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2007.02.28

知的っぽいけれど知的でない

ネット世界には、知性のスカウター振り切っちゃってるような人たちと、それ以外の大勢と。

残り99% の「それ以外」が上位1% の本物のふりをして、知的を擬態するときのやりかたとか。

「それ以外」にとって知的とは何か

知的は眼鏡をかけている。難しそうな本を読んで、英語を話すこともある。 静かに語り、よく笑い、たまにオルガンを弾いたりする。

世の中の大部分を占める「それ以外」は、知的であるということを、 瑣末な記号の集積として理解する。

本当に知的な人にとっては、「知的であること」は結果。 「そうでない人」にとって、知的であるということは、 中身の問題ではなくてスタイルの問題。

結果を目的化した時点で、それはまがい物なんだけれど、 それを評価するほとんどの人もまた、たいていは「そうでない人」。

よくできた偽物は、しばしば本物に間違えられる。

知性は語らず賢者は死なず

  • 知的な人は、難しい話を、分かりやすい言葉で、分かりやすく語る
  • そうでない人は、どうでもいい話題を、難しい言葉で、難しく語ろうとして自爆する

知的な人の分かりやすい文章というのは、読んだ瞬間に読者の頭に入る。 そのスピードはあまりにも速くて、しばしばその内容が、読者の内側に 知性が自然発生したり、あるいは最初からそのことを知っていたかのように錯覚してしまう。

分かりやすいというのは本当はすごいことなのだけれど、苦労が伴わないからそれが伝わらない。

知性ある人の発信した文章は、すぐにネットのインフラとして誰もが知っている話題となり、 「既知のこと」として、発信者に対する言及なしで広まってしまう。

知的な人は、量と質とを両立させる。

偽物と本物とを区別する決定的な差というのは、 実はアウトプットの質ではなくて量のほう。

知的な人は、質の高い発想を 途切れることなく量産し続けるから、その発想がどんなに薄まってしまっても、 その中心には誰がいるのか、みんな嫌でも分かるようになっている。

偽物だって、がんばればたまにはいい発想するんだけれど、 それが薄まっちゃうと「次」がないから、そのまま忘れられてしまう。 分かりやすさで知的を気取るのは効率悪すぎて、やってられない。

知的を擬態する立場が目指すのは、簡単な話題を、分かりやすい言葉で、難しく語ること。

やさしい言葉を重ねつつ、読者の理解を拒絶する。そんな文章の書きかた。

努力は見せない

一生懸命勉強して、やっと内容を理解できて。

そんな話題は、そのまんまみんなに伝えたくなるけれど、 それをやると「ああ、がんばったんだね」という感想しか返ってこない。 努力は大切だけれど、スタイルとして知的を気取るなら、 それを見せてはいけない。

イメージは、スイングバイの軌道計算。

人工衛星を惑星本体にぶつけては台無し。惑星ギリギリに軌道をとって、重力を生かして 勢いだけもらう。

勉強した内容からは、事例を引用しないで考えかただけもらう。 10人の人が読んで、2人ぐらいに勉強のもとネタが割れて、 他の人には「分からないけどなんだかすごそう」と感心してもらう、そんなところで止めておく。

想像力を刺激する

文脈と関係ありそうでいて、どう関係するのか今一つよく分からない、そんな 言い回しを文中に入れてみたり、あるいは文章の見出しにそんな言葉を入れてみたり。

思考の流れに意図しない空白を挿入されると、読者はそのギャップを想像力で埋めようとする。

実際それは単なる空白で、作者はその空間には何にも想定していないのだけれど、 読者はそこに「何だかすごそう」なものを勝手に想像してくれて、 読者の知性込みで「知的な文章だ」という評価がもらえる。

作者が自分の知性に自信が持てないときは、読者の知性を信じることはとても大切。

省略を大胆に行って、読者に想像力を要求することをためらってはならない。 たとえその先に、空っぽの洞窟しかなかったとしても。

否定しにくい文章構成

同じコメントの多い文章であっても、議論を生む文章と、信者を生む文章とでは、 その構成が全く異なる。

議論のネタになりやすい文章というのは、「全体肯定、部分否定」の態度をとりやすいもの。 作者と大喧嘩はしたくないけれど、細かいところで異を唱えたい人がいっぱい来るような構造。 本当に知的な人はこんな文章を書く。全体の構造に驚き、またそれが理解できるからこそ 細かいところにケチをつけてみたくなる、そんな文章。

議論を生みにくい、信者になるしかない文章というのは、作者の主張に対して 全肯定か、全否定かのどちらかの態度しかとれないような仕掛けがしてある。

否定的な意見を述べようとしたら、作者の主張を全否定しかねないような文章というのは、 読者に対して無視するか、あるいは肯定するかの二者択一を迫る。 ネット世界では、文字にならない意見は無いものと同じだから、 こんな文章にはとりあえず肯定的なコメントが並ぶようになる。

やりかたはこんなかんじ。

  1. 「このことは議論するまでもなく、既に真実として通用している」という前提を創作して、 そこから文章を書きはじめる
  2. その上で、その前提が真実であった場合の選択肢や考察を進めていく

知的を気取りたい作者が言いたいことは、考察なんかではなく、実は前提のほう。

作者の考察に異論がある人は前提を認めざるを得ないし、前提を否定したい人は、文章全体を 否定せざるを得ない。どちらに転んでも、作者が「発見した」と称する前提に対しては、 それを肯定する文章しかネット上には存在できない。

本当に知的な人が乱入してくると、こんな文章は全否定で瞬殺されて終わりなんだけど、 幸いにも知的な人は忙しくて、数が少ない。けっこう大丈夫。

ツッコミどころの埋めかた

本当に知的な人は議論を好む。その文章は分かりやすくて案外無骨で、 「ツッコミどころ」が目に入りやすい。

知的っぽくても知的でない人が議論に巻き込まれると墓穴を掘るから、突っ込まれそうなところは あらかじめ穴埋めしておかないと危ない。

たとえば「○○らはそう言っている」という引用は危ない。引用先が本当に主流派の意見なのか、 その引用文の理解のしかたは本当に正しいのか、もうツッコミどころいっぱい。 最悪、引用もとの作者が「その引用間違いだから」とか突っ込んできたりして。

明示的な穴埋めは、格好が悪い。「きっとここ突っ込まれるんだろうけれど」とか、 作者が自分で書いてしまうと穴は埋まるけれど、それは「知的」には遠い。

知的っぽいのに突っ込みにくい文章には、「穴」の底に、解釈のあいまいな部分が残してある。

あいまいな部分に対して誰かがコメントしようと思ったら、まず「あなたの言いたいことはこうですね」と 宣言を行ってからでないと、論を張れない。

宣言という行為は、コメントする人に「誰かに知性を査定される」というリスクを生じさせる。 文章の作者に「あなたそれ全くの誤読ですから」なんて返されたら、 コメント者にはもう謝る以外の選択が取れない。

細部のあいまいな文章というのは、だから突っ込まれにくくて、 コメント欄にも無難で肯定的な意見が多く並ぶ。

制限の多さが知性をつくる

厳しい制限というのは、知的でない人間が最大限の創造性を発揮するための、最良の武器となりうる。

これだけ自由に文章を書ける世の中で、何故俳句が今でも流行するのか。

それはたぶん、厳密なルールが頭を刺激して、「全く自由な文章を書いてもいいよ」 と言われるよりも、よっぽどいい文章が書けるからだ。

たまに自分で「本当にいい文章」を書こうと思ったときは、岩波の名言集とか、 三原順の「はみだしっ子語録」みたいな台詞集を利用する。

「名文」とされている短い文章をとりあえず引っ張って、 全ての単語を入れ替えて、自分の文章に混ぜてしまう。

名言の価値は、その内容や発言者の属性にあるのではなく、 「短い」というその一点にこそ存在する。

名言集に引用される文章というのは、ほとんどが一言で言い切れる長さ。 その長さとか、語感を変えないで単語を弄くって、 自分の主張に合わせた内容に変更するのは、パズルを解くような感覚。 制限がやたらと多くて、使える単語もろくに選べない。

頭を使う。このことが大切。

縛るルールが何も無い空間では、彼我の知性の差が、戦力の決定的な差となってしまう。 「自由に書きたいものを」なんて言われても、知的でない人間は、過去に見た 文章の劣化コピー作り出すのがせいぜい。

知的な他人が書いた文章、それも短い文章をとりあえずエディタに全文コピーして、 その単語をあれこれ入れ替えながら自分の主張をそこに織り込んでいくと、 気がついたら原型は全くなくなっていて、そこそこ整った自分の文章ができていた…。

うちの文章のいくつかは、こんなやりかたで書いている。 出来上がったときには元の文章なんて全く残っていないし、 長さも3倍ぐらいになるけれど。

こんな文章作法は邪道だけれど、けっこう上手くいく。

鯉だと思ったら鮒だった

LaTeX 初心者だった頃は分からないことだらけ。奥村先生の掲示板にいろいろ 質問しては、手取り足取り教えていただいて、ようやく使えるようになって数年。

「僕も今日から一人前のLaTeXer だ」なんて思ってコミュニティ見渡すと、 まわりの人達は数学科とか、物理学科とか、プログラマとか、 測定限界の先のまた先、次元が違う別世界の人たちばっかり。

掲示板の話題が理数系の雑談にそれて、「…ですよね~HAHAHA」なんてみんなが 笑っているとき、 自分も一緒に笑うんだけれど、その実話題になっている数式が1行だって理解できなかったりして。

錦鯉の池を一緒に泳いで数年、自分もいつか並んで泳ぐ鯉みたいに大きくなるんだと思ってて、 ある日鏡を見たら、実は自分は鮒だった。そんなかんじ。

コミュニティの人達の分かりやすい話や、 親切な態度というのは優越感ゲームの戦略なんかじゃなくて、知性があふれるようになると、 みんな自然にああなるんだということに気がついて落ち込んだのも、今は昔。

今さら苦労したってああはなれないし、かといって「知的」のかっこ良さを見知ってしまうと、 擬態してでもそうなりたいのも事実。

うちの実家で錦鯉に混じって飼っていた金魚は、最後まで鯉にはなれなかったけれど、 それでも20年ぐらい生きて、体長も30cmぐらいにまで大きくなった。

DNAレベルで違っていても、「知的っぽい」を目指しつづけていれば、 いつか知的の隅っこぐらいには入れるんじゃないか。

演じ続ける毎日。

2007.02.26

優秀な技術者は優秀な需要を抱えた人に降りてくる

ひとつ前の話の続き。

何でそこまで簡単な医療マニュアル、Lightweight Language 的なやり方にこだわるのかというと、 それは「技術を深く理解していることと、優秀なアウトプットを出し続けることとは根本的に異なる」 という思いがあるため。

たとえば炎症性腸疾患という、比較的に診断の難しい病気がある。

大腸カメラを行えば診断は可能だけれど、血便とか腹痛みたいな症状を 訴えて来院する人は案外少なくて、体重減少とか全身倦怠感、 関節痛や不明熱みたいな症状で外来を受診する人もいる。

炎症性腸疾患の内視鏡診断や病理診断、病態生理や治療のやり方についての 専門知識を持っている人は確かに優秀な技術者であるには違いないのだけれど、 こんな人たちは「消化器内科」に所属しているから、不明熱で受診した人たちが 専門医に一発でかかれる可能性は低い。

こんな専門家とは対照的に、専門知識を持っていなくても、「若い女性の不明熱や 関節症状があって、他の原因が否定できるような時には大腸カメラをオーダーするのは 決してオーバーではない」という一文をひねり出せる人というのは、炎症性腸疾患の 専門家と同じくらいに素晴らしい技術者なんだと思うし、また患者さんにとってみれば、 こんな発想ができる人こそ「ユーザー本位」の考え方をする人なんだと思う。

優秀な技術者というのは、もちろん優秀な専門家であることが多いのだけれど、 残念ながら、優秀な専門家が優秀な患者需要を抱えている可能性は意外に低くて、 需要と知識のアンバランスというのは、ただでさえ人の少ないこの業界を、 更に非効率にしているような気がする。

たとえばPerl やRuby みたいなスクリプト言語というのは習得が比較的容易 といわれているけれど、そのコミュニティで「クールな」スクリプトを発表している人全員が、 C言語みたいなもっと専門的な、習得の難しい言語のプロかというとたぶん そんなことはない。

Perl しか知らないけれど、その人が作るスクリプトには すごい需要があって、もっと優秀な技術を持った人たちが「こんなところに需要があったのか」 と驚くような、そんなものを作れたりすることもあったりするんじゃないだろうか。

この業界にもPerl みたいな高級言語を実装して、例えば救急隊や看護婦さん、 検査の人たちともっと突っ込んだ会話をしたり、自分みたいな一般医と 専門家とがもっとコミュニケーションをとって、現場の言葉と専門家の知識とを 連携できるようになると強力だし、この仕事は今よりもっと面白くなる、 そんな思いがあって。

ユーザーにとっての医療技術

今ではもうアクセスする人もほとんどいなくなったけれど、 うちのサイトはもともと、内科のWEB 教科書を公開するためのページだった。

出回っている教科書というのは、今も昔も、医学を「科学」と考える人達のもの。 中身は「病名」で分類されていて、最新の、もとい知っていても役に立たない知識ばっかり。

科学と技術の違いというのは、たぶん「ユーザー」を意識するのかどうかの違い。

ちょうどその頃、Alan Cooper(Visual Basic を作った人) の「コンピューターは難しすぎて使えない」 という本を読んだばかり。「研修3年目、忙しくて上司の意見を聞けるのは夕方の 1回だけ、 午前中に外来から患者さんを投げられて、とりあえず夕方までの指示を出すときに便利な本」 を書こうと思ったのが、そもそものはじまり。

意図は空回りしてあんまり盛り上がらなかったけれど、 今でも時々「使ってます」というメールをいただく。

医学が面白かった80年代

「面白い話題を探そう」。

長い文章を書くときには昔から笑いを取れるようなものを心がけているのだけれど、 「面白い治療」が毎日のように考案されて、それが次々に試されていたのが80年代。

カンブリア期爆発みたいなアイデアの洪水が一段落して、それが大きなトライアルで 検証されて、整理されたのが90年代初頭。それ以降から現在まで、医学は 洗練の度を深めたけれど、基本的な治療のやりかたというのは、 もうあんまり変わっていなかったりする。

たとえば循環器内科の主な治療なんかは、みんな80年代の発案。もちろん道具も 薬も改良が加えられて、どんどん優れたものになっているけれど、基本的な発想は同じ。

肺炎の治療や脳梗塞の治療、心肺蘇生のやりかたなんかも、基本は同じ。毎年のように ガイドラインが更新されるけれど、考えかた自体は過去の洗練であって、革命的な 考えかたの転回というのはあんまり多くない。

遺伝子治療あたりが実用化してくると、この業界にもまたパラダイムシフトの大波が 来るのだろうけれど、今のところはまだまだ先の話。

人工呼吸器管理の文章を書いていたとき、一番役に立ったのは、 「集中治療メーリングリスト」の過去ログ。90年代初頭のもの。

ユーザーを意識しない科学者というのは、進歩の天井を意識しはじめると、 今度は自己批判をはじめる。

どうしようもない呼吸不全の患者さんに人工呼吸器をつけて、「何とかしよう」と がんばったのは昔の人達。新しい教科書に書いてあるのは、「こんなときには呼吸器つけてもムダ」 みたいな線引きの話題ばっかり。

メーリングリストの過去ログは、ドロドロの患者さんを抱えた先生方が、 怪しげな治療をやりとりした場所。分からないけれどこんな工夫をしてみたとか、1例報告だけれど、 こんなやりかたを聞いたことがあるとか。

それはもちろん、何の検証も受けていないやりかただけれど、 教科書から「正しい死刑宣告」を受けるよりはよっぽどまし。

7年近く前の過去ログをあさっては、状況を乗り切れそうな治療を見つけて、それを論文で確かめて。 うちのサイトで公開しているマニュアル類は、怪しい治療ばっかりになった。

科学の進歩は剣山を目指す

科学の進歩というのはたぶん、地形の変化によく似ている。

  1. 何か大きな発見があって、地殻変動によってある分野が一気に盛り上がる
  2. その発見を検証する論文が提出されて、その分野の余分な知識が削られていく
  3. 隆起した台地が風雨に晒されて山脈になるように、大きな分野は細かい専門に分かれていく
  4. 山はますます尖り、上から見ると剣山みたいになる

患者さんを診察して、分からなかったならばとりあえず大きな病院 に丸投げすれば、どこかに着陸できたのは昔の話。今は大学病院なんかは「剣山」だから、 それやると患者さんが串刺しになっておしまい。

たとえば吐血。肝臓が悪くて食道から出血した人と、胃潰瘍から出血した人とでは、 もう専門が違う。大学によっては、肝臓が第1 内科、消化管が第2 内科になっていたりして、 「口から血が噴いてます」だけでは、どこに電話していいのかすら分からない。

しかたがないので消化器外科の先生に電話をして、内視鏡を外科でやってもらってから 内科に電話。面倒だけれど、専門分化というのはこういうこと。

医学が科学であるかぎり、進歩すればどんどん「尖る」。10年前までは2人で十分だった 範囲をカバーしようと思ったら、今は専門家が4人は必要。10年後には8人でも足りないかもしれない。

マーケットの空白に技術が生まれる

科学者が天を目指す傍らで、技術者はたぶん、ユーザーを志向する。

進化する力を内包している科学と違って、技術というものを 駆動するのは、マーケットからの要請。商売になるのかどうか。

商売というのは、マーケットの空白地帯に自然発生する。

医療の分野を「マーケット」としてみたときに、今も昔も大きな空白地帯になっているのは、 「症状」と「病名」とをつなぐ空間。病名から先は充実してきたけれど、空白地帯は 昔以上に大きくなっている。

症状と病名とをつなぐのに、生理学や解剖学、あるいは医学の知識なんて必要ない。

OS を自分でプログラムできなくてもパソコンは使える。問題を解くことは、 一部の専門家にしかできないことだけれど、「問題を解決可能な形に帰着させること」というのは、 問題を解くのと同じ効果をもちながら、それよりはるかに低いコストで実現が可能。

今見たいな詳しい医学じゃなくて、もっと簡便な、「技術としての一般医学」が出来て、 「腰痛の得意な一般医」とか、「頭痛の得意な一般医」 みたいな人種がこの業界に生まれるようになると、外来はこんなかんじになる。

  • 患者さんは外来ナースの問診を受け、ナースが「この一般医」という人に割り振る
  • 患者さんを受けた一般医は、その人に必要な検査とか、専門家の診療などを「手順書」にまとめる
  • 専門家は、一般医が作る手順書の「ライブラリ」として登録されていて、必要な部分のみ受け持つ

外来ナースはGUI フロントエンド、一般医というのは、スクリプト言語を書く人、専門家は、 CPAN に登録されたプログラムであったり、Ruby on Rails のモジュール群のような存在。

ある意味アメリカ方式そのまんま。医師が一般医と専門医とに分かれるよりも、 新人医師が「Script Kiddy」として病棟デビューして、そのうち医学に対して「ハック」を 重ねて専門医の道へ…なんていうやりかたのほうが、プログラマとの共通項が増えて 面白いかも。

このやりかたは患者さんがナースを選んで、 ナースが一般医を選んで、一般医が専門家を指名する。ナースのユーザーは患者さん、 一般医のユーザーはナース、専門医のユーザーは一般医。 態度の悪い一般医はナースから干されるし、専門家も同様。 みんな「ユーザーにとってのいいエンジニア」を志向する動機が生まれる。

今の医療は逆。一番勉強している専門家が一番えらくて、一般内科なんて下種扱い。 「上」が「下」に指示を出すからミスなんて訂正のしようがないし、 「この人_願いします」なんて頭下げても、「うちの専門じゃないですねぇ…」 なんて言われておしまい。ユーザー志向なんて芽生えない。

経営の考えかたが科学を技術に変化させる

流れを変えて、自分みたいに客商売でヘラヘラするのだけが取り得の人間がいい思いするためには、 医療に経営の考えかたを持ち込んで、「科学じゃなくて、マーケットが要請した技術を志向しようよ」と 外から圧力をかける人が絶対必要。

経団連が医療に対する提言を出した。

医療に経営の考えかたを持ち込まれるのは、そんなわけで個人的には大賛成なのだけれど、 この提言は期待はずれ。医療の基本的な構造にはあんまり手をつけようとしないで、 とりあえずこの業界に型落ちのパソコンを在庫処分できればいいやという、その程度のもの。

今救急崩れの一般医をやっていて一番ほしいのが、「どんなに汚くても、打てる手段がある」 という手順をまとめたもの。この業界では無為であることは最悪の罪だし、予想外の事態を 想定範囲内に変更するのが技術の進歩というもの。

今の流れが変わらないまんま10年ぐらいすると、病名のついた病気については 「エビデンスに基づいた」という、自分が最も嫌いな言葉で飾った治療ガイドライン どおりのやりかた以外は認められなくなっていて、そのガイドラインもまた、 人間よりもエクセルの画面を眺めるのが好きな人たちが決定するようになる。

ガイドラインに乗っからない、何をしていいのか分からないけれど何とかしないといけない、 そんな患者さんにとっては、ガイドラインの山というのは単なる死刑宣告。

経営者の人達、どうせこの業界乗っ取るならば、ぜひともこのへん何とかして欲しいと思う。

Dan さんへの返信。

このあたりから発想引っ張ったんですが、 どんなもんでしょう? Lightweight Languages がうちの業界にもあったらいいな、と…。

2007.02.24

寝たきりの人にとって自然とは何か

痴呆が進んでしまった人というのは、食事が食事として認識できなくなってしまったり、 あるいは嚥下障害がひどくなってむせ込んでしまったりして、食事が口から取れなくなる。

老健施設では責任問題になってしまうから、食事ができない人に対して 「何もしない」という選択はとれない。何かしないといけないから、 こんな人は「何とかして下さい」という依頼で病院にやってくる。

老衰の人、特に90歳にもなるような人というのは、食事をしないだけで、基本的には元気。

病院としては、病院内で感染症を拾う前に何とか返したいのだけれど、 「何とかする」まで施設は引き取ろうとしない。

家族に相談しても、答えは同じ。「何とかして下さい」。

売り言葉には買い言葉。

結局こんな人には鼻からチューブが突っ込まれたり、胃に穴が空けられたりして、 経管栄養が開始される。

胃に物が入ると、唾液の量が増える。

食べ物は火が通っているから大丈夫だけれど、唾液をむせると肺炎になる。 栄養を入れて施設に帰って、すぐ肺炎になって病院に入って、そんなことを繰り返しながら だんだん弱って、こんな人は結局、最後は自分の唾液と痰で、溺れて亡くなる。

とりあえず数ヶ月間から1年ぐらい、たしかに生存期間は延びる。 日本の高齢者が亡くなりにくいのもまた、こんなことを日本中でやっている影響なんだけれど、 誰も幸せになっていないような気もする。

結局は責任の問題。栄養を止めるというのは、何となく「餓死」を連想させて しまうからなのか、誰も切り出せない話題。誰も悪役になんかなりたくないし、 栄養止めて亡くなった後、遠縁の親戚の人が「なんで栄養止めやがった!!」なんて 怒鳴り込んで来ることだってある。

今は「餓死」以外の物語がそこに無いからトラブルになる。

必要なのは、栄養を止めるための物語

寝たきりの人にとっての自然

ほとんど植物状態の患者さんに水分だけ点滴して、 それ以外のことをほとんどしない、病院内のスラングで「水耕栽培」なんて 陰口叩かれたりする患者さんは、案外長生きする。

点滴で入れるのは、1日1000ml程度の水と、だいたい1g 程度のナトリウム、あとは ごくわずかな糖分だけ。食べられないから入院した人たちだから、 もともとが低栄養状態。栄養学的には圧倒的に足りない栄養しか入らないのに、 数ヶ月の単位で問題なく過ごせるし、不健康になるどころか見た目はむしろ 元気になる人までいて、その印象は亡くなる直前までほとんど変わらない。

「この人、光合成でもしてるんじゃないのか?」そんなことを考えたくなるぐらい。

植物っぽい人に最低限の水分と栄養ということで連想するのが、永田農法。

ほとんど砂みたいな土地で作物を育てて、最低限の水分と化学肥料とで野菜を作ると とんでもなくおいしい野菜ができる…というあれ。

永田農法の基本思想というのは、野菜にとっての自然に近い条件で育てることなのだそうだ。 数百年前までは、野菜の多くは、乾燥気候の荒地で育っていた植物だった。 そんな生物にとっては、最近流行の有機肥料とか、高温多湿の環境といったものはむしろ不自然。

植物にとって本来「自然」であった環境で育てることで、作物を常に飢餓状態に追い込むことによって、 植物が本来持っている力が引き出されて、栄養価の高い野菜が作れるのだという。

栄養学の知識では、人間が1日に必要な最低カロリーは、1200kcal。

これはあくまでも若い人の値。寝たきり老人、特に栄養を入れても合併症しか起こさないような 人にとって、この値が本当に「自然な」ものであると言い切っていいのか、最近少し疑問だったりする。

魚が上陸した日

魚類の一部が進化して、陸に上がるようになったのが今から約3億7千万年前。

乾燥や重力といった環境の変化に加えて問題になったのが、陸地からは電解質、 とくに海の中には売るほどあったナトリウムの供給が受けられないこと。

ナトリウムを体内に保持するために発達したのが、レニン-アンギオテンシン系

陸上動物の体内にはこれがあるから、ナトリウムが尿中に流れてしまうことを防いで、 体内の電解質環境を一定の状態に保つことができる。

時代がそれから数億年進んで、人類の時代。地味だけれど大きな変化が、 岩塩を採掘したり、海水を蒸発させたりして、塩を作りだせるようになったこと。

体内からナトリウムが失われないよう、 身体を一生懸命進化させて来た動物にとって、「塩を自由に取れる」というのは 相当に画期的な変化だったらしい。

数億年かけて進化して来たナトリウム保持のメカニズム、あるいは「塩はおいしい」という感覚は、 たかだか2000年程度の時間経過では止められない。

塩が食卓に並ぶようになって問題になったのが、高血圧や、各種循環器疾患。

循環器疾患、特に心不全や高血圧の分野では、数千年前までは生命維持の必須装置であった レニン-アンギオテンシン系は、もはや完全に悪者扱い。 今でもどうやってこれを抑えこむか、いろんな試みがなされている。

所属医局の教授なんかは、「たぶん、レニン-アンギオテンシン系はもう人類には不用なんじゃないか」 と言っておられたり、某心不全の大家の先生なんかは、 「人類が塩分摂取を止められるなら、薬無しでも心不全は抑えられる」なんて言っておられたり。

自分の患者さんには、心不全とか高血圧とか、本来はずっと薬を続けないといけない 人が多い。痴呆が進んで食事が取れなくなった人というのは、やっぱり薬も飲めなくなってしまう。

で、こういう人を点滴だけにして、食事を通じたナトリウムの流入を無くしてしまうと、 心不全治療薬を用いなくても、案外状態が悪くならない。もちろん例外はいくつもあるし、 点滴だけにした人というのは、やっぱり数ヶ月すると亡くなってしまうのだけれど。

野菜の話もそうだけれど、本来の自然な状態に戻ること、昔に戻ること、 塩が手に入るようになった数千年前にまで時計を巻き戻してしまうという考えかたは、 そんなにスジの悪い発想ではないと思う。

動物の中の動物要素と環境要素

好適環境水というものがある。

海水魚の祖先も淡水魚の祖先もいっしょに泳いでいた頃の太古の水を再現したもので、 これを使うと淡水魚も海水魚も同じ水層で飼うことができる。

どちらの魚にもそんなに負担をかけることがなく、この水で飼うと、魚の成長も早くなるのだという。

この水の組成は企業秘密らしいのだけれど、カリウム、 ナトリウムと数種類の電解質しか入っていなくて、 塩分濃度は海水よりも相当薄いらしい。非常に安価に作れるというふれこみだから、たぶん そんなに特別なものは入っていないはず。

海水の塩分濃度が3.5% 。人間の体液の塩分濃度が0.9% だから、 たぶん好適環境水の電解質組成というのは、体液に相当近い。

動物というのは「裏返った地球」。

いろんな生物が住んでいた古代の地球を風船に見立てて、 それを裏返したのが動物の基本的な構造。

動物の皮膚が外の環境と中の環境と隔てていて、 中の環境には太古の海と同じ濃度の液体が循環している。 陸上動物の体内には、今でも古代の地球環境がそのまんま入っている。

動物を動物たらしめているのは、たとえば食べ物を食べるとか移動するとか、外の世界と 体内世界とのI/O インターフェース部分。

老化という現象は、人間の動物部分が機能しなくなることだけれど、その人の体内にはまだ、 太古の環境、人体の植物要素が変化せず残っていて、動物部分を切り離した状態であれば、 この環境を維持するコストはたぶん、想像以上に低い気がする。

科学的に正しい話を散りばめて、その間をウソでつないで、全体として もっともらしい話に仕立てるのが科学的にウソをつくときの常套手段。 「水からの伝言」の人なんかは、たぶんこういうの得意だろう。

上の話はヨタな妄想だけれど、実際点滴だけで看取るのは想像以上に 「きれいな」状態を維持できるし、看るほうも家族も本当に楽。

こんな「消極的安楽死」を適用するときの言い訳になるような 物語を誰か作ってくれると、感謝する医者多いと思う。

経管栄養になって、ある日老健で噴水状に嘔吐して、 顔中甘ったるい経管栄養まみれになって窒息して救急搬送されて、 そのまま肺炎併発して死亡

あんまりいい亡くなりかたじゃないと思うんだけれど。

2007.02.21

経済学的、心理学的

社会を動かす2つの対立する考えかた。

  • 経済学:人間というのは本来理性的な生き物で、構造の変化が社会を動かす
  • メディア:人間個人は理不尽な生き物で、社会は人が動かしている

経済学畑の人達は、理性の存在を信じている。人はインセンティヴに従って 行動するから、社会の構造を操作してやることで、社会を構成する個人の振舞いを変更しようとする。

メディア畑の人なんかは逆。人間は理不尽な生き物で、適切な構造、 経済政策みたいなものを作ったところで、 たとえば「竹中平蔵大臣の顔が気に食わない」とか、 そんな理由で多くの人が理性に反する行動をすると 考える。

経済学者は、「個人の理性」を喚起するための構造を考えて、政府に提言する。 全員が理性的であれば、世の中はそのとおりに動く。

メディアが社会を操作しようと思ったら、まずは個人を「群集化」するやりかたを考えて、 そのあとで群れをどう動かすかを考えるか、あるいはそのまま放置する。

理性的な個人の集合と、「群集」と化した人々。

同じ人数で何かの仕事をするとき、より効率的に働くのは、個人の集合。10人いれば10人が 適切な行動がとれるから、効率は上がる。

群集は最悪。みんな同じ行動しかしないから、 たとえば10人が3人と7人とに分かれて行動したほうがいい場面であっても、10人は10人のまま。 まず3人でできる仕事を10人でやって、その後7人でできる仕事をまた10人でやる。

効率は理性的な個人の半分にしかならないけれど、群集というのは不思議と居心地が 良かったりもする。

理性を生む分断

僻地医療や産科減少というのは分配の問題。

経済学的な解決策を考えるなら、そのうち都市部に勤務する医師、皮膚科や眼科、 自由診療を行っている医師の収入には、今後重税がかかりますというアナウンスが 行われるはず。

統治の基本は分断。

  • 不利益をこうむるのは医師だけだから、国民と医師は分断される
  • 都市部と地方の収入格差が生じるから、地域ごとの医師も分断
  • 税がかかるのは「医師の収入」であって病院じゃないから、経営サイドと現場医師とは分断
  • もともとあった「科の溝」は、ますます深まる

群集を個人に分断すれば、内なる理性が生きてくる」というのが 構造の力を信じる人達のテーゼだから、 彼らが本気で医療問題を解決しようと思っているなら、こんなやりかたを考えるはず。

予定通りにいけば、都市部のマイナー科の医師は仕事がなくなって、 僻地でマイナー科業務をこなすようになるか、 あるいはメジャー科に転向してリスクをとるか。自由診療をしている先生がたは まだまだ少ないはずだから、各個撃破で十分対応可能。ブラックジャックじゃあるまいし、 さすがに医師免許無しでは仕事もできないだろうし。

現場の医師は反発するだろうけれど、保険医総辞退を指揮できるガッツのある人、たぶん出てこない。 医師のやる気は地に落ちる。でもここで大切なのは数字。

経団連の人達とか、政府の人達がいろんな提案をしているけれど、 彼らが本気を出すならこんな提案が出てくるだろうし、彼らにはそもそも こんな問題を本気で解決しようという意志が無いような気がする。何となく。

構造に反駁するのは人間の力

「みんなは理性的」を前提に組まれた論理に対して、論理で対抗するのは難しい。 泥沼化して、そのうち国民サイドから詭弁認定を受けて、医療者は終わる。

経済畑の人たちが医療改革に本気で、将来こんな提案が出されることがあるならば、 医師側にできる対抗戦略は「人間の力」を使うこと。

具体的にはみのもんたとか筑紫哲也みたいな人達に、内科学会の顧問になってもらう。

医師の代表では役不足。医師を含めた国民の代表になるような「顔」を立てて、 彼らが煽動する形で、医師も国民も一まとまりの「群集」を作ってもらって、 政府の動きにとりあえず逆らう。

その先に何があるのかは分からないし、社会の効率はひどく落ちる。 たぶん日本は倒産しちゃうだろうけれど、 とりあえず政府の思惑は外すことができる。

メディア系の知識人は、本物の経済学者に比べれば政治に疎い。彼らが政治を行って、 社会がうまくいく可能性は100%無いけれど、 人をまとめて「群集にする」ことに関しては、メディアは経済学者より上手。

多くの人を狭い所に閉じ込めると、人は群衆化し、その行動は単純化し、予測が容易になる。 今では人々を閉じ込めるのに、物理的な手段は必ずしも必要ないことも我々は知っている。 人々を群衆化する檻は、情報であっても構わない。「群衆化による行動制御」というのは、 今では第二次世界大戦の頃よりずっと巧みに行われている。 404 Blog Not Found:経済学より重要なもの

複雑な現実を理解するのに、モデル化を行って未来予測をかけるのが経済学者なら、 現実自体に変更を加えて、未来予測を簡単に行えるようにしてしまうのがメディアの人達。

構造によって分断された個人を束ねて、理性を消して獣性で論理に対抗するのが「人間の力」。

歴史的に、構造は常に人間の力で破壊され、 獣性によって動かされた世の中を前にして、理性は常に無力だった。

個人が集まって構造を作って、不満が募って人間力が構造を破壊して。 人間の矛盾が露呈して社会が爆ぜて、バラバラになった個人がまた新しい構造を作る。 その繰り返し。

人間という生き物を駆動しているのは、理性なのか、それとも獣性なのか?

「お前は獣だ」なんて言われれば誰だってムカつくし、 「あなたは理性を持った人だ」と認められると、相手を信じる気にもなる。

経団連の提言なんかに従うのは絶対に嫌だけれど、「嫌だ」という思いもまた獣の感情。 「人間の理性を信じる」という戦略部分では、経団連の人たちというのは案外、 人間に対して誠実なのかもしれない。

2007.02.20

「信じたがる人」に伝わる意見

理性的な、あるいは科学的な「いい考え」というのは実世界ではなかなか受け入れられない。 その一方で、「納豆がダイエットに効果的」とか、「この壺買えば人生勝ち組み」みたいな考え方は 大流行。

「いい考えかたが広まる」というのは机上の空論。広まった考えかたが、事後的に「いい」ものとして 認知されるのが世の中。

広まる考えかたと、そうでない考えかたとを分けているのは、たぶん「信じたがる人」 たちを意識した発信を行っているのかどうかだと思う。

「優越感ゲーム」のルール

世の中を支配しているのは、優越感という万能通貨。

経済的な力。社会的な地位。目に見えない名声や、賛同者の数といった社会の様々な パラメーターは、「優越感ゲーム」というメタルールの元ではお互い交換可能なものとして機能する。

ゲームは突然始まって、通貨の交換が一段落した時点でいきなり終了する。 初期条件は極めて不公平。 最初から多くの通貨を持っている人もいれば、何も持っていないのに、 いきなり「ゲーム開始」の合図を聞く人もいる。

何も持っていない「信じたがる人」

マーケティング屋さんが「下流」と呼んでみたり、あるいは新興宗教を主催する人たちなんかが真っ先に ターゲットとして想定するのは、このグループの人達。

信じたがる人というのは、「優越感ゲーム」が開始された時点ではほとんど何も持っていない。

納豆がある日バカ売れしてみたり、科学を信じる連中からするとありえない行動をするのも、 このグループの人達。そんな行動の裏にはたぶん、「現状以外であれば何でもいい」という、 感覚がある。

考えうる全ての選択肢が絶望しか生まない場合、 最悪に見える選択が、最善手に見えてくることがある。

優越感ゲームというのは、誰かが勝手に笛を吹いて、ある日突然始まる。

初期設定が全然公平でないから、何も無い状態でゲームの会場に放り出されたプレーヤーは、 理不尽な思いをする。「リセットボタン」を押して最初からやり直したくなる、そんな状況。

「優越感通貨」というのは交換しあうことで価値を増していくけれど、 何も持っていないところからゲームに参加した人がとれる戦略は、誰かのアイデアを「信じること」だけ。

信じたアイデアが失敗したところで、「信じたがる人」が失うものはほとんど無い。 この人たちがアイデアを選択するとき、最も重視されるのは短期的な成果で、 その次が成功した時の対価。アイデアの実現可能性みたいな要素は後回しになる。

「信じたがる人たち」に働きかけるには

偏りのない事実を並べて判断してもらったり、事件の構造的な問題を指摘して、 それを解決するための方法を考えてもらったりするやりかたというのは、信じたがる人達には広まらない。

考えたところで、彼らに「優越感通貨」は支払われないし、この人達が一番望んでいるのは 今の理不尽なゲームがとりあえず終了して、次の「ゲーム開始」の時までに 通貨を蓄えておくことだから、 「これを信じることで何が得られるのか」を明示していないアイデアは受け入れられない。

アイデアを述べる人間の好感度も大切。

たとえば愛煙家に「健康に悪いですよ」と禁煙をお願いする場合。

  • ある程度の通貨を持っている人の言い訳は、肺ガンのリスクはそんなに高くないとか、 自分にとっては禁煙による不利益のほうが利益よりも圧倒的に多いからとか、 自分の正当性を支持する対抗論理を持ち出すこと
  • 「信じたがる人」は、より属人的な判断を行う。禁煙しない理由として 「あの医者の態度が気に食わないから従わない」 という反応が返ってきたりする

失うものがある人にとっては、筋の通らない言い訳をすることは、自分の通貨を 失ってしまうことを意味するから、論理で相手の説得をはね返す動機が発生する。

失う通貨の無い人にとっては、そもそも対抗論理を作り出すことが無意味なことだから、 「あなたは信じるに値しない人間だよ」という理由で十分だったりする。

属人的な考えをする人を説得するには、「人に対する信頼」自体を担保にすること。

「こうした方が健康にいいですよ」みたいな言いかたじゃなくて、 たとえば「来年も、お孫さんとここを散歩できるといいですね」みたいに誰かに関連付けた動機付けを 行ってみたり、マスメディアの人たちみたいに、 「私を信じて下さい」みたいなキャスターの魅力で人を信用させてみたり。

個人の中の上流下流

産科が消えた。「何とかしなきゃ」。市民が動いて、署名が集まった。 みんな笑った。「馬鹿じゃねぇの。金出せばいいのに。法曹動かさないと意味無いのに」 産科の医師が訴訟されて、同業者がやったのは結局同じこと。

「声をあげよう。危機を訴えよう」

そんな行為に意味がないのは、みんな知っているはずなのに。

「下流」が叫んで、それを見た上流が「もっと正しいやりかたあるのに」と笑う。

たぶんこんな構図は社会のいろんなレベル、いろんなスケールでずっと行われてきたことで、 それこそ小学校のいじめから、国会議事堂での内閣突き上げまで、やってることはみんな同じ。

医師が叫んで、たぶん社会のどこかにはそれを見て「馬鹿じゃねぇの」と医師を笑う「上流」の 人達がいて、その人達の頭の中にはきっと、「正しいやりかた」が考えられているはず。

残念ながら、納豆買ったり壺買ったりする人達を科学が説得できないように、 叫ぶ人達に対しては、「正しいやりかた」なんてナンセンスな戯言にしか見えないし、 医師に対して「正しいやりかた」を提示できる人がどこかにいたとして、 その意見を我々が目にしたところで、やはり「ナンセンスだ」という声しか出てこないんじゃないかと思う。

医師が国民を味方につけようと思ったならば、科学的な事実や構造の問題を淡々と 示すだけでは足りなくて、 「医師を支持することでどんな未来が得られるのか」を提示しないといけないし、 医師全体が属人的に判断の目に晒されるから、「愚民ども」とか、 行儀の悪い発言は絶対に潰していかないといけない。

今の医療者に対して「正しい解答」を示そうとする人が仮にいたとして、 その人たちが「医師なら理性的に判断してくれるはず」なんて思ったら、 アイデアを示した瞬間に袋叩きにされておしまい。

やりかたはマスメディアと一緒。「何とかできます。私を信じて下さい」と断言できるを立てて、 その人を信じた先にどんな未来があるのかをなるべく具体的に示すこと。

「下流マーケティング」の方法論というのは、本来は社会の上流、下流で 広告のやりかたを変えるような限定的なものではなくて、社会のあらゆるレベルにおいて、 優越感ゲームでたまたま「上」になった人たちが、「下」を説得するときに 汎用的に用いることができる技術のはず。

政治家の人とか厚生省の人とか、本来はこんな「下流マーケティング」のプロ中のプロでないと 勤まらないはずなんだけれど。

2007.02.17

医療が業界間交渉のテーブルにつくために

外交3原則

  1. 国家は国際ルールを守らなくてはならない。また、ルールの無視を看過することによって、別の国家に 危害を及ぼしてはならない
  2. 国家は国際ルールに服従しなければならない。ただし、そのルールが自国の行動原則に反する場合はこの限りでない
  3. 国家は、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない

治療教義という言葉を作ったり、行動原理と表現したり。

どういう書きかたしても全く反響のない話題だけれど、もう少しだけ。

何がしたいのか

医療以外のいろんな業界の人、司法や報道、企業家やエンジニアの人達と、 もっと話がしたい。基本はそれだけ。

単なる個人として誰かと話すのは本当に簡単なこと。テレビに出るような有名人とだって、 ネット世界ではコメントでもメールでもいくらだって手段があるし、返事をいただけることだってある。

でもそれはあくまでも個人と個人のやりとり。立場の異なった業界を越えて、 たとえば特定の話題を議論するとか、何かの問題を越えるために協力しあうとか、 そんな業界同士の話にはならない。

医療には「業界」の概念がない。

異分野に進出して活躍している医師もいるけれど、あれは「優秀な個人」としての振る舞い。 医師の立場、医師のものの見かたが何かの役に立つとか、そんな要素はほとんどなくて、 せいぜい「免許持ってるから便利」、その程度。

イメージとしては、国際外交の世界。

いろんな国、いろんな立場のある国際政治の舞台では、それでも国家どうしは対等に「外交」を行う。 もちろん小さな国は割りを食うことも多いけれど、政治的にうまく立ち回ってみたり、 国益が全く異なる国同士が、何かの目的では協調してみたり。

ドロドロの国際政治ゲームの舞台では、それでも「国家」でさえあれば、 対等なプレーヤーとして参加可能。 参加したあとは、その国の能力次第。

国際政治の舞台で、唯一仲間はずれにされるのが「憲法を持たない国家」。

今の医療業界はこの状態。

外交にはルールが必要

国際政治の舞台には、たとえば人道主義とか、侵略禁止とか、国連で決めた、あるいは もっと漠然とした「国際ルール」みたいなものがあって、 それぞれの国家はそれを踏まえて外交を展開する。

国際ルールとは別に、それぞれの国家には行動原理、たとえばそれは憲法で明文化されていたり、 イギリスみたいに経験の蓄積で代用したものもあったり、そんな自分達の行動に内在する ロジックを持っている。

外交は、お互いの行動原理にのっとりながら、相手の動きを探ったり、操ったりするゲーム。

自国の行動原理と、「国際ルール」とをうまく使って相手に圧力をかけたり、 2つのルールの矛盾をついて、 相手の行動を非難してみたり。交渉は、自分のルールをちゃんと持っている限りはお互い対等。

外交世界は、外面だけ性善説ルール。

相手に対して「ウソをつくなよ」ではなくて、「お互い正直にやろうよ」という交渉をする。 これができるのも、お互い行動原理を持っていて、 「国際ルールは破っても、自国の行動原理は守る」という合意ができているから。

憲法のない国とは外交が成立しない

行動原則のない国家とは、外交が成立しない。どんな状況で裏切るのか、どうしたら味方になって、 どうなったら敵対するのかのロジックが見えない以上、 性善説ルールで接するのは不可能。

クーデターのおきた国家が真っ先に作るのは、臨時政府と新憲法。

憲法を持たない国家というのは、どの国家から見ても、外交をする価値が無いと 見られてしまうから、まずは形を整えて、国際舞台から「プレーヤー」として認知してもらう。

「我々の国にはちゃんとルールがあって、我々はそれをきちんと守っている」

そんな宣言が出来ない国や、あるいはその「ルール」を平気で反古にするような国は 世界中から叩かれるし、誰も味方になんかなってくれない。

自分のルールを守るということ

ルールに乗っ取らない批判は全然怖くない。

以前話題になった「新しい歴史教科書」が発売された当初、朝日新聞をはじめとする メディアは感情的な叩きに走ったけれど、売上げは伸びる一方だった。 そんな時、岩波書店が「この教科書の内容では、入試に必要な知識が不十分で、 受験用として考えると現場では使えない」という実用的な批判を行ったのだそうだ。

  • 岩波書店は出版世界の伝統的な「プレーヤー」で、自分のルールを守ってきた実績がある
  • 出版世界での国際ルールは、「教科書は受験に使えること」

プレーヤーからルール違反を指摘された「新しい歴史教科書」は、 何としてでもこの指摘に答える義務が生じてくる。

選択は2つ。

国際ルールに従って、受験知識を織り込んだ新版を発行するか、 「この教科書の歴史認識が正しいんだ」と自国の正当性を主張して、 受験という「国際ルール」の改訂を求めるか。

いずれにしても、ルールに乗っ取った指摘に対しては、必ず行動で返さないと 信用を失うのは基本中の基本。だから恐ろしい。

捏造ばっかりで叩かれまくるマスコミにだって、薄っぺらな「行動ロジック」 というものがあって、基本的にはそれを外さない。

あんないい加減な謝罪会見だけで広告主が納得するのも、マスコミの行動原理に一貫性があるから。 まだまだ「ゲームの相手」として外交を行う資格があると認識されているからなんだと思う。

ルール無き国はゲームに参加する資格が無い

ルールの無い国は、国際社会から相手をしてもらえない。

こいつは交渉しても無駄だな、あるいは、まだまだ交渉するほど成長してないなと思われたら、 周囲からは憐憫の情で見られるだけ。

周囲から憐れまれて、お目こぼしをお願いするのは外交なんかじゃなくて、単なる乞食の論理。

守るべきルールが明文化されていなくて、外の人が見たら矛盾だらけに見える行動をとる 「医療」という業界は、「業界間の外交舞台」からはまだ「プレーヤー」とは認識されていない。

もう限界だよ、崩壊しちゃうよなんていくら訴えたところで、 それを見る「外の人達」の視線というのは、アフリカなんかの失敗国家の難民に対する視線と同じ。

「あぁあいつらかわいそうだな」とは思っても、あの業界と協力して何とかしようとか、 自分達の業界ならば手助けができるかもとか、 そんなふうに考えてくれる業界は、たぶん無い。

個人同士の対話から業界同士の交渉へ、やがては国家間の外交へ。

対話の粒度がだんだんと大きくなっていく中で、固有名詞の力はだんだんと薄れていって、 相対的に「属性」の力が増していく。医療従事者がもっと粒度の大きな世界に出ていこうと 思ったら、「医師とはどんな職能集団なのか」を文章化したものは絶対欠かせない。

たとえばこんなの

「医師というエンジニア」の行動原則をこんなふうにみんなで蓄積していく。

  • 技術最適化よりも安全を優先する:昇圧薬は薄くすべきか濃くすべきか? 余分な水分を入れたくないという技術的な立場からは濃くしたほうがよくても、 安全優先という立場からは当然「薄くするべき」となる
  • チームのことを考える: 技術的に最適化した「俺様処方」は是か非か? チームでやるという教義に従えば、限界まで追い込んだ分かりにくい処方をするよりは、 汎用品をうまく組み合わせた分かりやすい処方が正しい
  • 信頼性は追求するのでなく分配するもの: 安全を保証するために必要なマンパワーと機械とは、求められる保証の程度に応じて変わる。 限られたマンパワーとマシンパワーとをどう振り分けるのかを考えるのも医者の仕事
  • どうせ壊れるなら安全な方向に:壊れると輸液が入る旧式ポンプから、壊れても止まるだけのシリンジポンプへ。 抜けると危険な中心静脈ラインよりは、より安全な末梢輸液や皮下輸液へ。 ハイテクと安全とは両立させず、常に安全へ
  • チームを組織する: 「みんな馬鹿ばっかりで俺様の力を生かせねぇ」なんて愚痴をいう医者は、基本的に無能。 本当に優れた人は、どこにいっても自分のチームを作るし、やる気の無い周囲の人が、 いつのまにか喜んでその人のために働き出す。 チーム作りのノウハウというのもまた、医師の重要な機能

技術的には問題なかったとか、彼は万全を尽くしたとかじゃなくて、 「あの行動は医師としての行動原則に則していたのか?」を討議する。イギリスの不文憲法 みたいに過去の行動基準をみんなで蓄積して、形にしていく。

最初は病院内の専門科ごと。それを持ちよって粒度を上げて、病院ごとの行動原理を作って、 さらにそれをまとめて、「医師の憲法」みたいな形へ。

無理?

2007.02.15

囲い込みメソッド

組織のとか、そんな面倒なことは考えないで、 中の人達を囲い込んで、ひたすらに安い価格で現状維持を目指す、そんな 思いっきり後ろ向きな方法論。

やりこみ要素

たとえスキルを磨けたとしても、それがあまりにも狭い世界でしか通用しない技術になってしまうと、 もはや全く潰しが効かなくなってしまう。潰しの効かない、 行き場のない人は安い値段で囲い込むことが可能。

バイク便の上手な人達というのは周囲から尊敬されるけれど、いくら技術を磨いたところで、 それは「バイクの操縦が上手」というだけ。その技術がいくら優れていても、 他の業界に通用する技術ではないから、高スキルの人が流出する可能性がほとんど無い。

技術者には穴倉的な狭い世界で存分に競っていただいて、 その情熱を「移動能力」の削りあいに持っていければ、 高スキルの技術者をいくらでも安く買い叩けるようになる。

重粒子線治療に特化した放射線科医の人とか、 もちろん「ただの医者」としていくらでも潰しは効くだろうけれど、 自分の腕を生かそうと思ったら、狭い世界の罠に落ちてしまうかも。

楽園化

あれしたい、これしたいみたいな細かい雑用は全部企業側が負担してくれて、 技術者は技術のことに専念できる環境。

一見すばらしいことだけれど、楽園みたいな環境を意図的に作られると、その人は囲い込まれる。

転職に役立つ「手に職のついた状態」というのは、スタンドアロンでその技術を再現できること。

それをやるには「全部」知っていないといけないのだけれど、全部を知るためには バックグラウンドでどんな雑用が行われていて、それに何人ぐらいの人が かかわっているのか、そんなことも知っていないと、新しい場所で技術を再現できない。

一番面白そうなところに夢中になっていて、雇用者側もそれを良しとしているような環境に長くいると、 そこから他に移ったときに全く役に立たない自分に気付いたりして、すごく大変。

これから競争が激しくなって、雇用者側にも「選ぶゆとり」が出てくる時代がきたら、 医師を囲い込む環境戦略として「楽園」をつくる施設が出てくるかも。

「移動するのか…。かまわないけれど、君の知識が他の病院で通用するかな?」

最後は部長のこんな殺し文句で。

特別な言葉と習慣

その病院だけでしか通用しない略語とか隠語、あるいは研修医同士の競争意識を 高めるような院内資格とか、研修医同士のコミュニケーションの種になるような イベントを山ほど用意する。

  • エネルギーをつぎ込めるような要素
  • コミュニケーションを高めるような何か
  • 伝統要素や権威要素を入れる工夫

たとえば欧米の有名病院と同じ名前のイベントとか、 むこうのレジデントに採用されている階級制度とか。

横のつながりを強化して、「何かやってる」「俺達成長している」感覚を 強める工夫は、変化を拒んで現状維持を望む、保守的で排他的な空気を強化する。

研修医が自分達以外の施設のことを見下したり、馬鹿にしたりする空気が作れれば、 まずは大成功。そうした外の施設に行くことが「負け」になってしまう空気の中では、 重労働に耐えること、安い報酬に甘んじること自体が「勝ち」であるという、 価値の逆転が生じてしまう。

「最後の1ピース」を隠す

一人の患者さんを診察から退院までフォローするには、いくつもの判断を重ねる必要がある。

技術をマスターするためには、もちろん全ての場面での判断を知らないといけないけれど、 面白い場面と、重要な場面とはしばしば異なっていて、地味だけれど重要な場面には、 患者さんと部長しかいなかったりする。

島や僻地に放り出されて、1から10まで自分でやらなきゃ回らないところにいくと、 こんな「地味だけど重要な場面」を嫌でも見ないといけないのだけれど、 もしもこれを意図的に隠された場合、研修医では隠されたことに気付けない。

有能な人というのは判断が上手だけれど、回りのサポートがあってはじめて 「使える」人と、どこにいっても同じように有能な人とがいる。

場所に特化しない有能な人というのは、自分の判断一つ一つにちゃんと根拠があって、 それを回りに説明できるから、自分をサポートしてくれる環境自体を 自分で作れる。

「なぜ、自分は、この行動を取るのか?この行動が最適な行動だと言えるのか?」 こういうことを、徹底的に自問自答しながら行動しなければなりません。 有能な人というのは、常にそれをやっているわけです。 分裂勘違い君劇場 - 未来の転職が、過去にさかのぼって現在の自分を有能にする

「重要な場面を乗り切るためだけに特化した医師」というのは、その病院のヒーローだけれど、 医師にも転職が当たりまえになる時代がきたら、 その人が他の病院でもヒーローであり続けられるのか、そんなことが問われるようになる。

自分の施設では役に立っても、他施設では役に立たない技術者が量産できれば、 経営者としては笑いが止まらないはず。

移動するとき武器になるもの

「自分にはこれができます」というものを持っている人は、本当に強い。

技術の黎明期から知っているような上の先生がたは何でもできるし、どんな急変だって、 デバイスの故障だって「経験済み」のことだから、何かトラブルがあっても全然ぶれない。 こんな先生がたは日本中から引く手あまただし、実際日本中を飛びまわっている人を知っている。

今はまだ、どこの病院も「みんなにこうなってもらおう」という思いを持った人が研修委員長を やっているから大丈夫だろうけれど、専門分化が進んだ昨今、「全部知っている」人の数は だんだん減ってきて、部分の専門家ばっかり。

大きな公立病院が「負け組み」認定されたりしているけれど、ああいう組織はお金は出せなくても、 事務の人はけっこう鋭くて喧嘩慣れしてて、侮れない。人事とか、コミュニケーションとか、 事務方のほうが圧倒的にスキル高いから、「病院の暗黙知は財産だ」ということを 言い出して、研修医の囲い込みをはじめる人は、そのうち出てくる。

「囲い込みメソッド」というのは、いろんな仕事場を転々としていくときに「武器」になるものを 作らせないように技術者を管理する方法だけれど、昔の研修病院は、これに近かった。

それは病院に悪気があったわけでは決して無くて、あくまでも「つまらない雑用よりは面白い仕事を もっとやってもらおう」という思いやりだったのだけれど、大学に移ってからは苦労しまくり。 自分達の頃はまだまだおおらかで、受け入れてくださった大学医局の先生方も 「仕方ねぇな」と最初から教えてくれたから何とかなったけれど。

今はどの施設も人が減ってしまって、「やり直し」をする余裕も無ければ、 人が減ることに対して昔みたいに寛容にもなれない。

いい環境に入れてよかったな、と安心している研修医の人がいたら、 たまには「囲われてないかな?」と周囲を見渡して見るのも大事かも。

2007.02.14

爺医の人達は引退前に治療教義を語り残すべき

医者ならこう考える

ネット世界でのおしゃべりが盛り上がると、 いろんな業界の人たちがひとつの話題に集まってくる。 それぞれの立場や考えかたから意見を発信して、議論は延々と続く。

企業家ならこう考える。プログラマならこれが正解。経済畑ではこんな意見が主流。

同じ問題を扱っていても、あるいは個人の価値観は同じ人たちであっても、 立場が違うと意見も変わる。価値観の相違というのは時に泥仕合になるけれど、 立場の違う人達がお互いに意見を戦わせるのは意外なところで勉強になったりして、目が離せない。

意見には、個人要素と属性要素の2つのパラメーターがあって、どちらが弱くても議論は負ける。

個人の考えがあやふやな人はそこを突かれるし、自分が属する立場に忠実に振舞えない人は、 今までの言動の矛盾を突かれてやり込められてしまう。

君の個人的な意見は分かった。じゃあ、その意見というのは医者としてどうよ?

ネットでいろんな意見を発信して、それなりにいろんな反応をいただいて。 議論になるのは避けてきて、盛り上がっている話題からはコソコソ逃げてきたけれど、 「個人の意見」単独で勝負するにはこれが限界。

今まで「医者として」意見を発信したことがほとんどない。 たぶん、ネット上の同業者の人達も同じはず。

「この場合、医者なら必ずこう考える」

そんな業界全体に共通する「職業教義」に相当するものが、医療の業界には存在しない。

ネット上で医師として意見を発信しても、医師には属性という概念が存在しないから、 しょせんは個人の集まり。その意見は極めて弱い。

医師の属性は議論の相手が勝手に作っちゃうし、 それに対して「本当はこうなんだよ」と示せるものもこちらにないから、やられっぱなし。

時々勇敢@無謀な同業者の人達が「医師の立場としてはこう考えます」なんてやってるけれど、 この業界に共通する「立場」なんて無いんだから、もう矛盾だらけ。

誰かが作らなくちゃいけない。

軍隊の戦闘教義

軍事理論には「戦闘教義」、戦いかたの基本概念がある。

これは格闘技の基本技みたいなもので、平和なときに考えておいて、 これに即して軍隊を整備しておく。 中途半端な軍隊は実践で負ける。 兵士の訓練や、武器の改良や調達はこの「教義」にそって行われ、 軍の編成も、戦闘教義に則して組織される。

戦争は、お互いの戦闘教義のぶつかり合い。 軍隊の作戦は、その国の戦闘教義に従って立てられるし、 これがなければ、軍隊はただの烏合の衆。戦場で何を準備していいのか 分からなくなってしまう。

戦闘教義というのは、非合理的に行動する人間が作る先の見えない戦場で、 最小のリスクで最大の戦果をあげるための基本戦略。

教義 => 軍の編成 => 実戦 => それを見てまた教義を変更

軍隊という組織は、こんなことを紀元前からずっとやってきた集団だから、侮れない。 「軍人だったらこう考える」という発言も、教義がしっかりしている軍人ならでは。説得力が段違い。

軍人だった人が経営コンサルタントになってみたり、危機管理の専門家になったりするのは、 軍隊という「属性」が、それだけしっかりした教義に支えられているから。

歴史に学ぶ

戦闘教義は人間の経験に基礎をおいているし、なんといっても軍隊の命運がかかっているから、 机上の空論なんか通用しない。何か疑問が出てきても実験できないから、戦史の研究がとても大切。

戦史というのは単なる歴史じゃなくて、「こういう考えかたの元に軍隊を戦わせたら、 こんな結果になった」という膨大なデータの積み重ね。

タイムスケールが全然違うけれど、行われているのは研究室での実験と同じ。 仮説があって、実証実験があって、 それをもとにまた仮説が生まれる。戦争の歴史というのは、この繰り返し。

医学にだって「医学史」という分野があるけれど、あれは博物館の学問。 歴史には技術、運用、教義の3つの側面があるけれど、医学史は技術の歴史。

  • 新薬の開発や、新しい治療デバイスの普及というのは技術の歴史
  • 医師を取り巻く社会情勢の変化や、マスコミ報道が医療を歪めた経緯は、運用の歴史

この2つの影に隠れて見えにくいのが、教義の歴史。

たとえば心筋梗塞という病気は、血管が詰まって心筋が壊死するのか、筋肉が壊死することで 血管が閉塞するのか、疾患概念がはっきりしなかった。 血栓溶解薬に治療効果があるという発表は、技術の技術であると同時に、 治療の戦略を「心筋梗塞の治療は血管を再開通させることである」という考えかたに一変させた。

治療教義の変遷は、建物の構造も変える。

たとえば古い循環器系の病院は、 救急外来の隣に集中治療室があって、 カテ室は別棟にあったりする。これは「筋肉が先」戦略に従った考えかたで、 急性期には安静を優先して、 血管は後回しだったから。「血管が先」戦略ができた後の新しい病院は、 どこも救急外来の近くにカテ室があって、治療後に集中治療室に入るように作られている。

今までの考えかたでは「禁忌」だったはずの薬が、ある年を境に「治療薬」として 教科書に載るようになったりするのは、技術の進歩というよりは、治療戦略の変化。

こんな話題は、部長級の先生方の昔話に時々出てくるだけで、なぜか体系化されて語られない。

一番弱いところから攻められる

議論の3要素、「技術と運用と教義」というのは、そのどれが欠けても、そこを突かれて議論に負ける。

医師というのは一応技術を持っていて、社会的な力とか、組織力みたいなものだって それなりに持っているけれど、教義の体系化が全くなされていない職業。

  • マスコミは医療の教義に勝手な妄想を代入して、「矛盾してるじゃないか」と医師の技術を批判する
  • 医療経済屋さんはもっと悪質。「医師は教義を持たない烏合の衆である」と勝手に決め付けて、 医療の運用面を経済の立場からブッ叩く。同業者のくせに

「僕は病気を治せるんだぞ」なんて強がりは、業界の壁を越えたネット議論の世界では、 何の役にも立ちはしない。

他の業界同士の交流をやるときには、議論の粒度を合わせて、現場の知識を抽象化して提供 するのは常識。医者にはこれができないから、 「あなたの立場は、この問題をどう考えますか?」と尋ねられても、「個人的には…」みたいな 応答しか返せない。本当にかっこ悪い。

教義作りませんか? >>えらい人

医療という業界に、たとえば「不完全な道具と、病気に関する不十分な知識しかない中で、 どうやって信頼性の高い治療戦略を提供するかを考えるための学問である」とか、 適当な基本教義を作って、それに従って治療戦略の変遷を編集し直す。 現場を知りぬいたベテランの先生方なら、簡単にできるはず。

戦上手として知られたナポレオンは、自分自身では新しい戦略を作らなかったのだそうだ。 ナポレオンがやったのは、戦闘教義の基本に潜む戦史の教訓を学びなおしたこと。

  • 砲兵の効果とは何か
  • 機動の意味は
  • 相手を騙す効果とは
  • そもそも戦場での勝利とは何なのか

こんな考えかたを一から編集し直して、自分の軍隊に役立てた。

皇帝は何の本も残さなかったけれど、そのナポレオンに破れて、その経験を本にしたのが クラウゼヴィッツの「戦争論」。

「戦争論」。「UNIX の考えかた」。「実際の設計」。どの業界にもこんな「考えかた」のまとめがあって、 どの本もほんの一部しか理解できなかったりするのだけれど、それでも非常に面白い。 うちの業界にもこんな本があったらいいな、といろいろ探しているのだけれど、やっぱりみつからない。

ネットワーク時代。教義の無い業界は、結局異業種との交流の中で淘汰され、 存在意義を発揮できない。医師なんて最古の職業のひとつなのに、これはいかにももったいない。

ベテランの先生方は、引退前に今すぐ「治療教義」の編纂をはじめるべきだと思う。

自分達の時代は「治る」というものをこう考えていたから、こんな治療をした。 新しい発見があって、戦略がこう変わって、それに従って病棟運営がこんなふうに変わった。

どんな決断にもきっとこんな経緯があって、臨床の前線に立ちつづけたベテランの先生方は、 きっといろんな知恵を持っているはず。

異業種に通用する教義ができれば、それは他の業界と議論する時にだって役に立つし、 医師が他の業界に移った時、「実戦経験を伴った教義」の伝達者として、 存在感を保つことができるようになる。

「なんでこの薬を?」なんて新人の問いに、「薬屋さんが勧めたから」という答えしか返せない ベテランには「考えかた」なんてどうでもいいのかもしれないけれど、そんな人はたぶん、 この業界どこを探したって一人もいない。

そう信じてる。

2007.02.13

善い人の善意が世の中を美しく腐らせる

悪人の善意は世の中を動かす。 悪意を持った悪人も、交渉の相手としては役に立つ。 悪意を持った善人は本質的に無害。 善人の善意というものは、これはもうどうしようもない。

みかんから数字を発見する

「りんご3つとみかん2つを合計すると、いくつになるでしょう?」

算数を最初に習ったとき、こんな習いかたをしなかっただろうか?

身近なものを使ったたとえ話は、だんだんと複雑な数式へ。

みんな最初は、頭の中で「りんご」や「みかん」を必死に数える。数が増えたり、 りんごにバナナが加わったりしていく中で、 誰かが数字を「発見」する。

最初の発見者は、頭が良くて、怠惰な子供だ。 頭が良くて勤勉な子供は、必死になってりんごを数えることに夢中になって、 その裏にある理屈には気付けない。

怠惰な子供の目標は、なるべく楽に答えを出すこと。 勤勉な子供の目標は、先生にほめられること。

「早く数えれば、それだけ多くほめてもらえる」

頭の中にこんな回路を作ってしまった勤勉な子供は、数を発見する代わりに、 一生懸命果物を数える。

問題が複雑になっていくと、数えていたのでは追いつけなくなる。 みんなに追いつけなくなった勤勉な子供は、 今度は「いくつですか?」と問題を出した先生を恨むようになる。

教室の中では、勤勉さというのは「善」だけれど、今いる場所から飛躍して、 もっと効率のいい考えかたを発見するには、怠惰であること、ある種の「悪さ」は欠かせない。

思考の連鎖が「善い」を作った

「善い」という状態は、「ある」のではなくて「発見される」ものだと思う。

いろんな人がエゴをむき出しにしてぶつかりあう実世界。みんなが利己的に振舞う中で、 どこを妥協したらお互い傷つかずに利益が得られるのか。そんなやりかたを 追求して、お互い折り合った結果が「善い」という状態。

発見された「善い」が普遍的になっていく中で、 そのうち結果と目標とを逆転させる人が出てくる。

世の中には「善い」というものがあって、それに従っていさえすれば、きっと幸せになれる

思考を放棄して、そんな考え違いをした人というのは、数字を発見できない勤勉な子供と同じ。

利益を求めて思考した人たちが、ようやく折り合い発見した「善い」を、 思考なしにそのまま目標にした「善人」には、いつまでたっても利益なんて来ない。

同じものであっても、それを信じた人と、それを見つけた人との間には絶望的な断絶がある。 信念というものは、思考停止をもたらす。善であることを単なる目標にしてしまった「善人」というのは、 結局のところ「善いこと」とは どんなものなのかが分からない。

自分はこんなに善人なのに、世の中では悪人が跋扈して、 自分に回ってくるはずだった利益を吸い上げる。

自称「善人」はこんなふうに世の中を恨み、「良い」を発見した人を「悪人」と罵り、恨む。 こんな思いは、果たして正しいんだろうか?

そして病院は叩かれる

みんないい人だ。

いい人はタバコを止めない。薬を忘れる。健康食品に夢中になる。

悪くなる。入院する。みんなこう言う。「私はなにも悪くないのに」。

みんないい人だ。

  • 「こんなになるなんて思ってもみなかった」
  • 「完全に治るまで入院させて下さい」
  • 「もっといいサービスをして下さい」
  • 「どうしてこんなに高いんですか?」

いい人達は、いつまでたってもいい人のまま。どんなに具合が悪くなっても、 「善い人」であろうとするほど、話が進まない。

いくら「善く」なっても、だれも何もしてくれない。いい人にとってはそれは理不尽だけれど、 何もしないんだからしょうがない。

1910年代のメラネシアでは、ヨーロッパの人たちが援助物資を飛行機に積んでやってくるのをみて、 「同じことをすれば、自分達にも物資がやってくる」と思い込む人達がいたそうだ。

彼らは白人がすることを真似て、飛行場みたいな場所を作ったり、 管制官を真似た踊りを踊ったりしたけれど、 もちろん援助物資は来なかった。

こんな信仰を信じた人達は「善い」人達だったけれど、もっと実際的な人、「悪い」連中ならば、 たとえば白人の誰かを人質に取ったり、飛行機をみんなで襲ったり、もっと別のことを考えたはず。

それは「悪い」、利己的な行動で、最初は白人との戦争になるかもしれないけれど、 そのうちお互い折り合って、あるいはそれが貿易の始まりになるかもしれない。

お互いのエゴをぶつけ合う中で、「善い」もまた進化していく。

「善い人」がいくら「善く」あったところで、世の中結局動かない。

世の中から「悪い」が消毒されて「善く」なって、「善い」にとらわれた人達の怨嗟の声 は、なぜか大きくなるばかり。

みんなもっと「悪く」なってもいいんじゃないか。そんなことを思う。


これで1900字。病院新聞のボツ原稿

「原稿用紙5枚ぐらいで、適当に何か書いてよ」なんて先週言われて、 頭ひねってやっと書きあげたら「もう少し、穏やかな文章にしてくれないかな…」と。

一般の人向けに対話形式取り入れたり、けっこう工夫したつもりなんだけど。

2007.02.10

印象診断と臨床診断

尿路結石=「痛くて苦しんでるのに元気」

尿路結石というのは本当に痛くて、都市伝説では解離性大動脈瘤の次に痛いとか、 「痛い病気」トップ5には必ず入るとか。

強い痛みが突然来るから、救急車を呼ぶ人が多い。痛いから、みんなストレッチャーの上で苦しむ。

尿路結石の人というのは、痛いわりにはなぜか元気そうに見える。

冷や汗もかいているし、痛いだけに血圧も高い。

痛くて冷や汗をかく病気なんていくらでもあるけれど、たとえば潰瘍の穿孔とか、大動脈瘤の切迫破裂 みたいな病気とは違って「ヤバい」印象が何でだか薄い。

第一印象だけで診断するのはいかにも無茶だけれど、外れたケースはほとんど無いし、 医師が代わっても「印象の再現性」というのはかなり高い。これは特殊な能力でも何でもなくで、 医者なら誰でもできること。

ところが、印象を言語化すると、この感覚が伝わらない。

「突然発症した腰背部から下腹部にかけての鋭い痛みで、血圧は○○、呼吸数○○、 体温○℃。腹部は平坦軟ですが、グル音は減弱しています。」

模範的な救急外来の研修医が、上級生に患者さんの話をするならば、たぶんこんなかんじ。

ところが、これだけでは印象が伝わらない。すぐに診たほうがいい人なのか、 それとも待てる人なのか。

致命的な病気の人は、発症直後から何だか「いやな予感」を全身から出していることが 多いのだけれど、それを文章化すると、「いや」が抜けてしまう。

「診断名じゃなくて、客観的なデータを伝えなさい」。研修医のころはこんな教育を受けた。

それなのに、実際自分が報告を受ける立場になると、模範的な伝えかたはあんまりうれしくなくて、 「ヤバそうなんですぐ見てもらえませんか?」とか、「潰瘍穿孔みたいな人が来ました」とか、 模範的で無い言いかたのほうが対応が早いし、決断しやすくてありがたかった。

模範的な報告をさえぎって、「どうなの?ヤバイの?待てるの?」と返答してばっかりいたら、 俺様ルールが通るようになったけれど、下の人達は迷惑だったかも。

患者さんは「症状」を持って来院して、医療者側は「治療」を販売して対価をもらう。 その過程には「診断」なんて必要ないし、ましてや「病名」なんて誰も欲しがっていない。

医療行為がチャート化して、ブラックボックス化がきちんと行われれば、 チャート表の中には「この症状があったらこの検査を行う」「検査の数字が○○以下ならこの薬を出す」 みたいな言葉が並んで、病名を間にはさむ必要はなくなってしまう。

「病名」があって良かったな、と思えるのは、診療中ではなくて、医師同士が話をするとき。

  • 胃潰瘍みたいな症状を訴える人なんですが、なんだか皮膚黄色いんですよね…
  • 症状だけ見るとまるで膵炎なんですけど、もう2ヶ月状態変わんない人がいるんです

いろんな病気を診た人どうしだと、病名というのは印象折込済みのキーワードとして便利に機能する。

細かい症状描写とか、あるいは血圧や脈拍みたいな、その人の症状を描写するための数字は、 印象を伝えるためには何の役にも立たない。

まず印象が近い「病名」を伝えて、お互いに患者さんの印象を 共有してから数字の話をすると、その病名が全く見当はずれなものであったとしても、 けっこう有益な会話が成り立つ。

「症状 => 診断 => 病名 => 治療」という一連の流れには昔から違和感を持っていて、 むしろこれは「症状=>治療」という実用ラインと、「病名」という医師どうしのコミュニケーションツール という2本立てで考えないといけないんじゃないかと思うのだけれど、 あんまり賛同してもらったことがない。本当は、大学病院なんかは臓器別で教室分けたりしないで、 「胸痛科」「全身倦怠科」「発熱科」みたいな分けかたしないとずるいんじゃないかとも思う。

第一印象をそのまんま伝える言語セットが医療にも実装されれば、そもそも こんなこと考える必要もないんだけれど。

2007.02.08

改革は外からやってくる

医療の自由化に欠けているもの

公平配分政策から、傾斜配分政策へ。

資本を公平に分配することを止めて、富を生み出す力が強い人達に集中して分配すると、 社会全体が活性化してみんなが豊かになる。

貧富の差は当然激しくなるけれど、社会全体が豊かになれば、 贅沢で新しい技術はすぐ安価になって、やがて社会全体に行き渡る。 テレビやクーラー。昔はごく限られた人々だけの贅沢品だったこうした製品も、 今では一人暮らしの学生だって持っている。

新自由主義がよりどころにしているのは、こんな考えかた。

医療の自由化も進む。

医師は地方から引き上げて、目先の効く研修医はみんな都会へ。 もうすぐ混合診療が解禁されて、自費にはなるけれど、海外の薬も使えるようになって、 医師の収入はもう少し良くなって……。

自由化すれば、保険の制約がなくなる。できる人達の対価は、きっとアメリカみたいに天井知らずに なるけれど、できない人は地べたを這うことになる。

傾斜配分社会が健全に成り立つ前提は、大量生産とコストダウン

自由化が進むことで、医師の地位は上がる一方にも見えるけれど、 その先にあるのは技術の一般化。医療の技術が貴重なものではなくて、「当然のもの」と 査定される時代がくれば、現状維持ができる人なんて本当に少数になる。

始まりは海外から

医師の技術が高価になりすぎてしまったアメリカでは、 診療資格を持った看護師による「ミニクリニック」という試みが始まっているそうだ。

アメリカで最近誕生しているのが、異業種の医療サービス参入による「ミニクリニック」だ。 ウォルマート、ターゲットといった大手小売チェーンや、ウォルグリーンなどのドラッグストアチェーンが、 次々に店内に簡易クリニックを設置するトライアルを始めている。 従来型の病院では一回あたり110ドルかかった診療を、40-60ドル程度とほぼ半額で提供。 行うのはちょっとした怪我や風邪、予防接種といった簡単な医療行為のみで、 少しでも問題がある患者は一般病院に行くように指示する。予約は必要なく、 待ち時間があっても、併設店舗内の買い物で時間をつぶすこともできる。 トンデモない米国医療システムからイノベーションが生まれるのか

あるいは、最近のフィリピン。医師の海外流出が激しくて、医師のいない地域があちこちにできている この国では、医師の仕事を看護婦さん達が引き継がざるを得ない。

この2ヶ所で始まっているのは、「医師なしで医療を行う」という社会的な試み。

まだまだ実験なんていうレベルではないだろうけれど、社会的な要請があったり、他の選択肢が ありえない地域では、医師以外の人が医療行為を行う機会というのは増えるはず。

現場で必要になるのは、以下の3つのツール。

  • 「病名別」ではなくて、「症状別」の診断/治療のチャート
  • 「こうなったら医療機関を紹介する」というガイドライン
  • 医師以外の人でも安全に処方可能な薬のリスト

フィリピンの保険行政の人が作るのか、あるいは支援に入ったWHO 系の人達が作るのか、 たぶん誰かがこんなガイドラインを配布して、他に選択肢のない政府がそれを承認する。

何年かして、今度は医療経済畑の人が入ってきて、 「本当に医者なしで大丈夫なのか?」という検証を行うことになる。

「大丈夫だった」という結論は最初から決まってる。自由主義社会がそれを要請しているから。

はじまりの終わり

「1+1 」はいくつか?

  • 数学者 「2ですが、そうならない公理体系構築することは不可能ではないと思います」
  • 工学屋「ちょっと足して実験します」
  • 経済学者 「あなたはその結果をいくつにしたいのですか?」

統計の結論というのは、事実が決めるんじゃなくて社会が決める。

リスクの低い状態ならば、医師以外にも医療ができて、それは危険でも何でもない

「医療技術の進歩の結果、医療のコストが下がって、誰のもとにも行き渡るようになる」というのは、 自由主義的な考えかたにとっては「当然」の結果であって、そもそも検証にすら値しないもの。

医療技術の進歩は、いつも植民地だった国から始まる。 人「権」費が安い国で十分な検証を積んだあとは、アングロサクソンがそれを利用する。

たぶん、欧米諸国にも同じような診療チャートが導入されて、個人が負担する医療費は安くなる。 本当にリスクの高い患者さん、あるいは相応の負担を厭わない患者さんは、今までどおり病院へ。

社会科学系の仕事では、アメリカという国は何をやっても「うまくいった」という結論しか出さない。 こんな制度はそのうち日本へ。どうせそのころには地方の医療なんて滅んでるだろうから、 他に選択肢はないはず。

終わりのはじまり

  • リスクの低い患者さんは、チャートに従って投薬
  • 危なそうな人は、その時点で病院へ

助産院と病院との危険な関係は、たぶん全科に適応される。

免許持ってるだけで食べられた時代は終わり。風邪薬だけ出して、笑顔振りまいてればお金になった 時代は終わり。そんな仕事はもっと人件費の安い人達が全部奪ってしまうから、 病院に回ってくるのは重篤な人、トラブルになりそうな人、何が原因なのかさっぱり分からない人、 そんな人たちばっかりになる。

医師の対価は、その人が背負えるリスクに比例するようになる。

法律の改正は最小限で行ける。「応召義務の強化」一点のみ。

訴訟社会への流れが逆転することはないだろうから、ここから先は本当の自由競争。 低リスク低対価をとるか、高リスク高対価をとるか、二者択一。

助産院から「どうみたって手遅れだろ…」みたいな人が送られてくる。 生まれてくる子供の顔は真っ青。産科医の顔はもっと真っ青。

そんな光景は、もう少ししたら日本中の総合病院で見られるようになるだろう。

安売り競争の時代を越えるには

公平ルールか、傾斜配分か。今いろんな業界でおきているのは、2つの分配ルールをめぐる衝突。

医療の世界に自由競争を望む声は大きいけれど、それは当然、医療技術の低価格化を生むし、 たぶんそれなりの割合の医師は、その波に飲まれてしまう。

医師会はきっと反発してくれると思うけれど、 こうなった時代を乗り越えるやりかたを考えておいても、 損にはならないと思う。

本当の万能選手は滅多にいない。診療はできても、外来から入院のマネージメント、 保険行政から病棟掃除のコツまで分かる人はいない。

スペシャリストになる。レントゲン写真が読める人はたくさんいるけれど、写真を自分で撮れたり、 放射線設備室の設計を自分でできる人はほとんどいない。その分野のスペシャリストというのは、 全部知っている人。

昔診させていただいたエンジニアは、製品を各国の電力法規に合わせて 調節する技術で身を立てておられた。 「調整」ができるためには電気回路を理解していて、 各国の法律や、製品検査のやりかたを熟知していて、 さらに製品を「調整」したらどんな問題がおきて、それを回避するにはどうすればいいのか、 そんなことを全部知っていないといけない。

万能選手でスペシャリストになるというのは、たぶんこんなことだと思う。

常にチームの最下位でいる。自分よりも上手な人達と仕事をし続けないと置いていかれる。 研修医の人で、もしも自分が同級生で一番優れていると感じている人がいるならば、 そこはもはやあなたのいる場所ではないかもしれない。

魚の釣りかたを学ぶ。魚釣りの技術をマスターすれば、毎日魚が釣れるけれど、 多くの人は魚を一匹もらったら満足してしまう。 誰かに助けてもらったら「どうやったのか」を自分のものにする。

まじめにやる。どうせいなくなるからとか考えて、下働きで不十分な力しか出せない人は、 本当に全力を出す機会そのものが来なくなってしまう。

失敗を学ぶ。間違いを問題にすることを恐れないで、 できれば解決策を提示できるようになるか、誰かに聞いて、問題の解決にかかわれるよう努力する。

作文する/友達を作る。雇用が流動的になったとき、頼れるのは「どんなことをしてきたのか」という証と、 友達の数。書類仕事をサボらないで紹介状をやりとりしたり、症例を発表したり。

ここに挙げたのは「勝つ」ための方法じゃなくて、「負けない」ための方法論 (「My Job Went To India オフショア時代のソフトウェア開発者サバイバルガイド」という本の改変)。

本当のトップを目指す人達はこんなこと考える必要なんかなくて、ひたすらに自分の腕を磨けば いいのだけれど、才能なんか無い奴にとっては「自由になった世界」なんて地獄そのもの。

そんなふうには絶対になってほしくないし、またそうならないと信じてはいるのだけれど。

2007.02.06

楽しい文章と広まる文章

「コンペに勝つ」という建築の本からの抜書き。

「予選通過」の技術

  • 審査員が誰なのかを読む :審査員との相性が厳として存在するから、その人に合わせた企画を作らないと通らない
  • 募集要綱をしっかり読み込む :自分のイメージを決めてしまって要綱をないがしろにすると、審査員は読んでくれない
  • 第一印象のインパクト :コンペは何千通もの企画を10個ぐらいに絞るところから始まるから、第一印象が薄いと予選を通れない
  • テーマを絞る :一つのアイデアでなく、あれもこれもとやると印象が薄れてしまう

最終選考を勝ち抜く技術

  • 流れを読む:ライバルはどんな提案をするのか、審査員はどんな議論をするのかを予測して、最終審査に強い提案を作る
  • 社会的リアリティ:建物の実現可能性ではなく、「この提案が通ったら社会がどう変わるのか」という審査員の想像力を刺激できるかどうか
  • 一歩踏み込む:コンペでは必ず前年度入選案と似た案が出てくるが、既視感のあるコンセプトはそれだけで落とされる。 何故それが選ばれたのかを学ぶことと、それを自分の案に取り入れることとは全く別の問題
  • 共感の余地を残す:企画を最後まで完結させないで、審査員の中で発展させる余地を残す。 興味を持たれれば、書かれていないことまで深読みされて、表現されている以上に好意的に理解されることが多い。書かれ過ぎていると、「ああ、そういうことか」と底が割れてしまい、興味を持たれにくくなる
  • 思考実験:競争相手が分かっているコンペでは、自分が勝てるとしたらどんな形で、どういう筋道で勝てるかを思考実験して企画を練る。競合者の中で、自分だけができることは何かを最初に考えて、それをテーマにする
  • 世代の差を考える:先行する上の世代と同じ事をしていたのでは駄目。世代の違いを常に意識して発信する
  • 文章は短く明快に:コンセプトを明快に書けば、審査員は言外まで読んでくれる。引用は、いかにすばらしい言葉でも、審査員の目を素通りしてしまうから、自分の言葉で書く
  • モノローグは好まれない:あくまでも相手に対して何かを語りかける。一人よがりな意見は駄目
  • 強気で攻める:危険な賭けだけれど、「絶対にこれがいい」と言い張ることが大事
  • 二つの距離を使い分ける:少し離れた距離で伝えるメッセージと、至近距離でのメッセージを使い分ける

審査員は他人の目というプレッシャーの中で仕事をする

  • 審査員というのは名誉職でも何でもなくて、どちらかというと「いやいや審査する」感覚
  • 何故審査をするのか?と問われれば、「何故こんな提案を入選させたの?」と笑われないため
  • 「図書館の時代はもう古い」とか、審査員が出したテーマに対して批判的なスタンスを取った 企画は多い。提案者は、それが斬新に思えた時点で、誰もがやっていると考えるべき。 批判するなら、「その次にくるもの」を一緒に提案しないとつまらない
  • 個性とは何か。有名建築家の中でも、毎回違ったコンセプトと表現とを自分に科す建築家と、 愚直なまでに自分の個性を押し通す建築家とがいる。どちらも成功した建築家で、 どちらのスタンスが正しいのかは分からない

みんな同業者だから、ありきたりな企画を入選させてしまうと、 まわりから「馬鹿じゃない?」と言われてしまい、それがすごく怖いらしい。

「ものすごい提案を見つけたよ、すぐには分からないかもしれないけれど、すごく面白いよ」

こう胸を張れるような案を選びたいと思っているのだと。

書いて楽しい文章と、人から読まれる文章と

書いていて楽しいから発信して、時々大きな反響をもらって喜んで。

そのうち反響をもらえる頻度が増えてきて、「もらえること」のうれしさよりも、 「もらえなかったこと」のショックのほうが大きくなったら、 そろそろ書きかたを変える時期なのかもしれない。

残念ながら、書いていて楽しい文章と、反響を狙って書いた文章とは、 内容も書きかたも全然違ってくる。

「コンペに勝つにはどうすればいいのか?」というのは建築の話題だけれど、 反響をもらうための文章を書くためのヒントがあると思う。

2007.02.05

医療の行動原理

医療という大きな枠組みの中から「医学」という技術的な側面、 医療経済とか、保険行政といった医療を提供する社会的な側面とを 取り去った後には、たぶん「なんで医療なのか」みたいな問いが残る。

技術と社会と行動原理。まとめるとこんなかんじ。

  • どんな業種も、技術的側面と社会的側面、そして行動原理の3つの側面を持っている
  • 3つのバランスが崩れた業界は、外からみて「何かがおかしい」という目で見られてしまう
  • 技術の崩れに対しては技術の言葉で、社会には経済の言葉で、原理には原理の言葉 で答えないと、「外の人」とは話が通じない
  • 医療の業界には「行動原理」が見えない。 原理の叩きに対して経済の言葉で回答しようとしているから 分かりあえない

業界の3つの側面

最初にできるのは原理。それを実体化させるためにいろんな技術が作り出されて、 その技術に需要が生まれたり、利益が伴うようになってきて、技術に経済装置が実装される。

原理、技術、経済装置の3つが一体化すると「業界」が生まれる。

製造業にしても、医療にしても、マスコミや司法みたいな業界も、みんな たぶんこの3つをそれぞれ内包している。業界が成熟すると、 その区別はつきにくくなって、ひとつの「業界」にしか見えないのだけれど。

業界同士はしばしば交流する。それは経済的な取引のこともあれば、 マスコミの取材、司法の告発などもすべて広い意味での「交流」。

業界にはそれぞれ得意分野、不得意分野がある。

たとえば流通業なんかは経済方面が強いし、軍隊や司法は行動原理が絶対的に強い。 その反面、これら業界を支える技術は製造業のエンジニアが作っていて、 タコツボ化した技術論で会話されると弱かったりもする。

経済の強い業界は経済の言葉で、行動原理が強力な業界は原理の言葉で 議論をしようとするけれど、 議論を受ける側もその分野が得意だとは限らない。

質問する側が得意分野で議論を展開する一方で、答える側も「業界の3面」のうちで 一番得意な面を使ってそれに答えようとする。

言葉が異なる議論は噛み合わない。

「この商品、もっと安くしてよ」というのは経済の言葉。それに対して、製造原価とか、 人件費みたいな話を返せば、議論は進む。経済で答えないで、 技術屋の魂とか会社の社会的な使命なんかを熱く語ったり、 その人にしか分からない、コアな技術論を語りだしたりしても、議論にならない。

議論になっていない交渉というのは実世界にたくさんあって、 それはお互いに分かっていなくてそうなっている場合と、交渉者のどちらかは 噛み合っていないのを分かっていて、あえて話をそらすために自覚的にそうしている時とがある。

バランスの悪い業界は叩かれる

消防隊という「業界」を叩く人は少ない。

「火事になったら火を消す。火事の時以外は火事に備えて待つ」

たぶんこんなシンプルな行動原理がまずあって、そのための技術が生まれて、 火事に備えるために日本中に消防署が作られて、予算が投じられて。

「火事のないときの消防隊は遊びすぎだ」とか、「はしご車の上から見下ろされるのは不愉快だ」とか、 そんな理不尽なクレームも少ないのは、たぶん消防業界の行動理念が分かりやすくて、 それに伴う技術と経済とのバランスが取れているからなんだと思う。

「業界の3面」は、しばしばお互いを潰しあう。

経済は原理を喰うし、原理はしばしば技術の発展を疎外する。 マーケットを無視した技術の暴走は、その企業を破綻させたりする。

バランスを欠いた業界は叩かれる。

たとえば経済的に急成長した業界は、 競争の果てに行動原理が見えにくくなってしまったり、 それを忘れてしまったりする。外からそれを見ると、「手段を選ばない戦略」をとっているように見えたり、 あるいはモラルが失われているように見えたりする。

「モラルが無い」と叩かれた業界の「中の人」にだって言い分はある。

  • 生き延びようとする過程で行動原理が古くなった
  • 理念が足かせになってしまったりしてそれを捨てざるを得なかった

でもそれは原理の言葉では無くて、経済の言葉。「原理が見えない」と攻める 突っ込む外の人に対して、「経済」の言葉で言い訳をしても「詭弁だ」とはねられて終わり。

外の人の力が十分に強いとき、噛み合わない議論というのは一方的な虐殺にしかならない。

世論総出で一つの企業を潰したりする現象というのは、たぶんパワーバランスの著しい非対称性と、 噛み合わない議論との相乗作用。

医療の「原理」とは何か

  • 火を消す=消防
  • 物理で殺す=軍隊
  • 社会で殺す=マスコミ
  • 国語で殺す=司法

どの業界も持っている、分かりやすい行動原理。

世間は医療を叩く。ミスしやがってとか、殺しやがってとか、金のことばかり言いやがってとか。

医療者も弁明する。訴訟リスクの問題とか。 マンパワーの問題とか。技術的の問題とか。

でも通じない。

技術か経済のどちらかが突っ走っていく過程で、行動原理を忘れてしまった

世間やマスコミの人達は、たぶん今の医療業界をこんな目で見ている。

病気が治ることと、「生き延びる」という理念が達成され続けることとは、別の問題。

「治る」のは、技術の進歩のおかげ。ところが、たとえば病院が集約化されて、 今までそこで「安心の象徴」として機能していた施設が撤収されたりすると、 それは「医療が行動原理を裏切った」と見られてしまう。

これは原理の問題。「技術的にはむしろ向上する」とか、「救急体制は維持できる」とか、 「お金がないから…」といった言葉で答えても、これらは技術や経済の言葉。 相手にとっては噛み合わない言い訳にしか聞こえないから、一方的な叩きが始まってしまう。

どうすればいいのか

「医師の行動原理」を再定義するべきなんだと思う。

こんなことができるようになる。

  • 自己矛盾の無い行動原理を定義した上で「我々は自己の行動規定を裏切らずに動いている。ではあなたがたはどうなのか?」と原理に原理で返せるようになる
  • そもそも法律というのは、業界の行動理念があってそれが世間に受け入れられたとき、業界から要請があってはじめて作られるもの。「その法は医師の行動原理に反している」という原理からの訴えが可能になる

たとえば、サバイバルの方法論とか危機管理の考えかたというのは本当に面白い。

参考になるのは警察の人質交渉人の談話であったり、アメリカ特殊部隊の チームの作りかたであったり、あるいは旅客機パイロットの危機管理のやりかたであったり。

いろんな業界には、それぞれの行動原理に基づいた危機管理のやりかたというのがあって、 それはとても参考になるし、読んでいて面白いのだけれど、「じゃあ、医療はどうなんだ?」と 振り返ると、あんまりいい資料がなかったりする。

  • ミスを回避する方法
  • ミスがあっても致命的にならない輸液メニューの組みかた
  • トラブルになった時にまず何を考えるべきなのか、基本的な考えかた
  • 病院という危険な環境で、どうやって自分達の身を守るのか

こんなやりかたを、ひとつの理念でまとめたような本を 昔から探してるのだけれど、なかなかみつからない。

一貫した行動原理を感じられるのは、たとえば軍隊のノウハウを導入した 感染症対策のやりかたであったり、 昭和40年代ぐらいまで伝えられていた「看護格闘術」、不隠な患者を刺激しないで、 自分達の身を守り、患者さんを傷つけないように抑えこむやりかたとか、ごく一部。

世間の人とか、マスコミや司法が叩こうとしているのは、たぶん医療の「行動原理」的な側面。

産科がいなくなった地域では署名が集まる。署名というのは、たぶん原理に訴えようとする働き。 彼らが期待しているのは、たぶん市民が考えるところの「医師の行動原理」に基づいて、 再び医師が赴任することなんだけれど、「署名する行動力があったらお金集めようよ」 みたいな反応をしても、絶対分かってもらえない。

その反応は、原理の行動に対して経済の言葉で答えているだけだから。

医師の手もとには、技術の言葉も、経済の言葉も揃ってはいるけれど、足りていないのが、 一定の行動原理に基づいた言葉の体系化。軍隊で行くと陸軍と海軍は揃っているのに、 空軍を欠くようなもの。戦争になったら負ける。

原理を語って、体系化するのは偉い人の仕事。教科書のどこかに記載されてしかるべきだけれど、 それをちゃんとやっている本は本当に少ない。

崩壊だとか、対決だとかで盛り上がっても、 「行動の一貫性」を外の人達に明示して、「我々は、自分達の理念に矛盾無く行動している」 という弁明ができないと、やっぱりまた叩かれて終わりなんだと思う。

2007.02.02

モデルを作って理解する

理解3態。

  • 概念の周辺に生まれる無数の因果関係の中から、相関関係になっているものを見出す
  • 検証可能な小さな概念を積み上げて、大きな概念全体の理解を目指す
  • 概念をモデル化して、モデル同士の生き残り競争を通じて正しいモデルを見出す

群盲象を撫でる

「象」を理解しようと思っても、実物がいない、あるいは大きすぎて見えないときはこんなやりかた。

  • 象の足あととか、糞を調べたりしてどんな生き物なのか、そもそも象とは何なのかを推定する
  • 象の爪や毛、あるいは組織なんかを詳細に調べて、 それが集まるとどんな生き物になるのかを想像する

いろんな切り口から「象」を論じて、みんな「象という現象」の権威になる。

答えの分からない問題には利権がある。実物が見えないなら答えは絶対出なくて、 権威はみんな権威のまま。格闘技世界最強がいつまでたっても決まらないのと一緒で、 答えの出た問題は、もうご飯の種を生み出さない。

「象」を理解するもうひとつの方法が、モデル化。

「4本足で歩く動物を仮定すれば、「象という現象」は説明できるぞ」

モデル化は観察を伴わない、内的な現象。誰かがいきなり、こんなモデルを思いつく。

「象は4本足で歩く生き物みたいだ」というモデルは、現実世界でおきていることをよく説明する。 大部分の人にとっては、それは有用な情報になるけれど、 解答不可能問題の利権にすがる人達にとって、真理の解明というのは迷惑そのもの。

「すばらしい発想だ」と、モデルの提唱者を賞賛する声が上がる一方で、 それを絶対に認めたくない「権威」もいるはず。

迷惑な現状説明モデル

茂木健一郎を読んだら負けだと思ってる。

医師の仕事と脳科学なんてほとんど接点は無いけれど、 自分の興味はけっこう重なる。

自分の文章作法というのは、目の見えない人が象を想像するやりかたそのもの。

ある日は足を触ったり、別の日には尻尾の毛を拾ってみたりして、断片的な情報から 電波スレスレの発想を紡ぐ。書いたものが正しいのかどうかは全く分からないけれど、 そこそこ面白い文章を作れる。

脳の話題では「クオリア」という単語はもはや普通名詞だけれど、 あの発想を自分が受け入れてしまうと、もう「足が6本ある象」とか、「鼻だけで歩く象」みたいな 狂った発想で固めた文章は書けなくなってしまって、「4本足の生き物」という枠から 抜けられなくなってしまう。

正しいのが大切なのは当たりまえなんだけれど、うちみたいなblog でも、 文章書いて、いろんな人から反応をいただいてという「真実を知らないことで得られる利権」がある。 正しいことを知って得られるものと、それを知って失うものとのバランスで、読む気になれない。

持ってるんだけれど。

こんな辺境のweb 世界のセコい話じゃなくても、たぶん世界のいろんな場所で、 「正しい説明モデルを受け入れるジレンマ」みたいなものはきっとおきている。

破壊的な進歩をもたらす発想

下らないジレンマなんて放り投げて、みんなが必死の思いで食いついて、 瞬く間に世界に広がる発想というのがたまにある。

複雑系やネットワーク科学の話題なんかもそうだし、「外務省のラスプーチン」佐藤優氏が モデル化して見せた、外務省と国会との関係なんかも、たぶんそうなる気がする。

みんながすぐに受け入れる発想というのは、そこから様々な「未来」が想像できるもの。 あるいは、「そのモデルに取り残された悲惨な自分」の姿がありありと想像できる、 そんなモデル。

ネットワーク科学なんて、「クオリア」の概念以上に本業に関係ない話題だけれど、 何年か前にこれが話題になって、ネットワークの生み出す未来モデルが毎日のように 提唱されるようになったとき、「わくわくする」気持ちよりも、一種の「恐怖」にかられて、 入門書を何冊も読んだ。

概念をうまく説明する発想というものは、「知ることによるメリット」を確実にもたらす。 破壊的なイノベーションをもたらす発想というのは、むしろ「知らないことによるデメリット」を 確実にもたらすから、正しいのかどうかの検証はさておいて、一気に広がる。

破壊的な発想から取り残された人は仕事を失う。

それまでの電子化業界では、「OCRの誤変換はちゃんと修正しないと売り物にならない」 という常識がありました。ところが、Amazon社は、 「OCRかけっぱ」で十分OKな利用方法を思いついたのです。 bookscanner記 - 証人喚問後半

本の電子化という分野では、どれだけ正確にOCR を行えるのかが技術競争みたいな ところがあって、誤変換を含んだ電子化には意味が無いと考えられてきたのだそうだ。

ところがAmazon には本のインデックスがすでにあったので、 誤変換を含んだOCR データでも十分実用になったため、 今まで1冊当たり数百ドルかかっていた電子化の価格を、「1ドル」にまで下げてしまったのだという。

PDAにテキストを載せるときなんかのことを考えると、 「確実なOCR」を行った文章にはまだまだ需要はあるのだろうけれど、 もはやそれにかけられるコストは激減。PDAだって容量増えてるし、たぶん 「不確実なOCR」登場以後に何ができるのかを考えていない人は、置いていかれてしまうのだろう。

よいものを生む概念モデルが正しいとは限らない

無数の相関関係の中から因果を見出すやりかたと、 顕微鏡的な因果を積み重ねて、大きな因果関係を組み立てるやりかたと。

ごく大雑把に「文系/理系」で区切られるような、これらは伝統的な学問の方法。

学者じゃない、エンジニアの人達というのは、 とりあえず同じように動くモデルを作ってしまって、 それから実世界で何がおきているのかを考える。

20年ぐらい前、MIT のエンジニアは、「知性とは何か」という問題に対する解答として、 単純な回路だけで「知性を持ったみたいに動く」昆虫ロボットを作り出した。

人工知能の可能性を長年論じてきた人達は、それを見て「ただの玩具だ」と笑ったのだという。

昆虫ロボの思考回路は極めて単純なのに、それは本物の昆虫みたいに状況を判断して、 自律的に移動する。脳の解剖を研究する人達も、生態学者にもできなかったこと。

みんな笑ったけれど、結局その考えかたはどんどん事業化されて、 いろんな未来を生み出しつつある。

昆虫ロボモデルみたいな、ごく単純な判断回路の蓄積の 延長に「知性」が生まれるのか、それともどこかで越えられない断絶があるのか。

まだ分からないけれど、今まで「知能とは何か」を考えて、 無数の論文を作ってきた人達は今追い込まれていると思うし、 昆虫ロボの考えかたに対抗する、別の「知性モデル」を作って対抗できないのならば、 やがて滅んでしまうのだろう。

「鳥人間コンテスト」とか、「ロボカップ」みたいな競争にはすごく期待をしてしまう。

何かのテーマがあって、みんな思い思いの解釈モデルを持ち込んで、 一種の生存競争を行って、「誰がそのテーマを一番うまく説明できるのか」が決まる、そんなやりかた。

最高の「性能」を発揮したモデルと、最高の「未来」を見せてくれたモデルとは 必ずしも一致しないかもしれないけれど、たぶん両方に意味はある。 資本というのは常に技術の差分に集中して、 維持や継続という行為は買い叩かれるだけだから。

フラフラといろんな分野をさまよっては怪しげなアナロジーを考えてみたり、 魔術とか密教みたいな分野の常識を、あえて科学の言葉でしゃべってみたり。

「当たり」を引いたことなんてないんだけれど、 みんなの「アハ体験」を持ちよって競争するネット世界というのは、 これから先何かがおきる最先端になり続けるんじゃないかと思う。