなに先の話じゃない。

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2007年5月16日

パシルは肺炎球菌に効かない

「アメリカ人が使えといった抗生物質以外には、使ってはいけないよ」

こんな極論で教育を受けた研修医時代。10年間もそんなことを守りつづけて、 病院を移って、そうも言ってられなくなったこの頃。

自分以外の医師には常識だったのかもしれないけれど、本当に久しぶりに日本の抗生物質を使って、 やっぱりなんだか裏切られた気分。

「肺炎にはパシル」と宣伝されている抗生物質「パシル」は、肺炎球菌を殺せない

ウソは言っていないものの、正しいことも教えない広告手法。医者やってて、 「製薬メーカー性善説」で何の問題も無くやってきたけれど、もう無理なんだろうか?

ニューキノロン系抗生物質

  • 経口投与で「まともに効く」唯一と言ってもいい抗生物質
  • 抗菌力が高く、喀痰移行が良い、非定型肺炎にも効く、肺炎治療で一番便利な薬の一つ
  • 肺炎球菌に効果がないキノロンと、肺炎球菌に効果がある「呼吸器用」キノロン薬とがある

市販されている経口キノロン系抗生剤は、ほとんどが肺炎球菌に対する抗菌力を持っている。 注射用のキノロンは「シプロキサン」しかなくて、これは肺炎球菌に効果がない。

シプロキサンは肺炎球菌に効かない

初めての静注用キノロンだけに、このあたりはメーカーからもアナウンスがあって、 医療者側も、それなりに対応した使いかたを行っていて。今の時代にガラス瓶だったりして、 今一つ使いにくい薬だったけれど、今でも時々使う。

パシルという薬

「パシル」は静注用キノロン系抗生物質。シプロキサンの使いにくい部分が改良されていて、 安全性も高い。

この薬は「呼吸器感染症にパシル」なんて宣伝のとおり、最初から肺炎治療薬としての ビジネスを想定している。最初は第2 選択だったけれど、最近になって「第一選択薬」としての 適応が追加になった。

富山化学、ニューキノロン系抗菌剤「パシル点滴静注液」などが一次選択薬に
注射用ニューキノロン系抗菌剤パシル(R)点滴静注液、パズクロス(R)注の 使用上の注意が改訂され、医師の適切な判断のもと一次選択薬としても使用できるようになりました。 パシル(R)点滴静注液、パズクロス(R)注は広い抗菌スペクトルと強い抗菌力を有し、2002年の発売以来、 呼吸器感染症、胆道・腹腔内感染症、尿路感染症をはじめ各科領域感染症の患者様の治療に使用されております。 (中略)具体的には、「原則として一次選択薬としての使用は避けること」との記載を変更し、 「起炎菌や適応患者を十分に考慮し、一次選択薬としての要否を検討すること」と改訂しました。
日経プレスリリースより引用

最近、経口投薬が困難な患者さんが肺炎になって、 いろいろあってキノロン系抗生物質を使いたくなった。 「パシルを使おうか?」なんて話になって、この薬を調べざるを得なくなったのだけれど、 肺炎球菌に関する記載がどこにもみつからない。

結論としては、パシルは肺炎球菌に対する抗菌力が無い

いろいろ調べて、たしかに「効く」とはどこにも書いていなくて、適応症例の中でも 「肺炎球菌を除く」という小さなコメントは入っているんだけれど、 「効かない」という記載を探すのがとても大変。

パシルに関する座談会

「パシル」と「肺炎」で検索をかけると引っかかるのが、THE JAPANESE JOURNAL OF ANTIBIOTICS という雑誌上で行われた、「呼吸器感染症の化学療法で注射用ニューキノロン系薬をどう位置付けるか」という座談会。

前半は欧米の肺炎治療ガイドラインの総括。「欧米ではキノロン系抗生物質が第一選択として推薦されているのにも かかわらず、日本には静注用キノロンが少ない」という問題提起が行われている。

後半は、新しい抗生物質「パシル」に関する解説。抗菌力の評価とか、薬物動態の解説があって、 「パシルは素性のいい薬として期待している」みたいなまとめ。

問題点は2 つ。

  • ガイドラインで推薦しているのは、ただのキノロンではなくて、肺炎球菌用のキノロン
  • 座談会全体を通じて、肺炎球菌に対する言及がほとんど行われていない

キノロン系抗生物質には、肺炎球菌に抗菌力を持つものと、肺炎球菌に効果が無いキノロンとがあって、 ガイドラインではそれをちゃんと区別している。座談会の中では、「肺炎球菌に効果がある」の 部分は削除された。このあたり誤解を招くとの指摘をいただきました。私の文章中での「ガイドライン」はATSあるいはIDSAのもの、を想定して書いており、一方座談会を行っている先生方のコメント、あるいはリンク先の図版は日本の肺炎治療ガイドラインを想定しているところから来たミスリードでした。申しわけありません。

座談会に集まった先生がたは、いずれも感染症治療の権威ばっかり。 集まった人達にとっては当たり前すぎて、 それに触れる必要が無かったのかもしれないけれど、素人には不親切。これではまるで、 「ガイドラインは、全てのキノロンを肺炎治療に推薦している」かのように読めてしまう。

座談会中、「パシルの抗菌スペクトル」を説明するために用いられたのが以下の表。

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「代表的なグラム陽性球菌」のリストのはずなのに、代表的なグラム陽性球菌である肺炎球菌は、 この中に入っていない。

医薬品のインタビューフォームの中には、ちゃんと肺炎球菌がリストアップされている。

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これをみると、パシルは肺炎球菌に対して全く効果が無いことが分かる。

肺炎球菌にパシルは効かない。座談会に出席した先生方にとっては、これはもはや当たり前だったのかもしれないけれど、 肺炎球菌なんて細菌はこの世に存在しないかのように語られる「肺炎治療に関する座談会」は、 素人が読んでてなんだか不気味。

メーカーの人にいわせれば、肺炎球菌を殺せないにもかかわらず、 臨床的には、パシルは他の抗生物質と遜色なく 肺炎に有効なのだそうだ。たぶん、南極かどこかで治験を行ったんだろう。

マーケティングの「正直の法則」

顧客の心に入り込む、一番効果的な方法は、「まずネガティブ面を認めて、 それをポジティブ要素に変える」ことなんだそうだ。

  • エイビスはレンタカー業界で、ナンバーツーにしかすぎません
  • フォルクスワーゲンは、いつまでも醜いスタイルのままでいます
  • 「リステリン。1日に2回、嫌なお味を」

全部企業広告。ネガティブな側面を前面に押し出すことで、 顧客の信頼に訴えるやりかた。

  • ナンバーツーを認める会社なら、きっといいサービスが期待できるに違いない
  • 醜いスタイルだからこそ、信用できるに違いない
  • 嫌な味なんだからこそ、きっと効果があるに違いない

パシルは肺炎球菌には効かない。それでもこの薬は数多くの細菌に対して 効果があるし、副作用の少ない静注用キノロンとして、力を発揮する分野だって 持っているはず。欠点を明らかにしたところで、本来この薬が失うものは何も無い。

パシルを作った大正富山化学という会社は、世界中で使われている抗生物質「ペントシリン」や、 本物の肺炎球菌活性を持ったキノロン薬である「オゼックス」なんかを作ってる、世界的な大企業。

欧米の感染症ガイドラインに記載される抗生物質を作り出した数少ない日本企業。 本来ならば、日本の抗生物質開発を引っ張っていく立場。

横綱は、やっぱり横綱相撲を取る義務があると思うんだけれど。

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2007年5月13日

辺境文化が価値観を変える

「悪いこと」を知るためには、「良い、悪い」のリファレンスを参照する必要があって、 それがお互いに、あるいは社会的に共有されていなくてはならない。

人間社会には良識という基準があって、これを基準にして、「良いこと」「悪いこと」 という命令セットでコミュニケーションを行う。

「良識を持った一般市民」は、ヤクザや政治家、あるいは「声の大きな人たち」に対して無力。

力の強い人達は、良識を回避できるような社会的システムを実装しているか、 そもそも最初から良識を持っていない。

肥大した良識は、人の振る舞いを縛る。実世界と良識とが乖離して、 「持つ人」と「そうでない人」との格差が大きくなって。 たぶんそろそろ再構築が必要な時期。

「イエス」だけで犬を歩かせる

犬は「悪いこと」という概念が理解できないから、「良いこと」だけでしつけをしないといけない。

犬に飼い主のそばを歩いてもらおうと思ったら、リードを持つ手を緩めてはいけないのだそうだ。

犬を気遣うあまり、人間側の手に弾力をもたせて緩めてしまうと、犬は「もっと引っ張ろう」と 頑張ってしまう。叱ったところで、「怒られた」ことを理解できないから、 犬はうれしがるだけで引っ張ることを止めない。

散歩をしていて、犬が引っ張ったときは、その時点で飼い主が足を止めて、 リードを持つ手を絶対に動かさないようにしないといけない。

犬は引っ張るけれど、動けないし、飼い主が反応しないから、 そのうちつまらなくなって、引っ張るのを止めて、飼い主に近寄ってくる。 その瞬間を見計らって「ご褒美」をあげて、再び歩き出す。これを繰り返すのだという。

「悪いこと」を理解するには「良いこと」のリファレンスが必要

  • 犬は「うれしい」は理解できても、「良い、悪い」は理解できないから、「イエス」しか使えない
  • 人間は「いいこと」「いけないこと」が区別できるから、「イエス」「ノー」でしつけができる

人間の子供だって、スタート地点は犬と同じ。いろんな行動をおこして、 まわりの大人の反応を確認しながら、自分の中に「良識」を作っていく。

「いいこと」「悪いこと」というのは、方向性を持った概念。 ベクトル量を理解するには、「良識」という原点が必要。

良識というのはたぶん、不快な記憶の集積。

イタズラをした子供は周囲を見回して、自分のおかれた立場を演算する。 その立場に参照して、自分のやった行動は「いい」のか「悪い」のかを 評価する。

この演算をいちいちやっていたのでは反応が遅すぎるから、怒られた記憶を 「良識」として保存して、同じ状況になったとき、今度はそれを参照する。

キャッシュの参照 利点と欠点

演算がボトルネックになる状況では、キャッシュファイルが使われる。

同じような演算が続くなら、数値と答えとを記憶しておいて、次回 同じ数値が入ってきたら、演算をしないで、ファイルから答えを検索する。

Windows はフォントを計算して作り出す。いちいち計算するのには 時間がかかるから、TTFCACHE というファイルに演算結果を書き出しておいて、 同じフォントが呼び出されたとき、これを参照する。

英語ではうまく機能しているらしいけれど、日本語のWindows では、 このファイルが弱点になっている。

日本語は文字数が多いから、キャッシュファイルが巨大になる。 巨大なキャッシュファイルを参照するには、時間がかかるし、 Windows はしばしばキャッシュファイルが壊れて、OS が不安定になったり、 フォントが化けたりしてしまう。

技術の進歩はまた、しばしば「便利な機能」を過去の遺物にしてしまう。

技術が進歩して、CPU は相当に早くなった。Windows でこのキャッシュファイルを削除すると、 フォントは全て演算されるようになるけれど、もはやシステムの遅さはほとんど実感できない。

良識というキャッシュファイルもまた、社会の進歩とともに大きくなって、 いろんな問題を生じるようになった。

大きすぎるキャッシュファイルを持つ人は、それを参照するオーバーヘッドが大きくなりすぎて、 些細なコミュニケーションで、とっさの判断ができなくなってしまう。 良識キャッシュはしばしば壊れて、「OS」を不安定にしたり、 あるいはおかしな反応を返してしまう。

社会構造が変化して、世界はますます小さくなって、「場の空気」を演算することは容易になった。 それが上手な人達は、もはやキャッシュを参照しない。その場の流れで「良いこと」を演算して、 状況に応じてスタンダードを自由に変えるから、固定したキャッシュではかなわない。

キャッシュを再構築するために

社会の良識を作ってきたのは、たぶん宗教と芸術、特に児童向けの物語文学なんだと思う。

良識を表現するために、誰かが物語の形でそれを記述して、 それを伝承して広めるメディアとして、宗教とか、「お母さんの読み聞かせ」が機能して。

社会が進化して、「やってはいけないこと」のリストは莫大になった。

社会共通のリファレンスとして機能していた良識は、たぶん進化の過程の中で分枝して、 いろんなバージョンが作られてしまい、それが世界のあちこちで衝突するようになった。

物語は古来から、何らかの「衝撃的な価値観」を提示しては、 社会の良識キャッシュを再構築し続けてきた。

再構築の引き金をひくのはたぶん、良識ある家庭に育ち、 欠けるところのない健全な思考を持った主人公が、 明晰な思考の果てに自殺を選択してみたり、他人を陥れたり殺したりする楽しさに目覚めたり。 原因や葛藤の存在しない、そんな物語。

現代の物語では、殺人というのはテーマでなくて、単なる記号。

最近のアダルト向けのゲームとか、あるいは成人指定のかかった映画。 動機や狂気なんてなくて、主人公がただ楽しいから人を殺したり、 我慢しないでカジュアルに自殺したりする物語がいっぱい。

価値観は辺境から変わる。「ゲームだから」「アダルト分野だから」みたいな但し書きさえついていれば、 人間はもっと自由になれる。自由な分野で人気が出た価値観というのは、そのうちきっと 主流派が飛びついて、そこで「文壇を巻き込んだ論争」みたいな現象が発生して、 今までの物語が過去の物になる。

ゲームなんかじゃなくて、もっと「健全な」文学に耽溺するような、 健全でまじめな、生死の崖っぷちを覗き続ける「悩める若者」。 そんな人達の背中を思いっきり押すような、そんな物語を誰かが書いて、 従来の良識を伝承して来た人達が、 それに対して従来の立場からの反論を試みて。

「何故人を殺してはならないのか?」

こんな疑問が話題になるぐらい、従来の良識キャッシュは機能が悪くなってきて、 もう限界。従来メディアからは鬼っ子扱いされている物語が肯定されるとき、 そこから価値観の再構築が始まる。

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2007年5月11日

経済の行きつくところ

お金を払わない人が増えた。

支払いができなくて、保険証も持っていなくて、携帯電話は何故か持ってて。 研修医の頃は数年に一人ぐらいだったけれど、最近では年に数人。今年は3人目。

病気になった人は弱者。道徳的にも、法律的にも保護を受ける対象。

お金がなくても治療は必要で、治療が成功しても、外来通院が必要で。 入院中の治療は持ち出し。外来通院が必要ならば、当然のように生活保護。 その後の生活を保証して、やっと退院。

法や道徳が支配する公平ルールというのは、弱さを主張する人ほど「強く」振舞えて、 強い人、あるいはまわりから強いと思われている人は、一方的に奪われるだけ。

「蔵」が全てを悪くした

大昔は個人主義。人間の数はまだ少なくて、お腹がすいたら山に入って、その日に食べる獲物を狩る。

山は十分に豊かだったから、争いも起きなくて。 福祉とか、平等とか、正義とか、いかがわしい理念なんて必要なかった。

安心がほしくなって、誰かが「蔵」を作った。

山に入って、そこで2 日分の食料を確保してくれば、翌日1 日は安心して暮らせる

こんなことを思いついた狩人は、山に入って大量の獲物を狩ってきた。 2 日分が1 週間分になり、1 ヶ月分になるまではあっという間。 蔵はどんどん大きくなって、蔵の中には獲物があふれる。

働いたのは狩人なのに、なぜか「みんな」が大喜び。 狩人は一生懸命働いて、蔵の獲物はいつのまにやらどこかに消えて。

安心を生むために作られた蔵は、社会を生んで、怠惰を生んで、不正を生んで、争いを生んだ。

不正を正当化するために道徳が生まれ、争いを利権にするために法律が生まれた。

社会の進歩と道徳の不実

道徳から利益を得る人と、道徳を信じて損をする人。 みんな平等のはずなのに、利益を受けるのは一部だけ。

情報公開や、権利意識の向上。社会が変化して、 情報の非対称性が解消して、道徳や法律は空虚な絵空事になった。

お金は正直。

「正直者が馬鹿をみる」「悪人が善良な人を安く買い叩く」

道徳や法律が大好きな人達は、経済の怖さを喧伝して、 自分達の正当性を声高に叫ぶ。そんな悪役であった自由競争経済は、 技術の進歩を追い風にして、今だんだんと本来の姿に近づきつつある。

インターネットの登場と、競争入札の一般化。人と人とを結びつける技術が飛躍的に進歩して、 道徳や法律が存在意義を失っていく中、経済だけが進化した。

権利の価値を査定する

「一票の価値は平等」。こんな下らない建前放り出して、 ネットオークションみたいな制度を作って、票を「入札」できるようになると面白い。

  1. 各候補者は、従来どおりの選挙戦略に加えて、オークションを通じて票を購入することができる
  2. 理念を訴えて従来どおりの選挙戦略を行うのか、票を買い込んで確実な勝利を狙うのかは各候補者の自由
  3. 有権者は、従来どおり好みの候補者に投票したっていいし、オークションを覗いて、 一番高値をつけている候補者に「一票」を販売してもいい

選挙戦略は多様性を増す。投票率はほとんど100%になるだろうし、 「自分の権利はいったいいくらなのか?」という疑問に答えが出るから、 政治に関する感心も高まるはず。

オークションがうまく機能するなら、信頼されている候補者の「値段」は下がって、 そうでない候補者の買取価格は高騰するはず。政治に関心がある人は興味に従って、 無関心な人や、お金が欲しい人は、価格に従って。

政治の本質が所得の再配分にあるならば、票の売買というのは正当な政治機能。

小さなコミュニティではお金の価値がものをいう。当選する人はお金で選ばれた金持ちばっかり。 そのかわり、選挙の所得再配分効果はそれだけ上がるから、コミュニティの所得は平均化するはず。

大きなコミュニティになると、票を集めるコストがバカにならなくなってくる。 天文学的な金持ちでもないかぎり、 お金の力だけで当選するなんて無理だから、政策が重視されるようになる。

みんなでお金を分け合う小さなコミュニティと、政治力重視の大きなコミュニティ。 うまく行くかどうかは分からないけれど、選挙がずっと面白くなるのだけは確か。

価格という共通言語

憲法9 条の経済効果は、どのぐらいあったのだろうか? 日米安保条約の「値段」は?

9 条はすばらしい平和憲法だと絶賛する人が、安保条約は日本を縛る邪魔な存在だとけなしてみたり。 理念を叫ぶ人達の議論はやかましいけれど、噛み合わない。

政治だって経済的な査定が可能。条文の「正しさ」なんかはさておき、 建前平和、本音経済の使い分け機能が実装されてる憲法のメリットとか、 アメリカの傘の下に入り込むことで実現した経済効果とか。いろいろ批判はあるけれど、 日本が経済的に繁栄したのは、やっぱりこんな条文の力。

経済的にうまくいった部分もあれば、その一方で失った部分もあって、 査定のしかたで「値段」なんていくらでも変わるんだろうけれど、平和とか福祉とか、 いろんな理念を唱える人達は、是非ともこれら条文をお金で査定して、それを公開してほしい。

エンジニアの畑村洋太郎氏が、昔病院スタッフと仕事をしたとき、一番驚いたのが、 医者が「数字」を使わずに会話をすることだった。

「硬い」とか、「赤い」とか。医療の現場には、腫瘍の「硬さ」皮膚の「赤さ」みたいなものを 数値化する習慣は今でもなくて、「部長が硬いと言ったんだから、これは相当硬いんだろう」とか、 そんなやりかた。

アナログスケールのメリットは、情報の帯域幅を喰わないこと。同じ病院内で仕事をする分には、 「硬い」の「硬さ」はかなり正確に伝わる。みんな忙しいから、「硬いよ」の一言で話が通れば、 通信コストを大幅に削減できる。

ところが、立場が違う人どうしがアナロジーで語り始めると、お互いの話が噛み合わない。

「私は硬いと思う」
「私は硬いというよりは、赤いだと思う」

この会話は、いつまでたっても結論は出ない。こんなときには数字が必須。

日本国憲法や、安保条約。条文に賛成する人、反対する人、 それぞれが条文の経済的な効果を査定して、 その価格を公開してくれれば、みんながそれに「入札」するはず。

選挙による入札というのは、自由経済市場。正しい査定を行った人が信用される。 政党が発表した「査定価格」を見て、それが「適切である」と判断した人は、 きっとその政党に投票するだろう。

正義とか平和とか福祉とか、耳あたりのいいアナロジーが実際に求めているのは、 理解なんかじゃなくて、無批判な支持。

分かりやすいたとえ話というのは、分かりやすいようでいて、 結局のところ「僕はいい人だから信用してね」以上のこと は表現できない。相互理解には、何らかの共通言語が欠かせない。

価格は行動を決定する

病院に人があふれて、医者が疲れて医療が崩れて。このあたりを解決するのは、 やっぱり自由競争経済。

  1. 保険診療制度は、今までどおり続行する
  2. 各病院は、患者さんの自費負担分について「係数」を設定して、公開する

たとえば10000円の医療費がかかったとして、現行の3 割負担なら、国からの補助は7000円。 患者さんの自費負担額は3000円。「係数1.2」を標榜している病院ならば、自費負担額は3600円。 「係数2.0」を標榜している病院ならば、自費負担額は6000円。

受けられる医療サービスは同じ。変わってくるのは患者さんの振舞い。 係数が不当だと評価された病院からは患者が去るし、 正当な係数を提示した病院には患者が集まる。

国の医療コントロール機能は失われないし、完全自由診療化みたいに、 怪しげな高額医療が跋扈する危険も少ないはず。こんなサービスが考えられる。

  • タイムセール。午前中ならば係数0.9、午後は1.2、夜は2.0みたいな
  • お金持ち相手を狙って、係数を増して待ち時間を減らすとか、逆に安売りセールするとか
  • 競争の少ない田舎は係数高め、都会は安めになる。「地域に住むコスト」が実感できるはず

県全体、コミュニティ全体で病院がカルテルを作られると大変だけれど、 たぶん大丈夫。お客さん来ないと潰れちゃう開業医は係数を下げるだろうし、 市民病院の係数は、きっと市議会が決定するだろうし。

「価格.com」みたいな係数を比較するサイトができれば、係数を決定するための「市場」が生まれる。 実際始めたとして、「係数」はたぶん、現行の2 割増ぐらいに落ち着く。 病院の待ち時間はわずかに減って、今より少しだけ、医者の顔色が良くなるはず。

全てを査定した先にあるもの

なんでもかんでもお金で査定する立場の行きつく先というのは、 あらゆる立場、あらゆる考えかたの相互理解なんだと思う。

お金というのは本来、崇拝の対象でも何でもなくて、物事の価値を理解するための、単なる道具。

技術進化の果てに到来する自由経済というのは、お金につながらないものが無価値になる社会 ではなくて、どんなものにも誰かが価値を見出す社会。

平和とか、福祉とか。利権の影でニヤニヤしながら理念を唱える人たちが作り出した、変化を嫌う日常。 それを受け入れてしまった人は、もはや相手の悪いところしか目に入らない。

「行動すること」それ自体が馬鹿にされてしまう、死んだ理念で縛られた社会。

  • 「やらなきゃ良かったのに」
  • 「そんなことをしたって無駄だよ」

こんな言葉がどんなに世界をつまらなくしているのか、 理念が好きな人達は、いつまで経ってもそれが理解できない。

あなた達は好きにしていいよ。僕達にはもう、道徳や法律は必要ないから。

幼年期の終わりを告げるのは、たぶん経済畑の人達。

変容する価値観を体験するのはきっとすごい体験だし、滅びる旧世代の側に立って、 全てを見届けるのもまた、すごく面白そう。

変化に自覚的でありたいなと思う。どちらの側に立つにせよ、「その時」がきたら、 立ち位置は自分で決定したいから。

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2007年5月 9日

イメージの作りかた

正しさと広がりやすさ

  • 引用のしやすさや、記事の書きやすさを意識した情報発信が大切。正しさを意識した文章と、 広がりやすさを意識した文章とでは書きかたがまったく異なる
  • 「問題点は3つ」みたいな、項目の箇条書きは有効。たとえ新味に乏しい内容であっても、 引用しやすく、記事にしやすい情報は広がりやすい

医療崩壊系なんて言葉で括られる医師blog は、どこも緻密な論考を行っているけれど、 文章が長く、単語が厳密に定義づけられ、過去の流れを知らないと現在の論旨が理解できない。 このことは「一部を引用して何かを書く」という操作を困難にして、 「メッセージの広がりやすさ」という点で大いに損をしている。

個人の力を信じる

  • 誰かの影響力を期待しようと思ったならば、団体でなく、その団体を動かしている個人に狙いをつける。 団体当てのメッセージは無視されてゴミ箱に直行する。個人当てのメッセージは、少なくとも その人のメールボックスまでは必ず届く
  • 好意的な紹介をしてくれた人に対しては、必ずお礼の意思を表明する。 どんなに見えすいたお世辞であっても、 好意的なメッセージというのはその人を強力にドライブする

うちなんかで、何らかのメッセージをいただけるのは、閲覧者数万人に一人といったところ。 マスコミのような巨大な実世界メディアでは、恐らくこの確率はもっと低い。メジャーな業界で 仕事をしている人ほど、個人から寄せられた励ましのメッセージは強力に働く可能性がある。

「またマスゴミか」とか、「厚生官僚馬鹿すぎ」みたいな総括は、相手へのメッセージとして全く 浸透しないだけでなく、味方陣営にも強力な思考停止をもたらして、何らメリットを生じない。 敵対する団体から「味方する個人」を切り出して、 その人を交渉のチャンネルにする努力を続けるべきだと思う。

イメージを想起する単語の力

  • ボスニア紛争をめぐる情報戦でセルビア側を「悪者」へと追い込んだのは、 「民俗浄化」と「強制収容所」という単語の力だった
  • 「セルビア側の殺人は民族浄化、セルビアの捕虜収容所は強制収容所」。 一人歩きした単語は「ナチスドイツの悪行」とセルビア人とを結びつけ、 セルビア空爆へと世論を誘導していった
  • 世論誘導のポイントは、作り出した「事実」を押しつけるのではなく、すでにある事実のなかで、 注目されはじめているものを一面的に誇張すること。物語は相手に作ってもらう。「民族浄化」や 「強制収容所」という言葉はナチスを連想させるけれど、PR を行う側はそこまで踏み込まず、 聞く側に想像させる。言葉の定義があいまいで、いろんなイメージが膨らむ言葉を選ぶ必要がある
  • 訴える言葉を選んだら、そのイメージを最大限に膨らませる画像を作る。ボスニア側のPR 会社は、 遠くにある無関係な有刺鉄線を背景にしてやせた男の写真を撮ることにより、 アウシュビッツを想像させた
  • 欧米社会では、ナチスドイツのユダヤ人迫害を連想させる言葉に対しては、 だれも反対できないのだという。アメリカ限定で効果があるのは「環境」なのだとも

このレッテルを貼られてしまったら、 誰も擁護することができない、そういう性質の言葉を探して、 相手のイメージをその単語に結び付けるのが基本戦略。

「現場の医師は全力を尽くしたが、医療は崩壊した。誰の責任なのか?」

「医療崩壊」という言葉は強力なメッセージだけれど、今は医療者側のイメージと、 報道側のイメージとが乖離していて、十分な力を発揮していない。

「崩壊」をイメージさせるのは、たとえば誰もいなくなった病院で一人男泣きする老医師とか、 垢じみた白衣を来たまま、疲れきった表情で閉院した診療所を後にする医療者といった画像。

「崩壊」という言葉には、本来「その後」は無い。「崩壊を期待する」とか、 「崩壊の後」なんて議論は、この言葉を武器として使うときには逆効果。

医療崩壊をめぐる勝負は将来、世論の憎悪を吸収した 「医療崩壊の責任者」という強力な呪い札をめぐる、 医療と法曹、マスコミと官僚との壮絶な押し付けあいの局面を迎える。

「崩壊万歳」なんて同業者のメッセージは、一つの例外もなく消去しておかないと、 医療全体にとって命取りになる。

分割によるイメージ操作

  • 欧米の「対テロ戦争」では、イスラム教徒全体を敵に回さないよう、 「大多数の良いムスリムと、一部の悪いムスリム」とを区別している。これが失敗すると、 「全ムスリムと全キリスト教徒との戦い」という最悪の物語が起動してしまい、戦争を仕掛けた側が 悪役になってしまう。
  • アメリカは、最終的にはイラクを分割統治することを考えているのだという。 イラクという国が無くなれば、イラク戦争という概念もなくなり、問題は歴史に埋没する

古池や蛙飛び込む水の音

カエルが池に飛び込む「音」を聞くことで、芭蕉は初めて「静けさ」に気がつく。 対照するイメージは強力。

一部の患者さんを「悪い」認定することで、残りの大部分は「自分達はいい人なんだ」と 気がつく。「悪い患者さん」を医者が叩く。それだけのことで、「いい患者さん」は、 自分達の「良さ」を知らせてくれた医師に感謝する。

現場を支える患者思いの「白い医者」と、崩壊を期待する「黒い医者」。

味方を分割することで、相手の攻撃を「黒い医者」に集中させて、味方全体の「白さ」を主張する、 そんな戦略が取れるようになる。問題がこじれてきたとき、自分達を無数の立場に分割して、 「医」という言葉を世の中から消すことができたならば、医者に対する敵意なんてすぐに霧散するだろう。

みんなが信じたいものを見せる

  • ボスニア紛争では、当時の国連事務総長と、 カナダの将軍とが「悪いのはセルビア人だけではない」という主張を展開したが、 結果として世論を敵に回した彼らは失脚した。自分の目で見た真実を主張した彼らは、 一般大衆が真実だと信じたイメージに敗れた
  • アフガン侵攻を行ったアメリカは、ラディンが主犯であるという「証拠」のビデオ映像 を公開したが、それは信憑性が確認できないものだった。ブッシュ大統領は 「そんなものを疑う者は、テロリストの味方だ」と宣言して、批判に取り合わなかった

重要なのは真実などではなく、真実だと信じられているイメージ。 イメージに対する瑣末な批判は、こちらに勢いがあれば何ら脅威にならない。

取るに足りない厄介ごとへの強力な対応策は相手にしないこと。 困ったり腹をたてたりする様子を見せれば、問題を認めたことになってしまう。

世論=患者さんを味方につけるイメージを考えなくてはならない。

大多数は「いい患者さん」で、ごく一部のそうでない人たちが、医療をここまで悪くした

給食費を払わない親の報道があそこまでウケたのは、「給食費を払うあなた 達はなんていい人なんだろう」というメッセージを、多くの人が読み取ったから。 「根本的な問題は貧困」とか、「日本人全体のモラル低下」とか、堅苦しいテーマは 面倒くさくて。

実際に「悪い患者さん」が何人いるのか? そもそもそんな人ぐらいで医療が崩壊するのか? こんな瑣末なことを批判する「誠意ある医師」など無視すればいい。 大切なのは「あなたがたはいい人」というイメージ。定量的なデータなど誰も興味を持たない。

中立を減らす 味方を増やす

「賛成してくれる人」と、「反対しない人」とは違う。

世の中には敵と味方以外に「どちらでもない人」という最大派閥があって、 この人達を引っ張り込めれば、たとえ敵の数が多くても、数の差をひっくり返せる。

  • 世の中を「いい人」「悪い人」の2元論世界観で表現する
  • 反対しない人をみんな「いい人」認定して、自分の味方を増やす
  • 冷静な批判的意見は、説得するよりも無視するように努力する

圧倒的少数が正しさを通すとき、最後に役に立つのは、 やっぱりこんなやりかたなんじゃないだろうか。

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2007年5月 6日

犬が好きな人達から学ぶ

始まりは半年ぐらい前。

広島にあった犬の飼育施設が倒産して、たくさんの犬が餓死寸前で放り出されて。

それを救うために「某動物愛後団体」が活動をはじめて、かわいそうな犬の姿が連日報道されて、 全国からボランティアが集まって、おまけに1億円以上の寄付金が集まって。 民主党の鳩山由紀夫代表なんかもその愛護団体について 好意的な言及をしたりして、全てがうまく回っていたのが最初の1ヶ月。

お金も資材も集まったわりには話が前に進まなくて、 そのうち集まったボランティアの人たちが某愛護団体の不誠実な内情を告発しはじめて、 団体を賛美していたマスコミが手のひら返して、話が俄然面白くなったのが年越し前後。

話がどんどん拡散して、いろんなところで訴訟がおきたり、 かかわった人がみんな嫌になりはじめた昨今。

勝利条件の設定はいろいろだけれど、集まった寄付金の半分、6000 万円ぐらいが 手元に残れば愛護団体側の勝ちだとするなら、事実上日本中の世論を敵に回した 某愛護団体の人達は、今勝利をおさめつつある。

以下「勝因」の考察。

一貫性を持たせる

常に「我々は犬を救いたいだけ。お願いだから犬の救助をさせて下さい」というメッセージを 発信しつづけた。

それにはもちろんウソも入っていただろうし、寄付金のほとんどは使われずに 手元に残っているみたいだけれど、「犬を救う」というキーワードで、行動に一貫性を 持たせたことは、たぶん大きな武器になっている。

将来的に泥仕合になったとき、一貫性の有無はきっと大きな意味を持つ。

「私達は常に犬を救うために行動していた。邪魔をするあなた達は何をしたいのか?」

最後は声の大きな人の勝ち。声を「大きく」するためにはみんなの力を集めることが必要で、 集めるためには一貫性がとても大切。

戦線を拡大する

最初の「戦場」は広島。

広島での所業が問題になって、愛護団体は本拠地を大阪に移して、 さらには別の犬保護活動に首を突っ込んでみたり、相手側に味方するペットショップを 訴えてみたり。

話題が錯綜して、事件を追っかける人も、すべての話題を追えなくなって。 もはや「まとめサイト」を読んだって、事件の全貌なんて見えてこない。 新しい人が、今さらこの話題に首を突っ込もうとしたって無理。

新規参入が止まれば、あとは古参が疲れるのを待つだけ。

告発したのは、全てボランティアとして集まった人達。 みんな自分の生活があるし、いつまでも広島や大阪に止まるのだって無理。

「反愛護団体の象徴」みたいな役割をしていた大阪のペットショップは、 支援者の人がだんだんと引き上げてしまって、結局訴訟だけが残ったんだそうだ。

戦線を拡大するだけ拡大して、みんなの声を拡散して。最後に勝つのは、声の大きな人の側。

中心を叩く

ネット世界ではともかく、実世界で何かをやろうと思ったら「顔」を見せないといけないし、 集まるためにはどこかに「ハブ」を設けて集合しないと、始まらない。

中心を持たない不特定多数は攻撃に対して無敵だけれど、中心を持った集団の弱点は、 その「中心」そのもの。

広島にいられなくなったボランティアの人達が集まっていた大阪のペットショップは 愛護団体から訴えられたり、寄付金の返還訴訟の代表になった方は、今度は匿名の ネットメディアで叩かれてみたり。

「あの愛護団体のやっていることはおかしい」

多くの人がそう思っているけれど、実世界での攻撃に対しては、顔を出していない人は無力。

中心を叩けば「みんな」は散って、次にハブを引き受ける人は、よっぽどの覚悟が必要で。

最後は持久戦。

みんなが疲れて、そのうち核となる人が誰もいなくなったとき、最後に勝つのは、 やっぱり大きな声を出せる側。

叩きやすいところを叩く

マスコミは大々的なネガティブキャンペーンを張ったけれど、 愛護団体は真っ向勝負を避けているようにも見える。

どこまでが自覚的なのか分からないけれど、マスコミが叩くと、 カメラの死角にいる「誰か」が叩かれて、潰される。

敵はいつか、疲れて飽きる。

戦うべき相手は、一番力の大きな敵なんかじゃなくて、一番叩きやすい敵。

マスコミ。ボランティア。寄付をした人。他の愛護団体。いろんな立場の人達は、 それぞれ「一つ」。一番叩きやすいところから叩いていって、戦いを少しでも 長引かせれば、残った人達はいつか、疲れて飽きる。

「強さ」と飽きっぽさとは比例する。大きな力を持った人は手ごわいけれど、 手ごわい以上に忙しいから、飽きっぽい。

「いい人達」は疲れるし、いつか飽きていなくなる

彼らはきっと、こんな信念を抱いてる。

みんなが飽きていなくなったとき、「全世界を敵に回して一人信念を貫いた男」 のイメージが見えてくれば、ゴールはもうすぐ。

「正義のじゃんけん」を制するために

これはお互いの正義を賭けた「じゃんけん」の勝負。

「間違った正義」を叫ぶ人たちと、匿名の「正しい正義」とのぶつかりあい。 この勝負は「チョキ」と「パー」との勝負。どうやってもパー」側に勝ち目はないわけで。

「チョキ」を潰すには「グー」を呼び込む必要があって、 それはきっと、問題に巻き込まれた人の中で、実世界で「チョキ」を倒すのに十分な力を持った個人。

「匿名の多数」の力は、ネット世界ではたしかに強力なんだけれど、 実世界の争いで役に立つのは、やっぱり実世界での力。

ネットの力を集めて、愛護団体に何らかのダメージを与えようと思ったならば、 「パー」の力を結集しうる個人が必要で、この場合、「グー」になれるのはやっぱり、 民主党の鳩山議員なんだと思う。

実際のところ、鳩山議員は単純に好意的な発言を行っただけだから、たぶん愛護団体とは 何のつながりも無いけれど、実世界で一番力を持っている人は、間違いなく国会議員。

匿名世論を盛り上げて、「愛護団体と鳩山議員との関係」を大々的に問うて、 「関係を否定するならば、ぜひとも議員の行動で示していただきたい」なんて外堀から 埋めていければ、案外うまくいくんじゃないかと。

正義を自称する2つの勢力と、カギを握る「グー」の存在。

自分達が「チョキ」ならば、「グー」を作らないように立ち回りつつパーを切り刻まないといけないし、 自分達が「パー」ならば、相手の動きを慎重にトレースして、 「グー」として利用できそうな人を探さないと、そのうち勝利宣言されておしまい。

「医療費削減」の正義のもとに、叩かれまくる昨今。

自分達は「パー」なのか、それとも国民世論から見ると、 既得権益にしがみつく「チョキ」にしかすぎないのか。自己イメージの把握は 大切なんだけれど、未だにどっちなんだか分からない。

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2007年5月 2日

開業医の先生が救急外来に立つ日

病院側の味方としてでなく、入院を希望する患者側の代理人として。

少ないものをめぐって対立が生じる

それは医師であったり看護師であったり。これから先は「ベッド」。

研修制度が変更になって、医師の雇用が自由化した。自由化して「目覚めた」人達は 都会を目指して、田舎からは医師がいなくなった。残り少ない医師をめぐって、 市中病院と大学病院とで、壮絶な綱引きが行われて、今のところは市中病院が勝利。 そのうち人数配分戻るんだろうけれど、信頼関係は切れたまま。

看護基準が変更になって、ベッド数当たりの看護師を多く集めた病院は、 大幅な収入アップが期待できるようになった。東大病院が300 人新たに募集とか、 全国的に壮絶な引き抜き合戦。看護師一瞬で足りなくなって、民間の中規模病院大打撃。

看護基準は、「ベッド数当たり何人」という割合で査定される数字。 大病院だって雇用を十分に確保できなくて、基準を満たすために、ベッド数を削った。 近所の市民病院は、今では50床ぐらいが空床のまま。働いたら補助金削られて赤字増えるから、 むこうだって必死。

ベッド削って「いい看護」。で、老人病棟削られて、みんな行き場がなくなって。

次に足りなくなるのは「ベッド」。対立するのは、ベッドを持ってる病院と、ベッドを持たない開業医。

自分以外の誰かに診てほしい病気

たとえば解離性大動脈瘤や脳出血。もしかしたら、若い人の扁桃腺炎なんかも。

やれることあんまり無くて、一定の確率で急変して、しかも入院時は結構元気。 こんな病気は「内科で十分診療可能」なんて教科書に書いてあっても、 できれば避けて通りたい。

治療といえば、薬を使って安静にしてもらうだけ。 一般内科も、専門医も、できることは一緒。

合併症は平等。みんな入院したときは結構元気なんだけれど、 一定の確率で悪くなったり、最悪亡くなってしまったり。恨まれるのは 確率論の神様なんかじゃなくて、やっぱり主治医。

「軽そうなんですけど不安なんです診て下さい」なんて専門家に泣きついても、 「軽症ならば内科で…」なんてつれない返事。「重症なんですお願いします」なんて 泣きつけば、「重症患者さんは、うちだとちょっと…」なんて、やっぱりつれない返事。 結構高リスクの人抱えて、困ってる。

重症肺炎や敗血症、食欲不振の高齢者なんかも、誰が診たってできることは一緒。 「誰かに診てほしい病気」と違うのは、入院したときからみんな十分に具合が悪くて、 誰が診たってやっぱり具合が悪いこと。

重症だし、大変なのはまったく同じなんだけれど、見た目も具合の悪い人を 診療するのは、気分的にはすごく楽。

歴史の悲しみ事件の怒り

患者の具合が悪くなる。もしかしたら亡くなる。その責任が身内に来ると「歴史」になって、 医者がかかわると「事件」になる。

事件になる病気と、歴史として認識される病気と。どちらにしても、 医者にできたことは、たぶん同じ。明暗をわけたのはタイミングだけ。 「悪くなった」と家族に認識されたのが、病院内なのか、病院外なのか。それだけのこと。

開業医の先生がたが、在宅患者の診療を始める流れになっている。

病院からはベッドが減るから、そんな流れは間違いなく主流になって、 「悪くなる」現場に医師が立ちあう可能性が増して、 「歴史」はますます「事件」として認識されて。

事件を抱え込むのは誰だって嫌。

事件を抱えた開業医の先生がたは、それを歴史にするために救急外来を目指す。患者と一緒に。

「入院させろ」
「いやこの患者さんは在宅で…」

医者同士のこんなやりとりが救急外来で日常になるまで、 たぶんあと数年。

事業者は患者さん思い

フリーランスの麻酔科医が増えて、たぶん全身麻酔が増えた。

腰椎麻酔と全身麻酔。術後管理が簡単なのは腰椎麻酔。 全身麻酔はどうしたって人工呼吸器が必要だから大変で、経済的な負担も増して。

どちらの麻酔でも可能な手術ならば、外科医は腰椎麻酔を好む。 意識はっきりしてるから、術後の管理もやりやすいし。 病院内に常駐している麻酔科の先生ならば、外科が望めば、たぶん腰椎麻酔をかけてくれる。

うちの病院にも外から麻酔科の先生が来て下さるようになって、 外科麻酔が減って、手術件数が増えた。 術前の麻酔科ラウンドもしてくれるようになって、結果として腰椎麻酔が減った。

「患者さんのため」。

全身麻酔は、麻酔科サイドとしては安全な麻酔。 今来て下さっている先生がたは、みんなフリーランスのアルバイト。 経営者は顧客を大切にする人多いから、「安全な」麻酔はそれだけ増えた。

開業医の先生がたも、事業者だけに患者思い。 地域で悪い評判たったら借金背負って潰れちゃうから、そのあたり必死。

潰れるリスク背負った人達が在宅医療に携わったら、やっぱり考えるのは「患者さんのため」。

厚生省の思惑は、病院から患者さんを追い出して、在宅で安価な医療を続けること。

開業医の先生がたは立場上、それをやるのに最も不向きな人種なんだと思う。

医者は学者かインフラか

日本の医師は、基本的には「学者」としての教育を受けて大学医局に入って、 そこからスピンアウトした人が「商人」として地域医療にかかわったり、開業医として働いたり。

商人のスタンスは個人最適化。全体のことは二の次。みんな最適化を続けて国が傾いて、 お上が怒って現場を締めている昨今。

政府にとって望ましいのは、きっと全体のこと、国のことを第一に考えて、 そのためには多少の不利益には目をつぶるような医療。

全体優先の仕事といえば、軍隊や警察。社会のインフラ。

社会のインフラをになっている人達の仕事はゼロサムゲーム。 その人達の働きが誰かの利益につながるとき、 世界のどこかでは、その人達のために不利益をこうむる人がきっといて。

警察や軍隊、あるいは消防隊なんかは、だからしっかりとした指揮系統があって、 そのトップにはみんなの総意たる政府があって。 現場はあくまでも指揮に従って行動するから、常に全体の利益に従った行動。

在宅医療とか僻地医療、あるいは産科小児科救急みたいな、 「自分以外の誰かに診てほしい」と 誰もが思うような領域を支えるためには、個人事業者としての医師に何を強制したって無理。 事業者の対極、「インフラ」として要請された医師を投入しないと、結局現場が潰れてしまう。

いま「インフラ」として行動できる可能性を持った医療従事者は、今のところ防衛医官だけ。

「○○年度卒業の防衛医官は、全員産科医勤務を命ずる」

美しい国の平和な軍隊。ブラックジョークとしては、なかなかよくできてると思うんだけれど。

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2007年5月 1日

Web 戦争論

「一人で戦う」なんてことは不可能で、個人が何かをしようと思ったら、 必ずそれに影響を受ける誰かがいる、そんな昨今。

誰かが論争を始めれば、否応なしに多くの人が巻き込まれ、それを見物する「祭り」が始まる。 戦いは、ノード同士のぶつかりあいなんかじゃなくて、巨大なネットワーク同士の ぶつかりあい。

イメージは雲と雲との争い。

論争する2人を、それぞれ大きな雲が取り囲んで、地上では雲同士の争いを みんなが見物している。お互いに雲を削りあって、戦いが終わったときに、 より大きな雲を残した側の勝ち。

雲はちぎれたって復活する。周囲の環境に応じてどんどん形を変える。 雲の中にいる人達は、自分達が果たしてどれだけの大きさを持っているのか、 自分自身を評価することはできない。

「どちらが勝ったのか?」答えを決めるのは、地上から見ている不特定多数の人達。 「雲」の側からはその姿は遠すぎて、その人達がどこにいるのか、何人いるのか、 そもそも見物人なんて存在するのか、それすら見えないかもしれない。

戦いは集団戦

支持者の相互理解を徹底できないままに突入した戦いは、たいてい負けが見えてしまう。

個人の穴は埋められても、自分を支持してくれる「誰か」の穴までは手が回らない。 自分の論理がたとえ完璧であっても、支持者がそれを理解していないままに支持に回れば、 その人が論破されてしまうかもしれない。誰がやられようが、負けは負け。それを「負け」と 認めた時点で、ネットワーク全体が腐り始める。

ネットワーク同士がぶつかりあうとき、ネットの防御力を決めるのは、トップノードの優秀さ なんかじゃなくて、共有する知識の正確さと論理の一貫性。 大きなネットワークが一瞬で作られるネット世界だからこそ、コミュニケーションは大切。

「正しさ」は検証される

正しさを強調した、自らを権威者とする議論手法はもはや通用しない。

議論のログは、後から検証される可能性がある。全ての言葉は、 地上にいる「匿名の誰か」によって分析され、検証される。 ネット世界は本当に広くて、その人はしばしば、 議論を始めた本人以上に専門的な知識を持っていたりする。

「私は正しい」論理は、どこか間違いが見つかった時点で負け。検証はバックグラウンドで 行われるのが常だから、「私が正しい」を主張した本人が知らないところで論理の穴を見つけられ、 笑いものになってしまうかもしれない。

大切なのは絶対的な「正しさ」なんかじゃなくて、「手に入った知識の範囲では、私はこう考えます」 という思考のプロセス。

切り崩しの手法は通用しない

ネットワーク同士の削りあい。ところが、ノードを一つ一つ潰していく手法は、 やっぱり通用しないかもしれない。

相手集団の誰かを論破したところで、弱い絆で結ばれた集団にとっては、 そのことは何のダメージにもならない。むしろ、切り崩しに用いたロジックが 誰かの不快感を煽るものであった場合、自分へのダメージとして帰ってくることすらある。

雲を殴ったところで手ごたえは無くて、誰かが雲を殴る姿というのは、 地上から見ると無様に写る。

「あいつ、馬鹿じゃね?」。審判からこんなイメージを持たれたネットワークは腐って、 雲は自然に小さくなって、議論は負け判定されるかもしれない。

ネット世界での議論手法は、物理的な削りあいというよりは、 「その集団に属していること」自体が嫌になるような、そんなレッテル貼りの戦いになる。

  • 「味方です」と表明して近づく人間を、ネット社会は拒めないし、無視できない。 それを無視すると、自分の陣営全ての人間をないがしろにすることになってしまう。 「味方です」という立場で批判を始めた人間に対しては、相手はそれを全否定するのではなく、 何とかして妥協点を見出そうと努力をしてくれる
  • 自陣への攻撃のうち、程度の低いものには真摯に対応し、「痛いところを突いてきた」 意見に対しては受け流すか、無視するようにするのが大切。シューティングゲームの弾幕誘導と同じ。 コントロールすべきは相手の「集団」であって、個人ではない
  • 自作自演で攻撃をするならば、自分の支援者を演じるよりも、相手陣営の「過激な味方」を 演じたほうが効果が高い。「痛すぎる味方」を抱えた集団は、「過激な敵」を前にした集団よりも 崩壊しやすい

地上は「事実」なんかに興味は無い

「理解しない相手が馬鹿」なんて攻撃ワードは、しばしば自分の首を締めることになる。

「我々のコミュニケーション努力が足りなかった」とか、「これからも分かってもらえるような 努力を続けていく」とか、「我々にも悪い部分がある」という立場を貫いたほうが、より模範的。

議論すべきは目の前の相手なんかではなく、地上で戦いを見物している「匿名の誰か」。

地上の人達は、「事実」なんかには興味が無く、 「どっちを悪者にすると面白いのか」だけにしか興味を持たない。 「悪いのは相手陣営なんかではなく、全ては分かってもらえなかった 我々の責任です」とバカのように繰り返せば、 審判団は喜んで「勝者」になった相手陣営を叩きはじめる

見物人を意識しない戦いなんてありえない。

彼らの対価は「話題」。ネット世界で人を集める原資となるのは、面白い話。 ところが、戦う誰かが「面白い」と感じたことと、 集まってきた人たちが面白く感