2007年3月31日

神奈川県の現状

このあいだ遊びに来た下級生の話。

  • 奈良県の産科事例、例の18病院が救急搬入を断った話は、現場では誰も驚かなかった。 神奈川では、20病院以上に声をかけても搬入先がみつからないのは日常茶飯事だから
  • 産科救急で一番不足しているのが、小児集中治療に携わる医師。30週未満の早産では、 生まれた子供は集中治療室でないと処置ができない、NICUのない病院は、 そもそも救急搬入に対応できない
  • 小児用の集中治療室が維持できなくなっている。 「早産の子供に対応してほしい」という声よりも、「風邪の子供を 24時間診てほしい」という声のほうが圧倒的に大きくて、集中治療室を放棄せざるを得ない
  • 某大学では、病院が24時間救急を受ける方針を決定した。風邪の子供を抱えたお母さんが 夜中に殺到して外来が回せなくなり、集中治療室を閉めて対応せざるを得なかった
  • 病院間のネットワークは、すでに十分に機能している。 某大学にネットワークの本部があって、電話一本で 救急対応可能な搬送先を紹介してくれる。ところが稼働している病院が減っているため、 横浜から問い合わせて搬送先小田原とか、神奈川/東京全滅で、 搬送先はヘリで千葉県とか、どんどん遠くなっている
  • 搬送中は医師が同乗する。どの施設も人数ギリギリなので、たとえば往復に3時間かかると、その間 病棟をみる人が誰もいなくなったり、外来がストップしたりで病院の機能ががた落ちしてしまう
  • 千葉県の亀田総合は「最後の砦」の一つだが、現場が疲弊して、救急対応がいつまでできるか分からない
  • 産科に進んだ同級生で、研修をまっとうできなかった人が何人かいる。 その研修医が頑張れなかったからではなくて、病院から産科がなくなってしまったから
  • 妊娠6週ぐらいに予約をしないと、もう分娩病院がみつからない。10万人クラスの市でさえ、 産科が対応できない地域が出てきている

2年のローテーション研修と、1年の専門研修。あまりにも早すぎる 「一人前」認定を受けて、4月からは産科医として責任ある立場へ。

「やれるだけやってみます」。

3年ぶり。やっと育った新人産科医。

4月の当直は月に16回だそうだ。

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2007年3月29日

話しかた

  1. 足をそろえる
  2. 情報の所有者を明示する
  3. 「分からない」ことを恐れない
  4. 「自己欺瞞の箱」を上手に使う
  5. 全体を見せてから部分を説明する

数あるやりかたの、ほんの一部。

人は足下をみる

会話をするとき、人は必ず足下をみる。

医師の靴をそろえた延長線と、対象の目線とが一致しているとき、 その人は「話を聞いてもらっている」という感覚を持つ。

ベッドサイドから立ち去ったり、あるいは外来で机に向かうときに足をずらすと、 靴のラインが患者目線から外れる。医師が話を聞いていたとしても、 ラインのずれは「あなたの話には興味が持てません」というメッセージとなって 相手に伝わり、トラブルの元になる。

会話が続いているときは足を動かさず、相手が会話を切ったタイミングで 足の軸線をずらすように心がけると上手くいく。

裏を返せば、話を聞こうが聞くまいが、足の方向さえそろえておけば、 それだけでたいていの患者でトラブルを回避できる。

医師-患者という特殊な関係では、お互いの目線をあわせることは 少ないので、「顔を見て話す」という会話の基本は外しても大丈夫。

「あなたの病気は」と言わない

「その情報は誰のものなのか?」を会話の中で区別するように気をつける。

相手は「症状」を訴えて病院に来る。それを解釈して「病名」にするのは医師。 患者にとっては、症状は真実だけれど、病名というのは医師の意図が混入した異物。

他人の意図が混じったものを「あなたのもの」と言われても、幸福になる患者はいない。

基本文法はこんなかんじ。

「○○さんの症状は、私は××が原因だと考えています」

症状は患者のもの。病名と考えかたとは医者のもの。

「あなたの病気は……です」で会話を続けて、「あなた」を話題の中心に置くのは間違い。

一見すると、このほうが責任をあいまいにできるように見えるけれど、 このやりかたは「目の前の医者を信用する」という行動が、選択肢ではなく前提になってしまう。 結果として、トラブルになったとき、医師が全ての責任を被らざるを得なくなる。

「私はこう考えます」という言い回しは、情報の所有者を明示的に分けることができる。 このやりかただと、患者サイドに「あなたの考えかたは気にくわないから、他の医者を当たります」 という選択肢を、最後の最後まで残すことができる。

情報の所有者を明確にするやりかたはハンドリングが難しくて、 言い回しを間違えると「全責任を主治医が被る」と受け取られかねないし、 話をしているときに、話している医師自身も混乱したりする。

それでも、このやりかたは「医者は間違える生き物だ」という立場を前提に会話ができるので、 治療が上手く行かなかった場合、次にどうするべきなのかといった話題に話をつなげやすい。 できれば慣れたほうがいいと思う。

トラブルケースのときほど、みんな「医学的には…」とか、あいまいな立ち位置にすがりがちだけれど、 あいまいな立ち位置のいかがわしさというのは、医師がマスコミに抱くいかがわしさと同じ。 話すほうは楽なんだけれど、これではますます信用を失う。

「あなたの病気は○○です。医学的にはこんな治療が主流ですが、合併症の危険があります。 治療を受けるのかどうかはあなたが考えて下さい」なんてやりかたは、喧嘩を売っているのと同じ。 説明になっているわけでもなければ、医師の責任回避にもなっていない。

「自分は医者だけれど間違える可能性だってある」という立ち位置を崩さないで、 「ベストを尽くすけれど、分からないときはこう振舞って、間違ったときには次にこんなことをやります」 という、思考の過程さえ明示できれば、立ち位置を固定することに問題はないはず。

その代わり、立ち位置を固定するとウソをつけない。些細なことであっても、 ウソや矛盾がばれると致命的なので、会話にはウソや誇張を入れないか、 入れるならば完璧に演じきる覚悟をした上で。

分からないときは「分からない」と伝える

「たぶん○○病だと思います」というやりかたは間違い。

「原因は分かりません。分からないので、まずは致命的な病気からの症状でないことを確認して、 その次に治療を安定サイドに振って様子を見て、症状に変化が現れたら そこでまた診察をさせて下さい」みたいなやりかたのほうが正しい。

分からないときはまず「分からない」と宣言して、 それから分からないなりの方針を説明する。この場合、ここで口ごもると最悪なので、 「分からないときどうするのか?」の対策は常に考えておく。

病名が分からなくてトラブルになる患者さんというのは、病名が知りたいという目的意識が強くて、 「分からないなら誤診」という思考回路を持っている人が多い。

こんな人にあやふやな病名を伝えたところで満足してもらえるわけがないので、 むしろ「分からない」ということを早めに伝えたほうが、トラブルにならない。 その解答が気に食わない患者さんなら他に行ってしまうし、分からないことに 最初に納得してもらえれば、その後はトラブルになりにくい。

自己欺瞞の「箱」を使い分ける

言うことが伝わらない、トラブルになりがちな患者さんというのは、 「医者は基本的に患者を見下して、横柄に振舞うものだ」という先入観に とらわれていて、どう接しても、それがねじれて伝わってしまう。

そんな患者さんをみたとき、医師もまた「先入観のきつい人には何を言ったってムダ。 防衛に徹しないとやってられない」みたいな自意識で固まってしまう。

お互いが自意識で固まった状態では、交渉は成立しない。 患者満足度はどうやっても最低にしかならないし、トラブルがおきたとき、 お互いの信頼関係が全くないから、火を消すことができなくなってしまう。

理想的な医師-患者の関係を作るには、何とかして相手の意識を変えないといけない。

「相手をあるがままに見直す」とか、「相手に対して心を開く」なんて自己啓発じみたことを 考えなくても大丈夫。病院の中であれば、「医者が心を変えた」素振りをするだけで、 かなり高い確率で、患者さんは変わってくれる。

相手を自意識の箱から引きずり出してしまえば、印象操作は簡単。

たとえば外来が気まずいまま終わった患者さんに対しては、待合で会計を待っている間、 医師が外来ブースから待合室に歩いていって、ほんの10秒でも世間話や服薬の注意など を行うようにする。こんな下らないことですら、医師に対する印象を大きく変えられる。

立ち去った患者に対して、外来ブースで悪口を言っても何のプラスにもならない。 患者さんが病院の門から外に出るまで、印象操作の機会はいくらでも残っていると考えるべきだと思う。

外来ブースの内と外、白衣を脱いだ状態と着た状態、目線の上下や会話の調子など、 あらゆるものが「私は変わりました」というメッセージを明示するのに使える。

両端を明示して全体を見せる

状態を説明するときに大切なのが、数字の絶対値を伝えることではなくて、 「両端」を示した上で、その数字がどのあたりにあるものなのかを伝えること。

たとえば40mgのプレドニンを内服してもらうときなどは、そのまま伝えても、 その意味が伝わらない。患者さんは「多いのがよくない」という思いを持ってしまって、 自分の症状よりも、薬の量で状態を判断するようになってしまう。

症状の査定を医師にゆだねてしまう状態というのはけっこう危なくて、 患者さんが自分のことを何も決定できなくなってしまうから、避けたほうがいい。

全体像というのは、最小の状態と、最大の状態とを示さないと把握できない。

ステロイドの量を表現するならば、たとえば喘息の人は○mgぐらい、糖尿病が問題になるのは ○mgぐらい、リウマチの人なんかはこれぐらい使います…みたいな、想像が及ぶ病気での 標準量を説明して、それから患者さんに投与するステロイドの話をしたりすると、けっこう上手く行く。

判断基準を伝えるのも大切。どうなったら悪くなったと評価して、 どうなったら良くなったと言えるのか、そんな基準、は早い時期に話しておいたほうが、あとが楽。 そのかわり、増悪して致命的な経過をたどる病気でこれをやると、「天国まであと○日」の カレンダーをつけられかねないので注意。安定した経過をたどる病気限定。

呼吸するように嘘をつく

メディアにとりあげられたり、本を何冊も発行しているような有名な先生というのは、 ほとんど例外なく嘘つきだ。

患者さんから神様みたいに拝まれる先生は、夜になると下半身だけ魔王になったりとか、 この業界にはそんな話はゴロゴロしてる。

そんな名医の姿をみて「大人は汚ねぇ」なんて嫌悪するのは簡単だけれど、 明暗2つの顔をあわせ持って、そんな矛盾を飲み込んでもなお全くぶれない、 そんな名医の感性を勉強してほしいなと思う。

この業界は結局サービス業であることからは逃れられないし、病気を治すことはもちろん 大切なんだけれど、気分良く病院から帰ってもらうこともまた、同じぐらいに大切な要素なわけで。

救急外来とか、一見すると一瞬の判断が大切な、技術系の診療科にも思えるけれど、 人あたりの良さ、黒すら白く見せる会話のやりかたというのは、 時として腕の差を補ってあまりある武器になる。

あんまり重要視されないし、 系統的に習うこともない技術なんだけれど、きっとどこかで役に立つはず。

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2007年3月28日

エキスパートシステムのこと

エキスパートシステムのこと

  • エキスパート自身は、自分が何でエキスパートでいられるのかを説明できない
  • エキスパートの人が、自身の行動原理を本気で文章化しようと試みると、 その人はもはやエキスパートではいられなくなってしまう

プロの選手とプロのコーチと

有名なスキーのコーチは、選手としてはそれほど成功しなかったのだそうだ。

そのコーチがスキーをはじめたのは、大学を卒業してから。スキーの選手のほとんどは、 子供の頃からスキーに親しんでいる人だから、競技では勝負にならなかった。

そのコーチは、自分よりも上手ないろんな選手の動作を観察して学習して、そのうち 「誰が教わってもタイムが伸びる」コーチとして注目を集め、日本中から選手が 教えを乞いにくるようになったのだという。

ゴルフの帝王ジャックニクラウスは、かつてゴルフの指南書を書いたことがあった。 それは本人も満足のいく完璧な仕上がりだったけれど、それを書き上げた後の一年間、 帝王は極度のスランプに苦しんだのだという(山に生きるより引用)。

言語化すると失われるもの

技術というものは、それを持っているエキスパート本人には説明不可能なもので、 それを無理やり言語化しようとすると、何か大切なものが失われてしまう。

言語化という行為は単なるアウトプットだけれど、 それはまた、エキスパート本人をも変質させる。

「エキスパートシステム」というのは、技術を言語化する試み。 ところが、「系」の中にいるエキスパートが、自分自身を観測しようと試みると、 観測という行為自体が測定結果に影響を与えてしまい、真の値を測定できない。

エキスパートの技術、あるいは才能というのは、確率論的なもの。

エキスパートの人達はたぶん、行動を選択する過程のどこかでサイコロを振っていて、 仮に全く同じ状況に遭遇したとしても、そのとき全く同じ行動をとるとは限らない。

一番大事なところを「適当」にやれるからこそ、エキスパートはエキスパートでいられるのだけれど、 「適当」を言語化する過程の中で、確率論は決定論におきかえられる。 無理やり作られた論理的な思考過程は、たぶんその技術者の行動を上手く説明するけれど、 情報が入力されてから決定が下るまでの工程に時間がかかりすぎてしまって、 現場では役に立たないものになってしまう。

エキスパートをエキスパートにしている要因の多くは、論理の緻密さではなくて、たぶん対応の早さ。 ベテランは、外から入ってきた情報を元にして、その先にある「確率の高い現実」を予想して、 それにあわせて行動する。実世界では、未来は確率論的に予測することしかできないから、 情報の入力と、実際の行動とのタイムラグが少なければ少ないほど、 正しい行動をとれる確率が高くなる。ベテランは早い。だから正しい。

教えるのが上手なプロのコーチにとっては、選手というのはブラックボックス。 コーチがイメージしている「あるべき姿」というのは、上手な選手を観察した蓄積であって、 コーチが作り出した論理の先に生まれたものではないはず。 こんなコーチは、選手の動きと、本来「こうあるべき」という理想的な動きとの誤差を指摘するだけで、 選手の行動ロジックには介入しないで、適当なところは適当なまんま放置するからこそ、 選手のタイムが向上するんじゃないかと思う。

違うことだけは分かってる

NHK が宮崎駿監督の特番を組んだ。番組中、新しい映画のイメージが固まらなくて、 監督が何度もつぶやくのが「違うことだけは分かってるんだ…」という言葉。 今までの経験の蓄積で、このまま進むと失敗することだけは分かるんだけれど、 どうやったら成功するのか、未だに全然分からないらしい。

失敗には原因があるけれど、成功を生むのは偶然の積み重ね。

サーベルタイガーが絶滅したのは、牙が長すぎて環境変化に適応できなくなったからだけれど、 「草原を速く走る生き物」という問題の正解は、ウマであったりカンガルーであったり、何だってあり。 進化論世界では、状況が全く異なるのに、結論が同じことだってある。 タコの目と人の目。生き物としての共通点なんて ほとんどないのに、目の構造は大体一緒。

成功事例というのは、成功したあとの結果を観察することはできるけれど、 その過程で何があったのか、当時者がそれを語るのは難しい。

医学的に「正しい」診療ガイドラインが毎日のように発行されている昨今だけれど、 それを作った先生方の生産性が劇的に低下したとか、 そのガイドラインを発行後、その人がベテランでなくなったなんて話は聞かない。

エキスパートが自分の行動原理を記述したにもかかわらず、 その人がまだエキスパートでいられるということは、 その人が最初からまじめに本を書く気がなかったか、 あるいはその人はそもそもエキスパートでなかったか、たぶん どちらか。

エキスパートを観察するプロ

技術を伝えていく中で、演じるプロとは別に、観察して伝達するプロを育てていかないと、 もしかしたら技術は伝わらないのかもしれない。

役に立つのは、きっと観察を中心とした方法論。ベテランが遭遇するいろんな状況と、 それに対する本人の振舞いとを蓄積して、「こんなときにはこう動くとうまく行く可能性が高い」、 あるいは「このベテランの振る舞いと最も相関しているのは、こんなデータの変化」 という行動原則を作っていくような。

父親がまだ生きていた頃、トンネルをまっすぐに掘る技術者の思考過程を 機械化する試みがあったのだそうだ。

ベテランのトンネル技術者は、見えない土の先にある「向こう側」を正確に読んで、 わずかな情報を頼りにまっすぐにトンネルをつなげる。その人自身にも、 なんでそれができるのか、上手く説明できない。そのやりかたを突き止めるために、 その人周囲のありとあらゆる情報を採取して、同時にその技術者がそのときどう振舞うのか、 それをひたすら記録したのだという。

その結果がどうなったのかは聞けなかったし、もうずいぶん昔の話だけれど、 そのトンネル技術者は何か特別なサインを利用していたのではなくて、 ごくありふれた、誰もが当たり前としか思わないような、そんな情報を複数、何となくまとめて、 一つの決断を下していたんじゃないかと思う。

病院にいるベテランも、たとえば誰も知らない所見を知っているとか、 ものすごく敏感な感覚を持っているとか そんなことはなくて、部分部分は普通の人。ところが「普通の部分」が合わさると、 特別な存在になってしまう。

昔みたいに「殺して育てる」なんてことができなくなった昨今、優れた臨床医を育てるためには、 現場にはすぐれたコーチが欠かせなくなる。総合臨床の先生方とか、 何か目指すならこんな役割をやってくれるとありがたいのだけれど。

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2007年3月24日

できる人はみんな正装

社会的に成功した医師であるとか、たぶん多くの技術系の人達というのは、 みんな普段から正装しているか、あるいはその人の正しさを保証してくれる コミュニティを周囲に作って、いずれにしても外から見て「正しい格好」を保っている。

技術要素と営業要素

そろそろ社会に出てくる研修医の人達は、最初のうちはネクタイに背広、 それができないのならば、少なくとも清潔で、社会的に正しい格好を外してはいけない。

仕事には、技術的な要素と営業的な要素2つの側面があって、技術がすぐれているだけ、 営業が上手なだけ、どちらか一方だけでは絶対に成功しない。

両者はある程度までしか補間できない。 技術が足りないものは、どんなに営業したところで結局売れないし、 どんなにすぐれた技術者であっても、10人が10人「嫌な奴」と評価するような人物は、 結局どこかで上手く行かない。

病院の仕事というのは技術職だけれど、相手にするのは人間。営業的な要素は外せない。 研修医だって技術者だけれど、まだまだ技術要素なんてかけだしもいいところ。 足りない技術を磨くのももちろん大切だけれど、やるべきことが決まっていて、 習得が比較的容易なのは、技術要素よりも営業要素。

  • 腕さえあれば、格好なんてどうだっていい
  • 有名な○○先生は、取材を受けるときだってラフな格好じゃないか?

そんな反論も当然あると思うけれど、それは間違い。

同じラフな格好をした人であっても、「腕がよくてラフな格好をしている人」と、 「腕がよくてラフな格好で、さらに社会的に成功している人」とでは、 お客さんの視点から見える姿が全く違う。

ビッグネームの先生がたが、しばしばラフな服装で取材を受けるのは、 ドレスコードの不備を腕のよさで埋めているんじゃなくて、 その先生を取り巻く環境、周囲のスタッフの応対や、その病院の名声それ自体が その先生の「正装」として機能しているから。

ラフな格好で有名な先生は、そういった意味では常に「正装」を外していない。

ラフな格好をするのは、ネクタイと背広以上に「正しい衣装」を身につけられるようになってから。

真のハッカーはドレスコードをハックする

技術系といえばプログラマ。

腕のいいプログラマの人のステレオタイプというのは、しばしばラフな格好だけれど、 メディアに出てくるようなハッカー、成功したハッカーがラフな格好をしているからといって、 駆け出しのプログラマがラフな格好をしていいのとは意味が違う。

プログラマの成果物が「コード」ならば、その人の格好というのも、また「ドレスコード」という 立派なハックの対象。

徹夜してでもバグを取りつづけて、出荷直前までコードの最適化をはかろうとする ハッカーの人達は、なぜドレスコードを最適化しようと思わないのだろう?

腕のよさ、技術的な優位というものは、ドレスコードの「バグ」を補ってくれることはない。

腕がよくて、でもわがままで、自分を取り巻くコミュニティなんて持っていない人が ラフな格好をしたところで、その人は単純に「できるけれどわがままで嫌な奴」という 烙印を押されるだけ。同じ技量を持つ技術者が複数いれば、そのうち相手にされなくなってしまう。

ラフな格好で成功する技術者というのは、 たとえば友達の数が異様に多くて、その技術者を推薦してくれる人が多いとか、 すでにどこかのコミュニティで有名人になっていて、「すぐれた技術者」 ではなくて、「この人」という固有名詞に需要があったりするような人。

その人を取り巻くコミュニティとか、あるいは一人歩きする固有名詞というものは、 これは技術要素でなくて営業要素の武器。いい背広やネクタイ、あるいは 魅力的な話術や物腰みたいな、そんな武器の一つ。 成功した技術者がラフな格好をするのもまた、背広やネクタイ以上に、 もっと「正しい」スタイルを見つけたから、営業要素を最適化したからにすぎない。

こんなものを持っていない人が、 その人に勝負をしかけようと思ったならば、技術を磨くんじゃなくて、 ネクタイをきれいに結ぶ訓練をはじめたほうが正解に近い。

技術は技術、営業は営業。お互いをお互いで補間することはできない。

社会的に「正しい」振舞いかた

以下実践。

  • 誇示は禁物: 自分自身についてべらべらしゃべったり、強い関心を引こうとする行動は決して賢明とは言えない。 自分の功績について話せば話すほど、胡散臭く思われる
  • 呑気な態度を心がける ひたむきに働いていて、いつも限界と思われてはいけない。どんなときでも楽そうに振舞い、 努力を外に見せないようにするだけで、まわりの人はその人を賢い人物だと思いはじめる。 汗だくになって働いている誰かなど、多くの人はみたくない
  • 相手によって言葉遣いを変える 全ての人は平等ではない。みんなに対して平等に、同じ言葉遣いと同じ態度で接するという、 平等の名をかりた信念は完全に間違っている
  • 上司になれなれしくしない 主人は部下がほしいのであって、友達が欲しいのではない。 主人に友達のような態度をとったり、気軽で親しげなしゃべりかたをするためには 相当な技量が必要だと知るべき
  • 外見のことで冗談を言ってはならない 外見や人種、体型のような、すぐには変更不可能なもの、あるいはそもそも 変更することができないものに関する冗談は、誰が対象であっても口にしてはならない。 誰かに対する批判、特に訂正不可能な批判というのは、「こんなことをいう人だ」という 評判の形を借りて、それを口にした人に一生付きまとう
  • 他人をほめる 他人をほめることはくやしいけれど、賞賛を口にした人にはまわりの関心が 集まってくる。賞賛や、喜びの発信者になれる人というのは滅多にいないので、 素直に他人を賞賛するだけで、その人は組織に欠かせない人間になれる

あとは風呂入ることとか、髪染めないで無難な格好することとか。 技術を覚えて腕を磨くことに比べれば、 本当に簡単なことばっかり。

簡単だからみんな馬鹿にするけれど、実際問題、これがちゃんとできている人はほとんどいなくて。

「成功しているラフな医師」のほとんどは、ラフな格好なのに年配の患者さんに人気があって、 患者さん達は、その人の「腕」ではなくて「人」をほめる。

営業は大切。

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2007年3月23日

不幸を呼びこむ人

  • 病院ごとの実力を、何かにつけて比較する
  • 改善策の提案よりも、欠点の指摘が好き
  • 同業者をほめることより、けなすことが先
  • 属人的な説明を好む

こんな人が近くにいるならば、研修医の人達は、可能な限り距離をおいたほうがいい。

不幸は伝染する

不幸を呼びこむ人というのがいる。

実力はあるのにまわりの人が離れていったり、立場も名声も得ているはずなのに、 なんだか楽しそうでなかったり。

有名な研修施設がいきなり崩壊してみたり、医師がまとまって離脱してみたり、 いろんなところでありえない事態が進行している昨今。きっといろんな理由が あるのだろうけれど、あえて医療者側だけに原因を求めるとしたら、 事態の中心には、たいていこんな人が隠れている。

不幸を呼びこむタイプの人というのは、現状を楽しむことができなくて、 いつまで経っても「自分は不幸だ」と思い込んでいる人たち。

それはうまい方向に転がると、「向上心」となってその人を駆動する 原動力になったりもするんだけれど、そうでない人もまた、ものすごく多い。 行き場のない不幸な感覚は、不満となってその人の体内にたまっていく。

不幸や不満は伝染する。

不満を抱えている人というのは、人間を「敵か味方か」で判断しようとする。 敵対したくなければ、味方になるか、味方のふりをするしかない。

2枚舌を使いつづけるのは大変だから、一緒に過ごす時間が長い相手の気分や感情、 考えかたというのは、どうしたって自分の中に共有されてしまう。 不満を抱えた人の陰口や、足の引っ張り合いゲームに恒常的に参加していると、 その人とつきあっている人の考えかたも、自然にそれに影響されていく。

ゲームはだんだんと大規模になって、チームはますます固まるけれど、病棟の雰囲気は悪くなる。 そのうち誰もが不満を口にするようになって、それがある臨界を越えたとき、チームは内側から破裂する。

不幸の伝染というのは、疫病のそれと同じ。保菌者自身を治療することがかなわないならば、 その人を隔離するしかない。早期発見が大切。感染が広がってからでは、たいてい遅すぎる。

見分けかた

初対面の人間に自分の不平不満をぶつけてみたり、 挨拶もそこそこに誰かの陰口をはじめる人なんていない。 最初は誰だっていい人。詐欺師とか、大量殺人の犯人だって、 ちょっと見た目は感じのいい人物だからこそ、 あれだけの仕事ができるのだから。

何気ない会話からそんな人を見分ける方法というのは、その人が周囲の環境とか、 あるいは同業者をどんなやりかたで紹介するのかを観察すること。

  • 自分の施設を紹介するときに、「○○病院では年間何例切っている」とか、「○○病院の部長は今度学会の座長をやる」とか、 そんな話を付け加える人というのは、裏を返せば「この病院はそんなことすらできないところだ」と不満をもっている
  • この病院は事務が最悪でね…とか、ろくでもない救急患者ばっかりで…とか、対案の無い問題点の指摘が多くでる人は危ない。 対案が無いというのは、「この施設の奴らは言うだけ無駄だ」というあきらめの裏返し
  • 誰かを話題にするときに、その人のいいところからでなくて、欠点から紹介する人はやっぱり不満を抱えていることが多い
  • 「あの病気は、○○先生が一例目を手がけて、○○大学の先生が症例を発表して、学会の座長が○○先生のときに ガイドラインに載って…」みたいな属人的な歴史の説明を好む人は、 自分がそのラインに乗れなかったことを不満に思っている可能性が高い

その人が「自分自身をどう紹介するのか」を観察しても、役に立たない。

不満を抱えている人というのは、少し話した印象だけでは、自分に厳しい、まじめな人物として 写ることが多い。特にそれが年次が上の医師のときは、不満の裏返しと、無害な熱心さとの区別はつかない。

先輩がたの話もまた、しばしば役に立たない。誰だって自分の上司を悪く言いたくないし、 その人達もまた、もしかしたら感染者になっているかもしれないし。

相性の問題とか、施設の実力なんかはもちろん大切だけれど、 自分が入った施設がいつ吹き飛ぶのか分からない昨今、 誰がその組織を束ねていて、その人がどんな人なのかを見ておくのも、相当大事。

間違った団結をした組織

たぶん、世の中には不満や不幸を使って、間違って固まった組織と、 本来のやりかたで正しく固まった組織とがあって、 外から少しそれを見ただけでは、案外区別がつかない気がする。

自分は幸い、正しい成り立ちをした組織に恵まれてここまで来て、 今から振り返るとたぶん保菌者として陰口ばっかり叩いてきたけれど、 幸いなんだか不幸なんだか、社会的にはあんまり成功しなかったから、 影響を受けた人は最小限のはず。

「崩壊した」とされる多くの施設は激務のところが多くて、たぶん眠る時間すら無いような ありさま。現場の士気落ちまくり。

現場の問題は大きいけれど、たぶん全てではない。吹っ飛んでいる施設がある一方で、 忙しい中持ちこたえている病院だってまだまだ多いし、 このご時世になってもなお、人を増やして組織が大きくなる救急病院だってあるわけで。 トップの実力は、たぶんすごく大切。

医療を取り巻く状況はどんどん厳しくなっているけれど、現場の崩壊という現象は、 組織崩壊の閾値が下がっていく中で、本来上に立ってはいけない人が上に立っていて、 足の引っ張り合いゲームで無理やりまとめていたところから潰れているんじゃないかとも思う。

本当に厳しい状況が続くけれど、単純に救急をとらないとか、給料がいいとか、 そんな理由だけでは人は集まらないはず。 今のこの状況が、本来上に立つべき人を正しい場所に押し上げる原動力になるのなら、 悪いことばっかりではないのかもしれない。

正しさは発信しないと伝わらない

若い人達がいろんな情報を共有して、正しくまとまった施設に人が多く集まるようになるのなら、 それはきっとすばらしいことだと思うんだけれど、今の下級生に話を聞いても、 情報の共有をやっている人達は驚くほど少ない。

ネット時代。大きな病院を束ねる部長級の先生がたとか、あるいは医局を率いる各大学の教授 なんかがWeblog みたいな個人メディアを運営すると、きっといろんなことが見えてくる。

公的な立場の人が、炎上を引き起こさないで双方向メディアを維持するためには、 自分の考えかたをしっかり持っていて、立ち位置を変えない、言ったことと行動との間の 矛盾が無い態度を貫かないといけない。そこを外すと、絶対に誰かに突っ込まれてしまう。 「正しくない」トップの人は、だからこんなメディアは絶対に運営できない。

正しい人にだって、グダグダになって炎上して、日本中から笑いものになってしまうリスクだって もちろんあるけれど、その人が自分の仕事を本当に面白いものだと感覚していて、 それを行動との矛盾なく発信できるなら、その施設にはきっと、 意気に感じた人たちが集まってくるはず。

忙しくて人が集まらないところ、産科や小児科、内科や外科みたいな科だからこそ、 正しくがんばっている人達は、その「正しさ」を発信する意味はきっとあると思う。

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2007年3月17日

ムカデの足は考える

互恵的利他主義について、もう少しだけ。

ムカデという生き物は、文字どおり無数の足を持っていますが、 実に効率よく、すばやく動きます。

あの足の動きを中枢だけで制御するのは無理です。制御に要する計算量は、 足の数だけ増えてしまい、足が100本を越えたあたりで限界が来るでしょう。

昆虫は、恐らくはそれぞれの足ごとに簡単な反射弓を持っていて、 それぞれの足は、足が観測した情報だけで、その足の行動を決定しているといわれています。

MIT で作られたムカデ型のロボットは、各足ごとにサーボとCPUとを備えていました。 それぞれの足は簡単な反射弓だけで制御されており、ロボットには中枢神経に相当するものが 何ら実装されなかったにもかかわらず、 このロボットは知性があるかのように振舞ったのだそうです。

遺伝アルゴリズムによるコミュニティ最適化

ムカデだって生き物ですから、餌を食べないと死んじゃいます。餌を食べるには、 他の個体との競争に打ち勝たないといけません。

ムカデの足に意思があったとして、もしもその足の何本かが社民党の党員だったり、 朝日新聞の熱心な購読者だったりしたら、何がおきるでしょう?

  • 弱い足にだって平等な血流を受ける権利がある。循環器は我々に対して謝罪と賠償を…
  • 勝つのは大事だ。だがちょっと待ってほしい。相手の声に謙虚に耳を傾けるべきではないか

こんなことを言いだす「足」を持った個体は、餌にありつく前に、足がもつれて死んじゃうでしょう。

意見する足なんて邪魔なだけ。ならば、全ての足を中枢制御して、命令どおりに動かせたら 効率はいいのでしょうか? 国家単位でこれをやったのは、何といっても地上の楽園、北朝鮮ですが、 やっぱりあんまりうまくいっていません。

競争に勝つには走らないといけませんが、鞭打つにも限界があります。 犬の心不全モデルを作るときには、ペースメーカーで頻脈の状態を維持しますが、 上からの「意志」に基づいた制御を強制すると、足だって疲れてしまいます。

成果主義はどうでしょう?

ムカデの仕事量は、それぞれの足に流れてくる血流量で査定されるとすると、 ムカデの足はきっと、最小限の労働で、最大の血流を得ようなんて考えるはず。 何せムカデの足は無数にありますから、1本やそこいらの足がサボったところで、 ばれません。弱い振りする奴等が最強。そのうちどの足も朝日を購読しはじめて、 そのムカデは滅んじゃうでしょう。

足のことを一番よく分かっているのは、足自身。足の自由意志を尊重して、 足は各々自分にできる最適な振舞いをするだけなのに、全体としては あたかも一つの生き物のように統一した振舞いを見せる。 進化論的な時間を勝ち抜いてきた、現代のムカデの足には、 こんな制御が行われているんじゃないかと思います。

互恵的利他主義ルール、あるいは前のエントリーで書いたみたいな「菩薩ルール」で 制御されている社会では、ムカデの足はそれぞれ自由な意志を持ちながら、 同時に全体として協力しあいます。

自由な意志は大切で、尊重しなくてはならないけれど、それが個体を殺してしまっては しかたがない。自然界で生き延びてきたムカデの足は、たぶん朝日なんか読まないし、 心臓と取引なんかしません。それぞれの足はベストを尽くして、心臓もまた、それに応えて。

百足の足に自我はあるのか

足は足を知りますが、脳から足は見えません。

それぞれの足に中枢がないと、ムカデは歩けませんから、やっぱり自我はあるんだと思います。

「我」があったとして、足が持つ自我というものは、どのぐらい全体に寄与するのでしょう?

歩くムカデが石を乗り越えようとするとき、それぞれの足は、石の大きさなんて見ちゃいません。 お互い完全な信頼関係で結ばれちゃってますから、隣の足が上に上がれば、次は自分が上に上がる。 その振舞いをみて、3本目の足も続きます。

足にだって動作の選択肢があるはずです。上に上がらないで横によけるとか。

「急に石が来たので。足の内側でよければよかったが、外側によけてしまった」

たまにはこんなヘタレな言い訳して失敗する足がいたっていいはずなんですが、菩薩ルールは強力。 みんな「自分の意志」で「常に最適な動作」を決定した結果、 ムカデの動きはどう観察したって一つの生き物にしか見えません。もしかしたら足にも 自我があるかもしれないのですが、「足はこう考える」という意志は、観察者には伝わりません。

互恵的な贈与で駆動される世界が理想的になればなるほど、自由意志は 事後決定的に振舞います。自我というものは、何かを判断する場所というよりは、 環境と個体との関係から生まれる、 単純な反射弓みたいなものになってしまいます。

お釈迦様は、我の有無について語りませんでした。

その頃のインドではアートマン論争が すごかったらしくて、有るといっても無いといっても敵を作るような状況でしたから、 仏陀が語らなかったのは単なる政治的なポジションだったのかもしれませんし、 あるいは上で書いたようなこと、コミュニティが理想化すればするほど、 自我は「自由」をもつはずなのに、結果としてそれは決定論的な、硬直した 反応しか許されないものになってしまうジレンマを感じていたのかもしれません。

土人必死だな(プ と文明人は笑う

生きることが今よりずっと切実だった大昔。部族単位での生き残りを 試行錯誤していく中で、生き残ったルールが互恵的利他主義なんじゃないかと 思います。

旗振り役をやるのは、「通過儀礼」をくぐりぬけた部族の大人達。 通過儀礼というのは、どの部族でも大体共通していて、一度象徴的に「死んで」、 何か大きなものに「食べられて」、大人として生まれなおす、そんなもの。 全体を意識する大人の間に作られる自生的秩序というものが、部族をまとめます。

「ムカデかわいいよムカデ。ムカデ最高。みんなで足になろうよ」というのが仏教の大雑把な教え。

ムカデ社会、あるいは菩薩ルールと言うのは、本当はコミュニティが生きていく上での最適解。 ところが、生き残るのに切実でない人にとっては、これは土人臭い考えかたです。 そんな人に仲間になってもらうのは大変。

「足りてる人」に対する説得を放棄して、力技で仲間を作った武装集団がスパルタ兵士です。

仏教は宗教ですから、みんなに痛い思いをさせないで、 何とかして「ムカデの足になるすばらしさ」を伝えようとしましたけれど、 たぶんうまく行かなかったんじゃないかと思います。分かりにくいから。

誰でも分かる、痛くない「分かりかた」というのは、「餌」を話題にすること。

「ムカデはいいよ、足になれば餌に不自由しなくなるよ」なんてやっちゃった弟子がいて、 「約束が違う」と似非宗教扱いされたり、原点回帰をかけようとして、 いろいろややこしい決まり事を作ってドツボる弟子がいたり。

Q:「これ、○○宗でしょ?」
A:「○○って(笑)いやいや笑っちゃいけないか。原点に帰った仏教だよ」
Q:「でも御利益あるんでしょ?」
A:「違うよ。全然違うよ。」
Q:「でも、似てるじゃない」
A:「全然違うよ。全く関係ないよ。」

鎌倉時代とか、たぶん日本のどこかでこんな会話がやられてたりして。

自由意志に意味はあるのか?

社会はきっとループします。

今みたいなお金万歳的な流れだってゆり戻しがくるでしょうし、 村社会2.0 とか言い出す人きっと出てきて、通過儀礼を経た「仲間」だけで コミュニティを作るでしょう。

医療の分野だって、どうせ戻ります。もとの形にはならないでしょうけれど。 「昔を知っている人」は、絶対それを忘れません。どんな形であれ、 マスコミやら政府の人やらが今度は逆噴射して、今よりもっと滅茶苦茶になりながら、 たぶんマンパワーだけ充足するはず。医者の意志なんて関係無く。 どんな「足」にだって、どうしようもなく自我は有るのに。

自由意志に意味はあるんでしょうか?

通信系が発達して狭くなった世界。最適解と、そうでない選択肢との断絶が深くなれば、 「自由な意志が、環境との相互作用で事後的に決定される」社会に近づきます。 菩薩ルールで駆動される社会というのは、 あるいはインターネットが力技で作っちゃうのかもしれません。

自由意志というものが、外部環境から決定される行動を「追認」するものでしかないものならば、 それでも、生きることは素晴らしいのでしょうか?それとも、そこにあるのは諦念だけなんでしょうか? あるいは、自らの力でこのループを断ち切って、ネットワークを離れて「外に出る」ことなんて 可能なんでしょうか?

勤勉な精神科医が仏典調べている間、怠惰な内科は シルバーガン のことを考えます。あれをクリヤーできた勇士なら、あるいは 自由意志についての回答に答えられるのかもしれません。

私は斑鳩のときに心が折れて、それっきり。

銀銃、PCで再発売してくれませんかねぇ…。

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2007年3月15日

勇気と恐怖と全体と

ギリシア全土の存亡のかかったテルモピュライの戦い。レオニダス王以下スパルタ重装歩兵300人は、 総数200万とも伝えられるペルシア帝国軍の侵攻を7 日間にわたって阻止した後、全滅した。

スパルタ兵士の戦いかたは、ギリシャ方陣。

右手に長い槍を持って、左手に大きな盾を持ち、お互いに密集して方陣を組む。ギリシャ方陣では、 戦士は隣の兵士の持つ盾の中に身を隠す。兵士の盾は、自分自身を守るためのものではなく、 隣に立つ戦友を守るためのもの。

この戦法は、陣形が崩れなければ、威力が強いけれど、兵士がお互いを信用できなくなった瞬間に 陣形は崩れ、方陣もろとも潰されてしまう。

  • 200万の軍勢を前に全滅したスパルタ兵士は、どうやってギリシャ方陣を保ちつづけられたのか?
  • 自らの死を前にしたとき、人は戦友を守るために自らの盾を掲げられるものなのか?

テルモピュライの戦いを描いた小説、「炎の門」は、そんな勇気と恐怖をめぐる物語。
以下、引用多数ネタバレ上等で。

恐怖の対義語とは何か

「常に頭にとり付いて離れぬ問いがある。それは恐怖の対語とは何か、ということだ。」

決戦直前、スパルタのベテラン兵士ディエネケスは、こんなことを語り始める。

それを無恐怖だといっては意味がない。それは反命題の形で表された命題でしかない。
私が知りたいのは真の相対物なのだ。

文中、最悪の恐怖として常に名指しされるのは、死の恐怖。恐怖を克服する力、 「死にたくない」という、保身の願望よりも強い力となるのが「勇気」というもの。

スパルタ人は、死の恐怖をさらに大きな別の恐怖で埋め合わせている。すなわち、不名誉という 恐怖、群れから除外される恐怖だ。それは勇気であろうか?不名誉を恐れて何かをするのであれば、 それはすなわち恐怖から出た行動ではないのか?

英雄の勇気すらも完全ではない。彼らは不名誉を恐れて戦うのではなく、 栄誉を求めて戦う。それは立派なことであろう。しかし、それが真の勇気であろうか?

ギリシャ人は神を信じ、信託を信じる。ところが「勇気とは一体なんなのか?」という疑問 に対してだけは、神様は答えを出せない。神様は、死を知らないから。

「神は何でも知っているが、勇気に関する問いだけは別だ。 死を知らぬ神に何が分かる。神々は死ぬことができぬのだ。」

信仰は勇気を生むのか?

死の恐怖を克服したいと願う人々は、往々にして肉体の死語も魂は生き続けると説くが、 私に言わせれば、それは単なる願望にすぎぬ。死ねば極楽に行くという者もいる。 ならば聞いてみたいものだ。「それがまことと思うなら、何故今すぐ死んで極楽への 道を急がぬのだ?」と。

根拠のない信仰は、死の恐怖を消してくれない。

戦いに慣れていない軍隊というのは、将軍が大声で檄を飛ばしたり、 槍の穂先を派手にぶつけあったりして、何とかして自分達の戦意を煽り立てようとする。 スパルタ兵士の方陣はそんなことをする必要はなく、常に「そのとき」に備えて冷静に待つ。

戦いとは、仕事であって神秘ではない。決戦前夜、スパルタのレオニダス王は、 配下の軍隊に対しては実際的な、物理的に可能な行動の指示のみを出した。

レオニダス王は、精神をある特定の状態に保つよう求めても、そのような指示は、 彼らがこれから王の焚き火の輝きが及ばぬところへ散ってしまえば、 たちまち無力になってしまうものであることをよく知っていた。

異常の中で普通を行う

物語終盤、焚き火を囲んだ議論は進む。

スパルタ戦士ディエネケスの従者は、もともとは騎馬民族だった。スパルタにつれて来られた当初、 彼はギリシャ方陣を「何と古臭い戦いかたなのだろう」と思った。ところが戦いに参加する中で、 それがだんだんと崇高なものに見えてきたのだという。

およそこの天の下に、恐怖に散り散りとなった方陣ほど蔑むべき光景があるでしょうか。
それに反して揺るがぬ方陣の何という壮麗さ、崇高さ!

崩れた方陣しか組めない兵士と、常に冷静なスパルタ兵士とを分けているものが勇気

勇気とは、全滅、敗走、屈服の瀬戸際に立たされながら、おのれの身魂と日ごろの鍛錬によって、 動転せず、絶望にも陥らず、普通とはかけ離れた状態で普通の事を行うことができるような心の状態。

その勇気を、アキレウスのような伝説の英雄のように自分一人で実感するのではなく、 混乱と無秩序のさなかに、同じ部隊の一員として、よく知りもせず、共に訓練をした こともない戦友と共有するとき、自分の槍の側、盾の側、いずれにも戦友がいて、 自分と同じように勇を鼓して闘っているのを見るとき、自暴自棄の狂躁からでなく、 各人がそれぞれの役割を知り、それを実行するために自制をもっておのれの力を 引き出そうとするのを見るとき、戦士は我が身が神の手で救い上げられたかのような 気になるものなのです。

ディエネケスが答えて一言。「恐怖の対語は……愛だ」。

彼の中にこそすべてが含まれている

決戦直前。その数時間後には、スパルタ兵士300人は、確実に全員死ぬ。

ディエネケスが部隊を前にして、最後に語った言葉。

我々は、今口には出さねど深い恐怖を胸に抱いている。死への恐怖ではなく、 それ以上にやっかいな恐怖、すなわちこの最後の時に立ち至っておのが心が 弱り、ひるむのではないか、恥ずべき行いをするのではないかという恐怖だ。
我が友よ、そこにこそそなたらの為すべきことがある。国を忘れよ。王を忘れよ。 妻も子も自由も忘れよ。今日の合戦を戦う理由を考えているのなら、それが いかに崇高なものであろうとすべて忘れよ。
ただ一つのもののために 戦うのだ。そなたらの傍らにいる者だ。彼こそすべてなのだ。 そして、彼の中にこそすべてが含まれているのだ。

部分は全体。戦士が自分ではなく傍らの「彼」のために、 彼を通じた全体のために命を捧げる覚悟をしたとき、兵士の中に生まれた真の勇気は恐怖に打ち勝つ。

ここから仏教。華厳経では、「菩薩のあるべき心」をこう定義している。

菩提を求める心を発するならば、微小な世界がすなわち大世界であり、 大世界がすなわち微小な世界であることが分かるのである。 さらに小なる世界が多なる世界であり、多なる世界は小なる世界であり、 一つの世界は無辺なる世界である。

菩薩であるためには、全と個との境界が消失していなくてはならない。

功徳を積むには布施を行わなくてはならないが、事物に執着しながら行うのは布施ではない。 菩薩は、相の観念にとらわれないで布施をしなければならない。

布施は純粋な贈与でなければならない。贈与に見返りを求めたり、 贈与が何らかの物質性を持った「贈り物」になってしまうと、贈与は単なる交換に堕してしまう。

贈与という行為は、相手と自分という2者を設定した時点でもう成立しない。 贈る者と贈られる者との区別や分離が全く発生しない状況の中でだけ、 純粋贈与という行為が可能になる。

「すべてを忘れよ。傍らにいる彼こそがすべてなのだ」という、スパルタ戦士が到達した 勇気という心境は、菩薩の心の状態、一切の差別相が発生しない心によく似ている。

菩薩メソッドによるコミュニケーション

「自身と他者とを区別しないところから真の勇気が発揮される。 地域医療が崩壊している。我が身かわいさに盾に隠れる医師は、 スパルタ兵士の勇気に学んでほしい」。

こんなふうにまとめると、朝日新聞の社説になってしまうけれど、もう少しだけ。

菩薩ルールで駆動されるコミュニティでは、常に相手を信用するから、 互恵的な振舞いを行うことができる。 争い事が事実上消滅するから、非常に効率のいい社会を作れる。

ところが、「菩薩ルール」というのは外に広がっていくことができない。

相手を裏切るという選択肢が存在しないから、初対面の相手に裏切られてしまうと、 菩薩側は必ず負ける。同じルールを共有するには、通過儀礼を越えて、 対話の相手に中に入ってきてもらわないといけない。

スパルタ人は、「市民」という通過儀礼を経た少数の仲間だけを対象に社会を形成して、 それ以外は奴隷として冷遇したから、こんな菩薩ルールが上手く機能した。

個人の信頼とか、人間性みたいなものはお金で査定できない。見返りを求めない勇気、あるいは 布施という行為は、その人の信念が発露したものだから、その中に意図とか人間性とか、 お金では表現できない何かを埋め込んで、相手に伝えることができるけれど、 分かりあえる「仲間」以外には伝わらない。

「菩薩ルールは快適だが、仲間を増やせない。交換経済は菩薩の境地には遠いけれど、 信頼できない人とでもコミュニケーションがとれる」。

菩薩メソッドを発見した仏陀もきっと、たぶんこんなジレンマにぶつかったはず。 このあたりを誤解した原理派が、全人類菩薩化計画みたいなものを その場の気合だけで発動させたりして、仏教の歴史は血の歴史。

ネット時代。贈与と交換、情報量と流動性。両立不可能だった2つのパラメーターというものは、 もしかしたらこれから両立が可能になるのかもしれない。

オープンソース運動、あるいはWeblog のブームというのは、贈与の情報量を持ちながら、 貨幣を中心とした交換の持つ流動性とを併せもった、今までにないコミュニケーション手段。

「ネットワークの向こう側」、新しい世代の菩薩コミュニティというのは、 そこに加わる人に、どんな通過儀礼を要求するのだろう?

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2007年3月14日

創造的疾患解決手法

昔々、某呼吸器病理の大家が、肺炎で亡くなった患者さんの肺を、 片端から調べ尽くしたことがあった。

肺炎は、細菌が肺にダメージを与えて発症する。肺組織のダメージを病理学的に評価すれば、 組織を見ることで原因菌が特定できるはず。

狙いはこんなところだったらしい。

ところがいろいろ調べていった結論は、「どんな微生物が原因となっていても、 肺胞はみんな同じように破壊されて、区別がつかない」というものであったという。

この先生はもう一歩踏み込んだ発言をしていて、肺胞の破壊だけに注目するならば、 肺炎と肺がんは、同じように肺胞を破壊するのだとか。もちろん、両者を区別するのは 顕微鏡を見れば簡単なんだけれど、細菌とか癌細胞には敢えて目をつぶって、 肺胞の壊されかたを定義で厳密に追い込んでいくと、それらを病理的に区別することができなくなった。

「肺炎と肺がん、外からの原因に対する薬は、抗生物質と抗がん剤とで異なるけれど、 病理の立場からは、 両者に同じように効果のある薬があってもいいように思う。ステロイドは、たぶんその解答に近いところにいる」

こんなことを言っておられたそうだ。

脳のしゃっくり、横隔膜の不整脈

細胞は、時々異常な興奮をする。

異常な興奮が脳に生じれば、てんかん発作。心臓にくれば、心室頻拍や、心室細動。 横隔膜に来るとしゃっくりで、下肢に来ると「足がつった」と呼ばれる状態になる。

それぞれの臓器に応じて、治療はいろいろだけれど、これらはお互いに置換可能。

抗けいれん薬は心臓にも効くし、その逆もあり。しゃっくり止めに抗不整脈薬を 使うこともあるし、足の痙攣を予防する漢方は、しゃっくりの特効薬になったりもする。

抗けいれん薬は、たとえば統合失調症なんかにも用いられることがあって、 けっこう効果があるらしい。

アポトーシス。何ら原因が無いのに細胞が自殺する、この状態もまた、 体のいろんな場所で見られる。

拡張型心筋症で心筋が脱落するのは、このためだと言われる。 間質性肺炎みたいな、臓器の働きがだんだんと落ちていくような病気では、 アポトーシスが絡んでいるケースがけっこうある。

心不全に効果がある薬というのは、アポトーシスを抑える働きがある。 間質性肺炎には、伝統的にステロイドとか、免疫抑制薬みたいな薬を使う。

この両者を置換する試みも始まっていて、間質性肺炎にACE 阻害薬を試してみたり、 ある種の拡張型心筋症には、免疫抑制薬が効果があるなんて報告されたり。

創造的疾患解決手法

ロシアの特許調査官、アルトシュラーは、過去に申請された多数の特許を調べていくうちに、 たとえ分野が違っても、発明には共通するやりかたがあることに気がついた。

すぐれた発明であっても、その問題解決のやり方は別の分野ではすでに常識であったり、 どこかの分野で何か問題が発生したとき、解決策を発想するのに、他の分野のやりかたが 参考になったり。

多数の優れた特許を内容的に分析して、問題解決のパターンを明確にすれば、 自ら問題を創造的に解決する力を身につけることができる

ロシア人はスターリン時代からこんなことを考えて、「創造的問題解決手法:TRIZ」という 技法にまとめた。

病気の原因というのは病気の数だけ無数にあるけれど、その原因を受ける細胞がとれる反応には 限りがあって、体のそれぞれの場所で細胞が取る反応が、外から見える症状を生む。

臨床医学の基本的な考えかたというのは、 症状から原因を探して、治療を通じて原因を除去すること。ところが、 原因が分からない病気は無数にあって、原因が除去できないにもかかわらず病気は治る。

内科医が使う薬の中で、はっきり原因を想定して使う薬、 抗生物質や抗がん剤みたいなものはむしろ例外的。 多くの薬は細胞自体に働いて、体全体のバランスを変えるように作用する。

アレルギーやアポトーシス、外敵による直接破壊や虚血、異常興奮みたいな「細胞の振る舞い」を 横軸にとって、病気の主座になっている臓器を縦軸に取って、病気をマトリックス上に展開してやると、 いろいろ面白いことができると思う。

  • 使える薬が限られている疾患に、異分野で古くから使われている薬を試すことができる
  • 「マトリックスの空白」に注目すると、疾患の原因を特定できたり、漠然とした症状に埋もれていた疾患が見つかるかもしれない
  • 専門家の誰かが新しい治療手段を発見したとき、それをいち早く別の病気に応用したり、あるいは薬の副作用を予測したりといったことが可能になるかもしれない。実際検証しなくても、総合屋さんがアイデアの先住権を主張でする場面が見られるかも。

部分の集積から全体を見出す

総合臨床とか、家庭医学とか、医療崩壊の仇花みたいな臨床講座が流行中。いろんな大学に 「総合」を謳う教室が作られているけれど、外科の先生方の「腰かけ」ポストだったり、 やってることは漢方とリラクセーションだったり。

「総合」を本気でやろうと思ったならば、必要なことは「原因を探す」工程を回避する思考回路を作って、 今までの知識の蓄積を、原因抜きで再構築することだと思う。

その方法は、前書いたみたいな「症状-治療」を直接結んだ治療スクリプトみたいなものを書くやり方でもいいし、 TRIZ みたいな思考マトリックスを使うやりかただってあり。

頭のリソースはみんな一緒。専門の先生がたが、そのリソースを部分の追求に全て投入するのに 対抗しようと思ったならば、総合屋さんは別の方法論を考案して、 少ないリソースで多くの部分を同時に考察する、そんなやりかたを 見つけないといけない。

部分の集積から全体を見出すやりかたというのはたぶん無数にあって、 それぞれの考え方に利点も欠点もあるけれど、きっと得られるものもいろいろあるはず。

いろんな大学にある「総合」の人達が、同じ医学の知識を思い思いのやりかたで再構築して、 実世界での臨床に役立てる。

「うちの患者じゃありません」なんて専門科同士の押し付け合いじゃなくて、 いろんな総合屋さんの疾患解釈の争い。そんな時代が来ると、医学ももっと面白くなると思う。

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2007年3月13日

院長室の秘儀

昔研修していた400床の民間病院では、一晩に当直する医師の数が12人。

救急外来4人。内科2人、外科2人、産婦人科、小児科が各2人。

病院の隣に「夜明かし」という飲み屋さんがあって、そこの奥座敷が整形外科の第2医局。 朝の5時ぐらいまでだったら、そこには必ず誰か常駐していたから、分からない骨折の人がきたときは、 電話一本で飛んできてくれた。

救急外来はいつもお祭り。ダブルCPRなんかになると病院中の当直医が集まってきて、 昼間以上のにぎわい。3日に1回は当直だったし、仕事は忙しかったけれど、 今はいい思い出。

救急車奪いあい。症例奪いあい。 救急医療の崩壊なんて、考えもしなかった、ほんの6年前のこと。

責任者を出せ

フロントラインに立つのは研修医の仕事。

当時は自分も研修医。裏でどんなドラマがあったのかは知らないけれど、 実際のところ、クレームやトラブル、ものすごく多かったらしい。

ある程度年次が上になって、何かの折りに病院長と話をすることがあったとき、そんな話題になった。

まだ分からないだろうけれど、病院長っていうのは、本当に大変なんだよ…

病院長は、そんなことを述懐していた。

当院のローカルルールでは、研修医が起こしたトラブルは、全て病院長が責任を取るルール。

ルールは徹底していて、研修医が万引きしてつかまったとか、キレた研修医が患者さんを殴ったとか、 そんなことだって院長の責任。問題をおこした研修医は、基本的には翌日から普通に仕事を続けて、 患者さんとのトラブルについては、忘れてかまわない。

患者さんの家族と面談したり、警察とのやりとりといった仕事は、全部病院長の仕事。

そのルールは明文化はされていなかったし、うちで研修した全ての研修医がそれを知っていたとも思えないけれど、 うちの病院にはそういう掟があって、歴代の院長はみんなそれを守っていた。

責任と行為の分離

医師が行使できる力というのは大きすぎて、経験のない研修医が使うには相当危ない。

西洋医学というのは、うまくいけばすごい結果を生むけれど、 失敗してもまた、すごいことになる。それでも、失敗しないで上手くやる方法を学んでいくためには、 正しく失敗する経験は欠かせない。

研修医は、無茶をやることで失敗を覚え、だんだんと一人前になる。 手を後ろに回してばかりでは、いつまで経っても手技なんて覚えられない。

「トラブルを起こしたら上を呼べ」というのが、研修医に教えられた唯一の回避手段。 呼ばれた「上」は無条件で出てきて、その時点で研修医はそのトラブルを忘れて、次の仕事へ。 みんなどんどん問題を作ってはスルーして、その問題は最終的に院長室に持ち込まれて、 いつのまにかどうにかなっていた。

当時の病院では、「行為に伴うリスク」が研修医の目からは巧妙に隠されていたから、 今から思うと本当に無茶をしたものだった。

視野の狭さと世界の道理と

研修医の頃は、自分のことばっかり。忙しければ不機嫌になるし、 余裕が出れば仕事をほしがる。全体なんて見えないから、個人の気分と病棟の空気とは いつもどこかずれていて、トラブルばっかり。

自分が忙しいときには、たぶんどこの病院だって忙しいんだけれど、 救急車はやっぱり救急病院に集まってくる。 「なんでうちばっかり救急車が来るんですか!!」なんて、夜中に病院長と電話で喧嘩してみたり、 赤面もののエピソードいっぱい。

年次が上がって、下級生の面倒を見るようになって、 行為に伴うリスクというものが少しは分かった頃、 病院長から「種あかし」をしてもらって、そのあとさらにいろいろあって、今の病院へ。

患者さんも同じ。いい患者さんはいろんな「良さ」を見せてくれるけれど、悪い患者さんはいつも一緒。

重症診てても「いつまで待たせるんだ!!」と怒鳴り込んでくる風邪の人とか、 真夜中になってから3日前の風邪引きの子供を連れてきて、 「もう心配で心配で…」なんて涙目になるお母さんとか。

みんな自分ばっかり。視野狭い。

視野というのは、最初のうちは本当に狭くて、研修医も患者さんも、自分だけ。

みんな「大人」と話して、視野の広さを獲得して、世界を見直して、道理を覚える。

15少年漂流記の暗黒版、「蝿の王」では、無垢な子供たちが孤島に流されて、 お互い助け合い、そのうちだんだんと堕落して、最後は殺しあいになってしまう様が描かれる。

「ぼくらはみんな押し流されているんだ。何もかも腐りかけているんだ。 家にいたころはいつも大人がいたっけ。これどうしたらいいですか、 先生……それですぐに答えてもらったもんだった。こんなときこそほんとうに!」

院長室の秘儀

「院長室の秘儀」というものは、病院長級の先生方だけに継承されている、究極の交渉術。 若手はそんなものがあることすら知らなくて、自分ももちろん知らない。それはたぶん、 部長級の先生方が院長になる時に伝授されるもので、 院長の看板背負ってる人ならば、本来は誰だってこれが使える。

あの頃の病院長は、視野の狭い研修医と、視野の狭い患者さんとを同時に相手して、 道理を諭してトラブルを消す達人だった。研修医の頃から喧嘩しながら、 同時にいろんな事を教えていただいたけれど、あの「院長室の秘儀」だけは、 未だにどうやってあれだけのトラブルをさばいていたのだか、想像もつかない。

いろんな病院を転々として驚いたのが、「医者は自己責任で仕事をする」というルールが 当たり前だったこと。

当たり前だろ、馬鹿じゃねぇの?と思うかもしれないけれど、 研修した病院では、手を動かす人と、責任を取る人とは全く別だったから、 「手を動かすやつが責任を取らなきゃいけない」というルールは初めて体験する恐怖だった。

今いろんな病院から医師が立ち去って、組織が維持できない病院が増えている。 そんな病院はたいてい、上の人たちが現場をかばわなかったり、下手するとえらい人が 後ろから医師の背中を撃ってみたりして、リスクの高い科から人がいなくなる。

これが単なるルールの違いなんかじゃなくて、もしも「院長室の秘儀」と言うべきものが そんな施設のえらい人達に継承されていないのだとすれば、 それはそうとう深刻なことなんじゃないかと思う。

トラブルをおこすのが怖くて、人間関係を保つ姑息なノウハウはいろいろ覚えたけれど、 当時の「大人」達のレベルには全然追いつけない。時代が変わって、ノウハウ消える前に 誰か継承してくれないと、この業界は本当に終わる。

どこかでちゃんと伝わっていると、信じたいけれど…。

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2007年3月12日

モデルが現実を駆動する

心不全というのは、最初は「ポンプが作動しなくなる」病気だと理解されていた。

いくつかの発見があって、「ポンプ不全モデル」で説明できない事実が出てきて、今度は 「血管抵抗モデル」という新しい概念が提出されて、心不全という病気は、 今では「内分泌の異常」と理解されるようになった。

ポンプ不全の時代

70年代ぐらいまで、心不全というのは「心臓というポンプが駄目になる病気」と理解されていた。

「心不全の患者さんに水が貯まって苦しくなるのは、心臓が弱ってしまったから」

このモデルに従うならば、用いるべき薬は利尿薬と強心薬。

この頃の代表的な治療手段は、強心薬であるジギタリス急速飽和療法。 「さじ加減」の言葉は、 ここから生まれた。

この頃すでに、ACE 阻害薬とかβ遮断薬とか、ニトログリセリンみたいな、現代でも 用いる心不全治療薬はすべて発売されていた。ところが、こういった薬は、 「心不全はポンプ不全」というモデルには乗っからない薬だったから、出番がなかったり、 あるいは禁忌とされたりしていた。

血管抵抗モデルの登場

血圧を下げる薬というのは、「ポンプ不全」モデルでは心臓に対する作用が期待できなくて、 不必要に血圧を下げてしまう可能性があったから、当時は禁忌とされていた。

ところが、心不全の患者さんというのは、しばしば狭心症を合併して救急外来に担ぎ込まれる。 患者さんは息が苦しくて、さらに胸を痛がる。

狭心症にはニトログリセリンを使う。これはダイナマイト発明前からの常識。 患者さんにニトログリセリンを舌下してもらうと、胸痛は落ち着いて、どういうわけだか 呼吸困難感も落ち着いてしまう。

こんなケースが何例も報告されて、「ポンプ不全」モデルでは全ての事例が説明できなくなった。

心不全というのは、血管抵抗の増加に対して心機能が追いつけなくなって生じる。ニトログリセリンは血管抵抗を下げることで、心拍出量を増加させる。

ニトログリセリンの効果は、こんなふうに、電流と電圧、抵抗の関係で説明がなされるようになった。

新しいモデルは古い薬を追い出す

血管抵抗モデルが普及してくると、今度は昔からの心不全治療薬、強心薬の居場所がなくなった。

しばらくの間は、急性期は血管拡張薬、慢性期はジギタリスみたいな治療が行われたけれど、 そのうち「血管拡張薬とジギタリス、予後を良くするのはどちらなのか?」という検証が行われて、 ジギタリスは主役を降りた。

いろいろあって生き残ったのがACE 阻害薬。これが主役になってから、心不全患者さんは 本当に死ななくなった。ほんの10年前まで、心不全の5年生存率というのは 悪性腫瘍並に悪かったけれど、 今はよっぽど悪い人でない限り、心不全だけで亡くなる人というのはまれになった。

モデルがないと、普通の人間はたぶん、目の前の事実を認識できない。

ACE 阻害薬自体は、古くから用いられてきた血圧の薬。血管抵抗モデル登場以前、 高血圧と心不全のある患者さんで、この薬を飲んでいる人だってたくさんいたはずだけれど、 「これ効くよ!」なんて声は聞こえなかった。

研修医の頃、ACE 阻害薬とβ遮断薬とを開業の先生からもらっていた患者さんが、 心不全をおこして入院したことがあった。当時のサマリーを見ると、その薬は全部 中止されて、ジギタリスを出して退院、と書いてある。

今の感覚で行くと、 これは犯罪行為だし、当時だってこれをやったら患者さんが悪くなる ということを実感できたはずなんだけれど、患者さんは「良くなって」、また外来に戻っていった。

血管拡張がいいのか、ACE 阻害薬がいいのか

「血管抵抗を下げて、血圧を削って心拍出量を増やして、全身の循環を正常に戻す」という 血管抵抗モデルの考えかたは分かりやすくて、80年代始め、 今度はいろんな血管拡張薬の治験が行われるようになった。

血管拡張薬には明らかな優劣があった。

  • ある薬は心不全を良くするのに、別の薬は明らかに死亡率が上がる
  • 2種類の血管拡張薬を比較すると、「患者さんが元気になる薬」と「寿命が延びる薬」とがあって、 この違いは単純な「血管抵抗モデル」では説明できない

患者さんを長生きさせたのは、ACE 阻害薬。ところが、 血行動態改善の指標である「患者さんを元気にする」 競争では、この薬は必ずしも1番ではなかった。

血管抵抗モデルが正しいのか、それともACE 阻害薬が正しいのか。

血管拡張薬のある種のものは、レニン-アンギオテンシン系を刺激してしまったり、あるいは 交感神経の緊張を招いてしまったりする。血行動態が改善しても、こうした内分泌環境を 改善できない薬は、結果として心機能を悪くしてしまう。ACE 阻害薬は、血管を拡張するとともに、 こうした内分泌環境をも改善する。

事実を説明しきれない血管抵抗モデルは主役を降ろされ、 今度は「レニン-アンギオテンシン系や交感神経の活動自体が 心臓にダメージを与える」という、内分泌モデルが広まるようになった。

新しいモデルは過去の薬をリバイバルする

新しいモデル、内分泌モデルで主役になるのは、 レニン-アンギオテンシン系や交感神経の活動を抑える薬。

良くできたモデルは、しばしば次に来る薬を予見する。

「内分泌モデル」が正しいならば、 ACE 阻害薬以外にも効く可能性がある薬が2種類。β遮断薬と、アルドステロン拮抗薬と。

非常に古い降圧薬と、利尿薬。前者は心不全禁忌とされていた薬で、 後者は肝硬変の人なんかに使う、特殊な利尿薬というイメージだった。 モデルが変わって、古い薬にライトが当たって、どちらの薬も患者さんの予後を改善した。 いまでは当たり前のように最初から使う。

顕微鏡が実世界の観察を殺す

β遮断薬は、昔は心不全治療の標準的な薬だったのだそうだ。

「ポンプ不全モデル」が広まるもっと昔、心不全で亡くなる人は脈が早くなるという観察があって、 脈拍を下げる薬であるβ遮断薬は、治療薬として使われて、実際効果があったらしい。

ところがしばらくして、「心不全はポンプ不全だ」という考えかたが広まって、 同じ頃、基礎系の人たちが、β遮断薬は心筋の収縮力を落とすという事実を発見した。

β遮断薬は薬理畑の人達から禁忌とされるようになって、 それから20年近く、この薬が心不全に使われることはなかった。

病気理解のモデルがそれから3回変わって、本来の観察がリバイバルされて、 β遮断薬はやっと正当な評価を受けるようになった。

そして電子顕微鏡の時代へ

ブラックボックスを理解するのには2つのやりかたがある。

  • ブラックボックスを説明するモデルを作って、その動作を検証する
  • ブラックボックスをひたすら分解して、細かい部分を調べていく

心不全治療の世界というのは、5年周期ぐらいで新しい病気理解のモデルが 提案されて、それに応じて新しい薬が選択されて…なんていう進歩のしかたを してきたのだけれど、90年代以降、この流れが止まって、「内分泌モデル」を 限りなく細かく調べていく、顕微鏡屋さんが活躍する分野になりつつある。

顕微鏡屋さんの仕事はどんどん細かくなっていって、今ではレセプターの構造を 解析して、分子をデザインして新薬を作るなんていう時代になった。

で、そんな薬が良く効くかというとあんまりそんなことはなくて、 ARB とかハンプとか、大成功したケースももちろんあるのだけれど、 「効くはず」の薬があんまり上手く行かなかったり、副作用強すぎて 駄目になったりするケースとか、けっこう多い。

過去30年近く発売されている薬を「再発見」するのと、時代の検証を経ていない薬とを 同列に論じている時点で全然フェアでないのだけれど、 薬には「モデルが要請した薬」と「電子顕微鏡が作った薬」との2種類があって、 モデル上は無くても何とかなる薬を今さら作って舞台に上げても、 人間はあんまり幸せになれない気がする。

計算的深さと決定論的カオス

最近は、電子顕微鏡が作った薬が多い。

他の分野でも、疾患理解のモデル自体はもう何年も変わっていなくて、 その細部を顕微鏡屋さんがすごい勢いで埋めて行く。

新しく発見された「細部」は、今度はそれがどう効くのかが論じられた後、 そこから生まれる市場に応じて「そこに効く薬」がデザインされて、 「効く薬」として発売される。

行き当たりばったりで効く薬を探していた昔と違って、 電子顕微鏡が薬を作る過程は決定論的。 細部の新発見から分子デザイン、製品化まで、サイコロを振る人は誰もいない。

困るのが、人体での検証もまた、「サイコロを振ることが最初から許されていない」こと。

「効く薬」として作っちゃったから、「検証したらダメでした」は許されない。 もう売るしかなくて、メーカー協賛の「エビデンス」をゴロゴロ背負った効かない新薬、けっこうある。

モデル駆動の開発というのはたぶん時間がかかって、毎年のように「新発見」を 要求される研究者の人達にとっては、ギャンブルもいいところ。

今はコストダウンの要求も激しくて、メーカーも苦しいんだそうだ。 昔みたいに800種類の物質を同時に試して、 生き残った物質を「製品」として発売するような呑気なこと、やっている余裕も無いらしい。

発見というのは、細かくなればなるほど、その物質が病気に与える影響が複雑になって、 予測できない因子が増えていく。発見の「次数」が1段下がれば、それが実世界の薬に 反映されるまでのステップもまた、1段増える。

そのステップが増えすぎて、計算的深さが深くなりすぎると、 初期値の観察誤差に対する影響が制御できなくなって、 もはやマーケットに薬が出た時に訂正が効かなくなってしまう。

分子生物のことが理解できないやつの僻みだけれど、 頭いい人達、たまには病棟回ってサイコロ振るのも悪くないんじゃないかと思う。

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2007年3月 9日

犬の名前

ひょんなことから、捨て犬を家で引き取ることになった。

巻き毛の雑種。たぶんサモエドかスピッツ族の血が入っているメス。

SF者が犬を飼うとき、これだけの条件がそろっていれば、 付ける名前はクドリャフカ以外には ありえないんだけど、「意味分かんない」と猛反対。

それならば、と有名なFlash見せて 説得を試みたものの、そんなかわいそうな名前はやっぱり嫌だと…。

何か犬の名前でSFっぽいの、ご存知の方いませんか?

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2007年3月 8日

カミソリが鉈から学ぶこと

うちの学生は、頭の「キレ」でいったら東大にだって負けない。
ところが東大とうちの学校が戦うと、どうしても勝てない。
うちが「カミソリ」だとしたら、あいつらは「鉈」。
戦争になったら、カミソリは絶対に鉈に勝てないんだ。

エンジニアだった父親は、生前よくこんなことを言っていた。もう10年以上も前の話。

カミソリは切れるけれど脆い。鉈は、切れないけれど、丈夫で強い。

今思うといろんな疑問がわいてくる。

  • 切れることは正しくないのか
  • カミソリと鉈、志向するマーケットが違うだけなんじゃないのか
  • 鉈が間違って進化するとカミソリになってしまうなら、 鉈が正しく進化した先には、一体何があるべきなのか
  • 「鉈」の長所にたとえられたもの、父親の大学に欠けていて、東京大学の 技術者の人達が持っていたものというのは何だったのか

子供の頃、こんな話を聞かされたときには「どうせ政治の話だろ」、なんて聞き流してしまったけれど、 あれからずいぶん時間がたって、息子がもっと詳しい話を聞きたくなったのに、 その答えはもう地面の下。

全ての技術は「鉈」に通じる

同僚だった先生がたももう70近くになって、いつか「鉈の強さ」の答えを知りたいと思っては いるのだけれど、まだ誰も引退しないでみんな現役。

人生も70過ぎると、もう最終コーナー立ち上がってバックストレートアクセル全開 (富士スピードウェイをマラソンで走らされた人じゃないと分からないたとえ)、 ゴールまではもう一瞬だから、そうなる前に答えを教えてほしいのだけれど、 blog とか書いてる先生は誰もいなくて、自分も仕事が忙しくて、それっきり。

父親と生前交流のあった先生方には、もちろん東大の人も何人もいたし、 大学を離れたいろんなメーカーとか、研究所とか、あるいは海を越えた人もいて。

とりあえず「東大最強」を前提とすると、父親の「鉈」というのは エンジニアの目指すべきイデアの象徴なんだと思う。

たぶん全ての技術者、その中には東京大学の技術者も含めてほとんどの人は、 自分のことを「カミソリ」であると定義して、カミソリが戦って勝てない仮想敵として 「鉈」を設定して、その目標に向かって技術を磨く。

理想が「鉈」でなくてはいけなくて、カミソリでは勝てない理由。 それは技術者によっては営業力みたいなのが解答になるのかもしれないし、 技術の汎用性や堅牢性みたいな、もっと技術的な理由なのかもしれない。

技術を極めてたどり着いた結論はみんな違うし、未だに現役張ってる先生がたに 言わせれば、きっとまだまだ「たどり着いた」なんて過去形で語ってもらっちゃ困るんだろうけれど、 それでもそろそろ結論を出してもらわないと、若手としては相当に困る。

世代を越える文化というもの

技術には定量的な側面と、非定量的な側面とがあって、 外野から見える「技術」というのは常に定量的な側面ばっかりだけれど、 定量的な考察というのはきっと、技術の一側面にしか過ぎない。

技術のもう一つの側面、非定量的な側面というのものこそが技術文化というべきもので、 技術革新があって、定量的な技術が陳腐化しても、非定量的な技術文化は世代を越えて 引き継がれ、一つの独立した思考形態に収斂していく。

思考方法は人をまとめる。同じアナロジーを理解する人、同じ知識を得たときに、 それを頭で構造化するやりかたが同じ人達というのは、そうでない人に比べると コミュニケーションの帯域幅が圧倒的に広くなる。

みんなの知識は共有されて、同じ帯域を共有できない人との間に一種の断絶を作り出す。 バラバラだった技術者の思考形態は、世代を重ねてやがてひとつになり、 今度は「科学」の一分野として活動を続けるようになる。

抽象度の高い学問分野はこのあたり有利だろうけれど、医学とか工学なんかは実世界を相手にするぶん 思考方面が弱い。それは「発達した技術」ではあっても、共通した独特の思考形態をもった「科学」という段階には まだ達していない気がする。

秘伝書を書く人と書けない人

60を越えて、現役を退いた人たちがブームに乗っかって、今まで蓄積した経験を武器に blog の世界に参入すれば、うちみたいな若手の言葉遊びなんてすぐ吹き飛ばされてしまうはずだし、 読者としてはまさにそれを望んでいるのだけれど、本当に話を聞きたい人達は書いてくれない。

そうでない人達の書く文章というのは、残念ながらあんまり参考にならない。その人たちが一生をかけて 追求した「鉈」という仮想敵、その正体についての考察みたいなものはほとんど出て来なくて、 デジカメの写真とか、犬の散歩したとか、そんなのばっかり。

昔の刀鍛冶の人達は、一生をかけて日本刀というものを追求して、何とかして古い時代の名匠を 越えようと努力したのだそうだ。

一生をかけて火を睨みつづけて、眼球が焼けてほとんど見えなくなった頃、 曇った目にはある日、自分が鍛えた刀がついに「達した」ように見える時が来る。 刀鍛冶はやっと満足できて、秘伝書をしたためて、しばらくすると気が抜けて亡くなってしまう。 そんな秘伝書はたくさん残っているらしいけれど、 残念ながらみんな手遅れになってから書き始めるもんだから、 それが役に立つことはほとんどないらしい。

刀鍛冶の秘伝書というのは、ある意味笑い話、技術馬鹿の哀れな一生にしか過ぎないけれど、 今引退して犬の散歩話を書いている人たちが、自分が秘伝書として残すべき「何か」を もしも持っていないんだとしたら、それは本当にひどい話。

みんなが秘伝書を書いて残して、目標とする「鉈」の種類ごとにタグ付けして競争させて、 生き残った秘伝書を次世代に伝えて、世代を重ねて「鉈の正体」へ。

実世界相手のお仕事というのは、数学や物理学みたいに「系」を支配する公理を論理で探すことなんて 無理だから、答えを出さなくても問題を解決できる方法、遺伝的アルゴリズムみたいなやりかたが 似合ってる。

それは「本当に系全体を代表する最適解なのか?」という疑問に対して 無力なやりかただけれど、実世界で実用するにはたぶん必要充分。

斧や刀でなくても、丸太を切ったり人と戦ったりするぶんには、鉈で充分やっていける。 父親の仮想敵があくまでも鉈であって、斧や刀でなかった理由というのは、 案外このあたりにあるんじゃないかと思うのだけれど、もう答えは分からない。

分野が違っても、きっと技術の継承みたいなものは家ごとに行われたって いいはずだし、物語の魔法使いなんかは、代々の血を重ねていくことで 真理を目指す。

自分みたいに秘伝書を受け取りそこねた身としては、 もう他人様の秘伝書拝ませてもらうしか、他に方法ないんだけれど。

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2007年3月 7日

クレーム対策試案

クレームの内容には無数のバリエーションがあるけれど、 クレームを通じて得られるものには限りがある。

クレームの内容とか、ましてや「正しさ」なんて、いくら議論したところで喧嘩にしかならない。 「とりあえず謝っとけ」というのが最近主流になりつつあるけれど、 ただ頭を下げるだけでは役に立たない。

とりあえず謝っておいて、その間に情報を収集して、 「相手は何を求めている人なのか」を探ることができると、 以後の交渉戦略が立てやすくなる。

「クレームをつける」という行為を通じて得られるものによって、クレームをつける人は、 大きく3 種類に分類できる。

  • 対価型:クレームによって何らかの「対価」を得たい人
  • 正義型:クレームによって病院に「正義」を実現したい人
  • 無秩序型:何も考えていない人

その人が求めるものに応じて、最適な対応は異なってくる。以下妄想。

対価が欲しい人との交渉

得たいものは単なる謝罪であったり、入院期間の延長であったり、あるいはもっと実際的なもの、 診察料を割り引くとか、金銭による報酬を要求するとか。

たぶん重要なのは、相手の意見を否定しないで、まずは聞くこと。

相手の求める対価がはっきりしないうちから「それは違います」 なんて反論すると、要求がエスカレートして収拾がつかなくなる。 意見をとにかく聞いて、その間に「結局この人が欲しいものは何なのか」を探り出す。

交渉を通じて何か対価を求める人にとっては、その「何か」こそが、 相手が失って一番困るものであることが多い。

たとえば、対価が「入院延長」であるような人というのは、家の中にはもう患者さんの帰る場所が なくて、病院から謝罪されて退院したところで、今さら引き取れない。こんな人達に 対しては、とにかく謝り倒して、「一度退院して他の施設探しましょう」なんて切り出すと、 その後の話が異様にスムーズに進む。

お金を求める人に対する交渉というのは、他の業界からのノウハウが使える数少ない分野。

基本戦略は「まず頭を下げて、ひたすらに忍従して、お金が絡んだ時点で警察呼ぶ」これだけ。

ベストセラーになった「社長を出せ」とか、クレーム対処本の最終手段というのは、 結局警察に頼るだけ。交渉ノウハウとか、クレームから貴重な助言を引き出せとか いろいろ書いていられるのも、メーカーの交渉窓口のバックには、 「警察力」という巨大な後ろ立てが援用できるから。

ディベートの技術は役に立たない。

やはりベストセラーになった「ヤクザに学ぶ…」系の交渉本には、レトリックの面白さがあるけれど、 そんなことで交渉を有利に進められるのは、何といっても彼らが武力を持っているから。

  • ヤクザの「面白い論理」に乗っかれば、武力なしで理不尽な契約
  • その面白い論理を「つまらない」と蹴飛ばせば、武力行使がくる

ヤクザの交渉というのは、相手に対して「笑ってお金を払う」か、「殴られてお金を払う」かの 2者択一を迫るだけ。武力を持たない病院には参考にできない。

正義が好きな人達

自分のことはどうだっていい、それどころか、そもそも自分の身内に病人なんていないんだけれど、 病院の中に「正義」を打ち立てたい。

マスコミの人達とか、市民団体の人達、妊婦さんやがん患者さんの団体というのは 正義が大好き。

正義は相対的な概念。これもまた、相手がしゃべっているときに 「それは違うと思います」と突っ込むと、大喧嘩になる。

正義が好きな人達は、基本的に交渉相手を「正義の分からない愚か者」だと思っているから、 「違う」と反論されると、「もっと大きな声で分からせる」という戦略をとる。 とりあえず黙って聞く。

この人達に対する対処は2つ。 相手が満足して立ち去るまで黙っているか、泥沼に足を踏み入れる覚悟をするか。

正義が好きな人達は、基本的に忙しい。正義を広める対象は日本中、世界中だから、 田舎の病院ひとつにかかわっている余裕はない。反論しないで黙って首をすくめていると、 たいていは飽きて、どこかにいってしまう。

「正義」をやり過ごすときに大切なのは、相手の考える手続きを大事にすること。 正義が好きな人達は、なぜか内容よりも形にこだわる。 「どうやっても、結果は一緒ですから」という態度は、しばしば致命的な災厄を招く。

相手の正義に対してまじめに反論しようと思ったならば、 まず相手の「正義」が主張するロジックを理解する必要がある。論理を認めた上で、 「その論理でいくと、病院にはこんな問題が生じますがどうしますか?」と