« 経済学的、心理学的 | ユーザーにとっての医療技術 »

2007.02.24

寝たきりの人にとって自然とは何か

痴呆が進んでしまった人というのは、食事が食事として認識できなくなってしまったり、 あるいは嚥下障害がひどくなってむせ込んでしまったりして、食事が口から取れなくなる。

老健施設では責任問題になってしまうから、食事ができない人に対して 「何もしない」という選択はとれない。何かしないといけないから、 こんな人は「何とかして下さい」という依頼で病院にやってくる。

老衰の人、特に90歳にもなるような人というのは、食事をしないだけで、基本的には元気。

病院としては、病院内で感染症を拾う前に何とか返したいのだけれど、 「何とかする」まで施設は引き取ろうとしない。

家族に相談しても、答えは同じ。「何とかして下さい」。

売り言葉には買い言葉。

結局こんな人には鼻からチューブが突っ込まれたり、胃に穴が空けられたりして、 経管栄養が開始される。

胃に物が入ると、唾液の量が増える。

食べ物は火が通っているから大丈夫だけれど、唾液をむせると肺炎になる。 栄養を入れて施設に帰って、すぐ肺炎になって病院に入って、そんなことを繰り返しながら だんだん弱って、こんな人は結局、最後は自分の唾液と痰で、溺れて亡くなる。

とりあえず数ヶ月間から1年ぐらい、たしかに生存期間は延びる。 日本の高齢者が亡くなりにくいのもまた、こんなことを日本中でやっている影響なんだけれど、 誰も幸せになっていないような気もする。

結局は責任の問題。栄養を止めるというのは、何となく「餓死」を連想させて しまうからなのか、誰も切り出せない話題。誰も悪役になんかなりたくないし、 栄養止めて亡くなった後、遠縁の親戚の人が「なんで栄養止めやがった!!」なんて 怒鳴り込んで来ることだってある。

今は「餓死」以外の物語がそこに無いからトラブルになる。

必要なのは、栄養を止めるための物語

寝たきりの人にとっての自然

ほとんど植物状態の患者さんに水分だけ点滴して、 それ以外のことをほとんどしない、病院内のスラングで「水耕栽培」なんて 陰口叩かれたりする患者さんは、案外長生きする。

点滴で入れるのは、1日1000ml程度の水と、だいたい1g 程度のナトリウム、あとは ごくわずかな糖分だけ。食べられないから入院した人たちだから、 もともとが低栄養状態。栄養学的には圧倒的に足りない栄養しか入らないのに、 数ヶ月の単位で問題なく過ごせるし、不健康になるどころか見た目はむしろ 元気になる人までいて、その印象は亡くなる直前までほとんど変わらない。

「この人、光合成でもしてるんじゃないのか?」そんなことを考えたくなるぐらい。

植物っぽい人に最低限の水分と栄養ということで連想するのが、永田農法。

ほとんど砂みたいな土地で作物を育てて、最低限の水分と化学肥料とで野菜を作ると とんでもなくおいしい野菜ができる…というあれ。

永田農法の基本思想というのは、野菜にとっての自然に近い条件で育てることなのだそうだ。 数百年前までは、野菜の多くは、乾燥気候の荒地で育っていた植物だった。 そんな生物にとっては、最近流行の有機肥料とか、高温多湿の環境といったものはむしろ不自然。

植物にとって本来「自然」であった環境で育てることで、作物を常に飢餓状態に追い込むことによって、 植物が本来持っている力が引き出されて、栄養価の高い野菜が作れるのだという。

栄養学の知識では、人間が1日に必要な最低カロリーは、1200kcal。

これはあくまでも若い人の値。寝たきり老人、特に栄養を入れても合併症しか起こさないような 人にとって、この値が本当に「自然な」ものであると言い切っていいのか、最近少し疑問だったりする。

魚が上陸した日

魚類の一部が進化して、陸に上がるようになったのが今から約3億7千万年前。

乾燥や重力といった環境の変化に加えて問題になったのが、陸地からは電解質、 とくに海の中には売るほどあったナトリウムの供給が受けられないこと。

ナトリウムを体内に保持するために発達したのが、レニン-アンギオテンシン系

陸上動物の体内にはこれがあるから、ナトリウムが尿中に流れてしまうことを防いで、 体内の電解質環境を一定の状態に保つことができる。

時代がそれから数億年進んで、人類の時代。地味だけれど大きな変化が、 岩塩を採掘したり、海水を蒸発させたりして、塩を作りだせるようになったこと。

体内からナトリウムが失われないよう、 身体を一生懸命進化させて来た動物にとって、「塩を自由に取れる」というのは 相当に画期的な変化だったらしい。

数億年かけて進化して来たナトリウム保持のメカニズム、あるいは「塩はおいしい」という感覚は、 たかだか2000年程度の時間経過では止められない。

塩が食卓に並ぶようになって問題になったのが、高血圧や、各種循環器疾患。

循環器疾患、特に心不全や高血圧の分野では、数千年前までは生命維持の必須装置であった レニン-アンギオテンシン系は、もはや完全に悪者扱い。 今でもどうやってこれを抑えこむか、いろんな試みがなされている。

所属医局の教授なんかは、「たぶん、レニン-アンギオテンシン系はもう人類には不用なんじゃないか」 と言っておられたり、某心不全の大家の先生なんかは、 「人類が塩分摂取を止められるなら、薬無しでも心不全は抑えられる」なんて言っておられたり。

自分の患者さんには、心不全とか高血圧とか、本来はずっと薬を続けないといけない 人が多い。痴呆が進んで食事が取れなくなった人というのは、やっぱり薬も飲めなくなってしまう。

で、こういう人を点滴だけにして、食事を通じたナトリウムの流入を無くしてしまうと、 心不全治療薬を用いなくても、案外状態が悪くならない。もちろん例外はいくつもあるし、 点滴だけにした人というのは、やっぱり数ヶ月すると亡くなってしまうのだけれど。

野菜の話もそうだけれど、本来の自然な状態に戻ること、昔に戻ること、 塩が手に入るようになった数千年前にまで時計を巻き戻してしまうという考えかたは、 そんなにスジの悪い発想ではないと思う。

動物の中の動物要素と環境要素

好適環境水というものがある。

海水魚の祖先も淡水魚の祖先もいっしょに泳いでいた頃の太古の水を再現したもので、 これを使うと淡水魚も海水魚も同じ水層で飼うことができる。

どちらの魚にもそんなに負担をかけることがなく、この水で飼うと、魚の成長も早くなるのだという。

この水の組成は企業秘密らしいのだけれど、カリウム、 ナトリウムと数種類の電解質しか入っていなくて、 塩分濃度は海水よりも相当薄いらしい。非常に安価に作れるというふれこみだから、たぶん そんなに特別なものは入っていないはず。

海水の塩分濃度が3.5% 。人間の体液の塩分濃度が0.9% だから、 たぶん好適環境水の電解質組成というのは、体液に相当近い。

動物というのは「裏返った地球」。

いろんな生物が住んでいた古代の地球を風船に見立てて、 それを裏返したのが動物の基本的な構造。

動物の皮膚が外の環境と中の環境と隔てていて、 中の環境には太古の海と同じ濃度の液体が循環している。 陸上動物の体内には、今でも古代の地球環境がそのまんま入っている。

動物を動物たらしめているのは、たとえば食べ物を食べるとか移動するとか、外の世界と 体内世界とのI/O インターフェース部分。

老化という現象は、人間の動物部分が機能しなくなることだけれど、その人の体内にはまだ、 太古の環境、人体の植物要素が変化せず残っていて、動物部分を切り離した状態であれば、 この環境を維持するコストはたぶん、想像以上に低い気がする。

科学的に正しい話を散りばめて、その間をウソでつないで、全体として もっともらしい話に仕立てるのが科学的にウソをつくときの常套手段。 「水からの伝言」の人なんかは、たぶんこういうの得意だろう。

上の話はヨタな妄想だけれど、実際点滴だけで看取るのは想像以上に 「きれいな」状態を維持できるし、看るほうも家族も本当に楽。

こんな「消極的安楽死」を適用するときの言い訳になるような 物語を誰か作ってくれると、感謝する医者多いと思う。

経管栄養になって、ある日老健で噴水状に嘔吐して、 顔中甘ったるい経管栄養まみれになって窒息して救急搬送されて、 そのまま肺炎併発して死亡

あんまりいい亡くなりかたじゃないと思うんだけれど。

Comment & Trackback

Comments and Trackback are closed.

いつも楽しませてもらってます。まったく共感します。  最近、救急医療をやる身でありながら、人の生死は、海(=死)に向かっていく川(=生)の流れであるような気がしています。そして、その川の流れをなんとかせき止めようとするダム(=医療)。ダムなんてなければ、穏やかに海へとながれていけるのに。むかしはそれがあたりまえだった。現代では、海まであとちょっという下流でさえ、ダムを作ろうとする。でも、必ず決壊し、洪水がおきる(=死ねない苦しみ)。苦しんだあげく、やっと海に流れていく。はたしてそれでいいのでしょうか? 私にはよくわかりません。

今回の内容は、「日本人の死に時」(久坂部羊 著)の内容とも似ているなあと思いました。

こんにちは。研修医の頃からいつも更新を楽しみにしています。

都市部にいながら、僻地にいたときよりもむしろ老衰を 見る機会が多いことに少し辟易しているところです。 頻脈とか、食欲がないとか、なにか見つけて送られてくるんですが、 要は「お年」なんですよねぇ。

私的には、「老衰クリニカルパス」というのが自分の中にありまして、入院時の病状説明で ・お年が来てるようだ(できるだけ採血結果など客観的な数値を交えて、印刷して赤線引いて手渡すまでする)、 ・だんだんに悪くなるだろう ・元のADLには戻らないかもしれない(食べれない、歩けないなどなど具体的に)、在宅が無理なら施設もありうる ・そしてDNRを書面でとる ということを行っています。

入院して悪くなってからだと不信感を抱かれる恐れがありますので、 必ず入院したときに行います。 ちなみに、これなら助かっても、ADLが落ちて退院でも なんとか踏ん張って転院へプッシュできます。

汚いようですが、保身のためにこんなことをせざるを得ないなんて、 悲しい世の中ですよね・・・

皆様コメントありがとうございます。 老衰になった人のこのあたりの話題、もう自分が研修医の頃から 何の変化も無いんですよね。 最近はあきらめて、自分を悪役にしちゃってますが。

看護する身としては、胃ろうを造るようにストーマを造ってくれればいいのと思ったりすることがあります。 medtoolz先生の話に思いっきり反してしまいますが…。

こういう話は、本当にお上手ですね。 古代の海の情景と、人体の神秘とが重なって、心地よく瞼の裏に浮かびます。 環境音楽ならぬ、環境文章ですね。

点滴・水分のみで死に向かうとか、介護目的でストーマを作るとか、アイデアとして非常に面白いし、実現可能性あるんじゃないでしょうか?

社会的コンセンサスのために、物語が必要ということなら、medtoolzさんが、まさに適役だと思いますよ。 ぜひ、この環境文章的路線を伸ばしていただきたいですね。

しかし、今回のエントリーは興味深い。 看取りの医療においては、目的は延命ではなく、本人も含めて皆が納得できる死である、ということだと思うんですが、医療の目的は救命・延命・健康回復である、っていう金科玉条があって、現状、ほとんどの医療者はこれに縛られてる。憲法9条問題を口にするのがタブーだった時代みたいに。

私が今やってる美容外科なんかは、この枠に入らないから、変な目で見られやすかった。 医療という技術の存在目的をもう少し柔軟に定義し直すことが必要な時代になるのかな、と感じます。

人間の身体の最大の構造的欠陥は、食道と気管が同じ入り口を持っていることであり、そのため嚥下中枢の機能不全により容易に誤嚥して肺炎を起こし、亡くなってしまう。この構造的欠陥はおそらく神がわざとそう創ったのであり、人は年をとると肺炎を起し死ぬようになっている。そしてそれを老衰と呼ぶ。 お祖父さん(あるいはお祖母さん)が肺炎を起こしているのは、年をとったゆえの自然な経過なんですよ。

…と何回ムンテラしたことやら。

どの家族も納得はせず、結果自然経過にまかすことなく、絶食、輸液、抗生剤投与を行い、いったんは回復するんですけどね。おんなじこと繰り返して、やがてはお亡くなり。 医療費全額自己負担という世の中になれば、自然経過という考えも戻ってくるのでしょうが、今の保険制度があるかぎり、こんなことはずっと続くのでしょう。

人間の身体の最大の構造的欠陥 自動車王ヘンリー・フォードが天に召された時、天国の門で神様が質問をしました。 神「あなたは生前、どの様な事をしたのですか?」 F「自動車を大量に普及させました。ソレにより世の男性は『乗る楽しみ』を満喫しています」 神「男性の『乗る楽しみ』ならば私は女性を創造しました」 F「いや、アレには重大な設計ミスがありますよ」 神「私に限ってミスはない。君の言うミスとはどんなことだね?」 F「肝心なカギ穴と排気口が近すぎですよ」

昨年は「患者家族」という身分でした。 「患者家族」としては「死んでも文句いわないから、クリーンルームから家に帰して」、医療従事者としては「そりゃないだろう、今はむりむり」、一人二役でいろいろ悩みました。 家族の死を通し、なかなか自然に死んでいくことができないという実感から、自分はどうやって死んでいこうかと、何となく漠然と考えた時期がありました。 仕事で死に立ち合うことはたくさんあるけれど、それとは違う感覚でした。 腹に穴あけたり、鼻に管を入れることが今死んでいくためのプロセスになっているけれど、それを見た「患者家族」が、自分の死を考えてくれると、医療側はすっきり仕事ができそうな。

自身は痴呆のある加齢性嚥下障害に対して、一ヶ月のリハビリ期間後に家族に以下のように話します。 1)嚥下=食べることは、生物にとって最も基本的な機能。あなたの親族は、加齢によりそれが障害され、おそらく治る見込みはない。 2)野生の動物は、嚥下できなければ餓死、動けなれば捕食されて死ぬ。 3)食物を嚥下させなくても、自身の唾液で肺炎を繰り返して死ぬ。 4)強制栄養は一つの手段ではあるが、息子の顔も分からないヒトにフォアグラ化して栄養を与え、生きながらえさせるのは不自然な行為である。 5)これがエスカレートすると、呼吸が止まれば呼吸器、不整脈にペースメーカー、腎不全ならHD、とどんどんサイボーグ化していく。どこかで区切りをつけなければいけない。 と話すと、強制栄養ではなく水栽培でしばらく経って亡くなることを選択する家族が時々います。問題点は、見ているのがつらい。転院ができない(保険改訂で少し容易になりましたが)。スウェーデンみたいに「自分で食べる意志がない」というコンセンサスがあればいいのですけどね。 儒教では寝たきりの親を懸命に介護することが美徳、古代ローマでは加齢で衰えを感じた貴族は絶食して死ぬのが美徳、という文化背景の違いがあるからでしょうけど。終末期における強制栄養についてはいくつか論文でているので読まなきゃと思いつつまだ未読です。 長文失礼しました。

皆様コメントありがとうございます。 「老いるということ――海に帰る物語」みたいな絵本風味の小冊子作ったら面白そうですね。 毒喰らわば皿まで…的なやりかたをすると、臍周囲に胃瘻、膀胱婁、人工肛門が集まってきて、 食事の穴と排泄の穴とが同じ平面に集合します。ちょうどウミユリみたいな原始生物と 同じ。これもまた、病院内では「進化の過程を逆にたどる」なんて言いかたをしています。

胃瘻チューブ交換の手技料は無料だそうです。内視鏡を使って交換したら、内視鏡費用は持ち出し。以前の胃瘻厚遇策がウソの様ですが、結局胃瘻を沢山作っても、家で看る家族がほとんどいなかった、ということです。にもかかわらず、毎週のように胃瘻を作ったり、空腸チューブを透視下挿入したり。ため息しか出ません。

補液1000mlが案外長生きするというのは全く同感です。 「たかだか30-40年前は、食べられなくなった時がご臨終」と説明しても、誰も同意してくれません。「海に還る」ストーリーが広まれば、もうすこしマトモになるような気がします。 大賛成です。

胃瘻チューブ交換の手技料は無料 もう泣くしかないですね…。チューブ交換だってけっこう高リスクの時だってあるし、 うちはガストログラフィン透視で確認してましたけれど、あれも持ち出しだったんでしょうか。

生物たるもの自分で捕食できなくなったら終わりだと思うのですが。

私はそういう遺書を書いていこう。

お疲れさまです。。

>>ガストログラフィン もちろん、持ち出しです。 と思ったら、こんな事件もあるし。

http://ssd.dyndns.info/Diary/archives/2007/02/post_165.html#comments

多分ポンスキーだと思うんですけど、あれ怖いです。 老人病院に送った患者さんが、送り先で同様の事態でお亡くなりになっていました。

ポンスキー 私も最近になって、あれ初めて使いましたがあんな物騒な道具があるなんて知りませんでした…。 コスト的には一番引き合うのかもしれませんけど、あれは嫌ですよね。Foley カテを毎週 入れ替えろといわれたほうがよっぽどまし。