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2007.04.25

言葉のこと

伝える技術について。

正しい言葉を伝える

業界第一位のマクドナルドは子供に人気があって、業界第2位のバーガーキングは、 どちらかというほ大人向けの味を売りにしている。

バーガーキングの戦略として、マクドナルドに対して「マックはお子様向けのハンバーガーだ」という ネガティブキャンペーンが有効に働くかもしれない。 これを仕掛けると、「そのとおりだ」と思う大人と、「自分はもう大人だ」と思う子供達と、 両者を新たな顧客に取り込む可能性が見えてくる。

ところが、「大人っぽい子供」を当てこんで、バーガーキングが子供向けのメニューを 作ったら、言葉が真実として伝わらない。キャンペーンは失敗するだろう。

反対意見を表明できる立ち位置

正義とか平和、福祉みたいな言葉は、誰も反対できない。空虚に響いて、支持につながらない。

「高価だけれど安全」とか、「弱者はつぶすけれど社会全体を盛り上げる」なんて立ち位置は、 反対の立場、「安全率低くても安価なもの」とか、「盛り下がっても公平」とか、 そんな意見を違和感なく出せる。

反対意見を表明できる言葉は、反対者を作る代わりに、賛成する人に強力に働く。

平和とか福祉が好きで、何にでも「反対」を唱える人達は、漠然としたイメージで 何となく支持を集めるのが上手。 目を覚ますのは疲れるから、みんな眠ってる。漠然としたイメージは 夢に似ていて気持ちがよくて。

夢を操るのが上手な、こんな人達と競争しようと思ったら、 「みんな」を相手に競争するんじゃなくて、 まずは「みんな」を分割して、賛成する人と、反対する人とをはっきりさせて、 みんなに目を覚ましてもらわないといけない。

夢は空虚。目が覚めればきっと、彼らの空虚さが晒されるはず。

支配者の真似をしない

コカコーラとペプシは同じ顧客層を相手に商売をして、ペプシが大負けしていた。

ペプシはコカコーラを真似するのを止めて、大人を相手に商売することを捨て、 「ペプシ世代」に集中したキャンペーンを張った。

「若い感性を持った若者はペプシを飲む」

大人が眉をひそめるような若手アーティストをコマーシャルに起用することで、 ペプシは大人の支持を切り捨て、代わりに若い人と、「自分は若い」と考える大人の支持を得た。

ナンバーワンを目標にして、「ああなろう」といくら努力したところで、 どうやってもナンバーワンの劣化コピーにしかなれない。

世間受けのいいニュースキャスターに対抗できるのは、印象のいい人なんかじゃなくて、 「フルメタルジャケット」の主人公、ハートマン軍曹みたいな人だったりして。

最悪の敵とつきあう

倒れかかったアップルコンピューターが提携先に選んだのは、ライバル会社のマイクロソフトだった。

彼らは「一緒にライバルを倒す企業」を探すかわりに、「アップルが倒産して、一番困る企業」を探した。 アップルが倒れると、マイクロソフトは独禁法に引っかかってしまい、企業として都合が 悪いことになる。

最悪の敵は、たいていの場合、こちらが倒れると一番困る人達でもある。

患者の権利団体や医療ジャーナリスト、あるいは医療行政に批判的な立場を売りにする 司法の人達というのは、敵であると同時に、医療業界から最も恩恵を受けている人達でもある。

真っ先に言葉を届かせるべき相手は、確実な支持が期待できるような人達ではなくて、 むしろ敵対する相手でなくてはならない。

あきらめる前に先送りを考える

王様から死刑を宣告された囚人が、「私を1 年生かしてくれれば、 王様の馬を飛べるようにします」と約束して、 死刑を1年だけ延ばしてもらった。

囚人仲間が「意味のないことをしたな、どうせ1年先に死ぬのに」と死刑囚を馬鹿にしたとき、 彼はこんな反論をしたのだという。

「意味はある。自分はこれで、自由になれるチャンスを4つも得ることができた」。 王が1年以内に死ぬかもしれない。 自分が死刑以外の原因で死ぬかもしれない。 馬が死んでしまうかもしれない。 最後に、馬が本当に飛ぶかもしれない!!

読むこと、伝えること

同業者のblog で「あいつ間違ってる。時代が読めてねぇ」なんて感想をいただいた。

「読み」も面白いんだけれど、やっぱり昔から興味があるのは「伝える」こと。

この仕事はもちろん技術が大切なんだけれど、伝えること、対話することの 力もまた、非常に大きくて。

22世紀の近未来、アフリカのキクユ族の末裔たちは、民族の伝統的価値観を追い求め、 ユートピアを築くために地球を離れ、惑星改造技術で作られた新天地キリンヤガへと移住した。

厳しい自然の中で、古の掟に従って「自然に」暮らす。

欧米の大学で学んだエリートでありながら、文明を拒否し、祈祷師としてキクユ族に君臨する 主人公コリバは、自ら作った理想の社会を維持するために奔走する。

技術を否定した「自然な理想郷」、キリンヤガを崩壊させたのは健康問題。 コリバを楽園から放逐したのは、文明社会の医師が用いた抗生物質だった。

原点回帰とノスタルジー大好き。

コミュニケーションの努力を放棄して、マスコミから「人類の敵」認定されて。そんな 医療という技術もまた、 コミュニケーションの手段を取り戻せれば、「自然な理想郷」から祈祷師を追い出せる日も きっと来る。

間違い上等。でも思考は続けてる。

2007.04.23

ゲノムの幸福 意志の未来

  • 個人の振舞いは、環境因子・ゲノム・自由意思の3つが規定する
  • 環境圧力が高い世界では、ゲノムの発現は抑制され、自由意志の役割が大きくなる
  • 環境圧力が減って、選択肢が増えると、自由意志の果たす役割は弱まっていく
  • 自由が進化した先に行きつくのは、ゲノムの幸福なのかもしれない

物語の柔軟性と登場人物の柔軟性

「獣の奏者」というファンタジー小説を読んだ。「風の谷のナウシカ」の再来なんて宣伝されていた本。

直前まで読んでいたのが、奇蹟上等、世界分裂上等の某ライトノベル。世界が数ページごとに 崩壊しかかったり、異世界の人がいきなり登場したり。

「獣の奏者」は、地球の法則がそのまんま通用する地味な世界観に、 悲惨な戦争もなければ恋愛模様もない、地味な物語。 盛り上がりと無縁な筋なのに、何故だか最後まで目が離せない。

「ゲノムが幸せそうな物語だな」と思った。

物語中の人物や生物は、みんなちゃんとした必然性、「ゲノム」を持っていて。 作者が創造した環境が、各々のゲノムに発現を要請して、それが意志や形となって、 登場人物の立ち位置とか、生物の造形なんかを決定している、そんなイメージ。

必然性は物語を柔軟にする。

  • 「獣の奏者」は、読書感想文の書きやすい物語
  • 典型的なライトノベルは、サイドストーリーを創作しやすい物語

この2つは似ているようで全然違う。

読書感想文が書きやすい物語は、登場人物の会話とか、生物の造形なんかが必然性で 穏やかにつながっていて、そのつながりを変更するのが難しい。その代わり、つながり自体は 柔軟だから、物語全体は、見かたによっていろんな形に姿を変える。 「獣の奏者」は、主人公の成長物語として読んでもいいし、 生物進化とか、自然保護的なテーマ、あるいは力と政治の物語としても解釈できたりして。

天変地異を許容するには、世界を相当頑丈に実装しないと、物語が破綻してしまう。 魔法や奇蹟が当たり前のように登場するライトノベルなんかは、 たぶん書き始める前に設計図がきちんとひかれている。

頑丈な世界観を駆動するのは、登場人物の自由意志。奇蹟を許容する人物造形は、 必ずしも必然性を持たないけれど、幕間の出来事を想像しやすい。 その代わり、物語の柔軟性は少ないから、読書感想文は書きにくい。

日本家屋のゲノム

日本の江戸時代の屋敷には、設計図なんて無かったのだそうだ。

大工さんは、まずはひとつの部屋を全力で完成させて、 顧客の家族構成とか、土地の形なんかに合わせて、順番に部屋を作っていった。 大工さんの頭には完成品の全体像はなくて、「家というものはこんなもの」 みたいな建物のゲノムだけが実装されていて、 環境要因に合わせて、その発現を調節して。

日本家屋は上から見ると微妙に歪んでいて、 たぶん一軒一軒微妙に形が違ったりするんだろうけれど、その形は「在るべくしてそこに在る」 ように見えたんだと思う。

西洋家屋は、まず図面をひいて、図面のとおりに石を組む。 出来上がりは厳密だけれど、その形はもしかしたら、環境が要請した形とは 微妙にずれていたのかもしれない。

大きくなる雑種

雑種の犬を飼ってる。4ヶ月でもう7キロ近くになって、まだまだ大きくなりそう。

雑種は大きくなるものなんだそうだ。

小さな犬と大きな犬とが交配するからなんて理由じゃなくて、交雑を重ねることで、 品種の抑制が外れるからなんだという。

もともとの犬は、それなりに大きな生き物だった。その大きさには環境に適応した 必然性があったし、牧羊犬とか、そり犬なんかは人間にも目的があって改良されたから、 犬の造形にも意味があった。

近代になって、家庭犬の需要が増えて、犬は「かわいい」ことが求められて、 犬を小さくする改良が加えられた。

この「小ささ」には必然性があんまりなくて、無理に小さく改良されて性格が悪くなったり、 ミニチュア化されて腰椎に変形を生じるようになったり、いろいろ無理が出てくるようになった。

品種改良や品種の固定というのは、もともとの犬のゲノムに抑制をかけて、 人にとって好ましい形を得る行為。交雑すると、こうした抑制が解けてしまって、 雑種特有の顔立ちになって、雑種特有の大きさを持った犬になる。

うちの雑種は、純血種特有の顔立ちとか、特徴的な体型なんかとは無縁で、 良くも悪くも無難な顔、無難な体型だけれど、本気出すともう人間では追いつけないぐらいすばしこい。 寝ぼけた顔立ちだけれど、身体能力だけは、最近流行の「ミニチュア○○」系の犬よりずっと上。

純血種と雑種。ゲノムはそんなに変わらないはず。もちろん、純血種のほうが 人間にとって「より好ましい」からこそ価値が高いんだけれど、「どちらのゲノムがより自由なのか?」 を比べると、やっぱり雑種のほうが自由な分、ゲノムはしあわせなんだと思う。

動作は環境にアフォードされる

地面があって、重力があるから「歩く」という動作が生まれる。水があるから「泳ぐ」。

「どこかに行きたい」という意志、移動のための手足という道具、動作に制限を加える周囲の環境、 この3者の妥協の産物として「動作」が生まれる。

自由意志の進化というのは、環境から自由を獲得してきた歴史。

筋力を高める。二本足で歩く。道具を使う。衣装を身にまとって、環境の変化に対抗する。

人が進化して、意志が選べる選択肢が増えて。

意思の自由度は増していったけれど、あいかわらず手足は4本、目は2つ。 環境圧力が減少していく中で、相変わらずゲノムだけは変化が無くて、その存在感を増した。

物語の核心部分を独白させたり。日頃の主人公からは想像できない行動を取らせたり。 登場人物を「立場から自由にする」舞台装置として、しばしば「戦争」という 環境圧力が使われるのは何故だろうか?

たぶん、環境が平穏になって、登場人物の取りうる選択肢が無限に多様化すると、 判断の基準として使えるものが自分のゲノム、「立場」しかなくなってしまうからだ。

環境圧力が減って、個体が取れる選択肢が多様化すればするほど、「種としての柔軟さ」 は増すけれど、「個としての柔軟さ」は減少してしまう。目の前に無限の選択肢が提示されれば、 人間だってフレーム問題をおこす。「自分が背負った立場」が選んでくれる最適解以外の行動がとれなくなってしまう。

平和な村でも、「無礼講」を実現するためには「お祭り」の力が必要になる。 お祭りというのは、コミュニティの同調圧力を最大限に高める儀式。環境因子をあえて 強めることで、人々は日頃の立場から自由を取り戻して、自由意志を開放して、 次の1年を乗り切るパワーを貯める。

自由のこれから

  • ニューヨークでは中絶が合法化して貧困層の子供が減って、結果として犯罪件数が減少した
  • ネットが発達して、気にいらない人と飲みにいったり、嫌な人間のことを妥協しなくてもよくなった

世の中問題山積みだけれど、選択の幅が無限に近くなっていくなかで、 いろんなものが少しだけ「いい」方向に向かってる。 みんなが同じ「よさ」を望んで実現する世の中というのは、多くの人が 自由意志に従っているように見えて、ゲノムに割り振られた 役割を演じ続けているようにも見える。

積極的な受身の姿勢が流行るかもしれない。

ネットで発信して、演じつづけていると、過去の自分が現在の自分を縛る。 ネット世界は何だってありなのに、自分を規定する「立場」だけはどんどん その重みを増して、そこから外れた行動が出来なくなる。

情報が入ってくる。立場が意志を縛る。取れる選択肢は無限なのに、 過去の自分を裏切らないで、自分と自分につながった人との利益を最大にできる選択肢は、 たいていの場合一つだけ。限りなく自由なはずなのに、 不自由を自覚する。ネット世界で大きな力を持つ人ほど、自分を規定するゲノムの 存在が大きくて、その人の振る舞いは決定論的。

自由が進化すると、意志はもはや意味を持たない。決定は、 環境変化と、各人の背負っている「ゲノム」との相互作用が下す。

突然変異と、免疫系の実装が鍵になるんだろう。

みんなが決定論に従えば、世界は固まって滅ぶ。変化をもたらすのは、 みんなの相互作用が作る「環境」の変化。 環境に変更を迫るのは、過去の延長である意思なんかじゃなくて、誰かが生み出す突然変異。

属性は消費される対象になる。新しい属性を作る能力、 突然変異を生み出せることが環境の志向を決定する。ゲノムの突然変異はしばしばガン化するから、 変異の有効度を査定して、必要に応じて排除する免疫系必須。

ネット世界の先の先、「村社会2.0」というものは、きっと生物を模倣する。

2007.04.21

犬のしつけと社会のインフラ

  • イヌには道徳心も忠誠心もない
  • 安全か危険かの判断はできても善悪の区別はできない
  • 犬には「人を喜ばせよう」という動機はない

犬は「忠誠心を持った友達」なんかではなく、利己的に振舞う、別の文化を持った生き物。 道徳心なんて最初から実装されていないから、「犬に道徳心を育てよう」という態度ではなくて、 「人間が好む振る舞いをインストールしよう」という立場のほうが正しいらしい。

犬飼った。

慣れてきて本領発揮したのか、もう暴れまくって大変。うちにはソファーセットがなくて、 来客用にドイツのパソコン椅子があるんだけれど、すでに座面ボロボロ。

叱っても、うれしそうに尻尾を振るばかり。

ほめて伝える

そもそも犬は、叱られたことと、ほめられたことを区別できないのだそうだ。

「叱る教えかた」というのは、効果が薄いらしい。

「叱る」という動作には、例外が許されない。あるイタズラを叱っても、飼い主が見ていない隙に 同じイタズラに成功すると、犬にとってはそれが報酬になってしまう。叱ることで何かを教えようと 思ったならば、24時間つきっきりで犬を見ていないと、イタズラが単なるゲームになってしまって、 上手くいかない。

いいことをしたときに「ほめる」方法は、もっと現実的なのだという。

飼い主にとって快適な行動をした犬は、餌などを与えられてほめられる。

犬にとっては、「いいこと」をしてほめられることがゲームになる。 犬は道徳に目覚めるわけではなくて、相互理解は擬似的なものにしか すぎないけれど、飼い主にとってはそれで十分実用的。

その代わり、「ほめる」だけで望ましい行動を規定するのは大変。

  • じっとしていてほしいなら、暴れたことを叱るのではなくて、 おとなしくしている状態をほめないといけない
  • 「おすわり」を教えるときは、まずは餌を使って動作だけ覚えさせて、言葉は後。 「座る」という言葉の意味を理解させようと思ってはダメ
  • 何かに対するイタズラを防ごうと思ったら、叱っても無駄。物理的にアクセスできないようにして、 その上で「もっと面白いもの」で遊ばせて、遊んだことをほめる

人間には「道徳」というOSを持っていて、 「善悪の判断」と「道徳的正しさの維持」という、2つの命令セットが実装されている。

動物にはOSに相当するものがないか、少なくとも人間のそれとはロジックが異なる。

使えるのは、「ほめる」という行為一つだけ。「よい」「悪い」で作られた、 人間にとって快適な動作セットを犬に教えようと思ったら、 動作を一度分解して、「ほめる」だけで再構築しないといけない。 記憶の維持は難しいから、ほめ続けないと定着しない。

ソフトウェアを古いパソコンで動かすために、必要な機能を 言語レベルで書き直すようなもの。 原理は分かっていても、「じゃあどうするのか」を考えるたび、頭が痛くなるこの頃。

道徳OS を維持しているもの

人間に実装されている「道徳」というOS も、たぶん後天的にインストールされたもの。

お互い好き勝手にやる中で、利害がぶつかりあって喧嘩になる。お互い興奮して、 「これ以上エスカレートすると殺しあいになる」という閾値に達したとき、 原始的な欲求を抑制することが要請されて、道徳が発生する。

道徳を維持発展させたのは、「上手くいったら報酬がもらえる」という社会のシステム。

仲良くやったらほめられた。テストでいい点数取ったらほめられた。会社で業績出したら報酬をもらった。 上手くやったら、誰かかがそのことをほめる。ただそれだけのことが、社会を回してる。

ほめられない仕事は、誰もやりたがらない。

うまく機能して当然、うまくいって当然で、成功しても 誰も報酬を出さない仕事。誰かがやらないと社会が回らないけれど、 やったところであんまりほめられない、そんな仕事には人が集まらないから、 みんなでお金を出しあって、「他人のために働く人」にそれを負担してもらう。

役所の仕事というのは、そんな社会のインフラを維持する仕事。 役所が管轄する仕事は、うまく機能して当然。失敗したら市民運動が待っている。 「社会」という人格を持たない概念の利益にはなっても、 人間同士は必ず利害が対立するから、結果として誰からもほめられない。

公立機関がやっている仕事の多くは、そんなわけで報酬系が実装されていない。 報酬システムを持たない道徳はすりきれて、「官」は腐っていくばかり。

インフラ化していく仕事

仕事の中身が「現状維持」中心になると、その仕事はインフラ認定されて、 ほめる人がいなくなるから道徳OS が誤作動おこして、それが「不祥事」として報道されて。

Web 2.0 の人たちなんかが楽しそうな未来を発信していく一方で、 官僚とか軍隊、あるいは電力会社や病院、果てはマスコミみたいな、社会のインフラとして 認知されたお仕事は、情報漏洩とか不祥事とか。なんだか暗い話題ばっかり。

「患者さんがほめてくれなくなった」

ガキの泣き言じゃないんだけれど、 結局のところ、インフラ認定された業界が暗くなる原因は、 「ほめられない」という一点に尽きる気がする。

おとなしくすることをしつけられた犬は、「おとなしくすることが道徳にかなっている」ことに 目覚めたわけではなくて、「おとなしくするといいことがある」ということを学習したからそこに座る。

「無視」は最悪の報酬。

じっとしている犬を見て、人間はしばしば自分が学習させたことを忘れてしまう。 「疲れているんだろうから放っておこう」と、犬を無視する。「じっとすること」に 報酬を見出せなくなった犬は「何か面白いこと」を他に探して、飼い主がそれを叱って、 叱られた犬はますますそれが面白くなって、しまいには手のつけられない犬になる。

医療と司法。医療とマスコミ。インフラ化した職種どうしはしばしば壮絶に仲が悪い のだけれど、誰からもほめてもらえない者どうしなんだからこそ、誰かが「ほめる」ことを再開 しないといけない。

文化がまるで違うから、「医療が望む司法の振舞い」なんて提示したところで、 司法にはその意義なんて伝わらない。それでも相手を「ほめる」、 その動作だけは文化を越えた共通言語。

みんなの道徳OSは、「ほめる」という共通したプログラム言語で記述されている。 相互理解は無理でも、操作は可能かもしれない。

OS がクラッシュして再インストール。ようやく枯れて安定してきたXP が腐って、 勇躍再インストールしてみたらVista だった…なんてことになれば、 もう社会崩壊。

崩壊しないで維持できるんなら、やっぱりそのほうが正しいと思うんだけれど。

2007.04.20

情報公開とイノベーションのジレンマ

世論はきっと、みんなが「おしゃべりな正直者」になることを 望んでいて、それは今の技術で十分に可能。

ウソをつけない世の中では、「情報を持っていること」の価値が地に落ちる。 組織の意味が薄れていって、個人の「性能差」が、そのまま発言力の差となって効いてくる。

医療従事者もみんなウソをつけなくなる。最初のうちは、それを歓迎する声が 大勢を占めるだろうけれど、その影できっと、議論ばっかりの病院を見限って、 アガリスクの小壜に手を伸ばす人達が増える。

対称性の破れが力を生んだ

小さなコミュニティでは、最初はきっと公平だった。

誰かが知れば、知識はすぐにみんなに伝わる。コミュニティの中での役割分担は、 個人の資質が決める。先を読むのが得意な人はリーダー。足の速い人。 絵を書くのが上手い人。それぞれ役割を見出して。

コミュニティが大きくなって、情報の流通に時間がかかるようになったとき、 情報は価値をもった。噂話の経済圏では、格差は増幅される。知る人はますます知るようになり、 知らない人は必要なことすら知らされない。

情報が不公平なら、個人の資質は発揮できない。 格差が増して、所属する場所の価値が個人の資質を上回るようになったとき、 情報化時代がはじまった。

情報のコモディティ化と個人の復権

「知っている」ことは武器だった。

政治家やマスコミ、あるいは医師なんかがこれだけ長いこと 「力ある者」としてやってこれたのは、「普通の人」と「中の人」、両者の持っている 情報量に圧倒的な差があったから。「全部」のうちどの部分を伝えて、どの部分を 隠すのか。情報の所有者がそれを操作できるなら、説得なんて楽勝だった。

状況を変えたのは、録音や録画メディアの発達と、ネットを介した情報共有と。

録音の時代。ログを取られる時代。いろんな立場の「普通の人」が、 日本中で「中の人」から話を聞く。録音する。ネットで公開して、共有する。 みんなが「一部」を持ち寄って、相手が持っている「全部」を推定する。

「生意気な患者」が増えた。過大なサービスが要求されて、医療は単なる客商売になった。 「素直」だった患者さんが「生意気に」なった原動力というのは、マスコミのネガティブキャンペーン のせいなんかじゃない。みんなが自分の体験を共有するようになって、「情報の価値」がいつのまにか 無くなってしまったからだと思う。

情報は共有されるものへと戻って、組織の力は弱まって。属性の時代から 固有名詞の時代へ。ある意味原点回帰。

ウソがつけなくなって出来なくなること

病院に来る誰もがレコーダー持参。そんな時代はすぐそこ。 考えかたを変えれば、そんなに悪い話じゃないと思う。

  • リスクを伴う検査の説明であったり、あるいは手術の説明なんかであれば、 会話を録音して、それを医師と患者とで共有できると、話が非常に簡単になる
  • 「言った、言わない」の争いに対する抑止力的な効果が期待できるから、 救急外来なんかでレコーダーを回しっぱなしにしておいて、「世論の要請で、 当院でも24時間外来の会話を録音しています」なんて貼りだせれば、 夜中に不当な罵声を浴びせる患者さんも減るだろう

入院が長くなった高齢者を退院させる話なんかだと、 録音されるのはけっこう怖い。

何が違うのかといえば、会話に「ウソ」が入っていたかどうかの違い。

検査や手術。医師と患者とは運命共同体。患者さん騙して手術したら犯罪だし、 保身のためにも、正しいことを伝えたい。たくさん話すとカルテに記載するのが 面倒だから、録音制度はむしろありがたい。

高齢者。「よくなる」人なんて本当に少なくて、入院を繰り返すたびに体の機能は 少しづつ落ちていく。こんな人を家に返すには、「入院を続けたら感染拾いますよ」とか、 「リハビリ病棟でリハビリしましょう」とか。ウソはついていないけれど、 情報全部は伝えていない。

隠さないしゃべりかた

高齢者に退院してもらうとか、老健施設に移すとか。

昔なら「こうするのがあなたにとって得になりますよ」みたいな 言いかたをしていたものだったけれど、最近は止めた。やっぱりウソだから。

「このほうが主治医の利益になるので、病棟を移ってください」

最近はこんなかんじ。患者さんに動いてもらうことで、結局誰が「得」をするのか。 それはほとんどの場合「目の前の主治医」。隠さないことにした。

案外大丈夫。

隠せない時代。利益の受け手を、たとえば「国の保健医療政策で…」とか、「恨むなら小泉元首相を…」 なんてやっても、説得力がない。統計も同じ。国が何をしようと、統計がどう言おうと、 方針を決めるのは、やっぱり目の前の主治医。

全て隠さないやりかたで説得を試みるとき、ものをいうのは情報を解釈する力。

「私はこう思います」

リスク高いけれど、これが言えない人は、結局信用されなくて、たぶんトラブルになる。 情報を共有した上での議論は、解釈のぶつかりあい。 こちらの解釈のほうが「面白かった」なら、説得は成功する。

きっと議論のやりかたは変化する。

  • 自分の弱さと限界とを強調する人が増えるだろう
  • 議論は個人と個人のやりとりになる。国のせいにしたり、統計を神様にする説得のやりかたは無力化する
  • 情報を共有した上で、「最終的に、あなたはどう考えるんですか?」と必ず聞かれるようになる
  • 自分の選んだ選択以外にも、多様な選択肢を示すことが要求される。企画力大切

イノベーションとアガリスクの帰還

情報が欲しい人達はたくさんいて、それを支える技術も十分安価になって。

公開するなら全員に公開しないと不公平だから、情報公開の流れはきっと来て、 それが止まることはないはず。

きっと最初は歓迎される。公開に積極的な医師の元には患者が集まり、 どの病院でもレコーダーを用意するようになったり、診察券をストレージ化 する施設なんかが当たり前になったりして。

その一方で、声は小さいけれど、「昔の病院」を求める人も、きっとたくさんでてくるはず。

議論は疲れる。負けるのはもっと疲れる。病気になったから病院にいったのに、 初対面の医師から「医療の限界について」なんて講義を受けて、 「それでも私の考えが気に入っていただけたなら、この薬を飲んでください」なんて。 「飲んだら負け」そんな思いをする患者さんが出てくるかもしれない。

進歩を望む人と、現状維持で満足している人と。 世の中は、要求度の高い、声の大きな人が引っ張るけれど、全ての人がそれを歓迎するわけ ではなくて、そんな「進歩」を快く思わない人も、きっとまた多くて。

情報公開の流れはきっと来るけれど、患者さん一人がもたらす利益は、 「進歩」側も「維持」側も、どちらもそんなに変わらないはず。で、人数はたぶん、 圧倒的に「維持」側のほうが多い。

医療は進歩するのが宿命。「進歩」したとき、その後に残った巨大な利権は、 案外アガリスク売ってた人達が総取りしたり、「自然治癒力」なんて 思想を唱える自由診療の先生がたが、これから大流行したりするかもしれない。

アガリスクに走る人達を「こちら側」に引っ張り込むのは、議論の腕前や 医療の技術、統計的な「正しさ」なんかじゃなくて、 会話のやりかたとかプレゼンテーションの方法、あるいは「感じのよさ」みたいな、 そんな技術。

技術はもちろん大切だけれど、お客さんを連れてくる医者は、もっと大切。 個人の技量が試される情報公開時代、ディベートの技術なんて 案外何の役にも立たなくて、結局役に立つのは、昔ながらの泥臭いコミュニケーションの技術 になるんじゃないかと思う。

2007.04.16

気分のいい文章と記憶に残る文章

文章には「読んだときの気持ちよさ」という報酬系があって、 読んでいてあんまり気分がいい文章というのは、今度は読者の記憶に 残りにくいような気がする。

最後に削る予定調和文

「名詞ばらまいたような文章ですね」という感想をいただいたことがある。

読み飛ばしに適したような、できるだけ短い文章を心がけている。長いけど。

まずは書きやすいスタイルで文章を書いて、それから削る。 大げさな表現とか、余計な言い回しをまず削って、 説明がくどい部分は段落ごと削除したり。

それでもたいてい長すぎるから、今度は「予定調和」部分を削る。

「アルファ遮断薬という薬がある」。

こんな文章のときは、「という薬がある」という部分は予定調和。この薬を説明する 文章を書こうと思ったら、まずは10人が10人、こんな書き出し。 みんなが予想できる文章というのはいらない文章。だから削る。名詞だけ残る。

削るならば最初から書かなければいいのだけれど、これが難しい。

10人が10人追加したくなる文章というのは、 誰もが「こう来るな」と予想していて、そんな流れが気持ちがいい文章。 「結局削るんだよな…」とか、分かってはいるんだけれど、 書かないと流れが悪くて、文章が続かない。

予想する脳

脳の活動の大部分は、いままでの記憶を元にして、これから自分のまわりで おきることを予想することに費やされるのだそうだ。 脳は常に予測を続けながら現実を観測して、 その差が一番小さくなるよう行動するのだという。

動作は常に環境と相互作用する。

末梢から知能の中枢へと上昇していくセンサー情報と、 記憶の中枢から末梢へと下降していく記憶からの予測と。 両者は脳のどこかでぶつかりあい、比較される。

  • 予想のしやすい、よくわかっている体験は末梢側で比較が行われ、 予測に外れた差分情報だけが 上行経路を上る
  • 予測のつかない、まったく未知の体験は、記憶の中枢、海馬に達して そのまま短期記憶として蓄積される

誰かの文章を読んでいて、「先が読めた」ときは気分がいい。

予測は記憶。「読み」という行為は、文章作者の思考プロセスをエミュレートするとか、 そんな高級な計算なんかじゃなくて、単なる記憶。 読者と作者とが、たぶん以前に同じような文章を読んだことがあって、 作者はそれをもとに文章を書いて、読者はその文章からもとネタを想起しただけ。

予想があたって気持ちのいい文章は、海馬を「フック」しない。 読みが当たる。どんどん読める。読んで楽しい。でも残らない。

空白はたぶん、海馬をフックする。「この後は、きっとこう来るな」という予定調和が省略された 文章というのは、書いても呼んでも気分がよくならない。報酬体験を伴わない情報は、 過去の記憶に喰われることなく中枢に刺さって、記憶される。

あくまでも自分の体験でしかないけれど、 徹底的に削った文章というのは、思いがけずいい反響をいただけることがある。 削りの甘い、読みやすさを狙った文章というのは、 作者の思い入れのわりに、反響全然なかったり。

文章水準の低級と高級

文章表現にも、プログラム言語みたいな高水準な文法と、低水準な文法とが あるのだと思う。

明快な文章の書きかた、ディベートの技術なんかは高級な文章作法。 直感的な理解がしやすくて、学習が容易だけれど、 コミュニケーションの表層部分だけしか操作できない。

省略や空白の使いかた、「通常…」とか、「…は技術的に難しい」みたいな 思考停止ワード、味方の意思表示や弱い立場の強調、「空気」を上手に 使いこなす技術なんかは、より低級な文章技法。

やりかたを間違えると、単純に読みにくい文章になってしまったり、 作者の意図とはまったく逆の方向に作用してしまったりするけれど、 上手に使えば論理の流れをひっくり返す。

議論は完全敗北なのに、多数決取るとなぜか圧勝。議論で「勝った」相手も、 なぜか負けた側の意見を支持してくれたりして。

議論が上手であるということは、必ずしも意図を伝えるのが上手であることを 意味しない。

意図を伝えるやりかた、そんな「低水準文法」なんていうものが作れるのだとすれば、 それはたぶん、読者の反響を確率論的に予測するものになるはず。

  • 作者と読者とで共有している体験の量
  • 意図した結論と、読者が予測した結論との距離
  • 「社会的良識」みたいな漠然とした中心との距離

こんなパラメーターで「支持」というのは左右されるし、その効果には線形性がなくて、 意図はしばしばまったく逆に作用してしまうけれど、天気予報の 降水確率ぐらいには反響を読めるはず。

こんなノウハウは、それが読者に「観測」されてしまったり、 ノウハウが公開された時点で効果を失ってしまうだろうけれど、 「それが公開されたあと」を予想するのもまた面白そう。

反響を意識しながら blog をつけている作者の人とか、ノウハウを公開して誰かの邪魔をしたり、 偽情報流して「言葉を乱した」リ。いろいろ楽しめると思うんだけれど。

2007.04.12

人生に必要なことはすべてゲームセンターが教えてくれた

始まりは駄菓子屋の裏

ゲームセンターに入り浸るようになったのは、インベーダーブームの後期。

町のゲーセンは真っ暗で、大人の溜まり場。 小学生には敷居が高くて、みんなが集まるのはいつも駄菓子屋の裏。

日曜日の朝なら監視が薄くて、電源コンセントを抜き差ししたり、 誰かが電子ライターを持ち込んでみたり。

子供のいたずらがうまくいくことなんて滅多になかったけれど、 みんなで楽しく悪だくみ。

1ボタンに2方向レバーの時代。ここから始まった。

体験をみんなで分け合うこと

当時から1 ゲーム50円。お小遣いで遊べるのはせいぜい3回。

みんな下手だったから、ゲームをする時間よりも、 友達のプレイ画面を見る時間のほうがよっぽど長くて。

「きっと、こうしたほうがもっと上手くいくよ」

みんなで楽しくアドバイス。子供の知恵なんてたいてい間違っていて、お金出してる子供も そんなアドバイスなんて気にもしていなかったけれど、そのときの一体感だけは、きっと本物。

失敗した時は「我々の失敗」。成功だってみんなのもの。

成果を競いあうとか、相手を蹴落とすとか、そんな発想をするにはゲームは手強すぎ、 小学生のお小遣いはあまりにも少なすぎた。

お小遣いが増えて、ゲームは上手になったけれど、どこかで何かを失った。

極めるべき技術をよく考える

中学生の頃。ハイパーオリンピックは、ボタン連打の楽しさを教えてくれた最初のゲーム。

基盤の性能も上がって、自機が連射できる弾数が飛躍的に上昇したのも同じ頃から。

避けてじっくりいくべきか? 連射して火力で押し切るべきか?

「避け」派と「連射」派。左手と右手。鍛えるならどちらが先なのか。

器用な連中は左を鍛えて、気合で押し切るのが好きな連中は、 右手を鍛えてひたすらに連射性能を高めていった。

振動撃ち。こすり撃ち。ピアノ撃ち。スクラッチング。高橋名人は毎秒16連射できる。

いろんな流派。いろんな伝説。ボタンを速く押す。ただそれだけのことなのに、 連射の道は奥が深くて、極めるべきことはたくさんあって。

連射が好きだった。それを自分の武器と決めれば、どんなボタンでも連打の対象。 待ってる間、エレベーターのボタンを連打する人、きっと今でも多いはず。

存在は意識を規定する。連射が上手になると、どんな弾幕ゲームでも、 連射で押し切る戦略以外は見えなくなる。

避けないで近づいて、堅いボスに重なるようにして、ひたすら連打。 至近距離からの弾幕喰って討ち死に。

グラディウス以降は頭の時代。もはや体力だけでは勝てなくて、 上手に避けて、パターンを見出して攻略する、 そんなゲーマーでないと先に進めない。そのうちどこのゲームセンターも 連射装置を「サービス」するようになって、 シューターの「連射の芸術」は、その役割を終えた。

避けかたは一つじゃない

弾が来る。大きく避ける。追い詰められる。やられる。ずっとそのくり返し。

上手い人はほとんど動かない。弾筋を見切って、最小限に避ける。 あれがたんなる強がりなんかじゃなくて、 ちゃんとした意味があるのに気がついたのは、大分時間がたってから。

怖さだけでやたらに動き回らないで、自信を持って弾幕を読んで。 当たり判定から1ミリだけ離れていても、10ミリ離れていても、当たらないのだったら同じ。

  • 必要最小限の回避をすること
  • あえて大きく動いて弾幕を誘導して、反対側に弾幕の切れ間を作ること
  • 時には怖がらずに止まって、自分を狙ってこない弾に対して反応しないこと

「避ける」ための技術は、生き残ってもっと楽しむための技術。

「器用じゃないから避けられない」という理解では正解の半分で、 「怖がらないで楽しむことで、初めて見えてくるものがある」ということをやっと理解できた頃には、 もう受験生。

状況を楽しむ余裕があれば、きっと答えが見えてくるはず。

それでもやっぱり、最後は気合が全て。

ボムを使い切る

ボム逃げかっこ悪い。往生際悪くボムで逃げるぐらいなら、最初からやり直そうか?

そんなこと考えたり、あるいは頭に血が上りすぎて、ボム使うだけの知恵が回らなかった頃は、 やっぱり上達は遅かった。

自機を1 つ失うより、ボムを1 つ失うほうがよっぽど有意義。上手な人達だって、新しいゲームのときは、 誰でも初心者。新しい基盤が入って、筐体の周囲にコインの山積んで、上手な人達は画面をボムだらけにしながら、 とりあえずエンディングまで進んで、それから攻略を考える。

お金なかったし、「あれ卑怯だよな」なんて同級生同士おしゃべりしながら、 結局エンディングを拝めたのは、上手な人たちが無様な姿を晒して、道を作ってくれたから。

目的をもって無様なやりかたを貫く人というのは、本当はものすごくかっこいい。

ボムの抱え死にには恥。そんな当たり前の感覚が身についたのは、 一人暮らしを始めて、お金の重さがとても切実になってからだった。

近くに寄る 遠くから見る

堅い相手から逃げないで近づいて、目線を遠くして画面全体を見る。

自機の主装備は、パワーアップすると広範囲に撃てる。その威力に頼ってしまうと 心が怠けて、自機は画面の下半分に沈んで、そのうち逃げ場がなくなってしまう。

本当に大切なことは目に見えない。「広がること」は目立つけれど、 それはパワーアップの本質なんかじゃなくて、むしろパワーと引き換えに失った要素。

パワーが上がって面が進めば、おのずと敵も堅くなる。拡散した弾の威力は、 パワーアップする前と同じ。敵が堅くなれば、それだけ威力は落ちるから、 弾を集中できなければ撃ち負けてしまう。

広範囲に撃てるようになった武器の威力を本当に活かすためには、 敵にぎりぎりまで近づいて、威力を集中しないといけない。

堅い敵の近くに寄って、それでも目線は、あくまでも画面全体を見渡して。

上手な人達は画面を広く使う。

画面の下端に張り付いて、自機を左右に振っているだけならば、 スペースインベーダー時代と同じ。8方向レバーの意味がない。

シューティングは自機と敵との陣取り合戦。 自由に動くことは、自由に動けることを必ずしも保証してくれない。 弾幕をくぐって、それでも前に出て、動く空間は自分で作らないと動けない。

撃てる範囲が広がったこと。自機の移動範囲が広がったこと。

広がりの威力を活かすためには、 前に出て集中する努力が欠かせなくて、広がった自由を維持するためには、 前に出る勇気が必要で。

ベテランから最初に学んだこと。

何よりも大切な意味を持つ言葉。

……「前に出て、縦に避けるんだよ

2007.04.11

橋に対する考えかた

西洋の橋は、石なんかの丈夫な材料でできていることが多い。 彼らにとっては、確固とした2つの世界をつなぐための道筋となるのが橋というもの。

日本の橋は、木でできていたり、釣り橋だったり、非常に脆い材料で作られる。 浮世絵のモチーフとして橋が描かれる時、対岸の町の様子を書いているものは少ない。

日本の橋は「端」、文字どおり、この世の終わりを象徴するものであって、 橋を渡るというのは、一度死んで生まれなおすことを象徴しているのだという。

医療を取り巻く激変期。この時代が「橋」になるのか、「端」になるのかは、 「次の世界」をちゃんと描けるかどうかにかかっている。

公的な施設の役割が小さくなって、民間資本が参入してくる次世代。 為政者の人達が、信頼に足る次世代のイメージを示してくれれば、 みんなその「橋」に向かって殺到するはず。

今はそれが見えなくて、渡るべき橋は、 世界の終わりを象徴するものとしか認識されない。 みんな声を潜めていて、誰もが何をしていいのか分からない状態。

医療従事者ですら、嘘ばっかりついてるマスコミ様の顔をうかがいながら右往左往して、 「この病院はよくない」と叩かれればそこからいなくなり、「この地域が崩壊した」と 騒げばまたそこからいなくなり。

そのうちどこか一箇所に集められて、 「リスクから逃げ出したチキン野郎どもがここにいる」とマスコミ様から火あぶりにされるのがオチ。

  • 誰もがどうしていいのか分からない
  • ほしいのは現物じゃなくて、安全とか安心とか、そんなイメージ

安全は言葉。

「何かあっても、うちの施設は現場を守るよ。大丈夫だよ」

こんなことを、 施設長が一言宣言すれば、その施設はきっと、現場の支持を総取りできる。

「何か」なんて、一人の施設長の任期中、1度あるかないかのまれなイベント。 準備なんてしていなくっても大丈夫。大切なのはタイミング。

痴呆と死の問題を扱った漫画「天」では、アルツハイマー病に陥って自死しようとする 主人公「赤木」が、自殺を思いとどまらせようとする友人、「ひろゆき」にこんな ゲームを持ちかける。

「ここに1から9の牌が2枚ずつ、計18枚ある。つまり1は2枚ってことになるんだが… この1の牌を2連発でおまえが引いたら、その奇跡に敬意を表し……生き残ろうではないか!」 「ただし……もし2連発で引けなかった場合は…おまえの腕を一本もらおう」

確率は153分の1。あまりの低い確率に考え込む「ひろゆき」に、赤木はこう諭す。

「おいおいっ、何考え込んでんだよ、お前!」 「いいか、ひろ・・・俺を生かしたいと思うんならこんなもん即受けだよ・・・即受け!」 「負けたときは、反故にしちまえばいい・・・腕一本なんていう、そんなバカな取り決めは」 「死んでいく奴との約束なんて知ったこっちゃねぇって反故にすればいい」 「お前にはそういう、ズルいというか、いい加減なところがない・・・」 「真面目であることは悪癖だ!かくあらなければならない・・・なんて考えは・・・悪癖だ」

組織のトップにいる人は、「うちは部下を守るよ」「この病院は職員の安全を担保するよ」 と今すぐ声を出すべきだと思う。

もちろんその発言は100%真実であるはずもないし、もしかしたら宣言した人達の誰かは、 部下になった人の背中を撃つのかもしれない。

先が見えない中、確固たるビジョンを示すことなんてできるわけがないけれど、 大事なのはきっと、現場が方向を見失っている現在、偉い人たちが、今すぐ口を開くこと。

未来に橋をつなぐのが偉い人達の役割なんだとしたら、 今はある意味チャンスだと思うんだけれど。

2007.04.09

ロングテールは相似

分配されるのは給料であったり、売上げであったり。あるいは、医療も。

  • ほとんどの人が必要としている
  • 総量に限りがある

この2つを満たすものは、基本的に分配の問題から逃れられない。

べき乗則の話

べき乗則は「一人勝ち」の法則。世の中の様々なものが、この法則によって分配される。

社会的な地位や会社の大きさ、あるいは病気の重症度なんかで、人間には順位がつけられる。 分配は、この順位に応じて行われる。

longtail.jpg

「1位の人がある量をとったとき、2位は1位の半分、3位は1/3…」みたいに、 順位が下がれば分け前は減っていく。これは一種の指数関数になる。

パレートの法則、あるいは20:80の法則などと呼ばれているもの。上位20%が総量の80%を受け取って、 残りの80%はわずかに残った物をうばいあう構図。この「下位80%」の人達をロングテールなんて 定義するのが、最近の流行。

severe.jpg

「指数」が増して、分配が厳しくなれば、2位の人は半分どころか1/4、 3位は1/9…みたいに分け前はどんどん減っていく。ネット世界の分配曲線は、 競争の勝者が全てをとる。極端な形。

公平な分配とはなんなのか

政治が荒れている。弱者に多くを分配して福祉を充実していくのか、 強者に多くを分配することで、国家全体を活性化していくのか。

残念ながら、原始共産制にでもしないかぎり、完全な公平分配なんてありえない。

政治の世界で言うところの「公平」と「不公平」というのは、 べき乗則グラフの「指数」を小さくするか、大きくするのかの 違いにしか過ぎない。

battle.jpg

「公平」と「不公平」との争いというのは、上位20%の人達の争い。全体の8割を占めるパイを、 上位層と中位層とが奪いあう構図。下位80%、「ロングテール」は、グラフがどう動こうと、 分配される量はほとんど変わらない。

べき乗側を支配する基本的法則、上位20%が総和の80%を取る構図というのは、 たとえ「公平な」分配が実現したところで、ほとんど変わらない。

「公平」分配は、それどころかロングテール部分にさらなる出費を要求するかもしれない。

「民衆のための政府」を実現したフランス革命の真っ只中、革命政府が最初に民衆に要求したのは、 更なる重税と、若い働き手の徴兵だった。これに反発した農民一揆がヴァンデ戦争。 民衆のために立ち上がった革命政府は、革命に反対した農民30万人を皆殺しにしたのだそうだ。

公平だとか、不公平だとか、指数関数のカーブをどういじったところで、 下位80%にとっては、どっちに転んだところで同じこと。

「ロングテール」は、社会的な地位が真ん中で、生まれも育ちも普通で、 病気もしないで働いて、補助がいらない程度には収入がある、そんな人たち。 特徴がないから、どんな競争ルールでもいつも真ん中。上位20%には入れない。

民主党のマニフェストが異様に空しく響くのは、たぶんみんな「変われない」ことが 分かっているからなんだと思う。

上から見降ろす人達

「サヨク」の人達とか、あるいは正義を愛好するマスコミの人達なんかに 共通する胡散臭さというのは、たぶん「勉強している人に対する全肯定」を迫るところにある。

分配曲線に変更を加えようと考える人というのは、政治家とか、労働組合の上の人とか、 いずれにしても「上」の人。その人を支持して、曲線はあるいは変わるのかもしれないけれど、 それが変化したところで、「ロングテール」層には何の変化もないことぐらい分かってる。

いろんな立場の人たちが政策を提言して、知識人とかマスコミの人たちなんかが 支持を表明して。

みんなよく「似て」いる。

「あの人たち」が何をやっても、ロングテールには何の関係もなくて、 「あの人たち」が一生懸命、まじめな提言をすればするほど支持は落ちて、 胡散臭さだけ増大して。

勝つのはいつも、そんな誰とも「違う」人。

違いの中に同じを見出す

特定の民族とか集団なんかを「共通の敵」に認定して攻撃する、民族主義の人達のやりかたは、 いろんな国で多くの支持を集めている。

民族主義の人達は、「我々は同じ思いを共有しているよね」 という感覚を用いて人をまとめる。

政策の話、べき乗則の傾きを決める話は、上位20%の人達にとっては、死活問題。 だから必死になって曲線を自分に有利な形に変更しようとするけれど、 しょせんは「自分と似ていない人たち」の争い。他人事。

ロングテールの人達は、曲線がどう変わろうと、「ほとんど何も受け取れない」という点では一緒。 「よく似ている」。その相似性こそが、ロングテール層の大きな力になる。

支持を得るために

僻地病院に片道切符で飛ばされていたときは、時間はあったけれど 未来は見えなかった。

ここで何もしないでいたら駄目になる。そんな焦りばっかりつのったけれど、 勉強に没頭するほど勤勉でもなし。結局やったことは、今のホームページ。

今思えば馬鹿な話。

無人島に流されたとき、生き延びようと思ったならば、流木を集めていかだを作るとか、 それを燃やして煙を上げるとか、やりかたはいくらでもあったはず。

自分がその時やったことというのは、そこらに転がってる瓶を集めて、 毎日海に向かって手紙を放り投げるようなことだった。

幸いにしてネット世界には「似た」人たちが何人もいて、いろんな人達と話ができて、 自分のサイトも少しばかりにぎわうようになって。

慣れてきていろんなページを見るようになって、賑わっているところはやっぱり相似。 管理人が楽しそうであったり。作者と読者との目線が同じ高さであったり。

たぶんみんな、読者と作者と、どこかに相似を見出して、そこに集まる。みんなでひたすらに 馬鹿をやるページや、超絶に頭のいい人が書いてるページ。 そんな人は他の誰とも似ていないけれど、そこに集まる人達というのは、 みんなそれぞれにどこか「似て」いる自分を見出す。

同業の人達はみんなまじめ。血を吐く思いをつづったり、崩壊していく医療に絶望したり、 無理解な国民を非難してみたり。 まじめなのは正しいことだし、実際現場は大変なんだけれど、みんなそればっかり、 均一な人達の特別な思いばっかりというのは、なんだか危ない。

自分達とは違う「あの人たち」。すべての医師が、そんなくくりで見られるようになったら、 もう他の誰ともコミュニケーションが通じない。多様性の維持は大切。

誰とも「違う」のに、誰もがその人に「同じ」を見出す。

みんなの支持を勝ち取ろうと思ったならば、これからはそんなやりかたを 考えないといけない。どうすればそうなれるのか、未だによく分からないけれど。

2007.04.07

現場の狂気と教科書の正気

「喉が痛いので抗生物質下さい」。真夜中の救急外来にやってくるこんな人は、 咽頭痛を治してほしいんじゃなくて抗生物質を内服したくて病院に来る。

外来で「その症状には抗生物質なんて必要ありません」なんてやりはじめると、 患者さんは怒り出す。説得するのに30分ぐらいかかったりして大変。

いくら「納得していただいた」ところで、患者さんは怒って帰る。 もしもその咽頭痛が治らなくって、他所の病院で抗生物質をもらったりしたら、 「あいつはヤブだ」なんて騒ぎになって、もっと大変。

「じゃあ、抗生剤を出しておきますから、翌日外来に気て下さいね~」 なんて笑顔で抗生剤を処方すると、患者さんも笑顔で帰る。所要時間1分。 寝られる当直。明日も戦える。

ズルをすると怒られる。昔研修した病院のうたい文句は、「欧米流の正しい治療」。 「正しくない」やりかたをすると、翌日必ず呼び出されて説教された。

就職してから最初の2年間は、ズルして睡眠時間稼いでは、翌日怒られて。そのくり返し。

3年目以降は怒る立場。

研修医は、みんな考えることは一緒。トラブルにはなりたくないし、 誰だって睡眠時間惜しいから、言われるがままに抗生物質。

怒る側に回ったとき、判断の基準になるのは、結局のところ教科書的な「正しさ」。 自分も理不尽だと思ったけれど、「なんでこんな人に抗生物質出したの?」なんて 分かりきった質問を繰り返したのも今は昔。

現場の医療と教科書と

「風邪はばい菌が引き起こすから、ばい菌を殺すために抗生物質をもらう」

真夜中にでも抗生物質をもらいに来る人は、たぶんこんな疾患モデルを持っている。

ウィルス感染と細菌感染との違いなんて、抗生物質が欲しくて外来に来る人には 関係ない。むこうの立場にしてみれば、「抗生剤が欲しくてわざわざ病院に来てみれば、 白衣を着た偉そうな医者が説教をはじめた」わけだから、やっぱり腹も立つんだろう。

必要なのは、以下のうちのどれか。

  • 風邪のイメージから抗生物質を外すやりかた
  • 「妥協して抗生物質を出すことが、実際問題どのぐらい悪さをするのか?」という検討
  • 「正しい医療」を現場でやるための、経済的、あるいは政治的な解決策の検討

医学的なお話をいくら究めても、こんな問題に対する解決案なんて出てこない。 問題は明らかに医療の現場で起きているのに、医学の教科書は、 この問題を解決するやりかたを教えてくれない。

治療期間と正しさと

昔習ったうまいやりかたは、ステロイド。

「細菌性扁桃炎に、抗生物質と少量のステロイドを併用すると、一晩で症状が取れる」

昔勤務していた耳鼻科の先生が、研修医にこんな「秘儀」を伝授してくれて、これが大流行。 若い人なんかだと、本当に一晩で治ったりする。でも、こんなやりかたは もちろん「正しく」なんかないから、 部長に見つかってすぐに禁止に。

最近は、主に老人の肺炎。教科書どおりのやりかただと回復遅いし、 ゼーゼーいってる人多いから、抗生物質に少量のステロイドを併用することがある。

これもまた、正しくないやりかた。ステロイドなんて使わなくても、抗生物質だけで 肺炎は治療できるし、もしかしたら感染に対して害になることだってある。 「余計なことはするな」というのが西洋医学の基本思想だし。

これをやると入院期間が大幅に短くなる。すぐにごはんが食べられるようになるし、 翌日から解熱する。点滴の抗生物質も早くから内服に変えられるし、なによりも 見た目の重症さが少なくなるから、家族も納得。

この治療は一種のギャンブル。もちろん「ステロイドを一緒に使います」とは 説明するけれど、もしも患者さんの具合が悪くなって、もしも悪いタイミングで遠縁の親戚、 それも医学の知識に妙に詳しい人なんかが病院に乗り込んできて、 患者さんにステロイドがぶら下がっているのを見つけたら、間違いなくトラブルになるだろう。

  • 肺炎は、抗生物質だけで治すのが正しいやりかた
  • 治療期間は、極力短くするのが正しいやりかた

正しさがコンフリクトするとき、どちらがより「正しい」のかの検証は欠かせないはずなんだけれど、 正しい人達は正しい答えを教えてくれない。

正しい教科書は正しいやりかたを教えてくれない

医療ならどの分野でもそうだろうけれど、現場でやってることは、教科書にはほとんど書いていない。

治療のやりかたは書いてあっても、たとえば「血管拡張剤を用いる」とか、 「免疫抑制薬を併用することもある」とか。病気の概念とか病態読んで、 いよいよ治療のやりかたを語る段になると、作者の声はとたんに小さくなってしまう。 「教科書どおりのやりかた」なんて、実は教科書のどこにも書いていない。

「今日の診療指針」という、臨床医のカンニングペーパーみたいな本がある。

あれを使っている医師は、馬鹿扱いされて笑われる。これは「正しいやりかた」が 好きな人達の挨拶みたいなものだけれど、一人で島に飛ばされたときなんか、 あの本のありがたさがしみる。

薬の量とか投与期間みたいな「責任」を伴う数字、 「正しい」教科書にはほとんど書いていないんだから。

現場の正気を支える教科書がほしい

1800年代のイギリス海軍では、「正しい戦いかた」が議会で決められて、 それに違反した提督達はことごとく有罪になったのだそうだ。

当時戦争状態だったイギリス海軍は、そんな中でも連戦連勝。ところがその戦いかたは、 ことごとくルール違反だったものだから、提督達はみんな犯罪者扱い。

戦争の現場は命がけだから、提督達は正しさよりも命優先。もしもこのとき、勝つやりかたじゃなくて 正しいやりかたを優先していたら、もしかしたら今のイギリスはスペインの一部になっていたかも。

刑法の解釈が変わった。 診療中に亡くなった人というのは、今後は全て「異常死体」扱いになるのだそうだ。

検査中のトラブルとか、あるいは外来で急変した人とか、これからはとりあえず警察に届けて、 検死を受けないといけないらしい。

血管の塞栓療法に使うゼラチンスポンジ。今年の2月から、製造メーカー自らが 「血管内投与禁忌」という添付文書を発行した。今血管塞栓療法をやっている医師は、 法律上は誰もが犯罪者。でも病気は待ってくれないから、そのまま続けるしかなくて。

たぶん、司法サイドにも「正しくない」人達がいて、今のところは「事件性が無ければ大丈夫」 ということになっているのだろうけれど、相手は世の中で一番正しい人達。 正しくない人達は淘汰されるだろうから、そのうち正しい人が増えてきて、 きっとますますやりにくくなるんだろう。

現場の狂気を正しい教科書が保証してくれる医療現場。最近なんだかやられっぱなし。

法律は、司法の正気を保証してくれるのだろうか?

2007.04.06

ストレージの進化が行動を変革する

胃カメラの検査を一通りやって、保存できる画像は20枚。その中からさらに4枚、 その場でプリンターに焼き付けて、患者さんへの説明に使う。

内視鏡の構造というのは、デジカメと一緒。未だに銀塩フィルムでの保存が一般的だけれど、 これをデジタル保存して、無限に記録できるようにするのは簡単。 CCD が拾った画像は、リアルタイムで動画観察できるから、保存容量の問題さえなくなれば、 動画保存だってたぶん簡単。

デジタルデータの保存デバイスは、毎年のように安くなっている。たかだか20枚程度の 静止画像より、同じ解像度の動画10分のほうが、情報量は圧倒的に多い。同じ検査を受けるなら、 情報量は多いほうが、患者さんはきっと喜ぶ。

医師はそのとき、プレッシャーに押しつぶされる。

道具は人を変える

弓矢の時代から鉄砲の時代へ。

誰でも使える弓矢に比べて、鉄砲や大砲を維持するためには専門の知識が必要だし、 莫大なコストがかかる。威力は圧倒的に強いけれど、それを維持するためには 国家のありかたが変わる必要があった。

王様の気まぐれで簡単に戦争ができた時代は、鉄砲が登場して終わりを告げた。 上流階級のお遊びから、国どうしのぶつかりあいへ。技術が進歩して、 戦争という言葉の重さは、大きく変わった。

検査は進歩した。

心霊写真みたいな写真しかとれなかった昔。レントゲン写真は「とりあえず撮っておく」ことが許された。 写真は見るんじゃなくて、「読む」もの。見落としたって機械が悪い。

「これは見落とすよね」。同業者なら同意してくれた。

CT スキャンができて、人体の横断面が1cm 刻みで撮影できるようになった。 この時点で、人間の画像処理能力は機械に追いつかれた。

「異常ないと思います」。 深夜、眠い目で読んだ腹部CT は、 翌朝になれば研修医だって見逃さない病変を写していたり。もう誰も許してくれない。

最近のヘリカルCT やMRI は、人体の情報をミリ単位で把握する。 立体情報は大きすぎて、もはや人間に処理できない。 わざわざ情報を割り引いて、横断面画像を構築したり、あるいは立体画像にしてみたり。

機械の進歩は人間を完全に追い越して、もう言い訳は許されない。 その時人体に何がおきていたのか。検査をした時点で、機械はそれを知っている。 人間は、それを理解できない。

全てはデジタルデータ。これから先、誰もがギガバイト単位の保存デバイスを持ち歩く時代になれば、 過去に撮影されたデジタルデータを全て持ち歩くことぐらい簡単。

あるとき癌が見つかって、過去に撮ったCT データを再構築してみたら、 同じ場所にすでに腫瘍が…なんて 時代はもうすぐそこ。

全ての行為に理由が必要になる

処理能力の不足は明らか。もう「何となく検査する」とか、 手術前のルーチンワークで検査をオーダーしたとか、 そんなことをすれば後出しじゃんけんで必ず負ける。

何かを隠すとか、いい逃れるとかもう無理。 たぶん、自分自身を追い込んでしまうだけ。

こんな事態への対処は、全てをオープンにして、目の前の患者さんにゆだねてしまうこと。

何を意図してその検査をオーダーしたのか。そのときどんな病気を発見したくて、 その画像を撮ったのか。後出しじゃんけんを回避するためには、 検査をオーダーするときの、こんな理由が欠かせなくなる。

画像の保存先も、病院から患者さんへと変わるだろう。

オーダーした医師でも分からないぐらいにぼやけた画像データは、 今ではいつ自分の背中を撃つのかも分からない、そんな 物騒なデータへと変貌した。

物騒な情報は、手元に置いたら負け。「画像を有効に利用する機会を妨げた」。 こんなクレームをつけられるのがもうすぐ当たり前になる。

情報の所有者は患者さん自身。データを利用したり、 加工したりは患者さんの権利でもあり、同時に患者さんの責任でもあり。

医師の判断とか、考えかた、検査から得られる情報なんかは、 すべてお金を払った患者さん自身のもの。ある意味当たり前なんだけれど、 情報と判断とが分離できなかった昔は、情報の主体は医師じゃないと回らなかった。

その医師が判断しないと意味を持たなかった画像情報は、もはや十分に詳細になって、 「判断」と「情報」とは明確に分離できるようになった。

同じ「情報」を持ち歩いて、必要ならば別の「判断」を購入して比較して。 判断と情報、それぞれに対して「他者の目」を自由に購入できるような時代になれば、 カルテの記載内容もまた、必然的に患者さんのものになる。

パターナリズム。「医師を信頼して、全て任せて下さい」という伝統的な考えかたは、 機械の進化が過去のものにする。

Blog 化する医療

保存可能な情報量が莫大になって、患者さんとの会話とか、病状説明とか、 そんな行動のログが全て記録に残るようになるまであとわずか。

医師の振舞い、会話、思考過程、そして人間の処理能力を越えた、莫大な画像データは 全て記録され、必要があれば誰かに検証される。カルテだけ隠したって無駄。 あとから矛盾が見つかったり、いいかげんに流したところから ミスが見つかったりした日には、もうおしまい。

全てが監視される中での診療。考えかたとしては、 同じハンドルネームでblog を続けるのに似ている。

適当なこと書き込んで逃げられる匿名掲示板と違って、 誰でもアクセスできる場所でWeb を立ち上げて、 そこを維持するのはけっこう大変なこと。

無難なことばっかり書いて人気が出なければ悲しいし、 嘘ついて中途半端に盛り上がれば、今度はいろんな人が突っ込んできて炎上。

書けば書くほどそれが自分を縛って、過去の自分を裏切れなくなって、 適当なことを書けなくなっていく。やればやるほど不自由になるのだけれど、 その中で自由に振舞えなければ、忘れられておしまい。

視線の中で自由に振舞うために

昔は形容詞。差別とか、過激を気取ってキツい言い回しを考えて。 文章の分かりやすさとか、内容なんかは、書き捨て上等の掲示板文化では二の次。

自分の言葉を発信する場所をもつようになってから、昔の言葉が使えなくなった。

文章は変化した。

  • 無難な言葉を重ねる代わりに、分かりやすさとか、文脈を工夫するようになった
  • 矛盾をなるべく作らないか、矛盾に自覚的であるように気をつけるようになった
  • 不必要な他人の批判を止めた
  • 頭のよさ自慢を止めて、読者との共通点を探すようになった

どうあがいたって後だしじゃんけん。だからといって、口をつぐめば仕事にならない。

情報も、医師のの思考過程も全て患者さんのストレージに入る時代になると、 後から誰でも突っ込み放題。そんなとき、自分を守るために大切なのは、 「そのとき」の自分と、今の自分との間に矛盾がないこと。

患者さんにログを取られる時代。余計な敵を作らないで、お客さんを集める工夫というのは、 もしかしたらこれから実世界で役に立つ。

人間側の進歩もあったってかまわないはず。その過程で、過去の自分を捨てるのだってあり。 でもそれをオープンにしないで、自分がかかわった患者さん達にそれを隠すと、 あるいは将来トラブルを抱えるかもしれない。

「私はこんな奴です。いい部分もそうでない部分もあります。 昔はこうで、今はこんなふうに考えています。気に入っていただければ、外来に来て下さい」

医師が実名blog をつけるなんてまだまだありえないけれど、 そのうち臨床にかかわる全ての医師が、ネット上で自分の考えかたを みんなの目線に晒す時代が来るかもしれない。

宣伝とか、自慢とか。あるいは、自分自身を守るために。

2007.04.04

癌の人がこれから困るかも

大昔。研修していた病院の夜間外来。がんセンターからの患者さんが紹介されてきた。

体中ドレーンチューブだらけ。山のような麻薬系鎮痛剤。

「末期○○癌の患者様を紹介させていただきます。 貴院でのご加療を希望されています。ターミナルケアをお願いします」

小さな紹介状一通。医療不信と主治医への恨みに満ち満ちた患者さん。

うちにかかったこともない患者さんだったし、研修医風情がこんな人を受け持てば、 絶対トラブルになるからお断りしたけれど、そのあとどうなったんだか。

がんセンターの医師だって人間。トラブルには巻き込まれたくないだろうから、 本当はもっとていねいな説明があったはず。 たぶん、病院を去る時点では「今までありがとうございました」の 上っ面の挨拶ぐらいあっただろう。

「いつもどおり外来にかかったら、もうこの病院に来るなと言われたんです…」

どんなにていねいに説明したって、受け取られかたは一緒。「見捨てられた」という思いを覆すのは無理。

進む病院と維持する病院

病院は大きく2種類。「医学を前に進める」使命を持った病院と、現状維持を続ける病院と。

がんセンターみたいな大規模施設というのは、 医学を進歩させる使命を持った病院。

極端な都市伝説いっぱい。

  • 糖尿病のがん患者さんを紹介したら、「合併症のある患者さんは診療できません」と断られた
  • がんセンターに行った先輩が病棟で痰のグラム染色をしたら、 「今度来た男が見たこともない特殊な染色で何かを染めている」という噂になって、 病棟中の癌専門医が見学に来た

がんセンターは「心身ともに健康ながん患者しか受け入れない」なんて笑い話がでるぐらい、 癌を治療することに特化した専門家の集まり。 歪んでいるんだけれど、その歪みを「癌を直す」という目的一つに集中しているからこそ前に進める。

医学を前に進める大規模病院と、それを支える地域の総合病院と。 がん患者さんの診療というのは、最近までは案外うまく分業出来ていて、 「がん難民」なんて言葉だって、それはちょっと贅沢言い過ぎなんじゃないかと思ったり。

これから少しだけ、流れは変わる。

3月のリハビリ報酬改訂

先月あたりから、リハビリ病棟の点数が微妙に変わって、「リハビリテーション専門病棟」 の看板を出して、厚生省の基準を満たせれば、診療報酬が上がるようになった。

看護基準なんかと違って、そんなに無茶な人事移動をしなくても対応できる制度だったから、 たぶんこれに乗っかった病院は増えたはず。

適応になるのは、主に整形外科に入院したお年寄り。

リハビリを今まで以上に一生懸命やることで、入院期間をより短くして、 歩いて帰る人を増やすのが目標。それで歩ける人なんてほとんどいないし、 そもそも「歩いて帰ってほしい」なんて考える家族なんてもっと少ないのが 問題なんだけれど、考え方としては全く正しい。

制度の割りを食ったのが、高度医療機関から流れてきたがん患者さん。

今いる病院は民間病院だから、経営大切。赤字になったら路頭に迷う。 高度医療機関から紹介されてきたがん患者さんというのは、ボランティア的に 診察しているところがあって、お金もそんなに取れないし、入院期間も長くなりがち。

今まではそれでも、大病院とのしがらみがあったり、療養病棟を何とか使いまわしたりして 対応してきたけれど、「リハビリ病棟」の看板を掲げてしまうと、リハビリの適応がない人は、 そこに入院できなくなってしまう。行き場がない。

難民化する人達

高度医療機関から紹介されたがん患者さんというのは、 手術や化学療法の効果が期待できないぐらいに病気が進行してしまって、 あとは点滴で水分補給をするぐらいしか出来ることがない人達。

そんな人達のために「ホスピス」というものがあるのだけれど、 うちの県にはそんな洒落た施設はほとんどないし、どうしても「死にに行く場所」みたいな イメージが抜けきらなくて。

亡くなるまで大体数ヶ月。

民間の病院では、平均在院日数を何とかして14日間以内に抑えようとして懸命になっている。 こんな人が一人入れば在院日数は一気に延びる。自分の施設で治療したり、あるいは手術を行った 患者さんについては、もちろん最後まで自分の施設で責任を持つけれど、そうでない人、 「一見さん」に数ヶ月間もの間ベッドを使ってもらう余裕は、もはやない。

この数ヶ月、「○○加算」なんて診療報酬の改訂が矢継ぎ早に出されて、 「病院がやっていいこと」のルールは相当に厳密になった。残念ながら、その中には 「がんの患者さんを何となく看取る」という仕事は規定されていなくて、 ルールを破ればお金がもらえなくなってしまう。

うちの病院では、3月以降、治療不可能ながん患者さんの紹介入院をお断りすることになった。 厚生省の通達が出るたびに施設の多様性は失われてきているから、 たぶんどこの病院も、同じ方針になっているはず。

リソース配分は「声の大きさ」が決める

医療資本の総量は決まっていて、それをいろんな立場の人達が食い合っている状態。

配分を決めるのは医療従事者なんかじゃなくて、患者さんの声の大きさ。

新生児集中治療なんかは、需要は間違いなくあるんだけれど、 患者さんはまだ生まれていないから、声を出す人がいない。 医学的な需要があっても、NICU は減っていく一方。

重症の先天性小児疾患。実数は少ないけれど、「○○子供センター」なんて名前のつく専門機関は、 こんな子供が10年以上入院している。 センターの医師はベテラン中のベテラン。その人達が救急の現場に出てくると、 きっとものすごく大きな戦力になるんだけれど、お母さん達の声はもっと大きい。

小児医療センターに救急患者さんを取ってもらおうにも、そんな施設のベッドは 10年前からいつもいっぱい。救急輪番に組み込む試みがあったけれど、 お母さん達が猛反対して、計画は潰れた。夜間外来が必要な子供と、 重症先天性疾患の子供。需要が多いのは救急だけれど、お母さん達の大きな声は、 圧倒的な物量の差をひっくり返した。

今「がん難民」と言われている人達は、がんの治療をこれから受けないといけない人達。 みんな必死だし、この人達の声は大きい。

どんなに治療が進歩しても、がんになった人というのは、やっぱりがんで亡くなる人が多い。 最終的にがんが進行してしまった人というのは相当数いるはずなんだけれど、声は聞こえて来ない。

厚生省はたぶん、こんな人達を「生きている人」じゃなくて「まだ死んでいない人」であると 規定していて、病院の振る舞いが厳しく規定されていく中で、こんな人達に割けるリソースは、 どんどん削られている。

リソースが圧倒的に足りていない状況でパイの喰いあいを制するのは、 結局のところ人間関係。

一人できた患者さんを外来で断ったら、翌日親族郎党10人がかりで入院をねじ込みに来たとか、 センターで「あとは地元で…」なんて言い出したら、次の面談には弁護士が同伴して来たとか、 そんな人にはベッドが用意されるし、そんなことができない、あるいはそんな真似をしたくない人は、 たぶん難民化するんだろう。

投入できる人的リソースが減れば減るほど、医学的な、あるいは道義的な道理は引っ込んで、 声の大きな、無理を通せる人達だけが得をする。

「正義」みたいな漠然とした正しい視点から声の大きさを査定して、本来大きな声をもって しかるべき人達の声を代弁するのがマスコミの仕事のはずなんだけれど、声の大きな人の声は、 ますます大きくなるばかり。

正義を自称する「中の人」達、そのへんどうなんだろう?