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2007.02.28

知的っぽいけれど知的でない

ネット世界には、知性のスカウター振り切っちゃってるような人たちと、それ以外の大勢と。

残り99% の「それ以外」が上位1% の本物のふりをして、知的を擬態するときのやりかたとか。

「それ以外」にとって知的とは何か

知的は眼鏡をかけている。難しそうな本を読んで、英語を話すこともある。 静かに語り、よく笑い、たまにオルガンを弾いたりする。

世の中の大部分を占める「それ以外」は、知的であるということを、 瑣末な記号の集積として理解する。

本当に知的な人にとっては、「知的であること」は結果。 「そうでない人」にとって、知的であるということは、 中身の問題ではなくてスタイルの問題。

結果を目的化した時点で、それはまがい物なんだけれど、 それを評価するほとんどの人もまた、たいていは「そうでない人」。

よくできた偽物は、しばしば本物に間違えられる。

知性は語らず賢者は死なず

  • 知的な人は、難しい話を、分かりやすい言葉で、分かりやすく語る
  • そうでない人は、どうでもいい話題を、難しい言葉で、難しく語ろうとして自爆する

知的な人の分かりやすい文章というのは、読んだ瞬間に読者の頭に入る。 そのスピードはあまりにも速くて、しばしばその内容が、読者の内側に 知性が自然発生したり、あるいは最初からそのことを知っていたかのように錯覚してしまう。

分かりやすいというのは本当はすごいことなのだけれど、苦労が伴わないからそれが伝わらない。

知性ある人の発信した文章は、すぐにネットのインフラとして誰もが知っている話題となり、 「既知のこと」として、発信者に対する言及なしで広まってしまう。

知的な人は、量と質とを両立させる。

偽物と本物とを区別する決定的な差というのは、 実はアウトプットの質ではなくて量のほう。

知的な人は、質の高い発想を 途切れることなく量産し続けるから、その発想がどんなに薄まってしまっても、 その中心には誰がいるのか、みんな嫌でも分かるようになっている。

偽物だって、がんばればたまにはいい発想するんだけれど、 それが薄まっちゃうと「次」がないから、そのまま忘れられてしまう。 分かりやすさで知的を気取るのは効率悪すぎて、やってられない。

知的を擬態する立場が目指すのは、簡単な話題を、分かりやすい言葉で、難しく語ること。

やさしい言葉を重ねつつ、読者の理解を拒絶する。そんな文章の書きかた。

努力は見せない

一生懸命勉強して、やっと内容を理解できて。

そんな話題は、そのまんまみんなに伝えたくなるけれど、 それをやると「ああ、がんばったんだね」という感想しか返ってこない。 努力は大切だけれど、スタイルとして知的を気取るなら、 それを見せてはいけない。

イメージは、スイングバイの軌道計算。

人工衛星を惑星本体にぶつけては台無し。惑星ギリギリに軌道をとって、重力を生かして 勢いだけもらう。

勉強した内容からは、事例を引用しないで考えかただけもらう。 10人の人が読んで、2人ぐらいに勉強のもとネタが割れて、 他の人には「分からないけどなんだかすごそう」と感心してもらう、そんなところで止めておく。

想像力を刺激する

文脈と関係ありそうでいて、どう関係するのか今一つよく分からない、そんな 言い回しを文中に入れてみたり、あるいは文章の見出しにそんな言葉を入れてみたり。

思考の流れに意図しない空白を挿入されると、読者はそのギャップを想像力で埋めようとする。

実際それは単なる空白で、作者はその空間には何にも想定していないのだけれど、 読者はそこに「何だかすごそう」なものを勝手に想像してくれて、 読者の知性込みで「知的な文章だ」という評価がもらえる。

作者が自分の知性に自信が持てないときは、読者の知性を信じることはとても大切。

省略を大胆に行って、読者に想像力を要求することをためらってはならない。 たとえその先に、空っぽの洞窟しかなかったとしても。

否定しにくい文章構成

同じコメントの多い文章であっても、議論を生む文章と、信者を生む文章とでは、 その構成が全く異なる。

議論のネタになりやすい文章というのは、「全体肯定、部分否定」の態度をとりやすいもの。 作者と大喧嘩はしたくないけれど、細かいところで異を唱えたい人がいっぱい来るような構造。 本当に知的な人はこんな文章を書く。全体の構造に驚き、またそれが理解できるからこそ 細かいところにケチをつけてみたくなる、そんな文章。

議論を生みにくい、信者になるしかない文章というのは、作者の主張に対して 全肯定か、全否定かのどちらかの態度しかとれないような仕掛けがしてある。

否定的な意見を述べようとしたら、作者の主張を全否定しかねないような文章というのは、 読者に対して無視するか、あるいは肯定するかの二者択一を迫る。 ネット世界では、文字にならない意見は無いものと同じだから、 こんな文章にはとりあえず肯定的なコメントが並ぶようになる。

やりかたはこんなかんじ。

  1. 「このことは議論するまでもなく、既に真実として通用している」という前提を創作して、 そこから文章を書きはじめる
  2. その上で、その前提が真実であった場合の選択肢や考察を進めていく

知的を気取りたい作者が言いたいことは、考察なんかではなく、実は前提のほう。

作者の考察に異論がある人は前提を認めざるを得ないし、前提を否定したい人は、文章全体を 否定せざるを得ない。どちらに転んでも、作者が「発見した」と称する前提に対しては、 それを肯定する文章しかネット上には存在できない。

本当に知的な人が乱入してくると、こんな文章は全否定で瞬殺されて終わりなんだけど、 幸いにも知的な人は忙しくて、数が少ない。けっこう大丈夫。

ツッコミどころの埋めかた

本当に知的な人は議論を好む。その文章は分かりやすくて案外無骨で、 「ツッコミどころ」が目に入りやすい。

知的っぽくても知的でない人が議論に巻き込まれると墓穴を掘るから、突っ込まれそうなところは あらかじめ穴埋めしておかないと危ない。

たとえば「○○らはそう言っている」という引用は危ない。引用先が本当に主流派の意見なのか、 その引用文の理解のしかたは本当に正しいのか、もうツッコミどころいっぱい。 最悪、引用もとの作者が「その引用間違いだから」とか突っ込んできたりして。

明示的な穴埋めは、格好が悪い。「きっとここ突っ込まれるんだろうけれど」とか、 作者が自分で書いてしまうと穴は埋まるけれど、それは「知的」には遠い。

知的っぽいのに突っ込みにくい文章には、「穴」の底に、解釈のあいまいな部分が残してある。

あいまいな部分に対して誰かがコメントしようと思ったら、まず「あなたの言いたいことはこうですね」と 宣言を行ってからでないと、論を張れない。

宣言という行為は、コメントする人に「誰かに知性を査定される」というリスクを生じさせる。 文章の作者に「あなたそれ全くの誤読ですから」なんて返されたら、 コメント者にはもう謝る以外の選択が取れない。

細部のあいまいな文章というのは、だから突っ込まれにくくて、 コメント欄にも無難で肯定的な意見が多く並ぶ。

制限の多さが知性をつくる

厳しい制限というのは、知的でない人間が最大限の創造性を発揮するための、最良の武器となりうる。

これだけ自由に文章を書ける世の中で、何故俳句が今でも流行するのか。

それはたぶん、厳密なルールが頭を刺激して、「全く自由な文章を書いてもいいよ」 と言われるよりも、よっぽどいい文章が書けるからだ。

たまに自分で「本当にいい文章」を書こうと思ったときは、岩波の名言集とか、 三原順の「はみだしっ子語録」みたいな台詞集を利用する。

「名文」とされている短い文章をとりあえず引っ張って、 全ての単語を入れ替えて、自分の文章に混ぜてしまう。

名言の価値は、その内容や発言者の属性にあるのではなく、 「短い」というその一点にこそ存在する。

名言集に引用される文章というのは、ほとんどが一言で言い切れる長さ。 その長さとか、語感を変えないで単語を弄くって、 自分の主張に合わせた内容に変更するのは、パズルを解くような感覚。 制限がやたらと多くて、使える単語もろくに選べない。

頭を使う。このことが大切。

縛るルールが何も無い空間では、彼我の知性の差が、戦力の決定的な差となってしまう。 「自由に書きたいものを」なんて言われても、知的でない人間は、過去に見た 文章の劣化コピー作り出すのがせいぜい。

知的な他人が書いた文章、それも短い文章をとりあえずエディタに全文コピーして、 その単語をあれこれ入れ替えながら自分の主張をそこに織り込んでいくと、 気がついたら原型は全くなくなっていて、そこそこ整った自分の文章ができていた…。

うちの文章のいくつかは、こんなやりかたで書いている。 出来上がったときには元の文章なんて全く残っていないし、 長さも3倍ぐらいになるけれど。

こんな文章作法は邪道だけれど、けっこう上手くいく。

鯉だと思ったら鮒だった

LaTeX 初心者だった頃は分からないことだらけ。奥村先生の掲示板にいろいろ 質問しては、手取り足取り教えていただいて、ようやく使えるようになって数年。

「僕も今日から一人前のLaTeXer だ」なんて思ってコミュニティ見渡すと、 まわりの人達は数学科とか、物理学科とか、プログラマとか、 測定限界の先のまた先、次元が違う別世界の人たちばっかり。

掲示板の話題が理数系の雑談にそれて、「…ですよね~HAHAHA」なんてみんなが 笑っているとき、 自分も一緒に笑うんだけれど、その実話題になっている数式が1行だって理解できなかったりして。

錦鯉の池を一緒に泳いで数年、自分もいつか並んで泳ぐ鯉みたいに大きくなるんだと思ってて、 ある日鏡を見たら、実は自分は鮒だった。そんなかんじ。

コミュニティの人達の分かりやすい話や、 親切な態度というのは優越感ゲームの戦略なんかじゃなくて、知性があふれるようになると、 みんな自然にああなるんだということに気がついて落ち込んだのも、今は昔。

今さら苦労したってああはなれないし、かといって「知的」のかっこ良さを見知ってしまうと、 擬態してでもそうなりたいのも事実。

うちの実家で錦鯉に混じって飼っていた金魚は、最後まで鯉にはなれなかったけれど、 それでも20年ぐらい生きて、体長も30cmぐらいにまで大きくなった。

DNAレベルで違っていても、「知的っぽい」を目指しつづけていれば、 いつか知的の隅っこぐらいには入れるんじゃないか。

演じ続ける毎日。

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飛鳥部勝則さんも、三原順の台詞を使うにしても、このメソッドで解体して換骨奪胎してればあんなことにはならなかったのに……?

はみだしっ子語録読んでると、三原順の漫画自体がいろんな小説からの引用だらけなのが よく分かります。有名な台詞の一つ一つに作者の人が注釈をつけていて、それを発想した 実世界の状況とか、引用したもと台詞は何で、それをどう改変したのかなんかを 全部書いてくださっていて、本当に面白い本。もうボロボロになっちゃったので、 再販してくれるとうれしいのですが。